とき-の-うじがみ【時の氏神】
ちょうどよい時に現われて、仲裁などをする人。その時に臨んで、非常にありがたい人。(『日本国語大辞典』)
Deus ex machinaの訳語としても用いられる。
「それなら、あんたで充分じゃない」
輝夜は久方ぶりに、里の人間を永遠亭へ迎えていた。
「どうせあんたも暇してるんでしょ? 暇つぶしのネタを持ってきてやったんだから、感謝しなさい」
どかっ、ととても少女らしからぬ音を立てて、白髪の少女が座布団の上に座った。
「あんたも似たようなもんでしょう? なによ恩着せがましく」
「私はあんたと違って知り合いも多いから、そんなことはないよ。これだから引きこもりは、物事を知らなすぎて困る」
「あら、言うわね? 表出る?」
「やめときな。折角のお姫さまを、阿礼乙女の面前で黒焦げにするのは、いくらなんでも気が引けるもの」
妹紅は意地の悪そうな顔を浮かべた。まったく、何年経っても変わらないものだ。
「ほんと、性格っていつまでたっても変わらないのね」
呆れた輝夜は、視線を初めて見る少女に向ける。困惑した表情で、二人を交互に眺めている。
「それで、あなたが妹紅の言ってた稗田阿勢さん?」
「え、ええと……」
突然話を振られて、彼女は戸惑ったようだ。
「私が、この永遠亭のあるじ、蓬莱山輝夜よ。はじめまして」
輝夜の一礼。ごく自然に、略式なものだ。
「は、はじめまして! 私、三十代御阿礼の子、稗田阿勢と申します! この度は藤原妹紅さんのごじょ、いたっ……」
輝夜は簡単な礼で、砕けた場であることを示したつもりだ。しかし、彼女は固まったまま。舌を噛んだらしい。
「ほら、そんなに緊張しなくていいのよ。別に取って食ったりしないわ」
あんまりにガチガチな阿勢に、輝夜は助け舟を出す。
「というか妹紅、あんた私のことどう紹介したのよ?」
「大したことは言ってないよ。せいぜい、本物のかぐや姫だから、無礼があるとどうなるか知らない、というくらいか?」
最悪だ。後で絶対締めよう。輝夜は決意する。
「まったく、そこの性悪白髪女の言うことを信じちゃダメよ。これでも、幻想郷一穏和なことで定評があるんだから」
妹紅がすごい表情でこちらを見ている。命知らずめ。
「第一、御阿礼の子の記憶に私のこともあるでしょう」
「ですが、それはただの記録ですから……。変わっていない保証もなかったですし」
消え入りそうな声は、彼女の臆病さを示しているのだろう。
「まあいいわ。とにかく、仲良くしましょう? これからよろしくね」
「は、はい」
「それで、わざわざこんなところまで来てどうしたの?」
「今回は、輝夜さんにお伺いしたいことがあって」
「何かしら? おおよそのことは、貴女のほうが余程詳しいでしょう?」
年月だけ見れば、輝夜の方が"彼女たち"より長生きかもしれない。しかし、見たもの全てを記憶する彼女らに、自分が敵うとは、輝夜には思えなかった。
「それでも、私たちの持つものは記録に過ぎません。それではわからないことがあるのです。だから、実際に見てきた方にお聞きしたくて」
その表情は真剣。この娘が、心底から輝夜の話を願うことは窺えた。
「それなら協力しないではないけど。それにしても、この性悪白髪暴力女でいいんじゃないのかしら? こいつだって、無駄に長生きしてるんだから」
「私だけじゃ偏るじゃない。それに、いくらなんでも二千五百年も前のこととなると、記憶も怪しいし」
「は、二千五百?」
てっきり先代くらいの話と早合点していた輝夜は、思わず聞き返した。
「そうなんです。今回聞きたいのは、博麗霊夢という人が生きていた時代についてなんです」
博麗霊夢! 随分と懐かしい名前だ。妖怪からも好かれていた、最後の博麗の巫女。幻想郷が大混乱を迎える直前の、最後の輝きのような時代の象徴!
そうか、あれからもう二千五百年も経つのか。改めて数えなおした輝夜は、少々驚きを隠せない。幻想郷にとって大きな曲がり角であったあの頃。遠い昔であるのはわかっていたが、数字にして捉え直すと、恐ろしい程に時間が経ってしまったことを見せつけられる。
「な、面白いだろ?」
妹紅の自慢げな顔が、輝夜には少しうざったいが、感謝の気持ちも抱かざるをえない。
ずっと忘れていたこの懐かしさは、輝夜にとって結構心地のよいものであったからだ。
「でも、なぜ私なのかは、やはり不思議だわ。紅魔館のチスイコウモリでも、八雲の九尾でもよかったんじゃない? というかさ」
輝夜は妹紅を指差した。
「その話なら、やっぱりこの"朱鵬"が一番詳しいじゃないの。その上で、私に聞くことなんであるわけ?」
「だから、私だけだと偏ると言ってるじゃない。月の姫はそんなこともわからないのか?」
「その時代の史料なら、あんたがもう博捜してるでしょ? 本だって書いてるくらいなんだから」
博麗霊夢の死後、曲がり角にあった幻想郷はいよいよ大きな混乱期を迎えた。そこでは多くの悲喜劇が演じられ、その結果として現在の幻想郷の原型が形成されている。
目の前にいる白髪の少女にも、それに色々思うことがあったらしい。その混乱が終わって少し後、幻想郷の歴史書をまとめた。それが『朱鵬妖境通鑑』。歴史書をまとめるというのは、どうやら妹紅の友人だったあの半白沢の影響だったようだ。
その『朱鵬妖境通鑑』であるが、輝夜にとって悔しいことに、出来は素晴らしいと認めざるをえない。
「あの、輝夜さん」
「何かしら?」
「博麗霊夢という人がいた頃、輝夜さんは妹紅さんと大層仲が悪かったと聞いています。それは、本当ですか?」
「本当よ」
今となっては、こうやって憎まれ口を叩き合い、弾幕ごっこで殴り合い、その後一緒に酒を煽る、そんな関係である。しかし、霊夢が生きていたくらいの時期は、比喩でなく憎みあい、殺しあっていた。
「それなら、きっと妹紅さんとは大きく見方が異なっていると思うのです。違いますか?」
「それは、そうかもしれないけど。事実の確認なら、大きく変わらないと思うわよ」
というか、それなら妹紅の本を読めばいい。それ以外にも、鈴仙・優曇華院・イナバの日記だって、フランドール・スカーレットの回想録だって公刊されている。手に入る史料はいくらでもあるはずだ。稗田本家の蔵書がかれこれ一千年ほど前、烏有に帰したことは有名であるが、それにしても史料がないということはあるまい。
「そうじゃないんです。私が知りたいのは、その時代がどんな時代で、博麗霊夢という人がどういう人だったか、ということなんです。だから、輝夜さんに聞きたくて」
「へえ。要するに、時代の空気みたいなものを、知りたいのかしら?」
輝夜にも、少し興味が湧いてきた。その頃の記録だって頭にあるだろうこの少女が、あの悲劇的で楽しさに満ち溢れていた少女のことを、どのように考えるのだろうか。
「この時代が、人妖の最も錯綜する時代だったことは知っています。それなら、人妖の間に立っていた博麗の巫女は、どんな人だったのかと。博麗の巫女が生きていた時代は、いったいどんな時代で、幻想郷はどんなところだったのか。私は、そういう印象が聞きたいんです」
先ほどまでの臆病でぼそぼそ喋る彼女とは思えないほどに、阿勢ははきはきと喋る。きっとこちらが地なのだろう、と輝夜は合点する。
「博麗霊夢の生前から組織の長を務めてこられ、今でも人と関わりを持つのは輝夜さんだけなのです。だから、人間方に属する一勢力の長から見た博麗霊夢を、教えてください!」
ああ、そうか。輝夜は、その言葉に少し感傷的になった。気づかぬ間に、随分別れを経てきたらしい。
紅魔館では壮絶な姉妹喧嘩の末、フランドールが長になった。それこそ、霊夢が死んでまもない、例の混乱期の話である。
命蓮寺の聖も、"成仏"してから長い月日が流れている。生入定かどうかと、そういう教説論議が巻き起こった懐かしい記憶がある。
夢殿の主の話は、今でもあまり思い出したくない話だ。
八雲紫も、つい百年ほど前のある日、遠くへ行きますとの置き手紙を残して、唐突に姿を消した。それっきり、姿を見たものはいない。それまで、そんな素振り全く見せていなかったものだから、まるで猫のようだと、フランと語り合ったものだ。
古明寺さとりとは交流が殆ど無かったが、死去の報を聞いたのはもう一千年以上前の話だったはず。風の噂に、早すぎる死だ、とだけ聞いた。
今でも健在だろうと思われるのは、西行寺幽々子と四季映姫、そして八坂神奈子である。しかし、冥界や地獄への道は閉ざされて久しい。八坂神奈子もまた、龍神にかわる幻想郷の鎮守となってからは、すっかり雲の上の存在となり、風祝を通して以外、人との関わりを持たなくなった。
指折り数えてみて、霊夢を知る者の少なさに、背筋が少し震えさえした。
「ああ、輝夜も数えたのね。ほんと、びっくりするでしょ?」
もちろん、長に限らなければ生きているものもたくさんいる。中には、ミスティア・ローレライのように大妖怪となって、新たに一勢力を築くものまで出てきている。
だが、死んだものがたくさんいることも、また事実なのである。
「そこまで言うなら、仕方ないわね」
ふとそこに思い至り、輝夜は語ることを決めた。そうすることで、死んだものを思い出すのも一興だと、そう思ったからに他ならなかった。
「ありがとうございます!」
輝夜の言葉に、阿勢は頭を深々と下げた。
そうね、とはいったものの何の話をしたらいいかしら。あの時代の話を一から、というといくら時間があっても足りないわ。
あら、妹紅にしてはいいこと言うじゃない。あの時代の雰囲気がよくわかる話を一つ持ち出して、それについて私見を交えながら語るのであれば、それほど労力もかからずに話を進められるわね。そういう形でいい?
そう、ならそれでいくわね。どの話がいいかしら。どれを選んでも、やっぱり少々長い話になりそうね。第一、二千五百年も前の話となると、いろいろ寄り道しないと思い出せないことも多そうだし。
よし、せっかくだから、お酒……だと途中でグダグダになりそうだから、何かお茶とお茶うけでもしっかり用意しましょう。イナバー! ちょっとお茶とお茶うけと、持ってきてくれるー? どうせなら、あの羊羹切ったらどうかしら? ほら、こないだ九尾からもらった。そうそう、その高そうなやつ。せっかくお客様が来てるんだし。はーい、よろしく。
さて、と。どうせならあの話がいいと思うのだけど、妹紅はどう思う? ほら、あったじゃない。確か間欠泉が湧きだした少し後に。人里と天狗とがいらぬいざござ起こしたやつ。あんたも当事者だったでしょう?
え、そうだったかしら。でも皆で露天風呂に入ってワイワイやってたの、あの事件の解決後のことじゃなかったかしら? ほら、アリス・マーガトロイドが風呂の中で倒れたあれよ。何の兆候も見せずに突然倒れて、大騒ぎになったじゃない。それなら、間欠泉の事件より後にならない?
うーん。あれはそっちの解決後だったかしら。でも、そっちの時にはアリス、殆ど関わってなかった気もするのよ。それに、もしそうなら、この時はどうしたか、覚えてる?
……だめね、これはわからないわ。話してたら思い出すかしら。それでもダメなら、あとでフランかミスティアにでも聞いてみることにするわ。
とにかく、ちょうど間欠泉の事件が起きる前後のことだったわ。一番、人妖が接近していて、騒がしかった時代のことね。まだ、諏訪の神さまも立ち位置が微妙で、大きな動きは見せない時代よ。
あら、ありがとう。それはそこにまとめて置いておいていいわよ。あら、お茶もあれを煎れたのね。やっぱり、香りが違うわねぇ。妹紅には勿体無いわ。
あら、これで最後? じゃ、味わって飲まないとね。
そうそう、一応紹介しておくわ。妹紅は知ってると思うけど、この娘が、私の補佐をしてくれてるイナバのショウキョウよ。漢字は笛のショウに、……ええと、なんて説明したらいいかしら。渡る「橋」のつくりの「喬」ね。この二文字で、簫喬。それでこちらは、当代の御阿礼の子である稗田阿勢さん。
ええ、この娘の名前付けたの、韶霞なのよ。あ、えっと、ほら、今紅魔館で執事やってる、あの娘。あの娘が永遠亭を出て行く前に名づけてもらったのよ。漢字は永琳ね。そんな難しい字使うの、永琳くらいだもの。
そ、「王子喬」の「喬」よ。『文選』ね。「仙人・王子喬、与に期を等しくすべきこと難し」ってね。洒落た名前でしょ?
あら、さすがは妹紅ね。そこに気づくとは。
え、そこも典拠あんの?
あー、「簫韶九たび成れば、鳳皇来儀す」かしら? 『尚書』益稷だっけ。永琳のやつ、こんなとこまで引いてたのね。イナバ、あなたは知ってた?
