雪が舞っています。
粉雪です。
粉雪は天から地上に降り、全てのものに平等に降り注いでいます。
女も雪に振られていました。
埃でくすんだ髪も、血で赤黒く染まった服も、無気力に投げ出された手足にも。
この世に絶望した様子の女にも、雪は優しく、無慈悲に積もるのです。
さくさくと雪を踏み締める音が女の聴覚を揺らします。
しかし、全てを諦めてしまった女は音の方に顔を上げることも、視線をやることすらしません。
彼女は自分に残された最後の仕事を全うすることに忙しいのです。
音の主も、そんな女の様子など知ったことかとばかりに無遠慮に足を動かします。
さくさくという音は、女が凭(もた)れる穴だらけの壁の後ろで止まりました。
それでも女は気にした様子はありませんでした。
雪化粧の施された平地で、壁一枚を隔てて佇む二人。
しんしんと雪の音でも聞こえそうな静寂を破ったのは、足音の主でした。
「やぁ、八雲紫。いい格好だな。今の無様なお前には、外の汚れた雪が実に似合う」
女――八雲紫の頭に積もっていた雪が、僅かばかり零れ落ちました。
# # #
昔々でもない、この世とは少しずれた世界に、八雲紫という大妖怪がいました。
彼女はとても美しく、賢く、そして強い妖怪で、多くの者たちから満遍なく嫌われ、恐れられていました。
それというのも、彼女の性格の悪さに所以するのですが、それは置いておくとしましょう。
さて、そんな八雲紫ですが、彼女は自分を嫌う者たちの味方でした。
正確に言うと、自分の作った世界に住む者の味方でした。
彼女は創ったのです。
一つの世界を。
自身の力を使って。
忘れられた者たちの楽園を。
その楽園の名を、幻想郷と呼びました。
幻想とは本来、存在し得ない物事を指します。
それは例えば、スキマなどという説明しようのない事象であったり。
例えば、幽霊や妖精のような存在を確証できない空想とされる存在であったり。
例えば、神などという信仰を捧げられながらも、常人の前にはロクに姿も見せない薄情者であったり。
つまりは、人が意識しない、できないものたちの事を言います。
しかし、そんな幻想の多くは人から生まれました。
それは人々の恐怖などといった心象、祈りなどの儀礼的習慣、たまに都市伝説のような俗な噂などが素となります。
人の中で揉まれ、習慣化され、存在認知が閾値を超えた時、幻想たちは形を得るのです。
種が蒔かれ、発芽し、実を付けるように。
人ある所に幻想は生まれたのでした。
人は未知というものを強く恐れました。
未知であるということは対処の仕様がないという事を意味し、力の差というものを曖昧にします。
だから幻想の多くは人よりも強く、強者としての仁義に則って生みの親を救いもしましたし、襲いもしました。
人も生んだ責任を果たすように様々な手段を用いて幻想と戦いもすれば、敬い奉りもしました。
幻想の多くは、そんな人との関係を心地良く思っていました。
しかし、そう思っていたのは彼らだけでした。
人は次第に、幻想を疎むようになっていたのです。
人は古くから闇を恐れました。
その恐れが多くの幻想を生みました。
どうすれば闇を、そして幻想を克服できるのか。
人は考えました。
それは単純なことでした。
人の手で明かりを生み出せば良かったのです。
時代が移り変わると共に、蝋燭がガス灯に代わり、ガス灯が白熱電灯に、白熱電灯は蛍光灯に進化していきました。
その進化の速度は恐るべきもので、幻想たちがどうこうする隙も暇もありませんでした。
気付けば、人の世界に明かりのない場所はごく僅かとなっていました。
人には生き易く、幻想たちには酷く優しくない環境が出来上がっていました。
人は明かりのある生活を喜び、明かりを生み出した自分たちは強者だと自覚しました。
明かりは人の闇への恐怖心を薄めました。
それは同時に、幻想に対する恐怖心、関心といったものを失くすことにも繋がったのです。
多くの幻想たちが死に絶えました。
勝手に生むだけ生んで、勝手に忘れる人を恨んで逝きました。
憐れでした。
とてもとても憐れでした。
だから、八雲紫は立ち上がりました。
抵抗する術を持たず死に行く幻想たちにたった一つの道を。
古き良き人と幻想の関係を持った小さな箱庭への道を。
彼女は示したのでした。
その箱庭の名を、幻想郷と呼びました。
幻想郷は八雲紫によって管理された世界、外の世界の二の舞は決して許されませんでした。
排除、排斥される外の世界の技術。
楽園は人口の明かりも届かない自然豊かな辺境へ。
憎むべき存在でありながら、幻想たちが存在する為には不可欠な人間も少数ですが用意されていました。
幻想郷は平和でした。
郷には常に停滞した空気が漂い、少女たちのバラ撒く弾幕の華が郷の其処彼処を彩りました。
たまに異変こそ起こりましたが、巫女や魔法使いやメイドやら庭師やらが気付いたら終わらせていました。
八雲紫と、それと繋がる博麗の巫女にさえ粗相を働かなければ、幻想たちも生きていけました。
昔ほどの刺激はありませんでしたが、彼らも幻想郷での生活を気に入っていたのです。
しかし、そう思っていたのはやはり幻想たちだけでした。
彼らの為に飼われた人は、楽園を楽園と思っていませんでした。
前にも言いましたが、幻想たちが生きるには人の存在が不可欠であり、それらの為に人は生かされ、飼われていました。
勿論、必要とされる以上、ある程度の自由は許されていました。
しかし、管理され、制限を強いられる生活は家畜と代わりはありません。
特にまだ若い世代は、迷い込んできた外来人から聞かされる外の世界に興味を持ち、幻想郷を出たいという気持ちを強めていました。
幻想郷にはいくつかの結界が存在しました。
その中でも最重要とされたのが博麗大結界でした。
常識と非常識を分ける理論結界、これが存在するから妖怪は存在を保て、人は外の世界に想いを馳せるしかなかったのです。
幻想たちは力こそありましたが、幻想郷で日々を過ごす内に受動的な者が増えました。
人は全くの逆、彼らは外の世界への想いを強め、実に能動的に活動を始めました。
しかし、八雲紫がそれを許すはずがありませんでした。
彼女は何処からか嗅ぎ付け、静かに人の粛清を行うのでした。
『同じ目に遭いたくなければ大人しく飼われていろ』
物言わぬ骸は、彼女の言葉を代弁していました。
八雲紫の目的は、人から反逆の意志を摘むことにありました。
彼女に誤算があったとすればそこです。
八雲紫は人を過小評価し過ぎたのです。
隅に追い詰められた鼠が猫を噛むように、人は抵抗の為の牙を持っていました。
静かに、しかし確実に、牙は研がれていたのです。
ところで、ここまで八雲紫をまるで神のように綴っていますが、彼女は神ではありません。
神の御業の如き力を振るいながら、しかし、その身はどうしようもなく神と同じ幻想なのでした。
幻想は皆、何かしらの弱点を抱えていました。
正体不明、分類不明の八雲紫に弱点があったとすれば一つ、彼女は必ず冬眠を必要としたことです。
強過ぎる力を振るう為の充電期間のようなものなのか、それは八雲紫以外の誰も知りません。
しかし、それは間違いなく彼女にとって唯一の隙であり、人にとって唯一の好機でもあったのです。
そして冬のある日、遂に事件(クーデタ)は起こりました。
ある人は参拝客を装い、博麗の巫女を殺しました。
ある人は捨て身で博麗大結界の楔を引き抜きました。
ある人は退治屋として培った力で妖怪の虐殺を始めました。
巫女を失い、楔を失った博麗大結界は嘘のように呆気なく消滅しました。
その瞬間、結界によって存在を許容されていた幻想たちを襲ったのは、存在の否定という圧倒的な暴力でした。
妖精などの力無い存在は一瞬で消え去りました。
人型を保てる程に力ある存在は消滅こそ免れましたが、苦痛に変わりはありませんでした。
八雲紫が異変を察知して飛び起きた時には全てが手遅れでした。
結界を失った郷には、外の淀んだ空気が混じっていました。
彼女が守ろうとした幻想たちの多くが弱り、苦しんでいました。
その彼らを蹴り、甚振り、呆然とする彼女を嗤う人の姿がありました。
「――――――――――ッ!!!!!」
八雲紫の絶叫が幻想郷を、いえ、かつての「幻想たちの」楽園の空に響き渡りました。
彼女は怒りのままに力を振るい、視界に入った人を、たとえ無抵抗であっても手当たり次第に殺していきました。
