最初
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十三章 戦の火蓋を切るのなら
第十四章 そこに異常を見たのなら
月面に作られた基地の最前線に凄まじい暴風が吹き起こった。バリアを貫通して届いた風に、銃を撃ち放していた兵士が吹き飛ばされて、背後の壁にぶつかり崩れ落ちて血を吐いた。遠くを見ると岩をくりぬいて作られた粗末な敵陣の上空に、奇っ怪な化け物が空を飛んでいる。少女の姿で背中に翼を生やしている。遺伝子操作によって人間から改造されて作り出された化け物の様だった。地球では遥か昔に禁止されたおぞましい見てくれだ。その異常な姿に、もしも敗北して捕まったらと想像してしまった兵士達が恐怖で震え上がる。
月面にやってきた百五十名の兵士達は各国の軍隊から容姿や能力等で選りすぐられ、三年間月面の戦闘を再現したシミュレータで過酷な訓練を続けてきたエリート中のエリートだ。しかし敵地の奥深くに侵入し多数対多数の白兵戦を行う等、今や地球上のどの正規軍も経験した事が無かった。そんな異常な戦闘が目の前で実際に起こっている。血生臭く勝ち目の見えない戦いを前にした兵士達の心は少しずつ削られていた。
そこに現れた化け物。翼の生えた者、角の生えた者、全身が雲になった者、気味の悪い化け物達がわんさかと平野の向こうに居る。かれこれ一時間。月に来るだけで体力精神共に疲弊した兵士達にとっては、その一時間ですら酷く長く感ぜられた。化け物達は遠くから散発的に攻撃してくるだけで奇妙な程近寄って来ず、未だ重傷者すら出て居ないが、それでも異形達が自分達を見つめ、手を出してくるという恐怖は、時間と共にいや増していた。
その上、景気良く攻撃し防御しろとの命令通り、後先を考えずに機材を使い続けた結果、バリアのエネルギが既に底を尽きかけていた。
「くそ、科学者共は何をやっているんだ」
事戦闘が始まれば、科学者達は後方で敵の解析を行う手筈になっていた。敵を沈黙させられる弱点でも、敵の攻撃を防ぐ方法でも、少しでも有用な情報がもたらされれば、萎え始めた兵士達の気力にも活が戻る。けれどさっきから何度通信をしても科学者からの回答はもう少しあと少しばかりで、全く情報がもたらされない。遂には、下っ端の兵士が直接科学者へ問い詰めに行った始末だ。
その帰還を今か今かと待っていた兵士達の下に、下っ端の兵士が戻ってきた。
「どうだった!」
期待を胸に兵士は問い尋ねたが、その期待はあっさりと打ち砕かれる。
「駄目です! 月の資源だけで常温核融合に成功したとか喜んでばかりで、全く敵の解析をしていません!」
一瞬、兵士は気が遠くなって眩暈に襲われた。
「常温核融合? 敵の解析はやってないのか? 全く?」
「はい! やる気すらなさそうです! 次は珪素重イオンを光速で射出するとかなんとか」
「雁首揃えて何やってんだ!」
「あいつ等、実験の事しか考えてません!」
「ふざけやがって!」
科学者の下へ文句を言いに行こうと怒りも露わにバリケードから飛び出した兵士は、そこかしこを飛び回るカメラを見つけて慌てて立ち止まり笑顔になった。やり辛さを覚えつつ、落ち着いた足取りと笑顔を取り繕いながら歩き出した瞬間、凄まじい閃光が辺りを包んだ。兵士が顔を腕で覆ってからゆっくり目を見開くと、行く先から奇妙な物体がやってくるのが見えた。
例えるなら積み木をめちゃくちゃに組み上げた車の様なそれは、数人の科学者を載せて兵士達の待つ前線へと走ってきた。
「お待たせいたしました」
眼鏡をかけた歳若い科学者がにこやかな笑顔で兵士の前に降り立つ。
「これは?」
「粒子加速器です」
兵士の問いに科学者は簡潔に答えてから、その粒子加速器を見つめて嬉しそうに撫でた。科学者の言っている事が分からず、黙ったまま科学者の事を見つめていると、兵士の視線に気が付いた科学者が再び口を開いた。
「珪素の重イオンを電磁気力で加速し発射する粒子加速器です。全て月の物質で作ったんですよ。洗練された工場ではなく、この過酷な環境下で、月面の岩石や砂、大気といった限られた物質を使って作ったんです。世界初、月面で作られた粒子加速器という快挙、な訳です」
科学者はそう言って兵士の様子を窺った。しかし兵士の未だにちんぷんかんぷんで仕方ないという表情を見て、科学者が更に言葉を重ねる。
「えー、この加速器は確かに地球の物を上回っている訳ではありません。むしろありあわせで作ったのだから劣悪で、既存の加速器よりも遥かに大きい。地球から数台持ってきているのに今更どうしてもう一つ作ったのかという疑問があったらそれはもっともと頷かざるを得ないのですが、一つ大きな売りがありまして、というのもですね、これは粒子を加速し外部に射出する兵器としての一面を持っていますが、その射出の最後に通る管に重力場が散りばめられているのです。六次元で書き表せる泡で重力場を細かく包み散りばめた事で、加速管の中にそれぞれが全く別のベクトルが無数に存在する。これが粒子のエネルギー減衰を防ぐ為の泡に干渉し、結果、発生する放射線を九十九パーセントカットする事に成功したのです」
科学者はそこで区切って兵士の言葉を待った。しかし兵士は宇宙語でも聞いたみたいな顔で沈黙しており、焦れた科学者が不安げに問いかけた。
「駄目ですか?」
その問いに兵士はしばらく黙っていたがやがて言った。
「簡潔に言うと何が出来るんだ?」
「向こうにいる化け物を瞬時に殺せます」
「え?」
「向こうにいる化け物を瞬時に殺せます」
兵士は沈黙して、化け物達の方角を見つめまた顔を戻すと、手を振って辺りのカメラを遠ざけた。
「君、今回の作戦内容覚えている?」
「えーっと」
「都市のすぐ傍に着陸し、集まってきた敵を相手に持ちこたえる事で、本体に目が向かない為の陽動の役割を担うんだったよね?」
「ええ、ええ、勿論覚えておりますとも。ですから持ちこたえられる様な兵器を」
