太陽が南から少し傾いた午後。天然の桜ならもうすでに散りきってしまっているはずの4月中旬でも、ウイルス耐性を持ち開花してから一月は散らない合成の桜は未だ満開となっている。その木々の下では、汗の匂いが染み付き泥まみれのユニフォームを着た選手や、黒装束に身を包んで手に何やら怪しげな本やら十字架やらを持っている得体の知れない人間やらが声を張り上げたりチラシを配ったりして、午前中の講義を終えて帰路についたり食堂へと突っ走っていく如何にも大学一年生ですという人達に宣伝していた。この季節はああいうサークルが新入生をこぞって引っ張ってこようとする光景がもう風物詩のようなものになっている。
その様子を見るたびに思うこともある。私、宇佐見蓮子が所属しているサークル、秘封倶楽部のことだ。結成してもう数年は経つが、未だにメンバーが増えたり減ったりすることはない。原因としては、我がサークルが大学非公式であるというところが挙げられる。人数が二人だなんて、届け出を出された瞬間に鼻で笑われるだろう。だがそんなことはどうだっていい。秘封倶楽部には結界暴きや境界弄りの他に、もっと大切な活動内容があるのだ。
と色々物思いに耽りながら道伝いに歩いていると、木々の間から一層大きな木が見えてきた。サークルの誘いの言葉を無視しながらその巨木に向かって歩みを進めると、道行く人の流れに身を任せずそこに立ち続けている人の背中が見えるようになってきた。私はブロンドヘアにちょっと変わった帽子被った人物を確認すると、彼女目掛けて歩いて行きあと数メートルというところでその人に話しかけた。
「おまたせ、メリー」
それを聞いた彼女――マエリベリー・ハーンはすぐにこちらを振り返くと、頬をぷくりと膨らませて睨みつけながら言った。
「な~にが『お待たせ』よ。3分と34秒遅刻」
「私が遅れてるんじゃなくて、周りが早いのよ」
「なにそれ。蓮子の周りだけ重力がとても強いのかしら?」
「あ、今遠回しに馬鹿にしたでしょ」
「愛の鞭よ」
「愛の無知?恋は盲目ってとこね」
私は彼女の後ろに素早く回り込むと、両手で眼を塞いでやった。どんな反応をするのか楽しみだったが、気にもとめずに会話を続けられてしまう。
「はぁ……まあいいわ。で毎日恒例のミーティングはどこでやるの?」
「いつも通り、あそこ」
手で固定された頭をクイっと九十度ほど右に曲げてから、両手をぱっと放してあげた。彼女の目線のすぐそこには、側面がガラス張りになっているカフェテリアが見えているはずだ。
「人が行き交って見づらいけど、席に余裕はありそうね」
「さ、行きましょう?」
メリーの背中を軽く押しながら、まっすぐとカフェの方へ向かっていった。その途中、何故か誰かに見られているような気がしたが、恐らく気のせいだろう。
カフェテリアの中は木の下から見ていたとおり、まだ席が開いていた。
「いらっしゃいませ」
店のドアを開け、独特な香りが漂ってきたのを鼻で感じると店員からの挨拶が聞こえてきた。そのまま中へと入って飲み物だけを注文する。決して、先ほどメリーに言われたことを気にしているというわけではない。最近親に出費についてあれこれ言われたため、節約をしているのである。決してメリーの言ったことを真に受けたわけじゃない。そんな家庭の複雑な事情を察してくれないメリーは、堂々と苺の乗ったショートケーキを頼んでいた。いや、渡された時にチラリとこちらを鼻で笑っていたところをみると、確実に狙ってやっているらしかった。とても、つらい。
ドリンクを受け取ると、椅子がテーブルを囲んである四人席を確保する。空いているのだから、特に店員から文句を言われるようなことは無かった。荷物を空いている椅子に置いてから、一口アイスティーを口に含み、苦味と少しの甘みを味わいながら店内に流れているジャズに耳を傾ける。こういった落ち着いた雰囲気というのは、精神を静かにさせるのにはちょうどいい。一息ついたところで、彼女に話しかけてみた。
「ふぅ。で、何か今日はクラブ活動に関する話題はあるの?ちなみに私の方にはないわ」
「あるわよ。でもその前に少しだけ食べてもいいかしら~」
そうは言うが、私の同意の返事を聞く前にせっせと生クリームを口へと運ぶ作業を始めていた。私の意見など鼻から聞く気がないというのか。プラスチックカップを握る手がカタカタと震える。ここはガツンと言うべきか。
「メ、メリー?そろそろ私の堪忍袋の緒が限界よ?」
「ん?蓮子も食べたいの?はいあーん」
フォークの上に乗せられた苺が私へと差し出された。私の決心が揺れている音が間近に聞こえる。数分色々考えたが、黙って目の前のそれにパクリと口に含む。
「コレで許してくれる?」
「……卑怯」
「お褒めの言葉、大変光栄。で、話の話題なんだけど……」
そう言いながらメリーは自分のバックを漁り始めた。その様子を、モグモグと苺を堪能しながら眺める。少しすると、目当ての物が見つかったのか、にこりと笑ってそれを取り出そうとしていた。
その時、先ほどまで静かだった店内が少しざわめき声が聞こえてきた。その声はどうやら入口の方からするようだった。
「メリー、あれを見て」
私は彼女に目配せをして入口の方向へと視線を移すように促した。そこにはまるで朝の超満員電車の如く、人が押し入ってきていた。彼らは入るやいなや席へと座っていき、しまいにはほぼ満席になってしまった。さっきまで静かだったのが嘘のように、店内には人々の会話をする声やぎこちない笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
「この集団の中でも話せる話題?」
カップから手を離し、口に手を添えながら小声で中断された話の内容を伺ってみる。メリーは別に怪しげな会話をするような人ではないが、少なくとも自分たちのサークル活動がどこかの誰かに聞かれていないかは心配であった。
「うーん……もう少し様子を見てみましょう」
メリーはフォークに付いた生クリームを舐めながら答えた。彼女と話ができないのなら仕方がない。私はなぜ急に人が大勢やってきたのかを、なんとなく考えてみることにした。新作の何某が目当てなのかと思ったが、今日はそのようなものはない。もしかしたらアイドルかバンドかの追っかけか?と思ってみたけれど、それに該当するような有名人は見当たらない。
頭の中で推論を立てるのには限界がある。なので次は、集団の会話を聞いて立ててみることにした。
「……でさ……」
「それで……でも……」
「……けどねえ……」
少し聞いてみたところで、少なくとも、全員が同じ話題で話しているわけでは無いということがわかった。つまり、全員が意図してここにやってきたとは考えにくい。他には、ここの四人席を除くと、殆どの席で相席が発生しているような事が聞こえた。なるほど、だからどことなくぎこちない笑い声が聞こえたのか。
ある程度考えがまとまったが、それ以上推論を裏付けるのに飽きた私は、本でも読もうと自分のバッグに手を伸ばしたところ、急に見知らぬ声が耳に届いた。
「あのー……相席いいかな?」
どうやらその声は私達に向けられてのものだったようだ。それの発せられた方向へと顔を向けると、一人の少女がそこに立っていた。
「相席、いいかな?」
