Coolier - 新生・東方創想話

貴女に至る刃

2014/05/18 16:34:12
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■ ■ ■

「さてさて、それでは皆の者――」
 場所は博麗神社。石畳の境内には、数多の人妖たちが犇めき合っている。ある者は不機嫌気味に、ある者は満面の笑みでその場に佇む彼女たちは、皆一様に杯を手にして、中心に立つ一人に目を向けていた。
 ただ一人立ち上がり、全員の視線を一身に受けて胸を張るのは、自称・尸解仙の少女、物部布都だ。幼さの残る顔立ちながら、妙な自信に満ち満ちた表情は、不思議な貫禄を感じさせる。
 彼女は手にした杯を高々と掲げ、
「我らが大使様の復活を、心行くまで祝うがよい! 乾杯っ!!」
 布都の宣言に――周囲の少女たちは誰一人として唱和しようとはしなかった。ただ、彼女に遅れてばらばらに、「乾杯」「かんぱーい」と声を上げ杯を交わす。ほんの僅か前の光景はどこへやら、今や布都に目を向けようとする者は皆無だった。
「あ、あの、おぬしら……?」
「いいのですよ、布都」
 相手にもされない状況に布都が狼狽しているところへ、彼女の足元から声がかかる。慌てて彼女が目をやれば、そこには件の大使様――豊聡耳神子の姿があった。
 右手に笏を手にしたまま、もう片方の手で布都に座るよう促しながら、彼女は涼しい顔で言う。
「此度の私たちは敗者。招かれているだけでも喜びましょう。受け入れて貰えた以上、次は私たちがこの幻想郷という世界を知り、受け入れることが肝心です。さすればいずれ、貴女が酒席の音頭をとれる日だって来るでしょう」
「い、いえ大使様、仰ることはごもっともなのですが、我の目標が斯様に些細なものであるかのように言われるのは少々腑に落ちないと申しますか……」
「はは、大丈夫大丈夫。全て分かっていますとも」
「せめて会話してくださらぬか大使様!?」
 二人のけたたましいやりとりを、他の者たちは声を掛けようとこそしなかったものの、楽しげに見守っている。布都と神子に寄り添うもう一人、蘇我屠自古は自分たちを取り巻く視線に気づき、やや居心地の悪そうな顔をしていたが、それでも彼女の口の端も小さく持ち上がっていた。
 一つの異変が解決し、新たな幻想郷の住人を迎え入れる、恒例の宴会。
 その人の輪から、魂魄妖夢はそっと杯を置いて立ち上がり離れていった。
「ん、何だよ妖夢。どっか行くのか?」
 目敏く見咎めた白黒の魔法使い、霧雨魔理沙が声をかける。妖夢は気まずげな笑みで彼女を振り返り、
「ええ。今回はちょっと、騒ぐ気分ではないというか……」
「そういう台詞は、普段から付き合い良いやつが言うもんだぜ」
 小さく鼻を鳴らす魔理沙だったが、それ以上妖夢を引き留める気はないらしい。彼女にもう一度軽く頭を下げ、妖夢は小走りにその場を去った。彼女に寄り添っていた半透明の半霊が、少し遅れて妖夢に続く。
 境内の隅まで行くと、予想通りの人影がある。下戸であるが故に、酒宴の席ではいつも皆から遠ざかっている少女の名を、妖夢はそっと呼んだ。
「早苗さん」
「あ、妖夢さん。お疲れ様です」
 声をかけられた少女が、笑みを浮かべて妖夢に手を振った。守矢神社の巫女であり、現人神でもある少女、東風谷早苗だ。小さい御座に座る彼女の隣に、妖夢は特に断りもせずに腰を下ろした。
 早苗と違い、妖夢自身は決して酒が呑めないわけではない。ただ、周囲と比較して強いかと言えば、それも否だ。何よりも、酔っ払いに絡まれるたび面倒な目に遭わされ続けた彼女としては、極力人の輪から離れていたかった。
 そんな彼女が早苗と二人並んで佇む光景は、いつしか自然なものとなっていた。
 ちらり、と妖夢は隣の早苗に目をやる。いつもは不遜ともとれる自信に満ち溢れている彼女だが、今日に関しては日頃の覇気は見受けられない。
 もっとも、気落ちしているのは早苗だけでもなかったのだが。
「……負けちゃいましたねぇ」
「そうですね」
 細い吐息とともに零れた早苗の台詞に、妖夢も苦笑を返して頷いた。
 負けた、というのは、今回の異変の件だ。
 突如として神霊が大量発生するという今回の異変に際して、妖夢は霊による騒ぎの収束を、早苗は神霊の回収をそれぞれ目的として行動していた。そして、互いの利害の一致から、今回二人は共闘関係を結んでいたのだ。無論、共闘といっても二人がかりで戦っていたわけではなく、ローテーションを組むような形ではあったが。
 二人は順調に異変の元凶である神子の存在に迫り、また彼女の配下であった布都までは、難なく撃破していた。
 にも関わらず、最終局面で相対した神子に、二人は敗れた。一蹴されたと言ってもいいほどの完敗だ。先に挑んだ妖夢も、その後に戦った早苗も、どちらも神子に汗一つかかせることさえ叶わなかった。
 結局、その後遅れてやってきた霊夢に神子は倒され、異変は終幕となる。それは妖夢たちにとっては、霊夢との力の差をはっきりと見せつけられた瞬間でもあった。
「あ~ぁ、こっちへ来てから少しは力を上げたつもりだったのに……ちょっと自信なくしちゃいます」
 嘆息して肩を落とす早苗に、妖夢も小さく頷き返す。
「私も今回の件は、己の未熟を痛感しました。よもやあれほどあっさりと敗れるとは」
「妖夢さんは先発でしたからともかく、私は二番手だったのに完敗でしたよ……」
「それは、私が彼女を全く消耗させることができていなかった、ということですよ」
 そう交互に言い合う二人の表情は、お通夜ムードと言って差し支えないほどに沈鬱だ。やがて口を閉ざした二人は、遅れて同時に重苦しく溜息を吐いた。
「まぁ、落ち込んでても仕方ないのは分かるんですけどね……妖夢さんは皆さんのところに戻らなくていいんですか?」
「あはは……私も今日は疲れてしまいまして。あまり絡まれて無茶させられるのも嫌ですから」
「そうですか」
 苦笑を浮かべて肩を竦める妖夢に、早苗は弱々しく笑みかける。御座に置いてあった水のボトルとグラスを示し、
「飲みます?」
「いただきます」
 妖夢が頷くと、早苗はグラスに水を注いで手渡した。中身をぐいっと一息に煽ると、妖夢は大きく息を吐いた。吐息の掠れるその音が、まるで安堵のようにも聞こえる。
 空いたグラスを手にしたまま、妖夢は片手で頭を軽く押さえつつ、再び苦笑を見せて言った。
「やっぱり、疲れてるせいですかね。さっき一杯呑んだだけなのに、もう頭がクラクラします」
 自嘲気味に笑う妖夢だったが、彼女の言葉に、早苗は思い出し笑いを吹き出した。きょとんと目を瞬かせ、妖夢が首を傾げる。
「早苗さん?」
 訝しげに問いかける妖夢に、それでも早苗はしばし口元を隠して笑い声を漏らす。剥き出しの肩が、ぷるぷると小刻みに震えていた。
「ぷぷっ……あぁいえ、つい私たちが初めて宴会に誘われたときのことを思い出しまして」
「~~~っ!? あ、あのときのことは忘れてくださいよぅ!」
 聞いた瞬間、妖夢はその頬を真っ赤に染めて叫んだ。恥ずかしそうに目を潤ませ手を振り回す彼女を、早苗はやはり楽しそうに見つめている。
 早苗たちが幻想郷へと神社を移し、騒動を起こして霊夢に打ち負かされたのは、昨年の秋のことだ。その時も今回の神子たちと同じように、早苗たち守矢神社の神々は、宴会の席に招かれた。
 その宴会には、妖夢も彼女の主ともども参加していたのだが、彼女が周囲の者たちに半ば無理矢理酔い潰され、その介抱を任されたのが、酒席から離れていた早苗だった。妖夢自身にほとんど記憶はないのだが、べろんべろんに酔っぱらった彼女の乱れようは、日頃の大人しさなど毛ほども想像できない有様であったことを、早苗は克明に覚えている。
「すごかったですよねー。口を開くたび愚痴愚痴愚痴で、それなのに泣いたり怒ったり慌ただしく表情を変えてて」
「忘れてくださいって言ってるじゃないですかーっ! 何で逆に回想してるんです!?」
「仕方ないじゃないですか。私にとってはあれが妖夢さんの第一印象だったんですよ。まさか普段は打って変わって大人しい方だったなんて、その時には想像できませんでしたけど」
「記憶が飛ぶほど酔わされたのは、それこそあの時だけですよ……」
 苦虫を噛み潰したような表情で重たい溜息を吐き出し、妖夢は両肩を落とした。よほどその話題に触れられることが嫌なのか、真っ直ぐに伸ばしていた背筋までもがげんなりと曲がる。
 しばらくは妖夢の不機嫌顔を楽しそうに眺めていた早苗だったが、妖夢が再度吐いた溜息の、微妙な響きの違いに気づき、眉を顰める。
「……やっぱり、あの頃から成長してないのかな、私は」
 その口元に薄く刻まれた自嘲が、早苗には何故か、特別嫌なものに思えた。
 理由は分からない。強いて例えるなら、磨き抜いた皿に一点の曇りを見つけたような、掛軸の達筆が微妙に滲んでいるのに気づいたような、そんな言い知れない不快感だ。
「駄目なんですか、それじゃ?」
 短く問いかける早苗に、妖夢はやはり、ぎこちない笑みを浮かべたまま、
「ちゃんと前に進みたいです。強くなりたいし、一人前になりたい。そう認めてもらえるようになりたいです。ただ……」
 そう言葉を切って、妖夢は小さく鼻を鳴らした。首を傾げる早苗に、妖夢はちらりと顔を向けて、再び口を開く。
「ただ、明確な目標が見えないんです。昔はそんなこと、気にもしなかったのに」
「…………」
「剣には師匠がいました。あの人のように強くなりたいとは、今でも思ってます。けれど、それ以外のことについては全然、分からないんですよ……向かう先も、今の立ち位置さえも。だからきっと、私は成長できないんです。多分、それがちゃんと分かるまではずっと」
 語る彼女の瞳は、まさしく蒼穹の如く透徹していた。
 その果てなき深さは、彼女が見据える先の遠さを表しているのだろう。そしてその底を見いだせない早苗もまた、妖夢と同じように、自分の向かう先を見通すことができていないのだ。その事実を、まざまざと突きつけられる。
「私は、神奈子様や諏訪子様のお力になれるように、守矢の一員として胸を張れるようになりたいです」
 半ば自分に言い聞かせるつもりで、早苗は口にした。だが、その響きのあまりの空虚さに、思わず早苗自身が失笑を漏らす。
「……なんて、言ってみてもやっぱり、漠然とし過ぎてますね。妖夢さんと同じように、私も進む先が見えていなかったみたいです」
「難しいですね。成長するのって」
 ともに沈んだ声音で言葉を交わす妖夢と早苗。二人が口を閉ざすと、辺りの空気は一層重く、二人の肩にのしかかってくる。
 いつしか二人は、揃って空を見上げていた。瞬く星々と黒い海。そこはやはり終端の見えない無限の世界だった。
 いつの日か、暗がりに星の光を見出すように、自分もまた己の目指す在り方を見つけ出すことができるのだろうか。
 言葉もなく、そんなことをいつまでも考え続ける二人の間には、結局その後それぞれの主たちが迎えに来るまで、ただ一片の言葉も交わされることはなかった。

