朝、目が覚めたら、メッチャ消えていました。(首が)
1
風が鳴って、家にぶつかる音で、目が覚める。何度も、覚醒と微睡みの合間をさまよって、ようよう身体をむっくりと起こす。首がないという気分は、何とも名状しがたいものがある。顔を洗う必要もなく、食事をすることもできない。代理の首を呼び出すにも、なんとも億劫だ。結局、昼過ぎに起きて、夕方過ぎに空腹が身体を動かす、という日々を送っている。
首を飛ばすのは日常茶飯事で、だけど、飛んで行った首がコントロール不能になって戻って来ないのは、初めての経験だった。首がなくなったのは三日ほど前の飲み会の時で、その時も酒に酔って、首を飛ばす芸をやってはしゃいでいて、朝になったらないままで、それからもう三日ほど経つ。一向に首は見つからない。妖怪の私にとって三日というのはそう長い時間ではなくて、ぼうっとしているうちに過ぎてゆく。首がない間は、分身の首を呼び出して使っているけれど、代わりのものを使っても、どうも本調子とは行かず、いつもぼうっとしてしまう。
木箱にも、樽にも、まともな食料と呼べるものもなく、ひとまず落ちていたさつまいもの皮をしゃぶりながら、里へ買い出しにゆくことにする。身代わりの首を呼び出して、何もない首の上に乗っける。どうにも不安定で、みすぼらしい。端からは何も変わらないように見えても、私の中では全然違うのだ。乗っけているだけの首だと、自分の力で押し込むようにしていないといけないし、歩いていると不意に空中に置き去りにしてしまったり、落としてしまったりしそうで、心が安まらない。
それに、何より、首がないと、ものも見えない、何も聞こえない、匂いも嗅げない、独り言も言えない。代理の首を呼び出せばできるけれど、代理の首を常に呼び出しているのは非情に疲れることだから、ついいつもベッドに横たわって、首がないまま過ごしてしまう。
里から離れたところにある私の家を訪れる者もいないことも手伝って、さしあたってそう困っているわけではないけれど、どうもこのまま仮の首を使って気怠いまま過ごすというのも、どうも不便な気がしている。
しかし、そこに至ると、私は困ってしまう。この三日、気力のある日にはうろうろ町をうろついて、一人で首を探してみたけれど、当然のことながら効率が悪い。となると、私は、誰に頼ればよいのだろう? 人間なら色々と相談できるだろうけれど、私は妖怪で、誰の庇護下にも置かれていない。どうすれば良いのかなあ、と私はぼうっと考えている。
妖怪は……というより、人間以外のものは、そうだと思っていたのだけれど、互助の感覚がない。生まれながらの性質というのが、そういう風に傾いている、というよりも、そういう風だから、妖怪になった者が多いのだ。妖怪の中でも、人間から変化した者には、そうした性質だからこそ、というのを強く感じている。妖怪だから、巫女に頼れない、のではなく、巫女に頼りたくなんてないのだ。一人で何でもやる。一人でなんでもやれると思っていたい。
妖怪草の根ネットワーク、なんてものに誘われて入ってはみたものの、わかさぎ姫や今泉影狼以外の妖怪と交流も特になく、時折集まって宴会をしながら近況を言い合う程度の活動しかしていないようだし、そこに顔を出すこともない。互助会という雰囲気でもないし、ただの飲み仲間でサークルだ。半ば馬鹿馬鹿しいとも思う。どうせなら、集まって追いはぎでもする方が、余程妖怪らしい。だけど、そこは妖怪の性で、悪事は皆一人でやる。悪事を連れ立ってやる、妖怪の組合を作る、という事には消極的なのだ。群れるのは人間の性質だ。群れて協力することが、人間の特質だ。
群れれば、一人の悪意で動くことができない。周りの顔色を伺い、悪意と善意を計らなければいけない。他人の悪意に、あるいは善意に、寄り添って働くことほど難しいことはないのだ。そういうのは人間の方が得意だ。群れた悪意は時折正義とかいう言葉で言われる。自分の悪意に、自分一人を付き合わせるのは良くても、自分の悪意に他人を付き合わせるのは、精神的な苦痛だからだ。正しいことだと言い繕いたくもなる。
そういう訳で、私は誰も頼れない。今日も一人、食物を用意するついでに、首を探す手がかりはないかと、里に下りてうろつくことにした。ふらふら、首は定まらず、また気分も良くはない。
私を呼び止めた辻占いの女は、ぼろをまとって顔を隠していて汚く、一見乞食かと思われた。一度、二度と断り、けれどもしつこく、一度占わせてもらえればそれでいいのじゃ、と言いすがる辻占いに私は根負けして、仕方なく辻占いの女に付き合うことにした。女は私を道端の、自分のスペースへと連れて行った。そこには呪文の書かれた棒っきれや、水晶や五芒星が書かれた紙が落ちていて、かと思えば手相を見たりと節操が無く、ますます信憑性は薄れて思えた。
「ふむ……うむ……お主、何やら臭うの……何やら、きな臭いことに関わっておる臭いがのう……」
「きな臭いことぉ? ……そんなの、覚えないけどな」
「うむ。当たるも八卦、当たらぬも八卦……それに、お主が気付いておらずとも、何かに巻き込まれていることも有り得ることであるし。我は気を読むのじゃ。お主の周りに取り巻いておる気が、爽やかならぬものを孕んでおる」
女がそんなことを言い出した時も、私は何を馬鹿なことを言っているんだこの女、と小馬鹿にして、真っ当に付き合うことをしなかった。はいはいそうですね、と思いながら、次に何を言い出すのかと女の言葉を待っていると、女はぼろの下から私を見上げた。女の前髪と目がちらりと見えた。
「……お主、何か、失せ物を探しておるな。ん……首? お主の生首が見えるぞ。お主、首を探しておるのか?」
どうしてそれを、と言いかけて、私は口をつぐんだ。見知らぬ他人に、平気で飛頭蛮であることを明かしていてはいけない。飛頭蛮としての私のいるべき場所は、夜中の人気のない暗がりであって、昼間の往来ではないのだ。私は恐怖を与える存在でなくてはならない。優位がなければいけない。
「首……おかしなことだ。お主は首を探しておる、我にはそう見えるのだが、お主には首がある。お主、妖怪か? それとも、自分以外の首を探しておるのか? しかし、どういった事情にしろ、お主、奇妙だ。きな臭いことに関わっておる臭いがするのに、自分では知らぬと言い、我のような怪しいものに呼びつけられればふらふらと寄って話を聞き……後ろ暗い臭いはせぬ。奇妙じゃのう……」
「……あまり、詮索はしないで欲しい。あまり、自分のことを話すのは、好きじゃない」
「うむ、それは我もだ。誰にだって、後ろ暗いことの一つや二つはあるものよ。しかし、お主、我の探しておったものかもしれぬ」
「なに?」
女はすっくと立ち上がると、ぼろに手をかけて脱ぎ捨てた。足が悪いわけではなかったのだ。しかも、ぼろの下からは華美な白い服……きらびやかに光る材質はどうやら絹らしい。白い和装に、五色の紐があちこちに結びついている。引っ張り出した烏帽子を銀色の髪の上に載せた姿は、どこかの神官のようだった。
「我は物部布都。実は、隠しておったことだが、我も探し物があるのじゃ。我は異変を探っておる。近頃、里の水路のあたりに、妙な妖怪が出るという噂を聞いてな。そやつは夜道に現れ、何やら『首を返せ』とわめくという……それで、手がかりを探しておったのじゃ。異変を探るには、小さな変化を辿っておれば、自ずと異変の本質が近付いてくるものだ。うむ、我は歴史好きでな。これまでの、幻想郷の異変が起こった経緯と、解決への道程を統計づければ、そういうことになる。それで、手がかりのために、風水で運気の良い場所を調べ、そこで辻占いに化けておったという訳じゃ」
「……はあ」
その、里で首を探している妖怪。そいつが私の首を持っているというのは、いささか飛躍した論理のように思われた。
どう考えても、それは私のような気がしている。私は水路の柳の下で人を脅かすのが好きだ。噂を聞いた、というのは、私の噂じゃないのか。この布都というのは、どこかズレた物の考え方をしているように感じている。
「という訳での。お主の首のことが、この異変と関係と無関係ならば、すぐに解決して仕舞いだ。それまで、ついて行かせて欲しいのじゃ。何、我の特技は風水じゃ。簡単な探し物ならお手の物よ。案外、お主の探している首くらいなら、あっさりと見つけ出すことができるかもしれぬ。頼ってくれて構わんぞ。お主が損をすることはない」
ふん、と私は思った。好きにすればいいさ。それで、もしも何かの間違いで、こいつが首を持ってきてくれれば、それはそれで万々歳だ。その時には首を飛ばして、こいつを脅かして、追い払ってやろう。実に妖怪らしい筋書きではないか。私は私自身の力を発揮できるチャンスに、ほくそえんだ。
その日はそのまま布都と別れた。
2
協力をさせてほしいとかいう布都とかいう女と別れたあと、私は殊更布都と行動を共にするつもりもなかった。だが、次の日、朝起きると家の外で騒いでいる声がして、寝ぼけ眼で出てみると物部布都がいた。
「何、我にしてみれば造作もないことじゃ。それに、一度触れたことのあるものは、なんとなく感覚も通じる。お主は結界に隠れておるわけではないしな」
さ、始めるぞ、と布都は言った。「……何を?」とつい本音で物を言ってしまうと、物部布都は少しむっとしたようだった。
「何をとは言うに事欠いて、お主のことだろうが。お主の首を探すのじゃ。当然」
「あー……」
本気だったのか、と言えば余計に怒る気がした。他人と協力するのは得意ではないし、何より隠しておきたいことが多い。一人でのんびり探すつもりだったけれど、家は知られているし、私がそのつもりではなくても、こいつはまた付きまとうだろう。
「分かった、分かった。準備をしてくるから、ちょっと待っててよ」
「うむ、そう来なくてはな。どうも、お主が異変とは無関係とは思えん。もし我の考えが外れていて、異変がすぐに解決すればそれまでの話であるしな。うむ、準備をしてくるがよいぞ」
私は布都を待たせておいて、家に戻った。部屋に戻って、油断するとすぐに首は落ちてしまいそうだった。パジャマを脱いで、ズボンに替え、上着にパーカーを羽織って、顔を隠す為にフードを被った。夜ならばお気に入りのマントに内着もこだわり、赤いルージュを引いて化粧にも気を遣って、派手に見せつけるけれど、昼ならばむしろ目立たない格好のほうが良い。私はすぐに準備を終えて、外に出た。布都はそこらの草むらで捕まえたらしいかまきりを手の甲に歩かせて遊んでいた。私に気付くと、柔らかく手を振って、かまきりを羽ばたかせて放した。
「おう、準備ができたか。ではゆくぞ」
「ああ、仕方ないね」
それで、私と布都は連れ合って、里への道を歩いていた。
「昨夜も出たらしい」
「何が?」
「妖怪首探しじゃ。これから、我が探しておる、首を探しておる妖怪のことを、『妖怪首探し』と呼ぶ。よいか。昨日の夜も出たのじゃ。里の人間が襲われた」
「どうなったんだ? 死んだのか?」
「いいや。驚かされて、転んで、首を捻ってむちうちになっただけだということじゃ。ともかく、首を返せと叫ぶ妖怪は出た。被害者だけではなく、声を聞いた者は何人もおる。それで、里の自警団が呼ばれたが、その頃にはもう首探しはいなかったということじゃ」
「しかし、私は昨日、家から出ていないぞ」
「うむ。我も妖怪が出たという場所へ行ってみたが、お主の感じはしなかった。昨日も言ったが、我は人の感覚を読み取る。あらゆるものには属性があり、当然人にもある。お主にはお主の属性がある。その地にお主の感じは読み取れなかった」
「それも風水とやら? 便利だね」
「うむ」
そう呟くと、唐突に布都は私の後ろへと回り込み、首をすぽんと抜き取った。不意を突かれたのと、仮の首はきちんと首に収まっているわけではないのとで、首はあっさりと布都の腕の中に収まった。
「な、何をするんだ」
頭から離れた首は、途端に表情を失った。代理の首には表情がない。作ろうと思えば作れるけれど、どうしても感情から一呼吸遅れた顔になるし、私が作ろうとした顔で、自然に現れた表情とはどこか違う。自然な表情が出せるのは、オリジナルの首だけだ。
布都は私の首を抱いて、瞼に指を触れ、瞳を閉じさせた。言葉を出すと、口だけが動いた。
「お主、やはり妖怪であったか」
「どうして分かった」
「ここは妖怪がいやというほどおるからな。力の弱い妖怪なら人の中に紛れてしまうが、それでも、観察しておれば分かる。妖怪とは限らんが、人間とは違う、とは思っておった」
こうなっては、隠し立てするわけにもいかなくなった。一蓮托生だ。どうしようもなくなったら、実力行使をするか、逃げ出すしかない。私は腹をくくった。
「ああ、そうさ。私は飛頭蛮という妖怪でね、知っているかい」
「いや、我のいた時代にはいなかった。それに、こちらに来てからも知らぬ。だが、こちらで見た、古い文献には載っておった。名前だけは知っておる」
「日本ではろくろっ首とも言う。首が離れる妖怪さ」
「ふん、それで、首を探しておるのか。首とは、お主が人間だった頃の首のことか? それとも、何か別の首があるのか?」
「………………」
「話したくないなら、それもいい。我はお主の首を探しながら、妖怪首探しを退治するだけのことよ」
首を探している、ということは、そもそも話したくないことだった。それが本物であるかとか、あまり深く触られたい部分はないのだ。首が失われる、ということは、命が消える、意識が消える、死んでしまう、ということで、私は首が失われたことを、死ということを、考えたくないのだ。
「ふん。首か。……今では、首が道端に落ちておることも、ないのだろうのう。我は貴族暮らしだったから、実際に見たことはない。だが、処刑の時には首を落とすことは知っておる。それに、戦に行けば、いやでも死体を見ることもな」
「幻想郷には斬首はない」
「法も処罰もないからのう」
「ちょっとした私刑は行われているようだけどね」
「私刑も処罰も同じよ。国は民衆に支持されて成り立っておるのだから、手を下すのを国にやらせておるだけのことじゃ」
私はいい加減頭を返しな、と布都の腕から乱暴に頭を奪い返し、首に据えた。それで、なんとか、顔は表情を取り戻し、私にも視界が、音が、空気の感じが帰ってきた。
それで、と布都は言葉を繋いだ。
「お主は首を探しておる。ならば、妖怪首探しは別にいるということじゃ。他に、首の取れる妖怪はいるのかもしれぬ。お主に仲間はいるのか? 同じ種類の妖怪は?」
「いない。少なくとも、私は知らないね。もっとも、私のような妖怪は群れないんだ。首が自由に取れる他は、人間と同じ姿をしている。だから、人間の間に潜む」
「うむ。占いをして探っておった間も、怪しい者がいれば探ってみたが、お主のような者はいなかった。変なのは沢山見つかったがな。山に住んでる巫女とか、寺の女狸とか」
「ここは変じゃない奴のほうが珍しいさ」
「うむ。我のような真っ当な者は肩身が狭い。ここには未知の力が渦巻いておる。未知の力を学ぶのはよいが、それに身を捧げてしまったり、飲まれてしまったりしては、本末転倒じゃ。妖怪達を悪く言うわけではないが、自分達の力を自覚しないままに使っていては、決して良い方向には行かぬ。ま、太子様に任せておけば、良くしてくれることだろう」
「お前、随分その太子様とかいうのを買っているんだな」
「当然じゃ。我は太子様になら命を捧げても全く惜しくないと思っておるよ」
さて、と布都は呟き、立ち止まった。町中の家の前だった。
「まずはここから聞き込みじゃ」
門の脇には『自警団本部』と書かれた札がかかっていた。
里には自警団があり、里の若者が集まっている。獣避けの柵を作ったり、ちょっとした困り事があれば、出来る範囲で福祉行為を行う。その中には、今回のように、妖怪から里の人間を守ることも含まれる。
そんな自警団の本部に入ってゆくなんて、私にはできない。何しろ妖怪だ。すわ喧嘩にでも来たのかと殴り合いになったら外に出にくくなる。ただでさえ人と妖怪の顔を使い分けているというのに。せちがらい。
それで、布都が一人で入ってゆくことになった。私は土塀に背中を預けて、しゃがんで待っていた。暖かいさわやかな風が吹いた。土塀と地面の間に雑草が生えていて、こめつき虫が草の下で動いていた。触れるたび、ぴよんと跳ねる。そうやって時間を潰してるうちに布都が出て来た。出て来た布都は、ぷりぷり怒っていた。
「変に構うな、だと。あの半妖の娘。我を誰だと思っておるか」
「何怒ってんの」
「情報を仕入れようと思ったのだが、慧音とかいうのが仕切っておってな、我も時折里で興業を行う身分であるからして、顔見知りの娘じゃ。そやつが言うには、危ないし、変に町中で暴れられても困るから、手を出すな、夜中に出歩くな、だとよ」
「まあ、真っ当な指示じゃないの。真っ当な人間にはそういうのが当たり前だと思うけど」
「うむ。我だけを特別扱いするのは異な事であるし、他の人間と同じように扱うのは分かる。あやつなら博麗の巫女にさえ特別扱いはせんだろうな。だが、あの居丈高な態度が許せん。我はあやつより古くから生きておるのであるぞ。ええい。言っていることが真っ当だとは思えても腹は立つ」
「じゃあ、情報はなし?」
「大した情報はない。どうやら人型であることと、力が強く、素早い動きをしておるということくらいじゃ。もっと情報があるはずなのに、何も教えやせん。悔しいのじゃ」
悔しい、と布都はだんだん足音高く先へと歩いたが、私にはふうん、くらいにしか思えなかった。
「そもそもさ、妖怪首探しのことに、どうして私が付き合わなくちゃいけないのさ。そもそも私の首を探すのに、あんたと付き合うのも微妙に嫌なんだけど」
「我とお主の目的は非情に近しい。故に、効率の面から言っても、一緒に動くのが望ましい。それに、お主が首探しである可能性も捨てきれん」
「見張りじゃないか……」
「それは否定せん。お主が妖怪首探しであるならば、我は自らの不明を恥じねばならんがな。それに、首探しを探すと同時に、お主に近い気を持つ物を探しておる。我が全く役に立たないとは、まだ言い切れんぞ。まあ、今のところ反応はないがな」
ふん、と私は言った。今のところは役立たずだがな。
「それで、どうすんの」
「次は神社じゃ。あの巫女がどう動いておるのか、様子を探る」
神社か、と思った。神社の巫女は顔見知りだ。だけど、人間のふりをしてる時に出会うのは微妙に嫌な気分もする。『あんた、普段はそんな格好してんの。へー。ふーん』とか言われてじろじろ見られて、次から里で出会うと色々面倒なことになりそうだ。
「あの巫女は信用ならん。もしも一番の悪党がおるとしたら、あの巫女じゃ。実質的に里を支配しておるのに、何もしてないよ、という顔をしておる。人の上に立っておるのに、そんな顔をしている奴は信用できん。人間としては気さくな良い奴だが、だからこそ信用できん。外面の良い奴に良い奴はおらん」
「そうかな。あいつはただの俗物だよ。むしろ、後ろ側にいるやつが厄介なのさ」
「お主、知っておるのか」
「知らないさ。ただ、妖怪だから、分かるような感じはするのさ。あいつが真っ当な人間だってことと、その後ろ側に気配みたいなものがいることは。妖怪は強ければ強いほど、人前に姿は現さない。姿を現さなくても、力を示すことができるからね。むしろ、姿を現さない方が良い」
八雲紫、という名前だけは知っている。強い存在感も知っている。実際に見たこともないし、本当にいるのかどうかは分からない。でも、いるのだろう。妖怪どうしだからか、なんとなく分かる。……だけど、霊夢とその背後が黒幕だったとして、私の首を奪う程度の、里で妖怪を暴れさせる程度の悪行をするだろうか? 私にはそう思えない。
「難しく考えることはないと思うな。あの巫女はただの俗物だ。異変には関係ないと思うよ。あの巫女が動いていないということは、異変としてさえ認識してないってことだ」
「俗物な。一片の悪意もなく、ただ善いというだけで認められておるのだとしたら、我にはとても信じられん。まあ、お主の言うことは容れてやる。異変として認識していないかもしれん、ということはな。だが、それはそれで怠慢じゃ。一言言ってやる。ついて来い」
結果から言うと、私の言った通りだった。布都は一人で神社への石段を登っていった。私は巫女の前に顔を出すのが嫌だったので、さっきと同じように、外で待っていた。神社へ続く階段の下で、草笛を作って遊んでいた。しばらくして、生傷をいくつか作った布都が階段を転がって落ちてきた。
何も知らない、異変なんて起こってない、と言われて、追い返されたらしい。それで、怠慢だと言い争いになって、何発かいいのを貰ったらしい。調査に来て喧嘩して帰るって、それじゃ敵を増やすばかりだろうに。アホだ。
とは言え、この布都とかいうのは喧嘩をしても、喧嘩を売って回っている感じではなくて、本当に素なのだ、という感じが伝わってはくる。悪い奴ではなく、結果として視野が狭く喧嘩になったりする。喧嘩しても、恨まれはしないタイプだ。
私の方でも、連れ回されて迷惑だな、という感じはしているものの、他人のために首を探すなんて、そんな無駄な労力を掛けてくれる奴は、私の周りにはいない。だから、首がなくて何となくだるい今では、正直助かる。こいつは単純に、異変があるならそれを除くことが、太子様とやらの為になると思っているだけなのだろう。
私は里の薬屋に寄って、店先で布都の治療をしてやることにした。薬草を潰した汁を薄めて傷に塗りつけ、包帯を巻いてやりながら、雑談をした。
「あんたさ、昔からトラブル多くなかった?」
