一輪が本堂から石畳に沿ってまっすぐ表参道のちりを掃き終え、三門の大扉に閂をかけると、命蓮寺の境内はすでに暗くなっていた。
このごろは日もだいぶん長くなる季節なのにと思いながら頭巾を脱いで顔を仰向けると、分厚く曇った空から水が一滴落ちてきて一輪の眉間を打った。降られたなと気が付くと次の一滴が今度は鼻の頭に降った。降られた一輪は慌てて石台へ上り夕方の鐘を撞いて掃除のお勤めをお仕舞にした。
「雨もだいぶん降る季節になったわね」
雲山に話しながら一輪は服の袖で顔をぬぐった。撞いた鐘の響きがまだ消えない間に、命蓮寺の境内はどこも小雨に打たれてさらさらと細かな音を鳴らしていた。
一輪がしばらくそうしたまま石台に座って境内を見回していると、先ほど閂をかけた門を、何かが外側からガタガタガタと三度押した。はじめは聞き違えかとも思われたが、待ってみるとやはりガタガタガタとまた三度押す音がする。
「どちらさまですかー」
一輪が声をかけると、ガタガタガタは止んだらしかった。しかし門の向こうではそれきり何も返事がない。もう一声かけてやろうかと一輪が立ち上がると、三門から右に伸びる塀をよじのぼって人の手が現れた。見ていると手はしばらく苦労して塀を乗り越え、丁度石台の上で立つ一輪の目線に、髪を濡らしたナズーリンの顔がようやく出てきた。
「ああ、ひさしぶりじゃない」
そう挨拶した一輪の合図で雲山が塀の下へ移動すると、塀の上のナズーリンは「どうも、すまないね」と言って雲入道の頭に安全に跳び下りた。ナズーリンは雲山の手を借りて着地すると、改めて一輪の方を向き「うん、ひさしぶりだ」と遅い返事を口にした。聞いた一輪にはこれがひさしぶりに会う自分への挨拶ではない、単なる言葉の応答としか思われなかった。
「傘持って来なかったのね」
小雨の降る中でナズーリンの服は袖裾が黒く濡れて見える。しかし当人ナズーリンはこれに表情も変えず「今日泊まりたい。主人に会って頼む」と二つのことを簡潔に言った。
「寅丸なら本堂に居るわよ。ついでだからそこまで一緒に行きましょう。雲山が雨避けになってくれる」
一輪が言うとナズーリンはこくこく頷いた。一輪はこの首肯が、寅丸が本堂に居ることを承知したのだか、あるいはそこまで自分と一緒に行くことに賛成したのだかちょっと考えた。ちょっと考えてみて、この場合どちらとも迷って考える必要のないことだと気が付くと、今度はなんだか喉元がむず痒いような心持がした。
石台を跳び下りた一輪がナズーリンと並び雲入道の傘に入ると、ナズーリンは小さくくしゃみをして「どうも、すまないね」とまた言った。
一体、このナズーリンという名前を正しく口に出したのが、今からもうどのくらい昔のことであったか、一輪は思い出すことができなかった。無縁塚近くに小屋を建てて一人住む彼女の名前が命蓮寺の話題に上るとき、一輪は決まって「あのねずみが」とか「あいつが」とかいうぞんざいな呼び方をして済ませていた。たまに本人と同席して話しても、呼びかける機会はかえって少なかった。一輪はこの名前を忘れたわけではなかった。むしろナズーリンという自分に似たような名前を、一輪は信仰に関係する人としていつでも胸に留めていた。また、口に出さず筆によって書く場合では、「ナズーリン」の五字は容易に示すことができた。ただ名前を呼ぶことに不思議な躊躇を感じていた。
参道の階段を上って寅丸のいる本堂へナズーリンを通すときも、一輪は襖の前で「お客さんですよ」というわざとらしくとぼけたような紹介をしなくてはならなかった。ナズーリンがこれに「私です、ナズーリンです」と後から付け加えるように教えたので、一輪は自分のとぼけ方がいっそうつまらなく思われた。
「来るのはちょっとひさしぶりじゃないですか」
「日が長くなりました。今日はもう暗いですが」
「近頃はもうだいぶん暑いじゃないですか」
「今日は涼しいですが」
「まあ、そうでしょうね。まだまだ降りそうです」
小雨をくぐって来たナズーリンのため一輪が講堂の押入から着替えになりそうな作務衣をとって戻ると、本堂にはすでにナズーリンの姿は無く、寅丸が一人で居てナズーリンに淹れてやったらしいお茶を自分で飲んでいた。
