咲夜が眼鏡をかけた。
細い銀色のフレームに楕円のレンズのかわいいやつ。そこら中に転がり落ちていそうなくらいにありきたりで当たり障りのないデザインだが、けれどそんなシンプルさが逆に良いのだろう、それは素晴らしく咲夜に似合った。
いや、訂正。いささか似合い過ぎてしまった。
ご存じの通りこのだだっ広い世界にはそりゃもう山ほどの人間がいる。そしてその一人ひとりが自分の中にも小さな世界を持っている。それはもこもこの可愛らしいものであったり、きらきらと眩しいくらいに輝いていたりするのだけど、大抵の場合は薄暗くてちょっぴり湿っているような、とてもひと様にはお見せできないものばかり。誰かに覗かれたりしたものなら恥ずかしさで悶絶すること必死であろう自分だけの世界を、誰もがこっそり胸の内に秘めているものなのだ。
憧れのあの人も頭の中じゃあ一体なにを考えているのやら。もしかしたら、いや、もしかせずとも、聞くもあわれなとんでもない趣味趣向で日夜妄想に耽っているに違いない。
とまあ前置きはこれくらいにして。つまるところ私が言いたいことは、例えどんなに素敵なひとであろうとも、決してひと様に見せびらかして誇ることなどできやしない秘密のひとつやふたつ密かに持っているのだよ、ということである。
そんなわけで私は眼鏡フェチだ。
***
「なるほど話はわかったわ。妹様はちょっぴり変態なのね」
「め、眼鏡はまだセーフでしょ」
「私が言っているのはわざわざ自分の性癖を恥ずかしげにカミングアウトするあなたのマゾヒズムについてよ」
「ぴ」変な声でた。
「まあ、それほどまでに追い詰められたってことかしらね」
そうなのだ。実はあんまり咲夜の眼鏡姿がストライク過ぎて、ここのところ私は彼女と目を合わせることは勿論、声をかけることすらできないというとんでも状態に陥っていた。
それなら咲夜に一言、「眼鏡外して」と言えばいいじゃないかと呆れられる方もいるだろう。うん、まったくもってその通りである。その通りであるのだが、そんなことで済むなら人間(じゃないけど)苦労はしないのだ。
自分自身内心呆れながらも、それでもどうにかして眼鏡をかけたままの彼女とコミュニケーションを取りたいと思ってしまうのが、このフェティシズムを持って生まれた者の性である。
「でもコミュ障を誘発する眼鏡っぷりってなにそれどんだけハイスペックなの咲夜」
「たぶん一部のひと限定だけどね」
情けなさから私はちいさく笑った。
「だってパチュリーも別に平気でしょ」
現にお姉様や屋敷のメイドたちはみんな至って普通にあの眼鏡咲夜と接している。そればかりか「え、なにそれイメチェン? かわいいね」なんて言っちゃってるやつまでいる始末。なんだそれ羨ましい! 私も咲夜のこと褒めたいのにというか写真撮りたいわ撮らせろ! とひとり物陰に隠れて聞き耳立てながら悶々としているやつなど私くらいのものなのだ。
「さあ、どうかしらね。咲夜見てないし」
「ほわい?」
「だって本読んでるから」
ああ、と私は納得した。そうだった。このひとはいついかなる時でも本を手放すことはないのだ。それこそ私が必死の思いで相談している今この時も活字から一瞬たりとも目を離さない程度には。これじゃあ咲夜を見ているわけがない。
……ん、咲夜を見ていない?