■ ■ ■

「さて、と」
 翌日。
 庭木の剪定と屋敷の掃除を終えた妖夢は、鞘に納めた二振りの剣を佩き、一際開けた庭の中心に立っていた。目的はいつもと同じ、修行である。
 先日の異変とそこでの敗戦を通じ、己の根本的な弱さを自覚した妖夢であったが、だからといって日頃の生活を大きく改めるようなことはしなかった。彼女の最大の問題は目標を見失っていることにこそある。それをきちんと見つけるまでは、無闇に修行の仕方を変えたところで成果が出るはずもない。故に、あくまでも精神統一の一環として、彼女はこれまで通りの修行に励むことにしたのだ。
 大きく深呼吸すると、妖夢は背負った長刀――楼観剣を抜き放ち、青眼に構える。ぴたりと定まった切っ先が、陽の光を怜悧に照り返す。
 しばしの間を空けて、縦に一閃。淀みない所作で右に斬り返し、前後を反転して袈裟懸けに、一歩踏み込んで逆袈裟に刃を閃かせる。
 砂利を蹴立てながら、妖夢は縦横に刀を振るう。空を咲く剣閃はみるみる苛烈さを増し、彼女の足元ではいつの間にか、砂利の下の地面が円形に剥き出しになっていた。
 時間にして五分程度だろうか。出鱈目に見えて、その実いつも通りの型に沿った素振りを終え、妖夢は上段から振り下ろした刃をぴたりと止めた。切っ先は微動だにさせぬまま、僅かに上がった息を整える。
「ふぅ……じゃあ次は」
 ものの十秒ほどで平素の呼吸を取り戻し、妖夢は左手を楼観剣の柄から離した。代わって腰の後ろからもう一振りの刀、白桜剣を抜き放つと、彼女は二刀を構えて目を閉じた。
 次に練習するのは、剣術でなく妖術。それも、彼女の手持ちでは最も集中を要する術だ。威力や瞬間的に要する集中力だけならともかく、長期に渡って集中する必要があり、それ故に練度に関しては最も未熟な術である。
 半霊に自分と同じ姿をとらせ、自分の身体と同様に操作するというこの術は、つまるところ自分一人の頭で二人分の身体を動かすということに他ならない。この非常に複雑な作業を、妖夢はまだ十全にこなせないでいた。
(けど、精神を鍛え上げるなら、これ以上の手段はない)
 胸中で自らに言い聞かせながら、妖夢は妖力を傍らの半霊に注ぎ込む。同時に自分の意識を、意思を繋ぐイメージ。すぐに、半霊が形を求めて蠢くのが、感覚として分かる。
 いつもよりゆっくりと、正確に術の完成を脳裏に描きながら、しかし別の思考が、その時妖夢の意識を横切っていった。
(精神を鍛えて……でもそれで、本当に答えは見つかるの……?)
(ううん、見つける。見つけて……でも、それで何をするんだろう)
(一人で考えて分かるのかな……例えば、早苗さんならどんな――)
 微かな不安が、ほんの一瞬だけ瞬いた。昨夜の敗戦が、宴会での会話が、その隙を突いて心の中に雪崩れ込む。妖夢は慌ててそれを締め出した。
(っ……いけない、集中集中っ!)
 頭を振るが、その時点で思い描いていたイメージは既に霧散している。彼女は嘆息し、肩の力を抜いてぼやいた。
「ああもうっ、こんなだから進歩がないんだ、私は……」
 苛立たしげに吐き捨てて、閉じていた瞼を開ける。ひとまず術を中止しようと、妖夢は自分の半霊に向き直って、
「って、あれ?」
 そこにいつの間にか早苗が立っていることに気づき、目を瞬いた。妖夢は慌てて一歩距離を離して会釈しつつ、
「い、いらしてたんですねっ。気づかなくてすみません。けど、一声かけてくだされ、ば……?」
 早口で捲し立てる妖夢だったが、早苗の様子に違和感を覚え、言葉を止めて顔を上げた。真っ直ぐに見つめた早苗の表情は妙に無感情で、心なしか目の焦点も合っていない。まるで夢遊病か何かのようだ。
 違和感は不審へと変わる。妖夢は薄く警戒すら滲ませて早苗を――或いはその姿をとった何かを睨みつけた。
「……早苗さん、何か応えてくれませんか?」
 警告ともとれる言葉を投げかけながら、妖夢は半霊を呼び戻す。
 それと同時、早苗が一歩、妖夢へと近づいた。妖夢は咄嗟に、手にした刀へと意識を集中する。すると、今度は突然早苗が足を止めた。
「……?」
 正面の影から意識を逸らさぬようにしながら、妖夢はゆっくりと視界を左右に動かした。だが、傍にいるはずの半霊が、彼女の目には映らない。
 さらに半信半疑で、眼前の早苗に視線を戻すと、半霊に対して右に動くよう念じてみる。すると早苗は無表情のまま、右足を一歩外へと開いた。
「嘘……」
 愕然たる思いで、妖夢はどうにか声を絞り出した。どんな表情を浮かべたらいいのかさえ分からず、口元を歪に痙攣させることしかできない。
 硬直した妖夢の方を、早苗の姿に変じた半霊は、微動だにせずじっと見つめている。相対する妖夢は、戸惑いながらも鞘に二刀を納めて半霊に歩み寄った。
「え……っと。何でこんな格好に……?」
 口に出してみるが、当然それで変化が起きるはずもない。妖夢としても原因が思い当るはずもなく、首を傾げるより他になかった。
 どうしてこうなったのか、というだけなら、半信半疑ではあるものの予想できる。術の集中を乱す直前、確かに妖夢は早苗のことを思い出してはいた。それだけのことで半霊がこんな姿になるのか、という点には確証など全くないが、他に心当たりがないのも事実だ。
(にしても……そっくりだなぁ、これ)
 自分がやったのではという疑念を棚上げし、妖夢は唸りながら半霊の化けた姿を眺めまわした。
 自分よりも高い上背や、大きく膨らんだ胸部もそうだが、肩と露出や袖の長さ、スカートの丈に至るまで、記憶にある早苗のものと完全に一致している。とはいえ、仮に妖夢の中のイメージに沿ってこの姿をとっているのなら、当然とも言えるが。
(そんなにじっくり思い浮かべてたわけじゃないはずなんだけど)
 胸の内でぼやきつつ、妖夢は早苗の顔を様々な方向から見上げてみる。如何に親しい仲とはいえ、さすがにこれほど間近で長時間、早苗の顔を凝視し続けた経験はない。
 即座に術を解こうという理性を押しのけて、好奇心が疼いた。
 幾度となく躊躇しながら、それでも妖夢はそっと手を伸ばす。差し出した右手で、早苗の頬に触れる。滑らかな肌の質感と、人と変わりない温もりが返ってきた。
 早苗の顔を引いて俯かせ、真正面から見つめ合ってみる。表情のない顔立ちは、それでも彼女の持つ耽美さと、年相応の愛らしさが見て取れた。その顔を、妖夢はかつてないほど近くで見上げ――
(って、私はこんなことをして何を!?)
 はたと我に返り、妖夢は慌てて半霊を両手で下がらせながら頭を振った。
 そもそも修行中だということすら忘れていた。完全な怠慢だ。己への憤りと失望に、妖夢は呆れ返って嘆息した。
「はぁぁ……ホント駄目だな、私。こんなんじゃ強くなれなくて当然だよ……」
 ありったけの自己嫌悪を込めて吐き捨て、げんなりと背を丸める。彼女は足元に目を落とし、次いで天を仰いでもう一度溜息を吐いた。
 夏らしい日差しが肌を刺す。冥界といえど四季の変化は勿論あるし、夏の日差しは他の季節よりも強い。目を細め、妖夢は視線を蒼穹から外した。
 視界を地上の高さへと戻したところで、その隅に微かな影が映った気がして、妖夢は半ば無意識し、そして何の気もなしにそちらへ向き直る。
 そこに、早苗がいた。
「…………」
 恐ろしくぎこちなく、妖夢は正面に目を移す。そこには変わらず、無表情の早苗が立っていた。次いで、再び右を向く。やはり無表情の早苗が、妖夢を凝視して立っていた。
 二体目の半霊は存在しない。正面にいる早苗は、妖夢の半霊が化けたものだ。となれば、今見ている二人目の早苗は一体誰なのか。そんな分かり切った解答を導き出すことすら、妖夢には極めつけの困難だった。
 そしてその意味を理解した瞬間、妖夢の顔は真っ赤に染まり、さらにすぐさま蒼白に変わる。
「……はぁァァェェ!? さ、さなえさんっ!?」
 悲鳴ともつかない声を上げ、妖夢は本物の早苗に身体ごと向き直った。焦点の合った目はぴたりと妖夢を捉えていたが、面貌には何の感情も浮かんではいなかった。
 否、実際には、その瞳は揺れに揺れ、様々な葛藤が綯い交ぜになっていたのだが、今の妖夢にそれを見抜くだけの余裕はあるはずもない。早苗の動揺など露知らず、妖夢は必死に弁明の言葉を繰り返した。
「違うんです! これは私がやったわけでは……いや、確かに私のせいかもしれないんですが、決して意図してこのような事態に至ったわけでなく、いわば不慮の事故と言いますか、その……」
 思いつく端から捲し立てていた妖夢だが、その言葉も次第に勢いを失っていった。俯き、上目使いに早苗の姿を窺いながら、彼女はぽつりと、
「……ごめんなさい」
 酷く惨めな気分で、そう零した。
 もう、早苗の顔を見ようとすることすらままならない。妖夢は奥歯を噛み締めながら、石畳に伸びる早苗の影を凝視することしかできなかった。その心中は、死刑宣告を待つ罪人に等しい。
 一体どれほど、早苗は沈黙を貫いていただろうか。
 やがて彼女は、ゆっくりと口を開き、言葉を紡いだ。

