八月の中頃、知恩寺の骨董市をメリーと見に行った。錆びた古銭や、ひび割れた皿、丈の高い置時計、細かな装飾のついた火縄銃などを見ながら、正午から夕方まで二人境内を回った。その日はあまり境内が暑かったので、私は藤色の舞扇を安く買って、歩きながらバタバタあおいでいた。メリーは仏具を並べた茣蓙の上で見つけた、手の中に隠せるほどの小さな木魚を大いに気に入り買っていた。
ようやく一通りの茣蓙を見尽くして、市を後に南門から往来へ出たところで、「ちょっと散歩していきましょうよ」とメリーが言った。
今出川通を西へ進むと道は鴨川へ突き当たる。川の面には夕焼けの色がちらちらと映っている。対岸には水に足をつけて遊んでいる子供たちと、少し離れた水の上に小鷺が二羽立っているのが見えた。私とメリーは人の多い川辺の風景を左手にして、その流れを辿り川端通を上がった。常林寺の門はすぐに過ぎ、大きかった鴨川の元は二本に別れて左岸は高野川になった。高野川をさらに一町ほど辿ると、その川の上を御蔭橋が架かって御蔭通を東西へ渡している。
私たちは勾配の急な土手を下りて、川辺から橋の手前の中州を見た。中州には、まばらに生えている藪の中、背の低い女の子が身を隠すように腰をかがめている。私たちが川辺を歩いて近付くと、彼女は敏感に察知して立ち上がった。
彼女の格好は、いつでも服の上に水色の分厚い合羽を着て、左右で括り上げた髪には緑のキャスケットを載せている。この女の子のことをメリーは「川の子」と呼んでいた。御蔭橋の「川の子」はメリーの友達である。
「こんにちは、暑いですね」
メリーが丁寧な挨拶をすると、川の子は大きな目をして会釈した。何かある度にいちいち大きな目を開くのは川の子の癖である。
「調子はどうですか」
私が訊くと川の子は「ぼちぼちだよ」と遠いところから答えた。私は訊いた自分ながら、調子とは何の調子のことか考えていなかったので、彼女の曖昧な答えにかえって困ることが無くて済んだ。
水の流れを挟んで世間並みの挨拶を交わした。また土手を上って戻ろうとすると、今度は中州の方から呼ばれて振り向いた。
「そこの、橋の下にある梯子をとって来てくれないかな」
川の子が川辺の一角を指さして私とメリーに言った。見れば橋の影になる土手の途中に三脚、伸ばせば二階まで上れそうな大きな鉄の梯子が確かに並べられている。
私とメリーは頼みを引き受けた。二人は梯子の両端を持ち一脚ずつ土手から水際まで運ぶことにした。私たちが持っていくと、川の子は長靴を履いた脚で水の中をジャブジャブ歩いてきた。そうして水際で梯子を担ぐとまたジャブジャブと中州へ運んだ。川の子は一言も言わず三度往復した。そのとき私はこれに、どうしてせっかくの梯子を中州まで伸ばしてはいけないのだろうと不思議に思ったが、こんな行動は川の子にはありがちなことなのでつまらないことを訊くのは控えることにした。
梯子を運び終えると川の子は「どうもありがとうね」と言った。そうして、水色の袖を擦りながら、何か私たちに御褒美でも差し出すような得意さのある笑みをして、唐突なことを言った。
「今日さ、実験するんだ。ゼロ時にここで。見に来てもいいよ」
言うと川の子はくるりと背を向けて、もう私とメリーには何の用も無いと言うように梯子の上にかがみ込んだ。御蔭橋の下を温い風が吹いて、秘封倶楽部は顔を見合わせた。
私がその女の子のことを知ったのは年の初めの頃であった。
この女の子のことをメリーは「川の子」と呼んでいた。御蔭橋下の川辺に機械部品を骨董市のように並べて自分の工房を開いている女の子である。川の子が持って来る部品は、どれを見ても大きなシリンダーだとか、小さなバルブだとか、だれの目にも単純で自動性のない物ばかりであった。彼女は川へ来るとあとは日が暮れるまでこういう部品を工具で分解したり、組み合わせようとして、また新たに大きな部品のような、機械の死骸のようなものを作っていた。
工学に通じていない私の目から見ても、その組み合わせ方は意図の無い遊びか当てずっぽうとしか思われない。川の子は湿度のメーターの頭にミキサー刃を生やしたがるような技師である。なんであれ自動性のない単純な部品を集める作業からでは、その機械全体が行うようになる役割なんかは容易に知れるはずはなかった。こんな無意味のような機械が川辺に行くと三十いくつも並べられている。当人は「仕事」と呼んでいた。