知らないわよねー。『尚書』の中身までいちいち覚えてないもの。あ、阿勢は別よ。
いやいや、そこまで暗唱できるのなんて、幻想郷じゃあなたと御阿礼の子くらいよ。ホント、あなたの父親って伊達に史なんて名乗ってなかったのね。彼も、下手に律令なんて弄るよりも、史官として文章書いていたほうが幸せだったんじゃないかしら。
ごめんなさい、話が飛んだわね。ええとね、琳と鈴と韶、永と仙と霞、と関連する文字の組み合わせになってるわけ。で、簫喬もそのお仲間なのよ。全員ってわけじゃないんだけど、時々永琳はこういうことをするわ。なんでかは、よくわからないんだけどね。
そんなわけで、今やこの娘もイナバの中でも最古参に近いのよ。なんせ、二千五百歳だもの。まったく、ついこないだ生まれたと思ったら、月日が経つのは早いものね。
そうだ、ちょうどいいから、あなたも話聞いてかない? それこそ、あなたが生まれたころの話をしようかな、って思ってるのよ。
あら、まだお仕事あるの? それはどの仕事かしら?
あー、あれか。それなら、別にすぐ済ませる必要もないでしょう。永琳には私から話しとくわ。せっかくだから、ほら、そこに座った座った。輝夜さまの昔話が聞ける機会なんて、今を逃したら百年はないわよ。
さて、人も揃った所で、話をはじめていこうかしらね。今から二千五百年ほど前、ちょうど間欠泉の異変が起こるか起こらないかというくらいの、すごく寒い冬の日の話しよ。
問題発生のきっかけは、ものすごく単純なことだったの。その冬一番の寒さだった晩に、ほろ酔い気分で歩いていた天狗と、やっぱりほろ酔い気分で歩いていた人間とが、伊治村のど真ん中でたまたまぶつかっちゃった。ただそれだけ。
そうよ、そのころは人里にも妖怪向けのお店がたくさんあってね。当時、人里は伊治・上・稗田・小路・霧雨の五集落だったのは知ってると思うけど、その中でも伊治村は一番妖怪の山に近かったから、妖怪向けの店もそれなりにあったの。
だから、この頃の人里には結構妖怪がいたわ。アリス・マーガトロイドはひと月に何回か人里に行って、人形劇をやっていたし、夢幻館の主だった風見幽香も、よく人里の花屋に出向いていたらしいわ。ミスティアが今やってるような屋台始めたのもこの頃ね。だから今でも例外的に、彼女は人里に入れるのよ。
人里で妖怪が暴れたら、博麗霊夢と八雲紫の制裁よ。あの頃は、その二人が人妖秩序の保護者みたいなものだったからね。
その通り。今、永琳と八坂神奈子とがやってるようなことを、当時は博麗霊夢と八雲紫という人妖がこなしてたの。そりゃ、神の代行だから凄い負担だったとは思うわ。でも、それなりになんとなってたのよ。八雲紫という妖怪は、神の代わりができるくらいには大きな力を持った妖怪だったわけ。もっとも今考えると、似たような年齢のはずの式神より早く死んじゃったあたり、幻想郷を守るのに文字通り命を削ってたんだろうって、思うけどね。勿論それだけじゃなくて、博麗霊夢の人気もあったと思うわ。彼女、とにかく人妖双方から人気があって、みな協力的だったしね。
話を戻すわ。道の真ん中で酔っ払いがぶつかったらどうなるか。話は簡単よね。そこから口論になったわけよ。それで、そのまま売り言葉に買い言葉で、殴り合いの喧嘩になったのね。
どちらが先に手を出したか? 私はこの時、天狗側が先に手を出したと聞いてたけど、それ人里側から聞いた話なのよね。妹紅は知ってる?
やっぱりね。結局、両方が酔っぱらいなんだから、よくわからないのよ。そんな重要な話でもないしね。問題は、ここで両者が喧嘩になったってことよ。どちらが先に手を出したかは知らないけれど、すぐ乱闘になっちゃったのよ。天狗側も人間側も、若い男女の集団だったのがまたまずかったのよね。両方共、後先考えず行動しちゃったの。
あなたの言うとおりよ。人間が妖怪に敵うわけないわ。これが人間にとって特に無謀なことだったのは言うまでもないことよ。あっという間に人間側は蹴散らされちゃった。でも、ここでの対応は天狗側も問題だった。怒りに任せて、全力で人間を攻撃しちゃったのよ。
いくらなんでも、これはやりすぎだったわ。天狗を怒らせたことに気づいた人間は、慌てて集落の中を逃げまわる。天狗側も頭に血が上っているから追いかけて攻撃を更に加える。結局それで、人間側は死者まで出ちゃった。確か二人か三人だったと思うけど。それも、天狗を攻撃した無謀な男だけじゃなくて、その隣にいた若い女一人も殺しちゃったのよね。
ここで話が終わらなかったのが、さらに問題がややこしくなった原因ね。この時にたまたま通りすがってしまったのがいるのよ。もう夜遅いというのにね。それが、うちの鈴仙だったわけ。
そ、その鈴仙よ。鈴仙・優曇華院・イナバ。今じゃもはや伝説的な英雄扱いになってて、びっくりするわ。ほらあるじゃない、あの物語。
そ、それ。その中では、誰よりも勇敢で賢くて優しい兎だったって、そうなってるじゃない? 挙句の果てには、馬鹿な主、それも男、に固く忠義を誓ってどうの、とか。
こら、妹紅笑うな。というか何よ、「全くそのとおりだ」って。喧嘩売ってるならいつでも買うわよ。この、イナバまで笑ってるし。まったく、主人をなんだと思ってるのよ。
こほん。
とにかく。阿勢の言うとおりよ。二千五百年、皆が語り継ぐ間にほとんど原型がなくなっちゃってるのよ。ああ、別に、それを訂正しようというつもりはないわ。だって、そこで語られる"鈴仙・優曇華院・イナバ"は、皆にとっての英雄であり、救いだもの。いくら生前の鈴仙を知っているからって、私が皆から英雄を取り上げることはできないわ。それに、そうやって鈴仙が語り継がれているってことは、鈴仙が今も人妖の中で生きている、とも言えるわけじゃない。
そうね。私は鈴仙のこと、今でも後悔しているのかもしれないわ。
ありがとう。それでね、実際の鈴仙だけど、残念ながら語られるような英雄的人物とは程遠かったわ。
そ。あの日記見ればわかるでしょう? 彼女は、臆病な娘だったし、内向的でもあったわ。人見知りも酷かった。そもそも、月での逃亡兵だったし、悩みはいつも多かったみたいよ。いつも、もう少し気楽に生きたらいいのに、って私は思ってたわ。でも、きっとそうもいかなかったのでしょうね。あの娘、生真面目だったのよ。仲間を棄てて月から逃げてきたことを、律儀に背負おうとしてたんだと思うわ。
ごめんなさい。ついつい話が脇にそれてしまったわね。どこまで話したんだったかしら。
そうそう。鈴仙がその場にいたって話。鈴仙は、永琳の差し金でよく人里に行商に行ってたのよ。薬を背負ってね。今でもやってる、置き薬というやつよ。この辺りからの話は、すべて鈴仙から聞いた話なんだけど、たまたまこの日は遅くなってまだ伊治村のあたりにいたみたい。
そこにこの騒ぎでしょ。鈴仙も慌てて駆けつけたみたいで、そこで天狗が人間を攻撃してる姿を見ちゃったのね。で、すぐ人間側を手助けした。当然の話ね。彼女、行商の関係で人里に知り合いは少なくなかったもの。知り合いかもしれない人が、今にも殺されそうになっていたら、割って入るのが普通よね。それに、自分では卑下してたけど、鈴仙がかなりの実力者だったから、天狗たちを倒すのはそう難しいことじゃなかったのよ。それで、鈴仙はあっという間に天狗をなぎ倒したの。これまた人数はうろ覚えだけど、四人か五人、捕まえたんじゃなかったかしら。
あら、ありがと妹紅。五人だったのね。なら男三人、女二人ってとこだったかしら。
で、ここからが人間側のまずい対応の話。鈴仙は捕まえた天狗をとりあえず村の中心に連れていったらしいんだけど、その頃には騒ぎを聞きつけた村の人達がみな、村に集まってたらしいの。当然、村の者が殺されたということは皆が知っていたみたい。村の若者が、それも若い娘まで殺された、というので村全体が激昂してたそうよ。運が悪かったのが、この時に制止役になれるはずだった伊治村の肝煎が、たまたま稗田家に出向いていてここにいなかったってこと。だから、村人たちの怒りは完全に暴発しちゃってたわけ。
その様子にマズイ、と鈴仙は思ったらしいけど時すでに遅し。多くの村人に要求されて鈴仙は天狗を引き渡さざるを得ず、その引き渡された天狗は、怒りに物を見失った村人たちによって一人ずつなぶり殺しにされていったわ。
これを止められなかったことを鈴仙は悔やんでいたわね。でもこれに関して言えば、そもそもその場に捕まえた天狗を連れて行ったのが、鈴仙の失敗だったと思ってるわ。
でもね、妹紅。それくらいは考えないといけないと思うのよ。仮にも、永琳の弟子として永遠亭にいたわけだしね。人間側に死者が出ていたことを知らなかったとしても、被害が出ていることは知っていたわけだし、その時点で怒る村人たちに下手人を引き渡したらどうなるかなんて、簡単にわかったはずよ。
天狗側にとって不幸中の幸いだったのは、この騒ぎがすぐに他へ伝わったことね。話を聞きつけた上白沢慧音が、文字通り飛んできて、私刑をやめさせたのよ。
そうか、イナバは知らないのね、慧音のこと。ほら、妹紅。彼女とは、妹紅の方が親しかったでしょう? 説明は任せるわよ。
……それもそうね。ごめんなさい、ちょっと気が利いていなかったわね。それじゃ、私が簡単に。上白沢慧音というのは、このころ人里の寺子屋の教師をやっていた、半妖よ。自身では「ワーハクタク」とか名乗ってたかしら。稗田集落で寺子屋を開いて、人里の子供の教育に貢献しながら、妖怪について、稗田家にも出向いて当主へ助言したりもしていたみたいよ。妖怪との融和を図るべきだ、という人里での一つの思想潮流の支柱の一人といえるかしら。今では、すっかり名前を聞くこともなくなってしまったけどね。人間と妖怪との距離があの頃より遠くなったから、彼女の著作もすっかり読まれなくなっちゃったのよね。
そんな彼女だから、すぐに村人を止めたのよ。それで、まだ生きていた天狗三人をひとまず預かることにして、村人を解散させた。それでも、男一人・女一人の計二人がもう死んでいたそう。いかんせんなぶり殺しだったから、ひどい死に様だったって、鈴仙は泣きながら話してたわね。
とりあえず、この晩起こったことはこれで全部よ。これだけ聞くと、随分とまた物騒な事件だと思うでしょう? でも、この頃はこれで普通だったのよ。妖怪にとって人間は、人間にとって妖怪は、別に殺すのをためらうようなものじゃなかった。というか、今よりずっと命自体が軽かった、というべきかしらね。
逆に考えればね、どうしてそこまでして命を大切にしないといけないか、という話なのよ。この頃は、冥界ももっと近かったし、三途の川のほとりにだって、行こうと思えば行けたわ。そんなんで、幽霊も幻想郷中にうじゃうじゃしてたのよ。
そうしたら、死んだって顕界にいられるし、生死の境が曖昧になるわけ。死という別離があるからこそ、生というものはその対置として定義できる。そういうものよ。だからね、その境目が曖昧になったら、生に執着する必要も、難しくなるの。
そう嫌そうな顔をするものじゃないわよ。言いたいことはわかるけどね。私も貴女も、もう対置すべき死を持たないわ。いや、生と死をともに持たないというべきよ。わかってるから、あなたも嫌な顔してるんでしょ。
ま、そういう感じだから、この頃の妖怪も人間も、かなり命は軽いのよ。まして、互いに敵対してるんだから、わざわざ手加減する道理なんてどこにもないというわけ。
また話戻すわね。この騒動の一報は、当然すぐに山の天狗へも伝わったみたい。これを受けて、天狗はすぐさま動いたわ。これが、天狗の強みね。
阿勢も知っていると思うけど、天狗ってのはどの妖怪にもまして、共同体の誇りというものを大切にするわ。誰かひとりでも傷付けられたら、仲間全員を傷付けられたと考える。この時も、そのように考えたらしいわ。
そうそう、この頃は外で生まれ、博麗大結界形成の前後に入ってきた天狗が今よりもたくさんいたのよ。幻想郷生まれの天狗なんて、一割いたかどうかというくらいだったと思うわ。それで、天狗の中にも出身地ごとの派閥があって、そのまとまりが大きな力を持っていたの。
それはともかく。里での一件を聞いた天狗たちはすぐさま"大衆僉議"を開いたわ。夜明け前には、守矢神社門前の森に全ての天狗が集まったそうね。あの場所は昔から天狗たちにとって重要な土地で、守矢はそれを狙ってあの場所に神社を置いたんだって。
あら、知らなかったの? 御阿礼の子にも知らないことがあったのね。意外だわ。さすがに大衆僉議は知ってるわよね? イナバはどう?
その通り。一人前と認められた天狗たちが、全員参加して行われる話し合いよ。参加者はみな覆面変声するから、匿名による議論が特徴的ね。
そうそう。誰もが自由に発言できて、それに対し賛成なら「尤も」、反対なら「謂れ無し」とそれぞれが叫ぶらしいわね。それで、より声の大きかった方を天狗の総意とみなすんだって。覆面変声のお陰で立場や実力は考慮されないから、誰もが自由に発議し、討論できる場らしいわ。まだやってるのかは、知らないんだけど。
へぇ。まだやってるの。天狗ってのも、ほんと変わらないねぇ。今度、あの新聞屋にでも頼んで見学させてもらおうかしら。面白そうじゃない、森のあちこちで天狗が「尤もー!」「謂れ無ーし!」なんて叫んでたら。
ま、そんな場で、この事件についても話し合われたみたいよ。で、その結果決まったのが
・里に捕らえられた天狗の解放
・下手人の引き渡しと乙名による謝罪
・クミ沢以北の山立ち入り禁止
の三か条を人里に要求することね。
ええ、非常に強硬よ。だって、天狗たちにとって、天狗はあくまで被害者側だもの。それに、いかなる理由であっても、仲間を傷付けた者は天狗全体の敵になるわ。だから、その敵に与える容赦なんてないのよ。
ただ、この日決まったのはこれだけだったようね。相当、議論が紛糾したことは推測できるわ。
そ、イナバの推測のとおり。本来なら、これとは別に永遠亭へも何か要求が突きつけられてないとおかしいのよ。どんな理由であれ、天狗がこのような事態に陥った原因は、鈴仙にあるんだから。同様に、下手人引き渡し要請くらい来てもおかしくないの。それが来なかったということは、多分最後まで天狗の総意をまとめることができなかったんでしょう。
それが何故かまでは、さすがにわからないわ。妹紅は知ってる?
