.
#01
レミリア・スカーレットは小麦のパンを食べ、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを飲む。対面に座して本を読んでいるのはパチュリー・ノーレッジ。二人きりだ。「最後の晩餐」のように賑やかではないが、懐に短剣を忍ばせる者もいない。悠々と食事が出来るわけだ。
「パチェ?」
「口の中を片づけてから話してちょうだい」
レミリアはパンを飲み込むと、ナプキンで口の周りを拭いた。
「失敬」
「で、何? レミィ」
「食べないの、パチェは」
「必要がないから。貴方が連れ出したんでしょう、無理やり」
「だって独りで食事なんてさ」
「咲夜を呼んで食べさせてもらいなさいよ。幼児用のフォークで。ウサギのアップリケが付いた前掛けを着けて」
「不当なる侮辱には、甘美なる報復を」レミリアはワインを飲み干す。「今日は咲夜、休肝日だからね。主として、たまには労ってやらないと」
「貧血で倒れられたら困るわよ。図書館を掃除するひとがいなくなる」
「分かってるって」
レミリアは葡萄酒のお代わりを注ぐ。グラスに唇を付けかけ、テーブルに置いて溜め息をつく。
「……やっぱり、物足りないな」
「自分の血潮でも注いでなさいよ」
「もっと愛想ってもんを見せてくれても好いんじゃない?」
「それは契約に入ってないわ」
顔も上げないパチュリーを、レミリアは見つめていた。唇の端を釣り上げて、紅い霧に変化する。瞬く間に魔女の背後に現れ、その首筋に指を滑らせた。
「――っ、レミィ」
「魔女様の血も久しぶりだなぁ」
「冗談でしょう?」
「餓えてるんだよ、里の連中よろしくね」
彼女の喉仏が上下するのが見えた。手首を握って押さえつけ、詠唱が出来ないように口を塞いだ。薄紫のケープを引いて、豊かな髪を探ると、繁殖期のシロクマのように健康的な首筋が現れた。
生唾を飲み込む。「……頂きます」
唾液で濡らした舌を触れさせた途端、強烈な電流が迸り、レミリアは派手に吹っ飛ばされた。黒こげになった舌が、口からだらりと零れ出た。尻餅を突いて恐々見上げると、パチュリーは肩で息を整えながら、ケープを羽織り直しているところだった。
「……二度とやらないで」
インテリジェントに抑制された、見事な発声だった。花を枯らしたサボテンみたいにストイックだ。レミリアは微笑みながら云った。
「惚れ直した。流石ね」
「呆れた」
魔女は裾を翻して出て行った。
#02
レミリアは門柱にしゃがみ込んで、鉛色の空を見上げていた。
「もうすぐ夏だぞ。何でこんなに気温が低いんだ」
「外勤の身には有り難いですが」
紅美鈴は組んでいた腕を解いて云った。
「里の人間にとっては死活問題ですね。今年も冷夏となると、また大勢が亡くなるでしょう」
「まるで火山の噴火でもあったみたいだな。様子は?」
「冬の中頃から“人相食”の様相を」
レミリアは眉を上げた。「人間が人間を喰うのか、この国でも」
「飢饉となれば何処でも同じでしょう。私の故国でも酷い有様でした。黒い靄が天を覆い尽くして、それが去った後には草の葉も残りません」
「“黒い靄”? ペストか?」
「バッタです。蝗災ですよ。天候不順になると大量発生します。すぐに自滅しますから、それで鍋を満杯にして煮込むと、少しは凌げます」
虫の姿煮を、お菓子のチップスみたいに口に放り込む様を想像してみた。砂丘にかぶりついたかのように気分が悪くなった。
「……ひどい話だ」
美鈴は答えなかった。湖のきらめきや、山の稜線を見つめていた。もう夕暮れ時なのだが、里の方角に炊事の煙は上がっていない。
レミリアは地面に降り立った。「誰それが食料を掠めに来るかもしれん。あるいは恵んでもらいにな。片っ端から追い返せよ」
