Coolier - 新生・東方創想話

不完全懲悪

2014/05/17 22:57:56
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 その夜、星は妙な胸騒ぎを覚えて寝つけずにいた。
 穏やかな空気、窓から吹き込む優しい風。誰もが眠気に誘われる、静かな春の夜。普段の星ならば、あっという間に眠りに落ちていたことだろう。
 けれど、どういうわけかこの日彼女は眠れなかった。眠気を覚えないわけではないのだが、いざ布団に入ると目が冴えてしまうのだ。
 妙なこともあるものだ。ぼんやりと天井を眺めながら星はそんなことを思う。いっそ起きて呑みにでも行ってしまおうかとも考えたが、わざわざ服を着替え直してまで外へ出る気にはなれなかった。
 春用に替えた薄めの布団を被り直して、星は小さく溜息を吐く。眠いのに眠れないという状況は彼女にとっても不快でしかない。しかしながら、こんな時どうすることもできないのもまた世の常である。眠りにつこうとする努力に飽きた彼女は、目を瞑っていればいつか寝られるだろう、と適当なことを自身に言い聞かせて頭まで布団を被った。

 その時、ふと昔にも同じような経験をしたことを星は思い出した。白蓮達と離れ離れになって数百年、あれはちょうど解放された仲間達が彼女の下へと帰ってきた時のことだ。
 仲間達がやって来た日の前日も、星は眠りにつけなかった。結局一睡もできないまま朝を迎え、空を見上げた彼女はかつての聖輦船をそこに見たのだった。

 あの胸騒ぎが誰か訪ねてくる前兆だったとすれば、今度も翌朝誰かがやって来るのかもしれない。そうだとしたら、あの日のようによい出会いを期待したいものだ。そこまで考えた途端、不意に不遜な笑みを浮かべた従者の顔が星の頭を過ぎる。その瞬間、彼女は笑いを堪えられず「ふふっ」と声を漏らした。
 用心深い性格のナズーリンは不安定な材料での推論を嫌う。もし彼女がこの場にいたのなら、きっと「よくそんな曖昧なものを信じられるね」などと言って星の妄想を皮肉るだろう。
 大袈裟に肩をすくめてニヤリと笑うナズーリン。普段通りの彼女を想像して、星の気持ちは少しだけ落ち着いた。
 胸騒ぎが前兆だとしても、そのために何かできるわけじゃあない。何か起こるにしても、それまでゆっくり待っていればいいか。そう考えて、彼女は被っていた布団を向こう側へ退ける。眠れないのなら、明日の準備でも始めようと考えたのだ。
 ひとまず御札の整理からやろうと、星は机に向かい御札の箱を取り出す。
 外で妙な物音が聞こえたのは、その直後だった。

 何かが外壁に当たるようなガタッという小さな音が、星の部屋のすぐ傍で鳴った。音はその一度きりだったが、風で飛ばされた小石などがぶつかる時のそれより明らかに大きい。人か動物か、あるいは妖怪か。いずれにせよ、ある程度大きさのある“何か”が壁にぶつかったのは確かなようだった。
 気になった星は、部屋の窓を開けて辺りを見回した。胸騒ぎの原因はこれだろうか、と思いつつ視線を壁際に移すと、ちょうど窓の下あたりに小さな人影が見えた。
 子供よりは少し大きな体格。髪の長さを見るに少女だろうか。星の視線にも気づかず、その少女は壁にもたれてうずくまったまま動こうとしない。
 怪我をしているのかもしれない。そう感じた星はすぐさま部屋を出て、縁側の戸から外へ出た。少女に駆け寄り、慌てて声をかける。

「あの、大丈夫ですか?」
「うぅ……はっ!?」

 星に触れられてはじめてその存在に気がついた少女は驚いたように目を見開き、手を振り払って逃げようとする。しかし振るわんとしたその腕には力がこもっておらず、反射的に拘束を強めた星から逃れることはできなかった。

「痛っ!」
「ああ、ごめんなさい! でもあなたが急に逃げようとするからですよ。どこか怪我をしているんですか? 手当てしますので見せていただけませんか?」
「やめろ、私のことは放っておいてくれ!」
「そんなことできませんよ。目の前で困っている人がいれば手を差し伸べるのが当然でしょう?」
「……」
「さあ、こちらへ。立てます?」
「だから、余計なことをするなと言っているだろう!」

 強がりにしか聞こえない台詞を吐きつつ、屈み込んだ姿勢のまま少女は頑なに動こうとしない。それなら仕方ない、とばかりに星は彼女の背に手を回し、小柄なその身体をひょいと持ち上げてしまった。

「や、やめろ、何をする!」
「ですから、手当てですよ。相当疲れているようですし、怪我をしていないにしてもここに放っておくわけにはいきませんから」
「お前なんぞに助けられる筋合いはない! 代理とはいえ、毘沙門天なんぞに……」
「え? 私のことを知ってるんですか? あなたは……あっ」

 身体を抱えて立ち上がったことで、暗がりで見えなかった少女の顔を月明かりが照らし出す。星の腕の中にいた少女は、先の異変の首謀者として追われている天邪鬼だった。

「鬼人正邪さん……あなたでしたか」
「ふん、お尋ね者の私を助ける義理などないだろう? 分かったらさっさと降ろしてくれないか」
「……いいえ、降ろしませんよ」

 星のはっきりとしたその言葉に正邪は動揺する。
 逃げ疲れて抵抗する力もない状態で、毘沙門天の代理に抱えられている。その彼女に「逃がさない」と言われれば、誰だって怯えてしまうだろう。手足をじたばたと動かして僅かばかりの抵抗をしつつ、正邪は威嚇するように言う。

「くっ、このまま私を捕まえようというのか! 弱った者を無慈悲に捕まえるとは最低の輩だな! 貴様のような奴が代理にふさわしいとは、つくづく馬鹿げた世の中だよまったく」
「正邪さん、勘違いしないでくださいよ。私は、あなたを捕まえるわけじゃありませんから」
「な、何? どうせそれも油断させるための罠なんだろ」
「違いますって。私がしたいのはあなたの手当て、それと休養をとってもらうことです。抵抗する気力もないほど弱った人を助けたいと思う心、分かっていただけませんか?」
「分からんな。私にそんな感情があるとでも思うのか?」
「まあ、そうですねえ……じゃあ、同意なしでいきましょう」
「や、やめろと言っているだろう! 恩着せがましい厚意など受けたくはない!」
「恩着せがましい、ですか。心外ではありますが、この際どうでもいいでしょう。さあ行きますよ」

 暴れる正邪を無視して、彼女を抱えた星は部屋へと向かう。縁側の戸や部屋の入り口の襖を足で器用に開閉しつつ進み、敷いたままだった布団の上に正邪を座らせた。
 部屋の明かりで露わになった正邪の姿は泥だらけだった。あちこち逃げ回る際についてしまったものなのだろう。心配していた怪我は、幸い膝のあたりを少し擦りむいただけだったようだ。

「よかった、大怪我ではないみたいですね」
「お前に心配される筋合いはない」
「またそんなこと言ってー……ちょっと待っててくださいね、手拭を用意します」

 星はそう言って立ち上がり、正邪を残して部屋を出た。
 その隙に逃げてしまうかもしれないとも考えたが、抵抗も満足にできなかった彼女が逃げる選択をするとは思えない。遅くならなければ大丈夫だろうと高を括り、水を張った桶と手拭を持って部屋へ戻る。両手の塞がった星を迎えたのは、不服そうに腕を組んで胡坐をかく正邪の姿だった。