結界が壊れた以上、それが自分の身を削る行為であるとも気付かずにです。
それもあるいは、人の罠だったのかもしれません。
冷静沈着である八雲紫であれば、まず犯さないであろう愚の極みともいうべき行い。
それを彼女が我が子のように愛した郷を破壊することで誘い出したのです。
八雲紫ですら察知できなかった程に綿密、周到に組まれた一大計画。
一体、何時から計画されていたのか。
肉を切らせるどころか魂まで裂かれるような捨て身の蛮勇。
外の世界とは、人にはそれほどまでに魅力的に映っていたのでしょうか。
それとも、八雲紫に一太刀浴びせられるなら命すら惜しくなかったのか。
どちらにせよ狂気極まりなく、被害は甚大。
しかし軍配は人の側に上がりました。
人の牙は、八雲紫の首筋に確かに届いたのです。
人に宝物を壊され、仲間を殺され、力を消費させられた八雲紫でしたが、この時はまだ諦めていませんでした。
正気を取り戻した彼女がまず講じたのは、疑似的な博麗大結界を張ることでした。
それを張れば、一先ず幻想たちの消滅を食い止めることができるからです。
しかし、それは所詮は応急処置でしかありませんでした。
博麗大結界に必要な楔、そして管理者の博麗の巫女。
その両方を失い、おまけに力を無駄に消費してしまった八雲紫では、本格的に博麗大結界を張ることは不可能なのでした。
彼女にできることはただ一つ。
自身の存在を維持する力を極限まで減らし、疑似結界の維持に務めることだけでした。
岩のように不動を貫き、堅く瞼を閉じた八雲紫を襲ったのは途方もない虚無感と無力感です。
彼女の力が切れれば、守るべき者たちもいずれ消えていきます。
脳裏にはいつかと同じく、苦しみ、恨み言を吐きながら息絶えた幻想たちが繰り返し現れました。
八雲紫は、ただただ心の内でごめんなさいと謝り、泣くことしかできないのでした。
# # #
「やれやれ。本当に、八雲紫ともあろう者が無様な姿を晒しちゃってまぁ……」
紫が凭れる壁の向こう、少女特有の高い声には多分な嘲りが込められていました。
それでも紫は反応を示しません。
声の主は特に気分を害した様子はありません。
むしろ機嫌を良くしていました。
何故なら、声の主は非力な癖に無抵抗の者を甚振ることが大好きだからです。
「潰れちゃったなぁ。お前の大事な大事な幻想郷」
「……」
「なぁ、たかが人間如きに住処を壊されるってどんな気分? 飼い犬に手を噛まれるってどんな気分? ねぇ、ねぇ、ねーぇ?」
「……」
「今までずーっと下だと思ってた奴に一杯食わされた訳だろう? 例えるなら……犬畜生に小便引っ掛けられる感じ? うわ、私なら憤死もんだね。げー、無理無理、耐えられない、耐えられないね」
「……」
「いやまぁね、人間もよくやったと思うよ? うん。外に出たいからって、わざわざ巫女ぶっ殺して大結界までぶっ壊すとかさ。普通、考えやしない。正気じゃない。狂ってる。どいつもこいつも頭の中のネジがダース単位で飛んでるとみたね。破れかぶれな奴はこれだから怖いって典型だよ」
「……」
「わざわざ住み良い場所を捨てるなんてねぇ、人間の考えることは分っかんないよ。まぁ、賢者様だって分からなかったんだから仕方ないさ。なぁ?」
「……」
軽薄で馴れ馴れしく挑発混じりの言葉を一方的に浴びせられながら、やはり紫は動きません。
こうまで反応がないとさすがに面白みがないのか、声には拗ねた色が混じります。
「おーい、何か答えろよー。私が一方的に喋っても楽しくないじゃないか。会話の放棄は思考の放棄、気付かない内にボケが進行しても知らないよ」
「……」
「それともとっくにボケちゃったとか? おいおい、それだけは勘弁して欲しいな。ボケ老人の相手をしてやるほど私は心優しくないんだ。慈善活動なんて真っ平さ」
「……」
「ボケちゃっても仕方ないとは思うけど、私が話し掛けてるんだ。聞いてくれてないと困る。でないと私も消えちゃうし、おまけに気違いの誹りまで受ける」
「……」
「ま、私が言いたいのはこれだけ。お前も学んだだろ? 人は私たちを疎んだ。仲良し小好しの時間は終わったんだ。高い授業料を払ったと思おうじゃないか。その経験を活かしてもう一回、幻想郷を創り直そう。そうしたら私もお前も生き残れるんだ」
まったく無責任な口調で無責任な言葉を、声の主は吐きました。
「…………ない」
「ん?」
すると、初めて紫の口元が動きました。
どれだけ水を口にしていないのか、乾き切った声音を拾うことは至難でした。
「聞こえないなー。何だって?」
「……わけ、……じゃない」
「んー? もっと大きな声で!」
煽る声に釣られて、紫は腹の底から声を上げました。
「そんなこと、できる訳ないじゃないっ!!!」
怒気と共に放たれた声は波状に広がり、紫に積もった雪を振るい落とし、周囲の雪にまで波紋の跡を残しました。
至近で大声の煽りを食らった別の声の主はどうも驚いて引っ繰り返ったようで、「いてて」とか「何て大声だ」とか悪態を吐いていました。
それが済むと、また前のような人を小馬鹿にするような声で紫に語り掛けます。
「何だ、ちゃんと声が出せるんじゃないか。だんまりだなんて感じ悪いからやめた方がいいよ。私が言うのもアレだけどさ」
「……」
「って言ってるそばからそんな態度かい。いいけどね、別に。お前が答えたくなるような言葉を言えばいいんだから」
「……」
「あー、さっきお前は言ったな。『そんなことできる訳ないじゃない』って。……ふーむ、私が言うのも何だが、あれだな」
一拍の間を置いた言葉でした。
その一瞬が必要としたのは覚悟だったのかもしれません。
何故ならその続きはおそらく、それまでで一番侮蔑の籠った言葉だったから。
「八雲紫、お前は情けない奴だな。やってもないのにできる訳がないと決めつけるなんて、畜生の人間にも劣る」
瞬間、周囲の温度は一度も二度も下がりました。
紫の身体を目掛けて降り落ちる雪だけが、触れる前に溶け消えます。
紫の声には、前にも負けない怒気と熱気とが込められていました。
「……私の言葉が決めつけですって? 見ず知らずのお前に、何が分かる! お前に私がやっていること、やってきたことの全てが分かるか! 答えなさい!」
「あぁ、分からん」
「ならば教えてあげるわ! 私が今もしているのは、疑似的な博麗大結界の維持!」
「あぁ、だから私は今もこうしてピンピンしてられるのか。それはすまないね。ありがとう」
「……ッ! 私がしてきたことはこの大結界をもう一度張り直すこと。だけど、できなかった! 肝心要の楔と巫女を失った今、私一人の力で大結界を維持するのは不可能なの!」
「それは素人の私にも何となく分かるよ」
「あぁ、そう。それだけ理解が行くなら私が言いたい事も分かるでしょう?」
「大結界無くして幻想は生きられぬ。当然、幻想郷を創り直すことは不可能と」
「その通りよ。分かったら、ここから去りなさい。私と話すということは、貴方の存在し得る時間を縮めることにもなる」
冷静さを取り戻した紫の声は、冷たくもあり、同族への気遣いが込められていました。
しかし、その相手はどこまでも人の心遣いを踏み躙ります。
仕方がないのです。
そういう性分なのです。
その優しさに甘えることが何より自分の寿命を縮めることに繋がってしまう、損な存在なのです。
「八雲紫、お前の言いたい事は分かった。しかし、私はもう一度言うぞ。情けない奴め、妖怪の賢者だなんてよくも名乗れたものだとな」
「……貴方はよほど早死にしたいのね」
「馬鹿を言うな。私ほど生き汚い奴はいない。そうでなければ、お前なんかに話し掛けるものか」
紫は表情を驚いたものに変えました。
そして、相手の声から嘲りといったものが消えたことに、遅まきながら気付きました。
「今のお前は砂山を崩されていじける子どもだよ」
「……私が?」
「そうだ。お前は自分の持てる力の全てを砂山に注ぎ込んだ。しかし、それは壊れた。壊された。せっかく長い時間を掛けて造ったのに。ふざけるな! 許せない! そんな思いでお前はいつまでも小さな砂場の中に留まっている」
「……」
「もう一度造ろうにも疲れた。造り直すだけの体力も無ければ気力も無い。もう嫌だ。何もできない、したくない。私が悪いんじゃない。壊した奴が悪いんだって、口には出さずに膝を抱えて目で訴えている。ほら、丸っきり拗ねた子どもじゃないか」