「あら、もう帰っちゃったの」
一輪はまたとぼけたようなことを言った。
「ナズーリンは今夜はこの本堂で寝ることになりました。いま庫裏の空き部屋から布団をとって来ると言って出ていったところです」
「珍しいのね。寺に用があったの」
「いえ、今夜あたり大風が吹きそうで恐ろしいからって言うんですよ」
「大風」
一輪は覚えず繰り返して言った。
「ねずみという動物はこういう危険にとても敏感ですからね。荷物も作らずに逃れて来たんですよ」
一輪はナズーリンの非常に用心深いことに恐れ入ってしまった。いつも雲入道と居る一輪は風などを恐ろしいと思ったことはかつてなかった。
そうしているうちに一輪の背後で襖が開き、薄い夏布団を引きずったナズーリンが帰ってきた。ナズーリンは広い本堂をぐるぐるとしばらく見回して、結局寅丸が鎮座する壇の影に隠れるように奥の隅に布団を敷き延べた。
一輪が着替えの作務衣を出してやると、「ありがたいな、着させてもらうよ」となんだか気の大きそうなことを言って受け取った。一輪の差し出した作務衣をナズーリンが受け取り、そうしてから、二人は向かい合ったまま互いにどうもしなくなった。ようやく「なに?」という一語を言ったときは二人同時であった。
「まだなにか用?」
ナズーリンは重ねて訊いた。
「ああ、濡れた服はあずかるから、着替えたら寄越して」
「ああ、そうか」
着替えと交換に引き受けたナズーリンの服は一輪の思いの外冷たかった。
雨天で蒸れる台所に立って大釜に目一杯の米を炊きながら、一輪は不意に滑稽を感じて思わずふき出した。
一輪は、ナズーリンの言うことがなんとしても容易に分からなかった。一輪のナズーリンに対してとる態度では、ナズーリンの持つ呼吸とは決して噛み合うことが出来なかった。
ナズーリンが三門の塀を乗り越えて来たとき、一輪はどうしてすぐ傍らに居る自分に門を開けさせなかったのだろうと思った。このことは平生から人に尊大な顔をしているナズーリンだけに妙に感じられた。しかし塀を下りるときのナズーリンは、雲入道の手を貸してやると拒むことも躊躇うこともなくつかまった。一輪はここにある種の矛盾が生じる気がした。
二人の間にはまるで明瞭な会話が往来しなかった。一輪は無造作に投げ込まれる言葉の中から、ナズーリンの暗に引き寄せようとしている要求を探し動かしてみようとした。しかしナズーリンは一輪のその機転をいつでも思いがけないような顔をして受け取った。逆にナズーリンの動かしてくることは、多くは一輪が暗に要求したかのような体になりがちであった。
一輪がこうももどかしく感じている不整合は、しかしナズーリンの方では全く気にも留めていない様子であった。ナズーリンが表情を変えないうちは一輪も頑固であった。二人はいつからか噛み合わない関係のままどちらからとも身動きしなくなっていた。
一輪にとってナズーリンとは、まるで白いとも黒いともつかないねずみ色であった。一輪はむず痒い喉元を擦りながら、ねずみねずみと苦笑いで唱えた。
一輪にとって不思議だったのは、例えば寺に住み込んでいる弟子たちの誰も、作務衣を着て廊下をうろうろするナズーリンに対し、いかにも面白そうにからかっていくことであった。
廊下を歩いてきたムラサが「おや、出家しました?」と面白いような面白くないような冗談を言うと、ナズーリンは「まあね、服が雨に濡れちゃったんだ」と面白いのだか面白くないのだかわからない返事をしていた。二人の会話はそのまま適当な方へ滑って行った。
一輪はどうして自分ではナズーリンとこんな風な当たり前のつきあいが出来ないのだろうと思った。一輪はナズーリンの言うことは何でも気になった。夕餉の席についてもそこに「ねずみのやつ」が居るということを意識しないではいられなかった。しかしナズーリンの方はやはり一輪の気などは知らないで椀に大盛りした米を口に入れているので、一輪はかえってそれという態度をとる気にならなかった。
「ごちそうさまでした」
