Coolier - 新生・東方創想話

狸とチョコケーキとセロ弾きと

2014/05/25 19:32:25
最終更新
サイズ
35.3KB
ページ数
1
閲覧数
1706
評価数
4/11
POINT
700
Rate
12.08

分類タグ

 蓮子のふたつの黒目が、右から左にすーっと動くのを見て、メリーは「あ、なにか始まるな」と直感で想えた。
 校内カフェテラス、その一番端のテーブルが秘封倶楽部の円卓となって久しい時分。道路側を背にカフェオレをすすっていたメリーは、自らの後ろをなにかが動いてゆく事実を、ブラックパールのように野心的な粒子を輝かせる蓮子の瞳の挙動で不躾に理解させられた。
 ごくり、と、メリーの喉が鳴る。カフェオレと一緒に、メリーの喉奥に冷え冷えとした不安が雪崩れ込んだ。美味しい。胸騒ぎという後味が無ければ。
「メリーは、白い狸を見たことはあるかな……」
 未だ獲物を追い続けているであろう黒光りする瞳で、蓮子はメリーにそう尋ねた。彼女の口元が僅かにつり上がっているのをメリーは決して見逃さない。「いいえ、無いわ」出来るだけ冷静に選んだ言葉が、しかし震える調子で自らの耳朶を打つ。
 白い狸……そんなカップ麺あったかしら。例えそれが存在しなくとも、いまだけはあり得て欲しいと願ってやまない。メリーは、静かに祈った。マルちゃんに。
「立ってメリー! お会計!」
 メリーの祈りは、コーヒーに溶け込むミルクよりもあっけなく、蓮子の叫び声にかき消されてしまった。苦味でいっぱいの顔になっていると自覚しつつも、電子マネーカードを財布から出すメリーの手際の良さはちょっとしたもので、それが悲しみという喉越しをより増長させてゆく。
 蓮子と付き合うと妙な悪食に慣れてしまう。慣れてゆくだけで、美味しいと感じたことなど一度もない。
「わたし先に追いかけるから! メリーはお会計済ませて後から来て!」
 残したビッグチョコケーキ、お持ち帰りパックでもらうの忘れないでね。そう言い残した蓮子はテラスの手摺を颯爽と飛び越える。帽子を片手で押さえ、翻したスカートの奥に膝小僧を閃かせ、蓮子の身体が周囲の喧騒ごと宙を裂く。
目立ってしまうことなどお構いなし。蓮子は一瞬の滞空と店内の驚きとビッグチョコケーキを残してテラスの向こうへ消えていった。
 目をむくカフェの店員を尻目に、メリーも急ぎお持ち帰りパックを受け取った。もはや慣れっこのメリーは蓮子の異様な行動力にも驚かない。むしろその残したビッグチョコケーキの大きさに驚く。あの子あんなに食べてまだもっと食べる気なの?
 メリーは財布とお持ち帰りパックをしまいつつ、カフェテラスの階段を蹴った。下まで降りたところで、振り向く。
「すいません、お騒がせしました」
 黙ったままの店員が、丁寧に頭を下げるメリーにつられて、同じく頭を下げた。


