もう夕食の用意をしなければならない時間だ。
私こと群雲魔理沙、旧姓:霧雨魔理沙は、ため息をついて立ち上がる。
土間へ降りると、使用人のお菊が既に下ごしらえを始めていた。
「奥様、今日は卵が安かったので、卵焼きにいたします」
「ええ、分かった。私も手伝うわ」
二階からはどたどたと走り回る子どもたちの足音が聞こえる。
「あなたー、霖たちの面倒を見ておいてくださいな」
背後に向かって大声を出す。
毎日繰り返す風景だ。かけがえのない日常。
つまらない日常だ。
今となっては本当に普通の人間、魔理沙の物語だ。
魔法使いの道をあきらめ、私は実家に帰った。
自分自身、捨虫の魔法を習得する目が無いことにうすうす感づいたこと、時を同じくして、知り合いの魔女から今後について尋ねられたことを機に、私は実家に戻る決断をしたのだった。
父は家出をとがめず、勘当を解いた。私が素直に帰ってくるなんてこれっぽっちも思っていなかったようで、拍子抜けした、と言うのが本当のところだろう。
私は正式に霧雨家に戻った。
家出の原因となったことについて決着がついたわけではないが、互いにその件については触れないということに、暗黙のうちに決まっていた。それは一種の逃げである。向き合うことをあきらめたということでもある。でも逃げることは必ずしも悪いことじゃない。実際私達はそうすることによって、お互いに良好な関係を築けたからだ。絶対に互いに折れない、私たちのような親子がうまくやるためには、そういう知恵も必要なのだと15歳にもなってようやく分かったのだった。
18歳になり、周囲の娘達より遅く、結婚した。
相手は霧雨道具店で修業をしていた奉公人で、名は群雲良仁(むらくもよしひと)。
父の覚えもめでたく、暖簾を分けることを許された。
婿を取って私に家を継がせる考えもあったようだが、私が戻ってこないことを見越して余所から養子を取っていたため、霧雨家はその養子に継がせ、私は嫁に出して自由にさせることにしたということだ。
私たち親子は根本的に価値観が合わず、一緒にいれば絶えず喧嘩になるため、父としても離れたほうがお互いによかろうという判断だったのだろう。
私は良仁との縁談に素直に応じ、家を出て新たに道具屋を営み始めた。
里に戻って以降、ただの一度も魔法を使っておらず、八卦炉を含めた魔道具も、すべてたんすの中に押し込めて、一度も出すことはなかった。
霊夢や妖怪たちとも疎遠になり、里ですれ違えば世間話こそ交わすものの、積極的なつながりは持たず、宴会に顔を出すこともなかった。
人里には人の営みがあり、人間には人間の付き合いがあったからだ。普段着が和服になり、髪も染め直したため、しだいに昔の知り合いも擦れ違っただけでは私に気付かなくなったし、私もまた呼びとめることはしなかった。特に妖怪にとって人間の成長は早過ぎ、しばらく会わなければ、もはやそれと分かるものはいなかった。
里に戻ることを決めた自分の決断に後悔しないため、私は死に物狂いでよく働いた。慎重すぎるきらいのある良仁と、何事も積極的な私はよきパートナーになれたようで、一代で群雲道具店を霧雨道具店をしのぐほどの大店に成長させた。里を飛び出して勘当されていた私は、若い世代からはともかく、大人たちからはかなり長い間白い目で見られることになった。わざと聞こえるように「出戻り娘」などと揶揄するものも少なくなかった。それでも私は屈することなく、よく働き、よく笑い、長い時間をかけて人里にこの人ありと言われるほどの信頼を築きあげた。
夫との間には息子の霖太郎と娘の霊華という子宝に恵まれた。
己の才気と不断の努力、そして誠実な伴侶の力を得て、私は誰が見ても異を唱えないほどの成功者となった。
それでも、
それでも私の中から「本当にこれでよかったのか」という自問自答の声が無くなった日は一日もなかった。里に流れる異変の噂に何度家を飛び出そうと思ったか。自分が諦めたあの日から少しも変わらない容姿ではしゃぎまわる妖怪を見てどれほどの嫉妬を覚えたか。里に買い出しに来ていた霊夢を見つけ、見つからないようにこそこそと路地裏に入ったあのとき、どれほどみじめな思いをしたか。
彼女たちは私が断腸の思いで手放した、尊く価値ある、すばらしいそれらを誇ることすらせず、無造作にぶら下げて歩いていた。
私の中にはいつも「あのとき魔法の修行をつづける決断をした私」がいる。彼女は今や立派な魔法使いで、妖怪たちと対等に渡り合い、波乱万丈な人生を謳歌しているのだった。
毎晩、毎晩、そんな夢を見る。
あの日自分を諭した魔女を、
決意を告げた私に「ふうん」といって掃除に戻った博麗霊夢を、
そして戦うことをやめ、安寧を求めて逃げ帰った私自身を、
今でも殺したいほどに憎んでいたのだ。
外を見ると雨が降っていた。
私は、ふと「自分はこのまま死んで行くのだ」と思った。食卓を囲む人畜無害でごく普通の夫や、平凡な日常を送る子どもたちが、自分を退屈という檻に閉じ込めて、死ぬまで見張っているのではないかという錯覚にとらわれ、私は傘もささずに家を飛び出した。
昔の自分が唾棄するほど嫌いだった平平凡凡とした日常に、首までつかって身動きが取れなくなっているのだと思った。どうしてあの時、私は里に帰ることを選んだのだろう。面白おかしく、永遠に走り続けられたはずの、あの狂乱の日々は一体どこに行ってしまったのだろう。
方向も見ずに走っているうちに、私は里の外に出てしまっていた。
日はもう落ちかけている。
ぞっとした。
