水晶占いなんて大して得意な方でもないのだが、やはり結果が結果なので私はそれなりに動揺した。
目を擦り、一つ浅い溜息をついて、椅子に深く座り直す。
大方、条件の観測を間違えたか、入力を間違えたかのどちらかだとは思うのだが、いずれにせよ一息入れようと思って顔を上げると、レミィがテーブルの近くに立っているのを見つけた。
私はびっくりして息が止まりそうになった。
彼女はかくれんぼで最後に見つかった子供のような顔をしていた。
「やっと気づいた」と彼女が言った。
私は黙って頷いた。
レミィは溜息をついて私の向かいの椅子を引いて座った。
彼女が腰を下ろすときに、背中から生えている羽根が微かに揺れるのが見えた。
「休憩するんでしょう?」と彼女は言った。
私がもう一度頷くと、レミィは左手を心臓の高さに上げて指を鳴らした。
次の瞬間には私たちの目の前で紅茶が湯気を立てていた。
「しばらくそれを脇に退けておいてもらえると嬉しいんだけど」とレミィが言ったので、私は水晶と占い道具をまとめてテーブルの脇に寄せた。
再び椅子に座ったときには、私たちの間にサンドウィッチの載った大きな皿が現れていた。
私は感心してサンドウィッチに手を伸ばした。
パンは良い香りがして、具のローストビーフは適度な歯ごたえとこくがあった。
レタスが新鮮で、マスタードがひりりと効いていた。
私は魔法使いだとか妖怪だとかいう以前の、何か生き物としての根源的な食欲に突き動かされてそれを食べた。
レミィも満足げな表情をしていた。
「トランプ遊びでもする?」と私は言ってみた。
レミィは口の端を拭いながらくすくすと笑った。
しかし次の瞬間、彼女は顔をしかめて「やば」と言い、舌を小さく出した。
彼女は私の肩越しに後ろを見ていた。
その視線を追って振り返ると、そこには私の使い魔が怖い顔をして立っていた。
「ここは図書館ですよ。パン屑散らして一体どういうおつもりですか。パチュリー様まで一緒になって」と彼女は言った。
私はゆっくりと二度頷いた。
「何か仰ることがあるでしょう」と彼女は私を睨んで言った。
「あなたも一緒に食べる?」と私は訊いてみた。
§
もう一度レミィが指を鳴らすとサンドイッチの皿は消えた。
少々散らばっていたパン屑も消えた。
いつの間にかカップが一つ増えて、そのどれもに並々と熱い紅茶が満たされていた。
使い魔はぶつぶつ言いながらも空いていた椅子に腰を降ろし、結局はそれを飲んだ。
本の整理をするだとかなんだとか、もごもごと歯切れ悪く呟いて、彼女は奥に引っ込んでしまった。
レミィはソファで漫画を読んでいる。
私は座ったままで彼女の横顔を見ていた。
笑うたびに八重歯が小さく光った。
それを見ると何か名状しがたいものが心の中で揺れるのを感じた。
私は何か話そうとした。
口を中途半端に開いて、息を吸って、目を瞑って、結局やめてしまった。
何を言っても考えていることを正しく伝えられないと思った。
そもそも、独り善がりな一時の満足を別とすると、他人に己の考えを正しく伝えることには一体どんな意義があるだろう?
