寅丸さんにお酒飲ますんじゃなかった 上
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※前作です
「……なるほどね。概ねのところは理解したよ。君たちの現状と、これから成すべきことについて……ね」
如何にも傲岸不遜な表情を浮かべた少女が、腰掛けている墓石の上でゆったりと足を組み替える。
その仕草はどこかねっとりとした退廃の空気を漂わせ、昼日中の墓地というシチュエーションをまるで無視した雰囲気へと変貌させてしまう。
まるで娼館のように。
まるで阿片窟のように。
「いやはや……ずいぶんと面倒くさい目にあってしまったモノだね? 椛クン。犬走椛クン。ふふ……通過儀礼を経ずして懐胎に至るだなんて――私は寡聞にして、君か聖母マリアくらいにしか思い当たる節がないな……」
「はぁ……」
地面に膝を畳んだ私は、そんな曖昧なこと極まりない生返事を、声帯から絞り出すので精一杯だった。
正座である。
恐れ多くも死者の墓標を、まるでそれが玉座でもあるかのように腰掛ける少女から、そうしろと命じられた訳じゃない。けれど、この少女と相対していると、こうして少女の言葉を耳にしていると、どうしてかそう在るべきだという気にさせられてしまうから、不思議だ。
「……その……それで?」
私の隣で同じように正座をしている寅丸星が、おずおずと墓石の上の少女へと問いかける。生気のまるでない、陶器のような青白い顔へ向けて。
「なにかな?」
「アナタの言葉から判ずるに――いえ、つまり、我々は、アナタの協力を得られると、解釈しても良いのでしょうか?」
一つ一つ、言葉を選ぶように目線を揺らめかせながら、寅丸が問うた。
――協力を得る。
その言葉を聞けば、さっきまでの私たちは何のことか判らず首を傾げたに違いない。
どうしてこの少女に、お伺いを立てるようなセリフを吐くのか。
どうしてこの少女を、どこかの貴族でも相手するように扱うのか。
それは何も私らだけじゃなく、幻想郷にあって彼女のことを知る人物ならば、誰しもが不思議に感じただろう。
不思議。
もしくは不自然。
あるいは奇妙。
傍目から見れば眉根をひそめるに違いない光景に荷担しながら、私はどこか他人事みたいな思考を巡らせる。私たちが今やってることは、すごく変なことなんだろうな、と。
たっぷりと勿体ぶるような間を置いた少女は、やがて喉をくつくつと鳴らして笑う。
さも愉快そうに、可笑しそうに――笑う。
「『協力を得られる』――ね。そんなに畏まらなくても良いよ。星クン。寅丸星クン……『是非もない』というのが、私の答えだ。『あの女狐』には、私も一泡吹かせてやりたいと思っていたのだから……まぁ、理由は察せられるだろうがね」
ぎこちなく肩を竦めた少女は、にんまりと唇を歪めて笑う。
蠱惑的に、そして退廃的に。
底のない穴の淵でこちらを見返して来る深淵のように、その真意は計り知れなく、そして伺い切ることができない。
「良いだろう――君たちの計画に、荷担させて貰うよ……最近、幻想郷でも流行っただろう? 下剋上――レジスタンスって奴さ。フフフ……私をこんな身分に貶めたあの女が、どんな綺麗な絶望の表情に染まるのか、愉しみだよ――」
――さあ、復讐劇を始めようじゃないか。
そう言って彼女は。
少女――宮古芳香は、両手を広げて宣言した。
◆◆◆
……いや、流石に説明が必要だろう。
ぶっちゃけ私らだって意味判ってないもん。このシチュエーション。何なん? 予想の斜め上ってレベルじゃ無いでしょ。イミフ。理解する脳みそが現状を明後日の方向へと全力投球してるわ。どうしてこうなった。どうしてこうなった。
もう整理すんのめんどいからお家に帰って寝ていい? ダメ? ですよねー。なんせ自分のことだし。このまま放置したら、ヤバいことになるのは見えてるし。やれやれっすわ。
さて――ええと……。
――にとり、そして仙川さんに別れを告げた我々は、目下のところ私の腹を何とかしないといかんという訳で、邪仙――霍青娥との接触を最優先に行動することで合意した。
しかしながらあちらさんは神出鬼没、どこに住んでいるかもよく判らん上に寅丸とは敵対する立場。加えて昨晩(全然覚えてないとは言え)一悶着を起こしていることは疑いの余地もなく、正攻法での接触はまず不可能なことは想像に難くない。
そこで寅丸が考え付いた策というのが、命蓮寺裏手の墓場に居付いている霍青娥の手下、宮古芳香というキョンシーの捕縛だった。
青娥はそいつを猫可愛がりしているらしく、そのキョンシーさえ人質に取れれば、接触と交渉が可能になるだろうとのことだった。
……つくづく寅丸が仏門にあるなんて信じがたい、えげつないこと極まりない作戦だが、背に腹は代えられない。他ならぬ自分の腹のためだ。一も二もなく私は同意した。
腹の中で急成長する、訳の判らん生物を出産するとか怖過ぎるもんね。
ベルセ○クの世界かよって感じ。
「……しかし、本当にその邪仙を捕まえれば何とかなるんすよね?」
流石に何とか二日酔いも和らぎつつあったので、口の軽い野次馬に見つからないよう、こっそりと空を飛んで山を下りながら、私は先導する寅丸の背に再確認をした。私の仕事道具はにとりに預かって貰っているので、手軽で動きやすい。なんせ体調が体調だ。身体は軽くしておくに越したことはないとの判断だった。
いやはや、飛んでみるとハッキリ判るけど、かなり腹具合は良くなかった。すんごく身体が重い。腹部の皮膚も突っ張ってるのが如実に感じられる。つわりやら陣痛やら、そんなリアルなアレは無かったけど、残された時間はあんまり長くないってことは確かだった。
「十中八九なんとかなります。希望を捨てずに邁進あるのみですよ」
雲の上を先導する寅丸がグッと拳を握ってほほえんでくる。無駄にいい笑顔だ。しかしながら頼りがいをまるで感じられない私は、肩を竦めて励ましをスルーする。
性格悪いとか言わないで。
マタニティブルーなんです。
「そろそろですね……お寺の皆さんには、見つからないようにしてください。特に聖には」
「へーい」
「大丈夫ですか……? 本当の本当に判って貰えてますか……? 私の社会的な死亡だけじゃなくて、アナタの安全のためにも言っているのですよ……?」
「へいへい。判ってますって」
「万が一見つかったら、『ペッチン』されますよ?」
「擬音だけは可愛いっすね……いやいや、大丈夫ですって……」
ナズーリンも怒ってたしなぁ。私に対して。
聖白蓮に現状の諸々を誤解されたら、あんなもんじゃきっと済まないだろう。彼女の体育会系っぷりは山の妖怪をもってして畏怖の文脈で語られる。いつもニコニコ笑ってる人というのは、概して怒ったら凄く怖いものなのだ。強者は大抵、笑顔である。
昨晩の痴態という情報。それはまだ、私の家を片付けてくれているであろうナズーリンの耳までで留まっている。だから命蓮寺の面々には、知られていないだろう。じゃなきゃ、こんな呑気に空を飛んでいられる筈もあるまい。
大丈夫。バレたらヤバいだろう、ということくらいは百も承知だ。
人間を超越した阿闍梨から「お仕置きです」なんて『ペッチン』されたら、私は死んでしまうぞ。
だってあの人、拳で鐘鳴らすんでしょ?
『ペッチン』された部分が爆散しそう。ミサイルめいたデコピンで死ぬのは勘弁願いたい。
そんな訳で隠密起動、了解、了承である。バレたらアウトとは言え、こちとらこれでも山岳警備のプロなのだ。レーダーでも無い限り、私が見つかることはあるまい。
人里に近づいた頃合いを見て雲の下へと移った我々は、私の『眼』を慎重に運用しつつ、目指す命蓮寺裏手の墓地へと降下していく。そろそろお昼時といった時間帯だ。眼下に伺える人々は昼飯を何にするかの思案に忙しく、こちらを不用意に見上げて来る輩の姿は見当たらない……そう言えば朝から麦茶しか口にしてないな。吐き気が収まってきたせいか、空腹を感じる。不気味な占領者が私の腹の中から居なくなってくれたら、軽く何か食べようかな。
なんてことを考えている内に、私たちは何事もなく墓地の敷地内へと両足を降ろす――ふむ、時間帯が幸いしてくれたおかげか、墓参りに来ている奴はいないようだった。好都合だ。ようやく、私たちにも運気が巡って来たってわけか。
「この奥です。道教連中が眠っていた霊廟の前に、宮古芳香が居るはずです」
乱立する墓石や卒塔婆の向こうを指してから、寅丸はきびきびと歩き出す。その背を追い掛けながら何とはなしに空を見上げる。澄んだ青空は、蕾の膨らみ始めた桜の枝によって網目状に区切られていた。これから春になれば、ひしめく桜花が空を隠してしまうのだろう。
「あれ。今って初夏じゃありませんでしたっけ?」
「何を言っているのかよく判りませんね。びっくりするくらい冬っすけど」
「でも――」
「冬です。すげえ冬。肌寒いでしょ? 今の季節はウィンター。良いね?」
「……えぇ」
さて、かなり広い墓地を進んで行く。狭い狭い幻想郷で、こんなに大量の死者が眠る場所を必要としていることに軽く驚きつつ。
数分も歩いただろうか、墓石の向こう側に古めかしい青銅の扉が見えてくると、不意に足を止めた寅丸が墓石の陰に身を隠しながら、
「……居ました。アレです」
言って、ぎこちなく扉の前に立つ一人の少女を指差した。青い帽子、妙に上等そうなシャツとスカート。そして額に何やら赤字で書き連ねられたお札をぶら下げた、いかにも不健康そうな少女。ピンと前方に伸ばされた両手は、木枯らしに吹かれる古木のように凝り固まっているらしかった。
「あれがその、宮古芳香っつーキョンシーっすか」
「いかにも。霍青娥の手下にして、猫可愛がりされる秘蔵っ子です」
秘蔵にしちゃ堂々と放置されてるようだが、まぁ細かいことは置いておいて。
「……で、どうします?」
「まあ、幸いあの少女は頭も悪いし動きも鈍感なので、噛まれないようにだけ気を付ければ打ち倒すのは難しいことじゃありません。堂々と正面から掻っ攫いましょう」
そう断ずると、寅丸は大した気構えもなく普通に歩いて宮古芳香の方へと向かって行く。私がその背を追うと、あちらさんも私らの接近に気付いたようで「む!」なんて言いつつ大儀そうにこちらを向いて、
「ちーかよーるなー!」
と、威嚇してくる。
うん。
なるほど、その声の響きに知性らしき何かは毛ほども感じられないな。
「何者だお前らはぁ! この場所をあのお方の眠る霊廟と知っての狼藉かぁ! 命が惜しくば引き返せぇ!」
「……もうとっくに起きて、精力的に活動してるんですがねぇ」
忌々しいことに。と付け加えて、寅丸は芳香に歩み寄りつつも私に向けて肩を竦めて見せる。
「むぅ! 来るかぁ! 芳香はせーがの命を守るからな! 向かって来るならしかたない! 芳香の仲間になるがいい!」
警告を聞き流して近づく私らを敵と認定したのか、キョンシーの少女はこちらへ向かって来る。両足をピッタリと着けたまま、ピョンとひと跳び。もう一度、もう一度。将棋の駒を動かしているみたいで、見ようによっちゃ滑稽だ。駒で言ったら何だろう。やっぱ桂馬かな。あの挙動は桂馬っぽい。
「どうします? 肩にでも担いでお持ち帰りコースっすか?」
「暴れられたら面倒です。額のお札を剥がしてやりましょう」
緊張感ゼロで軽く交わしつつ、私らは少女に近づいて行く。
いざ、芳香が攻撃を加えようとぎこちなく両腕を振り上げた所で、寅丸が機敏に飛び掛かる。そして芳香とすれ違いざま、目にも留まらぬ速さで額のお札を引き剥がしてしまった。
おおぅ……コイツ……意外と動けるんだなぁ。
そんな感想を呑気に抱くと、芳香の突っ張っていた両腕がダラリと垂れ下がり、彼女はその場に崩れ落ちる。札を剥がされたことで、キョンシーという妖怪としての規範を失ってしまったってわけだ。
「一丁あがり、ですね」
人差し指と中指の間にヒラヒラと札を挟みつつ、寅丸がにっこりと微笑んでくる。
「はぁ、伊達に虎の妖怪じゃないってことっすか」
「いやぁ、それほどでも……えへへ……」
うわ、ガチで照れてる。めっちゃクネクネしてる。
何だろう……適当な言葉で褒めたのが申し訳なくなるわ。
「……なんか、すんませんっした」
「え? 何がです?」
「なんでもないっすよ。どうします? どっかに移動するんすか?」
「いえ、ここで待機しましょう。下手に動いて、霍青娥に私たちを探し回らせるような時間もないでしょうしね」
札を胸元へ捻じ込みながら、寅丸が私の腹をチラと見て来る。その視線で我が腹部の現状が気になった私も衣服の上から、そっと腹を撫でてみる。
……うーん、やっぱり張ってるなぁ。普通の妊婦さんと比較するに、大体六、七か月くらいだろうか。朝は四、五ってところだったので、この数時間で軽く一か月分はご成長遊ばれてるってわけだ。私のお腹の中のヤンシャオグイさまは。
………………。
…………。
……憂鬱だなぁ。
「――椛さん。そう悲しげな顔をしないで下さい」
ポンと肩に手を乗せてきた寅丸が、私の両目を見据えながらゆっくりと頷く。
「絶対、何とかなります。私を信じて」
「……あー」
クソ。
不覚にもウルッと来てしまった。
これも宗教家の手腕って奴か? 不安なときにやられると覿面だな。
なんて心象の揺らぎを悟られたくなくて、私は寅丸の顔から目を背けつつ、
「――そうなると良いっすねー」
と、興味のない振りを装って強がるのだった。
「ふふふ。大丈夫ですよ。もう我々は王手を掛けているような物なのですから。こうして霍青娥に繋がるカードも手に入れたのですか――ぴゃんッ!?」
「うほえ!?」
突然、何の脈絡もなく寅丸が奇々怪々な言語を発したせいで、私も釣られて変な声を出してしまう。びっくりした。心臓に冷水をぶっかけられたような気分。
「何すか!? 何すか!? 何語ですか!? 不意打ちであざといアピールしてるんじゃないっすよ!?」
「アピールとかじゃ……! いえ、そんな事じゃなくて……! よ、芳香は、どこです!?」
「は?」
何を言ってるんだコイツは、と戸惑いつつも、寅丸が震える指先で示す方を見る。しかしそこにはぺんぺん草の小さな芽が押し潰された痕跡しかなく、さっきまでそこで鮮やかに再殺されて転がっていたステーシーの姿はなかった。
「うわ! えらいこっちゃ! そんな馬鹿な! 死体が歩くはずなんてないのに!」
「……っ、この際突っ込みませんがこれはマズイです。私たちが気付かない内に霍青娥から計画を先読みされていたのなら――取り返しの付かない痛手ですよ」
「と、とにかく探しましょ! そうだとしても、まだ遠くまでは行ってないはず――」
「――どこにも行かないよ……私はね。定められたゴールを奪われた、ただの人生の落伍者さ」
慌てふためく我々の耳に、ザアッと吹いた一陣の風に乗って、奇妙に落ち着いた少女の声が、唄うように呟くのが届いた。
雷に打たれたように、私と寅丸が声の聞こえた方を見る。手近なところに誂えられた墓石の上で不敬にも腰を落ち着かせる少女が、微笑を携えてこちらを観察していた。
先ほど呆気なく機能を停止した筈のキョンシー。
しかし御影石の上で足を組み、頬杖を突く彼女の姿は寅丸から聞き、そして自分の目で確認したばかりだったはずの彼女とは、もう既に似て非なる存在だった。
「な……」
「ふふ……驚いているね、まぁ、無理もない」
酸欠の金魚みたく口をパクパクさせて何を言うこともできずに佇む私らを、くつくつと咽喉を鳴らして嗤った少女は、自分の胸に手を当てたかと思うと、
「――『あの女』の封印を解いてくれてありがとう。私は……私の本当の名は、都良香(みやこのよしか)だ」
そう言って、恭しげに頭を垂れたのだった。
◆◆◆
――都良香。
漢詩に秀で、文章博士の官位を得た平安時代の官人。
羅生門の鬼や弁才天、菅原道真などなどと交流したという話も数多く残されている。四十六歳で亡くなったというのが正史ではあるが、大峰山に入って仙人となったとする説話も残っている。らしい。知らんけど。
「……しかし都良香って、男性ですよね。立派な体格云々とか腕力が強かった云々とかって言い伝えは、どこに行っちゃったんですか?」
「ふふふ、それは愚問という奴だよ星クン。豊郷耳神子のあんなナリを見ておきながら、よくもそんな常識に凝り固まった意見を吐けるね?」
「はぁん、その内小野妹子なんかも、女の子になって復活しそうっすねー」
恐らくは日本史において、ネタにされる率ナンバーワンだろう偉人の名を適当に口にしつつ、私は少女のバックグラウンドストーリーを締めくくりに掛かる。
まあ、投げやりなのはご勘弁願おうか。
予想外の出来事が立て続けに襲い掛かってくりゃ、対処が面倒になるのも人情って奴だと思わない?
いや、私らは人じゃないけどさ。
「で――これからどうするんです?」
蝋細工みたいに不健康な青白さを誇る足を艶めかしく組み替えた良香(芳香)を見上げた私は腹に手を当てつつ、
「協力してくれるのは判りました。が、大層に復讐劇っつっても私らがやりたいのは、あくまで顔合わせと交渉なんすよね。アンタが霍青娥に思うところがあんのは判りましたが、正直、こっちは突き詰めりゃあちらさんにお願いする立場なんす。意気込む気持ちは判りますが、できれば交渉は穏便に済ませたいってのが本音っす」
「えぇ、さきほど申し上げたように、我々は余り猶予のある身とは言えません」
私の横顔をチラと伺って来た寅丸が私の言を引き継いで、
「それは時間にしてもそうですし、椛さんの体調という意味でもそうです。もしも良香さんが主である霍青娥に対して本格的な叛逆をなさるつもりでも、それは我々の本意とは少々異なります。ですから我々としては、霍青娥を呼び寄せることと、椛さんに掛けられた邪法を解呪するよう説得すること。その二つにおいてはぜひ協力して頂きたいのですが、それ以上のことに我々を巻き込む真似は避けて欲しいのです」
この辺りは流石に宗教家というべきか、スラスラと流れるような口調で、寅丸は気が逸っているらしい良香に釘を刺した。
のだが――。
しかしながら、良香に反応は無い。
寅丸の連ねる台詞の途中で目を閉じた彼女は、聞いているのか聞いていないのか、唇の端に微笑を張り付けたまま、生返事一つしなかった。私も寅丸も、あまりにレスポンスの遅い良香を見上げて後、互いに顔を見合わせる。
コイツ、まさか寝たんじゃないだろうな……。
そんな懸念すら生まれるほどに長い時間、身じろぎ一つせずにいた良香は突然、
「……ふ」
と、痙攣でも起こしたように肩を震わせる。
「は?」
「ふふ、ふふふ、ふふ、ふふふふふ……」
私と寅丸の困惑を置いてけぼりにしたまま、良香が目を閉じたままに笑い始める。
さも可笑しそうに。
もちろん、その理由に心当たりのあるわけもない私らは、墓石の上で笑い続ける良香の様子に、首を傾げるのを通り越してほとんどドン引きする。寅丸の顔は思わず笑ってしまいそうになるくらいに引き攣っていたけれど、きっと私も同じ顔をしているだろう。
「……その、良香、さん?」
立ち上がった私は、おずおずと良香の膝小僧あたりを指で突いてみる。冷てぇ。いや、そんなことはどうでもいい。私の呼びかけにも突っつきにも応じず、良香は尚も笑い続けていた。
「なんだこいつ、気持ち悪……バグったかな?」
「フーフーすれば治りますかね?」
「そんなスーファミみたいな……」
どこに息を吹きかければいいんだよ。
耳とか?