昔は何でもなかったはずの暗闇に、今私はどうしようもなく怯えている。
里へ戻りそうになる足をとめたのは、もう自暴自棄としか言いようがない私の意地だった。ここで戻るくらいなら、何で家を飛び出してきたんだ。いつだってやってから後悔する自分だけれど、やり切らずに後悔したのは生涯でただ一度。魔法使いへの道であった。だから今ここで里へと戻ることは敗北だった。何の合理性もない感傷に過ぎないことは重々承知しているが、それでも今戻れば、なにかに、決定的に、敗北すると感じた。
結局私はそのまま歩き続けた。行くあてもないのに。
雨は少しもやむ気配を見せずに、私の体を濡らした。着物が水を吸って重い。足元がふらつく。最近は自分が店先に立つことも減り、さほど運動はしていない。自分ももう32歳だ。衰えを感じるような年齢ではないが、自分の記憶ほどに軽快に動かない体にいら立ちが募る。
「いったっ!」
何かに躓いて、私は思い切り地面に身を投げ出した。
「うう…」
とっさについた手が痺れ、鈍く痛んでいる。捻挫しただろうか。
自分のみじめさに涙があふれた。
自分は何をやっているのだろうか。
思春期の娘でもあるまいし。夫も子どもたちも心配しているだろう。近所の人たちにも捜索を頼んでいたら、あちこちに迷惑をかけているに違いない。そう思って、そう思えるようになったことが、今の私の成功であり、失敗であるのだと思った。昔の私は他人の迷惑など考えたこともなかった。自分から飛び出しておいて、しかも今になってまだ帰る気が無いのに、迷惑をかけた人たちに詫びを入れる算段を自然に立てている自分に気付いたのだ。もう昔には戻れないのだと、実感した。
捻っていないほうの手をついて、上体を起こす。膝立ちになって自分の状態を検分すると、泥汚れでひどい有様だった。後ろを見ると、節くれだった竹の根が、雨の強さで土からのぞいていた。
「おい、あんた。大丈夫かい?傘はどうした」
声をかけられたことに驚いて顔を挙げると、こちらに傘をさしかけている
白髪の女性が映った。
「も…こう…?」
「あれ、どっかであったことあったかしら」
私は竹林に迷い込んでいたようだ。
偶然通りすがったという藤原妹紅は、私を助け起こし、永遠亭まで送ってくれた。私が魔理沙だと名乗ると、彼女はしばらく考えた後、
「ああ、あんたか。すっかり見違えて、美人になったねえ」
といって、それ以上は何も聞かなかった。
私のことなんか覚えてるとは思わなかった。自分が汚れることもいとわず私に肩を貸して歩く妹紅は私の記憶よりも背が低かった。
永遠亭に到着すると、私はすぐさま風呂に放り込まれ、上がると着替えが用意してあった。想像以上に自分の体が冷え切っていたのだと実感した。
「里で結婚して、元気でやってるって聞いていたんだけれど。どういう風の吹きまわしかしら」
そう言って私の手首に包帯を巻いているのは、やはりあの頃のままの八意永琳だった。
「私のことが分かるの?」
「一度診た人間を、私が間違えると思うかしら?」
そういって笑う永琳の姿は昔のまま。まるであの頃の私を相手しているかのような気やすさだった。
「旦那さんとなにかあった?」
「そういうんじゃないの。私は幸せよ」
何を言っているのだろうか、だったら何故家出などしたのか。
それについては永琳も何かあると承知しているようで、
「取り敢えず怪我は治療したわ。一週間は動かさないこと。…それから、折角だから姫様とお話でもしていなさい。お茶を入れるわ」
と言って微笑んだ。
彼女にとっては自分はまだまだ小娘のままなのだ、と思うと遣る瀬無くもあり、安心している自分もいた。
奥の座敷に通されると、蓬莱山輝夜が座っていた。
いうまでもなくあの頃のままの美しさだった。
「あら久しぶりね、霧雨魔理沙」
そうやって鈴が鳴るよう声で私に話しかけてくる。
「今は結婚して群雲魔理沙よ」
「そう」
輝夜は何がそんなにうれしいのか、ニコニコと私を見ている。
「家出?」
余りに率直な聞きざまに、帰って心が素直になったのか、私は輝夜に全てを打ち明けていた。
魔法使いをあきらめたことを後悔していること。
里の生活が退屈に感じられること。
夫への愛を自分自身疑う気持ち。
妖怪たちに嫉妬していること。
……
…
「こんなこと考えたって仕方が無いって、分かってはいるのよ。今の自分で生きて行くしかないんだって。でもどうしても考えずにはいられないの。あのとき違った決断をしていたら、今頃はどうなっていただろうって」
ひたすらに感情を吐露する私を、彼女は優しい目で見つめ続ける。
「毎朝鏡を見るのが怖いの。少しづつ若さを失っていく自分を見るのが怖い。ねえ輝夜。貴女はこんな風に感じたこと、無いんでしょうね」
無駄に棘のある言葉を吐いている自覚はあった。それでもいつまでも美しくあり続ける目の前の女が憎い。余りにも醜い嫉妬だとしても、口にせずには居られなかった。
「私だってあなたが羨ましいわ。といっても今のあなたじゃ、こんなこと言われたって、素直に受け入れられないでしょうけど。本当にうらやましいわ。死ぬほどね」
輝夜はそんなことを言った。
やっぱり微笑んでいたけれど、少し怖いと感じた。
「子どもは可愛い?」
突然の質問に面食らってしまう。
「…ええ、かわいいわ」
素直にそう答えた。つかれることもあるし、嫌になる毎日だけれど、やっぱり自分でおなかを痛めて産んだ子は、かわいい。
「そう…。いいわね」
私は背筋が寒くなった。いいわね、と言った瞬間の彼女の頬笑みは見ているものを卒倒させるほど恐ろしいものだった。