その時、私の中で突如としてひとつの感情が湧き起こった。そいつはまるで入道雲のようにむくむくと膨らむと、瞬く間に私の喉を駆け上がり、理性が静止をかけるよりも早くあっという間に舌の上へと登り詰め、その勢いのままポップコーンよろしく弾けるように私の口から飛び出したのだった。
「もったいない! もったいないよパチュリー!」
私は叫んだ。ここ半世紀で一番の咆哮であった。
「あの咲夜をまだ見てないなんてあなたは自分がどれだけ損をしているかわかっているの!? この紅魔館において眼鏡咲夜を拝まないということは、アメリカでハンバーガーを食べないようなものなんだよ!?」
「私ベジタリアンだし」
「屁理屈はいいの!」
私は思わず机を叩いた。
そこで初めてパチュリーは本から目を逸らしてちらりと私をうかがった。
興奮していつの間にか椅子から立ち上がっていた私を見上げるその顔は「はあ? なに急にキレてんのかしら。これだから<ピー>は」とでも言いたいように見えたが、その程度のことでくじける私ではない。例え長年の引きこもり生活で養ったうずらのようなメンタルがみちみちと嫌な音を立てていたとしてもここで引いてはならない。私には、いや私だからこそ眼鏡咲夜の魅力を伝えなくてはならないのだ。と、強い意志に反してガクプル震える両膝。
「と、とにかく一度あの咲夜を見てよ。そしたらもしかして私の悩みがパチュリーにもわかるかもしれないし……」
ぼそぼそと言い終えて静かに席に着く。
暫しの沈黙の後、俯いた私の耳に「ふぅ」と盛大なため息が刺さり、それから本が閉じられる音がした。
「わかったわ。悩みを打ち明けられといてちゃんと向き合わなかった私も悪かったし」
「パチュリー……!」
「などとそういえば居候させてもらっている身分だったとふと思い出してここはひとつ屋敷の主の妹に恩を売っておいても損はないなと内心密かに目論むパチュリーであった」
「だだ漏れだ!」
「よっこいしょ」となんだか年寄りくさいセリフと共にパチュリーは異様に分厚い自伝『鳩麦畑で捕まった』を隅の方へとよけると、ひらけた机の上で「ぽふ」と掌を合わせた。そうしてなにやらぼそぼそと二言三言呟くと、重なった手の隙間から淡い青色の光が漏れだした。
コピー機のようだな、と至極どうでもいいことを私は思った。それから確かあの光はオゾンかなにかであまり体によろしくなかったはずだと思いだし、服の袖で口と鼻を覆った。
なぜ私がこの時こんなあほらしい思考に至り、尚且つこんなあほらしい行動をおこしたのかは今となっては謎である。魔法とは実に不思議なものだ。
パチュリーが静かに掌を開くと、そこには透明な水晶があった。占い師が持ち歩いているようなあんなやつを想像してもらえれば間違いない。
「なにその『ああ、それね』って顔」
「いやいやごめん、あまりにその、ね」
「まあ、いいわ」とパチュリーはいつものように眠たげな瞳でさもなんでもないように呟いた。
「さて、話題の眼鏡美少女はどこかしらね」
***
紅魔館は無駄に広い。そりゃもううんざりするほどに。
増築に増築を繰り返したあげくもはやカオスといって遜色ない館の全貌は、半引きこもりの私は勿論、屋敷の主であるお姉様ですら把握しきれていないだろう。当然のごとくパチュリーもその例に漏れず、水晶による眼鏡咲夜捜索作業は困難を極めた。
どことなく犯罪臭いことに気付きながらも、この盗撮まがいの行為を止めることができないあたり、やはり私は眼鏡フェチという名の悲しき宿命を背負う者だった。
現物と向き合うことはできなくとも、水晶越しの姿ならば思う存分堪能できるのではないだろうかという下心が、我が事ながら情けない。
