少女にとって、フランドール・スカーレットとは、人妖の関係を超えた位置に座していた。
煌びやかな金髪。
美しい虹色の骨翼。
貴族のような豪奢な洋装。
見るものを吸い込む鮮やかな紅の目。
――――――吸血鬼。
どんな要素を取り出しても、フランドールとただの人間である少女に交わるものはない。
仮にあるとするれば、少女が哀れにも何事かの理由で瀟洒なメイドに食肉加工され、フランドールの食卓の上に並ぶ一品となるくらいだろう。
もしかしたならば、フランドールの癇癪を収めるため、生きたまま地下の牢獄に放り込まれることもあったかもしれない。
幸いにしてそういった無残な因果は巡らなかったが――――どうなるにせよ本来、文字通りの食べる側と食べられる側だ。
だが、二つ。
二つだけ、フランドールと少女を強く結びつける、運命的な因果があった。
一つは、月明かりを頼りに闇を行く深夜の散歩が、最近の趣味であった点。
もう一つは、姉。
姉を、殺してやりたいほどに、憎んでいることだった。
「う~ん?」
少女の問いかけに、フランドールは首を傾げた。
「ねえ、バカ弟子、それってどういうこと?」
「弟子ですけどバカじゃないです――――どういうことってどういうことですか師匠?」
フランドールを師匠と呼んだ少女は、曖昧な質問に曖昧に答えた。
その言葉にフランドールは眉をひそめる。
中空で足を組み、そのまま埃っぽい床に正座している少女を見下ろした。
「弟子は、バカだからこそ弟子でしょう? だからバカ弟子って言うのは、それはもう師匠として当然の言い分じゃなあい?」
「え、でも師匠。この前、師匠と弟子というのは形式の事でしかなくて、お互いがお互いを尊重して切磋琢磨するのが正しいあり方だって」
「尊重するのが大切とは言ったけど――――」
少女の言葉にかぶせる様に、フランドールは綺麗に整えられた人差し指で少女の見上げる額を指す。
「――――バカと言わないとは言ってないわね」
ニヤリと、まるで世を知らぬ子供のように尊大に嗤った。
「……師匠、その表情とポーズ、結構決まってますね」
「ふふふ、でしょ? これは支配者のポーズというやつらしいのよ」
そう言うとポーズを解き、フランドールは少女の方へ中空を水平に移動した。
そのまましゃがむように高度を落とし、煌びやかな金髪を少女のひざの上に乗せる。
床の埃が、フランドールの豪奢な洋装に無粋な飾りを付与するが、本人は気にした様子もない。
「アイツがやってるのを見て真似してみたけど、私の方がダンゼン決まってたわね。まあ、趣味じゃないけど」
「はあ」
合いの手以上の意味はない声と共に、少女は自分のひざに頭を乗せるフランドールの髪を片手で柔らかく梳いた。
ん、という心地よさそうな声とともにフランドールが身を捩り、少女の投げ出したもう一方の手に自分の手を重ねる。
風穴が空いている天井から注ぐ羊毛のような白い月光が、フランドールの強すぎる金糸を柔らかく包む。
辺りを舞う塵が、まるで粉雪のように白く、淡く、輝く。
夜にだけ開かれる、秘密の花園。
夜も深い人里離れた廃屋で、吸血鬼の童女と人間の少女が、今日も蜜月を育む。
今宵で何度目であったか。少なくとも、両手ではもう数え切れないくらいだと少女は記憶していた。
「そういえば今日こんなことがあったわ」
「なんです?」
フランドールが語りだし、少女がそれに応える。
ひと通り終わると、少女も同じように語りだし、フランドールもそれに応える。
話題は二転三転するが、どれも姉に関しての話題だ。
話の中で、二人の姉たちは誹謗中傷にさらされ、また、より直接的にハラワタをぶち撒けた。
生活の中での愚痴はさらに酷い。聞けば耳をふさぎたくなる言葉の応酬である。
ただ、それが、この吸血鬼と人間の関係だった。
「ん~」
それまでコロコロと笑って、姉を串刺しにした話をしていたフランドールが突然唸りだした。
「どうしたんです師匠?」
「やっぱり、ここ数日、あなた獣臭いわ」
「……ひどいこと言いますね」
「まるで、愚鈍な獲物を狩る機会を伺う化獣みたい」
