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第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十二章 遥かなる宙へ飛ぶのなら
第十三章 戦の火蓋を切るのなら
「本物だ! 本物だぁ!」
実に嬉しそうな顔のメリーはさっきからずっと蓮子にひっついている。一方蓮子の不満は溜まりに溜まりその苛立ちを爆発させようとしていた。
「蓮子だ! 蓮子の匂いだ!」
メリーが蓮子の髪に顔を埋め鼻を押し付けて思いっきり息を吸った瞬間、ついに蓮子の怒りが爆発する。
「鬱陶しい!」
蓮子が思いっきり身を捻ると、首に手を絡めていたメリーが引っ張られて地面に投げ飛ばされた。仰向けに転がったメリーは一瞬何が起こったのか分からない様子で蓮子の事を見上げていたが、すぐに悲しそうな顔になって目を潤ませた。
「どうして、久しぶりに会えたのに」
その鼻先に蓮子が指を突きつける。
「うっさい! さっきから何十分、抱きついてくんのよ!」
メリーはふと腕時計を見て、それからおかしそうに小さく息を吐いた。
「何十分って、やだ、蓮子。まだたったの十五分よ?」
「それでも多いわ! アホか!」
横からちゆりが、十五分好きにさせてた君もアホだと思うぜと口を挟んだ。蓮子が慌てて否定する。
「久しぶりに会ったし、ちょっとは好きにさせてやるかと思っちゃったんですよ。でもまさか十五分もやるとは思わないでしょ!」
「いや、だから十五分なすがままにさせるのが異常だと」
「蓮子! どうして! 久しぶりに会ったのに、キスの一つもしてくれないの?」
「するか!」
「そんな……昔の蓮子なら脇目も振らずに抱きついてキスを」
「しない!」
蓮子が力強く否定した瞬間、ちゆりが大声を上げた。
「ちょっと待った!」
メリーと蓮子の視線が怒っている様な表情のちゆりに集まった。
「メリーちゃん、今、君何て言った?」
「え? ただ、蓮子と永遠の愛を誓いますって」
「その前……っていや、そんな事言って……とにかく、昔の蓮子なら脇目も振らずって言ったよね?」
「はい」
「それだよ!」
メリーと蓮子が首を傾げる。
「やはり蓮子ちゃんは今おかしくなっている」
蓮子が呆れた様に首を竦めた。
「またその話ですか?」
「またも何も、まだ話は終わってないぜ。君は明らかに今おかしな状態になっている」
「何処もおかしくありませんよ。私は蓮子。いつも通り、ふつ「メリーが大好きな」子ですっておい!」
「残念だけど、私には普通の蓮子ちゃんっていうのが上手く判断出来ない。けどさっき誰よりも君を知るメリーちゃんが言ったじゃないか。君がおかしいって」
「それはメリーの冗談で……っていうか、どっちかっていうとメリーの方がおかしいでしょ。何か、さっきからテンション高くない?」
確かに、とちゆりの視線がメリーに移った。
「それはだって」
メリーが答えるよりも先に、ちゆりが言った。
「久しぶりに蓮子ちゃんに会えたからだろう」
それをメリーは否定する。
「いいえ」
「じゃあ、どうして」
「久しぶりに故郷の月に帰ってきたから」
ちゆりと蓮子が驚いた顔になる。二人共その事実は知っていた。けれどまさかメリーが自分から喋るとは思っていなかった。メリーは静かに口の端を釣り上げると艶やかに笑う。
「もう知っているんでしょう?」
蓮子が息を呑み、ゆっくりと頷いた。
メリーが静かに目を閉じる。
「ならどういう事か分かるでしょう?」
メリーの言葉の意味を、蓮子は考える。
メリーが月の人間。それは何を意味するだろう。メリーは何を言いたいのだろう。大学の健康診断で異常無しとされる位だから、月の人間と地球の人間の違いはほとんど無い。それに月の人間が地球の文化に馴染めるのかどうかも、今まで何年も問題無く暮らしてきたのだから問題無い。生物学的な違いも文化的な違いも見受けられないのなら、あるのは生まれの違いだけ。そんな些細な事が今更何だというのだろう。そして、どうしてそれがメリーの興奮に繋がる?
蓮子は必死で考えを巡らせて、はっと気が付いた。どういう事か分かるかと問うたメリーの声音は妙に寂しげで、何だか別れを思い起こさせた。
蓮子はさっきまでの妙に興奮したメリーの様子を思い出して体を震わせる。
まるで、最後だから精一杯楽しもうとしていたみたいだ。
確かに月で生まれた者が月へ帰るというのはとても自然で、理屈も何もなく、そういうものだと納得出来る。
月から来たかぐや姫が、結局地球の人達と離れ離れになった様に。
月から来たメリーが月に帰ってきたのなら、そのまま地球人である自分と離れ離れになるんじゃないだろうか。
「メリー! もしかしてあなた」
蓮子が悲痛な声でメリーに縋ると、メリーは拳を力強く握った。
「そうよ! これはハネムーンにして実家への挨拶!」
「……?」
蓮子は口を開いたまま閉じる事が出来無くなった。
「まあ、私、父親は知らないし、お母さんも死んじゃってるけど、とにかくこれは里帰り。実家への挨拶! ハネムーン! 勿論それも大事で、蓮子と一緒に来られたのは嬉しいんだけど、それだけじゃない! 最大のイベントが残っている! さあ、蓮子! 後足りないのは何? 前後は埋まっているのにその間に、大事な、ほら!」
「え?」
「け、から始まる!」
「け?」
「けっこ!」
「血行?」
「違う!」
奇妙なやり取りを見つめながらちゆりは不思議そうに呟いた。
「興奮……本当に月へ来ただけであそこまで、どうして?」
「恐らく能力の使い過ぎだよ」
いきなり岡崎の声が響いた。ちゆりが驚いて辺りを見回す。
「教授! 何処に!」
「ここだよ。メリー君が持っている通信機からさ」
メリーが慌てて服の中から通信機を取り出した。メリーの掌の上に載った通信機にちゆりが話しかける。
「能力の使い過ぎが興奮に繋がるというのはどういう事ですか?」
「月の連中に言わせると、能力が暴走するのは穢れたから何だろう?」
「そう、みたいっすね」
「なら逆もまた言えるんじゃないかな? 暴走して能力を使い過ぎると穢れるのさ」
「あ、じゃあ」
「そう。月でいう穢れとは生死への強い願い。それにはきっと性欲も含まれるだろうね」
蓮子とちゆりの視線が顔を赤くしているメリーに集まった。
「教授、まじっすか?」
「さあ? あくまで推測だよ。そしてこれも推測だが、ちゆり、願いの力を測って見給え。恐らく地球より遥かに大きいだろう」
ちゆりが端末を取り出し、計測していたデータを検める。
「そうですね」
「地球からの願望が注がれ続けた結果、願いが凄まじい密度になっている。地球から測った時は地球の十倍程度で、明らかに計算より少なかったが」
「ここで測ったら地球の十万倍。桁が違い過ぎるぜ」
「願いを集め、外に逃さない様な結界を張ってあるんだろうね。それだけの密度なら特別な才能や手法が無くても、条件が揃えば一般的に魔法が使えるレベルだ」
ちゆりが掲げた指先を見つめながら目に力を込めた。だが何も起こらない。
「特に何も」
「馬鹿たれ。そんな簡単にはいくものか。とにかくその願いの密度がメリー君の能力に影響を与えているんじゃないかな?」
メリーは不思議そうに自分の体を触り、そして辺りを見回して驚いた様に言った。
「あれ? 境界がほとんど見えない」
メリーがそう言った瞬間、端末から岡崎の大声が響いてきた。
「良し!」
三人がびっくりして目を見張ると岡崎のはぐらかす様な声が続いた。
「あー、何でも無い。気にしないでくれ」
「教授?」
「さ、何にせよ出会えたんだ。次は脱出に移るとしよう」
途端にちゆりが弱弱しい微笑みを浮かべる。
「実は作ったICBMを取り上げられて今は軟禁中なんだぜ。この建物からは出られるだろうけど、脱出用のICBMを気づかれない様に作れるかというと」
岡崎は興味無さ気に相槌を打ってから、地球からロケットが飛び立った事を伝えてきた。遂に蓮子を助け出し月を制圧する為のロケット三十基が発射されたのだと。