――狸とチョコケーキとセロ弾きと――


 ほんの少しだけ花びらを残した桜の並木道を、メリーは蓮子を追って駆ける。
 走りながら見上げると、ジグザグに尖った葉っぱの隙間から五月晴れの空が漂っていた。緑、黒、そして僅かなピンクがメリーの視界を流れてゆく中、空の蒼さだけはそこに張り付いて、ずっと静かに佇んでいる。まるで、高いところからこっちを見下ろしているように、メリーには想えた。
 鮮やかな色と新緑の香り。空の蒼さの匂いまで、走る風の中に感じられるようだった。
 その風の中に、前方のサークル舎から漏れる音楽が漂っているのを、メリーの耳が感じ取った。音符の流れは歪で不格好、リズムも抑揚もてんでバラバラ。曲はトロイメライのようだが、チェロを弾いているこの音楽の主はきっと自分勝手な傲慢な者なのだろう。譜面だって、見てやしないかもしれない。頭で分かったつもりでも、この曲のイメージを履き違えているのだ。
 もっと優しく、周りの音を感じながら弾けばいいのに。
 メリーは駆ける足元にリズムを刻ませながら、サークル舎の横を走り抜けた。横目で開いている窓から中を覗くと大きな背中が見えた。ちょっと恐いな。声もかけにくい、排他的な気配を、その背中に見た。大きな背中は、チェロを抱えて触れられたくないかのように、とげとげしく揺れていた。
 居たわ。
 桜並木の曲がり角で蓮子の姿を確認する。人ひとりが隠れそうな木の根元に蓮子はしゃがみ込んで、その陰から向こう側を伺っているようだった。メリーは、ケーキの入ったトートバッグを抱え直して蓮子の傍へと駆け寄った。もちろん、静かにだ。
「明日は蓮子のおごりでいいのよね?」息を整えながら、メリーは言う。
ちょっとびっくりした顔で蓮子が振り向く。口元に、チョコがまだ少し残っていた。
「おおう、早かったねメリー。明日、明日はね、それでいいよ。わたしのおごり」
 ごちごち、と、心の中で呟いたメリーはさらに蓮子へと擦り寄った。ぴったりと肩が触れるくらいの距離だ。自然と、メリーの髪の匂いが蓮子の鼻をくすぐる。
 シャンプー変えたのかな。そう想いながら蓮子は視線を戻した。
「見て、あそこ。白いのが動いてる」
 蓮子が指し示す先を、メリーはその肩越しに見定めた。
 なるほど、確かに白いものが動いている。白い、もふもふしたものが、草むらの中で蠢いている。しかしそれだけでは白いそれの正体は分からなかった。メリーの目には尻尾らしきものだけしか見えなかったからだ。
「尻尾、かしら。あれは尻尾なのかしら。やわらかそう」
「うん。追いかけていたら急にあの草むらに頭を突っ込んじゃってさ。それからずっとああして尻尾だけを見せて、なにかしているみたい」
 餌でも見つけたのかな?
 そう言って蓮子がチョコを付けたままの口元で笑った。
「餌を探しにこんな人通りの多いところまで? 狸の生息範囲が人間の生活圏と重なっているといっても、わざわざ危険な場所に来るかしら」
 メリーの疑問はもっともで、野生生物である狸が餌を得るために危険を犯すであろうはずがない。相手が人間だからだけではなく、まるで臭いを嗅ぎとるかのごとく、野生の勘は正確無比にあらゆる危険の因子を感じ取るものだ。だから、普通の狸だって、メリーは街なかでは見たことがなかった。
 懐疑的な顔つきのメリーに、蓮子は人差し指を突きつけた。
「それよね、なんで狸がこんな街なかの大学校内に居るのか。誰かに飼われているのか、なにか目的があるのか、なぜあんなに白いのか?」
 言って、蓮子は三度視線を白いもふもふに注いだ。
 柔らかそうな毛に包まれた太めの尻尾が、ふりふりふらふら、草むらの中で踊っている。どこか猫じゃらしのようにこちらの好奇心を蠱惑する様相に、蓮子とメリーはつい目を見開いて凝視してしまう。目が離せない。
「白いね」
「白いわ」
 例えばあの尻尾が黒かったら。これほどまでにふたりの好奇心を刺激しただろうか。いや、もはや白いとか黒いとか関係なく、秘封倶楽部のふたりは尻尾の魅力に溺れてしまっていた。
 捕まえよう。
 ふたりは黙って同時に頷いた。非常なるシンクロ率だった。固く握手もした。
 あの尻尾を捕まえて、思う存分もふもふするのだ。ベッドの中で抱いて寝ようか、頬を擦りつけて堪能してやろうか。きっとシルクのようにさらさらで、タオルケットのように人懐っこい肌触りであろうあの白いもふもふを、是が非でも手に入れたい。
 尻尾。もふもふ。尻尾。もっふもふ。
 もはや狸の姿は蓮子とメリーの目には映らない。狸そっちのけでもふもふしたい。
「メリーはここから少しずつ距離を詰めていって。わたしはもふもふの前に回り込むから、そうしたら、いちにのさんでメリーが驚かせたところをわたしが捕まえる」
 その戦術に異論無し。メリーは、トートバッグをもう一度抱え直した。
 しゃがんだままでもふもふに近づく。下手に歩幅を小さくせず、一歩を大きくした方が雑音は出ない。静かに一歩、木の根を超えて二歩、息を飲んで三歩。時折膝をついて体勢を立て直しつつ、メリーの視界を占めるもふもふは着実に大きくなっていった。
 一方蓮子はより俊敏な動きで素早くもふもふの前面へと迂回する。幸いにも草むらや桜の木など、身体を隠せるものはいくらでもある。時には堅実にもふもふの気配を窺い、時には大胆に身体を立ち上がらせて長い距離を一気に移動する。抑揚の効いた機動力は、鷹が空から獲物に狙い澄ますかのように、チャンスの焦点を収束させていく。
「こういうときの蓮子はなんてイキイキしているのかしら」
 草むらの合間に見え隠れする蓮子の表情は眩しいほどに輝いていた。
 未だ白いもふもふは相変わらず、ふりふりふらふら。秘封のふたりの挙動に気づくことなく、自らが狙われているとも知らず、暢気に揺れている。
 もう少し、あと数歩。蓮子もすぐにポイントに到着する。私の方がちょっと遅れているかしら。
 メリーはその瞬間だけ、焦った。
 唐突にメリーの傍でジュースの空き缶が甲高い音を立てる。薄汚れた空き缶が、弾かれたようにしてメリーの数歩手前の地面に転がった。知らずに蹴っていた小石が缶に当たり、そのせいで余計な音を立ててしまったらしい。
 そこまで理解してすぐにメリーは白いもふもふを見遣った。もふもふは、いや、白い狸の尻尾は、踊りを止めてピンとそそり立っていた。その一本一本の白い毛を精密なアンテナ代わりとさせて。
 確実に気づかれている。白い狸は自らに忍び寄る危険をはっきりと認識し、状況を把握しようと野生の勘を働かせている。このまま捕まえようと突っ込んでもきっと敵わないだろう。油断しているならともかく、あちらが一旦警戒を強めてしまえば人間の衰えたセンサーなど相手にもならない。
 メリーは下唇をきゅっと噛む。次いで蓮子の動きを窺った。