「好打(ハオ・ダ)。了解しました。――助けないので?」
「弱者救済は人間の専売特許だろ。私の仕事じゃない」
立ち去りかけて、手を打って振り向く。
「そうだ。今日は咲夜がいないんだった。美鈴、そこは妖精に任せろ。代わりに厨房を頼む」
「私がですか?」美鈴は後ろ髪を掻いた。「これまた久しぶりですね。でもお嬢様、咲夜さんの手料理で舌が肥えているのでは」
「たまには中華も好いさ」
#03
美鈴が麦粉をこねている。蒸籠は今か今かと着火の瞬間を待っている。調理台には首を切り落とされた二脚の羊が横たわっている。レミリアはその様子を、羽をはためかせながら座って見ていた。
「お嬢様、味噌はお召し上がりになりますか?」
「脳髄は好きじゃないな。紅い血と新鮮な肉が好い」
「では、そっちは私が頂きますね」
「お前もグルメだなぁ」
美鈴が肩をゆすって笑った。「ペースト状にして、トウガラシと炒めるんです。ソースにしても好いですね。肉に好く合います」
「悪くないな」
麦粉に羊の挽き肉が混ぜられると、それは団子になる。美鈴は手際好く蒸籠に饅頭を並べては、鍋の火加減を見る。羊肉のスープだ。骨の出汁が好く沁みて、深みがある。血液は卵の黄身と一緒に腸詰めにして焼いたり、脂肪と固めて豆腐にする。腐敗の早い内臓はひと足先に煮込まれていた。香辛料には花椒(ファー・ジャオ)が贅沢に使われている。
厨房に立ち昇る煙を、レミリアは胸いっぱいに吸い込んだ。
「……あぁ」息が漏れた。「空っぽの胃腸には毒だな」
「剥がした皮はどうされます?」
「脂肪を削り落としておいてくれ。うちの魔女様が欲しがる」
「パチュリー様、……皮が好物なんですか?」
「なめせば本の装丁に使えるんだ。あるいはルーンを刻むための紙に」
「成る程」
爪と毛髪を除けば、無駄な部分は何ひとつ残らない。
「……咲夜さんは凄いひとだ」調理を続けながら、美鈴は呟く。「人間には食の禁忌があると聞きますが、あのひとは平然としている」
「タブーを教わるような生き方が出来なかったんだ」
それに、とレミリアは付け加える。
「死んでしまえば、それはもう人間じゃない。貴重な蛋白源だよ」
#04
フランドール、ノックノック。
久しぶり。夕ご飯、持ってきたわよ。開けても好いかしら? ……そう、じゃあここに置いておくわね。きちんと食べなさいよ。好き嫌いはしないこと。――分かった?
あんまり外のことは持ち出したくないんだけど、みんなお腹を空かせて大変なのよ。草の根っこや、木の皮だって大切な食べ物になっているくらいにね。……草木って、あなたそりゃあ、――そっか、フランは見たことがないんだっけ。
今日の料理は美鈴が作ったのよ。そう、あの緑の服の。咲夜はお休みだから。……え? いえ、病気じゃないわ。血が足りなくなったら困るから、たまには休暇を、ね。そうよ、あなたの食事にも入っていたから、今日はちょっと違う味がするかもしれないわね。
――いらない? 待ちなさい、フランドール。さっき私が云ったこと聞いてた? 本当に貴重なんだから。も、もったいないお化けが出ちゃうわよ! それでも好いの? ――ぎゃおーっ!
…………ごめんなさい、今のは無かったわね。
…………。
……フラン、フランドール?
あなたの云う通りよ。咲夜と同じ人間を、私達は食べているの。それがないと生きていけないから。地下室で引きこもっていても、お腹はやっぱり空くものなのよ。生きるということは、食べるということ。あなたもそろそろ学んだ方が好いわ、色々と。
好い機会だし、――外に出てみないかしら?
哀しいことばかりではないわ。楽しいこともあるのよ。
私の手をつかむだけで好いの、簡単でしょ?
さぁ、――フラン。
……フランドール?