「それから、この作戦はあくまで敵の上層部を叩く事だから、やってきた下っ端の兵士達を一人も殺してはならないって命令は覚えてる?」
「……え、ええ! 勿論です!」
「じゃあ、相手を殺す様な兵器は要らないって分かるよな」
「まあ」
「じゃあ、こんな兵器持ってくんじゃねぇ!」
兵士が怒鳴ると科学者が身を竦ませた。
兵士は怒りが収まらず尚も科学者を怒鳴ろうと息を吸った瞬間、加速器の上から別の科学者の焦った声が聞こえた。
「何で、あいつ生きてるんだ!」
兵士が驚いて加速器の上の科学者を睨む。
「何があった!」
「生きてます! さっき直撃した筈なのに!」
兵士が急いで加速期をよじ登り、科学者の覗くスコープをひったくった。
「どれに当てたんだ!」
「羽の生えた! 扇子を持った! 有色の!」
スコープの倍率を下げて敵陣を見ると、黒色の羽を生やし、団扇を持った、アジア人の少女が空を飛んでいるのが見えた。さっきめちゃくちゃな暴風を巻き起こした化け物だ。
兵士が敵を窺っている間にも、加速器の周りで科学者達が再度発射するべきだと話し合っていた。その話し合いが結論付いたのか、加速器が振動し、高低両極端な二つの騒音が響き出す。
下で科学者達が慌ただしく喚きあっている中、兵士はじっとスコープを覗き敵陣を観察し続けた。もしも本当に当たったのに何ともなかったのなら、防御する装置が働いた筈だ。それが何処にあるのか、息を詰めて探していた兵士はふと眉を釣り上げた。
その瞬間、加速器から粒子が射出され、空を飛ぶ羽の生えた少女へと続く一筋の光となった。
溢れ出た光に目を覆った兵士は、視界が回復すると再びスコープを覗き見た。下に居る科学者が「嘘だろ」と呟くのを聞きながら、未だに空を飛んでいる少女を確認する。どうやらまた防がれたらしい。
加速器の周りの科学者達がにわかに騒ぎ始めた。計測したデータを下に、どうして防がれたのかを解析するらしい。
兵士はスコープを放り投げると科学者達を無視して加速器から飛び降り、前線へと戻った。
敵陣を眺めていて気が付いた事があった。加速器が起動する少し前から、敵陣が慌ただしく動き出していたのだ。その中に、指示を出している紫髪をした少女が居た。間違いなく指揮官だ。その指揮官は加速器から粒子が発射される直前、空を飛ぶ少女に向かって何か叫んでいた。起動する前から敵陣が動き出した事といい、発射される直前に指揮官が叫んだ事といい、こちらの動きが察知されていた。
兵士は陣地に戻ると敵の指揮官を狙う様、スナイパーに指示を出す。兵士の指示に従って敵を探し当てたスナイパーはスコープを覗きこんで息を詰める。
兵士は双眼鏡を覗いて、敵の指揮官を見つめた。いつの間にか屋内に入っているが、窓から微かに体が見えた。可視光から重力波へ視界を切り替える。兵士の覗く双眼鏡の中で指揮官が右往左往している。何をしているのかは分からない。
「頭は撃つな。足の末端を狙え」
殺してはならない。
そう命令されたからには殺せない。けれど傷つけるなとは言われていない。だからまともに指揮出来無い状態に陥らせる。
兵士がそう考えながら、スナイパーが弾丸を発射するのを待っていると、突然敵の指揮官が壁越しにも関わらず、双眼鏡を覗く兵士へ肉眼で顔を向けた。様に思えた。本来ならあり得ない事だ。向こうからこちらは見えない筈なんだから。兵士が驚いて目を見開いた瞬間、爆音と共にスナイパーが弾丸を発射した。弾丸は超音速で飛来し、壁を貫通したが、指揮官に当たる直前に横合いから現れた角の生えた女に掴まれてしまった。
超音速の弾丸を素手で掴む位の事をしてくるのはこの一時間で嫌という程分かっていた。驚いたのはそんな事ではなく、敵の司令官が弾丸を発射する直前にこちらを見た事の方だ。さっきの加速器の時もそうであったが、まるでこちらの攻撃を予測しているかの様だ。
どうしてそんな事が出来たのか分からない。が、敵がこちらの攻撃を察知して軽軽と防ぐのであれば、容易には殺せないという事が分かる。
兵士は立ち上がると、無線を取り出して指示を出した。
「現在の武器の使用レベルは一。それを六まで上げる! だが殺す事は考えるな! あくまで目的は敵をこの基地に近付けない事だ!」
敵が想定以上に殺しづらいのであれば、敵の命を心配せずにより強力な武器を使用出来る。使用する武器が強力になれば、兵士達の間に蔓延していた恐怖も軽減出来るだろう。
減っていた電力が、科学者達の作った常温核融合炉によって賄われたという報告を聞きながら兵士は思う。
端から勝つ気は無い。だがそれ以上に、負ける気は更更無い。
兵士が力強く敵陣を睨んでいると、ふと何か光が瞬いた。
「何だ、あれは」
「回光通信では?」
スナイパーが立ち上がってそう言った。
確かに意識して見ると光の瞬きには規則性があった。もしも敵が光で情報のやり取りを行っているなら、それを解読できれば効果は計り知れない。
兵士は暗号解読を指示する為に無線を手にしたが、スナイパーの言葉で手が止まった。
「あれ、モールス信号ですよね?」
兵士が再び光の瞬きを観察する。
確かにその規則正しい点滅は地球で使っているモールス符合で解読出来た。モールス信号を使う上で絶対に避けては通れない言葉であり、兵士達も良く知るその点滅の仕方は、モールス符合を覚える際に最も初めに覚えるものだ。その分覚え易く単純な形であり、モールス符合で解読出来るからと言って、モールス符合を使っているとは限らない。簡単だという事は、ほかの通信符合と被る可能性が高い。
「あんな短い文じゃ何とも言えないだろう」
「ええ、でも」
試してみる価値はある、か。
「返答してみよう」
兵士は懐から強力なライトを取り出すと、少し考えてから、敵へ向けて点滅させた。
敵の発するSOSへの返答として。
背中の蓮子が苦しげに呻いたので、ちゆりは足を止めた。さっきから蓮子の容態が加速度的に酷くなっていた。