薄く緑がかった癖のあるセミロングに緑の瞳、黒色の帽子、首から閉じた瞳の形をしたペンダントをかけている彼女は、再び私達に話しかけた。
突然話しかけられたため、どう反応しようかと考えてしまいワンテンポ遅れて返事をする。
「あ、いいですよ。ね、メリー?」
「え、ええ。もちろんよ蓮子」
「じゃあこの席に座ってください。ほら、メリー。私のかばんそっち置いといて」
「迷惑をかけてごめんねー」
突然現れた彼女は軽く頭を下げた。その時、ふわりとバラの香りがしたような気がした。そしてそのまま持っていたコーヒーをテーブルに置いて、その人はついさっきまで私の荷物が置いてあった椅子に腰掛けた。
「私の名前は古明地こいしって言うの。こいしでいいよ。よろしくねー」
彼女――こいしは初対面とは思えないほど、とても親しげな口調で自己紹介をしてくれた。
「あ、私は宇佐見蓮子。蓮子って呼んでもらっても構わないわ。で、そっちに座ってるのが……」
「マエリベリー・ハーン。メリーって呼んでね」
「蓮子さんに、メリーさんね。了解了解」
こいしはそう言うとニカッっと笑ってみせた。無邪気で、可愛い笑顔だがどこか怖い印象を持ってしまった。中身が無いというか、なんというか……。
「あ、何か話をしようとしてませんでした?私に構わないで話してもらっていいですよー」
彼女は笑顔のままそういった。何かを話すような素振りをしていたっけ?そんな疑問が頭をよぎった。
すると、先程まで話すのをためらっていたような感じであったメリーが急に話し始めた。
「ねぇ、先の戦争って知ってるでしょ?」
「え、ええ。勿論知ってるわ。数十年前にあったやつでしょ?」
取り敢えず、私はメリーの話にあわせることにした。
「中東諸国、そして大陸での同時多発的内戦、及び軍部の暴走による周辺諸国への侵略。それにアメリカが介入する形で始まった戦争だっけ」
「さすが蓮子。物理だけじゃなくて世界史もできるのね」
「バカにしないでよ」
私はふと、こいしの方を見た。彼女はまだニコニコ笑っていた。メリーはクリームの塗られたスポンジを一口食べてから話を続ける。
「で、アメリカは中東に軍力を入れすぎて、反政府勢力が反乱を起こした。結果、アメリカは今でも真っ二つのままね」
そう言いながら、メリーは手元にあった紙ナプキンを二つに裂いた。分裂の比喩だろうかと考えてみたが、その一片を口を拭くのに使ったところを見て、もしかしたら特に深い意味は無かったのでは、と思ってしまった。
「大陸の方はー……えっと確か、ものすんごい大人数のデモ参加者が暴徒化してそのまま内戦突入、だっけ?」
すると突然、人差し指を立てて頬に当てながらこいしが会話に入ってきた。
「それを機に軍部が暴徒化した国民を、容赦なく蹴散らしていった」
「そうそう。その結果、政府は崩壊。大陸の大半が、人の住むことの出来ない場所となった。放射能のせいね」
メリーが続けて言った。しかし、ここまでの話から、私達との関連性を見出すことはできなかった。いつもは直球で話を持ちかけるのに、今日のメリーはどうしたのだろう?そんなことを考えながらメリーを見つめていると、彼女が不敵な笑みを浮かべてきた。もしかしたら、話の本題を答えさせたいのか?よくあるクイズ番組のノリでいるのだろうか?もしそうなら乗ってあげるべきだと、私は思った。たまには回り道もいいだろう。
「えぇと……放射能による汚染地域……人が住めない……ってことはつまり生き物も住めない……」
必死に頭の中の引き出しをひっくり返す。関連したワードをたどっていけば、本題にたどり着けるかもしれない。
「生き物も住めない?そこってどうにかしてまた住めるようにできないの?」
こいしはメリーにそう聞いた。しかしメリーは右手の人差指を立てて、唇にあてた。その質問は答えないという表現なのだろう。恐らく、そこら辺に答えがあるのかもしれない。
「住めるようにする……環境改造?……あ!わかった!」
私は膝を打った。答えがわかったのだ。
「各国は汚染地域の扱いに困り果てていた。変に開拓しようとしても放射能やら有毒ガスなどのせいで安易に手を付けられない。だから、地球のテラフォーミングを計画した。そしてその実験をするために日本が主導して開発、打ち上げたのが……」
「そう、人工衛星トリフネ」
メリーはよく分かりました、と言わんばかりに拍手をした後、瞳を閉じてトリフネの中の様子を語り始めた。うだるような暑さ、地上では見られない昆虫の亜種、見えないけどどこからか聞こえる水の音、そして、蔦が密集した場所にあった鳥居……
「最近見えるのよ。中の様子が……ね」
「え、でもでも、」
そこに、こいしがテーブルに身を乗り出しながら会話に割って入ってきた。
「確か、トリフネって数年前に原因不明の機械トラブルを起こして、地球周回軌道から離れて地球-月系のトロヤ群に移動した人工衛星でしょ?そんな所の中の様子がどうして分かるの?」
当然の疑問だと私は思った。38万kmも離れた衛星に行くことは普通に考えれば不可能だからだ。
「ふっふーん。私は結界の境目を見れる特技があるの。そして、私と蓮子が所属しているオカルトサークル”秘封倶楽部”はその境目を見つけるたびに、そこに飛び込んで遊んだりしてるの。で、今回のターゲットが今まで話していた、衛星トリフネってわけ」
「す、すごーい!それって本当!?メリーさんってもしかして、超能力者なのー?」
「……あ、あれ」
と、ここまで話してきたは良いが、こんな話をメリーの特別な力についてよく知らないこいしに聞かれてしまっても、果たして良いのだろうか?そもそも、こいしが来るまでは話そうとはしていなかった。突然彼女の気が変わったことも気になる。最悪の状況が頭をよぎると、いてもたってもいられなくなった。メリーの腕を掴み、入口の方へと引っ張る。
「ごめん、こいし!ちょっと外行ってくる!」
「ちょ、蓮子どうしたの!?」
「え、うん、わかったー。ここで待ってるねー」
一瞬首をかしげるような仕草をしたように感じたが、こいしはすぐに返事をしてくれた。それを見た後、突然の出来事に混乱しているメリーを連れて私達は一旦カフェの外に出た。
「い、いきなり何するのよ……」
「ご、ごめん、メリー」
私達は今、カフェのすぐ近くにあるベンチに立っていた。これから二人っきりで、話し合うためである。
「どうしてあんな事を言っちゃったの!?」
「落ち着きなさいよ蓮子。あんな事って一体どんな事よ?」
そう言いながら、メリーはベンチに落ちていた桜の花びらを払いのけて、そこにゆっくりと腰掛けた。私は構わずにまくし立てる。
「貴女のその眼のことよ!どうしてこいしに、知り合って数十分しか経ってない人に教えちゃったの?」
彼女はそれを聞いて、ウンウンと唸った後「言われてみれば!」という表情になった。
「一体どうしたのよ。いつものメリーならあんなこと堂々と人に言わないじゃない。それに、貴女の力が沢山の人に広まってしまったらどうなってしまうのか、一番分かっているのはメリー自身じゃないの?」