フランドールのその言葉を最後に、しばし少女の口から言葉が消えた。
廃屋の隙間から入る生暖かい風が頬を撫でる。
軽く閉じていた目を開き、少女は切り出した。
「……私は師匠のこと、凄いと思いますよ」
「あら? なにが?」
平素と変わらぬ語調で、少女が続けた。
「だって私なら、自分の姉の真似なんてしたら、キリキリ姉の首を締めたくなりますもん」
ピタリ、とそれまで気持ちよさそうに身を捩っていたフランドールが動きを止めた。
「……ふーん。この前は『姉の食べ残しを見るとその日食べたものを全て吐き出してしまいますもん』って言ってたのに」
「ええ。さらにその前は『姉の残り湯を使うと、手首を切りたくなりますもん』です」
わかってるじゃない、とフランドールが可憐に笑う。
「殺意、自分の内側からこぼれ始めた?」
「ええ」
「それまで内向きだった激情が、それを相手に投影しなければならない程に?」
「はい」
少女の躊躇のなさに、フランドールが立ち上がった。
まるで敬遠な信者に信託を下す教祖のように、赤く鋭利な爪をたたえた指で少女の顎を上向かせる。
そして熱い吐息を交えながら、言った。
「ねえ、我が親愛なる弟子。もう一度、さっきの貴女の問いを聞かせて?」
少女が、目で頷く。
「私に、人の――いえ、姉の殺し方を、教えて欲しいんです」
雲が掛かる。月は顔を隠し、光は闇に失せた。
辺りを舞う塵は空気を一層重くし、饐えた匂いが鼻から入り少女の心臓の鼓動を逸らせる。
その、秘密の花園で語るには重々しく、しかし人気のない廃屋とあまりに似合いすぎる響きに、
「――――――――」
フランドールは、ニタリと――――今度は老獪な魔女のごとき厭らしい笑みを、赤く光らせた。
「モノを壊す時はね、とにかく自分を信じないといけないわ。絶対に自分の外側に理由を求めちゃダメ。そんなことしても、くだらない型に乗っかるだけだもの」
佇まいを直して向かい合い、フランドールが少女にした助言がそれだった。
「とりあえず心構えはこれだけ押さえてれば、後は殺る気次第かしら。そっちは問題無いと思うけど」
「はい、それには自信ありますから……でも師匠? その、もう少し具体的なことを……」
弟子の不出来を嘆くように、フランドールがかぶりを振った。
「ダメね。全然ダメダメね。具体的なことなんて話したら意味が無いじゃない。それだと、私が殺したことになちゃう。それに多分聞くだけ無駄よ。貴女、きゅっとしてドカーンって出来る?」
「そんなの師匠にしか出来ないじゃないですか…………なんか芸術みたいですね、それ」
「当然、破壊は芸術よ」
フランドールは、きっぱりと断言した。
「とは言っても、可愛い弟子の大願成就の為だもの。他のところでフンパツするわ」
「さっすが師匠! 愛してます!」
少女の現金な笑顔に、フランドールは気を良くする。
そして、思案顔であれやこれやとブツブツ呟き始めた。
「アレはぬえに探させて……こいしも呼んで……う~ん、これからだと……明日の昼になるかなあ。うん、明日の昼に、またここに来て」
「え、私はいいですけど、師匠は吸血鬼でしょ。昼って大丈夫なんですか?」
「色々大丈夫じゃないわ。だから、代わりを寄越す。その子、信頼は出来るから安心していいわ」
フランドールは思案顔をやめて、ニコリと笑った。
「そのときに、いいものをあげるわ。たとえ相手が何であろうと破壊できる、魔法のシロモノ」
「そんなもの貰ってもいいんんですか?」
「もちろん、可愛い弟子だからあげるのよ。トクベツよ?」
フランドールが見るものをドレイにするようなウィンクで、少女に答えた。
そして、嬉しそうに廃屋の中をフラフラとリズムを取りながら歩き出す。
「…………何にも聞かないんですね、師匠。なんで急にこんなこと言い出したのか、とか」
そんな自分の師匠に、少女は先ほどまでとは打って変わって、弱々しく声を上げた。
フランドールはその弟子の様子に、目をぱちくりさせる。
そして視線をあちこちに迷わせて――――少女に飛びついて、言った。
