私、宇佐見蓮子と彼女、マエリベリー・ハーン。その出会いの日は今も忘れない。
「あなた、秘封倶楽部に入らない?」
講義室の最前列に居たメリーの背中には周りの人間とは違ったオーラがあった。同じ学部という事もあり、別の講義でもその姿を見かけ、その度に彼女の姿に自然と目を奪われていることに私は気付く。
そしてある日の講義後、困惑する彼女を冒頭の言葉を言ったのち部室へと引っ張っていった。
それ以来、私とメリーはどんな時でも一緒だった。
○ ○ ○
「蓮子、私帰ることになったの」
「帰るって……帰省? こんな時期に?」
「違うわ。大学を辞めるって意味よ」
メリーが何を言っているのか理解できなかった。メリーはいつだって一人で何かを考え、そして行動するものだから、その思考を読みとることが出来ない周りの人間(といっても私くらいなものだろうけど)はメリーの唐突な行動に驚かされるのだ。
そして今回のメリーの告白もまた理解の範疇を超えていた。
「意味分かんない。何だってそんなこと考えたの」
少しだけ棘のある言葉を飛ばす。それに対しメリーは少し俯き、そしてごめんねと言うだけだ。
“なぜ”や“どうして”を聞いても謝るばかりで、核心的なことは何も言ってくれない。ただ、彼女の言葉には、“いつもの”彼女が醸し出すのんびりとした雰囲気が感じられない。それとは真逆の、固い意志の強さがあった。
「どうしても行かないといけないの。……ごめんね」
彼女の能力――結界の境目が見える程度の能力――に関わることなのかと尋ねると、何も言わなかった。代わりに口元をニッと上げて笑う。
そしてもう一度「ごめんね」と言った。
○ ○ ○
メリーが帰ると言ってから2日後。別離の悲哀を感じる間もなく、出立の日がやってきた。
電車の出発時刻は夜の12時。そんな時間に走っている電車はこの地域にはない。メリーは何も言わないけれど、私は薄々感じていた。メリーは帰るのではない。きっと境界の向こう側へと行くのだ、と。
一度だけ“幻想郷”と呼ばれる世界へと二人して迷い込んだことがあった。あの時は必死で周りを見ていられるゆとりはなかったけれど、メリーは落ち着いていた顔をして私を見つめていた。メリーの表情からは、まるで懐かしい景色でも見るかのような余裕すら感じられた。
きっとあの時からずっと考えていたのだろう。“幻想郷”へ行く(帰る)ことを。
メリーの家を出て彼女の後ろに付いて行く。街灯に照らされて出来る私と彼女の影が繋がることはない。いつもは隣り合って歩いていたのに、今はなぜかそれが出来ない。今近づいてもメリーは何も言わないだろう。だからこれは私の要因。彼女がいなくなることを私は認めたくないのだ。
付かず離れずの距離を保ったまま、私たちは駅にたどり着く。ただ駅舎前の電気が点いているだけで、人の気配はない。普通の人間ならば入ることをためらうが、メリーはお構いなしに駅舎に入り、ずんずんと進んでいく。
全部で5番まであるホームのうち、一番端に“創られる”6番線のホームの電気だけが煌々としている。これからメリーが乗る電車は普通の人には姿を見ることすら出来ない、幻の6番線に入線してくるのだ。まだその姿はないが、ホームの電光掲示板にその到着時刻が示されていた。行先は出ておらず、私にはその電車がどこを終着地としているのか、知ることもできない。
「蓮子、覚えてる?」
「何を?」
「秘封倶楽部に入って初めての活動」
明確に覚えていた。メリーにとってもだが、それは私にとっても初めての活動だった。
「森に行ったんだよね、兎の耳が生えた人間が目撃されたからって」
「そう。私を強引に連れて行ってね。で、結局見つけたのは兎の足のチャームだけ」
森を出るころには二人とも砂埃と泥にまみれていた。特にメリーは青を基調としたお嬢様のような服をボロボロにしていた。私が突然連れて行ったものだから服装も準備できなかったからだ。
「それで私んち来て二人で風呂で泥落としたっけ」
「そう。私の純情を奪ったのもあの日」
「……人聞きが悪いじゃないか」
幾分か平時と同じような温度で会話が出来た。