「もうしばらくすれば混乱が起こるだろう。その時に隙を突いて何とか逃げ出せば良い。ちゆり、君なら出来るだろう」
「それなら!」
ちゆりが途端に嬉しそうな顔になって見えない岡崎に向かって大きく頷いてみせた。
「そうと来まればとりあえずICBMの基幹部品だけ作っておくぜ」
ちゆりが早速作業に取り掛かろうとする。
と、蓮子が不意に声を上げた。
「ロケットが月へやって来たら、月の都を壊すんですか?」
通信機から岡崎が答える。
「さあね。その辺りは臨機応変にだろうが、戦いは起こるだろう。メリー君の故郷が破壊されるのは忍びないかい?」
「いえ、ただ」
蓮子は迷った末にメリーの手を握りしめた。
「メリー、私と一緒に来て」
「え?」
「蓮子君? 急にどうした?」
蓮子は真剣な表情でメリーの目を覗き込み、懇願する。
「実はメリーの病気を治す方法を見つけたの」
蓮子の言葉に皆が静まった。ふと遠くから、濁流の様な轟音が聞こえてきた。だがそれを無視して誰もが蓮子の言葉を待った。
「メリーの病気は、穢れが増えて、能力が暴走したから。それは教授の言っていた通りだと思う。それでね、私は月で穢れを消す道具を見つけたの」
「何処にあるんだい?」
「ここから少し離れた場所にです」
蓮子は通信機へ視線を移し岡崎の言葉に対して端的に答えると、再びメリーと見つめ合った。
「だからメリー、私と一緒に来て」
メリーの手を強く握りこむと、メリーが痛みで顔をしかめた。
横合いからちゆりが口を挟む。
「それを使ったんだな?」
蓮子がちゆりへ顔を上げる。
「蓮子ちゃん、自分にそれを使ったんだろう?」
「そうです。月の人に連れられて」
「やっぱり。だからおかしくなったんだ」
蓮子が首を横に振る。
「問題ありません。使った時ちょっと頭がすっとするだけで、それ以外には何処もおかしくなんかなりません」
「おかしくなってるぜ。間違いなく。自分でそれに気が付いていないだけだ」
「そんな事ありません!」
「やっぱり月の技術が関わっていたんだぜ。教授、蓮子ちゃんの事治せますか?」
ちゆりが通信機に問いかけると、岡崎の気の無い答えが返ってくる。
「状態を見てみない事には何とも」
「とにかく今は月を脱出する事が先決なんだぜ。私が脱出用のICBMを作るから二人はここで待っていてくれ」
ちゆりがそう言うと、メリーが唐突に立ち上がった。手を繋げたまま蓮子を見下ろして優しく微笑んでいる。
「行きましょう、蓮子」
蓮子が不安げな顔で蓮子の事を見上げる。
「メリー、私はメリーの事を思って、本当に」
「分かってる。蓮子を疑う気持ちなんてこれっぽっちも無い。だから行きましょう」
それを制そうとしたちゆりに向かって、メリーが微笑みを向ける。
「ごめんなさい、ちゆりさん。でも私は蓮子と一緒に居たいから、蓮子を信じて居たいから、だから行きます。止めないで下さい」
行きましょうと言って蓮子を立ち上がらせ、メリーは蓮子を伴って部屋を出ようとする。呆気に取られていたちゆりは、首を振って、両手で自分の頬を何度か張ってから、満面の笑みになってそれを追った。
「分かったよ。二人が行きたいって言うのなら、それを止めたりはしないぜ。けど、今、月は危ないんだから私の目の届く所に居なくちゃ駄目なんだぜ」
遠くの空からはロケット降ってきている。月の妨害にあわなかったのか、壊れた様子は何処にも無い。不思議に思ったが、ちゆりの心はそれ以上にこれから月で起こるであろう事が心配だった。遂に地球が月へ侵攻してきた。これから戦いが始まるだろう。一刻も早く脱出しなければならないという自分の身を案じる不安も当然あるが、それとは別に戦争という凶事への不安もあった。町が破壊され、多くの人が死んでしまうかもしれない。それは悲劇以外ではあり得ない。それがこれから起こるのだ。
唯一の救いは岡崎がこの作戦に関わっているらしいという事だ。聞く必要も無いし、岡崎が話さなかったので、ちゆりは作戦の内容こそ知らなかったが、岡崎が関わっているのであればきっと何か良い方向に進むのだろうと、ちゆりは不安の中でも漠然とした希望を抱いていた。
それでも拭えない不安を抱えたまま、ふと秘封倶楽部の二人を見ると、天から降ってくるロケット等気にせずに、ひたすら前へ向かって歩いている。ただ一心に。
それを見たちゆりは岡崎が二人の事を天才だと評していた事を思い出した。他の何にも煩わされない二人の姿は、正しく岡崎の姿と重なった。天才である岡崎が二人を天才と認めたのなら。その二人を守るのが、凡人たる自分の使命だとちゆりは思う。守り切れず、蓮子がおかしくなってしまったけれど、きっとまだ治す事が出来る。大事なのは取り返しのつかない事態にしてはならないという事。そしてその取り返しのつかない事態に陥らせようとする障害が、天から降ってきている。今こそが正念場だとちゆりは気合を入れ直す。
前を歩く蓮子が突然よろめいたので、ちゆりはそれを掴んで立ち上がらせた。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
さっきまでは暗がりの所為で気が付かなかったけれど、蓮子の顔色は少し悪かった。ちゆりはそれを心配に思ったが、きっと止めても聞きはしないだろう。
ちゆりは屈みこんで、蓮子に背を向ける。
「ほら」
「でも」
「気分が悪いんだろう? それを我慢されたらこっちだって迷惑だ。これから混乱するかもしれないのに。メリーちゃんにだって危害が及ぶかもしれない」
ちゆりが屈んでいると、蓮子が遠慮がちにのしかかってきた。それを負ぶってちゆりは立ち上がる。
「二人の事は私が絶対に守るからな」
二人が口口に礼を言ってくるので、それに微笑みを返す。
「二人の事は必ず地球に送り届ける。それが助手である私の仕事なんだ」
自分に言い聞かせる様に呟いてからちゆりはゆっくりと歩き出した。
三方が御簾で囲まれている広間で豊姫は一人平伏していた。部屋を照らしているのは蝋燭の光だけ。部屋はぼやけた様に暗い。御簾の向こうは見通せないがそこには神が居る。月へと降り立ち月の都を作った、神の中でも最も偉大な神神の間が、この場所だった。
豊姫は地球から来た侵略者達の報告をする為にここへやって来た。既に地球の者達は月へ侵入し陣地を張り始めている。月からすれば大変由由しき事態であり、渉外と防衛を担当する豊姫と依姫は責任を問われる立場にある。だが豊姫はその報告がこの部屋の長老達の心に欠片も引っかからないと高を括っていた。責められるとすればまた別の事だ。
顔を上げるように言われたので、豊姫は笑顔の張り付いた顔を上げ侵入者の報告をしようとすると、その前に長老の一人が問いをぶつけてきた。輝夜姫はどうなったのかと。
「残念ながら未だに行方が知れません。手掛かりすらも」
淀みなく豊姫が答えると、途端に御簾の向こうから失望の溜息が聞こえてきた。豊姫は三方からの失望に晒されても笑顔のまま座して動かない。ただ心中では、豊姫もまた失望していた。長老達に対して。ただしそれを表に出す事は無く、笑顔のまま次に来る質問を待っている。そして予想通り長老の一人がまた別の質問をした。地球に落ちた月人は回収できたのかと。
「依姫が奪還しに行きましたが失敗に終わりました。未だ回収出来ておりません」
再び失望と苛立ちの混じった溜息が漏れる。だが豊姫は動じない。
昔の自分が溜息等吐かれていたら失神していたかもしれない。
いやそれどころかこの間に入る時はいつだって恐ろしさに体が震えた。
御簾の向こうに居る者達はそれだけ尊く千早振る神なのだ。
神のお陰でこの都が生まれ、神のお陰でこの都は保たれている。
だからこの部屋に居る時はいつだって畏敬と尊崇の念を抱いていた。遥か昔は。
いつからだろう。この部屋に入る事に何の感慨も抱かなくなったのは。
いつからだろう。長老達を前にして面倒だと思う様になったのは。