「逃げちゃうかと思いました」

 内心ほっとしつつ、星はそう言いながら濡らした手拭を渡す。乱暴に受け取ったそれを使って泥を落としながら、正邪は苛立ったような口調で答えた。

「お前、わざと言ってるだろう。私が逃げる気力もないことが分かって、わざと煽ってるんじゃないか」
「そんなことないですよ。ただ、待っていてくれてよかったなと思っただけです」
「ふん、気持ち悪い奴め」
「薬塗りますね。少し沁みるかもしれませんが」
「っつ……別に痛くもなんともないな」

 正邪はそう言ったが、それが誤魔化しであることは明らかだった。
 天邪鬼だから仕方がないとはいえ、素直じゃないなあ。なぜか誇らしげな彼女の姿を見てそう思いつつ星は傷口に包帯を巻く。

「おい、そこまでしてもらう必要はないぞ」
「そうはいきませんよ。いかにあなたがお尋ね者だとはいえ、怪我をした者を放っては」
「はいはい分かった、もういいよ。お前みたいな奴に反抗したのが間違いだった」

 面倒くさそうにそう言いながら正邪は後方の敷布団に背を預ける。無意味な抵抗は止め、いっそこの状況を受け入れようというのだろう。
 すっかり警戒を解いた様子の正邪。しかしながら、星の心では反対に緊張が高まりつつあった。

 ひとまずここで休ませるとして、その後自分はどうするべきなのだろう。正邪の手当てを終えた今、星の最大の懸念はこれだ。
 鬼人正邪。彼女は幻想郷そのものをひっくり返そうとしたテロリストだ。未遂に終わったとはいえ、罰を受けなければならない立場であることには変わりない。
 しかし、お尋ね者として捕まえ責任を取らせるという今のやり方は本当に最善の方法なのだろうか。無理やり罰するだけでは、正邪自身を救うことはできないのではないだろうか。
 確かに、罪と罰とは表裏一体といえる。罪を犯した者には罰を与える。それが社会を統制し、よりよいものへと導いていく。
 しかしながら、罰則とは社会の秩序維持のためだけにあるのではない。むしろ、罪を犯した者自身のためにあるといえるはずだ。
 罰を受けることで、その者は過ちを償うことができる。間違った方向へ進んでしまったその足を、もう一度正しい方向へと向けることができる。罰則とは、罪を犯した者を社会が救済する唯一の手段なのだ。
 だが、今回取られた方法はどうか。過ちを自覚しない者に無理やり罰則を課そうとする幻想郷管理者達のやり方は、正邪自身の救済という視点からは間違っているのではないか。
 とはいえ、正邪が大きすぎる過ちを犯したのは紛れもない事実。彼女の自覚があろうと無かろうと、裁かれて当然でもある。
 まずは話を聞きたい。正邪が下剋上を目論むに至った心境を、きちんと彼女の言葉で聞いてみたい。もう諦めてしまったようにも見える正邪を見つめながら、星はそんなことを思っていた。

「あの、正邪さん」

 意を決して声をかける。布団に寝転がりそうな勢いでもたれかかっていた正邪は、うんざりした様子で答えた。

「自首しろ、とか言うのなら聞かんぞ」
「そうじゃありません、ああでも……あの、正邪さんに聞きたいことがあるんです。どうして、幻想郷自体をひっくり返そうなんて思ったんですか?」
「なんだ、そんなことか。聞いてどうする?」
「私はあなたを救いたいのです。他の皆さんは甘いと言うかもしれませんが、私は正邪さんを一方的に悪者にはしたくないんですよ」
「悪者、ねえ……お前にそう言われると妙な気分だな。他の奴らは訳も聞かず追い立ててきたのに、正義を司る毘沙門天代理のお前だけが私を悪と断じないなんてね」

 身を起こした正邪はしみじみとした様子でそう呟くように言う。自分を頭ごなしに否定しない星に興味を持ったのか、彼女は先程までとは違う明るい口調で訊ねた。

「なあ、私を救いたいというのはどういう意味だ? まさか、お前が巫女やスキマに口をきいてくれるとでもいうのか?」
「いえ、そうではありません。むしろ、私はちゃんと正邪さんの罪を明らかにすべきだと思うんですよ。あなたのしでかした事とそこに至るまでの経緯を、あなた自身の言葉で説明することでね」
「つまりは、やはり自首を勧めるんだな。生憎だがそれはできない」
「どうしてですか? きちんと話をしない限りあなたはお尋ね者のままで」
「それでもいい! 奴らに力で捻り潰されて再起できなくなるのなら、このまま逃げ回っていたほうがいいんだ、私は」

 一瞬声を荒げた後、正邪はそう付け加えるように呟いた。
 急に膨らんだ風船が爆ぜてしまったかのような感情の高低差。やはり彼女の抱える事情を聞かなくてはならないと確信した星は、より優しい声色で正邪に声をかける。

「話だけでも、聞かせていただけませんか? 一人で抱え込むより誰かに話したほうが楽だと思いますよ」
「駄目だ、お前はこちら側では……いや、しかしお前なら分かってくれるのかもしれない。お尋ね者として追われる身の私にこんなにも余計なことをしてくれるお節介なお前ならあるいは、な」
「なんだか納得いきませんけど……まあいいでしょう。聞きますよ、正邪さんの抱えている動機をね」

 不満を露わにした後で星はそう言って微笑みを浮かべる。それを見た瞬間、険しかった正邪の表情が僅かに緩んだ。
 一度息を整えた後、正邪は静かに語り出す。

「私がこの幻想郷で下剋上を仕掛けた理由、それは弱者が虐げられる世界を変えたかったからだ。星、お前は路傍の小石に何か特別な感情を持ったりするか?」
「え? い、いえ、特には何とも思いませんが」
「普通はそうだな。強者は往々にして弱者のことなど気にも留めない。道端で小石を蹴飛ばしてしまっても何もしないのと同じでな」
「そんなことはありませんよ。小石は気にしないと思いますが、困っている人がいれば手を差し伸べます。少なくとも、命蓮寺に住む我々は弱者を見捨てたりはしません」
「それはお前達が様々な意味で安定しているからだ。ある程度の力を持ち、人々の信仰対象としての地位もある。そういう場所にいれば、自ずと人を助けるようになるんだろう。だが、世の人々が皆そういう人種なわけではない。人を気遣う心を持つ者などごく少数で、それ以外の大多数は精神的にあるいは肉体的に余裕のない者達だ。相手を気遣う余裕などなく、心を、身体を粉にして日々を生きている。そういう輩が何をするか分かるか? 行き場のない激情を発散させるため、そいつらは自分よりも弱い立場の者を虐げるのさ」
「そんな、確かにそういう残念な人々はいますけど……でも、それほど多くいるわけでは」
「いやいや、現実を見ろよ。虐げられる弱者は大勢いるんだ、そこかしこにな。先の異変を思い出せ、小槌の力を受けて立ち上がった奴らのことを。人魚にろくろ首、ワーウルフ、付喪神。皆人知れず世間に溶け込んで生きるほかなかった妖怪達だ。どうしてそうしなければならないか分かるか? 力がないからだよ。力があればある程度の無茶が通せる、圧力にも屈せずに済む。だが、他者の侵害にどうしても打ち勝てない程度の実力しかなかったら? 外圧に怯え隠れ住む以外に生きる道はない。お前達強者が気づかないだけで、こうして生まれる社会的弱者はいつでも、どこにでもいるんだよ」
「……それを変えるべく、あなたは異変を起こしたというのですか?」
「そうだ。私自身、強者に虐げられる身だった。ただ力がないというだけで一方的に暴力を振るわれるのはおかしいだろう? 私はそんな世の中を変えたかった。既存の世界をぶち壊してでも、この間違った社会を変えなければならないと思ったんだ」

