鰻は遂に、この世から姿を消した。男にとって重要な事はただそれだけだ。
獲り過ぎだとか食べ過ぎだとか、そんな事はどうでも良い。ただ、もう鰻が食べられないという、その事実だけが、男にとって何よりも重要なのだ。
男は鰻を愛していた。夏に鰻を食べて精を付け、冬に旬の鰻を笑顔で頬張った。東で蒸されて脂の落とされた、上品な風味を嗜み、西で脂の乗った力強い肉をかき込んだ。東西の境にある鰻の名産地で、西と東の味を往復する事もあった。タレの染み込んだ米と共に、白焼きを酒と共に、肝を麸と吸い物に共に。四六時中、ありとあらゆる形で鰻の味を慈しんだ。
男に伴侶も子も居ない。親はとっくに先立っている。友もそう多くない。仕事は安定しているが、とりたてて功績も無い。趣味と言える趣味も特に無い。
男にとって、鰻を食する事が、比喩でも冗句でも何でもなく、ただそれだけが人生だった。
しかし鰻は遂に、この世から姿を消した。
煙の立ち込める焼き鳥屋のカウンターで、男は鶏の骨を未練がましく齧っていた。俗にイカダ串と呼ばれる焼き鳥は、骨付きの鶏肉をイカダに見立てて2本の串で刺したものだ。男はただただ、そのイカダ串の骨を延々齧っている。
イカダの形で、タレをたっぷり付けた鶏肉は、男が恋い焦がれた鰻によく似ていた。ただし、見た目だけであるが。
虚ろな目でいつまでも骨を齧る男を気味悪がってか、カウンターだというのに近寄る客はロクに居ない。カウンターの中で新しい串を火にかけた店主が煙たそうな表情を浮かべるが、それは焼き鳥から出た煙が原因ではないだろう。
そんな店主の様子になど目もくれず、気付きもせず、男はいまだ、もう肉など欠片も残ってはいない骨を齧り続けている。
骨というより、男が齧り付いているのは、鰻の記憶に他ならない。イカダの形で串に刺された、鰻のふっくらとした身の食感と味わい、炙られて焦げたタレと煙の香り。そんな、もう既に失われた、記憶の中だけのものを男は似ても似つかない鶏の骨を齧り続ける事で、どうにか思い出そうとしていた。
もういい加減、鳥の骨を齧るにも飽きたか、次はタレを染み込ませたご飯でも頂けば、鰻重や鰻丼の思い出に浸れるとでも思ったか、男は骨から口を離して、店主に焼き鳥丼の注文を告げた。いくら煙たかろうが、客として金を落とすのなら構わないのだろう。威勢の良い声が飛ぶ。
イカダ串の皿を下げられ手持ち無沙汰になった男は、安い焼酎のオンザロックが注がれたグラスへ、手を伸ばした。氷はもう溶けきっていて、すっかり薄まっている。そんな安っぽい味を喉の奥へと事務的に流し込んで、ひと息をついた。
ふと男は、すぐ右隣の席に女が腰掛けている事に気が付いた。カウンターの席は随分と空きがある。何も選んで隣に座らなくても良かろうに。
更に言えば異様さは、その座席だけではない。女は美しくはあったが、その風体こそが正に異様で。金髪に、紫を基調とした奇怪で派手な衣服。何故こんな女が、こんな喧騒と煙に溢れ、小汚いただの焼き鳥屋に押しかけているのか。
そして何故、お冷も料理も女の目前には無いのに、店主も誰も女に気が付かないのか。
しかし、頼んでいた丼が届くと、女に感じていた不可解さなど男の中からすっかりと消え去ってしまう。この男の頭の中には、本当に鰻の事しか無いのである。尤も、今届いたのは鰻ではなく、鰻を思い出すきっかけでしかないが。
そんな鰻ですらないものを、後生大事に味わいながら、男は在りし日の思いでに浸っていた。鶏では代用になどまるでなりはしない筈なのだが、男の常軌を逸した鰻への執着が、それを無理矢理に可能とする。
男の口の中に広がるのは、鰻の蒲焼きの脂と煙とタレをたっぷり染み込ませた、鰻丼の米。今ここにおいて、この焼き鳥の乗った丼は、男の脳内に限ってのみ、鰻丼に変じていた。
そうであれば、どれだけ良かったろうに。
この、全てを鰻に捧げた男をもってしても、無茶なものは無茶なのだ。そも食感や味など全くの別物である。どう手と脳を尽くそうと、鰻以外が鰻になりはしない。
逆に思い出そうとすれば思い出そうとするほど、男の中の鰻の思い出は磨り減り、残酷なまでに掠れていく。
ああ、と、男は静かに嘆いた。半ばまで減らされた丼は、それ以上食べ進められる見込みなど残念ながら無い。
