事の発端は「罪悪を感じない最悪の害悪」と一部で呼称されている古明地さとりの心無い言葉であった。
春のうららかな早朝である、並木の下で木漏れ日と微笑をこぼしながら私は歩いていた。秋が待ち遠しいと、今年もこの新緑は朱く染まるのだと、穏やかな日差しのせいか、いつもよりも少しばかり上機嫌に。歩きながら木々を見上げていたのだが、暫くすると前方から近付く足音に気付いて視線を前へと戻した。私は人間との関係の友好度においては妖怪や神などの中でもかなり高い方であると自負しているから、特に何か考えることもなく歩み寄った。少しすれば、人影を認識できるくらいの距離になる。向かってきたのは三つの目を持つ覚り妖怪の、姉の方。特に面識があるわけではなかったが、同じ姉である。声をかけておこうと思い、足を速めて明朗に。
「おはよう、地底の妖怪さん」
「……」
華麗にスルーを決められた。古明地さとりは小走りに向かってくる私に気付かなかったようだ、全く前からの足音に耳を傾けていなかったのである。黙々と俯いたまま何やら物思いに耽り、そして横を無表情のまま抜けていく古明地さとり。憤慨した。なんと礼儀の無い妖怪であろうか。いや、妖怪は大抵礼儀のなっていないものであるが、それにしたって無視はないだろうと。引き攣った笑顔で引き返し、古明地さとりを制する。
「ちょっと古明地さとり、待ちなさいよ」
そう言いながら大きく手を広げて進路を邪魔したことにより、古明地さとりはやっとその存在に気付いたようだった。おもむろに顔を上げ、怪訝な顔で見つめられる。睨まれていると言っても概ね差支えない。眉間に皺を寄せて応答してきた。
「……何かしら」
その相手の態度に余計に腹が立ったから、その苛々を、ぶつけた。
「ちょっと貴女。折角同じ姉という肩書を持っている人外が二人ここで邂逅したんだから、無視なんて無粋の極みに甘んじてないでせめて挨拶くらい返したらどうなのよ。それともあれなの、私なんて挨拶するに値しないと言いたいの? 初対面で敵対関係を露わに前面に押し出していくスタイルなの? そんなことだから嫌われるのよ、人間関係への得手不得手とか以前の話よ、これは」
自分でも、うららかな陽気と景観が台無しになる勢いだと思えた。けれど対して古明地さとりは皮肉に、怯むこともなく飄々と。
「……ああ、誰かと思えば紅葉の神……存在感と妖力が薄すぎて気付きませんでした、謝罪しましょう」
一切の罪悪感が、その言葉には含まれていなかったことに気付く。害悪だとは聞いていたけれど、甘く見ていた……と。地底の妖怪は皆相当に性格が捻じ曲がっており、厄介なことに実力も相応するように高く手が付けられないという話も聞いたことがあった。巷で流行りのコミュショーとかいう人種とは程遠く、確かに少し大人しく暗い部分もあるけれど人間関係についてかなり高いパラメータと経験値を持っている。これまでには友好的でない人間もいたのだから、それをフル活用しようと思い直して。視界がはっきりした。最早最初の穏やかなそれとは程遠い、子供が真剣に遊戯に取り組むような姿勢。対して古明地さとりは未だ悪意に満ち満ちていた。むしろこの状況を面白がっている。嫌味を言ったら、笑える弱者がうまく噛みついて来たのだから。何より読心の能力は大きなアドバンテージ。どういたぶってやろうかと、余裕綽々、見下している。私は覚り妖怪ではないけれど、表情からそんなことは至極簡単に読み解くことができた。きっと普通の人間でも易々と解るに違いない。まだ何も始まってはいないが、この時点で二人のボルテージはもう高まっていた。静かに火花を散らして、お互いに微笑しながら、対峙する。
「確かに貴女みたいな強大な存在からすれば取るに足らない力しかないけれど」
因縁をつけて喧嘩を売ったはいいものの、怪としての力の差は歴然であった。しかし幸いなことに、相手が酒飲みの百鬼夜行や白黒の魔法使いなら大怪我を喰らっていただろうが、ただの覚り妖怪である。古明地さとりも素手での戦闘能力は相当に弱いに決まっている。心も読めて肉体も強いなんてそんなチートはあってはならない、物理ならばもしかしたら勝てるかもしれないほどだろう。しかし、とはいえ殴り合いのストリートファイトをするというのは乙女二人の対立を収める手段としては非常によろしくない。だから、相手が余裕で様子を見ているうちに、自分の土俵に引きずり込んで戦いを挑むことが重要だと考えた。