蓬莱人は子を為せない。
「永遠を生きるものは孤独よ。だから集まって、騒いで、そうやって今自分が存在していることを確かめたいのかもね」
目を細める彼女は、遠くを見ているようだ。彼女のいうことは分かる。私にも覚えがある。あのころ、あの狂乱の中で意味があったのかどうかも分からない努力にひたすら励んでいたころ。
私は孤独を感じていた。深い深い孤独を。
夜ベッドの中で、漠然とした不安を抱えていた。
真っ黒い、大きな穴が突然足元に開いて、飲み込まれていくような怖さがあった。
今の私にはない孤独。
「貴女はどんどん重くなっているのよ、魔理沙。体が大きくなって、伴侶を得て、子どもができて。どんどん重くなっているの。もう空も飛べないほど。でもそれって不幸なことじゃないわ。貴女ももう子供じゃないから、いってること分かるわよね」
輝夜のいうことは私の心にしみこむようだった。彼女は私よりもずっとずっと、ずうっと人生の先輩なのだと改めて実感する。
二人の子どもの顔を思いだす。私を母と慕って何処に行っても付いてくる、本当にかわいらしいわが子。私は子どもたちを捨てては、もうどこにも行けない。でもどこにも行けなくてもいいんだ。幸せはそこにあるから。
夫の顔を思い出す。もともと好き合って結婚したわけではない。里に戻った以上、里の流儀に従うべきだと思って、父の進める彼と夫婦になった。もう14~5年の付き合いだ。お互いのことはよく分かっている。子も為した仲だ。嫌いなはずはない。燃えるような恋心こそなかったが、愛が確かにある。
そこまで考えたところで、輝夜がふいに悪戯っぽい表情で言った。
「あら、恋心が無いなんて本当かしら」
輝夜の言葉に首をかしげると、
「あなたの旦那さんと会ってみたいなー」
「や、やだっ!」
自分で思っている以上に大きな声が出て、自分でびっくりしてしまう。
ふと見ると輝夜は口元に手を当ててケラケラと笑っていた。
どうやらからかわれたのだ、と遅まきながら気付くと同時に、顔面に血が
集まるのを感じた。この絶世の美女に会えば、良仁が目移りするのではないか。そう考えた瞬間、取り乱すほど狼狽してしまった。三十路にもなって生娘のような反応してしまった自分を痛い、と思うと同時に、自分で思っているよりも、自分が夫を愛していることに気付いた。
「一体何の不満があるの。貴女はよく頑張って、幸せな家庭を築きあげたのでしょう。子どもたちもまだ小さいし、先も長いわ。人生に絶望する必要があるかしら」
そういう彼女の言葉にもっともだと思う一方で、それでもなお頷きがたい自分が、まだ燻っている。
「きっとあなたは運命について誤解しているのね」
そんな私の内心を見抜いてか、輝夜は語り出した。
「運命っていってもそんなにオカルティックな話でもないし、さしてロマンティックな話でもないんだけどね。長く生きているからこそわかることもあるわ」
そうして彼女は少しだけ言葉をためた。
「運命ってね、決まっているのよ。厳格に、明確に」
例えば出先で雨が降ったとき、どうして傘を持ってこなかったんだろうって、後悔することがあるでしょう。でもね、家を出るとき晴れていたから、あなたは傘を持って出なかったのよ。当然そうよね。雨が降るかもしれないって、予想しておけばよかったって?確かにそうね。じゃあどうしてそんな風に予想しなかったのかしら。たまたま?偶然?そうかしら。朝時間が無かったからじゃあないの?
だとしたら、どう。朝もう少し早く起きていればと後悔するかしら。でも朝早く起きられなかったのは前の晩に遅くまで仕事をしていたから。遅くまで仕事をしていたのは、急な仕事が入ったから。急な仕事が入ったのは…。
一体いつまでさかのぼればいいのかしらね。そうよ魔理沙。「あのときああしておけば」って思った時には、もう一歩踏み込んで考えなきゃあ駄目よ。あのときああしたのは、そうする理由があったからよ。
全くのきまぐれで決めたように思うことも、その日の気分に左右される。その日の気分は朝食の味や、天気、そのほかさまざまなことに左右される。
決まっているのよ魔理沙。全て決まっている。
極論すれば、私たちが観測しうる範囲にランダムなことなんてないの。
コインをトスして表が出るか裏が出るかはランダムじゃない。コインを弾く角度、力の強さ、風、温度、湿度。ただ私たちではトスした時点では判別できない、というだけで、本当は表が出るか裏が出るかは決まっているのよ。
「人生はコイントスに似ている」
運命が決まっているっていうのは、未来が決まっているのとは少し違う。だって決まっていたって、その時点で誰にも分からないなら、それは決まっていないのと同じ。本当は表と裏、どちらが出るか決まっているのに、コイントスがランダムに見えるのも同じよ。
大事なのは過去。過ぎ去ったことについて振り返ると、全てが決まっていたことに私たちは気付く。裏になるか表になるか、結果が出るまでそれは決まっていないけど、どちらかが出た瞬間に、もう片方が出ることはなかったと分かるの。はっきりとね。
「だから貴女の悩みは全くナンセンスなの。貴女が里に戻る決断をしたのには、理由があったの。仮に自覚できない要因でも、仮にいまはもう思い出せなくても、あの日のあなたは帰ることを選んだ。帰らない選択をすることはあり得なかったの」
輝夜に捲し立てられて、私は何だか騙されているような気持ちになったが、一方で凄く腑に落ちる所があった。私は帰るべくして帰ってきたのだろうか。