 はっきりとした口調で正邪はそう言う。昔を思い出しているのだろうか、どことなく暗い印象を受けるその表情を見つめながら、星は彼女の言葉をゆっくりと反芻する。

 弱者に優しい社会を作りたい。正邪の語るこの思いは彼女の本心だろう。嘘を吐くのは天邪鬼の常であるが、その振る舞いには相手を騙そうとする意思が感じられなかった。
 確かに正邪は幻想郷に災いを招こうとした。けれど、それは彼女の抱いた理想を実現するための手段に過ぎなかった。やはり彼女は純粋な悪ではなく、ただお尋ね者として断罪するのは間違っている。本人の言葉で動機を聞いたことで、星は改めてそう考える。
 しかしながら、このままでは正邪を救うことはできない。お尋ね者とされた以上、正邪は人々に悪と認識されたままだろう。罪を償わせる別の方法を見つけない限り、彼女を守る手立てはない。
 自分がなんとかしなければ。毘沙門天の正義を貫くために、正邪を庇う必要がある。俯いてしまった彼女の姿を眺めて、星はそう決心した。

「やはり、正邪さんを霊夢さんのところへ連れていかなければなりません」
「なっ……そうか、やはりお前もそっち側なんだな……」

 星の言葉に顔を上げた正邪はそう寂しげに言う。星の覚悟を知らない彼女は、ようやく出会った話を聞いてくれる相手に裏切られてしまったのだと感じたようだ。
 言い方が悪かったと反省しつつ、星は眉を寄せて微笑む。

「ああすみません、そういうわけではないんです。あくまでも、私は正邪さんに正しい罰を受けてもらいたいんです」
「要するに逃げるのを諦めて罰を受けろと言うんだろう? それじゃ、結局あいつらと同じじゃないか」
「問題なのはその罰なんですよ。現状では正邪さんの言い分を誰も聞いていない。一方的に悪者だと決めつけて、あなたの動機も詳しく調べずにお尋ね者としている。それを変えるためにも、正邪さんは自分の言葉ですべてを説明するべきなんです」
「……そうすれば、何か変わるのか?」
「それは……分かりません。もしかしたら、話を聞いてくれても根本的に変わりがないかもしれません」
「それじゃ、話すことに意味なんてないじゃないか」
「いいえ、あります! 少なくとも、正邪さんの罪に応じた罰へと変えることはできます。それに、もしもその場であなたが退治されそうになったら私が力づくでも止めさせますから」
「な、何?」

 星の言葉が余程信じ難かったのだろう、正邪は驚いたように目を見開いて声を上げる。

「お前、何を言っているのか分かっているのか? 犯罪者の私を庇えばお前まで責められるぞ。お前だけじゃない、寺の者達だってそうだろう。自分のつまらん信念のために仲間まで犠牲にしてもいいというのか?」
「……ええ、やむを得ないことです。毘沙門天様の代理を務める者として、歪んだ正義をそのままにするわけにはいきません」
「たとえその正義の犠牲になるのが天邪鬼たった一人だけだったとしても、か?」
「ええ。すべての者に救済を。それが私達の仕える仏の教えですから」

 そう言って星はニコリと微笑む。すべてを照らす陽だまりのような、優しく温かな笑みだった。
 あまりに清々しい笑顔を向けられた正邪は困ったように視線を泳がせた後、静かにそれを畳へと落とす。時間をかけて星の言葉を噛みしめた後で、彼女はゆっくりと口を開いた。

「本当に、私を守るというのか」
「ええ。私の信念と、なにより正邪さん自身のために」
「もしお前達が追われる身になったとしても、私は何もできないぞ」
「大丈夫ですよ。こちらへ来る前はナズーリンと二人だけでやってきたんです、皆がいればこれからも無事にやっていけますよ」
「……やっぱり変な奴だな、お前。私なんかのためにそこまでして、馬鹿だとしか思えない」
「言ったでしょう、私はすべての人々に」
「あーはいはい分かった、もうお説教はたくさんだ。今日はもう寝るぞ、明日は早いんだからな」
「ということは……一緒に来てくれるんですね!」
「私だってこそこそ逃げ回る生活は勘弁してもらいたいと思っていたんだ。勘違いするなよ、お前の説得が効いたわけじゃあないからな」

 顔を背けてそう吐き捨てるように言うと、正邪はそのまま布団へと倒れ込んだ。素っ気ないその振る舞いを見て苦笑しつつ、星は小さく溜息を吐く。

 なんとか説得はできたが、本番はむしろこれからだ。霊夢や紫を相手に正邪を守りつつ、彼女に正当な罰則を受けさせるという難題が星を待ち受けている。先程の説得など、せいぜい全体の二合目程度に過ぎなかっただろう。
 できれば荒事にならないよう、お力をお貸しください。毘沙門天にそう祈りつつ、星は畳の上に寝転がり静かに目を閉じた。


 ◆


「な、なあ、本当に大丈夫なんだろうな」

 明くる日の朝。博麗神社の境内に降り立つと、正邪は星に声を震わせてそう訊ねた。
 雑魚寝をした星より早く起き、終始落ち着かない様子だった正邪。星に促され覚悟を決めたとはいえ、博麗の巫女に会うのはさすがの彼女も気が引けるようだ。
 星の後ろに隠れるように回り込み社を覗き込む正邪。その小心者な一面に苦笑しつつ、星は柔らかい声色で言う。

「落ち着いてください、ちゃんと話をすれば大丈夫ですよきっと」
「どうなるか分からないと言ったのはお前じゃないか! もしもの時は本当に守ってくれるんだろうな!」
「ええ、その点はご安心を。こう見えても私、それなりに強いんですよ」
「その実力も宝塔の力がほとんどと聞いたが」
「まあ、戦闘面ではそうかもしれませんね。ただこれでも昔は妖獣だったんです、正邪さんを庇って逃げるくらいできますから」
「本当だろうな……なんというか、お前に死なれても気分が悪いんだよ」
「心配してくれるんですか?」
「そんなわけないだろう。ただ私はお前が傷ついたりする責任を負わされるのが嫌なだけだ」

 背後に隠れたままの正邪が不服そうに顔を背ける。相変わらずだな、などと星が思っていると、不意に正面の縁側で縁起の良さそうな色のリボンが揺れるのが見えた。正邪救済作戦における真の強敵のお出ましだ。
 対応を誤るわけにはいかない、気を引き締めなければ。そう自分自身に言い聞かせつつ縁側へと向かう星。怯えて姿を完全に隠してしまった正邪を伴い、ゆっくりとした足取りで境内を行く。
 近づいてみると、霊夢はちょうど湯呑を持って縁側へ出たところのようだった。外を眺めながら茶でも飲もうと考えたのだろう。
 星に気づくと小さく「あら」と呟く霊夢。彼女に会釈を返した後、星はニコリと微笑んで言った。

「おはようございます霊夢さん。あの、お話があるんですが少しよろしいですか?」
「おはよう、朝早くからご苦労様。暇だし、話くらい聞くわ」
「ありがとうございます。大したことではないんですが、ちょっとあなたに相談したいことがありまして」
「隠さなくてもいいわよ。何か大事な用なんでしょ?」
「え? ええと、その」
「あんたは礼儀にうるさいから、余程のことでもない限りこんな時間帯に人を訪ねたりしない。それにあんたの後ろ、誰かいるでしょ。さっきからずっと私を警戒してるみたいだし、相談っていうのはそいつのことなんじゃない?」

 表情一つ変えずにそう告げる霊夢。すべてを見透かされたような気がして、思わず星は後ずさりしてしまった。
 しかし、ここまで見抜かれた以上嘘は吐けない。下手に隠そうとしても、ただ印象が悪くなるだけだろう。
 事を穏便に済ませるためにも、いっそ打ち明けてしまおう。星はそう思いながら背後を見返す。正邪の同意を得ようとしたのだが、彼女は必死の形相で首を横に振っていた。
 話が違うとでも言いたげなその瞳に一瞬心が揺らいだが、星の気持ちはすでに決まっている。背中にすがりつきそうな勢いの正邪に申し訳なさそうな笑みを浮かべると、彼女は霊夢を真っ直ぐな眼差しで見つめて言った。