御蔭橋の「川の子」はメリーの友達である。メリーはよく、故障した時計やドライヤーなどを鞄に入れて来て、川の子に「直せないかしら」と訊いていた。あるときは鞄の中からトースターが現れて、「動かないの」と言って突き出された。川の子はその度に大きな目をして受け取るが、余程単純な故障でもない時は「どうやらパーツを取り替えないと仕方ないね」と陳腐な返事をした。これを聞くとメリーは「じゃあ、あげちゃいます」と言って未練も無さそうに帰る。
私の知るうちでメリーが故障品を直して川から持ち帰ったのは、ノズルのきつく締まり過ぎていた霧吹きが唯一である。そのときはメリーがとても喜んで、帰り道となりを歩く私はいちいち顔に霧を吹きつけられて迷惑した。
メリーの故障品は川の子の手に渡ると、すぐに分解されて細かい物の集まりになってしまう。その中から川の子が気に入ってより分けるのは、ラチェットの歯車や外身を覆う金板や、名前は知らないでもやはり単純とわかる構造、それらを繋ぐ機素であった。聞けばメリーはその分解にかかる巧みな手つきを見物するためにわざわざ故障品を持ち込むのである。
その手つきというのは決して普通ではない。ドライバーもレンチも使い方が恐ろしく大袈裟な感じがする。メリーのトースターが分解された時は、大きな肉の塊でも切り分けるかのように猛烈に見えた。メリーはそれを「上手ねえ」とか「あっという間なのねえ」とか呑気そうなことを言って見ていた。
川の子が土手に座り込んで背中を丸めながら機械を解体しているのを見るときは、その姿がほとんど子供のように小さく見える。傍らに立って面白そうにしているメリーは、髪が横に垂れるほど首をひねって覗き込まなければ手元さえ見えない。私はよく、彼女は本当に近所の児童館に通う子供で、これを利用して誰かが秘封倶楽部をからかっているのではないかという気がする。
「一体どこから来ているの? 川のあの子は?」
「さあ、知らないのよ。どこに住んでるのかしらね?」
私がする「川のあの子」についての質問は、大概はメリーからしても疑問のまま投げ返された。メリーは川の子を川に行けば会えるものという以上にはほとんど推測していなかった。
「メリーより頭一つ分も小さいわ」
「そうね。一体いくつぐらいになるのかしらね?」
「知らないわよ。なんでいつも川に来るの?」
「何してるのかしらね?」
その女の子の話題になると、不思議さを口にするのは私よりかえってメリーの方が多くなってしまった。メリーは川の子をまるで眺めて楽しむための人物のように心得ていたらしい。
私が彼女について興味を誘われたのは、その話し方の独特なことだった。発音は上方の人よりは私に似ているが、それでもどこか余所の国から来た人のような印象で耳に残る。普段の口調は消極的で、秘封倶楽部が挨拶をかけても人見知りをするらしい彼女だったが、好きなことを話しはじめると途端に熱心になった。そんなとき彼女の目は平生よりもさらに大きくなって、私たちの顔をじっと見つめた。
春にメリーと鴨川へ花見に行った途中、御蔭橋へ立ち寄って川の子の仕事を覗いてみると、川辺にはいつにも増して数多い部品が並べられて展示会のようになっていた。それらは大小合わせて五十はあった。なんだか奇観だと思って眺めていたところ、メリーが可笑しそうにして「蓮子はこの中でどれが好きなの?」と変なことを訊いてきたので、私は「じゃあ、これ」と、適当なものを選んで指した。それはコーヒードリッパーの底部から螺旋状に伸びる金属の管を取り付けた突飛な作品だった。
「ソイツは確かにこの中じゃ一番」
二人が話していると、遠巻きに見ていた川の子がそのとき唐突に乗り込んできた。秘封倶楽部は驚いて意外な声の方向を振り向いた。川の子は腕組みをして大きな目を開いていた。
「ソイツは本当ならまだまだ今日明日に使えることはないんだが、先々のことを想像すると必要になってくるんだ。でもな、ここにある仕事の中でちゃーんと完成してあるのは、ソイツだけなんだよ」
川の子は全く得意で仕方がないという調子で語った。私は彼女の語る迂遠な言葉を聞きながら、水平思考という説を思い出していた。
「へえ、じゃあこれでもこの発明は完成してるのね」
ふとしたメリーの言葉に、川の子は不愉快そうな顔もせず「そりゃあ見ての通りドリッパーだもの」と容易な返事をした。
「でもね、ただのドリッパーじゃ済まないよ。どんな状態でもコーヒーを淹れられるんだ」
「どんな状態でもって?」
メリーが先を促すように訊いた。