「うむ。よく聞いてくれた。そもそも我の周りには敵が多くてな。寺を焼かねばならなかったこともあるし、仏教の連中が尼僧を利用して民衆を騙くらかそうとしておる時には、いっそ尼僧を罰してやれば、仏教の連中は二度と尼僧を使えませぬ、と進言したこともあった。尼僧は尼僧で利用されておるのだから、そこから抜け出させてやれて、一石二鳥じゃ。ま、それは良いとして、色々と考えの違う連中とぶつかることはあったのう」
「正直、宗教とかあんまり興味ない層からしたらドン引きだと思う」
割と本物のアホだった。それもせっかちな性質をしているようで、私が薬屋から借りた道具を片付けないうちから立ち上がって、すぐさま歩き出した。
「さて、行くかのう」
「行くってどこにさ」
「また調査をせねばならん。今度は一度現場に戻ってみよう。里に流れておる水路じゃ」
私は慌ただしく道具を薬屋に返して、布都の後を走っておいかけなければならなかった。
水路は石を積み上げて作られたもので、割と堅牢だった。幅は3メートルほど。上水と下水に分かれていて、こちらは上水だ。水も綺麗だ。川沿いには、柳の木が埋められている。
私はよく知っている。人間を脅かす時にはよく使う場所だ。布都に知られたから、今度から微妙に使いにくい。ふむ、と頷きながら、布都は何か考えているらしい。
「おい、何度か来たんじゃないのか? 何度も来たって仕方ないんじゃないのか」
「うむ。だが、繰り返して来ると分かることもあるものじゃ。ところで、お主こそ何か分からんか。妖怪首探しがお主と何か関係があるのなら、お主に分かっても不思議ではないだろう」
「分からないよ。ただの水路に見える。しかし、この辺りで出るのなら、この辺りで張っていたらいいんじゃないか? 布都、お前、しないのか」
「夜は寝ることにしておるのじゃ。健康な生活を送らなければ仙人にはなれん。健康を保って長寿を目指さねばならんし、不健康であれば死神が襲ってきても対処できん。それより、きなくさい匂いがするぞ」
ああん、と思って振り返ると、そこには、布都を真っ直ぐに睨み付けている妖怪がいた。雲の妖怪と、雲を纏う女の妖怪だ。
「あんたら、一体、何やってんの」
「これは寺の。一輪とか言ったか。お主こそ何をやっておるのじゃ。妖怪が出ると噂のところで」
にわかに不穏な空気が漂った。世論に疎い私でも、仏教と道教が信徒を求めて宗教戦争をやってることは知っている。それで、どうやら、あの人間と妖怪は、里の外れにある妖怪寺の信徒であるようだった。
「教える義理もないが、ふん、まあ教えてやってもいいわ。近頃、ここで妖怪が出るのは知ってるみたいだし。そいつが里の人間に手出ししないように見張ってるのさ。ただでさえ私らは妖怪で、里の人間に警戒されてるってのに、このうえ里の中で妖怪が人間に手を出したら、たまったもんじゃない。私達は私達がやってないって証明の為にも、その妖怪を捕まえて突き出さなきゃいけない。で、あんた達は何。あんたの仕業じゃあないんでしょうね」
「この我を妖怪扱いするとはのう。お主、ここいらで以前の宗教戦争の決着を付けても良いのじゃぞ。まあ良い。観衆の前で叩きのめされては立つ瀬がないだろうから、今は見逃してやる。我らも目的は同じじゃ。その妖怪を我は仮に『妖怪首探し』と名付けた。首を探しておるからな」
「安直なネーミングだ」
「やかましい。ともかく、我は我でその調査をしておるのじゃ。そんな妖怪がおっては里の連中は平穏に暮らせんからのう」
「そんなことを言って、それで信仰を集める口実にしているんだろう。汚い奴だ」
「お主らだって同じだろうが。里の人間を守るだの、そんなものは上っ面だ。その実は妖怪を里に送り込んで、人間を妖怪の下に置いてしまおうとでもしておるのだろう」
「何を!」「何おう!」
相手の言うことに反論するたびに、布都と一輪とか呼ばれた女の妖怪は、一歩ずつ相手に詰め寄ってゆき、遂には額を付き合わせて睨み合う形になった。額を付き合わせているうちに一輪の頬被りはずれにずれ、布都の烏帽子は地面に落ちた。今にも掴み合いが始まりそうだったが、まあまあ、まあまあ、と、私と、雲の妖怪とで布都と一輪とを引きはがして、何とか落ち着かせようとした。布都も、一輪とかいう妖怪も、血の気は短い方みたいだった。
「とにかく、あんた、覚えておきなさいよ。もしあんたが里で何かしようってんなら、この雲居一輪が黙っちゃあいないからね」
「それはこっちの台詞じゃ。妖怪首探しがお主の友達でないことを祈っておるんだな! そもそもお主、自警団に許可は取ったのか? 人間どもは良い気じゃないと思うがの。事件のあったところで妖怪がたむろしておるというのは!」
「何を!」「何おう!」「まあまあまあまあ」
私と雲の妖怪は必死になだめた。
「ところで、そいつは何者だ? 知らない奴だな」
「お主には関係ないわい。とっとと去れ」
「お前らが去るんだよ。私らは見張ってるんだから」
ふん、と布都は烏帽子を拾って、膝でぱんぱんと拾い、振り向きもせずに一輪から離れて行った。通りを曲がって、更に一つ向こうの通りまで真っ直ぐ歩いてから、布都は烏帽子を地面に叩き付けてキレた。
「ああくそ! 悔しいのじゃ。あやつらが出張って来おるとは」
「何を怒ってるのよ」
「怒らずにおれようか! これは由々しき問題じゃ。あやつらがもし妖怪首探しを取り押さえるようなことがあれば、寺の人気はうなぎ登りじゃ。くう。そんなことを許しておけようか」
ぶつぶつと文句を言いながら、布都は唇に指を当てて考え込んだ。
「だが、あやつらの口ぶりからすれば、どうやら自警団に許可は取っておらんようじゃ。我らも手を打たねばならん。くう、後手に回るのが悔しいのう。ともかく、太子様に報告じゃ。こうなれば、我一人では手に負えん」
「ああそう。じゃ、今日はこれで調査は終わりね。お疲れ様。ああ、疲れた。帰らせてもらうわよ」
「ちょっと待てい」
「何よう」
布都に腕を掴まれた。痛い。いい加減疲れたから帰ろうと思ったのに。首を出しっぱなしだと消耗が強い。偽物をずっと使うのは疲れるのだ。
「お主も来い。お主にも協力してもらうのだ。太子様と繋がりを持っておくと何かと便利じゃ」
「便利なのはあんただけでしょ。私に得なんて何もない。協力してもらうって何よ。やーめーろー」
「ええい暴れるんじゃない。いいから来るんじゃ」
うわあやめろうと足掻いてみても無駄だった。人間のくせに自然の内から力を引っ張ってくる布都の力は強かった。穴に風が吹き込むように吸い込まれて、どこかに引き込まれたかと思うと、私は道場へと連れ込まれていた。
3
道場は不思議な感覚に満ちていた。世間とは少しずれた感じがする。屋根瓦も、欄間の飾りも中華風で、建築者の趣味が見て取れた。ずれた感じがするのは建築趣味の、エスニックな雰囲気のためじゃない。結界が張られているようだった。俗世とここを隔てるための感覚。それに混じって、何か別の気配も感じたが、結界のせいではっきりとしなかった。疲れのせいかもしれなかった。
太子様、太子様、と布都が喚いているのを、私は遠くに感じている。私がいるのは中庭のようだった。飛び石に混じって植え込みがあった。幻想郷は晴れていたはずなのに、ここでは空は灰色だった。
「太子様、ええい、屠自古! 屠自古もおらんのか。どこへ行っておるのじゃ」
「どうしました、物部様」
布都の声に応えて中庭に降りてきたのは、全体的に青い女性だった。青いワンピースの上に青い羽衣を羽織っている。格好も化粧も気楽なものしかしていないのに、どこか隙のない印象があった。
「おお、青娥殿。屠自古はどこにおるのじゃ」
「蘇我様なら裏で薪割りをやっていますよ。うちの芳香に任せておけば、と申し上げたのですが、蘇我様は『芳香がやると薪が減る。どうせ食べてるんだろう』と不満げでして……ふわらんふわらんと一度打つたびに反動で跳ね上がって、見てて危なっかしいし切ないのですけれども……」
「ええい役に立たん」
「そちらの方は」
青い女性が私を見る。どうも、と頭を下げる。その女性の前に立つと、私は何だか自分が恥ずかしくなった。私は格好も目立たないように普段着だし、自分が見窄らしく思えた。目の前の女性はあまりにも隙がなく、それと比べたら、自分はいかにも隙だらけのように思えた。「こちらは客人だ。屠自古がおらんならこの際お主でもよい。客間に通して茶でも出してくれんか。我は太子様と話をしてくる」
「あら。そうでしたか。初めまして、霍青娥と申します」
女性が笑顔で礼をする。慌てて頭を下げて、言葉を返す。「赤蛮奇です」どうも、強くは出られなかった。こちらは何の準備もしていない。もっと妖怪然としていればそうした劣等感は持たなかったはずだ。人間のふりをしているからどうしても立場が低くなる。妖怪として現れればもっと尊大に振る舞えるのに。そこまで考えてから、素直に本名をさらけ出してしまったことを後悔した。
「蛮奇さん。これからよろしくお願いしますね」
ふわり、と霍青娥は笑った。自然な、人柄の良い笑顔で、ああ良い人そうだな、と私は思った。
客間に通した青娥さんは、お菓子とお茶を出すと退席した。特別話すこともないし、そうしてくれるだけでも良い待遇なのだろう。私はしばらくぼうっとしていた。一日歩き回っていた疲れが身体の内側に溜まっている。
長い時間、私は放り出されていた。布都も私を忘れてしまったみたいだった。なのに、ここはまるで桃源郷のように、時間の経過を感じさせなかった。窓にまで華麗な飾りがついている。窓枠を見ていると、風が背中の方……庭から吹き抜けて、窓の方へ抜けていった。私は風に誘われて庭先に降りた。
「おや。どちら様ですか」
私の姿を認めて、誰かが庭先に降りてきた。私はその姿に見覚えがあった。新聞で見た顔だ。名前は何と言ったか忘れたが、ごてごてした装飾過剰の名前の、道教の親分だ。布都が太子様太子様と呼ぶのは、この人のことだろう。確かに、意味もなくひれ伏したくなる気分も分かる。金色の光が差し込むような風情があった。
「布都に連れてこられて」
「ふむ。ふむ。……なかなか、変わったお方ですね。ふむう。うん」
「ええと?」太子様という人が妙なことを言い出したので、私は惑った。名乗るべきかな、赤蛮奇と名乗るのはどうだ、ごまかすべきか、と悩みながら、何を言うべきか迷った。
「言わなくても分かります。私には全て分かります。あなたの内側に満ちている声は、私にも届きますから。ええと。赤蛮奇さん、というのですか。変わったお名前ですね。ううん。ううん。ええ、ああ、まずは名乗りましょうか。私は豊聡耳神子といいます。変わった名前でしょう。よく言われます」
「ええと??」
妙だった。人から崇められている人は、端から見れば、ちょっとずれたところがあるものなのだろうか? 名前を言い当てたことといい、やっぱりちょっと特別なところがあるようだけど。ずれている、というか、情緒不安定に見えた。口元を勺で隠しているけれど、視線はあっちに行ったりこっちに行ったり、せわしない。
「ううん、ええ、はい。ごほんごほん。ちょっと待って下さい。……よし。よし。まとまりました。あなた、お悩みがあるようですね」
「ええ。ええと。まあ、はい」
「私は人の本質を見ます。人が求めている『声』が私には届きます。かつても今も、これからも……人々の望みが私には届きます。あなたは、首を探しているのですね。妖怪、飛頭蛮、ろくろっ首。首を失っているのですね」
「ええ、まあ」どうにも、思いは伝わってしまうようだ。最早隠し立てしても仕方ないことだ。私は諦めた。どのみち、あの布都が何もかも報告することだろうし。いま、ただ首が帰ってきて欲しい。それは確かに私の一番の願いだ。疲れてるから、今すぐ帰りたいこととツートップ。
「ええ。私には何でも分かります。私は、あなたの悩みに、直接答えてあげることはできませんが、困ったことがあったら、またいつでも来て下さい。あなたの豊聡耳神子が何でもお悩みに答えますから。ええ。私に頼って下さい、何でも。もし里などで困ったことがあれば豊聡耳神子の名前を出して下さい。ええ」
「ええと?」やっぱりちょっと変わっていた。そんなに恩を着せて、どういうつもりだろう?
「太子様?」青娥の声がした。「うひい!」神子さんはびっくりして飛び上がった。
「びっくりさせないで下さいよ。何です、青娥」
「どちらに行ってらしたのです? 物部様がお探しで、部屋で待たれておいでですよ」
「ちょっとお寺に、聖と話にね。今度のデートはどこに行くか……そんなことは良いんです。何を言わせるんですか」
「聞いてませんけど。太子様、ちょっと変ですわ」
「いつも通りです。ともかく。布都が待っているんですね。分かりました。ええと、蛮奇さん。布都を待っているんでしょう? 布都はきっと、あなたを私に紹介するつもりだったのでしょう。私から布都に伝えておきます。待たされて迷惑だったでしょう。布都には言っておきますから」
「ええと、じゃあ、帰っても?」
「ええ。構いませんよ。布都には伝えておきましょう。でも、好きなだけゆっくりして下さい。それで、また困ったことがあったら、いつでも言って下さい。助けになりますから」
「それはどうもご親切に。ありがとうございます。正直に言うと、一人の妖怪に過ぎない私に、どうしてそんなに肩入れしてくれるのか、不思議なところではありますけど」
「ええと、うふふ、えへへ、おほんおほん」
やっぱり神子さんは変だった。「太子様、物部様がお待ちですよ」「すぐ行きます。蛮奇さん、それでは」
神子さんがそそくさと去ってしまうと、青娥さんがすすすと歩み寄って、私の側に立った。
「ごめんなさいね。いつもはああじゃないんですけれど」
「ええと……はい。それじゃ、失礼します」
「ええ。いつでも来て下さいね。うちの物部様に連れ回されて疲れたでしょうから、休んで下さいね。それではまた」
青娥に連れられて、私は道場の出口へと送られた。道場を出ると、森に囲まれていて、道もなく、どこへ行けばいいのだろう、と思って振り返ると、そこに道場はなく、里の外れだった。道場への道は結界によって閉ざされている。道場に連れてこられた時のように、唐突に、私は帰されていたのだった。
その夜、夢を見た。夢の中に、私がいた。私は私を見返している。私の姿は、鏡で見るようにはっきり分かる。化粧をしてマントを羽織った、人間を脅かす時の私だ。対象的に、私は、人に紛れる時の、やぼったい格好の私だ。
たぶん、あっちにいるのが、本物の私だ。本物の私、妖怪の私は、あの格好をしている。自分の中に、そういう確信がある。この夢の中では、あっちが本物で、私が偽物だ。意識の有無は関係ない。あっちの私も、ものを考えているだろうか。あっちの私は、私を偽物と見ているだろうか。向こう側の私は刃を握っていた。白光りする日本刀だ。気付けば、私も、もう一人の私も、顔のない人間に囲まれていた。日本刀を握る私の前に、縛られた男が両膝を付いて座っている。私は刑吏だった。
夢の中の私が刃を振るうたび、首が落ちた。念仏もなければ、辞世の句が語られることもない。ただひたすら、死ばかりが転がった。私は恐れた。殺されることでもなく、罪を犯すことへの恐怖でもなく、首を失うことへの根源的な恐怖だった。
生首が私の足下に転がってくる。古い記憶が蘇ってくる。罪の姿と、古い友人の姿。幼い頃見た刑死の姿。人の間で生きてゆくための法律。人のために人が人を殺すこと。『人を殺す奴は』『盗みをする奴は』『生きていても仕方ない奴は』『死んだ方がいい』…………
夢の中の私が、ギロチン台の階段を上ってゆく。一歩ずつ上って、やがて頂点で膝を付き、顔のない刑吏に首を固定される。……私は、刑吏の一人になっていた。罪を犯した者は、罰を受けなければならない。私は首を落とさなければならない。私の首を。……再び、私を根源的な恐怖が襲った。罪を犯した者は、先ず自分を殺す。その後に社会に殺される。
首を失うのは恐ろしいことだ。だが、罪を犯した人間は死ななければならない。人の間では、死ななければならない人がいる。私の意思に関わらず、身体は動き、私の足はギロチン台へと上る。腕はギロチン台を掴んでいる。やがて、刃を落とし、私自身の首を落とす。鮮血が私の身体を濡らしている。私の身体は真赤だ。私の身体は、血で濡れている。
生首を拾い上げようと歩み寄り、膝をつくと、私は両手を後ろに回し、ギロチンの前にひざまづいていた。次に首を切られるのは私の番だった。私の眼前に落ちている、私の生首が瞳を開き、私を見上げた。「首を返せ!」
生首が叫んだ瞬間、私は目覚めた。汗を全身にかいている。相変わらず、首はないままだ。音もなく、光もない。私が首を失い、健全な生活を失ったのは、行くべきところへ行こうとしているのではないか。それが私の定めではないのか。私は決定的な言葉を脳裏に浮かべるのを避けた。私は夢から覚めたばかりで、それをするには怯えていた。
目覚めた私は、どう行けば良いのか分からないにも関わらず、道場へと辿り着いていた。いつでも話したいことがあったら来て下さい、と、神子さんが言っていたのを、心の端に留めていた。
「人を殺したことがありますか」と問いかけると、神子さんは「ええ、まあ」と答えた。私の言葉を端的に捉えるのではなくて、私の意図を察したようだった。私の欲望、求めていることが分かる。あとは、神子さんの洞察力だろう。遠い昔、政治や法令に通じていたと聞いている。
「私は人の上に立つ者ですから、人を殺さねばならないことはありました。と、言うと、悪辣に過ぎる言い方ですね。言い方を変えるならば、私が行った統治のために生き延びた人も居、そのために死んだ者もいる。その多寡に依らず」
「少数を犠牲にすれば、多くが助かると」
「そこまで割り切っていたわけでもありませんが。民は人のためでもあるけれど、民のためにすることが、私や周囲の人々のためにもなる。自分のためにしたわけではありませんが、まず自分を保たねば、貴族の責務も果たせません。民のために尽くすこともできない。そういった側面もありますから、そのために、時は生かし、時には殺しました。私は、私にできる限りの、最善の手段を尽くしただけのこと」
「私は……人を殺めました」
「結果的なものでしょう。私より余程罪は軽いですよ。私は私が何かをすることで、人が生きることも、死ぬことも、分かっていてやりましたから。……こういうと露悪的に過ぎますがね」
私は何も言わなかった。私が何も言わなくても、神子さんは敏感に全てを感じ取っているはずだった。
「それを言うならば、あなたの考え方こそ、露悪的に過ぎる部分があります。極論、罪というものは、それぞれが幸福を求めた末の因果に過ぎません。悪意の有無はあれど、皆、幸福になりたい。そういった思いがある」
「私は自分の幸福のために、他人の家庭を破壊しました。他人の幸福を破壊しました」
「その結果のみを見るならば、あなたは罪人だ。しかし、それらの事柄は、あなたの悪意から出たものではない」
「私は」私の声はかすれた。「……私の幸福のために、他人の不幸を見過ごした」
「皆、そうです」
「ならば、皆、首を斬られるべきではないのか。皆、罪人ではないのか」
神子さんは口を閉ざした。言うべきことを考えているようだった。
「他人の不幸、他人の幸福は、本人が考えるべきこと。あなたが思い悩むことはありません。いいえ、ありえないと言ってもいい。……ですが、皆、因果は自分へ戻ってくるのではないかと思う。……因果応報。だから皆、首を失うことに怯えるのでしょう。首を失う死は、自分一人のものではありえない」
今はいい。今は、と考えても、かつて犯した罪を清めるにはどうすればいい。私にはその方法は分からなかった。目の前の少女を崇める気持ちにすらなっている。神子さんが、道を示してくれさえすれば。
「あなたの心は、永遠にそのままですよ。変質することはありません。だからこそ、あなたは飛頭蛮として生きている。あなたは、あなたの性質を慈しむべきです。あなたの考えるべきことは、あなた自身の幸福のこと。あなたが受ける罪と罰は、因果に任せておきなさい。また、巡ってくることもあるでしょう」
さて、と神子さんは言った。
「では、申し訳ありませんが、私はこれから聖とデート……何を言わせるんですか。何でもないですよ。用事があるので、これで失礼させていただきます」
……神子さんと別れたあと、どうやって、道場から出て、家へ帰り着いたのか、覚えていない。
遠い昔のことだ。
私は遠い昔、処刑を見た。まだ幼い頃、責務もなく、ただ遊び暮らしていた頃。住んでいる村を出て、友達と町に遊びに来て、それを見た。人だかりを擦り抜けて、竹垣で遮られた、その先にあったもの。河原に引き出された罪人たちの頭上に刀がかざされて、やがて刀が落ちると、首もまた落ちる。空と肉を断つ刃は、生と死に明確な一線を引く。罪人たちを見て、町人たちが囁く。『泥棒』『殺人』『放火』……『悪人』……『人のものを盗むような奴は』『人を殺すような奴は』『人に迷惑をかける奴は』……『生きてても仕方ない』『刑を受けて当然』『ざまを見ろ』『いい気味だ』…………生も死も、人が殺される意味も生きる意味も、その二つを分けるものも、幼い私は何も知らなかった。だけど、理解もしないまま、私は、ただ、人が人を殺す、ということが、世の中には存在するのだと、知った。そして、その事実を、人々は受け入れている、ということを。
悪い奴は、首を切られて死ぬ、ということを。
『簡単だよ』と××は私に、旅人からすり盗った小銭を見せつけて言った。××にとっては、盗みは遊びであり、気楽な娯楽だった。