「すみませんでした。隠そうとしたのではなく、きっかけを探っていたのです。相談とは他でもない、彼女のことでしたから……」
「あっ、おい!」

 星が素早く一歩右へずれることで、隠れていた正邪の姿が露わになった。件のお尋ね者を見て霊夢は慌てるかと思われたが、彼女は茶をすする手を止めただけで特別反応を示さなかった。
 慌てふためく正邪と申し訳なさそうに頭を下げる星とを交互に見た霊夢は湯呑を置き、静かな口調で訊ねる。

「星、それであんたは何を望むの? こいつを赦してやれ、とでも言うのかしら?」
「え、ええと……何故それを?」
「初めに相談って言ったでしょ? ただお尋ね者を突き出しに来ただけならわざわざそんな言い方はしないわ。きっかけを探るような相談でこいつが関わってるのなら、求めるのは減刑か免罪くらいでしょう」
「ええ、仰る通りです。霊夢さん、私は正邪さんに正しい罰を与えてやりたいんです。彼女が自らの罪を自覚し立ち直るためには、無理やり悪者のレッテルを貼るようなやり方では駄目なんですよ」
「尤もだとは思うけど、他に方法があった? 勝手に逃げたのはこいつだし、それを追うのは当然じゃない?」
「けれど、追い回すような方法じゃなくてもよかったんじゃないですか? 昨夜、正邪さんは寺の境内で行き倒れになりかけていました。怪我はあまりなかったんですが精神的疲労が酷かったようで……捕まえるにしても、少し荒すぎやしませんか」
「捕まえる以上は多少の荒事も……ってちょっと待って、追い回すって何よ。今そんなことになってるの?」
「はい?」

 突然漏れた霊夢の年相応な声に、思わず星の口から疑問符が飛び出る。相変わらず星の影に隠れ事態を静観していた正邪もこれには驚いたらしく、ずっと星の袖を掴んで離さなかったその手がするりと抜け落ちた。

「そんなこと、とは?」
「いや、だから無理やりとっ捕まえるみたいな話よ。私、そんなこと言ったつもりじゃないんだけど」
「ど、どういうことだ」
「どうもこうも、ただあんたを捕まえようって言っただけなのよ。勝手に逃げちゃったし、やろうとしたことは大問題だし、話を聞かないわけにいかないでしょ? だから捕まえ次第私のところへ連れてきてって色んなところに言ったんだけど、いつの間にかそれが拡大解釈されちゃったみたいね」
「みたいね、だと? なんだその他人事のような反応は! お前のせいでこっちは殺されかけたんだぞ! 私と無関係のはずの奴らが大量に湧いて出て、普段おとなしい連中のくせに回避不能の弾幕ばっかり張ってくる。あれじゃ逃げるだけで精一杯だってんだ!」
「まあまあ、霊夢さんだって悪気はないんですから」
「え、なに私のせい? ああ、でもそうかもしれないわね。私、どうしても異変の時のイメージを引きずられることが多いから」

 霊夢の声色にしおらしさを感じた星は彼女を一瞥する。先程までの凛とした表情の博麗の巫女はどこへやら、そこにいたのは悩みを抱える普通の人間の少女だった。

「霊夢さん?」
「けっこう気にしてるんだけどなあ。そりゃあ妖怪になめられるよりはいいんだろうけどさ、あいつらに化け物扱いされるのもねえ……」
「え、ええと……つまり、霊夢さんは正邪さんを無理やり捕まえようとしたわけではなかったんですね?」
「ええ、その通りよ。あんたみたいにこいつを赦すため、とか大層な理由じゃないんだけど、相手の事情も知らずに倒すっていうのはなんとなく嫌なのよね。だから今回も一応話を聞いてみようと思ってたんだけど……」
「それを聞いた皆さんはあくまで異変時の霊夢さんに言われたものとして行動した、というわけですか。だから正邪さんを過剰に攻め立てることになってしまったと」
「そうでしょうね。皆に伝えたのは異変のすぐ後正邪が逃げたって聞いた時のことだし、そう捉えられても仕方ないけど……どんだけ冷酷なのよ、あいつらの中の私って」

 自嘲気味にそう言いつつ、霊夢はさっと立ち上がる。自分が座っていた縁側の一角を指差しながら普段通りの素っ気ない、けれどもどこか優しさの感じられる声で星達に言った。

「まあ、こうして立ち話してるのも何だし座っててよ。湯呑持ってくるから」
「私の野望に興味が湧いてきたのか」
「そんなわけないでしょ。とりあえず事情を聞くだけよ」
「ありがとうございます。ほら、正邪さんも」
「私は礼など言わん。まあ、その厚意くらいは受け取ってやる。いい気分ではないがな」
「うっわ、こいつムカつく。やっぱ今すぐ退治したほうがいいのかしらね」

 冗談めいた口調でそう言いながら霊夢は盆を持ち、台所のある奥へと歩いていく。それを八の字眉で見送りながら、星はほっと溜息を吐いた。

 正しい罰を見つけるため、霊夢を説得し話を聞かせる。最大の関門はこれで突破できた、というよりはじめからそんなもの存在していなかった。元々霊夢が事情を考慮しようとしていたのなら、ただこうして正邪を交えて話をすればよいだけだったのだ。
 心配が杞憂に終わったことを喜びつつ、星は隣に座った正邪を眺める。相変わらず不満そうな顔をしたままだが、ずっと止まらなかった小刻みな震えはすでに止まっていた。霊夢の発言を受けて、彼女の抱えた不安もほとんど解消されたようだ。

「おまたせ」

 盆の上に二つの湯呑を乗せて霊夢が戻ってくる。二人のために新しく淹れなおしたのだろう、急須からは緑茶の穏やかな香りがふわりと漂っていた。
 二人に湯呑を手渡して再び縁側へと座った彼女は、すっかり様子の変わった正邪を見るとからかうような口調で言う。

「ずいぶん落ち着いたみたいじゃない。もう星の後ろに隠れてなくていいのかしら?」
「ああ、妖怪よりもよほど化け物じみた鬼巫女はもういなくなったようだからな」
「……へえ、あんたこの状況でそういうこと言えちゃうんだ」
「え? いやその、ええとだな」

 自身に向けられた霊夢の視線に怯えた正邪は思わず口ごもる。その途端、霊夢の冷たい眼差しは緩んだ微笑みへと変わった。

「冗談よ。意外とあんたをからかうの面白いわね」
「なっ……くそっ、またか。本当にこの世界はおかしいな、間違ってる」
「どうとでも言いなさい。しかし、あんたのほうからこっちへ来てくれてほんと助かったわ」
「お互いの誤解も解けましたしね。それでは正邪さん、早速霊夢さんに話を」
「ああ、ちょっと待って。正邪の言い分、私だけで聞くわけにいかないの」
「ん? どういうことだ?」

 星の催促を遮った霊夢の言葉に正邪は首を傾げる。縁側から腰を上げた霊夢は、居間のほうへ歩きながらその疑問に答えた。

「あんたの話を聞きたいのは私だけじゃないのよ。というかここまで連れて来るように言ったのはあの子だし、私はおまけかしらね」
「その霊夢さんに頼んだ方というのは誰なんです?」
「あの異変のもう一人の首謀者で、今は私が預かってるこの“箱入り娘”のことよ」

 奥に置かれた立派な箱の傍まで行くと、霊夢はそう言って箱を軽く左右に揺らした。 星も正邪もその意図が分からずにいたが、二人はすぐに“箱入り娘”の正体を知ることとなる。霊夢が箱を揺らした直後、箱の中から慌てふためく声がしたのだ。