フランドール……。
………。
#05
レミリア・スカーレットは食卓についた。
逆さに十字を切って、「アーメン」と呟いた。
柱時計が夜を刻み続けた。他に音は無かった。
#06
レミリアは従者の枕元に立つ。寝息がリズムを奏でている。血に染まったナイフのような瞳は閉じられていて、柔らかな銀髪が枕に放射状に広がっている。ベッドの縁に腰掛けて、レミリアは十六夜咲夜の髪を手櫛で梳いた。
輸血パックは半分以上、残っている。取り替える必要はなさそうだ。カテーテルの先端はメイドの腕に。紅い滴を、紅い葡萄酒を、従者の身体に与え続けている。まるで聖書に記述のある命の水のように、値なしに飲ませる。
「……顔色も好くなった。魔女様のお陰だな」レミリアは呟いた。「明日から、また忙しくなるぞ。咲夜、好く休んでおけよ」
輸血パックに指先が触れる。
「やれやれ、いつの間に外の人間は吸血鬼になったんだろうなぁ。これだって形を変えた人肉食じゃないか。口から摂取さえしなければ、タブーじゃなくなるのか」
レミリアは瞳を細める。
「……今日は、どうも上手くいかない一日だったよ。パチェからは舌を焦がされた。ちょっとからかっただけなのにさ。フランとは喧嘩。何も食べたくないって。美鈴の料理は絶品だったが、肉だけ微妙に固くて酸っぱかった。この際、贅沢は云ってられんのだろうが」
思いつくままに舌を動かし続けた。
「私は何のためにこの世界に来たんだろう。人間を襲えないせいで、妖怪はどいつもこいつも活きる力を失っているし、人間は飢饉で妖怪どころじゃなくなってる。噂に聞いた楽園とは程遠いよ。私は賭けに負けたんだ」
従者は答えない。
「でも、まだ何もかもが終わってしまった訳じゃない。計画があるんだ。腑抜けた連中を私が叩き直してやる。ディストピアじゃない。本当の妖怪の楽園を作るんだ。賢者がやらないのなら、私がやってやるさ」
鼻緒を指でつまんだ。
「……飲み過ぎたようだ。つい愚痴が出る。もう行くよ、おやすみ」
レミリアは立ち上がりかけて、振り向いた。手首を握りしめられていた。それは無意識の行動のようだった。咲夜は、日向ぼっこをしている羊のように、ぐっすりと眠り続けていた。
「分かった。――分かったよ」
ベッドに座り直した。彼女の差し伸ばされた手に、もう片方の手を重ねて深呼吸する。冷たくて、痩せた肌触りだった。出会った頃と比べて見違えるくらい健康的になったのに、この手の感触だけは変わらない。
レミリアは従者の手を握り続けていた。月のない夜が明けるまで。
#07
ワイン・グラスを置いて、レミリア・スカーレットは欠伸を漏らした。
「お嬢様、寝不足ですか?」
「誰かさんのおかげでな」
十六夜咲夜は首を傾げた。レミリアは苦笑を漏らして手を振った。ナプキンで口元を拭き、逆さに十字を切った。
「ご馳走様」
「下げても宜しいので?」
「ああ」
「お気に召しませんでしたか?」
「もう満腹さ。紅茶を頼むよ」
「かしこまりました」
窓際に立ち、カーテンを開いた。今日も世界は鉛色の雲に覆われている。炊事の煙もない。鳥の唄もない。静まり返っている。窓枠に手を突いて、レミリアは初夏であるはずの景色を眺めていた。
「お嬢様、紅茶の用意が」
「――人間はバッタのようなもんだな」
「バッタ?」
「勝手に増えて、勝手に喰い尽くして、勝手に自滅する」
「はあ」
「産めよ、育てよ、地に満てよ」
「…………」
「咲夜、お前はどちらを選ぶ?」
「――選ぶ? 私はお嬢様の従者ですよ」
胸を衝かれたようにレミリアは身を翻し、咲夜と向き合った。
「考えていたんだ。お前も死んだ後くらいは神様に愛されたいんじゃないかと思ってさ。望むのなら、きちんとしたお墓に埋めてやろうかと思ってね。その時は、お前のために十字を切ってやる。逆さじゃない、正立の十字をね」
レミリアは翼を広げた。
「それともさ、神様とすっかり縁を切っちゃおうか? 私は小食だが、今は血に餓えているし、頑張れば飲み切れるだろうさ。お前なら、いきなり私の舌をウェルダンにするなんて真似はしないだろう」