「おやナズーリン早いですね」
箸を置いたナズーリンに、寅丸が声をかけた。
「御飯多めに炊いたんだから遠慮しないでよ」
一輪が言った。しかしこのときも差し出された親切にナズーリンは意外そうな顔をしただけで、「もう物足りたんだ」と断わった。一輪は「そう」と言ってお櫃を引っ込めたが、内心はやはり物足りていなかった。
夕餉の済んだ後、一輪は講堂の隅に立っているナズーリンの姿を見つけた。講堂には他に夕餉の座席のまま何をするでもなく正座している寅丸と三人きりであった。ナズーリンは閉じた雨戸の方を向いて、雨の音を聴いているらしかった。後ろから一輪が声をかけると、ナズーリンはずいぶん驚いた様子で振り向いた。大きな耳は横に寝ていた。
「大風が吹くかもしれないって?」
「雨もだんだん強くなってきたよ」
「寺の瓦が飛ぶと困るのよね。直すのも面倒だし」
「私の家は弱いから倒れるかもしれない」
「あんな掘っ立て小屋くらい倒れたってまたすぐに建つじゃないの」
「ちがう、家よりも残してきた家具が大事なんだ」
ナズーリンはやや型の大きかったらしい作務衣の袖をせわしなくまくり上げながら、語気を強くして言った。一輪はちがうと言われた意味があまりよく呑み込めなかった。
「大事ならガラクタも一緒に引っ越してくればよかったのに」
「でも、自分を逃がす方がもっと大事なんだ」
無論だろうと一輪は思った。しかし一方で一輪の性格は、それが壁を見つめて雨の音を聴いていなければ堪らないほど未練のあるガラクタなら、例えばいつも得意がっているバネ仕掛けの傘を逃げる際に差して来るくらいの度胸は出せそうなものだと考えた。
「ああ、でも、家も大事さ」
ナズーリンの言うことは一輪には相変わらずねずみ色で、甚だ解り難いものに思われた。言葉が途絶えるとナズーリンは再び雨戸の方を向いてじっと動かなくなってしまった。雨の音が急に一段激しくなった。
「ナズーリン、落ち着きましょう」
この時まで黙然と話を聞いていた寅丸がはじめて口を開いた。
「今夜は心配せずにもうお眠りなさい。小屋のことは明日私が一緒に見に行ってあげます」
ナズーリンはこれに何とも言わず、「はあ」と大きなため息を一つして講堂を出て行った。
夜が更けるにつれ、雨の音は次第に激しさを増すようになった。一輪が布団に入ると天井裏からヒュウヒュウと風の通る音がした。ナズーリンの予感した通り、表は大風が吹きはじめたようだった。
一輪が目を閉じると、瞼の裏にある光景が浮かんだ。それは本堂の薄暗い隅に布団を敷いて寝るナズーリンの姿であった。がらんどうの中心には御本尊の壇がナズーリンを背に庇うように据えられている。雨がしきりに降る音がする。天井裏は風でヒュウヒュウ鳴る。ナズーリンは大きな耳を立ててそれらの音をじっと聴いている。一輪はなんだかこの雨も大風も、ナズーリンを追って寺へ来たような気がした。
翌朝は雨戸を開けると夏の日がまぶしいほど照っていた。暗く地上に蓋をしたようだった分厚い雲は昨晩の大風とともにどこへか過ぎ去って消えていた。空気は雨に洗われたようになって、目の良い一輪は遠い山の木々まで鮮やかに見えた。
早朝の勤行を一通り終えたところで、寅丸が一輪を玄関へ呼んで、ナズーリンの小屋を見に行くのに腕力のある者を連れて行きたいのだと言った。一輪が見ると傍らに立つナズーリンはすでに昨日乾かした服を着替えて靴まで履いていた。連れて行かれたくない理由も一輪には無かったが、ナズーリンの案内について歩きながら、なんだか人足に雇われて働くようだと考えると、ちょっと悔しい気がした。
ナズーリンの住む小屋というのは非常に簡素なもので、家主は仕事の都合に合わせて過去に二度場所を変えて建て直したことがあるという。今それは人里から魔法の森を切り抜けて小川を遡ったところの丘に建っている。無縁塚の見えるその丘は道を選びながらではたどり着くまでに相当な時間を要する場所だったが、ナズーリンの案内は森も林も構わずくぐり抜けて進む強引な急ぎ足であったので、一行は四半刻も歩かない間に向こうに丘を見つけることが出来た。