目を開けるとレミィが目の前にいて、私は思わずとっさに身を竦めてしまった。
慌てて取り繕おうと思ったが、何をして良いか分からなかった。
レミィは不機嫌な顔になって一歩引いた。
「なんなのよ、一体」と彼女が言った。
「ごめん」と私は言った。
「謝られたって虚しくなるだけでしょう、もう」と彼女は言ってため息をついた。
彼女は机の右側を回って向かいの椅子を引いて座った。
机の端にさっき彼女が読んでいた漫画が半開きで無造作に置かれていた。
私は一応それに目を通したことがあって、何も面白いと思わなかったが、レミィは随分と気に入って読んでいる。
まだ熱を持っている紅茶を口に含むと少しだけ気分が落ち着いた。
足を伸ばしてゆっくりと息を吸う。
机の端にまだ載っていた水晶玉をソファに向かって飛ばした。
乾いた音を立ててそれは生地の上に着地した。
レミィは私の行動をじっと見ていた。
「嫌なものが見えたのね?」と彼女は訊いた。
私は彼女から視線を逸らして、ソファの上に転がっている水晶玉を見遣りながら曖昧に唸った。
「違うの?」と彼女は訊いた。
「……見えたけど、嫌なのかどうか分からない」とようやく私は言った。
「なにそれ」と彼女は言った。
私は微笑んで肩を竦めた。
彼女は立ち上がって机を回り、座っている私の横にやってきた。
表情は陰になって窺えなかった。
私は椅子を動かして彼女に向き直った。
彼女は両腕を私の首の後ろに回して頭を抱いた。
今度は私は動かなかった。
彼女の肩越しに図書館が見えた。
それはいつもとどこか違う風景に見えた。
微かに石鹸の匂いがした。
彼女は身体を引いて、両手を私の両肩に載せて私の顔を覗き込んだ。
私も見慣れた彼女の瞳の色や、眉の曲線を黙って眺めていた。
私の肩に載っている彼女の両腕が、私の呼吸に合わせて上下するのを見ていた。
ややあって彼女は両手を離して微笑み、「また明日ね」と言って踵を返した。
図書館の入口の大きな木のドアが音を立てて閉まった後でどこからか使い魔が現れて、どうして彼女を引き留めなかったんだと私を叱った。
私はそのことを考えつきもしなかったのだが、彼女にそう言われてみると、みるみるうちにそれが正しい行動であったように思えてきた。
そして、そんなことにさえ思いが至らない自分がこの世で最悪の存在であるような気がした。
机の上に残されたレミィのカップからはまだ微かに湯気が立ち上っていた。
使い魔がそれを片付けようとしたとき、私はとっさに制しようと立ち上がりかけた。
しかし、何と言って彼女を止めれば良いのだろう?
どんな言葉を弄しても見透かされて笑われる気がして、結局は座り直してしまった。
彼女はレミィのカップを片付けて、紅茶を淹れ直し、私の空っぽのカップに注いだ。
ソファの上の水晶玉が目に入ったが、もうとても続きをする気にはなれなかった。
机の上に残っていた計算用紙を片付けようとして触れると、それは突如として息を吹き込まれたように動き出した。
身を捩らせて私の指をすり抜け、かさかさと音を立てて、宙でコウモリの形になると、羽ばたいて使い魔の鼻の前を掠めて通り過ぎ、窓から元気良く飛び出していった。
私は慌てて使い魔の顔を盗み見た。
彼女は呆れたような面白がるような表情を浮かべていた。
「難儀な方ですねえ」と彼女は言った。
言葉もなかった。
§
数刻が経った。
本を読んでいる間に紅茶が足りなくなって、使い魔が置いていったポットから継ぎ足そうとしたが、底の方に残っていた細かい茶葉を含んだ濃いものが少量出ただけで何も言わなくなってしまった。
ポットを机の上に戻す時に思いのほか大きな音が響いた。
使い魔は近くに見当たらなかった。
呼ぶかどうか迷ったが、妙な自尊心が勝って、私は唾を飲んで黙って座っていた。
静けさが煩くて耳に染みた。
図書館が砂漠のように思えた。
さっきのことにしても、もうちょっと何か言うべき言葉があっただろうと思った。
今目の前にレミィがいたら、もっと彼女に自分のことを、今考えていることを説明できたはずなのに。
彼女はそれを笑ったりせずに、社交辞令なんかではない本物の関心をもってきちんと聞いてくれるに違いないのだ。
それはどんなに得難いことか、私は頭では十分に理解している。
そうでなければ幾ら誘われたってこんな辺鄙な郷にまで着いて来やしない。
でも大事な言葉は全部が終わった後にしか浮かんでこない。
相手が目の前にいるときには、それらは全部身体の奥に引っ込んでしまう。
煙に巻くような、薄く扁平で何の匂いもしないくだらない言葉が口を突いて出てくるばかりだ。
目を閉じて、十年前のことと三十年前のことと五十年前のことを同じように思い出せるか試してみた。
その時に嗅いだ匂いや聴いた音を今同じように嗅げるか考えてみた。
気持ちを落ち着けるまじないを試してみた。