咲夜はあごに人差し指を当てた。まるで今日のディナーの献立を考えているみたいな仕草だった。眉間には皺の一本も浮かんでいなかった。微笑みを浮かべて、彼女は口を開いた。
「……どちらも私の好みではありませんね」
彼女は云うのだ。
「私が使い物にならなくなりましたら、――お嬢様、――どうぞご遠慮なく、私を食べてしまって下さい。美鈴に頼んで、私をお団子に、汁物に、腸詰めに、干し肉にして下さい。それが私の望みです」
レミリアの舌に、昨晩の味が蘇った。「墓は、要らないと?」
「この身はお嬢様に捧げたのです。少なくとも、私達はそう契約したはずです。どうして大地に還さなければならないのでしょう。それは私の契約違反になります」
毛先から、靴のつま先に至るまで、レミリアは咲夜の身体を仔細に眺めた。
「本当に好いのか? 美鈴に任せたら、骨の一本も残らんぞ」
完全で瀟洒に、彼女は笑った。
「――それは結構なことでございますわ」
話はそれきりだった。咲夜は紅茶をカップに注いだ。レミリアも黙して席に戻った。相変わらず、文句の付けようがない香りだった。友人とのいざこざも、姉妹喧嘩も、酸っぱい肉の味も、溶け流れて消えた。
レミリア・スカーレットは唇の端を曲げて云った。
「咲夜、もしかしたら――……」
「何でしょう。お嬢様」
「いや、好いんだ」
続く言葉は紅茶と共に飲み下された。
もしかしたら、咲夜、お前こそがキリストなのかもしれないな。
悪魔にとっての。私にとっての。
(引用元)
Japan Bible Society:The New Testament, The New Interconfessional Translation, 1987.
日本聖書協会『新約聖書 新共同訳』1987年。
(原題)
Das Abendmahl des Teufels
.
Eucharist of Vampire
イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」
――「ヨハネによる福音書」第6章, 第53節から第56節より。
#01
レミリア・スカーレットは小麦のパンを食べ、カベルネ・ソーヴィニヨンの赤ワインを飲む。対面に座して本を読んでいるのはパチュリー・ノーレッジ。二人きりだ。「最後の晩餐」のように賑やかではないが、懐に短剣を忍ばせる者もいない。悠々と食事が出来るわけだ。
「パチェ?」
「口の中を片づけてから話してちょうだい」
レミリアはパンを飲み込むと、ナプキンで口の周りを拭いた。
「失敬」
「で、何? レミィ」
「食べないの、パチェは」
「必要がないから。貴方が連れ出したんでしょう、無理やり」
「だって独りで食事なんてさ」
「咲夜を呼んで食べさせてもらいなさいよ。幼児用のフォークで。ウサギのアップリケが付いた前掛けを着けて」
「不当なる侮辱には、甘美なる報復を」レミリアはワインを飲み干す。「今日は咲夜、休肝日だからね。主として、たまには労ってやらないと」
「貧血で倒れられたら困るわよ。図書館を掃除するひとがいなくなる」
「分かってるって」
レミリアは葡萄酒のお代わりを注ぐ。グラスに唇を付けかけ、テーブルに置いて溜め息をつく。
「……やっぱり、物足りないな」
「自分の血潮でも注いでなさいよ」
「もっと愛想ってもんを見せてくれても好いんじゃない?」
「それは契約に入ってないわ」
顔も上げないパチュリーを、レミリアは見つめていた。唇の端を釣り上げて、紅い霧に変化する。瞬く間に魔女の背後に現れ、その首筋に指を滑らせた。
「――っ、レミィ」
「魔女様の血も久しぶりだなぁ」
「冗談でしょう?」
「餓えてるんだよ、里の連中よろしくね」
彼女の喉仏が上下するのが見えた。手首を握って押さえつけ、詠唱が出来ないように口を塞いだ。薄紫のケープを引いて、豊かな髪を探ると、繁殖期のシロクマのように健康的な首筋が現れた。
生唾を飲み込む。「……頂きます」