晴れ空の下で光る芝を踏みながら丘を登っていると、人足代わりでもなんでも連れられて来て良い気分だと一輪は思った。
「のどかですね。昨日の嵐が嘘のようじゃありませんか」
寅丸が言った。一輪もそのように思った。
ところへ、先頭を突き進んでいたナズーリンが急に足を止めてしゃがみこんでしまった。おやと思い一輪がこれを脇から覗き込むと、ナズーリンの足元には何やらくしゃくしゃの紙が落ちているのが見えた。「何なのそれ」と、一輪は聞こうとした。しかしナズーリンはまた急に立ち上がって丘の上へ向かって走り出してしまった。後を追って走ると丘の途中には先ほどと似たような紙が幾枚も落ちているのが一輪の目に入った。丘を登りきってナズーリンの背中に追いつくと、目の前にナズーリンの小さな掘っ立て小屋が、風の力で屋根を飛ばされて無い残酷な形で現れた。奥には増水して勢いの速い川が小屋のすぐそばまで溢れかかっていた。川の向こうには薄暗く桜の繁る無縁塚がひっそりとして見えた。
「これは無縁塚の地図ですね。ナズーリンあなたが描いたのですか」
後から追いついて来た寅丸が紙を拾い眺めながら尋ねた。
「そうなんです」
「頑張ってよく描いていますね」
「大事なんです」
ナズーリンは小屋に背を向けると、風に飛ばされて丘に散らばった地図を一枚一枚屈みこんで拾い始めた。真っ青だった。
半開きになった小屋の戸の隙間からキーキーという軋むような音が聞こえた。壊れた小屋と、屈みこんで一層小さく見えるナズーリンとの対比が、一輪に何か強烈な感じを与えた。一輪は、ナズーリンの人物を、どんなときでも肩をすくめて生意気にしているものだと思っていた。くしゃくしゃになった紙を拾い集めるナズーリンの姿は、この時の一輪には全く思いがけなかった。
一輪は何も言えなくなってしまった。ナズーリンのあの注意深い耳に何と言えば良いか、考えても分からなかった。そうしていると主人の寅丸が地図をもう一枚見つけて何も言わないまま拾いだした。一輪はとっさに寅丸に倣った。
一輪の見たところ地図はどれもインキで描いたもので、何日に無縁塚の近辺で何を見つけたとかいう調査のまめな記録を付けているようだった。走り書きの字が雨で滲んでいよいよ読み辛く、それが余白を惜しむように隅々まで何か書いて溜めこんでいる。周囲を見渡すと飛び散らばった地図は一体どれほどの量になることか、考えると一輪は目が回った。ただ何と言っていいか分からないので、いつまでも地図を拾い続けた。
やがて太陽が中天に昇りつめると、ついに寅丸が「今日はそろそろ帰りましょうか」と言った。昼餉の支度をしなくてはならない一輪も頷いた。丘の中腹で屈みこんでいたナズーリンがようやく顔を上げて「はあ」と大きく溜め息した。一輪は、持ちきれないほどの地図を腕に抱えて揺れる、小さな肩を見た。
「私、私は……」
一輪はやっぱり何か言おうとしたが、それから後を続けることが出来なかった。このねずみ色の友達の名前が、どうしても言えなかった。かわりに抱えていた地図の束を雲山に渡して、自分は半ば倒れかかった掘っ立て小屋へ乗り込んでいった。そうして滅茶苦茶に引っくり返っている家具の中から一人使いのテーブルを引っ張り出すと、目についたガラクタを片端から取ってその上に積み上げ、一息に頭に乗っけて出てきた。
一輪が「さあ帰りましょう」と猛烈な勢いで言った。その顔を見たナズーリンはやはり意外そうな顔で、ちょっと苦笑いを浮かべていた。
一輪はふと、むかし自分がナズーリンの自慢にしていた扇をあやまって壊してしまい、随分すまない気持ちがしていたことを思い出した。
このごろは日もだいぶん長くなる季節なのにと思いながら頭巾を脱いで顔を仰向けると、分厚く曇った空から水が一滴落ちてきて一輪の眉間を打った。降られたなと気が付くと次の一滴が今度は鼻の頭に降った。降られた一輪は慌てて石台へ上り夕方の鐘を撞いて掃除のお勤めをお仕舞にした。
「雨もだいぶん降る季節になったわね」