 駄目よ蓮子、いま行ったら確実に逃げられる。
 すでに飛び出すポイントで待機していた蓮子も、空き缶の音を耳にしてトラブルがあったことを知覚していた。白い狸はいまや臨戦態勢。きっとこちらの動きは察知されているであろうことを、蓮子は白い尻尾の変化を見ずとも直感で理解した。蓮子の感覚もそれくらいには鋭敏であった。
 そして蓮子もやはりメリーと概ね同意見だった。このままでは逃げられてしまう。
 しかしメリーとちょっと違ったところは、蓮子は未だ『もふもふ』をもふもふすることを諦めていなかったことである。
 もふもふが! わたしのもふもふがぁー!
 今一度もふもふを狸と再認識できたメリーはより正確に現状を把握、結果諦めることで精神的にも余裕を含みながら安全に事なきを得ようとしている。それに対し、欲望という美禄が渾々と湧き出る杯を傾けているかのごとくもふもふに酔いしれている蓮子は、多少の障害があろうと這いつくばってでも手に入れたいと想えてしまう心境に陥ってしまっていた。
 それはもはや悪酔いの領域。もしかすると手ひどい失敗もしてしまいそうなほどの。
 蓮子は、作戦を立てておいたくせに、ひとりだけで飛び出した。
「もふもふ、いっただきまーす!!」
 空中に舞う一陣の風!
 と想っているのは蓮子ただひとりで、その姿は柳に飛びつこうとする蛙に似ていた。まだほんの少しだけ尻尾への未練を持っていたメリーであったが、蓮子の姿に負け戦を予想して目頭が熱くなった。
 もふもふのみを目指し猪突する蓮子の身体が、その放物線の頂点を境にしていよいよ草むらへと急降下する。弾ける草の葉、無情にも掻き分けられる緑の息遣い。草木がつくる陰影ともふもふへの欲望の中で、白きものを目にした蓮子はいま、受け身を取ることさえ放棄して両手ともにそちらへ突き出す。アドレナリンの流出が、脳内で嵐と成り果てる。
「捕まえた、もふもふぅー!!」
 興奮の最高潮に達した蓮子の無慈悲な抱擁が白きものへと繰り出される。
 抱擁とは、相手への敬意を優しさと温かさで表現しようとする尊い人間の豊かさそのものであるが、蓮子のそれは、自らの一方的な愛を相手に知らしめようとするエゴイスティックな表現でしかない。かくも抱擁だけで相手の嫌悪感をこれほどまでに煽ろうことが出来ようか。否、彼女にはそれが出来る図太さと我儘さと、ちょっとだけの賢しさが、宿っているのだ。
 メリーは、つい両手で自分の顔を覆った。蓮子の挙動の末を憂えてではない。彼女の抱擁相手である白い狸への憐情を慮るとたまらなく心が震えるからだ。蓮子の抱擁を普段から不承不承受け入れているのが誰であろうかは、記すまでもない。
「もふもふぅ~もう絶対離さないからね~!」
 頬を擦り付けて愛撫する。その行為は温かさというより暑苦しさしかなかったが、ちょっと、なんか、頬が冷たくて、蓮子はアドレナリンの嵐の中でなんとか思考を回した。
 あれ? なんで?? 冷たくて、固いぞ????
「蓮子なにやってるの……」
 憐憫ひしひしとした視線と声を感じ取り、蓮子は見上げた。視線の先に居たのはメリーで、非道く悲しそうに、残念そうにした瞳で蓮子を見下ろしていた。見慣れた彼女の瞳に、薄曇りで散り散りになる月光のような哀れみの色を感じ、蓮子はつい普段のように『星読み』の能力を使おうとしてしまう。そうやって何故メリーが悲しそうにしているのか知りたかったのだ。しかし、曇天に月明かりも星明かりも朧げで判別つかない。
「なにって、捕まえたの、もふもふをわたしは……」
 文法も朧げに、目的のもふもふを捕まえたとする口先とは裏腹に、蓮子は震える口調で応えた。しかし、抱きしめているものは、果たして白く、されど冷たく、かくして四角い。
「あれぇ!?」
 蓮子は、冷蔵庫を抱いていた。
「勢い良く飛び出して勝鬨を上げたわりに、なんてものを抱いているのよ。もう蓮子のことでは私は驚かないって信じていたけれど、ごめんね、なんか思い上がりだったみたい」
「ええっ どやさどやさ……」
 言いつつ冷蔵庫から身体を離す。蓮子はまじまじとして今まで自分が抱きついていた冷蔵庫を確認した。
 高さは1メートル程度の、ドアがふたつあるタイプのシンプルなものだった。デザイン性を感じられない無骨な様相からして随分と昔に作られた冷蔵庫のようだ。それがドアを空に向けて、仰向け(?)で倒れていた。これまで風雨に晒されていたであろう外見はしかし、ついさっき打ち捨てられたかのように小奇麗な見た目だ。ホコリもかぶってはいない。
 蓮子は冷蔵庫を突然平手で叩いた。お前なんかもふもふじゃない。とても恨めしげに叩いた。思わずため息も出てしまう。
「ほら、蓮子立って。それにしても白い狸はどこに消えたのかしらね」
「くぅ~、わたしとしたことがしてやられた。手応えありと想っていたのにー!」
 声を荒らげながら一層強く冷蔵庫を叩く。すると冷蔵庫は蓮子の平手打ちに反応したかのように内側から鈍い音を寄越した。
「なんぞ……!」
 意識せずにただ叩いたはずだったが、冷蔵庫のまさかの反応に秘封のふたりはビクついて顔を見合わせる。いや、これはしかし……。
 どちらともなく頷いて、ふたりは息をするのも潜め、ふたつあるドアのそれぞれの取っ手に手を添えた。冷蔵室側に蓮子、冷凍室側にメリーの配置。
 今の冷蔵庫の反応。一度は逃したチャンスがまたぞろ目の前に転がってきて、蓮子とメリーはゴクリ、言葉も交わさずして絶妙な意思疎通をやり遂げながらアイサインを繰り返した。キョロキョロと動かす黒目と瞬きの回数で『手順』を、唇を突き出したり歯を見せたり舌の動きなどで『タイミング』を。ふたりにしか理解出来ない言葉が、神妙な面持ちで黙り込んでいる冷蔵庫の頭上を飛び交う。
 あーでもない、こーでもない。
 無言の会議は数分に及んだが、それすらも作戦の内であった。すなわち冷蔵庫に、否、冷蔵庫の中の何者かを油断させるため、である。
 やがて、ふたりは同時にウィンク。会議終了、作戦決行。
「あぁーあ、しらけちゃった。いいよもう、戻ってお茶の続きしよー。なんかコワイし、傷んだものでも出てきたら、食べるものが不味くなっちゃうもん」
「まったくもう、また今回も空振りね。これで連続何度目かしら。次は蓮子のおごり、プラス、講義の代返もやってもらうわよ」
 いち、
「おっ メリーさんもいよいよ怠けたいお年頃なんだ?」
「冗談よ。なんのために大学に来ているのか、意味ないじゃない。代返してほしいのは蓮子の方じゃないの?」
 にの、
「えー? 最近お布団が愛しくてたまらなくってさー?」
「行くわ。カフェのおごりは、本当だからね。早くしないとお夕飯の時間になっちゃうわ」
「あ、待ってよメリー! 急いだってカフェもお夕飯も逃げやしないんだからぁ……」