「もしあのときああしていたら、いまごろは、って思うでしょう。でもそれは単なる妄想よ。貴女はひょっとすると帰らない決断をした魔理沙が何処かにいて、そっちの自分は輝かしい人生を送っているって思っているかもしれないけれど、そんな魔理沙はいないの。いないのよ」
噛んで含めるような輝夜の言葉が、私の中に巣くっていた「ひょっとしたらあったかもしれない別の可能性の私」を容赦なく切り刻んで、葬っているように思った。それはつらく苦しいようでいて、まどろみに意識を手放すような安心感があった。
「貴女だけじゃなく、多くの人間がそう考えるのよ。私だってそういうふうに考えていた時期があった。変えられない過去を変えられると誤解して、変えられる未来を決定されていると思い込む。それは全く逆なのにね」
まさに今の私を言いあらわしているような言葉だと思う。悩んだ末に自ら決断した過去を、変えることを夢見て、まだどうなるか分からない未来を、勝手に決め付けて絶望していた。
自分の中で彼女の言葉をかみしめる。
顔を挙げると輝夜は優しい笑顔で私を見つめていた。
ふと私も笑みがこぼれた。
「私、母親になって、泣き言を聞いてやる立場になったからか、自分自身の悩みを誰かにぶつけるってことを長い間していなかったみたい。ありがとう輝夜。自分の馬鹿さ加減に気付くことができました」
「それは良かった。まあ、貴女がここへきて、そうやって立ち直ることは決まっていたんだけどね」
そうやって笑う彼女はやっぱり美しくて、良仁には絶対に会わせないようにしようと、改めて誓った。
家まで送るという妹紅の申し出を竹林の出口で断って、私は一人歩いて里を帰っている。雨はもう止んでいて、虫の声が控えめに響いていた。人通りの少ない通りを歩いて、自宅の玄関を開けると、良仁が霊華をおぶって立っていた。
「おかえり、魔理沙」
「ただいま。心配掛けてごめんなさい。あなた」
良仁は、私ならきっと立ち直って帰ってくると信じていたという。だから騒ぎを大きくすれば逆に帰りづらいと思い、近所に触れまわることはしなかったそうだ。私は自分のことをよく理解してくれている最愛の夫を、改めて愛おしいと感じた。だから抱きついてキスしてやったら、どうしたんだと素で心配されてしまった。ちくしょう。
霊華と霖太郎は待ちくたびれて眠ってしまったらしい。随分と心配をかけてしまったはずだ。ちゃんと謝って、明日は目いっぱい甘えさせてやろう。
良仁が何も聞かないから、私は何も言わないことにした。これは私の中で解決する問題だったから。
私はふとあることを思いついて、この20年近く、一度も開けなかったたんすをひっくり返して八卦炉をとってきた。
「ねえ、あなた。もう遅いけど、少しだけ付き合ってくれない?」
私はそういって彼を連れだして開けた空地まで歩いて行った。空はすっかり晴れわたり、雨上がりの空気も手伝って星空が澄んでいる。
「ねえ、あなたに私の魔法を見せてあげる」
「…。分かった、見ているよ」
これまで頑なに魔法の話題を避けてきた私の突然の申し出にもかかわらず、夫はさほど驚いた様子を見せなかった。ここに来るまでの様子で、私が何か変わろうとしていることに気付いていたのかもしれない。
かつての私はこの八卦炉とともに数多の戦場をくぐりぬけてきた。でもその頃の話を夫にも、子どもたちにもしたことはない。当時のことを話そうとすれば、私の口からは際限のない後悔と嫉妬があふれ出しそうだったからだ。
でも今はもう違う。当時の私は、未熟なりに、私なりの覚悟を持ってあの空を飛んでいたし、あの日の私は、やはり私なりの決意で持って魔法使いをあきらめたのだ。私はもうその決断を後悔しないだろう。何故なら、私が夫と会えたのも、子どもたちを産むことができたのも、あの決断があったからなのだと、輝夜のおかげで気付いたからだ。
そして私は今夜、私にとっての最後の敵を打ち倒す。
私を何年も苦しめてきた、「ひょっとしているかもしれない、魔法使いをあきらめなかった私」を、倒すのだ。
だってそんな奴はいないのだから。
「だから…」
そうして私は八卦炉にありったけの魔力を込める。
「だから…もういちどだけ…」
もう修業もしていない私には、全身から絞り出したって大した魔力は無いけれど
「これが最後の…」
それでもいいんだ。
「マスターアアアアスパァーアアアアアアアアアアアアクッ!!!!!」
夜空に向けて吐きだした私の最後の魔力は、見るからに貧弱な細い、細い、光条となって、往年のそれとは比べることもできないほどに弱弱しく、天に吸い込まれていった。
それでよかった。
もう撃てないマスタースパークが、示しているから。
ありもしない可能性の私を、今の私が、きちんと倒せたってことを。
さようなら、私の青春。
お前なんていなくても、私は明日からも、毎日幸せだから。
私こと群雲魔理沙、旧姓:霧雨魔理沙は、ため息をついて立ち上がる。
土間へ降りると、使用人のお菊が既に下ごしらえを始めていた。
「奥様、今日は卵が安かったので、卵焼きにいたします」
「ええ、分かった。私も手伝うわ」
二階からはどたどたと走り回る子どもたちの足音が聞こえる。
「あなたー、霖たちの面倒を見ておいてくださいな」
背後に向かって大声を出す。
毎日繰り返す風景だ。かけがえのない日常。
つまらない日常だ。
今となっては本当に普通の人間、魔理沙の物語だ。
魔法使いの道をあきらめ、私は実家に帰った。
自分自身、捨虫の魔法を習得する目が無いことにうすうす感づいたこと、時を同じくして、知り合いの魔女から今後について尋ねられたことを機に、私は実家に戻る決断をしたのだった。