秘封倶楽部の活動内容で私達に共通するものは”結界暴き、境界弄り”であるが、私個人には別の意味も持っていた。それはメリーの長期的なカウンセリングである。知り合ってからの一時期は、今そこでの出来事が夢か現実かさえもメリーはわからなくなってしまっていた。あのままだったら、夢の世界にずっと幽閉されてしまうのも時間の問題であった。だからこそ私は彼女と二人で結界破りを行い、それの知識を深めることによってメリーに夢と現の境界をはっきりと認識させて、その存在を確固たるものとさせているのだ。
もし彼女の特殊な状況が他の人にバレたら、もしかしたら妄想過多とか精神不安定などと診断されて、どこかへ連れていかえるかもしれない。それぐらいに今の世界は世界は科学で説明できない物は徹底的に嫌う傾向があるのだ。
「いや……それがよくわからないのよ。あの場所では話せそうにないから適当に時間が経ったらカフェを出てどこかで話そうと思ったのよ。でも急にこいしがやってきて、それでなんとなく話し始めちゃったの」
「ずいぶんアバウトね。貴女らしくないじゃない」
「それはそうだけど……」
話してしまったのに、意図的な理由が無いことは分かった。後は、こいしに、どう言い訳をするかだ。私も、メリーがやったように花びらを払いのけてベンチに座る。
「やっぱり、素直に話すしか無いのかな……」
「秘密にしてくれって?」
「見た目素直な子だし、すんなり分かってくれそうだけど……」
「でも、もしかしたら何かものを要求されるかもしれないわよ?」
「メリーの秘密が広まるよりマシよ」
「そうね……それで、どっちがその話題を振る?」
「私からでいいわ。それまでメリーは特に何もしなくていいわよ」
「……ん。わかったわ」
その言葉を聞いた私は、立ち上がって言った。
「向かいましょうか、こいしの所へ」
そしてカフェの方へと向かおうとした時、メリーに袖を引っ張られた。どうしたの?と聞くと、「ごめんね。私のせいで蓮子に迷惑かけちゃって……」と謝られた。私は袖を掴んでいる彼女の手を握り、体全体を引っ張って私の方に引き寄せると、そっと言ってあげた。
「気にしてなんかないわよ。それより、早く行きましょうか」
私達は話し合った後、何事もなかったように装ってこいしが待っている席に戻った。未だ混雑具合は解消されていないようで、先ほどと変わらずに様々な声が飛び交っている。
「ごめんね、急に外に出ちゃって」
「ううん、気にしてないよー」
いきなり外に出ていった人に対して、それだけの返事で済むものなのだろうかといささか疑問ではあったが、それよりさっきの話のことを他言無用にしてもらわなければならない。それとなくそちらの方に話を振るために、タイミングを見計らわなければならない。私はそれに意識を集中させることにした。
「……」
「……」
「~♪」
テーブルに沈黙が流れる。メリーは俯きながら紅茶の水面を見ている。私が話を切り出すのを待っているのだろう。こいしは笑顔で鼻歌を歌いながら手元に顔を向け、コーヒーにコーヒーフレッシュを三個入れてスプーンでかき混ぜていた。テーブルにはカチャカチャとコップとスプーンが当たる音と周りのしゃべり声がが響いている。取り敢えず会話を再開させなければならないと思った私は、適当な話題を振ることにした。そこから先ほどの話に入っていこう。
「ね、ねぇ。コーヒーフレッシュの成分って知ってる?」
「植物性油に似せた合成油ね。そんなことより、何か、私に話があるんじゃないのー?」
さらりと私の離しを躱しながら、こいしは言った。その顔に、先程までの笑顔はなかった。顔はコーヒーの方に向かれているが目線はこちらを睨みつけて、口元を歪めた笑みを浮かべている。それに気づいた私は、背筋に寒気が走るのを感じ、直感で恐ろしいと思ってしまった。思わず自分の目線をテーブルの方に下げると、彼女の首から下がっているものが視界に入った。精神が異様に不必要に鋭くなっていたためか、その閉じた瞳の形をしたペンダントから何故か視線を感じてしまう。そんなありえないことについてあれこれ思うより、、私は考えなければならないことができた。何故、話があることがわかったのだろうか。そんな素振りを見せた覚えはない。そういえば、先程も話があることを見破られていたような気がする。
「別にさー、気を使ったりしなくていいんだよ?ほら、言ってみなよー」
恐る恐る、目線をこいしの方に戻してみる。彼女の表情にはもとの笑顔が戻っていた。先ほどの、あの恐ろしいものはなんだったのだろうか。それより、話を振られてしまった状況をどうにかしようと思った。メリーに助け舟を出そうにも、私から話しかけることになっているから期待できそうにない。ここは正直に言ったほうが無難かもしれない。意を決して、私は言った。
「さっきの話なんだけど、さ」
「トリフネのこと?メリーさんが中の様子が見えるとかなんとか」
「それのことなんだけど、誰にも言わないって約束してくれる?」
「勿論タダでとは言わないわよ。なんでも……は奢れないけど出来る限りここのケーキとか奢ってあげるからさ」
ここでメリーが会話に参加してくれた。味方してくれる人が一人でもいると心強い。
「秘密にして欲しいってこと?」
「誰にだってさ、広められたくない事だってあるでしょ?」
「ふ~ん……よっぽど大事なことなんだね……」
「そうなの。お願い!秘密にして!」
そう言いながらメリーは顔の前で手を合わせた。一応自分もそれを真似てやってみる。
「……よし、わかった!秘密にしてあげるね!」
こいしはウインクをしながら答えた。交渉成立だ。これで大丈夫だろう。私達は大きな溜息を一つついた。
「あ、でも条件があるよ。」
「うん、なんでも言って。出来ることならなんでもしてあげるから!」
メリーはドンと胸を張って答えた。
「じゃあ……」
そう、一言呟いた瞬間、こいしの表情がまたあの恐ろしい笑みへと変わっていた。それを見た時、何故か首から下げてあるペンダントが目に止まった。今度は私だけではなくメリーも彼女のその表情を見ていたらしく、彼女の方に目線を逸らせると、怯えた表情で固まっていた。何か、嫌な予感がした。
「私もトリフネに連れてってよ」
§
「午後7時47分……」
私は1人、天鳥船神社の鳥居にグッタリと寄りかかり、夜空を眺めていた。雲一つ無く、月もまだまだ満月には程遠い形状をしていて、天体観測にはちょうどいい天候だ。もっとも、私が見えるのは星だけじゃないのだが。
はぁと大きく溜息をついた後、鼻からゆっくりと息を吸う。神社を囲うように植えてある桜の香りを感じながら、今日のお昼過ぎでの出来事を想起する。あれはかなりミスってしまった。もう少し深く考えていれば「一緒に連れて行く」と言われる展開が予想できたかもしれないし、それよりもっと前からちゃんと警戒をしていればあのような話を振られても上手く避ける事ができたかもしれない。しかし、もう話は終わってしまった。約束もしてしまった。午後8時に京都駅近くの天鳥船神社に集合して、そこからトリフネへ行く。私と、メリーと、こいしで。私はメリーとの探検に慣れているが、こいしは果たして大丈夫なのだろうか?もし、ついて来ることができなかったのなら、それはそれで結果オーライかも知れない。下手したら、あの現実みたいな夢の世界にずっと閉じ込められてしまうかもしれない。不安やら後悔やらが頭をぐるぐる周っていたからか、柄にもなく時間より前についてしまった。