ま、そうよね。あいつら、自分たちにとってよくない情報は決して漏らさないもの。ま、だいたいは予想つくけどね。人里と永遠亭とを同時に敵に回すことを躊躇したんだと思うわ。
そう人里を侮るものじゃないわ。人里にも術使いの類は少なくなかった。そこの妹紅だって、人里の戦力として間違いなく数えられていたはずよ。半人半妖の上白沢慧音は、人里に一事あらば先頭に立つのは確定。他にも霧雨家の魔理沙とか、朝倉家の理香子とか、そういう強力な魔法使いもいたわね。あと、何よりまずいのが、人里に協力しそうな妖怪よ。下手をすれば、アリス・マーガトロイドや風見幽香といった人里と関係の深い連中、さらには人間保護の名目で八雲の連中まで出てくるわ。そうなったら、いくら数では幻想郷の妖怪の過半を占める天狗とはいっても、ただじゃ済まないわ。
しかも今回は、永遠亭までおまけで付いている。だから、天狗たちもいきなりの直接攻撃とはいかなかったのよ。あの条件でも、天狗側は譲歩を見せてるといえるわね。
とはいえ、この条件を受けて人里がほいほい従う道理は全くないわ。当たり前よね。人里側にとっては自分たちが被害者なんだから。そんなところで一方的に天狗へ謝罪するわけないの。
阿勢の"記録"の通り、人里の対応は、少し遅れて翌朝になるわ。翌早朝になって、人里乙名七家が稗田家で乙名寄合を開いてるの。
イナバが人里と関わるようになったころは、もう七家じゃなくなってたかしら。乙名七家ってのは、この頃幻想郷で大きな力を持っていた七つの家のことよ。伊治村肝煎の伊治家・上村肝煎の上稗田家・稗田村肝煎の稗田本家・小路村肝煎の万里小路家・霧雨村肝煎の下稗田家の五肝煎家と、小路村の山林を仕切る朝倉家・霧雨村の大商家である霧雨家の二家を加えて、全部で七家。このころの人里では、なんでも大体この七つの家による"乙名寄合"で物事を動かしていたわ。
でもこの時は、この乙名寄合、相当揉めたのよ。天狗からの要求が手渡されたのは、ちょうど寄合のさなかだったみたいだし。
なんで揉めたことを知ってるかというとね、その日の昼頃になって、永遠亭に人里から使者が来たからよ。永遠亭も当事者なので、ともに話し合いに参加いただきたい、とね。
異例も異例よ。人里が、人里のことを決めるのに外の者を入れる例なんて、そうそうあるものじゃないわ。だから、寄合が揉めていることが、すぐに直感できるわけ。この頃の乙名衆は、妖怪への対応を巡ってもともと二派に分裂していたから、その対立が噴き出して収拾つかなくなったことくらいまでは、想像できたわ。実際、その通りだったし。
いや、行ったのは私よ。永遠亭の主は曲がりなりにも私だったし、永琳には永遠亭に残って対策を練ってもらう必要があったから。このころのイナバで交渉を任せられるのは鈴仙くらいだったけど、今回は当事者だから論外。てゐは、そうね、この頃はやはり互いに"契約関係"だと思っていたから、永遠亭を左右する出来事に巻き込む選択肢はなかったわね。
その通りよ。私達の仕事を手伝ってもらう代わりに兎たちを教育・保護するという、それだけの関係だと、思ってたのね。てゐは外様だ、って。今考えるとバカみたいだけど。信頼関係の構築っていうのは、きっかけがないと難しいものなのよ。
そんなわけで、イナバを数匹お供させて人里の乙名寄合というものに参加してみたけど、ま、予想の通りだったわ。
この時に知ったんだけど、殺された人間は、伊治村の住人だったのよ。で、伊治村肝煎の伊治家は、かなり強い反妖怪派の一人だったわけ。これが寄合の揉める最大の要因だったわ。伊治の御当主はまだ若い人だったけど、彼は捕まえた天狗の即刻処刑だとか、下手人の引き渡しと処刑、クミ沢全体の妖怪不入化といった、とんでもなく過激なことを唱えてたわね。と言うとね、この人がただのバカに聞こえるけど、そうじゃないわ。
もともと、伊治村は一番妖怪の山に近い集落よ。それで、山との間に土地相論を抱えてたのよ。それが、クミ沢一帯。
そ、クミ沢はちょうど山と人里との中間に位置するからね。今じゃ完全に"人側の領域"として確定してるけど、このころはまだ不明瞭でね。というか、人の領域と妖怪の領域、というキチンとした区別もなければ、境界もぼんやりとしたものだったのよね。そんなもんで、ちょうど境界あたりに位置しているクミ沢では、しばしば、狩りに出た人間と降りて来た妖怪との間で、いざござが発生していたのよ。
伊治村だって妖怪向けの店をやってるし、恩恵を受けてないわけじゃない。でも、伊治村は、下流の稗田村や霧雨村に比べて商業は盛んではない。だから、やっぱり恩恵よりも妖怪の害を強く認識してたわけ。しかも、この事件は妖怪向けの店を起点にしてるわけでしょ。そんな店があるから、人が殺されるんだ、という言い分も成り立つわ。
だから、伊治家の言い分、妖怪と人間とを厳しく区別し、その境界を越えて来た者を処罰しろという言い分も、全く通らないわけでもないわ。なにより、伊治村を守ろうという彼にとっては当然の言い分ね。それに、結果的に現在ではそういうことになっているわけでしょう。そういう意味では、先見の明がなかったとも言い切れないわ。
とはいえ、そんな話がまかり通るわけもないのよ。そんなことを言おうものなら、天狗のみならず妖怪すべてとの全面戦争に突入する。その結果は、どっちが勝っても幻想郷の滅亡よ。人間たちだってそれくらいわかってるから、誰もそんな案が通るとは思ってないんだけども、それじゃどこに落とし所を持ってくるか、ってところで大もめしてたわけね。
一番穏便なことを積極的に主張したのは、上白沢慧音よ。慧音は、下手人引渡しくらいしか要求しないことを明言していたの。そして、その慧音の言に稗田家当主も賛成していた。そ、阿求の父に当たる人ね。この人が慧音を呼んだのだろう、とひと目でわかったわ。彼女は乙名じゃないし、本当は寄合に参加するような立場ではないんだけど、私と同じように、膠着した状況を打開するために呼ばれていたのでしょうね。
冷静な意見よね。天狗たちに比べても、ずっと冷静で、的確に相手と自分たちとを見つめられているわ。一歩引いて考えてみれば、やっぱり下手人を引き渡すかどうか、くらいのところで決着することは明らかだったもの。なんせ、酔っぱらいの喧嘩が発端でしょ。そんなのでどちらが悪いなんて決められないんだから、どちらが一歩譲るかくらいの勝負にしかならないのよね、結局。
いや、それは違うのよ。もしここであなたが悪くない、という意見を表明してしまえば、一方的にたかられるだけになる。それに、人が死んだその代償は全く要らない、と言っているわけでしょ。そうなったら、亡くなった人の死の責任はどこにいくのよ? 残念だけど、当人が悪いとはいえないわ。実際はそうだったとしても、人里としてそれを認めるわけにはいかない。だって、亡くなった人たちは、人里の一員だったんだもの。彼ら彼女らは、人里の中で様々な役割、たとえば年貢とか夫役とか、そういうものをつとめる見返りとして、人里による保護を受ける権利がある。そ、そこもそういう契約関係なのよ。だから、最低でも人里として、死んだ三人の代償を相手に負わせる必要はあった、ってわけ。
ややこしいと思う? でも、絶対的な裁定者がいない社会なんてこんなもんよ。
そんな風に殴り合いしているど真ん中に、私は放り込まれたのよ。私はその議論を見てようやく自分がわざわざ招かれた理由を知るわけ。穏健なことを言う連中にとっては、外部の調停者としてちょうどいいと思われていたのよ。他方、過激なことを言う連中にとっては、永遠亭の名が天狗への脅しになるだろう、と思われてたみたい。
でも、二つ目を期待した人々にとって、私の発言はかなりがっかりなものだったと思うわよ。だって、私は全く争う気なかったもの。
妹紅の言うとおりよ。永遠亭に直接要求があって、人里と共同戦線を張るというなら、もう少し喧嘩する体勢だったかもしれないわね。でも、今回はそれよりも戦争を避けるのが大切だったのよ。人里に対して最低限の償いを天狗側が負ってさえくれれば、それ以上の要求はしない、ってね。天狗の側も私達に要求を出さなかった。ということは、永遠亭とは争いたくないという意思表明をしているわけ。私達も戦争する気がなかったから、それなら我々もそれに乗っかって、うまく話を収めようと。そう考えたのよ。もっとも、さっき言ったように、全く要求しないというわけにはならないんだけどね。もしそうすれば、鈴仙の非を認めたことになってしまうもの。それでも、穏当な要求がされた、という事自体が話し合いによる決着を望む、という意思表示になるでしょう?
