吸血鬼には弱点が多い。
強い陽の光も苦手ならば、流れる水も苦手なので、殊に天気が変わりやすい夏の季節ともなると、いつもは日傘を差してどこそこを散歩する、霊夢にちょっかい入れてくるなどと活動的なレミリアも、専ら館に閉じこもり始める。しかし館にいるというのは案外退屈なもので、娯楽といえば紅茶を飲むくらいしかなかった。
咲夜は咲夜で、増えてきた蚊や虻にノイローゼ気味になって不機嫌になる。何か面白いことはないかと言葉を投げ掛けても、「では妹様とお遊びになられては」と皮肉を含んで笑うばかりだ。
あいつも他の季節にはちらほらと自由に出歩く姿を見かけるようになったが、夏になると以前のように地下に帰って行ってしまうから、わざわざ出向いて声を掛けるまでの面倒はしなくてもいいんじゃないかという気になる。第一こっちへ来いよ、一緒に紅茶を飲もう、そう言ってみたところで「だって地下の方が涼しいんだもの」と澄ました顔で言われるに決まっていた。あんな暗い地下で紅茶を飲むくらいなら、いっそぎらぎら地上を照らす太陽の下に日傘を差して、神社にお茶を飲みに行きたいと思った。
なんとか館内に我が身を落ち着ける場所を探そうとしていたレミリアは、数少ない友人をあてにして図書館へと向かった。いつもは空気の流れが感じられない、どうしても陰鬱な感じを受ける場所だが、この季節には虫干しを行っているらしく、珍しく扉が開放されている。図書館の中では小悪魔や妖精メイドが駆り出されて、せっせせっせと本を運んでいた。
当のパチュリーは指示だけ出してあとは任せる方針らしく、季節を通じて変わらずに、いつものように椅子にどっぷり腰を落ち着かせて本に視線を落としている。
忙しそうに背景が動く中で悠々と語り合う、という些細なことが刺激のない季節には面白く、それで図書館に足を運ぶことが最近の習慣になった。
しかしその語り合いの楽しみも、ずっと館の中にいては話題の種がすぐに尽きてしまう。最初は何でもいい。最近どう、に始まる世間話や読んでいる本のこと、小悪魔や咲夜のこと、昔の話を持ち出して懐かしんだりもした。
けれど、パチュリーはうん、とかああ、とか軽い相槌を打ちながら、必要だと思われる箇所に言葉を継ぎ足すといった風なので、レミリアが一方的に話しかける感じになってしまい、会話が長続きしない。決してパチュリーが話を聞いていないというわけではないが、目の前の友人よりは本といった感じで、何とも暖簾に腕押しだったので、レミリアは不貞腐れた。
「ねえ、ちょっと」
「うん」
「……いいわ、私も本でも読もうかな」
レミリアが本を読まないということはない。しかし、本を読むことを娯楽とするときは殆どなかった。大抵はこういった手持ち無沙汰なときの暇潰しでしかない。
棚にはレミリアの理解が及ばない魔導書がずらりと並んでいて、その色褪せた、あるいは褪せていない、赤や緑や青や黒といった、様々な色の背表紙を見せている。内容に興味なんてこれっぽっちも起こらないけれど、適当に目についたものを抜いて中身をぱらぱらと捲る。さっぱり分からなくてすぐに元の棚に戻す。たまにまだ分かる内容のものがあると、数ページ捲って友人の世界の片鱗を覗いてみたりもする。そんなことを何回か繰り返しながら、あっちの角を曲がって、こっちの角を折り返して、ゆっくり足の赴くままにぐるぐると本の迷路を進んだ。
数刻ほどの時間は潰せただろうか。気が付くと働く者たちの気配が遠くなっていて、レミリアの周囲だけ、しんと重く澄んだ空気が溜まっていた。そろそろお部屋に戻ろうかしら。そう思って指で棚をとと、と叩きながら歩くと、その指の先に白い背表紙の本が一冊、本棚に収まっているのを見つけた。
――白い装丁の本なんて、珍しい。思い違いだろうかと周りの本棚を眺めてみても、白い背表紙はやはり見当たらない。興味が湧いて手に取ってみると、それは思ったより軽かった。