××は幼い私の友達だった。××はよくちょっとした盗みをやった。他人の山に入って釣りをしたり、作物泥棒をしたり……他人に迷惑をかけず、儲けず、自分で満足できる程度に留めておくのが、××の流儀だった。××は同じように盗みをする連中とはつるまなかった。代わりに、盗みや悪いことをするのが嫌いな私と組んでいた。
××は、盗みをすると、その成果をよく私に報告した。
『ばれなきゃ、いいのさ』というのは、誰もが言うけれど、それを言うのは大抵他人に吐き出す時だ。自分の中で延々と繰り返して、それで、耐えきれなくなった時に、自分の口から吐き出すのだろう。隠していることが、皆の前で明かされる時は、首を切られる時だ。だけど、自分の知っている秘密を、吐き出してもいい奴に秘密を明かしたとしても、首を切られることには変わりない。だから、辛いのは、やったことの因果として首を切られることではなく、秘密を抱えているということなのだ。
秘されること、というのは、明かされること、と一組になって運用されるものだ。
それで、××は、同じように盗みをする連中は信用できず、また仲間になることもせずに、善良な市民として、私を信用し、吐き出していたのだろう。一度吐き出されてしまった秘密は、吐き出した者の中で秘密ではなくなるからだ。秘密を持つ苦しみから逃れることができる。
一方私は、吐き出すべき秘密を持たなかった。秘密を持つような生き方をしていれば首を切られる。私が最も恐れていたのは首を切られることだったからだ。幼い頃見た処刑の姿が、今も脳裏に残っている。意味もなく悪行を恐れる気持ち。私は一方で××を蔑みながら、一方で羨んだ。私の家は貧しく、××の家は豊かだったからだ。××が盗みをしていたという理由ではないだろうけれど、なんとなくそういうところに何かがあるのではないかと思う部分もあった。
というのは、盗みとか殺人とか、悪行は蔓延っていて、戦のある荒れた世の中ではそれも珍しくはないことだけど、誰もが首切りを恐れるのなら、悪行は存在しないはずなのに、それでも悪行が蔓延るのは、悪行を行うのが人として当然ではないか、と思う部分があったからだ。その思いは、飢えた時や、辛い時により強くなった。私には、どうも、盗みをしている××は、善良に暮らしている私よりも、心が豊かなように思えた。
そのせいでもないだろう。私が罪を犯したのは、たぶん、私自身の飢えからだ。私の罪に、××は関わりがない。だけど、思い出さずにはいられない。私の罪のせいで、××の家は破滅した。
そして、私は罪を犯した。ただ一つ、たった一つだけ、過ちを犯した。その年はひどい不作で、どこもかしこも飢えていた。それでも私の家は、食えなくなることもなく、時には口に糊することもあったけれど、一家の者が死ぬようなこともなかった。空腹を抱えていた私は、家で母親にねだれば何かをくれることは分かっていたけれど、私一人が我がままを言えば、家に迷惑をかけるのは分かっていた。××が近くの庄屋の庭先から、柿を盗もうと持ちかけられて、私はつい屈しそうになったけれど、人のものを盗んだものは、首を切られるのだ、と思うと、私は一緒には行けなかった。
それで、私はある日、山の中で遊びながら、食べられそうなものを探していた。誰もいないような山の中で、一本の大きな木の中に、腐ってできた大きな虚ろがあるのに気付いた。その中には小さな汚い麻の袋があって、袋の中に、大きな蜜柑が一つと、ごみのような布きれが数枚重なって入っていた。私はそれを取り上げると、周りに誰もいないのを、まず確かめた。
蜜柑は珍しい果物で、西の方で作られているのを知っているだけだった。時々、私の町にも来るけれど、滅多に食べられることなんてなかった。数年前に、家が少し儲けた時、買い与えて貰って、兄弟と分けて食べた。とても美味しかった。あの味を、忘れられそうになかった。蜜柑を見た瞬間から、私は食べたいと思ってしまった。
二つめに私が考えたことは、これは誰のものでもない、ということだった。山に自然に生えているものでもないし、こんなところに誰かが蓄えているものでもないだろう。きっと、ごみに混じって、捨ててしまったのだ……私はそう思った。なら、誰のものでもない。食べてしまっても、誰も気付かないし、誰のものでもない。
気付かれなければ、ないのと同じだ。お天道様が見ている、なんて母さまは言うけれど、お天道様が本当に見ているはずがない。母さまの言っていることも、全てが本当じゃない。お天道様が見ている、というのは、本当は、周りの人が見ているのだ。周りの人が困るからで、それをおおっぴらに言わずに、子供だましに言っているだけなんだ。そこに落ちている蜜柑を拾うことは、魚を釣って食べるように、道端に生えている木苺を摘んで食べるように、ただ自然のものを自分のものにするだけのことなのだ。
それを貪り食らうと、口の中が甘みで満ちた。今年になって始めて味わうほど久々の甘露で、一度の食事でたっぷりと食べられることもなかったから、私の中に充足感が溢れるのも、久しぶりのことだった。
食べ終わったあとに、急速に罪悪感はやってきた。自分の行動、判断は、本当に正しかったのかというものだ。正しかろうと、正しくなかろうと、もう行動は終わっていた。心の奥底で罪悪感を押し殺し、さっきまでの思考を……ただ捨てられたものを拾っただけだという持論を何度も何度も反芻し、私は蜜柑の皮まで全て食べて、ごみくずは元の虚ろの中へと戻しておいた。それだけでは怖いから、私は虚ろの中に土を投げて、虚ろごとすっかり埋めてしまった。それで、木の中には何も見えなくなって、ここで行われた行為も全て、穴の中へと封じられてしまった。そのまま家に帰り、やがて少ない夕食を食べ、次の朝には、再びひもじさがやってきて、充足感が消えていくと共に、私の罪悪感も薄れていった。何かの折にふっと浮かんでくることがあっても、またすぐに消えていった。だけど、残り火のように燻り続けて、完全に消えることはなかった。
ある日、××の父親が捕まって、それっきり帰ってくることはなかった。
庄屋から証文が盗まれた。その日、庄屋の家に出入りしていたのは、庄屋と商売をしていた××の父親だけだった。それで、疑われて、捕まったと噂で聞いた。それで、××も、その家族も離散して、どこかへ行ってしまった。
泥棒が盗んだのは現金と、証文と、それから偶然庄屋が取り寄せていた高等な果実類だということだった。あの日、一つだけ残っていた蜜柑は、食べ残しだったのだ、と私は考えた。だとすれば、ごみのように突っ込まれていた布類の中には証文があったのだ。何かの理由で、盗人があそこに隠して、それっきり捕まってしまったか、何かの理由があって、二度と掘り出されることはなかったのだ……私はそう思った。だけど、誰にも言えなかった。言えるはずもなかった。もう終わったことだ、と繰り返し、それでも誰かが覗いていて、「あいつが埋めたんだ」と告発されるかと思うと、ついには告白してしまいたくなることもあった。だけど、私は自分に言い訳を繰り返した。もう××の家族は離散してしまっている。××の父親も死んでしまったに違いない。もう済んだことだ、私が言っても仕方ない……でも、本当にそうだろうか。例え冤罪でもう処刑が終わってしまっていたとしても、私が告白すれば、ほんの慰めにはなるのではないだろうか。名誉回復が行われ、幕府からいくらかの金が払われるのではないか。どこかへ行ってしまった家族は、安らかに暮らせるのではないか。……私はそう思った。だけど、私は言うことはできなかった。何よりも、私は首を斬られるのが恐ろしかった。証文とは知らなかったとは言え、当時言わなかったことで、私は改めて捕まるのではないか。罪のない者が首を斬られることがあるのに、ほんの少しでも身に覚えのある私は、首を斬られてしまうのではないか。……悪人になって、「死んでもいい奴だ」と、周りの人間に思われてしまうのではないか、それから家族達が悪人の家族だと蔑まれることを思うと、私は私のうちにしまっておくほかはなかった。それでも、心の内で、罪は私を苛んだ。
やがて私は死に、意識は首の飛ぶ妖怪へと変貌していた。斬首への恐れが、私をそうさせたのだ。私はそう信じた。
4
神子さんと会ってから、数日が経つ。私は未だ生き延びていて、気怠い身体を引きずって歩いていた。布都はあれっきり会いに来ることもなかった。妖怪首探しを探しているのだろう……私とは、もう関わりのないことだと、考えたのだろう。
私は死にゆこうとしているのではないかな、と思った。人間を驚かして、財布を落としたりするのを期待することもできない。魚釣りも、獣を狩るのも、気力がない。首がない、力を常に使わなければならない、ということが、ついに体力を奪うようになっていった。
私はあてもなくふらふらと歩いていた。森の外れで、朽ちかけたギロチンを見つけた。幻想郷には、外の世界から、物が流れ着くことがある。そのギロチンは、昨日今日に来たものではなかった。苔むして、緑色をし、留め金は朽ちて今にも崩れ落ちそうだった。
首を探している妖怪、首探しは、一体何者なのだろう。私ではない。だけど、私自身のようだ。首を返せと叫ぶ。私は、私の首を探している……それは、私自身の、本当の首だろうか。首を失うことに対する、私の恐れではないだろうか。そう思うと、首探しは、ますます私ではないかと思えてくるのだった。
「ここにおったのか」
私に声をかけたのは物部布都だった。姿を見るのは久々だ。たかだか数日離れていただけで、私はそう感じている。
「これは何じゃ。古い木の枠にしか思えんが。不思議な形をしておるのう」
「これは首を切る道具さ。西洋の方では、こういう道具が使われてたんだ」
「なんと恐ろしい。誇りさえも奪う醜い道具じゃ。刀で首を斬られるならともかく、武具でさえない。純粋な首切りのための道具とは。なんと恐ろしい」
フランスでは、斬首の苦痛を和らげるためにギロチンが作られた。そういう意味では人道的なのだが。日本でそういうことがないのは、日本では刃の技術水準が高く、切れ味が良かったためか、それとも介錯人の技術が高かったためか。ともあれ、首切りの処刑は、遠い海の向こうでも行われていたことなのだ。海の向こうにも、馬に乗った首のない騎士の妖怪がいる。幽霊とか、怪異とか呼ばれて、向こうでは妖怪と呼ばれることは少ないようだけど。
「なあ、罪と罰って何だと思う。因果とかさ」
「何をいきなり、訳の分からんことを」
私は、私の過去にあったことを話した。幼い私自身が見た斬首のこと、古い友人のこと。私自身の過ちのこと……そういったことを、一つ一つ話した。布都は、神子さんのように、心の襞を一つ一つ撫でるように言葉を掬ってゆくことはできない。だけど、言葉にして繰り返すことが、心地よかった。愚痴を吐き出すように、気持ちよくなるだけの、慰めに過ぎなくても、私は心地よく感じていた。布都が、黙って聞いていてくれるのが心地よかった。
「それは、お主の考えすぎではないか? 全て推測に思えるがのう。たとえその通りだとしても、悪いのは盗人で、おぬしではない。おぬしの考えることではない」
「普通に考えればそうだろうな。でも、私はどこかで怯えているんだ。だから、私はこんな風になったのさ」
私は偽物の首を切り離して、胸に抱いた。
「お主が感じておる罪の意識も、もしかすると、首切りの恐れと繋がっておるだけの、一つの意識でしかないかもしれんぞ。そもそも、お主という妖怪は、首が失われることへの恐れや、頭が大切な部分で、魂が離れるように、首が離れるのではないか、という恐れから生まれたものじゃ。ならば、貴様の罪の意識も、そういったものの一つで、貴様自身が幼い頃を人間として過ごしたと、錯覚しておるに過ぎんのかもしれん。そうだとすれば、それはただの寓話じゃ」
「私の妄想だと言うのか」
「お主のルーツは知らん。人間から飛頭蛮になったのか、それとも生まれた時から飛頭蛮という一族だったのか、それとも闇からふっと生まれてきたのかはな。ただの推測じゃ。お主の過去がお主を飛頭蛮にしたのかもしれぬ。ま、そんなことはどうでもよいではないか。お主はお主として生きるほかはないのだし。罪とか罰とかは、神や仏……うげ、我が仏などという言葉を。だが、人々が仏を敬うこともあろう。ならばたとえ外異であり夷敵であっても我は言うぞ。……腐れ仏達や、この国の尊い神達に、任せておくが良い」
布都はうげぇともう一度言った。そんなにも仏が嫌いなのか。色々あるらしい。
「ま、そんなことは良い。ところでな、お主に頼みがあってきたのじゃ。太子様は『あの方を巻き込まぬように』とおっしゃっていたが、今回は太子様にも秘密のことで、何分人手が足りん。すまぬが頼みたいのだ」
私は一瞬迷った。だが、私は、首が私のものではないか、と疑い始めている。ならば自分のことだ。布都や神子さんにばかり任せていても悪い。
「……ああ、いいよ。私は近頃首がなくて調子が悪い。布都、お前はまだ、私を犯人だと疑っているか?」
「いいや。お主が違うというのなら違うのだろう。嘘をついておるならそれまでじゃ」
「そうか」
「正直に言うとな。お主を占って、首が見えた、というのは嘘じゃ。風水の占いでそんなにはっきりと見えるものか。あれはな、空いておる時間に、かまをかけて周り、犯人らしき者を見つけられぬか、試しておったのよ。お主のような、飛頭蛮の妖怪に行き当たったのは、ただの偶然じゃ。さて、ゆくか」
布都は先に立って歩き始めた。袖に突っ込んであったぐしゃぐしゃの紙を私に投げつけながら、言った。
「道々、ここ数日の情勢を伝えておく。ついに文屋にも捉えられた」
どうやらそれは新聞であるようだった。写真が二枚載っている。里でたむろする人々の写真に写っているのは、寺と道場、それから里の自警団の人々だろう。もう一枚の写真は、真っ黒な風景の中に、手足がうっすら写っている。見出しは『里に跋扈する新種の妖怪?』
「あの文屋め。正体をしっかり掴めば良いものを。カメラには写ったが、鳥目のために正体ははっきりと見えんかったらしい。里には人間ばかりで、首探しの正体をはっきり見たものはおらんようじゃ。妖怪が一人でもおれば夜目が効いて正体を掴めたものを」
「里に妖怪が入り込むのを堂々とは許容できないでしょう」
「太子様が動かれて、寺、それから自警団と共同戦線が張られた。あの一輪とかいうのを引かせることができたのは良いことじゃ。だが、それが裏目に出た部分もある。まあ良い。依然正体は分からんということじゃ」
「里の見張りをしてるだけじゃ効率は悪い。探し回ったりしないの」
「里はかなり詳しく調べたはずじゃ。余程気配を消す技術に優れておるとしても、見つからんということは考えにくい。里にはおらんと見るべきじゃ」
「里だけが幻想郷というわけじゃないだろう」
「当然じゃ。山に森、竹林に湖に地底に……だが、それらの場所は、それぞれのルールがあり、自治のようになっておる。身勝手に異変を起こすような輩は、どうしても目立ち、妖怪や人の噂に上ることは避けられん。正体もすぐさま分かる。我が見るに、どこか結界の中が怪しいと思える。結界は色々とある。神社の中もそうであるし、冥界にも行けぬ。我らが道場もそうじゃ。その中におるならば、我らが見つけられんのも頷ける」
それじゃ、と私は言った。
「じゃあ、どこかの勢力が匿ってるってことじゃないか。どこかの勢力を疑っているのか」
「我はそう見ておる。すぐさま解決もせず、かといってこれといった被害もあるわけでなく、どうもきなくさい。何かが進行しておる匂いがするのじゃ」
布都はかなりのスピードで歩きながら、言葉を重ねた。山へ登り、巨木に触れてその周りをぐるぐると周り、道なき獣道を歩き、小川を渡り……どこへ行こうとしているのか分からなかった。ただ、言葉を発するために歩いているようだった。私は黙ってついていった。
「だが、太子様は妙なことを仰るのじゃ。他の組織を調べましょうか、特にあの寺など怪しい、現地に妖怪まで派遣して、何かを企んでおるに違いない、と言ったのじゃ。だが、太子様は大したことではない、放っておきなさい、と言うのじゃ。あの僧が里に来ていたのは、本人が率先して働いているだけで、聖の意向とは思えない、と。だが、我にはそうは思えん。我の勘というかな。予感でしかないのだが、そもそも問題も無ければ、慧音はあっさりと話をしてくれるだろうし、あんなにぴりぴりとしていないはずじゃ。巫女が動かんことも、巫女が気付かぬままに進行していた異変も、過去にあるのだから、巫女が動かんから異変ではないと言い切れんのじゃ。寺の連中も動いておる。寺の連中がもし解決すれば、しばらく噂になり、寺の評判も上がるであろう。我らが解決しても同じことになる。道場の評判にも関わることなのに、手を出すなとは。実際おかしいことだらけじゃ」
「あんたの上役が起こしてるんじゃないの」
「そうじゃ」
布都は立ち止まり、私を振り返った。
「……考えたくないことだが。だが、道場には得体の知れん奴が一人おる。あやつが何か裏で糸を引いておるのかもしれん」
布都は立ち止まると、歩いてきた道を振り返った。そこには何もなかった。白い靄が、私の後ろに立ちこめていた。そうして、もう一度前を見ると、そこには道場があった。
「道場は結界でどこにでも通じておる。だが、通常の通り道は、結界を抜けたことを悟られる。面倒だが、いつもと違う隠し道を通ってきた。我は太子様を疑ってはおらぬ。だが、何かの事情があって、話してくれていないかもしれぬだけじゃ」
なんと水くさい! と布都は小さく叫び、道場の入り口脇の壁に身体を隠した。
「良いか。お主はそこらを探れ。それで、何か怪しげな会話を見つければ、盗み聞きするのじゃ。いいか、札をいくつか渡しておく。これは、風に乗って飛ばせば、自動で我のところまで飛んでくるようになっておる。何かあれば呼ぶのじゃ。いいな」
布都は言うだけ言ってしまうと、さささっと中へと侵入していった。いきなり何てことをさせるんだ、と思ったけれど、神子さんにも内緒のこととなれば、当然道場の者にも頼れないのだろう。私は頼りにされていることを不思議に面白く思った。それで、道場に入って、廊下を進んでいった。
道場へ入って正面に、中庭への扉がある。そこに数人の仙人見習いの姿がある。だが、彼らは里の噂話をしているばかりで、何か重要な話をしているという風でもなかった。彼らの服装は着物等のラフな格好で、普段着の洋服を着ている私の姿は、彼らに混じってもそう目立つものではないだろう。見つかってはいけないのは、神子さんや青娥さんという人々だ。そして、探すべきも彼女らだ。私は中庭には入らず、廊下を進んだ。
部屋が並んでいて、それらの部屋は大抵空き部屋だった。一室で幽霊女が洗濯物を畳んでいることの他は、人影は見えなかった。
ここの連中の活動パターンは知らない。だから、手当たり次第に探すしかなかった。仙人見習いの人が通れば、怪しまれないように素知らぬふりで歩いた。しかし、成果は上がりそうになかった。青娥さんも神子さんの影も見えなかった。私は少しくたびれて、壁に背を当てて体重を預けた。ふう、と俯いて一息つくと、首を不意に消してしまいそうになった。意識していないと首を出しておけないのは面倒なことだ。私は辺りを確認し、私はうつむいて、頭に意識を集中した。
「こんにちは、蛮奇さん。何かお探し?」
目の前に立っていたのは、青娥さんだった。さっきまで人の気配なんて全くなかったのに。青娥さんは柔和な笑みを浮かべている。青娥さんが近付いてくるほど、私はぼうっとしていたのか、と思った。そんなはずはない。だが、青娥さんが何かの理由で、姿を隠してこっそりと歩み寄ってくるとも思えなかった。
「いや、あの、えと。布都を探しに。少し、お世話になったものだから」
私はとぼけて、やり過ごすことにした。青娥さんを行かせて、あとを尾行してゆこう。そうすれば何かの成果が得られるかもしれない。青娥さんは「物部様なら」と言って、先へ立って歩いてゆこうとした。私は少し慌てた。案内までしてもらわなくてもいいのだ。私はそのまま言った。「いえ、案内は結構です。勝手に探しますから」
しかし、青娥さんは聞こえていないように、私の先に立って歩いて行った。青娥さんを見失っては目的から外れてしまうから、仕方なく追った。布都と合流して、それからあとを尾行しよう。
しかし、私は一瞬不思議に思った。布都さんは出かけて、私の家の近くで私を連れてここに来て、それから隠れて動いているはずなのに、どうして青娥さんは布都の居場所を知っているのだろう? 先に立っている青娥さんが、いくつか廊下を曲がったあと、「あちらに」と手をかざした。私はそっちを見ると、部屋の隅でしゃがみこんでいる布都を見つけた。「ありがとう、青娥さん」私が言葉をかけると、青娥さんの姿は消えていた。「何をしておるのじゃ。こっちに来い」と布都が、小声で私を呼び、手招きした。
「これから式を飛ばすつもりだったのに、良くここが分かったな」
青娥さんに、と言いかけて、布都が言葉を遮った。
「この部屋の中に太子様がおる。青娥も入ってきたぞ。二人っきりならば何かを聞き出す好機じゃ」
布都が何かしたのか、中でぼそぼそと呟いているはずの二人の声が、私達の方にも届いてきた。
「急に呼び立てて申し訳ありません。太子様」
「何ですか、青娥。危急の用とは何です」
「例のことで」
「……道場の者に聞かれてもいけない。部屋に結界を張りなさい」
「先に張っておきましたよ、太子様」
ふむ、と神子様が言い、先を促しました。
「おかしいな。結界など張られていない。青娥め、とぼけておる」
いや、青娥さんは分かっているのだ。私には薄々分かっていた。しかし、神子さんとの密談を私達に聞かせて、どうしようと言うのだろう?