図書館司書兼小悪魔さんが淹れてくれた紅茶をじっくり三杯味わった頃だった。もはやどことわからない、日本庭園風の箱庭でせっせと掃き掃除に勤しむ咲夜を見つけたのは。
「み、見つけた!」
「鳥居まであるわよ。なにこれ不思議」
「ちょ、ぽっと出のなんちゃって日本庭園なんぞに興味もたないで目的のものに集中してよ!」
「金持ちってなんでこうわけのわかんないことするのかしら。特に、ろくに働いたこともないボンボンの金遣いには吐き気すら覚えるわ」
「……なんかものすごい気まずいんですが」
まるでごみ屑を見下ろすような瞳をしたパチュリーを前に、椅子の上で私はちいさくなった。拝啓、お姉様。あなたの思い付きとその行動力のせいで私は今とても肩身の狭い想いをしております。ついては以前楽しげにお話になられていた紅魔館スペースセンターの建設の件につきましてなにとぞ再検討のほどよろしくお願いいたします。敬具。
「でもここからじゃよく見えないわね。ちょっと危ないかもしれないけど正面に回り込むわ」
「あぶない?」と思わず繰り返す私。「だってこれってば魔法でしょ」危ないもなにもないだろうに。
そう言った私に向けられるあの瞳。やばいちょっとトラウマになるよこれ。
「妹様は魔法をなんだと思っているのかしら」パチュリーが言った。「まさか非現実的でご都合主義満載の主人公特性かなにかとでも?」
結論からいえば「イエス」なのだが、ここで素直に頷いてしまうほど私は正直者でも馬鹿でもなかった。こういう場合は黙秘に限る。曖昧な笑みを浮かべながらただただ「時間よ早く過ぎろ」と願うことのみが、圧倒的な力の前で唯一私たちがとれる手段であるとは、紅魔の眠れる門番、紅美鈴が言葉である。悲しいかな。彼女が言うと説得力がある。
「この世界で存在する限り万物はこの世界の仕組みに従わなくてはならないわ。水は下へと流れるし、火のないところに煙は立たない」
つまり、とパチュリーは続ける。
「私たちはいま空飛ぶ温泉まんじゅうを介してこの映像を見ている」
「そ、空飛ぶ温泉まんじゅう!?」
「ええ、魔法にかかればその程度のこと造作もないわ」
「世界の仕組みどこいった!?」
「だからこれは一か八かの賭けよ。咲夜がもし少しでもこの空飛ぶ温泉まんじゅうの存在に疑問を持ってしまったら、恐らくこの作戦はそこで終るでしょうね」
「逆に少しでも疑問を持たないやつ連れてこいよ」
あわれ空飛ぶ温泉まんじゅう。願わくは来世はただの温泉まんじゅうであることを。南無三。
「てゆうかパチュリーふざけてるでしょ」
「愚問ね」そう言ってパチュリーは魔力を集中させた。
「私はいつだってクライマックスよ」
水晶に映る景色がだんだんと咲夜に近づいていく。
背後からゆっくりと忍び寄る空飛ぶ温泉まんじゅう。コメディーなのかホラーなのか、はたまた数奇な運命に翻弄される彼を追ったドキュメンタリーなのか知らないが、とにかく私はどきどきしていた。
だってそりゃそうだろう。そうなるだろうよ。ここまで再三に渡り眼鏡咲夜の魅力を語ってきた私だけれど、実のところちゃんと彼女の姿を拝んだことなど一度もないのだ。いや、正確には一度あるのだけど、その時も眼鏡をかけた彼女を見るなりまるまる十秒フリーズして、そんでもって過呼吸起こしてぶっ倒れてしまったから数には入るまい。
そんなわけで空飛ぶ温泉まんじゅうには申し訳ないが、私はいまこの好機にとても興奮していたのだ。
「さあ、アタックするわよ」
パチュリーの言葉を合図に右旋回を開始する温泉まんじゅう。
動力や機動力の源がいったい何か想像もつかない(いや、恐らくはこし餡だろう)が、その性能は全くもって素晴らしかった。
残念ながら温泉まんじゅうから送られてくるのは映像だけだったが、もしも音声まで拾えたのならば、きっと風を切る音が聞こえたに違いない。そう思えるほど、私の予想に反して温泉まんじゅうは素早かった。