「ちゆりさん、私は大丈夫だから、早く」
蓮子は足を止めたちゆりを先へ促そうとするが、蓮子の息は荒く苦しげだ。ちゆりには蓮子が限界にしか思えなかった。何処かで少し休みを取りたいが、道端で休んで月人に発見されては叶わない。
「あれ?」
どうしようか迷いながら歩いていたちゆりはふと辺りに見覚えがある事に気が付いた。ちゆりは少し考えて、蓮子の指示する道を逸れる。
「あ、そっちじゃないですよ」
蓮子の抗議を無視してしばらく歩くと、やがて目当ての建物が見えた。
一番最初に軟禁されていた御殿だ。軟禁されていた時は警備が甘く、また軟禁する為だけの施設なのか、ちゆりと蓮子以外にはほとんど人が居なかった。ここでなら休めるかもしれないと、門を開けて中を覗きこんでみると、果たして誰の姿も見えなかった。
蓮子を背負ってメリーを連れて、ちゆりは自分達にあてがわれていた部屋に向かう。あそこには布団もあった筈だ。今はもう片付けられてしまったかもしれないけれど。
「ちゆりさん、私は大丈夫です。だから早く羽衣のある建物へ」
「症状は? 吐き気? 頭痛? もしかしたら薬があるかもしれないな」
「ちゆりさん、お願いです。外の音が一層酷くなっている。きっと戦いが激しくなっているんです。早くしないと」
「なら私だけで行くよ。場所を教えてくれればそこへ行って羽衣を盗んでくるぜ。とにかく蓮子ちゃんは休むべきだ」
「でも、私はメリーの為に」
「だから羽衣があれば良いんだろ? それは取ってくるよ」
部屋に辿り着いたちゆりがまだ敷かれている布団を見つけて蓮子を寝かせた。
横たわった蓮子が非難がましい目をちゆりへ向ける。
「でも」
「そんなに私が信用出来無い?」
ちゆりが問うと、蓮子はしばらく黙った後にはっきりと言った。
「出来ません」
冗談で言った言葉を肯定されて、ちゆりは驚き混じりに苦笑する。
「あらら。何で?」
「聞きました。あなた達が昔犯罪者で、学会をふっ飛ばそうとした事があるって。本当ですか?」
ちゆりが口をつぐむ。
すると代わりに隣に座った人影が答えた。
「本当だよ」
蓮子とちゆりとメリーがその人影を見て目を見張った。まるで影がそのまま実体化した様な真っ黒とした人影がちゆりの隣で正座している。それが岡崎の声を発していた。
「教授? ですよね? どうしたんですかその格好?」
「ん?」
影が顔を俯けて自分の体に触れた。
「君も前に使っただろう。あの離れた場所の粒子と自分の感覚を繋げるディスプレイ。あれだよ」
「はあ」
蓮子の曖昧な返事に岡崎は頷きを返して話題を戻した。
「確かに私達は三年前に四次元ポジトロン爆弾で学会発表の会場を吹き飛ばしたよ。むしろ知らなかった事に驚きだね」
「どうしてですか?」
「色色、あったが。単純に言えば、認められたい部分で認められず、認められたくない部分だけを認められていたからかな?」
「そんな自分勝手な。そんな事で四次元ポジトロン爆弾を使おうとしたんですか?」
「使った、だよ。ニュースでは確かに未遂と報道されたが。私が作ったと糾弾するのならそれは私の物なんだろう。だったらそれを使う事に気兼ねする必要は無い」
蓮子は息を荒げながら腕で目を覆う。岡崎の言葉に対する反応ではなく、体調の悪さから来たものだ。容態がどんどん悪化している。
「教授、私は、やっぱり信用出来ません」
「まあ、信用されないのは仕方ないか。当時はテロリストとか呼ばれていたからね。情報工作でもう話題に上がる事は無いけれど」
「教授のやった事が悪いとかそういう事じゃないです」
「ほう」
「教授の行動が理解出来ないからです。今私達にしている事も。教授の実験に付き合わされているだけなんじゃないかって。もしかしたらいきなりメリーを傷つけるんじゃないかって。そう思えてしまうから、私は教授を信用出来ません」
「それは前にも言っていたね」
教授は目を伏せるとちゆりを呼んだ。
「四次元ポジトロン爆弾を見せて上げなさい」
ちゆりは黙ったまま懐から掌大の苺を取り出し、蓮子の前に掲げる。
「これが四次元ポジトロン爆弾?」
受け取った蓮子はまじまじとそれを見つめ、表面を擦って開ける。中身の構造を興味深げに観察する蓮子に岡崎は尋ねた。
「どうだい? 機構は分かったかな?」
「はい。でも」
「待て。本当に分かったのか?」
「はい。元元本で読んで構造は知っていましたし」
「そう、か。そんな簡単に」
「どうしてこんな物をちゆりさんは持っているんですか?」
「もしもの時の為だぜ。今回みたいな事があったら困るだろう?」
蓮子はじっとちゆりを見つめ、影の岡崎を見つめ、手の中の苺に目を戻して小さく呟いた。
「こうなる事が分かっていたんですね」
岡崎やちゆりが何かを言う前に、蓮子は重ねて言った。
「やっぱり信用出来ません」
場が静まる。
遠くから更に激しくなった戦闘の音が聞こえてくる。
重苦しい空気の中、蓮子が荒荒しく息を吐いている。
その時突然近くから破壊音が聞こえた。
岡崎達が音のした方を見る。壁の向こうから何かを引きずる音が聞こえてくる。何か大きなものが部屋に近付いて来る。
ちゆりは息を詰めると、無言で立ち上がり、そっと外を窺った。そしてそこに居る化け物を見て息を飲んだ。
毛の無い巨大な男の顔が廊下の向こうから近付いて来ていた。その首の下には百足の体が繋がっている。目を見張ったちゆりに化け物が叫ぶ。
「あ! あんた月の人? さっきから外から変な音が聞こえてくるけど何なの? 地震? ちゃんと説明してよ!」
猛スピードで化け物が近付いて来る。
ちゆりが悲鳴を上げて部屋の中に飛び込んだ。それを見た影の岡崎が小さく溜息を吐いた。
「どうした、ちゆり。月人か?」
「いや、違うっす。なんつか、あれは、見た事の無い生き物です」
「ほう!」
岡崎が一息に立ち上がって廊下へと飛び出た。
「教授! 危ないんだぜ! 外のは化け物だ」