「太子様、これを」
「新聞なら、私も見ましたよ。良くないですね、あまり話が大きくなるのは」
「あくまで里の内での噂にとどめ、幻想郷じゅうに広がる前に決着をつける。その予定でしたね」
「言葉を慎みなさい」
「起こってしまったものは仕方がないではありませんか。芳香が私のコントロール下を離れて暴走してしまったことは。事態がこうなったからには、我々の手で解決してしまうしかありません」
「分かっています。しかし、私のためではありません。私はあくまで、身内の恥を晒さないために動くためのこと。信望云々は、二の次です。噂が広がり過ぎる前に決着をつけなければ」
「つけなければ?」
「聖に嫌われるのがこわい」
「太子様は奇妙な方ですわ。あんな徹頭徹尾、仏教に帰依している暴力僧の方が思い人だなんて」
「あの方は、案外、ああ見えて、仏教に帰依している、なんて簡単な言葉で断じることのできる方ではありませんよ。ま、それはいいとして、いいではありませんか。まさか青娥、あなたもあの方を手込めにしようと? 絶対に手を出さないで下さいよ」
「分かっていますよ。私も殴り殺されるのはごめんですから」
「まったく。……それよりも、芳香のことはどうなのです。未だに貴女の命令を受け付けないのですか」
「現状、命令を受け付ける気配はありません。私の責任とは言え、まさか……芳香が宴会の日に拾ってきた、奇妙な力の感じる生首を、芳香にくっつけたら、そちらに意識を乗っ取られてしまう、だなんて。あれはこないだ家に来た、蛮奇さんのものですね。顔が同じですもの。困りましたね。蛮奇さんが、物部様と行動を共にしていると来ては」
「頭が痛いですね。行動を共にしないように、とは言っておきましたが。……どう対処するべきか。蛮奇さんのためにも、早いうちに芳香から首を取り返して、返さなければ」
「物部様に任せておくにしても、そろそろ、太子様。物部様にも真実を話しておくべきかと」
「そうですね……布都にもそろそろ真実を教えなければいけまぶべら」
布都が乱入して神子さんに殴りかかったのはその辺りだった。話の途中から肩を震わせて「ここは我慢じゃ、青娥の奴がそそのかしておるに違いないのじゃ。太子様がそんな」とぶつぶつ呟いていたが、首と私のことが話題に出た途端に、我慢できなくなったのだった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! まさか聞いているとは。私は青娥に振り回されていただけなんですよう」
「知ってる時点で同罪ではないですか太子様コノヤロウ、太子様でも今は殴りますぞ太子様。この方に迷惑をかけてまで、一体何をしておるのですか」
「やめてください! やめてください!」
どったんばったん。暴れている横で、青娥さんは困った顔をして二人を見ている。
「あらあら、こんにちは。蛮奇さん」
こんな中でも青娥さんは平気で頭を下げてくるものだから、私もつられて「こんにちは」と頭を下げてしまった。呑気に挨拶をしている場合でもない気がする。
「蛮奇さん、ごめんなさいね。こんなことになるなんて、思ってもみなくて」
私の首が、その芳香とかいう者の首についている。さっさと返せ、こっちは困っているんだ、と言っても良いのだろうけれど、どうにもそうとは思えなかった。私の無気力さや、気分の悪さは、首がないことのみに起因するものとは思えなかったからだ。しかし、首は取り返さなければならない。
「申し訳ござらぬ。まさか青娥のみならず、太子様まで片棒を担いでおるとは。この物部布都平身低頭してお詫び申す」
「いや……私は首さえ返してくれれば別に……」
「本当に申し訳ござらぬ。まさか身内に犯人がおったとは」
「本当ですよ。まさか身内の者が計画をご破算にするだなんて」
「もう黙ってろこのクソ太子様屠自古にバラすぞ」
「それだけはご勘弁を」
布都だけじゃなくてなぜか知らないけど神子様まで私の前で土下座を始めた。布都はともかくどうしてか神子さんのような人に土下座をさせているのは何だか申し訳ない気分がして、私はあのあのと戸惑った。
「しかし、太子様。事ここに及んでは、人目に付かぬよう対処するのも、難しい話ですわ。芳香は夜の水路沿いに出る。この上は、人目に触れることも承知の上で、対処するべきかと」
「うむ……しかし……」
「迷っている暇はありませんぞ。対面の問題ではない、困っている者がおるのじゃ。太子様の命令がなくとも、我は行きますぞ」
「待ちなさい、布都。お前が行っては寺の者との諍いになる。しかし……」
「どうでしょう、蛮奇様。蛮奇様ご自身の手で仕留めるというのは」
青娥さんが唐突に私に話を振るので、私はびっくりした。しかし、私は、驚いている自分自身の態度をいけないと思った。巻き込まれたとは言え、私の首のことだ。元はと言えば、自分が管理を失ったことが原因だった。蚊帳の外で、この人達に全てを任せていた自分を、いけないと思った。
「何を言う、青娥。この方は被害者だぞ。我らの手で事を収めないでどうする」
「蛮奇様が適任なのですわ。我々が出て行くのは何かと面倒がある。蛮奇様ならば、普段の顔とは別の顔を持っているようですし、寺や自警団の人々に顔を見られても厄介がない」
ちらり、と青娥さんが私を見る。青娥さんは、何もかも知っているようだった。いや、神子さんも、多分、知っている。私はどちらかというと青娥さんよりも、神子さんの方に畏れを持った。神子さんは、とぼけたように知らぬ顔をして、私を送り出すつもりなのだ。青娥さんに利用されるにしても、それでいいのだ、それが施政者の顔だ、と思った。そしてそういう神子さんを、畏れはしても恨みはしなかった。そういう人だ、それでいいのだ、と不思議に思った。神子さんは私のように小市民ではない。
「蛮奇様自身の意識が、芳香に流れ込んでいるようですから、蛮奇様ならば何かと仕留め易いのではないか、とも思います。どうでしょう、蛮奇様。ご自身の手で決着をつけられては」
青娥さんは、こう持ってきたかったのだ、と思った。青娥さんの狙いが分かっても、青娥さんはどこまでも親しげで、優しく見えた。本当は怖いことなのだろうと思う。笑いながら利用するなんてことは、私にはできない。この人は悪人だ。表面上悪く見えないことが、余計にその思いを強くした。この人には近寄らないようにしよう、と私は決めた。
「やりますよ、青娥さん。元は私の首だから、私が取り返します」
「助かりますわ。その代わり、こちらでできる限りの便宜を図らせていただきます」
「我は納得できませんぞ。これは我らが解決すべきこと」
「布都、青娥の言うとおりになさい。我々が彼女に依頼するのです。身内の恥を始末してもらうために。……蛮奇さん、お礼は充分にさせていただきます。何か困りごとがあれば、道場の者に言いつけてもらっても構いません」
布都は青娥に異論を唱えるが、神子さんがそれを押し止めた。そして、私に向き直り、頭を下げた。それは、さっき土下座した時よりも、余程重く感じられた。
「いや、私は一人が性に合ってるから。私は私の首を取り返すだけですから、それだけでいいんです。私は私の生活が帰って来さえすれば」
私はどこかさっぱりとした気分になった。少なくとも、するべきことがあって、そうするだけの気力がある、というのは嬉しいことだ。私にはするべきことがあって、取り戻すべきものがある。
「決まりましたね。物部様、どうですか、手伝ってさしあげては」
「お主に言われるまでもないわ。……すまぬな。迷惑をかけた。我に手伝えることがあれば何でも言ってくれ」
私はいくつか、考えていることがあった。せっかくならば、久々に人々の前に姿を現すのだから、人々を仰天させたい。
「考えていることがある。折角なら、派手にお披露目したい」
宵の刻。幻想郷に月光が墜ちて、水路の周りは明るく照らされている。路地のあちらこちらに、人の気配が満ちている。人と光が満ちて、真昼のようだ、と私は思った。その人々が、皆、妖怪首探しを求めている。一度、二度、振り払われて失敗している。今度はより強い方法を使って仕留めようとするだろう。だけど、それらの人々を擦り抜けて、彼らの求めているものを、私が奪うのだ。その衝撃の大きさを考えると、心が浮き上がるようだ。
彼らから離れた路地の隙間に潜んでいる私の隣に、布都が佇んでいる。従者のように、寄り添っている。これまで、布都に振り回されて付き従っていた私とは、主従が逆転したかのようだった。私が家にこもり、準備をしている間、あちこちと飛び回って必要なものを揃えてくれたのも布都だった。野生の馬を捕らえ、風の術を使ってギロチンをここまで運び……感謝してもし足りない。私には到底できないことだ。
「その化粧、お主とは思えんな。派手じゃ。見違えたな」
「布都に見る目がないのさ」
私は飛頭蛮として姿を現す時、化粧をすることにしている。普段、人間に紛れる時は地味にしているから、その差異でごまかす意味合いもあるけれど、やはり、飛頭蛮として姿を現す時は、特別だ、という思いがある。唇に真っ赤なルージュを引き、目元を黒く陰影を描く。肌を白く煌めかせ、前髪を撫でつける。化粧をすると、私は妖怪赤蛮奇だ、夜の灯りの下に立つ者だ、という思いが、強くなった。気分の怠さは変わらないが、奇妙に気力に満ちていた。
人々をせっかく驚かせるためには、それなりの用意が必要だ。そのために布都に用意してもらった馬であり、ギロチンである。馬上の人となった私は、そのために物置に押し込んであった鎧まで引っ張り出してきたのだ。鎧を身につけ、マントを羽織り、刃まで身に帯びている。あとは、妖怪首探しと、立派な戦いを演じるだけだ。
「そろそろじゃ。いつも首探しはこのくらいの時間に出るようじゃ。援護は任せておけ。うまくやれよ」
「ああ、ありがとう。布都」
あたりがざわついた。水路の脇道、人気のない……自警団によって、里の人間はうろつかないように規制が敷かれている。夜に、水路脇の道を歩いてくるのは、一人しかいない。首を返せ、首を返せ。声は囁くようにか細いけれど、辺りが静かなせいで、私のところまで響いてきた。両手を前に突き出し、額に呪符が張られていても、その顔は私のものだった。
首探し……いや、私の首がついた芳香の周りを、人々が取り囲む。自警団、寺の者、道場の仙人見習い。彼らに向かって、首探しは囁く。「首を返せ」私は手綱を握り、馬を疾駆させた。蹄の土を蹴る音が響き、人々は私を振り向いた。馬の姿を見ると、轢かれないように避けた。人々の間に道が出来て、私は首探しへと駆け寄った。馬が通ったあと、何が起こったのか分からないなりに、人々は私達を逃がさないように道をふさいで、再び、首探しと私の周りは囲まれた。
私は後ろを振り返り、私を囲む人々を馬上から眺めた。一通り睥睨すると、私は首を消した。どよめきが走る。首がない、首無し騎士だ。あたりの人々の驚きが、活力へと変わって、私の中に満ちた。
視界はない。けれど、首探しの頭に、私の意識がリンクした。視界は、そちらから見えている。私の前に、馬に跨がった私がいる。首探しの私は大きく口を開き、一声吠えた。喚き、馬上の私に向かって、叫んだ。
「首を! 返せェェ!」
轟、と怒声は響き、あたりの空気をびりびりと震わせた。その声は、芳香の意識ではなく、私の意識の内から発せられている。誰か、誰かを恨みたくても恨めなかった、私の声だ。首探しの私は、全身をバネの様に引き絞り、跳躍した。馬上の私が刃を抜き、私の腕を受け止める。芳香の腕は死体のように硬く、刃と爪で打ち合って、金属音を立てた。
振り払い、再び首探しの私が飛びかかり、馬上の私が受け止める。乱暴な私の突撃を、馬上の私は馬を巧みに操って避けた。首探しをはね飛ばし距離を取った後、空中に忽然と現れたギロチンが、馬と首探しの間に落ちてくる。布都のサポートがありがたい。
「首を、ォォ、返せ、エェェェッッ!」
首探しの私が喚く。飛びかかる。馬上の私は刃を振って受け止め、その首根っこを掴む。力任せに抑え付け、人馬一体となってギロチンへ突撃し、首探しの身体を乱暴にギロチンに押しつけた。朽ちた留め具は役に立たない。錆びたギロチンの刃も。ギロチンの台座に飛び降りて足で押さえ付け、私は刃を振り上げた。
瞬間、首が落ちて路上に転がった。
辺りには声もなかった。あまりに唐突に過ぎて、誰もが言葉を失っていた。私はギロチンの上の芳香の身体を馬に乗せた。そして、私は路上に落ちた首を、髪を掴んで持ち上げた。再び飛び上がって馬上に戻ると、ようやく人々が、ひとまず私を捕らえようと、得物を持って、囲みを一歩狭めてきた。
私の首が私の元に戻ってきた。お帰り、私。私は瞳をかっと開き、目の前の人間を睨み付けた。人間が驚き、思わず一歩下がるのが心地よい。
「首を返せ!」
生首の私が叫んだ。人々の間に恐慌が走った……私は恐慌につけこみ、刃を振り上げて馬を走らせ、そのまま通りを曲がって、消えた。あとには月光の落ちる水路に、置いて行かれた人々のみが残っていた。
5
里に現れた妖怪首探しは消えた。神社の巫女が動き出す前にことは終わり、寺の手柄にも、道場の手柄にもならなかった。ただ、赤いマントの首無し妖怪が現れた、その妖怪は赤蛮奇だ、という噂が広がって、赤蛮奇と首無し騎士の話題だけが、幻想郷には残った。
私は道場を訪れていた。噂の渦中にある赤蛮奇が堂々と道場に入っていっても、マントも羽織っておらず、化粧もなく、野暮ったい地味な、ジーンズとパーカーの女を、誰も疑いもしなかった。客室に通されると、まず蘇我屠自古がお茶を運んできて、それから青娥が私の前に訪れた。彼女は新聞を持っていて、私の向かいに座ると、それを開いた。新聞にも、私の名前は出ているようだった。
「大事になる前に決着をつけて頂いて、ありがとうございました。蛮奇さん」
「ああ。何、自分のことだからね。あんたの芳香は大丈夫なのか? 首を落としたが」
「ええ。死体ですから、元の首に挿げ替えて、札を貼り直したら元通りですわ」
めちゃくちゃな女だ、と私は思った。青娥は読んでいた文々。新聞をばさりと折りたたみ、机の上に置いた。
「どうやら、里ではあなたの名前が知れ渡っているようです。しばらく、出にくくなりますね」
「構わないさ。私はただの妖怪だから、わざわざ討伐しようとまではするまい。しばらく姿を隠して、ほとぼりが冷めた頃にまたひっそりと現れることにするよ。このことで、私の存在感は増えたからね。その点については、ありがたいくらいだ」
「妖怪は、人々に忘れられては、存在することができない。……少しは、恩返しになっているならば、嬉しい限りですわ」
ふん、と思った。そんなこと、微塵も感じていないくせに。そもそも、私の名前が出たのは、青娥とは限らないが、道場の誰かの可能性だってあるのだ。……布都ではないだろう、と思った。青娥か、神子さんか。まあ、どうでもいいことだ。一人で生きている限り、何かが起こっても私一人のことだ。私だって死ぬのは怖いから、うまく逃げ隠れするさ。
「それにしても、青娥、お前、どうするつもりだったんだ。いったい何の理由があって、あんなことをしたんだ。それに、お前の力なら、芳香を抑え付けて、命令をすることもできたんじゃないのか」
くすり、と青娥は笑った。
「ある程度分かっていると思いますけれど、私は嘘つきですよ。私が答えたところで、信用できるとお思いですか?」
「いいや」
「でも、望むなら、一応答えてさしあげましょう。あなたの首を芳香につけたのは、単なる興味本位です。それで、芳香の命令系統にあなたの意識が混じって、芳香が暴走したのは本当です。あとは、事態の収拾のために努力した結果として、ああなったというだけですわ」
「ふん」
本当のことだとは思えなかった。けれど、問い詰めたって仕方のないことだ。たぶん、享楽的の一言で済ませてしまえることなのだ。私はそれ以上聞かなかった。
「太子様が、あなたに話があるそうですよ。そのうちに来ると思います」
「ああ。私も、布都に礼を言いに来たのもあるが、神子さんとも話をしておきたかったんだ」
それはそれは、と青娥は言って立ち上がり、すう、と足音も立てず、部屋から出て行った。入れ替わりに神子さんが入ってきた。神子さんは私の前に座って、頭を下げた。
「このたびはご迷惑をおかけしまして」
「いや、元はと言えば私の管理のせいだから」
神子さんは頭を下げたまま、動かなかった。私はいたたまれずに、「頭を上げて下さい」と言った。そう言わざるを得なかった。この人は悪人だ、と思っても、私のような者に頭を下げさせて良い人じゃない、とも思った。この人の中には悪性と聖性が混じり合って存在している。
「なあ、神子さん。前にも話したことだけど、罪って何なんだろうな。あんたのしたことは悪いことかもしれないけれど、それは結果としてこの道場の人のためでもあるし、ひいては幻想郷の人々や妖怪のためかもしれない」
「それが結果として誤った道へ向かうとしても」
神子さんは言葉を発して、顔を上げた。私を真っ直ぐに見る神子さんは、真剣な表情をしていた。
「私は人々の幸福を願っています。そのために何をするべきか、最善の選択を常に選んでいる。……そのつもりです」
神子さんは堂々と、開き直ってみせた。言い訳をしない。この事件のために、私を犠牲にする。そういうことを選んでしまえる人だ。
「分かった、やっぱり、そうだ。私は、あんたとは違う。罪を開き直ることはできない。私は妖怪だとは言え、ひっそりと人の中に紛れる小市民さ。責任を取ることもできないし、誰かのために動くこともしない。あんたは立派だ。罪を重ねても、誰かのためになろうとしてる。ただの人間にできることじゃない」
私は小市民だ。その言葉が、しっくりと来た。私は既に死んだ身で、人間の中には当然交じれず、妖怪の間にも交じらない。罪や罰というものを、極力考えずに生きていたいんだ。
「……あなたに迷惑をかけたことを、忘れはしませんよ。私は罪にまみれていますが、人としての、誇りと恩は知っています。改めて言いますが、何か困ったことがあったら、是非報恩の機会をお与え下さい。言わば、我々はあなたに借りができましたから」
いや、と私は言った。
「何かがあったとして、その時は潔く死ぬだけさ。私は道場の仙人見習い、の赤蛮奇にはなれないし、赤蛮奇の依頼を受けて、道場の者に動いてもらう、ということもできない。どっちにしろ、私の身分をはっきりさせる、なんてことはまっぴらだ。私は一人がいい。心地良いんだ」
首を失って鬱鬱としていたくせに、ちょっと言うことが格好良すぎるんじゃあないか、赤蛮奇。ああ、私。愛おしい私だ。他人を驚かすことのできる、健康な思考を持った私。
「普通に友人として過ごす分には、喜んで付き合わせてもらうよ。あんたらにはあんたらの思惑があって、近づきすぎるのはごめんだけどね。……ところで、布都はいるかい。布都には前に会った時、今日来るとは伝えてあったんだけど」
「そうなのですか? 布都は今日も外に出ていますよ。何やら、新しい考えがあるようで」
なんだそりゃ。だけど、布都らしい、と思った。私が少し、布都に友誼じみたものを感じていても、布都のほうではそうではないらしい、と少し妬みじみたものを考えたが、それは違うな、と思った。あいつはあいつで、必死にやりたいことをやっているんだ。
「それならそれでいいさ。また、酒でも飲もう、と、伝えておいてくれ」
承りました、と神子さんが頭を下げて、私は立ち上がった。私が立ち上がると、客室に巨大な影がのっそりと現れた。寺にいる尼僧だった。顔は見たことがある。「聖さん」と神子さんが慌てたように立ち上がり、「ななな何ですか、今日はいきなりですね」と言った。
「ちょっと、付き合って頂こうと思いまして」「つ、つつつ付き合う? えっえっ、どうしましょう、聖さん、いきなりに過ぎますよ。そんな……」「ええ、里に出る妖怪のことで。先日はついに大立ち回りがあったそうですから。そろそろ、話をしておこうと思いまして」「えっ」「とりあえずお外に。物を壊しては迷惑がかかりますから」「ええー……」
やれやれ、と思った。その妖怪はここにいるのになあ。ともあれ、妖怪首探しはもういないし、私は舞台裏に引っ込むけれど、首探し騒動はまだまだ続きそうで、神子さんの受難もまだまだ続きそうだった。でも、関係ないや。あとは神子さんと聖さんの問題だし、私は大人しく引っ込んでいることにしよう。私は二人を残して、客室を後にした。
道場を出る時、屠自古さんが私に小包を渡してきた。太子様から、と言うので開けてみると、里で流通している貨幣が入っていた。ケチくさくない量だ。……私は考え、有り難くもらっておくことにした。向こうはこれで恩を返したつもりはないだろうし、こちらだって恩を受けたつもりもない。それで、道場を出て、私は帰ることにした。家にでもあるし、元の生活に、でもある。やっと、本当に終わったのだ、という感じがした。
「まあ、そういうことだよ」と、私は言った。舞台は夜の夜雀の屋台、つれ合いは今泉影狼とわかさぎ姫である。私の隣に影狼が座っていて、その向こう側にわかさぎ姫が、長椅子の上に置かれた水張りのたらいに座っている。
家に帰ると、手紙が届いていた。影狼からだった。影狼からだった。『お前の噂が流れているぞ。わかさぎ姫も心配している。とりあえず話が聞きたいから、近いうちに会おう。酒も飲みたい。……今泉影狼』そういうことで、さっそく竹林で影狼と落ち合った私は、わかさぎ姫を連れて、夜の屋台へ来ていた。もうすでに酒も入って、三人ともいい具合に酔いが回っていた。
「色々あったのねえ。まあ、無事で済んで良かったわ」
「ほんとほんと。そう言えば、銀色で烏帽子被った小さい女の子、わざわざ湖まで来て聞き込みをしていたわね。私も聞かれたけど、あ、蛮奇ちゃんだ、って思ったから、知らない、って言っておいたわよ。迷惑かかったら悪いなあって思って」
私は基本的に一人だから、姿を見せないのはそう珍しいことでもない。新聞を見て、心配してくれたのだろう。私は一人だ、と思っていたけれど、必ずしもそうでもないらしい。