「ねえバカ弟子。私は貴女の師匠なのよ? 師匠は弟子を尊重するの。それに、貴女の恨み辛みは私の恨み辛みでもあるし」
少女が師の背に手を回した。震える手に気づかぬふりをして、フランドールはさらに強く抱きつく。
五百年を生きる吸血鬼は、そのまま二人が分かれる時間まで、少女の肌の熱を受け止めていた。
次の日の昼下がり。人里に続く道を少し外れた場所。
少女は、フランドールに言われたとおり、いつもの廃屋へやってきていた。
「うわー、夜見るよりもボロいなあ」
いつも日が暮れてからしか、ここには来たことがなかった。
見慣れた廃屋とはまた一味違った趣きに、少女は素っ頓狂な声を上げて足を踏み入れた。
所謂、どこにでもある、一般的な、こじんまりとした日本家屋だ。
しかし、年月の劣化が激しく、壁や床は穴だらけ。
天井もほとんどなく、事もあろうか雨宿りには適さない。
どこにでもいるような不審者では、きっと近づきもすまい。
もはや朽ちていくだけの絞り粕のような家。
だが、少女とフランドールは、ここを気に入っていた。
退廃的な雰囲気が、姉のせいでささくれだった心を癒してくれるのだ。
『ねえ、貴女。そこ、私の特等席なんだけど、どいて貰えないかしら。早くしないと、愚鈍なお姉さまの代わりにひき肉になって貰うけど』
『……は? 妖怪だろうと、うちのクソ姉の代わりに埋めるわよ?』
二人にとって、その廃屋はお気に入りの、深夜の散歩の休憩所。
その短いやり取りが二人の馴れ初めであった。
姉を憎みあう者同士、通じ合うものがあったのだろう。
その日の内に、少女がフランドールを師匠と呼び、以来、ここは姉嫌いの集いの場――いわば、秘密の花園となったのだ。
だが、昼に見たのでは幾分情緒に欠ける。
少女は、花園のすっぴんを見たような気持ちになった。
やはり、ここには夜に来るのが相応しいのだろう。
「貴女が、フランちゃんのお弟子さん?」
そのとき、急に後ろから声を掛けられた。
飛び退るように、少女が振り返る。
「ハジメマシテ、私、古明地こいし」
不思議な少女だった。
丸い帽子から覗く、薄く緑がかった灰色のセミロング。
碧々たる森のごとき、静寂な緑の眼。
吸い込まれそうで、しかし意識から簡単に外れる。
まるで、路傍の小石のような。
「はい、これ」
益体もないことを考えていると、古明地こいしがおもむろに何かを差し出してきた。
そのあまりの予備動作のなさに、少女は何物かも確かめず思わず受け取ってしまった。
「これ……」
「フランちゃんの羽の宝石と同じものなんだって」
奇妙な形と色をした小刀だった。
柄こそ何の飾りもない洋式の、どこにでもありそうなものだったが、刃が異常だった。
否。それはもはや刃と言うのも憚れる。
それは、まさしく宝石であった。
フランドールの翼に下がる、虹色に光る宝石。
あれを細く削り、無理矢理に柄に嵌めたもののようだ。
日光に当たらずとも、自ら光る、虹色の小刀。
だが、端から見れば、ただのおもちゃだった。
「もう聞いてるって聞いたけど聞いてね」
こいしが言う。不思議な言い回しだった。
「これを突き刺せば、相手は即死! 人間だろうと妖怪だろうとそこら辺の神様だろうとおかしな人間だろうと、一撃必殺で屠っちゃう! 痛みも感じないYO! でも凄いねこんなの持ち出さないといけないんだ。どれだけ強いんだろ。私と同じくらい?」
「……いえ、あの、別に疑うわけじゃないですけど、これ、おもちゃとかじゃないですよね?」
そうは言いつつも、不信感を隠せない少女。
顔をあげると、しかしもうそこには古明地こいしはいなかった。
音もなく、気配もなく、霞のように消えていた。
あるいは、いつの間にか見失う、路傍の石のようだった。
「……さすが師匠の友人だ。得体が知れない」
呆気にとられたまま少女が言う。
ひどいー、と言う声が聞こえたような気がしたが、それは気のせいだろう。
しかし、と少女は腰を降ろし、そのまま仰向けに寝転がった。
「痛みなしの一撃で殺せる、か」
宝石刀を日光に翳す。
綺羅綺羅と、しつこいほどに光を反射した。思わず眉をひそめる。