雲山に話しながら一輪は服の袖で顔をぬぐった。撞いた鐘の響きがまだ消えない間に、命蓮寺の境内はどこも小雨に打たれてさらさらと細かな音を鳴らしていた。
一輪がしばらくそうしたまま石台に座って境内を見回していると、先ほど閂をかけた門を、何かが外側からガタガタガタと三度押した。はじめは聞き違えかとも思われたが、待ってみるとやはりガタガタガタとまた三度押す音がする。
「どちらさまですかー」
一輪が声をかけると、ガタガタガタは止んだらしかった。しかし門の向こうではそれきり何も返事がない。もう一声かけてやろうかと一輪が立ち上がると、三門から右に伸びる塀をよじのぼって人の手が現れた。見ていると手はしばらく苦労して塀を乗り越え、丁度石台の上で立つ一輪の目線に、髪を濡らしたナズーリンの顔がようやく出てきた。
「ああ、ひさしぶりじゃない」
そう挨拶した一輪の合図で雲山が塀の下へ移動すると、塀の上のナズーリンは「どうも、すまないね」と言って雲入道の頭に安全に跳び下りた。ナズーリンは雲山の手を借りて着地すると、改めて一輪の方を向き「うん、ひさしぶりだ」と遅い返事を口にした。聞いた一輪にはこれがひさしぶりに会う自分への挨拶ではない、単なる言葉の応答としか思われなかった。
「傘持って来なかったのね」
小雨の降る中でナズーリンの服は袖裾が黒く濡れて見える。しかし当人ナズーリンはこれに表情も変えず「今日泊まりたい。主人に会って頼む」と二つのことを簡潔に言った。
「寅丸なら本堂に居るわよ。ついでだからそこまで一緒に行きましょう。雲山が雨避けになってくれる」
一輪が言うとナズーリンはこくこく頷いた。一輪はこの首肯が、寅丸が本堂に居ることを承知したのだか、あるいはそこまで自分と一緒に行くことに賛成したのだかちょっと考えた。ちょっと考えてみて、この場合どちらとも迷って考える必要のないことだと気が付くと、今度はなんだか喉元がむず痒いような心持がした。
石台を跳び下りた一輪がナズーリンと並び雲入道の傘に入ると、ナズーリンは小さくくしゃみをして「どうも、すまないね」とまた言った。
一体、このナズーリンという名前を正しく口に出したのが、今からもうどのくらい昔のことであったか、一輪は思い出すことができなかった。無縁塚近くに小屋を建てて一人住む彼女の名前が命蓮寺の話題に上るとき、一輪は決まって「あのねずみが」とか「あいつが」とかいうぞんざいな呼び方をして済ませていた。たまに本人と同席して話しても、呼びかける機会はかえって少なかった。一輪はこの名前を忘れたわけではなかった。むしろナズーリンという自分に似たような名前を、一輪は信仰に関係する人としていつでも胸に留めていた。また、口に出さず筆によって書く場合では、「ナズーリン」の五字は容易に示すことができた。ただ名前を呼ぶことに不思議な躊躇を感じていた。
参道の階段を上って寅丸のいる本堂へナズーリンを通すときも、一輪は襖の前で「お客さんですよ」というわざとらしくとぼけたような紹介をしなくてはならなかった。ナズーリンがこれに「私です、ナズーリンです」と後から付け加えるように教えたので、一輪は自分のとぼけ方がいっそうつまらなく思われた。
「来るのはちょっとひさしぶりじゃないですか」
「日が長くなりました。今日はもう暗いですが」
「近頃はもうだいぶん暑いじゃないですか」
「今日は涼しいですが」
「まあ、そうでしょうね。まだまだ降りそうです」
小雨をくぐって来たナズーリンのため一輪が講堂の押入から着替えになりそうな作務衣をとって戻ると、本堂にはすでにナズーリンの姿は無く、寅丸が一人で居てナズーリンに淹れてやったらしいお茶を自分で飲んでいた。
「あら、もう帰っちゃったの」
一輪はまたとぼけたようなことを言った。
「ナズーリンは今夜はこの本堂で寝ることになりました。いま庫裏の空き部屋から布団をとって来ると言って出ていったところです」
「珍しいのね。寺に用があったの」
「いえ、今夜あたり大風が吹きそうで恐ろしいからって言うんですよ」
「大風」
一輪は覚えず繰り返して言った。
「ねずみという動物はこういう危険にとても敏感ですからね。荷物も作らずに逃れて来たんですよ」