ぐん、と速度を上げた途端に水晶に映る景色はたちまち線になって流れていった。まるで抽象画のような世界。ありとあらゆるものがその輪郭をぼんやりとおぼろげなものへと変えて、ただ何色もの光の線となった。
魔法とはなんと恐ろしいものだろうか。私がしみじみとそんなことを思った時である。ぴたりと何の前置きもなく温泉まんじゅうは止まり、世界が再びその形を取り戻した。そしてその世界の中心に、私は確かに女神を見たのだった。
「ひゃうぅ……!」
結論から申し上げます。
『眼鏡咲夜は正義である』
もしも世界中のテレビというテレビがこの映像を流したならば、争い事などきっとなくなるだろう。眼鏡咲夜という唯一絶対の存在を崇めて、世界はあたたかな光に包まれるに違いない。
「恍惚としているところ申し訳ないのだけど残念なお知らせがあるわ」
いつの間にやら指を組んで天を仰いでいた私に向かって、ちっとも残念そうじゃない顔でパチュリーは言った。
「盗撮が咲夜にばれました」
あわてて水晶を覗き込むと、きょとんとした顔でこちらを見上げる咲夜と目があった。「あった」というのは私の一方的な思い込みでまず間違いないが、私のめでてえ脳みそは即座に脳内処理をして、妄想と事実をすり替えたのだ。何万人を超えるファンの中で、「いま○○クンが私に手を振ってくれた!」と都合よく解釈してしまうアイドルの追っかけの脳みそが分泌しているようなものを、私の脳みそもだばだばと出しまくっているに違いなかった。
そんなわけで、どきゅん、とどこぞの古い少女漫画のように見事ハートのど真ん中を撃ち抜かれてしまった私は、もはや向こう側を透かすだけになった水晶を見詰めたまま、深い余韻に浸っていた。思わずこぼれたため息も、なんだか桃色のように見えるがおそらく気のせいじゃないだろう。そのくらい私は幸福に満ち満ちていた。
「やられたわ。さすがは咲夜ね」
「……パチュリー、あとでこれダビングして」
「そんな機能ついてるわけないでしょう」
「あぁぁっもう可愛いなあ!」
咲夜の姿を思い浮かべて、私は机に突っ伏して足をじたばたさせた。今の自分がひどくみっともない様であることは想像するに容易かったが、そうしなければ色々とおかしくなってしまいそうだったのだから仕方あるまい。悶えるとはまさにこのこと。なんかもう、ぷぎゃあー、って感じである。ほんむうぅ、でも可。
「おそろしいっ、なんておそろしいの咲夜!」
「でもまあ確かにあれは可愛いわね。アルパカ100匹分ってとこかしら」
「でしょ! これでパチュリーも私の悩みがどれほど深刻かわかってくれたよね」
「いいえ、さっぱり」
「ほわい?」
「そもそも私、眼鏡フェチじゃないし」あらら、にべもない。
「だいたいネクロフィリアの私には眼鏡とかそういうの関係ないのよ、あんまりね」
思わぬカミングアウトに言葉を失う私であった。
***
「妹様の悩みは共有できなかったけど、精一杯の手助けはさせてもらうわ。同志として」
「頼むからひとくくりにしないで欲しい」
「自分の好きなものをたっぷりと堪能できないなんて、つらいものね……」
「や、やめて! そんな、過酷な戦場を戦いぬく仲間の兵士を見るような目で私を見ないで!」
ちょっぴり眼鏡をかけた女の子がひとより好きだってだけで、一歩間違えたらというか、もはや犯罪の匂いがぷんぷんする危ない趣向を持ったパチュリーと一緒にされてしまうことは断じて願い下げである。
「とにかくサポートは任せなさい。あなたがそのあわれな性癖を十分に楽しめるように全力とまではいかないけどもまあそれなりに頑張るわ」
「なんだか馬鹿にされている気がするけどこれは私の気のせいでいいんだよねそして最後の方にちょろっと本心が垣間見えたようにも思えるんだけどこれも訂正しなくていいのかな」