いつからだろう。この月の都に神等要らない事に気が付いたのは。
いつからだろう。御簾の向こうに失望しか感じなくなったのは。
責任を追求してくる神神に向かって平身低頭しながら、表情はあくまで笑顔。豊姫はじっと、神神の言葉である、負っている任が如何に尊く、月の平穏を保つのに大事であるかという小言を聞き流しながら、ひたすらに謝罪の言葉を吐き続けた。
少し前までの豊姫は、神神からの言葉を平然と聞き流し失望しか感じない自分を恥じていた。月の者達は神が相手でなくとも誰かの言葉を蔑ろにしたりはしない。それなのに自分はあろう事か神の言葉を聞き流すという最大の無礼を働いている。月の人間にあるまじき異常だった。そして羽衣を使ってもその異常を拭えなかった時、自分は狂ってしまったのだと絶望した。神神の言いつけである輝夜姫奪還の任務を果たせない畏れ多さの為に、狂ってしまったのだと。
しかし数年前に、そんな自分の不敬が、地球に住む愚昧な人間達の行動と全く同じだと聞かされた時、酷く納得し、そして吹っ切れた。長老達の行動もまた地球で良く見られる習性だと聞いて、完全に理解した。即ち自分も月を統べる神神も所詮はその程度の存在でしかないのだ。
胸の内でそんな事を考えている等とは微塵も表に出さずにひたすら頭を下げていると、ようやく長老達から下がって良いとの許しが出た。けれど豊姫は下がらず、当初の目的であった報告をする。
月に侵入者が現れたという報を告げた時の反応は、まさに豊姫の想像した通りだった。神神は豊姫の言葉を遮ると、ぞんざいな口調で、そのロケットを壊してしまえば良いと言った。豊姫は即座に、それは既に失敗し、地球の人間達は現在月の都の近くにある荒野に陣地を張っている事を告げる。それでも長老達の危機感を刺激する事は出来無かった。百五十年前にやってきた人間達を追い払った時の様に、あるいは百年前に何度もやって来た侵入者を撃退した時の様に、豊姫と依姫で適当にあしらえと言う。
百五十年前はお粗末な装備のロケット一基、百年前は魔法が使えたものの四人しか居なかった。今回は数百人も居て、その上地球上の最新技術を身に纏っている。難しさの桁が違う。けれどそんな違いを逐一説明しても無駄な事は豊姫が誰よりも分かっていた。御簾の向こうに居る長老達は外の事等何も分かっていない。地球の人間が未だに石器を手にして野の中で狩猟していると思っている可能性すらある。
「残念ながら、今回はとにかく数が多く、殺さずに追い払う事が出来そうもありません」
だから豊姫は穢れを理由に断った。月の民はとにかく穢れを嫌う。流石に穢れを伴うとなれば、豊姫にやらせる訳にはいかず、御簾の向こうの神神は穢れた者達を使えと言った。それを引き出せた事に満足し、豊姫は深深と頭を下げて神神を褒め称えると、許しを得て部屋を出た。
少し歩くと待たせていた玉兎が寄ってきて、不安そうな顔でどうだったかと聞いてきた。それを安心させる為に、豊姫は柔らかな笑みを玉兎へ向ける。
「穢れた者達を使う許しが出たわよ」
「本当ですか!」
「ええ、計画通り。後は向こうに任せましょう」
豊姫が止まる事無く歩くと、玉兎がその後に追い縋る。
「でも良く許可が取れましたね。あんな化け物の」
「あら、いけないわ。同じ月の民でしょう?」
すると玉兎が渋面を作って吐き捨てる様に言った。
「あんなの違います。穢れを受けすぎて変質した化け物が私達と一緒だなんて」
「それは彼等の所為じゃ無いわ」
「分かってます。でも」
豊姫は空を見上げて玉兎に命令を伝達する様に伝える。それを玉兎が瞬く間に遠く離れた部隊へと伝える。連絡を受けた部隊はすぐに穢れた者達を地球の人間達の陣地へ送り込むだろう。
「でも本当に大丈夫なんですか?」
玉兎がまた不安そうな声を出す。
「だって敵の基地は月の都の傍から丸見えなんですよ。あんな化け物が見えたり、それと敵が戦うのも見えて、それで沢山死んじゃうのが見えてしまうのに、大丈夫なんですか?」
「月の民がそれを見たらどうなると思う?」
「みんなに穢れが移っちゃうんじゃないかって」
豊姫がくすりと笑った。
「そうね。月読尊は間違えているかもしれないわね」
豊姫が振り返ると玉兎が身を震わせる。神を非難するという事は何よりも畏れ多き事と刷り込まれていて、その刷り込みは羽衣でも除去する事は出来無い。しかし常日頃から豊姫が言い含めていただけあって、玉兎の目には理解の色が浮かんでいた。
「もうあの方方は耄碌してしまったのよ。何があったかしらないけど、輝夜姫に骨抜きにされて」
玉兎は身を縮こまらせて黙っている。
「あの部屋に入れば聞かれるのは輝夜姫の事だけ。命令は輝夜姫を見つけて来いばかり。もうこの月の都のシステムには要らない部品なのよ」
豊姫は柔らかな笑顔を浮かべたままそう言い切って、再び前を向いた。
「覚えておくと良いわ。長生きするっていうのはね、死ぬっていう事なの」
玉兎が意外そうな声を上げる。
「生きていれば、自分で考えて自分で行動する。自分という存在を世界に著していく。でもね長生きすると過去の焼き直しばかりになって、今の自分なんて無くなるの。それはもう自分という存在が死んでしまったのと同じ事」
「長く生きるとそうなるんですか?」
玉兎は分かった様な分からない様な表情になる。
「人よりもずっと寿命の短い兎だからって安心しちゃ駄目よ。月の都に住む者はみんな死んでいるんだもの」
「え?」
「だって月の都のシステムに取り込まれて、自分らしさなんて殆ど無いじゃない」
「そんな事は無いと思いますけど」
玉兎が本心から言っているのを見て、豊姫はふっと小さく息を吐いた。大股になって歩みが早くなる。
「そうね。今のは訂正するわ」
「あの」
「とにかく長く生きると過去の焼き直しばかりになる。情動も磨り減って何も感じなくなる。だから死んでいるのと同じ。あなたはゾンビって知っているかしら?」
唐突な話題の転換に、玉兎が首を横に振った。
「地球に居るらしいんだけれど、ゾンビはね、動く死体。生前と同じ姿で生前と同じ動きをする。けれどそれは単に薬の効果で、腐らず、生前と同じ動きをしているだけで、本当は既に死んでいる」
「何ですかそれ」
玉兎が気味悪そうに眉根を寄せる。歩みが遅くなって豊姫から離され、慌てて小走りになる。
「気持ち悪いです」
「長生きした者の末路と一緒よ。私や神神の様に。確かにとても気持ち悪い。でも私はね、ゾンビであってもそれが役に立つのであればそれで良いと思う。過去の焼き直しをするだけの抜け殻でも、次の世代の為に行動するのであれば存在する価値はあるって信じている」
豊姫が空を見上げる。玉兎は背中を見ている筈なのに、何故か豊姫が満面の笑みになったと分かった。
「けれどね、そうでなくて、単に同じ事ばかりを繰り返し呟くだけで何の役にも立たないなら、それはもう必要無い」
豊姫の静かな言葉に気圧されて玉兎の足取りが鈍った。
「それは社会システムだって同じでしょう。使い古された所為で、月の都も、聞いた話だと地球も、今のシステムはもうゾンビを生み出すだけみたい。だったらそれも必要無いわよね」
玉兎は再び置いて行かれそうになって小走りに駆け寄り、張り裂けそうな胸を押さえながら、恐恐と豊姫に問いかけようとした。だが出来なかった。豊姫の表情を見るのが怖かった。酷く恐ろしい表情をしているであろう豊姫の顔を見てしまえば、穢れと恐れで死んでしまう様な気がした。
だが玉兎の躊躇等関係無く、豊姫は振り返ってその表情を見せた。豊姫の顔に浮かんでいるのは笑顔。満面の優しげな笑顔は、玉兎達に優しい言葉をかけてくれるいつもの豊姫だ。玉兎がほっと安堵の息を吐くと、豊姫はいつもの優しい笑顔のまま言った。
「だからみんな死んだ方が良いのよ」
豊姫は笑顔のまままた前を向いて歩き出した。玉兎はそれを追う事が出来ずに混乱した頭のまま立ち尽くした。豊姫は少し歩いてから振り返り、玉兎に向かって、どうしたのと心配そうに常日頃と変わらない様子で問いかけた。玉兎はそれに答える事も出来ずにただただ呆然と立ち尽くす。