それから、どういう道を辿ったにせよ、結局今の私はこういう自分であったはずだ、と考えようとした。
私は環境によってではなく、私の本質によってこういう自分になったのだと、たとえ周囲によって幾らか影響を受けてきたとしても、それらは私が自ら選び取ったものなのだと、そう考えようとした。
どれも大して上手くは行かなかった。
私はため息をついた。
もう潮時かもしれない。
いや……。
眠りたかった。
意識が絶えずあるということが問題を必要以上にややこしくしていると思った。
睡眠導入の魔法だって、夢見の魔法だってある。
望みさえすれば簡単なことだ。
小匙一杯くらいの魔力で。
久しぶりに少し眠ってみれば良い。
ようやく踏ん切りがついて、椅子に深く腰掛け直してさあ眠ろうとしたところで正面の扉が音を立てて開いた。
レミィがにこにこと笑いながら歩いてきた。
「おはよう」と彼女は言った。
「……おはよう」と私は言った。
彼女は私の声を聞いて顔を見て少し慌てた顔になった。
私はそれを見てもっと慌てた。
「あれ……なんか今都合悪かった?」と彼女は急いで言った。
「そんなことないわ」と私はすぐさま言った。
「ふうん」と彼女は言った。「なんだかさっき、素敵なお手紙をもらったと思ったんだけれど」
彼女は後ろで組んでいた手を解いて私の目の前に持ってきた。
紙のコウモリが握られている。
それはゆっくりと羽を前後させていた。
「あなたでしょう?」
「そうみたい」
「ね。そういうわけだから」と彼女は言った。「もしかしたら寂しがってるのかなって思って来たんだけど。なんだか拍子抜けしてしまいましたことよ」
「あ、はい。いや、いえいえ」
「まあ、でも、私としてもね、このまま帰るのは癪だから」
「ええ」
「どこかに遊びに行きましょうか」
§
人里の酒場なんて初めてだった。
私があんまりきょろきょろと周りを見渡すものでレミィはくすくすと笑った。
「何か面白いものがある?」
「色々」
「たとえば?」
「あんなに大きな声を出さなくても聞こえる」と私は店員をそれとなく示して言った。
「ああ、そうかも」とレミィは笑いながら言った。
周りの客が煩いことも言おうと思ったが、彼女の面子を損なわずに伝える言葉を思いつけなくて諦めてしまった。
鶏肉と野菜を焼いたものが出てきた。
レミィが皿を運んできた店員にフォークを持ってくるように言いつけた。
店員が持ってきたそれを私に渡して、彼女は箸を器用に使って鶏をつついた。
「美味しい」と私は言った。
「それは何より」
「咲夜の半分くらい」
「そりゃあそうだ」とレミィは真面目な顔で頷いた。
チーズを揚げたものとサラダが出てきた。
これもなかなか悪くなかった。
それと前後してようやく酒が出てきた。
日本酒だ。
レミィは私と彼女の盃に手早く注いで目で合図をした。
私は頷いて盃を手に取って軽く彼女の方に上げた。
彼女は一息に飲み干して、首を捻りながら顔を歪めた。
「うーん……。やっぱり水のような清酒、というわけにはいかないね。単に水っぽい」
「どうして私をここに連れてきたの?」
「嫌だった?」
「質問」
「うーん、良いもの食べさせて良いお酒飲ませてっていうのは今まで散々やったもの」
「……?」
「でもなんだか全然」
「なに」
「喋ってくれないし」
「なにを」
「だからあ。それを私が知りたいのよ」と言ってレミィはため息をついた。
彼女は俯いて顔を両手に埋めた。
そのままでゆっくりと息を吸った。
それに合わせて羽がゆっくりと上がった。
彼女は顔を上げてじっと私を見た。
「ねえ、あなたが何を考えているのかが知りたいな。様子がおかしいし、それに私が関係していることだって察しがついているよ。でも私には何も教えてくれない。……私は信用に足らないかな?」
「いや……」
「誰だって隠し事の一つや二つはある」とレミィは言った。「でも、誰かと一緒にいたいならね、あなたはもっと正直にならないといけない。特に嘘の下手な人はさ……」と言ってレミィは悪戯っぽく笑った。「私はあなたと上っ面だけの友達でいるつもりはないんだ。もしあんたがそうじゃないって言うなら、あんたを柳の木の下にでも埋めてやる」
「うん」
「いや、最後のは冗談だけど」
「知ってる」
「そうだろうね」
「もうちょっと叱って」
「えーと」とレミィは苦笑いをした。「だからさ。本当に人と接しようと思ったら、心の中の柔らかい部分を幾らか相手に差し出さなきゃいけないと私は思う。それがどんなものであれね。少なくとも私はあなたにそうしているつもりだよ」
「うん」と私は言った。
「さあ……あなたに言うべきことは全部言ったよ」
レミィはそう言って両手を広げた。
長い爪だ。
もう少し切った方が良いのではないかと時々思う。
たとえばこういうことも正直に言うべきなのだろうか?