自己主張の激しい刀である。
一撃と入っても刺せなければ意味が無い。
不意を討とうにも、これでは目立ちすぎた。
「色々問題あるなあ」
苦々しく呻く。
少女は目を閉じ、しばし思考の網を張り巡らせた。
殺すのであれば、苦しませて殺したかったからだ。
ふと気が付くと、既に辺りは黄金色に染まっていた。
『カァー、カァーとからすが鳴く。
夕焼け小焼けで日がくれて。
おててをつないで、お姉とかえろう』
そろそろ帰らなければならない時間だった。
帰らなければならないと、姉に定められた時間だった。
「鴉、なぜ鳴くの――――そんなの、鴉の都合よね」
廃屋を出て、家路に着く。
少し歩けば、夕餉の香りがそこらで立ち込めていることだろう。
それは少女の家でも変わらない。
幼いころ、姉と二人、母の作る料理を楽しみに家路に着いたものだが、今ではもうそんな心は忘れてしまっていた。
両親と仕事の都合で別居してからだっただろうか。いや、それは関係なかったかもしれない。
『モノを壊す時はね、とにかく自分を信じないといけないわ。絶対に自分の外側に理由を求めちゃダメ。そんなことしても、くだらない型に乗っかるだけだもの』
師匠の助言を、反芻した。
今日もまた、日が落ちる。
今宵はより深い夜であればいい。少女は、そう願った。
「ごちそうさま」
「お粗末さま」
ジジ、と電灯が雑音を立てる。今夜も静まり返った夕食が終わった。
少女の姉が、食べ終わった食器を手早くまとめ、台所にある木桶へ持っていった。
木桶には予め井戸の水を張ってあるので、二人分の食器ならば数分もすれば洗い終わる。
そして姉が食器を片付けている間、卓袱台の清掃と風呂の準備に取り掛かるのが少女の役割である。
それは、もう何年もの間、二人で役割を分担し、こなしてきたことだった。
だが、その分担も終わる。明日からは、全部一人でこなさなければならない。
少女が視線を落とす。
フランドールから貰った虹色の宝石刀は、いつでもその本分を果たせるよう、すでに懐に忍ばせていた。
放っておいたら所構わずピカピカと明かりを乱反射しそうであったので、きちんと布にくるんである。
刺せば必殺の懐刀。
一見おもちゃのようにも見えるものに、本当にそんな効果があるのかと少女は懐疑的であったが、師匠の言うことである。信頼はしていた。
刺せば、殺せる。
人間は疎か、妖怪ですら痛みもなく一撃で屠るという。
木桶に集中し背を向けている今が、その絶好の機会だった。
刹那、狂おしいような激情に身体がしびれた。
今、女の方へ向かうということは、1,2分もすれば、そこには死骸が一つ転がることになる。
里の人間に殺人が発覚することは、恐らくあるまい。痕跡などいくらでも誤魔化しが効くのだ。
しかし、本当に、やるのか。
あんな奴に――馬鹿げたことだ。
今なら、まだ中止は出来る。
今よりも幼い頃。手を取り合って、月明かりを頼りに歩いた暗い夜道が記憶に蘇る。
子供だけで夜道を歩くと腹をすかせた妖怪にオヤツ代わりに喰い殺されるぞと、よく大人たちに脅された。
あれは何の話だったか。ただ、そんなことはないと、意味のない反抗心で姉と飛び出した。
震える手をぎゅっと握りしめてくれた姉の手の温もりは、まだ覚えている。
あの時感じた姉の頼もしさは、今でもまだ思い出せた。
ふと、フランドールの言葉が心に浮かんだ。
化獣だと、師匠は言った。
まるで愚鈍な獲物を狩る機会を伺う化獣だと。
ならば、それに倣うべきだ。
気配を殺し、身体をしならせ、一気に飛びつき食いちぎる。
動悸で、胸が今にも張り裂けんばかりになっていることは、絶対に、卓袱台の向こう側にいる女には、気取られてはならない。
あくまでも自然に、いつも通りの動きをして、刃を突き立てる――それだけだ。
心は冷えた。
「………………」
席を立つ。
視線を向けると、変わらずに玄関先で食器を水で濯いでいた。
その光景はもう何年も見てきたはずだ。
だが、今ではただ、屠る対象にしか過ぎなかった。
とっ、とっ、と畳を軽く踏みしめる。
そのまま自然な足取りで、ちょうど獲物の死角になっている調理台へ行く。