やがて豊姫は笑顔のまま首を傾げると、玉兎を置いて歩いて行った。
辺りにはテントが幾つも立ち並び、そこを兵士達が忙しそうに駆け回っている。さっきまで立っていた三十基のロケットは既に解体されて、代わりに巨大な基地が出来上がっていた。テントの密集する基地の背後には緑の生い茂った森が広がり、前方の地平線には地球の文化をぐちゃぐちゃに煮込んだ様な月の都が広がっている。空は月面の反射光で星一つ見えない。それなのに明かりも付けていない辺りがまるで真昼の様に明るい。
「上手く行き過ぎて怖い位ですね」
順調に進む月面での設営を見ながら心配そうな顔をしている兵士に、クリフォードは満面の笑みを向けた。
「分かっていた事だろう! 何も心配する事は無いさ!」
「そうなんですけど、シミュレーターと比べてあまりにも簡単過ぎて」
「それだけうちの作戦班が心配性だったって事さ。出発前のブリーフィングで、ここまでは簡単にいくと何度も説明しただろう。それよりほら、カメラに映るんだから笑顔笑顔。仏頂面だと帰った時に声を掛けてもらえなくなるぞ! 君はまだ恋人居ないんだろう?」
「そうですね」
兵士が戸惑いがちに笑顔を浮かべたので、クリフォードは笑って辺りを見回した。
「さて、もうほとんど完成したね」
「そうですね」
一見すると、単にテントが並んでいるだけだが、その実、敵襲に備えて迎撃用の兵器や防護用のシールドが幾重にも重ねてある。生活環境はまだ整っていないが、少なくとも敵の攻撃を防ぐ事は出来る筈だ。
「データを取りたくてうずうずしている学者さん達に許可を出してあげよう」
「分かりました」
「なんたって半数が科学者なんだ。機嫌を損ねて反乱されたら、忽ち尻を徹底的に調べ上げられるぞ」
兵士が笑いながら何処かへ連絡を取りつつ去っていく。
クリフォードは別の兵士を掴まえて、その兵士が持っている端末を覗きこんだ。
「地図は問題無さそう?」
「ええ、正確です」
「よし。じゃあ、予定通り小隊をトラックに詰め込んで出発しよう」
「畏まりました」
「それと設営はほとんど完成したから合図も送っておいて」
「はい!」
走り去ろうとする兵士をクリフォードが呼び止める。不思議そうな顔をして振り返った兵士にクリフォードは満面の笑みを見せた。
「笑顔」
兵士が慌てて笑顔になる。
「他のみんなにも笑顔を周知徹底させておいて。これは任務の一つだよ」
兵士が笑顔のまま敬礼して去っていく。
その背から目を逸らして月の都に目を向ける。静かに鎮座する都市に変化は無い。だがもうしばらくすればこの月は戦場になる。それを思って息を吐くと、突然辺りにサイレンが鳴り響いた。
敵襲を示す警報だ。
クリフォードの目が、月の都から猛スピードでやって来る一団を捉えた。兵士達に対応を告げようとした瞬間、突然空気が膨れ上がった様な気がした。同時に月の都側の一番外郭のテントが消失した。まるで刮ぎ取られた様に、さっきまでテントのあった場所が更地の荒野になっている。
慌てた様子で何人かの兵士達が駆けて来る。クリフォードは何度か深呼吸して自分を落ち着けてから、笑みを浮かべて声を張った。
「恐れるな! やられたのは防御用の無人機のみ! 当初の作戦通り防戦しろ! ありったけ撃ち込んで近寄らせるな!」
月の都側を防衛する部隊に、出来るだけ見栄えの良い実弾の銃を使い、またシールドはエネルギーの事を気にせずどんどん派手に使う様に伝え、一方で学者たちへ今の攻撃の解析をして前線部隊にフィードバックする様に支持を出した。
そうして自分は敵襲とは別の方角へと向かい、トラックの前で笑顔の兵隊が待機しているのに頷いて、いの一番に荷台に乗り込むと、軍服を脱ぎ捨て、装飾の全く無い濃紺の迷彩服と濃紺のフルフェイスマスクを被って座った。後から次次と兵士が入ってきて全く同じ服装になった。皆が全く同じ格好になるので誰が誰だか分からなくなる。クリフォードは閉まる寸前の扉から明るい外を見つめて冗談めかして言った。
「月って宇宙の癖に随分明るいね。これじゃあ逆にこの格好が目立っちゃうよ」
兵士達が笑い声を上げる。
「さあて、それじゃあ、派手に密かに行きますか!」
運転席から全員乗ったか確認してきたので、クリフォードはトラックを消して発進する様に伝えた。一瞬重低音が鳴ったかと思うと、トラックが砂を巻き上げながら浮き上がり消失した。
「万事順調かい?」
岡崎は理事長室に入って声をかけた。理事長はたった一人でソファに座り、鼻歌でも歌い出しそうな様子で楽しげに中継映像を眺めている。
「一先ずは」
「打ち上げが成功して第一段階無事成功といったところか?」
「いいえ、結界の裏側を無事に運行中で、えーっと、ロケットの打ち上げに関してい言えば、三十段階目位かしら? それに成功も不成功も無いわよ」
理事長はそう言いながら、再び映像に視線を戻す。
「どういう意味か、分かりかねるね」
「夢美はゲームブックって知っているかしら?」
唐突な話題展開に面食らいながらも、岡崎は頷いた。
「知識としては」
「そうね、廃れて誰もやらなくなった。私が生まれた当時でも。でもね、私の遊び相手はそれしかなかった」
理事長は水で口を潤すと、天井を見上げながら自嘲する。
「信じられる? あの頃既に、一人一台端末を持つのが当たり前だったのに、私だけそんなもの買ってもらえなくて、古臭い電子ペーパーのゲームブックしか遊ぶ物が無かった」
「それは御愁傷様だね」
岡崎が粗略に返答する。
「だからかしら、先の見えない状況一つ一つがどうやって枝分かれして分岐していくのか考えて、それを自分の掌の上で操作するのが何よりも楽しいの」
「それは随分と歪んでいるね」
「でもね、上手くいってばかりじゃ面白くない」
「簡単すぎるのもね」
「だから私の夢は予想外の事態に直面する事。一つ予想外が起きたら、また次にもっと大きな予想外を」
「そんなのを続けていたらいずれは大きなカタストロフィに繋がる。大悪党だね。批判を避けて雲隠れする訳だ」
理事長はソファから立ち上がると端末に何かを打ち込み始めた。
「参っちゃうわ。外に出られないから雲隠れしているのに、仕事はどんどん入ってくるのよ」
「それは御愁傷様だね」
理事長は端末を見つめながらふと思いついた様に言った。
「そう言えば、聞いた事が無かったわね。夢美は子供の頃何をして遊んでいたの?」
「私? ひたすら勉強だよ。良い学校に入って、理想的なレールの上を進む為に」
「あらそれは、ごめんなさい。何か玩具でも送ってあげれば良かったわ」
「どうしてあなたが謝る。そもそもその時お互いを認識していなかっただろう」
「申し訳ないと思うわよ。あなたの親だもの」
「今の御時世、遺伝子的な繋がりに何の意味がある」
「それを大事にする人も居るわ」
「でもあなたは、そういった絆を利用する為の道具としか思っていないだろう」
「勿論」
岡崎が疲れた様に溜息を吐く。
「あ、そう言えば、あなた、そろそろ誕生日でしょ?」
岡崎が覚えていないと答えると、理事長はデータベースにそうあるものと言って笑った。
「何か玩具をプレゼントして上げましょうか?」
「要らん」
「ぬいぐるみとか」
「要らん」
「大きな研究所とか」
「要……」
岡崎はしばらく迷ったが結局要らんと言ってそっぽを向いた。
理事長はくすくす笑ってから再び端末を操作し始めた。
続き
第十四章 そこに異常を見たのなら
第一章 夢見る理由を探すなら
一つ前
第十二章 遥かなる宙へ飛ぶのなら
第十三章 戦の火蓋を切るのなら
「本物だ! 本物だぁ!」
実に嬉しそうな顔のメリーはさっきからずっと蓮子にひっついている。一方蓮子の不満は溜まりに溜まりその苛立ちを爆発させようとしていた。
「蓮子だ! 蓮子の匂いだ!」