彼女の求める正直さと、私の意識の表面に浮かび上がる思念との間にある差異を私は測りかねている。
彼女に気に入られるような体の良い自分を、私の正直さとして彼女に提出する、そういったことは甚だ不誠実だと私は分かっている。
ただ私は彼女に失望されたくないだけなのだ。
でも同時に、相手に失望されたくないと思っている、そのこと自体を相手に対しての充分な敬意として受け取ってもらいたいとも思っている。
これは我儘だろうか?
我儘なのだろう。
そうでなければ彼女はここまでしない。
しつこくうじうじと悩んでいる私を彼女はじっと見た。
私は頷いた。
なるほど。
呑まずに喋るか呑んで喋るか選べということだ。
私はゆっくりと盃を口に近づけた。
周りの人間の話し声が、怒鳴り声が、嬌声が、角が丸くなって潮騒のように混じり合った。
海を見たのは三十年前のことだ。
それを私は昨日のことのように思い出した。
五十年前のことのように、十年前のことのように思い出した。
喧騒はこの為だったのか、と気づいた。
なるほど、実際にやってみないと分からないことは確かにある。
色々なことを知りたいと思った。
できればそれを彼女に伝えたいと思った。
それでようやく、私はレミィに向かって重い口を開いた。
§
目が覚めたら私は図書館にいた。
お酒で記憶を失うなんて初めてのことだ。
私はいつもの椅子に座っていて、レミィは向かいの椅子で漫画を読んでいる。
彼女は私が起きたのに気付き、私の方を向いて漫画を机の上に置いた。
ずいぶん機嫌が良さそうで私は安堵した。
「おはよう」と彼女は言った。
「おはよう」と私は言った。
体を起こした時、首の辺りに違和感を覚えた。
思い当たることがあって、私は小さな鏡を取り出した。
顔のやや右前に持ってきて当該部分を映す。
小さな傷が二つ。
「……吸ったの?」と私は訊いた。
「えっ何を?」とレミィは言った。
答えるのが早すぎるし、目が泳いでいる。
私は確信した。
それでじっと彼女を見た。
「吸ったの?」と私はもう一度ゆっくり発音した。
「はい、吸いました。すみません」と彼女は言った。羽根がしゅんと垂れた。
私はため息をついた。
「ごめん」と彼女は言った。
「良いよ、別に」と私は言った。思わずちょっとだけ笑ってしまった。
驚いている彼女を尻目に私は使い魔を呼んでコーヒーを淹れさせた。
彼女はレミィの顔と私の顔を順番に見てにこにこしていた。
何か言いたげだったので、黙って下がって、と私は素早く言った。
「レミィ」と私は呼んだ。
「はい」と彼女は緊張した表情で答えた。
「魔法を教えてあげようか」と私は言った。
一瞬きょとんとしてから、彼女は笑顔で頷いた。
§
彼女に血を吸われて、私は吸血鬼になる。
水晶占いは今のところ半分だけ当たっている。
私が吸血鬼になってしまうのかは今の私には分からない。
レミィ次第かもしれないし、私次第かもしれない。
あの占いの結果はずばりその事象そのものを予見していたものだったのか、単なる比喩としてのものだったのか、今となっては知る由もない。
でも、正直なところ、私はもうどちらでも良いと思っているのだ。
どちらでも、大した違いはないと。
目を擦り、一つ浅い溜息をついて、椅子に深く座り直す。
大方、条件の観測を間違えたか、入力を間違えたかのどちらかだとは思うのだが、いずれにせよ一息入れようと思って顔を上げると、レミィがテーブルの近くに立っているのを見つけた。
私はびっくりして息が止まりそうになった。
彼女はかくれんぼで最後に見つかった子供のような顔をしていた。
「やっと気づいた」と彼女が言った。
私は黙って頷いた。
レミィは溜息をついて私の向かいの椅子を引いて座った。
彼女が腰を下ろすときに、背中から生えている羽根が微かに揺れるのが見えた。
「休憩するんでしょう?」と彼女は言った。
私がもう一度頷くと、レミィは左手を心臓の高さに上げて指を鳴らした。