「ええ、問題ないわ」そう言ってパチュリーはちろりと紅茶を舐めた。
予想通りで期待外れの返事。「はあ、さいですか」と気のない言葉をもらす私。
「そういえば平気だったの? さっきのやつ」
「あ、うん、わりと」
咲夜に見詰められた(ように感じた)ときは少しばかり取り乱してしまったが、水晶越しの彼女を見る分には過呼吸を起こすようなこともなく、基本的には眼鏡咲夜を楽しむことができた。たいそう幸せであった。
「それじゃあまずは水晶で慣らすことにしようかしら」
「なるほどそれは大賛成」
「あ、でもしばらくは無理ね。さっき咲夜に壊されちゃったし」
「温泉まんじゅうのこと? でもそれってば別に他のでもいいんじゃないの?」と予想外の展開に、にわかに慌てだす私。
「相性があるのよ。この手の魔法は対象物と行使する側の魔力の適合率が映像の質に直結するわ。しかも私の場合、残念ながら温泉まんじゅうが唯一の適合物なのよ」
な、なんと使い勝手の悪い。
「だから、とりあえずは温泉まんじゅうが3時のおやつに出てくるまで盗撮は無理ね」
「え、そこは買いに行こうよ」
「いやよ面倒くさい。なんで私が」
「サポートするって言ったじゃん!」
「出来る限りとも言ったはずよ。というかあなたが買ってくればいいじゃないの」
「お姉様が許可してくれると思う?」
「無理ね。じゃあほら咲夜に頼めば?」
「それが出来たらそもそも相談にこないわ!」
「ああ、もう面倒くさいわね。なんであの子眼鏡なんてかけたのよ」
「咲夜に八つ当たりしないでよ……。でも、そういえば確かになんでだろ」
そもそもなんで咲夜は眼鏡をかけ始めたのだろうか。眼鏡姿の彼女にうはうはし過ぎて、彼女がそこに至った経緯なぞ微塵も考えてこなかった。
「目が悪いわけじゃなかったよね?」
「でしょうね。ついこの前、視力が2.0あるってよくわからない自慢されたし」
なにそれ可愛い。
「てことは伊達眼鏡なのかしら」
「でもなんのために?」
「さあね。イメチェンじゃない?」
「お二人ともお忘れになったのですか」
そこで突然、お代わりの紅茶を淹れてくれていた図書館司書兼小悪魔さんが声をあげた。
見かけの妖艶さに似合わず随分と可愛らしいボイスの持ち主は、その整った眉を僅かに潜めて、私達を見下ろしていた。表情を窺うに小悪魔さんはどうやら少し呆れているらしい。
きょとんとする私たちを見て、小悪魔さんはそれはもう深くため息をついた。
「メイド長が眼鏡をかけた理由、ほんとにお分かりじゃありません?」
「ええ、これっぽっちも。あ、もしかして老眼?」
「違います。まさか妹様も?」
ぎろり、とまではいかないものの、小悪魔さんはなかなかの睨みを私によこした。
「け、見当がつきません」
泣き出さなかった私を褒めてやりたい。美人は怒ると怖いのである。
私の言葉に小悪魔さんはこれまたひとつため息をつくと、上着のポケットから小さくてお洒落な眼鏡ケースを取り出した。
「さあ、これでもう思い出したでしょう?」
赤縁眼鏡をかけた彼女はそう言って、どや顔をきめた。
「なに急にどやってんの?」
「ぅえー!? パチュリー様ほんとに覚えてらっしゃらないんですか!?」
「覚えてるも何も初めて見たんだけどあなたの眼鏡姿」
「でたよ! これだから本の虫は!」
「……思い出した」
ぽつりと言葉をこぼしたのは私である。
自分の放ったちいさなその呟きがまるで鈴の音のように澄んで頭の中で響くのを感じながら、私はあの日のことを思い返していた。
あれは確かひと月ほど前。長かった残暑がようやく影をひそめて、窓から入ってきた爽やかな風が、庭の金木犀の香りを連れてきた日のことである。