一輪はナズーリンの非常に用心深いことに恐れ入ってしまった。いつも雲入道と居る一輪は風などを恐ろしいと思ったことはかつてなかった。
そうしているうちに一輪の背後で襖が開き、薄い夏布団を引きずったナズーリンが帰ってきた。ナズーリンは広い本堂をぐるぐるとしばらく見回して、結局寅丸が鎮座する壇の影に隠れるように奥の隅に布団を敷き延べた。
一輪が着替えの作務衣を出してやると、「ありがたいな、着させてもらうよ」となんだか気の大きそうなことを言って受け取った。一輪の差し出した作務衣をナズーリンが受け取り、そうしてから、二人は向かい合ったまま互いにどうもしなくなった。ようやく「なに?」という一語を言ったときは二人同時であった。
「まだなにか用?」
ナズーリンは重ねて訊いた。
「ああ、濡れた服はあずかるから、着替えたら寄越して」
「ああ、そうか」
着替えと交換に引き受けたナズーリンの服は一輪の思いの外冷たかった。
雨天で蒸れる台所に立って大釜に目一杯の米を炊きながら、一輪は不意に滑稽を感じて思わずふき出した。
一輪は、ナズーリンの言うことがなんとしても容易に分からなかった。一輪のナズーリンに対してとる態度では、ナズーリンの持つ呼吸とは決して噛み合うことが出来なかった。
ナズーリンが三門の塀を乗り越えて来たとき、一輪はどうしてすぐ傍らに居る自分に門を開けさせなかったのだろうと思った。このことは平生から人に尊大な顔をしているナズーリンだけに妙に感じられた。しかし塀を下りるときのナズーリンは、雲入道の手を貸してやると拒むことも躊躇うこともなくつかまった。一輪はここにある種の矛盾が生じる気がした。
二人の間にはまるで明瞭な会話が往来しなかった。一輪は無造作に投げ込まれる言葉の中から、ナズーリンの暗に引き寄せようとしている要求を探し動かしてみようとした。しかしナズーリンは一輪のその機転をいつでも思いがけないような顔をして受け取った。逆にナズーリンの動かしてくることは、多くは一輪が暗に要求したかのような体になりがちであった。
一輪がこうももどかしく感じている不整合は、しかしナズーリンの方では全く気にも留めていない様子であった。ナズーリンが表情を変えないうちは一輪も頑固であった。二人はいつからか噛み合わない関係のままどちらからとも身動きしなくなっていた。
一輪にとってナズーリンとは、まるで白いとも黒いともつかないねずみ色であった。一輪はむず痒い喉元を擦りながら、ねずみねずみと苦笑いで唱えた。
一輪にとって不思議だったのは、例えば寺に住み込んでいる弟子たちの誰も、作務衣を着て廊下をうろうろするナズーリンに対し、いかにも面白そうにからかっていくことであった。
廊下を歩いてきたムラサが「おや、出家しました?」と面白いような面白くないような冗談を言うと、ナズーリンは「まあね、服が雨に濡れちゃったんだ」と面白いのだか面白くないのだかわからない返事をしていた。二人の会話はそのまま適当な方へ滑って行った。
一輪はどうして自分ではナズーリンとこんな風な当たり前のつきあいが出来ないのだろうと思った。一輪はナズーリンの言うことは何でも気になった。夕餉の席についてもそこに「ねずみのやつ」が居るということを意識しないではいられなかった。しかしナズーリンの方はやはり一輪の気などは知らないで椀に大盛りした米を口に入れているので、一輪はかえってそれという態度をとる気にならなかった。
「ごちそうさまでした」
「おやナズーリン早いですね」
箸を置いたナズーリンに、寅丸が声をかけた。
「御飯多めに炊いたんだから遠慮しないでよ」
一輪が言った。しかしこのときも差し出された親切にナズーリンは意外そうな顔をしただけで、「もう物足りたんだ」と断わった。一輪は「そう」と言ってお櫃を引っ込めたが、内心はやはり物足りていなかった。
夕餉の済んだ後、一輪は講堂の隅に立っているナズーリンの姿を見つけた。講堂には他に夕餉の座席のまま何をするでもなく正座している寅丸と三人きりであった。ナズーリンは閉じた雨戸の方を向いて、雨の音を聴いているらしかった。後ろから一輪が声をかけると、ナズーリンはずいぶん驚いた様子で振り向いた。大きな耳は横に寝ていた。