「――ふふ、ふふふ、あぁ、失礼……ふふ……いや、他意はないんだよ……ふふふ……」
「あってもなくても気持ち悪いのは変わりないっすけど……なんでいきなり笑い出したんすか? 思い出し笑い?」
「いやいや……何のことはないよ……ふふふ……ただ――もう、来たみたいだからね」
「え?」
誰が、なんて聞く間もなく背後からザリリ、と砂利を踏みしめる音が聞こえた。
まったく心の準備も作戦も立てちゃいなかった私も、そしてきっと寅丸も、その音で飛び上がりそうになるくらいに驚かされる。
振り向くまでもない。
このタイミング、この良香の様子から、導き出せる来訪者なんて、一人しかいなかった。
そしてゆっくりと目を開けた良香が、我々の肩越しに居るソイツを視界に入れ、ニヤリと愉悦を垂れ流す。
「……やぁ、待ちくたびれたよ。薄汚い女狐め」
………………。
…………。
……えっと。
一つ判ったこと。
コイツ、私らの話、全然聞いてねぇ。
◆◆◆
「霍青娥っつーのは、どんな人なんすか?」
命蓮寺裏手の墓地へと向かう道中、私はまぁ、何の気なしに寅丸へと尋ねてみた。昨晩顔を合わせていたのは確かだったのだけれど、そこはそこ。綺麗さっぱり記憶のなくなっている私が偶然、霍青娥のことだけは覚えていたなんて都合の良い展開があるわけもなく、パッと名前だけを出されたところで、どんな奴なのか見当もつかない。
曰く、神霊騒ぎやら聖徳太子復活の黒幕。
曰く、胡散臭く、馴れ馴れしい邪仙。
曰く、やたらと青が好きなので、たぶん水属性。
曰く、にゃんにゃん(笑)。
そんな通り一辺倒の噂くらいは耳に届いちゃいたが、それら断片的な情報だけじゃ明確な人物像を導き出すのなんて到底無理だ。これから交渉しなきゃならないってのに、あちらさんの人となりが判らないってのは致命的だと思っての質問だった。
それに対する寅丸の答えは、
「上っ面としては、温厚そうで余裕のある大人の女性って感じです」
という、なんだか奥歯に物の挟まったような評価だった。
「上っ面……って言い草は、あまり聞こえが良くないっすね。何かされたんすか?」
「いえ、特には……」
「にしちゃあ、随分と敵視してるじゃないっすか。商売敵の一門っつー属性はそこまで憎らしいもんなんすかね?」
「いえいえ、仏教は寛容ですよ。ちょっとやそっとで誰かを目の敵にはしません」
「へー夏ごろは人気を取り合って、しばき合いを演じてらっしゃったようですが」
「茶化さないで下さいよ……何と言いますかね……あの女性は、底が読めないのです」
セリフの合間に唸り声を挟みながら、寅丸は一つ一つ言葉を選ぶように言う。
「どんな時でも穏やかな笑みを浮かべていますし、礼儀もわきまえているようです。以前、ムラサや一輪と連れ立って里を歩いていた際に偶然顔を合わせたことがあるのですが、気色ばむ我々の様子なんて意にも介さず、親しげに世間話などされまして、毒気を抜かれてしまった覚えがあります。が、だからこそ――あの人は気持ちが悪い」
どうも最後まで『気持ち悪い』という言葉を舌の根に留めていたらしいが、最終的には苦々しげに寅丸は言葉を締めくくった。その文句こそが、寅丸の抱く印象を端的に表すものに相違はないのだろうが、しかしそう評すること自体に気後れ染みた思いを感じていたように思えた。
「我々のことなど眼中にない、と暗に言われているようでした。ムラサと一輪の反発や皮肉も軽々と受け流されてしまって、手の平の上で転がされているみたいな気分だったのを覚えています。我々がどんなことを口走った所で、霍青娥には少しの動揺すらも抱かせることができないんじゃないか、と」
「ふぅん……まあ、一筋縄じゃいかないって理解で良いっすかね?」
霍青娥を言葉によって定義することができずにいた寅丸の言葉を受けて、私はやや強引にそう判ずることにした。これ以上聞いた所で、底の知れない青娥の不気味さがいや増すばかりだ、と、そう思ったからだ。
「……そうですね。交渉するにあたっては、くれぐれも彼女の口車に乗せられないように気を付けてください。しっかりと精神を落ち着けて、決して動揺を誘われないように。でないと、足を掬われますよ」
寅丸から得られた情報はお世辞にも有用と言える物じゃなかったが、そろそろ目的地も近づいて来たことだし、そこで会話を打ち切ることにした。
狡猾に策謀を巡らせ、千年超も生きながらえてきた邪仙。そんな女の精神たるや、どれほどしたたかなのかは見当もつかない。
いずれにせよ、下手に動揺して相手のペースに呑まれないようにしなくちゃな。
そんなことを私は自分に言い聞かせたのだった。
◆◆◆
「…………ふぅん」
私らの背後から歩み寄り、良香の挑発を受けて発せられた青娥の反応、その声の響きから、私は寅丸から聞き出した情報を全面的に廃棄しなくちゃならんことに気付かされる。
やべぇ顔を見なくても判る……。
怒ってる……霍青娥、めっちゃ怒ってるぞ……。
「……勝手に芳香の札を剥がしたのは、あんたたちね……? ふぅん、へぇ、なるほど……味な真似をするじゃない……昨晩のアレに飽き足らず……私の玩具を勝手に弄って……どれほど私をコケにすれば気が済むっての? え?」
ああ、うん。あっはっは。この怒りは尋常なもんじゃないなぁ。
誰だよ、どんなに頑張っても青娥を動揺させんのは無理とか抜かした奴は。
これ、完全に逆鱗に触れちゃってますよね?
触れるを通り越してスクラッチしてますよね?
全っ然、交渉とかできる雰囲気じゃないんだけど。完全にキリング・フィールドなアトモスフィアが垂れ流されてんだけど。こんなに肌がビリビリする感覚なんて、明治維新のドンパチに首突っ込まされた時以来だぞ。
怖くて振り向けない。
「……いやぁ、そのう、別にコケにしてる訳j」
「誰が口を開いていいって言った? 舌を切り刻むわよ?」
はい確定。穏便に済ませんのとかマジ無理。弁解の余地もねぇ。
口を開くだけで舌を切り刻むなんて脅してくるくらいに怒ってる奴を相手取って、どううまく立ち回れってんだ。
勝海舟でも無理だろ。
(どどど、ど、どうしましょう……)
蚊の鳴くようなひそひそ声で、テンパった寅丸が縋るように訪ねてくる。結構マジでそれは私の台詞なんだけど。
(いやいやいや! 首謀者はアンタでしょ! 何とかしてくださいよ!)
(あんな怒るとか想定外です……! ど、どうすれば!? どうすれば!?)
(とにかく謝るしかないっすよ! あんなんじゃロクに話すのも無理っす! とにかく下手に出て、ご機嫌取って、矛を収めて貰いましょ!)
他に名案なんてあろう筈もなく、寅丸は小さく頷いて私の提案に同意する。速攻で土下座する決意で我々が同時に振り向いた。
途端――、
「……ふん。久方ぶりに見たけれど、相変わらずいけ好かない面をしているね。下級尸解仙の分際で、よくもそこまで尊大な態度を取れるもんだよ」
などと良香がせせら笑う。
プッツーン。
と、青娥の血管がブチ切れる音が聞こえて来るようだった。
オーケー!
ディス・イズ・チェックメイト!
この瞬間! 事態の収拾が不可能になったことをお伝えいたします!
「なに言ってんすかアンタはあああああああああああああああ!!!!??? ちっとは空気読めやああああああああああああああ!!!!」
「はっは、怒ったね? 青娥。いやはや若い娘ならまだしも、歳ばかり無駄に重ねたオバサンのヒステリーたるや醜悪で見るに堪えないよ、ふっふっふ」
「はい無視来た! 我々の要望をガン無視なされました! アンタ脳みそ腐ってんすか!? 穏便に交渉したいって言ったばっかじゃないっすか!?」
「ふむ、しかし考えてみたまえ、椛クン。千年以上も良からぬ企みを巡らせ続けてきたあの女の脳たるや、キョンシーとして使役されてきた私なぞ足元にも及ばんくらいに腐り果ててるとは思わないかい? 賞味期限切れもいい所だよ」
「言い過ぎ! 言い過ぎいいいッ! 歯に衣着せてモノ言えやボケエエエエエッ!」
「聞いたかい青娥? 『言い過ぎ』ということは、椛クンも少なからず君に期限切れの要素があると認めていることになるんだよ。じゃなきゃ『そんなことはない』と私の意見を全面的に否定するだろうにねぇ?」
「揚げ足取んなやあああああああああああああああああああ!」
言葉の綾だよ!
ほぼ初対面の相手に期限切れなんて酷すぎる感想抱く訳ねーだろ!
もう死んでんのは知ってっけど、もういっぺんくらい死んでくれ!
「ごめんなさい! ごめんなさい! 青娥さん青娥さま崇高なる邪仙さま! こんなつもりじゃなかったんです! 謝ります! 我々には謝る意志があるのです!」
絶句していた寅丸がようようショックから生還したのか、鮮やかな挙動で土下座を決め込む。もうそこに商売敵に対する悪感情は微塵もなかった。ただただ許しを請う一匹の妖怪の姿があるばかりだった。
「……うふふ」
飽和状態な殺意をなみなみと湛えた眼で私らを睨んでいた青娥が、チラと寅丸を見下ろしてから吹っ切れたみたいな笑いを浮かべる。
「うふふ、うふふふふふ、うふ、うふふふふ――殺す」
瞳孔の開き切った両目で壊れた笑みを演出しつつ青娥がパチンと指を鳴らせば、彼女の周囲に禍々しいにも程がある弾幕が展開された。
「殺します、殺しますわ、骨も残さないくらいに殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し尽くして差し上げますわ、芳香――いいえ、良香さんも殺せばまた元通りに直せますものね。あなたたち二人は生け捕りにしてジワジワと嬲り殺した後で、切り刻んだ死体を豚にくれてやりますわ。ああ、もう知らない。何も判らない。先のことも後のことも考えない。この霍青娥、久々の全力であなたたちを消し潰して差し上げますわ」
あぁん。こんな極限まで怒った人を見るなんて、椛、初めてだよぉ。
――父さん。
――母さん。
――椛は絶体絶命のピンチのようです。
――不出来な娘でごめんなさい。
「椛さん! 逃げますよ!」
もはや話も通じないだろうと悟ったのか、ガバと飛び起きた寅丸が私の手を取って叫んだ。青娥の身体から空を埋め尽くさんばかりに量産されていく邪法の弾幕は、もはやいつ私らを飲みこまんと襲い掛かって来るか知れたもんじゃない。
「合点承知っす! 是非もない!」
「あ、私も連れてってくれたまえ」
私と寅丸が連れだって走り出そうとした途端、良香が私の服の端をしっかと掴んでくる。
「はぁ!? ふざけんな! 勝手に殺されて直されてください!」
「しかし私が居ないと君らの目的も果たせまい? 青娥はしつこいぞ? あいつが取り戻したがっている私というカードを捨てて、君らが生還できるかどうかは疑問だね」
「てんめぇ全部計算の内かよおおおおおおおおおおおおッ!!」
「椛さんは先に行って下さい! この子は私が!」
「――逃がさないッ!」
目の前の空間を薙ぎ払うように青娥が右手を振るうと、滞空していた弾幕が一気に我々目掛けて雪崩れ込んでくる。それ以上の確認が命取りになることは一目瞭然。私は寅丸が良香を背負ったのを視界の端で確認すると、可能な限りのフルスピードで駆け出し、そして飛翔する。ズキ、と腹部が鈍痛を発したのが判ったが、それに頓着している暇すらも皆無だった。
私の身体が風を掴むや否や、追い越したばかりの墓石がぶっ壊れる音が聞こえた。静かな死者の安息地がガラガラと音を立てて崩壊し、特撮もの戦闘シーンみたいに地面が次々爆発する。目覚めた死体が抗議して来ないのが不思議なくらいの爆音が耳を劈き、意図せず口走る悲鳴すら自分の耳に届かない。
「うおわああああッ! やっべ! これマジ死ぬ! 死んじゃう死んじゃう! 西南戦争並みっすよマジで! マジで!」
「椛さん! 霊廟へ逃げ込みましょう! このままじゃ良い的です!」
「ハッハー! 君はヘタクソだな青娥! ガサツな女はこれだからダメなんだよ!」
「挑発しないでえええええええええええええッ!!!!」
珍しく私の代わりに突っ込みを入れた寅丸の声を耳鳴りの向こう側から聞きつつ、閉じられていた霊廟の扉に滑空からのドロップキックを叩き込む。良香と違って空気の読めた扉は幸いにも内開きで、スピードを緩めることなく私らはひんやりとして暗い虚穴の中へとなだれ込む。しかし迫り来る青娥のルナティック自機狙い大玉弾は少しも勢いを殺すことなく、洞窟内部の壁を360°削りながら私らを飲みこまんと襲い続けて来る。
くそ! 得物を持って来なかったことが仇になってしまった!
仙川さんのスナイパーライフルさえあれば、少しは善戦できたろうにな!
「これって先はどうなってんすか!? 袋のナズーリンなんてことにゃならんのですよね!?」
「恐らく大丈夫です! 騒ぎを聞き付けた寺の誰かが来るまでの時間稼ぎはできるはずです!」
「なるほどね! 今ここでぶっ殺されるよりゃマシって感じっすね!?」
「それだけじゃないだろう。青娥が暴れている状況を見れば、椛クンの懐胎もあの女の仕業だと理解して貰えるはずさ。とっさの判断にしては、かなり有効な手段だね」
寅丸の背に追われているのであろう良香が、感嘆の響きを含ませた声音で言う。その言説は至極ごもっともで、薄暗い洞窟を先へ先へと飛び続ける私は頭の中で、霊廟へ逃げ込むことを提案した寅丸を見直した。
寅丸星。
保身が掛かれば、頭の回転が速すぎる女である。
いや、もちろん褒めてるんだよ?
「青娥はまだ……追って来ては居ないようですね……!」
大玉弾の爆撃音が若干遠ざかり始めた所で、寅丸が言う。
「あの女は速く飛ぶのが不得手だからね。我々のこの速度には追いつけまいよ」
「おんぶされてる状況でよく自分の手柄みたいに言えるっすね……」
「まあ、しかしながらそれに気付かん女でもない。きっと何か仕掛けて来るよ――」
不穏な言葉を良香が口走ったその途端、入口付近から格別に大きな爆発音が轟く。
すわ何事かと驚いた私が振り向くと、次いでガラガラと落盤の音が連なって空気を振動させた。
八つ当たりだろうか? 反射的に首を傾げると、良香がくつくつと咽喉を鳴らして、
「やられたね。入口を塞いだんだろう。これで助けが来るまでの時間は一気に引き伸ばされたよ」
「はぁ、形振り構わんって訳っすか……」
「しかしそんなことをすれば青娥も生き埋めということに――あ」
「そういうことだよ、星クン。あの女の前じゃ壁なんか無いような物だ。精一杯挑発してはみたが、やはり小賢しさを奪い去るまでは至らなかったね……これからあの女は、じっくりと詰め寄ってくる気だろう」
寅丸の背で良香が肩を竦める。追い詰められつつあることを悟ったらしい寅丸が背後の空間を見やりながら、ギリリと歯軋りをするのが薄ぼんやりと窺えた。
「失策でしたね……まさかここまでしてくるとは……」
「なに、気に病むことはない。最善手だったよ。しかしここで状況を嘆いていることは得策とは言えないな」
「なんかムカつくけど良香さんの言う通りっすね……グズグズはしてられないっす。先へ行きましょ」
「頼むよ。なるべく急いでくれ」
「ひゃん!? ちょっと良香さん! 服の中に手を突っ込まないで下さい!」
「あぁ失礼。つい生前の癖が出てしまった」
「どんな癖だよ、変態」
「何とでも言いたまえ。私が興奮するだけだがな」
「死ね」
「生憎、間に合ってるよ」
なんつー緊張感のないやり取りだ。義務的に突っ込みながらも、取り急ぎ我々は前へと進むことにする。
青娥の飛ぶスピードが速くないとは言っても、ぼやぼやしている猶予を与えてくれるほどじゃあるまい。いつまたあの弾幕の嵐が襲い掛かって来るとも知れないわけだし。
奥へ奥へと飛ぶに連れて、湿った空気の冷たさがいや増してくる。濡れた岩肌の臭いがツンと鼻を刺激する中、ふわふわと形を為さない神霊の欠片が、微かに暗闇に抗していた。
それはきっと、いつかの神霊異変の残滓なのだろう。望む願いを叶えられることなく放置され、消滅することを待つばかりの未分化な欲望。明かりも持たずに飛び込んだ我々に取っちゃ、あの異変の名残りが完全に消失していなかったことは幸いだったといえよう。
「追撃が完全に止みましたね……」
できる限り速度を保ったままの逃避行を続けていると、冷えきった風を切る音に混じって寅丸がポツリと言う。さもありなん、と私は背後の寅丸をチラと見つつ、
「不用意に自分の居場所を明かさないのは、狩りの鉄則っすからねぇ」
「理屈としては確かに納得できますが、いざ追われる立場となると不気味極まりないです……」
「ふむ……やはり、冷静さを取り戻し始めているのだろうね。兵は詭道なり、とは良く言った物だが、逆説的にそれは冷静な者を相手取ることの困難を言い表している。母国の名言だ。あの女が知らんはずもない」
言って良香は、寅丸の胸の前に回していた右手の指をパチン、と鳴らす。
「さて我々が取れる方法は大別すれば三つだ。
その1……命蓮寺の誰かが助けに来るまで青娥から身を隠す。
その2……青娥の追跡をかわし、落盤した入口を掘り起こして外部へ助けを求める。
その3……追って来た青娥に奇襲をかけ、屈服させる。
個人的には、『その3』以外の選択肢はないと思うけれどね。命蓮寺の面々が迅速に駆けつけてくれるかどうかは不確定すぎるし、運よく青娥の追跡を回避できたとて、入口を通行可能にするまで青娥が我々に気付かないとは思えない。青娥を打倒すれば穴抜けの鑿も手に入るし、君たちの望んだ交渉もできるだろう」
「……青娥が冷静さを取り戻しつつあるなら、今からでも謝るという方法は取れないでしょうか?」
「驚いた。星クン、君は自殺願望でもあるのかい?」
消極的な寅丸の提案を鼻で笑うと、良香はやれやれとばかりに嘆息する。
「あの女のことなら私はよく知ってる。青娥は行動の方針を定めれば、どんなに時間が経とうとそれを撤回することは有り得ない。奇跡的に気紛れでも起こしてくれない限りね。豊郷耳神子の復活まで、どれほど膨大な時間が経っているか知らんわけでもないだろう? 道教の支配する世界が訪れることを千年以上も待ち続けられた女だ。たかが数分で殺害予告を思い直してくれるなんて甘い予想は、捨てることをお勧めするよ」
「つまり、やられる前にやるしかないって言いたいわけっすね。アンタは」
「そういうことだ。理解が早くて助かるよ。椛クン」
振り向いた私を見つつ、良香は寅丸の肩越しにニヤリと笑う。その表情には、追われていることに対する焦燥など欠片も窺えず、ただ現状をゲームのように楽しむ愉悦にも似た好奇の色だけが見えた。
宮古芳香。
都良香。
普段の彼女を知る奴ならば、十人が十人とも『腐っていて残念な頭の持ち主』と異口同音に評するだろう彼女に、しかし今の私と寅丸は翻弄され、行動を誘導されてさえいる。
額にぶら下げていた札が剥がされ、キョンシーとしてのルールから解き放たれた芳香。
それは寅丸と私の予想を斜め上に大きく外れ、ともすれば主人の霍青娥と同様、ないしはそれ以上に侮ることのできない存在になってしまった。
現に今の状況を見ろ。私と寅丸は穏便に、場合に拠っちゃ下手に出た上で、青娥と交渉できさえすれば良かった。なのに今の私たちは青娥を激昂させ、彼女と対決しなくては生存の道がないという構造に追いやられている。それは、良香が望む造反劇の手駒にされたことと何も変わらない。
……こいつはいったい、何をしようとしている?
岩肌に頭をぶつけないよう以上に、今の良香から顔色を窺われないように前だけを向いて飛び続ける私は、悟られないよう頭の中だけで彼女を危険視する。
主人から解放され、理知を取り戻した宮古芳香が語る言葉が、全て真実であるとは限らないのだから。
「ん……」
神霊未満の曖昧な人魂が放つ微かな明かりにも目が慣れてきたころ、前方に開け放たれたままの扉が現れた。向こう側に開かれていた青銅製と思しき立派な門扉は、地獄の入口にも似た重苦しさを感じさせる。
「道教の一派が眠っていた場所の入口ですね」
「そう、夢殿大祀廟だ。この先のだだっ広い空間ならば、どこかに隠れることもできるだろう」
「そっすね、早いとこ良さげな場所を見つけるとしま――」
と――私が何気なく呟いた、その途端だった。
なにがトリガーになったのかは判らない。
強いて言えば、大祀廟の中の空気を吸い込んだことが挙げられるかもしれない。
ともかく『それ』は、本当に何の前触れもなく訪れたのだ。
痛
「――っぐ……ん……え、あ、うぐあ……っ!」
唐突に、目の前の世界が歪んだ。
両目が不随意に明後日の方向へと回転を始め、額から脂汗がドッと滲む。
回ってんのは私の目だけじゃない。中だ。内部、私の身体の中で、ゾルリ、と異質な肉塊が半回転した。その動きが私の内臓一式の位置をずらした。吐き気、寒気、痛み痛み痛み。平衡感覚と浮遊への意志が根こそぎ奪われて、私の身体が重力に負けて降下していく。自由落下しないように抗うのが精一杯だ。
「も、椛さんッ!?」
寅丸の声は、ひどく遠い場所から聞こえてきた。洞窟の岩肌への不時着を余儀なくされた私の耳には、声の反響ばかりを拾い上げて気分の悪さを加速させる。
クソ。
時間がないなんて判り切っちゃいたが、幾らなんでも早過ぎるだろ……!