父は家出をとがめず、勘当を解いた。私が素直に帰ってくるなんてこれっぽっちも思っていなかったようで、拍子抜けした、と言うのが本当のところだろう。
私は正式に霧雨家に戻った。
家出の原因となったことについて決着がついたわけではないが、互いにその件については触れないということに、暗黙のうちに決まっていた。それは一種の逃げである。向き合うことをあきらめたということでもある。でも逃げることは必ずしも悪いことじゃない。実際私達はそうすることによって、お互いに良好な関係を築けたからだ。絶対に互いに折れない、私たちのような親子がうまくやるためには、そういう知恵も必要なのだと15歳にもなってようやく分かったのだった。
18歳になり、周囲の娘達より遅く、結婚した。
相手は霧雨道具店で修業をしていた奉公人で、名は群雲良仁(むらくもよしひと)。
父の覚えもめでたく、暖簾を分けることを許された。
婿を取って私に家を継がせる考えもあったようだが、私が戻ってこないことを見越して余所から養子を取っていたため、霧雨家はその養子に継がせ、私は嫁に出して自由にさせることにしたということだ。
私たち親子は根本的に価値観が合わず、一緒にいれば絶えず喧嘩になるため、父としても離れたほうがお互いによかろうという判断だったのだろう。
私は良仁との縁談に素直に応じ、家を出て新たに道具屋を営み始めた。
里に戻って以降、ただの一度も魔法を使っておらず、八卦炉を含めた魔道具も、すべてたんすの中に押し込めて、一度も出すことはなかった。
霊夢や妖怪たちとも疎遠になり、里ですれ違えば世間話こそ交わすものの、積極的なつながりは持たず、宴会に顔を出すこともなかった。
人里には人の営みがあり、人間には人間の付き合いがあったからだ。普段着が和服になり、髪も染め直したため、しだいに昔の知り合いも擦れ違っただけでは私に気付かなくなったし、私もまた呼びとめることはしなかった。特に妖怪にとって人間の成長は早過ぎ、しばらく会わなければ、もはやそれと分かるものはいなかった。
里に戻ることを決めた自分の決断に後悔しないため、私は死に物狂いでよく働いた。慎重すぎるきらいのある良仁と、何事も積極的な私はよきパートナーになれたようで、一代で群雲道具店を霧雨道具店をしのぐほどの大店に成長させた。里を飛び出して勘当されていた私は、若い世代からはともかく、大人たちからはかなり長い間白い目で見られることになった。わざと聞こえるように「出戻り娘」などと揶揄するものも少なくなかった。それでも私は屈することなく、よく働き、よく笑い、長い時間をかけて人里にこの人ありと言われるほどの信頼を築きあげた。
夫との間には息子の霖太郎と娘の霊華という子宝に恵まれた。
己の才気と不断の努力、そして誠実な伴侶の力を得て、私は誰が見ても異を唱えないほどの成功者となった。
それでも、
それでも私の中から「本当にこれでよかったのか」という自問自答の声が無くなった日は一日もなかった。里に流れる異変の噂に何度家を飛び出そうと思ったか。自分が諦めたあの日から少しも変わらない容姿ではしゃぎまわる妖怪を見てどれほどの嫉妬を覚えたか。里に買い出しに来ていた霊夢を見つけ、見つからないようにこそこそと路地裏に入ったあのとき、どれほどみじめな思いをしたか。
彼女たちは私が断腸の思いで手放した、尊く価値ある、すばらしいそれらを誇ることすらせず、無造作にぶら下げて歩いていた。
私の中にはいつも「あのとき魔法の修行をつづける決断をした私」がいる。彼女は今や立派な魔法使いで、妖怪たちと対等に渡り合い、波乱万丈な人生を謳歌しているのだった。
毎晩、毎晩、そんな夢を見る。
あの日自分を諭した魔女を、
決意を告げた私に「ふうん」といって掃除に戻った博麗霊夢を、
そして戦うことをやめ、安寧を求めて逃げ帰った私自身を、
今でも殺したいほどに憎んでいたのだ。
外を見ると雨が降っていた。
私は、ふと「自分はこのまま死んで行くのだ」と思った。食卓を囲む人畜無害でごく普通の夫や、平凡な日常を送る子どもたちが、自分を退屈という檻に閉じ込めて、死ぬまで見張っているのではないかという錯覚にとらわれ、私は傘もささずに家を飛び出した。
昔の自分が唾棄するほど嫌いだった平平凡凡とした日常に、首までつかって身動きが取れなくなっているのだと思った。どうしてあの時、私は里に帰ることを選んだのだろう。面白おかしく、永遠に走り続けられたはずの、あの狂乱の日々は一体どこに行ってしまったのだろう。
方向も見ずに走っているうちに、私は里の外に出てしまっていた。
日はもう落ちかけている。
ぞっとした。
昔は何でもなかったはずの暗闇に、今私はどうしようもなく怯えている。
里へ戻りそうになる足をとめたのは、もう自暴自棄としか言いようがない私の意地だった。ここで戻るくらいなら、何で家を飛び出してきたんだ。いつだってやってから後悔する自分だけれど、やり切らずに後悔したのは生涯でただ一度。魔法使いへの道であった。だから今ここで里へと戻ることは敗北だった。何の合理性もない感傷に過ぎないことは重々承知しているが、それでも今戻れば、なにかに、決定的に、敗北すると感じた。
結局私はそのまま歩き続けた。行くあてもないのに。
雨は少しもやむ気配を見せずに、私の体を濡らした。着物が水を吸って重い。足元がふらつく。最近は自分が店先に立つことも減り、さほど運動はしていない。自分ももう32歳だ。衰えを感じるような年齢ではないが、自分の記憶ほどに軽快に動かない体にいら立ちが募る。