色々アレそれ考えながら、暗い参道を左手に持っている懐中電灯で照らしつつ、私はゆっくりと本殿の方へと歩いていく。周りを照らすものが星と三日月を少し過ぎたぐらいの月しか無いからか距離をとって見てみると朧げにしかその形を確認できなかったが、近づくにつれてその形状がはっきりと見えるようになってきた。本殿の上の方を懐中電灯で照らしてみると、神主不在の神社なのだろうか、本殿に使用されている木材が傷んで見える。あまり人は訪れていないようだという印象を受けた。歩きながらライトを参道と並行になるように動かすと、お賽銭箱を見つけた。賽錢と書いてあったのだろうか、賽の字と戔がかすれており「金」の文字しか確認できない。まるでお賽銭を今か今かと待ち構えているあまり、それが表面に出てきたようだ、と思った。それを少し哀れに感じた私は、バックから自分の財布を取り出して小銭入れから十円玉二枚と一円玉四枚を手に掴むと、それを目の前の箱に投げ入れた。何回か、軽い金属が木の板とぶつかる音が辺りに響く。私は財布をしまった後そのお賽銭箱に腰掛けた。お尻に木の凹凸の感触が直接伝わってきたが、今は考えないことにする。そして左手の懐中電灯の明かりを消してバッグにしまい、天体観測を再開することにした。
春の大曲線の付近に火星が輝いているのを見つけた時、参道の奥から一つの明かりがこちらを照らしてきた。目が暗闇に慣れていたためか、突然の強い光に一瞬クラクラしてしまう。とっさに右手で近づいてくる光を遮り、私はそれを当ててきた人に声をかけた。
「だ、誰?」
「あ、蓮子」
「蓮子さんお久しぶりー」
「なーんだ、メリーにこいしか」
待ち合わせの相手がやっと登場してきた。というか私が先に到着していたのだが。二人は声をかけてきたのが私だとわかると、どちらかが持っている懐中電灯を足元の方に下げてくれた。再び辺りが暗くなる。
「蓮子、あなたにしては珍しくマイナス四分遅刻よ」
「この世にはマイナスの遅刻なんて存在しないわよ、メリー。それに、仮にそれが存在するとして、正確に言うとするならばマイナス四分と一三秒遅刻になるわね」
「細かいこと気にしてると、世の中渡っていけないわよ?」
「あいにく、理系は理屈っぽい生き物なのよね」
「さ、そんなことより早くトリフネに連れてってよー」
そう言いながらこいしがスキップをしながらこちらに近づいてくる。暗くて詳しく表情を読み取ることはできないが、お昼の時と同じように笑っているように見えた。私はこいしに、焦らなくても連れてってあげるよと言った。そうしなければ秘密にしてもらえないのだからね、と心のなかで思いながら。
私は、こいしが側まで近寄ってきたのを見て、お賽銭箱から立ち上がった。そして彼女が近くまで来て立ち止まった後に、追ってメリーがやってきた。メリーは私とこいしの顔をを交互に見て言った。
「さあ、行きましょうか。トリフネへ」
その光景は、写真や動画での中でしか知ることが出来ない密林という風景そのものであった。私は、その風景をいつの日か観たことがあるかのような感覚にとらわれたが、きっとそれは遺伝子レベルに刻み込まれた本能が、何かしら反応をしたのかもしれないと自己解釈をした。地面に目を移すと、辺りの木々からはえてきている多くの根が所狭しと横たわっていて、少し歩きづらそうな印象を受ける。上を見れば、等間隔に設置された窓から、地上では大気の汚れから見づらい五等級や六等級の星々、私がいる生態系実験棟から回転軸で線対称にした位置にある生態系維持棟、二つの棟を繋ぐ複数の鋼鉄の柱、そして一定間隔で太陽と月、地球が見えた。月からは私が今、地球から三十八万キロメートル離れたところにいると告げている。私の好奇心掻き立てるのはこれらだけで十二分だった。
「……蓮子?私達がいることを、忘れてない?」
「忘れちゃやだよー?」
あまりに興奮してしまって、メリーとこいしの存在をすっかり頭から吹き飛んでしまっていた。もし二人に話しかけてもらわなかったら、一人で勝手に探索を開始していたかもしれない。そんな自分を恥じらいつつ、後ろに立っていた二人の方を振り返って謝った。
「ごめんごめん。つい、理系の血が騒いじゃって……てへ」
「もう、蓮子ったら」
二人の元に行こうと歩いてみるが足元がふらついてしまい、近くの木に寄りかかってしまった。遠心力が生み出す擬似重力は地球の数分の一ほどしかなく、訓練なんて受けたことのない私にとっては慣れるのに時間がかかりそうだった。
「大丈夫ー?」
「うん、どうにか……」
なんとか自力で彼女らの近くまで行く。こうした重力下では飛んだり跳ねたりする方が時間が短縮できそうだが、近くに生えている木の枝に衝突してしまいそうであまり進んで試したくはなかった。
そんなことを考えていると、どこからか鮮やかで毒々しい色をした蝶がユラユラとこちらに迫ってきた。最初は数匹がバラバラとやってくる程度だったが、だんだん群れが多くなっていきしまいには数百匹の蝶が私達の近くの木の幹に止まり始めた。どんな種類の蝶なのか考えるために一枚の布のようになった蝶の大群に腕を伸ばそうとした瞬間、昆虫特有の羽音が聞こえてきた。それに反応していまい、ビクンと手を引っ込ませて再び辺りを注意深く観察してみる。すると、さっきまで見えなかった虫たちが姿を表わしはじめているのに気がついた。どの虫も図鑑で一度見たことがあるような種類であったが、どうにも色や形が合わない。どうやらこの衛星には生命力が高く、逆に地球環境には適さない亜種の生き物だけを乗せているらしい。
「普通の生き物じゃ宇宙では生きていけないのかしらね……」
「トリフネの第一目的が汚染地帯で如何に生態系を再現するかっていうのだから、しょうがないんじゃないかな?」
ボソリとつぶやいた私の言葉にこいしが反応してくれた。よろよろとふらつきながらこいしの方を見てみると、指先に先ほどの蝶とは違った種類のそれがとまっていた。その蝶は人の体に流れている血のように真っ赤で、少し不気味である。じゃあね、と彼女が言いながら指を少し揺らすと、その蝶はどこかへと飛んでいってしまった。
その様子を見ていたメリーは、帽子を団扇代わりにばさばさと扇ぎながら言った。
「で、これからどうする?」
「そうだねー……各自が自由に行動してたら迷った時どうしようもなくなるし……」
私が腕組をしながら考えていると、こいしが先に答えた。
「とりあえずー、メリーさんがここで見たっていう鳥居に行ってみない?」
なるほどいいアイディアだと私が思っていると、衛星内に突然甲高い救急車のサイレンような音が鳴り響いた。幻想的な雰囲気から、一気に機械チックな雰囲気に引きこまれたような感じがする。
「……一体なんの警報かしらね?」
「特に気圧の変化もないし、衝撃も無いから何かが衝突したとは考えられないし……」
メリーの呟きに返事をしながら天井を再び見上げる。すると、さっきは気付かなかったがスプリンクラーのような装置が窓と窓の間に等間隔で設置されているのに気がついた。何だろう、胸騒ぎがする。
「メリー、こいし。木の下に移動したほうがいいかもしれないわ」
「え?なんでー?」
こいしが質問してきた瞬間、上空から霧状の水が私達に降りかかってきた。その人工雨は周りの空気とは違ってとても冷たいものだった。私達は、蝶がとまっていない木に抱きつくようにして霧雨を必死に避ける。少し濡れてしまっているが、全身ずぶ濡れになるよりましだろう。