「例えば、逆立ちさせてもドリップができるんだよ」
「へえ」
メリーは愉快げにドリッパーの底を見た。私はせっかくの独自的な発明が「へえ」ではもったいないなと思った。
「ソイツは言ったように将来のためで作ったんだが、今も同じ構造に助けられる。これで私は電力ではなく水力の方を安く買うことになる……、つまり――」
川の子は言うなり腕組みを解いて川辺を歩き回りながら構造の説明を始めた。ただしそれは言葉が曖昧なうえに、個人の造語らしいなんとか式や、なんとか型とかいうものを引用して話すせいで私にも全く解らなかった。
私は彼女の突然な饒舌さに驚きながら、またその水平思考の一種不条理な文法に恐れ入った。川の子にとってみれば、無関係な部品同士を分解して組み合わせる一見当てずっぽうのようないつもの仕事たちさえも、何か大きな目標へ向けられた試行なのだろうと思った。川の子の頭の中は、私の物理学のように無残に片付けられてはいない。
こう思うようになってからは、御蔭橋の下で座っている川の子の小さな姿が、私にはある痛快な好感を伴って見えた。
春が過ぎてからはメリーが故障品を携えて川へ行くのに付き合って、自分からは「いつもメリーがご迷惑をおかけしています」と言ってお茶やお菓子を差し入れたりするようになった。メリーと私のそれぞれ勝手な興味の視線を受け止めながら、川の子はただ相変わらず大きな眼をして消極的に応じていた。そうしてやはり工具を大袈裟に振り回して仕事をしていた。
メリーも私も、川の子の笑った顔というものはそれまで見たことがなかった。
顔と言えば、頭に載せている緑のキャスケットを取ったところさえ覚えがない。思い返せば背が低くうつむきがちだったその顔は、いつでもよく見え難い位置に隠れていた。ときどきに覗くあの大きな目ばかりが、川の子の印象として残っていた。
七月、夕方の御蔭橋へフレームの歪んだ折り畳み自転車を押してやって来たメリーは、その分解を見学する間に、かねてからの疑問を一つだけ投げかけた。それは「一体ここで何を作ろうとしているの?」というものだった。それを聞いたとき、川の子ははじめて手元から顔を上げて「みんながびっくりするものだよ」とやや低くした声で答えた。
「びっくりして欲しいんだ。だから教えないよ、秘密」
メリーに付き合ってその場にいた私はこれを聞きながら何も言わなかった。メリーは「がっかりだわ」と言ってがっかりしていた。ところへ川の子が思い出したようにまた口を開いた。
「いいや、でも、誰もびっくりしないかもしれないんだ。こんなもの今更だし、意味ないから。……でも、これは出来るだけ粗末な方法で達成するのが目標なんだ。もしそうでなかったら、こんなに時間はかけないんだよ」
川の子はそう独り言のようなことを喋ると、なんだか急に物思いに沈んでしまった。そうして立たせた自転車のサドルの上に手のひらを重ねて、その手をまた上から頬で押さえるようにしながら、大きな目で私とメリーの顔を交互に見つめていた。
知恩寺の骨董市の帰り、梯子を中州へ運ぶ手伝いをして川の子から「実験」の見学に誘いを受けた秘封倶楽部は、顔を見合わせて頷きあった。
「実験って、作っていたものが出来たのかしら?」
もと歩いてきた川端通を足早に下りながら、メリーが言った。私もまた急ぎ足になりながら「そうかもね」と答えた。
「びっくりするようなものかしら?」
メリーは七月に聞いた川の子の言葉を確かに覚えていた。
「びっくりしないかもしれないんでしょう? でも、実験って言ってたときの感じでは、何か大掛かりなことをしそうよね」
「きっとそうよ」
二十一時に御蔭橋でまた会う約束をメリーから何度も念押されて、私たちは準備のためにそれぞれの下宿へ帰ることになった。
お風呂に入って昼間の服を着替えて夕飯を用意していると、窓の外で微かに雨音がした。見上げるとあんなに夕焼けだった空はいつの間にか鈍色に変わって、予報にもなかった小雨が降っている。この雨が止む予報が出ていないか調べたり、折り畳める傘を探すことに手間を取っていたら、結局、乗るバスを一本逃してしまった。雨の御蔭橋まで戻り着いた時には、二十一時を三十分も遅れていたが、予定のゼロ時には間に合ったので、先に着いて待っていたメリーも怒ったようなことは言わないでくれた。