「……帰ります」

「っ……!」
 声なき悲鳴を上げて妖夢が顔を跳ね上げたときには、既に早苗はいなかった。少し視界を動かすと、既に小さくなった背中が見える。
 追って追いつけない距離ではない――が、仮にそうして、一体何ができるのだろうか。そう思った瞬間、両脚が竦んで動かなくなった。
「待って……」
 縋るように言って、辛うじて手を伸ばすが、勿論その手も声も、早苗に届くはずがない。やり場を失った右手を宙に差し出したまま、妖夢は堪え切れずに嗚咽を漏らした。
 見開いた目から涙が零れだす。それを拭う気力さえなく、彼女は膝を落として泣き崩れた。幾度となくしゃくりを上げながら、己の細い身体を両手で掻き抱く。
 そんな彼女の背に、ふいに優しく誰かが触れた。
「泣かないの、妖夢」
「……ゆゆこさまぁ」
 柔らかい声に呼びかけられて、妖夢は涙声で応えながら背後を振り返った。柔和な笑みを湛えてそこにいたのは、白玉楼の主たる亡霊の姫君、西行寺幽々子だ。
 ぼろぼろと涙を流し続ける妖夢の頭を、幽々子はただ黙って撫でた。己が主の手を煩わせる情けなさに一層表情を歪めつつ、それでも妖夢は幽々子に縋りつかずにはいられない。
「ゆゆこさまぁっ! 私……私どうしたら……」
「あらあら」
「どうして私、こんな……っ」
 彼女を抱き留め、幽々子は苦笑しつつも、落ち着かせるように妖夢の背をぽん、ぽんと叩く。幽々子の胸に顔を埋め、妖夢はえずきながら言葉を絞り出した。
 が、彼女の誰にともなく宛てた問いかけに、幽々子は渋そうに目元を曲げる。
「う~ん。どうして……どうしてかぁ。妖夢、貴女まだちゃんと自覚できてないのね」
「ぇぐっ……何が、ですか?」
 しゃくり上げながらも、妖夢は顔を上向けて幽々子を見た。幽々子は妖夢の顔を、愛おしげに、だがどこか呆れたように見返す。
「できれば自分で気づいて欲しかったのだけど……まぁ、今回くらいは背中押してあげましょうかね」
 妖夢には聞こえないほどか細い声で独りごちると、幽々子は少しだけ焦らすように間を空けてから、ゆっくりと口を開き、
「ねぇ、妖夢。今回の異変で、貴女は沢山の神霊を見てきたわね」
「? え、えぇ」
「それはつまり、沢山の人の欲に触れてきたということ。人が持つ、色んな欲を目にしてきたということ。そうでなきゃ困るわ。そうさせるために、わざわざあんな異変の調査に、貴女を送り出したのだから」
 そんなことを、あっさりと言ってのける。目を丸くする妖夢に構わず、その言葉を徐々に早めながら、幽々子はなおも続けた。
「どんな欲が貴女に惹かれたかしら? 貴女自身は、どんな欲に共感できたかしら?」
「ゆ、幽々子様、待ってくださ――」
「きちんと貴女自身の欲の形は見つけられたのでしょう? それを、他でもない貴女が認めていないというだけで」
「ゆ……」
「自分が目指す先が見えないのは何故か、どうして分からないと思ってしまうのか、本当は貴女だって――」
「幽々子様ッ!!」
 静止を無視して語り続ける幽々子の言葉を、妖夢は強引に遮った。両手で幽々子の身体を突き飛ばし、目尻に涙の浮いた眼差しを凄烈に歪めて、彼女は幽々子を睨みつける。
 そんな従者の眼光をものともせずに受け流し、幽々子は口を閉ざして妖夢を見た。凄みなどまるでない幽々子の目を、しかし妖夢は直視できずに目を逸らす。
「……欲なんて、私にはそんな低俗な物……」
 辛うじてそれだけ口にする。俯く妖夢に、幽々子は決して強くはない口調で告げた。
「それは、欲というものが低俗だと思っているの?」
「…………」
 無言の妖夢に、幽々子はなおも突きつけるように、
「それとも、貴女自身の欲を、低俗なものだと見なしているのかしら?」
「ですから、私には欲など――」
「あるじゃない。ここに」
 必死に追及を逃れようとする妖夢に、どこまでも事実を突きつけるように、幽々子は言う。
 いつの間にか、彼女は妖夢のすぐ隣まで歩み寄っていた。妖夢が驚き、顔を上げれば、そこには幽々子ともう一人、早苗の姿がある。
 早苗の姿をした半霊の両手を取る幽々子を目にした瞬間、妖夢の胸中で、ざわりと何かが粟立った。苦いような、甘いような、淡い感情の数々が、まるでかつて抱いたかのように浮かんでは消える。そしてその源に、黒く重く鎮座した何かの影が見えた――ような気がした。
 なおも顔を覗かせようとした感情から咄嗟に目を背け、妖夢は叫ぶ。
「なっ、何をして……むっ!?」
 しかし、幽々子は早苗から片手を離して、人差し指で妖夢の唇を押さえた。絶妙なタイミングで口を塞がれ、二の句を継げなくなった妖夢の目をじっと覗き、幽々子は変わらぬトーンで問う。
「ほら。もう貴女自身にだって、誤魔化し切れるものじゃないでしょう?」
 そう言うと、幽々子は肩を竦めて半霊を放した。その背を軽く押すと、早苗の姿をした半霊は一歩前に踏み出し、妖夢の眼前に立つ。妖夢が思わず抱き留めた瞬間、幽霊らしからぬ温もりが伝わってきた。
「あ……あ」
 その温もりに、妖夢の鼓動が跳ねた。
 ずっとすぐ近くに感じながら、しかし直に手を触れることができずにいた感触。例え偽りの物だとしても、手放すことを躊躇うほどの尊さがそこにあった。
 動悸がする。眩暈がする。脈動する血流を遡って、心の奥深くに沈めたはずの感情が、今一度陽の下へ戻りたいと蠢き始める。
 忘れようとしていたのに。意識すまいとしていたのに。早苗の姿から伝わる温もりと、何より幽々子の言葉と、何よりも一瞬とはいえ感じてしまった幸福感が、本当の望みの――欲の上に被せたメッキを、容赦なく引き剥がしていく。
 幾多の人の欲の中で、一際輝いて見えたもの。それは、誰かとともに在りたいという想いだった。
 ただ一人の大切な者の隣に在りたいという想い。
 自分だけを見て欲しいという願い。
 自分だけのものにしてしまいたいという、欲だ。
 子供じみた独占欲にも相通ずる、軽蔑すら覚えるはずの想いを前に、しかし妖夢は昨晩、間違いなく目を惹かれた。
 何故ならそれは、彼女の中に在った捉えがたい感情と、同じものだったから。それまで正体の掴めなかった感情の答えを、確かにそこに見出したのだから。
「や、嫌だ……!」
 半ば無意識に言葉が零れる。だが、それも意味はない。
 皺になるのも構わず、上着の左胸を強く掴む。だが、それも意味はない。
 頭を抱え耳を塞ぎ、蹲ってももう止まらない。敗戦の悔しさを重石にして、心の奥底、意識の外へ沈めた想いを再び封ずる術はもう、彼女にはない。
 初めて出会った酒宴の席で、その外の日常で、そして昨晩の異変を巡る戦いの中で。
 いつも傍らにいてくれた早苗に、己が抱いた欲から逃れる術はもう、彼女にはない。
「いやッ……」
 漠然とした概念だけで、はっきりと理解しているわけではない。それでも妖夢は、その欲の正体が何なのか、直感的に察していた。