よくよく観察すればするほど、奇妙な本であった。厚い魔導書にあるような重量が感じられないのはもちろん、表紙を捲ってみようと思っても、紙同士がぴたりとくっついていて捲れない。どのページで試してみても同じだ。さらには、本のどこにもタイトルらしき文字が書かれていない。表紙や裏表紙に緻密な薔薇の装飾が彫られているものの、魔力とでも言おうか、魔法の残滓、魔法の香りのようなものが微塵にも感じられないところを見て、それらすべてを総合的に判断すると、これは相当な禁書の類らしいとレミリアは考えた。
(うむ、能ある鷹は爪を隠すものだ。)
吸血鬼の力で無理に開いてみようと思えば、無論簡単に開けるだろう。けれど魔法が専門外のレミリアに、その後起きるであろう出来事を推測するのは難しかった。開いた途端に遥か昔に封じられた大魔法が復活する気がするし、強力な悪魔が召喚される気もする。レミリアは俄然興味を湧かせて、我が友人にこの本のことを聞いてみようと、本を胸に抱えてその場を後にした。
「そんな本知らないわ」
パチュリーはこの日はじめて顔を上げて、白い魔導書を凝視するとそう一言で言い切った。レミリアから本を受け取ると、それをあらゆる角度から眺めたり、その場で簡単な呪いを口にしたりして何かを確かめている風だったが、結局は首を大きく傾げた。
「どうにも魔法の気配が感じられないの」
それはつまり、この魔導書が紅魔館の知識を持ってしても、理解の及ばない、得体の知れないものだということを示していた。
レミリアはつまらない日々に一筋の光明を見出した感じがして、どうしてもこの魔導書の中身を知りたくなった。あのパチェが手も足も出ないんだ、これはきっとお宝に違いない。是非私たちで解き明かして、独占したい。
「いいね、パチェ。このことは他に言うんじゃあないよ」
「私は図書館から出ないから。レミィこそ」
「言わないって」
ふん、と鼻で溜息を吐くと、パチュリーは周囲に散らばっていた本を適当に机の端に山積みにして、通りかかった小悪魔に何かを言付けた。すぐに小悪魔は二人にぺこりと頭を下げると、早足で本棚の影に消えた。
「で、レミィは何するの?」
「そうだな。解決するまでここでパチェの話相手にでもやってあげようか」
愉快そうにレミリアはかかかっ、と笑った。
あの魔導書について、日を重ねて二人が調査した結果、分かったことがある。
まず一つは、この魔導書が、少なくとも大魔法を封じていたり、悪魔を召喚したりする類のものではないということだ。
パチュリーが念には念を入れ、術式を展開して大掛かりに調べたが、害のあるものではないということらしい。ただの開けない本と変わらないと聞いて、縁日に出かける子供のように浮かれていたレミリアは、急速に興味を失ってしまった。心を躍らせて連日図書館を訪れていた数日間が嘘のように、寧ろ以前より一層つまらなさそうに自室に篭ってカーテン越しに太陽を睨み付けたり、ざあざあと降る雨を窓際で憂鬱そうに肘を突いて眺めていた。
そして、もう一つの発見は、先の発見の二日後になされた。
「どうしたパチェ、わざわざ使い魔を寄越すなんて」
その日は朝からはっきりしない雨が降っていたから、レミリアは例によって機嫌を悪くして面倒臭そうに友人の元を訪れた。
「いいから、これを」
そういってパチュリーが渡してきたのは、例の白い本だった。レミリアはすっかり終わった話とばかり思っていたから、友人がまだ興味を持って本のことを調べ続けていたとは知らずに驚いた。
こんな本、と思いながらそれでも手にして眺めてみると、すぐに知っている本とは違った部分に気がついた。立てたときに上に来るのか下に来るのか対称の装飾からは見分けがつかないが、とにかく背表紙の一端の装飾が横にスライドして、隠されていた場所から鍵穴らしい小さな円い深淵が覗いていた。
「これは?」
「わからないけど、ただの本としてはやけに大掛かりな仕掛けよね」
そう言ってパチュリーは腕組みをした。試しに装飾を元に戻してみると、今まで気付かなかったのも納得だ、外からはまるで分からない。改めて触って確かめてみても、よくある装丁のずれくらいにしか見えない隙間が認められる程度で、実に巧妙に穴が隠されているのであった。
「鍵を必要としているのかしらね」
「ええ、魔導書の類では別に珍しいことではないわ、……物理的な鍵もあれば、術式で解く鍵もある」