自分を子どもと決めつける相手に紫は反論します。
冷静沈着で、恐ろしく合理的な彼女らしくもありません。
そんなことをすれば、疑似結界を張れる時間も少なくなるというのに。
何故か、紫は反論しなければいけない気がしたのです。
「違う! 私はいじけてなんかいない……。私は今も最善を尽くしている!」
「最善? 笑わせる。いつまで壊れた砂山に執着するんだ。たとえお前に造り直す気力があろうと、同じものは二度とはできない」
「黙りなさい! ……これが最善なのよ。少しでも私たちの存在を長くするにはこれしか……」
「だーかーらー! それが間違いだって言ってるんだ!」
相手の苛立った声に、八雲紫ともあろう存在が小さく震えました。
まるで叱られることを恐れる子どものようです。
「小さな砂場で遊んでいる内に頭までお子ちゃまになったか? 違うだろ、お前は永い時を生きた幻想だ。顔を上げろ、涙で見えないならすぐに拭え。砂以外の何が見える?」
紫は言われるがままに目元を拭い、しぱしぱと瞬きをしながら目の前にあるものの名を告げました。
「……雪」
「そうだ。雪だ。それは普通、砂場にあるものか?」
「……ないわ」
「そうだろう。雪は砂場になんて無いんだ。あるとしたら、砂場以外の所だ」
「ちがう、ところ……」
「まぁ、砂場にも雪は降るかもしれない。でも、もっと美しい雪が見れる所があるかもしれないじゃないか」
「……」
何となく、紫には相手の言いたい事が分かった気がした。
「私にこの地を捨てろと、貴方は言いたいのね?」
「ようやくだ。賢者様にしては理解するまでに時間が掛かり過ぎている。あいや、天才様には凡百の言う事は逆に理解し辛かったかな?」
「貴方の考えは分かる。でも、私だって考えた。その上で無理だと判断したの」
「ふむ、その根拠は?」
偉そうな口の利き方だと思いましたが、不思議と不快感は消えていました。
そうでなければ、会話というものは成り立ちません。
「一つ。ここ以上に理想的な立地は存在しない。他は人の住処に近過ぎる」
「時代が変われば人間の住処も変わっているさ。それに、この国のほとんどは山地だ。似たような場所は必ずある」
「……二つ。大結界を構成する要素、何より博麗の巫女が欠けたことが大き過ぎる。巫女無くして大結界の維持は不可能よ」
「なら新しい博麗の巫女をつくればいい。才能がありそうなのをお前が見付けて教育してお終い。簡単じゃないか」
「そう簡単に済まないから頭を悩ませているのよ」
「どうせ一度はやってることなんだろ? なら、できないことはないさ」
「……さっき同じことは二度できないって聞いたけど?」
「すまないね。舌が勝手に喋るんだ」
「声を発しているのは貴方の声帯の筈だけど」
「じゃあ、私の舌は別の生き物なのかもしれんね」
そんな適当を抜かす相手ですが、やはり紫の中に最初のような嫌悪感はありませんでした。
むしろ、久しぶりの会話を楽しんでさえいました。
「で、まだあるんだろう? 続きは?」
「え、えぇ。……恥ずかしい話だけど、私は人間たち相手に力を使い過ぎた」
「あぁ、あれは見物だった。人間にあんな声が出せるなんて私は初めて知ったよ」
「んんっ! お陰で私は疑似結界を張るので精一杯なの。ここに支点として留まるならまだしも、何処かへ移動しながらなんて今の力では不可能よ」
「不可能、不可能ねぇ。私にはそうは思えない。むしろ簡単なことだと思うがね」
「……聞かせてもらえる?」
八雲紫を知る者なら誰もが驚いたでしょう。
あの八雲紫が、誰かを、それも身も知らずのこの上ない無礼者に意見を求めている現状に。
相手は笑いを堪えるような声で、彼女の要望に答えてみせました。
「まずはその疑似結界とやらを解く」
「却下。少しでも貴方に期待した私が馬鹿だったわ」
「待て、もう少し私の話を聞け」
「嫌。貴方とのこの数分間のやり取りは私の黒歴史としてお墓の中まで持って行くわ」
「聞けって。続きがある。そうすればお前も私も、他の奴らも墓に入らずに済む」
「……聞かせなさい」
「人間を襲う」
それはとても簡潔な答えでした。
しかし、今の紫には天啓に聞こえました。
「……そういうこと。人を襲うことで腹を満たすついでに延命……随分とレトロなやり方ね」
「レトロもモダンもない。妖怪の原点だ。管理だなんて体系的なことをするから、肝心な時に選択の視野を狭めるんだ」
「理には適ってると思うわ。でも……」
紫の顔が曇りました。
それを察したのか、相手の声に呆れが混じりました。
「まさかとは思うが……八雲紫は見も知らずの人間は襲えない、なんてことはないよな?」
「それはないわ。必要とあらば、私は他人だろうが襲う。私だって自分が可愛いもの」
「うんうん、そうだろうそうだろう」
「少し胸が痛むことはあるけれど」
「やっぱりお前は甘いよ」
相手の呆れはさらに増していました。
そんな相手には申し訳ないと思いつつ(これも八雲紫を知っている者であればひっくり返ってもおかしくないことです)紫は言わなければならない事がありました。
「人間の事は『今はどうでもいい』の。私が気になるのは疑似結界を解く方」
「張り直せば済む話だろう」
「簡単に言ってくれるけど、事はそんなに簡単じゃないの。まず貴方の言う方法で人間を襲う為に疑似結界を解いたとする。すると、どうなると思う?」
「否定の力が私たちを襲うな」
「そう。私の為に疑似結界を解けば、私を含めた幻想全てが苦痛を受ける」
「ローリスクハイリターン極まれりだね」
ふむ、と考えるような声が背後から聞こえます。
「方法が無い訳じゃないの。例えば、私は動かずに貴方が持ってくる人間を食らう。こうすれば疑似結界を解くことなく力の回復も見込める。ちなみにやる気は?」
「無いよ、面倒臭い。大体、そんなチマチマしたやり方じゃ間に合うとは思えないね」
「そうなのよ。そうするとやっぱり、でも……」
見透かしたような言葉は正解でした。
紫の力は極限まで低下した状態で、人間を一人二人連れてくる程度では消費分との釣り合いが到底取れないのです。
新たな拠点を見付け、楔を打ち込み、管理者の巫女を育成し、博麗大結界を張り直し、幻想郷を創り直すには、それ相応の人間を喰らう必要がありました。
その為には、どうしても疑似大結界を解く必要があります。
しかし、そうすれば同類たちを消滅の危機に晒すことにもなります。
緩慢な死か、一世一代の大博打を打つか。
紫の優秀な頭脳はフル稼働し、それでも決められないでいるのです。
堂々巡りの彼女の思考を断ち切ったのは、わしわしと髪を掻き毟る音でした。
音は凭れた壁の向こうから変わらず聞こえました。
「あー、お前はとんだ甘ちゃんだ! ちょっと結界を解くぐらいが何だ。それくらいで消えるような奴はとっくに消えてるに決まってる」
「でも、貴方も苦しむことになるわ」
「おいおい、らしくないぞ、八雲紫。まさか一回ペットに噛まれたからって弱気になってるんじゃないな?」
「そんな訳……」
どうしてか、ないと言い切れない紫でした。
「いいか、八雲紫。お前には爪も、牙も、立派な四肢も、ちっぽけな鼠なんかとは比べ物にならないような頭があるだろう。私たち幻想はそうだ。ちょっとやそっとじゃどうってことない」
「でも! でも、私一人なの。私一人じゃ何もできない。何もしてあげられない……」
本当にらしくないと、紫は思います。
堅く閉ざした瞼の内側から、水滴が溢れてくるのです。
誰かの前で涙を流すなんてこと、彼女は決して自分に許しませんでした。
壁の向こうの相手はもう一度髪を掻き毟る音を響かせます。
続く声は呆れながらも、初めて優しげな響きを湛えていました。
「一人で背水の陣ってかい? 下らないね。そんなことは馬鹿のすることだ。……お前は賢い。賢いお前は賢いなりに、自分の後ろがどうなっているかくらい把握すべきだ」
「……何を言っているの?」
「立て、八雲紫。その身を反転させて見てみろ。そこにお前に対する回答がある」
紫は戸惑いました。
彼女の背後にはボロボロの壁と、生意気な奴が一人いるだけな筈なのに。
言われるがまま、紫の身体は立ち上がることを望んだのです。
暫くの間、ミリ単位の動きさえ制限していた身体は大きな悲鳴を上げました。
バキバキと骨は鳴り、ベリベリと筋肉は裂けるような音を立てました。
しかし紫には、己が身体が喜んでいるようにも感じられました。