メリーが蓮子の髪に顔を埋め鼻を押し付けて思いっきり息を吸った瞬間、ついに蓮子の怒りが爆発する。
「鬱陶しい!」
蓮子が思いっきり身を捻ると、首に手を絡めていたメリーが引っ張られて地面に投げ飛ばされた。仰向けに転がったメリーは一瞬何が起こったのか分からない様子で蓮子の事を見上げていたが、すぐに悲しそうな顔になって目を潤ませた。
「どうして、久しぶりに会えたのに」
その鼻先に蓮子が指を突きつける。
「うっさい! さっきから何十分、抱きついてくんのよ!」
メリーはふと腕時計を見て、それからおかしそうに小さく息を吐いた。
「何十分って、やだ、蓮子。まだたったの十五分よ?」
「それでも多いわ! アホか!」
横からちゆりが、十五分好きにさせてた君もアホだと思うぜと口を挟んだ。蓮子が慌てて否定する。
「久しぶりに会ったし、ちょっとは好きにさせてやるかと思っちゃったんですよ。でもまさか十五分もやるとは思わないでしょ!」
「いや、だから十五分なすがままにさせるのが異常だと」
「蓮子! どうして! 久しぶりに会ったのに、キスの一つもしてくれないの?」
「するか!」
「そんな……昔の蓮子なら脇目も振らずに抱きついてキスを」
「しない!」
蓮子が力強く否定した瞬間、ちゆりが大声を上げた。
「ちょっと待った!」
メリーと蓮子の視線が怒っている様な表情のちゆりに集まった。
「メリーちゃん、今、君何て言った?」
「え? ただ、蓮子と永遠の愛を誓いますって」
「その前……っていや、そんな事言って……とにかく、昔の蓮子なら脇目も振らずって言ったよね?」
「はい」
「それだよ!」
メリーと蓮子が首を傾げる。
「やはり蓮子ちゃんは今おかしくなっている」
蓮子が呆れた様に首を竦めた。
「またその話ですか?」
「またも何も、まだ話は終わってないぜ。君は明らかに今おかしな状態になっている」
「何処もおかしくありませんよ。私は蓮子。いつも通り、ふつ「メリーが大好きな」子ですっておい!」
「残念だけど、私には普通の蓮子ちゃんっていうのが上手く判断出来ない。けどさっき誰よりも君を知るメリーちゃんが言ったじゃないか。君がおかしいって」
「それはメリーの冗談で……っていうか、どっちかっていうとメリーの方がおかしいでしょ。何か、さっきからテンション高くない?」
確かに、とちゆりの視線がメリーに移った。
「それはだって」
メリーが答えるよりも先に、ちゆりが言った。
「久しぶりに蓮子ちゃんに会えたからだろう」
それをメリーは否定する。
「いいえ」
「じゃあ、どうして」
「久しぶりに故郷の月に帰ってきたから」
ちゆりと蓮子が驚いた顔になる。二人共その事実は知っていた。けれどまさかメリーが自分から喋るとは思っていなかった。メリーは静かに口の端を釣り上げると艶やかに笑う。
「もう知っているんでしょう?」
蓮子が息を呑み、ゆっくりと頷いた。
メリーが静かに目を閉じる。
「ならどういう事か分かるでしょう?」
メリーの言葉の意味を、蓮子は考える。
メリーが月の人間。それは何を意味するだろう。メリーは何を言いたいのだろう。大学の健康診断で異常無しとされる位だから、月の人間と地球の人間の違いはほとんど無い。それに月の人間が地球の文化に馴染めるのかどうかも、今まで何年も問題無く暮らしてきたのだから問題無い。生物学的な違いも文化的な違いも見受けられないのなら、あるのは生まれの違いだけ。そんな些細な事が今更何だというのだろう。そして、どうしてそれがメリーの興奮に繋がる?
蓮子は必死で考えを巡らせて、はっと気が付いた。どういう事か分かるかと問うたメリーの声音は妙に寂しげで、何だか別れを思い起こさせた。
蓮子はさっきまでの妙に興奮したメリーの様子を思い出して体を震わせる。
まるで、最後だから精一杯楽しもうとしていたみたいだ。
確かに月で生まれた者が月へ帰るというのはとても自然で、理屈も何もなく、そういうものだと納得出来る。
月から来たかぐや姫が、結局地球の人達と離れ離れになった様に。
月から来たメリーが月に帰ってきたのなら、そのまま地球人である自分と離れ離れになるんじゃないだろうか。
「メリー! もしかしてあなた」
蓮子が悲痛な声でメリーに縋ると、メリーは拳を力強く握った。
「そうよ! これはハネムーンにして実家への挨拶!」
「……?」
蓮子は口を開いたまま閉じる事が出来無くなった。
「まあ、私、父親は知らないし、お母さんも死んじゃってるけど、とにかくこれは里帰り。実家への挨拶! ハネムーン! 勿論それも大事で、蓮子と一緒に来られたのは嬉しいんだけど、それだけじゃない! 最大のイベントが残っている! さあ、蓮子! 後足りないのは何? 前後は埋まっているのにその間に、大事な、ほら!」
「え?」
「け、から始まる!」
「け?」
「けっこ!」
「血行?」
「違う!」
奇妙なやり取りを見つめながらちゆりは不思議そうに呟いた。
「興奮……本当に月へ来ただけであそこまで、どうして?」
「恐らく能力の使い過ぎだよ」
いきなり岡崎の声が響いた。ちゆりが驚いて辺りを見回す。
「教授! 何処に!」
「ここだよ。メリー君が持っている通信機からさ」
メリーが慌てて服の中から通信機を取り出した。メリーの掌の上に載った通信機にちゆりが話しかける。
「能力の使い過ぎが興奮に繋がるというのはどういう事ですか?」
「月の連中に言わせると、能力が暴走するのは穢れたから何だろう?」
「そう、みたいっすね」
「なら逆もまた言えるんじゃないかな? 暴走して能力を使い過ぎると穢れるのさ」
「あ、じゃあ」
「そう。月でいう穢れとは生死への強い願い。それにはきっと性欲も含まれるだろうね」
蓮子とちゆりの視線が顔を赤くしているメリーに集まった。
「教授、まじっすか?」
「さあ? あくまで推測だよ。そしてこれも推測だが、ちゆり、願いの力を測って見給え。恐らく地球より遥かに大きいだろう」
ちゆりが端末を取り出し、計測していたデータを検める。
「そうですね」
「地球からの願望が注がれ続けた結果、願いが凄まじい密度になっている。地球から測った時は地球の十倍程度で、明らかに計算より少なかったが」
「ここで測ったら地球の十万倍。桁が違い過ぎるぜ」
「願いを集め、外に逃さない様な結界を張ってあるんだろうね。それだけの密度なら特別な才能や手法が無くても、条件が揃えば一般的に魔法が使えるレベルだ」
ちゆりが掲げた指先を見つめながら目に力を込めた。だが何も起こらない。
「特に何も」
「馬鹿たれ。そんな簡単にはいくものか。とにかくその願いの密度がメリー君の能力に影響を与えているんじゃないかな?」
メリーは不思議そうに自分の体を触り、そして辺りを見回して驚いた様に言った。
「あれ? 境界がほとんど見えない」
メリーがそう言った瞬間、端末から岡崎の大声が響いてきた。
「良し!」
三人がびっくりして目を見張ると岡崎のはぐらかす様な声が続いた。
「あー、何でも無い。気にしないでくれ」
「教授?」
「さ、何にせよ出会えたんだ。次は脱出に移るとしよう」
途端にちゆりが弱弱しい微笑みを浮かべる。
「実は作ったICBMを取り上げられて今は軟禁中なんだぜ。この建物からは出られるだろうけど、脱出用のICBMを気づかれない様に作れるかというと」
岡崎は興味無さ気に相槌を打ってから、地球からロケットが飛び立った事を伝えてきた。遂に蓮子を助け出し月を制圧する為のロケット三十基が発射されたのだと。
「もうしばらくすれば混乱が起こるだろう。その時に隙を突いて何とか逃げ出せば良い。ちゆり、君なら出来るだろう」
「それなら!」
ちゆりが途端に嬉しそうな顔になって見えない岡崎に向かって大きく頷いてみせた。
「そうと来まればとりあえずICBMの基幹部品だけ作っておくぜ」
ちゆりが早速作業に取り掛かろうとする。
と、蓮子が不意に声を上げた。
「ロケットが月へやって来たら、月の都を壊すんですか?」
通信機から岡崎が答える。