ちゆりも慌てて後を追う。
岡崎が廊下に飛び出ると目の前に巨大な毛の無い男の顔があった。岡崎が飛び出てきたので、化け物はぶつからない様に慌てて停止する。そして岡崎と顔を合わせ、その真っ黒な影を見て、「化け物!」と悲鳴を上げて後ろに仰け反った。岡崎はそれをじっと観察し、視線を下ろして百足の体を確認すると下らなそうに溜息を吐いた。
「何だ、ただの人間じゃないか」
後から出てきたちゆりが驚いて声を上げる。
「人間? 化け物じゃなくて?」
「化け物? 何か特殊な能力でも持っているのかい?」
「いや、でも姿が」
「はあ?」
岡崎が呆れた声を出した。
そのやり取りを見ていた化け物が興味深げに言った。
「あれ? 何か黒いけど喋ってるって事は人間?」
「勿論。人間以外の何だというのだ」
「分かんないけど」
「意外とまともそうなんだぜ」
「そりゃあ、パワードスーツを着ているだけの人間だからな」
「そうなのか?」
ちゆりが化け物を見ると、化け物は首を横に振った。
「そうなの?」
そこへ部屋の中から蓮子の掠れた声が聞こえてきた。
「文乃さん?」
「蓮子ちゃん?」
その声に反応して、化け物がそろそろと部屋の中を覗き込み、中で寝込んでいる蓮子を見つけて入り口の枠を破壊しながら部屋の中に飛び込んだ。
「蓮子ちゃん! 大丈夫?」
猛スピードで蓮子へ突っ込もうとする化け物を見たメリーは、一瞬驚いた表情をしたが、すぐに立ち上がって男の顔面に体当した。
「あなた、蓮子の何ですか!」
「メリー、違うの、その人は本当は人間で」
化け物も自分の姿で勘違いされたと思い、慌ててメリーを諭す。
「違う違う。人間だよ、元は。平井文乃って言うの! 地球で生まれたけど、何か良く分からないけど、こんな姿になって。でも元は人間で、この前蓮子ちゃんとも話して」
それを遮ってメリーが叫ぶ。
「あなた、蓮子の何なんですか!」
「え?」
何を言っているのか分からないという顔の化け物から、メリーは寝込んだ蓮子へぬらりと振り向いた。顔からは表情が抜け落ちている。
「まさか、現地妻じゃないわよね?」
「は?」
蓮子が何を言っているのか分からないといった目でメリーを見つめ返す。
メリーがしばらく蓮子を見つめていると、化け物が理解した様子で言った。
「友達だよ!」
ぐるりんとメリーの首が文乃へと戻る。視界一杯に映った文乃の鼻に向かって問いかける。
「本当に?」
「本当!」
「嘘じゃない?」
「うん!」
「ああ、びっくりした」
メリーが微笑みを浮かべて文乃から離れる。部屋に入ってきたちゆりがメリーに問うた。
「何にびっくりしたんだぜ?」
「色色です」
メリーが顔を赤らめる。
その後に部屋に入った岡崎は、全員を見渡して力強く言った。
「丁度良い! この文乃君とやらに乗って行こう!」
岡崎に、疑問符を浮かべた全員の視線が集まった。
「幸い文乃君のスーツは大きく、背中に乗って移動出来る。見たところ、馬力は相当の物だと思うから人数は問題無い。蓮子君は背中の上で眠っていれば良いし。どうだい?」
文乃が恐る恐る言った。
「私は別に良いけど。蓮子ちゃん動かして大丈夫?」
岡崎が頭を掻いた。
「まあ、確かに安静にしておきたいが、ここでこうしていても埒が明かない。医者じゃないから、どうすれば治るのかも、安静にしているだけで良いのかも分からないし」
それにと言いながら岡崎が蓮子を見る。
「もしも蓮子君の症状がメリー君と同じく、能力に関わるものであれば、ここでじっとしているよりはその羽衣の所まで行った方が良いだろう」
外から聞こえてくる騒音は更に大きくなっている。しかもどんどん近付いて来ている様な気さえした。月と地球の戦闘がどんな風に繰り広げられているのか、蓮子達には分からない。じっと建物の中に隠れていれば助かるという保証は無い。それに蓮子が二人を信用していない中、お互いがじっと部屋の中に居れば、蓮子の猜疑心は膨らむ事はあれ、萎む事は無いだろう。
「でもでも、多分もうちょっとしたら月の人達が来てくれるよ。いつもご飯くれるから。だからそれを待って治してもらえば」
その文乃の言葉で、この場に留まるという選択肢は完全に無くなった。
ちゆり達は頷き合って文乃を見る。
「文乃君、どうしても外へ行く必要がある。君の背に乗せてくれないか?」
「それは、良いけどさ」
「決まりだ。まずは蓮子君を載せよう」
「蓮子、ちょっと辛いと思うけど」
メリーが蓮子を抱き起こそうとすると、その前に蓮子が自ら身を起こそうとした。と、その動きが止まって、上半身を起こした蓮子から「あ」という声を漏れる。
「どうしたの、蓮子?」
問い尋ねてくるメリーに、蓮子は顔を赤くして首を横に振る。
皆が心配そうに見守ってくる中、蓮子は顔を真赤にしたまま言った。
「ごめん、ちょっとみんな外に出てくれない? ですか?」
「どうしたんだぜ?」
「すみません。とにかく出て下さい」
「でも」
「お願いだから。出てって!」
蓮子の懇願すると、メリーと文乃は心配そうな顔をしながら、ちゆりと岡崎は「やっぱ信用されてないからっすかね」「かもしれん」と話し合いながら、銘銘部屋の外へ出て行った。
一人残された蓮子は全員が外へ出たのを確認すると、急いで布団を跳ね上げた。
何か嫌な気がした。股の中に液体じみた不自然な感触。あり得ない。まさかこの歳になってお漏らしなんて。けれど動けば動く程、その股の間の液体が自己を主張する。蓮子は気が遠くなる気分になりながら、スカートをたくしあげて、パンツを脱いだ。
そこに黒い何かを見つけて、更に気が遠くなり、加えてその周りには赤い染みも混じっているのを見て──蓮子は思考が真っ白になり──
凄まじい悲鳴が辺り一帯に響き渡った。
続き
第十五章 妙なる血を流すなら
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十三章 戦の火蓋を切るのなら