「けれどこいつは、どうやらただの本らしいという話じゃないか?」
「うん、ううん……」
パチュリーはレミリアから返された本を受け取り、頷きながら低く唸った。
「魔力を具現化して、ちょちょいと開ける訳にはいかない?」
「ううん、そうね、無害な書だとは思うんだけど、……うん。それに、鍵のような精密なものの具現化となると難しいわ」
パチュリーは未だにこの本に対して警戒を解くつもりはなく、無理やりな開錠には賛成できないでいるらしい。レミリアとしてはさっさと中身を見てしまって、もやもやする感じを解消してしまいたいのだが、友人がどうにも強く拘るので、自分を押し通してまで研究を駄目にしようとは思わない。
「あらお嬢様、こちらにお出ででしたか」
と、二人が黙り込んでしまった中に姿を現したのは咲夜だった。
手には紅茶が入ったティーポットと、二人分のティーカップ。昼下がりのティータイムということらしい。
「そろそろ紅茶をお出しする時間かと思いまして。パチュリー様もご一緒に如何ですか、……あら。それは」
返事を聞くより早く二人の間に割り込んで、紅茶をカップに注いで二人に手渡しながら、咲夜はふとパチュリーの手元に視線を落として、意外そうに声を上げた。
「オルゴールじゃないですか」
ぶっ、と二人が仲良く紅茶を噴き出した。
「さっ、咲夜、これを知っているの?」
ごほごほと咳き込んでいる友人を尻目に、レミリアは食いついた。パチュリーが正体を明らかに出来なかったものを、こんなに近くの人間が知っているものだとは思いもしなかった。
「え、ええ。なんでもまあ、音色を奏でて楽しむためのものだとか。森の近くの古道具屋……、ええ、そうですそうです、香霖堂。人里へ買い物ついでにたまに寄って冷やかすんですけど。その店主から頂いたものですわ」
「そんなものがどうして本棚にあるんだ、咲夜?」
「紅魔館なら、この本の装飾がお似合いなんじゃないかと言われまして、頂いたのはいいんですけれど、私の手には余るものでしたので。そもそも音色を奏でるとか言って、ちっとも良い音がしないんですもの、それ。ただの本ですわ。木の葉を隠すなら森の中。ならば、本を隠すなら図書館の中という具合に」
あまりに咲夜がしゃあしゃあと答えるものだから、レミリアもパチュリーも怒る気がすっかり失せてしまった。それよりかは、目の前の本らしきものが「オルゴール」という名前であること、音色を奏でて楽しむためのものであることを知り、変な遠慮がなくなったのか、表紙や背表紙をとんとんと叩いてみたり、色々な角度で振ってみたりしたが、鳴る音は無機質な低い音ばかりで、とてもではないが音色を奏でて楽しむといった境地には至らない。
「でも、こんなところに穴が開いているとは気付きませんでしたわ。霖之助さんもそんなことは言っていませんでしたから、気付いていらっしゃらないんじゃないかと。壊れてしまって音が鳴らない、ただのがらくただということでしたので、私に寄越した訳です。彼にこの穴のことを話せば、もしかしたら何か分かるかもしれません」
という咲夜の言い分は尤もだったので、三人は日が暮れるのを待って、揃って香霖堂へ出かけることにした。降っていた雨はいつのまにか止んでいて、僅かに残った雲を取り巻きにしながら、月が顔を覗かせている。
雨が降ったあとの夜は、静かで空気も澄んでいて、メイドにも吸血鬼にも喘息持ちにも都合が良かった。
「また君か」
と、呆れ顔で店を畳んだ後の来客を出迎えた店主だったが、見慣れない顔が後ろからついてきているのを見ると、ぐっと溜息を飲み込んで「まあ、入るがいい」と三人を案内した。
薄暗い店内には相も変わらず価値があるのか無いのか、売っているのかいないのか分からない代物が並んでいる。レミリアは物にぶつけて棚の商品を落とさないように、翼を小さく畳んだ。一番後ろから控え目についてくる喘息持ちはごほ、ごほと咳き込んで口許にハンカチーフを宛がった。
三人には粗茶が振舞われた。面倒な説明役は咲夜が買って出た。霖之助に穴のことを伝えると、彼は面倒臭そうな表情から急に目の色を変えて、真剣にその穴の形状を確かめ始めた。