だけどその温度は電車の到着を告げる音により急速に下がって行った。
私と彼女の二人きりの夜の駅。私に背を向け、最終電車へと乗り込む。冬の風が二人の間に吹く。まるで私と彼女を切り裂く刃のように思えてならなかった。
「じゃあ、行くね」
少しだけ振り返って、メリーは僅かながらの別れの言葉を紡いだ。
「……嫌よ」
それに私は応えない。メリーが“こう”すると想像してから私の行動は決まっていた。
電車に向かい、進む。もちろんそれに乗って私も“幻想郷”へと行くためだ。いや、むしろメリーに付いて行く事の方が主目的かもしれない。何にせよ、こうでもしてメリーを欺かないと、きっと彼女は私を乗せようとはしないだろう。
「私も、一緒に……!」
あと一歩。たったそれだけで私はメリーと居られる。そのはずだった。
扉が開いているにも関わらず、私は乗ることが出来なかった。見えない壁がそこにあったのだ。
「ダメよ」
「どうして……ッ!」
私は何度も見えない壁を叩き続ける。それに動じる様子はメリーにはなかった。
「貴女は“こっち”に来ちゃいけない」
電車のドアが閉まる。見えない壁と合わせてこれで二重の扉。こじ開けようとするもどちらも不可能であった。
「……メリー、メリー……!」
ホームに響くほどの声で叫び続ける。だが、メリーは帰ることを告げたあの日と同じように微笑み、同じように「ごめんね」と言うだけだった。
発車を告げるベルが鳴り響き、いよいよ電車が動き始めた。それと同時にメリーが何かを口にする。たった四文字、 「サヨナラ」だった。
「メリィィィィーーーーーーーー!!」
徐々に私達の距離があく。追いつけるわけがない。だけど追いかけられずにはいられなかった。もちろんすぐにホームの端まで到達し、私の足は止まる。一方メリーはどんどんと私から離れて行く。1つ瞬きをする度にその姿は小さくなり、最後には消えていた。まるで本当に幻想の森に消えたかのような、そんなことを思った。
○ ○ ○
メリーが居なくなって2日。
今でもメリーが部室の扉を開けてくるんじゃないかという、希望にも似た想いが私の中にあった。けれどその日メリーが現れることはなかった。彼女の家にも行ってみたが、そこには何も無かった。部屋が空、ということではない。そもそもマンションなど存在していなかった。
メリーが居なくなって3日。
メリーが好きな紅茶をカップに注ぐ。当たり前のように机に並べたもう一つのカップはもちろん彼女のものだ。メリーがここに、いやこの世界に居ないことはもうわかっていた。単に習慣で二人分のカップを出したまで。
メリーが居なくなって1週間。
私は部室と部屋を往復するだけの生き物になっていた。取得単位を考えれば出席が必須な講義もあったのだが、出るという選択肢は私の中にはなかった。唯一出席した講義で、教授が出席を取ったのだが、同じ講義を受講していたマエリベリー・ハーンの名が呼ばれることは最後まで無かった。「マエリベリー・ハーンは?」と今日中に尋ねると、彼は言った。「それは誰ですか?」と。
メリーが居なくなって9日。
今までのメリーとの日々が現実の出来事だったのか、それとも幻だったのか私にはわからなくなっていた。誰も彼女を知らない。どこにも彼女の生きた痕跡がない。ただ秘封倶楽部の部室と私の家にだけ、僅かにそれが残っているばかりだった。
メリーが居なくなって2週間。
私はついに一つのことに気付く。私の家と部室にあったメリーの痕跡がどんどんと消えていたのだ。写真、アクセサリー、お気に入りの本、カップ、万華鏡、小さなチャーム……。目を離すたびに何かがまた消えているんじゃないかと不安だった。ふととあることが思い浮かぶ。それらが全て消えたら最後に消えるのは何なのか。
「私の中のメリーだ」
○ ○ ○
気がつくと私はあの日と同じホームに立っていた。
時刻は夜の11時を回った頃。周囲には誰もおらず、6番線のホームだけが光を灯していた。ベンチに座り、ただ長針と短針が頂点で交わるのを待ち続けた。