第十四章 そこに異常を見たのなら
月面に作られた基地の最前線に凄まじい暴風が吹き起こった。バリアを貫通して届いた風に、銃を撃ち放していた兵士が吹き飛ばされて、背後の壁にぶつかり崩れ落ちて血を吐いた。遠くを見ると岩をくりぬいて作られた粗末な敵陣の上空に、奇っ怪な化け物が空を飛んでいる。少女の姿で背中に翼を生やしている。遺伝子操作によって人間から改造されて作り出された化け物の様だった。地球では遥か昔に禁止されたおぞましい見てくれだ。その異常な姿に、もしも敗北して捕まったらと想像してしまった兵士達が恐怖で震え上がる。
月面にやってきた百五十名の兵士達は各国の軍隊から容姿や能力等で選りすぐられ、三年間月面の戦闘を再現したシミュレータで過酷な訓練を続けてきたエリート中のエリートだ。しかし敵地の奥深くに侵入し多数対多数の白兵戦を行う等、今や地球上のどの正規軍も経験した事が無かった。そんな異常な戦闘が目の前で実際に起こっている。血生臭く勝ち目の見えない戦いを前にした兵士達の心は少しずつ削られていた。
そこに現れた化け物。翼の生えた者、角の生えた者、全身が雲になった者、気味の悪い化け物達がわんさかと平野の向こうに居る。かれこれ一時間。月に来るだけで体力精神共に疲弊した兵士達にとっては、その一時間ですら酷く長く感ぜられた。化け物達は遠くから散発的に攻撃してくるだけで奇妙な程近寄って来ず、未だ重傷者すら出て居ないが、それでも異形達が自分達を見つめ、手を出してくるという恐怖は、時間と共にいや増していた。
その上、景気良く攻撃し防御しろとの命令通り、後先を考えずに機材を使い続けた結果、バリアのエネルギが既に底を尽きかけていた。
「くそ、科学者共は何をやっているんだ」
事戦闘が始まれば、科学者達は後方で敵の解析を行う手筈になっていた。敵を沈黙させられる弱点でも、敵の攻撃を防ぐ方法でも、少しでも有用な情報がもたらされれば、萎え始めた兵士達の気力にも活が戻る。けれどさっきから何度通信をしても科学者からの回答はもう少しあと少しばかりで、全く情報がもたらされない。遂には、下っ端の兵士が直接科学者へ問い詰めに行った始末だ。
その帰還を今か今かと待っていた兵士達の下に、下っ端の兵士が戻ってきた。
「どうだった!」
期待を胸に兵士は問い尋ねたが、その期待はあっさりと打ち砕かれる。
「駄目です! 月の資源だけで常温核融合に成功したとか喜んでばかりで、全く敵の解析をしていません!」
一瞬、兵士は気が遠くなって眩暈に襲われた。
「常温核融合? 敵の解析はやってないのか? 全く?」
「はい! やる気すらなさそうです! 次は珪素重イオンを光速で射出するとかなんとか」
「雁首揃えて何やってんだ!」
「あいつ等、実験の事しか考えてません!」
「ふざけやがって!」
科学者の下へ文句を言いに行こうと怒りも露わにバリケードから飛び出した兵士は、そこかしこを飛び回るカメラを見つけて慌てて立ち止まり笑顔になった。やり辛さを覚えつつ、落ち着いた足取りと笑顔を取り繕いながら歩き出した瞬間、凄まじい閃光が辺りを包んだ。兵士が顔を腕で覆ってからゆっくり目を見開くと、行く先から奇妙な物体がやってくるのが見えた。
例えるなら積み木をめちゃくちゃに組み上げた車の様なそれは、数人の科学者を載せて兵士達の待つ前線へと走ってきた。
「お待たせいたしました」
眼鏡をかけた歳若い科学者がにこやかな笑顔で兵士の前に降り立つ。
「これは?」
「粒子加速器です」
兵士の問いに科学者は簡潔に答えてから、その粒子加速器を見つめて嬉しそうに撫でた。科学者の言っている事が分からず、黙ったまま科学者の事を見つめていると、兵士の視線に気が付いた科学者が再び口を開いた。
「珪素の重イオンを電磁気力で加速し発射する粒子加速器です。全て月の物質で作ったんですよ。洗練された工場ではなく、この過酷な環境下で、月面の岩石や砂、大気といった限られた物質を使って作ったんです。世界初、月面で作られた粒子加速器という快挙、な訳です」
科学者はそう言って兵士の様子を窺った。しかし兵士の未だにちんぷんかんぷんで仕方ないという表情を見て、科学者が更に言葉を重ねる。
「えー、この加速器は確かに地球の物を上回っている訳ではありません。むしろありあわせで作ったのだから劣悪で、既存の加速器よりも遥かに大きい。地球から数台持ってきているのに今更どうしてもう一つ作ったのかという疑問があったらそれはもっともと頷かざるを得ないのですが、一つ大きな売りがありまして、というのもですね、これは粒子を加速し外部に射出する兵器としての一面を持っていますが、その射出の最後に通る管に重力場が散りばめられているのです。六次元で書き表せる泡で重力場を細かく包み散りばめた事で、加速管の中にそれぞれが全く別のベクトルが無数に存在する。これが粒子のエネルギー減衰を防ぐ為の泡に干渉し、結果、発生する放射線を九十九パーセントカットする事に成功したのです」
科学者はそこで区切って兵士の言葉を待った。しかし兵士は宇宙語でも聞いたみたいな顔で沈黙しており、焦れた科学者が不安げに問いかけた。
「駄目ですか?」
その問いに兵士はしばらく黙っていたがやがて言った。
「簡潔に言うと何が出来るんだ?」
「向こうにいる化け物を瞬時に殺せます」
「え?」
「向こうにいる化け物を瞬時に殺せます」
兵士は沈黙して、化け物達の方角を見つめまた顔を戻すと、手を振って辺りのカメラを遠ざけた。
「君、今回の作戦内容覚えている?」
「えーっと」
「都市のすぐ傍に着陸し、集まってきた敵を相手に持ちこたえる事で、本体に目が向かない為の陽動の役割を担うんだったよね?」
「ええ、ええ、勿論覚えておりますとも。ですから持ちこたえられる様な兵器を」
「それから、この作戦はあくまで敵の上層部を叩く事だから、やってきた下っ端の兵士達を一人も殺してはならないって命令は覚えてる?」