「うん、なるほど。そういうことだったら、もしかしたら動かせるかもしれないな」
穴を片手でなぞりながら霖之助はそう言うと、表情を明るくする三人を制して店の奥へと引っ込んでいった。
そわそわとした落ち着かない沈黙の中、ぐいっと一息に茶を呷ったレミリアは「この茶、渋いな」と独り言を呟いて、パチュリーがこほんと乾いた咳で返事をした。
物が乱雑に溢れかえっている店内でも、店主からすると、どこに何があるかはきちんと把握できているらしい。それほど時間を空けずに霖之助はじゃらじゃらとした鉄屑の山を持ち出してきた。
「これは『ぜんまいねじ』といって、機械に動力を伝えるための道具だ」
三人が不思議そうな顔をしていると、霖之助はそう答えながら一つ一つのぜんまいを穴の形に当て嵌めていった。これは太すぎる、これは短すぎる、と幾つか当て嵌まらないものを弾いていくうちに、ぜんまいの一つが穴にぴったり嵌まって、その拍子にピン、と高い音が鳴った。四人が息を呑んだ。
霖之助が恐る恐るぜんまいを捻ってみると、それは確かな手応えを伝え、捻った分の音色を奏で始めた。最初は不連続な音色に聞こえていたものが、次第に一つの旋律に聴こえ始め、その何となく切ないながらも心を打つ音色に、一同は溜息を漏らした。
「なるほど、これはうちにぴったりだ」
暫くの沈黙のあと、レミリアが曲調に合わせてゆらゆらと翼を上下させながら、楽しそうに霖之助の顔を見た。
「うん、いや、やられたね。こんな仕掛けが施されていたとは気が付かなかった。気付いていれば譲り渡すことはしなかったんだが、……残念だ」
「あら、いいんですの?」
「いいよ、ぜんまいねじも持っていけばいい。その代わり、飽きたらこっちに譲ってくれないか。こういうのが好きそうな子がいるからね」
霖之助は早くもビジネスライクな笑顔を浮かべながら、懐かしそうに目を細めた。
強い陽の光も苦手ならば、流れる水も苦手なので、殊に天気が変わりやすい夏の季節ともなると、いつもは日傘を差してどこそこを散歩する、霊夢にちょっかい入れてくるなどと活動的なレミリアも、専ら館に閉じこもり始める。しかし館にいるというのは案外退屈なもので、娯楽といえば紅茶を飲むくらいしかなかった。
咲夜は咲夜で、増えてきた蚊や虻にノイローゼ気味になって不機嫌になる。何か面白いことはないかと言葉を投げ掛けても、「では妹様とお遊びになられては」と皮肉を含んで笑うばかりだ。
あいつも他の季節にはちらほらと自由に出歩く姿を見かけるようになったが、夏になると以前のように地下に帰って行ってしまうから、わざわざ出向いて声を掛けるまでの面倒はしなくてもいいんじゃないかという気になる。第一こっちへ来いよ、一緒に紅茶を飲もう、そう言ってみたところで「だって地下の方が涼しいんだもの」と澄ました顔で言われるに決まっていた。あんな暗い地下で紅茶を飲むくらいなら、いっそぎらぎら地上を照らす太陽の下に日傘を差して、神社にお茶を飲みに行きたいと思った。
なんとか館内に我が身を落ち着ける場所を探そうとしていたレミリアは、数少ない友人をあてにして図書館へと向かった。いつもは空気の流れが感じられない、どうしても陰鬱な感じを受ける場所だが、この季節には虫干しを行っているらしく、珍しく扉が開放されている。図書館の中では小悪魔や妖精メイドが駆り出されて、せっせせっせと本を運んでいた。
当のパチュリーは指示だけ出してあとは任せる方針らしく、季節を通じて変わらずに、いつものように椅子にどっぷり腰を落ち着かせて本に視線を落としている。
忙しそうに背景が動く中で悠々と語り合う、という些細なことが刺激のない季節には面白く、それで図書館に足を運ぶことが最近の習慣になった。
しかしその語り合いの楽しみも、ずっと館の中にいては話題の種がすぐに尽きてしまう。最初は何でもいい。最近どう、に始まる世間話や読んでいる本のこと、小悪魔や咲夜のこと、昔の話を持ち出して懐かしんだりもした。