「うわあっ!? じ、地震だっ!!」
「違うわよ、早く起きてきなさいこの寝ぼすけ」

 素っ気ない声でそう言うと霊夢は箱の側面にある扉のようなものを開ける。星は不思議そうにその様子を見守っていたが、ふと隣の正邪の顔が青ざめていくのに気がついた。

「あれ、どうしたんですか?」
「いや、別に何も」
「ちょっと霊夢さん、起こす時は乱暴にしないでっていつも言ってるじゃない!」

 不満そうな声を聞いて再び箱に視線を戻す。入口からひょっこり顔を覗かせたのは、眠そうに瞼を擦る小人の少女だった。

「ちっ、やっぱりお前か」
「ああっ、正邪! ちゃんと連れてきてくれたのね、ありがとう霊夢さん!」
「え、ええ、まあね。実際ここまで連れてきたのはそこにいる星だけど」
「はじめまして。ええと、もしかしてあなたが少名針妙丸さんですか」
「ええ。星ってことは、あなたはお寺のご本尊様の寅丸星さんね」
「はい。よろしくお願いします、針妙丸さん」
「ふん、ずいぶんご丁寧なことだな」
「もう、またそんなこと言って! でもよかった、正邪が無事で」

 正邪の乱暴な言動を諫めつつ、針妙丸はそう言ってにこやかに笑う。その穏やかな笑顔に正邪は最大限のしかめ面で答えた。星のお節介の時も霊夢にからかわれた時にも見せなかった、心底嫌そうな表情である。

「やめろ気持ち悪い。こういう奴が一番嫌いなんだ、私は」
「またそんなこと言う。だから皆あなたのことを勘違いするんだよ」
「人にどう思われようと結構。私は自らの理想を実現できればそれでいいんだ」
「あのね、だからそういう態度が」
「はいそこまで、そう言い合ってても仕方ないでしょ。針妙丸、正邪の話を一緒に聞いてくれって言ったのはあんたじゃない」

 白熱しかかっていた二人を霊夢が制する。箱から出て正邪の下へ駆け寄るほどに興奮していた針妙丸にとって、この制止は効果的だったようだ。

「そ、そうだよね。では改めて……話を聞いてもらう前に、一つ私から言っておきたいことがあるの」
「何かしら」
「正邪のことなんだけど、皆は彼女を誤解してると思う。皆が思っているほど、この子は悪い奴じゃないよ」

 そう言うと針妙丸は穏やかな眼差しで正邪を見つめた。
 悪い奴ではないとはどういう意味か。針妙丸の真意が読めない星は困惑した表情で彼女に視線を送る。

「悪い奴じゃない? 幻想郷をひっくり返そうとした奴が悪くないなんておかしいでしょ」

 霊夢は少し乱暴な口調でそう答える。正邪が悪人ではないという針妙丸の言葉を、彼女は完全に否定してしまったらしい。
 尤も、霊夢の判断は間違いとは言えない。理想のために大勢の人々を巻き込もうとした正邪の行為は決して認められるものではない。実際に行動を起こしてしまった以上、彼女の善悪を判断している余地など存在しないだろう。

 この状況で最も正しい選択は何か。霊夢の淀みない瞳を見るにつけ、星の心にはそんな思いが浮かんでくる。
 今更善悪について議論しても意味がないことは星も分かっている。どんな事情があったにせよ、正邪は罰を受けなければならない。今星達がやらなければならないのは、その罰の裁定のはずだ。
 けれど、針妙丸は自分達が知らない正邪の一面を知っている。一介の天邪鬼が幻想郷すべてを敵に回そうとした本当の理由を、彼女だけが知っている。それを共有しないままで裁量の議論をすることは、正邪を更生させるという観点からは間違っているのではないか。

 それに、正邪の立てた計画について気になる点もある。星は、正邪が下剋上の本質を理解していないように感じていた。
 小槌の力で幻想郷をひっくり返せば、今まで虐げられていた弱者は力を得て強者へと変わる。その反対に、今まで力を持っていた強者は弱者へと転落し、虐げられる立場になる。このように、小槌と正邪の能力とを利用した結果創造される世界はいわば“強肉弱食”を実現するものであるはずだ。
 しかしながら、正邪自身はそのことについてあまり理解していなかったように思える。彼女が見ていたのはいつも弱者側であり、強者がどうなるかまでは把握していなかったのではないだろうか。
 星に自身の野望を語った時も、強者をどうしたいのかを正邪が語ることはなかった。彼女が求めたのは弱者の救済であり、強者を地に貶めることではなかった。「自分の受けた苦しみを強者にも味わわせたい」といった類の下賤な願望など、彼女は一片も見せることがなかったのだ。
 強者への復讐や社会への反抗ではない。もっと純粋に、彼女は弱者を救いたかった。そのような者を悪人だと決めつけてしまうのは、やはり間違っていると言わざるを得ない。

 すべてを聞かなければならない。罪を犯した者すべてが悪人というわけではない。鬼人正邪は罪人という先入観に囚われたままでは、本当の意味で正しい判断などできるわけがない。そう確信した星は、呟くように声を漏らした。

「針妙丸さんの言う通りかもしれません」
「はあっ!?」

 星の言葉が信じられなかったのだろう、霊夢が威圧的とも取れるような声を上げた。一瞬怯みそうになった自分を奮い立たせて、星はさらに続ける。

「結局、私達は正邪さんのことをちゃんと分かっていないまま判断をしようとしていたんです。私も正邪さんが完全な悪人だとは思えませんし、もし針妙丸さんが我々の知らない何かを知っているというのなら、それを共有するのが最善だと思います」
「待って、なんであんたまでそんなこと言えるのよ」
「昨晩、正邪さんから話を聞いたんです。そこで彼女は弱者を救いたいと言っていました。その言葉、決して嘘ではなかったように思うんです」
「そうは言ってもねえ……針妙丸は? どうして正邪が悪人じゃないって分かるの? 誤解してるって言うけど、あんただってこいつと会ったのは異変の時が初めてだったんでしょ?」
「まったくだ。長い付き合いでもないのに理解者ぶるのはやめろ、気分が悪くなる」

 不服そうにそう言うと正邪は星と霊夢の間、縁側の先程まで座っていたあたりに戻る。その高慢な態度に、霊夢の心で燻っていた思いが爆発した。

「ちょっとあんた、いい加減にしなさいよ! 針妙丸も星も、あんたが悪人扱いされないように一生懸命考えてくれてるのよ? なのにそうやって人を苛立たせることばっかり言って……どうして相手の気持ちが分からないのよ!」
「そう言われても、私は天邪鬼だからな。他人がどう思おうが、私には一切関係」
「そうやって、自分を追い詰めるしかなかったんだよね」
「な、何っ!?」

 自身を遮った針妙丸の言葉に、またその優しい眼差しに、正邪は怯えるような声を上げる。その驚きようを見た星は、そこに正邪が隠し通した過去があるのだと直感した。

「何を馬鹿な……追い詰めるだと? どうしてそんなことをする必要があったと言うんだ?」
「あなたが輝針城へ来たとき話をしてくれたでしょう? 自分も苛められていたって。下剋上は弱者を救うためだって言ったけど、本当は辛い経験から目を背けたかっただけなんじゃないの?」
「そ、そんなわけないだろ。私はレジスタンスだ、世の不条理と戦う者だ。自分が救われたいなどという理由で幻想郷をひっくり返そうとしたわけじゃない」
「昔の話をしてくれた正邪の眼、すごく悲しそうだった。ああ、きっとこの子は昔の苦しみを忘れたいんだなって、その時思ったんだ。だからあなたの話に乗って小槌を使ったの」
「わ、私の話がでたらめだと気づいていたのか?」
「ほとんど信じちゃってたけどね。お城のことも小槌の反動のことも、知らないことはいっぱいあった。でも、あなたの力になってあげたいと思ったのは本当だよ?」
「やめろ、それ以上言うな! 私は……」
「ねえ正邪、もう一度話してくれない? あなたの本当の過去を皆に話せば、誰もあなたのことを悪者だなんて思わなくなるのよ」
「やめろ……私に優しくしないでくれ……」
「今まで優しくされたことがないんだね。昔は辛いことばかりで思い出したくないのは分かる。でもね、それを話してくれないと私達は何もしてあげられないの。正邪、少しでもいいから話してみてくれないかな?」
「……私は、ただあの頃から逃げたかっただけなんだと思う。きっと、そうだったんだ」