「椛さん! 椛さん!」
地面に力なく横たわった私の頭を、降りてきた寅丸が抱える。焦点が合わず視界がぼやけているせいで、こいつがどんな表情を浮かべているのかも判らない。ああ、駄目だ。ガチで痛いときってのは、悲鳴すら満足にあげられないらしい。呻きが肺の中の空気を端から持ってって、息を吸うということがやたらと難しくて敵わない。
「――星クン、すこし退くんだ」
いつの間にか背中から降りていたらしい良香が、取り乱す星の身体を少々乱暴に押したかと思うと、岩肌に転がる私の額と腹部にそれぞれ手を置いた。彼女の両手はヘタすりゃ岩よりも冷たい。
「良香さん……!」
「……残留していたタオのエネルギーを取り込んで、養小鬼(ヤンシャオグイ)が活性化したようだね。あらかた散ってしまっている物とばかり思っていたが……神霊もどきがこの洞窟に跋扈している時点で気付くべきだった」
「そ、それじゃ、え、椛さんは、いったいこれから、どうなって……!」
「なに、散らせばいい。そう難しいことじゃないよ……私の感覚が失われていなければね」
良香が何かを言っているのは判る。寅丸が取り乱していることもだ。なのに、字面は理解できのに、完全に機能不全に陥った脳みそは言葉の意味の理解を放棄していた。
「う、が……痛、う……あ……っ!」
「椛クン、今は息を吸うことを忘れても構わない。ただ吐くんだ。判るかい? 息を、吐くんだ。大きく、吐き続けろ」
――息を、吐く。
最後の言葉だけは、辛うじて理解できた。それに縋るようにして、私は息を吐くことにだけ神経を傾ける。それと並行して、良香が私の着物をはだけ、膨らんだ腹に直接手の平を乗せる。
「……陰の気が、かなり肥大してるね」
幾ばくかの焦燥が匂い立つ声音で言った良香は、時計回りに私の腹部を撫で始める。その動きが有効に機能しているかどうかは疑わしかった。正直、何も変わっていないようにしか思えない。
「少々荒っぽい方法を使うよ……君のタイミングで良い、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き続けろ。それに合わせるから」
あわせる……? よくわからない。とにかく、息を吸うことだ。
息を吸って、それから吐く。簡単なことじゃないか。はやく、はやく。
悲鳴をあげる肺を叱咤し、身体を仰け反らせながら空気を吸い込む。限界まで至ったところで、 それを吐いて行く、ゆっくり、ゆっくりと。それを確認したらしい良香が、
「――許せ」
と縁起でも無いことを言ったかと思うと、グッと臍の辺りを上から押した。
押しやがった。
丁度、心臓マッサージでもするような考えられない力で。
「んぐううあああああッ!!?? 痛ってえええええええええええええええ!!!!」
それまでの苦しみなんか屁でもないくらいに、尋常じゃない痛みが腹の中でビックバンを起こした。反射的に身体を起こした私は涙目になりながら良香を睨み付け、そのまま胸ぐらをしっかと掴んで締め上げる。
「アンタ何すんですか! むっちゃ痛い! めっっっっっっっちゃくちゃ痛いじゃないっすか! 妊婦の腹を押すんじゃねえよ! 正気か!?」
「まあまあ、そういきり立たなくてもいいだろう。ほら、治ったじゃないか」
「はぁ!? この期に及んで――あら?」
更に文句を連ねようとした所で、気付く。良香に押されて生じた腹の痛みが引いて行けば、もうそこに先ほどまでの尋常ならざる激痛は、幻だったかのように消えてしまっていた。
「痛くない……っすね」
「君の吐気に乗せて、陰の気を押し出したんだ。ついでに気の巡りも調節しておいたから、よほど長く陰の気を吸い込まなければ、再発はしない筈だよ」
肩を竦めて胸ぐらを掴んでいた私の手を振り払うと、ほれ見たことかとばかりに胸を張った良香がにんまりと笑う。
「もっとも私が手を加えられたのは、あくまでこの空間に満ちて、君の中に入った陰の気を払うところまでだ。養小鬼そのものの成長は今の私じゃ手も足も出ない。そこは、さすが霍青娥という他にないね」
忌々しいが、と付け加えた良香は目を白黒させている寅丸の肩をポンと叩き、
「すまないけれど、また背負ってくれ。今の私は飛べないんだ。早いところ、身を隠す場所の選定を始めよう」
「え……えぇ……」
「あー、その、良香さん、ありがとうございました」
寅丸が再び良香を負ぶったところで私が頭を下げると、彼女は少々目を細めて、
「なに。正直に言って五分五分の賭けだったんだ。気にすることはない」
「五分五分……?」
「最悪、押した時の衝撃で出てきたかもしれないってことだよ。ズルッ……て」
「うえあ! えげつなッ! 怖いこと言うんじゃないっすよ!」
「事実だ。だが君は賭けに勝った。それで良いじゃないか」
「んぐあ……そういうのは先に言って欲しいんすけどね……」
なんだかこう、釈然としないものを感じつつもしかし、良香によって助けられたのは事実だった。それで良しとしつつ、私ら三人は青娥がやって来ない内に扉の向こう側へと進むことにした。
巨大な縦穴構造となっている夢殿大祀廟。その中央には古めかしく長大な歴史を感じさせる木造の塔が建てられている。日の光にゃ縁遠いこの空間においての光源はと言えば、塔の周囲を埋め尽くさんばかりに漂う蛍のような光点の群れだった。それでも粗削りな岩肌はそのほとんどが暗渠の中にとっぷりと沈んでおり、曖昧な境界も目を凝らしてやっと見える程度だ。
なるほど、確かにこの場所ならばどこかに潜伏することは容易いことのように思われた。
「――あなたはいったい、何者なのですか」
ふわふわと浮遊する神霊未満たちの明かりが届かない、適当な隠れ場所を探している最中、ぽつりと寅丸が背に負った良香に問う。
「都良香だと説明した筈だよ」
「違います。私が訊きたいのは、さきほど椛さんを治した手腕の出自についてです」
「ほぅ……?」
品定めでもするような声を出す良香に、寅丸は続けて、
「タオについて理解しているのは、あなたが仙人だった、という過去の証明になるでしょう。けれど、それではどういった経緯を辿って、あなたは霍青娥の手下になったというのですか? 仙人としての能力があるのなら、キョンシーという身分を享受することになった理由は何なのですか?」
私を治した、あの手法。
それがタオについて精通していなければ到底不可能なことくらい、私にだって判る。
良香が仙人になったという文献の正当性が証明されることを示すのなら、それはそれで良しとしよう。しかしながらその過去と現在の芳香との相関関係は、いま寅丸が疑問を呈したように、大きなミッシングリンクがある。
――仙人・都良香は、どうして霍青娥のキョンシーとなった?
こんな成り行きだ。その寅丸の問いは、私も気になるところだった。
しかし、
「……そんなことは、どうでもいいだろう」
と、良香はいかにも不機嫌そうにそう吐き捨てる。
「昔話に花を咲かせるのも、ある局面では有意義だ。君たちの言う通り、確かに私は仙人だ。かつて仙人だった。青娥や豊郷耳神子、物部布都と同じ尸解仙だ。本来はキョンシーではなく、ね。それは認めよう。しかし今、君たちはそんなことに現を抜かしている場合じゃないとは思わないか? 青娥がいつやって来るかも知れないこの状況で、無駄話に興じている時間は皆無だ。生き残りたければ早いところ、身を隠す場所を見極めたまえ」
……ここまでにべもなく拒絶されれば、私も寅丸もそれ以上の追及ができるはずもなかった。
霍青娥と都良香の関係。
それはこの死人少女にとっては触れられたくないタブーであり、語りたくもない思い出なのだ。
そんな推測で納得した私と寅丸は、決まりの悪さを抱えながら無言で暗闇に相対する他になかった。
やがて岩盤の一部が経年劣化で崩落したと思しき手頃な穴を見つけ、私たちは身を寄せ合うようにして虚穴の中に入りこむ。適度に入口から離れていながら、こちら側に開かれている門が夢殿大祀廟の向こう、視界の端に見える。隠れ場所としては絶好のポジションと言えるだろう。
「本当に、見つかりませんよね?」
不安げな寅丸の呟きに、私は「いや、ここは案外と待ち伏せにゃ打ってつけっすよ」と返す。
「普通にあの門から入って来る分にゃ、あの建物が邪魔してここは死角になります。そこそこ高低差もありますし、増してこの薄暗さ。そうそう見つかりゃしません」
「そうだ、君たちは空手なのだったね。これを渡しておくよ」
心なし声を潜める良香が中華服のポケットをまさぐり、紫色のクナイを二本、引っ張り出す。無造作に放られたそれらをキャッチしつつ、私と寅丸は顔を見合わせた。
「クナイっすか……何とも心細いっすねぇ。しかも一本ずつとは」
「闇雲に投げねばならん乱戦をするつもりもないんだ。奇襲をするのだからね。できる限り身は軽くしておいた方が良い――む」
何かを感じたのか、不意に険しい表情になった良香が「しぃー……!」と唇に人指し指を寄せる。慌てて気配を殺した私と寅丸が入口の方へと目線をやると、微かな明かりがこちらへ近づいているのが判った。
――霍青娥のご到着だ。
まずいな、と。入口から姿を現した奴を見た途端に、手の平からジワリと汗が滲んでくるのが判った。良好とは言えない視界のせいで、全体像を掴んだわけじゃないがそれでも、青娥が手強い相手だということは再確認できた。
彼女の周囲が、明るいのだ。
ここまで至る通路に散見した神霊未満の霊魂。ささやかな明かりを私たちにももたらしてくれていたそれらは今、まるで青娥に付き従うお付きのように青娥の周りを照らし上げている。
それが意味するのは、薄暗さというアドバンテージを奪われつつあるという事実だ。暗さに慣れてきた私の『眼』でさえ、ようやく自分の手の輪郭を捉えられる程度のこの暗渠の中にあって、今の青娥が一番強い光源となっていた。
なるほど、神霊の操作はお手の物というわけだ。私たちは息を殺して、可能な限りに気配を消して、夢殿大祀病を隔てたあちら側で浮遊する青娥を観察していた。奇襲を掛けるタイミングを伺うために。
ゆったりと、まるで私たちを焦らしてでもいるかのような緩慢さで、滞空していた青娥が向かって左方向へと移動し、その姿は完全に大祀廟の向こう側に隠れる。音は無い。声もしない。私の隣で機が熟すのを待つ寅丸の呼吸が、緊張からか少し荒くなっているのが耳障りなくらいだ。青娥に聞こえるほどじゃないとはいえ、ヒヤヒヤさせられる。それを咎めないのは、私だってどっこいどっこいなくらいに呼吸が乱れてるのを自覚してしまっているからだ。自分の心臓の鼓動がうるさくて敵わない。脈拍が早まっている。平常なのは、なにやらモゾモゾと動いている良香くらいのものだ。表情は淡々としているが、中華服のポケットの中を頻りに確認しているのは、やっぱり緊張を紛らわせるためなのか。そんな風に思った途端、ブゥ……ン、と空気が微かに振動する音が遠くから聞こえた。青娥の姿は、やっぱりまだ大祀廟の向こうに位置している。
……何の音だ?
私が首を傾げる暇もなくハッとした表情になった良香が、
「――逃げるぞ! 狙われてる!」
そう叫ぶや否や、私と寅丸を力一杯突き飛ばしてきた。とっさのことで全く対処もできず、虚穴から零れ落ちる私と寅丸があれぇ? なんて思うよりも早く、私の目は大祀廟の向こうから蛇行しつつこちらへ飛来してくる青白いレーザーを目の当たりにする。
それはまさに間一髪だった。
私と寅丸がバランスを崩して頭から落下し始めたその瞬間、寸分の狂いもなく私たちの居た場所をレーザーが穿つ。爆音が鳴り響き、相当の風圧が我々の自由落下を更に加速させた。驚きの余り、叫び声も出ない。空中で寅丸の背中にしがみ付いた良香だけが、事態を理解しているらしく、
「飛べ! 飛べ! 奴には我々の居場所がばれている!」
「……な、なぜです……っ!? どうして!?」
「知るもんか! とにかく我武者羅に避けるんだ――来るぞ!」
体勢を立て直すや否や、またも大祀廟の向こう側からへにょりレーザーが我々を飲みこまんと突撃してくる。青娥の姿は見えない。それはつまり、向こうからも私らの場所が判らないということを意味する――筈なのに、レーザーは先ほどと同じ精密さで僅かの狂いもなく私たちに照準を定めていた。
「どういうことっすか!? なんで見えるんすか!?」
ぎりぎりレーザーをかわした私は、パニックに陥りそうな思考を懸命に落ち着かせようと試みる。耳の産毛が焼け焦げた臭いがした。
「少なくとも身を隠すアドバンテージは失われた! 大祀廟の向こうへと回り込め! 直接青娥を叩くしかない! 早く! 椛クンは右! 星クンは左! 二手に分かれるんだ!」
今の今まで冷静沈着だった良香でさえ何が起きているのか判らない様子で、寅丸の背に捕まりながら上ずった声を出していた。
良香に判らないのなら、私らが幾ら考えたって答えは出ないだろう。
判らないことは考えないに限る。
兵になれ、弾になれ、物言わぬ刃の切っ先となれ。
下っ端として前線で戦っていた時の哲学を思い出す。大祀廟を軸に据え、私は全速力で反時計回りに向こう側へと回り込む。それを待ち受けていたかのように、今度は前方からレーザーと大玉弾が波となって襲い掛かって来た。私たちの思惑なんか、全部まるっとお見通しだと言わんばかりだ。
右へ、左へ、下へ上へ。360°をフルに活用して襲い掛かる弾幕を避けまくる。体中の至る所が弾やら光線がかする熱と痛みを感知する。何たる高密度。ルナティックにも程がある怒涛の攻撃を、辛うじて躱しながらも私は前進する。反対へ回った寅丸と良香に気をやる余裕すらありゃしない。それでも何とか、青娥の姿を視界に捉えることはできた。
私は先ほど良香から手渡されたクナイを右手に構え、投げ付ける一瞬の隙を待つ。スローイングナイフは幻想郷産乙女の嗜みだ。普段は刀を振り回してる私だって、そこそこの技能はある。が、弾幕を避けることに精一杯で投げる体勢すら取らせて貰えない。加えて青娥の奴、弾幕を張りながら右へ滑ったり左へ滑ったりと一秒だって同じ所に留まらないのだ。厭らしい挙動にも程がある。私は純粋だから、あんなヤな奴にはなれないな。
意識を鋭く尖らせる。体中の感覚を、『眼』と右手に集中させる。呼吸を捉え、リズムを掴み、針の穴ほどの好機をただひたすらに見極める。もう充分に近づいた。後は投げるだけだ。レーザーを避ける。大玉弾を引き付けてから、身体を開けてギリギリの距離で躱す。相手の動きを予測する。あと少し。次の次の大玉弾を避けたその瞬間。時間にしてあと三秒、二、一――ッ!
「そぅらあっ!」
黒い燐光を放つ大玉弾を避けた流れを利用し、できる限りの叫び声と共にクナイをブン投げる。私の声を聞きつけたのか、キッとこちらを向いた青娥がレーザーの一本を繰り、クナイを薙ぎ払いに掛かる。機敏に方向転換したレーザーが空を滑るクナイを飲みこみ、弾き飛ばされたクナイが錐揉み回転を経由して岸壁に突き刺さった。
ああ、そうだ。
――私たちの思惑通りに。
「うぐっ……!」
その呻き声は他ならぬ青娥のものだった。
彼女の肩口には『背後から』飛来したクナイが突き刺さり、ひるんだ青娥はそれ以上の弾幕を張ることが叶わず、それまで私らを怒涛の勢いで襲って来ていた攻めが止む。
「――ヒットですね。私たちの勝ちですよ」
青娥の背後に回っていた寅丸が、厳かな宣言のように勝ち名乗りを上げる。
何のことはない。トリックは実に単純だ。私は左から青娥の方へと回り込んでいた寅丸と、『同時に』クナイを投げたのだ。攻撃に気付いてくれとばかりに私がデカい声を出したのは、単に私の方のクナイを囮に使うためだった。それまでは私と寅丸を同時に相手していた青娥も、攻撃されたとあっちゃ防御に気を回さざるを得ない。
前後から同時に攻撃されるなんて、思いも寄らないだろう。
そう私は予測を立てた。
そしてその目論見は、見事嵌ってくれたというわけだ。
「む? おやおや青娥……随分と綺麗な装飾品を手に入れてるじゃないか」
「え……? あ!」
苦悶のためか、背を丸めていた青娥の右手首に巻き付けられたネックレスを指差しながら、寅丸が驚きの表情を浮かべて叫ぶ。
「そ、それ! ナズーリンのペンデュラムじゃないですか! どうして貴女が!」
「ダウザーの商売道具だね。なるほど、アレを使って我々の居場所を割り出してたってわけだ。はは、種の割れた手品ほど下らないモノはないな、青娥」
「……ふふ」
勝ち誇ったような良香の言葉を嘲るかのように、青娥が乾いた笑い声を上げる。身体に突き刺さっていたクナイに手を伸ばし、それを引き抜いたかと思うと、彼女は何でもない風の動作で放り捨てた。
「あなた達……何か勘違いしてない?」
「……なに言ってんすか」
不敵な青娥の声音に、私は眉をひそめる。寅丸の一撃によって弛緩し始めていた空気が、またぞろ不穏な緊張に塗り潰されていく。
「私が、いつ、これは弾幕勝負だと言ったかしら? スペルカードルールに則って戦おう、なんて、言ったかしら?」
まるで傷など負ってないかのような堂々たる声で言うと、青娥がパチンと指を鳴らした。彼女の周囲に再度大玉弾がいくつも展開し、グルグルと旋回する邪法の弾幕は、主の下す攻撃命令を今か今かと待っている。
「ここなら誰も見てない。助けは来ない。だから、あなた達の誘いに乗ってあげたのに、何を甘いことを言ってるのかしら。追い詰めたネズミが指先に噛み付いたからと言って、狩りを中断する猫が居るとでも思っているのかしら。狼も、寅も、牙を抜かれすぎているんじゃなくて?」
「――ふん。往生際の悪い女だ。私はしつこい女なんて嫌いだと、前にも言ったと思うのだがね?」
憮然とした調子で言った良香に、鼻で笑った青娥は肩を竦めると、
「あら、私は欲しいものを絶対に諦めないって、あなたは知ってる筈よね? 良香さん」
「知らないな。悪趣味なお人形遊びが趣味な女のことなんて」
「千年近くも、そんな悪趣味なお人形として遊ばれてたあなたの台詞とは、思えないわぁ」
「騙まし討ちで私をキョンシーにしたくせに、持ち主面かい? 勘違いも甚だしいよ」
「京の権謀術数の中にあって、『騙された方が悪い』と嘯いた方の言葉がそれとは、嘆かわしくって涙が出るわねぇ」
「ハッ、墜ちたものだな、私も……まさか承認欲求のためなら、島国の童にだって尻尾を振るような女から憐れまれるとはね」
「落としたのは、私。骨抜きにしたのも、私。都良香は私の手の中で踊っていた哀れな操り人形でしかないのよ? 昔も、今もね」
「……下女め」
「その下女から道具扱いをされてきた気持ち、聞きたいわねぇ。ねぇねぇ、どんな気持ち? どんな気持ち?」
「知りたいか? なら、教えてあげよう……死にたい気分さ。死にたくて死にたくて堪らないよ――」
――ちょうど、こんな風に。
そう言うや否や、良香はしがみ付いていた寅丸の身体から手を離す。
「え――良香さんっ!?」
空を飛ぶことができない良香の行動に寅丸が面食らった時には、もう彼女の身体は大祀廟を取り巻く暗渠の只中へと自由落下を始めていた。
「芳香ッ!?」
それまで平然と良香を言い負かしていた青娥もまた、その行動は予想の範囲外だったらしい。攻撃のために展開していた弾幕を消して、猛スピードで落下する良香の方へと飛んでいく。この高さだ。いくらキョンシーだか尸解仙だかとはいえ、地面に激突して無事のままとは思えない。流石にこの状況でボケッと待っているわけにも行かず、私と寅丸もその後を追った。
落下していく良香の身体に、青娥は徐々に近づきつつあるようだった。重力に身を委ねるしかない良香よりも、空を飛べる青娥の方が早いのは判る。が、今の良香にそれが判らないはずもない。にもかかわらず、どうして唐突に身投げをしたのかは判らなかった。
薄らと地面が見えた頃、青娥が良香の身体を空中でキャッチする。そして私は青娥の周囲にあった明かりが、勝ち誇った様な良香の笑みを照らしだす光景を見た。
「――今度は私の勝ちだったな、青娥」
青娥に抱きとめられた途端、そう言った良香が中華服の中から何かを取り出した。
それは長方形のお札。
キョンシー芳香の額に張られていた物であり、先ほど寅丸が剥がして胸元にしまっていたはずの代物だった。自分の身体を抱える青娥が反応できないのを好機と見たか、彼女はそれを青娥の額に張り付ける。
その瞬間、青娥の身体がビクンと雷にでも打たれたかのように仰け反った。その反動で青娥の手から零れた良香は再び落下していく。が、一度勢いを殺されていた分、悠々とは行かないまでも何とか受け身を取って着地を決め込んだ。