「けれど私は貴女に勝っている――力でも、能でも、技でもなく――姉、として」
「……ほう?」
うまくいった。面白い、という思考が表情と空気に表れる。まともにスペルカード戦なんてしたら空を見る羽目になるだろう。想起「封印装備」だけで楽になれるレベル。先の見える冴えた秋神様だ。だからそんな戦いは挑まない。流れるように傷つけられた自尊心のために雪辱を果たすには、勝負をして勝つ必要があると思ったから突っかかっているのである。負け戦なら意味がない。だからといって、絶対的に勝てるものならば卑怯なうえに意味がない。ならば、お互いに共通した土俵で――そして、私が勝てるであろうもので。姉として。勝つべきだと思った。
「どちらが、より姉としてふさわしい存在か。姉としての価値があるか。それで勝負しなさい」
古明地さとりは不気味に笑った。
「……なるほど。受けて立ちますよ」
私も笑った。
そして、二人同時に自信満々に、言わなかった。
絶対に勝つと。
二人が対立したのは妖怪の山の中腹あたり。先に私の姉としての力を見せるという古明地さとりの提案に対して異存はなかった。二人で山道を歩く。まず妹、穣子を見つけないことにはどうしようもない。だが、その点においては心配なんて微塵も必要なかった。生焼き芋の香りが漂っている。もう少し、風上。特徴的な生焼き芋の香水がこんなところで役に立つとは思わなかった。これなら、遭難してもすぐに助けが来るであろう。姉ならば妹の居場所が簡単にわかるのは当然だと言ったら、曖昧にお茶を濁された。上々の滑り出しである。ともかく。切株に座って何やら歌を口ずさんでいる穣子を見つけて、二人で木陰から眺めた。
「姉として最も重要なのはカリスマ、威厳。妹に尊敬されるのが最高の姉よ」
そう言って、木陰から飛び出した。静葉は突然私が現れたことに少しばかり驚いたようで軽く仰け反ったが、すぐに私だとわかったらしくいつもの調子で話しかけてきた。
「あ、お姉ちゃん。どうしたの、今日は機嫌いいね」
まるで私がいつでもどこでも邪悪なオーラを発しているかのような言い草であった。私は橋姫ではない。
「冬が終わったからね」
穏やかに笑ってみせる。
「秋じゃなきゃ本分は出せない……のは、穣子も同じね。だけれどまあ、こんな日和なら気分も上向きになるってものよ」
「秋が待ち遠しいね、お姉ちゃん」
可愛かった。争っていたのが馬鹿馬鹿しくなりかけていた時、後方から毛虫が飛んできた。驚いて飛び上がる。背中についてしまった、誰だ。正直なところ物凄く怖い。だが、こんなところで虫に怯えていては威厳も何もあったものではない。ぐっと堪えて、振り返る。古明地さとりの妨害かと思っていたら、違った。人里の爛漫な少年が二人。見覚えのある顔ではなかったが、こちらは神であちらはか弱き有象無象。向こうは私を知っているのだろう。子供の無邪気な悪戯心というのは可愛らしいものであるが、被害をここで終わらせるため、なにより妹の前で格好つけるため。彼らに教育的指導を行おうと落ち着き払って歩き出して、
刹那、視界がぐるりと回って暗くなった。地面がすぐそこにある。
転んだ。
人里の少年は呆気にとられた後、数秒して笑い出した。即座に後ろを見たら、穣子も笑っている。これは、完全に、失態である。酷く赤面した。一枚の緑葉が千切れて落ちた。泣いてしまうのはさすがに何とか鉄の意志で抑えて、何事もなかったかのように穣子に別れを告げて背中の毛虫と一緒に木陰へと戻った。古明地さとりが文字通り笑い転げていたので三つめの眼を蹴飛ばしてやったら、そのまま暫く動かなかった。
「痛いでしょう阿呆大御神!」
「アホウノオオミカミ!? なんかそれっぽい仇名をつけるのはやめなさいよ!」
「大倒転命のほうがよかったですか」
「うっさいわね! 落ち葉という落ち葉を貴女の家に送ってあげましょうか!」