 深く重たい溜息を吐く正邪。針妙丸の言葉に頷いた彼女は、ゆっくりと自身の心の扉を開いていった。

「生まれてからずっと、私は悪として扱われてきた。まあ確かに私は天邪鬼で人を喜ばせるのが嫌いだが、いつだって人々の害悪になるわけじゃない。だが、周りの者は皆私を全否定したんだ。それこそ、虐げられても仕方のない者、としてな」
「そんな酷いことが……」
「星、お前には言っただろう。世の中はお前達みたいな優しい奴ばかりじゃないんだよ。相手が悪だったら何をしてもいいと思ってる奴とか、正義の味方気取りの大馬鹿者だっている。そういう輩に抵抗もできず虐げられるのが、私達弱者の日常だった」
「やっぱり……」
「力がないから苛められる。私に力があればと、ずっと思ってきた。だから幻想郷に来て打ち出の小槌の話を聞いた時、これしかないと思ったんだ」
「弱者が虐げられるという構図を変えようとしたんですね」
「ああ。そうすれば苛められることはない、あんな思いはもう二度としなくてすむ。ただそれだけだったんだ」

 言葉にならない声を上げて正邪が俯く。嗚咽を漏らす彼女の頬には、一筋の雫が零れていた。

「よく話してくださいました。もう十分ですよ、正邪さん」
「うぅっ……なあ博麗の巫女よ、一つ頼んでもいいだろうか」
「え?」

 正邪の話を聞いて動揺していた様子の霊夢は、彼女に声をかけられて一瞬たじろいでしまった。すぐさま普段の顔を取り戻すと、彼女は抑揚のない返事をする。

「なによ、言ってみなさい」
「話は終わった、私はこの後どうなってもいい。星や針妙丸に会って私の気持ちも変わったんだ。自分のしたことに責任があるのは分かっているし、事の重大さを理解せず問題を起こしたのも悪いと思っている。だから罰を受けることにはもう異論はない。ただ、一つだけ質問に答えてほしいんだ」
「質問?」
「ああ。私は、私が成そうとしたことは間違いだったのか?」
「それは……」
「今までずっと我慢してきた。こんな狂った世の中は変えなければならないと、ずっと思ってきた。そして機会を見つけ、それに飛びついた。それは間違いか? 力のない者を虐げて喜ぶような奴らのほうがよほど間違っているんじゃないのか? この世の中は間違いだらけだ。いつだってそう、弱者ばかりが割を食う。なのに、我々にはそれを訴えることすら許されていないんだ。こんなのおかしいと思わないか?」
「いや、それはそうなんだけど……他の人に迷惑をかけるようなやり方は駄目よ、やっぱり」
「じゃあ、私はどうしたらよかったんだ? 昔のように、大人しく我慢していればよかったのか? 弱者には常に絶望しかない。そんな世の中で、ただ苦しんで生きていけばよかったというのか?」
「そうじゃない、だけどね……」

 涙を流す正邪の疑問に霊夢は答えを見つけられない。
 正邪に重い罰を科すべきではない。過去を聞いたことで、霊夢の心もそう決まった。
 けれど、それだけでは彼女の疑問に答えることは不可能なのだ。弱肉強食という原理の根幹を崩さない限り、この問題に答えを出すことはできないのだから。
 正邪の投げかけた問いは、社会構造の欠陥に対するものだ。純粋な力のみならず権力や富など、あらゆる面で社会は二極化を避けられない。意図的な蹂躙はなくせても、構造上の搾取はなくなることがない。
 それこそ社会をひっくり返さない限り、この構造は変わらない。弱者に希望を与えたくともその方法がないという現状を霊夢は理解している。だからこそ、彼女は正邪に何も答えることができなかった。

「……結局、私達が救われようと思ったことが間違いか」
「違います! そういうことではないんですよ」
「ならば星、お前は答えを出せるのか? 弱者が救われる方法に」
「それは……」

 雫を湛えた瞳を見て、星は無念にも俯いてしまう。
 社会を変える努力をすればいい。それが一番現実的な回答だが、それでは正邪を納得させることはできないだろう。苦しんでいる弱者の規模は計り知れない。変革にどの程度かかるかも分からないし、その間も大勢の人々が苦しむことになる。自分のためだったとはいえ多くの弱者のため立ち上がった正邪がそれを良しとするとは思えない。
 何が正しいのだろう。悲しそうな正邪を見た星は懸命に思考を巡らせるが、適切な案は中々出てこない。
 博麗神社の境内に気まずい雰囲気が立ち込める。正邪の抱いていた淡い期待が儚くも消え去っていく。

 その重苦しい沈黙を破ったのは、針妙丸の透き通った一言だった。


「私が正邪の希望になる」


 静まり返った境内に、針妙丸の凛とした声が響く。それを聞いた正邪は目を見開き唖然とした表情を浮かべた。
 困惑と僅かながら恥じらいの混じったような顔になった彼女は、仄かに頬を紅潮させて言う。

「お前が……お前ごときが私の希望だと? だいたい、ちゃんと話を聞いていたのか? 私が求めているのは“弱者にとっての希望”なんだ。今も苦しんでいるであろうすべての弱者を、お前一人が支えきれるとでもいうのか?」
「何言ってるの正邪、そんなの無理に決まってるじゃない」
「何だと? それじゃお前」
「でもね、あなた一人なら支えてあげられるよ。そしたら、今度はあなたが誰か困ってる人を支えるの」
「私が支える、だと?」
「そう。正邪、ずっと社会を一度に変えることばかり考えてたよね。冷静になってみればそんなの無理だって分かるでしょ、そう簡単に社会全体を変えたりできないよ」
「しかし、そうしなければ」
「そうね、すべての弱者を救うことはできない。だから、一人ずつ希望を分かち合うんだよ。まずは私と正邪、そして次は正邪と誰かっていうふうにね」
「なるほど、希望の輪ですか」
「そういうこと! 確かに、これは最高の方法じゃないと思う。正邪が次に回せないと、他の苦しんでいる人を助けられないわけだからね。でも、目の前で困っている人を助けたいって思うくらい良いじゃない」
「なぜだ……なぜそうまでしてくれる? 私はお前を騙して利用しようとしたんだぞ」
「まあ腹が立たなかったわけじゃないよ。でも、一人でも笑顔になる人が増えたほうがいいかなって」

 そう言うと針妙丸は正邪に向けて満面の笑みを浮かべた。春の陽だまりのような、温かく穏やかな微笑みだ。
 正邪はその笑顔を躊躇ったように見つめていたが、やがて大きな溜息を吐くと口元を緩ませた。涙を拭った彼女は手を伸ばし、針妙丸の頭をこねくり回し始める。

「生意気だな、世間知らずのお姫様のくせに」
「ちょっと正邪、やめ、目、目がー」
「だめだ。お前みたいな奴は、こうしてやる」

 嫌がる針妙丸を無視して、正邪は彼女の頭をぐりぐりと撫でまわす。
 いっこうに止めようとしないのを見かねた星達は声をかけようとしたが、正邪の瞳が再び潤んでいることに気がつくと共に口をつぐんだ。これは彼女の強がりだ、ここは邪魔しないでやろう。二人ともそんな気持ちになったのだ。
 ひとしきり針妙丸を撫で終えた正邪は一度小さく息を吐き、やがてはにかんだ様子で言った。