とりあえず、私がかなり穏健な発言をしたから、乙名衆もそれほど過激な案を取ることができなくなった。人里だけで、天狗と相対して強攻策に出るほど、乙名たちだって無謀じゃないのよ。だからその点では、私が行った意味もそれなりにあったんだと思うわ。
で、外が暮れるころになってようやく、人里としての見解がまとまったの。結局、要求は天狗側の下手人の引き渡しだけ。あとは、適宜交渉にて詳細を詰めよう、という話になったわ。下手人の無事を保証する可能性についても言及することにした。伊治の御当主なんか、相当に不満そうな態度を示していたけどね。
いやいや。ややこしいんだけど、この時の下手人というのは、必ずしも"犯人"だというわけじゃないのよ。そうそう、今使うような意味とはだいぶズレてるのよ。せいぜい、"謝罪の意思を見せるために派遣される人質"くらいの意味かしら。もちろん、実際には犯人だった者が務めることになるのが多いんだけどね。でも、そうじゃないこともあるわ。例えば、皆に養われてきた孤児が、養ってきた恩義を返すために代理になることもある。
そうじゃないわ。代理が出される場合には、だいたい両者の場合で「下手人の命は保証する」という話がついていることが多いの。そういう時に、代理の者が相手に送られる。受け取った被害者側も、"下手人を出した"という行為自体に相手の誠意を認め、丁重に送り返すわ。ちょっとした仲直りの儀礼みたいなものね。詫びをきちんと入れましたよ、それを受けましたよ、という誠意の見せ合い。その保証に命を使ってるってだけだわ。
そうね、少し語弊があったかもしれないわ。「人質である」という側面はちゃんとあって、とりあえず被害・加害関係を確定したことを示す意味もあるの。自らの集団が加害者であると認めた証拠として、被害者集団の側にまず下手人を送るのね。その上で、具体的な交渉に入るわけ。たとえば、賠償をどうするか、とかね。その間、下手人は被害者集団側に拘束されるわけ。そして交渉が無事成立して、賠償がなされた段階で解放される。当然、被害者集団側は丁重に送り返すわ。
必ず、ではないのが難しいところね。場合によって、「下手人を引き渡す。その命は保証しない」という合意のもと引き渡されることがあるわ。そういうときは、大概被害者側が下手人を殺してしまう。その時の下手人は「復讐の対象」として求められてるから、ただの儀礼というわけじゃなくなるわ。加害者側も、それを承認して送る場合が、この場合よ。もちろん、この時だって代理が派遣されることが全くないわけじゃないけど、だいたいは犯人が下手人となるわね。当たり前だけど。
そ、代理が引き渡されて殺されることもないわけではないわ。ホント、こういうのは場合場合だから、いろいろ複雑な事情が絡むのよ。詳しく知りたかったら、また教えてあげるわ。
……って、記録自体なら阿勢の方がたくさん持ってるじゃない。
まあ確かに、今からしたら感覚がわかりにくいことだけど……。それなら、妹紅に聞くといいわ。私よりよっぽど詳しいわよ。
……ついつい、脱線が増えるわね。やっぱり、今の幻想郷の慣習と違うことがたくさんあるから、説明することが多くなるわね。
だけど、ここからまだややこしくなるわよ。なぜって? それは今からのお楽しみ。
とにかく、下手人提出だけ求めることにし、あとは和睦に向けて交渉をしよう、という提案を持って山に使者が向かった。それでとりあえずは解決のはずだったのよ。人里側はかなり譲歩してるし、天狗側もそこまで無理なことは言わないだろう、ってね。
が、そうもいかないのがこの事件だったのね。私は、長くて疲れる会議も終わったから、博麗神社にでも酒たかりに行こうと思ってたんだけどね。そ、霊夢に会いに。
そこに一報が入ってきちゃったのよね。それが、天狗側から永遠亭への下手人引渡し要請が来たって話。同時に、天狗たちがクミ沢周辺に集結しているという話も来たわ。それで、私はすぐに永遠亭に帰ることになったのよね。理由は二つよ。一つには、私達の方に要求が来ちゃったら、改めて話し合わないといけないから。もう一つは、永琳が強く帰って来い、って言ったからというのが大きいかしら。とにかく霊夢にたかろうと思ったのも中止して、永遠亭にとんぼ返りよ。何が起こってるんだ、って感じね。こちらからしたら。
帰り着くと、もう永遠亭が戦闘態勢。迷いの竹林の結界が強化されて、よほどのことがないと永遠亭に近づけないようになっていたし、永琳自身弓を持ちだして、周囲の警戒にあたってたわ。
びっくりしたわよ。そんなことになるの、永夜異変以来だもの。あの時は、月が攻めてくると考えてたし、それに対する対策だってわかってたから、私も納得だったわ。でも、この時のにはホント驚いたの。私は、もう解決に近いものだと思ってたから尚更ね。
イナバの言うとおりね。さっき言った話と矛盾してる。天狗たちの大衆僉議では、永遠亭に対する要求は結局なしってことになってた。その話は、人里で私も聞いていたのよ。それなのに、要求が来た。どういうことかしら、って。
阿勢と妹紅は知ってると思うけど、結局これって天狗の一部の暴走だったのよ。当事者の属している天狗の小集団が、勝手にやったことらしいわ。
さっき、殺された人間が反妖怪気質の強い、伊治村の住人だったって言ったわよね。おんなじように、殺された天狗も、やっぱり反人間気質の強い派閥の天狗だったらしいのよ。比叡山系の天狗で、尊雲ってのがいるんだけど、そいつの部下だったんだって。その尊雲ってのは、反人間の最先鋒みたいな天狗でね。僉議の時も、頻りに過激論を展開していたのだけれども、支持を集められなかったそうよ。それで勝手に動いた。
これで話が一気にややこしくなったのよ。まだこの段階では、そんな天狗の中で内部分裂しているなんて聞いてないから、この要求は天狗全体としての要求と考えるしかないわ。で、要求が来ちゃった以上は、何らかの形で撤回してもらわない限り、永遠亭も当事者として対処しないといけなくなった。向こうが敵意を持っているとわかったら、永遠亭もしかるべき対応を必要とするのよ。
そこまでの必要はなさそうだ、というのもひとつの意見ね。でもこれについては、永琳の方針というか、性格というか、そういうところが関係するのよ。
この頃の私と永琳との関係って、ちょっと複雑だったの。ほら、私は永琳の作った蓬莱の薬を飲んで地上に降りたでしょ? だから永琳は、ずっと私へ負い目を持っていたみたいなのよ。なんとしてでも、私を守り通してみせるってね。それこそ私の命令に背いてでも、ってくらい強い意思で。それが永琳の存在意義になってたみたい。
それだけの思いがあるから、少しでも永遠亭――というか私に危害が加わる可能性があれば、それを全力で排除しにかかるわけ。この場合は、天狗によって永遠亭に攻撃が加えられる可能性が少しでもあるから、と危険視してガッツリ反応しちゃったのよね。
ああ、今はそんな重苦しい関係じゃないわ。もっと気楽な主従として、楽しく暮らしてるわよ。永琳が幻想郷管理をするようになったから、会う機会はだいぶ減っちゃったけどね。でもそれで却って、永琳にいろんなことが言えるようになった気がするわ。
さて、お茶も切れてきたし、キリもいいから、ちょっと間挟みましょう。イナバ、お茶を新しく淹れてきてちょうだい。さっきの、もう無いのよね? なら、いつものでいいわ。
はぁ? 妹紅、あんたねぇ。ここどこだと思ってるの? 仮にも、人の病気を診る場所なのよ。屋内は禁煙に決まってるじゃない。庭の方で吸って頂戴。そもそも、まだ煙草やめてないわけ? 信じらんない。そんなの、ただ臭いだけじゃない。体に悪いし。
精神的に落ち着く? そんなもん、ただの気休めよ。それがどれだけ体に悪いかくらい、知らないあなたじゃないでしょう?
逆よ逆。不死だからこそ、普段から体を大切にすべきなの。そうでもないと、本格的に生きてるんだか死んでるんだかわかんなくなっちゃうじゃない。
言い訳はわかったから。もういいわ。ほら、そっちいった。私にまで臭い移したら殺すわよ。
全く、何が楽しくてあんなもん吸ってるんだか。阿勢はそう思わない?
そう、そうなのよ。あいつ、紙巻きタバコ妙に似合うのよね。それは阿勢に同意だわ。ほんと、なんであんなに似合うのかしらね。そう、いいところ見てるわ。あの火をつける動作、何気ないくせに何か決まってるのよね。妹紅のくせに。あー、腹立つわ。
でもね、やはり体に悪いとわかってるものを続ける神経は理解できないわ。「身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀ち傷めず。孝の始め也」って言うでしょう?
そ。妹紅のことなんだし、知らないはずないんだけどねぇ。父親にベッタリのくせに、そういうところは全く気にしないんだから、不思議だわ。
あら、お茶ありがとう。あー、やっぱりさっきの方がいいわね。先にこっちで、後からいいの煎れた方がよかったかしらね。ああ、妹紅はあっちよ。
あらそう。イナバ、あなたは霊夢知らないのね。霊夢が死んだ時、まだ生まれてなかったのかしら?
あーなるほどなるほど。そりゃ、記憶もなくて当然ね。しかし、今じゃあんたがてゐに次ぐ兎のまとめ役でしょう。いやはや、時間の速さたるや空恐ろしいものだわ。
ところで、あなたはいつまで永遠亭にいるつもり? あなたと同い年くらいのイナバ、だいたい結婚したりなんだりで、引退してるじゃない。あなたは、その予定ないの?
いや、私としちゃ優秀なイナバがずっといてくれるのはありがたいんだけどね。でも、あなたはそれでいいの? 長く生きていると、不安になるんじゃない?
それもそうね。二千五百年経てば、そんな疑問も今更すぎるか。それじゃ、これからもよろしくお願いするわ。
そんな、吸血鬼のメイドみたいなこと言わないの。そりゃ、永遠にお仕えしろというのは言わないし、それは無理な話でしょう。でも、てゐがまだ元気でピンピンしてるのを見る限り、あと数千年は大丈夫そうじゃない? その間くらいはお願いね。
あー。そりゃ、阿勢からしたら途方も無い時間でしょうね。でも、なんだかんだいいながらあなただって魂の齢は四千近いじゃない。大丈夫大丈夫、あと数千年はいけるわよ。
おかえ……クサっ! ちょっと寄らないでよ煙草臭い。だから、ほんとやめなさいよそれ。
はぁ? なにそれあんた、自分で煙草育てて作ってるの? 馬鹿じゃないの? なに、体を壊すためにそこまで努力してるの?
呆れた。言われてみりゃ確かに、紙煙草なんてもう久しく見たことなかったけど、まさか自分で作ってるとはね……。ほら、こっちくんな。そっち座ってよ。臭うわ。
なに笑ってんのよ? 姫ってったって、普段の生活はこんなもんだって。そんな、深窓の令嬢なんてやってたら暇で暇で仕方がないもの。あ、妹紅いま笑ったでしょ!
はいはい、ごめん。では休憩もついつい長くなってしまったし、また話を再開しましょうか。
えっと、さっきどこまで話したっけ?
そうね。永琳が厳戒態勢に入ったとこから。申し訳ないけど、霊夢はもう少し出て来ないわ。
博麗の巫女というのはね、あくまで中立な調停者なのよ。神だってそうでしょう? 世が妖に偏れば人に、人に偏れば妖に加担して、世の均衡を保つ。でも、特に世の中に影響しないようなことには、手を出さないのよ。博麗の巫女も同じ。まだ、この争いはただの私闘で、幻想郷を揺るがすようなことにはなってないから、巫女が出て来ることはないわけ。
その辺りは、"巫女の勘"で全て話がつくようなものね。それがどういうものなのか、私はついぞわからなかったけど。あの娘自体は何も考えてなかったわ。無意識のうちにそういう役割を担ってたのよ。
というか、論理的にこういう巫女の仕事の意義を明らかにしたのは、そこの白髪煙女よ。ね、もこー?
はいはい。ちゃんと本筋の話をするから安心しなさい。
ええと、さっき、天狗の一部、尊雲の一派が永遠亭に要求を突きつけるのと同時に、人里に近いクミ沢へ集まった、って言ったでしょ。この報は人里へもすぐ伝わったのよね。伊治村からはそれほど距離もないから、当然の話よ。それで、人間の側も激怒した。当たり前よね、だって約束が全然違うのだもの。
はい。その通り。まあ、読める話よね。天丼だし。その一方を聞いた伊治村の村人たちが武器を手にして、勝手にクミ沢のすぐ近くまで押しかけたのよ。いきなり殴りこみはしないけど、徹底的に相手を威嚇したのよね。天狗がやる気なら、こちらもやる気だ、と伊治村の人達は示したわけね。
もちろん、乙名たちの意図からは離れてるわよ。
こうなってしまうと、誰もが引くに引けない状態になっちゃうわけ。相手の一部が勝手に暴走している、なんて思わないでしょう? もし仮にそうだと想定できたとしても、"そうでなかった時"のことを想定しないといけない。それに、分裂しているということは統制できていないということであるから、やっぱり危険度には変わらない。それどころか、互いの言い分を信用できなくなってしまうから、たちが悪いことになっちゃう。
何かを守るためには、つねに"こうなったらマズイ"ということが起きることを想定して、それが起きたとしても大丈夫なように対策をしておくものよ。残念ながら、たぶん大丈夫、という曖昧な信頼だけではダメなのよ。自分だけの命なら、失敗しても自分の命がなくなるだけ。でも、何かを守る立場なら、自分の失敗が、守るものを犠牲にする結果さえ導いてしまうわ。だから、より慎重で過激になるの。
だから、互いに「あれは暴走ではないか?」と思ったとしても、暴走ではないと想定して動かなければいけなかったわけよ。
そうね。もし天魔か里の乙名か、どちらかが慌てて「部下が暴走しました」と詫びれば、大したことにはならなかったでしょうね。でも、それはありえない。
理由は二つあるわ。一つには、長が直々に謝りに来ることなんて、そうそうあることではないからよ。組織の長が頭を下げるというのは、何にも勝る最大の謝罪よ。全面降伏にも等しいわね。対立している二つの勢力の間で、そんなことがなされるはずはないわけ。
もう一つはね、どちらも弱みを見せられないということよ。自分の部下が暴走したということは、組織が不安定であることを示すわ。そんなのを、外に見せるわけにはいかないの。
そう。場合によるわ。もしなんとしてでも争いたくないのであれば、そんな面子も捨てて謝りに来たでしょうね。でも、双方がそこまでの喫緊性を感じてなかったわけ。それよりも、組織としての面子を重視したのよ。
そんなに侮るものでもないわ。相手と対等な立場にあることって、重要なのよ。もし弱みを見せてしまえば、そこから崩されてしまう"かもしれない"。少しでも崩壊の可能性を潰すのが義務なのだから、そういう可能性も排除するに越したことはないのよ。
言う通りね。この頃の幻想郷はそれなりに穏やかなところだったし、深刻な対立があるわけでもなかったわ。でも、完全に他の勢力を信用できるほど安定してもなかったのよ。
ここまで至れば、あとはチキンレースよ。チキンレースって知ってる? 崖に向かって走って、一番先に止まった人が負けって、あれ。そんな感じになっちゃうわけ。誰が先に手を出すかな、って。手を出せば、幻想郷を巻き込んだ深刻な衝突が発生する。ただ、ポイントはみな鎖で繋がってるってことね。一人落ちたら、みんな一緒に崖の下。
目の前に崖があるとわかってても、それでも走らなければいけない。世界なんてそんなものよ。
さて、天狗、人里、そして永遠亭の三者が次々に臨戦態勢に突入して膠着状態になった、という段階ですぐに介入して来た勢力があるわ。それが、紅魔館よ。この頃の当主はまだ当然レミリア・スカーレット。いろいろ不運な奴だったからね、相変わらず、評価は芳しくないみたいだけど、そこまで貶されるような愚者ではなかったと思うわ。だって、あのフランドール・スカーレットが「自分は姉には及ばない」を口癖にしてるのよ? 矜持だけはこの世の何よりも高い吸血鬼が、幻想郷中でもずば抜けた傑物であるフランドールが、しかももう三千歳を越えるような歳にもなったのに、たかが五百か六百か、それくらいの歳でしかなかった姉をどこまでも尊敬してるの。本当に巷の言うような愚者であったら、そんなことにはならないでしょう?