よろよろと、本当に老人になったかのように脚が震えました。
両方の爪先を右にして、ゆっくりと身体も右へと動かします。
瞼を閉じたままの状態が、酷く恐ろしく感じられました。
暗闇を怖いだなんて幻想失格だと、唇が自然と歪みます。
癒着しかけのような瞼を強引に開けました。
彼女の瞳に、光が差し込みました。
ゆっくりと慣らした後、百八十度反転させた先の光景を、紫は目にしました。
「どうだい、八雲紫。お前の陣は本当に一人に見えるのかい?」
真っ先に飛び込んできた光景は、壁の向こうで卑屈気に顔を歪める、如何にもひ弱そうで、生意気が服を着たような少女でした。
紫の目が大きく広がりました。
それは少女の姿を見たから――ではなく、少女のその後ろを見たからでした。
「これが私のレジスタンス部隊。そして今からは……お前の仲間だ」
少女の後ろには、数えきれない程の幻想たちが犇(ひし)めいていました。
神がいます。
鬼がいます。
覚がいます。
天狗がいます。
河童がいます。
亡霊がいます。
吸血鬼がいます。
宇宙人がいます。
付喪神がいます。
その他にも紫ですら見たことのないような幻想の姿もありました。
呆然とする彼女に、少女はドッキリにでも成功したような表情を浮かべていました。
「驚いただろう」
「これを、貴方、どうやって……」
「いや、初めは私一人で細々とやってる組織だったんだがな。今回のことを契機に気紛れで呼び掛けたら思いの外集まってしまってね。……私にもどうしてこんなに集まったかは分からん」
「これだけの面子で貴方が頭をやってることが不思議でならないわ」
「言ってくれるな。だが正しい。私だって譲りたいのは山々なんだ。でも、誰もやりたがらないから仕方なく私は続けているんだ。そうでもなければ、誰がお前と話すもんか」
後方の部下たちに向かって愚痴を吐く少女を可愛らしく思ったのは、この時が初めてでした。
「ここにいる誰もお前のやることに反対しない。八雲紫が自分たちの為に働いてくれていることは理解してる。今さら結界一つ解いたって恨みやしないよ。まぁ、もし逆恨む奴がいようものなら……」
「いようものなら?」
「この私が許しはしない」
紫の表情が緩みます。
笑顔です。
久方ぶりの笑顔、紫はそれを取り戻したのでした。
彼女の笑顔をどう受け取ったのか、対する少女は表情を真面目なものへと変えました。
人を小馬鹿にするように上を向く口の端は、彼女の幻想としての存在の細やかな抵抗だったのかもしれません。
「言っておくが、私はこいつらを仲間とは思っていない。こいつらはそれを理解した上で私に賛同している」
「あらあら」
「こいつらは私が生き残るため、人間に今一度恐怖を教え込むための道具だ。だから、私はこいつらを徹底的に利用する」
「まぁ、怖い」
「最終的に、どんな手を使っても生き残った者が勝ちなんだ。犠牲は誰もが承知の上、多少のことには目も瞑るよ」
「過激ね。ギャンブルで身を滅ぼすタイプでしょう、貴方」
らしさを取り戻した紫を、彼女からすれば見慣れた胡散臭いものを見るような目で、少女は言います。
「もう私の言いたい事は分かるだろう」
「いいえ。私は頭の固いうつけ者ですから。貴方の口から伝えて下さいます?」
少女の顔が苦虫を百匹は噛み潰したように歪みます。
少女は誰かを利用するのは好きでも、頼るのは嫌いなのです。
今までは利用するだけ利用して、捨ててきました。
しかし今、少女の目の前にいるのは利用するどころか、逆に利用されてポイされてしまってもおかしくない存在なのです。
そうならない為に、少女が選べる選択は一つだけでした。
苦渋の選択とはこの事です。
彼女が選んだ選択は、共闘と呼びました。
「八雲紫。私には、お前の力が必要だ」
言葉と共に差し出された少女の手は小さなものでした。
冬の寒さか、八雲紫という存在に対する恐れか、震えを隠しきらないその姿は滑稽ですらありました。
自分らしさを取り戻した紫は言わずにはいられませんでした。
「貴女、見るからに弱そうだから、私と手を組んだ瞬間に消えちゃうかもしれないわよ?」
「今この瞬間にも私の寿命は絶賛減少中だ。……それに言っただろう。私は誰よりも生き汚いと」
両者の間で笑みが交わされます。
どちらも腹に一物を抱えた様子を隠す気もない、それはそれは悪い笑みでした。
「八雲紫よ。貴方のレジスタンスとやらに加わってあげる」
「鬼人正邪だ。加わる以上は利用してやるから覚悟しておけ」
差し出されるその手を、八雲紫はしっかりと握り返しました。
少女――鬼人正邪が後ろを振り返ります。
そこにいたのは古今東西和洋折衷有象無象の幻想たちです。
彼らは待っていました。
彼らのリーダーの言葉を。
鬨の声を上げるその瞬間を。
鬼人正邪の、その細くひ弱な腕が振り上げられた時、幻想たちの反撃の狼煙は上がるのです――。
「――さぁ、下剋上(リベンジ)と行こうじゃないか!」
これは人と幻想の二転三転する下剋上の歴史、その終わりの始まり。
賢者と天邪鬼の邂逅の物語。
粉雪です。
粉雪は天から地上に降り、全てのものに平等に降り注いでいます。
女も雪に振られていました。
埃でくすんだ髪も、血で赤黒く染まった服も、無気力に投げ出された手足にも。
この世に絶望した様子の女にも、雪は優しく、無慈悲に積もるのです。
さくさくと雪を踏み締める音が女の聴覚を揺らします。
しかし、全てを諦めてしまった女は音の方に顔を上げることも、視線をやることすらしません。
彼女は自分に残された最後の仕事を全うすることに忙しいのです。
音の主も、そんな女の様子など知ったことかとばかりに無遠慮に足を動かします。
さくさくという音は、女が凭(もた)れる穴だらけの壁の後ろで止まりました。
それでも女は気にした様子はありませんでした。
雪化粧の施された平地で、壁一枚を隔てて佇む二人。
しんしんと雪の音でも聞こえそうな静寂を破ったのは、足音の主でした。
「やぁ、八雲紫。いい格好だな。今の無様なお前には、外の汚れた雪が実に似合う」
女――八雲紫の頭に積もっていた雪が、僅かばかり零れ落ちました。
# # #
昔々でもない、この世とは少しずれた世界に、八雲紫という大妖怪がいました。
彼女はとても美しく、賢く、そして強い妖怪で、多くの者たちから満遍なく嫌われ、恐れられていました。
それというのも、彼女の性格の悪さに所以するのですが、それは置いておくとしましょう。
さて、そんな八雲紫ですが、彼女は自分を嫌う者たちの味方でした。
正確に言うと、自分の作った世界に住む者の味方でした。
彼女は創ったのです。
一つの世界を。
自身の力を使って。
忘れられた者たちの楽園を。
その楽園の名を、幻想郷と呼びました。
幻想とは本来、存在し得ない物事を指します。
それは例えば、スキマなどという説明しようのない事象であったり。
例えば、幽霊や妖精のような存在を確証できない空想とされる存在であったり。
例えば、神などという信仰を捧げられながらも、常人の前にはロクに姿も見せない薄情者であったり。
つまりは、人が意識しない、できないものたちの事を言います。
しかし、そんな幻想の多くは人から生まれました。
それは人々の恐怖などといった心象、祈りなどの儀礼的習慣、たまに都市伝説のような俗な噂などが素となります。
人の中で揉まれ、習慣化され、存在認知が閾値を超えた時、幻想たちは形を得るのです。
種が蒔かれ、発芽し、実を付けるように。
人ある所に幻想は生まれたのでした。
人は未知というものを強く恐れました。
未知であるということは対処の仕様がないという事を意味し、力の差というものを曖昧にします。
だから幻想の多くは人よりも強く、強者としての仁義に則って生みの親を救いもしましたし、襲いもしました。
人も生んだ責任を果たすように様々な手段を用いて幻想と戦いもすれば、敬い奉りもしました。
幻想の多くは、そんな人との関係を心地良く思っていました。
しかし、そう思っていたのは彼らだけでした。
人は次第に、幻想を疎むようになっていたのです。
人は古くから闇を恐れました。
その恐れが多くの幻想を生みました。
どうすれば闇を、そして幻想を克服できるのか。
人は考えました。
それは単純なことでした。
人の手で明かりを生み出せば良かったのです。
時代が移り変わると共に、蝋燭がガス灯に代わり、ガス灯が白熱電灯に、白熱電灯は蛍光灯に進化していきました。