 『さんッ!』

 作戦のとおり、会話越しのタイミングを見計らってふたりは一気に冷蔵庫のドアを引き開けた。冷凍室と冷蔵室の二つのドアが空気を吸うようにしてヌメリとした触感をふたりに与える。草むらの湿気が、俄に緊張感を伴って飽和した。
 そうして期待で胸踊らせ中を覗き込むも、しかし。
「いないじゃんか!」
 中は空っぽであった。塵ひとつ入っていない。こういった粗大ゴミ特有の不快な臭いもないし、まるで新品、清潔感さえある。獣の臭いも、もちろんしない。
「えぇ? でもさっき音したよね?」
「聞いたわ、聞いたわよ。蓮子が叩いたら、中から音が」
 そこで黙ったメリー。目配せひとつ、蓮子に指示を出す。
 もう一度叩いてみたら?
 呆れつつ、そんな壊れたテレビじゃないんだから、と言うような顔をして蓮子は腕を振り上げ横から、叩いた。
 途端、冷蔵庫内の一部が飛び上がる。
「チルド室だ!」
 まるで食パンに群がる池の鯉のように、ふたりはチルド室へと手を伸ばす。なるほどチルド室、ものを隠すならチルド室、泣く子も黙るチルド室。これは盲点だと蓮子は頷く。そうでもないよとメリーは聞いていないフリをする。
 やり取りを交えつつチルド室を開けようと試みるもいざとなれば指が震えてなかなか開けられない。歯痒さにだんだんと焦ってさらに開けられない。
 ふたりで悶々としながらガリガリ爪を立てていると、メリーが素っ頓狂な声を上げた。
「あっ」
 言って曇った表情をするメリーに蓮子は心配するも、手は動かしたままチルド室を探っている。
「なになになに、なにがどうしたのメリーさん」
「これ境界だわ」
 蓮子は聞いて自分も曇った表情をしてしまう。なに言ってるのこの娘。
 幸か不幸か、否、不幸だろう。メリーの突然の告白が驚きとともに蓮子へと伝わり、一瞬だけ指先の震えを止めさせた。そうして蓮子の指はチルド室の取っ掛かりを捉え、開いちゃった。
「なんでもっと早く言わないの! もう開いちゃったじゃない!」
「だって今気づいたんだからしょうがないのよ! このチルド室が境界だって!」
 やっとこさ開いたチルド室。しかし開けたふたりに歓迎されずにポカーンとした口を空へと向けた。期待されて実際には嫌われるなんて良くあるが、それにしたってふたりの手の平返しが非道すぎる。
「閉めて閉めて! 早く! 危ないわ!」
「そんなこと言ったってまた手が震えてえエエ」
 慌てる蓮子は再びの焦りで今度はチルド室を閉められない。メリーはメリーで混乱してなにも出来ずに蓮子の隣でワチャワチャしているだけ。傍から見れば冷蔵庫の前で楽しそうに遊んでいる大きなお姉さんとしか思えない様相であった。
 せめて人通りが少なくて良かった、と心なし考えるメリーと、ああ今わたし達イキイキしてる、とちょっと楽しくなってきた蓮子。秘封のふたりは、今日も頑張っております。
「ええい南無三!」
 いい加減面倒くさくなってきたので、蓮子はチルド室を無視して冷蔵庫そのもののドアを閉めにかかった。最初からそうすれば良かったと言わんばかりに勢いよくドアは閉まり、冷蔵庫はしばし沈黙。だがすぐに小刻みに震えだし、コンプレッサーがイカれたかのように唸って尋常ではない様子になる。
「ダメでしたー!」
 言うが早いか、未だ混乱して動けないでいるメリーを庇いながら蓮子は冷蔵庫の傍から飛び退った。知らない境界を見たら近づかないがモットーの秘封倶楽部なので、危機予測と逃げ足は大したものだった。
 ふたりが離れてすぐ、冷蔵庫は我慢出来なかったかのようにドアを開放、大量の煙を吐き出して辺りを真っ白に包み込んだ。煙は空には向かわずまるで白いトカゲのように地面を這う。霧か、水蒸気か。なんの気体かは分からないが、うねうねとした流れで白煙は秘封のふたりを取り囲んでゆく。蓮子とメリーは、それを張り詰めた面持ちで見据えていた。
 ついにふたりの足下まで煙がくると、蓮子があることに気づいた。
 これ、煙じゃないぞ?
「蓮子、これってもふもふじゃない?」
「もふもふ?」
 意を決して蓮子が足先でつつくと、もふ、気体ではなく実体としての感触があった。煙かと想っていたものが、実は毛、すなわち白いもふもふだったのだ。
 もふもふはやおら集まったかと思うと、うず高くそそり立ったのちにふたりへと覆いかぶさるようにして倒れかかってきた。すでに周りはもふもふ、目の前にももふもふと、もふもふだらけのもふもふ三昧。もふもふ、もふもふ。逃げられない。
 蓮子とメリーは互いを庇い合うようにして身を寄せ、ぎゅっと身体を強張らせた。そしてもふもふの濁流にのまれていった。
「蓮子……!」
「もふもふー!」
 怯えからかつい相方の名を呼んだメリーであったが、その相方はそれどころではないらしい。
 気を失う直前にメリーが見た蓮子の顔は、もふもふに包まれて、ちょっと幸せそうだった。