あなたならそれくらい読んでるわよね。あの回想録のお陰で一時は、レミリアの評価もマシだったんだけどねぇ。今じゃすっかり元通り。やっぱり、当事者が書いたものよりも講談の方が、ずっと影響力は大きいってことよね。
ともかく、三者が臨戦態勢を整えた翌日には、紅魔館が調停へ動いていたわ。理由? そう難しいことじゃないわ。これでもし調停が成功すれば、紅魔館は幻想郷の大騒動を未然に防いだという、栄誉を得られる。幻想郷の各勢力に一目置かれる存在になれるちょうどいい機会だったのね。
もちろん、それだけじゃないでしょうね。結局、レミリアも幻想郷が好きだったんだと思うわ。講談ではああ言うけどね、彼女、幻想郷を壊すような方向には少しも動いていないの。むしろ、幻想郷という枠組みを完全に無視していたのは我々、永遠亭の方よ。レミリアは、自分の利益を常に考えながらも、それでいて幻想郷を守ろうと奮闘していた。そういう奴だったんだと思う。この時も、結局幻想郷を守るという目的も込みで、調停を買ってでたんだと思うわ。さっき、栄誉が得られる、なんてもっともらしいことを言ったけど、これだけこじれてしまっていて、しかもレミリアにとってあまり相性のいい相手じゃない我々永遠亭が当事者に入っているのに、わざわざ紅魔館が出しゃばるというのは、割にあわないのも事実だからね。
そんなわけで、永琳を先頭とした防衛体制構築で大騒ぎな永遠亭に、紅魔館からの使者がやってきたわけよ。この時来たのは、十六夜咲夜だったわ。イナバは知らないでしょう? レミリア・スカーレットの腹心中の腹心よ。紅魔館のメイドを司っていた人間で、その能力の高さからレミリアがかわいがっていたの。
どうしたんでしょうね。さすがに、もうとっくの昔に死んでるとは思うのだけど。外の世界に出たなんて話もなかったかしら。
そうかしら。だってあれから、咲夜を見た人は誰もいないのでしょ? なら、ありえない話じゃないわ。存外、外の世界には今でも子孫くらいいるかもしれないわよ。
能力が特徴的だったのよ。私と近いといえば近いわね。彼女、時間を止めることができたの。時間と空間とは同次元だから、彼女は紅魔館の空間を弄って広げたりもしてたわ。だから、彼女のいた頃の紅魔館は、ざっと今の三倍くらいの広さだったわね。そんな能力を受け継いでる一族とか、外にいないかしらね。
また脱線したわね。とにかく、十六夜咲夜が永遠亭にやってきた、って話よ。ここで、紅魔館は少し面白い提案をしてね。紅魔館主催でパーティーをするから、もし咲夜が弾幕決闘で鈴仙に勝ったらそのパーティーに参加しろって。
なかなか面白い提案でしょ。ただ仲立ちするとか、そういうことじゃないのだから。パーティーの場で、当事者同士を引き合わせ、互いの不信を取り除こうとしたんでしょうね。
もちろん、山にも同じような提案をしてたのよ。山には紅美鈴が行ってたらしいわよ。そう、門番の。あれで、幻想郷の中で最も長生きる妖怪の一人だからね。いつだったかの宴会で、本当かどうかわからないけど、殷紂を見たことがある、って言ってたわよ。
永遠亭に来たのが咲夜、というのが上手いところだったのよ。実質的に紅魔館のNo.2である彼女なら、紅魔館が永遠亭を重視している姿勢になる、それと、咲夜は鈴仙とそれほど実力もかわらないからね。
こちらも弾幕決闘の相手として出すには、鈴仙くらいがちょうど良かったのよね。今回の当事者でもあるし。鈴仙を出せ、と言われたらイマイチ文句も言いにくいから。
だから、私は受けるつもりだったんだけど、結局永遠亭としては、この提案を完全拒否したわ。パーティーに参加云々以前に、弾幕決闘の提案さえ拒否、よ。これは、永琳の意向でね。先に天狗側が退かなかったら、私たちが退くことはありえない、って断言したの。紅魔館が間に入ったとしても、武装を解除することは危険だと判断したわけ。それは、紅魔館では山を止められない、という判断でもあるわけね。
仲裁という行為は、仲裁者が自らの実力で平和を創出します、という行為よ。仲裁をもし破ろうとすれば、自らの力で止めます、という意思表明。当事者側にとっては、武装解除をしても相手の攻撃を仲裁者が防いでくれる、という保証になってるわけ。だから、当事者の側は、当然それが本当に「保証」として機能するかどうかを考えるわけ。仲裁者が、相手から自分を守ることができるか、って。
紅魔館が他の勢力から劣っていたわけではないわ。むしろ、吸血鬼の実力から一目置かれていた。紅魔館なら、これだけ複雑化した対立も収拾できるだろうって、そのように思われてたのも本当のことよ。それでも、永琳はとにかく慎重だった。だから、わずかでも危険性があるだろうと考えて、その調停案を蹴ったの。
つまらない話よね。この頃の幻想郷は、たしかに今に比べたらずっと不安定だったとはいっても、巫女が死んだ後の大騒動に比べれば大したものじゃない。過剰反応、って言われてしまえばその通りだわ。
ただ、第二次月面戦争から、永琳がこれまでとは桁違いに危機感を持つようになったことも、知っててほしいわ。これは後になって聞いた話で、当時はおくびにも出さなかったんだけど、第二次月面戦争で永琳は、「こいつらは何をやってもおかしくない」って思ったらしいの。永琳にとって全く理解出来ない行動を、八雲の側が取ったからね。それで、妖怪たちの動きが読めなくなった永琳は、少々過激でも永遠亭を確実に守れる策を追求するようになった、ってわけ。
その通りよ。永琳は、妖怪を怖がったの。だからこそ、その力を尽くして妖怪と向き合おうとしたわけね。決して油断せず、自らの持てる力全てを発揮して相対しよう、って。
その辺りが、ケチの付き始めといえばそうなんだけどね。永琳が本気を出すには、幻想郷は狭すぎたのよ。だって、月にすら収まらずに飛び出して来てしまったひとだもの。
永琳と咲夜との間の交渉はかなりの長時間に及んで、咲夜が永琳に相当食らいついていたわ。もしかしたら、他の交渉はすでにまとまってることを知っていたのかもしれないわ。
山との間、人里との間との交渉は、うまくいってたのよ。私はこれも後で聞いたんだけどね。山に対しては、うち同様の提案をし、かつ弾幕ごっこにはあの門番がきちんと勝って、参加を確約させてたらしいわ。人里では、まだ顕在だった「動かぬ大図書館」こと、パチュリー・ノーレッジが人里に移座して、交渉をまとめてたらしいの。正直、聞いた時は驚いたわ。相互不信が高まっているこの段階で、両者が話し合いに応じるとは思わなかったから。それを実現したというのは、紅魔館の信用度の高さでもあるし、紅魔館に住まう住人たちの質の高さよね。
それだけに、永遠亭の話し合いが纏まらなかったこと、それも弾幕ごっこさえさせてもらえず永琳が蹴ったことは、紅魔館に大きな痛手を負わせたのよ。最大の当事者であり交渉できなさそうな二者とは話が付いて、他方傍観者のような立ち位置にあったはずの永遠亭とはうまくいかなかったのだもの。想定外の出来事だったと思うわ。
結局、夜半になって咲夜は得るものなく、永遠亭を後にしたわ。あんまり落ち込んだ様子だったから、私なんかは自殺するんじゃないかとさえ不安だったわ。それくらい、彼女は頑張ったんでしょう。それでも、永琳は折れなかった。論破される、だとか、情にほだされる、なんてことがありえないからね、永琳は。
しかも翌日未明には、人里から紅魔館へと使いが行って、パーティー参加を撤回したそうよ。これが永琳の恐ろしいところ。どうやら、てゐを通して永琳は人里に根回しをして、断らせたらしいのよ。理由? それは、山の天狗と人里とが、永遠亭抜きで会談することを防止するためね。もしその二つの間で講和が成立してしまえば、永遠亭はひとり幻想郷の中で孤立することになる。それは永遠亭を危険に曝してしまうわ。そんなの、永琳には認められない。だから、人里も一緒に抱き込んだのよ。永琳は、山が先に退かない限り退くつもりはなかったみたい。
これでレミリア・スカーレットの調停は全部ご破算よ。一時は希望的観測も流れたそうだから、メンツも丸つぶれだったのよね。永遠亭を説得できなかったばっかりに。もともと難しい交渉とはいえ、一時はかなりいい線行っていたのだから、レミリアは歯噛みしたでしょうね。
とはいえ、紅魔館がしっかりしてたのは永遠亭に対する指弾を行わなかったことかしらね。レミリアからしてみれば、仲裁者を殴りつけた永遠亭や人里が許せなかったでしょうし、「仲裁拒否」を名目にして山と組むという選択肢もあったはずよ。なんせ、紅魔館からすれば「お前たちは信用出来ない」と言われたも同然なのだから。それこそ本格的に闘争するという選択肢を選んでもおかしくなかったのよ。でも、レミリアはそれを選ばなかった。あくまでレミリアは傍観者に徹したの。もちろんそれには、永遠亭とやりあうことの不利を考えたというのもあると思うわ。
でもこのあたりが、レミリアが幻想郷を守ろうとしていたんじゃないか、という話の根拠ね。矜持高き吸血鬼ながら、矜持よりも幻想郷の安定を選ぶというのは、相当のことだと思うのよ。
紅魔館が調停に失敗した、という報はこの問題の最終的な決裂を、幻想郷全体に知らしめたといっても大きく間違いじゃなかったわ。先も言ったけど、もともと紅魔館くらいじゃなければ交渉をまとめられないのではないか、と思われていたもの。それなのに、当の紅魔館がまとめるのに失敗した。となれば、もはや誰にも止められないだろう、ってね。しかも、永遠亭が蹴ったという情報も込みだからね。この情報に、山はかなり態度を硬化させたわ。もともと、尊雲というひとりの天狗の暴走に引きずられる形でここまで来ていたわけだけど、ここに至って山全体が主戦派に傾いた。なにせ、永遠亭の側にまるで講和の予定がない、ということが明確になっちゃったからね。調停を蹴ったことに怒った人里の上白沢慧音なんて、直接永遠亭まで怒鳴りこんできたからね。永琳が有無を言わさず追い返していたけど、慧音としては結構期待していたらしいわよ。
八雲紫は話題に出てこないわよ。もちろん彼女なら、講和の机に私達も含めた三者を座らせることくらいはできたでしょうね。でも、それには時期が悪かったのよ。だって、この事件が起こっているのは真冬だもの。彼女、冬眠しちゃうでしょう?