その進化の速度は恐るべきもので、幻想たちがどうこうする隙も暇もありませんでした。
気付けば、人の世界に明かりのない場所はごく僅かとなっていました。
人には生き易く、幻想たちには酷く優しくない環境が出来上がっていました。
人は明かりのある生活を喜び、明かりを生み出した自分たちは強者だと自覚しました。
明かりは人の闇への恐怖心を薄めました。
それは同時に、幻想に対する恐怖心、関心といったものを失くすことにも繋がったのです。
多くの幻想たちが死に絶えました。
勝手に生むだけ生んで、勝手に忘れる人を恨んで逝きました。
憐れでした。
とてもとても憐れでした。
だから、八雲紫は立ち上がりました。
抵抗する術を持たず死に行く幻想たちにたった一つの道を。
古き良き人と幻想の関係を持った小さな箱庭への道を。
彼女は示したのでした。
その箱庭の名を、幻想郷と呼びました。
幻想郷は八雲紫によって管理された世界、外の世界の二の舞は決して許されませんでした。
排除、排斥される外の世界の技術。
楽園は人口の明かりも届かない自然豊かな辺境へ。
憎むべき存在でありながら、幻想たちが存在する為には不可欠な人間も少数ですが用意されていました。
幻想郷は平和でした。
郷には常に停滞した空気が漂い、少女たちのバラ撒く弾幕の華が郷の其処彼処を彩りました。
たまに異変こそ起こりましたが、巫女や魔法使いやメイドやら庭師やらが気付いたら終わらせていました。
八雲紫と、それと繋がる博麗の巫女にさえ粗相を働かなければ、幻想たちも生きていけました。
昔ほどの刺激はありませんでしたが、彼らも幻想郷での生活を気に入っていたのです。
しかし、そう思っていたのはやはり幻想たちだけでした。
彼らの為に飼われた人は、楽園を楽園と思っていませんでした。
前にも言いましたが、幻想たちが生きるには人の存在が不可欠であり、それらの為に人は生かされ、飼われていました。
勿論、必要とされる以上、ある程度の自由は許されていました。
しかし、管理され、制限を強いられる生活は家畜と代わりはありません。
特にまだ若い世代は、迷い込んできた外来人から聞かされる外の世界に興味を持ち、幻想郷を出たいという気持ちを強めていました。
幻想郷にはいくつかの結界が存在しました。
その中でも最重要とされたのが博麗大結界でした。
常識と非常識を分ける理論結界、これが存在するから妖怪は存在を保て、人は外の世界に想いを馳せるしかなかったのです。
幻想たちは力こそありましたが、幻想郷で日々を過ごす内に受動的な者が増えました。
人は全くの逆、彼らは外の世界への想いを強め、実に能動的に活動を始めました。
しかし、八雲紫がそれを許すはずがありませんでした。
彼女は何処からか嗅ぎ付け、静かに人の粛清を行うのでした。
『同じ目に遭いたくなければ大人しく飼われていろ』
物言わぬ骸は、彼女の言葉を代弁していました。
八雲紫の目的は、人から反逆の意志を摘むことにありました。
彼女に誤算があったとすればそこです。
八雲紫は人を過小評価し過ぎたのです。
隅に追い詰められた鼠が猫を噛むように、人は抵抗の為の牙を持っていました。
静かに、しかし確実に、牙は研がれていたのです。
ところで、ここまで八雲紫をまるで神のように綴っていますが、彼女は神ではありません。
神の御業の如き力を振るいながら、しかし、その身はどうしようもなく神と同じ幻想なのでした。
幻想は皆、何かしらの弱点を抱えていました。
正体不明、分類不明の八雲紫に弱点があったとすれば一つ、彼女は必ず冬眠を必要としたことです。
強過ぎる力を振るう為の充電期間のようなものなのか、それは八雲紫以外の誰も知りません。
しかし、それは間違いなく彼女にとって唯一の隙であり、人にとって唯一の好機でもあったのです。
そして冬のある日、遂に事件(クーデタ)は起こりました。
ある人は参拝客を装い、博麗の巫女を殺しました。
ある人は捨て身で博麗大結界の楔を引き抜きました。
ある人は退治屋として培った力で妖怪の虐殺を始めました。
巫女を失い、楔を失った博麗大結界は嘘のように呆気なく消滅しました。
その瞬間、結界によって存在を許容されていた幻想たちを襲ったのは、存在の否定という圧倒的な暴力でした。
妖精などの力無い存在は一瞬で消え去りました。
人型を保てる程に力ある存在は消滅こそ免れましたが、苦痛に変わりはありませんでした。
八雲紫が異変を察知して飛び起きた時には全てが手遅れでした。
結界を失った郷には、外の淀んだ空気が混じっていました。
彼女が守ろうとした幻想たちの多くが弱り、苦しんでいました。
その彼らを蹴り、甚振り、呆然とする彼女を嗤う人の姿がありました。
「――――――――――ッ!!!!!」
八雲紫の絶叫が幻想郷を、いえ、かつての「幻想たちの」楽園の空に響き渡りました。
彼女は怒りのままに力を振るい、視界に入った人を、たとえ無抵抗であっても手当たり次第に殺していきました。
結界が壊れた以上、それが自分の身を削る行為であるとも気付かずにです。
それもあるいは、人の罠だったのかもしれません。
冷静沈着である八雲紫であれば、まず犯さないであろう愚の極みともいうべき行い。
それを彼女が我が子のように愛した郷を破壊することで誘い出したのです。
八雲紫ですら察知できなかった程に綿密、周到に組まれた一大計画。
一体、何時から計画されていたのか。
肉を切らせるどころか魂まで裂かれるような捨て身の蛮勇。
外の世界とは、人にはそれほどまでに魅力的に映っていたのでしょうか。
それとも、八雲紫に一太刀浴びせられるなら命すら惜しくなかったのか。
どちらにせよ狂気極まりなく、被害は甚大。
しかし軍配は人の側に上がりました。
人の牙は、八雲紫の首筋に確かに届いたのです。
人に宝物を壊され、仲間を殺され、力を消費させられた八雲紫でしたが、この時はまだ諦めていませんでした。
正気を取り戻した彼女がまず講じたのは、疑似的な博麗大結界を張ることでした。
それを張れば、一先ず幻想たちの消滅を食い止めることができるからです。
しかし、それは所詮は応急処置でしかありませんでした。
博麗大結界に必要な楔、そして管理者の博麗の巫女。
その両方を失い、おまけに力を無駄に消費してしまった八雲紫では、本格的に博麗大結界を張ることは不可能なのでした。
彼女にできることはただ一つ。
自身の存在を維持する力を極限まで減らし、疑似結界の維持に務めることだけでした。
岩のように不動を貫き、堅く瞼を閉じた八雲紫を襲ったのは途方もない虚無感と無力感です。
彼女の力が切れれば、守るべき者たちもいずれ消えていきます。
脳裏にはいつかと同じく、苦しみ、恨み言を吐きながら息絶えた幻想たちが繰り返し現れました。
八雲紫は、ただただ心の内でごめんなさいと謝り、泣くことしかできないのでした。
# # #
「やれやれ。本当に、八雲紫ともあろう者が無様な姿を晒しちゃってまぁ……」
紫が凭れる壁の向こう、少女特有の高い声には多分な嘲りが込められていました。
それでも紫は反応を示しません。
声の主は特に気分を害した様子はありません。
むしろ機嫌を良くしていました。
何故なら、声の主は非力な癖に無抵抗の者を甚振ることが大好きだからです。
「潰れちゃったなぁ。お前の大事な大事な幻想郷」
「……」
「なぁ、たかが人間如きに住処を壊されるってどんな気分? 飼い犬に手を噛まれるってどんな気分? ねぇ、ねぇ、ねーぇ?」
「……」
「今までずーっと下だと思ってた奴に一杯食わされた訳だろう? 例えるなら……犬畜生に小便引っ掛けられる感じ? うわ、私なら憤死もんだね。げー、無理無理、耐えられない、耐えられないね」
「……」
「いやまぁね、人間もよくやったと思うよ? うん。外に出たいからって、わざわざ巫女ぶっ殺して大結界までぶっ壊すとかさ。普通、考えやしない。正気じゃない。狂ってる。どいつもこいつも頭の中のネジがダース単位で飛んでるとみたね。破れかぶれな奴はこれだから怖いって典型だよ」
「……」
「わざわざ住み良い場所を捨てるなんてねぇ、人間の考えることは分っかんないよ。まぁ、賢者様だって分からなかったんだから仕方ないさ。なぁ?」
「……」
軽薄で馴れ馴れしく挑発混じりの言葉を一方的に浴びせられながら、やはり紫は動きません。