「鳥居に行くのはこれが止んでからにしましょうか」
「「さんせーい。」」
メリーがそう言うと、私とこいしは同時に言った。
鳥居に向かう途中にも、様々な生き物たちの姿を見ることができた。生き物、と言っても見つけられたのは昆虫と植物だけだが。
数年前に、突如としてトロヤ群に移動を始めたトリフネ。衛星を回収しようという積極的な動きは現時点では見受けられない。理由としては、実験の第一フェイズであり主目的でもある、汚染地帯でも循環可能な生態系の実験がすでに終わっているからだ。データは既に回収済みであり、わざわざ衛星を回収する理由がなく、そもそも科学者達は既に衛星内部の生物は死滅した考えているからだ。
そんな学者の想像に反して、衛星の中は閉鎖された楽園としてまだ機能していたのだ。人の手から離れた生き物たちはとても生き生きしていて、地上とはまるで違う世界がそこにはあった。
そんなことを考えながら三人一緒に歩いていると、目的の物が目の前にあった。その鳥居は蔦が沢山絡まっており、遠くからでは確認しづらいほどとなっていた。その鳥居を抜けると、本殿がそこにあった。
「え、本殿まであるの?」
「あ、本当だー」
「私が見た夢では確認できなかったんだけどな……?っていうか、これ見たことあるような……」
その本殿はどうみても、待ち合わせに使った地上の天鳥船神社にそっくりであった。だがそっくりなのは本殿だけで、灯籠や手水舎なんかは一つも設置されていない。参道も見えないが、ただ単に無いのかそれとも足元にある根っこに覆われてしまっているだけなのかはわからない。それでも、鳥居と本殿が存在するだけで何か神聖な雰囲気が醸しだされていた。
「どうみても、天鳥船神社ね……」
根っこに引っかからないようにゆっくりと歩いてきたメリーが言った。私と同じような結論に達したのだろう。
私が本殿に備え付けられている賽銭箱らしき箱を叩いていると、少し遠くにいたこいしが私達を指さして声を上げた。
「あれ、なんか見えるよー?」
いや、正確には私達より上の方を指さしていた。一体何があるのかと気になり、彼女の側まで近づきながら、本殿の上の方に目を向けた。一見木々が乱立していて見分けがつかないが、そこには紛れも無く、天井を貫いている人工物があった。気になった私は二言三言彼女たちと言葉を交わして、一緒にその人工物に近づくことにした。
本殿の裏に隠れるようにそびえ立っているそれは、生態系維持棟へと繋がっているらしいエレベーターであった。大きさは世間一般的なものではなく、病院のそれと同じような大きさで、触るとひんやりと冷たい。このエレベーターも他と同じように蔦が絡まっていて、遠くからだと背景と同化していて見分けがつかなかった。
「これ、動くのかな……?」
そう呟きながら扉の右側についていたボタンを数回押してみたが、うんともすんとも言わなかった。建設の時にしか使わないと判断して機能を停止してあるのか、それとも長年放置されてしまって錆びついてしまったのだろうか。少なくとも、生態系維持棟に行くことは出来ないということがわかった。
「あら、動かないの蓮子?」
「そうみたい……残念ね。もしかしたら、人類で初めて宇宙で生態系を管理している場所を拝めることが出来るのかと思ったのに。」
私は肩の辺りで両の掌を上へ向けて、やれやれといった感じで少し大げさに答えた。誰も想像だにしなかった、宇宙にひっそりと佇む生き物の楽園をこの目で見られたんだ。それ以上望むのは少し我儘だろう。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかしらね。」
そうメリーが言った瞬間、近くの木の枝が大きく揺れて何かがこちらに顔を覗かせてきた。
木の影から現れた獣は、見たこともない姿をしていた。全身が長い体毛で覆われていて、腕や足は丸太のように太く、指らしき所からはかなり大きい鉤爪が生えており、私達の頭より二回りほど大きい猿によく似た頭部からは涎がダラダラ滴り落ちている。体の形は人間のそれと同じで、二足歩行をしている。体長は私達を軽く見下ろすほど巨大で、圧倒されてしまった。
突然の巨大生物の登場で呆然としている私達をおいて、ソイツは木に隠れていた片腕を口元の方へと動かしていた。その手にも鉤爪がついていたのだが、それに1つずつ何かが刺さっているのが見えた。それは、先ほどまで周りを優雅に飛んでいたであろう蝶であった。するとソイツは口を大きく開き、夢中で蝶を貪り食い始めた。その様子は、その場で固まっていた私達に大声を出させるのには充分だった。
「「「う、うわあああああああ!!!!!」」」
叫ぶやいなや、私達は我先にと一心不乱に鳥居の方へと走っていた。身の毛もよだつような不気味な物から遠ざかるために。
「な、何よアレ!?」
「知らない!!知りたくもない!!」
「ぎゃー!すっごーくこわーい!」
私達は全速力で、そのまま真っすぐ走った。こんなに本気で走ったのは小学校の運動会以来と言わんばかりに脚や腕をブンブンと動かす。いつの間にか恐怖と熱気で全身から汗が出てきて、服を湿らしてしまうこととなった。そんな服のベタつきも今は関係ない。ひたすら走らなければ。ソイツに対して全身が危険信号を発していた。
鳥居を抜けた辺りで走るスピードを少し緩めて後ろを振り向いてみた。どうか、追いかけていませんように……という儚い願いは無残にも砕け散った。私達の叫び声に反応したのだろうソイツが私達目掛けて猛スピードで近づいてきていたのだ。食事を邪魔されたためか、両腕を振り回して鉤爪で近くの木々を傷つけまくっていた。一振りで硬かったあの樹肌をいとも簡単に削りとっている様子を見て、私達生身の人間じゃあたったら一発でアウトだなと察した。
鳥居を通り、木々の隙間をくぐり抜け、枝々の妨害を無視して私達は走った。だけれど、ソイツもしつこく追いかけている。遭遇して数分しか経っていないのに、何十分にも何時間にも感じていた。秘封倶楽部はオカルトサークルであり、例え何処かへ出掛けるにしてもそれは体を動かすのためではない。即ち運動に慣れていない私とメリーの足には、既に限界が訪れていた。足を一歩一歩前に押し出すたびに筋肉から痛みとして休憩を求めてくる悲鳴が聞こえていた。その度に「アイツを撒けたら休めるから、それまで頑張って……!」と自分に言い聞かせて何とか気力だけで前進しているという様である。
そんな時、相棒の口から拍子抜けた声が聞こえた。
「あっ」
私がそれに気づいてそっちの方を見ると、メリーが根の間に足を引っ掛けてしまって、前のめりになっていた。私はとっさに彼女の名前を叫んでいた。その時だけ、まるでスローモーション映像のように動きがゆっくりに見えた。一歩前に出した足でその場に重心を留めて、メリーの方へと何とか体を向けて地面を蹴り無理やり両手を伸ばしながら彼女と地面の間へと割って入る。突然の転倒で動転しているのか、受け身をとっていないメリーを何とかダイビングキャッチするとそのまま彼女と一緒に、地面に倒れてしまった。
「メリーさんに蓮子さん大丈夫?」
「いっつぁ……メ、メリー大丈夫!?」