 この想いはきっと、恋だ。

 そう思った瞬間、膝の力が抜けた。地面に腰を落とし、魂の抜け落ちた表情で空を見上げる妖夢の脳裏には、ただ打ちひしがれたショックだけがあった。
「ち、ちが……違います……っ」
 口だけは未だ否定を続けるが、最早その言葉は妖夢自身にさえ白々しく響く。
 気づけば、真円に見開かれた両の目からは、大粒の涙が際限なく流れ落ちていた。そんな彼女を、幽々子は少し困った様子で見下ろし、
「むしろ私の方が聞きたいくらいねぇ。どうして、そんなにも頑なに認めようとしないのかしら、妖夢?」
 問いかけにも、妖夢は暫くの間はすすり泣くばかりで、答えを返すこともままならない。幽々子は再度問おうとはせず、ただ黙して妖夢の傍らに立ち、待つ。
 妖夢もそれに気づいていたのだろう。涙の止まらない両目を何度も袖で擦り、俯きしゃがみ込んだまま、それでも身体だけは幽々子へ向き直る。そして、震える声で言葉を紡いだ。
「だ……って、だってこの想いは、醜いですっ」
「どうして?」
「押しつけがましくて、自分勝手で……こんな想いを向けられたら、きっと早苗さんも困るだけ……あたっ」
 言葉の途中で、頭頂部を強かに打ち据えられ、妖夢は悲鳴を上げて頭上を睨んだ。
 当然、そんなことをするものなど、幽々子をおいて他にはいない。いよいよ激怒を以て眼光をぎらつかせる妖夢だったが、彼女を迎える幽々子の瞳の色は、それまでと違っていた。
 湖水のように静かにたゆたうのは、軽蔑と侮蔑、そして微かな怒りの色。彼女のそんな目を見るのはいつ以来だったか――そして記憶にある限り、それが妖夢に向けられたのは初めてのことだ。直前までの怒りは瞬時に霧散し、妖夢は戸惑いも露わに眉根を寄せた。
「甘えたことを言わないで、妖夢」
 それまでよりも強い口調で、幽々子が告げる。その厳粛とした響きに、妖夢は我知らず背筋を伸ばして表情を引き締めた。未だ涙は止まらぬものの、それを拭おうと頭の片隅に思い浮かべることさえ、今の幽々子を前にしては適わない。
 緊張に顔を強張らせた妖夢の頬にそっと触れ、幽々子は真剣な面立ちで続ける。
「その想いが押しつけがましい? 違うわ。それを拒否する権利は、誰にだってある。想い、口に出すだけで押しつけがましいだなんて、考え過ぎよ」
 彼女の口にする一言一言は、白刃を振るうかの如く鋭く、それでいて重い。斬り裂かれたような痛みが走る胸を片手で押さえ、妖夢は反論を試みる。
「け、けれどっ……伝えることで意識させちゃうことだって、あるかもしれないじゃないですか……!」
「そういうことを言っているんじゃないの」
 だが、幽々子の返事は簡潔だ。そこに込められた、揺るがしようのない芯を感じ、妖夢は気圧されたじろいだ。
「貴女が抱いたその想いは、貴女一人のものじゃないの。貴女と、早苗が為してきたことの結果。貴女と早苗の培った時間の産物。貴女一人抱えていることの方が、余程おこがましいことなのよ」
「……詭弁ですよ、そんなの」
「いいえ。貴女の言こそが詭弁よ」
 必死に絞り出された妖夢の言葉もぴしゃりと否定する幽々子。心なしかその一言は、それまでと比しても力強い響きを持っていた。
「納得できないというなら、まず一度考えてみなさい」
 閉口した妖夢の眼差しを縫い付けるように見据え、幽々子は真剣そのものの表情で問いを放つ。
「貴女が、その早苗への想いを彼女に伝えて――もし仮に、それを彼女自身に断られることがあったなら。妖夢、そのとき貴女はどうするの?」
「っ!?」
 今度こそ、心の中で大切な何かが折れる音がした。
 視界が歪むほどの眩暈を感じて、妖夢はたまらず片手を地面について蹲りながら、もう片方の手で口元を覆う。込み上げる吐き気は必死で堪えたが、呼吸は大いに乱れ、息苦しさが彼女を苛んだ。
 だが、心に突き刺さった痛みはその比ではない。臓腑を残らず抉られたのではないかと錯覚するほどに、それは耐えがたい苦痛だった。
「納得できたかしら?」
 そんな妖夢へと幽々子がかける声は、なおも変わらず冷ややかだ。半ば以上放心した妖夢の意識に、しかしその言葉は不思議と自然に滑り込んでくる。
「貴女はその痛みから逃げていただけ。敗れることへの恐怖から、挑むことを躊躇っていただけよ」
 どこまでも冷徹な物言いに、妖夢の中で反駁したいという気持ちが、一瞬だけ膨れ上がる。だがその実現より早く、さらなる言葉が容赦なく彼女を打ち据える。
「違うとは言わせない。貴女はその弱さから目を逸らしていたに過ぎないわ。想いを伝えないための言い訳を拵えて、戦うことそのものから逃げた。逃げ出したという自分の弱さそのものからさえも逃げた」
「ぁ……ぅ」
 妖夢が掠れた声を漏らす。それはもう、言葉の体を為してはいなかった。
 完全に言い伏せられた。その実感が、妖夢の全身から活力を奪っていった。
 冷静に、時間をかけて考えれば、幽々子の言葉にも荒はあったかもしれない。だが少なくとも本質的な部分で、彼女の言葉は正鵠を射ていた。妖夢自身の弱さを、自覚していた以上に明確に、眼前に突きつけられてしまった。
 そして直視したあまりの愚かしさに、最早妖夢に、言い返す言葉などありはしなかった。
「ふぇぇぅ……っぐぅぅぁぁ」
 額を地面に擦りつけて、両腕で細い身体を抱き、さめざめと泣く。それ以外、妖夢にできることは何一つない。
 少なくとも、彼女自身はそう思っていた。
「あのね妖夢。勘違いしないで」
 不意に、妖夢の髪を柔らかい指が撫でる。
 顔を上げることもできないまま、しかし嗚咽を堪える己が従者へと、幽々子やゆっくりと語りかける。
「私は貴女の弱さを責めているわけじゃないわ。自分の想いに向き合うということは、他のどんなものに立ち向かうよりも難しいことだから。けれどね、その自分の弱さからは、逃げては駄目」
 ぽん、ぽんと規則的なリズムで撫でる手つきに、妖夢はふと、古い記憶を擽られた。
 それは、まだ妖夢が幼かった頃。彼女の師がまだ、白玉楼にいた頃のこと。厳しい修行に音を上げそうになるたび、幽々子はこうしてあやしてくれたことを、妖夢は思い出す。