使ってそのままにしてあった、包丁とまな板が視界に映る。
鈍く鉛色に光る包丁を手に取った。柄がとても冷たく感じた。
そして、間髪入れず、目の前の獲物へ乗りかかるように振り下ろした。
ずぶり、と肉の繊維を包丁の刃が突き破り、体組織を陵辱する。
血が吹き出す。
少女の顔はたちまち化粧された。
それは、赤い血だった。
鉄の匂いが少女の嗅覚を狂わす。
独特のぬめりが、触覚を狂わす。
突き刺す瞬間、目を閉じたおかげで視界は良好。
聴覚も健在。吸血鬼ではないのだから、口は閉じ、血の味は覚えないようにした。
少女の脳裏に、姉と過ごした日々が浮かぶ。
幼いころ、二人で手を握り合って夜道を歩いた。
幼いころ、雷が怖くて二人で抱き合って寝た。
幼いころ、何をするのも一緒で、楽しかった。
成長して、何をしても姉が先にいた。
成長して、何をやめるにも姉がそれを止めた。
成長して、姉に管理されている自分に気がついた。
最近、姉は妹が自分と違うことをするのを許さなくなった。
最近、姉は無自覚に妹を我が物として扱うようになった。
最近、姉を殺したくなるくらい、憎くなった。
殺した。
今、確かに、私は姉を殺した。
長年の、悲願を、達した。
その感触に、少女は安堵した。
刹那。
「――――――――――――――――――――ッッッッ!!!!!!」
獲物の口から、人間の出す声とは思えない、つんざくような叫びが発せられた。
そして、獲物は数秒その場でのたうち回り――やがて対峙するように、四つん這いになって少女に向かい合った。
その姿はまるで手負いの獣のようだった。
「い、いつから……?」
血で咳き込みながら、獲物が言った。
ぐらりと、包丁が背に突き刺さったまま、目の前の獲物の輪郭が不自然に揺れる。
「いつから私が姉ではないと気付いていた――――!」
その言葉に、少女が、血で染まった口端を釣り上げる。
「当然でしょうが。私がどれだけの間、アイツと居たと思ってんの」
そのまま吐き捨てるように、少女は言った。
こうして、少女は、自分の姉に化けていた妖怪に、己が刃を突き立てたのだった。
妖怪の身体のあちこちがイビツに歪む。
ユラユラと身体の歪みが増し、元の姿に戻ろうとしているようだった。
「まあ、質問に答えてあげると、一週間前から気付いてた。ちょうど、アンタがアイツの姿で家に来てから」
その言葉に、妖怪は驚愕したように顔を歪めた。
未だ、少女の姉の声で、言う。
「最初から……では、なぜ七つも日を開けた。すぐさま行動に出ることも出来たろうに」
口に血痰を溜めたままにしては、流暢な言葉だった。
姉がありえない口調で話す様に、少しばかりの可笑しさを覚えながらも少女はさらに答えた。
「アンタが姉さんに化けてどうするのかを知りたかったから放置してたのよ。ま、この一週間、姉さんの生活を真似するだけだったから、こうしてみたわけだけど」
そして、少女が、この場の上位者として、妖怪を睥睨する。
「もう一撃くらいないと死ぬほど苦しいだけで死なないでしょ? 殺す前に聞いておきたい。何が目的だったわけ? 何のために姉さんに化けたの」
「……興味があっての。儂らは化ける時、対象の記憶も自分のものと出来るんじゃが、その、お前さんへの執着がの、常軌を逸しておったんでの」
「……へえ?」
「同一化っていうんかの。いや、ショックかもしれんが、お前さん、相当偏愛されとったみたいじゃのう」
煽るように、妖怪は続けた。
「儂らの得られる記憶は主観でしかなくての。実際とは違うということが多々あるんじゃが、今回も例に漏れんようじゃ」
「は?」
「お前さんは、何でも自分の思い通りに言うことを聞くいい妹、というような感じだったんじゃが」
「……いいことを聞いたわ。これはお礼をしなきゃね」
「なんじゃ、儂を見逃してくれるのか?」
その問いに、少女は少し考える素振りを見せ、
「苦しませて殺す時間を短くしてあげる」
「……お前さん、性格悪いの」
憎らしげに言うが、先程から四足で立つ妖怪は小刻みに揺れていた。