唾液で濡らした舌を触れさせた途端、強烈な電流が迸り、レミリアは派手に吹っ飛ばされた。黒こげになった舌が、口からだらりと零れ出た。尻餅を突いて恐々見上げると、パチュリーは肩で息を整えながら、ケープを羽織り直しているところだった。
「……二度とやらないで」
インテリジェントに抑制された、見事な発声だった。花を枯らしたサボテンみたいにストイックだ。レミリアは微笑みながら云った。
「惚れ直した。流石ね」
「呆れた」
魔女は裾を翻して出て行った。
#02
レミリアは門柱にしゃがみ込んで、鉛色の空を見上げていた。
「もうすぐ夏だぞ。何でこんなに気温が低いんだ」
「外勤の身には有り難いですが」
紅美鈴は組んでいた腕を解いて云った。
「里の人間にとっては死活問題ですね。今年も冷夏となると、また大勢が亡くなるでしょう」
「まるで火山の噴火でもあったみたいだな。様子は?」
「冬の中頃から“人相食”の様相を」
レミリアは眉を上げた。「人間が人間を喰うのか、この国でも」
「飢饉となれば何処でも同じでしょう。私の故国でも酷い有様でした。黒い靄が天を覆い尽くして、それが去った後には草の葉も残りません」
「“黒い靄”? ペストか?」
「バッタです。蝗災ですよ。天候不順になると大量発生します。すぐに自滅しますから、それで鍋を満杯にして煮込むと、少しは凌げます」
虫の姿煮を、お菓子のチップスみたいに口に放り込む様を想像してみた。砂丘にかぶりついたかのように気分が悪くなった。
「……ひどい話だ」
美鈴は答えなかった。湖のきらめきや、山の稜線を見つめていた。もう夕暮れ時なのだが、里の方角に炊事の煙は上がっていない。
レミリアは地面に降り立った。「誰それが食料を掠めに来るかもしれん。あるいは恵んでもらいにな。片っ端から追い返せよ」
「好打(ハオ・ダ)。了解しました。――助けないので?」
「弱者救済は人間の専売特許だろ。私の仕事じゃない」
立ち去りかけて、手を打って振り向く。
「そうだ。今日は咲夜がいないんだった。美鈴、そこは妖精に任せろ。代わりに厨房を頼む」
「私がですか?」美鈴は後ろ髪を掻いた。「これまた久しぶりですね。でもお嬢様、咲夜さんの手料理で舌が肥えているのでは」
「たまには中華も好いさ」
#03
美鈴が麦粉をこねている。蒸籠は今か今かと着火の瞬間を待っている。調理台には首を切り落とされた二脚の羊が横たわっている。レミリアはその様子を、羽をはためかせながら座って見ていた。
「お嬢様、味噌はお召し上がりになりますか?」
「脳髄は好きじゃないな。紅い血と新鮮な肉が好い」
「では、そっちは私が頂きますね」
「お前もグルメだなぁ」
美鈴が肩をゆすって笑った。「ペースト状にして、トウガラシと炒めるんです。ソースにしても好いですね。肉に好く合います」
「悪くないな」
麦粉に羊の挽き肉が混ぜられると、それは団子になる。美鈴は手際好く蒸籠に饅頭を並べては、鍋の火加減を見る。羊肉のスープだ。骨の出汁が好く沁みて、深みがある。血液は卵の黄身と一緒に腸詰めにして焼いたり、脂肪と固めて豆腐にする。腐敗の早い内臓はひと足先に煮込まれていた。香辛料には花椒(ファー・ジャオ)が贅沢に使われている。
厨房に立ち昇る煙を、レミリアは胸いっぱいに吸い込んだ。
「……あぁ」息が漏れた。「空っぽの胃腸には毒だな」
「剥がした皮はどうされます?」
「脂肪を削り落としておいてくれ。うちの魔女様が欲しがる」
「パチュリー様、……皮が好物なんですか?」
「なめせば本の装丁に使えるんだ。あるいはルーンを刻むための紙に」
「成る程」
爪と毛髪を除けば、無駄な部分は何ひとつ残らない。
「……咲夜さんは凄いひとだ」調理を続けながら、美鈴は呟く。「人間には食の禁忌があると聞きますが、あのひとは平然としている」
「タブーを教わるような生き方が出来なかったんだ」
それに、とレミリアは付け加える。
「死んでしまえば、それはもう人間じゃない。貴重な蛋白源だよ」
#04
フランドール、ノックノック。
久しぶり。夕ご飯、持ってきたわよ。開けても好いかしら? ……そう、じゃあここに置いておくわね。きちんと食べなさいよ。好き嫌いはしないこと。――分かった?