「前を見なさい、妖夢。目を逸らさないで、前を。貴女の師匠が何て言ってきたか、覚えているでしょう?」
 唐突な問いかけに、妖夢は泣き濡らした顔を上げ、上目使いに幽々子を見上げながら、か細い声で答える。
「……『真実は、斬って知る』、と……」
 幽々子が満足げに頷く。彼女はやはり妖夢の頭を撫でながら、
「そう。行く道に敵がいるのなら、斬り伏せて進みなさい。臆して足を止めているうちは、決して先へは進めない――さ、妖夢」
 と、もう一度名前を呼んで、幽々子はすっと目を細めた。桜色の瞳が、妖夢の双眸を深くまで覗き込む。
 試すような眼差しに、しかし妖夢は不思議と恐れを感じなかった。
「貴女の斬るべきものが何なのか。もう分かっているわね」
「…………」
「すぐになんて言わない。それでも、いずれどんな形であれ、貴女は決着をつけなければいけないわ。そのことだけ、ちゃんと分かっていて」
 一語一語、その総てに等しき意味を込めて、幽々子はそう告げた。妖夢の髪に一度指を潜らせると、その手を放して口を閉じる。
 これ以上語ることはないと、幽々子は黙して妖夢に微笑みかけた。一時見せた険しさの名残は、もうそこにはない。それでも妖夢は、泣き濡れた顔に真摯な表情を浮かべて、彼女の言葉を噛み砕いた。
 長い――酷く長い沈黙が落ちる。それでも、互いの瞳を見交わしたまま、二人は微動だにしない。幽々子は見守り、妖夢は熟考する。言葉のやりとりもなければ、意思の疎通でさえない。
 にも関わらず、その沈黙は決して重苦しいものではなかった。
「幽々子様」
 やがて、妖夢が口を開いた。
 涙の跡はまだ消えない。それでも、凛として芯の通った声と面差しは、既に悲壮さを完全に払拭している。
 まるで生まれ変わったかのような、瑞々しい覇気の漲る青い双眸を輝かせ、妖夢は地べたに座ったまま、おもむろに一礼した。
「ありがとうございます。おかげで目が覚めました。私はまだ――先へ進めます」
「……そう」
 頭を垂れた妖夢に、幽々子は短く応える。彼女の顔は、今の妖夢には窺い知ることはできない。
 故に、幽々子がその口の端に確かな安堵を浮かべていたことに、妖夢は気づかなかった。
 突き出された妖夢の頭を抱え、幽々子は楽しげに鼻を鳴らす。困惑するわけでもなく、妖夢が不思議そうに問いかける。
「幽々子様? どうされました?」
「んーん、何も」
「?」
 一層強く妖夢を抱き締める幽々子に、妖夢は疑問符を浮かべつつも、為されるがままであり続けた。少なくとも、それを拒む理由は彼女にはない。
 ただ、以前ほど戸惑いや驚きを感じないのは――或いは、自分の心が定まったおかげだろうか。
「ところで幽々子様。一つ、我儘を言ってもいいですか?」
「ん、なぁに?」
「今からしばらくの間、暇を戴けないでしょうか?」
 生真面目な態度を微塵も崩さない妖夢の言葉に、幽々子はクスリと笑う。どこか呆れたような声音で、
「すぐじゃなくてもいい、って言っても聞かないのね」
 彼女の言葉に、妖夢は微かに自嘲の混じる笑みで応えた。
「私はまだ半人前です。今日、改めてそれが身に染みて分かりました。時間を置いたら、きっと私はまた足が竦んで動けなくなる。今だから、幽々子様に背中を押していただいた今だからこそ、行くべきだと思います」
 幽々子の答えは確信している。妖夢はすくっと立ち上がると、傍に呼び寄せた早苗の姿の半霊の肩を、軽く叩く。
 その瞬間、早苗の姿がブレた。輪郭を失い、あっという間に彼女の面影が宙に溶けた後、そこに残るのは元の形を取り戻した、半透明の半霊だ。
 それを見届けて、妖夢は改めて幽々子に向き直る。
「これじゃ――こんな紛い物じゃあ満足できないんだって、はっきり分かってる内に行ってきます」
 自嘲を吹き消し、どこか凛々しさを帯びた微笑を見せて、妖夢ははっきりと告げる。幽々子はもう何も言おうとはせず、ただ頷いた。
 彼女に背を向け、妖夢は早足に立ち去る――かと思いきや、数歩進んだところで振り返り、
「それと、幽々子様」
「?」
 幽々子がきょとんと首を傾げる。そんな彼女に、妖夢はほんの数瞬前の笑みはどこへやら、少し不安げな表情で、
「もし……もしも私が敗れて帰ってきたら、慰めてくれますか?」
「ぷっ」
 間髪入れずに幽々子がわざとらしく吹き出すと、妖夢が途端に顔を赤くする。幽々子は袖口で口元を隠しながら、なおも暫くクスクス笑い声を零した。
「……何も笑わなくたって……」
「いえね。やっぱりまだ半人前だなぁって思って」
 憮然とした妖夢の言葉にも、幽々子は忌憚も躊躇もなく言う。赤らんだ頬を丸く膨らませる妖夢だったが、そんな彼女に幽々子は頷きを返し、
「けど、いいわ。それくらいは約束してあげる。だから、悔いの残らないようにしていらっしゃい」
 言葉とともに、笑顔を見せた。
「……はい。行ってきます!」
 いつも通りの彼女らしい、自然と心に滑り込む柔らかい笑み。主の最大限の後押しに、妖夢は今度こそ力強く宣言して駆け出した。
 助走から跳躍。妖夢の小柄な体躯が、綿毛のように宙に舞いあがる。見る間に加速し空へ消える少女を、元の姿を取り戻した半霊が追いかけた。
 彼女の影が見えなくなるまで、幽々子は庭の真ん中に佇んでいた。薄く開いた唇の隙間から細い吐息を漏らし、
「……世話が焼けるわね。でも、これで大丈夫かしら」
 そうであって欲しいと、口に出さずに幽々子は想う。そればかりは、彼女にどうにかできる問題ではない。
 それでも、己の従者のことだけはよく分かっている。彼女の振る舞いも、彼女が傍にいる者に与える印象も、分かっているつもりでいる。だからこそ、幽々子は心配はしていなかった。
 今はただ、いずれ帰ってくる彼女のことを想い、
「たまには私がご飯作ってあげたら、あの子驚くでしょうね~。折角だから、お赤飯でも炊いてあげましょうかしら」
 そんなことを独り言ちながら、幽々子は軽い足取りで屋敷へと引き返していった。