けれど、パチュリーはうん、とかああ、とか軽い相槌を打ちながら、必要だと思われる箇所に言葉を継ぎ足すといった風なので、レミリアが一方的に話しかける感じになってしまい、会話が長続きしない。決してパチュリーが話を聞いていないというわけではないが、目の前の友人よりは本といった感じで、何とも暖簾に腕押しだったので、レミリアは不貞腐れた。
「ねえ、ちょっと」
「うん」
「……いいわ、私も本でも読もうかな」
レミリアが本を読まないということはない。しかし、本を読むことを娯楽とするときは殆どなかった。大抵はこういった手持ち無沙汰なときの暇潰しでしかない。
棚にはレミリアの理解が及ばない魔導書がずらりと並んでいて、その色褪せた、あるいは褪せていない、赤や緑や青や黒といった、様々な色の背表紙を見せている。内容に興味なんてこれっぽっちも起こらないけれど、適当に目についたものを抜いて中身をぱらぱらと捲る。さっぱり分からなくてすぐに元の棚に戻す。たまにまだ分かる内容のものがあると、数ページ捲って友人の世界の片鱗を覗いてみたりもする。そんなことを何回か繰り返しながら、あっちの角を曲がって、こっちの角を折り返して、ゆっくり足の赴くままにぐるぐると本の迷路を進んだ。
数刻ほどの時間は潰せただろうか。気が付くと働く者たちの気配が遠くなっていて、レミリアの周囲だけ、しんと重く澄んだ空気が溜まっていた。そろそろお部屋に戻ろうかしら。そう思って指で棚をとと、と叩きながら歩くと、その指の先に白い背表紙の本が一冊、本棚に収まっているのを見つけた。
――白い装丁の本なんて、珍しい。思い違いだろうかと周りの本棚を眺めてみても、白い背表紙はやはり見当たらない。興味が湧いて手に取ってみると、それは思ったより軽かった。
よくよく観察すればするほど、奇妙な本であった。厚い魔導書にあるような重量が感じられないのはもちろん、表紙を捲ってみようと思っても、紙同士がぴたりとくっついていて捲れない。どのページで試してみても同じだ。さらには、本のどこにもタイトルらしき文字が書かれていない。表紙や裏表紙に緻密な薔薇の装飾が彫られているものの、魔力とでも言おうか、魔法の残滓、魔法の香りのようなものが微塵にも感じられないところを見て、それらすべてを総合的に判断すると、これは相当な禁書の類らしいとレミリアは考えた。
(うむ、能ある鷹は爪を隠すものだ。)
吸血鬼の力で無理に開いてみようと思えば、無論簡単に開けるだろう。けれど魔法が専門外のレミリアに、その後起きるであろう出来事を推測するのは難しかった。開いた途端に遥か昔に封じられた大魔法が復活する気がするし、強力な悪魔が召喚される気もする。レミリアは俄然興味を湧かせて、我が友人にこの本のことを聞いてみようと、本を胸に抱えてその場を後にした。
「そんな本知らないわ」
パチュリーはこの日はじめて顔を上げて、白い魔導書を凝視するとそう一言で言い切った。レミリアから本を受け取ると、それをあらゆる角度から眺めたり、その場で簡単な呪いを口にしたりして何かを確かめている風だったが、結局は首を大きく傾げた。
「どうにも魔法の気配が感じられないの」
それはつまり、この魔導書が紅魔館の知識を持ってしても、理解の及ばない、得体の知れないものだということを示していた。
レミリアはつまらない日々に一筋の光明を見出した感じがして、どうしてもこの魔導書の中身を知りたくなった。あのパチェが手も足も出ないんだ、これはきっとお宝に違いない。是非私たちで解き明かして、独占したい。
「いいね、パチェ。このことは他に言うんじゃあないよ」
「私は図書館から出ないから。レミィこそ」
「言わないって」
ふん、と鼻で溜息を吐くと、パチュリーは周囲に散らばっていた本を適当に机の端に山積みにして、通りかかった小悪魔に何かを言付けた。すぐに小悪魔は二人にぺこりと頭を下げると、早足で本棚の影に消えた。
「で、レミィは何するの?」
「そうだな。解決するまでここでパチェの話相手にでもやってあげようか」
愉快そうにレミリアはかかかっ、と笑った。
あの魔導書について、日を重ねて二人が調査した結果、分かったことがある。