紅魔館には庭師がいる。彼女は館の門番という役職を与えられながらも、いつもの通りお姉様の突然の思い付きにより、紅魔館の景観を良くするべく庭園管理の命を授けられたのだった。初めの頃はさして乗り気ではなかった彼女だったが、近頃では本来の役目を放棄してまで庭師の仕事に奔走するほど、がっつりと庭いじりに凝ってしまっている。そんな彼女が造り上げた庭園のひとつに、春夏秋冬、それぞれの季節の訪れを告げる草木で彩られた庭があった。
お姉様との定例昼食会を終えて、穏やかな秋の陽気に包まれた館の廊下を歩いていると、開け放たれた窓のひとつから甘く柔らかな香りが流れ込んできた。
胸一杯に吸い込んだ金木犀の香りに、秋だなあ、なんてしみじみと感じて、それから私は、ふと、図書館に寄ってみようかと思い至った。
そこで目にしたのがあの赤渕眼鏡美人さんである。
いつもの如くどこまでも代わり映えのない景色の中で唯一突如として現れたその変化。二次元の世界でしかお目にかかれなかった理想の存在を目の当たりにして私が平常心でいられるはずがあろうか。いや、ありえまい(反語)。
例えそれまでひた隠しに隠し続けてきた眼鏡フェチという薄暗い秘密の片鱗をちらりと覗かせてしまうことになろうとも、そんなこともはやどうでもいい位にテンションが上がりに上がった私は、とりあえず興奮のなか撮影会を開始することにした。
その後のことはあまりよく覚えていない。とにかくふと気付いた時には私は自分の部屋のベッドの上にいて、胸に抱いていたカメラのフォルダには、やけに乗り気な眼鏡美人の画像が何百枚と保存されていた。
でもなんでだろう。それが一体どうして、咲夜が眼鏡をかける理由になるのだろうか。
「撮影会のあの場にメイド長がいらしていたのを、妹様はきっとご存じなかったのですね」
「え、いたの咲夜」
うわぁ恥ずかしい。撮影に夢中でまるで周りが見えてなかった。咲夜に見られてたとかなにそれつらい。でもまあお姉様じゃなかっただけまだマシか。
「ちなみにお嬢様もいらしてました」
「ぴ」変な声でた。
「何とも思いつめた表情でじっとこちらを見ておりました」
どおりでなんだか最近よそよそしいわけだ。
「つまりはそうゆうことです」
「……へ? なにが『つまり』なの?」
きょとんとする私。
「ご自分でお気付きになって下さい。……というかここまで言ってまだわからないとか妹様どんだけ鈍感なんですか。もうほぼ答え言ってますよ、私」
ど、鈍感って。
なんのこっちゃさっぱりな上、何故だか傷つけられたメンタル。
助けを求めて隣を見れば、そこにはまるでごみ屑を見下ろすような目をしたパチュリーの姿。
「……どんだけなのあなた」
「うえぇぇ、パチュリーわかったの!?」
「ええ、勿論。さすがにこれは引くわよ」
ずーん。
「つまりあれでしょ」と呆れた顔でパチュリーは続ける。「咲夜も眼鏡フェチなんでしょ」
「違います」
もうやだこのひと。
***
「なるほど話は分かったわ。パチェはとんでもない変態だったのね!」
「うん……。って、そうじゃなくて!」
「だってあまりに衝撃的だったんだもん! 親友がど変態だったとかなにそれ。というかネクロフィリアって吸血鬼は守備範囲なんじゃないか!? てかむしろどストライク!? どおりでファーストコンタクトが『あなたちょっと顔色悪くないかしら? なんだか生気も感じられないし、……ああ駄目ムラムラする』だったわけだよチクショウ!」
「いやよく友達になったなそれ」
「おまけに妹は眼鏡フェチとかなんだその微妙なカミングアウト。薄っすら気付いていたとはいえ、姉としては何とも言えない気まずさを感じるべきところなんだろうけど、パチェのインパクトが強すぎて何の感情も湧いてこないわ!」
「ご、ごめん」
思わず頭を下げる私に、お姉様はひとつため息をついた。