どれだけ嘆き悲しもうと、男の愛した鰻は既に、この世から姿を消しているのだ。
「あなた、余程この世に不満がおありのようね」
右隣からの声に、男はぴくりと肩を揺らした。
不満。不満? 不満などというどころの話ではない。鰻は男の全てだ。鰻を愛し、鰻を食し、鰻を味わう事が、それだけが、男の人生。男にとって鰻の無い生活など、死んでいるも同然だ。
これがどうして、不満などというたったの2文字で片付けられてしまえようか。
男の腸は煮えくり返り、頭は燃え盛り、山のような鰻が蒸されて焼かれて、妄想の中の男の胃に収まっていく。本当にどこまでも、鰻まみれな男である。
「鰻が食べられるところへ連れて行って差し上げようかと、そう思っているのだけれど?」
がばりと、かぶりつくように男は女へ振り向いた。女は表情1つ崩さず、美しくも怪しげな笑みを静かに浮かべている。
しかし男にとっては、救いの天使、いいや天女のように思えてならなかった。彼の脳内では神々しい後光すら差している。全く以て現金なものである。
本当に、鰻がまた食べられるのか。
炙られ焼き目が付きつつもふっくらと優しくほぐれ、米とまろやかに絡み合う鰻がまた食べられるのか。白焼きの鰻を山葵と醤油で艶やかに彩る品の良さがまた味わえるのか。鰻丼、薬味乗せ、出汁茶漬けと、幾度も表情を変える鰻をかき込むひつまぶしをまた楽しめるのか。そうなのか。そうなのか!
食って掛かるように顔を向け、煌々と目を光らせるも、男は興奮の余り言葉を出せず、ぱくぱくと口を開け閉めするばかり。
しかし女はにっこりと笑い、余裕たっぷりに口を開く。
「その通り。だからいらっしゃい。幻想郷は全てを受け容れるのです」
男は何も喋ってなどいない。しかしそんな事、鰻の前では全て些事だ。男は千切れんばかりに何度も何度も首を縦に振っていた。そして。
そして男が1人、姿を消した。
男は遂に、この世から姿を消した。
獲り過ぎだとか食べ過ぎだとか、そんな事はどうでも良い。ただ、もう鰻が食べられないという、その事実だけが、男にとって何よりも重要なのだ。
男は鰻を愛していた。夏に鰻を食べて精を付け、冬に旬の鰻を笑顔で頬張った。東で蒸されて脂の落とされた、上品な風味を嗜み、西で脂の乗った力強い肉をかき込んだ。東西の境にある鰻の名産地で、西と東の味を往復する事もあった。タレの染み込んだ米と共に、白焼きを酒と共に、肝を麸と吸い物に共に。四六時中、ありとあらゆる形で鰻の味を慈しんだ。
男に伴侶も子も居ない。親はとっくに先立っている。友もそう多くない。仕事は安定しているが、とりたてて功績も無い。趣味と言える趣味も特に無い。
男にとって、鰻を食する事が、比喩でも冗句でも何でもなく、ただそれだけが人生だった。
しかし鰻は遂に、この世から姿を消した。
煙の立ち込める焼き鳥屋のカウンターで、男は鶏の骨を未練がましく齧っていた。俗にイカダ串と呼ばれる焼き鳥は、骨付きの鶏肉をイカダに見立てて2本の串で刺したものだ。男はただただ、そのイカダ串の骨を延々齧っている。
イカダの形で、タレをたっぷり付けた鶏肉は、男が恋い焦がれた鰻によく似ていた。ただし、見た目だけであるが。
虚ろな目でいつまでも骨を齧る男を気味悪がってか、カウンターだというのに近寄る客はロクに居ない。カウンターの中で新しい串を火にかけた店主が煙たそうな表情を浮かべるが、それは焼き鳥から出た煙が原因ではないだろう。
そんな店主の様子になど目もくれず、気付きもせず、男はいまだ、もう肉など欠片も残ってはいない骨を齧り続けている。
骨というより、男が齧り付いているのは、鰻の記憶に他ならない。イカダの形で串に刺された、鰻のふっくらとした身の食感と味わい、炙られて焦げたタレと煙の香り。そんな、もう既に失われた、記憶の中だけのものを男は似ても似つかない鶏の骨を齧り続ける事で、どうにか思い出そうとしていた。
もういい加減、鳥の骨を齧るにも飽きたか、次はタレを染み込ませたご飯でも頂けば、鰻重や鰻丼の思い出に浸れるとでも思ったか、男は骨から口を離して、店主に焼き鳥丼の注文を告げた。いくら煙たかろうが、客として金を落とすのなら構わないのだろう。威勢の良い声が飛ぶ。
イカダ串の皿を下げられ手持ち無沙汰になった男は、安い焼酎のオンザロックが注がれたグラスへ、手を伸ばした。氷はもう溶けきっていて、すっかり薄まっている。そんな安っぽい味を喉の奥へと事務的に流し込んで、ひと息をついた。