古明地さとりが起き上がったのはその半刻ほど後だった。再び顔が赤く染まるのが感じ取れる。もうどうやってこれから生きていきましょうか。もう負けはほぼ決定してしまったではないか。
「なんですか、棄権ですか? 構いませんよ今なら許してあげます」
ナチュラルな上から目線が突き刺さる。誰が棄権なんてするものか。ここで逃げるなんて負けるよりも深い屈辱である。希望はまだ捨てられない。
「貴女が私以上の失態を演じるのを期待しておくわ」
せめてもの強がりのはずだったのだが、そう言ったら古明地さとりは少し動揺した。まさか地霊殿の主である私がそんなことあるわけないじゃないですかと震えた声で言っているがこれはおそらく自信がないのであろう。勢いで戦いを受けてしまったが何らかの理由で実は古明地さとりにかなり不利な戦いであったことが予測される。
「違いますよ妹に問題があるとかそんなことは全くありません、棄権するなら今のうちですよさあ早く」
「わざとやってるようにしか見えないんだけど」
山を下りて、旧地獄街道に入る。酒の臭気が鼻に付く。まだ昼間だというのに鬼たちが酒を飲んでは暴れている、さっきも飛んできた木製の椅子が古明地さとりの後頭部に直撃していた。流石に同情した。慄きながら無法地帯の旧地獄を更に深く潜っていく。少しずつ暑くなってきて、周りには怨霊が目立つように見えた。汗ばむほどである、こんなところに古明地さとりは居を構えているのか。理解できない感性である。まあ、地底の妖怪のことが地上の神に理解できるわけがない。きっと私はこれから地底に来ることはまずないし、気にすることではないだろう。
「さて、着きました」
見えたのは城と形容しても概ね問題はないレベルの大きな住居であった。こんな所に住んでいたのか、この時点で私はこの覚り妖怪にいろんな意味で負けている。悔しい。古明地さとりが私の念を意に介することもなく重そうなドアを開けると、内装もかなりきらびやかな装飾の施されていて不思議な雰囲気が漂っていた。圧倒されるとでも言うのか、もう若干帰りたい。足元にはたくさんの動物がいて、古明地さとりにかなり懐いているように見えた。私にも何匹かの猫が擦り寄って来たが、今は癒されている場合ではないごろごろにゃー。
「いいですか、姉として重要なことは何よりも妹に懐かれることです」
呟きながら廊下を歩く古明地さとりの後をついていく。最初に古明地さとりは自室と思われる部屋のドアを開けた。
古明地さとりの動きが突然止まった。
後ろから覗きこんだら、
古明地さとりと同じように体に三つめの眼を巻き付けた白髪の少女がいた。
壁に死体を何体も立てかけていた。
物凄く臭かった。かなり腐敗が進んでいるようだ、ここは暑いから尚更かもしれない。みるみる顔面蒼白していく古明地さとりの様相はそれなりに面白いものだったが、それどころではない事態が目の前で進行しているので何も言わなかった。
「こ、こいし。一応聞いておきます。何をしているのですか」
それは見る限り心の底からの問いだった。そんなもの心を読めばいいのに、相当慌てているのだと思った。妹と思われるその覚り妖怪がこちらを向いたので、入口の傍で聞き耳を立てることにする。
「あ、お姉ちゃん! えっとね、模様替えかな」
「ホラーハウスに改装する予定はありませんから」
エキセントリックな妹さんだった。自分の番を怖がるのも無理はない。
「ほら、人形と一緒に寝たりするじゃない。似たようなものだよ」
「人型であってもそれは人形じゃないですから」
声しか聞こえないが、古明地さとりが必死なことだけはわかった。というかこの状況は古明地さとりだからこそ至って普通のことのように流しているが、私なら発狂して這いずり回るだろう。
「えー……折角おりんに借りてきたのに……」
「即刻返してきなさい」
扉を開けているからこちらにも臭気が漂ってくるし、この恐ろしい妹はいったい何者なんだろうか。しかし確実に言えるのは、こんな妹を持たなかった私が幸せ者だったということである。恵まれている、こんど穣子になにか美味しいものを食べさせてあげよう。
「……そういえば、この亡骸たち」
