天邪鬼と小人を中心とした小槌の大騒動からもう随分経つ。私が今のこの身になったあの時から季節は移り、辺りはもう日差しがうららかな春真っ盛りである。あまり話題にはならないが文月や葉月の頃に負けない程の紫外線が肌をじりじりと刺激する。
妖怪である私にとって紫外線なんてさほど気にすることじゃないが、それでも女ではあるので最低限のお肌のケアは欠かせない。 なによりそういったことにどこか無頓着な義妹に、日ごろ口うるさく言っている手前、ないがしろにはできない。
そんなホップステップと跳ねまわりたくなる陽気とは裏腹に私の気持ちは重かった。というのも、元来琵琶の付喪神であった私だが、小槌の魔力回収から逃れるためその身を一度捨て去った。その呪法を教えてくれた同じ付喪神である雷鼓に感謝はしているが、そのせいで自分というものがあやふやになってしまったのである。つまり、琵琶の身体を捨て去ったあとの今の身体が何を依り代にしているのか自分でもよくわかっていないのだ。弦楽器なのは感覚的に間違いないと思うのだがそれ以上は何も。
―――もう琵琶の付喪神ではないかもしれない。
じゃあ一体今の自分は何者なのか。そんな悩みを抱えて当てもなくぶらぶらとしている現状がどうにも歯がゆい。
妖怪にとってアイデンティティーとは人間のそれよりも重要だ。妖怪という存在そのものがアイデンティティーのかたまりのようなものだからである。だから呪法の影響が他人からは分からないものであっても、内面ではズレにとまどい、ちょっとした違いにさえにこれほどまで心を弱らせる。
その重圧から逃れたい故に弁々はここのところ自身の演奏さえしていなかった。
―――私が九十九弁々ですらなくなるなんてことも―――
そんな恐怖が焦燥感を追いたてる。
その夜は月明かりが明るい夜だった。ふらふらと当てもなく森の中を徘徊していたのだが、少し開けた、土筆が生い茂るところに出たときに何か不思議な音が聞こえることに気付いた。確かこの音は幻想の音だったか。
普通、人には聞こえない音だが楽器の付喪神である弁々には認識できる音だった。少なくとも自分がまだ楽器の付喪神であることに安心する。
自分の奏でる音とは随分違う。八橋に言わせると私の音楽はもっと直線的なものらしい。そこまで考えて今の自分の状況を思い出し、やり切れない思いになった。
―――自分の音ってどんなふうだったかしら...
この音を発しているであろうリリカは、案の定近くで練習していた。前に八橋と一緒に会ったこともあり、彼女とは顔見知りである。その時は姉妹三人そろっていたが、今日は一人のようだ。
「む、あなたは確か琵琶の......ばんばん、だっけ?」
「弁々よ」
フォークソングを歌ってそうな名前と間違えられたが、これくらいで怒っていてはいけない。姉には包容力というものが必要なのだ。
「ソロの練習かしら?」
ソロの練習なのに奏でる音が幻想の音というのも変な話であるが、とりあえず尋ねてみた。
「まあね。あと姉さんたちの音をまとめる練習もね。あの二人はコンセプトが極端なんだから、私がしっかりまとめ上げないとてんでばらばらのままだもの。そういう意味じゃ私って包容力にあふれてるわよね。」
違う。ほんとの包容力にあふれる女性とは私の方だ。
「そうだ、せっかくなんだしなんか弾いてよ。アーティスト同士の交流って重要だから。私は練習で疲れちゃったし、休憩してるからさ」
「......勝手ね」
「いいじゃん。それに音楽に携わる者である限り自分の表現方法はそれしかないでしょ?」
その通りなのだが、はたして今の自分が奏でる音は何の音なのだろうか。もう琵琶であることをやめた今の私の音はいったい...