「あのお札……いったい、いつの間に……?」
空中で動きを止め、少しずつ地面に降りていく青娥の背を見やりながら、私に近寄ってきた寅丸が不思議そうに首を傾げる。私は何となく、その答えに行きついていた。
「アレじゃないっすか? ほら、アンタが良香さんからセクハラされてた時」
「ん……あぁ、あの時ですか……」
苦々しい笑みを浮かべた寅丸が、やれやれとばかりに嘆息する。
「ということは、あの時からもう既にこうなると予測していたってわけですか……」
「……まぁ、もう少し楽に事が進むと思っていたのだがね」
ヨロヨロと立ち上がった良香が、スカートの尻辺りに着いたらしい砂を払ってから肩を竦めた。そしてがくりと頭を垂れるような姿勢で地面に降り立った青娥の右手から、ナズーリンのペンデュラムを引っ手繰ると、
「青娥がコイツを手にした事情は知らんが、これは君の部下の物だろう。返しておくよ」
「あ、ありがとうございます……!」
パッと顔を明るくした寅丸がペンデュラムを受け取る。これで昨晩の蛮行が、コイツの上司に知れ渡る危険性は無くなったってわけだ。
「……つーか、このお札、こんな使い道があったんすか」
機能を停止した人形のようにピクリとも動かないままの青娥を見やりながら、私は小さくため息を吐く。
「エロ同人御用達っすね」
「いやいや、そんな不埒な代物じゃないよ。この札は単純に、尸解仙を意のままに操る術式に過ぎないのだからね。キョンシーだから札を貼るんじゃなく、この札を貼られた尸解仙が、キョンシーと呼ばれる道具にさせられるんだ」
「じゃあ私の理解で間違ってないじゃないっすか。村人に知られたら幻想郷にモラルハザードが起きるっすよ。おぞましい」
「そういうものじゃ……いや、間違ってない、のか? ま、どっちでも良いがね」
肩を竦めた良香はニヤニヤと笑いながら、立ち尽くす青娥を眺める。額に垂らしたお札のせいで青娥の表情は判らないが、これまでずっと自分を使役してきた主人の有様を見る良香のそれは、実に楽しそうだった。
「長かった……この女からキョンシーにされてから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう――だが、勝敗は決した。主従の逆転、なんとか下剋上のブームには乗れたようだね……」
岩盤の向こう側にある空を仰ぐように目を細めて上を向いた良香が、感慨深そうに大きなため息を吐く。
「これからは私が主人だ。私がかつての夢想を叶えよう。懐かしい――人という脆弱な存在からの脱却、道教の最終到達地、夢に描いた桃源郷、天人への道……心が躍るよ。これもみな、君たちのお蔭だ。幽閉されていた私の意識の救済者。返せぬほどの借りができてしまったね……ありがとう」
帽子を取った良香が、私と寅丸に恭しく頭を下げる。そして再び顔を上げた彼女の表情は、それまでに見たことがないほどに晴れやかだった。
「しかし……良香さん? 椛さんに掛けられた邪法はどうするのでしょう? 青娥を屈服できたとは言え、あなたに解呪できないと言うなら……」
「ん、あぁ……」
チラと私を見た良香は帽子を被りながら、心配には及ばないよ、と頷いて、
「確かに私には、養小鬼を何とかする力はないさ。仙術を磨く暇が無かったもんでね」
「それじゃあ……」
「ん、大丈夫だと言ったろう? 私にできないなら、私の『道具』にやらせるさ。主従逆転の、記念すべき第一命令だ」
良香が指を鳴らすと、今まで動かなかった青娥がその音で機動を開始する。ぎこちない動きで顔だけを上げたその挙動は、まるでスイッチを入れたからくり人形のようだった。
「アンタがキョンシーだった時とは、なんかえらく勝手が違うっすね」
「それはしょうがないね。元々あの札は、私というキョンシーのために最適化された指揮系統が記されていたから……なに、これからゆっくりと書き直すさ。私は青娥のように悪趣味じゃないから、もうちょっと利口に動けるプログラミングを行うよ――さて」
パン、と手を叩いた良香は私と寅丸を順番に見てから、
「――さて青娥、『命令』だ。椛クンの養小鬼を解呪したまえ」
命令、という言葉に青娥は敏感に反応した。
力なく垂れ下げていた両腕が、ゆっくりと前方に伸ばされる。それはまさしくキョンシーとしての挙動に他ならず、視えない糸で吊るされているかのような肉体の動かし方は、傍から見てる分には不自然その物で実に不気味だった。
青娥の両手がピンと前方に伸ばされる。それでようやく命令を処理する体勢が整ったらしい。札を剥がす前の良香と同様に両足をピッタリとくっつけたままジャンプし、良香を正面に据えて動きを止め――
――そして右手を折り曲げて、額に付けられた札を掴む。
「な……!?」
命令になかったのであろう青娥の行動に、良香は目に見えて動揺していた。何が起きているのか彼女に理解できていない以上、私と寅丸も困惑するしかなかった。
「青娥! 何をしている! なぜ命令を聞かない! いや、違う……! なぜ命令に逆らえる!?」
悲鳴のような良香の大声も虚しく、青娥は自分の額から札を剥がそうと足掻き始める。鷲掴みにされた札はクシャリと真ん中から潰れ、行動と命令のコンフリクトのせいか彼女の全身は小刻みに震えていた。面食らったままの良香が何とか青娥の行動を止めさせようと右腕に縋り付くも、彼女の力は相当に強いらしくビクともしない。私と寅丸は顔を見合わせて加勢に入るべきかどうか考えあぐねていた。
「ぐっ!?」
掴みかかっていた良香の身体が、青娥の左手に突き飛ばされる。受け身も取れずに尻餅を突く良香が体勢を立て直そうとした瞬間、ベリリと札が剥がれる音がする。反射的にそちらを見れば、右手の中に札を握り締める青娥の姿があった。
「……ふぅ」
まるで身体の動かし方を思い出そうとしているようにあちこちの関節を動かしてから、青娥はそんな小さなため息を吐く。目に映る光景が信じられないとばかりに目を見開く良香が、馬鹿な、と震える唇で呟いた。
「なぜ……なぜだ……そんな、なぜ逃れられる……なぜ抗えた……一度キョンシーの札を貼られて、自力で札を剥がせるわけが……」
「えぇ、そうね。その通り。あなたがよぉく知っている通りよ」
自然な挙動を取り戻した青娥は私と寅丸を興味なさげに一瞥してから、いまだ地面に転がったままの良香のもとへと歩み寄る。そして人差し指を襟首の辺りに引っ掛けたかと思うとそのまま服をずり下げ、大きく露出させた肌を良香に見せつけた。
「ほら、これが何か判るわよね? 胸じゃないわよ? この術式符――」
言いつつ青娥は胸元に手を滑り込ませ、服の内側から一枚の札を引っ張り出した。何事か赤字で書き連ねられているその札を目にし、良香が苦々しい視線で青娥を睨む。
「……行動指令、術式……っ」
「そ。あなたの考えくらい、私が読めないとでも思った? あなたに貼っていた札が剥がされた時点で、あなたが私に札を貼ろうとしてくるなんて目に見えてるわよ。なら、予め対策を取っておくのも当然のこと。指令はもちろん、『額の札を剥がせ』――キョンシーって扱いにくいわよね? 『命令』は一つ一つ順番に処理しなきゃならないんですもの」
ひらひらと良香の前で振った術式符を握り潰し、肩越しに放り捨てた青娥が、やれやれよね、と嘆息する。彼女を見上げる良香の両目は、悔しさの余りか泣きそうに歪んでいた。
「……私が、あの時、あの千年前の夜……そのことに気付いていれば……十重二十重に、対策を練っていれば……」
「あら、それは無理よ、芳香、都良香さん。誰があなたにタオの手ほどきをしたと思っているのかしら? 相手の手の内を見透かせない限り、叶う叛逆なんて無いのよ?」
良香の企みを看破したにもかかわらず、青娥の様子は実に淡々としていた。まるでつまらないパズルを手慰みに解いた後のように。それとは正反対に、赤く潤み始めた両目で青娥を見る良香は、奥歯が割れそうなくらいに強く歯軋りをしている。
「……私は、私はいつになったら、お前に打ち勝てるんだ……? いつになったらお前を、お前を私の物にできると言うんだ……っ!? 私は、また……またも……っ!」
「――その時は来ないわよ」
なぜなら私とアナタの求めるところは同じだから。
アナタが私を欲したように、私もアナタが欲しいから。
未来永劫まで互いが互いを所有しようと牙を剥きあって、その欲求に折り合いを付ける手段なんか存在しないから――。
「それじゃ、御機嫌よう」
軽く微笑みながら呟いた青娥は、右手の中に残されていた札を良香の額に張り付ける。小さく悲鳴を上げた良香は札を貼られた瞬間に、すぅと表情を失い、地面に倒れ伏した。
「ク……ソ…………」
それが芳香の――否、再び目覚めた都良香の最後の言葉となった。
キョンシーとしての術式を解かれ、僅かの間だけ尸解仙に戻った彼女は青娥に敗北を喫し、結局は元の鞘へと戻された。良香としての自我を喪失した肉体を見下ろす青娥の横顔は、何とも言えない寂寥の念を滲ませている様にも見えた。
私と寅丸に、口も手も挟み込む隙なんかなかった。千年を超えて使役し、使役されてきた関係性の原初。この場にいる私たちは、今一度再生されたその糸口に立ち会っただけの部外者に過ぎないのだから。
「……さて、アナタたち」
にっこりと微笑みながら青娥が私と寅丸を順繰りに見る。
交渉のカードとして使おうとしてた芳香を取り戻された。クナイも消費して空手の私たちに青娥を打倒する手段はない。助けはまったく望めない。
――あ、やべぇ。これ詰んだわ。
立ち呆けていた私たちは、自分たちの置かれている状況の最悪さを自覚して戦慄する。
「えっと……私、なんて言ったかしら? アナタたちをどうするって? あら? 確か? えっと? こ? ん? 殺? あら?」
頻りに首を傾げながら、青娥はニタニタと笑って私たちの顔色を窺ってくる。チラと寅丸の顔を盗み見るも、やつの顔面は蒼白で頼りにはならなそうだった。目が合った時に見えた奴の落胆の色から察するに、私も同じような顔をしているらしい。
「ああ、そうそう、思い出しましたわ。殺すって言ったんだったわ。アナタたちを全力で消し潰して差し上げますわ、と言ったのでしたわ。いやねぇ、なんだか物覚えが悪くって」
「……歳っすかね」
「何か言った?」
「何でもございませんっす」
やっべ。目が怖い。突っ込み待ちじゃなかった。
万事休すか。辞世の句でも考えておくしかないのかな。うふふ。
「――いかんぞぉ!」
ストレスフルも良い所な沈黙を打ち破ったのは、ぎこちない挙動で立ち上がった『芳香』の大声だった。キョンシーとしての再起動が終わったらしい彼女の声に、もう先ほどまでの理知は無くなってしまっている。ついさっき墓場で初めて出逢った時と同じ調子だ。
「死ぬのだけはいかん! あれだけはいかんのじゃ! せーが! 殺しはいけないことだぞぉ! なぜなら死ぬのは怖いからな! 芳香は知ってるんだぞ!」
両腕を突き出し、ピョンピョンと青娥の周りを跳ねながら芳香が語る。そんな芳香の様子を、青娥は黙って眺めていた。
……あー、なんつーかな。
さっきまで良香だったコイツを見ている分、今の様子は痛々しいを通り越して切なくさえ見える。ギャップが激しすぎて置いてけぼりにされている認知意識に、憐れみが差し挟まれるのを感じた。アルジャーノンに花束を供えてくれと頼んできそうだ。
「――そうね、死ぬのはイヤよね」
青娥もまた、何やら思うところがあったのだろう。喚きながらグルグルと回る芳香を眺めたのち、小さくため息を吐いてからそう言った。
「……椛さん、狩りはする?」
「え? はぁ、まぁ……」
「私、猪が食べたいの。たまには芳香にも豪華な物を食べさせてあげたいし、大物を取ってくれると約束してくれるなら、それで許してあげる」
芳香に免じてね。
そう付け足した青娥の表情は、どこか母親という存在のもつような安らかな物だった。
「……そんなら私、良い店知ってるっすよ」
「あらそう? じゃ、そこで御馳走して下さる?」
「――はい」
ま、そんなやり取りをして、
私たちは青娥と和解したのだった。
◆◆◆
「おお……! 流石は仙女っすね……! 綺麗さっぱりっすよ……!」
青娥の持つ壁抜けの能力で、塞がっていた霊廟の入口から外に出てすぐ、青娥は私に掛けていたヤンシャオグイの呪いを解除してくれた。際限なく膨らみ、成長を続けていた闖入者もすっかり居なくなり、私の腹部は元のつるりとした平坦さを取り戻した。
いやあ、肩の荷が下りたように晴れやかな気分だ。
肩じゃなくってお腹の中なんだけどさ。
「おめでとうございます! これで、ミッションコンプリートですね!」
ナズーリンのペンデュラムを取り戻した寅丸が、ほくほく顔で私に笑い掛けてきた。出逢った時にはいけ好かないと思ったコイツの両手で包み込むような握手も、今は万感の思いで迎えることができる。
「別に私がどうこうしなくっても、明日の昼までには解決してたのに」
日の下に戻れて嬉しいのか、雄叫びを上げて縦横無尽に墓場を跳ねまわる芳香を微笑ましそうに見やりつつ、青娥が言う。
「へ? そうなんすか? なんだ、そんじゃ呪いっつっても脅しみたいなもんなんすね」
「違うわよぉ。明日の昼になれば成長を終えて出て来てたってこと。グジュミュルヌブボギュニュルルルルルルル……って」
「怖ええええええええええええええええええええええええええッ!!!!」
何すかその得体の知れないオノマトペは!
完全にコズミックホラーの世界じゃねーか! 私の中から這い寄る混沌!
「まあ、良いじゃない、こうして解呪してあげたんだし」
「んぐぅ……そこには素直にお礼を言いますが、マジえぐい呪いを掛けて来ますね……」
「しょうがないじゃない。昨日のアナタたちったら、尋常じゃないくらいに殺気立ってたんだもの。怖いって言うなら私の方が怖かったわよ」
「……ご迷惑をお掛けしました。でも盗みは止めた方が良いですよ」
「椛さん、約束、忘れないでね?」
謝罪交じりに寅丸が放った軽い説教を華麗にスルーしつつ、青娥が悪戯っぽいウインクをしてくる。バチコン。
「あぁ、ご心配なく……今度は前後不覚に陥らないように気ぃつけますわ」
「そうして頂戴。酒は飲んでも飲まれるな、よ?」
「肝に銘じます」
「肝に銘じます」
今日の行脚ですっかり懲りた私と寅丸は、異口同音に青娥へ頭を垂れたのだった。
……何はともあれ、昨日の痴態の後始末は終わった。
思えば長かったな。全裸で目覚めて以来、妊娠だの、荒れ果てた部屋の中の血糊だの、身に覚えのないスナイパーライフルだの、にゃんにゃん語で喋るナズーリンだのと、ぶっ飛んだ事件が目白押しだった。さすがにもうお腹一杯だ。しばらくは、ゆっくりしたいところだわ。ホント。
「――寅丸さん、お疲れさんっした」
私が寅丸に頭を下げると、寅丸はふふ、と小さく跳ねるような笑い声を零して、
「こちらこそ……色々ありましたけど、楽しかったですよ。椛さん。これからもアナタとは、個人的にお付き合いをさせていただきたい物ですね」
「そんときは、もうお酒は控えましょうね」
「あはは……はい」
照れ臭そうに頬を掻いた寅丸の表情は、なぜだか酷く魅力的に見えた。
今回の経験。
それは結局、どこまでも自分たちの尻拭いでしかなかったのだけれども、終わってみるとどうしてか、嫌な記憶も悪い記憶も、全部忘れてしまったかのように記憶から抜け去りつつあった。
きっと私も、楽しかったのだろう。コイツと――寅丸星と行動を共にしていた時間が。
なんてな……恥ずかしいから、そこまでは言ってやらないけど。
「――それにしても、あれだけ暴れたにしてはお寺の皆さん来てないわねぇ……もうお昼も過ぎたというのに、みんな寝てるのかしら?」
墓石がいくつも粉砕されたりなぎ倒されたりしている墓地の有様を見つつ、まるで他人事と言った風に青娥が言う。するとペンデュラムを首に掛けた寅丸が、「あ、そうでした」と何やら思い出したらしく手を打ってから、
「青娥さん、我々の服は持ち帰られたのですか? それにしても、つくづく昨晩の我々はアナタを怒らせてしまった様ですね……まさかこの寒空の下で身ぐるみを剥がすなんて」
「は?」
寅丸の言葉に、青娥は首を傾げた。何を言っているか微塵も理解できないと言わんばかりの表情で。
「なに言ってるの……? 仮にも女の子に対して、そんな酷いことしないわよ……」
洋服を持ち去った疑惑を掛けられて、青娥は心外を通り越してドン引きしたように返す。
「――え?」
「……マジ、っすか……?」
これに驚いたのが、私と寅丸だった。
なにせ青娥がナズーリンのペンデュラムを持っていたのだから、昨晩私らは彼女に打倒され、身ぐるみを剥がされたとばかり思っていたのだ。
「え、何その反応……。逆に何なの? というかアナタたち、昨日のこと覚えてないの?」
「はい……まぁ……え? そうすると、え? どういうことですか……?」
「…………呆れた」
がっくりと肩を落としてため息交じりに言った青娥が、矢庭に白いベストを脱いだ。何をするのかと見ていると彼女はそのまま我々に背中を向ける。彼女のワンピースは背中部分が大きく開いており、そこから覗く彼女の肌は、どういうわけか痣だらけだった。
「うわ、えげつなっ……手ひどくやられましたねぇ。お相手は激しいのがお好きな殿方だったんすか?」
「はっ倒すわよ。アナタがやったくせに」
「……私、っすか……?」
「そうよ。何だかよく判らない長筒で、逃げる私を背後からガンガン攻撃してきたじゃない。お洋服も真っ赤にされたし、昨日のアナタたちは最悪だったわよ」
憮然とした声で言いつつ、青娥がベストを羽織る。顔を見合わせた私たちは、「大変申し訳ありませんでした!」と、土下座せんばかりの勢いで声を合わせるしかなかった。
「……もう許すって言っちゃったから良いけど……だからアナタたち、私が身ぐるみを剥いだと思ってるなら、大きな間違いよ。むしろ私は被害者だったのですもの」
「そ、それじゃ……! どうしてアナタが、ペンデュラムを!?」
「アナタが投げ付けて来たからよ。『椛! テメェばっかに良いカッコさせっか! 道具なんかに頼るなんて二流もいいとこだぜ!? アタシのスローイングを見てからデカい面しな!』って」
「だから誰だよソレもう。アンタは酔うと反則系理不尽強力キャラになる性質でもあんのか。オーバーキルドレッドか」
「……お恥ずかしい」
「ブラックダイヤダーカーザンダーク……でしたっけ?」
「すいませんでした。青娥さん、それはほんと、マジで、ほんとにやめて下さい。ほんとうにやめて下さい。クツ舐めますから」
即断即決で地面に這いつくばった寅丸に心底嫌そうな視線を投げ付けた青娥が、寅丸の手からひらりと右足を遠ざける。
……しかし。
そうなると私らは、いったいどこで自分たちの一張羅を無くしたんだ……?
やっぱり私の家の中にあるのか? ナズーリンが片付けてくれているあの凄惨極まる我が家のどこかに? もしそうなら、私の探索が甘かったということで片付いてくれるのだが……。
「……青娥さん、アンタ昨日我々に襲われた後って、どうなったか教えては貰えませんかね……?」
「さあ? 破れかぶれに養小鬼を放ってからは追撃が止まったから、それを好機と見て逃げ帰ったわよ。アナタたちのその後なんて知らないわ」
「――そうっすか」
むう……。
ここに来て、手掛かりが潰えてしまったか。
洋服くらい新しく買うなり、上に申請するなりで、無くなったところで何とかなるっちゃなるが、しかし無くした場所すら判らないというのは、ちょっと厳しいものがある。
なんせ洋服だよ?
下着まで無かったんだよ?
無くしたじゃ済まないだろ基本。その格好で出歩いたなんてシチュエーションはキツ過ぎる。こちとら嫁入り前の女子だってのに。
と――。
「――号外! 号外ですよ! 今季の新聞大賞獲得間違いなしの大スクープですよ!」
熱に浮かれたような射命丸の声が一瞬だけ上空を通り過ぎ、うるせぇなと空を見上げれば、ガリ版刷の紙っぺらが後から後から降って来る。あのバカ見境なさ過ぎだろ。下も見ずに新聞ばら撒いてやがる。こんな墓地にまで新聞を振らせやがって、しゃれこうべにでも読んで貰うつもりか?
「あらあら、新聞ね」
青娥が舞い落ちて来る新聞の一枚を掴み、その場で悠々と読み始める。文々。新聞を好き好んで読むなんて、この人は聖女か何かか?