まず一つは、この魔導書が、少なくとも大魔法を封じていたり、悪魔を召喚したりする類のものではないということだ。
パチュリーが念には念を入れ、術式を展開して大掛かりに調べたが、害のあるものではないということらしい。ただの開けない本と変わらないと聞いて、縁日に出かける子供のように浮かれていたレミリアは、急速に興味を失ってしまった。心を躍らせて連日図書館を訪れていた数日間が嘘のように、寧ろ以前より一層つまらなさそうに自室に篭ってカーテン越しに太陽を睨み付けたり、ざあざあと降る雨を窓際で憂鬱そうに肘を突いて眺めていた。
そして、もう一つの発見は、先の発見の二日後になされた。
「どうしたパチェ、わざわざ使い魔を寄越すなんて」
その日は朝からはっきりしない雨が降っていたから、レミリアは例によって機嫌を悪くして面倒臭そうに友人の元を訪れた。
「いいから、これを」
そういってパチュリーが渡してきたのは、例の白い本だった。レミリアはすっかり終わった話とばかり思っていたから、友人がまだ興味を持って本のことを調べ続けていたとは知らずに驚いた。
こんな本、と思いながらそれでも手にして眺めてみると、すぐに知っている本とは違った部分に気がついた。立てたときに上に来るのか下に来るのか対称の装飾からは見分けがつかないが、とにかく背表紙の一端の装飾が横にスライドして、隠されていた場所から鍵穴らしい小さな円い深淵が覗いていた。
「これは?」
「わからないけど、ただの本としてはやけに大掛かりな仕掛けよね」
そう言ってパチュリーは腕組みをした。試しに装飾を元に戻してみると、今まで気付かなかったのも納得だ、外からはまるで分からない。改めて触って確かめてみても、よくある装丁のずれくらいにしか見えない隙間が認められる程度で、実に巧妙に穴が隠されているのであった。
「鍵を必要としているのかしらね」
「ええ、魔導書の類では別に珍しいことではないわ、……物理的な鍵もあれば、術式で解く鍵もある」
「けれどこいつは、どうやらただの本らしいという話じゃないか?」
「うん、ううん……」
パチュリーはレミリアから返された本を受け取り、頷きながら低く唸った。
「魔力を具現化して、ちょちょいと開ける訳にはいかない?」
「ううん、そうね、無害な書だとは思うんだけど、……うん。それに、鍵のような精密なものの具現化となると難しいわ」
パチュリーは未だにこの本に対して警戒を解くつもりはなく、無理やりな開錠には賛成できないでいるらしい。レミリアとしてはさっさと中身を見てしまって、もやもやする感じを解消してしまいたいのだが、友人がどうにも強く拘るので、自分を押し通してまで研究を駄目にしようとは思わない。
「あらお嬢様、こちらにお出ででしたか」
と、二人が黙り込んでしまった中に姿を現したのは咲夜だった。
手には紅茶が入ったティーポットと、二人分のティーカップ。昼下がりのティータイムということらしい。
「そろそろ紅茶をお出しする時間かと思いまして。パチュリー様もご一緒に如何ですか、……あら。それは」
返事を聞くより早く二人の間に割り込んで、紅茶をカップに注いで二人に手渡しながら、咲夜はふとパチュリーの手元に視線を落として、意外そうに声を上げた。
「オルゴールじゃないですか」
ぶっ、と二人が仲良く紅茶を噴き出した。
「さっ、咲夜、これを知っているの?」
ごほごほと咳き込んでいる友人を尻目に、レミリアは食いついた。パチュリーが正体を明らかに出来なかったものを、こんなに近くの人間が知っているものだとは思いもしなかった。
「え、ええ。なんでもまあ、音色を奏でて楽しむためのものだとか。森の近くの古道具屋……、ええ、そうですそうです、香霖堂。人里へ買い物ついでにたまに寄って冷やかすんですけど。その店主から頂いたものですわ」
「そんなものがどうして本棚にあるんだ、咲夜?」
「紅魔館なら、この本の装飾がお似合いなんじゃないかと言われまして、頂いたのはいいんですけれど、私の手には余るものでしたので。そもそも音色を奏でるとか言って、ちっとも良い音がしないんですもの、それ。ただの本ですわ。木の葉を隠すなら森の中。ならば、本を隠すなら図書館の中という具合に」