「ご、ごめん蓮子!私は大丈夫だったけど貴方は……?」
メリーは私から離れると、私の腕を掴んで袖をまくられた。そこには根っこや地面と擦れて出来たのであろう傷が多数できていた。ほとんどは赤くなっていたりしているだけだが、二箇所三箇所血が出ているところもあった。多少痛みを感じるが、我慢できるレベルだ。
「これくらい大したことないわよ!それよりアイツは……」
私はさっきまで走っていた方へと頭を向けた。そこにはあの獣が、ほんの数メートルという近さまで接近していた。鉤爪が擦れる音や荒い呼吸音が走る音とともに近寄ってきているのが感じられる。殺されると直感で思い、メリーを護ろうという一心でとっさに自分の体に抱き寄せた。
「二人には……絶対指一本触れさせない!」
すると突然、隣にいたこいしが獣と私達の直線上に割って入ってきた。このままでは、私達より先に彼女が襲われてしまう。
「こいし!早く逃げて!」
私は必死になって彼女に言ったが、動こうとはしない。
「大丈夫、安心して。メリーさんは帰れるように支度しておいてね」
「あ、わかったわ……」
そうこいしに言われると、メリーは目を瞑って私の体を強く抱きついてきた。反射的に私を抱き返す。
「神社に、地球に、帰れますように……!」
そうメリーが呟いた刹那、こいしは恐らく獣に対して言い放った。
「さぁ、獣さん。覚悟はしなさい!!」
すると彼女の両方の袖から、何か太いひも状の物が伸びていくのが見えたような気がした。瞬間、突如辺りが明るくなっていった。あまりの白さに反射的に目を瞑るが、それでも光の流入は遮ることが出来なかった。そして五感の一つ一つが、まるでスイッチをパチンとオンからオフへと切り替えるかのように次々と感じ取れなくなっていき、最後にはテレビの電源が切れるようにブツリと光を感じることも出来なくなってしまった。
少し時間が経つと、それを感じることが出来なくなったのと同じように五感が次々と戻ってきた。風で木葉が擦れる音、誰かの服から香る洗剤の匂い、背中に感じる調度良い暖かさの柔らかいもの、綺麗な星空。ゆっくりと頭が回転しだし、現状を把握しようとする。
「れ、蓮子にこいし……重い……どいて……」
その声を聞いて、体がビクンと反射的に何かに寝っ転がっていた状態から起き上がる。足を根っこに侵食されていない普通の参道にしっかりと踏みしめてから、後ろを振り向いた。そこには、お賽銭箱にもたれかかっているメリーと、彼女に寄りかかっているこいしがいた。こいしもぴょんぴょんと跳ねながらメリーから離れる。
私はふと顔を上げて月へと眼を向ける。月を見て伝わってくる私の現在位置は、京都の、地球の天鳥船神社であった。無事に戻ってくることが出来たのである。
「しっかしこうやって帰ってくると、まるで夢みたいね。ま、メリーの夢を見てたよなものだけど。」
私は帽子の位置を直しながら言った。その時、そういえば腕怪我してたな……と思い出して袖をまくってみたが、それらしいものは無かった。やっぱり夢の出来事だったから、私の体には影響しないのだろう。
「何を言っているのよ。あれは、正真正銘トリフネの真実よ」
「そりゃそうだけどー……」
「っていうか今日の蓮子、なんだかいつもとは違った感じがするわ」
「そう?」
「普段なら、ああいう化け物でもみたら、『ふむふむ、あれはこうこうこういう生き物なのかもしれない』って突然考察を始めるでしょう?それなのに、まるで人が変わったかのように一目散で逃げてたじゃない」
途中、私の声を真似て言っているつもりだったのだろうが、アレンジし過ぎていてなんだかよくわからなかった。
「う、うーん……確かに私らしくなかった、かな……」
そう言いながら少し前の出来事を思い出す。だが、何故か頭のなかで上手く再生されない箇所がひとつあった。私は一体ここに帰ってくる直前、視界が真っ白になる前に何を見たのだろうか?何か、とても重要な物を見た覚えがあるが、どうしても思い出せない。
「それを言うならメリー、貴方だって変じゃなかった?」
「私はいつでも普通ですわ」
「いやそうじゃなくてさ、普通は危険な目にあう直前で夢から醒めてなかった?」
メリーに出会って少し経った時に相談された夢の内容や、他にも時々聞かされた話を思い出しながら私は言った。彼女の力による不思議なそれは、化け物のようなものに襲われるすんでのところでハイおしまいというものが多かったはずである。今回も実際危ない状況に陥っていたはずなのに、強制的に戻ってはこれなかった。
「私も最初はすぐに帰ることになると思ったわ。でも今日はダメだった……あれ、でもなんでこいしに促されたら戻れたんだろう?」
私とメリーは不思議がって一緒にこいしを見つめる。その視線に気がついたのかどうなのかわからないが、彼女はこちらに振り返ると、その場でスキップをしながら嬉しそうに言った。
「怖かったけど、楽しかったー!」
あんな怖い出来事があったのにそれを楽しいといえるこいしが、私には少し羨ましく思えた。
「取り敢えず、今日の探検はこれくらいにして、解散しましょうかね」
「さんせーい。疲れたから家帰ってお布団にダイブしたいー」
「そうね……そうしますか……」
会話に流されて思わず私は頷きながらそう言う。結局、重要な何かは思い出せずに帰路へとつくこととなった。まるで、喉に小骨が引っかかってしまったような気持ち悪さを感じたが、どうやっても思い出せぬまま終わってしまった。
……
その様子を見るたびに思うこともある。私、宇佐見蓮子が所属しているサークル、秘封倶楽部のことだ。結成してもう数年は経つが、未だにメンバーが増えたり減ったりすることはない。原因としては、我がサークルが大学非公式であるというところが挙げられる。人数が二人だなんて、届け出を出された瞬間に鼻で笑われるだろう。だがそんなことはどうだっていい。秘封倶楽部には結界暴きや境界弄りの他に、もっと大切な活動内容があるのだ。
と色々物思いに耽りながら道伝いに歩いていると、木々の間から一層大きな木が見えてきた。サークルの誘いの言葉を無視しながらその巨木に向かって歩みを進めると、道行く人の流れに身を任せずそこに立ち続けている人の背中が見えるようになってきた。私はブロンドヘアにちょっと変わった帽子被った人物を確認すると、彼女目掛けて歩いて行きあと数メートルというところでその人に話しかけた。
「おまたせ、メリー」
それを聞いた彼女――マエリベリー・ハーンはすぐにこちらを振り返くと、頬をぷくりと膨らませて睨みつけながら言った。
「な~にが『お待たせ』よ。3分と34秒遅刻」
「私が遅れてるんじゃなくて、周りが早いのよ」
「なにそれ。蓮子の周りだけ重力がとても強いのかしら?」
「あ、今遠回しに馬鹿にしたでしょ」
「愛の鞭よ」
「愛の無知?恋は盲目ってとこね」
私は彼女の後ろに素早く回り込むと、両手で眼を塞いでやった。どんな反応をするのか楽しみだったが、気にもとめずに会話を続けられてしまう。
「はぁ……まあいいわ。で毎日恒例のミーティングはどこでやるの?」
「いつも通り、あそこ」
手で固定された頭をクイっと九十度ほど右に曲げてから、両手をぱっと放してあげた。彼女の目線のすぐそこには、側面がガラス張りになっているカフェテリアが見えているはずだ。