こうまで反応がないとさすがに面白みがないのか、声には拗ねた色が混じります。
「おーい、何か答えろよー。私が一方的に喋っても楽しくないじゃないか。会話の放棄は思考の放棄、気付かない内にボケが進行しても知らないよ」
「……」
「それともとっくにボケちゃったとか? おいおい、それだけは勘弁して欲しいな。ボケ老人の相手をしてやるほど私は心優しくないんだ。慈善活動なんて真っ平さ」
「……」
「ボケちゃっても仕方ないとは思うけど、私が話し掛けてるんだ。聞いてくれてないと困る。でないと私も消えちゃうし、おまけに気違いの誹りまで受ける」
「……」
「ま、私が言いたいのはこれだけ。お前も学んだだろ? 人は私たちを疎んだ。仲良し小好しの時間は終わったんだ。高い授業料を払ったと思おうじゃないか。その経験を活かしてもう一回、幻想郷を創り直そう。そうしたら私もお前も生き残れるんだ」
まったく無責任な口調で無責任な言葉を、声の主は吐きました。
「…………ない」
「ん?」
すると、初めて紫の口元が動きました。
どれだけ水を口にしていないのか、乾き切った声音を拾うことは至難でした。
「聞こえないなー。何だって?」
「……わけ、……じゃない」
「んー? もっと大きな声で!」
煽る声に釣られて、紫は腹の底から声を上げました。
「そんなこと、できる訳ないじゃないっ!!!」
怒気と共に放たれた声は波状に広がり、紫に積もった雪を振るい落とし、周囲の雪にまで波紋の跡を残しました。
至近で大声の煽りを食らった別の声の主はどうも驚いて引っ繰り返ったようで、「いてて」とか「何て大声だ」とか悪態を吐いていました。
それが済むと、また前のような人を小馬鹿にするような声で紫に語り掛けます。
「何だ、ちゃんと声が出せるんじゃないか。だんまりだなんて感じ悪いからやめた方がいいよ。私が言うのもアレだけどさ」
「……」
「って言ってるそばからそんな態度かい。いいけどね、別に。お前が答えたくなるような言葉を言えばいいんだから」
「……」
「あー、さっきお前は言ったな。『そんなことできる訳ないじゃない』って。……ふーむ、私が言うのも何だが、あれだな」
一拍の間を置いた言葉でした。
その一瞬が必要としたのは覚悟だったのかもしれません。
何故ならその続きはおそらく、それまでで一番侮蔑の籠った言葉だったから。
「八雲紫、お前は情けない奴だな。やってもないのにできる訳がないと決めつけるなんて、畜生の人間にも劣る」
瞬間、周囲の温度は一度も二度も下がりました。
紫の身体を目掛けて降り落ちる雪だけが、触れる前に溶け消えます。
紫の声には、前にも負けない怒気と熱気とが込められていました。
「……私の言葉が決めつけですって? 見ず知らずのお前に、何が分かる! お前に私がやっていること、やってきたことの全てが分かるか! 答えなさい!」
「あぁ、分からん」
「ならば教えてあげるわ! 私が今もしているのは、疑似的な博麗大結界の維持!」
「あぁ、だから私は今もこうしてピンピンしてられるのか。それはすまないね。ありがとう」
「……ッ! 私がしてきたことはこの大結界をもう一度張り直すこと。だけど、できなかった! 肝心要の楔と巫女を失った今、私一人の力で大結界を維持するのは不可能なの!」
「それは素人の私にも何となく分かるよ」
「あぁ、そう。それだけ理解が行くなら私が言いたい事も分かるでしょう?」
「大結界無くして幻想は生きられぬ。当然、幻想郷を創り直すことは不可能と」
「その通りよ。分かったら、ここから去りなさい。私と話すということは、貴方の存在し得る時間を縮めることにもなる」
冷静さを取り戻した紫の声は、冷たくもあり、同族への気遣いが込められていました。
しかし、その相手はどこまでも人の心遣いを踏み躙ります。
仕方がないのです。
そういう性分なのです。
その優しさに甘えることが何より自分の寿命を縮めることに繋がってしまう、損な存在なのです。
「八雲紫、お前の言いたい事は分かった。しかし、私はもう一度言うぞ。情けない奴め、妖怪の賢者だなんてよくも名乗れたものだとな」
「……貴方はよほど早死にしたいのね」
「馬鹿を言うな。私ほど生き汚い奴はいない。そうでなければ、お前なんかに話し掛けるものか」
紫は表情を驚いたものに変えました。
そして、相手の声から嘲りといったものが消えたことに、遅まきながら気付きました。
「今のお前は砂山を崩されていじける子どもだよ」
「……私が?」
「そうだ。お前は自分の持てる力の全てを砂山に注ぎ込んだ。しかし、それは壊れた。壊された。せっかく長い時間を掛けて造ったのに。ふざけるな! 許せない! そんな思いでお前はいつまでも小さな砂場の中に留まっている」
「……」
「もう一度造ろうにも疲れた。造り直すだけの体力も無ければ気力も無い。もう嫌だ。何もできない、したくない。私が悪いんじゃない。壊した奴が悪いんだって、口には出さずに膝を抱えて目で訴えている。ほら、丸っきり拗ねた子どもじゃないか」
自分を子どもと決めつける相手に紫は反論します。
冷静沈着で、恐ろしく合理的な彼女らしくもありません。
そんなことをすれば、疑似結界を張れる時間も少なくなるというのに。
何故か、紫は反論しなければいけない気がしたのです。
「違う! 私はいじけてなんかいない……。私は今も最善を尽くしている!」
「最善? 笑わせる。いつまで壊れた砂山に執着するんだ。たとえお前に造り直す気力があろうと、同じものは二度とはできない」
「黙りなさい! ……これが最善なのよ。少しでも私たちの存在を長くするにはこれしか……」
「だーかーらー! それが間違いだって言ってるんだ!」
相手の苛立った声に、八雲紫ともあろう存在が小さく震えました。
まるで叱られることを恐れる子どものようです。
「小さな砂場で遊んでいる内に頭までお子ちゃまになったか? 違うだろ、お前は永い時を生きた幻想だ。顔を上げろ、涙で見えないならすぐに拭え。砂以外の何が見える?」
紫は言われるがままに目元を拭い、しぱしぱと瞬きをしながら目の前にあるものの名を告げました。
「……雪」
「そうだ。雪だ。それは普通、砂場にあるものか?」
「……ないわ」
「そうだろう。雪は砂場になんて無いんだ。あるとしたら、砂場以外の所だ」
「ちがう、ところ……」
「まぁ、砂場にも雪は降るかもしれない。でも、もっと美しい雪が見れる所があるかもしれないじゃないか」
「……」
何となく、紫には相手の言いたい事が分かった気がした。
「私にこの地を捨てろと、貴方は言いたいのね?」
「ようやくだ。賢者様にしては理解するまでに時間が掛かり過ぎている。あいや、天才様には凡百の言う事は逆に理解し辛かったかな?」
「貴方の考えは分かる。でも、私だって考えた。その上で無理だと判断したの」
「ふむ、その根拠は?」
偉そうな口の利き方だと思いましたが、不思議と不快感は消えていました。
そうでなければ、会話というものは成り立ちません。
「一つ。ここ以上に理想的な立地は存在しない。他は人の住処に近過ぎる」
「時代が変われば人間の住処も変わっているさ。それに、この国のほとんどは山地だ。似たような場所は必ずある」
「……二つ。大結界を構成する要素、何より博麗の巫女が欠けたことが大き過ぎる。巫女無くして大結界の維持は不可能よ」
「なら新しい博麗の巫女をつくればいい。才能がありそうなのをお前が見付けて教育してお終い。簡単じゃないか」
「そう簡単に済まないから頭を悩ませているのよ」
「どうせ一度はやってることなんだろ? なら、できないことはないさ」
「……さっき同じことは二度できないって聞いたけど?」
「すまないね。舌が勝手に喋るんだ」
「声を発しているのは貴方の声帯の筈だけど」
「じゃあ、私の舌は別の生き物なのかもしれんね」
そんな適当を抜かす相手ですが、やはり紫の中に最初のような嫌悪感はありませんでした。
むしろ、久しぶりの会話を楽しんでさえいました。
「で、まだあるんだろう? 続きは?」
「え、えぇ。……恥ずかしい話だけど、私は人間たち相手に力を使い過ぎた」
「あぁ、あれは見物だった。人間にあんな声が出せるなんて私は初めて知ったよ」
「んんっ! お陰で私は疑似結界を張るので精一杯なの。ここに支点として留まるならまだしも、何処かへ移動しながらなんて今の力では不可能よ」