「言ったっていいんだよ。そうしたら噂ばっかり広がって、私のことが有名になる」
「有名になっちゃ困るんじゃないの」
「困るけどさ、リターンもあるよ。それに、勢力をあげて一妖怪を討滅していたら、妖怪達から反発をくらう。多少殴られたって、殺されることまではそうないよ」
事実、首無しの妖怪である私を知っている者から、私のことは漏れなかったようだった。寺の者にも、道場の者にも、妖怪達は私の正体を隠していたというわけだ。表立って連れ合わなくても、困った時には互助の感覚が芽生える。事実、目の前にいる夜雀の娘も、話を聞いていても知らん顔をしている。妖怪首探しの事件について、彼女が天狗にたれ込んだりすることはないだろう。私は一人ではないようだった。それに甘えられることが、素直に嬉しい。
「あーあ、蛮奇ちゃんはちょっとした異変を起こせて、羨ましいなあ。私も何か起こそうかしら。空から里に魚とか降らせてみようかしら」
「里の人が喜ぶばっかりで、ちっとも誰も困らないわよ。どうせなら、幻想郷を水の底に沈めるくらいのことはしないと」
わかさぎ姫と影狼が、異変についてきゃいきゃいと意見を交わし合う。やれやれ。そうして、私はほろ酔いの頭で、ああ、ようやく帰ってきたなあ、という感じがしたのだった。
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風が鳴って、家にぶつかる音で、目が覚める。何度も、覚醒と微睡みの合間をさまよって、ようよう身体をむっくりと起こす。首がないという気分は、何とも名状しがたいものがある。顔を洗う必要もなく、食事をすることもできない。代理の首を呼び出すにも、なんとも億劫だ。結局、昼過ぎに起きて、夕方過ぎに空腹が身体を動かす、という日々を送っている。
首を飛ばすのは日常茶飯事で、だけど、飛んで行った首がコントロール不能になって戻って来ないのは、初めての経験だった。首がなくなったのは三日ほど前の飲み会の時で、その時も酒に酔って、首を飛ばす芸をやってはしゃいでいて、朝になったらないままで、それからもう三日ほど経つ。一向に首は見つからない。妖怪の私にとって三日というのはそう長い時間ではなくて、ぼうっとしているうちに過ぎてゆく。首がない間は、分身の首を呼び出して使っているけれど、代わりのものを使っても、どうも本調子とは行かず、いつもぼうっとしてしまう。
木箱にも、樽にも、まともな食料と呼べるものもなく、ひとまず落ちていたさつまいもの皮をしゃぶりながら、里へ買い出しにゆくことにする。身代わりの首を呼び出して、何もない首の上に乗っける。どうにも不安定で、みすぼらしい。端からは何も変わらないように見えても、私の中では全然違うのだ。乗っけているだけの首だと、自分の力で押し込むようにしていないといけないし、歩いていると不意に空中に置き去りにしてしまったり、落としてしまったりしそうで、心が安まらない。
それに、何より、首がないと、ものも見えない、何も聞こえない、匂いも嗅げない、独り言も言えない。代理の首を呼び出せばできるけれど、代理の首を常に呼び出しているのは非情に疲れることだから、ついいつもベッドに横たわって、首がないまま過ごしてしまう。
里から離れたところにある私の家を訪れる者もいないことも手伝って、さしあたってそう困っているわけではないけれど、どうもこのまま仮の首を使って気怠いまま過ごすというのも、どうも不便な気がしている。
しかし、そこに至ると、私は困ってしまう。この三日、気力のある日にはうろうろ町をうろついて、一人で首を探してみたけれど、当然のことながら効率が悪い。となると、私は、誰に頼ればよいのだろう? 人間なら色々と相談できるだろうけれど、私は妖怪で、誰の庇護下にも置かれていない。どうすれば良いのかなあ、と私はぼうっと考えている。
妖怪は……というより、人間以外のものは、そうだと思っていたのだけれど、互助の感覚がない。生まれながらの性質というのが、そういう風に傾いている、というよりも、そういう風だから、妖怪になった者が多いのだ。妖怪の中でも、人間から変化した者には、そうした性質だからこそ、というのを強く感じている。妖怪だから、巫女に頼れない、のではなく、巫女に頼りたくなんてないのだ。一人で何でもやる。一人でなんでもやれると思っていたい。
妖怪草の根ネットワーク、なんてものに誘われて入ってはみたものの、わかさぎ姫や今泉影狼以外の妖怪と交流も特になく、時折集まって宴会をしながら近況を言い合う程度の活動しかしていないようだし、そこに顔を出すこともない。互助会という雰囲気でもないし、ただの飲み仲間でサークルだ。半ば馬鹿馬鹿しいとも思う。どうせなら、集まって追いはぎでもする方が、余程妖怪らしい。だけど、そこは妖怪の性で、悪事は皆一人でやる。悪事を連れ立ってやる、妖怪の組合を作る、という事には消極的なのだ。群れるのは人間の性質だ。群れて協力することが、人間の特質だ。
群れれば、一人の悪意で動くことができない。周りの顔色を伺い、悪意と善意を計らなければいけない。他人の悪意に、あるいは善意に、寄り添って働くことほど難しいことはないのだ。そういうのは人間の方が得意だ。群れた悪意は時折正義とかいう言葉で言われる。自分の悪意に、自分一人を付き合わせるのは良くても、自分の悪意に他人を付き合わせるのは、精神的な苦痛だからだ。正しいことだと言い繕いたくもなる。
そういう訳で、私は誰も頼れない。今日も一人、食物を用意するついでに、首を探す手がかりはないかと、里に下りてうろつくことにした。ふらふら、首は定まらず、また気分も良くはない。
私を呼び止めた辻占いの女は、ぼろをまとって顔を隠していて汚く、一見乞食かと思われた。一度、二度と断り、けれどもしつこく、一度占わせてもらえればそれでいいのじゃ、と言いすがる辻占いに私は根負けして、仕方なく辻占いの女に付き合うことにした。女は私を道端の、自分のスペースへと連れて行った。そこには呪文の書かれた棒っきれや、水晶や五芒星が書かれた紙が落ちていて、かと思えば手相を見たりと節操が無く、ますます信憑性は薄れて思えた。
「ふむ……うむ……お主、何やら臭うの……何やら、きな臭いことに関わっておる臭いがのう……」
「きな臭いことぉ? ……そんなの、覚えないけどな」
「うむ。当たるも八卦、当たらぬも八卦……それに、お主が気付いておらずとも、何かに巻き込まれていることも有り得ることであるし。我は気を読むのじゃ。お主の周りに取り巻いておる気が、爽やかならぬものを孕んでおる」
女がそんなことを言い出した時も、私は何を馬鹿なことを言っているんだこの女、と小馬鹿にして、真っ当に付き合うことをしなかった。はいはいそうですね、と思いながら、次に何を言い出すのかと女の言葉を待っていると、女はぼろの下から私を見上げた。女の前髪と目がちらりと見えた。
「……お主、何か、失せ物を探しておるな。ん……首? お主の生首が見えるぞ。お主、首を探しておるのか?」
どうしてそれを、と言いかけて、私は口をつぐんだ。見知らぬ他人に、平気で飛頭蛮であることを明かしていてはいけない。飛頭蛮としての私のいるべき場所は、夜中の人気のない暗がりであって、昼間の往来ではないのだ。私は恐怖を与える存在でなくてはならない。優位がなければいけない。
「首……おかしなことだ。お主は首を探しておる、我にはそう見えるのだが、お主には首がある。お主、妖怪か? それとも、自分以外の首を探しておるのか? しかし、どういった事情にしろ、お主、奇妙だ。きな臭いことに関わっておる臭いがするのに、自分では知らぬと言い、我のような怪しいものに呼びつけられればふらふらと寄って話を聞き……後ろ暗い臭いはせぬ。奇妙じゃのう……」
「……あまり、詮索はしないで欲しい。あまり、自分のことを話すのは、好きじゃない」
「うむ、それは我もだ。誰にだって、後ろ暗いことの一つや二つはあるものよ。しかし、お主、我の探しておったものかもしれぬ」
「なに?」
女はすっくと立ち上がると、ぼろに手をかけて脱ぎ捨てた。足が悪いわけではなかったのだ。しかも、ぼろの下からは華美な白い服……きらびやかに光る材質はどうやら絹らしい。白い和装に、五色の紐があちこちに結びついている。引っ張り出した烏帽子を銀色の髪の上に載せた姿は、どこかの神官のようだった。
「我は物部布都。実は、隠しておったことだが、我も探し物があるのじゃ。我は異変を探っておる。近頃、里の水路のあたりに、妙な妖怪が出るという噂を聞いてな。そやつは夜道に現れ、何やら『首を返せ』とわめくという……それで、手がかりを探しておったのじゃ。異変を探るには、小さな変化を辿っておれば、自ずと異変の本質が近付いてくるものだ。うむ、我は歴史好きでな。これまでの、幻想郷の異変が起こった経緯と、解決への道程を統計づければ、そういうことになる。それで、手がかりのために、風水で運気の良い場所を調べ、そこで辻占いに化けておったという訳じゃ」
「……はあ」
その、里で首を探している妖怪。そいつが私の首を持っているというのは、いささか飛躍した論理のように思われた。
どう考えても、それは私のような気がしている。私は水路の柳の下で人を脅かすのが好きだ。噂を聞いた、というのは、私の噂じゃないのか。この布都というのは、どこかズレた物の考え方をしているように感じている。
「という訳での。お主の首のことが、この異変と関係と無関係ならば、すぐに解決して仕舞いだ。それまで、ついて行かせて欲しいのじゃ。何、我の特技は風水じゃ。簡単な探し物ならお手の物よ。案外、お主の探している首くらいなら、あっさりと見つけ出すことができるかもしれぬ。頼ってくれて構わんぞ。お主が損をすることはない」
ふん、と私は思った。好きにすればいいさ。それで、もしも何かの間違いで、こいつが首を持ってきてくれれば、それはそれで万々歳だ。その時には首を飛ばして、こいつを脅かして、追い払ってやろう。実に妖怪らしい筋書きではないか。私は私自身の力を発揮できるチャンスに、ほくそえんだ。
その日はそのまま布都と別れた。
2
協力をさせてほしいとかいう布都とかいう女と別れたあと、私は殊更布都と行動を共にするつもりもなかった。だが、次の日、朝起きると家の外で騒いでいる声がして、寝ぼけ眼で出てみると物部布都がいた。
「何、我にしてみれば造作もないことじゃ。それに、一度触れたことのあるものは、なんとなく感覚も通じる。お主は結界に隠れておるわけではないしな」
さ、始めるぞ、と布都は言った。「……何を?」とつい本音で物を言ってしまうと、物部布都は少しむっとしたようだった。
「何をとは言うに事欠いて、お主のことだろうが。お主の首を探すのじゃ。当然」
「あー……」
本気だったのか、と言えば余計に怒る気がした。他人と協力するのは得意ではないし、何より隠しておきたいことが多い。一人でのんびり探すつもりだったけれど、家は知られているし、私がそのつもりではなくても、こいつはまた付きまとうだろう。
「分かった、分かった。準備をしてくるから、ちょっと待っててよ」
「うむ、そう来なくてはな。どうも、お主が異変とは無関係とは思えん。もし我の考えが外れていて、異変がすぐに解決すればそれまでの話であるしな。うむ、準備をしてくるがよいぞ」
私は布都を待たせておいて、家に戻った。部屋に戻って、油断するとすぐに首は落ちてしまいそうだった。パジャマを脱いで、ズボンに替え、上着にパーカーを羽織って、顔を隠す為にフードを被った。夜ならばお気に入りのマントに内着もこだわり、赤いルージュを引いて化粧にも気を遣って、派手に見せつけるけれど、昼ならばむしろ目立たない格好のほうが良い。私はすぐに準備を終えて、外に出た。布都はそこらの草むらで捕まえたらしいかまきりを手の甲に歩かせて遊んでいた。私に気付くと、柔らかく手を振って、かまきりを羽ばたかせて放した。
「おう、準備ができたか。ではゆくぞ」
「ああ、仕方ないね」
それで、私と布都は連れ合って、里への道を歩いていた。
「昨夜も出たらしい」
「何が?」
「妖怪首探しじゃ。これから、我が探しておる、首を探しておる妖怪のことを、『妖怪首探し』と呼ぶ。よいか。昨日の夜も出たのじゃ。里の人間が襲われた」
「どうなったんだ? 死んだのか?」
「いいや。驚かされて、転んで、首を捻ってむちうちになっただけだということじゃ。ともかく、首を返せと叫ぶ妖怪は出た。被害者だけではなく、声を聞いた者は何人もおる。それで、里の自警団が呼ばれたが、その頃にはもう首探しはいなかったということじゃ」
「しかし、私は昨日、家から出ていないぞ」
「うむ。我も妖怪が出たという場所へ行ってみたが、お主の感じはしなかった。昨日も言ったが、我は人の感覚を読み取る。あらゆるものには属性があり、当然人にもある。お主にはお主の属性がある。その地にお主の感じは読み取れなかった」
「それも風水とやら? 便利だね」
「うむ」
そう呟くと、唐突に布都は私の後ろへと回り込み、首をすぽんと抜き取った。不意を突かれたのと、仮の首はきちんと首に収まっているわけではないのとで、首はあっさりと布都の腕の中に収まった。
「な、何をするんだ」
頭から離れた首は、途端に表情を失った。代理の首には表情がない。作ろうと思えば作れるけれど、どうしても感情から一呼吸遅れた顔になるし、私が作ろうとした顔で、自然に現れた表情とはどこか違う。自然な表情が出せるのは、オリジナルの首だけだ。
布都は私の首を抱いて、瞼に指を触れ、瞳を閉じさせた。言葉を出すと、口だけが動いた。
「お主、やはり妖怪であったか」
「どうして分かった」
「ここは妖怪がいやというほどおるからな。力の弱い妖怪なら人の中に紛れてしまうが、それでも、観察しておれば分かる。妖怪とは限らんが、人間とは違う、とは思っておった」
こうなっては、隠し立てするわけにもいかなくなった。一蓮托生だ。どうしようもなくなったら、実力行使をするか、逃げ出すしかない。私は腹をくくった。
「ああ、そうさ。私は飛頭蛮という妖怪でね、知っているかい」
「いや、我のいた時代にはいなかった。それに、こちらに来てからも知らぬ。だが、こちらで見た、古い文献には載っておった。名前だけは知っておる」
「日本ではろくろっ首とも言う。首が離れる妖怪さ」
「ふん、それで、首を探しておるのか。首とは、お主が人間だった頃の首のことか? それとも、何か別の首があるのか?」
「………………」
「話したくないなら、それもいい。我はお主の首を探しながら、妖怪首探しを退治するだけのことよ」
首を探している、ということは、そもそも話したくないことだった。それが本物であるかとか、あまり深く触られたい部分はないのだ。首が失われる、ということは、命が消える、意識が消える、死んでしまう、ということで、私は首が失われたことを、死ということを、考えたくないのだ。
「ふん。首か。……今では、首が道端に落ちておることも、ないのだろうのう。我は貴族暮らしだったから、実際に見たことはない。だが、処刑の時には首を落とすことは知っておる。それに、戦に行けば、いやでも死体を見ることもな」
「幻想郷には斬首はない」
「法も処罰もないからのう」
「ちょっとした私刑は行われているようだけどね」
「私刑も処罰も同じよ。国は民衆に支持されて成り立っておるのだから、手を下すのを国にやらせておるだけのことじゃ」
私はいい加減頭を返しな、と布都の腕から乱暴に頭を奪い返し、首に据えた。それで、なんとか、顔は表情を取り戻し、私にも視界が、音が、空気の感じが帰ってきた。
それで、と布都は言葉を繋いだ。
「お主は首を探しておる。ならば、妖怪首探しは別にいるということじゃ。他に、首の取れる妖怪はいるのかもしれぬ。お主に仲間はいるのか? 同じ種類の妖怪は?」
「いない。少なくとも、私は知らないね。もっとも、私のような妖怪は群れないんだ。首が自由に取れる他は、人間と同じ姿をしている。だから、人間の間に潜む」
「うむ。占いをして探っておった間も、怪しい者がいれば探ってみたが、お主のような者はいなかった。変なのは沢山見つかったがな。山に住んでる巫女とか、寺の女狸とか」
「ここは変じゃない奴のほうが珍しいさ」
「うむ。我のような真っ当な者は肩身が狭い。ここには未知の力が渦巻いておる。未知の力を学ぶのはよいが、それに身を捧げてしまったり、飲まれてしまったりしては、本末転倒じゃ。妖怪達を悪く言うわけではないが、自分達の力を自覚しないままに使っていては、決して良い方向には行かぬ。ま、太子様に任せておけば、良くしてくれることだろう」
「お前、随分その太子様とかいうのを買っているんだな」
「当然じゃ。我は太子様になら命を捧げても全く惜しくないと思っておるよ」
さて、と布都は呟き、立ち止まった。町中の家の前だった。
「まずはここから聞き込みじゃ」
門の脇には『自警団本部』と書かれた札がかかっていた。
里には自警団があり、里の若者が集まっている。獣避けの柵を作ったり、ちょっとした困り事があれば、出来る範囲で福祉行為を行う。その中には、今回のように、妖怪から里の人間を守ることも含まれる。
そんな自警団の本部に入ってゆくなんて、私にはできない。何しろ妖怪だ。すわ喧嘩にでも来たのかと殴り合いになったら外に出にくくなる。ただでさえ人と妖怪の顔を使い分けているというのに。せちがらい。
それで、布都が一人で入ってゆくことになった。私は土塀に背中を預けて、しゃがんで待っていた。暖かいさわやかな風が吹いた。土塀と地面の間に雑草が生えていて、こめつき虫が草の下で動いていた。触れるたび、ぴよんと跳ねる。そうやって時間を潰してるうちに布都が出て来た。出て来た布都は、ぷりぷり怒っていた。
「変に構うな、だと。あの半妖の娘。我を誰だと思っておるか」
「何怒ってんの」
「情報を仕入れようと思ったのだが、慧音とかいうのが仕切っておってな、我も時折里で興業を行う身分であるからして、顔見知りの娘じゃ。そやつが言うには、危ないし、変に町中で暴れられても困るから、手を出すな、夜中に出歩くな、だとよ」
「まあ、真っ当な指示じゃないの。真っ当な人間にはそういうのが当たり前だと思うけど」
「うむ。我だけを特別扱いするのは異な事であるし、他の人間と同じように扱うのは分かる。あやつなら博麗の巫女にさえ特別扱いはせんだろうな。だが、あの居丈高な態度が許せん。我はあやつより古くから生きておるのであるぞ。ええい。言っていることが真っ当だとは思えても腹は立つ」
「じゃあ、情報はなし?」
「大した情報はない。どうやら人型であることと、力が強く、素早い動きをしておるということくらいじゃ。もっと情報があるはずなのに、何も教えやせん。悔しいのじゃ」
悔しい、と布都はだんだん足音高く先へと歩いたが、私にはふうん、くらいにしか思えなかった。
「そもそもさ、妖怪首探しのことに、どうして私が付き合わなくちゃいけないのさ。そもそも私の首を探すのに、あんたと付き合うのも微妙に嫌なんだけど」
「我とお主の目的は非情に近しい。故に、効率の面から言っても、一緒に動くのが望ましい。それに、お主が首探しである可能性も捨てきれん」
「見張りじゃないか……」
「それは否定せん。お主が妖怪首探しであるならば、我は自らの不明を恥じねばならんがな。それに、首探しを探すと同時に、お主に近い気を持つ物を探しておる。我が全く役に立たないとは、まだ言い切れんぞ。まあ、今のところ反応はないがな」
ふん、と私は言った。今のところは役立たずだがな。
「それで、どうすんの」
「次は神社じゃ。あの巫女がどう動いておるのか、様子を探る」
神社か、と思った。神社の巫女は顔見知りだ。だけど、人間のふりをしてる時に出会うのは微妙に嫌な気分もする。『あんた、普段はそんな格好してんの。へー。ふーん』とか言われてじろじろ見られて、次から里で出会うと色々面倒なことになりそうだ。
「あの巫女は信用ならん。もしも一番の悪党がおるとしたら、あの巫女じゃ。実質的に里を支配しておるのに、何もしてないよ、という顔をしておる。人の上に立っておるのに、そんな顔をしている奴は信用できん。人間としては気さくな良い奴だが、だからこそ信用できん。外面の良い奴に良い奴はおらん」
「そうかな。あいつはただの俗物だよ。むしろ、後ろ側にいるやつが厄介なのさ」
「お主、知っておるのか」
「知らないさ。ただ、妖怪だから、分かるような感じはするのさ。あいつが真っ当な人間だってことと、その後ろ側に気配みたいなものがいることは。妖怪は強ければ強いほど、人前に姿は現さない。姿を現さなくても、力を示すことができるからね。むしろ、姿を現さない方が良い」
八雲紫、という名前だけは知っている。強い存在感も知っている。実際に見たこともないし、本当にいるのかどうかは分からない。でも、いるのだろう。妖怪どうしだからか、なんとなく分かる。……だけど、霊夢とその背後が黒幕だったとして、私の首を奪う程度の、里で妖怪を暴れさせる程度の悪行をするだろうか? 私にはそう思えない。
「難しく考えることはないと思うな。あの巫女はただの俗物だ。異変には関係ないと思うよ。あの巫女が動いていないということは、異変としてさえ認識してないってことだ」
「俗物な。一片の悪意もなく、ただ善いというだけで認められておるのだとしたら、我にはとても信じられん。まあ、お主の言うことは容れてやる。異変として認識していないかもしれん、ということはな。だが、それはそれで怠慢じゃ。一言言ってやる。ついて来い」
結果から言うと、私の言った通りだった。布都は一人で神社への石段を登っていった。私は巫女の前に顔を出すのが嫌だったので、さっきと同じように、外で待っていた。神社へ続く階段の下で、草笛を作って遊んでいた。しばらくして、生傷をいくつか作った布都が階段を転がって落ちてきた。
何も知らない、異変なんて起こってない、と言われて、追い返されたらしい。それで、怠慢だと言い争いになって、何発かいいのを貰ったらしい。調査に来て喧嘩して帰るって、それじゃ敵を増やすばかりだろうに。アホだ。