「......」
「どうかした?」
黙りこくる私の顔をリリカが不思議そうに覗き込んでくる。
「...弾きたくないわ」
「えー、いいじゃん。まだ新参なんだからもっとアピールしてかないと影うすいまんまだよ。ただでさえ楽器やら姉妹やらで私たちキャラかぶってるんだし。特にルナ姉とは同じ弦楽器なんだから。ほら、もっと“私は琵琶なんだー!”って」
「っ、うるさいわね!!弾きたくないって言ってるじゃない!」
おもわず怒鳴ってしまった。これじゃあ姉の包容力なんてへったくれもない。それでも一度爆発した思いは止まらない。
「私はもう琵琶じゃないの!琵琶だった自分は捨てちゃったの!もう自分が何者なのかもわからないのよ!!そんな私に琵琶だったころの演奏ができわけがないじゃない!」
ああ、言ってしまった。リリカに悪気がないのは分かっていたのに。
あたりに沈黙が横たわる。
そんな気まずい沈黙をやぶったのはリリカの方だった。
「土筆ってさ、どこか彼岸花に似てると思わない?あの頭が重そうなとことか、はっぱがないとことかさ。あれ見てると前の花の異変のこと思いだしちゃうんだよね」
彼女の言っている花の異変とやらはよく知らなかったし、土筆と彼岸花も到底似ているとは思えなかったが、意見する気にはならなかった。
「八橋から聞いたよ。付喪神になったあとに元のただ道具に戻らないよう依り代を替えたんだってね。てっきり琵琶のままだと思ってんだけど...それにあの子はあんまり気にしてる様子じゃなかったから」
あの子ったらそんな重大なことをばらしてしまっていたのか。
「あなたは自分の音を聞いてもらうのは嫌い?」
「......そんなことは...」
―――なかった。少なくとも琵琶だった頃は自分の奏でる音が好きだったし、もっと皆に聞いてもらいたかった。自分の奏でる音楽で皆を魅了したかった。それができない、弾き手がいない時のさみしさは忘れられるものではない。
「わたしさ、なんだか相当不安定な存在らしいんだよね。わたしたちを生み出してくれた妹がいなくなっちゃて、自分ってものがよく分かんなくなっちゃてって。閻魔さまに『自分の存在理由を考えなさい』って説教までされちゃったわ」
「それで、考えたの?」
彼女の性格からして閻魔に叱られたからと言って真面目に取り組むとも思えないが。
「考えたわよ、少しはね。だからそんな意外そうな顔しないでよ。考えたけどまあ、なんていうか結局たどりついたのは同じとこだったわ。私は姉さんたちと一緒に演奏してる時が一番充実してるって思うし、その音色をもっといろんな人に聞いてもらいたいわ。なんたって妹が大好きだった音楽だもの。だからやっぱたいして考えなかったんじゃないかみたいな顔で見るな。」
―――私の音を聞いてくれた人たちが思い出される。感動してくれた人もいたし、笑っている人もいたし、納得してくれなかった人もいた。その度に私は演奏者と一緒になって喜んだり、満足したり、悔しがったりしていた。
「あなたはもう誰にもあなたの音を聞いてもらいたくないの?」
「っ!」
「でしょ?身体の依り代を変えるときその気になれば楽器じゃないものでもよかったんじゃないの?でもあなたは楽器の依り代を選んだ。だって―」
―――だって自分の音を聞いてほしいから。音を奏でることが私の一番の喜びであったから。それを捨てることなんてできなかった。
「今のあなたは琵琶じゃないのかもしれないわ。けどあなたの気持ちは琵琶だった頃と変わらないのでしょう?だったら演奏しなきゃ。」
私は手元の琵琶に目をやる。
―――ああ、そうだ、上書きされた自分を認めようとしなかったのは自分の気持ちまでとってかわってしまうんじゃないかと恐れていたから。だけど自分の望みは変わりなんかしなかった。変わるはずがなかった。私を響かせる最高の喜びを忘れることはできないから。
元の自分をあきらめるのは決して自分の否定ではない。このまま何も奏でないことが自分の否定なのだ。
「...そうね。この身は変わったかもしれないけど、中身まで変わったつもりはないわ」
「聞かせてよ、あなたの音」
私は琵琶を構える。依り代が変わってもこの琵琶が昔のままなのは、わたしの中身が変わっていないということ。
さあ!いまこそ響かせよう!わたしの心を!わたしの音色を!わたし自身を!
やはり昔とは違う音。
でも重くてたまらなかったその感覚も今は大したことではない。
観衆だってリリカ一人だ。
だけどかまうものか。
ならば彼女にわたしのすべてをぶつけるだけ。
リリカの表情が見える。
そうだもっとわたしに酔いしれなさい!!
だけどまだ足りない。
この幻想郷中の観衆がほしい。歓声がほしい。
私の音を皆に聞いてほしい。
―――あの異変の時の気持ちがよみがえってくる。
そうだ!私こそは最強の付喪神、九十九弁々!!
幻想郷を私の音楽で支配するのだ!!!
了
気持ちの持ちよう次第で悩みが軽々解決して良かったです。
もしよければレビューしてもよろしいですか?
トロピカルないでたちに生まれ変わった弁々姉さんもいいかも。