古明地さとりの声が低くなった。嫌な予感がする、といった場面での声色だ。何があったのか気になったので扉の隙間からそっと顔を出してみる。満面の笑みを浮かべている妹と、痙攣とも取れるほどに顔を引き攣らせた古明地さとり。そして古明地さとりは、私から見て左側の壁を指差していた。
「……私の服を……着て、いませんか?」
「うんっ! 可愛いから!」
古明地さとりが叫喚した。一匹の黒猫が走って逃げた。耳を劈く絶望の声が鳴ったかと思ったら、そのまま古明地さとりは仰向けに倒れた。泡を吹いているように見えたが、助けることはできなかった。妹がこちらを見ていたから。全力疾走。これまでに見聞してきたホラーよりスプラッタより、遥かに狂気と恐怖に満ち溢れていた。トラウマ確定、暫くは穣子と一緒に寝なくてはいけない。姉としての威厳からは程遠く、私の顔面は涙に塗れているだろう。けれどそんなものは後で拭けばいい。私は、ただあの場所から、あの空気から、離れたかった。我に返った時には妖怪の山の麓だった。辺りには腐乱死体ではなく生きた人間がちらほら見受けられて、胸を撫で下ろす。古明地さとりには悪いことをしたが、しかたない。私だって自分の身の安全が第一だ。勝負は次に会った時でいいから。助かったな感謝しろ。
「お姉ちゃん!」
深呼吸して涙を拭いていると、後ろから声がしたから振り向いた。
走ってくる三つ目の姉妹がいた。
「なんでついてくるんですか!?」
ごもっともだ。そしてそれは私の台詞だ。
「あ、お姉ちゃんだ。どこに行ってたの? 擦りむいてたりしたら駄目だから薬貰ってきて探してたんだよ」
草をかき分けて穣子も現れる。古明地さとりは私の後ろに隠れたのでまた照準が私になるのではないかと恐れたが、その妹は意外にも穣子の横の位置で立ち止まった。古明地さとりも驚いたようで、少しの間様子を見てからゆっくりと私の後ろからずれて背筋を伸ばした。
「……って、こいしちゃん。珍しいね、お姉さんと一緒なんて」
そうか。この妹は名をこいしと言うのか。違うそうじゃない。何故私の妹は覚り妖怪の妹と面識があるんだ。しかもこの口ぶりから察するに幾度となく会っているのだろう、意味が解らない。どんなところに接点があったのか。
「……穣子さん、でしたか。この方は何度かこいしと遊んでくれているようです。うちの妹は神出鬼没、無意識の妖怪ですからおかしくはありません」
「私としては、お姉ちゃんたちの方に面識があったことに驚いてるよ」
妹よ、騙されるな。その幼き白髪は姉の服を腐乱死体に重ねて遊ぶクレイジーサイコシスターだ。関わってはいけない。即刻傍から離れなさい。娘が恋仲の男を連れてくると激怒する父親の気持ちが少しわかった気がする。
「さっき……お姉ちゃんが転ぶ少し前くらいかな。その時にも少しお喋りしてたんだよ」
流れるように傷を抉られた。
「何の話を?」
聞くと、何気ない質問だったはずなのだが語気が荒かったためか穣子はばつが悪そうに頭を掻いた。
「そんなに怒った顔しなくても……」
「あのねー、みのりこのお姉ちゃんと私のお姉ちゃん、どっちがお姉ちゃんかって勝負したの!」
遮るように声を上乗せする古明地こいし。下の名前を呼び捨てにするほど親密なのか、と普段なら全力で殺気を纏い睨みつけているところだが、今回ばかりはそうもいかなそうだ。どういうことなのか。
「……はい?」
古明地さとりも首を傾げている。普通の反応だと思う。私もその断片的な言葉だけでは少しばかり意味が把握できない。
「えっと、こいしちゃんってよくお姉ちゃんの話をしてて……すごい、かわいい、かっこいい……って。だから、私のお姉ちゃんだって負けてないよ! って言ったら、じゃあどっちのお姉ちゃんの方がよりお姉ちゃんらしくお姉ちゃんか、って話に……」
穣子は少し顔を赤らめながら言った。
私達は馬鹿だったことに、ようやく気付いた。
穣子が不思議な目で、古明地こいしが焦点の定まらない眼でこちらを見ている中、私は古明地さとりと、握手をした。勝負なんてもうどうでも良かった。妹に愛されている、その一点だけで十分だった。愚かだったと思ったら、古明地さとりも頷いた。
ちなみにその日の夜のこと。怖いことがあったから一緒に眠りたいと穣子に申し出たら、物凄く微妙な顔をされた。また泣きそうになった。