「さあね。その辺りは臨機応変にだろうが、戦いは起こるだろう。メリー君の故郷が破壊されるのは忍びないかい?」
「いえ、ただ」
蓮子は迷った末にメリーの手を握りしめた。
「メリー、私と一緒に来て」
「え?」
「蓮子君? 急にどうした?」
蓮子は真剣な表情でメリーの目を覗き込み、懇願する。
「実はメリーの病気を治す方法を見つけたの」
蓮子の言葉に皆が静まった。ふと遠くから、濁流の様な轟音が聞こえてきた。だがそれを無視して誰もが蓮子の言葉を待った。
「メリーの病気は、穢れが増えて、能力が暴走したから。それは教授の言っていた通りだと思う。それでね、私は月で穢れを消す道具を見つけたの」
「何処にあるんだい?」
「ここから少し離れた場所にです」
蓮子は通信機へ視線を移し岡崎の言葉に対して端的に答えると、再びメリーと見つめ合った。
「だからメリー、私と一緒に来て」
メリーの手を強く握りこむと、メリーが痛みで顔をしかめた。
横合いからちゆりが口を挟む。
「それを使ったんだな?」
蓮子がちゆりへ顔を上げる。
「蓮子ちゃん、自分にそれを使ったんだろう?」
「そうです。月の人に連れられて」
「やっぱり。だからおかしくなったんだ」
蓮子が首を横に振る。
「問題ありません。使った時ちょっと頭がすっとするだけで、それ以外には何処もおかしくなんかなりません」
「おかしくなってるぜ。間違いなく。自分でそれに気が付いていないだけだ」
「そんな事ありません!」
「やっぱり月の技術が関わっていたんだぜ。教授、蓮子ちゃんの事治せますか?」
ちゆりが通信機に問いかけると、岡崎の気の無い答えが返ってくる。
「状態を見てみない事には何とも」
「とにかく今は月を脱出する事が先決なんだぜ。私が脱出用のICBMを作るから二人はここで待っていてくれ」
ちゆりがそう言うと、メリーが唐突に立ち上がった。手を繋げたまま蓮子を見下ろして優しく微笑んでいる。
「行きましょう、蓮子」
蓮子が不安げな顔で蓮子の事を見上げる。
「メリー、私はメリーの事を思って、本当に」
「分かってる。蓮子を疑う気持ちなんてこれっぽっちも無い。だから行きましょう」
それを制そうとしたちゆりに向かって、メリーが微笑みを向ける。
「ごめんなさい、ちゆりさん。でも私は蓮子と一緒に居たいから、蓮子を信じて居たいから、だから行きます。止めないで下さい」
行きましょうと言って蓮子を立ち上がらせ、メリーは蓮子を伴って部屋を出ようとする。呆気に取られていたちゆりは、首を振って、両手で自分の頬を何度か張ってから、満面の笑みになってそれを追った。
「分かったよ。二人が行きたいって言うのなら、それを止めたりはしないぜ。けど、今、月は危ないんだから私の目の届く所に居なくちゃ駄目なんだぜ」
遠くの空からはロケット降ってきている。月の妨害にあわなかったのか、壊れた様子は何処にも無い。不思議に思ったが、ちゆりの心はそれ以上にこれから月で起こるであろう事が心配だった。遂に地球が月へ侵攻してきた。これから戦いが始まるだろう。一刻も早く脱出しなければならないという自分の身を案じる不安も当然あるが、それとは別に戦争という凶事への不安もあった。町が破壊され、多くの人が死んでしまうかもしれない。それは悲劇以外ではあり得ない。それがこれから起こるのだ。
唯一の救いは岡崎がこの作戦に関わっているらしいという事だ。聞く必要も無いし、岡崎が話さなかったので、ちゆりは作戦の内容こそ知らなかったが、岡崎が関わっているのであればきっと何か良い方向に進むのだろうと、ちゆりは不安の中でも漠然とした希望を抱いていた。
それでも拭えない不安を抱えたまま、ふと秘封倶楽部の二人を見ると、天から降ってくるロケット等気にせずに、ひたすら前へ向かって歩いている。ただ一心に。
それを見たちゆりは岡崎が二人の事を天才だと評していた事を思い出した。他の何にも煩わされない二人の姿は、正しく岡崎の姿と重なった。天才である岡崎が二人を天才と認めたのなら。その二人を守るのが、凡人たる自分の使命だとちゆりは思う。守り切れず、蓮子がおかしくなってしまったけれど、きっとまだ治す事が出来る。大事なのは取り返しのつかない事態にしてはならないという事。そしてその取り返しのつかない事態に陥らせようとする障害が、天から降ってきている。今こそが正念場だとちゆりは気合を入れ直す。
前を歩く蓮子が突然よろめいたので、ちゆりはそれを掴んで立ち上がらせた。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
さっきまでは暗がりの所為で気が付かなかったけれど、蓮子の顔色は少し悪かった。ちゆりはそれを心配に思ったが、きっと止めても聞きはしないだろう。
ちゆりは屈みこんで、蓮子に背を向ける。
「ほら」
「でも」
「気分が悪いんだろう? それを我慢されたらこっちだって迷惑だ。これから混乱するかもしれないのに。メリーちゃんにだって危害が及ぶかもしれない」
ちゆりが屈んでいると、蓮子が遠慮がちにのしかかってきた。それを負ぶってちゆりは立ち上がる。
「二人の事は私が絶対に守るからな」
二人が口口に礼を言ってくるので、それに微笑みを返す。
「二人の事は必ず地球に送り届ける。それが助手である私の仕事なんだ」
自分に言い聞かせる様に呟いてからちゆりはゆっくりと歩き出した。
三方が御簾で囲まれている広間で豊姫は一人平伏していた。部屋を照らしているのは蝋燭の光だけ。部屋はぼやけた様に暗い。御簾の向こうは見通せないがそこには神が居る。月へと降り立ち月の都を作った、神の中でも最も偉大な神神の間が、この場所だった。
豊姫は地球から来た侵略者達の報告をする為にここへやって来た。既に地球の者達は月へ侵入し陣地を張り始めている。月からすれば大変由由しき事態であり、渉外と防衛を担当する豊姫と依姫は責任を問われる立場にある。だが豊姫はその報告がこの部屋の長老達の心に欠片も引っかからないと高を括っていた。責められるとすればまた別の事だ。
顔を上げるように言われたので、豊姫は笑顔の張り付いた顔を上げ侵入者の報告をしようとすると、その前に長老の一人が問いをぶつけてきた。輝夜姫はどうなったのかと。
「残念ながら未だに行方が知れません。手掛かりすらも」
淀みなく豊姫が答えると、途端に御簾の向こうから失望の溜息が聞こえてきた。豊姫は三方からの失望に晒されても笑顔のまま座して動かない。ただ心中では、豊姫もまた失望していた。長老達に対して。ただしそれを表に出す事は無く、笑顔のまま次に来る質問を待っている。そして予想通り長老の一人がまた別の質問をした。地球に落ちた月人は回収できたのかと。
「依姫が奪還しに行きましたが失敗に終わりました。未だ回収出来ておりません」
再び失望と苛立ちの混じった溜息が漏れる。だが豊姫は動じない。
昔の自分が溜息等吐かれていたら失神していたかもしれない。
いやそれどころかこの間に入る時はいつだって恐ろしさに体が震えた。
御簾の向こうに居る者達はそれだけ尊く千早振る神なのだ。
神のお陰でこの都が生まれ、神のお陰でこの都は保たれている。
だからこの部屋に居る時はいつだって畏敬と尊崇の念を抱いていた。遥か昔は。
いつからだろう。この部屋に入る事に何の感慨も抱かなくなったのは。
いつからだろう。長老達を前にして面倒だと思う様になったのは。
いつからだろう。この月の都に神等要らない事に気が付いたのは。
いつからだろう。御簾の向こうに失望しか感じなくなったのは。
責任を追求してくる神神に向かって平身低頭しながら、表情はあくまで笑顔。豊姫はじっと、神神の言葉である、負っている任が如何に尊く、月の平穏を保つのに大事であるかという小言を聞き流しながら、ひたすらに謝罪の言葉を吐き続けた。