あんまり外のことは持ち出したくないんだけど、みんなお腹を空かせて大変なのよ。草の根っこや、木の皮だって大切な食べ物になっているくらいにね。……草木って、あなたそりゃあ、――そっか、フランは見たことがないんだっけ。
今日の料理は美鈴が作ったのよ。そう、あの緑の服の。咲夜はお休みだから。……え? いえ、病気じゃないわ。血が足りなくなったら困るから、たまには休暇を、ね。そうよ、あなたの食事にも入っていたから、今日はちょっと違う味がするかもしれないわね。
――いらない? 待ちなさい、フランドール。さっき私が云ったこと聞いてた? 本当に貴重なんだから。も、もったいないお化けが出ちゃうわよ! それでも好いの? ――ぎゃおーっ!
…………ごめんなさい、今のは無かったわね。
…………。
……フラン、フランドール?
あなたの云う通りよ。咲夜と同じ人間を、私達は食べているの。それがないと生きていけないから。地下室で引きこもっていても、お腹はやっぱり空くものなのよ。生きるということは、食べるということ。あなたもそろそろ学んだ方が好いわ、色々と。
好い機会だし、――外に出てみないかしら?
哀しいことばかりではないわ。楽しいこともあるのよ。
私の手をつかむだけで好いの、簡単でしょ?
さぁ、――フラン。
……フランドール?
フランドール……。
………。
#05
レミリア・スカーレットは食卓についた。
逆さに十字を切って、「アーメン」と呟いた。
柱時計が夜を刻み続けた。他に音は無かった。
#06
レミリアは従者の枕元に立つ。寝息がリズムを奏でている。血に染まったナイフのような瞳は閉じられていて、柔らかな銀髪が枕に放射状に広がっている。ベッドの縁に腰掛けて、レミリアは十六夜咲夜の髪を手櫛で梳いた。
輸血パックは半分以上、残っている。取り替える必要はなさそうだ。カテーテルの先端はメイドの腕に。紅い滴を、紅い葡萄酒を、従者の身体に与え続けている。まるで聖書に記述のある命の水のように、値なしに飲ませる。
「……顔色も好くなった。魔女様のお陰だな」レミリアは呟いた。「明日から、また忙しくなるぞ。咲夜、好く休んでおけよ」
輸血パックに指先が触れる。
「やれやれ、いつの間に外の人間は吸血鬼になったんだろうなぁ。これだって形を変えた人肉食じゃないか。口から摂取さえしなければ、タブーじゃなくなるのか」
レミリアは瞳を細める。
「……今日は、どうも上手くいかない一日だったよ。パチェからは舌を焦がされた。ちょっとからかっただけなのにさ。フランとは喧嘩。何も食べたくないって。美鈴の料理は絶品だったが、肉だけ微妙に固くて酸っぱかった。この際、贅沢は云ってられんのだろうが」
思いつくままに舌を動かし続けた。
「私は何のためにこの世界に来たんだろう。人間を襲えないせいで、妖怪はどいつもこいつも活きる力を失っているし、人間は飢饉で妖怪どころじゃなくなってる。噂に聞いた楽園とは程遠いよ。私は賭けに負けたんだ」
従者は答えない。
「でも、まだ何もかもが終わってしまった訳じゃない。計画があるんだ。腑抜けた連中を私が叩き直してやる。ディストピアじゃない。本当の妖怪の楽園を作るんだ。賢者がやらないのなら、私がやってやるさ」
鼻緒を指でつまんだ。
「……飲み過ぎたようだ。つい愚痴が出る。もう行くよ、おやすみ」
レミリアは立ち上がりかけて、振り向いた。手首を握りしめられていた。それは無意識の行動のようだった。咲夜は、日向ぼっこをしている羊のように、ぐっすりと眠り続けていた。
「分かった。――分かったよ」
ベッドに座り直した。彼女の差し伸ばされた手に、もう片方の手を重ねて深呼吸する。冷たくて、痩せた肌触りだった。出会った頃と比べて見違えるくらい健康的になったのに、この手の感触だけは変わらない。
レミリアは従者の手を握り続けていた。月のない夜が明けるまで。
#07
ワイン・グラスを置いて、レミリア・スカーレットは欠伸を漏らした。
「お嬢様、寝不足ですか?」
「誰かさんのおかげでな」