ええ、地霊異変の時には起きてたし、冬の間でも全く活動が見られない、という程のものではないわね。でも、冬に動くというのは緊急事態の時に限られるのも事実。地霊異変の時は、最悪地底の鬼との全面対立みたいなことまで想定しえたわけだから、起きてきたのだと思うわよ。そりゃ、結果的には地底側もかなり穏やかだったから何もなかったけど。怨霊が噴き出しているというだけの状況じゃ、何もわからないでしょう? なにせ、地底の情報は手元に何一つなかったんだから。地底が本気で地上に侵攻するつもりがない、と言い切れる状況ではなかったわ。第一、霊烏路空って地獄烏、ホントに地上を焼け野原にするつもりだったんだから、危機には違いなかったわよ。
話ズレたわね。八雲紫は、この時完全に眠っていて起きて来なかったのよ。おそらく、妖力の問題からだったんでしょうね。八雲紫は結界維持その他に大きな妖力を取られている。このころは幻想郷の結界維持に、物の移出入管理、郷内の秩序維持、博麗の巫女の補佐、みな一人でやってたでしょ。そんなもの、本来妖怪一匹で背負える仕事量じゃないのよ。でもそれを八雲紫は懸命に、何一つ取りこぼすことなく遂行していたわけ。でも、その負担は馬鹿にならなかったと思うわ。それに加えて、自分と殆ど同格の式神まで抱えてたでしょ。式神抱えるだけでも結構な負担なのに、九尾の狐なんて抱えたらどれだけ妖力を取られるかなんて想定さえできないわ。だからその負担を軽減するために、冬眠という形で活動期間を短くしていたのよ。この冬、地霊異変で一度起きていたから、もう一度起きてくるわけにはいかなかったんじゃないかしら。
そういう狭間に起きた事件だから、面倒といえば面倒だったわけね。
そんな中で、ついに二度目の衝突が起きてしまうのよ。実質的に山と里との境界となってしまったクミ沢を挟み、両者ともにらみ合いを続けていたわけだけど、そのクミ沢で小規模な衝突が起こってしまったわけ。これまた、いたずらしようとした小妖怪を追いかけていた人間側が、哨戒していた天狗に出くわしたなんていう些細な理由でね。今回、対妖怪装備を固めていた人間側は、天狗とある程度互角に渡り合って、互いに数人ずつの犠牲を出して収まったのよ。当然、私達のところへは援軍要請が駆け込んできたわ。
ここで私達が参戦すれば、そのまま大規模紛争に突入したでしょうね。結界敷設にまつわる大騒動以来の戦乱として、『幻想郷縁起』に載ったかもしれないわ。でも、そういうことにもならない。
当たり前よね。永遠亭がここで戦闘に参加する道理はないもの。私も永琳も、別に山を滅ぼしたいわけじゃないわ。だいぶ過激反応といわれたらそうだけど、それでも私達は永遠亭を守るため"だけに"行動しているわ。もしここで天狗に喧嘩でも売ってみなさいよ。ただでさえ和睦交渉を蹴ったことで行動を怪しまれる永遠亭は、「幻想郷の侵略者」になってしまう。それは絶対に避けなければならない事態だったからね。そうじゃなくても、自らを守るために行動しているのに、わざわざこちらから喧嘩を売る必要なんてないもの。
さらに言えば、人里が山の天狗に圧勝する、という展開もまずありえないだろうから。この頃の人里で、妖怪と伍して戦える者の数は限られていたわ。それこそ、そこの白髪喫煙炎上女と上白沢慧音、自称科学者の朝倉理香子、あとは稗田や伊治が抱える家人が数名ずつ、といったところかしらね。
ええい、いちいちうるさいわね。何も形容詞間違ってないじゃない。そんなことで噛み付いてこないでよ、犬じゃあるまいし。
ごほん。この内で慧音は、先から言うような穏健派だから、まず戦闘に参加することはありえない。妹紅も慧音とほぼ同じように行動するから、ありえないわ。朝倉当主の子である理香子も、朝倉当主が穏健派だったから動かない。稗田家人だって、当主が穏健側だからやっぱり動かないでしょうね。
要するに、人里の主力がほとんど動かないことが想定されたのよ。相手は天狗、そんな状況の人里で勝利する目なんて無い。そんなところに永遠亭の行く末を賭けるなんてとんでもない話でしょう? そりゃ、私達が煽ったところもある対立だとはいえ、ね。
だから、里からの援軍要請もあっさり蹴ったわ。里からしたら何考えてるのかわからない、という感じだったかもしれないけど、私達は私達なりに利益を考えて動いている。
それぞれが自分の利益のために動いているからややこしくなっている、という側面は否定しないわ。でもさっきも言ったけど、互いに互いを信頼しきれない状況なのよ。そうなったら、やっぱり自分の利益を確保する方向に動かざるをえない。なにも、他から奪ったりしようとしているわけじゃない。互いに、自分を守るために動いている、というだけよ。
ともあれ、永遠亭に動く気がない、ということもあって人里側はクミ沢から引き上げ、この小規模な戦闘は終わりを告げたわ。クミ沢は完全に山側の掌握下に入ったから、これだけみれば山側の勝利ね。
でも、和睦はこれで遠のいた。天狗に対する人里の反感はますます高まるわ。他方、天狗側も「人里恐るるに足らず!」となってしまう。先のチキンレースの例で言えば、いよいよ崖が目の前なのに、誰もが加速した、そんな感じね。もはやどうあっても対立が避けられない、そんなふうに考えられるようになってきたわ。
幻想郷内での大規模戦闘がもはや不可避になってきて、幻想郷秩序の崩壊も見え始めた状況。幻想郷ではね、こういう状況を打開する方法がひとつだけあるのよ。それが博麗の巫女。この時は、博麗霊夢ね。
今回の場合、霊夢が動いたのは、小規模な戦闘で死者が出た、その翌日だったわ。誰もが、幻想郷での大規模な戦闘を覚悟するようになったその翌日。
博麗霊夢は、ふーっと人里に向かい、伊治村で気勢を上げている人間たちを問答無用で薙ぎ倒したの。さらにその足で山に向かって天狗たちを屈服させ、永遠亭へも殴りこんできた。それで、私たちはやっぱりボコボコにされたわ。
そうよ、その一言で済んじゃうの。それくらい、霊夢は圧倒的だったわ。彼女自身は「騒がしい奴は全部ノす」程度にしか考えてないだろうし、実際にそれを実行して、やり遂げちゃうのよ。それが博麗の巫女であり、博麗霊夢だったわ。
私達はスペルカードルールによる弾幕決闘ね。博麗の巫女と喧嘩するなら、それに則るのが常識だったからよ。それに、何度でも言うけど、私達も幻想郷を壊したいわけじゃないの。博麗の巫女を殺すということがどうなるか、ということくらいわかってるもの。そこは、ルールに則ってやったほうが得策だと思うわよ。
勝ち目? あるわけ無いじゃない。彼女、弾幕決闘に関しては他をずば抜けて強かったわ。計算したことないけど、霊夢の戦績を数えると、勝率はおそらく八割とか九割とか、それくらいになるんじゃないかしら。ね、妹紅。
やっぱりそう思うわよね。それくらい、圧倒的だったの。たぶん、幻想郷の中で、対霊夢戦の戦績が一番良かったのは霧雨魔理沙だと思うけど、それでも勝率は四割かそこらだったと思うわ。それも、長年の研究を重ねた結果で、妖怪連中の勝率なんて一割あるかないかくらいのやつばっかりだったんじゃないかしら。
かといって、ルール無し殴り合いすれば勝てるかといえば、そう簡単な話じゃないのよ。霊夢、格闘戦も圧倒的に強かったのよね。もちろん、永琳みたいな神とか、レミリア・紫みたいな強力な妖怪に勝てるかは知らないわ。でも、中級クラスの妖怪だったら霊夢に軍配が上がってたわね。それくらい、そりゃもう信じられないくらい強かったわ。そんなもんだから、小妖怪にとっては、歩く天災だったらしいわよ。詳しくは、ミスティアに聞きなさい。
この時も、その圧倒する力で以って、三勢力を全部叩きのめしたわけね。それで見事に伸されたわけ。また、ルールに則ってやってるから死人もゼロ。うまいというかなんというか、よね。
そうね、まさに「機械仕掛けの神」ね。これだけ絡まった話を、圧倒的な力で無理やりバッサリ切り捨てて解決しちゃう。でも、これが博麗の巫女の役割だったのよ。
そもそも、「機械仕掛けの神」の由来知ってる? これ、元々は西欧に由来することばなのよ。
向こうでは「Deus ex machina」「Ἀπὸ μηχανῆς θεός」といって、「機械じかけから出てくる神」という意味だそうよ。劇で使われたことばらしいわ。
つまりね、劇が佳境に入って物語がどうしようもなくなりそうになった時、舞台の仕掛けから神が現れて、その絶対的な力ですべてを解決してしまう。そういう存在を「Deus ex machina」と呼んだんだって。日本のことばでは「時の氏神」ということばが意味的に近いかしらね。
ここで霊夢がやったのは、まさにこれでしょう? どうしようもなくなったと思った途端、ポンと現れてすべてを解決しにかかる。
おかげで、この物語はすっかり荒唐無稽なものになっちゃったわ。講談で取り上げられることもなく、また『幻想郷縁起』に載ることもなかったのはこのせいよ。こんな物語、面白くもなんともないもの。一番盛り上がったところで、関係ない所にいた絶対的な能力者が全部ひっくり返すなんて、講談だったらまず書いた奴の頭を疑うわね。
でも、それが博麗霊夢という存在だったのよ。極端なことを言えば、「どんなにややこしくなっても霊夢がなんとかしてくれる」という甘えが、こういう面倒な事件を引き起こした側面も、ないとは言えないかもね。
こうして一日の間に三勢力がボコボコにされて、博麗神社の宴会に参加することになったわ。これは巫女のサガなんだか霊夢の趣味なんだか、はたまた幻想郷のルールなんだか知らないけれど、博麗霊夢の「異変解決」のあとには必ず宴会をするという慣習があったの。理由がどうあれ、霊夢にまとめて薙ぎ倒された私達もまた、宴会に参加することになった。しかも、お代はこちら持ちよ。今回の場合は、退治された三者の折半ね。実質的に、この宴会を通して、もめていた三者の間での調停和睦が行われることは明白だった。博麗霊夢によって殴り飛ばされるというのは、そういうことなのよ。喧嘩両成敗ということだけど。
さすが阿勢。いい指摘だわ。要するに、永遠亭としては紅魔館の調停案は信頼できなかったから無視したけど、博麗霊夢による調停は受け入れられたのよ。それが、博麗霊夢という人物だったの。それは、紅魔館がダメだとかそういう話というより、霊夢が特別だった、って話。
まずは、幻想郷一般の話として、少々概念的な説明からしましょうか。博麗霊夢の調停に、誰も文句を言わない理由の一つにはね、「博麗霊夢が神である」ということが関係すると思うの。
そう、「神」。「巫女」じゃなくてね。巫女っていうのは、神に仕える者のことをいうから、本来的には人間そのものよね。例えば、守矢神社の風祝だって、現人神だからあれを「巫女」とは呼ばないでしょ。巫女と神というのは、大きな差があるものなのよ。それで、「博麗の巫女」だけど、あれは「巫女」と呼ぶけど実際には巫女じゃない。あれは神なのよ。
そのことを示すのが住居よ。博麗の巫女というのは、代々博麗神社の本殿に住んでたの。今は、八坂神奈子の依り代としての鏡が飾られている、本殿。
うん、拝殿じゃないわ。本殿。つまり、博麗神社の本殿には、博麗の巫女そのものが祀られていたということができるわ。実際に、そんなことまで認識していたのは、ああいう仕組みを作り上げた八雲紫と、その他数人しかいないと思うけれど。でも仕組みとしては、「博麗の巫女」を「神」として祭り上げる構図になってたわけ。
ここで重要なのが、「神」というものの果たす役割にあるわ。この世の中には、人間と妖怪と、二つの知的存在がいる。そして、この二つは相互対立的に存在し、かつ相互補完的な存在でもあるわけよ。人間は形而下的世界に立脚し、妖怪は形而上的世界に立脚する。でも、それぞれ人間は形而上的世界を、妖怪は形而下的世界をその存在を維持するために必要とするのよ。だからこそ、人間は妖怪を退治し、妖怪は人間を補食し、そういう対立関係を維持することによって相手の立脚する世界と接点を持つの。
少し難しかったかしら。この辺り、すでに稗田阿求がどこかで述べているわ。だから、発想としてはもう二千五百年も前の話よ。そうだったわよね、妹紅。
さすが妹紅。人の記憶って便利だわー。しかし、阿勢がこの辺りにピンとこない、ということは記録は残っても思想は残らない、ということかしら。その辺りの仕組みは少し不思議なものだわ。今度、鬼神や魂魄について、改めて考えてみようかしら。
易まで遡るなんてゴメンだわ。荻生徂徠くらいで充分よ。というか今気づいたけど、これ妹紅の説明聞いたほうが早いんじゃない?
ちっ、ちゃんと勉強しときなさいよね。朱子読んでないと科挙合格は望めないわよ。
なにそれ、古注と朱注と、何がどう違うのよ? その世界、私にはわからん世界だわー。
まあいいわ、ちょっと話がずれたんだけど、要するにこの世の中には、相互に対立しながら補完している人間と妖怪という、二つの存在がいる。この二つは常に対立し、互いが互いを攻撃するのが基本よ。それだけど同時に、片方が滅びてしまえばもう片方も消滅せざるを得ないという、そういう不安定な状況にもあるわ。
そこで、調停者が必要になる。それが鎮守神よね。地域の秩序を安定化させるのが鎮守神の役割なわけだけど、その中には妖怪と人間との均衡を保つという役割もあるのよ。人間が妖怪を滅ぼそうとすれば妖怪を手助けして人間を攻撃し、妖怪が人間を食らいつくそうとすれば人間を手助けして妖怪を攻撃する。酒呑童子が人間を次々食べた結果、八幡神の加護を受けた人間に滅ぼされた例なんて、好例よね。それに、永琳と神奈子とが今の幻想郷で「神」としてやっていることは、まさにこの鎮守神としての役割だし。
こういう意味で考えると、博麗の巫女ってのはまさに神でしょう? 幻想郷の中で、人と妖との争いを仲裁し、均衡を保つ。それが博麗の巫女の役割だったんだから。そして、それを皆が望んでいたから、博麗の巫女の存在意義を認めていたし、その彼女による仲裁を「神勅」として認めていたわけ。
あらイナバ、自分の居場所に向かって随分ズケズケ言うわね。
いや、謝ることは無いわ。その通りだもの。永琳にしても私にしても、ただ「そういうものだから」といわれてすぐに頷くなんてことはない。当たり前よね。私達は月人なのだから、盲目的に幻想郷の規則に従う必要はこれっぽっちもないんだから。特に、同じ「神」である永琳は、博麗の巫女が神だろうがなんだろうが関係ない。でも、私達は霊夢を信頼して弾幕決闘をやり、ボコボコにされ、宴会への参加も承諾した。それは、博麗霊夢という"ひと"の貴重な特性、とでも言えるかしらね。
そう、博麗の巫女としての立場からではないわ。単純に、私達は博麗霊夢という人間を信頼していて、気に入っていたの。
博麗霊夢というひとは、妖怪だとか幽霊だとか、そういうものにもとても好かれるひとだったのよ。そりゃ、視界に入った妖怪を片端から殴り倒す、妖怪にとって歩く天災としての側面はあったわ。それでも、霊夢のいた頃の博麗神社は、妖怪や妖精なんかでいつも賑わってたわ。
どうしてか? うーん。それは私もよくわからないのよ。ただ、彼女はあらゆる意味で素直だったから、付き合いやすかったというのはあるのかもしれないわ。すごくさっぱりした人だったのよ。素直だから、怒る時は怒るし、感情の起伏はとてもわかりやすく表に出ていたの。だからこそ、彼女のことは信頼できるように思っていたし。それに、人の悪口を言っているところは、ついぞ見たことがなかったわね。そういう意味で、下手な勘ぐりをしなくて済むから、なんとなく気軽に隣にいられたのよ。そうそう、妹紅はどう思ってた?