■ ■ ■

「お邪魔します!」
 守矢神社、その社務所の引き戸を勢いよく開けて、妖夢は声を張り上げた。
 早苗と親しくなってから、幾度となく訪れた家だ。当然、早苗以外の住人も、妖夢のことは知っている。彼女の声を聞き、すぐに出迎えが現れた。
「ありゃ、半分の子だ。いらっしゃい~」
 ひょこっと顔を覗かせた小柄な少女が、手を振りながら声をかける。家の中だというのに、蛙の目玉を思わせる装飾のついた帽子を被っている。
 見た目こそ妖夢よりなお幼い少女だが、その実は守矢神社が祀る神の一柱である土着神、名を洩矢諏訪子という。
「こんにちは諏訪子さん。早苗さん、いらっしゃいますか?」
「あは」
 開口一番に問いかける妖夢だったが、諏訪子はそれに、意味深な笑いを零した。薄く開いた瞼の下、紫の双眸がぬらりと光を放ったような気がして、妖夢は我知らず身震いした。
「早苗ならいるよ。ちょっと前に帰ってきた」
 妖夢が同じ問いを重ねるより早く、諏訪子は先の含みのある笑いなどなかったように、平然と答える。警戒を込めた妖夢の眼差しを意に介した風もなく、「ただねぇ」と呟いて、彼女は続けた。
「帰ってくるなり部屋に閉じ籠っちゃってさ~。出てきてくれるならいいんだけど」
「部屋に……」
「そ。何か心当たりとかなぁい?」
 今度は諏訪子も隠そうとはしなかった。再び走らせた眼光は、心中を探るように妖夢を舐める。
 だが、妖夢は臆さない。諏訪子の視線を跳ね除けると、彼女の言葉に何も答えず、早苗の自室に向かって足を踏み出した。彼女の背に、諏訪子は文句も言わずに続く。
 目的の部屋に辿り着くのに、十歩も必要ない。玄関から少し進んだところで、妖夢は早苗の部屋の前に立ち尽くす、もう一人の姿に気がついた。
「お邪魔してます、神奈子さん」
「ん、ああ……」
 名を呼ばれたのは守矢神社の主神、軍神である八坂神奈子だ。彼女は正面の扉から目を離すと、何か言いたげな眼差しで妖夢を見た。
 何か、と思い、しかし妖夢はすぐに思い当たった。そもそも、早苗が白玉楼へ向かったことは、彼女たちとて承知だったはずだ。その早苗が、すぐに帰ってきた挙句に部屋に籠ったきりというのならば、妖夢が何らかの形でかかわっていると見るのも当然だろう。
 どう説明したものかと妖夢が思案する中、しかし彼女の背中から現れた諏訪子が、神奈子の袖を引いた。
「何だ諏訪子?」
「任せるよ、ここは」
 怪訝そうな神奈子だったが、それに対する諏訪子の返事はごく簡潔だ。それでも、彼女の意図を察したのだろう。神奈子は小さく眉根を寄せ、それから妖夢と諏訪子を交互に見た。
「ほらほら。邪魔者はどいたどいた」
「……分かった。後は頼む」
 なおも諏訪子が神奈子の身体を両手で押してどかそうとすると、神奈子はやや釈然としない様子で、それでも妖夢に小さく頷きながら告げた。妖夢も同じように頷き、立ち去る諏訪子と神奈子を見送る。
 廊下を折れて、二人の姿が完全に見えなくなったのを確認してから、妖夢は正面の扉に向き直った。途端に緊張する己を自覚して、妖夢は大きく息を吸う。
 息を吐く。
 吸う。
 吐く。
 そうして、妖夢は改めて、早苗と自分とを隔てる扉を見る。何の変哲もない、木製の扉だ。少しその気になれば、それは容易に木屑となって消えるだろう。
 けれど、それでは意味がない。そうやってこの扉を消したとしても、自分と早苗の間に新たな壁が生まれるだけだ。今度は何があっても突き崩すことの適わない、壁が。
「早苗さん……聞こえてますよね?」
 故に、妖夢は扉の向こうへ語りかける。
 微かな物音が、部屋の中から聞こえてきた。妖夢はそれに、続けて言葉を紡ぐ。
「先ほどは本当にごめんなさい。あの場でも言いましたが、半霊に貴女の姿をとらせたことは、決して私が意図してやったことではないんです。それでもあれは、貴女に対する侮辱でしかなかった。そのことは、謝らせてください」
 物言わぬ扉に向けて、妖夢は淀みなく喋り続ける。中でそれを聞く早苗の胸の内が気にならないわけではないが、妖夢は敢えてそれを意識から切り離し、平静であろうとし続けた。
 が、その次の言葉を言おうとしたとき、ふいに喉に何かがつっかかった。
「ただ、ですね。やっぱりあれには、私自身が原因の部分もありまして、その……」
 焦燥と恐怖が交互に胸中を過る。早くも弱気が首をもたげたことに、妖夢は内心で歯噛みした。
 しかし、混乱しかかった頭の隅で、別の思考が即座に動いた。
 己の弱さを、自分はついさっき、まざまざと見せつけられたばかりではないか。そしてその対処法も、既に妖夢は悟っている。
 まだ自分は半人前だ。自分の気持ちにさえ素直になれない。未熟で、不器用な自分が、どうして言葉を尽くして、誰かに気持ちを伝えようというのか。
 無理だ。それを、妖夢ははっきりと自覚している。
 幾多の言葉で想いを飾ることなどできない。回り道をして目的地へ辿りつけるほど、妖夢は器用ではない。彼女にできるのはただ一つ。
 障害はすべて斬り伏せて、脇道になど目もくれず、ひたすら真っ直ぐに進む。それが自分の選ぶべき、たった一つの道だ。
 それを意識し直した途端、波立っていた心が静まった。
 震えていた唇を、真一文字に引き結ぶ。泳いでいた視線を、扉の一点に繋ぎとめる。
 そうして妖夢は、改めてゆっくりと口を開いた。
「早苗さん。私は――」
 一言ずつ。一歩ずつ。妖夢は己の道を行く。
 あと一歩で、大切な境界を踏み越える。そこに至り、しかしもう、妖夢の心に迷いはない。
――そう、今の自分に必要なのは、他のどんなものよりも、この一言なのだから。