「いったっ!」
何かに躓いて、私は思い切り地面に身を投げ出した。
「うう…」
とっさについた手が痺れ、鈍く痛んでいる。捻挫しただろうか。
自分のみじめさに涙があふれた。
自分は何をやっているのだろうか。
思春期の娘でもあるまいし。夫も子どもたちも心配しているだろう。近所の人たちにも捜索を頼んでいたら、あちこちに迷惑をかけているに違いない。そう思って、そう思えるようになったことが、今の私の成功であり、失敗であるのだと思った。昔の私は他人の迷惑など考えたこともなかった。自分から飛び出しておいて、しかも今になってまだ帰る気が無いのに、迷惑をかけた人たちに詫びを入れる算段を自然に立てている自分に気付いたのだ。もう昔には戻れないのだと、実感した。
捻っていないほうの手をついて、上体を起こす。膝立ちになって自分の状態を検分すると、泥汚れでひどい有様だった。後ろを見ると、節くれだった竹の根が、雨の強さで土からのぞいていた。
「おい、あんた。大丈夫かい?傘はどうした」
声をかけられたことに驚いて顔を挙げると、こちらに傘をさしかけている
白髪の女性が映った。
「も…こう…?」
「あれ、どっかであったことあったかしら」
私は竹林に迷い込んでいたようだ。
偶然通りすがったという藤原妹紅は、私を助け起こし、永遠亭まで送ってくれた。私が魔理沙だと名乗ると、彼女はしばらく考えた後、
「ああ、あんたか。すっかり見違えて、美人になったねえ」
といって、それ以上は何も聞かなかった。
私のことなんか覚えてるとは思わなかった。自分が汚れることもいとわず私に肩を貸して歩く妹紅は私の記憶よりも背が低かった。
永遠亭に到着すると、私はすぐさま風呂に放り込まれ、上がると着替えが用意してあった。想像以上に自分の体が冷え切っていたのだと実感した。
「里で結婚して、元気でやってるって聞いていたんだけれど。どういう風の吹きまわしかしら」
そう言って私の手首に包帯を巻いているのは、やはりあの頃のままの八意永琳だった。
「私のことが分かるの?」
「一度診た人間を、私が間違えると思うかしら?」
そういって笑う永琳の姿は昔のまま。まるであの頃の私を相手しているかのような気やすさだった。
「旦那さんとなにかあった?」
「そういうんじゃないの。私は幸せよ」
何を言っているのだろうか、だったら何故家出などしたのか。
それについては永琳も何かあると承知しているようで、
「取り敢えず怪我は治療したわ。一週間は動かさないこと。…それから、折角だから姫様とお話でもしていなさい。お茶を入れるわ」
と言って微笑んだ。
彼女にとっては自分はまだまだ小娘のままなのだ、と思うと遣る瀬無くもあり、安心している自分もいた。
奥の座敷に通されると、蓬莱山輝夜が座っていた。
いうまでもなくあの頃のままの美しさだった。
「あら久しぶりね、霧雨魔理沙」
そうやって鈴が鳴るよう声で私に話しかけてくる。
「今は結婚して群雲魔理沙よ」
「そう」
輝夜は何がそんなにうれしいのか、ニコニコと私を見ている。
「家出?」
余りに率直な聞きざまに、帰って心が素直になったのか、私は輝夜に全てを打ち明けていた。
魔法使いをあきらめたことを後悔していること。
里の生活が退屈に感じられること。
夫への愛を自分自身疑う気持ち。
妖怪たちに嫉妬していること。
……
…
「こんなこと考えたって仕方が無いって、分かってはいるのよ。今の自分で生きて行くしかないんだって。でもどうしても考えずにはいられないの。あのとき違った決断をしていたら、今頃はどうなっていただろうって」
ひたすらに感情を吐露する私を、彼女は優しい目で見つめ続ける。
「毎朝鏡を見るのが怖いの。少しづつ若さを失っていく自分を見るのが怖い。ねえ輝夜。貴女はこんな風に感じたこと、無いんでしょうね」
無駄に棘のある言葉を吐いている自覚はあった。それでもいつまでも美しくあり続ける目の前の女が憎い。余りにも醜い嫉妬だとしても、口にせずには居られなかった。
「私だってあなたが羨ましいわ。といっても今のあなたじゃ、こんなこと言われたって、素直に受け入れられないでしょうけど。本当にうらやましいわ。死ぬほどね」
輝夜はそんなことを言った。
やっぱり微笑んでいたけれど、少し怖いと感じた。
「子どもは可愛い?」
突然の質問に面食らってしまう。
「…ええ、かわいいわ」
素直にそう答えた。つかれることもあるし、嫌になる毎日だけれど、やっぱり自分でおなかを痛めて産んだ子は、かわいい。
「そう…。いいわね」
私は背筋が寒くなった。いいわね、と言った瞬間の彼女の頬笑みは見ているものを卒倒させるほど恐ろしいものだった。
蓬莱人は子を為せない。
「永遠を生きるものは孤独よ。だから集まって、騒いで、そうやって今自分が存在していることを確かめたいのかもね」
目を細める彼女は、遠くを見ているようだ。彼女のいうことは分かる。私にも覚えがある。あのころ、あの狂乱の中で意味があったのかどうかも分からない努力にひたすら励んでいたころ。
私は孤独を感じていた。深い深い孤独を。
夜ベッドの中で、漠然とした不安を抱えていた。
真っ黒い、大きな穴が突然足元に開いて、飲み込まれていくような怖さがあった。
今の私にはない孤独。
「貴女はどんどん重くなっているのよ、魔理沙。体が大きくなって、伴侶を得て、子どもができて。どんどん重くなっているの。もう空も飛べないほど。でもそれって不幸なことじゃないわ。貴女ももう子供じゃないから、いってること分かるわよね」