春のうららかな早朝である、並木の下で木漏れ日と微笑をこぼしながら私は歩いていた。秋が待ち遠しいと、今年もこの新緑は朱く染まるのだと、穏やかな日差しのせいか、いつもよりも少しばかり上機嫌に。歩きながら木々を見上げていたのだが、暫くすると前方から近付く足音に気付いて視線を前へと戻した。私は人間との関係の友好度においては妖怪や神などの中でもかなり高い方であると自負しているから、特に何か考えることもなく歩み寄った。少しすれば、人影を認識できるくらいの距離になる。向かってきたのは三つの目を持つ覚り妖怪の、姉の方。特に面識があるわけではなかったが、同じ姉である。声をかけておこうと思い、足を速めて明朗に。
「おはよう、地底の妖怪さん」
「……」
華麗にスルーを決められた。古明地さとりは小走りに向かってくる私に気付かなかったようだ、全く前からの足音に耳を傾けていなかったのである。黙々と俯いたまま何やら物思いに耽り、そして横を無表情のまま抜けていく古明地さとり。憤慨した。なんと礼儀の無い妖怪であろうか。いや、妖怪は大抵礼儀のなっていないものであるが、それにしたって無視はないだろうと。引き攣った笑顔で引き返し、古明地さとりを制する。
「ちょっと古明地さとり、待ちなさいよ」
そう言いながら大きく手を広げて進路を邪魔したことにより、古明地さとりはやっとその存在に気付いたようだった。おもむろに顔を上げ、怪訝な顔で見つめられる。睨まれていると言っても概ね差支えない。眉間に皺を寄せて応答してきた。
「……何かしら」
その相手の態度に余計に腹が立ったから、その苛々を、ぶつけた。
「ちょっと貴女。折角同じ姉という肩書を持っている人外が二人ここで邂逅したんだから、無視なんて無粋の極みに甘んじてないでせめて挨拶くらい返したらどうなのよ。それともあれなの、私なんて挨拶するに値しないと言いたいの? 初対面で敵対関係を露わに前面に押し出していくスタイルなの? そんなことだから嫌われるのよ、人間関係への得手不得手とか以前の話よ、これは」
自分でも、うららかな陽気と景観が台無しになる勢いだと思えた。けれど対して古明地さとりは皮肉に、怯むこともなく飄々と。
「……ああ、誰かと思えば紅葉の神……存在感と妖力が薄すぎて気付きませんでした、謝罪しましょう」
一切の罪悪感が、その言葉には含まれていなかったことに気付く。害悪だとは聞いていたけれど、甘く見ていた……と。地底の妖怪は皆相当に性格が捻じ曲がっており、厄介なことに実力も相応するように高く手が付けられないという話も聞いたことがあった。巷で流行りのコミュショーとかいう人種とは程遠く、確かに少し大人しく暗い部分もあるけれど人間関係についてかなり高いパラメータと経験値を持っている。これまでには友好的でない人間もいたのだから、それをフル活用しようと思い直して。視界がはっきりした。最早最初の穏やかなそれとは程遠い、子供が真剣に遊戯に取り組むような姿勢。対して古明地さとりは未だ悪意に満ち満ちていた。むしろこの状況を面白がっている。嫌味を言ったら、笑える弱者がうまく噛みついて来たのだから。何より読心の能力は大きなアドバンテージ。どういたぶってやろうかと、余裕綽々、見下している。私は覚り妖怪ではないけれど、表情からそんなことは至極簡単に読み解くことができた。きっと普通の人間でも易々と解るに違いない。まだ何も始まってはいないが、この時点で二人のボルテージはもう高まっていた。静かに火花を散らして、お互いに微笑しながら、対峙する。
「確かに貴女みたいな強大な存在からすれば取るに足らない力しかないけれど」
因縁をつけて喧嘩を売ったはいいものの、怪としての力の差は歴然であった。しかし幸いなことに、相手が酒飲みの百鬼夜行や白黒の魔法使いなら大怪我を喰らっていただろうが、ただの覚り妖怪である。古明地さとりも素手での戦闘能力は相当に弱いに決まっている。心も読めて肉体も強いなんてそんなチートはあってはならない、物理ならばもしかしたら勝てるかもしれないほどだろう。しかし、とはいえ殴り合いのストリートファイトをするというのは乙女二人の対立を収める手段としては非常によろしくない。だから、相手が余裕で様子を見ているうちに、自分の土俵に引きずり込んで戦いを挑むことが重要だと考えた。