次の瞬間には私たちの目の前で紅茶が湯気を立てていた。
「しばらくそれを脇に退けておいてもらえると嬉しいんだけど」とレミィが言ったので、私は水晶と占い道具をまとめてテーブルの脇に寄せた。
再び椅子に座ったときには、私たちの間にサンドウィッチの載った大きな皿が現れていた。
私は感心してサンドウィッチに手を伸ばした。
パンは良い香りがして、具のローストビーフは適度な歯ごたえとこくがあった。
レタスが新鮮で、マスタードがひりりと効いていた。
私は魔法使いだとか妖怪だとかいう以前の、何か生き物としての根源的な食欲に突き動かされてそれを食べた。
レミィも満足げな表情をしていた。
「トランプ遊びでもする?」と私は言ってみた。
レミィは口の端を拭いながらくすくすと笑った。
しかし次の瞬間、彼女は顔をしかめて「やば」と言い、舌を小さく出した。
彼女は私の肩越しに後ろを見ていた。
その視線を追って振り返ると、そこには私の使い魔が怖い顔をして立っていた。
「ここは図書館ですよ。パン屑散らして一体どういうおつもりですか。パチュリー様まで一緒になって」と彼女は言った。
私はゆっくりと二度頷いた。
「何か仰ることがあるでしょう」と彼女は私を睨んで言った。
「あなたも一緒に食べる?」と私は訊いてみた。
§
もう一度レミィが指を鳴らすとサンドイッチの皿は消えた。
少々散らばっていたパン屑も消えた。
いつの間にかカップが一つ増えて、そのどれもに並々と熱い紅茶が満たされていた。
使い魔はぶつぶつ言いながらも空いていた椅子に腰を降ろし、結局はそれを飲んだ。
本の整理をするだとかなんだとか、もごもごと歯切れ悪く呟いて、彼女は奥に引っ込んでしまった。
レミィはソファで漫画を読んでいる。
私は座ったままで彼女の横顔を見ていた。
笑うたびに八重歯が小さく光った。
それを見ると何か名状しがたいものが心の中で揺れるのを感じた。
私は何か話そうとした。
口を中途半端に開いて、息を吸って、目を瞑って、結局やめてしまった。
何を言っても考えていることを正しく伝えられないと思った。
そもそも、独り善がりな一時の満足を別とすると、他人に己の考えを正しく伝えることには一体どんな意義があるだろう?
目を開けるとレミィが目の前にいて、私は思わずとっさに身を竦めてしまった。
慌てて取り繕おうと思ったが、何をして良いか分からなかった。
レミィは不機嫌な顔になって一歩引いた。
「なんなのよ、一体」と彼女が言った。
「ごめん」と私は言った。
「謝られたって虚しくなるだけでしょう、もう」と彼女は言ってため息をついた。
彼女は机の右側を回って向かいの椅子を引いて座った。
机の端にさっき彼女が読んでいた漫画が半開きで無造作に置かれていた。
私は一応それに目を通したことがあって、何も面白いと思わなかったが、レミィは随分と気に入って読んでいる。
まだ熱を持っている紅茶を口に含むと少しだけ気分が落ち着いた。
足を伸ばしてゆっくりと息を吸う。
机の端にまだ載っていた水晶玉をソファに向かって飛ばした。
乾いた音を立ててそれは生地の上に着地した。
レミィは私の行動をじっと見ていた。
「嫌なものが見えたのね?」と彼女は訊いた。
私は彼女から視線を逸らして、ソファの上に転がっている水晶玉を見遣りながら曖昧に唸った。
「違うの?」と彼女は訊いた。
「……見えたけど、嫌なのかどうか分からない」とようやく私は言った。
「なにそれ」と彼女は言った。
私は微笑んで肩を竦めた。
彼女は立ち上がって机を回り、座っている私の横にやってきた。
表情は陰になって窺えなかった。
私は椅子を動かして彼女に向き直った。
彼女は両腕を私の首の後ろに回して頭を抱いた。
今度は私は動かなかった。
彼女の肩越しに図書館が見えた。
それはいつもとどこか違う風景に見えた。
微かに石鹸の匂いがした。
彼女は身体を引いて、両手を私の両肩に載せて私の顔を覗き込んだ。
私も見慣れた彼女の瞳の色や、眉の曲線を黙って眺めていた。