あー。確かに、誰とも均等にそれなりの距離を維持してたわね。誰と仲が良かったか、と聞かれても、なかなか難しいわよね。強いて言うなら霧雨魔理沙なんだろうけど、魔理沙にしても霊夢が親しくしているというよりは、魔理沙の方から食らいついている感じだったわよね。あとは誰とでも均等に親しくしていて、誰かと親友だったとか、そういう感じはしなかったわ。
そうそれ! 妹紅の言うとおりよ! 霊夢、ごく自然に距離とってたわ。アレって、実はすごいことなんじゃないかしら。だって、普通ならあるところで壁を感じるじゃない、そういうの。「あ、ここから先は入っちゃいけないんだな」って思って距離を開く。他者との関係って、そういう壁を見つけて距離感を測るものじゃない。霊夢は全くそういうのなかったのよ。別に壁を感じるわけでもなく、ごく自然に霊夢との距離が形成される。その意味でも、色々な勘ぐりをしなくて済むのよ。
そうよねー。その辺りが、きっと霊夢を皆が信用していた、その理由になるんじゃないかという気がするわ。永遠亭もまごうことなく、霊夢に魅せられていたわけ。永琳ですら巻き込んでいたんだから、今考えると本当に相当なものよね。
あら、イナバはまたいいところに気づいたわね。あなたの言うとおり、こういう霊夢の特質があったからこそ、この頃の幻想郷は回っていたの。次から次へと外の勢力が幻想郷に入ってきたこの時期に、幻想郷がそれでも安定していたのは霊夢のこういう人望のおかげだったんだと思うわ。いろんな勢力同士、関係性は多様だったし、幻想郷の仕組みを全面的に賛成している者ばかりだったわけじゃないわ。それこそ、霊烏路空だとか鬼神正邪みたいに、幻想郷まるごとひっくり返そうとか言う連中までいたの。それでも、霊夢生前には幻想郷が微動だにしなかったのは、皆が霊夢のことを信頼し、彼女のいうことならば聞いていたからよ。
その疑問も尤もよ。でも、それが博麗の巫女というものだった、としか言いようがないように思うわ。たぶん、だけどね。博麗の巫女ってのは、幻想郷の危機に応じて動くのよ。幻想郷が傾いて、崩壊の可能性が現れたら動く。そういうものだと思うの。その判断には、犠牲の過多だとか、そういう要素は入ってこないんじゃないかしら。
もし霊夢がもっと早く介入していたら、犠牲者の数が減っていたというのも事実でしょうね。でも、霊夢にとって、というより、博麗の巫女にとってそこは大切じゃないのよ。だから、幻想郷崩壊の危機が来るまでは動かないし、来ればあっという間に動く。そういうものなんだと思うわよ。
さて、霊夢批評についてはこの辺りにして、この後の話でもしましょうか。
といっても、大した話はないんだけどね。まとめてボコボコにされた私たちは、翌日になって博麗神社に集まったわ。宴会やるというのが不文律ながら慣習化してたから、それに参加しにね。
今気づいたけど、これはこれで、神を祀る祭りとしての意味があったのかもしれないわね。喧嘩両成敗という形ではあるんだけど、幻想郷崩壊の要因にもなるような事件を解決してもらったわけでしょう。要するに、神である博麗の巫女の力を借りて問題を解決してもらったわけ。だから、宴会という形で神をもてなす、というそういう儀礼だったんじゃないか、って。考えすぎかしら。
当たり前よ、霊夢がそんなこと考えてるわけないじゃない。今まで散々、博麗の巫女が神だのどーの言ってきたけど、霊夢自身はそんなことこれっぽっちも考えてなかったと思うわ。間違いなく、彼女は気の赴くまま、適当に目の前の事件を解決してただけよ。今回の事件だって、いい加減騒がしくなったから、うるさい連中をまとめてのしたとか、霊夢の中ではその程度の話よ。それを無理やり、幻想郷の仕組みに絡めて難しく解釈したらああなる、って話。本人は、気の赴くままに動き、そのくせ全ての問題を円満に解決するという、天才以外の何者でもない存在だったから。
また余談だったわね。とにかく、山と人里と永遠亭と、それぞれに酒やら肴やらをもちこんで、宴会やったわけ。もちろん、その場で騒動以来初めての当事者顔合わせよ。人里からは、伊治と稗田の御当主に朝倉理香子と上白沢慧音。山からは天魔と尊雲、お付きの天狗がそれぞれ二人と、射命丸文。永遠亭からは、私と永琳と鈴仙。それで呑気に宴会、というわけ。
そう思うでしょう? でも、実際にはそんな重苦しい話にはならないのよ。だって、そんなまどろっこしい話し合いなんてしようものなら、主賓たる博麗霊夢がひとこと「めんどくさいわねぇ。も一度私がまとめて相手してもいいのよ」とか言い出すのだもの。
そんなもんだから、実質的には率直で折衷的な案に収まるわけよ。本当なら、ここからの僅かな条件設定が、交渉の腕の見せ所になるんだけど。そんなことできなきゃ、簡単な話で収めるしかないもの。
で、結局決まったのは、弾幕決闘による加害者決定と、それぞれの関係者処分。
ひとつめは、一応のけじめのための決まりね。双方が悪い、として引き分けにすればいいと思うかもしれないけど、なかなかそれも難しいのよ。それで、組織上部の連中が納得したとしても、当事者は納得しないでしょうね。だから、弾幕決闘によって加害側を定めるのよ。弾幕決闘なら、明確に勝敗がつくでしょう。
さっきも言ったけど、この決闘は、人間や妖怪の力ではどちらが悪いのか定まらなかった事件の解決を目的としてるわ。そのために、神に頼ることが重要、というわけ。だから、ただ弾幕決闘するわけではなく、神である博麗霊夢の前で決闘することが、何より重要だったのよ。
つまりね、博麗の巫女の前でやる弾幕決闘って、「神判」なのよ。例えば、沸騰した湯の中に手を突っ込んで火傷の有無を見る「盟神探湯」とか、真っ赤に灼けた鉄を握って火傷の有無を見る「鉄火起請」とか。あんなのと一緒なの。この決闘は、神の前で行われるもので、その結果は神の意思を表している。勝ち負けという形で、神の意志が明白に示されるものだ、と考えられるわけよ。
だから、今回の例みたいなのにも弾幕決闘が欠かせなかったわけ。もともと、人間や妖怪の力では判断がつかなかった問題を解決しよう、という話よ。どちらも悪い、でもよかったとはいえ、それだけでは当事者たちは何と無く承服し難い。その点、神の意志として結末が明示されてしまえば、納得せざるを得ないの。少なくとも、「神がそう言っているのだから、仕方ないことだ」と言い訳をすることはできるわけ。実際に皆がどこまで信じているか、なんてのは置いておいても、そういう建前が成り立つことが重要なのね。そうすることで、できるだけ禍根を後に残さないようにする、そういうことなんだと思うわ。
ふたつめは、喧嘩両成敗的な裁定なんだけど、ひとつ重要な点があるわ。それが、おのおのの内部でこれを行うこと。内部での処分であれば、相互の権益を侵害したりしないし、その是非で揉めたりもしないわけ。
でもね、イナバ。この話は博麗の巫女の前での取り決めなの。いわば、神前での誓約みたいな側面があるわ。これを殆ど無視するというのは、よほどのことよ。それに、もし内部で処分できないとなれば、それはその集団が内部を統制できていないと示すことにもなってしまうわ。それは決してよいことではないから、そう適当にこの話を扱うわけにはいかなかった、ってわけね。
さて、霊夢の眼前でこういう取り決めがされて、稗田の御当主と天魔と私とが署名して、この問題は実質的に解決したわけ。でも、もう少し話は続くのよ。
だって、先に言ったでしょ。弾幕決闘による加害被害の判定、って。それは宴会の中で早速に決められることになったわ。また改めて、なんてまどろっこしいことは嫌だ、と霊夢が言い放ったからね。
この弾幕決闘だけど、一応は当事者同士でやるということになってるわ。とは言っても、実際にそのように行われることはまずないと言っていい。特に、こういう形で組織の動向が関わる場合には、当事者同士による決闘なんてほぼ皆無ね。
つまり、それぞれに代理を出すのよ。弾幕決闘にも得意不得意があるから、得意な者が代理で決闘を行うの。
あら、なんか妹紅、機嫌悪そうね、どうしたのかしらー?
でも、名誉なことじゃない。だって、人里の命運を任されたということなのよ。それだけ信頼されるというのは、大変なことよ。
ごめんなさい、話が飛んで。この反応でわかったと思うけど、人里の代表として弾幕決闘することになったのは、妹紅だったのよ。
ちなみに、天狗側の代表になったのは射命丸文。彼女、天狗の中では、特に深く人間と関わってたからね。なんせ、人里でも新聞配ってたのだから。この大騒動の中でも新聞配るのやめなかったらしいわよ。度胸あるわよねえ。
弾幕決闘をすることが決まるや、博麗神社は大騒ぎよ。当事者以外の野次馬もたくさん集まってたの。妖怪ってものは、こういうお祭りが好きなのよ。それに、皆霊夢のことも好きだった。だから、宴会と聞けば酒や肴を持ち寄って騒ぎに参加したものよ。
今回の場合は、仲裁しようとした紅魔館の参加も決定してたようなもので、大規模になるのはわかりきってたからね。当事者たちの話し合いの他所で、飲めや歌えやの大盛況だったのよね。
つまり、宴も酣になったころに、弾幕決闘しよう、という話になったわけ。それこそ、酒の肴には素晴らしい趣向なわけじゃない。しかも、今回は双方が実力者とあって、見ごたえのある弾幕が約束されてるんだから、みな見物するに決まってるわよね。
一応、その決闘は人里と天狗との問題を解決するためのもので、さっき言ったように神意を問うといった意味があるようなものではあるんだけど、そんな「幻想郷の仕組み」は殆どの幻想郷住人にとってどうでもよくて、妹紅と射命丸という実力者の弾幕決闘は、ただの酒の肴なんだけどね。
結局、あの時は妹紅が勝ったのよね。実力は伯仲していたはずだけど、それほど盛り上がらなかったように覚えてるけど。
あら、解説ありがとう。そういえばそんな感じだったわね。そりゃもう、運が悪かったとしか言えない話よね。
これで事件の顛末は殆ど終わりよ。この日は、朝までてんやわんやの大騒ぎをして、それで皆で片付けをして、それで解散。
思い出したわ。この時は、あまりに不甲斐ない負け方をした射命丸のやつが、ヤケ酒と称して、辺りの連中に酒飲ませまくって、片っ端から潰してたのよ。
そうそう。それで、普段なら絶対に醜態を見せなかったアリスが、押し切られて潰されてたの。飲ませすぎるとどうなるのか私も楽しみで、横から眺めてたの覚えてるわ。
けっ、どうせ私は性格の悪い傾国ですよーだ。
ああ、アリス? 彼女、至って平然と飲んでて、4升か5升くらいサラッと空けたところで、突然沈没したわ。色白のくせに朱すら差さないから、人形かとさえ思ったわ。あれは驚いたわね。最初は、何かあったんじゃないかって心配したくらいよ。寝息が聞こえなかったら、「永琳、急患!」って叫ぶところだったわ
それがそうでもないのよ。いつからか、アリスのやつ、結構酔うようになったわ。あのグリモワール持ち歩かなくなったころからかしら。なかなか図書館から出てこないから、図書館行って誘ってみるといいわよ。言われるほど、付き合い悪いやつじゃないし。
あー、ありえる。元から綺麗なフランス人形みたいな容姿してるし、人形に入れ替わってても気づかない気がするわ。というか、最初から人形だったかもしれないわね。酔う機能が途中で追加されたのかも。
アリスの話でついつい脱線してしまったわね。何が言いたいかっていうと、この時アリスが潰された話と、温泉の話がごっちゃになってたってこと。温泉は、やはり別の時だったわね。
そんなこんなで、宴会は恙無くおしまい。朝には生きてるやつで片付けして、昼までには潰れてたやつらもはけて、幻想郷は元通りね。
ついでに言えば、その日の朝には天狗側から下手人が人里稗田家へと送られて、夜には返されてる。ここに至って約束を破るほど、双方とも戦争したいわけではないからね。
ちなみに、当の下手人には、弾幕決闘もやった射命丸文が代理やってるわ。本人は、二日酔いで、人里ではもっぱら看病されてたらしいわよ。
あとは、翌日までに当事者たちの処分が公開されて終わりかな。
天狗が一番厳しくて、主である尊雲が二ヶ月の謹慎。乱闘参加者は、死罪のところを減免して追放。おそらく、暴走したことを天魔は重く見たんでしょうね。天魔は、山の中央集権化を進めていたから、それに背いたのは許せなかったんでしょう。
人里では、当事者たちに用水修理と田畑の一部没収が課されたわ。結構厳しいけれども、できないこともないくらいの罰ね。
で、うちの鈴仙だけど、これは一ヶ月の謹慎ということにしたわ。まあだいたい相応じゃないか、という評価だったそうよ。天狗を攻撃した上、人里での判断を誤ったとは言っても、それ以前の事情を知らない状況で判断を迫られたものだからね。必ずしも鈴仙が悪いというわけでもない、ということで。こちらとしても、ついつい酷使気味だった鈴仙に休暇を与えたということにもなって、結構ちょうどよかったように思うわ。永遠亭から出れないから、かなり暇を持て余してはいたけどね
。
こうして、本当の意味で一件落着。全て元の鞘に納まりました、ということね。
案の定というか、やっぱり取り留めのない話になっちゃったわね。どうにも、思い出しながら話をしてるといろいろな話が思いついちゃっていけないわ。あんまりにまとまりのない話だったから、聞きにくかったんじゃないかしら。
あんたよりは上手く話したと思うけどね。あんたより下手な奴なんて、探すほうが難しいんだから。
あー、聞こえなーい。
そこのは置いておいても。この話、少しは役に立ったかしら。何が起こったか、というのは阿勢が知っているだろうと思ったから、できるだけ二千五百年前の幻想郷がどのようなところだったか、というのがわかるような話にしたつもりだったんだけど。
そうね、今の幻想郷とは全く違うといってもいいわ。言うならそうね、ありとあらゆる意味で「自由」という表現が近いかしら。
そう。「自由」。自由気ままであり、自由勝手である。そういう世界が、幻想郷なのよ。何をしてもいいし、何を考えてもいい。その代わり、自分のやったことには自分で責任を取る。基本的なきまりはそれだけ、という自由な世界よ。だからこそ、いろいろな思惑が錯綜して、ややこしい話にもなるの。
奇跡ね。こんな世の中を大規模に維持しよう、なんてのは不可能よ。まず人間と妖怪との間で、絶対に意思が衝突するもの。そのまま大規模な戦乱になるわね。それで、人間か妖怪か、どちらかが勝利して安定体制を築き上げるまで、戦乱は収まらないものよ。でも、この時代の幻想郷は、そういう不安定状態を維持し続けたの。
博麗霊夢がいたからよ。さっき言ったように、皆が博麗霊夢を気に入っていたし、信頼してもいたの。だから、意思の衝突があって対立が引き起こされても、霊夢が介入してくれば皆鉾を納める。また、霊夢ならば鉾を納めさせられる、とも皆信じていた。だから持ったの。
ええ、それも然りね。これは、極めて危ない状態だったわ。霊夢の時代というのは、外の世界でも大きな価値観の変化の時代を迎えていたそうよ。その関係もあって、様々な勢力が幻想郷に流れ込んでくる時代だった。私達永遠亭も、そのひとつね。そんなことをすれば、先言ったような「自由な幻想郷」はますます不安定になる。それを、霊夢というたった一人の少女が支え、維持していたわけ。
でも考えたら当たり前なんだけど、そんな体制持つわけがないのよね。第一に、霊夢は不死じゃないわ。ずば抜けた妖力を持った巫女だったとはいえ、所詮ただの人間。どんなに長くても、たった百年足らずでお陀仏よ。その程度の儚い存在に、世界の維持が託されてるなんて、恐ろしいったらありゃしない話よ。その人間死んじゃったらどうするの、って話じゃない。実際、死んじゃってうまくいかなくて、こうなったわけだし。
それに、これは今になって思うんだけれど、霊夢もただの人間、ただの少女なわけ。そんな彼女に、すべてを背負わせすぎよね。本人、見た目こそ至って飄々と生きていたけど、実際にどう思っていたのか、今となっては誰もわからないわ。ただ、すごく敏い子だったから、自分が「そういう立場」、つまり、「幻想郷の神」であったことくらい、気づいていたんじゃないかしら。そんな気がしてるわ。
やっぱり妹紅もそう考えるわよね。私達は、この後のことも知っているわけでしょ。そうだからこそ、なおさら思うのよ。
あー、暗い話をするつもりじゃないから話題変えるわ!