少し前までの豊姫は、神神からの言葉を平然と聞き流し失望しか感じない自分を恥じていた。月の者達は神が相手でなくとも誰かの言葉を蔑ろにしたりはしない。それなのに自分はあろう事か神の言葉を聞き流すという最大の無礼を働いている。月の人間にあるまじき異常だった。そして羽衣を使ってもその異常を拭えなかった時、自分は狂ってしまったのだと絶望した。神神の言いつけである輝夜姫奪還の任務を果たせない畏れ多さの為に、狂ってしまったのだと。
しかし数年前に、そんな自分の不敬が、地球に住む愚昧な人間達の行動と全く同じだと聞かされた時、酷く納得し、そして吹っ切れた。長老達の行動もまた地球で良く見られる習性だと聞いて、完全に理解した。即ち自分も月を統べる神神も所詮はその程度の存在でしかないのだ。
胸の内でそんな事を考えている等とは微塵も表に出さずにひたすら頭を下げていると、ようやく長老達から下がって良いとの許しが出た。けれど豊姫は下がらず、当初の目的であった報告をする。
月に侵入者が現れたという報を告げた時の反応は、まさに豊姫の想像した通りだった。神神は豊姫の言葉を遮ると、ぞんざいな口調で、そのロケットを壊してしまえば良いと言った。豊姫は即座に、それは既に失敗し、地球の人間達は現在月の都の近くにある荒野に陣地を張っている事を告げる。それでも長老達の危機感を刺激する事は出来無かった。百五十年前にやってきた人間達を追い払った時の様に、あるいは百年前に何度もやって来た侵入者を撃退した時の様に、豊姫と依姫で適当にあしらえと言う。
百五十年前はお粗末な装備のロケット一基、百年前は魔法が使えたものの四人しか居なかった。今回は数百人も居て、その上地球上の最新技術を身に纏っている。難しさの桁が違う。けれどそんな違いを逐一説明しても無駄な事は豊姫が誰よりも分かっていた。御簾の向こうに居る長老達は外の事等何も分かっていない。地球の人間が未だに石器を手にして野の中で狩猟していると思っている可能性すらある。
「残念ながら、今回はとにかく数が多く、殺さずに追い払う事が出来そうもありません」
だから豊姫は穢れを理由に断った。月の民はとにかく穢れを嫌う。流石に穢れを伴うとなれば、豊姫にやらせる訳にはいかず、御簾の向こうの神神は穢れた者達を使えと言った。それを引き出せた事に満足し、豊姫は深深と頭を下げて神神を褒め称えると、許しを得て部屋を出た。
少し歩くと待たせていた玉兎が寄ってきて、不安そうな顔でどうだったかと聞いてきた。それを安心させる為に、豊姫は柔らかな笑みを玉兎へ向ける。
「穢れた者達を使う許しが出たわよ」
「本当ですか!」
「ええ、計画通り。後は向こうに任せましょう」
豊姫が止まる事無く歩くと、玉兎がその後に追い縋る。
「でも良く許可が取れましたね。あんな化け物の」
「あら、いけないわ。同じ月の民でしょう?」
すると玉兎が渋面を作って吐き捨てる様に言った。
「あんなの違います。穢れを受けすぎて変質した化け物が私達と一緒だなんて」
「それは彼等の所為じゃ無いわ」
「分かってます。でも」
豊姫は空を見上げて玉兎に命令を伝達する様に伝える。それを玉兎が瞬く間に遠く離れた部隊へと伝える。連絡を受けた部隊はすぐに穢れた者達を地球の人間達の陣地へ送り込むだろう。
「でも本当に大丈夫なんですか?」
玉兎がまた不安そうな声を出す。
「だって敵の基地は月の都の傍から丸見えなんですよ。あんな化け物が見えたり、それと敵が戦うのも見えて、それで沢山死んじゃうのが見えてしまうのに、大丈夫なんですか?」
「月の民がそれを見たらどうなると思う?」
「みんなに穢れが移っちゃうんじゃないかって」
豊姫がくすりと笑った。
「そうね。月読尊は間違えているかもしれないわね」
豊姫が振り返ると玉兎が身を震わせる。神を非難するという事は何よりも畏れ多き事と刷り込まれていて、その刷り込みは羽衣でも除去する事は出来無い。しかし常日頃から豊姫が言い含めていただけあって、玉兎の目には理解の色が浮かんでいた。
「もうあの方方は耄碌してしまったのよ。何があったかしらないけど、輝夜姫に骨抜きにされて」
玉兎は身を縮こまらせて黙っている。
「あの部屋に入れば聞かれるのは輝夜姫の事だけ。命令は輝夜姫を見つけて来いばかり。もうこの月の都のシステムには要らない部品なのよ」
豊姫は柔らかな笑顔を浮かべたままそう言い切って、再び前を向いた。
「覚えておくと良いわ。長生きするっていうのはね、死ぬっていう事なの」
玉兎が意外そうな声を上げる。
「生きていれば、自分で考えて自分で行動する。自分という存在を世界に著していく。でもね長生きすると過去の焼き直しばかりになって、今の自分なんて無くなるの。それはもう自分という存在が死んでしまったのと同じ事」
「長く生きるとそうなるんですか?」
玉兎は分かった様な分からない様な表情になる。
「人よりもずっと寿命の短い兎だからって安心しちゃ駄目よ。月の都に住む者はみんな死んでいるんだもの」
「え?」
「だって月の都のシステムに取り込まれて、自分らしさなんて殆ど無いじゃない」
「そんな事は無いと思いますけど」
玉兎が本心から言っているのを見て、豊姫はふっと小さく息を吐いた。大股になって歩みが早くなる。
「そうね。今のは訂正するわ」
「あの」
「とにかく長く生きると過去の焼き直しばかりになる。情動も磨り減って何も感じなくなる。だから死んでいるのと同じ。あなたはゾンビって知っているかしら?」
唐突な話題の転換に、玉兎が首を横に振った。
「地球に居るらしいんだけれど、ゾンビはね、動く死体。生前と同じ姿で生前と同じ動きをする。けれどそれは単に薬の効果で、腐らず、生前と同じ動きをしているだけで、本当は既に死んでいる」
「何ですかそれ」
玉兎が気味悪そうに眉根を寄せる。歩みが遅くなって豊姫から離され、慌てて小走りになる。
「気持ち悪いです」
「長生きした者の末路と一緒よ。私や神神の様に。確かにとても気持ち悪い。でも私はね、ゾンビであってもそれが役に立つのであればそれで良いと思う。過去の焼き直しをするだけの抜け殻でも、次の世代の為に行動するのであれば存在する価値はあるって信じている」
豊姫が空を見上げる。玉兎は背中を見ている筈なのに、何故か豊姫が満面の笑みになったと分かった。
「けれどね、そうでなくて、単に同じ事ばかりを繰り返し呟くだけで何の役にも立たないなら、それはもう必要無い」
豊姫の静かな言葉に気圧されて玉兎の足取りが鈍った。
「それは社会システムだって同じでしょう。使い古された所為で、月の都も、聞いた話だと地球も、今のシステムはもうゾンビを生み出すだけみたい。だったらそれも必要無いわよね」
玉兎は再び置いて行かれそうになって小走りに駆け寄り、張り裂けそうな胸を押さえながら、恐恐と豊姫に問いかけようとした。だが出来なかった。豊姫の表情を見るのが怖かった。酷く恐ろしい表情をしているであろう豊姫の顔を見てしまえば、穢れと恐れで死んでしまう様な気がした。
だが玉兎の躊躇等関係無く、豊姫は振り返ってその表情を見せた。豊姫の顔に浮かんでいるのは笑顔。満面の優しげな笑顔は、玉兎達に優しい言葉をかけてくれるいつもの豊姫だ。玉兎がほっと安堵の息を吐くと、豊姫はいつもの優しい笑顔のまま言った。
「だからみんな死んだ方が良いのよ」
豊姫は笑顔のまままた前を向いて歩き出した。玉兎はそれを追う事が出来ずに混乱した頭のまま立ち尽くした。豊姫は少し歩いてから振り返り、玉兎に向かって、どうしたのと心配そうに常日頃と変わらない様子で問いかけた。玉兎はそれに答える事も出来ずにただただ呆然と立ち尽くす。
やがて豊姫は笑顔のまま首を傾げると、玉兎を置いて歩いて行った。
辺りにはテントが幾つも立ち並び、そこを兵士達が忙しそうに駆け回っている。さっきまで立っていた三十基のロケットは既に解体されて、代わりに巨大な基地が出来上がっていた。テントの密集する基地の背後には緑の生い茂った森が広がり、前方の地平線には地球の文化をぐちゃぐちゃに煮込んだ様な月の都が広がっている。空は月面の反射光で星一つ見えない。それなのに明かりも付けていない辺りがまるで真昼の様に明るい。