「人が行き交って見づらいけど、席に余裕はありそうね」
「さ、行きましょう?」
メリーの背中を軽く押しながら、まっすぐとカフェの方へ向かっていった。その途中、何故か誰かに見られているような気がしたが、恐らく気のせいだろう。
カフェテリアの中は木の下から見ていたとおり、まだ席が開いていた。
「いらっしゃいませ」
店のドアを開け、独特な香りが漂ってきたのを鼻で感じると店員からの挨拶が聞こえてきた。そのまま中へと入って飲み物だけを注文する。決して、先ほどメリーに言われたことを気にしているというわけではない。最近親に出費についてあれこれ言われたため、節約をしているのである。決してメリーの言ったことを真に受けたわけじゃない。そんな家庭の複雑な事情を察してくれないメリーは、堂々と苺の乗ったショートケーキを頼んでいた。いや、渡された時にチラリとこちらを鼻で笑っていたところをみると、確実に狙ってやっているらしかった。とても、つらい。
ドリンクを受け取ると、椅子がテーブルを囲んである四人席を確保する。空いているのだから、特に店員から文句を言われるようなことは無かった。荷物を空いている椅子に置いてから、一口アイスティーを口に含み、苦味と少しの甘みを味わいながら店内に流れているジャズに耳を傾ける。こういった落ち着いた雰囲気というのは、精神を静かにさせるのにはちょうどいい。一息ついたところで、彼女に話しかけてみた。
「ふぅ。で、何か今日はクラブ活動に関する話題はあるの?ちなみに私の方にはないわ」
「あるわよ。でもその前に少しだけ食べてもいいかしら~」
そうは言うが、私の同意の返事を聞く前にせっせと生クリームを口へと運ぶ作業を始めていた。私の意見など鼻から聞く気がないというのか。プラスチックカップを握る手がカタカタと震える。ここはガツンと言うべきか。
「メ、メリー?そろそろ私の堪忍袋の緒が限界よ?」
「ん?蓮子も食べたいの?はいあーん」
フォークの上に乗せられた苺が私へと差し出された。私の決心が揺れている音が間近に聞こえる。数分色々考えたが、黙って目の前のそれにパクリと口に含む。
「コレで許してくれる?」
「……卑怯」
「お褒めの言葉、大変光栄。で、話の話題なんだけど……」
そう言いながらメリーは自分のバックを漁り始めた。その様子を、モグモグと苺を堪能しながら眺める。少しすると、目当ての物が見つかったのか、にこりと笑ってそれを取り出そうとしていた。
その時、先ほどまで静かだった店内が少しざわめき声が聞こえてきた。その声はどうやら入口の方からするようだった。
「メリー、あれを見て」
私は彼女に目配せをして入口の方向へと視線を移すように促した。そこにはまるで朝の超満員電車の如く、人が押し入ってきていた。彼らは入るやいなや席へと座っていき、しまいにはほぼ満席になってしまった。さっきまで静かだったのが嘘のように、店内には人々の会話をする声やぎこちない笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
「この集団の中でも話せる話題?」
カップから手を離し、口に手を添えながら小声で中断された話の内容を伺ってみる。メリーは別に怪しげな会話をするような人ではないが、少なくとも自分たちのサークル活動がどこかの誰かに聞かれていないかは心配であった。
「うーん……もう少し様子を見てみましょう」
メリーはフォークに付いた生クリームを舐めながら答えた。彼女と話ができないのなら仕方がない。私はなぜ急に人が大勢やってきたのかを、なんとなく考えてみることにした。新作の何某が目当てなのかと思ったが、今日はそのようなものはない。もしかしたらアイドルかバンドかの追っかけか?と思ってみたけれど、それに該当するような有名人は見当たらない。
頭の中で推論を立てるのには限界がある。なので次は、集団の会話を聞いて立ててみることにした。
「……でさ……」
「それで……でも……」
「……けどねえ……」
少し聞いてみたところで、少なくとも、全員が同じ話題で話しているわけでは無いということがわかった。つまり、全員が意図してここにやってきたとは考えにくい。他には、ここの四人席を除くと、殆どの席で相席が発生しているような事が聞こえた。なるほど、だからどことなくぎこちない笑い声が聞こえたのか。
ある程度考えがまとまったが、それ以上推論を裏付けるのに飽きた私は、本でも読もうと自分のバッグに手を伸ばしたところ、急に見知らぬ声が耳に届いた。
「あのー……相席いいかな?」
どうやらその声は私達に向けられてのものだったようだ。それの発せられた方向へと顔を向けると、一人の少女がそこに立っていた。
「相席、いいかな?」
薄く緑がかった癖のあるセミロングに緑の瞳、黒色の帽子、首から閉じた瞳の形をしたペンダントをかけている彼女は、再び私達に話しかけた。
突然話しかけられたため、どう反応しようかと考えてしまいワンテンポ遅れて返事をする。
「あ、いいですよ。ね、メリー?」
「え、ええ。もちろんよ蓮子」
「じゃあこの席に座ってください。ほら、メリー。私のかばんそっち置いといて」
「迷惑をかけてごめんねー」
突然現れた彼女は軽く頭を下げた。その時、ふわりとバラの香りがしたような気がした。そしてそのまま持っていたコーヒーをテーブルに置いて、その人はついさっきまで私の荷物が置いてあった椅子に腰掛けた。
「私の名前は古明地こいしって言うの。こいしでいいよ。よろしくねー」
彼女――こいしは初対面とは思えないほど、とても親しげな口調で自己紹介をしてくれた。
「あ、私は宇佐見蓮子。蓮子って呼んでもらっても構わないわ。で、そっちに座ってるのが……」
「マエリベリー・ハーン。メリーって呼んでね」
「蓮子さんに、メリーさんね。了解了解」
こいしはそう言うとニカッっと笑ってみせた。無邪気で、可愛い笑顔だがどこか怖い印象を持ってしまった。中身が無いというか、なんというか……。
「あ、何か話をしようとしてませんでした?私に構わないで話してもらっていいですよー」
彼女は笑顔のままそういった。何かを話すような素振りをしていたっけ?そんな疑問が頭をよぎった。
すると、先程まで話すのをためらっていたような感じであったメリーが急に話し始めた。
「ねぇ、先の戦争って知ってるでしょ?」
「え、ええ。勿論知ってるわ。数十年前にあったやつでしょ?」
取り敢えず、私はメリーの話にあわせることにした。
「中東諸国、そして大陸での同時多発的内戦、及び軍部の暴走による周辺諸国への侵略。それにアメリカが介入する形で始まった戦争だっけ」
「さすが蓮子。物理だけじゃなくて世界史もできるのね」
「バカにしないでよ」
私はふと、こいしの方を見た。彼女はまだニコニコ笑っていた。メリーはクリームの塗られたスポンジを一口食べてから話を続ける。
「で、アメリカは中東に軍力を入れすぎて、反政府勢力が反乱を起こした。結果、アメリカは今でも真っ二つのままね」
そう言いながら、メリーは手元にあった紙ナプキンを二つに裂いた。分裂の比喩だろうかと考えてみたが、その一片を口を拭くのに使ったところを見て、もしかしたら特に深い意味は無かったのでは、と思ってしまった。