背に深々と突き刺さったままの包丁が、余程堪えているようだ。
「ああ、そうだ。一応、聞いておくけど、姉さんをどうしたの?」
「知りたいか?」
「……ふん、どうせ碌な目にあってないんでしょうし、どうでもいいわね」
少女が、心底つまらなそうに言い捨てる。
「さて、もういい加減限界でしょ? そのザマじゃ、虚勢なのは見れば分かるって。安心しなよ、今、アンタを、コロしてあげる」
震える妖怪にトドメを刺すべく、少女が懐の宝石刀に手を伸ばそうとし、
「ああ、おかげで傷も回復したよ」
少女の瞬きの内に、妖怪が撃鉄に押し出されたように距離を詰めた。
「――――なっ!」
想定外の事態に、少女は慌てて頭の前で腕を交差させ、攻撃に備えようとした。
「無駄じゃ」
だが、妖怪は手の交差が完了する前に、少女の首を片手で掴む。
まさしく電光石火の動きであった。
妖怪の背後から、包丁が床に落ちる鈍い音がした。
どうやら傷は完全に塞がったようであった。
「どうじゃった? 儂の死に体の演技は。正直無駄な悪あがきじゃろうと思うておったが、最近の人間は妖怪を甘く見るのが流行りなのかの? 包丁で深く刺された程度じゃ、妖怪は死なんよ。確かに苦しくはあったがの」
「ぐぅっ」
「お主、儂を苦しめて殺そうとしたな? とんだアバズレじゃ。このまま窒息させて、生きたまま料理して一食一食ゆっくり頂くとしようかの」
形勢が完全に逆転し、妖怪は、本来の捕食者としての嗜虐的な顔で少女に言った。
少女の姉と同じ顔で、そう言った。
「おお、そうじゃ。今のうちに教えておいてやろう。お主の姉じゃがな。頭からバリバリ食ってやった。なにせ、そうでもせんと記憶を奪えんでの」
ヒヒッ、と妖怪は嗤う。
「踊り食いじゃ。不用心に夜道を一人で歩いとったからの、自業自得じゃて」
そう言って、妖怪は腕に力を込める。
「あっ――――」
ギリギリと軋む首。
息が、出来ない。
血液の循環が、鈍る。
「どれ、まずは腕の先から味見させて貰おうかの」
妖怪の声はもはや遠く、少女の視界は暗転しようとして――――
「全く」
少女の耳に、聞き知った声が――――
「これだから、バカ弟子だって言うのよ」
そうして、その声とともに、少女を掴む妖怪の腕がはじけ飛んだ。
「ギィ!」
少女が崩れ落ち、妖怪が無様に転がる。
だが、妖怪はすぐさまに体勢を整え、殺意を眼に宿らせた。
そして、自分の片腕を吹き飛ばしてくれた予期せぬ乱入者の姿を確かめようとして、
「ヒッ!」
短く悲鳴が上がった。
煌びやかな金髪。
美しい虹色の骨翼。
貴族のような豪奢な洋装。
見るものを吸い込む鮮やかな紅の目。
――――――吸血鬼、そして、少女の師。
フランドール・スカーレットが、そこにいた。
「クスクス」
フランドールが握った手をゆっくりと開く。
超常を識るものならば、その手のひらが計り知れない不吉に彩られていることを悟るだろう。
妖怪は、フランドールに一瞥されただけで縮み上がったようだった。
先ほどまでの殺意などあっという間に霧散した。
妖怪の持つ力は、確かに人間に対しては脅威となるだろう。
だが、フランドールとは種族としての格が明らかに違う。
年月の重みが、能力の底知れなさが、なにより、狩猟者としての構えが、まるで違った。
「た、たすけ」
妖怪がもはや妖怪としての矜持すら忘れたような顔と声で、家の外へ逃れようとする。
「――――!」
そのとき、少女がバネのように飛び起き、妖怪に掴みかかった。
狂乱したように、妖怪は渾身の叫び声を上げ、少女を振りほどこうとする。
だが、少女はすでにむき出しの宝石刀を手にしていた。
そして、妖怪の命乞いの声を縫い止めるようにして、少女は無言で宝石刀を妖怪に突き刺す。
「――――――――あ゛」
宝石刀は、妖怪の喉に突き刺さった。
血は、出ない。突き刺したという感触もなかった。
如何なる術なのか。とぷん、と吸い込まれるようにして宝石刀の刃が柄を離れ、妖怪の喉へ文字通り落ちていった。
時が停止したかのように、半ば姉の姿のままで妖怪の動きが止まる。
そして、死んだ。否、壊れた。