グダグダ言ってきたけど、結論すると、やっぱり霊夢というひとは偉大だった、ってそういう話よ。不世出の天才ね。彼女のお陰で、私はこうやって今でも幻想郷に屋敷を構えて、こんな風に喋ってられるの。それは、妹紅も同じでしょ。
だからね、霊夢には感謝してるのよ。それは、あのころ生きていた連中、多かれ少なかれみんなそうだと思うわよ。ね、妹紅。
あら、気づいたら外も暗くなってきちゃったわね。そろそろお開きにしましょう。阿勢、どうせなら今日は泊まって行ったらどうかしら? 暗くなってから竹林を戻るのは、あまりよくないでしょう?
ええ、妹紅も泊めてあげるわよ。特別に、厩を用意してあげるからお馬さんの邪魔にならないように寝るのよ。あと、うっかり処女懐胎とかしないように気をつけてね。
あら、せっかく親切で言ってあげてるのに、そんなこともわからないのかしら?
やるなら相手してやるわよ。第一、先から煙草臭いのよあなた。それに、いちいちこっちに突っかかってくるし。
はぁ? 何よちょっとしたじゃれあいじゃない。それにいちいちうるさいわね。そんなに細かいこと気にしてると、ハゲるわよ。ただでさえ白髪なんだし。
そもそも、来た時から気に食わなかったのよね。阿勢には、随分な紹介をしてくれたらしいじゃない。忘れたとは言わせないわよ!
ふざけんじゃないわよ! ええ、表出ようじゃない! 今日こそは容赦しないわ! ちょうど新スペカ考案したところだし、あんたで実験よ!
あんたの方が、悲鳴上げないように気をつけることね!
「好きですね、お二人とも」
あまりの超展開に、半ばあきれた簫喬をよそに、阿勢は苦笑している。
「……驚かないのですか?」
これまでざっと二千五百年、"イナバ"として輝夜のそばに仕えてきた簫喬ではあるが、その簫喬をして驚かしめるほどに、今回の展開は早かった。
「すでに『幻想郷縁起』中にも、こういったことは書かれてますので」
それにしても、という気もしたが、それはもう阿勢というひとの性格によるものなのだろう。そう思って、簫喬は納得することにした。
「特別今日は早かったですけれどね。ここまで行くのが」
普段は、もう少し口喧嘩をするものだ。
「お二方の機嫌が悪かったのでしょうか? そうは見えませんでしたが」
むしろ上機嫌かと思っていました、と言って首を傾げた阿勢に、簫喬は首を振った。
「いえ、見たまま、お二方ともとても上機嫌でしたよ」
「しかし、それなのに弾幕決闘?」
「口喧嘩なんてそっちのけで、弾幕決闘をやりたかった、ってことなんじゃないでしょうか。結局、最初の言い合いなんて、所詮は前口上で、殆ど意味はないんですよ」
簫喬は、ああいう言い合いを数えきれぬほど見てきた。そこでわかったのは、二人共言葉遊びを楽しんでいるだけにすぎない、ということ。ある時は、和歌の良し悪しをめぐって罵倒しあっていることさえあった。そんな程度のものなのだ。
「そういうものなのですか」
「ええ、そういうものですよ」
簫喬は苦笑してみせて、立ち上がる。赤みがかった長髪がぱっと舞った。
「せっかくだから、見て行きませんか? とびきり綺麗なものが見れますよ」
縁側に出ると、簫喬の予想どおり、竹林を背景にして、色とりどりの光源が舞っていた。簡易の結界を張って、周囲が傷つかないようにする配慮も欠かさない。
「綺麗ですね」
「弾幕決闘は、美しさも重要ですから。二人して、伊達に千年以上練ってないということです」
二人が展開する弾幕は、次々色を変え、姿を変え、見ているものを飽きさせない。次から次へと展開していくそれは、まるで劇のような物語さえ感じさせる。
阿勢は、弾幕決闘に見入っている。今となっては、弾幕決闘そのものが完全に廃れてしまっている。こういう物を見るのが、阿勢はきっとはじめてなのだろう。
かくいう簫喬も、ここまで至近で弾幕決闘を見るのは、久しぶりのことである。それに、苛烈な妹紅の弾幕と、荘厳な輝夜の弾幕。それぞれ、やっぱり見応えがあるから、ついつい引きこまれてしまう。
「あのお二方は、本当に機嫌が良かったんですか?」
再び阿勢がことばを発したのは、少し経ってからであった。既に数枚ずつ、輝夜も妹紅もスペルカードを切っているが、一向に決着がつく気配はない。
「ええ。少なくとも、輝夜さまに関しては、昨今ないほどに楽しまれていたように思いますよ」
話している姿の端々から、楽しげな様子が読み取れた。そこまで楽しそうな姿は、そうそう見れるものではない。
「それなのに、妹紅さんとわざわざ弾幕決闘を?」
「機嫌がいいから、弾幕決闘なんだと思うんですよ、私は」
「機嫌がいいから?」
阿勢が首をかしげる。
「そうです。お二方にとって、弾幕決闘は結局"趣味"の一つに過ぎませんからね」
「趣味、ですか。てっきり、殺し合いをしていたころの延長だと思っていましたけれども」
阿勢の意見は、非常に素直な見方だ。だが、おそらく違う。
「たぶん、ですが」
推測だ、と簫喬は前置きをした。
「お二方とも、霊夢というひとが生きていた時代を、懐かしんでいるんだと思うんです」
「……というと?」
阿勢が、不思議そうな顔をして簫喬の方へ向き直る。
「前から、なんであのお二方が弾幕決闘をやめないのか、不思議だったのです。もはや、幾千幾万と繰り返してきたもの、飽きてしまって当然のもの。しかも、お二方も普段はすっかり仲良くなられ、争う意味さえ感じない。それなのに、お二方ともやめられる気配がない。それが不思議だったのです」
「口喧嘩していたというのは?」
「おそらく、弾幕決闘するために口実を作っている、というだけなのだと思っています。実際には、ほとんど中身のないことしか言っていませんから」
簫喬のことばに、阿勢も納得したようであった。
「ずっと不思議でした。なぜ、こんなことを続けているか。でも、今日、話を聞いてわかったのです。おそらくこれは、懐古なのだろう、と」
「懐古……?」
「お二方にとって、博麗霊夢の生きていた時代というのは、楽しかった時代だったんだと思います。だから、その時代に行われていた、弾幕決闘を今でもやっているのではないかと」
「それを通して、当時のことを思い返している?」
「そこまでではないかもしれませんけれども。その頃の楽しかった記憶、というのが染み付いているんじゃないかな、と」
二人にとって、弾幕決闘とは、博麗霊夢のいた時代へと戻る手段なのではないか。目の前に広がる、鮮やかな劇を見ていると、そのように思えたのである。
「今日、輝夜さまのご機嫌が良かったのも、そのころのことを思い出したから、と考えると話が合うのです」
「しかし、あの二人、そのころは殺し合っていたはずですが」
「それでも、なのではないですか? 別に、あのお二方が今に不満を持たれている、と言うわけではないと思いますし、今でも憎みあっておられるわけでもないとは思いますけれども」
今の二人は、基本的に仲がいい。軽口の叩き合いこそしょっちゅうではあるが、わりと頻繁に会っては、いろいろ話している。
「そのように聞くと、すこし哀しく思えてきますね」
阿勢のことばは、少し沈んでいた。
「殺し合いをなぜやめたのか、というのはお二方とも、決して話してくださらないのです。何か、とても大変な思いをなされて、それで嫌になったようなのですが」
簫喬が輝夜のそばで働くようになってすぐのころ。簫喬は輝夜に聞いたことがある。どうして妹紅との争いをやめたのか、と。
それに輝夜は、苦笑いをしながら一言だけ言った。
「いろいろ、あったのよ」
そのことばがあまりにも重く、次のことばを発しえなかったことを、簫喬は今でも鮮明に思い出すことができる。
「きっと、そんな"いろいろ"があった、それより前の時代が、お二人の心のなかには今でも理想としてあり続けているのかな、とそんな気がしてなりません」
簫喬は、また空を見上げた。まだ決闘は終わりそうにない。夜空が、極彩色に彩られて、この世のものとは思えぬほどに、美しい。
「お二人にとって、とても大切な思い出なのですね。あの時代は」
「きっと、そうなんだと思います」
輝夜と妹紅と、二人は永遠の時を生き続ける。終わりのない道を歩き続ける。
きっとその道標として、博麗霊夢という少女のいた、輝かしき幻想郷を思い続けるのだろう。
そんな気がした。
一辞故国十経秋
一たび故国を辞してより十たび秋を経る。
ひとたび、故国を辞してから、すでに十回も秋を迎えてしまった。
毎見秋瓜憶故丘
毎に秋瓜を見れば故丘を憶ふ。
秋の瓜を見るたびに、故郷の丘を思い出す。
今日南湖采薇蕨
今日、南湖に薇蕨を取る。
今では、南方の湖の畔で蕨を取る生活。
何人為覓鄭瓜州
何人か、為に覓めん、鄭瓜州を。
誰か、私の為に探してくれないだろうか、あの懐かしい瓜州の鄭審さんを。
――杜甫「解悶」
了
あせい?
ただ、話が深すぎて東方projectの世界とはちょっと違う感じにも取れました。
人里はもう少し発展している場所もあったはずじゃ…なんて邪推もあったり。
とまぁ、何はともあれ良い作品には相違なかったです。
過去作? 確かにあなたの話は読んだことある
冒頭を除き輝夜の口から当事者として語られるのは、まさにその場で聞いている三十代目の気分になります。話の特性上どうしても説明部分が多くなってしまいますが、多くなりすぎるということは無く必要十分といった風に感じました。ただ輝夜の口を介しての回想ということもあって話の波がほとんど無く、淡々としている印象はあります。物語への好奇心というよりは、辞書で事件について調べる知識欲で読んでいたという感じでしょうか。阿勢が求める所の時代の空気、つまり文書としては残らない些細な出来事というものを得られたといえば得られたので、そこが作者様の狙いだとしたらまんまと嵌ってしまったということになります。
ただ輝夜と妹紅の弾幕からの懐古、良い余韻を残しての結末には相応しい部分だったと思いますが、一方で中核たる回想部分で語られる霊夢については「時の氏神」としての活躍に付随しての霊夢を少しばかり解説しているだけで、懐かしむに至るだけの人柄や挿話といった部分は読者に対してはあまり掲示されなかったように思え、深く理解するまでには至れなかったものです。そこまで書いてしまうとまた大きく話が変わってしまうとは思いますが。
霊夢の存在が理不尽すぎる…デウスエクスマキナの話なのですから当然なのですが。
この描かれ方だと霊夢のキャラクター性が失われてしまっていて、「チートすぎて逆に引く」という印象を受けました。
ここまで色々と押し付けられる霊夢の悩みや葛藤など、もう少し「人間っぽい」ところを描かれていたら、より良かったと思います。
輝夜の一人語りというお話の性質上難しいことなのですが…
あと、語りが脇道に逸れる場面も多く、全文を読むのはちょっと無理でした。ちょこちょこ読み飛ばしながらで。
もし読み飛ばした部分に「霊夢の人間らしさ」を書かれていたならごめんなさい。
他には人死にがあって一件落着はちょっとなぁ‥というのも。ここは輝夜の感じ方の部分なので、突っ込むのも野暮ですが。
何はともあれ、面白かったです。GJ!
霊夢という存在がいたからこそ、東方と長い間付き合っています。
凄いキャラだなあとつくづく思うのです。
だって、神社にいるのは神様ですよね?
巫女として日々を捧げて鎮守神として力を振るう。というような。
まあ結局は書けなかったんですけどね。
この輝夜さんのかたりはかなり私好みです。すごい! 素晴らしい! 大好き!
読むのに2時間程かかりましたが気になりませんでした。
なにより基礎がしっかりしているから安定して読めました。
面白かったです!
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