「――好きです。早苗さん、私は貴女が、好きです」

 不思議と、気恥ずかしさはなかった。
 今度こそ素直に、その言葉を口にできたことを少しだけ誇らしく思いながら、妖夢はなおも心情を吐露し続ける。
「ずっと傍にいたいんです。今までよりもずっと近くに、今までよりもずっと長く一緒にいたいんです。一番近くに感じていたいし、一番近くに感じていて欲しい、そう思うんです。勝手だってことは分かってるし、早苗さんが拒んだとしても仕方ないことです」
 重くはない、強くはない声音はしかし、酷く澄んだ響きとなって扉を打つ。
 何より、この瞬間の妖夢を窺い見る者がいたのならば、間違いなくその表情に目を奪われただろう。例えるならば玻璃の彫刻を思わせるほどに、彼女の表情は凛と透徹していた。
 今の妖夢にとって、自らの想いは、それを形にした言葉は、一振りの刃と同義だった。それは障害を排する刃であり、迷いを断ち切る刃であり、早苗の心に至るための刃だ。
 早苗の心に届く、唯一の刃だ。
「それでも」
 その刃の切っ先をぴたりと扉に向け、妖夢は肩の力を抜く。胸に在る想いを、強く強く抱きしめて、それを研ぎ澄ませていく。
 先の告白は渾身の一刀だった。だがそれでも足りない。早苗に辿り着くために、ではない。己の胸の内の全てを曝け出すためには、先の言葉だけではまだ足りない。
 だからこそ、妖夢はもう一度刃を振り上げ、口を開いた。
「それでも、私の我儘だとしても……私は貴女に受け入れて欲しい。認めて欲しい。一緒にいることを、一番でいることを、私が望むのと同じように、早苗さんにも望んで欲しいんです!」
 今度こそ、伝えるべき総てを言いきって、妖夢は大きく気を吐いた。
 言い終えた途端、妖夢に緊張が雪崩を打って襲い掛かる。突然ペースを上げた鼓動に、妖夢は戸惑い胸を押さえた。
 その時になってようやく気づいた。伝えるよりも、待つ方が緊張するのだということに。
「お、お返事は急ぎません……けど、暫くここで待ってます。ですから……」
 顔の火照りを否応なく感じ、妖夢は上ずりそうになる声を必死で抑えながら言う。だがその言葉を遮るように、乾いた音が妖夢の耳を打った。
 妖夢は思わず顔を上げる。ゆっくりと、だが確かに、目の前の扉が内側へ向けて開いていく。心臓が一層強く跳ね、血流が加速した。
 固唾を呑んで見守る中、電灯の光に満ちる部屋から、ゆっくりと進み出る影があった。それが誰かなど、最早問うまでもない。
 妖夢の前まで歩み寄った早苗は、俯かせた面に無表情を貼りつかせ、妖夢を見下ろしていた。妖夢は戸惑いも露わにその瞳を見つめ、何も言えずに立ち尽くしている。
 互いに無言で見つめ合ったまま、二分近い時間が流れた。
「……ずるい」
 前触れなく、早苗がぽつりと零す。妖夢が肩を跳ね上げて口を開いた。
「ずるい、って……な、何が?」
 が、その言葉の終わりを待たず、早苗が再び動く。立ち竦む妖夢に、さらに一歩距離を縮めて腕を開き――彼女の華奢な体躯を、その中にすっぽりと収めた。
「っっっ~~! え、さにゃ、にゃ!?」
「ずるいです。反則です」
「ぅぇえ!? な、ななにがでひゅかっ!?」
 目を白黒させ、舌ももつれさせる妖夢だったが、早苗は彼女の疑問に答えようとはしなかった。代わりに妖夢を抱き竦める腕に一層の力を込めながら、その耳元に唇を寄せる。
「返事」
「えっ……?」
「これじゃ、足りませんか?」
 未だ冷静さを取り戻せない妖夢の思考の中に、早苗の言葉が反響する。早苗の言う『返事』というのが何なのか、それを判じることすらままならない。茹だった頭からは、白煙が立ち上りさえしそうな有様だ。
 返答を寄越さない妖夢を、早苗はどう思っただろうか。前触れなく、早苗は妖夢を拘束していた腕を解いた。半ば彼女に縋りついていた妖夢は、バランスを崩しかけて一歩後ろに退がる。
 その肩を早苗の左手が支え、そして右手は妖夢の左頬に伸びた。しなやかな指の感触に、妖夢はますます思考を真っ白に染めていく。そんな強張った顔を、早苗は僅かに上向けた。
「なら……」
「へ、え!? あ」
 明らかに事態が理解できていない妖夢の慌てぶりも、早苗は意に介さない。青い双眸を覗き込むようにしながら、彼女は自分の顔を、妖夢のそれに近づけて、

 ちゅ

 唇を、重ね合わせた。
 妖夢は抵抗しなかった。空回りを続けていた思考は一転して完全に停止し、代わって襲い来た、甘美な柔らかさと温かさに支配される。
 唇が離れる。妖夢は全身を弛緩させ、早苗にしなだれかかった。それを抱き留め、早苗は再び妖夢を腕の中に収める。
「もう、十分伝わりましたよね。私の気持ち」
 落ち着いた声で、早苗は妖夢の耳元に囁いた。その顔は妖夢からは死角となり、浮かべた表情を窺うことはできない。
 実のところ、声とは対照的に、彼女も妖夢と同じように耳まで真っ赤になっていたのだが。
 そんなことは露知らず、妖夢は早苗の腕の中で、こくこくと何度も首を縦に振った。そんな彼女に、早苗は声だけは平静を繕って、
「……でも、言葉にはしません。私なりの仕返しです」
「ふぇっ!?」
 言ってやると、妖夢が戸惑うのがはっきりと分かる。身動ぎしながら、彼女は上目使いに早苗を見上げた。向けられる視線には狼狽だけではなく、僅かばかりの批難が込められている。
 少しだけ躊躇いを見せた妖夢だったが、やがて彼女は意を決し、早苗に真っ直ぐ疑問を投げかける。
「仕返しって……一体何の」
 がたこん
 が、それを遮るように突如、背後で重たい音が鳴った。妖夢だけでなく早苗も驚き肩を跳ね上げて、二人は揃って音の出所を見る。
 目にしたのは、外れて廊下に倒れた襖と、その上でうつ伏せに横たわる神奈子の姿。そして、柱の陰から赤らんだ顔で二人を見守る諏訪子だった。
 全く同時に瞬きをし、早苗と妖夢は互いに顔を見交わして、次いで諏訪子へ視線を戻す。そして――またもや仲のいいことに――同時に羞恥に頬を染め、表情を歪めた。
 片や、諏訪子もまた彼女たちと顔を合わせることを躊躇うように、一層柱に隠れながら、
「いや~……期待しながら見てはいたけど、そこまで一気に進展するとは思ってなかったなぁ……見てる方も何て言うか、ちょっとどきまぎさせられた感じ?」
 彼女には珍しい、からかう余裕もない声にしかし、早苗と妖夢は言葉を失い、ただ無意味に口を開閉するばかりだ。
 痛いほど静かなまま流れていく、空白の時間。
 やがて、諏訪子は「お、お邪魔しました~」などと呟きながら、神奈子を引き摺り部屋に放り込み、外れた衾を嵌め直して消えた。妙に現実感のないまま、二人だけの空間が改めて出来上がる。
「ぅ……ぅぅ」
「はぅ……」
 だが、先のやり取りを見聞きされていたという羞恥心に打ちのめされた今、二人にそれ以上語らうべき言葉など、あるはずもなかった。