生物として生きる機能が完全に破壊され、物言わぬ屍と化した。
妖怪が死にゆく様を、少女は片時も目を離さず網膜に焼き付けた。
数瞬後、完全に術が解けたらしく、妖怪は本来の姿でそこに屍を晒していた。
どうやら狐の妖怪だったらしい。
そういえば、昔大人たちに脅された妖怪譚も狐の話だったと思い出す。
姉は、あの道を通ったのだろうか。
小さい頃から慣れ親しむあの道を、無用心にも一人で歩いていたのだろうか。
それゆえに、大人たちの脅し話のように、殺されたのだろうか。
頭から、バリバリと、喰われたのだろうか。
少女はもう一度、屍を一瞥した。
虚無感が、少女の心を支配する。
胸に穴でも開いたようだった。
一刻も早く、それを埋めたかった。
だから、見知った乱入者に抱きしめてもらおうと身を返して、
「――――――――あああああああッッッ!!!!」
弾けたように振り返り、宝石刀の柄だけを振りかざして、物言わぬ屍に再び突き立てた。
何度も。何度も。何度も。何度も。
屍が、ただの肉塊に成り果てるまで。
髪を振り乱し、雫を零しながら、何度も何度も突き立てた。
「――――――――」
その様子を、フランドールは静かに見詰めていた。
倒れた卓袱台を戻し、頬杖をついて、赤い目を細め、口元を僅かに綻ばせながら。
少女の腕が疲れ尽って、振り下ろす激情が止むまで、ずっとずっと見詰め続けた。
『だってバカ弟子だもの。きっとバカなポカすると思ってたわ』
少女のなぜという問いに、彼女の師匠はそう答えた。
そして、夜が明けぬうちにと、少女を抱きかかえ、森の一角まで連れて行った。
「ここが、貴女の姉の死んだ場所。ちょっとしたツテで、聞き込みしてもらったの」
そこは、呆れるほどに食事に適した場所だった。
緑々と茂る森にポッカリと空いた切れ間。
森の休憩地点といえる場所。月明かりが、よく映える。
姉と少女がよく通る道の、すぐ近くだった。
「師匠は知ってたんですね。私の姉が、妖怪に取って代わられてるって」
ぐるりと、回りを見渡した後、少女は自分の師にそう言った。
「言ったでしょ? 貴女、獣臭いって」
ふふ、とフランドールは小さく笑う。
人間一人を殺すには、ずいぶん大仰な贈り物。
全て、お見通しだと言わんばかりであった。
フランドールは、少女に優しげな声色で問うた。
「ね、弟子。一つだけ私に教えて? 姉が妖怪に取って代わられてなくても、いつか貴女は今日という日を迎えられた?」
夜の涼やかな風が、少女の頬を撫でる。
激情は全て吐き出し、熱はすでに引いていた。
少し遠くを見ながら、少女は答えた。
それは、まるで歌のようだった。
「姉さんが殺したくなるほど鬱陶しかったのは間違いないですよ。重荷でした。この人がこの世にいる限り、私は一人の人間として――――二本の足できちっと立てないんだろうなって」
「二人きりの姉妹で、趣味も好きなものも似てるから始末におえない。お優しいお姉さまは、それを見てあれやこれやと口を出す」
「何を始めても先に姉さんがいて、何をやめるにも姉さんが追ってくる」
「次第に、同じでなきゃダメだと言うようになった」
「それが、私はたまらなく嫌だった。私は私で姉さんじゃない。けど、姉さんはもう一人の自分を欲しがった」
そして、歌を終えるように、少女は言った。
「寂しくはなるでしょうけど、ケジメは、絶対につけたでしょうね」
その顔は、今が夜であることを忘れるほどに、晴れやかだった。
「そう」
フランドールは、羨むように頷いた。
「…………ね。師匠」
「ん?」
しばらく無言で佇んだ後、俯いていた少女がポツリと言った。
「墓石とかって、作れませんか?」
その言葉に、フランドールは吸血鬼らしく笑って、少し離れた場所の岩に視線を向け、手のひらを閉じた。
夜明け前の赤き月の不夜城、紅魔館。
その人を馬鹿にしてるとしか思えない赤塗りのエントランスで、姉妹が出会い頭に睨み合っていた。
「……………………………………」
「…………なにかしらフラン?」
普段なら、ばったり廊下で会おうものなら、レミリアが小言を言うか、フランドールが癇癪を起こすかである。