「大風が吹くかもしれないって?」
「雨もだんだん強くなってきたよ」
「寺の瓦が飛ぶと困るのよね。直すのも面倒だし」
「私の家は弱いから倒れるかもしれない」
「あんな掘っ立て小屋くらい倒れたってまたすぐに建つじゃないの」
「ちがう、家よりも残してきた家具が大事なんだ」
ナズーリンはやや型の大きかったらしい作務衣の袖をせわしなくまくり上げながら、語気を強くして言った。一輪はちがうと言われた意味があまりよく呑み込めなかった。
「大事ならガラクタも一緒に引っ越してくればよかったのに」
「でも、自分を逃がす方がもっと大事なんだ」
無論だろうと一輪は思った。しかし一方で一輪の性格は、それが壁を見つめて雨の音を聴いていなければ堪らないほど未練のあるガラクタなら、例えばいつも得意がっているバネ仕掛けの傘を逃げる際に差して来るくらいの度胸は出せそうなものだと考えた。
「ああ、でも、家も大事さ」
ナズーリンの言うことは一輪には相変わらずねずみ色で、甚だ解り難いものに思われた。言葉が途絶えるとナズーリンは再び雨戸の方を向いてじっと動かなくなってしまった。雨の音が急に一段激しくなった。
「ナズーリン、落ち着きましょう」
この時まで黙然と話を聞いていた寅丸がはじめて口を開いた。
「今夜は心配せずにもうお眠りなさい。小屋のことは明日私が一緒に見に行ってあげます」
ナズーリンはこれに何とも言わず、「はあ」と大きなため息を一つして講堂を出て行った。
夜が更けるにつれ、雨の音は次第に激しさを増すようになった。一輪が布団に入ると天井裏からヒュウヒュウと風の通る音がした。ナズーリンの予感した通り、表は大風が吹きはじめたようだった。
一輪が目を閉じると、瞼の裏にある光景が浮かんだ。それは本堂の薄暗い隅に布団を敷いて寝るナズーリンの姿であった。がらんどうの中心には御本尊の壇がナズーリンを背に庇うように据えられている。雨がしきりに降る音がする。天井裏は風でヒュウヒュウ鳴る。ナズーリンは大きな耳を立ててそれらの音をじっと聴いている。一輪はなんだかこの雨も大風も、ナズーリンを追って寺へ来たような気がした。
翌朝は雨戸を開けると夏の日がまぶしいほど照っていた。暗く地上に蓋をしたようだった分厚い雲は昨晩の大風とともにどこへか過ぎ去って消えていた。空気は雨に洗われたようになって、目の良い一輪は遠い山の木々まで鮮やかに見えた。
早朝の勤行を一通り終えたところで、寅丸が一輪を玄関へ呼んで、ナズーリンの小屋を見に行くのに腕力のある者を連れて行きたいのだと言った。一輪が見ると傍らに立つナズーリンはすでに昨日乾かした服を着替えて靴まで履いていた。連れて行かれたくない理由も一輪には無かったが、ナズーリンの案内について歩きながら、なんだか人足に雇われて働くようだと考えると、ちょっと悔しい気がした。
ナズーリンの住む小屋というのは非常に簡素なもので、家主は仕事の都合に合わせて過去に二度場所を変えて建て直したことがあるという。今それは人里から魔法の森を切り抜けて小川を遡ったところの丘に建っている。無縁塚の見えるその丘は道を選びながらではたどり着くまでに相当な時間を要する場所だったが、ナズーリンの案内は森も林も構わずくぐり抜けて進む強引な急ぎ足であったので、一行は四半刻も歩かない間に向こうに丘を見つけることが出来た。
晴れ空の下で光る芝を踏みながら丘を登っていると、人足代わりでもなんでも連れられて来て良い気分だと一輪は思った。
「のどかですね。昨日の嵐が嘘のようじゃありませんか」
寅丸が言った。一輪もそのように思った。