「不可能、不可能ねぇ。私にはそうは思えない。むしろ簡単なことだと思うがね」
「……聞かせてもらえる?」
八雲紫を知る者なら誰もが驚いたでしょう。
あの八雲紫が、誰かを、それも身も知らずのこの上ない無礼者に意見を求めている現状に。
相手は笑いを堪えるような声で、彼女の要望に答えてみせました。
「まずはその疑似結界とやらを解く」
「却下。少しでも貴方に期待した私が馬鹿だったわ」
「待て、もう少し私の話を聞け」
「嫌。貴方とのこの数分間のやり取りは私の黒歴史としてお墓の中まで持って行くわ」
「聞けって。続きがある。そうすればお前も私も、他の奴らも墓に入らずに済む」
「……聞かせなさい」
「人間を襲う」
それはとても簡潔な答えでした。
しかし、今の紫には天啓に聞こえました。
「……そういうこと。人を襲うことで腹を満たすついでに延命……随分とレトロなやり方ね」
「レトロもモダンもない。妖怪の原点だ。管理だなんて体系的なことをするから、肝心な時に選択の視野を狭めるんだ」
「理には適ってると思うわ。でも……」
紫の顔が曇りました。
それを察したのか、相手の声に呆れが混じりました。
「まさかとは思うが……八雲紫は見も知らずの人間は襲えない、なんてことはないよな?」
「それはないわ。必要とあらば、私は他人だろうが襲う。私だって自分が可愛いもの」
「うんうん、そうだろうそうだろう」
「少し胸が痛むことはあるけれど」
「やっぱりお前は甘いよ」
相手の呆れはさらに増していました。
そんな相手には申し訳ないと思いつつ(これも八雲紫を知っている者であればひっくり返ってもおかしくないことです)紫は言わなければならない事がありました。
「人間の事は『今はどうでもいい』の。私が気になるのは疑似結界を解く方」
「張り直せば済む話だろう」
「簡単に言ってくれるけど、事はそんなに簡単じゃないの。まず貴方の言う方法で人間を襲う為に疑似結界を解いたとする。すると、どうなると思う?」
「否定の力が私たちを襲うな」
「そう。私の為に疑似結界を解けば、私を含めた幻想全てが苦痛を受ける」
「ローリスクハイリターン極まれりだね」
ふむ、と考えるような声が背後から聞こえます。
「方法が無い訳じゃないの。例えば、私は動かずに貴方が持ってくる人間を食らう。こうすれば疑似結界を解くことなく力の回復も見込める。ちなみにやる気は?」
「無いよ、面倒臭い。大体、そんなチマチマしたやり方じゃ間に合うとは思えないね」
「そうなのよ。そうするとやっぱり、でも……」
見透かしたような言葉は正解でした。
紫の力は極限まで低下した状態で、人間を一人二人連れてくる程度では消費分との釣り合いが到底取れないのです。
新たな拠点を見付け、楔を打ち込み、管理者の巫女を育成し、博麗大結界を張り直し、幻想郷を創り直すには、それ相応の人間を喰らう必要がありました。
その為には、どうしても疑似大結界を解く必要があります。
しかし、そうすれば同類たちを消滅の危機に晒すことにもなります。
緩慢な死か、一世一代の大博打を打つか。
紫の優秀な頭脳はフル稼働し、それでも決められないでいるのです。
堂々巡りの彼女の思考を断ち切ったのは、わしわしと髪を掻き毟る音でした。
音は凭れた壁の向こうから変わらず聞こえました。
「あー、お前はとんだ甘ちゃんだ! ちょっと結界を解くぐらいが何だ。それくらいで消えるような奴はとっくに消えてるに決まってる」
「でも、貴方も苦しむことになるわ」
「おいおい、らしくないぞ、八雲紫。まさか一回ペットに噛まれたからって弱気になってるんじゃないな?」
「そんな訳……」
どうしてか、ないと言い切れない紫でした。
「いいか、八雲紫。お前には爪も、牙も、立派な四肢も、ちっぽけな鼠なんかとは比べ物にならないような頭があるだろう。私たち幻想はそうだ。ちょっとやそっとじゃどうってことない」
「でも! でも、私一人なの。私一人じゃ何もできない。何もしてあげられない……」
本当にらしくないと、紫は思います。
堅く閉ざした瞼の内側から、水滴が溢れてくるのです。
誰かの前で涙を流すなんてこと、彼女は決して自分に許しませんでした。
壁の向こうの相手はもう一度髪を掻き毟る音を響かせます。
続く声は呆れながらも、初めて優しげな響きを湛えていました。
「一人で背水の陣ってかい? 下らないね。そんなことは馬鹿のすることだ。……お前は賢い。賢いお前は賢いなりに、自分の後ろがどうなっているかくらい把握すべきだ」
「……何を言っているの?」
「立て、八雲紫。その身を反転させて見てみろ。そこにお前に対する回答がある」
紫は戸惑いました。
彼女の背後にはボロボロの壁と、生意気な奴が一人いるだけな筈なのに。
言われるがまま、紫の身体は立ち上がることを望んだのです。
暫くの間、ミリ単位の動きさえ制限していた身体は大きな悲鳴を上げました。
バキバキと骨は鳴り、ベリベリと筋肉は裂けるような音を立てました。
しかし紫には、己が身体が喜んでいるようにも感じられました。
よろよろと、本当に老人になったかのように脚が震えました。
両方の爪先を右にして、ゆっくりと身体も右へと動かします。
瞼を閉じたままの状態が、酷く恐ろしく感じられました。
暗闇を怖いだなんて幻想失格だと、唇が自然と歪みます。
癒着しかけのような瞼を強引に開けました。
彼女の瞳に、光が差し込みました。
ゆっくりと慣らした後、百八十度反転させた先の光景を、紫は目にしました。
「どうだい、八雲紫。お前の陣は本当に一人に見えるのかい?」
真っ先に飛び込んできた光景は、壁の向こうで卑屈気に顔を歪める、如何にもひ弱そうで、生意気が服を着たような少女でした。
紫の目が大きく広がりました。
それは少女の姿を見たから――ではなく、少女のその後ろを見たからでした。
「これが私のレジスタンス部隊。そして今からは……お前の仲間だ」
少女の後ろには、数えきれない程の幻想たちが犇(ひし)めいていました。
神がいます。
鬼がいます。
覚がいます。
天狗がいます。
河童がいます。
亡霊がいます。
吸血鬼がいます。
宇宙人がいます。
付喪神がいます。
その他にも紫ですら見たことのないような幻想の姿もありました。
呆然とする彼女に、少女はドッキリにでも成功したような表情を浮かべていました。
「驚いただろう」
「これを、貴方、どうやって……」
「いや、初めは私一人で細々とやってる組織だったんだがな。今回のことを契機に気紛れで呼び掛けたら思いの外集まってしまってね。……私にもどうしてこんなに集まったかは分からん」
「これだけの面子で貴方が頭をやってることが不思議でならないわ」
「言ってくれるな。だが正しい。私だって譲りたいのは山々なんだ。でも、誰もやりたがらないから仕方なく私は続けているんだ。そうでもなければ、誰がお前と話すもんか」
後方の部下たちに向かって愚痴を吐く少女を可愛らしく思ったのは、この時が初めてでした。
「ここにいる誰もお前のやることに反対しない。八雲紫が自分たちの為に働いてくれていることは理解してる。今さら結界一つ解いたって恨みやしないよ。まぁ、もし逆恨む奴がいようものなら……」
「いようものなら?」
「この私が許しはしない」
紫の表情が緩みます。
笑顔です。
久方ぶりの笑顔、紫はそれを取り戻したのでした。
彼女の笑顔をどう受け取ったのか、対する少女は表情を真面目なものへと変えました。
人を小馬鹿にするように上を向く口の端は、彼女の幻想としての存在の細やかな抵抗だったのかもしれません。
「言っておくが、私はこいつらを仲間とは思っていない。こいつらはそれを理解した上で私に賛同している」
「あらあら」
「こいつらは私が生き残るため、人間に今一度恐怖を教え込むための道具だ。だから、私はこいつらを徹底的に利用する」
「まぁ、怖い」
「最終的に、どんな手を使っても生き残った者が勝ちなんだ。犠牲は誰もが承知の上、多少のことには目も瞑るよ」
「過激ね。ギャンブルで身を滅ぼすタイプでしょう、貴方」
らしさを取り戻した紫を、彼女からすれば見慣れた胡散臭いものを見るような目で、少女は言います。
「もう私の言いたい事は分かるだろう」
「いいえ。私は頭の固いうつけ者ですから。貴方の口から伝えて下さいます?」
少女の顔が苦虫を百匹は噛み潰したように歪みます。
少女は誰かを利用するのは好きでも、頼るのは嫌いなのです。