 ――それは、とても嫌な音だった。なにかを引きずるような音。重っ苦しい煩わしさをそのまま音符に仕立てたような、とても聞くに耐えない音だった。最初、蓮子はその音を耳障りだとして、安らかだったはずの眠りから強制的に弾き出された。「ゴーゴースースー」不規則で不明瞭で。だから、瞼を開けたとき、目の前に楽器が佇んでいるのを見て正直驚いてしまった。そしてどこからともなく二本の手と身体が現れて、一所懸命、その楽器を弾いていた。聞くに堪えないが、演奏のようだった。
 背中しか見えない誰かは、ひと通りの演奏を終えた。すぐに非道く落ち込んだようにその背を丸めた様子で、彼もまた、自らの不甲斐なさに気づいているのであろうと想えた。楽器の演奏に明るくない蓮子でさえ、彼の演奏には目眩がするほどの右顧左眄さを感じていた。なにかに想い悩む戸惑いやためらいの気持ちが演奏からあふれて、蓮子に先に「引きずるような音」として認識させたのかもしれない。
 好きに演奏すればいいのに。
 蓮子はそう想って彼の背中に声をかけようとした。しかし、想うような声が出せず、身体すらまともに動かない。こういう不自由な感覚を蓮子は以前にも経験していた。そう、それは夢の中でのこと。いまわたしは夢を見ているんだ、と蓮子は気づけた。
 わたしの夢なら簡単だ。蓮子は動かない自らの身体を脱ぎ捨てて、猫になった。勝手気ままな三毛猫だ。
自由な身体を得た途端、三毛猫は彼の傍まで近づいて、鳴いた。すると突然彼は怒りを露わに声を張り上げた。三毛猫は驚いたまま毛を逆立てる。彼の足がすぐ傍に振り下ろされ、三毛猫は逃げ出してそれっきり彼には近づかなかった。ただ、窓の外から彼を眺めるだけにした。
 しばらくすると、彼の元にかっこうが訪ねてきた。かっこうは音階を習おうと彼の演奏を聞きに来たらしい。なんだかんだで何度も演奏を繰り返していると、彼は彼の楽器の音階のおかしさに気づいてきているようだった。それなのに、夜が明けて朝になると、またいきなり怒鳴っていた。かっこうはやっぱり驚いて窓ガラスに何度もぶつかって、やっと飛び出していったときはもう身体がボロボロだった。三毛猫は空を飛んでゆくかっこうを見送った。
 次の日の夜には今度は狸の仔が彼の家のドアを叩いていた。三毛猫は驚いた。なにか、なにかを忘れていたことを想い出しそうだった。「たぬき? そうだ、たぬきがいたんだ。わたし達は狸を追いかけて。わたし、たち?」
 狸の仔は彼の楽器の駒のところを叩いてリズムをとる。その調子がすごくよろしいようで、彼はだんだん身体全体でリズムを感じ、楽しそうに演奏するようになった。三毛猫はなにかを想い出そうとその光景を目を丸めて眺めていた。
 彼は大いに楽しそうだった。時折悲しそうに楽器をさするが、それでも昨日や一昨日の夜よりも、ずっと演奏を楽しんでいた。狸の仔も、一所懸命にリズムをとって彼を喜ばせた。身体が、尻尾が、ふりふりふらふら、彼の部屋は音楽でいっぱいになった。
「なんだっけ、たぬき、たぬきが。たぬきの、しっぽ?」
 三毛猫がなにかをひらめいたとき、また夜が明けて朝になっていた。狸の仔が急いで彼の家を出て行くのを見て、三毛猫は慌てた。
 追いかけなくちゃ。
 三毛猫は追いかけた。カフェテラスの手摺を飛び越えて、大学内の桜並木を風を感じながら走る。葉桜の天井を見遣ると、つい手を伸ばしていた。いつの間にやら身体が元に戻っている。サークル舎から下手くそな曲が聞こえる。追いかけていた白い狸が道を曲がる。逃すかとばかりに追いすがる。桜の根本で様子を伺う。
 あれ、なんだか前にもこんなことやっていたような?
 こうやって白い尻尾が揺れるのを見ていると、そうだ、後ろから声がして。
 蓮子は、振り向いた。






 ――蓮子っ!