しかし、フランドールが何も言わず、何かをする動作も見せず、レミリアを見るだけ。
レミリアも、その様子に飲まれ、釣られて睨むような形になってしまっていた。
そして、ジッと、本でも読んでいるかのような視線に耐えかね、ついにレミリアが折れたのである。
「私もちゃんと仇くらいは取ってあげるから心配しないでねお姉さま」
「……は?」
そう言って、フランドールはクスクスと笑いながらその場から去った。
フランドールの姉は、訳も分からずその姿を見送り、やっぱり気が触れてるわと呟いた。
昼に特有の気だるさもあっという間に抜け、一日は夕刻に差し掛かろうとしていた。
湿った風が不吉に吹き、穏やかでない天気を予告する。早く家に帰らなければ髪から水滴が滴り落ちることになりかねない。
外での用向きは手短に済ませなければならない。一つ間違えば風邪を引く。
昔、姉からそう言い聞かされた事を、少女は思い返した。
「――――しばらくぶり、姉さん」
自分の立てた姉の墓標の前で、少女は、墓石と視線を合わせるように腰を下ろした。
少女が妖怪を殺し、姉の墓を立て、すでに一週間が過ぎていた。
その間、喰われた姉を正式に死亡扱いにする為の手続きや両親への説明などで、少女は忙しい日々を送っていたのだ。
「一応の近況を報告させてもらうと、姉さんの死んだ後の全ては恙無く処理。父さんは大泣きして母さんは凄く落ち込んでた。姉さんの友達もお別れ会とかしてたよ。良かったね、みんなの心に結構な穴を開けたみたいよ。私? 私は当然――――」
そして、更に言葉を継ごうとして――――苦く笑った。
「いなけりゃいないでホント腹立たしい」
少女は墓石から視線をはずし、自分の両手のひらを広げて見る。
冷やりとした凶器から伝わった熱い血のぬめり。肉を貫いた柔らかくも確かな感触。
行為の後で身体に残ったそれらの記憶は、勲章なのか、傷跡なのか。
一つの命が萎んでいく様を、網膜に焼きつく程に見詰めていたのは、確認だったのか、感傷だったのか。
姉を殺し、悲願を達成したのか。
妖怪をコロし、肉親の仇を討ったのか。
あるいは、振るった刃の数がその答えだったか。
「…………でもまあ、色々すっきりはしたかな」
細く呟き、一度目をつぶって――――少女が身軽そうに腰を上げる。
今日も、あの廃屋できっとフランドールは待っているだろう。
自分が愚痴を零すことはなくなったが、それでも師匠と弟子の関係は解消していない。
いや、これからは全て向こうの都合に合わせられるのだ。より長く、五百年を生きた吸血鬼の薀蓄も聞けるに違いない。
自分の帰りに気を揉む者は、もういないのだから。
ふと視線を上げると、空は灰色で覆われていた。
風が吹く。
空気は水気を増し、冷たい大粒の雨が、今か今かと落ちるのを待っている。
急がなくては、昔に姉が言って聞かせた通り、風邪を引くやも知れぬ。
少女は、人里へ足を向け――――
「…………ふふっ」
――――楽しそうに身体を左右に揺らしながら、水滴の落ちる雲の下を、ゆっくりと、歩き始めた。
夢で包丁を使ったことがありますが、包丁の踵で自分がケガをしました。
愛とは…憎しみとは…
まあフランちゃんはウン百歳の婆さん同士での話だから
複雑ってもんじゃないだろうなあ
逆に年月を重ねた分修復するしないの次元じゃないんだろう
もはやアイデンティティや存在理由に近しい感じになりそう
ありがとうございます
拝見したのが久方ぶりということもあってダークさ加減にも磨きがかかったように思われます
次回作も期待してますね
二重の意味で、参考になります。
雰囲気、いいですよね。憧れます。
文章から、漂ってくるものがあって、しかもそれが作風とマッチしてます。
でも、向上スレでも指摘がある通り、やっぱり「論」というか、下地が抜けてるので、納得はできないんです。
面白いし、雰囲気が良いし、そういうものかという了解はできるのですが。
ただ、文章量がそんなに多くないので、かえって手頃という気もします。
全体として、楽しめました。