「……え、ええ! 勿論です!」
「じゃあ、相手を殺す様な兵器は要らないって分かるよな」
「まあ」
「じゃあ、こんな兵器持ってくんじゃねぇ!」
兵士が怒鳴ると科学者が身を竦ませた。
兵士は怒りが収まらず尚も科学者を怒鳴ろうと息を吸った瞬間、加速器の上から別の科学者の焦った声が聞こえた。
「何で、あいつ生きてるんだ!」
兵士が驚いて加速器の上の科学者を睨む。
「何があった!」
「生きてます! さっき直撃した筈なのに!」
兵士が急いで加速期をよじ登り、科学者の覗くスコープをひったくった。
「どれに当てたんだ!」
「羽の生えた! 扇子を持った! 有色の!」
スコープの倍率を下げて敵陣を見ると、黒色の羽を生やし、団扇を持った、アジア人の少女が空を飛んでいるのが見えた。さっきめちゃくちゃな暴風を巻き起こした化け物だ。
兵士が敵を窺っている間にも、加速器の周りで科学者達が再度発射するべきだと話し合っていた。その話し合いが結論付いたのか、加速器が振動し、高低両極端な二つの騒音が響き出す。
下で科学者達が慌ただしく喚きあっている中、兵士はじっとスコープを覗き敵陣を観察し続けた。もしも本当に当たったのに何ともなかったのなら、防御する装置が働いた筈だ。それが何処にあるのか、息を詰めて探していた兵士はふと眉を釣り上げた。
その瞬間、加速器から粒子が射出され、空を飛ぶ羽の生えた少女へと続く一筋の光となった。
溢れ出た光に目を覆った兵士は、視界が回復すると再びスコープを覗き見た。下に居る科学者が「嘘だろ」と呟くのを聞きながら、未だに空を飛んでいる少女を確認する。どうやらまた防がれたらしい。
加速器の周りの科学者達がにわかに騒ぎ始めた。計測したデータを下に、どうして防がれたのかを解析するらしい。
兵士はスコープを放り投げると科学者達を無視して加速器から飛び降り、前線へと戻った。
敵陣を眺めていて気が付いた事があった。加速器が起動する少し前から、敵陣が慌ただしく動き出していたのだ。その中に、指示を出している紫髪をした少女が居た。間違いなく指揮官だ。その指揮官は加速器から粒子が発射される直前、空を飛ぶ少女に向かって何か叫んでいた。起動する前から敵陣が動き出した事といい、発射される直前に指揮官が叫んだ事といい、こちらの動きが察知されていた。
兵士は陣地に戻ると敵の指揮官を狙う様、スナイパーに指示を出す。兵士の指示に従って敵を探し当てたスナイパーはスコープを覗きこんで息を詰める。
兵士は双眼鏡を覗いて、敵の指揮官を見つめた。いつの間にか屋内に入っているが、窓から微かに体が見えた。可視光から重力波へ視界を切り替える。兵士の覗く双眼鏡の中で指揮官が右往左往している。何をしているのかは分からない。
「頭は撃つな。足の末端を狙え」
殺してはならない。
そう命令されたからには殺せない。けれど傷つけるなとは言われていない。だからまともに指揮出来無い状態に陥らせる。
兵士がそう考えながら、スナイパーが弾丸を発射するのを待っていると、突然敵の指揮官が壁越しにも関わらず、双眼鏡を覗く兵士へ肉眼で顔を向けた。様に思えた。本来ならあり得ない事だ。向こうからこちらは見えない筈なんだから。兵士が驚いて目を見開いた瞬間、爆音と共にスナイパーが弾丸を発射した。弾丸は超音速で飛来し、壁を貫通したが、指揮官に当たる直前に横合いから現れた角の生えた女に掴まれてしまった。
超音速の弾丸を素手で掴む位の事をしてくるのはこの一時間で嫌という程分かっていた。驚いたのはそんな事ではなく、敵の司令官が弾丸を発射する直前にこちらを見た事の方だ。さっきの加速器の時もそうであったが、まるでこちらの攻撃を予測しているかの様だ。
どうしてそんな事が出来たのか分からない。が、敵がこちらの攻撃を察知して軽軽と防ぐのであれば、容易には殺せないという事が分かる。
兵士は立ち上がると、無線を取り出して指示を出した。
「現在の武器の使用レベルは一。それを六まで上げる! だが殺す事は考えるな! あくまで目的は敵をこの基地に近付けない事だ!」
敵が想定以上に殺しづらいのであれば、敵の命を心配せずにより強力な武器を使用出来る。使用する武器が強力になれば、兵士達の間に蔓延していた恐怖も軽減出来るだろう。
減っていた電力が、科学者達の作った常温核融合炉によって賄われたという報告を聞きながら兵士は思う。
端から勝つ気は無い。だがそれ以上に、負ける気は更更無い。
兵士が力強く敵陣を睨んでいると、ふと何か光が瞬いた。
「何だ、あれは」
「回光通信では?」
スナイパーが立ち上がってそう言った。
確かに意識して見ると光の瞬きには規則性があった。もしも敵が光で情報のやり取りを行っているなら、それを解読できれば効果は計り知れない。
兵士は暗号解読を指示する為に無線を手にしたが、スナイパーの言葉で手が止まった。
「あれ、モールス信号ですよね?」
兵士が再び光の瞬きを観察する。
確かにその規則正しい点滅は地球で使っているモールス符合で解読出来た。モールス信号を使う上で絶対に避けては通れない言葉であり、兵士達も良く知るその点滅の仕方は、モールス符合を覚える際に最も初めに覚えるものだ。その分覚え易く単純な形であり、モールス符合で解読出来るからと言って、モールス符合を使っているとは限らない。簡単だという事は、ほかの通信符合と被る可能性が高い。
「あんな短い文じゃ何とも言えないだろう」
「ええ、でも」
試してみる価値はある、か。
「返答してみよう」
兵士は懐から強力なライトを取り出すと、少し考えてから、敵へ向けて点滅させた。
敵の発するSOSへの返答として。
背中の蓮子が苦しげに呻いたので、ちゆりは足を止めた。さっきから蓮子の容態が加速度的に酷くなっていた。
「ちゆりさん、私は大丈夫だから、早く」