「けれど私は貴女に勝っている――力でも、能でも、技でもなく――姉、として」
「……ほう?」
うまくいった。面白い、という思考が表情と空気に表れる。まともにスペルカード戦なんてしたら空を見る羽目になるだろう。想起「封印装備」だけで楽になれるレベル。先の見える冴えた秋神様だ。だからそんな戦いは挑まない。流れるように傷つけられた自尊心のために雪辱を果たすには、勝負をして勝つ必要があると思ったから突っかかっているのである。負け戦なら意味がない。だからといって、絶対的に勝てるものならば卑怯なうえに意味がない。ならば、お互いに共通した土俵で――そして、私が勝てるであろうもので。姉として。勝つべきだと思った。
「どちらが、より姉としてふさわしい存在か。姉としての価値があるか。それで勝負しなさい」
古明地さとりは不気味に笑った。
「……なるほど。受けて立ちますよ」
私も笑った。
そして、二人同時に自信満々に、言わなかった。
絶対に勝つと。
二人が対立したのは妖怪の山の中腹あたり。先に私の姉としての力を見せるという古明地さとりの提案に対して異存はなかった。二人で山道を歩く。まず妹、穣子を見つけないことにはどうしようもない。だが、その点においては心配なんて微塵も必要なかった。生焼き芋の香りが漂っている。もう少し、風上。特徴的な生焼き芋の香水がこんなところで役に立つとは思わなかった。これなら、遭難してもすぐに助けが来るであろう。姉ならば妹の居場所が簡単にわかるのは当然だと言ったら、曖昧にお茶を濁された。上々の滑り出しである。ともかく。切株に座って何やら歌を口ずさんでいる穣子を見つけて、二人で木陰から眺めた。
「姉として最も重要なのはカリスマ、威厳。妹に尊敬されるのが最高の姉よ」
そう言って、木陰から飛び出した。静葉は突然私が現れたことに少しばかり驚いたようで軽く仰け反ったが、すぐに私だとわかったらしくいつもの調子で話しかけてきた。
「あ、お姉ちゃん。どうしたの、今日は機嫌いいね」
まるで私がいつでもどこでも邪悪なオーラを発しているかのような言い草であった。私は橋姫ではない。
「冬が終わったからね」
穏やかに笑ってみせる。
「秋じゃなきゃ本分は出せない……のは、穣子も同じね。だけれどまあ、こんな日和なら気分も上向きになるってものよ」
「秋が待ち遠しいね、お姉ちゃん」
可愛かった。争っていたのが馬鹿馬鹿しくなりかけていた時、後方から毛虫が飛んできた。驚いて飛び上がる。背中についてしまった、誰だ。正直なところ物凄く怖い。だが、こんなところで虫に怯えていては威厳も何もあったものではない。ぐっと堪えて、振り返る。古明地さとりの妨害かと思っていたら、違った。人里の爛漫な少年が二人。見覚えのある顔ではなかったが、こちらは神であちらはか弱き有象無象。向こうは私を知っているのだろう。子供の無邪気な悪戯心というのは可愛らしいものであるが、被害をここで終わらせるため、なにより妹の前で格好つけるため。彼らに教育的指導を行おうと落ち着き払って歩き出して、
刹那、視界がぐるりと回って暗くなった。地面がすぐそこにある。
転んだ。
人里の少年は呆気にとられた後、数秒して笑い出した。即座に後ろを見たら、穣子も笑っている。これは、完全に、失態である。酷く赤面した。一枚の緑葉が千切れて落ちた。泣いてしまうのはさすがに何とか鉄の意志で抑えて、何事もなかったかのように穣子に別れを告げて背中の毛虫と一緒に木陰へと戻った。古明地さとりが文字通り笑い転げていたので三つめの眼を蹴飛ばしてやったら、そのまま暫く動かなかった。
「痛いでしょう阿呆大御神!」
「アホウノオオミカミ!? なんかそれっぽい仇名をつけるのはやめなさいよ!」
「大倒転命のほうがよかったですか」
「うっさいわね! 落ち葉という落ち葉を貴女の家に送ってあげましょうか!」
古明地さとりが起き上がったのはその半刻ほど後だった。再び顔が赤く染まるのが感じ取れる。もうどうやってこれから生きていきましょうか。もう負けはほぼ決定してしまったではないか。