とは言え、この布都とかいうのは喧嘩をしても、喧嘩を売って回っている感じではなくて、本当に素なのだ、という感じが伝わってはくる。悪い奴ではなく、結果として視野が狭く喧嘩になったりする。喧嘩しても、恨まれはしないタイプだ。
私の方でも、連れ回されて迷惑だな、という感じはしているものの、他人のために首を探すなんて、そんな無駄な労力を掛けてくれる奴は、私の周りにはいない。だから、首がなくて何となくだるい今では、正直助かる。こいつは単純に、異変があるならそれを除くことが、太子様とやらの為になると思っているだけなのだろう。
私は里の薬屋に寄って、店先で布都の治療をしてやることにした。薬草を潰した汁を薄めて傷に塗りつけ、包帯を巻いてやりながら、雑談をした。
「あんたさ、昔からトラブル多くなかった?」
「うむ。よく聞いてくれた。そもそも我の周りには敵が多くてな。寺を焼かねばならなかったこともあるし、仏教の連中が尼僧を利用して民衆を騙くらかそうとしておる時には、いっそ尼僧を罰してやれば、仏教の連中は二度と尼僧を使えませぬ、と進言したこともあった。尼僧は尼僧で利用されておるのだから、そこから抜け出させてやれて、一石二鳥じゃ。ま、それは良いとして、色々と考えの違う連中とぶつかることはあったのう」
「正直、宗教とかあんまり興味ない層からしたらドン引きだと思う」
割と本物のアホだった。それもせっかちな性質をしているようで、私が薬屋から借りた道具を片付けないうちから立ち上がって、すぐさま歩き出した。
「さて、行くかのう」
「行くってどこにさ」
「また調査をせねばならん。今度は一度現場に戻ってみよう。里に流れておる水路じゃ」
私は慌ただしく道具を薬屋に返して、布都の後を走っておいかけなければならなかった。
水路は石を積み上げて作られたもので、割と堅牢だった。幅は3メートルほど。上水と下水に分かれていて、こちらは上水だ。水も綺麗だ。川沿いには、柳の木が埋められている。
私はよく知っている。人間を脅かす時にはよく使う場所だ。布都に知られたから、今度から微妙に使いにくい。ふむ、と頷きながら、布都は何か考えているらしい。
「おい、何度か来たんじゃないのか? 何度も来たって仕方ないんじゃないのか」
「うむ。だが、繰り返して来ると分かることもあるものじゃ。ところで、お主こそ何か分からんか。妖怪首探しがお主と何か関係があるのなら、お主に分かっても不思議ではないだろう」
「分からないよ。ただの水路に見える。しかし、この辺りで出るのなら、この辺りで張っていたらいいんじゃないか? 布都、お前、しないのか」
「夜は寝ることにしておるのじゃ。健康な生活を送らなければ仙人にはなれん。健康を保って長寿を目指さねばならんし、不健康であれば死神が襲ってきても対処できん。それより、きなくさい匂いがするぞ」
ああん、と思って振り返ると、そこには、布都を真っ直ぐに睨み付けている妖怪がいた。雲の妖怪と、雲を纏う女の妖怪だ。
「あんたら、一体、何やってんの」
「これは寺の。一輪とか言ったか。お主こそ何をやっておるのじゃ。妖怪が出ると噂のところで」
にわかに不穏な空気が漂った。世論に疎い私でも、仏教と道教が信徒を求めて宗教戦争をやってることは知っている。それで、どうやら、あの人間と妖怪は、里の外れにある妖怪寺の信徒であるようだった。
「教える義理もないが、ふん、まあ教えてやってもいいわ。近頃、ここで妖怪が出るのは知ってるみたいだし。そいつが里の人間に手出ししないように見張ってるのさ。ただでさえ私らは妖怪で、里の人間に警戒されてるってのに、このうえ里の中で妖怪が人間に手を出したら、たまったもんじゃない。私達は私達がやってないって証明の為にも、その妖怪を捕まえて突き出さなきゃいけない。で、あんた達は何。あんたの仕業じゃあないんでしょうね」
「この我を妖怪扱いするとはのう。お主、ここいらで以前の宗教戦争の決着を付けても良いのじゃぞ。まあ良い。観衆の前で叩きのめされては立つ瀬がないだろうから、今は見逃してやる。我らも目的は同じじゃ。その妖怪を我は仮に『妖怪首探し』と名付けた。首を探しておるからな」
「安直なネーミングだ」
「やかましい。ともかく、我は我でその調査をしておるのじゃ。そんな妖怪がおっては里の連中は平穏に暮らせんからのう」
「そんなことを言って、それで信仰を集める口実にしているんだろう。汚い奴だ」
「お主らだって同じだろうが。里の人間を守るだの、そんなものは上っ面だ。その実は妖怪を里に送り込んで、人間を妖怪の下に置いてしまおうとでもしておるのだろう」
「何を!」「何おう!」
相手の言うことに反論するたびに、布都と一輪とか呼ばれた女の妖怪は、一歩ずつ相手に詰め寄ってゆき、遂には額を付き合わせて睨み合う形になった。額を付き合わせているうちに一輪の頬被りはずれにずれ、布都の烏帽子は地面に落ちた。今にも掴み合いが始まりそうだったが、まあまあ、まあまあ、と、私と、雲の妖怪とで布都と一輪とを引きはがして、何とか落ち着かせようとした。布都も、一輪とかいう妖怪も、血の気は短い方みたいだった。
「とにかく、あんた、覚えておきなさいよ。もしあんたが里で何かしようってんなら、この雲居一輪が黙っちゃあいないからね」
「それはこっちの台詞じゃ。妖怪首探しがお主の友達でないことを祈っておるんだな! そもそもお主、自警団に許可は取ったのか? 人間どもは良い気じゃないと思うがの。事件のあったところで妖怪がたむろしておるというのは!」
「何を!」「何おう!」「まあまあまあまあ」
私と雲の妖怪は必死になだめた。
「ところで、そいつは何者だ? 知らない奴だな」
「お主には関係ないわい。とっとと去れ」
「お前らが去るんだよ。私らは見張ってるんだから」
ふん、と布都は烏帽子を拾って、膝でぱんぱんと拾い、振り向きもせずに一輪から離れて行った。通りを曲がって、更に一つ向こうの通りまで真っ直ぐ歩いてから、布都は烏帽子を地面に叩き付けてキレた。
「ああくそ! 悔しいのじゃ。あやつらが出張って来おるとは」
「何を怒ってるのよ」
「怒らずにおれようか! これは由々しき問題じゃ。あやつらがもし妖怪首探しを取り押さえるようなことがあれば、寺の人気はうなぎ登りじゃ。くう。そんなことを許しておけようか」
ぶつぶつと文句を言いながら、布都は唇に指を当てて考え込んだ。
「だが、あやつらの口ぶりからすれば、どうやら自警団に許可は取っておらんようじゃ。我らも手を打たねばならん。くう、後手に回るのが悔しいのう。ともかく、太子様に報告じゃ。こうなれば、我一人では手に負えん」
「ああそう。じゃ、今日はこれで調査は終わりね。お疲れ様。ああ、疲れた。帰らせてもらうわよ」
「ちょっと待てい」
「何よう」
布都に腕を掴まれた。痛い。いい加減疲れたから帰ろうと思ったのに。首を出しっぱなしだと消耗が強い。偽物をずっと使うのは疲れるのだ。
「お主も来い。お主にも協力してもらうのだ。太子様と繋がりを持っておくと何かと便利じゃ」
「便利なのはあんただけでしょ。私に得なんて何もない。協力してもらうって何よ。やーめーろー」
「ええい暴れるんじゃない。いいから来るんじゃ」
うわあやめろうと足掻いてみても無駄だった。人間のくせに自然の内から力を引っ張ってくる布都の力は強かった。穴に風が吹き込むように吸い込まれて、どこかに引き込まれたかと思うと、私は道場へと連れ込まれていた。
3
道場は不思議な感覚に満ちていた。世間とは少しずれた感じがする。屋根瓦も、欄間の飾りも中華風で、建築者の趣味が見て取れた。ずれた感じがするのは建築趣味の、エスニックな雰囲気のためじゃない。結界が張られているようだった。俗世とここを隔てるための感覚。それに混じって、何か別の気配も感じたが、結界のせいではっきりとしなかった。疲れのせいかもしれなかった。
太子様、太子様、と布都が喚いているのを、私は遠くに感じている。私がいるのは中庭のようだった。飛び石に混じって植え込みがあった。幻想郷は晴れていたはずなのに、ここでは空は灰色だった。
「太子様、ええい、屠自古! 屠自古もおらんのか。どこへ行っておるのじゃ」
「どうしました、物部様」
布都の声に応えて中庭に降りてきたのは、全体的に青い女性だった。青いワンピースの上に青い羽衣を羽織っている。格好も化粧も気楽なものしかしていないのに、どこか隙のない印象があった。
「おお、青娥殿。屠自古はどこにおるのじゃ」
「蘇我様なら裏で薪割りをやっていますよ。うちの芳香に任せておけば、と申し上げたのですが、蘇我様は『芳香がやると薪が減る。どうせ食べてるんだろう』と不満げでして……ふわらんふわらんと一度打つたびに反動で跳ね上がって、見てて危なっかしいし切ないのですけれども……」
「ええい役に立たん」
「そちらの方は」
青い女性が私を見る。どうも、と頭を下げる。その女性の前に立つと、私は何だか自分が恥ずかしくなった。私は格好も目立たないように普段着だし、自分が見窄らしく思えた。目の前の女性はあまりにも隙がなく、それと比べたら、自分はいかにも隙だらけのように思えた。「こちらは客人だ。屠自古がおらんならこの際お主でもよい。客間に通して茶でも出してくれんか。我は太子様と話をしてくる」
「あら。そうでしたか。初めまして、霍青娥と申します」
女性が笑顔で礼をする。慌てて頭を下げて、言葉を返す。「赤蛮奇です」どうも、強くは出られなかった。こちらは何の準備もしていない。もっと妖怪然としていればそうした劣等感は持たなかったはずだ。人間のふりをしているからどうしても立場が低くなる。妖怪として現れればもっと尊大に振る舞えるのに。そこまで考えてから、素直に本名をさらけ出してしまったことを後悔した。
「蛮奇さん。これからよろしくお願いしますね」
ふわり、と霍青娥は笑った。自然な、人柄の良い笑顔で、ああ良い人そうだな、と私は思った。
客間に通した青娥さんは、お菓子とお茶を出すと退席した。特別話すこともないし、そうしてくれるだけでも良い待遇なのだろう。私はしばらくぼうっとしていた。一日歩き回っていた疲れが身体の内側に溜まっている。
長い時間、私は放り出されていた。布都も私を忘れてしまったみたいだった。なのに、ここはまるで桃源郷のように、時間の経過を感じさせなかった。窓にまで華麗な飾りがついている。窓枠を見ていると、風が背中の方……庭から吹き抜けて、窓の方へ抜けていった。私は風に誘われて庭先に降りた。
「おや。どちら様ですか」
私の姿を認めて、誰かが庭先に降りてきた。私はその姿に見覚えがあった。新聞で見た顔だ。名前は何と言ったか忘れたが、ごてごてした装飾過剰の名前の、道教の親分だ。布都が太子様太子様と呼ぶのは、この人のことだろう。確かに、意味もなくひれ伏したくなる気分も分かる。金色の光が差し込むような風情があった。
「布都に連れてこられて」
「ふむ。ふむ。……なかなか、変わったお方ですね。ふむう。うん」
「ええと?」太子様という人が妙なことを言い出したので、私は惑った。名乗るべきかな、赤蛮奇と名乗るのはどうだ、ごまかすべきか、と悩みながら、何を言うべきか迷った。
「言わなくても分かります。私には全て分かります。あなたの内側に満ちている声は、私にも届きますから。ええと。赤蛮奇さん、というのですか。変わったお名前ですね。ううん。ううん。ええ、ああ、まずは名乗りましょうか。私は豊聡耳神子といいます。変わった名前でしょう。よく言われます」
「ええと??」
妙だった。人から崇められている人は、端から見れば、ちょっとずれたところがあるものなのだろうか? 名前を言い当てたことといい、やっぱりちょっと特別なところがあるようだけど。ずれている、というか、情緒不安定に見えた。口元を勺で隠しているけれど、視線はあっちに行ったりこっちに行ったり、せわしない。
「ううん、ええ、はい。ごほんごほん。ちょっと待って下さい。……よし。よし。まとまりました。あなた、お悩みがあるようですね」
「ええ。ええと。まあ、はい」
「私は人の本質を見ます。人が求めている『声』が私には届きます。かつても今も、これからも……人々の望みが私には届きます。あなたは、首を探しているのですね。妖怪、飛頭蛮、ろくろっ首。首を失っているのですね」
「ええ、まあ」どうにも、思いは伝わってしまうようだ。最早隠し立てしても仕方ないことだ。私は諦めた。どのみち、あの布都が何もかも報告することだろうし。いま、ただ首が帰ってきて欲しい。それは確かに私の一番の願いだ。疲れてるから、今すぐ帰りたいこととツートップ。
「ええ。私には何でも分かります。私は、あなたの悩みに、直接答えてあげることはできませんが、困ったことがあったら、またいつでも来て下さい。あなたの豊聡耳神子が何でもお悩みに答えますから。ええ。私に頼って下さい、何でも。もし里などで困ったことがあれば豊聡耳神子の名前を出して下さい。ええ」
「ええと?」やっぱりちょっと変わっていた。そんなに恩を着せて、どういうつもりだろう?
「太子様?」青娥の声がした。「うひい!」神子さんはびっくりして飛び上がった。
「びっくりさせないで下さいよ。何です、青娥」
「どちらに行ってらしたのです? 物部様がお探しで、部屋で待たれておいでですよ」
「ちょっとお寺に、聖と話にね。今度のデートはどこに行くか……そんなことは良いんです。何を言わせるんですか」
「聞いてませんけど。太子様、ちょっと変ですわ」
「いつも通りです。ともかく。布都が待っているんですね。分かりました。ええと、蛮奇さん。布都を待っているんでしょう? 布都はきっと、あなたを私に紹介するつもりだったのでしょう。私から布都に伝えておきます。待たされて迷惑だったでしょう。布都には言っておきますから」
「ええと、じゃあ、帰っても?」
「ええ。構いませんよ。布都には伝えておきましょう。でも、好きなだけゆっくりして下さい。それで、また困ったことがあったら、いつでも言って下さい。助けになりますから」
「それはどうもご親切に。ありがとうございます。正直に言うと、一人の妖怪に過ぎない私に、どうしてそんなに肩入れしてくれるのか、不思議なところではありますけど」
「ええと、うふふ、えへへ、おほんおほん」
やっぱり神子さんは変だった。「太子様、物部様がお待ちですよ」「すぐ行きます。蛮奇さん、それでは」
神子さんがそそくさと去ってしまうと、青娥さんがすすすと歩み寄って、私の側に立った。
「ごめんなさいね。いつもはああじゃないんですけれど」
「ええと……はい。それじゃ、失礼します」
「ええ。いつでも来て下さいね。うちの物部様に連れ回されて疲れたでしょうから、休んで下さいね。それではまた」
青娥に連れられて、私は道場の出口へと送られた。道場を出ると、森に囲まれていて、道もなく、どこへ行けばいいのだろう、と思って振り返ると、そこに道場はなく、里の外れだった。道場への道は結界によって閉ざされている。道場に連れてこられた時のように、唐突に、私は帰されていたのだった。
その夜、夢を見た。夢の中に、私がいた。私は私を見返している。私の姿は、鏡で見るようにはっきり分かる。化粧をしてマントを羽織った、人間を脅かす時の私だ。対象的に、私は、人に紛れる時の、やぼったい格好の私だ。
たぶん、あっちにいるのが、本物の私だ。本物の私、妖怪の私は、あの格好をしている。自分の中に、そういう確信がある。この夢の中では、あっちが本物で、私が偽物だ。意識の有無は関係ない。あっちの私も、ものを考えているだろうか。あっちの私は、私を偽物と見ているだろうか。向こう側の私は刃を握っていた。白光りする日本刀だ。気付けば、私も、もう一人の私も、顔のない人間に囲まれていた。日本刀を握る私の前に、縛られた男が両膝を付いて座っている。私は刑吏だった。
夢の中の私が刃を振るうたび、首が落ちた。念仏もなければ、辞世の句が語られることもない。ただひたすら、死ばかりが転がった。私は恐れた。殺されることでもなく、罪を犯すことへの恐怖でもなく、首を失うことへの根源的な恐怖だった。
生首が私の足下に転がってくる。古い記憶が蘇ってくる。罪の姿と、古い友人の姿。幼い頃見た刑死の姿。人の間で生きてゆくための法律。人のために人が人を殺すこと。『人を殺す奴は』『盗みをする奴は』『生きていても仕方ない奴は』『死んだ方がいい』…………
夢の中の私が、ギロチン台の階段を上ってゆく。一歩ずつ上って、やがて頂点で膝を付き、顔のない刑吏に首を固定される。……私は、刑吏の一人になっていた。罪を犯した者は、罰を受けなければならない。私は首を落とさなければならない。私の首を。……再び、私を根源的な恐怖が襲った。罪を犯した者は、先ず自分を殺す。その後に社会に殺される。
首を失うのは恐ろしいことだ。だが、罪を犯した人間は死ななければならない。人の間では、死ななければならない人がいる。私の意思に関わらず、身体は動き、私の足はギロチン台へと上る。腕はギロチン台を掴んでいる。やがて、刃を落とし、私自身の首を落とす。鮮血が私の身体を濡らしている。私の身体は真赤だ。私の身体は、血で濡れている。
生首を拾い上げようと歩み寄り、膝をつくと、私は両手を後ろに回し、ギロチンの前にひざまづいていた。次に首を切られるのは私の番だった。私の眼前に落ちている、私の生首が瞳を開き、私を見上げた。「首を返せ!」
生首が叫んだ瞬間、私は目覚めた。汗を全身にかいている。相変わらず、首はないままだ。音もなく、光もない。私が首を失い、健全な生活を失ったのは、行くべきところへ行こうとしているのではないか。それが私の定めではないのか。私は決定的な言葉を脳裏に浮かべるのを避けた。私は夢から覚めたばかりで、それをするには怯えていた。
目覚めた私は、どう行けば良いのか分からないにも関わらず、道場へと辿り着いていた。いつでも話したいことがあったら来て下さい、と、神子さんが言っていたのを、心の端に留めていた。
「人を殺したことがありますか」と問いかけると、神子さんは「ええ、まあ」と答えた。私の言葉を端的に捉えるのではなくて、私の意図を察したようだった。私の欲望、求めていることが分かる。あとは、神子さんの洞察力だろう。遠い昔、政治や法令に通じていたと聞いている。
「私は人の上に立つ者ですから、人を殺さねばならないことはありました。と、言うと、悪辣に過ぎる言い方ですね。言い方を変えるならば、私が行った統治のために生き延びた人も居、そのために死んだ者もいる。その多寡に依らず」
「少数を犠牲にすれば、多くが助かると」
「そこまで割り切っていたわけでもありませんが。民は人のためでもあるけれど、民のためにすることが、私や周囲の人々のためにもなる。自分のためにしたわけではありませんが、まず自分を保たねば、貴族の責務も果たせません。民のために尽くすこともできない。そういった側面もありますから、そのために、時は生かし、時には殺しました。私は、私にできる限りの、最善の手段を尽くしただけのこと」
「私は……人を殺めました」
「結果的なものでしょう。私より余程罪は軽いですよ。私は私が何かをすることで、人が生きることも、死ぬことも、分かっていてやりましたから。……こういうと露悪的に過ぎますがね」
私は何も言わなかった。私が何も言わなくても、神子さんは敏感に全てを感じ取っているはずだった。
「それを言うならば、あなたの考え方こそ、露悪的に過ぎる部分があります。極論、罪というものは、それぞれが幸福を求めた末の因果に過ぎません。悪意の有無はあれど、皆、幸福になりたい。そういった思いがある」
「私は自分の幸福のために、他人の家庭を破壊しました。他人の幸福を破壊しました」
「その結果のみを見るならば、あなたは罪人だ。しかし、それらの事柄は、あなたの悪意から出たものではない」
「私は」私の声はかすれた。「……私の幸福のために、他人の不幸を見過ごした」
「皆、そうです」
「ならば、皆、首を斬られるべきではないのか。皆、罪人ではないのか」
神子さんは口を閉ざした。言うべきことを考えているようだった。
「他人の不幸、他人の幸福は、本人が考えるべきこと。あなたが思い悩むことはありません。いいえ、ありえないと言ってもいい。……ですが、皆、因果は自分へ戻ってくるのではないかと思う。……因果応報。だから皆、首を失うことに怯えるのでしょう。首を失う死は、自分一人のものではありえない」
今はいい。今は、と考えても、かつて犯した罪を清めるにはどうすればいい。私にはその方法は分からなかった。目の前の少女を崇める気持ちにすらなっている。神子さんが、道を示してくれさえすれば。
「あなたの心は、永遠にそのままですよ。変質することはありません。だからこそ、あなたは飛頭蛮として生きている。あなたは、あなたの性質を慈しむべきです。あなたの考えるべきことは、あなた自身の幸福のこと。あなたが受ける罪と罰は、因果に任せておきなさい。また、巡ってくることもあるでしょう」
さて、と神子さんは言った。
「では、申し訳ありませんが、私はこれから聖とデート……何を言わせるんですか。何でもないですよ。用事があるので、これで失礼させていただきます」
……神子さんと別れたあと、どうやって、道場から出て、家へ帰り着いたのか、覚えていない。
遠い昔のことだ。
私は遠い昔、処刑を見た。まだ幼い頃、責務もなく、ただ遊び暮らしていた頃。住んでいる村を出て、友達と町に遊びに来て、それを見た。人だかりを擦り抜けて、竹垣で遮られた、その先にあったもの。河原に引き出された罪人たちの頭上に刀がかざされて、やがて刀が落ちると、首もまた落ちる。空と肉を断つ刃は、生と死に明確な一線を引く。罪人たちを見て、町人たちが囁く。『泥棒』『殺人』『放火』……『悪人』……『人のものを盗むような奴は』『人を殺すような奴は』『人に迷惑をかける奴は』……『生きてても仕方ない』『刑を受けて当然』『ざまを見ろ』『いい気味だ』…………生も死も、人が殺される意味も生きる意味も、その二つを分けるものも、幼い私は何も知らなかった。だけど、理解もしないまま、私は、ただ、人が人を殺す、ということが、世の中には存在するのだと、知った。そして、その事実を、人々は受け入れている、ということを。