「うるさいカラスっすねぇ……幻想郷のうららかな日和も台無しっすわ」
「ほんと嫌いなんですね。文さんのこと」
「まあ、互いが互いの弱みを言い触らしてやろうとしているような仲っすからね。そんなもんっすよ。カラス天狗と白狼天狗の関係なんざ」
やれやれと私は肩を竦める。誰も読みゃしない新聞を手当たり次第に散らかすとは、環境破壊もいい所だなどと思いつつ。
「そう言えばはたてさんが言ってましたね。文さんが特ダネ掴んだらしいって」
「どうせ下らない擦った揉んだっしょ? あるいはマッチポンプかもしれませんね。ま、どっちにしろ、あのアホのことなんか放っときましょ」
「――あら、まぁ!」
それまで何となくといった風に射命丸の新聞を読んでいた青娥が、目を丸くして叫んだかと思うと、何故か私と寅丸のことを順々に見てくる。そしてニンマリ、と何とも生暖かい物でも見るようにして眦を垂れた。
「へぇ……ふぅん……知らなかったわぁ……あらあら、なによぅ……もぉ……」
「青娥さん? なんすか、その表情……気持ち悪」
「え、何が書いてあるんですか?」
首を傾げた寅丸が地面に落ちていた新聞の一枚を拾い上げ、何の気なしといった具合に紙面を表にした瞬間、「ぶっ!!!!!!!???????」と盛大に噴き出した。
「え、え、え、何すか寅丸さんまで、え、何すか、何なんすか、怖い」
慌てて私も号外の一枚を拾い上げる。
――そして、記事の見出しを目の当たりにした瞬間、
私は全身から血の気が引いて行くのを感じるのだった。
◆◆◆
文々。新聞 第百二十九季 水無月号外
『おめでとう! 寅丸星×犬走椛 結婚!』
昨晩の深夜、眠っていた記者の許へと突然の闖入者が現れた。寝ぼけ眼で玄関の戸を開けた瞬間、酒臭い息を吐きながら入って来たのは、命蓮寺の本尊である寅丸星氏と、哨戒天狗である犬走椛氏の二人であった。
「どうも子宝に恵まれたみたいなんだ」
普段の物静かな態度もどこへやら、まるで角の生えたお偉方のような傲岸不遜さで、寅丸氏は記者に告げた。彼女の左手をしっかり掴んでいた犬走氏は、長筒を振り回しながら玉の輿がどうこうと喚いていたのが印象深い。
「だがそれに至るプロセスを踏んだ記憶がない。これはおかしい。おかしいことは正さなくちゃいけない。アンタもそう思うだろう?」
寅丸氏の論理は意味不明だった。
これではいけない、と気を取り直した記者がインタビューを試みようと『寅丸さん』と呼んだところ彼女は烈火の如くに怒りだした。
「アタシのことは【冥夜に溶け込む黒き金剛(ブラックダイヤ・ダーカー・ザン・ダーク)】と呼べ」
寅丸氏の怒りは意味不明だった。
このままではブン屋の名折れ、と気を取り直した記者が、何故私の家に来たのかと問うと、そこで我が意を得たとばかりに胸を張った寅丸氏は今までの活躍と銘打ち、呂律の回らない口調ながら滔々と語り出した。
以下は記者が苦労してまとめたものである。
~~~~~~
信徒拡大のために妖怪の山を見学しに行った寅丸氏は、案内人として犬走氏を迎えた。視察を終えた二人は犬走氏の馴染みの居酒屋へと向かい、たらふく飲み食いしたそうだ。
気分の良くなった二人は、犬走氏の親友である河童の河城氏を呼び出し、彼女が持参した酒を浴びるように飲み干した。度数の高い酒だった、と寅丸氏は誇るように言っていた。
その後、河童や山童の中で流行しているサバイバルゲームに参加するため、河城氏と共に店を出た二人は、そこで命蓮寺のナズーリン氏と出会う。難癖を付けて来た彼女を捻じ伏せ、様々な要求を突き付けてペンデュラムを奪った後に放置する。
河童たちの沢へと辿り着いた二人は、獅子奮迅といった調子で河童や山童の大群を相手取って蹴散らし、称賛をほしいままにする。犬走氏はそこで出会った、仙川氏という山童と浅からぬ仲になったことを仄めかされた。
サバイバルゲームから帰投した折、邪仙である霍青娥氏が河童たちの住処を荒らしているところを目撃。逃げる霍氏を追いかけ、仙川氏の長筒やナズーリン氏のペンデュラムなどを使って撃退。そして気付いたら犬走氏が妊娠していたので、記者の家へと押し掛けて来た。
~~~~~
驚嘆に値する冒険譚ながら、記者の家へと来た理由が疑問だったのでそれを問うと、寅丸氏はその理由をこう語った。
「できるものができちゃったら結婚するのは当たり前。アタシと椛は結ばれることにした。そのことを告げたら、椛がアンタの家へと行こうと言ったわけだ」
それを聞いた記者はベッドで勝手に寝ようとしていた犬走氏を叩き起こし、記者の安眠を妨げてスクープをもたらしたことについて尋ねると、犬走氏はこう語った。
「行き遅れに見せつけようと思った。反省はしてない」
記者はコイツを本気で殺してやろうかと思った。
しかしながら犬走氏の言葉を聞いた寅丸氏は、『見せつける』という言葉に甚く発情、もとい興奮、もとい奮起したらしく、「見せつけよう」と叫んだかと思うと犬走氏に飛び掛かった。
その後の顛末について詳しく語る筆を私は持たない。
記者がこの原稿を纏めている間に二人はどこかへと去ってしまっていたが、記者の家に両人の服が残されていることは確かである。私のベッドがぐっちゃぐちゃになったことも確かである。布団、高かったんですが。もう寝れないんですが。記者は二人にベッドの代金を請求するつもりである。
ともあれ。
戒律や種族、性別といった様々な障害を乗り越えて成就した二人の恋が、果たしてどのような結末を迎えるのか。更には二人の間に育まれつつある命がどのように育つのか。
今後の成り行きに幻想郷中の注目が集まることは間違いないだろう。
記者 清く正しい射命丸文
◆◆◆
Fin
↑
※前作です
「……なるほどね。概ねのところは理解したよ。君たちの現状と、これから成すべきことについて……ね」
如何にも傲岸不遜な表情を浮かべた少女が、腰掛けている墓石の上でゆったりと足を組み替える。
その仕草はどこかねっとりとした退廃の空気を漂わせ、昼日中の墓地というシチュエーションをまるで無視した雰囲気へと変貌させてしまう。
まるで娼館のように。
まるで阿片窟のように。
「いやはや……ずいぶんと面倒くさい目にあってしまったモノだね? 椛クン。犬走椛クン。ふふ……通過儀礼を経ずして懐胎に至るだなんて――私は寡聞にして、君か聖母マリアくらいにしか思い当たる節がないな……」
「はぁ……」
地面に膝を畳んだ私は、そんな曖昧なこと極まりない生返事を、声帯から絞り出すので精一杯だった。
正座である。
恐れ多くも死者の墓標を、まるでそれが玉座でもあるかのように腰掛ける少女から、そうしろと命じられた訳じゃない。けれど、この少女と相対していると、こうして少女の言葉を耳にしていると、どうしてかそう在るべきだという気にさせられてしまうから、不思議だ。
「……その……それで?」
私の隣で同じように正座をしている寅丸星が、おずおずと墓石の上の少女へと問いかける。生気のまるでない、陶器のような青白い顔へ向けて。
「なにかな?」
「アナタの言葉から判ずるに――いえ、つまり、我々は、アナタの協力を得られると、解釈しても良いのでしょうか?」
一つ一つ、言葉を選ぶように目線を揺らめかせながら、寅丸が問うた。
――協力を得る。
その言葉を聞けば、さっきまでの私たちは何のことか判らず首を傾げたに違いない。
どうしてこの少女に、お伺いを立てるようなセリフを吐くのか。
どうしてこの少女を、どこかの貴族でも相手するように扱うのか。
それは何も私らだけじゃなく、幻想郷にあって彼女のことを知る人物ならば、誰しもが不思議に感じただろう。
不思議。
もしくは不自然。
あるいは奇妙。
傍目から見れば眉根をひそめるに違いない光景に荷担しながら、私はどこか他人事みたいな思考を巡らせる。私たちが今やってることは、すごく変なことなんだろうな、と。
たっぷりと勿体ぶるような間を置いた少女は、やがて喉をくつくつと鳴らして笑う。
さも愉快そうに、可笑しそうに――笑う。
「『協力を得られる』――ね。そんなに畏まらなくても良いよ。星クン。寅丸星クン……『是非もない』というのが、私の答えだ。『あの女狐』には、私も一泡吹かせてやりたいと思っていたのだから……まぁ、理由は察せられるだろうがね」
ぎこちなく肩を竦めた少女は、にんまりと唇を歪めて笑う。
蠱惑的に、そして退廃的に。
底のない穴の淵でこちらを見返して来る深淵のように、その真意は計り知れなく、そして伺い切ることができない。
「良いだろう――君たちの計画に、荷担させて貰うよ……最近、幻想郷でも流行っただろう? 下剋上――レジスタンスって奴さ。フフフ……私をこんな身分に貶めたあの女が、どんな綺麗な絶望の表情に染まるのか、愉しみだよ――」
――さあ、復讐劇を始めようじゃないか。
そう言って彼女は。
少女――宮古芳香は、両手を広げて宣言した。
◆◆◆
……いや、流石に説明が必要だろう。
ぶっちゃけ私らだって意味判ってないもん。このシチュエーション。何なん? 予想の斜め上ってレベルじゃ無いでしょ。イミフ。理解する脳みそが現状を明後日の方向へと全力投球してるわ。どうしてこうなった。どうしてこうなった。
もう整理すんのめんどいからお家に帰って寝ていい? ダメ? ですよねー。なんせ自分のことだし。このまま放置したら、ヤバいことになるのは見えてるし。やれやれっすわ。
さて――ええと……。
――にとり、そして仙川さんに別れを告げた我々は、目下のところ私の腹を何とかしないといかんという訳で、邪仙――霍青娥との接触を最優先に行動することで合意した。
しかしながらあちらさんは神出鬼没、どこに住んでいるかもよく判らん上に寅丸とは敵対する立場。加えて昨晩(全然覚えてないとは言え)一悶着を起こしていることは疑いの余地もなく、正攻法での接触はまず不可能なことは想像に難くない。
そこで寅丸が考え付いた策というのが、命蓮寺裏手の墓場に居付いている霍青娥の手下、宮古芳香というキョンシーの捕縛だった。
青娥はそいつを猫可愛がりしているらしく、そのキョンシーさえ人質に取れれば、接触と交渉が可能になるだろうとのことだった。
……つくづく寅丸が仏門にあるなんて信じがたい、えげつないこと極まりない作戦だが、背に腹は代えられない。他ならぬ自分の腹のためだ。一も二もなく私は同意した。
腹の中で急成長する、訳の判らん生物を出産するとか怖過ぎるもんね。
ベルセ○クの世界かよって感じ。
「……しかし、本当にその邪仙を捕まえれば何とかなるんすよね?」
流石に何とか二日酔いも和らぎつつあったので、口の軽い野次馬に見つからないよう、こっそりと空を飛んで山を下りながら、私は先導する寅丸の背に再確認をした。私の仕事道具はにとりに預かって貰っているので、手軽で動きやすい。なんせ体調が体調だ。身体は軽くしておくに越したことはないとの判断だった。
いやはや、飛んでみるとハッキリ判るけど、かなり腹具合は良くなかった。すんごく身体が重い。腹部の皮膚も突っ張ってるのが如実に感じられる。つわりやら陣痛やら、そんなリアルなアレは無かったけど、残された時間はあんまり長くないってことは確かだった。
「十中八九なんとかなります。希望を捨てずに邁進あるのみですよ」
雲の上を先導する寅丸がグッと拳を握ってほほえんでくる。無駄にいい笑顔だ。しかしながら頼りがいをまるで感じられない私は、肩を竦めて励ましをスルーする。
性格悪いとか言わないで。
マタニティブルーなんです。
「そろそろですね……お寺の皆さんには、見つからないようにしてください。特に聖には」
「へーい」
「大丈夫ですか……? 本当の本当に判って貰えてますか……? 私の社会的な死亡だけじゃなくて、アナタの安全のためにも言っているのですよ……?」
「へいへい。判ってますって」
「万が一見つかったら、『ペッチン』されますよ?」
「擬音だけは可愛いっすね……いやいや、大丈夫ですって……」
ナズーリンも怒ってたしなぁ。私に対して。
聖白蓮に現状の諸々を誤解されたら、あんなもんじゃきっと済まないだろう。彼女の体育会系っぷりは山の妖怪をもってして畏怖の文脈で語られる。いつもニコニコ笑ってる人というのは、概して怒ったら凄く怖いものなのだ。強者は大抵、笑顔である。
昨晩の痴態という情報。それはまだ、私の家を片付けてくれているであろうナズーリンの耳までで留まっている。だから命蓮寺の面々には、知られていないだろう。じゃなきゃ、こんな呑気に空を飛んでいられる筈もあるまい。
大丈夫。バレたらヤバいだろう、ということくらいは百も承知だ。
人間を超越した阿闍梨から「お仕置きです」なんて『ペッチン』されたら、私は死んでしまうぞ。
だってあの人、拳で鐘鳴らすんでしょ?
『ペッチン』された部分が爆散しそう。ミサイルめいたデコピンで死ぬのは勘弁願いたい。
そんな訳で隠密起動、了解、了承である。バレたらアウトとは言え、こちとらこれでも山岳警備のプロなのだ。レーダーでも無い限り、私が見つかることはあるまい。
人里に近づいた頃合いを見て雲の下へと移った我々は、私の『眼』を慎重に運用しつつ、目指す命蓮寺裏手の墓地へと降下していく。そろそろお昼時といった時間帯だ。眼下に伺える人々は昼飯を何にするかの思案に忙しく、こちらを不用意に見上げて来る輩の姿は見当たらない……そう言えば朝から麦茶しか口にしてないな。吐き気が収まってきたせいか、空腹を感じる。不気味な占領者が私の腹の中から居なくなってくれたら、軽く何か食べようかな。
なんてことを考えている内に、私たちは何事もなく墓地の敷地内へと両足を降ろす――ふむ、時間帯が幸いしてくれたおかげか、墓参りに来ている奴はいないようだった。好都合だ。ようやく、私たちにも運気が巡って来たってわけか。
「この奥です。道教連中が眠っていた霊廟の前に、宮古芳香が居るはずです」
乱立する墓石や卒塔婆の向こうを指してから、寅丸はきびきびと歩き出す。その背を追い掛けながら何とはなしに空を見上げる。澄んだ青空は、蕾の膨らみ始めた桜の枝によって網目状に区切られていた。これから春になれば、ひしめく桜花が空を隠してしまうのだろう。
「あれ。今って初夏じゃありませんでしたっけ?」
「何を言っているのかよく判りませんね。びっくりするくらい冬っすけど」
「でも――」
「冬です。すげえ冬。肌寒いでしょ? 今の季節はウィンター。良いね?」
「……えぇ」
さて、かなり広い墓地を進んで行く。狭い狭い幻想郷で、こんなに大量の死者が眠る場所を必要としていることに軽く驚きつつ。
数分も歩いただろうか、墓石の向こう側に古めかしい青銅の扉が見えてくると、不意に足を止めた寅丸が墓石の陰に身を隠しながら、
「……居ました。アレです」
言って、ぎこちなく扉の前に立つ一人の少女を指差した。青い帽子、妙に上等そうなシャツとスカート。そして額に何やら赤字で書き連ねられたお札をぶら下げた、いかにも不健康そうな少女。ピンと前方に伸ばされた両手は、木枯らしに吹かれる古木のように凝り固まっているらしかった。
「あれがその、宮古芳香っつーキョンシーっすか」
「いかにも。霍青娥の手下にして、猫可愛がりされる秘蔵っ子です」
秘蔵にしちゃ堂々と放置されてるようだが、まぁ細かいことは置いておいて。
「……で、どうします?」
「まあ、幸いあの少女は頭も悪いし動きも鈍感なので、噛まれないようにだけ気を付ければ打ち倒すのは難しいことじゃありません。堂々と正面から掻っ攫いましょう」
そう断ずると、寅丸は大した気構えもなく普通に歩いて宮古芳香の方へと向かって行く。私がその背を追うと、あちらさんも私らの接近に気付いたようで「む!」なんて言いつつ大儀そうにこちらを向いて、
「ちーかよーるなー!」
と、威嚇してくる。
うん。
なるほど、その声の響きに知性らしき何かは毛ほども感じられないな。
「何者だお前らはぁ! この場所をあのお方の眠る霊廟と知っての狼藉かぁ! 命が惜しくば引き返せぇ!」
「……もうとっくに起きて、精力的に活動してるんですがねぇ」
忌々しいことに。と付け加えて、寅丸は芳香に歩み寄りつつも私に向けて肩を竦めて見せる。
「むぅ! 来るかぁ! 芳香はせーがの命を守るからな! 向かって来るならしかたない! 芳香の仲間になるがいい!」
警告を聞き流して近づく私らを敵と認定したのか、キョンシーの少女はこちらへ向かって来る。両足をピッタリと着けたまま、ピョンとひと跳び。もう一度、もう一度。将棋の駒を動かしているみたいで、見ようによっちゃ滑稽だ。駒で言ったら何だろう。やっぱ桂馬かな。あの挙動は桂馬っぽい。
「どうします? 肩にでも担いでお持ち帰りコースっすか?」
「暴れられたら面倒です。額のお札を剥がしてやりましょう」
緊張感ゼロで軽く交わしつつ、私らは少女に近づいて行く。
いざ、芳香が攻撃を加えようとぎこちなく両腕を振り上げた所で、寅丸が機敏に飛び掛かる。そして芳香とすれ違いざま、目にも留まらぬ速さで額のお札を引き剥がしてしまった。
おおぅ……コイツ……意外と動けるんだなぁ。
そんな感想を呑気に抱くと、芳香の突っ張っていた両腕がダラリと垂れ下がり、彼女はその場に崩れ落ちる。札を剥がされたことで、キョンシーという妖怪としての規範を失ってしまったってわけだ。
「一丁あがり、ですね」
人差し指と中指の間にヒラヒラと札を挟みつつ、寅丸がにっこりと微笑んでくる。
「はぁ、伊達に虎の妖怪じゃないってことっすか」
「いやぁ、それほどでも……えへへ……」
うわ、ガチで照れてる。めっちゃクネクネしてる。
何だろう……適当な言葉で褒めたのが申し訳なくなるわ。
「……なんか、すんませんっした」
「え? 何がです?」
「なんでもないっすよ。どうします? どっかに移動するんすか?」
「いえ、ここで待機しましょう。下手に動いて、霍青娥に私たちを探し回らせるような時間もないでしょうしね」
札を胸元へ捻じ込みながら、寅丸が私の腹をチラと見て来る。その視線で我が腹部の現状が気になった私も衣服の上から、そっと腹を撫でてみる。
……うーん、やっぱり張ってるなぁ。普通の妊婦さんと比較するに、大体六、七か月くらいだろうか。朝は四、五ってところだったので、この数時間で軽く一か月分はご成長遊ばれてるってわけだ。私のお腹の中のヤンシャオグイさまは。
………………。
…………。
……憂鬱だなぁ。
「――椛さん。そう悲しげな顔をしないで下さい」
ポンと肩に手を乗せてきた寅丸が、私の両目を見据えながらゆっくりと頷く。
「絶対、何とかなります。私を信じて」
「……あー」
クソ。
不覚にもウルッと来てしまった。
これも宗教家の手腕って奴か? 不安なときにやられると覿面だな。
なんて心象の揺らぎを悟られたくなくて、私は寅丸の顔から目を背けつつ、
「――そうなると良いっすねー」
と、興味のない振りを装って強がるのだった。
「ふふふ。大丈夫ですよ。もう我々は王手を掛けているような物なのですから。こうして霍青娥に繋がるカードも手に入れたのですか――ぴゃんッ!?」
「うほえ!?」
突然、何の脈絡もなく寅丸が奇々怪々な言語を発したせいで、私も釣られて変な声を出してしまう。びっくりした。心臓に冷水をぶっかけられたような気分。
「何すか!? 何すか!? 何語ですか!? 不意打ちであざといアピールしてるんじゃないっすよ!?」
「アピールとかじゃ……! いえ、そんな事じゃなくて……! よ、芳香は、どこです!?」
「は?」
何を言ってるんだコイツは、と戸惑いつつも、寅丸が震える指先で示す方を見る。しかしそこにはぺんぺん草の小さな芽が押し潰された痕跡しかなく、さっきまでそこで鮮やかに再殺されて転がっていたステーシーの姿はなかった。
「うわ! えらいこっちゃ! そんな馬鹿な! 死体が歩くはずなんてないのに!」
「……っ、この際突っ込みませんがこれはマズイです。私たちが気付かない内に霍青娥から計画を先読みされていたのなら――取り返しの付かない痛手ですよ」
「と、とにかく探しましょ! そうだとしても、まだ遠くまでは行ってないはず――」
「――どこにも行かないよ……私はね。定められたゴールを奪われた、ただの人生の落伍者さ」
慌てふためく我々の耳に、ザアッと吹いた一陣の風に乗って、奇妙に落ち着いた少女の声が、唄うように呟くのが届いた。
雷に打たれたように、私と寅丸が声の聞こえた方を見る。手近なところに誂えられた墓石の上で不敬にも腰を落ち着かせる少女が、微笑を携えてこちらを観察していた。
先ほど呆気なく機能を停止した筈のキョンシー。
しかし御影石の上で足を組み、頬杖を突く彼女の姿は寅丸から聞き、そして自分の目で確認したばかりだったはずの彼女とは、もう既に似て非なる存在だった。
「な……」
「ふふ……驚いているね、まぁ、無理もない」
酸欠の金魚みたく口をパクパクさせて何を言うこともできずに佇む私らを、くつくつと咽喉を鳴らして嗤った少女は、自分の胸に手を当てたかと思うと、
「――『あの女』の封印を解いてくれてありがとう。私は……私の本当の名は、都良香(みやこのよしか)だ」
そう言って、恭しげに頭を垂れたのだった。
◆◆◆
――都良香。
漢詩に秀で、文章博士の官位を得た平安時代の官人。
羅生門の鬼や弁才天、菅原道真などなどと交流したという話も数多く残されている。四十六歳で亡くなったというのが正史ではあるが、大峰山に入って仙人となったとする説話も残っている。らしい。知らんけど。
「……しかし都良香って、男性ですよね。立派な体格云々とか腕力が強かった云々とかって言い伝えは、どこに行っちゃったんですか?」
「ふふふ、それは愚問という奴だよ星クン。豊郷耳神子のあんなナリを見ておきながら、よくもそんな常識に凝り固まった意見を吐けるね?」
「はぁん、その内小野妹子なんかも、女の子になって復活しそうっすねー」
恐らくは日本史において、ネタにされる率ナンバーワンだろう偉人の名を適当に口にしつつ、私は少女のバックグラウンドストーリーを締めくくりに掛かる。
まあ、投げやりなのはご勘弁願おうか。
予想外の出来事が立て続けに襲い掛かってくりゃ、対処が面倒になるのも人情って奴だと思わない?
いや、私らは人じゃないけどさ。
「で――これからどうするんです?」
蝋細工みたいに不健康な青白さを誇る足を艶めかしく組み替えた良香(芳香)を見上げた私は腹に手を当てつつ、
「協力してくれるのは判りました。が、大層に復讐劇っつっても私らがやりたいのは、あくまで顔合わせと交渉なんすよね。アンタが霍青娥に思うところがあんのは判りましたが、正直、こっちは突き詰めりゃあちらさんにお願いする立場なんす。意気込む気持ちは判りますが、できれば交渉は穏便に済ませたいってのが本音っす」
「えぇ、さきほど申し上げたように、我々は余り猶予のある身とは言えません」
私の横顔をチラと伺って来た寅丸が私の言を引き継いで、
「それは時間にしてもそうですし、椛さんの体調という意味でもそうです。もしも良香さんが主である霍青娥に対して本格的な叛逆をなさるつもりでも、それは我々の本意とは少々異なります。ですから我々としては、霍青娥を呼び寄せることと、椛さんに掛けられた邪法を解呪するよう説得すること。その二つにおいてはぜひ協力して頂きたいのですが、それ以上のことに我々を巻き込む真似は避けて欲しいのです」
この辺りは流石に宗教家というべきか、スラスラと流れるような口調で、寅丸は気が逸っているらしい良香に釘を刺した。
のだが――。
しかしながら、良香に反応は無い。
寅丸の連ねる台詞の途中で目を閉じた彼女は、聞いているのか聞いていないのか、唇の端に微笑を張り付けたまま、生返事一つしなかった。私も寅丸も、あまりにレスポンスの遅い良香を見上げて後、互いに顔を見合わせる。
コイツ、まさか寝たんじゃないだろうな……。
そんな懸念すら生まれるほどに長い時間、身じろぎ一つせずにいた良香は突然、
「……ふ」
と、痙攣でも起こしたように肩を震わせる。
「は?」
「ふふ、ふふふ、ふふ、ふふふふふ……」
私と寅丸の困惑を置いてけぼりにしたまま、良香が目を閉じたままに笑い始める。
さも可笑しそうに。
もちろん、その理由に心当たりのあるわけもない私らは、墓石の上で笑い続ける良香の様子に、首を傾げるのを通り越してほとんどドン引きする。寅丸の顔は思わず笑ってしまいそうになるくらいに引き攣っていたけれど、きっと私も同じ顔をしているだろう。
「……その、良香、さん?」
立ち上がった私は、おずおずと良香の膝小僧あたりを指で突いてみる。冷てぇ。いや、そんなことはどうでもいい。私の呼びかけにも突っつきにも応じず、良香は尚も笑い続けていた。
「なんだこいつ、気持ち悪……バグったかな?」
「フーフーすれば治りますかね?」
「そんなスーファミみたいな……」
どこに息を吹きかければいいんだよ。
耳とか?
「――ふふ、ふふふ、あぁ、失礼……ふふ……いや、他意はないんだよ……ふふふ……」
「あってもなくても気持ち悪いのは変わりないっすけど……なんでいきなり笑い出したんすか? 思い出し笑い?」
「いやいや……何のことはないよ……ふふふ……ただ――もう、来たみたいだからね」
「え?」
誰が、なんて聞く間もなく背後からザリリ、と砂利を踏みしめる音が聞こえた。
まったく心の準備も作戦も立てちゃいなかった私も、そしてきっと寅丸も、その音で飛び上がりそうになるくらいに驚かされる。
振り向くまでもない。
このタイミング、この良香の様子から、導き出せる来訪者なんて、一人しかいなかった。
そしてゆっくりと目を開けた良香が、我々の肩越しに居るソイツを視界に入れ、ニヤリと愉悦を垂れ流す。
「……やぁ、待ちくたびれたよ。薄汚い女狐め」
………………。
…………。
……えっと。
一つ判ったこと。
コイツ、私らの話、全然聞いてねぇ。
◆◆◆
「霍青娥っつーのは、どんな人なんすか?」
命蓮寺裏手の墓地へと向かう道中、私はまぁ、何の気なしに寅丸へと尋ねてみた。昨晩顔を合わせていたのは確かだったのだけれど、そこはそこ。綺麗さっぱり記憶のなくなっている私が偶然、霍青娥のことだけは覚えていたなんて都合の良い展開があるわけもなく、パッと名前だけを出されたところで、どんな奴なのか見当もつかない。
曰く、神霊騒ぎやら聖徳太子復活の黒幕。
曰く、胡散臭く、馴れ馴れしい邪仙。
曰く、やたらと青が好きなので、たぶん水属性。
曰く、にゃんにゃん(笑)。
そんな通り一辺倒の噂くらいは耳に届いちゃいたが、それら断片的な情報だけじゃ明確な人物像を導き出すのなんて到底無理だ。これから交渉しなきゃならないってのに、あちらさんの人となりが判らないってのは致命的だと思っての質問だった。
それに対する寅丸の答えは、
「上っ面としては、温厚そうで余裕のある大人の女性って感じです」
という、なんだか奥歯に物の挟まったような評価だった。
「上っ面……って言い草は、あまり聞こえが良くないっすね。何かされたんすか?」
「いえ、特には……」
「にしちゃあ、随分と敵視してるじゃないっすか。商売敵の一門っつー属性はそこまで憎らしいもんなんすかね?」
「いえいえ、仏教は寛容ですよ。ちょっとやそっとで誰かを目の敵にはしません」
「へー夏ごろは人気を取り合って、しばき合いを演じてらっしゃったようですが」
「茶化さないで下さいよ……何と言いますかね……あの女性は、底が読めないのです」
セリフの合間に唸り声を挟みながら、寅丸は一つ一つ言葉を選ぶように言う。
「どんな時でも穏やかな笑みを浮かべていますし、礼儀もわきまえているようです。以前、ムラサや一輪と連れ立って里を歩いていた際に偶然顔を合わせたことがあるのですが、気色ばむ我々の様子なんて意にも介さず、親しげに世間話などされまして、毒気を抜かれてしまった覚えがあります。が、だからこそ――あの人は気持ちが悪い」
どうも最後まで『気持ち悪い』という言葉を舌の根に留めていたらしいが、最終的には苦々しげに寅丸は言葉を締めくくった。その文句こそが、寅丸の抱く印象を端的に表すものに相違はないのだろうが、しかしそう評すること自体に気後れ染みた思いを感じていたように思えた。
「我々のことなど眼中にない、と暗に言われているようでした。ムラサと一輪の反発や皮肉も軽々と受け流されてしまって、手の平の上で転がされているみたいな気分だったのを覚えています。我々がどんなことを口走った所で、霍青娥には少しの動揺すらも抱かせることができないんじゃないか、と」
「ふぅん……まあ、一筋縄じゃいかないって理解で良いっすかね?」
霍青娥を言葉によって定義することができずにいた寅丸の言葉を受けて、私はやや強引にそう判ずることにした。これ以上聞いた所で、底の知れない青娥の不気味さがいや増すばかりだ、と、そう思ったからだ。
「……そうですね。交渉するにあたっては、くれぐれも彼女の口車に乗せられないように気を付けてください。しっかりと精神を落ち着けて、決して動揺を誘われないように。でないと、足を掬われますよ」
寅丸から得られた情報はお世辞にも有用と言える物じゃなかったが、そろそろ目的地も近づいて来たことだし、そこで会話を打ち切ることにした。
狡猾に策謀を巡らせ、千年超も生きながらえてきた邪仙。そんな女の精神たるや、どれほどしたたかなのかは見当もつかない。
いずれにせよ、下手に動揺して相手のペースに呑まれないようにしなくちゃな。
そんなことを私は自分に言い聞かせたのだった。
◆◆◆
「…………ふぅん」
私らの背後から歩み寄り、良香の挑発を受けて発せられた青娥の反応、その声の響きから、私は寅丸から聞き出した情報を全面的に廃棄しなくちゃならんことに気付かされる。
やべぇ顔を見なくても判る……。
怒ってる……霍青娥、めっちゃ怒ってるぞ……。
「……勝手に芳香の札を剥がしたのは、あんたたちね……? ふぅん、へぇ、なるほど……味な真似をするじゃない……昨晩のアレに飽き足らず……私の玩具を勝手に弄って……どれほど私をコケにすれば気が済むっての? え?」
ああ、うん。あっはっは。この怒りは尋常なもんじゃないなぁ。
誰だよ、どんなに頑張っても青娥を動揺させんのは無理とか抜かした奴は。
これ、完全に逆鱗に触れちゃってますよね?