十六夜咲夜は首を傾げた。レミリアは苦笑を漏らして手を振った。ナプキンで口元を拭き、逆さに十字を切った。
「ご馳走様」
「下げても宜しいので?」
「ああ」
「お気に召しませんでしたか?」
「もう満腹さ。紅茶を頼むよ」
「かしこまりました」
窓際に立ち、カーテンを開いた。今日も世界は鉛色の雲に覆われている。炊事の煙もない。鳥の唄もない。静まり返っている。窓枠に手を突いて、レミリアは初夏であるはずの景色を眺めていた。
「お嬢様、紅茶の用意が」
「――人間はバッタのようなもんだな」
「バッタ?」
「勝手に増えて、勝手に喰い尽くして、勝手に自滅する」
「はあ」
「産めよ、育てよ、地に満てよ」
「…………」
「咲夜、お前はどちらを選ぶ?」
「――選ぶ? 私はお嬢様の従者ですよ」
胸を衝かれたようにレミリアは身を翻し、咲夜と向き合った。
「考えていたんだ。お前も死んだ後くらいは神様に愛されたいんじゃないかと思ってさ。望むのなら、きちんとしたお墓に埋めてやろうかと思ってね。その時は、お前のために十字を切ってやる。逆さじゃない、正立の十字をね」
レミリアは翼を広げた。
「それともさ、神様とすっかり縁を切っちゃおうか? 私は小食だが、今は血に餓えているし、頑張れば飲み切れるだろうさ。お前なら、いきなり私の舌をウェルダンにするなんて真似はしないだろう」
咲夜はあごに人差し指を当てた。まるで今日のディナーの献立を考えているみたいな仕草だった。眉間には皺の一本も浮かんでいなかった。微笑みを浮かべて、彼女は口を開いた。
「……どちらも私の好みではありませんね」
彼女は云うのだ。
「私が使い物にならなくなりましたら、――お嬢様、――どうぞご遠慮なく、私を食べてしまって下さい。美鈴に頼んで、私をお団子に、汁物に、腸詰めに、干し肉にして下さい。それが私の望みです」
レミリアの舌に、昨晩の味が蘇った。「墓は、要らないと?」
「この身はお嬢様に捧げたのです。少なくとも、私達はそう契約したはずです。どうして大地に還さなければならないのでしょう。それは私の契約違反になります」
毛先から、靴のつま先に至るまで、レミリアは咲夜の身体を仔細に眺めた。
「本当に好いのか? 美鈴に任せたら、骨の一本も残らんぞ」
完全で瀟洒に、彼女は笑った。
「――それは結構なことでございますわ」
話はそれきりだった。咲夜は紅茶をカップに注いだ。レミリアも黙して席に戻った。相変わらず、文句の付けようがない香りだった。友人とのいざこざも、姉妹喧嘩も、酸っぱい肉の味も、溶け流れて消えた。
レミリア・スカーレットは唇の端を曲げて云った。
「咲夜、もしかしたら――……」
「何でしょう。お嬢様」
「いや、好いんだ」
続く言葉は紅茶と共に飲み下された。
もしかしたら、咲夜、お前こそがキリストなのかもしれないな。
悪魔にとっての。私にとっての。
~ おしまい ~
(引用元)
Japan Bible Society:The New Testament, The New Interconfessional Translation, 1987.
日本聖書協会『新約聖書 新共同訳』1987年。
(原題)
Das Abendmahl des Teufels
.
あれは言葉であり、道標であり、物語以前のもの、現代の言葉でいうプロットに近い物。
このお話は物語として見るならば今の二倍の文量は欲しい。
オマージュとして見るならば・・・やはり未分化の指標でしかない物。是とも非とも言えず。
故に50点。
さらに個人的な感覚を言えば作者さんらしくなかったか。迷ってる?
死んだら全部食べてくださいと平然と言ってのけてしまう咲夜さんとか好きです
恐ろしいけど怖くない何かが潜んでいるような気がする。
退廃的だけどどこか居心地のいい雰囲気は流石ですね
全作読ませて頂きましたが退廃的だけどなにか安らぐ雰囲気は
共通している感じがします 今では見れなくなった魔性を感じる
レミリア嬢が素敵です 最後の独白も素敵