「面白い、なってもらおうじゃないか。お前程度が私の希望になれるというならな」
「あうう、まだくらくらするー……」
「軟弱だな。本当にお前で大丈夫なのか?」
「ええ。むしろ、針妙丸さんだからこそ正邪さんの支えになれるんですよ」
「そういうもんかね」

 星の言葉に正邪は静かに答える。口調や態度は普段通り素っ気ないものだったが、その瞳が穏やかに輝いているのを星は見逃さなかった。彼女は、ようやく救いを得ることができたのだ。
 残された問題は正邪に与える罰だ。どう裁量すべきかと星が考えた直後、事態を黙って見守っていた霊夢が声を上げた。普段の彼女よりも、どことなく優しい響きの声色で。

「じゃあ、正邪のことは針妙丸に任せればいいわね」
「えっ!? ええと霊夢さん、あの」

 思わぬ発言に星は困惑する。巫女としての責任感から今まで正邪に厳しい態度を取り続けていた霊夢が、彼女を赦すような発言をするとは思っていなかったのだ。
 驚いた様子の星達を見た霊夢は、少し恥じらいを含んだ表情で続ける。

「異変を起こしたことは問題だけど、事情を考えるとこいつを大罪人呼ばわりするわけにはいかないわ。やってしまったことと思想の危険性を考慮すれば、誰かを監視につけるくらいの措置が妥当でしょ」
「じゃあ、正邪さんを赦すんですね」
「だから違うってば! 針妙丸は被害者だし監視役にちょうどいいかなと思っただけで、そもそもこれは罰なのよ、あくまでも」
「いいのか? 本当にそんなもので」
「私がいいって言ってるんだからいいのよ、それともあんた退治されたほうがいいの?」
「ば、馬鹿を言うな!」
「え、正邪退治されちゃうの!?」

 揺れる視界から回復した直後の針妙丸が霊夢の言葉に反応する。前後の話を聞いている余裕などなかったから、勘違いしてしまうのも仕方がなかった。

「違う、そうじゃない! むしろなんだ、その……」
「霊夢さんは、正邪さんのことを針妙丸さんに任せたいと言ったんですよ」
「ほんと!? よかった、正邪のことを分かってもらえたのね!」
「なあ、私のことで馬鹿みたいに喜ぶのはやめてくれないか?」
「それは無理ね。正邪のことは私がなんとかするって、あの時に決めちゃったんだから」
「はあ……こんな調子なら、逃げ回っていたほうが楽かもな」
「ちょうどいい罰になるかもしれませんね。ちゃんと反省してくださいよ」
「言っとくけど、また悪さしようとしたら今度は厳しくするからね。仕方なかった、なんて言えないわよ」
「分かってるよ、もうああいうことはやらん。ああいうことは、な」

 正邪はそう言うと霊夢に向かってニヤリと微笑んでみせた。
 どうやら反省が足りないようだが、天邪鬼としてはそれでいいのかもしれない。活き活きとした彼女の笑顔を見て星はそんなことを思う。
 正邪はずっと救いを求めてきた。弱者を、自分を救うために幻想郷に混乱をもたらそうとした。だが、今の彼女には針妙丸がいる。彼女を支え止めてくれる、大きな希望がある。これなら、もう今回のような事件を引き起こそうとはしないだろう。
 これで一応は解決だ。早速正邪を叱っている針妙丸を眺めてそう思いつつ、星は腰を上げる。

「さて、と。それでは私、戻りますね」
「ええ。星、わざわざありがとうね」
「星さん、正邪のことを思ってくれて本当にありがとう」
「いえ、私は自分の信じる正義のため行動しただけですから」
「正義ね。胡散臭いが、恩義は感じている。お前がここまでしてくれなかったら私は今頃死んでたかもしれないからな」
「ふふ、そうですか。珍しいですね、正邪さんが恩義だなんて」
「前も言ったろ、気持ちが理解できないわけじゃないと。尤も、それに応える気など更々ないがな」

 不満そうに顔を背ける正邪。その姿に礼を言われたときの自身の従者を重ねて、星は思わず口元を緩ませた。
 三人にお辞儀をし、彼女は境内の石畳を蹴り出した。温かな日差しの降る空へと舞い上がり、命蓮寺を目指して進む。
 春の空を行く彼女の心は、目の前の雲一つない青空のように美しく澄み渡っていた。


 ◆


「ふわあ……平和ですねえ」

 正邪の一件から数日経った頃。春の終わりを告げる強い日差しを本堂の軒先で浴びながら、星は大きく伸びをしていた。

 星の活躍により、正邪がお尋ね者として追われることはなくなった。事態の周知に協力した天狗の記者曰く、彼女はその日のうちに反省文を何十枚も書かされたらしい。霊夢の指導の下で書く反省文は十分に苦行だっただろうが、それで赦してもらえたこと自体が奇跡である。他人に感謝の意を示そうとしない正邪でも、今回の件ではさすがに星と針妙丸、そして霊夢に頭が上がらなくなったことだろう。

「しかし、気になるなあ」

 閑散とした命蓮寺の境内をぼんやりと眺めながら、正邪のことを思う星は一人そう呟く。赦された彼女がその後どうしているのか。一件を乗り越えた星の胸には、また新たな懸念が生まれていたのだ。
 針妙丸が監視につくことで正邪に対する処分はひとまず決着した。しかしながら、その監視役である針妙丸は現在霊夢の保護下にある。万全ではない彼女が正邪を監視できるだろうか、もしそれができないとしたら再び正邪は間違った方向へと進みやしないだろうか。参拝者がおらず暇であることも手伝って、星の心の中はそんな思いでいっぱいになりつつあった。
 今日は誰も参拝に来なさそうだし、いっそあちらへ様子を見に行ってみようか。そんなことまで考え始めた直後、不意に上空から星を呼ぶ声が聞こえた。

「星さーん!」

 声に反応して顔を上げる。澄んだ青色の空の中に、小柄な人影がこちらへ降りてくるのが分かった。その見知った人影を目にして安心した星は、にこやかに微笑んで返事をする。

「針妙丸さん、それに正邪さん! どうしたんですか、二人揃って」
「正邪のことでお礼に来たの。ほら正邪」
「うるさいな、分かってるよ。その、なんだ、一応お前には世話になったからこれを持ってきた」

 たどたどしい口調でそう言った正邪は手に持っていた包みを差し出す。丁寧な包装のそれを受け取った星は、思わず大声を上げていた。

「これ、里で有名な和菓子屋さんのじゃないですか!?」
「さすが星さん、よく分かったね。手土産にするならここのお饅頭がいいだろうって正邪が言ったんだよ」
「正邪さんが、ここのお饅頭を?」
「空箱をやろうかとも思ったんだが、礼を言うときくらいはお前達の慣習に従ってやろうと思ってな」
「ふふ、正邪いつもこんな感じなの。嫌味ばっかり言うけど、実際誰かに意地悪することはないんだよ」
「お前が近くでうるさく言うからだろうが。こんな奴がいたんじゃ嫌がらせする気にもならん」

 苛立ち混じりにそう言うと、正邪は腕を組んだまま背を向けてしまった。その様子がなんだかおかしくて、星と針妙丸は顔を見合わせて笑みを浮かべる。

「しかし、よく霊夢さんが外出を許可してくれましたね」
「いや、あのね……」
「ちょいとあいつの服をひっくり返している隙に黙って出てきたんだ。まあ、私の能力の使い道は本来そういうものだからな」