輝夜のいうことは私の心にしみこむようだった。彼女は私よりもずっとずっと、ずうっと人生の先輩なのだと改めて実感する。
二人の子どもの顔を思いだす。私を母と慕って何処に行っても付いてくる、本当にかわいらしいわが子。私は子どもたちを捨てては、もうどこにも行けない。でもどこにも行けなくてもいいんだ。幸せはそこにあるから。
夫の顔を思い出す。もともと好き合って結婚したわけではない。里に戻った以上、里の流儀に従うべきだと思って、父の進める彼と夫婦になった。もう14~5年の付き合いだ。お互いのことはよく分かっている。子も為した仲だ。嫌いなはずはない。燃えるような恋心こそなかったが、愛が確かにある。
そこまで考えたところで、輝夜がふいに悪戯っぽい表情で言った。
「あら、恋心が無いなんて本当かしら」
輝夜の言葉に首をかしげると、
「あなたの旦那さんと会ってみたいなー」
「や、やだっ!」
自分で思っている以上に大きな声が出て、自分でびっくりしてしまう。
ふと見ると輝夜は口元に手を当ててケラケラと笑っていた。
どうやらからかわれたのだ、と遅まきながら気付くと同時に、顔面に血が
集まるのを感じた。この絶世の美女に会えば、良仁が目移りするのではないか。そう考えた瞬間、取り乱すほど狼狽してしまった。三十路にもなって生娘のような反応してしまった自分を痛い、と思うと同時に、自分で思っているよりも、自分が夫を愛していることに気付いた。
「一体何の不満があるの。貴女はよく頑張って、幸せな家庭を築きあげたのでしょう。子どもたちもまだ小さいし、先も長いわ。人生に絶望する必要があるかしら」
そういう彼女の言葉にもっともだと思う一方で、それでもなお頷きがたい自分が、まだ燻っている。
「きっとあなたは運命について誤解しているのね」
そんな私の内心を見抜いてか、輝夜は語り出した。
「運命っていってもそんなにオカルティックな話でもないし、さしてロマンティックな話でもないんだけどね。長く生きているからこそわかることもあるわ」
そうして彼女は少しだけ言葉をためた。
「運命ってね、決まっているのよ。厳格に、明確に」
例えば出先で雨が降ったとき、どうして傘を持ってこなかったんだろうって、後悔することがあるでしょう。でもね、家を出るとき晴れていたから、あなたは傘を持って出なかったのよ。当然そうよね。雨が降るかもしれないって、予想しておけばよかったって?確かにそうね。じゃあどうしてそんな風に予想しなかったのかしら。たまたま?偶然?そうかしら。朝時間が無かったからじゃあないの?
だとしたら、どう。朝もう少し早く起きていればと後悔するかしら。でも朝早く起きられなかったのは前の晩に遅くまで仕事をしていたから。遅くまで仕事をしていたのは、急な仕事が入ったから。急な仕事が入ったのは…。
一体いつまでさかのぼればいいのかしらね。そうよ魔理沙。「あのときああしておけば」って思った時には、もう一歩踏み込んで考えなきゃあ駄目よ。あのときああしたのは、そうする理由があったからよ。
全くのきまぐれで決めたように思うことも、その日の気分に左右される。その日の気分は朝食の味や、天気、そのほかさまざまなことに左右される。
決まっているのよ魔理沙。全て決まっている。
極論すれば、私たちが観測しうる範囲にランダムなことなんてないの。
コインをトスして表が出るか裏が出るかはランダムじゃない。コインを弾く角度、力の強さ、風、温度、湿度。ただ私たちではトスした時点では判別できない、というだけで、本当は表が出るか裏が出るかは決まっているのよ。
「人生はコイントスに似ている」
運命が決まっているっていうのは、未来が決まっているのとは少し違う。だって決まっていたって、その時点で誰にも分からないなら、それは決まっていないのと同じ。本当は表と裏、どちらが出るか決まっているのに、コイントスがランダムに見えるのも同じよ。
大事なのは過去。過ぎ去ったことについて振り返ると、全てが決まっていたことに私たちは気付く。裏になるか表になるか、結果が出るまでそれは決まっていないけど、どちらかが出た瞬間に、もう片方が出ることはなかったと分かるの。はっきりとね。
「だから貴女の悩みは全くナンセンスなの。貴女が里に戻る決断をしたのには、理由があったの。仮に自覚できない要因でも、仮にいまはもう思い出せなくても、あの日のあなたは帰ることを選んだ。帰らない選択をすることはあり得なかったの」
輝夜に捲し立てられて、私は何だか騙されているような気持ちになったが、一方で凄く腑に落ちる所があった。私は帰るべくして帰ってきたのだろうか。
「もしあのときああしていたら、いまごろは、って思うでしょう。でもそれは単なる妄想よ。貴女はひょっとすると帰らない決断をした魔理沙が何処かにいて、そっちの自分は輝かしい人生を送っているって思っているかもしれないけれど、そんな魔理沙はいないの。いないのよ」
噛んで含めるような輝夜の言葉が、私の中に巣くっていた「ひょっとしたらあったかもしれない別の可能性の私」を容赦なく切り刻んで、葬っているように思った。それはつらく苦しいようでいて、まどろみに意識を手放すような安心感があった。
「貴女だけじゃなく、多くの人間がそう考えるのよ。私だってそういうふうに考えていた時期があった。変えられない過去を変えられると誤解して、変えられる未来を決定されていると思い込む。それは全く逆なのにね」