触れるを通り越してスクラッチしてますよね?
全っ然、交渉とかできる雰囲気じゃないんだけど。完全にキリング・フィールドなアトモスフィアが垂れ流されてんだけど。こんなに肌がビリビリする感覚なんて、明治維新のドンパチに首突っ込まされた時以来だぞ。
怖くて振り向けない。
「……いやぁ、そのう、別にコケにしてる訳j」
「誰が口を開いていいって言った? 舌を切り刻むわよ?」
はい確定。穏便に済ませんのとかマジ無理。弁解の余地もねぇ。
口を開くだけで舌を切り刻むなんて脅してくるくらいに怒ってる奴を相手取って、どううまく立ち回れってんだ。
勝海舟でも無理だろ。
(どどど、ど、どうしましょう……)
蚊の鳴くようなひそひそ声で、テンパった寅丸が縋るように訪ねてくる。結構マジでそれは私の台詞なんだけど。
(いやいやいや! 首謀者はアンタでしょ! 何とかしてくださいよ!)
(あんな怒るとか想定外です……! ど、どうすれば!? どうすれば!?)
(とにかく謝るしかないっすよ! あんなんじゃロクに話すのも無理っす! とにかく下手に出て、ご機嫌取って、矛を収めて貰いましょ!)
他に名案なんてあろう筈もなく、寅丸は小さく頷いて私の提案に同意する。速攻で土下座する決意で我々が同時に振り向いた。
途端――、
「……ふん。久方ぶりに見たけれど、相変わらずいけ好かない面をしているね。下級尸解仙の分際で、よくもそこまで尊大な態度を取れるもんだよ」
などと良香がせせら笑う。
プッツーン。
と、青娥の血管がブチ切れる音が聞こえて来るようだった。
オーケー!
ディス・イズ・チェックメイト!
この瞬間! 事態の収拾が不可能になったことをお伝えいたします!
「なに言ってんすかアンタはあああああああああああああああ!!!!??? ちっとは空気読めやああああああああああああああ!!!!」
「はっは、怒ったね? 青娥。いやはや若い娘ならまだしも、歳ばかり無駄に重ねたオバサンのヒステリーたるや醜悪で見るに堪えないよ、ふっふっふ」
「はい無視来た! 我々の要望をガン無視なされました! アンタ脳みそ腐ってんすか!? 穏便に交渉したいって言ったばっかじゃないっすか!?」
「ふむ、しかし考えてみたまえ、椛クン。千年以上も良からぬ企みを巡らせ続けてきたあの女の脳たるや、キョンシーとして使役されてきた私なぞ足元にも及ばんくらいに腐り果ててるとは思わないかい? 賞味期限切れもいい所だよ」
「言い過ぎ! 言い過ぎいいいッ! 歯に衣着せてモノ言えやボケエエエエエッ!」
「聞いたかい青娥? 『言い過ぎ』ということは、椛クンも少なからず君に期限切れの要素があると認めていることになるんだよ。じゃなきゃ『そんなことはない』と私の意見を全面的に否定するだろうにねぇ?」
「揚げ足取んなやあああああああああああああああああああ!」
言葉の綾だよ!
ほぼ初対面の相手に期限切れなんて酷すぎる感想抱く訳ねーだろ!
もう死んでんのは知ってっけど、もういっぺんくらい死んでくれ!
「ごめんなさい! ごめんなさい! 青娥さん青娥さま崇高なる邪仙さま! こんなつもりじゃなかったんです! 謝ります! 我々には謝る意志があるのです!」
絶句していた寅丸がようようショックから生還したのか、鮮やかな挙動で土下座を決め込む。もうそこに商売敵に対する悪感情は微塵もなかった。ただただ許しを請う一匹の妖怪の姿があるばかりだった。
「……うふふ」
飽和状態な殺意をなみなみと湛えた眼で私らを睨んでいた青娥が、チラと寅丸を見下ろしてから吹っ切れたみたいな笑いを浮かべる。
「うふふ、うふふふふふ、うふ、うふふふふ――殺す」
瞳孔の開き切った両目で壊れた笑みを演出しつつ青娥がパチンと指を鳴らせば、彼女の周囲に禍々しいにも程がある弾幕が展開された。
「殺します、殺しますわ、骨も残さないくらいに殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し尽くして差し上げますわ、芳香――いいえ、良香さんも殺せばまた元通りに直せますものね。あなたたち二人は生け捕りにしてジワジワと嬲り殺した後で、切り刻んだ死体を豚にくれてやりますわ。ああ、もう知らない。何も判らない。先のことも後のことも考えない。この霍青娥、久々の全力であなたたちを消し潰して差し上げますわ」
あぁん。こんな極限まで怒った人を見るなんて、椛、初めてだよぉ。
――父さん。
――母さん。
――椛は絶体絶命のピンチのようです。
――不出来な娘でごめんなさい。
「椛さん! 逃げますよ!」
もはや話も通じないだろうと悟ったのか、ガバと飛び起きた寅丸が私の手を取って叫んだ。青娥の身体から空を埋め尽くさんばかりに量産されていく邪法の弾幕は、もはやいつ私らを飲みこまんと襲い掛かって来るか知れたもんじゃない。
「合点承知っす! 是非もない!」
「あ、私も連れてってくれたまえ」
私と寅丸が連れだって走り出そうとした途端、良香が私の服の端をしっかと掴んでくる。
「はぁ!? ふざけんな! 勝手に殺されて直されてください!」
「しかし私が居ないと君らの目的も果たせまい? 青娥はしつこいぞ? あいつが取り戻したがっている私というカードを捨てて、君らが生還できるかどうかは疑問だね」
「てんめぇ全部計算の内かよおおおおおおおおおおおおッ!!」
「椛さんは先に行って下さい! この子は私が!」
「――逃がさないッ!」
目の前の空間を薙ぎ払うように青娥が右手を振るうと、滞空していた弾幕が一気に我々目掛けて雪崩れ込んでくる。それ以上の確認が命取りになることは一目瞭然。私は寅丸が良香を背負ったのを視界の端で確認すると、可能な限りのフルスピードで駆け出し、そして飛翔する。ズキ、と腹部が鈍痛を発したのが判ったが、それに頓着している暇すらも皆無だった。
私の身体が風を掴むや否や、追い越したばかりの墓石がぶっ壊れる音が聞こえた。静かな死者の安息地がガラガラと音を立てて崩壊し、特撮もの戦闘シーンみたいに地面が次々爆発する。目覚めた死体が抗議して来ないのが不思議なくらいの爆音が耳を劈き、意図せず口走る悲鳴すら自分の耳に届かない。
「うおわああああッ! やっべ! これマジ死ぬ! 死んじゃう死んじゃう! 西南戦争並みっすよマジで! マジで!」
「椛さん! 霊廟へ逃げ込みましょう! このままじゃ良い的です!」
「ハッハー! 君はヘタクソだな青娥! ガサツな女はこれだからダメなんだよ!」
「挑発しないでえええええええええええええッ!!!!」
珍しく私の代わりに突っ込みを入れた寅丸の声を耳鳴りの向こう側から聞きつつ、閉じられていた霊廟の扉に滑空からのドロップキックを叩き込む。良香と違って空気の読めた扉は幸いにも内開きで、スピードを緩めることなく私らはひんやりとして暗い虚穴の中へとなだれ込む。しかし迫り来る青娥のルナティック自機狙い大玉弾は少しも勢いを殺すことなく、洞窟内部の壁を360°削りながら私らを飲みこまんと襲い続けて来る。
くそ! 得物を持って来なかったことが仇になってしまった!
仙川さんのスナイパーライフルさえあれば、少しは善戦できたろうにな!
「これって先はどうなってんすか!? 袋のナズーリンなんてことにゃならんのですよね!?」
「恐らく大丈夫です! 騒ぎを聞き付けた寺の誰かが来るまでの時間稼ぎはできるはずです!」
「なるほどね! 今ここでぶっ殺されるよりゃマシって感じっすね!?」
「それだけじゃないだろう。青娥が暴れている状況を見れば、椛クンの懐胎もあの女の仕業だと理解して貰えるはずさ。とっさの判断にしては、かなり有効な手段だね」
寅丸の背に追われているのであろう良香が、感嘆の響きを含ませた声音で言う。その言説は至極ごもっともで、薄暗い洞窟を先へ先へと飛び続ける私は頭の中で、霊廟へ逃げ込むことを提案した寅丸を見直した。
寅丸星。
保身が掛かれば、頭の回転が速すぎる女である。
いや、もちろん褒めてるんだよ?
「青娥はまだ……追って来ては居ないようですね……!」
大玉弾の爆撃音が若干遠ざかり始めた所で、寅丸が言う。
「あの女は速く飛ぶのが不得手だからね。我々のこの速度には追いつけまいよ」
「おんぶされてる状況でよく自分の手柄みたいに言えるっすね……」
「まあ、しかしながらそれに気付かん女でもない。きっと何か仕掛けて来るよ――」
不穏な言葉を良香が口走ったその途端、入口付近から格別に大きな爆発音が轟く。
すわ何事かと驚いた私が振り向くと、次いでガラガラと落盤の音が連なって空気を振動させた。
八つ当たりだろうか? 反射的に首を傾げると、良香がくつくつと咽喉を鳴らして、
「やられたね。入口を塞いだんだろう。これで助けが来るまでの時間は一気に引き伸ばされたよ」
「はぁ、形振り構わんって訳っすか……」
「しかしそんなことをすれば青娥も生き埋めということに――あ」
「そういうことだよ、星クン。あの女の前じゃ壁なんか無いような物だ。精一杯挑発してはみたが、やはり小賢しさを奪い去るまでは至らなかったね……これからあの女は、じっくりと詰め寄ってくる気だろう」
寅丸の背で良香が肩を竦める。追い詰められつつあることを悟ったらしい寅丸が背後の空間を見やりながら、ギリリと歯軋りをするのが薄ぼんやりと窺えた。
「失策でしたね……まさかここまでしてくるとは……」
「なに、気に病むことはない。最善手だったよ。しかしここで状況を嘆いていることは得策とは言えないな」
「なんかムカつくけど良香さんの言う通りっすね……グズグズはしてられないっす。先へ行きましょ」
「頼むよ。なるべく急いでくれ」
「ひゃん!? ちょっと良香さん! 服の中に手を突っ込まないで下さい!」
「あぁ失礼。つい生前の癖が出てしまった」
「どんな癖だよ、変態」
「何とでも言いたまえ。私が興奮するだけだがな」
「死ね」
「生憎、間に合ってるよ」
なんつー緊張感のないやり取りだ。義務的に突っ込みながらも、取り急ぎ我々は前へと進むことにする。
青娥の飛ぶスピードが速くないとは言っても、ぼやぼやしている猶予を与えてくれるほどじゃあるまい。いつまたあの弾幕の嵐が襲い掛かって来るとも知れないわけだし。
奥へ奥へと飛ぶに連れて、湿った空気の冷たさがいや増してくる。濡れた岩肌の臭いがツンと鼻を刺激する中、ふわふわと形を為さない神霊の欠片が、微かに暗闇に抗していた。
それはきっと、いつかの神霊異変の残滓なのだろう。望む願いを叶えられることなく放置され、消滅することを待つばかりの未分化な欲望。明かりも持たずに飛び込んだ我々に取っちゃ、あの異変の名残りが完全に消失していなかったことは幸いだったといえよう。
「追撃が完全に止みましたね……」
できる限り速度を保ったままの逃避行を続けていると、冷えきった風を切る音に混じって寅丸がポツリと言う。さもありなん、と私は背後の寅丸をチラと見つつ、
「不用意に自分の居場所を明かさないのは、狩りの鉄則っすからねぇ」
「理屈としては確かに納得できますが、いざ追われる立場となると不気味極まりないです……」
「ふむ……やはり、冷静さを取り戻し始めているのだろうね。兵は詭道なり、とは良く言った物だが、逆説的にそれは冷静な者を相手取ることの困難を言い表している。母国の名言だ。あの女が知らんはずもない」
言って良香は、寅丸の胸の前に回していた右手の指をパチン、と鳴らす。
「さて我々が取れる方法は大別すれば三つだ。
その1……命蓮寺の誰かが助けに来るまで青娥から身を隠す。
その2……青娥の追跡をかわし、落盤した入口を掘り起こして外部へ助けを求める。
その3……追って来た青娥に奇襲をかけ、屈服させる。
個人的には、『その3』以外の選択肢はないと思うけれどね。命蓮寺の面々が迅速に駆けつけてくれるかどうかは不確定すぎるし、運よく青娥の追跡を回避できたとて、入口を通行可能にするまで青娥が我々に気付かないとは思えない。青娥を打倒すれば穴抜けの鑿も手に入るし、君たちの望んだ交渉もできるだろう」
「……青娥が冷静さを取り戻しつつあるなら、今からでも謝るという方法は取れないでしょうか?」
「驚いた。星クン、君は自殺願望でもあるのかい?」
消極的な寅丸の提案を鼻で笑うと、良香はやれやれとばかりに嘆息する。
「あの女のことなら私はよく知ってる。青娥は行動の方針を定めれば、どんなに時間が経とうとそれを撤回することは有り得ない。奇跡的に気紛れでも起こしてくれない限りね。豊郷耳神子の復活まで、どれほど膨大な時間が経っているか知らんわけでもないだろう? 道教の支配する世界が訪れることを千年以上も待ち続けられた女だ。たかが数分で殺害予告を思い直してくれるなんて甘い予想は、捨てることをお勧めするよ」
「つまり、やられる前にやるしかないって言いたいわけっすね。アンタは」
「そういうことだ。理解が早くて助かるよ。椛クン」
振り向いた私を見つつ、良香は寅丸の肩越しにニヤリと笑う。その表情には、追われていることに対する焦燥など欠片も窺えず、ただ現状をゲームのように楽しむ愉悦にも似た好奇の色だけが見えた。
宮古芳香。
都良香。
普段の彼女を知る奴ならば、十人が十人とも『腐っていて残念な頭の持ち主』と異口同音に評するだろう彼女に、しかし今の私と寅丸は翻弄され、行動を誘導されてさえいる。
額にぶら下げていた札が剥がされ、キョンシーとしてのルールから解き放たれた芳香。
それは寅丸と私の予想を斜め上に大きく外れ、ともすれば主人の霍青娥と同様、ないしはそれ以上に侮ることのできない存在になってしまった。
現に今の状況を見ろ。私と寅丸は穏便に、場合に拠っちゃ下手に出た上で、青娥と交渉できさえすれば良かった。なのに今の私たちは青娥を激昂させ、彼女と対決しなくては生存の道がないという構造に追いやられている。それは、良香が望む造反劇の手駒にされたことと何も変わらない。
……こいつはいったい、何をしようとしている?
岩肌に頭をぶつけないよう以上に、今の良香から顔色を窺われないように前だけを向いて飛び続ける私は、悟られないよう頭の中だけで彼女を危険視する。
主人から解放され、理知を取り戻した宮古芳香が語る言葉が、全て真実であるとは限らないのだから。
「ん……」
神霊未満の曖昧な人魂が放つ微かな明かりにも目が慣れてきたころ、前方に開け放たれたままの扉が現れた。向こう側に開かれていた青銅製と思しき立派な門扉は、地獄の入口にも似た重苦しさを感じさせる。
「道教の一派が眠っていた場所の入口ですね」
「そう、夢殿大祀廟だ。この先のだだっ広い空間ならば、どこかに隠れることもできるだろう」
「そっすね、早いとこ良さげな場所を見つけるとしま――」
と――私が何気なく呟いた、その途端だった。
なにがトリガーになったのかは判らない。
強いて言えば、大祀廟の中の空気を吸い込んだことが挙げられるかもしれない。
ともかく『それ』は、本当に何の前触れもなく訪れたのだ。
痛
「――っぐ……ん……え、あ、うぐあ……っ!」
唐突に、目の前の世界が歪んだ。
両目が不随意に明後日の方向へと回転を始め、額から脂汗がドッと滲む。
回ってんのは私の目だけじゃない。中だ。内部、私の身体の中で、ゾルリ、と異質な肉塊が半回転した。その動きが私の内臓一式の位置をずらした。吐き気、寒気、痛み痛み痛み。平衡感覚と浮遊への意志が根こそぎ奪われて、私の身体が重力に負けて降下していく。自由落下しないように抗うのが精一杯だ。
「も、椛さんッ!?」
寅丸の声は、ひどく遠い場所から聞こえてきた。洞窟の岩肌への不時着を余儀なくされた私の耳には、声の反響ばかりを拾い上げて気分の悪さを加速させる。
クソ。
時間がないなんて判り切っちゃいたが、幾らなんでも早過ぎるだろ……!
「椛さん! 椛さん!」
地面に力なく横たわった私の頭を、降りてきた寅丸が抱える。焦点が合わず視界がぼやけているせいで、こいつがどんな表情を浮かべているのかも判らない。ああ、駄目だ。ガチで痛いときってのは、悲鳴すら満足にあげられないらしい。呻きが肺の中の空気を端から持ってって、息を吸うということがやたらと難しくて敵わない。
「――星クン、すこし退くんだ」
いつの間にか背中から降りていたらしい良香が、取り乱す星の身体を少々乱暴に押したかと思うと、岩肌に転がる私の額と腹部にそれぞれ手を置いた。彼女の両手はヘタすりゃ岩よりも冷たい。
「良香さん……!」
「……残留していたタオのエネルギーを取り込んで、養小鬼(ヤンシャオグイ)が活性化したようだね。あらかた散ってしまっている物とばかり思っていたが……神霊もどきがこの洞窟に跋扈している時点で気付くべきだった」
「そ、それじゃ、え、椛さんは、いったいこれから、どうなって……!」
「なに、散らせばいい。そう難しいことじゃないよ……私の感覚が失われていなければね」
良香が何かを言っているのは判る。寅丸が取り乱していることもだ。なのに、字面は理解できのに、完全に機能不全に陥った脳みそは言葉の意味の理解を放棄していた。
「う、が……痛、う……あ……っ!」
「椛クン、今は息を吸うことを忘れても構わない。ただ吐くんだ。判るかい? 息を、吐くんだ。大きく、吐き続けろ」
――息を、吐く。
最後の言葉だけは、辛うじて理解できた。それに縋るようにして、私は息を吐くことにだけ神経を傾ける。それと並行して、良香が私の着物をはだけ、膨らんだ腹に直接手の平を乗せる。
「……陰の気が、かなり肥大してるね」
幾ばくかの焦燥が匂い立つ声音で言った良香は、時計回りに私の腹部を撫で始める。その動きが有効に機能しているかどうかは疑わしかった。正直、何も変わっていないようにしか思えない。
「少々荒っぽい方法を使うよ……君のタイミングで良い、大きく息を吸って、ゆっくりと吐き続けろ。それに合わせるから」
あわせる……? よくわからない。とにかく、息を吸うことだ。
息を吸って、それから吐く。簡単なことじゃないか。はやく、はやく。
悲鳴をあげる肺を叱咤し、身体を仰け反らせながら空気を吸い込む。限界まで至ったところで、 それを吐いて行く、ゆっくり、ゆっくりと。それを確認したらしい良香が、
「――許せ」
と縁起でも無いことを言ったかと思うと、グッと臍の辺りを上から押した。
押しやがった。
丁度、心臓マッサージでもするような考えられない力で。
「んぐううあああああッ!!?? 痛ってえええええええええええええええ!!!!」
それまでの苦しみなんか屁でもないくらいに、尋常じゃない痛みが腹の中でビックバンを起こした。反射的に身体を起こした私は涙目になりながら良香を睨み付け、そのまま胸ぐらをしっかと掴んで締め上げる。
「アンタ何すんですか! むっちゃ痛い! めっっっっっっっちゃくちゃ痛いじゃないっすか! 妊婦の腹を押すんじゃねえよ! 正気か!?」
「まあまあ、そういきり立たなくてもいいだろう。ほら、治ったじゃないか」
「はぁ!? この期に及んで――あら?」
更に文句を連ねようとした所で、気付く。良香に押されて生じた腹の痛みが引いて行けば、もうそこに先ほどまでの尋常ならざる激痛は、幻だったかのように消えてしまっていた。
「痛くない……っすね」
「君の吐気に乗せて、陰の気を押し出したんだ。ついでに気の巡りも調節しておいたから、よほど長く陰の気を吸い込まなければ、再発はしない筈だよ」
肩を竦めて胸ぐらを掴んでいた私の手を振り払うと、ほれ見たことかとばかりに胸を張った良香がにんまりと笑う。
「もっとも私が手を加えられたのは、あくまでこの空間に満ちて、君の中に入った陰の気を払うところまでだ。養小鬼そのものの成長は今の私じゃ手も足も出ない。そこは、さすが霍青娥という他にないね」
忌々しいが、と付け加えた良香は目を白黒させている寅丸の肩をポンと叩き、
「すまないけれど、また背負ってくれ。今の私は飛べないんだ。早いところ、身を隠す場所の選定を始めよう」
「え……えぇ……」
「あー、その、良香さん、ありがとうございました」
寅丸が再び良香を負ぶったところで私が頭を下げると、彼女は少々目を細めて、
「なに。正直に言って五分五分の賭けだったんだ。気にすることはない」
「五分五分……?」
「最悪、押した時の衝撃で出てきたかもしれないってことだよ。ズルッ……て」
「うえあ! えげつなッ! 怖いこと言うんじゃないっすよ!」
「事実だ。だが君は賭けに勝った。それで良いじゃないか」
「んぐあ……そういうのは先に言って欲しいんすけどね……」
なんだかこう、釈然としないものを感じつつもしかし、良香によって助けられたのは事実だった。それで良しとしつつ、私ら三人は青娥がやって来ない内に扉の向こう側へと進むことにした。
巨大な縦穴構造となっている夢殿大祀廟。その中央には古めかしく長大な歴史を感じさせる木造の塔が建てられている。日の光にゃ縁遠いこの空間においての光源はと言えば、塔の周囲を埋め尽くさんばかりに漂う蛍のような光点の群れだった。それでも粗削りな岩肌はそのほとんどが暗渠の中にとっぷりと沈んでおり、曖昧な境界も目を凝らしてやっと見える程度だ。
なるほど、確かにこの場所ならばどこかに潜伏することは容易いことのように思われた。
「――あなたはいったい、何者なのですか」
ふわふわと浮遊する神霊未満たちの明かりが届かない、適当な隠れ場所を探している最中、ぽつりと寅丸が背に負った良香に問う。
「都良香だと説明した筈だよ」
「違います。私が訊きたいのは、さきほど椛さんを治した手腕の出自についてです」
「ほぅ……?」
品定めでもするような声を出す良香に、寅丸は続けて、
「タオについて理解しているのは、あなたが仙人だった、という過去の証明になるでしょう。けれど、それではどういった経緯を辿って、あなたは霍青娥の手下になったというのですか? 仙人としての能力があるのなら、キョンシーという身分を享受することになった理由は何なのですか?」
私を治した、あの手法。
それがタオについて精通していなければ到底不可能なことくらい、私にだって判る。
良香が仙人になったという文献の正当性が証明されることを示すのなら、それはそれで良しとしよう。しかしながらその過去と現在の芳香との相関関係は、いま寅丸が疑問を呈したように、大きなミッシングリンクがある。
――仙人・都良香は、どうして霍青娥のキョンシーとなった?