メリーと川の子は御蔭橋の真ん中に立って、水の流れを見下ろしていた。メリーは大きな白い傘を差していて、左岸から遠巻きに見たときには、雨の橋に西洋婦人の幽霊が立っているようだった。対して川の子は傘を差さず、普段から着用する暑そうな水色の合羽だけで平気にしている。
「合羽はこの日のために着ていたのねえ」
メリーが得心したように言った言葉は、私もこの川の子ならやりそうなことだと思った。
まだ雨は静かな小降りでいるので、高野川の水のかさは平生とほとんど変わりがない。欄干から見下ろすと、中州には三脚の梯子が元を地中に固定され立っているのが、街灯の薄明かりを反射して見える。三脚の配置は、また中州の中央に据えられてある一台の装置を囲むようにしている。
「あれかな?」
川の子は「そうだよ」と短く答えて、欄干から小さな背を乗り出し「あれだよ」とまた言いながら指をさした。
橋の上から見えたその装置は、ほとんど小型の冷蔵庫のような形状で、六方を四角い鉄板で閉じた起伏の無い箱であった。ただ、用意の良いメリーが懐中電灯を向けて照らすと、箱の上部に皿のようなものが見えた。この雨の中で水を溜めている。
「ねえ、あれコーヒードリッパーじゃないの?」
私が気付いて言うと川の子は「そうだよ」とまた短く答えた。
「中もあれと同じ、単純な構造になってる。水力機械だよ」
「雨で動くってこと?」
メリーが訊いた。
「動力の水はもうほとんど入れてある。雨で溜まりきると起動だよ」
「楽しみだわ。びっくりするかしら?」
待つのがたまらないというようにメリーがまた言った。川の子は少し首をひねって考えてから一言「成功すればね」と答えた。
やがて夜が更けるにつれ橋を通る人も自動車も無くなり、下鴨は雨の音だけになっていった。下流にちかちかしていた街の灯もいつしか消え、脚下の中州は闇の中に白く照らされる能舞台のようになった。秘封倶楽部と川の子は、メリーを真ん中にして三人並んで欄干から中州を見つめて待った。待つ沈黙の中でふいに「あのね」と言ったのは川の子だった。
「あのね、たぶんこれからは、私はこの橋には来ないんだよ。会いに来てくれても居ないし、霧吹きも直してあげられないんだよ。だから、たぶんもう二人とは会うことないよ。だから、今日はありがとうね」
小さく細々として雨の中では聞きづらい声だったが、私もメリーも一生懸命に言葉を拾った。
「この橋には来ないってどうして?」
私は折り畳み傘の裏を見つめながら尋ねた。
「場所を変えないといけなくなるんだ」
その言葉に私が不穏な感じを覚えたのと同時に、急にふっと雨が止んで、周囲は深夜の静寂になった。私とメリーは傘を閉じて顔を上げ空を見た。暗い雲の切れ間から満月が現れ、私は今いる場所が御蔭橋の上だとつくづく分かった。瞬間に、足元からお腹の底に重く落ちるような低く大きな爆発音がして、私たちは覚えず体ごと跳ねあがった。空を見上げていたままの視界に、四角な箱の影が現れて無茶苦茶に回転しながら高く飛んでいった。途中側面の鉄板が剥がれて落ちたが、本体はそのまま飛んだ。私は「ロケット!」と、そう叫びたかった。叫べば川の子が「そうだよ!」と言うだろうと思った。しかし咄嗟に声は出なかった。
爆発音がしてから、夜空を見ていた私の目が丁度三・五秒経過を数えた途端、宙を上っていた川の子のロケットはまっすぐに落ちてきた。そうして橋から十数メートル離れた中州の向こう、月の映る平らかな水面に跳び込んで大きなしぶきを上げた。
私はすぐにメリーの手を取って全速力その場を逃げ出した。御蔭橋から下鴨の警察署は目と鼻ほどの距離にあるのだ。
背中の方からは川の子の声が大きくいかにも可笑しそうに笑っているのが聴こえた。その声につられて私とメリーもなんだか非常に可笑しくなり、気が付けば走りながら大笑いしていた。二人とも気が触れた人のようになりながらやっぱり愉快でたまらなかった。走り出した時は夢中だったが、どうやら橋からは右岸へ来たらしい。秘封倶楽部は息も絶え絶えに糺の森へ逃げ込んだ。後のことは何も知らない。
そんなことがあった夜から一年後の春に、四条駅の新聞号外で一般人のための月面旅行が展開を開始したという記事を見た。私はその記事を読みながらふと、結局あの夜の実験は成功していたのだろうかと考えた。
ようやく一通りの茣蓙を見尽くして、市を後に南門から往来へ出たところで、「ちょっと散歩していきましょうよ」とメリーが言った。