■ ■ ■

 その夜。
 月を背負って守矢神社の境内に降り立つ妖夢を、早苗は無言で手を振り迎えた。彼女のすぐ目の前に着地して、妖夢は早苗の両手を取り笑う。
「こんばんは、早苗さん。いい夜ですね」
「はい」
 満面の笑みで頷き、早苗も手を握り返した。柔らかな感触とともに互いの温もりを分かち合い、二人は微かに頬を染める。
 あの告白の後、気力も枯れ果ててぐだぐだなまま別れてから、初めての逢瀬だ。待ち合わせていたわけでもないのに、それでも早苗が待っていてくれたことが、妖夢はたまらなく嬉しかった。
 手を握ったままさらに一歩進み出て、妖夢は額を早苗の肩に当てた。その頭に、早苗も頬を寄せて髪に触れる。気恥ずかしさを遥かに上回る心地よさが、胸の内に広がっていく。
 今までにない幸せ、想像したこともない安心感。それらを強く噛みしめて、妖夢は安堵の息を吐いた。
「こんな……」
「?」
「こんなにも早苗さんの近くにいられるの、夢みたいです」
 思わず零すと、早苗はそっと妖夢の手を放した。代わりに両腕が彼女の腰と背中を抱き、いつかと同じように身体をすっぽりと手中に収める。
 ぎゅっ、と腕に籠る力を感じながら、妖夢のその手を早苗の背に回す。おずおずと抱き返すと、二人の距離はますます縮まった。早苗の鼓動が早鐘を打っているのが、はっきり分かる。
 それでも、早苗は何も言おうとはしなかった。
「……早苗さん?」
「何ですか?」
 呼びかけると、返事が返ってくる。妖夢は今度こそ、昼間に聞きそびれた問いを、早苗へと投げかけた。
「仕返しって、何のことですか? 一体何の仕返しなんですか?」
 尋ねた瞬間、早苗の腕が緩んだ。妖夢は少しだけ身体を離して、早苗の顔を見上げる。
 彼女は、まるで拗ねたように頬を膨らませていた。
「……私、今日の昼、白玉楼に行きましたよね」
 突如そんなことを言われ、妖夢は戸惑いつつも頷く。
「え、えぇ」
「何しに行ったんだと思います?」
「それは……分かりません」
 肩を落とし答える妖夢を、早苗は得も言われぬ目つきで見下ろした。憐みと、呆れと、苛立ちの混じったような、そんな目だ。射竦められた妖夢は、ただ身を縮めることしかできない。
 小さく――本当に小さく、早苗が嘆息した。
「昨日、妖夢さんに言われたこと、私なりに考えたんです。何のために強くなるのか、何を目標に頑張るのか、そもそも自分は何がしたいのかって。そしたら……多分、妖夢さんと同じ結論に辿り着いたんです」
「あ……」
 何かに気づいたか、妖夢がそんな声を漏らす。
 妖夢と同じ結論、つまりは妖夢が早苗に告げたのと、同じ気持ちということだろうか。もしそうだとしたら――そう思ってもらえたのはやはり、嬉しい。
 しかし一方で早苗は、声音に不機嫌を混じらせながら、
「それを伝えに行こうとしたんですよ。なのに、白玉楼に着いてみたら、いきなりあんな光景を見せられて……」
「あ、あぅぅ……?」
「さすがに私もどうしていいか分からなくて、家に帰ってひとまず気持ちの整理をしようと思ってたら、いきなり妖夢さんが扉越しに告白ですよ。じゃんけんで後出しされた気分です」
 頬を膨らませて言う早苗と、委縮する妖夢。早苗は妖夢の頭をもう一度掻き抱き、耳元に口を寄せて告げる。
「だから暫くは、口にはしません。あの時私から伝えそびれたことを、妖夢さんがずるをして私に言わせなかったことを、私は口にしたりしませんから」
 そう言うと、早苗は口を閉ざした。言葉とは裏腹に、妖夢を抱き締める腕はあくまでも優しく、髪を撫でる手つきは工芸品を扱うかのように繊細だ。
 それでも、求めてやまない一言は、決して告げられることはない。
 次第に、不機嫌な表情が妖夢にも伝播していった。
「そう言われたって、何度も言ってるように、あれは私がしたくてしたことじゃありませんし……」
「でも自分の責任だって、妖夢さん言ってたじゃないですか」
「……意地悪」
 ぽそりと呟いて、妖夢は細めた目を隠すように早苗の胸に顔を埋めた。髪を梳かれる感触にも、もどかしさはかえって募るばかりだ。
 顔を見せぬまま、妖夢はくぐもった声を上げた。
「早苗さん。好きです」
「…………」
「大好きですよ」
「…………」
「でも、返事してくれないのは、意地悪だと思います」
 そう言って、早苗に抱きつく腕に力を込める。訴えるような言葉と腕の震えが、早苗の心を責めたてる。
 早苗は無言で、嬉しそうな苦笑を浮かべた。
 それでも頑なに声には表さないまま、早苗は妖夢の額に手を当てる。強引に上向かせ、不満顔を覗き込むと、途端に何かを察したか、妖夢は期待に顔を綻ばせた。
「妖夢さん」
 名を呼び、額の手を頬へと動かして、早苗は自分の顔を下げる。申し合わせたように、妖夢が瞼を閉じる。
 その、差し出された唇に、
「……ん」
 今はまだ、言わないと誓った言葉の代わりに。
 早苗はそっと、己の唇を重ねた。
 湿った温もりと、仄かに甘く胸を撫でる幸せに、早苗はふと、思う。

 こんな伝え方が許されるなら、この想いを言葉にするのは、まだまだ先になりそうだ、と。
大体の方と初めまして。えどわーどです。
非常に遺憾なことに、創想話では初のさなみょんタグ作品になってしまったようです。本作の公開が、さなみょんの発展にとって良いきっかけとなればと思います。

それでは、また機会があればお会いしたいと思います

※誤字報告ありがとうございます。修正いたしました
えどわーど
http://edstudio.blog.fc2.com/
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コメント



0.490点簡易評価
1.100点名前が無い程度の能力 削除
…意外と「アリ」なんですね
諏訪子の感想が自分の心境を物語っています
さなみょんかぁ
2.無評価絶望を司る程度の能力 削除
いじらしいでしょうね。見ている側からすればwwww
3.100点絶望を司る程度の能力 削除
点数忘れ失礼
4.90点名前が無い程度の能力 削除
さなみょん!さなみょん!
5.90点奇声を発する程度の能力 削除
さなみょん…良いかもですね
6.80点名前が無い程度の能力 削除
さなみょん! 初めて見た
いーなー 幻想郷は女の子同士でも恋が出来て、
ひょっとしたら子供もつくれる うらやましい
9.100点名前が無い程度の能力 削除
幽々子様はどういうつもりで妖夢の背中を押したんだろ?

告白って確かに成長の糧になりそうと学生時代告白出来なかったチキンとしてはそう思う
12.90点名前が無い程度の能力 削除
さなみょんチュッチュ!
アリだー!

誤字報告
>目にしたのは、外れて廊下に倒れた衾と、
                        襖