「パチェへのこれからの私の態度云々は一先ず置いておくとして、本題はなんだったかしら」
「えと、咲夜とお話ができるようになりたいんです」
「え、なにそれだけ?」
きょとんとするお姉様に私はちいさく頷く。
「なんかこう、もっとやらしいこととかは?」
「な、ないよそんなの! 咲夜に『眼鏡似合ってるよ』って言いたいだけ。……あと、できれば写真撮りたいけど」
自分で言っといて恥ずかしさから私は俯いた。たぶんきっと耳まで真っ赤に違いない。
「……あのさ、フランってばもしかしてそんなぴゅあぴゅあなこと本気で言ってるわけ? だとしたらお姉ちゃんちょっと新しい扉開いちゃうかもだけど」
「閉じといてください」
とりあえず一発殴った。
「ちょ、フランっ、待って! お姉ちゃんいきなりこんな過激なスキンシップ望んでないわ! まずはノーマルな感じでいきましょうよ、ね?」
「君がッ! 正気に戻るまで! 殴るのをやめないッ!」
「冗談が過ぎました!」土下座。
はあ、とため息をつく私。
また話聞く相手間違えたかなこりゃ。
「あ、いまちょっと私に相談したこと後悔したでしょう」
「うん、わりと真剣に」
「まじか」
ずーん。
「レミリア傷心中……」
「ねえ、ちゃんと聴いてよお姉様。私ってばほんと困ってるんだよ」
「おーけーおーけー」
とゆうかさ、とお姉様は思い出したように声をあげた。
「そもそも咲夜がなんで眼鏡かけたのかってのは別にいいわけ?」
「……だって考えたってわからないし、馬鹿にされるし」
「メンタル弱いなー」
「あ、そうだ。お姉様はわからないの?」
「咲夜のこと?」
「うん」
「わからん」
「えー」
「やっぱ姉妹なのね、私たち。お生憎様。さっぱりよ」
「使えない姉だなあ」
「手厳しい妹だこと」
でもね、と私。
「小悪魔がさ、私が自分で気付くべきだってそう言ったんだよね」
「あら生意気な使い魔ね」
「お姉様が鈍感でよかったかも。たぶんきっと答えを聞いちゃ駄目だったんだよ」
私の言葉にお姉様はゆるく笑った。
近頃はめっきりカリスマが弱まってきているお姉様ではあるが、それでもたまにひどく様になって見える瞬間がある。私が同じようにしてみたところでこうはならないだろう。顔も背格好も似てるくせして、こうゆうところはまるで似てない。夜の王の名を冠する以上、私もちょっとはカリスマが欲しいところではある。
「でもまあ、仮に私がもし答えを知っていたとしても、たぶん教えなかったと思うわ」
「なんで?」
「もがき苦しむ妹をにひにひしながらそっと見守ってやるのは楽しそうだもの」
「うわあ、意地悪だー」
「姉というのは総じて妹には意地悪なものなのよ」
まあ、あくまで仮の話だけどね。そう続けてお姉様は一口紅茶を舐めた。
「それからね、残念だけどぴゅあぴゅあなフランちゃんには私からアドバイスしてあげられることはないのよ。R指定のアイディアならいくつか浮かぶのだけど」
「結構です」
「ならパチェの水晶がおススメね。それでちょろっと肩慣らししたら咲夜に会いに行きなさいな。あの子が眼鏡をかけた理由はそこで直接聞くといいわ」
「う、咲夜に……?」
「それが一番いいのよ」
お姉様は微笑んだ。
「温泉まんじゅうは私が手配しとくから、あなたは安心して恋愛小説でも読んでなさいな」
***
「私のことは写真に収めてくださらないのですね」
お姉様の部屋からの帰り道、馬鹿みたいに長い廊下をえっちらおっちら歩いていた運動不足気味の私は、突然響いた凛としたその声に、馬鹿みたいに固まった。
かつかつ、と小気味よい足音が背後から近づいてくる。声は勿論、足音ですら心地よいのだからすごい。彼女を構成するありとあらゆるものすべてにひとかけらだって悪い印象を私は覚えたことはなかったが、この時ばかりはひやりと背筋が凍るような冷たさを感じた。