今私の手の中にあるのはメリーと撮った写真と彼女が愛用していた万年筆、そして私にくれた不思議な色をしたペンダントだ。もうそれ以外の物は幻想へと消えてしまっていた。指でペンダントに触れ、まだここに“メリー”がいることを何度も確かめ続ける。
私の中からメリーがいなくなるのはきっともうすぐだ。その前に私は電車に乗らねばならないのだ。記憶がなくなれば電車のことも忘れてしまう。そうなればメリーとも二度と会う事は出来なくなる。
あと10分で電車が来るはず。あと10分、まだ10分。早く、早くと願うこととは裏腹に時間の経過を遅く感じる。5分後、到着を待たずに万年筆は消え去った。そして時刻になっても電車が現れることはなかった。
ベンチにから立ちあがった私は祈るような気持ちでメリーの存在証明たる写真を見てみる。……写真からはメリーの姿が消えていた。私の左側にはもう誰もいない。私以外の人間はこれが“空白”と捉えるだろう。だが私にはまだそれを“存在”と思っていた。私の中からいなくなるまでは、私の左側の空間はメリーなのだ。
残されたペンダント。強くそれを握ると硬い感触が返ってくるが、次の瞬間にはそれすらなくなっているかもしれない。それでも消えないでと願い、握ることをやめられなかった。
「まるで聖者の祈りですわね」
誰だと思い、ふと顔をあげると一人の女がいた。あどけなさと、一方で妖艶さを思わせる雰囲気の女性だ。金色の髪が美しい。まるでメリーのそれを見ているかのようだ。
「あなたは……」
「名乗るほどでも」
そう言うと女性は持っていた日傘を私に向けて開き、そしてゆっくりと閉じた。その不思議な動きはまるで夢へと誘うかのようなものだった。
「少しお眠りなさい」
必死にペンダントを握り続けたが、私の意識は遠くなっていった。
● ● ● ● ● ● ● ●
目覚めると、私は駅のホームに居た。
「ここは……!」
「起きましたか?」
私を覗きこむ女性。女性の膝の上に自分の頭があることを理解した。すぐに起き上がり、女性の顔を見つめる。どことなく×××に似ているような気がする。
……あれ、誰に似ているんだろう。すごく大事な人だったはずなのに。
「貴女はここで眠っていたのですよ? 女の子がこんな時間にこんな場所に居たらダメですわ。どこぞにアヤカシの類があるかもしれません」
どうやら私はここで意識を失っていたようだ。でもどうしてこんなところに。ゆっくりと自分の思考を遡ると一つの目的を思い出す。
「……そうだ! 私、電車に乗って友達を追わないといけないんです」
「あら、それは素敵なことですね。ですが、もうこの時間に来る電車はありませんわ。今日は諦めてお家へ帰ったら如何?」
「でも、彼女はこの時間の電車に乗って行ったんです。この時間じゃないと……!」
そう、前はこの時間に電車が来たのだ。だがここで私の思考に1つの障害が生じる。
――“彼女”って誰だっけ。
金の髪に綺麗なブルーの瞳、だった気がする。……でも、そんな人、友達にいたかしら。
「あれ、あれ……? 何で私はココに……?」
気持ち悪い。当たり前のように掴めていたものが雲のように霧散し、消えていく。ついさっきまで私が思っていたことに確信が持てない。ふと“メリー”という単語が頭の中に浮かんだが、そんな名の知り合いはいない。だけど何故こんなにも頭の中に貼り付いているのだろう。
「貴女、大丈夫? 疲れているんじゃないかしら? それとそんなに手を握りこんでいたら跡が残っちゃいますわよ」
女性に言われて初めて自分が右手を強く握りしめていたことに気付く。手の中にある感触を確かめたが、それは自分の手でしかなかった。何かを握っていたような気もするけれど、きっと気のせいだ。何もない。存在しなかった。
「さ、本当にアヤカシに襲われてしまいますよ? お帰りなさいな」
「……ありがとう、ございます」
この人の言う通り、ありもしないことまで考えてしまうほどに、私は疲れているのかもしれない。忠告に従うことにした。
私の心の奥底に、掴めそうで掴めない何かを残したまま、私は家路についた。
○ ○ ○
「さよなら、宇佐見蓮子さん。マエリベリー・ハーンのことは心配しなくてよくてよ」
空に浮かぶ境界の管理者はぽつりと呟き、その身を再び境界の裂け目へと消した。