悪い奴は、首を切られて死ぬ、ということを。
『簡単だよ』と××は私に、旅人からすり盗った小銭を見せつけて言った。××にとっては、盗みは遊びであり、気楽な娯楽だった。
××は幼い私の友達だった。××はよくちょっとした盗みをやった。他人の山に入って釣りをしたり、作物泥棒をしたり……他人に迷惑をかけず、儲けず、自分で満足できる程度に留めておくのが、××の流儀だった。××は同じように盗みをする連中とはつるまなかった。代わりに、盗みや悪いことをするのが嫌いな私と組んでいた。
××は、盗みをすると、その成果をよく私に報告した。
『ばれなきゃ、いいのさ』というのは、誰もが言うけれど、それを言うのは大抵他人に吐き出す時だ。自分の中で延々と繰り返して、それで、耐えきれなくなった時に、自分の口から吐き出すのだろう。隠していることが、皆の前で明かされる時は、首を切られる時だ。だけど、自分の知っている秘密を、吐き出してもいい奴に秘密を明かしたとしても、首を切られることには変わりない。だから、辛いのは、やったことの因果として首を切られることではなく、秘密を抱えているということなのだ。
秘されること、というのは、明かされること、と一組になって運用されるものだ。
それで、××は、同じように盗みをする連中は信用できず、また仲間になることもせずに、善良な市民として、私を信用し、吐き出していたのだろう。一度吐き出されてしまった秘密は、吐き出した者の中で秘密ではなくなるからだ。秘密を持つ苦しみから逃れることができる。
一方私は、吐き出すべき秘密を持たなかった。秘密を持つような生き方をしていれば首を切られる。私が最も恐れていたのは首を切られることだったからだ。幼い頃見た処刑の姿が、今も脳裏に残っている。意味もなく悪行を恐れる気持ち。私は一方で××を蔑みながら、一方で羨んだ。私の家は貧しく、××の家は豊かだったからだ。××が盗みをしていたという理由ではないだろうけれど、なんとなくそういうところに何かがあるのではないかと思う部分もあった。
というのは、盗みとか殺人とか、悪行は蔓延っていて、戦のある荒れた世の中ではそれも珍しくはないことだけど、誰もが首切りを恐れるのなら、悪行は存在しないはずなのに、それでも悪行が蔓延るのは、悪行を行うのが人として当然ではないか、と思う部分があったからだ。その思いは、飢えた時や、辛い時により強くなった。私には、どうも、盗みをしている××は、善良に暮らしている私よりも、心が豊かなように思えた。
そのせいでもないだろう。私が罪を犯したのは、たぶん、私自身の飢えからだ。私の罪に、××は関わりがない。だけど、思い出さずにはいられない。私の罪のせいで、××の家は破滅した。
そして、私は罪を犯した。ただ一つ、たった一つだけ、過ちを犯した。その年はひどい不作で、どこもかしこも飢えていた。それでも私の家は、食えなくなることもなく、時には口に糊することもあったけれど、一家の者が死ぬようなこともなかった。空腹を抱えていた私は、家で母親にねだれば何かをくれることは分かっていたけれど、私一人が我がままを言えば、家に迷惑をかけるのは分かっていた。××が近くの庄屋の庭先から、柿を盗もうと持ちかけられて、私はつい屈しそうになったけれど、人のものを盗んだものは、首を切られるのだ、と思うと、私は一緒には行けなかった。
それで、私はある日、山の中で遊びながら、食べられそうなものを探していた。誰もいないような山の中で、一本の大きな木の中に、腐ってできた大きな虚ろがあるのに気付いた。その中には小さな汚い麻の袋があって、袋の中に、大きな蜜柑が一つと、ごみのような布きれが数枚重なって入っていた。私はそれを取り上げると、周りに誰もいないのを、まず確かめた。
蜜柑は珍しい果物で、西の方で作られているのを知っているだけだった。時々、私の町にも来るけれど、滅多に食べられることなんてなかった。数年前に、家が少し儲けた時、買い与えて貰って、兄弟と分けて食べた。とても美味しかった。あの味を、忘れられそうになかった。蜜柑を見た瞬間から、私は食べたいと思ってしまった。
二つめに私が考えたことは、これは誰のものでもない、ということだった。山に自然に生えているものでもないし、こんなところに誰かが蓄えているものでもないだろう。きっと、ごみに混じって、捨ててしまったのだ……私はそう思った。なら、誰のものでもない。食べてしまっても、誰も気付かないし、誰のものでもない。
気付かれなければ、ないのと同じだ。お天道様が見ている、なんて母さまは言うけれど、お天道様が本当に見ているはずがない。母さまの言っていることも、全てが本当じゃない。お天道様が見ている、というのは、本当は、周りの人が見ているのだ。周りの人が困るからで、それをおおっぴらに言わずに、子供だましに言っているだけなんだ。そこに落ちている蜜柑を拾うことは、魚を釣って食べるように、道端に生えている木苺を摘んで食べるように、ただ自然のものを自分のものにするだけのことなのだ。
それを貪り食らうと、口の中が甘みで満ちた。今年になって始めて味わうほど久々の甘露で、一度の食事でたっぷりと食べられることもなかったから、私の中に充足感が溢れるのも、久しぶりのことだった。
食べ終わったあとに、急速に罪悪感はやってきた。自分の行動、判断は、本当に正しかったのかというものだ。正しかろうと、正しくなかろうと、もう行動は終わっていた。心の奥底で罪悪感を押し殺し、さっきまでの思考を……ただ捨てられたものを拾っただけだという持論を何度も何度も反芻し、私は蜜柑の皮まで全て食べて、ごみくずは元の虚ろの中へと戻しておいた。それだけでは怖いから、私は虚ろの中に土を投げて、虚ろごとすっかり埋めてしまった。それで、木の中には何も見えなくなって、ここで行われた行為も全て、穴の中へと封じられてしまった。そのまま家に帰り、やがて少ない夕食を食べ、次の朝には、再びひもじさがやってきて、充足感が消えていくと共に、私の罪悪感も薄れていった。何かの折にふっと浮かんでくることがあっても、またすぐに消えていった。だけど、残り火のように燻り続けて、完全に消えることはなかった。
ある日、××の父親が捕まって、それっきり帰ってくることはなかった。
庄屋から証文が盗まれた。その日、庄屋の家に出入りしていたのは、庄屋と商売をしていた××の父親だけだった。それで、疑われて、捕まったと噂で聞いた。それで、××も、その家族も離散して、どこかへ行ってしまった。
泥棒が盗んだのは現金と、証文と、それから偶然庄屋が取り寄せていた高等な果実類だということだった。あの日、一つだけ残っていた蜜柑は、食べ残しだったのだ、と私は考えた。だとすれば、ごみのように突っ込まれていた布類の中には証文があったのだ。何かの理由で、盗人があそこに隠して、それっきり捕まってしまったか、何かの理由があって、二度と掘り出されることはなかったのだ……私はそう思った。だけど、誰にも言えなかった。言えるはずもなかった。もう終わったことだ、と繰り返し、それでも誰かが覗いていて、「あいつが埋めたんだ」と告発されるかと思うと、ついには告白してしまいたくなることもあった。だけど、私は自分に言い訳を繰り返した。もう××の家族は離散してしまっている。××の父親も死んでしまったに違いない。もう済んだことだ、私が言っても仕方ない……でも、本当にそうだろうか。例え冤罪でもう処刑が終わってしまっていたとしても、私が告白すれば、ほんの慰めにはなるのではないだろうか。名誉回復が行われ、幕府からいくらかの金が払われるのではないか。どこかへ行ってしまった家族は、安らかに暮らせるのではないか。……私はそう思った。だけど、私は言うことはできなかった。何よりも、私は首を斬られるのが恐ろしかった。証文とは知らなかったとは言え、当時言わなかったことで、私は改めて捕まるのではないか。罪のない者が首を斬られることがあるのに、ほんの少しでも身に覚えのある私は、首を斬られてしまうのではないか。……悪人になって、「死んでもいい奴だ」と、周りの人間に思われてしまうのではないか、それから家族達が悪人の家族だと蔑まれることを思うと、私は私のうちにしまっておくほかはなかった。それでも、心の内で、罪は私を苛んだ。
やがて私は死に、意識は首の飛ぶ妖怪へと変貌していた。斬首への恐れが、私をそうさせたのだ。私はそう信じた。
4
神子さんと会ってから、数日が経つ。私は未だ生き延びていて、気怠い身体を引きずって歩いていた。布都はあれっきり会いに来ることもなかった。妖怪首探しを探しているのだろう……私とは、もう関わりのないことだと、考えたのだろう。
私は死にゆこうとしているのではないかな、と思った。人間を驚かして、財布を落としたりするのを期待することもできない。魚釣りも、獣を狩るのも、気力がない。首がない、力を常に使わなければならない、ということが、ついに体力を奪うようになっていった。
私はあてもなくふらふらと歩いていた。森の外れで、朽ちかけたギロチンを見つけた。幻想郷には、外の世界から、物が流れ着くことがある。そのギロチンは、昨日今日に来たものではなかった。苔むして、緑色をし、留め金は朽ちて今にも崩れ落ちそうだった。
首を探している妖怪、首探しは、一体何者なのだろう。私ではない。だけど、私自身のようだ。首を返せと叫ぶ。私は、私の首を探している……それは、私自身の、本当の首だろうか。首を失うことに対する、私の恐れではないだろうか。そう思うと、首探しは、ますます私ではないかと思えてくるのだった。
「ここにおったのか」
私に声をかけたのは物部布都だった。姿を見るのは久々だ。たかだか数日離れていただけで、私はそう感じている。
「これは何じゃ。古い木の枠にしか思えんが。不思議な形をしておるのう」
「これは首を切る道具さ。西洋の方では、こういう道具が使われてたんだ」
「なんと恐ろしい。誇りさえも奪う醜い道具じゃ。刀で首を斬られるならともかく、武具でさえない。純粋な首切りのための道具とは。なんと恐ろしい」
フランスでは、斬首の苦痛を和らげるためにギロチンが作られた。そういう意味では人道的なのだが。日本でそういうことがないのは、日本では刃の技術水準が高く、切れ味が良かったためか、それとも介錯人の技術が高かったためか。ともあれ、首切りの処刑は、遠い海の向こうでも行われていたことなのだ。海の向こうにも、馬に乗った首のない騎士の妖怪がいる。幽霊とか、怪異とか呼ばれて、向こうでは妖怪と呼ばれることは少ないようだけど。
「なあ、罪と罰って何だと思う。因果とかさ」
「何をいきなり、訳の分からんことを」
私は、私の過去にあったことを話した。幼い私自身が見た斬首のこと、古い友人のこと。私自身の過ちのこと……そういったことを、一つ一つ話した。布都は、神子さんのように、心の襞を一つ一つ撫でるように言葉を掬ってゆくことはできない。だけど、言葉にして繰り返すことが、心地よかった。愚痴を吐き出すように、気持ちよくなるだけの、慰めに過ぎなくても、私は心地よく感じていた。布都が、黙って聞いていてくれるのが心地よかった。
「それは、お主の考えすぎではないか? 全て推測に思えるがのう。たとえその通りだとしても、悪いのは盗人で、おぬしではない。おぬしの考えることではない」
「普通に考えればそうだろうな。でも、私はどこかで怯えているんだ。だから、私はこんな風になったのさ」
私は偽物の首を切り離して、胸に抱いた。
「お主が感じておる罪の意識も、もしかすると、首切りの恐れと繋がっておるだけの、一つの意識でしかないかもしれんぞ。そもそも、お主という妖怪は、首が失われることへの恐れや、頭が大切な部分で、魂が離れるように、首が離れるのではないか、という恐れから生まれたものじゃ。ならば、貴様の罪の意識も、そういったものの一つで、貴様自身が幼い頃を人間として過ごしたと、錯覚しておるに過ぎんのかもしれん。そうだとすれば、それはただの寓話じゃ」
「私の妄想だと言うのか」
「お主のルーツは知らん。人間から飛頭蛮になったのか、それとも生まれた時から飛頭蛮という一族だったのか、それとも闇からふっと生まれてきたのかはな。ただの推測じゃ。お主の過去がお主を飛頭蛮にしたのかもしれぬ。ま、そんなことはどうでもよいではないか。お主はお主として生きるほかはないのだし。罪とか罰とかは、神や仏……うげ、我が仏などという言葉を。だが、人々が仏を敬うこともあろう。ならばたとえ外異であり夷敵であっても我は言うぞ。……腐れ仏達や、この国の尊い神達に、任せておくが良い」
布都はうげぇともう一度言った。そんなにも仏が嫌いなのか。色々あるらしい。
「ま、そんなことは良い。ところでな、お主に頼みがあってきたのじゃ。太子様は『あの方を巻き込まぬように』とおっしゃっていたが、今回は太子様にも秘密のことで、何分人手が足りん。すまぬが頼みたいのだ」
私は一瞬迷った。だが、私は、首が私のものではないか、と疑い始めている。ならば自分のことだ。布都や神子さんにばかり任せていても悪い。
「……ああ、いいよ。私は近頃首がなくて調子が悪い。布都、お前はまだ、私を犯人だと疑っているか?」
「いいや。お主が違うというのなら違うのだろう。嘘をついておるならそれまでじゃ」
「そうか」
「正直に言うとな。お主を占って、首が見えた、というのは嘘じゃ。風水の占いでそんなにはっきりと見えるものか。あれはな、空いておる時間に、かまをかけて周り、犯人らしき者を見つけられぬか、試しておったのよ。お主のような、飛頭蛮の妖怪に行き当たったのは、ただの偶然じゃ。さて、ゆくか」
布都は先に立って歩き始めた。袖に突っ込んであったぐしゃぐしゃの紙を私に投げつけながら、言った。
「道々、ここ数日の情勢を伝えておく。ついに文屋にも捉えられた」
どうやらそれは新聞であるようだった。写真が二枚載っている。里でたむろする人々の写真に写っているのは、寺と道場、それから里の自警団の人々だろう。もう一枚の写真は、真っ黒な風景の中に、手足がうっすら写っている。見出しは『里に跋扈する新種の妖怪?』
「あの文屋め。正体をしっかり掴めば良いものを。カメラには写ったが、鳥目のために正体ははっきりと見えんかったらしい。里には人間ばかりで、首探しの正体をはっきり見たものはおらんようじゃ。妖怪が一人でもおれば夜目が効いて正体を掴めたものを」
「里に妖怪が入り込むのを堂々とは許容できないでしょう」
「太子様が動かれて、寺、それから自警団と共同戦線が張られた。あの一輪とかいうのを引かせることができたのは良いことじゃ。だが、それが裏目に出た部分もある。まあ良い。依然正体は分からんということじゃ」
「里の見張りをしてるだけじゃ効率は悪い。探し回ったりしないの」
「里はかなり詳しく調べたはずじゃ。余程気配を消す技術に優れておるとしても、見つからんということは考えにくい。里にはおらんと見るべきじゃ」
「里だけが幻想郷というわけじゃないだろう」
「当然じゃ。山に森、竹林に湖に地底に……だが、それらの場所は、それぞれのルールがあり、自治のようになっておる。身勝手に異変を起こすような輩は、どうしても目立ち、妖怪や人の噂に上ることは避けられん。正体もすぐさま分かる。我が見るに、どこか結界の中が怪しいと思える。結界は色々とある。神社の中もそうであるし、冥界にも行けぬ。我らが道場もそうじゃ。その中におるならば、我らが見つけられんのも頷ける」
それじゃ、と私は言った。
「じゃあ、どこかの勢力が匿ってるってことじゃないか。どこかの勢力を疑っているのか」
「我はそう見ておる。すぐさま解決もせず、かといってこれといった被害もあるわけでなく、どうもきなくさい。何かが進行しておる匂いがするのじゃ」
布都はかなりのスピードで歩きながら、言葉を重ねた。山へ登り、巨木に触れてその周りをぐるぐると周り、道なき獣道を歩き、小川を渡り……どこへ行こうとしているのか分からなかった。ただ、言葉を発するために歩いているようだった。私は黙ってついていった。
「だが、太子様は妙なことを仰るのじゃ。他の組織を調べましょうか、特にあの寺など怪しい、現地に妖怪まで派遣して、何かを企んでおるに違いない、と言ったのじゃ。だが、太子様は大したことではない、放っておきなさい、と言うのじゃ。あの僧が里に来ていたのは、本人が率先して働いているだけで、聖の意向とは思えない、と。だが、我にはそうは思えん。我の勘というかな。予感でしかないのだが、そもそも問題も無ければ、慧音はあっさりと話をしてくれるだろうし、あんなにぴりぴりとしていないはずじゃ。巫女が動かんことも、巫女が気付かぬままに進行していた異変も、過去にあるのだから、巫女が動かんから異変ではないと言い切れんのじゃ。寺の連中も動いておる。寺の連中がもし解決すれば、しばらく噂になり、寺の評判も上がるであろう。我らが解決しても同じことになる。道場の評判にも関わることなのに、手を出すなとは。実際おかしいことだらけじゃ」
「あんたの上役が起こしてるんじゃないの」
「そうじゃ」
布都は立ち止まり、私を振り返った。
「……考えたくないことだが。だが、道場には得体の知れん奴が一人おる。あやつが何か裏で糸を引いておるのかもしれん」
布都は立ち止まると、歩いてきた道を振り返った。そこには何もなかった。白い靄が、私の後ろに立ちこめていた。そうして、もう一度前を見ると、そこには道場があった。
「道場は結界でどこにでも通じておる。だが、通常の通り道は、結界を抜けたことを悟られる。面倒だが、いつもと違う隠し道を通ってきた。我は太子様を疑ってはおらぬ。だが、何かの事情があって、話してくれていないかもしれぬだけじゃ」
なんと水くさい! と布都は小さく叫び、道場の入り口脇の壁に身体を隠した。
「良いか。お主はそこらを探れ。それで、何か怪しげな会話を見つければ、盗み聞きするのじゃ。いいか、札をいくつか渡しておく。これは、風に乗って飛ばせば、自動で我のところまで飛んでくるようになっておる。何かあれば呼ぶのじゃ。いいな」
布都は言うだけ言ってしまうと、さささっと中へと侵入していった。いきなり何てことをさせるんだ、と思ったけれど、神子さんにも内緒のこととなれば、当然道場の者にも頼れないのだろう。私は頼りにされていることを不思議に面白く思った。それで、道場に入って、廊下を進んでいった。
道場へ入って正面に、中庭への扉がある。そこに数人の仙人見習いの姿がある。だが、彼らは里の噂話をしているばかりで、何か重要な話をしているという風でもなかった。彼らの服装は着物等のラフな格好で、普段着の洋服を着ている私の姿は、彼らに混じってもそう目立つものではないだろう。見つかってはいけないのは、神子さんや青娥さんという人々だ。そして、探すべきも彼女らだ。私は中庭には入らず、廊下を進んだ。
部屋が並んでいて、それらの部屋は大抵空き部屋だった。一室で幽霊女が洗濯物を畳んでいることの他は、人影は見えなかった。
ここの連中の活動パターンは知らない。だから、手当たり次第に探すしかなかった。仙人見習いの人が通れば、怪しまれないように素知らぬふりで歩いた。しかし、成果は上がりそうになかった。青娥さんも神子さんの影も見えなかった。私は少しくたびれて、壁に背を当てて体重を預けた。ふう、と俯いて一息つくと、首を不意に消してしまいそうになった。意識していないと首を出しておけないのは面倒なことだ。私は辺りを確認し、私はうつむいて、頭に意識を集中した。
「こんにちは、蛮奇さん。何かお探し?」
目の前に立っていたのは、青娥さんだった。さっきまで人の気配なんて全くなかったのに。青娥さんは柔和な笑みを浮かべている。青娥さんが近付いてくるほど、私はぼうっとしていたのか、と思った。そんなはずはない。だが、青娥さんが何かの理由で、姿を隠してこっそりと歩み寄ってくるとも思えなかった。
「いや、あの、えと。布都を探しに。少し、お世話になったものだから」
私はとぼけて、やり過ごすことにした。青娥さんを行かせて、あとを尾行してゆこう。そうすれば何かの成果が得られるかもしれない。青娥さんは「物部様なら」と言って、先へ立って歩いてゆこうとした。私は少し慌てた。案内までしてもらわなくてもいいのだ。私はそのまま言った。「いえ、案内は結構です。勝手に探しますから」
しかし、青娥さんは聞こえていないように、私の先に立って歩いて行った。青娥さんを見失っては目的から外れてしまうから、仕方なく追った。布都と合流して、それからあとを尾行しよう。
しかし、私は一瞬不思議に思った。布都さんは出かけて、私の家の近くで私を連れてここに来て、それから隠れて動いているはずなのに、どうして青娥さんは布都の居場所を知っているのだろう? 先に立っている青娥さんが、いくつか廊下を曲がったあと、「あちらに」と手をかざした。私はそっちを見ると、部屋の隅でしゃがみこんでいる布都を見つけた。「ありがとう、青娥さん」私が言葉をかけると、青娥さんの姿は消えていた。「何をしておるのじゃ。こっちに来い」と布都が、小声で私を呼び、手招きした。
「これから式を飛ばすつもりだったのに、良くここが分かったな」
青娥さんに、と言いかけて、布都が言葉を遮った。
「この部屋の中に太子様がおる。青娥も入ってきたぞ。二人っきりならば何かを聞き出す好機じゃ」
布都が何かしたのか、中でぼそぼそと呟いているはずの二人の声が、私達の方にも届いてきた。
「急に呼び立てて申し訳ありません。太子様」
「何ですか、青娥。危急の用とは何です」
「例のことで」
「……道場の者に聞かれてもいけない。部屋に結界を張りなさい」
「先に張っておきましたよ、太子様」
ふむ、と神子様が言い、先を促しました。
「おかしいな。結界など張られていない。青娥め、とぼけておる」
いや、青娥さんは分かっているのだ。私には薄々分かっていた。しかし、神子さんとの密談を私達に聞かせて、どうしようと言うのだろう?