「妹さま」
足音が止まる。半歩引いた私の隣に咲夜が佇んだ。
「顔も合わせてくださらないのですか」
あまり抑揚のない彼女の声色に、けれどほんのわずかに滲んだ寂しさを私は確かに読み取った。咲夜はいつでもポーカーフェイスだけれども、ふり返ればきっと、かなしげに顔を歪めた女の子が目の前に立っているだろうことは容易に予想できた。
「撮ってください、写真」
――どきどきして仕方ない。
あんなに望んだ眼鏡咲夜撮影会は思わぬ形で実現されたが、正直なところこの現状を楽しむだけのメンタルを私は持ち合わせてはいなかった。
なんとなく咲夜はちょっぴり怒っていて、どことなく少し寂しげで、そしてはっきりとかなしんでいた。
嫌っていたはずのカメラを向けられることを咲夜が懇願してきた理由はわからない。わからないが、このことが彼女をこうして傷つけていることに関係しているのは明らかだった。
私の無駄に広い部屋の中で咲夜は椅子に座っている。私は彼女に背を向ける格好で一眼レフを震える手で握っていた。
大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。片目を瞑って、右目をカメラに近付けた。そのままくるりとふり向けば、ファインダー越しの世界の中心に静かにこちらを見詰める眼鏡をかけた咲夜がいた。
ばくばくとうるさい心臓はまるで頭の中にあるみたいだ。
けれど、大丈夫。パチュリーと温泉まんじゅうのおかげか、肉眼ではなくカメラを通して見ているおかげなのか、とにかく私は今度は気絶することなく咲夜と向き合えていた。
「に、似合ってるよ」
私の言葉に咲夜はわらう。
花が咲くように、とはよく聞くが、彼女のそれはまさにその通りだと思う。人知れず静かにつぼみがひらいていくように、けなげで、媚びがなく、どこか儚い。咲夜の笑みは小さな真っ白い花のようだ。
人差し指をシャッターボタンに乗せた。
カメラなんて素人だから、絞りがどうだとか角度がなんだとかそんなことは私にはわからない。けどたぶんどうしたってきっと咲夜は可愛いのだった。
「じゃあ、とるよ」
「――――」
私の言葉にファインダーの向こうで咲夜の唇がちいさく動いた。
シャッターの切られた音にかき消されたのか彼女の声は私の耳には届かなかった。ひょっとしたらそもそも、声は出してはいなかったのかもしれない。
けれど私はカメラを構えていたわけで。彼女を撮ろうとしていたわけで。
だから私の右目は、まばたきなどするはずもなくじっと彼女を見詰めていた私の右目は、咲夜がなんて言ったのか、つぶさに捉えてしまっていた。
ファインダー越しにも、もう私は咲夜をまともに見ることが出来なくなっていた。おそらくは彼女が眼鏡を外しても、それはきっと変わらない。
小悪魔が言ってた通りだ。私ってばとんでもなくニブチンだ。
「すきです」
今度ははっきりと届いたソプラノに、私の視界はぐらりと歪んだ。
ああ、まただ。この感じはもう知っている。もう少ししたら私はきっと夢の世界に落ちるだろう。
そして目が覚めたら気付くのだろう。
私がまだ落ちていることに。彼女との恋に、落ちてしまっていることに。
***
咲夜が眼鏡を外した――
おわり。
面白かったです。
言葉のチョイスも世界観もストーリーも何もかもが素敵です。ありがとうございました。
テンポ良いコミカルな描写と、ラストの甘酸っぱいアレなソレで、たまらん!!
しかし、フランドールと咲夜はなんというかピュアで素敵でした
パッチェさんも辛口なくせに、フランを笑えないくらいの趣味をお持ちじゃないですかー!
キャラクターの魅力がぎゅうと素敵に詰まっておりました。
最高でした。ほのかなレミパチュもまたよし