私の肩に載っている彼女の両腕が、私の呼吸に合わせて上下するのを見ていた。
ややあって彼女は両手を離して微笑み、「また明日ね」と言って踵を返した。
図書館の入口の大きな木のドアが音を立てて閉まった後でどこからか使い魔が現れて、どうして彼女を引き留めなかったんだと私を叱った。
私はそのことを考えつきもしなかったのだが、彼女にそう言われてみると、みるみるうちにそれが正しい行動であったように思えてきた。
そして、そんなことにさえ思いが至らない自分がこの世で最悪の存在であるような気がした。
机の上に残されたレミィのカップからはまだ微かに湯気が立ち上っていた。
使い魔がそれを片付けようとしたとき、私はとっさに制しようと立ち上がりかけた。
しかし、何と言って彼女を止めれば良いのだろう?
どんな言葉を弄しても見透かされて笑われる気がして、結局は座り直してしまった。
彼女はレミィのカップを片付けて、紅茶を淹れ直し、私の空っぽのカップに注いだ。
ソファの上の水晶玉が目に入ったが、もうとても続きをする気にはなれなかった。
机の上に残っていた計算用紙を片付けようとして触れると、それは突如として息を吹き込まれたように動き出した。
身を捩らせて私の指をすり抜け、かさかさと音を立てて、宙でコウモリの形になると、羽ばたいて使い魔の鼻の前を掠めて通り過ぎ、窓から元気良く飛び出していった。
私は慌てて使い魔の顔を盗み見た。
彼女は呆れたような面白がるような表情を浮かべていた。
「難儀な方ですねえ」と彼女は言った。
言葉もなかった。
§
数刻が経った。
本を読んでいる間に紅茶が足りなくなって、使い魔が置いていったポットから継ぎ足そうとしたが、底の方に残っていた細かい茶葉を含んだ濃いものが少量出ただけで何も言わなくなってしまった。
ポットを机の上に戻す時に思いのほか大きな音が響いた。
使い魔は近くに見当たらなかった。
呼ぶかどうか迷ったが、妙な自尊心が勝って、私は唾を飲んで黙って座っていた。
静けさが煩くて耳に染みた。
図書館が砂漠のように思えた。
さっきのことにしても、もうちょっと何か言うべき言葉があっただろうと思った。
今目の前にレミィがいたら、もっと彼女に自分のことを、今考えていることを説明できたはずなのに。
彼女はそれを笑ったりせずに、社交辞令なんかではない本物の関心をもってきちんと聞いてくれるに違いないのだ。
それはどんなに得難いことか、私は頭では十分に理解している。
そうでなければ幾ら誘われたってこんな辺鄙な郷にまで着いて来やしない。
でも大事な言葉は全部が終わった後にしか浮かんでこない。
相手が目の前にいるときには、それらは全部身体の奥に引っ込んでしまう。
煙に巻くような、薄く扁平で何の匂いもしないくだらない言葉が口を突いて出てくるばかりだ。
目を閉じて、十年前のことと三十年前のことと五十年前のことを同じように思い出せるか試してみた。
その時に嗅いだ匂いや聴いた音を今同じように嗅げるか考えてみた。
気持ちを落ち着けるまじないを試してみた。
それから、どういう道を辿ったにせよ、結局今の私はこういう自分であったはずだ、と考えようとした。
私は環境によってではなく、私の本質によってこういう自分になったのだと、たとえ周囲によって幾らか影響を受けてきたとしても、それらは私が自ら選び取ったものなのだと、そう考えようとした。
どれも大して上手くは行かなかった。
私はため息をついた。
もう潮時かもしれない。
いや……。
眠りたかった。
意識が絶えずあるということが問題を必要以上にややこしくしていると思った。
睡眠導入の魔法だって、夢見の魔法だってある。
望みさえすれば簡単なことだ。
小匙一杯くらいの魔力で。
久しぶりに少し眠ってみれば良い。
ようやく踏ん切りがついて、椅子に深く腰掛け直してさあ眠ろうとしたところで正面の扉が音を立てて開いた。