こんな成り行きだ。その寅丸の問いは、私も気になるところだった。
しかし、
「……そんなことは、どうでもいいだろう」
と、良香はいかにも不機嫌そうにそう吐き捨てる。
「昔話に花を咲かせるのも、ある局面では有意義だ。君たちの言う通り、確かに私は仙人だ。かつて仙人だった。青娥や豊郷耳神子、物部布都と同じ尸解仙だ。本来はキョンシーではなく、ね。それは認めよう。しかし今、君たちはそんなことに現を抜かしている場合じゃないとは思わないか? 青娥がいつやって来るかも知れないこの状況で、無駄話に興じている時間は皆無だ。生き残りたければ早いところ、身を隠す場所を見極めたまえ」
……ここまでにべもなく拒絶されれば、私も寅丸もそれ以上の追及ができるはずもなかった。
霍青娥と都良香の関係。
それはこの死人少女にとっては触れられたくないタブーであり、語りたくもない思い出なのだ。
そんな推測で納得した私と寅丸は、決まりの悪さを抱えながら無言で暗闇に相対する他になかった。
やがて岩盤の一部が経年劣化で崩落したと思しき手頃な穴を見つけ、私たちは身を寄せ合うようにして虚穴の中に入りこむ。適度に入口から離れていながら、こちら側に開かれている門が夢殿大祀廟の向こう、視界の端に見える。隠れ場所としては絶好のポジションと言えるだろう。
「本当に、見つかりませんよね?」
不安げな寅丸の呟きに、私は「いや、ここは案外と待ち伏せにゃ打ってつけっすよ」と返す。
「普通にあの門から入って来る分にゃ、あの建物が邪魔してここは死角になります。そこそこ高低差もありますし、増してこの薄暗さ。そうそう見つかりゃしません」
「そうだ、君たちは空手なのだったね。これを渡しておくよ」
心なし声を潜める良香が中華服のポケットをまさぐり、紫色のクナイを二本、引っ張り出す。無造作に放られたそれらをキャッチしつつ、私と寅丸は顔を見合わせた。
「クナイっすか……何とも心細いっすねぇ。しかも一本ずつとは」
「闇雲に投げねばならん乱戦をするつもりもないんだ。奇襲をするのだからね。できる限り身は軽くしておいた方が良い――む」
何かを感じたのか、不意に険しい表情になった良香が「しぃー……!」と唇に人指し指を寄せる。慌てて気配を殺した私と寅丸が入口の方へと目線をやると、微かな明かりがこちらへ近づいているのが判った。
――霍青娥のご到着だ。
まずいな、と。入口から姿を現した奴を見た途端に、手の平からジワリと汗が滲んでくるのが判った。良好とは言えない視界のせいで、全体像を掴んだわけじゃないがそれでも、青娥が手強い相手だということは再確認できた。
彼女の周囲が、明るいのだ。
ここまで至る通路に散見した神霊未満の霊魂。ささやかな明かりを私たちにももたらしてくれていたそれらは今、まるで青娥に付き従うお付きのように青娥の周りを照らし上げている。
それが意味するのは、薄暗さというアドバンテージを奪われつつあるという事実だ。暗さに慣れてきた私の『眼』でさえ、ようやく自分の手の輪郭を捉えられる程度のこの暗渠の中にあって、今の青娥が一番強い光源となっていた。
なるほど、神霊の操作はお手の物というわけだ。私たちは息を殺して、可能な限りに気配を消して、夢殿大祀病を隔てたあちら側で浮遊する青娥を観察していた。奇襲を掛けるタイミングを伺うために。
ゆったりと、まるで私たちを焦らしてでもいるかのような緩慢さで、滞空していた青娥が向かって左方向へと移動し、その姿は完全に大祀廟の向こう側に隠れる。音は無い。声もしない。私の隣で機が熟すのを待つ寅丸の呼吸が、緊張からか少し荒くなっているのが耳障りなくらいだ。青娥に聞こえるほどじゃないとはいえ、ヒヤヒヤさせられる。それを咎めないのは、私だってどっこいどっこいなくらいに呼吸が乱れてるのを自覚してしまっているからだ。自分の心臓の鼓動がうるさくて敵わない。脈拍が早まっている。平常なのは、なにやらモゾモゾと動いている良香くらいのものだ。表情は淡々としているが、中華服のポケットの中を頻りに確認しているのは、やっぱり緊張を紛らわせるためなのか。そんな風に思った途端、ブゥ……ン、と空気が微かに振動する音が遠くから聞こえた。青娥の姿は、やっぱりまだ大祀廟の向こうに位置している。
……何の音だ?
私が首を傾げる暇もなくハッとした表情になった良香が、
「――逃げるぞ! 狙われてる!」
そう叫ぶや否や、私と寅丸を力一杯突き飛ばしてきた。とっさのことで全く対処もできず、虚穴から零れ落ちる私と寅丸があれぇ? なんて思うよりも早く、私の目は大祀廟の向こうから蛇行しつつこちらへ飛来してくる青白いレーザーを目の当たりにする。
それはまさに間一髪だった。
私と寅丸がバランスを崩して頭から落下し始めたその瞬間、寸分の狂いもなく私たちの居た場所をレーザーが穿つ。爆音が鳴り響き、相当の風圧が我々の自由落下を更に加速させた。驚きの余り、叫び声も出ない。空中で寅丸の背中にしがみ付いた良香だけが、事態を理解しているらしく、
「飛べ! 飛べ! 奴には我々の居場所がばれている!」
「……な、なぜです……っ!? どうして!?」
「知るもんか! とにかく我武者羅に避けるんだ――来るぞ!」
体勢を立て直すや否や、またも大祀廟の向こう側からへにょりレーザーが我々を飲みこまんと突撃してくる。青娥の姿は見えない。それはつまり、向こうからも私らの場所が判らないということを意味する――筈なのに、レーザーは先ほどと同じ精密さで僅かの狂いもなく私たちに照準を定めていた。
「どういうことっすか!? なんで見えるんすか!?」
ぎりぎりレーザーをかわした私は、パニックに陥りそうな思考を懸命に落ち着かせようと試みる。耳の産毛が焼け焦げた臭いがした。
「少なくとも身を隠すアドバンテージは失われた! 大祀廟の向こうへと回り込め! 直接青娥を叩くしかない! 早く! 椛クンは右! 星クンは左! 二手に分かれるんだ!」
今の今まで冷静沈着だった良香でさえ何が起きているのか判らない様子で、寅丸の背に捕まりながら上ずった声を出していた。
良香に判らないのなら、私らが幾ら考えたって答えは出ないだろう。
判らないことは考えないに限る。
兵になれ、弾になれ、物言わぬ刃の切っ先となれ。
下っ端として前線で戦っていた時の哲学を思い出す。大祀廟を軸に据え、私は全速力で反時計回りに向こう側へと回り込む。それを待ち受けていたかのように、今度は前方からレーザーと大玉弾が波となって襲い掛かって来た。私たちの思惑なんか、全部まるっとお見通しだと言わんばかりだ。
右へ、左へ、下へ上へ。360°をフルに活用して襲い掛かる弾幕を避けまくる。体中の至る所が弾やら光線がかする熱と痛みを感知する。何たる高密度。ルナティックにも程がある怒涛の攻撃を、辛うじて躱しながらも私は前進する。反対へ回った寅丸と良香に気をやる余裕すらありゃしない。それでも何とか、青娥の姿を視界に捉えることはできた。
私は先ほど良香から手渡されたクナイを右手に構え、投げ付ける一瞬の隙を待つ。スローイングナイフは幻想郷産乙女の嗜みだ。普段は刀を振り回してる私だって、そこそこの技能はある。が、弾幕を避けることに精一杯で投げる体勢すら取らせて貰えない。加えて青娥の奴、弾幕を張りながら右へ滑ったり左へ滑ったりと一秒だって同じ所に留まらないのだ。厭らしい挙動にも程がある。私は純粋だから、あんなヤな奴にはなれないな。
意識を鋭く尖らせる。体中の感覚を、『眼』と右手に集中させる。呼吸を捉え、リズムを掴み、針の穴ほどの好機をただひたすらに見極める。もう充分に近づいた。後は投げるだけだ。レーザーを避ける。大玉弾を引き付けてから、身体を開けてギリギリの距離で躱す。相手の動きを予測する。あと少し。次の次の大玉弾を避けたその瞬間。時間にしてあと三秒、二、一――ッ!
「そぅらあっ!」
黒い燐光を放つ大玉弾を避けた流れを利用し、できる限りの叫び声と共にクナイをブン投げる。私の声を聞きつけたのか、キッとこちらを向いた青娥がレーザーの一本を繰り、クナイを薙ぎ払いに掛かる。機敏に方向転換したレーザーが空を滑るクナイを飲みこみ、弾き飛ばされたクナイが錐揉み回転を経由して岸壁に突き刺さった。
ああ、そうだ。
――私たちの思惑通りに。
「うぐっ……!」
その呻き声は他ならぬ青娥のものだった。
彼女の肩口には『背後から』飛来したクナイが突き刺さり、ひるんだ青娥はそれ以上の弾幕を張ることが叶わず、それまで私らを怒涛の勢いで襲って来ていた攻めが止む。
「――ヒットですね。私たちの勝ちですよ」
青娥の背後に回っていた寅丸が、厳かな宣言のように勝ち名乗りを上げる。
何のことはない。トリックは実に単純だ。私は左から青娥の方へと回り込んでいた寅丸と、『同時に』クナイを投げたのだ。攻撃に気付いてくれとばかりに私がデカい声を出したのは、単に私の方のクナイを囮に使うためだった。それまでは私と寅丸を同時に相手していた青娥も、攻撃されたとあっちゃ防御に気を回さざるを得ない。
前後から同時に攻撃されるなんて、思いも寄らないだろう。
そう私は予測を立てた。
そしてその目論見は、見事嵌ってくれたというわけだ。
「む? おやおや青娥……随分と綺麗な装飾品を手に入れてるじゃないか」
「え……? あ!」
苦悶のためか、背を丸めていた青娥の右手首に巻き付けられたネックレスを指差しながら、寅丸が驚きの表情を浮かべて叫ぶ。
「そ、それ! ナズーリンのペンデュラムじゃないですか! どうして貴女が!」
「ダウザーの商売道具だね。なるほど、アレを使って我々の居場所を割り出してたってわけだ。はは、種の割れた手品ほど下らないモノはないな、青娥」
「……ふふ」
勝ち誇ったような良香の言葉を嘲るかのように、青娥が乾いた笑い声を上げる。身体に突き刺さっていたクナイに手を伸ばし、それを引き抜いたかと思うと、彼女は何でもない風の動作で放り捨てた。
「あなた達……何か勘違いしてない?」
「……なに言ってんすか」
不敵な青娥の声音に、私は眉をひそめる。寅丸の一撃によって弛緩し始めていた空気が、またぞろ不穏な緊張に塗り潰されていく。
「私が、いつ、これは弾幕勝負だと言ったかしら? スペルカードルールに則って戦おう、なんて、言ったかしら?」
まるで傷など負ってないかのような堂々たる声で言うと、青娥がパチンと指を鳴らした。彼女の周囲に再度大玉弾がいくつも展開し、グルグルと旋回する邪法の弾幕は、主の下す攻撃命令を今か今かと待っている。
「ここなら誰も見てない。助けは来ない。だから、あなた達の誘いに乗ってあげたのに、何を甘いことを言ってるのかしら。追い詰めたネズミが指先に噛み付いたからと言って、狩りを中断する猫が居るとでも思っているのかしら。狼も、寅も、牙を抜かれすぎているんじゃなくて?」
「――ふん。往生際の悪い女だ。私はしつこい女なんて嫌いだと、前にも言ったと思うのだがね?」
憮然とした調子で言った良香に、鼻で笑った青娥は肩を竦めると、
「あら、私は欲しいものを絶対に諦めないって、あなたは知ってる筈よね? 良香さん」
「知らないな。悪趣味なお人形遊びが趣味な女のことなんて」
「千年近くも、そんな悪趣味なお人形として遊ばれてたあなたの台詞とは、思えないわぁ」
「騙まし討ちで私をキョンシーにしたくせに、持ち主面かい? 勘違いも甚だしいよ」
「京の権謀術数の中にあって、『騙された方が悪い』と嘯いた方の言葉がそれとは、嘆かわしくって涙が出るわねぇ」
「ハッ、墜ちたものだな、私も……まさか承認欲求のためなら、島国の童にだって尻尾を振るような女から憐れまれるとはね」
「落としたのは、私。骨抜きにしたのも、私。都良香は私の手の中で踊っていた哀れな操り人形でしかないのよ? 昔も、今もね」
「……下女め」
「その下女から道具扱いをされてきた気持ち、聞きたいわねぇ。ねぇねぇ、どんな気持ち? どんな気持ち?」
「知りたいか? なら、教えてあげよう……死にたい気分さ。死にたくて死にたくて堪らないよ――」
――ちょうど、こんな風に。
そう言うや否や、良香はしがみ付いていた寅丸の身体から手を離す。
「え――良香さんっ!?」
空を飛ぶことができない良香の行動に寅丸が面食らった時には、もう彼女の身体は大祀廟を取り巻く暗渠の只中へと自由落下を始めていた。
「芳香ッ!?」
それまで平然と良香を言い負かしていた青娥もまた、その行動は予想の範囲外だったらしい。攻撃のために展開していた弾幕を消して、猛スピードで落下する良香の方へと飛んでいく。この高さだ。いくらキョンシーだか尸解仙だかとはいえ、地面に激突して無事のままとは思えない。流石にこの状況でボケッと待っているわけにも行かず、私と寅丸もその後を追った。
落下していく良香の身体に、青娥は徐々に近づきつつあるようだった。重力に身を委ねるしかない良香よりも、空を飛べる青娥の方が早いのは判る。が、今の良香にそれが判らないはずもない。にもかかわらず、どうして唐突に身投げをしたのかは判らなかった。
薄らと地面が見えた頃、青娥が良香の身体を空中でキャッチする。そして私は青娥の周囲にあった明かりが、勝ち誇った様な良香の笑みを照らしだす光景を見た。
「――今度は私の勝ちだったな、青娥」
青娥に抱きとめられた途端、そう言った良香が中華服の中から何かを取り出した。
それは長方形のお札。
キョンシー芳香の額に張られていた物であり、先ほど寅丸が剥がして胸元にしまっていたはずの代物だった。自分の身体を抱える青娥が反応できないのを好機と見たか、彼女はそれを青娥の額に張り付ける。
その瞬間、青娥の身体がビクンと雷にでも打たれたかのように仰け反った。その反動で青娥の手から零れた良香は再び落下していく。が、一度勢いを殺されていた分、悠々とは行かないまでも何とか受け身を取って着地を決め込んだ。
「あのお札……いったい、いつの間に……?」
空中で動きを止め、少しずつ地面に降りていく青娥の背を見やりながら、私に近寄ってきた寅丸が不思議そうに首を傾げる。私は何となく、その答えに行きついていた。
「アレじゃないっすか? ほら、アンタが良香さんからセクハラされてた時」
「ん……あぁ、あの時ですか……」
苦々しい笑みを浮かべた寅丸が、やれやれとばかりに嘆息する。
「ということは、あの時からもう既にこうなると予測していたってわけですか……」
「……まぁ、もう少し楽に事が進むと思っていたのだがね」
ヨロヨロと立ち上がった良香が、スカートの尻辺りに着いたらしい砂を払ってから肩を竦めた。そしてがくりと頭を垂れるような姿勢で地面に降り立った青娥の右手から、ナズーリンのペンデュラムを引っ手繰ると、
「青娥がコイツを手にした事情は知らんが、これは君の部下の物だろう。返しておくよ」
「あ、ありがとうございます……!」
パッと顔を明るくした寅丸がペンデュラムを受け取る。これで昨晩の蛮行が、コイツの上司に知れ渡る危険性は無くなったってわけだ。
「……つーか、このお札、こんな使い道があったんすか」
機能を停止した人形のようにピクリとも動かないままの青娥を見やりながら、私は小さくため息を吐く。
「エロ同人御用達っすね」
「いやいや、そんな不埒な代物じゃないよ。この札は単純に、尸解仙を意のままに操る術式に過ぎないのだからね。キョンシーだから札を貼るんじゃなく、この札を貼られた尸解仙が、キョンシーと呼ばれる道具にさせられるんだ」
「じゃあ私の理解で間違ってないじゃないっすか。村人に知られたら幻想郷にモラルハザードが起きるっすよ。おぞましい」
「そういうものじゃ……いや、間違ってない、のか? ま、どっちでも良いがね」
肩を竦めた良香はニヤニヤと笑いながら、立ち尽くす青娥を眺める。額に垂らしたお札のせいで青娥の表情は判らないが、これまでずっと自分を使役してきた主人の有様を見る良香のそれは、実に楽しそうだった。
「長かった……この女からキョンシーにされてから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう――だが、勝敗は決した。主従の逆転、なんとか下剋上のブームには乗れたようだね……」
岩盤の向こう側にある空を仰ぐように目を細めて上を向いた良香が、感慨深そうに大きなため息を吐く。
「これからは私が主人だ。私がかつての夢想を叶えよう。懐かしい――人という脆弱な存在からの脱却、道教の最終到達地、夢に描いた桃源郷、天人への道……心が躍るよ。これもみな、君たちのお蔭だ。幽閉されていた私の意識の救済者。返せぬほどの借りができてしまったね……ありがとう」
帽子を取った良香が、私と寅丸に恭しく頭を下げる。そして再び顔を上げた彼女の表情は、それまでに見たことがないほどに晴れやかだった。
「しかし……良香さん? 椛さんに掛けられた邪法はどうするのでしょう? 青娥を屈服できたとは言え、あなたに解呪できないと言うなら……」
「ん、あぁ……」
チラと私を見た良香は帽子を被りながら、心配には及ばないよ、と頷いて、
「確かに私には、養小鬼を何とかする力はないさ。仙術を磨く暇が無かったもんでね」
「それじゃあ……」
「ん、大丈夫だと言ったろう? 私にできないなら、私の『道具』にやらせるさ。主従逆転の、記念すべき第一命令だ」
良香が指を鳴らすと、今まで動かなかった青娥がその音で機動を開始する。ぎこちない動きで顔だけを上げたその挙動は、まるでスイッチを入れたからくり人形のようだった。
「アンタがキョンシーだった時とは、なんかえらく勝手が違うっすね」
「それはしょうがないね。元々あの札は、私というキョンシーのために最適化された指揮系統が記されていたから……なに、これからゆっくりと書き直すさ。私は青娥のように悪趣味じゃないから、もうちょっと利口に動けるプログラミングを行うよ――さて」
パン、と手を叩いた良香は私と寅丸を順番に見てから、
「――さて青娥、『命令』だ。椛クンの養小鬼を解呪したまえ」
命令、という言葉に青娥は敏感に反応した。
力なく垂れ下げていた両腕が、ゆっくりと前方に伸ばされる。それはまさしくキョンシーとしての挙動に他ならず、視えない糸で吊るされているかのような肉体の動かし方は、傍から見てる分には不自然その物で実に不気味だった。
青娥の両手がピンと前方に伸ばされる。それでようやく命令を処理する体勢が整ったらしい。札を剥がす前の良香と同様に両足をピッタリとくっつけたままジャンプし、良香を正面に据えて動きを止め――
――そして右手を折り曲げて、額に付けられた札を掴む。
「な……!?」
命令になかったのであろう青娥の行動に、良香は目に見えて動揺していた。何が起きているのか彼女に理解できていない以上、私と寅丸も困惑するしかなかった。
「青娥! 何をしている! なぜ命令を聞かない! いや、違う……! なぜ命令に逆らえる!?」
悲鳴のような良香の大声も虚しく、青娥は自分の額から札を剥がそうと足掻き始める。鷲掴みにされた札はクシャリと真ん中から潰れ、行動と命令のコンフリクトのせいか彼女の全身は小刻みに震えていた。面食らったままの良香が何とか青娥の行動を止めさせようと右腕に縋り付くも、彼女の力は相当に強いらしくビクともしない。私と寅丸は顔を見合わせて加勢に入るべきかどうか考えあぐねていた。
「ぐっ!?」
掴みかかっていた良香の身体が、青娥の左手に突き飛ばされる。受け身も取れずに尻餅を突く良香が体勢を立て直そうとした瞬間、ベリリと札が剥がれる音がする。反射的にそちらを見れば、右手の中に札を握り締める青娥の姿があった。
「……ふぅ」
まるで身体の動かし方を思い出そうとしているようにあちこちの関節を動かしてから、青娥はそんな小さなため息を吐く。目に映る光景が信じられないとばかりに目を見開く良香が、馬鹿な、と震える唇で呟いた。
「なぜ……なぜだ……そんな、なぜ逃れられる……なぜ抗えた……一度キョンシーの札を貼られて、自力で札を剥がせるわけが……」
「えぇ、そうね。その通り。あなたがよぉく知っている通りよ」
自然な挙動を取り戻した青娥は私と寅丸を興味なさげに一瞥してから、いまだ地面に転がったままの良香のもとへと歩み寄る。そして人差し指を襟首の辺りに引っ掛けたかと思うとそのまま服をずり下げ、大きく露出させた肌を良香に見せつけた。