 声がして、ゆっくりと瞼を開けた。白い、真っ白な場所。不思議と眩しくはなかった。そこにメリーが居た。蓮子は自分が寝ていることに気づく。
 メリーの目から、涙がこぼれて、一直線に自分の頬に落ちてきたからだ。
「どったのメリー。わたしがおごるって言ったじゃんか」
「ああもう、蓮子!」
 わあっとメリーは寝ている蓮子に覆いかぶさった。抱きついて、蓮子の両肩に両手をおいて、身体全部の体温を感じさせた。蓮子のすぐ耳元で何ごとか呟いている。蓮子はメリーの背中にそっと触れた。
「お前さん、その娘を庇って桜の木にぶつかったんじゃよ。憶えとらんかえ。ああ、怪我も大したことないようじゃし、よかったのう。しなんで」
 聞き覚えのない声に蓮子は本格的に頭が覚醒した。のろのろとした発音だが、どこか剣呑な雰囲気の声だ。しなんで、死なんで?
 なによ死ぬって、物騒だな。
 少しだけ眉をひそめ、蓮子はメリーに寄り添われたまま身体を起こした。周囲はやはり真っ白、どこまでも果てしなく、どこかの中かそれとも外か、壁も天井も空も判別出来ないほどの全面白色な景色だ。ただ地面だけはあって、もふもふしている。
 声の主を蓮子はメリーのふくよかな金髪越しに見つけた。メガネをかけてちょっと和風な装いのお姉さんだった。いたって普通の、と想いきや頭には獣の耳、お尻には大きな尻尾が付いている。そうか、あれか、イタい系の。
「おっと、言いたいことは分かる。儂は見ての通り訳ありでな。まあその、通りすがり」
「いや、そんなんじゃなくて……どちら様ですか?」
「うん、神様。マミ神」
 と言って歯をむき出して神様とやらが笑った。
 あ、このひと嘘ついたな。蓮子は直感だけでそう判断した。しかもかなり常套化された息を吐くかのようにってヤツである。こういう手合いは嘘自体には悪気は無いのでそこだけスルーした方がいい。
 蓮子は同じく笑って返した。
「助けて、くださったんですよね。ありがとうございました」
「いんや違う。どっちかって言うと儂は加害者」
嘘つきなのか正直なのか分からない。
「だってお前さんたち強引なんじゃもの。あれでも穏便に済ませた方じゃ。そんでこっちが共犯者」
 マミ神とやらの尻尾の裏から、白いもふもふが顔を出した。ふたりが追いかけ、探していた白い狸である。蓮子はちょっとだけ飛び出しそうになるも、メリーに捕まっていたので我慢した。
 白い狸は、トトンと近づいてきて、申し訳無さそうに頭を下げた。
「この子の方がよっぽどかわいいじゃない」
「メリーもそう想う? わたしも」
 落ち着いてきたメリーが、恥ずかしいのか少し卑屈なことを言う。蓮子もそれに同感して頷くとマミ神は苦々しい顔をした。
 ふんふん、と、不機嫌そうな声でマミ神は尻尾を振った。
「そいつはな、あの冷蔵庫の境目を通って向こう側に行くはずだったんじゃ、そぉれなのにお前さんたちが邪魔するから、通れる機会を逃してしまった。儂だってしばらく帰れん。予定していたことがぜーんぶお前さんたちのせいでパァなんじゃよ」
 マミ神は大袈裟にアクションで説明した。蓮子とメリーはマミ神を他所に白い狸の方を窺った。その行為が自らを無視しているかのように想えたのだろう、マミ神の頬はいよいよもって大きく膨れ、固く両腕を組んだ。
「ほれぇそんな勝手じゃから儂ら狸が苦労させられるんじゃ! いいかこの白いのは、仔がいるというのにそれを残して単身向こう側に渡らねばならなくなってるんじゃぞ!」
「どういうことですか?」
「神様どうしてそんなことになってるの?」
 言い過ぎてしまったようで、マミ神は決まり悪く頭をかいた。強引に髪を乱した拍子に頭の耳がピンと跳ねる。どうにも言いにくそうにしていたが、白い狸はコクリ、頷いた。
 獣っぽい見た目で獣っぽくない仕草をするふたり(?)の様子に、蓮子とメリーは顔を見合わせた。
「……白い狸なんて珍しいじゃろ」
「ええ、はい」
「狸の数が減るばかりになって久しいもんじゃ。理由は言わずとも分かるじゃろうし、言いたくもない。元来から、低い確率ではあったが白毛の狸は幾らかおった。他の動物どもでもあるじゃろ、『アルビノ』ってやつじゃな。しかし母体の数自体が減っておるから、白毛の狸はまっこと見のうなった。儂も、こいつに逢うまでの6、70年ほどは一度も出くわさんかった。白毛の者はもう生まれないとさえ想っておった」
 マミ神は腕を組んで、ひょいと両足を上げてあぐらをかいた。大きく太い尻尾を使って立ち、まるで空中にあぐらのまま浮いているかのような状態だった。
「こいつはこいつで、すでに100年ほどは生きておるらしい。よう残っておったもんじゃ、そのお陰か妖怪変化するのに十分な力があった。ちょっとしたきっかけがあれば完全に妖怪になれるほどの。その矢先に、こいつは儂に逢いに来よった。妖怪変化を止めてほしい、とな」
 止めてほしい?
 蓮子はオウム返しに聞き、メリーは口の中でその言葉を反芻させた。ふたりの疑問の塊を受け取ったかのように、マミ神は大きく息を吸い、そしてため息をついた。
 心なしか彼女の太くたくましいはずの尻尾も、ぐっしょりと憂いの湿気に濡れているかのように鈍い艶を放っている気がした。
「妖怪が妖怪としての本分を熟すには、ヒトからの恐怖というものが必要になってくる。それはお前さんたちも知っとるじゃろ、色々と調べておるようじゃし」
「え、ええ。妖怪が存在出来るのは私たち人間の恐怖心が重要と聞きました。恐怖心が薄れたとき、妖怪の存在も消える。それは高位の神霊にも言えて、神様と呼べるほどの霊的存在でも信仰心が無ければ力は衰え、やがて消えてしまうようですね」
「神社や仏閣も、小さいところは今じゃ誰も寄り付かないもんね。どんどん取り壊されてるみたいだし」
 蓮子は今まで自分たちが調べ、足を運んできた小さい神社、廃墟同然の寺などを想い返していた。あの雨ざらしの寂しげな場所にも、昔は神様や妖かしの類がいて、人知れず賑やかだったのだろうか。いまはとても、とてもそんなふうには、見えなかった。
「人間は忘れるもんじゃ。だから言葉や文字があるんじゃが、それらからも漏れたモンは恐ろしいほどの早さで廃れ、捨てられてゆく。光陰矢のごとし。時代の流れよりも恐ろしいモンを、儂は知らん。科学とかいうバケモンに儂ら狸は殆ど喰われっちまって鼻血も出んわ。もはや獣のままでしかおられんくなる。儂も全盛期の、まあ三割五分といったところかの」
「神様や妖怪には辛い時代なんだ……。あ、ということは」
「そうじゃ、生きにくいこちら側で妖怪変化すれば途端に力を失くす。ともすればあっという間に消え失せてしまうかもしれん。仔を持つこいつは、だから妖怪変化を止めてほしいと儂に逢いにきたんじゃ」
 蓮子とメリーの前で、白い狸はうなだれていた。ふたりにはその姿がよっぽど消え入りそうなほど儚げに見える。白い毛並みがそう見せるのか、それともやはり不遇な立場を嘆いているからなのか。仔を持つ親の気持ちというのを秘封のふたりは流石に理解出来ないが、それでも、親が消えてしまうかもしれない仔の気持ちは、理解出来た。
 それはとても、悲しいことだと想えた。
 メリーは意を決したように口にした。
「それで、妖怪への変化は意識的に止められるものなのですか?」
「無理じゃ」
 マミ神は断言した。
「誰にも、己自身でさえ止めることは叶わぬ。妖怪変化はよく将棋の『成金』と例えられるもんじゃ。儂らは盤上の駒で、ある程度進んだら金に成る。それは駒の儂らに決められようはずがない。駒を動かすのは、儂でも誰でもない」
「そんな……誰かが駒を動かしているなら、止めることだって出来るんじゃないんですか? 誰が動かしているんですか?」
「さぁの、分からん。なにか底知れない大きなものなんじゃなかろうかの」
 少し投げやりにそう吐き捨てたマミ神の姿は、蓮子にはとても神様には見えなかった。
「だから儂はこいつをあちら側に連れて行くことにした。近年稀に見る逸材じゃ、消えるにはなんとも惜しい。仔は、連れては行けぬ。ただの狸には危険すぎる渡りじゃ。儂の仲間に預け、大切に育てていくよう取り計らった」
 そこまで言って、マミ神は口をつぐんだ。もうこれしかない、これが最善の方法。これで誰も不幸にならない。それなのに、誰もがそれを望んでいない。苦労して策を練った上で提案したであろうマミ神でさえ、この成り行きには不服があるのかほとんど苦しむかのように歯ぎしりをしていた。苦虫どころか毒を盛られたくらいの様相で、腹に残した一物がもんどり打っているかのように辛そうだった。
 白い狸も同じく、いや、それ以上に悲しい気持ちのはずだ。表情が読み取りづらいだけで、その心内は針の筵であろうことは秘封のふたりにも容易に推測出来た。本当なら、ずっとこちら側に残っていたいはずだ。ずっとずっと子どもたちと暮らしていきたいはずだ。そういう、いたって普通の、なにも特別なことじゃないことを行えないのは、どうにも辛すぎる。
 聞いていたメリーは先程の自分たちの行為を恥じていた。いまこのときにちゃんと謝ろうと考えていた。ちょっとした好奇心で誰かの傷をえぐってしまっていたなんて想像もしなかったけれど、実際に目の前で悲しんでいるのを見て聞いてしまったら、身につまされる想いだった。言い訳なんて出来ない、してはいけない。こんな辛い想いをさせるなら、いっそのことさっきの時点であちら側へと行ってしまっていた方がどんなに楽だったであろうか。踏みとどまらせて、ためらわせて、辛い時間を与えてしまったのだ。
 メリーは、たまらず蓮子を窺った。ずっと黙ったまま、なにか考え事をしている彼女は、口をへの字にして唸っていた。どうしたんだろう。メリーは蓮子の服の裾を引っ張った。
 するとまるでスイッチを押された電灯のように、蓮子は声を上げた。
「行くことないよ。こんなことで子供と別れるなんて、おかしいもん」
 ね、と蓮子は膝立ちで白い狸に近づいた。そしてその白い背中に手を触れるとまるで励ますかのようにぐいぐいと撫で付けた。最初白い狸は蓮子の手に驚いていたが、やがて大雑把でも心地良い撫で具合に身体を預けていった。
 その光景を、マミ神を首を傾げて見つめていた。
「お前さん、儂の話を聞いてたんかいな。こちら側で変化すれば下手すりゃ消えちまうと言ったじゃろう」
「神様の話は聞いてたよ。でもそしたらどうして神様は平気でいるの?」
 メリーはぎょっとした。マミ神も、隠し事を明かされたかのような、少し驚いた顔をした。
「なにか他に方法があるんじゃない? 試してみようよ」
 白い狸を撫で続ける蓮子は、そう言ってマミ神を見返した。メリーもマミ神を見遣る。
 マミ神は苦笑いをしつつも感嘆とした声で「ほほう」と言う。その言葉を待っていた。
口には出さないがそんなことをマミ神は表情で語る。
「蓮子、大丈夫なの?」
「確かにお前さんの言うとおり、儂は全盛期ほどではないがこちら側でも力は振るえる。化けることとかな」
「神様はなにをしているの? まさかズルいこと、じゃないよね?」
 言っておいて蓮子は片方の眉を上げ、疑っていることを前面に押し出してマミ神に尋ねた。先程から伺える胡散臭さに、あまり神様と話しているという気分にはなれないようだった。
「ズルくはない。儂はな、地元では大明神として祀られている。人間からの信仰心で力を成しているんじゃ。元からの妖力も大きいがな」
「つまりはひとに忘れられなければいいってことなのかしら。でも、神様としてならともかく、白くて珍しいからってそうそう人の目を引くようなこと、出来るの?」
「ふーむ」
 考え始める蓮子を、白い狸は尻尾をふらふらさせながら見つめていた。ああ、やっぱりもふもふは良いなあと想う。こんな素敵な動物を、どうして忘れられようか。その存在自体が癒やしで、人の役に立っているというのに。
 こうして撫でているだけでも幸せを感じる。どさくさに紛れて触れて良かった。まるで夢見心地。夢のよう。
 と、そこまで想って、蓮子の脳内回路に渦電流が走った。
「あ、あなた楽器出来たりする!?」
 ぐわりと持ち上げられ、驚いた白い狸は足を突っ張ったまま硬直した。蓮子は、意気揚々と語り出す。
「狸と言えば腹鼓! 打楽器とか、上手だったりしない?」