蓮子は足を止めたちゆりを先へ促そうとするが、蓮子の息は荒く苦しげだ。ちゆりには蓮子が限界にしか思えなかった。何処かで少し休みを取りたいが、道端で休んで月人に発見されては叶わない。
「あれ?」
どうしようか迷いながら歩いていたちゆりはふと辺りに見覚えがある事に気が付いた。ちゆりは少し考えて、蓮子の指示する道を逸れる。
「あ、そっちじゃないですよ」
蓮子の抗議を無視してしばらく歩くと、やがて目当ての建物が見えた。
一番最初に軟禁されていた御殿だ。軟禁されていた時は警備が甘く、また軟禁する為だけの施設なのか、ちゆりと蓮子以外にはほとんど人が居なかった。ここでなら休めるかもしれないと、門を開けて中を覗きこんでみると、果たして誰の姿も見えなかった。
蓮子を背負ってメリーを連れて、ちゆりは自分達にあてがわれていた部屋に向かう。あそこには布団もあった筈だ。今はもう片付けられてしまったかもしれないけれど。
「ちゆりさん、私は大丈夫です。だから早く羽衣のある建物へ」
「症状は? 吐き気? 頭痛? もしかしたら薬があるかもしれないな」
「ちゆりさん、お願いです。外の音が一層酷くなっている。きっと戦いが激しくなっているんです。早くしないと」
「なら私だけで行くよ。場所を教えてくれればそこへ行って羽衣を盗んでくるぜ。とにかく蓮子ちゃんは休むべきだ」
「でも、私はメリーの為に」
「だから羽衣があれば良いんだろ? それは取ってくるよ」
部屋に辿り着いたちゆりがまだ敷かれている布団を見つけて蓮子を寝かせた。
横たわった蓮子が非難がましい目をちゆりへ向ける。
「でも」
「そんなに私が信用出来無い?」
ちゆりが問うと、蓮子はしばらく黙った後にはっきりと言った。
「出来ません」
冗談で言った言葉を肯定されて、ちゆりは驚き混じりに苦笑する。
「あらら。何で?」
「聞きました。あなた達が昔犯罪者で、学会をふっ飛ばそうとした事があるって。本当ですか?」
ちゆりが口をつぐむ。
すると代わりに隣に座った人影が答えた。
「本当だよ」
蓮子とちゆりとメリーがその人影を見て目を見張った。まるで影がそのまま実体化した様な真っ黒とした人影がちゆりの隣で正座している。それが岡崎の声を発していた。
「教授? ですよね? どうしたんですかその格好?」
「ん?」
影が顔を俯けて自分の体に触れた。
「君も前に使っただろう。あの離れた場所の粒子と自分の感覚を繋げるディスプレイ。あれだよ」
「はあ」
蓮子の曖昧な返事に岡崎は頷きを返して話題を戻した。
「確かに私達は三年前に四次元ポジトロン爆弾で学会発表の会場を吹き飛ばしたよ。むしろ知らなかった事に驚きだね」
「どうしてですか?」
「色色、あったが。単純に言えば、認められたい部分で認められず、認められたくない部分だけを認められていたからかな?」
「そんな自分勝手な。そんな事で四次元ポジトロン爆弾を使おうとしたんですか?」
「使った、だよ。ニュースでは確かに未遂と報道されたが。私が作ったと糾弾するのならそれは私の物なんだろう。だったらそれを使う事に気兼ねする必要は無い」
蓮子は息を荒げながら腕で目を覆う。岡崎の言葉に対する反応ではなく、体調の悪さから来たものだ。容態がどんどん悪化している。
「教授、私は、やっぱり信用出来ません」
「まあ、信用されないのは仕方ないか。当時はテロリストとか呼ばれていたからね。情報工作でもう話題に上がる事は無いけれど」
「教授のやった事が悪いとかそういう事じゃないです」
「ほう」
「教授の行動が理解出来ないからです。今私達にしている事も。教授の実験に付き合わされているだけなんじゃないかって。もしかしたらいきなりメリーを傷つけるんじゃないかって。そう思えてしまうから、私は教授を信用出来ません」
「それは前にも言っていたね」
教授は目を伏せるとちゆりを呼んだ。
「四次元ポジトロン爆弾を見せて上げなさい」
ちゆりは黙ったまま懐から掌大の苺を取り出し、蓮子の前に掲げる。
「これが四次元ポジトロン爆弾?」
受け取った蓮子はまじまじとそれを見つめ、表面を擦って開ける。中身の構造を興味深げに観察する蓮子に岡崎は尋ねた。
「どうだい? 機構は分かったかな?」
「はい。でも」
「待て。本当に分かったのか?」
「はい。元元本で読んで構造は知っていましたし」
「そう、か。そんな簡単に」
「どうしてこんな物をちゆりさんは持っているんですか?」
「もしもの時の為だぜ。今回みたいな事があったら困るだろう?」
蓮子はじっとちゆりを見つめ、影の岡崎を見つめ、手の中の苺に目を戻して小さく呟いた。
「こうなる事が分かっていたんですね」
岡崎やちゆりが何かを言う前に、蓮子は重ねて言った。
「やっぱり信用出来ません」
場が静まる。
遠くから更に激しくなった戦闘の音が聞こえてくる。
重苦しい空気の中、蓮子が荒荒しく息を吐いている。
その時突然近くから破壊音が聞こえた。
岡崎達が音のした方を見る。壁の向こうから何かを引きずる音が聞こえてくる。何か大きなものが部屋に近付いて来る。
ちゆりは息を詰めると、無言で立ち上がり、そっと外を窺った。そしてそこに居る化け物を見て息を飲んだ。
毛の無い巨大な男の顔が廊下の向こうから近付いて来ていた。その首の下には百足の体が繋がっている。目を見張ったちゆりに化け物が叫ぶ。
「あ! あんた月の人? さっきから外から変な音が聞こえてくるけど何なの? 地震? ちゃんと説明してよ!」
猛スピードで化け物が近付いて来る。
ちゆりが悲鳴を上げて部屋の中に飛び込んだ。それを見た影の岡崎が小さく溜息を吐いた。
「どうした、ちゆり。月人か?」
「いや、違うっす。なんつか、あれは、見た事の無い生き物です」
「ほう!」
岡崎が一息に立ち上がって廊下へと飛び出た。
「教授! 危ないんだぜ! 外のは化け物だ」
ちゆりも慌てて後を追う。