あまりに咲夜がしゃあしゃあと答えるものだから、レミリアもパチュリーも怒る気がすっかり失せてしまった。それよりかは、目の前の本らしきものが「オルゴール」という名前であること、音色を奏でて楽しむためのものであることを知り、変な遠慮がなくなったのか、表紙や背表紙をとんとんと叩いてみたり、色々な角度で振ってみたりしたが、鳴る音は無機質な低い音ばかりで、とてもではないが音色を奏でて楽しむといった境地には至らない。
「でも、こんなところに穴が開いているとは気付きませんでしたわ。霖之助さんもそんなことは言っていませんでしたから、気付いていらっしゃらないんじゃないかと。壊れてしまって音が鳴らない、ただのがらくただということでしたので、私に寄越した訳です。彼にこの穴のことを話せば、もしかしたら何か分かるかもしれません」
という咲夜の言い分は尤もだったので、三人は日が暮れるのを待って、揃って香霖堂へ出かけることにした。降っていた雨はいつのまにか止んでいて、僅かに残った雲を取り巻きにしながら、月が顔を覗かせている。
雨が降ったあとの夜は、静かで空気も澄んでいて、メイドにも吸血鬼にも喘息持ちにも都合が良かった。
「また君か」
と、呆れ顔で店を畳んだ後の来客を出迎えた店主だったが、見慣れない顔が後ろからついてきているのを見ると、ぐっと溜息を飲み込んで「まあ、入るがいい」と三人を案内した。
薄暗い店内には相も変わらず価値があるのか無いのか、売っているのかいないのか分からない代物が並んでいる。レミリアは物にぶつけて棚の商品を落とさないように、翼を小さく畳んだ。一番後ろから控え目についてくる喘息持ちはごほ、ごほと咳き込んで口許にハンカチーフを宛がった。
三人には粗茶が振舞われた。面倒な説明役は咲夜が買って出た。霖之助に穴のことを伝えると、彼は面倒臭そうな表情から急に目の色を変えて、真剣にその穴の形状を確かめ始めた。
「うん、なるほど。そういうことだったら、もしかしたら動かせるかもしれないな」
穴を片手でなぞりながら霖之助はそう言うと、表情を明るくする三人を制して店の奥へと引っ込んでいった。
そわそわとした落ち着かない沈黙の中、ぐいっと一息に茶を呷ったレミリアは「この茶、渋いな」と独り言を呟いて、パチュリーがこほんと乾いた咳で返事をした。
物が乱雑に溢れかえっている店内でも、店主からすると、どこに何があるかはきちんと把握できているらしい。それほど時間を空けずに霖之助はじゃらじゃらとした鉄屑の山を持ち出してきた。
「これは『ぜんまいねじ』といって、機械に動力を伝えるための道具だ」
三人が不思議そうな顔をしていると、霖之助はそう答えながら一つ一つのぜんまいを穴の形に当て嵌めていった。これは太すぎる、これは短すぎる、と幾つか当て嵌まらないものを弾いていくうちに、ぜんまいの一つが穴にぴったり嵌まって、その拍子にピン、と高い音が鳴った。四人が息を呑んだ。
霖之助が恐る恐るぜんまいを捻ってみると、それは確かな手応えを伝え、捻った分の音色を奏で始めた。最初は不連続な音色に聞こえていたものが、次第に一つの旋律に聴こえ始め、その何となく切ないながらも心を打つ音色に、一同は溜息を漏らした。
「なるほど、これはうちにぴったりだ」
暫くの沈黙のあと、レミリアが曲調に合わせてゆらゆらと翼を上下させながら、楽しそうに霖之助の顔を見た。
「うん、いや、やられたね。こんな仕掛けが施されていたとは気が付かなかった。気付いていれば譲り渡すことはしなかったんだが、……残念だ」
「あら、いいんですの?」
「いいよ、ぜんまいねじも持っていけばいい。その代わり、飽きたらこっちに譲ってくれないか。こういうのが好きそうな子がいるからね」
霖之助は早くもビジネスライクな笑顔を浮かべながら、懐かしそうに目を細めた。
後書きの咲夜の一筆が特に素敵でした。
日常の中にあるちょっとした非日常をみんな楽しんでる感じ。
すごくいい雰囲気ですね。
ただ、長く貴族をやっているレミリアならオルゴールを知っているのでは、と思いました