ところへ、先頭を突き進んでいたナズーリンが急に足を止めてしゃがみこんでしまった。おやと思い一輪がこれを脇から覗き込むと、ナズーリンの足元には何やらくしゃくしゃの紙が落ちているのが見えた。「何なのそれ」と、一輪は聞こうとした。しかしナズーリンはまた急に立ち上がって丘の上へ向かって走り出してしまった。後を追って走ると丘の途中には先ほどと似たような紙が幾枚も落ちているのが一輪の目に入った。丘を登りきってナズーリンの背中に追いつくと、目の前にナズーリンの小さな掘っ立て小屋が、風の力で屋根を飛ばされて無い残酷な形で現れた。奥には増水して勢いの速い川が小屋のすぐそばまで溢れかかっていた。川の向こうには薄暗く桜の繁る無縁塚がひっそりとして見えた。
「これは無縁塚の地図ですね。ナズーリンあなたが描いたのですか」
後から追いついて来た寅丸が紙を拾い眺めながら尋ねた。
「そうなんです」
「頑張ってよく描いていますね」
「大事なんです」
ナズーリンは小屋に背を向けると、風に飛ばされて丘に散らばった地図を一枚一枚屈みこんで拾い始めた。真っ青だった。
半開きになった小屋の戸の隙間からキーキーという軋むような音が聞こえた。壊れた小屋と、屈みこんで一層小さく見えるナズーリンとの対比が、一輪に何か強烈な感じを与えた。一輪は、ナズーリンの人物を、どんなときでも肩をすくめて生意気にしているものだと思っていた。くしゃくしゃになった紙を拾い集めるナズーリンの姿は、この時の一輪には全く思いがけなかった。
一輪は何も言えなくなってしまった。ナズーリンのあの注意深い耳に何と言えば良いか、考えても分からなかった。そうしていると主人の寅丸が地図をもう一枚見つけて何も言わないまま拾いだした。一輪はとっさに寅丸に倣った。
一輪の見たところ地図はどれもインキで描いたもので、何日に無縁塚の近辺で何を見つけたとかいう調査のまめな記録を付けているようだった。走り書きの字が雨で滲んでいよいよ読み辛く、それが余白を惜しむように隅々まで何か書いて溜めこんでいる。周囲を見渡すと飛び散らばった地図は一体どれほどの量になることか、考えると一輪は目が回った。ただ何と言っていいか分からないので、いつまでも地図を拾い続けた。
やがて太陽が中天に昇りつめると、ついに寅丸が「今日はそろそろ帰りましょうか」と言った。昼餉の支度をしなくてはならない一輪も頷いた。丘の中腹で屈みこんでいたナズーリンがようやく顔を上げて「はあ」と大きく溜め息した。一輪は、持ちきれないほどの地図を腕に抱えて揺れる、小さな肩を見た。
「私、私は……」
一輪はやっぱり何か言おうとしたが、それから後を続けることが出来なかった。このねずみ色の友達の名前が、どうしても言えなかった。かわりに抱えていた地図の束を雲山に渡して、自分は半ば倒れかかった掘っ立て小屋へ乗り込んでいった。そうして滅茶苦茶に引っくり返っている家具の中から一人使いのテーブルを引っ張り出すと、目についたガラクタを片端から取ってその上に積み上げ、一息に頭に乗っけて出てきた。
一輪が「さあ帰りましょう」と猛烈な勢いで言った。その顔を見たナズーリンはやはり意外そうな顔で、ちょっと苦笑いを浮かべていた。
一輪はふと、むかし自分がナズーリンの自慢にしていた扇をあやまって壊してしまい、随分すまない気持ちがしていたことを思い出した。
たまには星ちゃんも頼りになるんですね…と言うかナズも星も二人とも特に何も喋ってる訳でも無いのに何か信頼染みた絆が感じられるのが凄い
一輪・ムラサ・ぬえ組とは別種のコミュニケーションと言うか空気を感じられる
また、大風の日の情景が目に浮かぶようでした。
良い睡眠が約束された。
・・それより、ナズーリンと一輪で「ナズー輪」が頭の中に浮かんだ私は駄目人間なのだろうか・・・
この時の気持ちを述べよ、みたいな。
それくらい読み耽ってしまいました。
いつもありがとう。
そんな二人をやさしくつないでるのが星なのかも。
でもうまいふうにできた関係性なんでしょうね
相手の素顔を知ることで生まれる親近感とも言えない感情
こういう説明しにくいものを上手に表現できてるのは、いやはやお見事です
ナズーリンと一輪だけでなく、星や村紗などそれぞれの登場人物たちの距離感も素敵でした
雨の湿った空気が文章から漂ってきてとても素敵な雰囲気です
ここだけ言い回しの「無い」に引っ掛かりを覚えたので