「あなた、秘封倶楽部に入らない?」
講義室の最前列に居たメリーの背中には周りの人間とは違ったオーラがあった。同じ学部という事もあり、別の講義でもその姿を見かけ、その度に彼女の姿に自然と目を奪われていることに私は気付く。
そしてある日の講義後、困惑する彼女を冒頭の言葉を言ったのち部室へと引っ張っていった。
それ以来、私とメリーはどんな時でも一緒だった。
○ ○ ○
「蓮子、私帰ることになったの」
「帰るって……帰省? こんな時期に?」
「違うわ。大学を辞めるって意味よ」
メリーが何を言っているのか理解できなかった。メリーはいつだって一人で何かを考え、そして行動するものだから、その思考を読みとることが出来ない周りの人間(といっても私くらいなものだろうけど)はメリーの唐突な行動に驚かされるのだ。
そして今回のメリーの告白もまた理解の範疇を超えていた。
「意味分かんない。何だってそんなこと考えたの」
少しだけ棘のある言葉を飛ばす。それに対しメリーは少し俯き、そしてごめんねと言うだけだ。
“なぜ”や“どうして”を聞いても謝るばかりで、核心的なことは何も言ってくれない。ただ、彼女の言葉には、“いつもの”彼女が醸し出すのんびりとした雰囲気が感じられない。それとは真逆の、固い意志の強さがあった。
「どうしても行かないといけないの。……ごめんね」
彼女の能力――結界の境目が見える程度の能力――に関わることなのかと尋ねると、何も言わなかった。代わりに口元をニッと上げて笑う。
そしてもう一度「ごめんね」と言った。
○ ○ ○
メリーが帰ると言ってから2日後。別離の悲哀を感じる間もなく、出立の日がやってきた。
電車の出発時刻は夜の12時。そんな時間に走っている電車はこの地域にはない。メリーは何も言わないけれど、私は薄々感じていた。メリーは帰るのではない。きっと境界の向こう側へと行くのだ、と。
一度だけ“幻想郷”と呼ばれる世界へと二人して迷い込んだことがあった。あの時は必死で周りを見ていられるゆとりはなかったけれど、メリーは落ち着いていた顔をして私を見つめていた。メリーの表情からは、まるで懐かしい景色でも見るかのような余裕すら感じられた。
きっとあの時からずっと考えていたのだろう。“幻想郷”へ行く(帰る)ことを。
メリーの家を出て彼女の後ろに付いて行く。街灯に照らされて出来る私と彼女の影が繋がることはない。いつもは隣り合って歩いていたのに、今はなぜかそれが出来ない。今近づいてもメリーは何も言わないだろう。だからこれは私の要因。彼女がいなくなることを私は認めたくないのだ。
付かず離れずの距離を保ったまま、私たちは駅にたどり着く。ただ駅舎前の電気が点いているだけで、人の気配はない。普通の人間ならば入ることをためらうが、メリーはお構いなしに駅舎に入り、ずんずんと進んでいく。
全部で5番まであるホームのうち、一番端に“創られる”6番線のホームの電気だけが煌々としている。これからメリーが乗る電車は普通の人には姿を見ることすら出来ない、幻の6番線に入線してくるのだ。まだその姿はないが、ホームの電光掲示板にその到着時刻が示されていた。行先は出ておらず、私にはその電車がどこを終着地としているのか、知ることもできない。
「蓮子、覚えてる?」
「何を?」
「秘封倶楽部に入って初めての活動」
明確に覚えていた。メリーにとってもだが、それは私にとっても初めての活動だった。
「森に行ったんだよね、兎の耳が生えた人間が目撃されたからって」
「そう。私を強引に連れて行ってね。で、結局見つけたのは兎の足のチャームだけ」
森を出るころには二人とも砂埃と泥にまみれていた。特にメリーは青を基調としたお嬢様のような服をボロボロにしていた。私が突然連れて行ったものだから服装も準備できなかったからだ。
「それで私んち来て二人で風呂で泥落としたっけ」
「そう。私の純情を奪ったのもあの日」
「……人聞きが悪いじゃないか」
幾分か平時と同じような温度で会話が出来た。
だけどその温度は電車の到着を告げる音により急速に下がって行った。