 ――蓮子曰く。腹鼓で大学生を怖がらせて学校の七不思議となり、そこから生じる畏怖から力を得てこちら側での存在を確立させようというものだった。
「なんだか力づくっぽくて嫌いじゃの。儂が言うのもなんじゃが」
「あれ?」
「私も。もっとスマートに出来ないの?」
 すこぶる評判は良くなかった。
 怖がらせるなんて今どきのトレンドではなく、学生相手にしても畏怖どころか、見向きもされないかもしれない。これには、マミ神もつくづくとした顔で反対した。
「それでもし失敗でもしてみぃ、笑われた挙句に力なんてもらえもしないし、あっという間に立場が逆転してしまうぞえ。反対。反対じゃ」
 まるでなにかを噛みしめるかのごとく、マミ神は深く二度も頷いた。以前にそのような失敗をしたことがあるのかもしれない。弱気な振り方の尻尾を見つけて、メリーはそう思った。
 そうだ、誰かを驚かせたり怖がらせたりして、それが失敗したときの反動は時として身を滅ぼしかねない。さんざん昔話の狸たちがやってきた過ちだ。ハイリスクを負う危うさに未成熟な狸たちは気づきもしない。
 その点、この白い狸は違うようだった。ふたりから却下と言われてしょげる蓮子の膝をつついて、なんだか励ましているかのように低く鼻を鳴らしている。優しさ、誰かを想いやる心を白い狸は持ち合わせていた。蓮子もその行為に感激して、また白い狸を抱きかかえていた。
 やっぱり、忘れられないためには、こういう自然で飾らない善意が必要なのだろう。
「じゃあ、こうしよう! 音楽で誰かを助けよう!」
「音楽でって、なにかあてはあるの?」
「サークル舎でへたっくそな曲弾いてた人いたでしょ? あの人を助けよう」
「当人からするときっとそれは大きなお世話になるかもしれないわね……」
 メリーは想い出していた。サークル舎に居たあの大きな背中には頑なな性格が張り付いているように想えた。だから、蓮子の提案はうまくいかないんじゃないだろうか。
 マミ神は考えているふうに軽く頷いて、やがて口を開く。
「うん、いいんじゃないかの。幸いこやつは太鼓の腕も一級品、儂らの宴会でも評判の腕利きじゃ。問題なかろう」
「でも人によっては好意も侮辱になります。受け取った側の気持ち次第ではそれこそ迷惑になっちゃいませんか?」
 メリーは慎重に食い下がった。好意を素直に受け取れない者は必ず居るし、それは時に自分も当てはまってしまう特別じゃないこと。愚かだと切り捨てられない皆が抱える問題だ。特に追い込まれた人間にとって、悪意と想われてしまいかねない。あの大きな背中の主は、なんだか切迫していた気がする。
 真面目にメリーの意見を聞いていたマミ神は、それならそれで仕方ない、として、
「好意を好意とするのは受け取った側が決めることじゃ。だのに与える側が折角の好意を無下にするのかと、突き放すのは傲慢というものじゃな。そして、好意を渡す相手を選ぶというのもまた傲慢じゃ」
 ハッとしてメリーは気まずい顔をする。蓮子の腕の中で、白い狸が鼻を鳴らした。
「お前さんの言うことは間違いじゃあない。ただちょっとばかし友達に優しすぎるだけだの。悪意と捉えられ、迷惑と想われるかもしれないが、善意や好意を与える者はそれを行えるだけの強さがある、そんなにやわじゃなかろうて」
 そうであろう、と、マミ神は蓮子の方を見遣った。ひゃんと白い狸が応える。
 確かにそうだ。メリーも蓮子に振り向く。そうだねと蓮子は笑って頷いた。
「落ち着いたところで、さっそく行こうか狸ちゃん! わたし夢で見たんだよ、きっとうまくいくよ!」
 あ、案外根拠薄かったんだなと想うマミ神とメリーは、お互いに顔を見合わせる。しかし白い狸はやる気満々で尻尾をふりふりふらふら、鼻息を荒らげていた。
 その様子は文化祭前の学生のような向こう見ずさがあったが、白い狸がこちら側に残れるかもしれないという希望の火を灯せたことは当人(?)にとっては嬉しく、ありがたいことだったようだ。蓮子と一緒に踊るように跳ねまわる姿は、見ていてこちらも元気になれる。やっぱりかわいいなと想う。白い狸も、もちろん蓮子も。
「さて、これで大丈夫じゃろう。あとはお前さんたちに任せるとしようかの」
マミ神は、柔らかく息を吐いてメリーを見つめてきた。
「妙な目を持つふたりが居ると聞いて、な。来てよかったわい。想っていたよりも頼り無さそうではあったが、それはこの結果で分かるものであろ」
「どういうことですか? 私達のこと、一体誰から?」
 意味ありげに笑窪を作ったマミ神だったが、人差し指を唇に交差させ、話してくれそうにない。
「お前さんたちは自分らで想っている以上に、色々と有名じゃよ。良くも悪くもな」
「おっしゃっていることが、よくわかりません」
「そうかの? まあ、お似合いのふたりではある。あっちのおなごの善意が悪意と誤解されても、お前さんが助けてやろうとする程度には。持ちつ持たれつ、適材適所」
 悪戯っけ満載で、狸本来の意地悪な顔でマミ神は笑った。
 メリーはちょっと悔しくなって、「それは、もう」とぶっきらぼうに応えた。
 言われなくたって分かってます。私の友達は、色々と規格外だから。言うとおり良くも悪くも。だから私が居るんです。
「メリー! お腹減った! ビッグチョコケーキ持ってるでしょ、皆で食べようよー」
 ひとしきり騒いで、はにかんだ蓮子が白い狸と一緒に駆け寄ってくる。メリーは、うん、と頷いてトートバッグの中を覗いた。あれ?
「ケーキが無いわ、え、ちゃんとこのパックの中に」
 取り出したパックはちゃんと閉まっていて、しかし中にはなにも入ってはいなかった。代わりに桜の葉っぱが一枚、ごちそうさまと書かれたもの以外は。
「あーんの狸ぃー!!」
 蓮子が叫んだ拍子にそれまでの白い空間は木っ端霧散、いつの間にやら見慣れた桜並木に戻ってきていた。ホッとしたような残念なような、傍らの冷蔵庫が、お帰りなさいと言っているかのように低く唸っていた。
「次に会ったら憶えてなさい! 絶対に奢らせてやるぅー!!」
 感情任せ、勢い任せ、蓮子は冷蔵庫のドアをひっぱたく。
 その叩いたところの匂いを嗅いで、白い狸はひゃんと鳴いた。