「なんですか、棄権ですか? 構いませんよ今なら許してあげます」
ナチュラルな上から目線が突き刺さる。誰が棄権なんてするものか。ここで逃げるなんて負けるよりも深い屈辱である。希望はまだ捨てられない。
「貴女が私以上の失態を演じるのを期待しておくわ」
せめてもの強がりのはずだったのだが、そう言ったら古明地さとりは少し動揺した。まさか地霊殿の主である私がそんなことあるわけないじゃないですかと震えた声で言っているがこれはおそらく自信がないのであろう。勢いで戦いを受けてしまったが何らかの理由で実は古明地さとりにかなり不利な戦いであったことが予測される。
「違いますよ妹に問題があるとかそんなことは全くありません、棄権するなら今のうちですよさあ早く」
「わざとやってるようにしか見えないんだけど」
山を下りて、旧地獄街道に入る。酒の臭気が鼻に付く。まだ昼間だというのに鬼たちが酒を飲んでは暴れている、さっきも飛んできた木製の椅子が古明地さとりの後頭部に直撃していた。流石に同情した。慄きながら無法地帯の旧地獄を更に深く潜っていく。少しずつ暑くなってきて、周りには怨霊が目立つように見えた。汗ばむほどである、こんなところに古明地さとりは居を構えているのか。理解できない感性である。まあ、地底の妖怪のことが地上の神に理解できるわけがない。きっと私はこれから地底に来ることはまずないし、気にすることではないだろう。
「さて、着きました」
見えたのは城と形容しても概ね問題はないレベルの大きな住居であった。こんな所に住んでいたのか、この時点で私はこの覚り妖怪にいろんな意味で負けている。悔しい。古明地さとりが私の念を意に介することもなく重そうなドアを開けると、内装もかなりきらびやかな装飾の施されていて不思議な雰囲気が漂っていた。圧倒されるとでも言うのか、もう若干帰りたい。足元にはたくさんの動物がいて、古明地さとりにかなり懐いているように見えた。私にも何匹かの猫が擦り寄って来たが、今は癒されている場合ではないごろごろにゃー。
「いいですか、姉として重要なことは何よりも妹に懐かれることです」
呟きながら廊下を歩く古明地さとりの後をついていく。最初に古明地さとりは自室と思われる部屋のドアを開けた。
古明地さとりの動きが突然止まった。
後ろから覗きこんだら、
古明地さとりと同じように体に三つめの眼を巻き付けた白髪の少女がいた。
壁に死体を何体も立てかけていた。
物凄く臭かった。かなり腐敗が進んでいるようだ、ここは暑いから尚更かもしれない。みるみる顔面蒼白していく古明地さとりの様相はそれなりに面白いものだったが、それどころではない事態が目の前で進行しているので何も言わなかった。
「こ、こいし。一応聞いておきます。何をしているのですか」
それは見る限り心の底からの問いだった。そんなもの心を読めばいいのに、相当慌てているのだと思った。妹と思われるその覚り妖怪がこちらを向いたので、入口の傍で聞き耳を立てることにする。
「あ、お姉ちゃん! えっとね、模様替えかな」
「ホラーハウスに改装する予定はありませんから」
エキセントリックな妹さんだった。自分の番を怖がるのも無理はない。
「ほら、人形と一緒に寝たりするじゃない。似たようなものだよ」
「人型であってもそれは人形じゃないですから」
声しか聞こえないが、古明地さとりが必死なことだけはわかった。というかこの状況は古明地さとりだからこそ至って普通のことのように流しているが、私なら発狂して這いずり回るだろう。
「えー……折角おりんに借りてきたのに……」
「即刻返してきなさい」
扉を開けているからこちらにも臭気が漂ってくるし、この恐ろしい妹はいったい何者なんだろうか。しかし確実に言えるのは、こんな妹を持たなかった私が幸せ者だったということである。恵まれている、こんど穣子になにか美味しいものを食べさせてあげよう。
「……そういえば、この亡骸たち」