私と彼女の二人きりの夜の駅。私に背を向け、最終電車へと乗り込む。冬の風が二人の間に吹く。まるで私と彼女を切り裂く刃のように思えてならなかった。
「じゃあ、行くね」
少しだけ振り返って、メリーは僅かながらの別れの言葉を紡いだ。
「……嫌よ」
それに私は応えない。メリーが“こう”すると想像してから私の行動は決まっていた。
電車に向かい、進む。もちろんそれに乗って私も“幻想郷”へと行くためだ。いや、むしろメリーに付いて行く事の方が主目的かもしれない。何にせよ、こうでもしてメリーを欺かないと、きっと彼女は私を乗せようとはしないだろう。
「私も、一緒に……!」
あと一歩。たったそれだけで私はメリーと居られる。そのはずだった。
扉が開いているにも関わらず、私は乗ることが出来なかった。見えない壁がそこにあったのだ。
「ダメよ」
「どうして……ッ!」
私は何度も見えない壁を叩き続ける。それに動じる様子はメリーにはなかった。
「貴女は“こっち”に来ちゃいけない」
電車のドアが閉まる。見えない壁と合わせてこれで二重の扉。こじ開けようとするもどちらも不可能であった。
「……メリー、メリー……!」
ホームに響くほどの声で叫び続ける。だが、メリーは帰ることを告げたあの日と同じように微笑み、同じように「ごめんね」と言うだけだった。
発車を告げるベルが鳴り響き、いよいよ電車が動き始めた。それと同時にメリーが何かを口にする。たった四文字、 「サヨナラ」だった。
「メリィィィィーーーーーーーー!!」
徐々に私達の距離があく。追いつけるわけがない。だけど追いかけられずにはいられなかった。もちろんすぐにホームの端まで到達し、私の足は止まる。一方メリーはどんどんと私から離れて行く。1つ瞬きをする度にその姿は小さくなり、最後には消えていた。まるで本当に幻想の森に消えたかのような、そんなことを思った。
○ ○ ○
メリーが居なくなって2日。
今でもメリーが部室の扉を開けてくるんじゃないかという、希望にも似た想いが私の中にあった。けれどその日メリーが現れることはなかった。彼女の家にも行ってみたが、そこには何も無かった。部屋が空、ということではない。そもそもマンションなど存在していなかった。
メリーが居なくなって3日。
メリーが好きな紅茶をカップに注ぐ。当たり前のように机に並べたもう一つのカップはもちろん彼女のものだ。メリーがここに、いやこの世界に居ないことはもうわかっていた。単に習慣で二人分のカップを出したまで。
メリーが居なくなって1週間。
私は部室と部屋を往復するだけの生き物になっていた。取得単位を考えれば出席が必須な講義もあったのだが、出るという選択肢は私の中にはなかった。唯一出席した講義で、教授が出席を取ったのだが、同じ講義を受講していたマエリベリー・ハーンの名が呼ばれることは最後まで無かった。「マエリベリー・ハーンは?」と今日中に尋ねると、彼は言った。「それは誰ですか?」と。
メリーが居なくなって9日。
今までのメリーとの日々が現実の出来事だったのか、それとも幻だったのか私にはわからなくなっていた。誰も彼女を知らない。どこにも彼女の生きた痕跡がない。ただ秘封倶楽部の部室と私の家にだけ、僅かにそれが残っているばかりだった。
メリーが居なくなって2週間。
私はついに一つのことに気付く。私の家と部室にあったメリーの痕跡がどんどんと消えていたのだ。写真、アクセサリー、お気に入りの本、カップ、万華鏡、小さなチャーム……。目を離すたびに何かがまた消えているんじゃないかと不安だった。ふととあることが思い浮かぶ。それらが全て消えたら最後に消えるのは何なのか。
「私の中のメリーだ」
○ ○ ○
気がつくと私はあの日と同じホームに立っていた。
時刻は夜の11時を回った頃。周囲には誰もおらず、6番線のホームだけが光を灯していた。ベンチに座り、ただ長針と短針が頂点で交わるのを待ち続けた。
今私の手の中にあるのはメリーと撮った写真と彼女が愛用していた万年筆、そして私にくれた不思議な色をしたペンダントだ。もうそれ以外の物は幻想へと消えてしまっていた。指でペンダントに触れ、まだここに“メリー”がいることを何度も確かめ続ける。