今出川通を西へ進むと道は鴨川へ突き当たる。川の面には夕焼けの色がちらちらと映っている。対岸には水に足をつけて遊んでいる子供たちと、少し離れた水の上に小鷺が二羽立っているのが見えた。私とメリーは人の多い川辺の風景を左手にして、その流れを辿り川端通を上がった。常林寺の門はすぐに過ぎ、大きかった鴨川の元は二本に別れて左岸は高野川になった。高野川をさらに一町ほど辿ると、その川の上を御蔭橋が架かって御蔭通を東西へ渡している。
私たちは勾配の急な土手を下りて、川辺から橋の手前の中州を見た。中州には、まばらに生えている藪の中、背の低い女の子が身を隠すように腰をかがめている。私たちが川辺を歩いて近付くと、彼女は敏感に察知して立ち上がった。
彼女の格好は、いつでも服の上に水色の分厚い合羽を着て、左右で括り上げた髪には緑のキャスケットを載せている。この女の子のことをメリーは「川の子」と呼んでいた。御蔭橋の「川の子」はメリーの友達である。
「こんにちは、暑いですね」
メリーが丁寧な挨拶をすると、川の子は大きな目をして会釈した。何かある度にいちいち大きな目を開くのは川の子の癖である。
「調子はどうですか」
私が訊くと川の子は「ぼちぼちだよ」と遠いところから答えた。私は訊いた自分ながら、調子とは何の調子のことか考えていなかったので、彼女の曖昧な答えにかえって困ることが無くて済んだ。
水の流れを挟んで世間並みの挨拶を交わした。また土手を上って戻ろうとすると、今度は中州の方から呼ばれて振り向いた。
「そこの、橋の下にある梯子をとって来てくれないかな」
川の子が川辺の一角を指さして私とメリーに言った。見れば橋の影になる土手の途中に三脚、伸ばせば二階まで上れそうな大きな鉄の梯子が確かに並べられている。
私とメリーは頼みを引き受けた。二人は梯子の両端を持ち一脚ずつ土手から水際まで運ぶことにした。私たちが持っていくと、川の子は長靴を履いた脚で水の中をジャブジャブ歩いてきた。そうして水際で梯子を担ぐとまたジャブジャブと中州へ運んだ。川の子は一言も言わず三度往復した。そのとき私はこれに、どうしてせっかくの梯子を中州まで伸ばしてはいけないのだろうと不思議に思ったが、こんな行動は川の子にはありがちなことなのでつまらないことを訊くのは控えることにした。
梯子を運び終えると川の子は「どうもありがとうね」と言った。そうして、水色の袖を擦りながら、何か私たちに御褒美でも差し出すような得意さのある笑みをして、唐突なことを言った。
「今日さ、実験するんだ。ゼロ時にここで。見に来てもいいよ」
言うと川の子はくるりと背を向けて、もう私とメリーには何の用も無いと言うように梯子の上にかがみ込んだ。御蔭橋の下を温い風が吹いて、秘封倶楽部は顔を見合わせた。
私がその女の子のことを知ったのは年の初めの頃であった。
この女の子のことをメリーは「川の子」と呼んでいた。御蔭橋下の川辺に機械部品を骨董市のように並べて自分の工房を開いている女の子である。川の子が持って来る部品は、どれを見ても大きなシリンダーだとか、小さなバルブだとか、だれの目にも単純で自動性のない物ばかりであった。彼女は川へ来るとあとは日が暮れるまでこういう部品を工具で分解したり、組み合わせようとして、また新たに大きな部品のような、機械の死骸のようなものを作っていた。
工学に通じていない私の目から見ても、その組み合わせ方は意図の無い遊びか当てずっぽうとしか思われない。川の子は湿度のメーターの頭にミキサー刃を生やしたがるような技師である。なんであれ自動性のない単純な部品を集める作業からでは、その機械全体が行うようになる役割なんかは容易に知れるはずはなかった。こんな無意味のような機械が川辺に行くと三十いくつも並べられている。当人は「仕事」と呼んでいた。
御蔭橋の「川の子」はメリーの友達である。メリーはよく、故障した時計やドライヤーなどを鞄に入れて来て、川の子に「直せないかしら」と訊いていた。あるときは鞄の中からトースターが現れて、「動かないの」と言って突き出された。川の子はその度に大きな目をして受け取るが、余程単純な故障でもない時は「どうやらパーツを取り替えないと仕方ないね」と陳腐な返事をした。これを聞くとメリーは「じゃあ、あげちゃいます」と言って未練も無さそうに帰る。
私の知るうちでメリーが故障品を直して川から持ち帰ったのは、ノズルのきつく締まり過ぎていた霧吹きが唯一である。そのときはメリーがとても喜んで、帰り道となりを歩く私はいちいち顔に霧を吹きつけられて迷惑した。