古明地さとりの声が低くなった。嫌な予感がする、といった場面での声色だ。何があったのか気になったので扉の隙間からそっと顔を出してみる。満面の笑みを浮かべている妹と、痙攣とも取れるほどに顔を引き攣らせた古明地さとり。そして古明地さとりは、私から見て左側の壁を指差していた。
「……私の服を……着て、いませんか?」
「うんっ! 可愛いから!」
古明地さとりが叫喚した。一匹の黒猫が走って逃げた。耳を劈く絶望の声が鳴ったかと思ったら、そのまま古明地さとりは仰向けに倒れた。泡を吹いているように見えたが、助けることはできなかった。妹がこちらを見ていたから。全力疾走。これまでに見聞してきたホラーよりスプラッタより、遥かに狂気と恐怖に満ち溢れていた。トラウマ確定、暫くは穣子と一緒に寝なくてはいけない。姉としての威厳からは程遠く、私の顔面は涙に塗れているだろう。けれどそんなものは後で拭けばいい。私は、ただあの場所から、あの空気から、離れたかった。我に返った時には妖怪の山の麓だった。辺りには腐乱死体ではなく生きた人間がちらほら見受けられて、胸を撫で下ろす。古明地さとりには悪いことをしたが、しかたない。私だって自分の身の安全が第一だ。勝負は次に会った時でいいから。助かったな感謝しろ。
「お姉ちゃん!」
深呼吸して涙を拭いていると、後ろから声がしたから振り向いた。
走ってくる三つ目の姉妹がいた。
「なんでついてくるんですか!?」
ごもっともだ。そしてそれは私の台詞だ。
「あ、お姉ちゃんだ。どこに行ってたの? 擦りむいてたりしたら駄目だから薬貰ってきて探してたんだよ」
草をかき分けて穣子も現れる。古明地さとりは私の後ろに隠れたのでまた照準が私になるのではないかと恐れたが、その妹は意外にも穣子の横の位置で立ち止まった。古明地さとりも驚いたようで、少しの間様子を見てからゆっくりと私の後ろからずれて背筋を伸ばした。
「……って、こいしちゃん。珍しいね、お姉さんと一緒なんて」
そうか。この妹は名をこいしと言うのか。違うそうじゃない。何故私の妹は覚り妖怪の妹と面識があるんだ。しかもこの口ぶりから察するに幾度となく会っているのだろう、意味が解らない。どんなところに接点があったのか。
「……穣子さん、でしたか。この方は何度かこいしと遊んでくれているようです。うちの妹は神出鬼没、無意識の妖怪ですからおかしくはありません」
「私としては、お姉ちゃんたちの方に面識があったことに驚いてるよ」
妹よ、騙されるな。その幼き白髪は姉の服を腐乱死体に重ねて遊ぶクレイジーサイコシスターだ。関わってはいけない。即刻傍から離れなさい。娘が恋仲の男を連れてくると激怒する父親の気持ちが少しわかった気がする。
「さっき……お姉ちゃんが転ぶ少し前くらいかな。その時にも少しお喋りしてたんだよ」
流れるように傷を抉られた。
「何の話を?」
聞くと、何気ない質問だったはずなのだが語気が荒かったためか穣子はばつが悪そうに頭を掻いた。
「そんなに怒った顔しなくても……」
「あのねー、みのりこのお姉ちゃんと私のお姉ちゃん、どっちがお姉ちゃんかって勝負したの!」
遮るように声を上乗せする古明地こいし。下の名前を呼び捨てにするほど親密なのか、と普段なら全力で殺気を纏い睨みつけているところだが、今回ばかりはそうもいかなそうだ。どういうことなのか。
「……はい?」
古明地さとりも首を傾げている。普通の反応だと思う。私もその断片的な言葉だけでは少しばかり意味が把握できない。
「えっと、こいしちゃんってよくお姉ちゃんの話をしてて……すごい、かわいい、かっこいい……って。だから、私のお姉ちゃんだって負けてないよ! って言ったら、じゃあどっちのお姉ちゃんの方がよりお姉ちゃんらしくお姉ちゃんか、って話に……」
穣子は少し顔を赤らめながら言った。
私達は馬鹿だったことに、ようやく気付いた。
穣子が不思議な目で、古明地こいしが焦点の定まらない眼でこちらを見ている中、私は古明地さとりと、握手をした。勝負なんてもうどうでも良かった。妹に愛されている、その一点だけで十分だった。愚かだったと思ったら、古明地さとりも頷いた。
ちなみにその日の夜のこと。怖いことがあったから一緒に眠りたいと穣子に申し出たら、物凄く微妙な顔をされた。また泣きそうになった。
超頑張れ