私の中からメリーがいなくなるのはきっともうすぐだ。その前に私は電車に乗らねばならないのだ。記憶がなくなれば電車のことも忘れてしまう。そうなればメリーとも二度と会う事は出来なくなる。
あと10分で電車が来るはず。あと10分、まだ10分。早く、早くと願うこととは裏腹に時間の経過を遅く感じる。5分後、到着を待たずに万年筆は消え去った。そして時刻になっても電車が現れることはなかった。
ベンチにから立ちあがった私は祈るような気持ちでメリーの存在証明たる写真を見てみる。……写真からはメリーの姿が消えていた。私の左側にはもう誰もいない。私以外の人間はこれが“空白”と捉えるだろう。だが私にはまだそれを“存在”と思っていた。私の中からいなくなるまでは、私の左側の空間はメリーなのだ。
残されたペンダント。強くそれを握ると硬い感触が返ってくるが、次の瞬間にはそれすらなくなっているかもしれない。それでも消えないでと願い、握ることをやめられなかった。
「まるで聖者の祈りですわね」
誰だと思い、ふと顔をあげると一人の女がいた。あどけなさと、一方で妖艶さを思わせる雰囲気の女性だ。金色の髪が美しい。まるでメリーのそれを見ているかのようだ。
「あなたは……」
「名乗るほどでも」
そう言うと女性は持っていた日傘を私に向けて開き、そしてゆっくりと閉じた。その不思議な動きはまるで夢へと誘うかのようなものだった。
「少しお眠りなさい」
必死にペンダントを握り続けたが、私の意識は遠くなっていった。
● ● ● ● ● ● ● ●
目覚めると、私は駅のホームに居た。
「ここは……!」
「起きましたか?」
私を覗きこむ女性。女性の膝の上に自分の頭があることを理解した。すぐに起き上がり、女性の顔を見つめる。どことなく×××に似ているような気がする。
……あれ、誰に似ているんだろう。すごく大事な人だったはずなのに。
「貴女はここで眠っていたのですよ? 女の子がこんな時間にこんな場所に居たらダメですわ。どこぞにアヤカシの類があるかもしれません」
どうやら私はここで意識を失っていたようだ。でもどうしてこんなところに。ゆっくりと自分の思考を遡ると一つの目的を思い出す。
「……そうだ! 私、電車に乗って友達を追わないといけないんです」
「あら、それは素敵なことですね。ですが、もうこの時間に来る電車はありませんわ。今日は諦めてお家へ帰ったら如何?」
「でも、彼女はこの時間の電車に乗って行ったんです。この時間じゃないと……!」
そう、前はこの時間に電車が来たのだ。だがここで私の思考に1つの障害が生じる。
――“彼女”って誰だっけ。
金の髪に綺麗なブルーの瞳、だった気がする。……でも、そんな人、友達にいたかしら。
「あれ、あれ……? 何で私はココに……?」
気持ち悪い。当たり前のように掴めていたものが雲のように霧散し、消えていく。ついさっきまで私が思っていたことに確信が持てない。ふと“メリー”という単語が頭の中に浮かんだが、そんな名の知り合いはいない。だけど何故こんなにも頭の中に貼り付いているのだろう。
「貴女、大丈夫? 疲れているんじゃないかしら? それとそんなに手を握りこんでいたら跡が残っちゃいますわよ」
女性に言われて初めて自分が右手を強く握りしめていたことに気付く。手の中にある感触を確かめたが、それは自分の手でしかなかった。何かを握っていたような気もするけれど、きっと気のせいだ。何もない。存在しなかった。
「さ、本当にアヤカシに襲われてしまいますよ? お帰りなさいな」
「……ありがとう、ございます」
この人の言う通り、ありもしないことまで考えてしまうほどに、私は疲れているのかもしれない。忠告に従うことにした。
私の心の奥底に、掴めそうで掴めない何かを残したまま、私は家路についた。
○ ○ ○
「さよなら、宇佐見蓮子さん。マエリベリー・ハーンのことは心配しなくてよくてよ」
空に浮かぶ境界の管理者はぽつりと呟き、その身を再び境界の裂け目へと消した。
そして切ない。