メリーの故障品は川の子の手に渡ると、すぐに分解されて細かい物の集まりになってしまう。その中から川の子が気に入ってより分けるのは、ラチェットの歯車や外身を覆う金板や、名前は知らないでもやはり単純とわかる構造、それらを繋ぐ機素であった。聞けばメリーはその分解にかかる巧みな手つきを見物するためにわざわざ故障品を持ち込むのである。
その手つきというのは決して普通ではない。ドライバーもレンチも使い方が恐ろしく大袈裟な感じがする。メリーのトースターが分解された時は、大きな肉の塊でも切り分けるかのように猛烈に見えた。メリーはそれを「上手ねえ」とか「あっという間なのねえ」とか呑気そうなことを言って見ていた。
川の子が土手に座り込んで背中を丸めながら機械を解体しているのを見るときは、その姿がほとんど子供のように小さく見える。傍らに立って面白そうにしているメリーは、髪が横に垂れるほど首をひねって覗き込まなければ手元さえ見えない。私はよく、彼女は本当に近所の児童館に通う子供で、これを利用して誰かが秘封倶楽部をからかっているのではないかという気がする。
「一体どこから来ているの? 川のあの子は?」
「さあ、知らないのよ。どこに住んでるのかしらね?」
私がする「川のあの子」についての質問は、大概はメリーからしても疑問のまま投げ返された。メリーは川の子を川に行けば会えるものという以上にはほとんど推測していなかった。
「メリーより頭一つ分も小さいわ」
「そうね。一体いくつぐらいになるのかしらね?」
「知らないわよ。なんでいつも川に来るの?」
「何してるのかしらね?」
その女の子の話題になると、不思議さを口にするのは私よりかえってメリーの方が多くなってしまった。メリーは川の子をまるで眺めて楽しむための人物のように心得ていたらしい。
私が彼女について興味を誘われたのは、その話し方の独特なことだった。発音は上方の人よりは私に似ているが、それでもどこか余所の国から来た人のような印象で耳に残る。普段の口調は消極的で、秘封倶楽部が挨拶をかけても人見知りをするらしい彼女だったが、好きなことを話しはじめると途端に熱心になった。そんなとき彼女の目は平生よりもさらに大きくなって、私たちの顔をじっと見つめた。
春にメリーと鴨川へ花見に行った途中、御蔭橋へ立ち寄って川の子の仕事を覗いてみると、川辺にはいつにも増して数多い部品が並べられて展示会のようになっていた。それらは大小合わせて五十はあった。なんだか奇観だと思って眺めていたところ、メリーが可笑しそうにして「蓮子はこの中でどれが好きなの?」と変なことを訊いてきたので、私は「じゃあ、これ」と、適当なものを選んで指した。それはコーヒードリッパーの底部から螺旋状に伸びる金属の管を取り付けた突飛な作品だった。
「ソイツは確かにこの中じゃ一番」
二人が話していると、遠巻きに見ていた川の子がそのとき唐突に乗り込んできた。秘封倶楽部は驚いて意外な声の方向を振り向いた。川の子は腕組みをして大きな目を開いていた。
「ソイツは本当ならまだまだ今日明日に使えることはないんだが、先々のことを想像すると必要になってくるんだ。でもな、ここにある仕事の中でちゃーんと完成してあるのは、ソイツだけなんだよ」
川の子は全く得意で仕方がないという調子で語った。私は彼女の語る迂遠な言葉を聞きながら、水平思考という説を思い出していた。
「へえ、じゃあこれでもこの発明は完成してるのね」
ふとしたメリーの言葉に、川の子は不愉快そうな顔もせず「そりゃあ見ての通りドリッパーだもの」と容易な返事をした。
「でもね、ただのドリッパーじゃ済まないよ。どんな状態でもコーヒーを淹れられるんだ」
「どんな状態でもって?」
メリーが先を促すように訊いた。
「例えば、逆立ちさせてもドリップができるんだよ」
「へえ」
メリーは愉快げにドリッパーの底を見た。私はせっかくの独自的な発明が「へえ」ではもったいないなと思った。
「ソイツは言ったように将来のためで作ったんだが、今も同じ構造に助けられる。これで私は電力ではなく水力の方を安く買うことになる……、つまり――」
川の子は言うなり腕組みを解いて川辺を歩き回りながら構造の説明を始めた。ただしそれは言葉が曖昧なうえに、個人の造語らしいなんとか式や、なんとか型とかいうものを引用して話すせいで私にも全く解らなかった。