レミィがにこにこと笑いながら歩いてきた。
「おはよう」と彼女は言った。
「……おはよう」と私は言った。
彼女は私の声を聞いて顔を見て少し慌てた顔になった。
私はそれを見てもっと慌てた。
「あれ……なんか今都合悪かった?」と彼女は急いで言った。
「そんなことないわ」と私はすぐさま言った。
「ふうん」と彼女は言った。「なんだかさっき、素敵なお手紙をもらったと思ったんだけれど」
彼女は後ろで組んでいた手を解いて私の目の前に持ってきた。
紙のコウモリが握られている。
それはゆっくりと羽を前後させていた。
「あなたでしょう?」
「そうみたい」
「ね。そういうわけだから」と彼女は言った。「もしかしたら寂しがってるのかなって思って来たんだけど。なんだか拍子抜けしてしまいましたことよ」
「あ、はい。いや、いえいえ」
「まあ、でも、私としてもね、このまま帰るのは癪だから」
「ええ」
「どこかに遊びに行きましょうか」
§
人里の酒場なんて初めてだった。
私があんまりきょろきょろと周りを見渡すものでレミィはくすくすと笑った。
「何か面白いものがある?」
「色々」
「たとえば?」
「あんなに大きな声を出さなくても聞こえる」と私は店員をそれとなく示して言った。
「ああ、そうかも」とレミィは笑いながら言った。
周りの客が煩いことも言おうと思ったが、彼女の面子を損なわずに伝える言葉を思いつけなくて諦めてしまった。
鶏肉と野菜を焼いたものが出てきた。
レミィが皿を運んできた店員にフォークを持ってくるように言いつけた。
店員が持ってきたそれを私に渡して、彼女は箸を器用に使って鶏をつついた。
「美味しい」と私は言った。
「それは何より」
「咲夜の半分くらい」
「そりゃあそうだ」とレミィは真面目な顔で頷いた。
チーズを揚げたものとサラダが出てきた。
これもなかなか悪くなかった。
それと前後してようやく酒が出てきた。
日本酒だ。
レミィは私と彼女の盃に手早く注いで目で合図をした。
私は頷いて盃を手に取って軽く彼女の方に上げた。
彼女は一息に飲み干して、首を捻りながら顔を歪めた。
「うーん……。やっぱり水のような清酒、というわけにはいかないね。単に水っぽい」
「どうして私をここに連れてきたの?」
「嫌だった?」
「質問」
「うーん、良いもの食べさせて良いお酒飲ませてっていうのは今まで散々やったもの」
「……?」
「でもなんだか全然」
「なに」
「喋ってくれないし」
「なにを」
「だからあ。それを私が知りたいのよ」と言ってレミィはため息をついた。
彼女は俯いて顔を両手に埋めた。
そのままでゆっくりと息を吸った。
それに合わせて羽がゆっくりと上がった。
彼女は顔を上げてじっと私を見た。
「ねえ、あなたが何を考えているのかが知りたいな。様子がおかしいし、それに私が関係していることだって察しがついているよ。でも私には何も教えてくれない。……私は信用に足らないかな?」
「いや……」
「誰だって隠し事の一つや二つはある」とレミィは言った。「でも、誰かと一緒にいたいならね、あなたはもっと正直にならないといけない。特に嘘の下手な人はさ……」と言ってレミィは悪戯っぽく笑った。「私はあなたと上っ面だけの友達でいるつもりはないんだ。もしあんたがそうじゃないって言うなら、あんたを柳の木の下にでも埋めてやる」
「うん」
「いや、最後のは冗談だけど」
「知ってる」
「そうだろうね」
「もうちょっと叱って」
「えーと」とレミィは苦笑いをした。「だからさ。本当に人と接しようと思ったら、心の中の柔らかい部分を幾らか相手に差し出さなきゃいけないと私は思う。それがどんなものであれね。少なくとも私はあなたにそうしているつもりだよ」
「うん」と私は言った。
「さあ……あなたに言うべきことは全部言ったよ」
レミィはそう言って両手を広げた。
長い爪だ。
もう少し切った方が良いのではないかと時々思う。
たとえばこういうことも正直に言うべきなのだろうか?