まさに今の私を言いあらわしているような言葉だと思う。悩んだ末に自ら決断した過去を、変えることを夢見て、まだどうなるか分からない未来を、勝手に決め付けて絶望していた。
自分の中で彼女の言葉をかみしめる。
顔を挙げると輝夜は優しい笑顔で私を見つめていた。
ふと私も笑みがこぼれた。
「私、母親になって、泣き言を聞いてやる立場になったからか、自分自身の悩みを誰かにぶつけるってことを長い間していなかったみたい。ありがとう輝夜。自分の馬鹿さ加減に気付くことができました」
「それは良かった。まあ、貴女がここへきて、そうやって立ち直ることは決まっていたんだけどね」
そうやって笑う彼女はやっぱり美しくて、良仁には絶対に会わせないようにしようと、改めて誓った。
家まで送るという妹紅の申し出を竹林の出口で断って、私は一人歩いて里を帰っている。雨はもう止んでいて、虫の声が控えめに響いていた。人通りの少ない通りを歩いて、自宅の玄関を開けると、良仁が霊華をおぶって立っていた。
「おかえり、魔理沙」
「ただいま。心配掛けてごめんなさい。あなた」
良仁は、私ならきっと立ち直って帰ってくると信じていたという。だから騒ぎを大きくすれば逆に帰りづらいと思い、近所に触れまわることはしなかったそうだ。私は自分のことをよく理解してくれている最愛の夫を、改めて愛おしいと感じた。だから抱きついてキスしてやったら、どうしたんだと素で心配されてしまった。ちくしょう。
霊華と霖太郎は待ちくたびれて眠ってしまったらしい。随分と心配をかけてしまったはずだ。ちゃんと謝って、明日は目いっぱい甘えさせてやろう。
良仁が何も聞かないから、私は何も言わないことにした。これは私の中で解決する問題だったから。
私はふとあることを思いついて、この20年近く、一度も開けなかったたんすをひっくり返して八卦炉をとってきた。
「ねえ、あなた。もう遅いけど、少しだけ付き合ってくれない?」
私はそういって彼を連れだして開けた空地まで歩いて行った。空はすっかり晴れわたり、雨上がりの空気も手伝って星空が澄んでいる。
「ねえ、あなたに私の魔法を見せてあげる」
「…。分かった、見ているよ」
これまで頑なに魔法の話題を避けてきた私の突然の申し出にもかかわらず、夫はさほど驚いた様子を見せなかった。ここに来るまでの様子で、私が何か変わろうとしていることに気付いていたのかもしれない。
かつての私はこの八卦炉とともに数多の戦場をくぐりぬけてきた。でもその頃の話を夫にも、子どもたちにもしたことはない。当時のことを話そうとすれば、私の口からは際限のない後悔と嫉妬があふれ出しそうだったからだ。
でも今はもう違う。当時の私は、未熟なりに、私なりの覚悟を持ってあの空を飛んでいたし、あの日の私は、やはり私なりの決意で持って魔法使いをあきらめたのだ。私はもうその決断を後悔しないだろう。何故なら、私が夫と会えたのも、子どもたちを産むことができたのも、あの決断があったからなのだと、輝夜のおかげで気付いたからだ。
そして私は今夜、私にとっての最後の敵を打ち倒す。
私を何年も苦しめてきた、「ひょっとしているかもしれない、魔法使いをあきらめなかった私」を、倒すのだ。
だってそんな奴はいないのだから。
「だから…」
そうして私は八卦炉にありったけの魔力を込める。
「だから…もういちどだけ…」
もう修業もしていない私には、全身から絞り出したって大した魔力は無いけれど
「これが最後の…」
それでもいいんだ。
「マスターアアアアスパァーアアアアアアアアアアアアクッ!!!!!」
夜空に向けて吐きだした私の最後の魔力は、見るからに貧弱な細い、細い、光条となって、往年のそれとは比べることもできないほどに弱弱しく、天に吸い込まれていった。
それでよかった。
もう撃てないマスタースパークが、示しているから。
ありもしない可能性の私を、今の私が、きちんと倒せたってことを。
さようなら、私の青春。
お前なんていなくても、私は明日からも、毎日幸せだから。
過ぎたことは悔やんでも致し方なし、後悔しても仕方ないよと。それは実に正しい
だけど現実では、もう少し希望と可能性があると思えます。
作中の魔理沙は本当に『普通』の人になりましたが、現実に生きる私たちは、現実に生きるからこそ、より希望と可能性のある人生を歩めるものなのだと感じています。
願わくば、この魔理沙にもより良い人生がありますように。
長文失礼しました。
やっぱりマリサは里でもやっていけるんだね
人間、そうやって割り切れる人は少数派だとは思うけどね
まりさが救われたのも姫様の人徳かミ
魔理沙にしかできない魔理沙なお話に満足です
幸せになれよー、魔理沙
なんか心に刺さる作品だった。
少なくとも魔理沙はあの時諦めることを選択したわけだし。実際人並みに幸せみたいだし
それに比べて惰性で人生転がり落ち続けてる俺ときたら……w
魔理沙に感情移入して感極まりました
本当良かった
せめて彼女たちは幸せな人生を送って欲しいものです
「貴女はひょっとすると帰らない決断をした魔理沙が何処かにいて、そっちの自分は輝かしい人生を送っているって思っているかもしれないけれど、そんな魔理沙はいないの。いないのよ」
覆水を盆に返し、異なった歴史を複数持つ事が出来るという輝夜の言うセリフとしては違和感がありますね…
少女でなくなった魔理沙が選んだ生き方が自分にも突き刺さるような気がします。
この話、読んだ後だといずれ少女でなくなる霊夢や咲夜なんかはどんな道を進むのかちょっと心配に心配になりましたが…w