.

「ズンチャッ ズンズンチャッチャズッ チャッ ズンズンチャッチャズッ チャッ ズンズンチャッ」
 白い狸のビートがドラムセットを喜ばせるかのように音符の粒子を叩き出す。
 そのスティック捌きはプロ顔負けの、稲妻の如き鮮烈さであった。
「どうじゃ、現代的じゃろ?」
 呆気に取られていた秘封倶楽部のふたりではあったが、ややあって口を開いて、
「オチとしてはどうなのかしら?」
「及第点ってところじゃないの?」
 非情なるも正確無比な評価。
 聞いたマミ神は額に手を当てて、「あ~そっちかぁー」と天を仰いだ。




 ということで、十四作目でした。ここまで読んでいただきまして、ありがとうございました。

 なんというか、あんまり書くことないのですが、とりあえずはあとがきを。
 去年の冬コミからサークル活動をしておりまして、先日の例大祭にも参加させていただき、大変楽しい時間を過ごしたのですが、それは〆切という鬼との争いに勝ったからこそ得られた僥倖のようで、もし負けていたらと想うと薄ら寒さにゾッとします。や、絶対に勝ちますが、その過程を想い起こすと色々と大変だったなぁって。
 最中はむしろ楽しんでいるんですけど、あとで記憶を辿ったときの冷静な思考で断ずるに、あれはランナーズハイならぬ、〆切ーズハイだったのではないか。鬼というからにはそれはもう萃香さんや勇儀さんのような麗しくも力強く魅力的な鬼に追いかけられるのですから、死に物狂いで逃げつつも楽しい時間のはずですものね。
 はぁ。(ため息) ……レミリアお嬢様もいいですね。妹様は、ちょっと辛い、かな。
 終わりましょう。

 この度はお付き合いいただき本当にありがとうございました。次に投稿する機会に恵まれましたら、その時もどうかよろしくご教授ください。

 東方Projectに感謝を込めて。ありがとうございました。

百円玉
http://karinihita.jugem.jp/
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.330簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
とても面白かったです
4.100がま口削除
いつもの日常だけど、日常じゃない何かに全力で。そんな秘封倶楽部のほんわかビビットなイメージにぴったりだなぁ、と思いました。
私の勤めている会社はまぁ山の中の立地で、狸が遊びに来たこともあるのでその時の騒動を思い出しながら読み進めていました。
アルビノ狸さんの妖怪になりたくない理由といい、マミ神様とセロ弾きの原典といい、筋の通った設定が心地よかったです。
例大祭は残念! 行っていたんですけど、申し訳ませんがスルーしていた模様です……がっくり。
6.80名前が無い程度の能力削除
もっふもふ!
11.100名前が無い程度の能力削除
よかったー