ふと男は、すぐ右隣の席に女が腰掛けている事に気が付いた。カウンターの席は随分と空きがある。何も選んで隣に座らなくても良かろうに。
更に言えば異様さは、その座席だけではない。女は美しくはあったが、その風体こそが正に異様で。金髪に、紫を基調とした奇怪で派手な衣服。何故こんな女が、こんな喧騒と煙に溢れ、小汚いただの焼き鳥屋に押しかけているのか。
そして何故、お冷も料理も女の目前には無いのに、店主も誰も女に気が付かないのか。
しかし、頼んでいた丼が届くと、女に感じていた不可解さなど男の中からすっかりと消え去ってしまう。この男の頭の中には、本当に鰻の事しか無いのである。尤も、今届いたのは鰻ではなく、鰻を思い出すきっかけでしかないが。
そんな鰻ですらないものを、後生大事に味わいながら、男は在りし日の思いでに浸っていた。鶏では代用になどまるでなりはしない筈なのだが、男の常軌を逸した鰻への執着が、それを無理矢理に可能とする。
男の口の中に広がるのは、鰻の蒲焼きの脂と煙とタレをたっぷり染み込ませた、鰻丼の米。今ここにおいて、この焼き鳥の乗った丼は、男の脳内に限ってのみ、鰻丼に変じていた。
そうであれば、どれだけ良かったろうに。
この、全てを鰻に捧げた男をもってしても、無茶なものは無茶なのだ。そも食感や味など全くの別物である。どう手と脳を尽くそうと、鰻以外が鰻になりはしない。
逆に思い出そうとすれば思い出そうとするほど、男の中の鰻の思い出は磨り減り、残酷なまでに掠れていく。
ああ、と、男は静かに嘆いた。半ばまで減らされた丼は、それ以上食べ進められる見込みなど残念ながら無い。
どれだけ嘆き悲しもうと、男の愛した鰻は既に、この世から姿を消しているのだ。
「あなた、余程この世に不満がおありのようね」
右隣からの声に、男はぴくりと肩を揺らした。
不満。不満? 不満などというどころの話ではない。鰻は男の全てだ。鰻を愛し、鰻を食し、鰻を味わう事が、それだけが、男の人生。男にとって鰻の無い生活など、死んでいるも同然だ。
これがどうして、不満などというたったの2文字で片付けられてしまえようか。
男の腸は煮えくり返り、頭は燃え盛り、山のような鰻が蒸されて焼かれて、妄想の中の男の胃に収まっていく。本当にどこまでも、鰻まみれな男である。
「鰻が食べられるところへ連れて行って差し上げようかと、そう思っているのだけれど?」
がばりと、かぶりつくように男は女へ振り向いた。女は表情1つ崩さず、美しくも怪しげな笑みを静かに浮かべている。
しかし男にとっては、救いの天使、いいや天女のように思えてならなかった。彼の脳内では神々しい後光すら差している。全く以て現金なものである。
本当に、鰻がまた食べられるのか。
炙られ焼き目が付きつつもふっくらと優しくほぐれ、米とまろやかに絡み合う鰻がまた食べられるのか。白焼きの鰻を山葵と醤油で艶やかに彩る品の良さがまた味わえるのか。鰻丼、薬味乗せ、出汁茶漬けと、幾度も表情を変える鰻をかき込むひつまぶしをまた楽しめるのか。そうなのか。そうなのか!
食って掛かるように顔を向け、煌々と目を光らせるも、男は興奮の余り言葉を出せず、ぱくぱくと口を開け閉めするばかり。
しかし女はにっこりと笑い、余裕たっぷりに口を開く。
「その通り。だからいらっしゃい。幻想郷は全てを受け容れるのです」
男は何も喋ってなどいない。しかしそんな事、鰻の前では全て些事だ。男は千切れんばかりに何度も何度も首を縦に振っていた。そして。
そして男が1人、姿を消した。
男は遂に、この世から姿を消した。
完全養殖までまだまだ障害は多いらしいし時間かかりそうだしそもそも研究が続けられるんだろうか
まあいつかこうなるだろうとは思ってたけども
うちじゃ年に5匹も食わないが、それでも食えないとなると寂しいというか腹が立つ
鰻に鮪に鯨、俺らの食文化全部群がって挙句に潰していきやがる
そんなに牛肉を売りつけたいんだろうかね、お前らの肉なんて買ってたまるか
見ろ
中国産の安いやつとかは大量にあるし
こまけぇこたぁ(ry
…するのかなぁ
紫さん私も幻想卿へ連れてってください
今年は豊漁らしいから食えたらいいなぁ。