 そう言うと正邪は楽しそうにケラケラと笑う。
 神社へ帰った後も、そう楽しそうに微笑んでいられるだろうか。正邪の身を案じつつ、星は苦笑いを浮かべて言う。

「ええと、正邪さん、どうかお大事に」
「おいやめろ、縁起でもない」
「けど、このまま帰ったら霊夢さんすっごく怒るよ? だいたい、なんで今朝急に命蓮寺へ行ってみようなんて言ったのさ」
「お前、ずっと言ってただろ。神社にいるのも飽きた、たまにはどこかへ出かけてみたいって」
「えっ? それじゃあ、私を連れ出すために?」
「ああ、そうすればあの霊夢を困らせることができるからな」
「本当にありが……えっ? なんだって?」

 予想に反した正邪の答えに、針妙丸は思わずそう聞き返した。どこか誇らしげな正邪は、ニヤニヤと笑みを浮かべてそれに答える。

「馬鹿みたいな量の反省文を書かせやがったあいつに何か仕返ししたいと思ってたんだ。その時外へ行きたいというお前の話を聞き、利用させてもらったというわけだ」
「はあ……あのさ、それを聞いた私がどう思うかは考えなかったの? 戻った後、あなたを庇ってあげるとでも思った?」
「ああ、思ったさ。動機が何であれ、私がお前を外へ連れ出したのは事実。それなら、お前がその行動に対して感じるのは憤りではなく喜びだろう? お前は外に出られたし私は霊夢に嫌がらせができる、一石二鳥じゃないか」
「……呆れた。なんでこんな奴を助けたいと思っちゃったんだろうなあ……」

 針妙丸はそう呟きように言い、深く大きな溜息を漏らす。その口調こそ沈んだものだったが、彼女の表情に後悔は見えなかった。正邪の予見通り、帰宅後彼女は怒れる霊夢から正邪を庇おうとするのだろう。

 あの晩正邪を説得して本当によかった。微笑む二人を眺めて星はそんなことを思う。
 正邪に対して与えられた罰は、毘沙門天の正義からは遠くかけ離れたものだ。決して揺らぐことのない正義として常に人々の指針となる。それが毘沙門天の教えであり、自身がそれを守る立場であることを星は自覚している。そのためには間違いを犯した者に情けなどかけることはできず、正邪はもっと厳しい罰を与えられるべきだったはずだ。
 しかしながら、監視をつけるだけというこの甘い罰を星は最善だと考えている。救うべき相手は、正邪一人ではなかったからだ。
 正邪の辛い過去を知り、針妙丸は彼女の支えになろうとした。もし正邪に厳罰を科したのなら、その願いまでも摘み取ってしまうこととなる。そうなれば、多くの人々を救うという正義の根幹に反していただろう。

 確かに、正邪への懲悪は不完全だった。けれど、それで毘沙門天の正義が歪んだわけではない。目の前の二人の微笑みを見れば、この選択もまた一つの正義だったと言えるのは明らかだ。
 ただ信念を通すだけではいけない。今回のように、正義には柔軟な判断も必要だ。この一件で新たな教訓を得た星は、それを反芻しながら一人頷く。

「星さん、どうかしたの?」

 針妙丸の声を聞いた星は腕組みを解き、彼女に笑顔を向ける。

「いいえ。ただ、二人の笑顔を守れて本当によかったなと思っていたんです」
「そうだね。私もこうして正邪といられるのがうれしいんだ」
「あとはうるさい監視がいなくなれば最高なんだがな」
「またそんなこと言ってー、結局悪さしないくせに」
「う、うるさい! お前がいちいちあの巫女に報告しようとするからできないんであってだな、本当は私だって色々とよからぬことを」
「はいはい、その辺にしましょう。この様子だと大丈夫そうですね、正邪さん」
「まあ、元々危ない奴じゃないみたいだしね。優しく接してれば、いつか正邪も優しくなるんじゃないかな」
「そんな日は来ないでほしいな」
「ふふ、分かりませんよ? 意外と早かったりするかもしれませんね」

 もうなっているんじゃないですか。針妙丸とのやりとりを見てきた星はそう言いかけたが、敢えてその先を言わないようにした。正邪が針妙丸に対してのみ優しくなりかけているのなら、冷やかしたりせず彼女に任せたほうがいいと考えたのだ。
 正邪の持ってきた饅頭に視線を変え、星は言う。食べ物を前にした時の、子供っぽい笑みを浮かべながら。

「せっかくですから、皆で食べませんか? ここの軒先、あったかくていいんですよ」
「けど、それは私達のお礼なのに」
「何を言う、こういう時は素直にいただいておくのがいいんだろう?」
「こういう時だけは礼儀にうるさいのね」
「なんならお前だけ帰ってもいいんだぞ」
「あら、それじゃ霊夢さんに報告しようかしら。『正邪に無理やり連れ去られた』って」
「い、いやお前、それはずるいんじゃないか?」
「ふふ、冗談だよ。本当にそんなこと言うわけないじゃない」
「いや分からんぞ、お前の性格の悪さからすればな」
「はあ? 正邪にそんなこと言われるの心外なんだけど」
「心外? それはこっちの台詞だな。箱入りのお姫様のくせに」
「あ、あれはただお城から出る方法がなかっただけで」
「結局は箱入りじゃないか。それとも引きこもりか?」
「違う、そんなんじゃないやい! もう、正邪なんか嫌い!」
「おう、その調子でもっと嫌ってくれ。ついでに監視を解いてくれると」
「残念、そうはいかないよ。ていうか、そろそろ正邪も私がいるの嫌じゃなくなってきたでしょ?」
「な、何を馬鹿な。お前なんかと一緒にいたくないに決まってるだろう」
「ほんとかなあ? じゃあ、私先に帰ってもいい?」
「それは卑怯だろう!」

 延々と続く二人の漫才めいた掛け合い。隣に座ってはいるが、星の割って入る隙間などもはやこの場に存在しなかった。
 いつまでも終わることのないやり取りに耳を傾けながら、星は二人の今後に思いを馳せる。

 針妙丸が正邪を変えるのか、それとも正邪のほうに針妙丸が引っ張られるのか。ちぐはぐな二人の行末は誰にも分からない。ただ一つ明らかなのは、どちらに転んでも二人はこのままぎゃあぎゃあと騒ぎあう関係でいるということだ。
 どうか二人に幸せを。いっこうに止まる気配のない二人を眺めて、星は静かに祈りをこめる。

 穏やかな初夏の一日は、こうしてゆっくりと過ぎていった。
 
 
拙作をお読みいただきありがとうございます。

ついに明日ですね! 弾幕アマノジャクの委託開始日!
PVでは完全にお尋ね者扱いだけど、星ちゃんや針妙丸は正邪のことを悪人と断定したりしないんじゃなかろうか。そんな思いから書きました。少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
でれすけ
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コメント



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2.70名前が無い程度の能力削除
チョロイン正邪もなかなか乙でした
星ちゃんにはもう少し頑張って欲しかったかも
3.100名前が無い程度の能力削除
誰かを許すって難しいですよね。やってしまったことが大事なら尚更でしょう
正邪のために頑張る星ちゃん達が活き活きしていてよかったです
5.100非現実世界に棲む者削除
ツンデレ正邪可愛い。
星がとてもかっこよかったです。
6.90奇声を発する程度の能力削除
中々良く面白かった
7.100絶望を司る程度の能力削除
面白かったです。
8.90名前が無い程度の能力削除
個人的には星ちゃん主体で解決するのが見たかったかな。
しかし十分楽しめました。こういう正邪もいいですねww
11.100名前が無い程度の能力削除
ほんの少し見方を変えれば幸せになれる。そう言ったのは誰でしたかね。
13.80名前が無い程度の能力削除
話として良かったです。弱者が生きる答えが支え合うこと、というものは納得です。