私は彼女の突然な饒舌さに驚きながら、またその水平思考の一種不条理な文法に恐れ入った。川の子にとってみれば、無関係な部品同士を分解して組み合わせる一見当てずっぽうのようないつもの仕事たちさえも、何か大きな目標へ向けられた試行なのだろうと思った。川の子の頭の中は、私の物理学のように無残に片付けられてはいない。
こう思うようになってからは、御蔭橋の下で座っている川の子の小さな姿が、私にはある痛快な好感を伴って見えた。
春が過ぎてからはメリーが故障品を携えて川へ行くのに付き合って、自分からは「いつもメリーがご迷惑をおかけしています」と言ってお茶やお菓子を差し入れたりするようになった。メリーと私のそれぞれ勝手な興味の視線を受け止めながら、川の子はただ相変わらず大きな眼をして消極的に応じていた。そうしてやはり工具を大袈裟に振り回して仕事をしていた。
メリーも私も、川の子の笑った顔というものはそれまで見たことがなかった。
顔と言えば、頭に載せている緑のキャスケットを取ったところさえ覚えがない。思い返せば背が低くうつむきがちだったその顔は、いつでもよく見え難い位置に隠れていた。ときどきに覗くあの大きな目ばかりが、川の子の印象として残っていた。
七月、夕方の御蔭橋へフレームの歪んだ折り畳み自転車を押してやって来たメリーは、その分解を見学する間に、かねてからの疑問を一つだけ投げかけた。それは「一体ここで何を作ろうとしているの?」というものだった。それを聞いたとき、川の子ははじめて手元から顔を上げて「みんながびっくりするものだよ」とやや低くした声で答えた。
「びっくりして欲しいんだ。だから教えないよ、秘密」
メリーに付き合ってその場にいた私はこれを聞きながら何も言わなかった。メリーは「がっかりだわ」と言ってがっかりしていた。ところへ川の子が思い出したようにまた口を開いた。
「いいや、でも、誰もびっくりしないかもしれないんだ。こんなもの今更だし、意味ないから。……でも、これは出来るだけ粗末な方法で達成するのが目標なんだ。もしそうでなかったら、こんなに時間はかけないんだよ」
川の子はそう独り言のようなことを喋ると、なんだか急に物思いに沈んでしまった。そうして立たせた自転車のサドルの上に手のひらを重ねて、その手をまた上から頬で押さえるようにしながら、大きな目で私とメリーの顔を交互に見つめていた。
知恩寺の骨董市の帰り、梯子を中州へ運ぶ手伝いをして川の子から「実験」の見学に誘いを受けた秘封倶楽部は、顔を見合わせて頷きあった。
「実験って、作っていたものが出来たのかしら?」
もと歩いてきた川端通を足早に下りながら、メリーが言った。私もまた急ぎ足になりながら「そうかもね」と答えた。
「びっくりするようなものかしら?」
メリーは七月に聞いた川の子の言葉を確かに覚えていた。
「びっくりしないかもしれないんでしょう? でも、実験って言ってたときの感じでは、何か大掛かりなことをしそうよね」
「きっとそうよ」
二十一時に御蔭橋でまた会う約束をメリーから何度も念押されて、私たちは準備のためにそれぞれの下宿へ帰ることになった。
お風呂に入って昼間の服を着替えて夕飯を用意していると、窓の外で微かに雨音がした。見上げるとあんなに夕焼けだった空はいつの間にか鈍色に変わって、予報にもなかった小雨が降っている。この雨が止む予報が出ていないか調べたり、折り畳める傘を探すことに手間を取っていたら、結局、乗るバスを一本逃してしまった。雨の御蔭橋まで戻り着いた時には、二十一時を三十分も遅れていたが、予定のゼロ時には間に合ったので、先に着いて待っていたメリーも怒ったようなことは言わないでくれた。
メリーと川の子は御蔭橋の真ん中に立って、水の流れを見下ろしていた。メリーは大きな白い傘を差していて、左岸から遠巻きに見たときには、雨の橋に西洋婦人の幽霊が立っているようだった。対して川の子は傘を差さず、普段から着用する暑そうな水色の合羽だけで平気にしている。
「合羽はこの日のために着ていたのねえ」
メリーが得心したように言った言葉は、私もこの川の子ならやりそうなことだと思った。
まだ雨は静かな小降りでいるので、高野川の水のかさは平生とほとんど変わりがない。欄干から見下ろすと、中州には三脚の梯子が元を地中に固定され立っているのが、街灯の薄明かりを反射して見える。三脚の配置は、また中州の中央に据えられてある一台の装置を囲むようにしている。
「あれかな?」
川の子は「そうだよ」と短く答えて、欄干から小さな背を乗り出し「あれだよ」とまた言いながら指をさした。