「上手く行き過ぎて怖い位ですね」
順調に進む月面での設営を見ながら心配そうな顔をしている兵士に、クリフォードは満面の笑みを向けた。
「分かっていた事だろう! 何も心配する事は無いさ!」
「そうなんですけど、シミュレーターと比べてあまりにも簡単過ぎて」
「それだけうちの作戦班が心配性だったって事さ。出発前のブリーフィングで、ここまでは簡単にいくと何度も説明しただろう。それよりほら、カメラに映るんだから笑顔笑顔。仏頂面だと帰った時に声を掛けてもらえなくなるぞ! 君はまだ恋人居ないんだろう?」
「そうですね」
兵士が戸惑いがちに笑顔を浮かべたので、クリフォードは笑って辺りを見回した。
「さて、もうほとんど完成したね」
「そうですね」
一見すると、単にテントが並んでいるだけだが、その実、敵襲に備えて迎撃用の兵器や防護用のシールドが幾重にも重ねてある。生活環境はまだ整っていないが、少なくとも敵の攻撃を防ぐ事は出来る筈だ。
「データを取りたくてうずうずしている学者さん達に許可を出してあげよう」
「分かりました」
「なんたって半数が科学者なんだ。機嫌を損ねて反乱されたら、忽ち尻を徹底的に調べ上げられるぞ」
兵士が笑いながら何処かへ連絡を取りつつ去っていく。
クリフォードは別の兵士を掴まえて、その兵士が持っている端末を覗きこんだ。
「地図は問題無さそう?」
「ええ、正確です」
「よし。じゃあ、予定通り小隊をトラックに詰め込んで出発しよう」
「畏まりました」
「それと設営はほとんど完成したから合図も送っておいて」
「はい!」
走り去ろうとする兵士をクリフォードが呼び止める。不思議そうな顔をして振り返った兵士にクリフォードは満面の笑みを見せた。
「笑顔」
兵士が慌てて笑顔になる。
「他のみんなにも笑顔を周知徹底させておいて。これは任務の一つだよ」
兵士が笑顔のまま敬礼して去っていく。
その背から目を逸らして月の都に目を向ける。静かに鎮座する都市に変化は無い。だがもうしばらくすればこの月は戦場になる。それを思って息を吐くと、突然辺りにサイレンが鳴り響いた。
敵襲を示す警報だ。
クリフォードの目が、月の都から猛スピードでやって来る一団を捉えた。兵士達に対応を告げようとした瞬間、突然空気が膨れ上がった様な気がした。同時に月の都側の一番外郭のテントが消失した。まるで刮ぎ取られた様に、さっきまでテントのあった場所が更地の荒野になっている。
慌てた様子で何人かの兵士達が駆けて来る。クリフォードは何度か深呼吸して自分を落ち着けてから、笑みを浮かべて声を張った。
「恐れるな! やられたのは防御用の無人機のみ! 当初の作戦通り防戦しろ! ありったけ撃ち込んで近寄らせるな!」
月の都側を防衛する部隊に、出来るだけ見栄えの良い実弾の銃を使い、またシールドはエネルギーの事を気にせずどんどん派手に使う様に伝え、一方で学者たちへ今の攻撃の解析をして前線部隊にフィードバックする様に支持を出した。
そうして自分は敵襲とは別の方角へと向かい、トラックの前で笑顔の兵隊が待機しているのに頷いて、いの一番に荷台に乗り込むと、軍服を脱ぎ捨て、装飾の全く無い濃紺の迷彩服と濃紺のフルフェイスマスクを被って座った。後から次次と兵士が入ってきて全く同じ服装になった。皆が全く同じ格好になるので誰が誰だか分からなくなる。クリフォードは閉まる寸前の扉から明るい外を見つめて冗談めかして言った。
「月って宇宙の癖に随分明るいね。これじゃあ逆にこの格好が目立っちゃうよ」
兵士達が笑い声を上げる。
「さあて、それじゃあ、派手に密かに行きますか!」
運転席から全員乗ったか確認してきたので、クリフォードはトラックを消して発進する様に伝えた。一瞬重低音が鳴ったかと思うと、トラックが砂を巻き上げながら浮き上がり消失した。
「万事順調かい?」
岡崎は理事長室に入って声をかけた。理事長はたった一人でソファに座り、鼻歌でも歌い出しそうな様子で楽しげに中継映像を眺めている。
「一先ずは」
「打ち上げが成功して第一段階無事成功といったところか?」
「いいえ、結界の裏側を無事に運行中で、えーっと、ロケットの打ち上げに関してい言えば、三十段階目位かしら? それに成功も不成功も無いわよ」
理事長はそう言いながら、再び映像に視線を戻す。
「どういう意味か、分かりかねるね」
「夢美はゲームブックって知っているかしら?」
唐突な話題展開に面食らいながらも、岡崎は頷いた。
「知識としては」
「そうね、廃れて誰もやらなくなった。私が生まれた当時でも。でもね、私の遊び相手はそれしかなかった」
理事長は水で口を潤すと、天井を見上げながら自嘲する。
「信じられる? あの頃既に、一人一台端末を持つのが当たり前だったのに、私だけそんなもの買ってもらえなくて、古臭い電子ペーパーのゲームブックしか遊ぶ物が無かった」
「それは御愁傷様だね」
岡崎が粗略に返答する。
「だからかしら、先の見えない状況一つ一つがどうやって枝分かれして分岐していくのか考えて、それを自分の掌の上で操作するのが何よりも楽しいの」
「それは随分と歪んでいるね」
「でもね、上手くいってばかりじゃ面白くない」
「簡単すぎるのもね」
「だから私の夢は予想外の事態に直面する事。一つ予想外が起きたら、また次にもっと大きな予想外を」
「そんなのを続けていたらいずれは大きなカタストロフィに繋がる。大悪党だね。批判を避けて雲隠れする訳だ」
理事長はソファから立ち上がると端末に何かを打ち込み始めた。
「参っちゃうわ。外に出られないから雲隠れしているのに、仕事はどんどん入ってくるのよ」
「それは御愁傷様だね」
理事長は端末を見つめながらふと思いついた様に言った。
「そう言えば、聞いた事が無かったわね。夢美は子供の頃何をして遊んでいたの?」
「私? ひたすら勉強だよ。良い学校に入って、理想的なレールの上を進む為に」
「あらそれは、ごめんなさい。何か玩具でも送ってあげれば良かったわ」
「どうしてあなたが謝る。そもそもその時お互いを認識していなかっただろう」
「申し訳ないと思うわよ。あなたの親だもの」
「今の御時世、遺伝子的な繋がりに何の意味がある」
「それを大事にする人も居るわ」
「でもあなたは、そういった絆を利用する為の道具としか思っていないだろう」
「勿論」
岡崎が疲れた様に溜息を吐く。
「あ、そう言えば、あなた、そろそろ誕生日でしょ?」
岡崎が覚えていないと答えると、理事長はデータベースにそうあるものと言って笑った。
「何か玩具をプレゼントして上げましょうか?」
「要らん」
「ぬいぐるみとか」
「要らん」
「大きな研究所とか」
「要……」
岡崎はしばらく迷ったが結局要らんと言ってそっぽを向いた。
理事長はくすくす笑ってから再び端末を操作し始めた。
続き
第十四章 そこに異常を見たのなら
今回も面白かったです
地球のメリケン勢は結構好き
笑顔を演出しないといけないとかはなんだか親近感を覚えますね
この理事長すげーと思っていたら、岡崎(母)なんですね。恐れ入った。
豊姫さんに至ってはあまりに退屈なもんだから天子をこじらしてしまっています。穢れに繋がる思想を消去する羽衣でも取れない、穢れ一つない純粋な歓喜が策動します。
そしてクリフォードさん。知らずのうちに、第二次月面戦争と良く似た行動を取らされています。笑顔はとっても大切。
先を見据えているのはどちらなのか、今からワクワクします。
しかしここに住吉ロケットが突っ込んだらどうなるのやら・・・
豊姫が一番危険なんだなあ。でもなんとなく言ってることには共感が持てます。限られた寿命があるからこそ生は輝く。個人であれ社会であれ。
さて、この状況に蓮メリや幻想郷勢がどう絡むのか。
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