岡崎が廊下に飛び出ると目の前に巨大な毛の無い男の顔があった。岡崎が飛び出てきたので、化け物はぶつからない様に慌てて停止する。そして岡崎と顔を合わせ、その真っ黒な影を見て、「化け物!」と悲鳴を上げて後ろに仰け反った。岡崎はそれをじっと観察し、視線を下ろして百足の体を確認すると下らなそうに溜息を吐いた。
「何だ、ただの人間じゃないか」
後から出てきたちゆりが驚いて声を上げる。
「人間? 化け物じゃなくて?」
「化け物? 何か特殊な能力でも持っているのかい?」
「いや、でも姿が」
「はあ?」
岡崎が呆れた声を出した。
そのやり取りを見ていた化け物が興味深げに言った。
「あれ? 何か黒いけど喋ってるって事は人間?」
「勿論。人間以外の何だというのだ」
「分かんないけど」
「意外とまともそうなんだぜ」
「そりゃあ、パワードスーツを着ているだけの人間だからな」
「そうなのか?」
ちゆりが化け物を見ると、化け物は首を横に振った。
「そうなの?」
そこへ部屋の中から蓮子の掠れた声が聞こえてきた。
「文乃さん?」
「蓮子ちゃん?」
その声に反応して、化け物がそろそろと部屋の中を覗き込み、中で寝込んでいる蓮子を見つけて入り口の枠を破壊しながら部屋の中に飛び込んだ。
「蓮子ちゃん! 大丈夫?」
猛スピードで蓮子へ突っ込もうとする化け物を見たメリーは、一瞬驚いた表情をしたが、すぐに立ち上がって男の顔面に体当した。
「あなた、蓮子の何ですか!」
「メリー、違うの、その人は本当は人間で」
化け物も自分の姿で勘違いされたと思い、慌ててメリーを諭す。
「違う違う。人間だよ、元は。平井文乃って言うの! 地球で生まれたけど、何か良く分からないけど、こんな姿になって。でも元は人間で、この前蓮子ちゃんとも話して」
それを遮ってメリーが叫ぶ。
「あなた、蓮子の何なんですか!」
「え?」
何を言っているのか分からないという顔の化け物から、メリーは寝込んだ蓮子へぬらりと振り向いた。顔からは表情が抜け落ちている。
「まさか、現地妻じゃないわよね?」
「は?」
蓮子が何を言っているのか分からないといった目でメリーを見つめ返す。
メリーがしばらく蓮子を見つめていると、化け物が理解した様子で言った。
「友達だよ!」
ぐるりんとメリーの首が文乃へと戻る。視界一杯に映った文乃の鼻に向かって問いかける。
「本当に?」
「本当!」
「嘘じゃない?」
「うん!」
「ああ、びっくりした」
メリーが微笑みを浮かべて文乃から離れる。部屋に入ってきたちゆりがメリーに問うた。
「何にびっくりしたんだぜ?」
「色色です」
メリーが顔を赤らめる。
その後に部屋に入った岡崎は、全員を見渡して力強く言った。
「丁度良い! この文乃君とやらに乗って行こう!」
岡崎に、疑問符を浮かべた全員の視線が集まった。
「幸い文乃君のスーツは大きく、背中に乗って移動出来る。見たところ、馬力は相当の物だと思うから人数は問題無い。蓮子君は背中の上で眠っていれば良いし。どうだい?」
文乃が恐る恐る言った。
「私は別に良いけど。蓮子ちゃん動かして大丈夫?」
岡崎が頭を掻いた。
「まあ、確かに安静にしておきたいが、ここでこうしていても埒が明かない。医者じゃないから、どうすれば治るのかも、安静にしているだけで良いのかも分からないし」
それにと言いながら岡崎が蓮子を見る。
「もしも蓮子君の症状がメリー君と同じく、能力に関わるものであれば、ここでじっとしているよりはその羽衣の所まで行った方が良いだろう」
外から聞こえてくる騒音は更に大きくなっている。しかもどんどん近付いて来ている様な気さえした。月と地球の戦闘がどんな風に繰り広げられているのか、蓮子達には分からない。じっと建物の中に隠れていれば助かるという保証は無い。それに蓮子が二人を信用していない中、お互いがじっと部屋の中に居れば、蓮子の猜疑心は膨らむ事はあれ、萎む事は無いだろう。
「でもでも、多分もうちょっとしたら月の人達が来てくれるよ。いつもご飯くれるから。だからそれを待って治してもらえば」
その文乃の言葉で、この場に留まるという選択肢は完全に無くなった。
ちゆり達は頷き合って文乃を見る。
「文乃君、どうしても外へ行く必要がある。君の背に乗せてくれないか?」
「それは、良いけどさ」
「決まりだ。まずは蓮子君を載せよう」
「蓮子、ちょっと辛いと思うけど」
メリーが蓮子を抱き起こそうとすると、その前に蓮子が自ら身を起こそうとした。と、その動きが止まって、上半身を起こした蓮子から「あ」という声を漏れる。
「どうしたの、蓮子?」
問い尋ねてくるメリーに、蓮子は顔を赤くして首を横に振る。
皆が心配そうに見守ってくる中、蓮子は顔を真赤にしたまま言った。
「ごめん、ちょっとみんな外に出てくれない? ですか?」
「どうしたんだぜ?」
「すみません。とにかく出て下さい」
「でも」
「お願いだから。出てって!」
蓮子の懇願すると、メリーと文乃は心配そうな顔をしながら、ちゆりと岡崎は「やっぱ信用されてないからっすかね」「かもしれん」と話し合いながら、銘銘部屋の外へ出て行った。
一人残された蓮子は全員が外へ出たのを確認すると、急いで布団を跳ね上げた。
何か嫌な気がした。股の中に液体じみた不自然な感触。あり得ない。まさかこの歳になってお漏らしなんて。けれど動けば動く程、その股の間の液体が自己を主張する。蓮子は気が遠くなる気分になりながら、スカートをたくしあげて、パンツを脱いだ。
そこに黒い何かを見つけて、更に気が遠くなり、加えてその周りには赤い染みも混じっているのを見て──蓮子は思考が真っ白になり──
凄まじい悲鳴が辺り一帯に響き渡った。
続き
第十五章 妙なる血を流すなら
モブキャラが良いキャラしてて良い感じです。そんな外の修羅場を一顧だにせず、女の子な問題に四苦八苦する蓮子とメリーもブレません。つか幻想郷勢ナチュラルに引っ掻き回してます。
科学力が魔法化した世界観が出ていて素敵です
というか純粋に新鮮ですね
文乃久しぶりー