橋の上から見えたその装置は、ほとんど小型の冷蔵庫のような形状で、六方を四角い鉄板で閉じた起伏の無い箱であった。ただ、用意の良いメリーが懐中電灯を向けて照らすと、箱の上部に皿のようなものが見えた。この雨の中で水を溜めている。
「ねえ、あれコーヒードリッパーじゃないの?」
私が気付いて言うと川の子は「そうだよ」とまた短く答えた。
「中もあれと同じ、単純な構造になってる。水力機械だよ」
「雨で動くってこと?」
メリーが訊いた。
「動力の水はもうほとんど入れてある。雨で溜まりきると起動だよ」
「楽しみだわ。びっくりするかしら?」
待つのがたまらないというようにメリーがまた言った。川の子は少し首をひねって考えてから一言「成功すればね」と答えた。
やがて夜が更けるにつれ橋を通る人も自動車も無くなり、下鴨は雨の音だけになっていった。下流にちかちかしていた街の灯もいつしか消え、脚下の中州は闇の中に白く照らされる能舞台のようになった。秘封倶楽部と川の子は、メリーを真ん中にして三人並んで欄干から中州を見つめて待った。待つ沈黙の中でふいに「あのね」と言ったのは川の子だった。
「あのね、たぶんこれからは、私はこの橋には来ないんだよ。会いに来てくれても居ないし、霧吹きも直してあげられないんだよ。だから、たぶんもう二人とは会うことないよ。だから、今日はありがとうね」
小さく細々として雨の中では聞きづらい声だったが、私もメリーも一生懸命に言葉を拾った。
「この橋には来ないってどうして?」
私は折り畳み傘の裏を見つめながら尋ねた。
「場所を変えないといけなくなるんだ」
その言葉に私が不穏な感じを覚えたのと同時に、急にふっと雨が止んで、周囲は深夜の静寂になった。私とメリーは傘を閉じて顔を上げ空を見た。暗い雲の切れ間から満月が現れ、私は今いる場所が御蔭橋の上だとつくづく分かった。瞬間に、足元からお腹の底に重く落ちるような低く大きな爆発音がして、私たちは覚えず体ごと跳ねあがった。空を見上げていたままの視界に、四角な箱の影が現れて無茶苦茶に回転しながら高く飛んでいった。途中側面の鉄板が剥がれて落ちたが、本体はそのまま飛んだ。私は「ロケット!」と、そう叫びたかった。叫べば川の子が「そうだよ!」と言うだろうと思った。しかし咄嗟に声は出なかった。
爆発音がしてから、夜空を見ていた私の目が丁度三・五秒経過を数えた途端、宙を上っていた川の子のロケットはまっすぐに落ちてきた。そうして橋から十数メートル離れた中州の向こう、月の映る平らかな水面に跳び込んで大きなしぶきを上げた。
私はすぐにメリーの手を取って全速力その場を逃げ出した。御蔭橋から下鴨の警察署は目と鼻ほどの距離にあるのだ。
背中の方からは川の子の声が大きくいかにも可笑しそうに笑っているのが聴こえた。その声につられて私とメリーもなんだか非常に可笑しくなり、気が付けば走りながら大笑いしていた。二人とも気が触れた人のようになりながらやっぱり愉快でたまらなかった。走り出した時は夢中だったが、どうやら橋からは右岸へ来たらしい。秘封倶楽部は息も絶え絶えに糺の森へ逃げ込んだ。後のことは何も知らない。
そんなことがあった夜から一年後の春に、四条駅の新聞号外で一般人のための月面旅行が展開を開始したという記事を見た。私はその記事を読みながらふと、結局あの夜の実験は成功していたのだろうかと考えた。
少女の扱う機械が有機的で、扱う様の描写も面白いです。機械の死骸っていい表現だなぁ。
学生時代の夏は、少年時代よりも知識があって大人時代よりも未知が深い
新しいことと古いことが一緒くたに混じり合った何とも言えない季節ですが
そんな最先端な憧憬を抱けるお話でした。
月に照らされた橋の上と水面が目に浮かびます。
とても面白かったです。
大空魔術のキーワードを配置して本編へつなげる手法素晴らしいです。
>知恩寺の骨董市の帰り
しぶいなこのJDたち!
川の子(にとり?)はロケットで幻想郷に帰ろうとしたのでしょうか?
素敵でした
現実の地名が細かく載っていることで、その不思議な空気がさらに濃くなっていたと感じました
思わずストリートビューで御蔭橋を調べて「あ、この中州だ」なんてことをやってしまいましたよ
子供の頃、夢中でクッキーの缶に蒐めたあのガラクタたちは、今どこにいるのだろう…
彼女たちの興味は少しずれていてそれが痛感するのだろうか
満足いたしました
次作も期待しております。