「ほら、これが何か判るわよね? 胸じゃないわよ? この術式符――」
言いつつ青娥は胸元に手を滑り込ませ、服の内側から一枚の札を引っ張り出した。何事か赤字で書き連ねられているその札を目にし、良香が苦々しい視線で青娥を睨む。
「……行動指令、術式……っ」
「そ。あなたの考えくらい、私が読めないとでも思った? あなたに貼っていた札が剥がされた時点で、あなたが私に札を貼ろうとしてくるなんて目に見えてるわよ。なら、予め対策を取っておくのも当然のこと。指令はもちろん、『額の札を剥がせ』――キョンシーって扱いにくいわよね? 『命令』は一つ一つ順番に処理しなきゃならないんですもの」
ひらひらと良香の前で振った術式符を握り潰し、肩越しに放り捨てた青娥が、やれやれよね、と嘆息する。彼女を見上げる良香の両目は、悔しさの余りか泣きそうに歪んでいた。
「……私が、あの時、あの千年前の夜……そのことに気付いていれば……十重二十重に、対策を練っていれば……」
「あら、それは無理よ、芳香、都良香さん。誰があなたにタオの手ほどきをしたと思っているのかしら? 相手の手の内を見透かせない限り、叶う叛逆なんて無いのよ?」
良香の企みを看破したにもかかわらず、青娥の様子は実に淡々としていた。まるでつまらないパズルを手慰みに解いた後のように。それとは正反対に、赤く潤み始めた両目で青娥を見る良香は、奥歯が割れそうなくらいに強く歯軋りをしている。
「……私は、私はいつになったら、お前に打ち勝てるんだ……? いつになったらお前を、お前を私の物にできると言うんだ……っ!? 私は、また……またも……っ!」
「――その時は来ないわよ」
なぜなら私とアナタの求めるところは同じだから。
アナタが私を欲したように、私もアナタが欲しいから。
未来永劫まで互いが互いを所有しようと牙を剥きあって、その欲求に折り合いを付ける手段なんか存在しないから――。
「それじゃ、御機嫌よう」
軽く微笑みながら呟いた青娥は、右手の中に残されていた札を良香の額に張り付ける。小さく悲鳴を上げた良香は札を貼られた瞬間に、すぅと表情を失い、地面に倒れ伏した。
「ク……ソ…………」
それが芳香の――否、再び目覚めた都良香の最後の言葉となった。
キョンシーとしての術式を解かれ、僅かの間だけ尸解仙に戻った彼女は青娥に敗北を喫し、結局は元の鞘へと戻された。良香としての自我を喪失した肉体を見下ろす青娥の横顔は、何とも言えない寂寥の念を滲ませている様にも見えた。
私と寅丸に、口も手も挟み込む隙なんかなかった。千年を超えて使役し、使役されてきた関係性の原初。この場にいる私たちは、今一度再生されたその糸口に立ち会っただけの部外者に過ぎないのだから。
「……さて、アナタたち」
にっこりと微笑みながら青娥が私と寅丸を順繰りに見る。
交渉のカードとして使おうとしてた芳香を取り戻された。クナイも消費して空手の私たちに青娥を打倒する手段はない。助けはまったく望めない。
――あ、やべぇ。これ詰んだわ。
立ち呆けていた私たちは、自分たちの置かれている状況の最悪さを自覚して戦慄する。
「えっと……私、なんて言ったかしら? アナタたちをどうするって? あら? 確か? えっと? こ? ん? 殺? あら?」
頻りに首を傾げながら、青娥はニタニタと笑って私たちの顔色を窺ってくる。チラと寅丸の顔を盗み見るも、やつの顔面は蒼白で頼りにはならなそうだった。目が合った時に見えた奴の落胆の色から察するに、私も同じような顔をしているらしい。
「ああ、そうそう、思い出しましたわ。殺すって言ったんだったわ。アナタたちを全力で消し潰して差し上げますわ、と言ったのでしたわ。いやねぇ、なんだか物覚えが悪くって」
「……歳っすかね」
「何か言った?」
「何でもございませんっす」
やっべ。目が怖い。突っ込み待ちじゃなかった。
万事休すか。辞世の句でも考えておくしかないのかな。うふふ。
「――いかんぞぉ!」
ストレスフルも良い所な沈黙を打ち破ったのは、ぎこちない挙動で立ち上がった『芳香』の大声だった。キョンシーとしての再起動が終わったらしい彼女の声に、もう先ほどまでの理知は無くなってしまっている。ついさっき墓場で初めて出逢った時と同じ調子だ。
「死ぬのだけはいかん! あれだけはいかんのじゃ! せーが! 殺しはいけないことだぞぉ! なぜなら死ぬのは怖いからな! 芳香は知ってるんだぞ!」
両腕を突き出し、ピョンピョンと青娥の周りを跳ねながら芳香が語る。そんな芳香の様子を、青娥は黙って眺めていた。
……あー、なんつーかな。
さっきまで良香だったコイツを見ている分、今の様子は痛々しいを通り越して切なくさえ見える。ギャップが激しすぎて置いてけぼりにされている認知意識に、憐れみが差し挟まれるのを感じた。アルジャーノンに花束を供えてくれと頼んできそうだ。
「――そうね、死ぬのはイヤよね」
青娥もまた、何やら思うところがあったのだろう。喚きながらグルグルと回る芳香を眺めたのち、小さくため息を吐いてからそう言った。
「……椛さん、狩りはする?」
「え? はぁ、まぁ……」
「私、猪が食べたいの。たまには芳香にも豪華な物を食べさせてあげたいし、大物を取ってくれると約束してくれるなら、それで許してあげる」
芳香に免じてね。
そう付け足した青娥の表情は、どこか母親という存在のもつような安らかな物だった。
「……そんなら私、良い店知ってるっすよ」
「あらそう? じゃ、そこで御馳走して下さる?」
「――はい」
ま、そんなやり取りをして、
私たちは青娥と和解したのだった。
◆◆◆
「おお……! 流石は仙女っすね……! 綺麗さっぱりっすよ……!」
青娥の持つ壁抜けの能力で、塞がっていた霊廟の入口から外に出てすぐ、青娥は私に掛けていたヤンシャオグイの呪いを解除してくれた。際限なく膨らみ、成長を続けていた闖入者もすっかり居なくなり、私の腹部は元のつるりとした平坦さを取り戻した。
いやあ、肩の荷が下りたように晴れやかな気分だ。
肩じゃなくってお腹の中なんだけどさ。
「おめでとうございます! これで、ミッションコンプリートですね!」
ナズーリンのペンデュラムを取り戻した寅丸が、ほくほく顔で私に笑い掛けてきた。出逢った時にはいけ好かないと思ったコイツの両手で包み込むような握手も、今は万感の思いで迎えることができる。
「別に私がどうこうしなくっても、明日の昼までには解決してたのに」
日の下に戻れて嬉しいのか、雄叫びを上げて縦横無尽に墓場を跳ねまわる芳香を微笑ましそうに見やりつつ、青娥が言う。
「へ? そうなんすか? なんだ、そんじゃ呪いっつっても脅しみたいなもんなんすね」
「違うわよぉ。明日の昼になれば成長を終えて出て来てたってこと。グジュミュルヌブボギュニュルルルルルルル……って」
「怖ええええええええええええええええええええええええええッ!!!!」
何すかその得体の知れないオノマトペは!
完全にコズミックホラーの世界じゃねーか! 私の中から這い寄る混沌!
「まあ、良いじゃない、こうして解呪してあげたんだし」
「んぐぅ……そこには素直にお礼を言いますが、マジえぐい呪いを掛けて来ますね……」
「しょうがないじゃない。昨日のアナタたちったら、尋常じゃないくらいに殺気立ってたんだもの。怖いって言うなら私の方が怖かったわよ」
「……ご迷惑をお掛けしました。でも盗みは止めた方が良いですよ」
「椛さん、約束、忘れないでね?」
謝罪交じりに寅丸が放った軽い説教を華麗にスルーしつつ、青娥が悪戯っぽいウインクをしてくる。バチコン。
「あぁ、ご心配なく……今度は前後不覚に陥らないように気ぃつけますわ」
「そうして頂戴。酒は飲んでも飲まれるな、よ?」
「肝に銘じます」
「肝に銘じます」
今日の行脚ですっかり懲りた私と寅丸は、異口同音に青娥へ頭を垂れたのだった。
……何はともあれ、昨日の痴態の後始末は終わった。
思えば長かったな。全裸で目覚めて以来、妊娠だの、荒れ果てた部屋の中の血糊だの、身に覚えのないスナイパーライフルだの、にゃんにゃん語で喋るナズーリンだのと、ぶっ飛んだ事件が目白押しだった。さすがにもうお腹一杯だ。しばらくは、ゆっくりしたいところだわ。ホント。
「――寅丸さん、お疲れさんっした」
私が寅丸に頭を下げると、寅丸はふふ、と小さく跳ねるような笑い声を零して、
「こちらこそ……色々ありましたけど、楽しかったですよ。椛さん。これからもアナタとは、個人的にお付き合いをさせていただきたい物ですね」
「そんときは、もうお酒は控えましょうね」
「あはは……はい」
照れ臭そうに頬を掻いた寅丸の表情は、なぜだか酷く魅力的に見えた。
今回の経験。
それは結局、どこまでも自分たちの尻拭いでしかなかったのだけれども、終わってみるとどうしてか、嫌な記憶も悪い記憶も、全部忘れてしまったかのように記憶から抜け去りつつあった。
きっと私も、楽しかったのだろう。コイツと――寅丸星と行動を共にしていた時間が。
なんてな……恥ずかしいから、そこまでは言ってやらないけど。
「――それにしても、あれだけ暴れたにしてはお寺の皆さん来てないわねぇ……もうお昼も過ぎたというのに、みんな寝てるのかしら?」
墓石がいくつも粉砕されたりなぎ倒されたりしている墓地の有様を見つつ、まるで他人事と言った風に青娥が言う。するとペンデュラムを首に掛けた寅丸が、「あ、そうでした」と何やら思い出したらしく手を打ってから、
「青娥さん、我々の服は持ち帰られたのですか? それにしても、つくづく昨晩の我々はアナタを怒らせてしまった様ですね……まさかこの寒空の下で身ぐるみを剥がすなんて」
「は?」
寅丸の言葉に、青娥は首を傾げた。何を言っているか微塵も理解できないと言わんばかりの表情で。
「なに言ってるの……? 仮にも女の子に対して、そんな酷いことしないわよ……」
洋服を持ち去った疑惑を掛けられて、青娥は心外を通り越してドン引きしたように返す。
「――え?」
「……マジ、っすか……?」
これに驚いたのが、私と寅丸だった。
なにせ青娥がナズーリンのペンデュラムを持っていたのだから、昨晩私らは彼女に打倒され、身ぐるみを剥がされたとばかり思っていたのだ。
「え、何その反応……。逆に何なの? というかアナタたち、昨日のこと覚えてないの?」
「はい……まぁ……え? そうすると、え? どういうことですか……?」
「…………呆れた」
がっくりと肩を落としてため息交じりに言った青娥が、矢庭に白いベストを脱いだ。何をするのかと見ていると彼女はそのまま我々に背中を向ける。彼女のワンピースは背中部分が大きく開いており、そこから覗く彼女の肌は、どういうわけか痣だらけだった。
「うわ、えげつなっ……手ひどくやられましたねぇ。お相手は激しいのがお好きな殿方だったんすか?」
「はっ倒すわよ。アナタがやったくせに」
「……私、っすか……?」
「そうよ。何だかよく判らない長筒で、逃げる私を背後からガンガン攻撃してきたじゃない。お洋服も真っ赤にされたし、昨日のアナタたちは最悪だったわよ」
憮然とした声で言いつつ、青娥がベストを羽織る。顔を見合わせた私たちは、「大変申し訳ありませんでした!」と、土下座せんばかりの勢いで声を合わせるしかなかった。
「……もう許すって言っちゃったから良いけど……だからアナタたち、私が身ぐるみを剥いだと思ってるなら、大きな間違いよ。むしろ私は被害者だったのですもの」
「そ、それじゃ……! どうしてアナタが、ペンデュラムを!?」
「アナタが投げ付けて来たからよ。『椛! テメェばっかに良いカッコさせっか! 道具なんかに頼るなんて二流もいいとこだぜ!? アタシのスローイングを見てからデカい面しな!』って」
「だから誰だよソレもう。アンタは酔うと反則系理不尽強力キャラになる性質でもあんのか。オーバーキルドレッドか」
「……お恥ずかしい」
「ブラックダイヤダーカーザンダーク……でしたっけ?」
「すいませんでした。青娥さん、それはほんと、マジで、ほんとにやめて下さい。ほんとうにやめて下さい。クツ舐めますから」
即断即決で地面に這いつくばった寅丸に心底嫌そうな視線を投げ付けた青娥が、寅丸の手からひらりと右足を遠ざける。
……しかし。
そうなると私らは、いったいどこで自分たちの一張羅を無くしたんだ……?
やっぱり私の家の中にあるのか? ナズーリンが片付けてくれているあの凄惨極まる我が家のどこかに? もしそうなら、私の探索が甘かったということで片付いてくれるのだが……。
「……青娥さん、アンタ昨日我々に襲われた後って、どうなったか教えては貰えませんかね……?」
「さあ? 破れかぶれに養小鬼を放ってからは追撃が止まったから、それを好機と見て逃げ帰ったわよ。アナタたちのその後なんて知らないわ」
「――そうっすか」
むう……。
ここに来て、手掛かりが潰えてしまったか。
洋服くらい新しく買うなり、上に申請するなりで、無くなったところで何とかなるっちゃなるが、しかし無くした場所すら判らないというのは、ちょっと厳しいものがある。
なんせ洋服だよ?
下着まで無かったんだよ?
無くしたじゃ済まないだろ基本。その格好で出歩いたなんてシチュエーションはキツ過ぎる。こちとら嫁入り前の女子だってのに。
と――。
「――号外! 号外ですよ! 今季の新聞大賞獲得間違いなしの大スクープですよ!」
熱に浮かれたような射命丸の声が一瞬だけ上空を通り過ぎ、うるせぇなと空を見上げれば、ガリ版刷の紙っぺらが後から後から降って来る。あのバカ見境なさ過ぎだろ。下も見ずに新聞ばら撒いてやがる。こんな墓地にまで新聞を振らせやがって、しゃれこうべにでも読んで貰うつもりか?
「あらあら、新聞ね」
青娥が舞い落ちて来る新聞の一枚を掴み、その場で悠々と読み始める。文々。新聞を好き好んで読むなんて、この人は聖女か何かか?
「うるさいカラスっすねぇ……幻想郷のうららかな日和も台無しっすわ」
「ほんと嫌いなんですね。文さんのこと」
「まあ、互いが互いの弱みを言い触らしてやろうとしているような仲っすからね。そんなもんっすよ。カラス天狗と白狼天狗の関係なんざ」
やれやれと私は肩を竦める。誰も読みゃしない新聞を手当たり次第に散らかすとは、環境破壊もいい所だなどと思いつつ。
「そう言えばはたてさんが言ってましたね。文さんが特ダネ掴んだらしいって」
「どうせ下らない擦った揉んだっしょ? あるいはマッチポンプかもしれませんね。ま、どっちにしろ、あのアホのことなんか放っときましょ」
「――あら、まぁ!」
それまで何となくといった風に射命丸の新聞を読んでいた青娥が、目を丸くして叫んだかと思うと、何故か私と寅丸のことを順々に見てくる。そしてニンマリ、と何とも生暖かい物でも見るようにして眦を垂れた。
「へぇ……ふぅん……知らなかったわぁ……あらあら、なによぅ……もぉ……」
「青娥さん? なんすか、その表情……気持ち悪」
「え、何が書いてあるんですか?」
首を傾げた寅丸が地面に落ちていた新聞の一枚を拾い上げ、何の気なしといった具合に紙面を表にした瞬間、「ぶっ!!!!!!!???????」と盛大に噴き出した。
「え、え、え、何すか寅丸さんまで、え、何すか、何なんすか、怖い」
慌てて私も号外の一枚を拾い上げる。
――そして、記事の見出しを目の当たりにした瞬間、
私は全身から血の気が引いて行くのを感じるのだった。
◆◆◆
文々。新聞 第百二十九季 水無月号外
『おめでとう! 寅丸星×犬走椛 結婚!』
昨晩の深夜、眠っていた記者の許へと突然の闖入者が現れた。寝ぼけ眼で玄関の戸を開けた瞬間、酒臭い息を吐きながら入って来たのは、命蓮寺の本尊である寅丸星氏と、哨戒天狗である犬走椛氏の二人であった。
「どうも子宝に恵まれたみたいなんだ」
普段の物静かな態度もどこへやら、まるで角の生えたお偉方のような傲岸不遜さで、寅丸氏は記者に告げた。彼女の左手をしっかり掴んでいた犬走氏は、長筒を振り回しながら玉の輿がどうこうと喚いていたのが印象深い。
「だがそれに至るプロセスを踏んだ記憶がない。これはおかしい。おかしいことは正さなくちゃいけない。アンタもそう思うだろう?」
寅丸氏の論理は意味不明だった。
これではいけない、と気を取り直した記者がインタビューを試みようと『寅丸さん』と呼んだところ彼女は烈火の如くに怒りだした。
「アタシのことは【冥夜に溶け込む黒き金剛(ブラックダイヤ・ダーカー・ザン・ダーク)】と呼べ」
寅丸氏の怒りは意味不明だった。
このままではブン屋の名折れ、と気を取り直した記者が、何故私の家に来たのかと問うと、そこで我が意を得たとばかりに胸を張った寅丸氏は今までの活躍と銘打ち、呂律の回らない口調ながら滔々と語り出した。
以下は記者が苦労してまとめたものである。
~~~~~~
信徒拡大のために妖怪の山を見学しに行った寅丸氏は、案内人として犬走氏を迎えた。視察を終えた二人は犬走氏の馴染みの居酒屋へと向かい、たらふく飲み食いしたそうだ。
気分の良くなった二人は、犬走氏の親友である河童の河城氏を呼び出し、彼女が持参した酒を浴びるように飲み干した。度数の高い酒だった、と寅丸氏は誇るように言っていた。
その後、河童や山童の中で流行しているサバイバルゲームに参加するため、河城氏と共に店を出た二人は、そこで命蓮寺のナズーリン氏と出会う。難癖を付けて来た彼女を捻じ伏せ、様々な要求を突き付けてペンデュラムを奪った後に放置する。
河童たちの沢へと辿り着いた二人は、獅子奮迅といった調子で河童や山童の大群を相手取って蹴散らし、称賛をほしいままにする。犬走氏はそこで出会った、仙川氏という山童と浅からぬ仲になったことを仄めかされた。
サバイバルゲームから帰投した折、邪仙である霍青娥氏が河童たちの住処を荒らしているところを目撃。逃げる霍氏を追いかけ、仙川氏の長筒やナズーリン氏のペンデュラムなどを使って撃退。そして気付いたら犬走氏が妊娠していたので、記者の家へと押し掛けて来た。
~~~~~
驚嘆に値する冒険譚ながら、記者の家へと来た理由が疑問だったのでそれを問うと、寅丸氏はその理由をこう語った。
「できるものができちゃったら結婚するのは当たり前。アタシと椛は結ばれることにした。そのことを告げたら、椛がアンタの家へと行こうと言ったわけだ」
それを聞いた記者はベッドで勝手に寝ようとしていた犬走氏を叩き起こし、記者の安眠を妨げてスクープをもたらしたことについて尋ねると、犬走氏はこう語った。
「行き遅れに見せつけようと思った。反省はしてない」
記者はコイツを本気で殺してやろうかと思った。
しかしながら犬走氏の言葉を聞いた寅丸氏は、『見せつける』という言葉に甚く発情、もとい興奮、もとい奮起したらしく、「見せつけよう」と叫んだかと思うと犬走氏に飛び掛かった。
その後の顛末について詳しく語る筆を私は持たない。
記者がこの原稿を纏めている間に二人はどこかへと去ってしまっていたが、記者の家に両人の服が残されていることは確かである。私のベッドがぐっちゃぐちゃになったことも確かである。布団、高かったんですが。もう寝れないんですが。記者は二人にベッドの代金を請求するつもりである。
ともあれ。
戒律や種族、性別といった様々な障害を乗り越えて成就した二人の恋が、果たしてどのような結末を迎えるのか。更には二人の間に育まれつつある命がどのように育つのか。
今後の成り行きに幻想郷中の注目が集まることは間違いないだろう。
記者 清く正しい射命丸文
◆◆◆
Fin
酒、酒をのみ
酒、人を呑む
"よしか"の絡みも面白かったです。
GJ!
それ以外の言葉は無粋。
最高でした。
前編はコメディタッチでニヤニヤしながら読んでましたが、後編では「よしか」がとても印象的でした。独立した話としても詳しく読んでみたいですね。
でもなんだかんだでオチは文さんが面白おかしくまとめてくれたのでスッキリしました
文は何というとばっちりw
「さぁ? 誰が犯人だ?」と思いながら読んでたら、まさかの主人公犯人w
実に楽しませて貰いました。