彼女の求める正直さと、私の意識の表面に浮かび上がる思念との間にある差異を私は測りかねている。
彼女に気に入られるような体の良い自分を、私の正直さとして彼女に提出する、そういったことは甚だ不誠実だと私は分かっている。
ただ私は彼女に失望されたくないだけなのだ。
でも同時に、相手に失望されたくないと思っている、そのこと自体を相手に対しての充分な敬意として受け取ってもらいたいとも思っている。
これは我儘だろうか?
我儘なのだろう。
そうでなければ彼女はここまでしない。
しつこくうじうじと悩んでいる私を彼女はじっと見た。
私は頷いた。
なるほど。
呑まずに喋るか呑んで喋るか選べということだ。
私はゆっくりと盃を口に近づけた。
周りの人間の話し声が、怒鳴り声が、嬌声が、角が丸くなって潮騒のように混じり合った。
海を見たのは三十年前のことだ。
それを私は昨日のことのように思い出した。
五十年前のことのように、十年前のことのように思い出した。
喧騒はこの為だったのか、と気づいた。
なるほど、実際にやってみないと分からないことは確かにある。
色々なことを知りたいと思った。
できればそれを彼女に伝えたいと思った。
それでようやく、私はレミィに向かって重い口を開いた。
§
目が覚めたら私は図書館にいた。
お酒で記憶を失うなんて初めてのことだ。
私はいつもの椅子に座っていて、レミィは向かいの椅子で漫画を読んでいる。
彼女は私が起きたのに気付き、私の方を向いて漫画を机の上に置いた。
ずいぶん機嫌が良さそうで私は安堵した。
「おはよう」と彼女は言った。
「おはよう」と私は言った。
体を起こした時、首の辺りに違和感を覚えた。
思い当たることがあって、私は小さな鏡を取り出した。
顔のやや右前に持ってきて当該部分を映す。
小さな傷が二つ。
「……吸ったの?」と私は訊いた。
「えっ何を?」とレミィは言った。
答えるのが早すぎるし、目が泳いでいる。
私は確信した。
それでじっと彼女を見た。
「吸ったの?」と私はもう一度ゆっくり発音した。
「はい、吸いました。すみません」と彼女は言った。羽根がしゅんと垂れた。
私はため息をついた。
「ごめん」と彼女は言った。
「良いよ、別に」と私は言った。思わずちょっとだけ笑ってしまった。
驚いている彼女を尻目に私は使い魔を呼んでコーヒーを淹れさせた。
彼女はレミィの顔と私の顔を順番に見てにこにこしていた。
何か言いたげだったので、黙って下がって、と私は素早く言った。
「レミィ」と私は呼んだ。
「はい」と彼女は緊張した表情で答えた。
「魔法を教えてあげようか」と私は言った。
一瞬きょとんとしてから、彼女は笑顔で頷いた。
§
彼女に血を吸われて、私は吸血鬼になる。
水晶占いは今のところ半分だけ当たっている。
私が吸血鬼になってしまうのかは今の私には分からない。
レミィ次第かもしれないし、私次第かもしれない。
あの占いの結果はずばりその事象そのものを予見していたものだったのか、単なる比喩としてのものだったのか、今となっては知る由もない。
でも、正直なところ、私はもうどちらでも良いと思っているのだ。
どちらでも、大した違いはないと。
地の文も何か矢継ぎ早に描写を突き付けられてる感があってなかなか噛み砕けなかったし、レミリアとパチュリーの関係が何かふわふわしていて最後まで何がやりたかったのかつかめなかった。
特に主人公であるパチュリーが、何を知っててどういう立場で何を願っているのかがよくわからないまま進行するため、この作品をどう咀嚼していいのかわからなかったのかなぁ、と。
二人の間にある信頼感がとてもよかったです。
”本当に人と接しようと思ったら、心の中の柔らかい部分を幾らか相手に差し出さなきゃいけない”という言い回しが非常に素敵です