「太子様、これを」
「新聞なら、私も見ましたよ。良くないですね、あまり話が大きくなるのは」
「あくまで里の内での噂にとどめ、幻想郷じゅうに広がる前に決着をつける。その予定でしたね」
「言葉を慎みなさい」
「起こってしまったものは仕方がないではありませんか。芳香が私のコントロール下を離れて暴走してしまったことは。事態がこうなったからには、我々の手で解決してしまうしかありません」
「分かっています。しかし、私のためではありません。私はあくまで、身内の恥を晒さないために動くためのこと。信望云々は、二の次です。噂が広がり過ぎる前に決着をつけなければ」
「つけなければ?」
「聖に嫌われるのがこわい」
「太子様は奇妙な方ですわ。あんな徹頭徹尾、仏教に帰依している暴力僧の方が思い人だなんて」
「あの方は、案外、ああ見えて、仏教に帰依している、なんて簡単な言葉で断じることのできる方ではありませんよ。ま、それはいいとして、いいではありませんか。まさか青娥、あなたもあの方を手込めにしようと? 絶対に手を出さないで下さいよ」
「分かっていますよ。私も殴り殺されるのはごめんですから」
「まったく。……それよりも、芳香のことはどうなのです。未だに貴女の命令を受け付けないのですか」
「現状、命令を受け付ける気配はありません。私の責任とは言え、まさか……芳香が宴会の日に拾ってきた、奇妙な力の感じる生首を、芳香にくっつけたら、そちらに意識を乗っ取られてしまう、だなんて。あれはこないだ家に来た、蛮奇さんのものですね。顔が同じですもの。困りましたね。蛮奇さんが、物部様と行動を共にしていると来ては」
「頭が痛いですね。行動を共にしないように、とは言っておきましたが。……どう対処するべきか。蛮奇さんのためにも、早いうちに芳香から首を取り返して、返さなければ」
「物部様に任せておくにしても、そろそろ、太子様。物部様にも真実を話しておくべきかと」
「そうですね……布都にもそろそろ真実を教えなければいけまぶべら」
布都が乱入して神子さんに殴りかかったのはその辺りだった。話の途中から肩を震わせて「ここは我慢じゃ、青娥の奴がそそのかしておるに違いないのじゃ。太子様がそんな」とぶつぶつ呟いていたが、首と私のことが話題に出た途端に、我慢できなくなったのだった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! まさか聞いているとは。私は青娥に振り回されていただけなんですよう」
「知ってる時点で同罪ではないですか太子様コノヤロウ、太子様でも今は殴りますぞ太子様。この方に迷惑をかけてまで、一体何をしておるのですか」
「やめてください! やめてください!」
どったんばったん。暴れている横で、青娥さんは困った顔をして二人を見ている。
「あらあら、こんにちは。蛮奇さん」
こんな中でも青娥さんは平気で頭を下げてくるものだから、私もつられて「こんにちは」と頭を下げてしまった。呑気に挨拶をしている場合でもない気がする。
「蛮奇さん、ごめんなさいね。こんなことになるなんて、思ってもみなくて」
私の首が、その芳香とかいう者の首についている。さっさと返せ、こっちは困っているんだ、と言っても良いのだろうけれど、どうにもそうとは思えなかった。私の無気力さや、気分の悪さは、首がないことのみに起因するものとは思えなかったからだ。しかし、首は取り返さなければならない。
「申し訳ござらぬ。まさか青娥のみならず、太子様まで片棒を担いでおるとは。この物部布都平身低頭してお詫び申す」
「いや……私は首さえ返してくれれば別に……」
「本当に申し訳ござらぬ。まさか身内に犯人がおったとは」
「本当ですよ。まさか身内の者が計画をご破算にするだなんて」
「もう黙ってろこのクソ太子様屠自古にバラすぞ」
「それだけはご勘弁を」
布都だけじゃなくてなぜか知らないけど神子様まで私の前で土下座を始めた。布都はともかくどうしてか神子さんのような人に土下座をさせているのは何だか申し訳ない気分がして、私はあのあのと戸惑った。
「しかし、太子様。事ここに及んでは、人目に付かぬよう対処するのも、難しい話ですわ。芳香は夜の水路沿いに出る。この上は、人目に触れることも承知の上で、対処するべきかと」
「うむ……しかし……」
「迷っている暇はありませんぞ。対面の問題ではない、困っている者がおるのじゃ。太子様の命令がなくとも、我は行きますぞ」
「待ちなさい、布都。お前が行っては寺の者との諍いになる。しかし……」
「どうでしょう、蛮奇様。蛮奇様ご自身の手で仕留めるというのは」
青娥さんが唐突に私に話を振るので、私はびっくりした。しかし、私は、驚いている自分自身の態度をいけないと思った。巻き込まれたとは言え、私の首のことだ。元はと言えば、自分が管理を失ったことが原因だった。蚊帳の外で、この人達に全てを任せていた自分を、いけないと思った。
「何を言う、青娥。この方は被害者だぞ。我らの手で事を収めないでどうする」
「蛮奇様が適任なのですわ。我々が出て行くのは何かと面倒がある。蛮奇様ならば、普段の顔とは別の顔を持っているようですし、寺や自警団の人々に顔を見られても厄介がない」
ちらり、と青娥さんが私を見る。青娥さんは、何もかも知っているようだった。いや、神子さんも、多分、知っている。私はどちらかというと青娥さんよりも、神子さんの方に畏れを持った。神子さんは、とぼけたように知らぬ顔をして、私を送り出すつもりなのだ。青娥さんに利用されるにしても、それでいいのだ、それが施政者の顔だ、と思った。そしてそういう神子さんを、畏れはしても恨みはしなかった。そういう人だ、それでいいのだ、と不思議に思った。神子さんは私のように小市民ではない。
「蛮奇様自身の意識が、芳香に流れ込んでいるようですから、蛮奇様ならば何かと仕留め易いのではないか、とも思います。どうでしょう、蛮奇様。ご自身の手で決着をつけられては」
青娥さんは、こう持ってきたかったのだ、と思った。青娥さんの狙いが分かっても、青娥さんはどこまでも親しげで、優しく見えた。本当は怖いことなのだろうと思う。笑いながら利用するなんてことは、私にはできない。この人は悪人だ。表面上悪く見えないことが、余計にその思いを強くした。この人には近寄らないようにしよう、と私は決めた。
「やりますよ、青娥さん。元は私の首だから、私が取り返します」
「助かりますわ。その代わり、こちらでできる限りの便宜を図らせていただきます」
「我は納得できませんぞ。これは我らが解決すべきこと」
「布都、青娥の言うとおりになさい。我々が彼女に依頼するのです。身内の恥を始末してもらうために。……蛮奇さん、お礼は充分にさせていただきます。何か困りごとがあれば、道場の者に言いつけてもらっても構いません」
布都は青娥に異論を唱えるが、神子さんがそれを押し止めた。そして、私に向き直り、頭を下げた。それは、さっき土下座した時よりも、余程重く感じられた。
「いや、私は一人が性に合ってるから。私は私の首を取り返すだけですから、それだけでいいんです。私は私の生活が帰って来さえすれば」
私はどこかさっぱりとした気分になった。少なくとも、するべきことがあって、そうするだけの気力がある、というのは嬉しいことだ。私にはするべきことがあって、取り戻すべきものがある。
「決まりましたね。物部様、どうですか、手伝ってさしあげては」
「お主に言われるまでもないわ。……すまぬな。迷惑をかけた。我に手伝えることがあれば何でも言ってくれ」
私はいくつか、考えていることがあった。せっかくならば、久々に人々の前に姿を現すのだから、人々を仰天させたい。
「考えていることがある。折角なら、派手にお披露目したい」
宵の刻。幻想郷に月光が墜ちて、水路の周りは明るく照らされている。路地のあちらこちらに、人の気配が満ちている。人と光が満ちて、真昼のようだ、と私は思った。その人々が、皆、妖怪首探しを求めている。一度、二度、振り払われて失敗している。今度はより強い方法を使って仕留めようとするだろう。だけど、それらの人々を擦り抜けて、彼らの求めているものを、私が奪うのだ。その衝撃の大きさを考えると、心が浮き上がるようだ。
彼らから離れた路地の隙間に潜んでいる私の隣に、布都が佇んでいる。従者のように、寄り添っている。これまで、布都に振り回されて付き従っていた私とは、主従が逆転したかのようだった。私が家にこもり、準備をしている間、あちこちと飛び回って必要なものを揃えてくれたのも布都だった。野生の馬を捕らえ、風の術を使ってギロチンをここまで運び……感謝してもし足りない。私には到底できないことだ。
「その化粧、お主とは思えんな。派手じゃ。見違えたな」
「布都に見る目がないのさ」
私は飛頭蛮として姿を現す時、化粧をすることにしている。普段、人間に紛れる時は地味にしているから、その差異でごまかす意味合いもあるけれど、やはり、飛頭蛮として姿を現す時は、特別だ、という思いがある。唇に真っ赤なルージュを引き、目元を黒く陰影を描く。肌を白く煌めかせ、前髪を撫でつける。化粧をすると、私は妖怪赤蛮奇だ、夜の灯りの下に立つ者だ、という思いが、強くなった。気分の怠さは変わらないが、奇妙に気力に満ちていた。
人々をせっかく驚かせるためには、それなりの用意が必要だ。そのために布都に用意してもらった馬であり、ギロチンである。馬上の人となった私は、そのために物置に押し込んであった鎧まで引っ張り出してきたのだ。鎧を身につけ、マントを羽織り、刃まで身に帯びている。あとは、妖怪首探しと、立派な戦いを演じるだけだ。
「そろそろじゃ。いつも首探しはこのくらいの時間に出るようじゃ。援護は任せておけ。うまくやれよ」
「ああ、ありがとう。布都」
あたりがざわついた。水路の脇道、人気のない……自警団によって、里の人間はうろつかないように規制が敷かれている。夜に、水路脇の道を歩いてくるのは、一人しかいない。首を返せ、首を返せ。声は囁くようにか細いけれど、辺りが静かなせいで、私のところまで響いてきた。両手を前に突き出し、額に呪符が張られていても、その顔は私のものだった。
首探し……いや、私の首がついた芳香の周りを、人々が取り囲む。自警団、寺の者、道場の仙人見習い。彼らに向かって、首探しは囁く。「首を返せ」私は手綱を握り、馬を疾駆させた。蹄の土を蹴る音が響き、人々は私を振り向いた。馬の姿を見ると、轢かれないように避けた。人々の間に道が出来て、私は首探しへと駆け寄った。馬が通ったあと、何が起こったのか分からないなりに、人々は私達を逃がさないように道をふさいで、再び、首探しと私の周りは囲まれた。
私は後ろを振り返り、私を囲む人々を馬上から眺めた。一通り睥睨すると、私は首を消した。どよめきが走る。首がない、首無し騎士だ。あたりの人々の驚きが、活力へと変わって、私の中に満ちた。
視界はない。けれど、首探しの頭に、私の意識がリンクした。視界は、そちらから見えている。私の前に、馬に跨がった私がいる。首探しの私は大きく口を開き、一声吠えた。喚き、馬上の私に向かって、叫んだ。
「首を! 返せェェ!」
轟、と怒声は響き、あたりの空気をびりびりと震わせた。その声は、芳香の意識ではなく、私の意識の内から発せられている。誰か、誰かを恨みたくても恨めなかった、私の声だ。首探しの私は、全身をバネの様に引き絞り、跳躍した。馬上の私が刃を抜き、私の腕を受け止める。芳香の腕は死体のように硬く、刃と爪で打ち合って、金属音を立てた。
振り払い、再び首探しの私が飛びかかり、馬上の私が受け止める。乱暴な私の突撃を、馬上の私は馬を巧みに操って避けた。首探しをはね飛ばし距離を取った後、空中に忽然と現れたギロチンが、馬と首探しの間に落ちてくる。布都のサポートがありがたい。
「首を、ォォ、返せ、エェェェッッ!」
首探しの私が喚く。飛びかかる。馬上の私は刃を振って受け止め、その首根っこを掴む。力任せに抑え付け、人馬一体となってギロチンへ突撃し、首探しの身体を乱暴にギロチンに押しつけた。朽ちた留め具は役に立たない。錆びたギロチンの刃も。ギロチンの台座に飛び降りて足で押さえ付け、私は刃を振り上げた。
瞬間、首が落ちて路上に転がった。
辺りには声もなかった。あまりに唐突に過ぎて、誰もが言葉を失っていた。私はギロチンの上の芳香の身体を馬に乗せた。そして、私は路上に落ちた首を、髪を掴んで持ち上げた。再び飛び上がって馬上に戻ると、ようやく人々が、ひとまず私を捕らえようと、得物を持って、囲みを一歩狭めてきた。
私の首が私の元に戻ってきた。お帰り、私。私は瞳をかっと開き、目の前の人間を睨み付けた。人間が驚き、思わず一歩下がるのが心地よい。
「首を返せ!」
生首の私が叫んだ。人々の間に恐慌が走った……私は恐慌につけこみ、刃を振り上げて馬を走らせ、そのまま通りを曲がって、消えた。あとには月光の落ちる水路に、置いて行かれた人々のみが残っていた。
5
里に現れた妖怪首探しは消えた。神社の巫女が動き出す前にことは終わり、寺の手柄にも、道場の手柄にもならなかった。ただ、赤いマントの首無し妖怪が現れた、その妖怪は赤蛮奇だ、という噂が広がって、赤蛮奇と首無し騎士の話題だけが、幻想郷には残った。
私は道場を訪れていた。噂の渦中にある赤蛮奇が堂々と道場に入っていっても、マントも羽織っておらず、化粧もなく、野暮ったい地味な、ジーンズとパーカーの女を、誰も疑いもしなかった。客室に通されると、まず蘇我屠自古がお茶を運んできて、それから青娥が私の前に訪れた。彼女は新聞を持っていて、私の向かいに座ると、それを開いた。新聞にも、私の名前は出ているようだった。
「大事になる前に決着をつけて頂いて、ありがとうございました。蛮奇さん」
「ああ。何、自分のことだからね。あんたの芳香は大丈夫なのか? 首を落としたが」
「ええ。死体ですから、元の首に挿げ替えて、札を貼り直したら元通りですわ」
めちゃくちゃな女だ、と私は思った。青娥は読んでいた文々。新聞をばさりと折りたたみ、机の上に置いた。
「どうやら、里ではあなたの名前が知れ渡っているようです。しばらく、出にくくなりますね」
「構わないさ。私はただの妖怪だから、わざわざ討伐しようとまではするまい。しばらく姿を隠して、ほとぼりが冷めた頃にまたひっそりと現れることにするよ。このことで、私の存在感は増えたからね。その点については、ありがたいくらいだ」
「妖怪は、人々に忘れられては、存在することができない。……少しは、恩返しになっているならば、嬉しい限りですわ」
ふん、と思った。そんなこと、微塵も感じていないくせに。そもそも、私の名前が出たのは、青娥とは限らないが、道場の誰かの可能性だってあるのだ。……布都ではないだろう、と思った。青娥か、神子さんか。まあ、どうでもいいことだ。一人で生きている限り、何かが起こっても私一人のことだ。私だって死ぬのは怖いから、うまく逃げ隠れするさ。
「それにしても、青娥、お前、どうするつもりだったんだ。いったい何の理由があって、あんなことをしたんだ。それに、お前の力なら、芳香を抑え付けて、命令をすることもできたんじゃないのか」
くすり、と青娥は笑った。
「ある程度分かっていると思いますけれど、私は嘘つきですよ。私が答えたところで、信用できるとお思いですか?」
「いいや」
「でも、望むなら、一応答えてさしあげましょう。あなたの首を芳香につけたのは、単なる興味本位です。それで、芳香の命令系統にあなたの意識が混じって、芳香が暴走したのは本当です。あとは、事態の収拾のために努力した結果として、ああなったというだけですわ」
「ふん」
本当のことだとは思えなかった。けれど、問い詰めたって仕方のないことだ。たぶん、享楽的の一言で済ませてしまえることなのだ。私はそれ以上聞かなかった。
「太子様が、あなたに話があるそうですよ。そのうちに来ると思います」
「ああ。私も、布都に礼を言いに来たのもあるが、神子さんとも話をしておきたかったんだ」
それはそれは、と青娥は言って立ち上がり、すう、と足音も立てず、部屋から出て行った。入れ替わりに神子さんが入ってきた。神子さんは私の前に座って、頭を下げた。
「このたびはご迷惑をおかけしまして」
「いや、元はと言えば私の管理のせいだから」
神子さんは頭を下げたまま、動かなかった。私はいたたまれずに、「頭を上げて下さい」と言った。そう言わざるを得なかった。この人は悪人だ、と思っても、私のような者に頭を下げさせて良い人じゃない、とも思った。この人の中には悪性と聖性が混じり合って存在している。
「なあ、神子さん。前にも話したことだけど、罪って何なんだろうな。あんたのしたことは悪いことかもしれないけれど、それは結果としてこの道場の人のためでもあるし、ひいては幻想郷の人々や妖怪のためかもしれない」
「それが結果として誤った道へ向かうとしても」
神子さんは言葉を発して、顔を上げた。私を真っ直ぐに見る神子さんは、真剣な表情をしていた。
「私は人々の幸福を願っています。そのために何をするべきか、最善の選択を常に選んでいる。……そのつもりです」
神子さんは堂々と、開き直ってみせた。言い訳をしない。この事件のために、私を犠牲にする。そういうことを選んでしまえる人だ。
「分かった、やっぱり、そうだ。私は、あんたとは違う。罪を開き直ることはできない。私は妖怪だとは言え、ひっそりと人の中に紛れる小市民さ。責任を取ることもできないし、誰かのために動くこともしない。あんたは立派だ。罪を重ねても、誰かのためになろうとしてる。ただの人間にできることじゃない」
私は小市民だ。その言葉が、しっくりと来た。私は既に死んだ身で、人間の中には当然交じれず、妖怪の間にも交じらない。罪や罰というものを、極力考えずに生きていたいんだ。
「……あなたに迷惑をかけたことを、忘れはしませんよ。私は罪にまみれていますが、人としての、誇りと恩は知っています。改めて言いますが、何か困ったことがあったら、是非報恩の機会をお与え下さい。言わば、我々はあなたに借りができましたから」
いや、と私は言った。
「何かがあったとして、その時は潔く死ぬだけさ。私は道場の仙人見習い、の赤蛮奇にはなれないし、赤蛮奇の依頼を受けて、道場の者に動いてもらう、ということもできない。どっちにしろ、私の身分をはっきりさせる、なんてことはまっぴらだ。私は一人がいい。心地良いんだ」
首を失って鬱鬱としていたくせに、ちょっと言うことが格好良すぎるんじゃあないか、赤蛮奇。ああ、私。愛おしい私だ。他人を驚かすことのできる、健康な思考を持った私。
「普通に友人として過ごす分には、喜んで付き合わせてもらうよ。あんたらにはあんたらの思惑があって、近づきすぎるのはごめんだけどね。……ところで、布都はいるかい。布都には前に会った時、今日来るとは伝えてあったんだけど」
「そうなのですか? 布都は今日も外に出ていますよ。何やら、新しい考えがあるようで」
なんだそりゃ。だけど、布都らしい、と思った。私が少し、布都に友誼じみたものを感じていても、布都のほうではそうではないらしい、と少し妬みじみたものを考えたが、それは違うな、と思った。あいつはあいつで、必死にやりたいことをやっているんだ。
「それならそれでいいさ。また、酒でも飲もう、と、伝えておいてくれ」
承りました、と神子さんが頭を下げて、私は立ち上がった。私が立ち上がると、客室に巨大な影がのっそりと現れた。寺にいる尼僧だった。顔は見たことがある。「聖さん」と神子さんが慌てたように立ち上がり、「ななな何ですか、今日はいきなりですね」と言った。
「ちょっと、付き合って頂こうと思いまして」「つ、つつつ付き合う? えっえっ、どうしましょう、聖さん、いきなりに過ぎますよ。そんな……」「ええ、里に出る妖怪のことで。先日はついに大立ち回りがあったそうですから。そろそろ、話をしておこうと思いまして」「えっ」「とりあえずお外に。物を壊しては迷惑がかかりますから」「ええー……」
やれやれ、と思った。その妖怪はここにいるのになあ。ともあれ、妖怪首探しはもういないし、私は舞台裏に引っ込むけれど、首探し騒動はまだまだ続きそうで、神子さんの受難もまだまだ続きそうだった。でも、関係ないや。あとは神子さんと聖さんの問題だし、私は大人しく引っ込んでいることにしよう。私は二人を残して、客室を後にした。
道場を出る時、屠自古さんが私に小包を渡してきた。太子様から、と言うので開けてみると、里で流通している貨幣が入っていた。ケチくさくない量だ。……私は考え、有り難くもらっておくことにした。向こうはこれで恩を返したつもりはないだろうし、こちらだって恩を受けたつもりもない。それで、道場を出て、私は帰ることにした。家にでもあるし、元の生活に、でもある。やっと、本当に終わったのだ、という感じがした。
「まあ、そういうことだよ」と、私は言った。舞台は夜の夜雀の屋台、つれ合いは今泉影狼とわかさぎ姫である。私の隣に影狼が座っていて、その向こう側にわかさぎ姫が、長椅子の上に置かれた水張りのたらいに座っている。
家に帰ると、手紙が届いていた。影狼からだった。影狼からだった。『お前の噂が流れているぞ。わかさぎ姫も心配している。とりあえず話が聞きたいから、近いうちに会おう。酒も飲みたい。……今泉影狼』そういうことで、さっそく竹林で影狼と落ち合った私は、わかさぎ姫を連れて、夜の屋台へ来ていた。もうすでに酒も入って、三人ともいい具合に酔いが回っていた。
「色々あったのねえ。まあ、無事で済んで良かったわ」
「ほんとほんと。そう言えば、銀色で烏帽子被った小さい女の子、わざわざ湖まで来て聞き込みをしていたわね。私も聞かれたけど、あ、蛮奇ちゃんだ、って思ったから、知らない、って言っておいたわよ。迷惑かかったら悪いなあって思って」
私は基本的に一人だから、姿を見せないのはそう珍しいことでもない。新聞を見て、心配してくれたのだろう。私は一人だ、と思っていたけれど、必ずしもそうでもないらしい。
「言ったっていいんだよ。そうしたら噂ばっかり広がって、私のことが有名になる」
「有名になっちゃ困るんじゃないの」
「困るけどさ、リターンもあるよ。それに、勢力をあげて一妖怪を討滅していたら、妖怪達から反発をくらう。多少殴られたって、殺されることまではそうないよ」
事実、首無しの妖怪である私を知っている者から、私のことは漏れなかったようだった。寺の者にも、道場の者にも、妖怪達は私の正体を隠していたというわけだ。表立って連れ合わなくても、困った時には互助の感覚が芽生える。事実、目の前にいる夜雀の娘も、話を聞いていても知らん顔をしている。妖怪首探しの事件について、彼女が天狗にたれ込んだりすることはないだろう。私は一人ではないようだった。それに甘えられることが、素直に嬉しい。
「あーあ、蛮奇ちゃんはちょっとした異変を起こせて、羨ましいなあ。私も何か起こそうかしら。空から里に魚とか降らせてみようかしら」
「里の人が喜ぶばっかりで、ちっとも誰も困らないわよ。どうせなら、幻想郷を水の底に沈めるくらいのことはしないと」
わかさぎ姫と影狼が、異変についてきゃいきゃいと意見を交わし合う。やれやれ。そうして、私はほろ酔いの頭で、ああ、ようやく帰ってきたなあ、という感じがしたのだった。
輝針城の面々が好きになりました
赤蛮奇の成り立ち、神子の政治家としての振る舞い、妖怪同士の良識に成り立つさばさばした関係、いずれもよく書けています。当初こそ巻き込まれ気味だった蛮奇ちゃんが最終的に八面六臂の活躍を見せるのも、物語として大変しっくりきます。
芳香の持って来方も、上手い。道場に行ったとき一人だけ存在感がなかった、というのは伏線として弱いかもしれませんが、思わず膝を打つ転換です。
いやあ……あるもんですねえ。
これで完全に点入れる気なくしたというか、評価以前の問題
いい加減にしてよ頼むから……
東方警察という単語の経緯わかっててこの一文を書いてるなら本当に悪質だし、頭が痛くなってくる
なんでいちいち東方に唾吐いて砂かけておかないと気が済まないんだろう
聖と太子の関係が過去作を読んでない自分には唐突だったので
この点数で
皮肉ですか?
軽妙な悪ふざけとやらで、誰の心を安らげるつもりだったのでしょうか
読み手の、だとしたら、余計なお世話です
作品の余韻、というものもございます
それを味わいたい人も少なからず存在します
書き手の、だとしたら、内輪でやってください
たとえは悪いですが、バカッターで店舗をつぶした案件と性質は同じですよ
功罪については、知ろうが知るまいが発言は翻りません
納得できないでしょうが、余韻に浸っていたところに冷水をかけられた気分になる人もいた、
という事実だけを飲み下してください
あとがきも作品の一部です
それを踏まえたジョークなら歓迎します
今回はそうではなかった、ということです
太子様に取っ組みかかる布都ちゃんもカッコよかったです。
赤蛮鬼が近頃のフェイバリットな私としましては、この作品はかなりのドンピシャ良作かもしれない。
柳の下のデュラハン実行して、しかもそれで刈り取るのが己の首と言うところに蛮鬼的なアイロニーを感じて素敵。
赤蛮奇のキャラが良かったです。
赤蛮奇のキャラが良かったです。