今までは利用するだけ利用して、捨ててきました。
しかし今、少女の目の前にいるのは利用するどころか、逆に利用されてポイされてしまってもおかしくない存在なのです。
そうならない為に、少女が選べる選択は一つだけでした。
苦渋の選択とはこの事です。
彼女が選んだ選択は、共闘と呼びました。
「八雲紫。私には、お前の力が必要だ」
言葉と共に差し出された少女の手は小さなものでした。
冬の寒さか、八雲紫という存在に対する恐れか、震えを隠しきらないその姿は滑稽ですらありました。
自分らしさを取り戻した紫は言わずにはいられませんでした。
「貴女、見るからに弱そうだから、私と手を組んだ瞬間に消えちゃうかもしれないわよ?」
「今この瞬間にも私の寿命は絶賛減少中だ。……それに言っただろう。私は誰よりも生き汚いと」
両者の間で笑みが交わされます。
どちらも腹に一物を抱えた様子を隠す気もない、それはそれは悪い笑みでした。
「八雲紫よ。貴方のレジスタンスとやらに加わってあげる」
「鬼人正邪だ。加わる以上は利用してやるから覚悟しておけ」
差し出されるその手を、八雲紫はしっかりと握り返しました。
少女――鬼人正邪が後ろを振り返ります。
そこにいたのは古今東西和洋折衷有象無象の幻想たちです。
彼らは待っていました。
彼らのリーダーの言葉を。
鬨の声を上げるその瞬間を。
鬼人正邪の、その細くひ弱な腕が振り上げられた時、幻想たちの反撃の狼煙は上がるのです――。
「――さぁ、下剋上(リベンジ)と行こうじゃないか!」
これは人と幻想の二転三転する下剋上の歴史、その終わりの始まり。
賢者と天邪鬼の邂逅の物語。
無理にビー玉10個
正邪が救世主に見える。初めて正邪がかっこいいと思いました。
新作でどんな活躍を見せてくれるか、期待が膨らみます。
あまり見ないから新鮮でした
元があったとしてもかなりマッハですね。
この作品は、ある話が終わり、またある話が始まるその間のことを描いた作品ですね。
(実際にはこの話の前も後も無いのですが)
幻想郷の崩壊から、新体制の確立までの全てを描くことも出来たはずですが、
この「逆襲」という場面だけを切り取ってきたのはとても上手いと感じます。
前半は淡々とした語り口から紡がれる、残酷な話。
シンプルな描写がかえって事の深刻さを伝えてくるようです。
後半は正邪と紫の会話。
正邪も紫という真面目とは程遠い性格の二人だからこそ、本心を投げかける部分でぐっと来るんでしょうね。
しかし何と言っても、このSSでの一番の見どころはやはり、
仲間(あえてこの言葉を使います)が勢揃いしている場面でしょう。
動きのない1対1の場面から、一気に世界が広がり、ぱあっ、と視界がひらけるような、
そんな錯覚さえ覚えました。
この場面で「反転」という言葉を使っているあたり、作者様は狙って書いているな、と。
我も個性も強い彼女らが、物一つ言わずに、二人の対話をずっと見守っていたのか!
……案外、せっかくだから紫に一泡くらい吹かせてやろうという気持ちかもしれませんが(正邪含め)
気になった点は、
「三人称視点なのに一人称で使われるような表現が使われていること」
「紫が懸念している問題点が解決されるようには思えないこと」
でしょうか。
前者は
>ふむ、と考えるような声が背後から聞こえます。
>後方の部下たちに向かって愚痴を吐く少女を可愛らしく思ったのは、この時が初めてでした。
などでしょうか。
しかし一々「紫は」とか書くのもくどい感じですよね。あまり深く言及しません。
後者ですが、これが私が「?」と思ったところで、
理想的な立地の問題は、正邪が紫以上に外の世界の立地について詳しいとは思えませんし、
仮にそうだとしても「似たような場所は必ずある」では説得力が足りないと感じます。
博麗の巫女についても不在期間はどうするのかという問題も解決していません。
最後の一時的に結界を解き人間を襲って力を得るという話、
最低限紫の力だけを取り戻させるとして、どれだけの人間を襲えば良いのか?
こう書きましたが、作中で全ての問題に対する具体的な解決法を明らかにする必要は無いとも思います。
この場面で重要なのは、事実かどうかではなく、紫を説得出来るかどうかですから。
(そして物語が終わった後の作戦会議などでいくらでも正しい知恵は集まるでしょう)
むしろ「?」と思っているのは、
一人間(非妖怪という意味で)の私でも疑問に思ってしまう点がこれほどあるにも関わらず、
紫が何の反論もせずに行動してしまっているところです。
前述の通り、仲間が集まるシーンは大変に感動的なのですが、
この場面に繋ぎたいがために紫を動かしているような印象を持ってしまいました。
心に残ったセリフ。
>「すまないね。舌が勝手に喋るんだ」
>「声を発しているのは貴方の声帯の筈だけど」
>「じゃあ、私の舌は別の生き物なのかもしれんね」
二枚舌ですかね。いかにもありそうな話です。
最後に、
何か良い話っぽいですがこの先やることは要するにヒャッハーということを考えると人間たちはうかうかと寝てもいられませんね。
かっこいいなこの正邪。カリスマに溢れてますね。この先どうなったのか気になる!
正邪を持ち上げるために幻想郷の人間を貶めているようにしか思えませんし(例えば、魔理沙は幻想郷で生きていることに誇りを持っています。求聞口授を参照されたし)紫及び他の妖怪達を矮小化しているようにしか思えません。
そもそも、そんな粛清をやるならば、外の情報を遮断するために最初から外来人を始末してしまえばいい。(元々、外来人の多くは食われてしまうのだから)
正邪が自機キャラになって「旬なネタ」なのはわかるけど、無理な話の筋を作ったり他のキャラを無残な引き立て役にしたりする必要性がまるで理解できない。
>6
なれるといいですね。でも無理なんだろうなぁ……。
>7
正邪はもっと日の目を浴びるべき。原作で主人公になるけど!
>9
彼女はジョーカー役にピッタリです。
>11
果たして正邪は紫の救世主となれるのか。たぶん、なる気がない。
>13
ありがとうございます。
>14
格好いい正邪、増えて欲しいです。
>15
発表の半日後にはほぼゼロからある程度まで書き上がってました。新作パワーしゅごい。
ご指摘色々とありがとうございます。二枚舌の部分は私もお気に入りです。
>17
こういう正邪が好きなのです。
>24
二人が話してる間みんな黙って突っ立ってるんですから、端から見たら笑っちゃいそうです。
>27
ありがとうございます。
>28
さて、どうなったやら。ただ人間もうかうかしてはいられませんね。
>29
実は後半が書きたかっただけという。本当は10kbくらいで収めるつもりが倍くらいになってました。
>31
作者イメージは強い仲間を率いて戦う最弱系の主人公です。
>33
郷の人間の皆が皆、魔理沙のような人間とは限らないかと。中には鬱屈とした想いを抱えている者もいるのではと考え、人間を敵役として書きました。
紫に関しては私ももう少し上手く書けないものかと反省してます。
>34
このお話での紫は同類に甘く、人間に厳しいスタンスで書いています。
神奈子の行いは自分本意ですが、外の世界とはまた違う道を歩もうとしています。道を外れれば紫も手を出すでしょうが、郷にメリットもあるかと。
霖之助は紫直々に監視をしていますし、そこまで能動的でない彼が行動を起こすとも考え難いでしょう。電気があっても、外の世界とは明かりの数でも比べものになりません。
外来人を始末してしまえばともありますが、一度幻想入りしたもの、全てを受け入れるスタンスの紫が何もしていないのに手を下すのは矛盾かと思います。
紫が手を下すのは、あくまで度が過ぎた人間という感じなので。
……と上に書いてはいますが、この辺りは私の中での設定なので、まだまだ突っ込み所も沢山あるかと思います。ご容赦ください。
>38
次はもっとしっかり設定を詰めて仕上げたいと思います。
>48
今回は格好いいという感想を多くいただき、本当に嬉しいです。
気持ちのいいくらい正邪で紫なお話でした
ただ、どうしてもそのためにキャラクタが意図的に動かされすぎているというか、もう少し八雲紫がなぜそう動かざるを得なかったか、の部分を掘り下げれば説得力が増したかもしれません。
なんだかいろいろとゲート・オブ・ヘルですね。