「大陸の方はー……えっと確か、ものすんごい大人数のデモ参加者が暴徒化してそのまま内戦突入、だっけ?」
すると突然、人差し指を立てて頬に当てながらこいしが会話に入ってきた。
「それを機に軍部が暴徒化した国民を、容赦なく蹴散らしていった」
「そうそう。その結果、政府は崩壊。大陸の大半が、人の住むことの出来ない場所となった。放射能のせいね」
メリーが続けて言った。しかし、ここまでの話から、私達との関連性を見出すことはできなかった。いつもは直球で話を持ちかけるのに、今日のメリーはどうしたのだろう?そんなことを考えながらメリーを見つめていると、彼女が不敵な笑みを浮かべてきた。もしかしたら、話の本題を答えさせたいのか?よくあるクイズ番組のノリでいるのだろうか?もしそうなら乗ってあげるべきだと、私は思った。たまには回り道もいいだろう。
「えぇと……放射能による汚染地域……人が住めない……ってことはつまり生き物も住めない……」
必死に頭の中の引き出しをひっくり返す。関連したワードをたどっていけば、本題にたどり着けるかもしれない。
「生き物も住めない?そこってどうにかしてまた住めるようにできないの?」
こいしはメリーにそう聞いた。しかしメリーは右手の人差指を立てて、唇にあてた。その質問は答えないという表現なのだろう。恐らく、そこら辺に答えがあるのかもしれない。
「住めるようにする……環境改造?……あ!わかった!」
私は膝を打った。答えがわかったのだ。
「各国は汚染地域の扱いに困り果てていた。変に開拓しようとしても放射能やら有毒ガスなどのせいで安易に手を付けられない。だから、地球のテラフォーミングを計画した。そしてその実験をするために日本が主導して開発、打ち上げたのが……」
「そう、人工衛星トリフネ」
メリーはよく分かりました、と言わんばかりに拍手をした後、瞳を閉じてトリフネの中の様子を語り始めた。うだるような暑さ、地上では見られない昆虫の亜種、見えないけどどこからか聞こえる水の音、そして、蔦が密集した場所にあった鳥居……
「最近見えるのよ。中の様子が……ね」
「え、でもでも、」
そこに、こいしがテーブルに身を乗り出しながら会話に割って入ってきた。
「確か、トリフネって数年前に原因不明の機械トラブルを起こして、地球周回軌道から離れて地球-月系のトロヤ群に移動した人工衛星でしょ?そんな所の中の様子がどうして分かるの?」
当然の疑問だと私は思った。38万kmも離れた衛星に行くことは普通に考えれば不可能だからだ。
「ふっふーん。私は結界の境目を見れる特技があるの。そして、私と蓮子が所属しているオカルトサークル”秘封倶楽部”はその境目を見つけるたびに、そこに飛び込んで遊んだりしてるの。で、今回のターゲットが今まで話していた、衛星トリフネってわけ」
「す、すごーい!それって本当!?メリーさんってもしかして、超能力者なのー?」
「……あ、あれ」
と、ここまで話してきたは良いが、こんな話をメリーの特別な力についてよく知らないこいしに聞かれてしまっても、果たして良いのだろうか?そもそも、こいしが来るまでは話そうとはしていなかった。突然彼女の気が変わったことも気になる。最悪の状況が頭をよぎると、いてもたってもいられなくなった。メリーの腕を掴み、入口の方へと引っ張る。
「ごめん、こいし!ちょっと外行ってくる!」
「ちょ、蓮子どうしたの!?」
「え、うん、わかったー。ここで待ってるねー」
一瞬首をかしげるような仕草をしたように感じたが、こいしはすぐに返事をしてくれた。それを見た後、突然の出来事に混乱しているメリーを連れて私達は一旦カフェの外に出た。
「い、いきなり何するのよ……」
「ご、ごめん、メリー」
私達は今、カフェのすぐ近くにあるベンチに立っていた。これから二人っきりで、話し合うためである。
「どうしてあんな事を言っちゃったの!?」
「落ち着きなさいよ蓮子。あんな事って一体どんな事よ?」
そう言いながら、メリーはベンチに落ちていた桜の花びらを払いのけて、そこにゆっくりと腰掛けた。私は構わずにまくし立てる。
「貴女のその眼のことよ!どうしてこいしに、知り合って数十分しか経ってない人に教えちゃったの?」
彼女はそれを聞いて、ウンウンと唸った後「言われてみれば!」という表情になった。
「一体どうしたのよ。いつものメリーならあんなこと堂々と人に言わないじゃない。それに、貴女の力が沢山の人に広まってしまったらどうなってしまうのか、一番分かっているのはメリー自身じゃないの?」
秘封倶楽部の活動内容で私達に共通するものは”結界暴き、境界弄り”であるが、私個人には別の意味も持っていた。それはメリーの長期的なカウンセリングである。知り合ってからの一時期は、今そこでの出来事が夢か現実かさえもメリーはわからなくなってしまっていた。あのままだったら、夢の世界にずっと幽閉されてしまうのも時間の問題であった。だからこそ私は彼女と二人で結界破りを行い、それの知識を深めることによってメリーに夢と現の境界をはっきりと認識させて、その存在を確固たるものとさせているのだ。
もし彼女の特殊な状況が他の人にバレたら、もしかしたら妄想過多とか精神不安定などと診断されて、どこかへ連れていかえるかもしれない。それぐらいに今の世界は世界は科学で説明できない物は徹底的に嫌う傾向があるのだ。
「いや……それがよくわからないのよ。あの場所では話せそうにないから適当に時間が経ったらカフェを出てどこかで話そうと思ったのよ。でも急にこいしがやってきて、それでなんとなく話し始めちゃったの」
「ずいぶんアバウトね。貴女らしくないじゃない」
「それはそうだけど……」
話してしまったのに、意図的な理由が無いことは分かった。後は、こいしに、どう言い訳をするかだ。私も、メリーがやったように花びらを払いのけてベンチに座る。
「やっぱり、素直に話すしか無いのかな……」
「秘密にしてくれって?」
「見た目素直な子だし、すんなり分かってくれそうだけど……」
「でも、もしかしたら何かものを要求されるかもしれないわよ?」
「メリーの秘密が広まるよりマシよ」
「そうね……それで、どっちがその話題を振る?」
「私からでいいわ。それまでメリーは特に何もしなくていいわよ」
「……ん。わかったわ」
その言葉を聞いた私は、立ち上がって言った。
「向かいましょうか、こいしの所へ」
そしてカフェの方へと向かおうとした時、メリーに袖を引っ張られた。どうしたの?と聞くと、「ごめんね。私のせいで蓮子に迷惑かけちゃって……」と謝られた。私は袖を掴んでいる彼女の手を握り、体全体を引っ張って私の方に引き寄せると、そっと言ってあげた。
「気にしてなんかないわよ。それより、早く行きましょうか」
私達は話し合った後、何事もなかったように装ってこいしが待っている席に戻った。未だ混雑具合は解消されていないようで、先ほどと変わらずに様々な声が飛び交っている。
「ごめんね、急に外に出ちゃって」
「ううん、気にしてないよー」
いきなり外に出ていった人に対して、それだけの返事で済むものなのだろうかといささか疑問ではあったが、それよりさっきの話のことを他言無用にしてもらわなければならない。それとなくそちらの方に話を振るために、タイミングを見計らわなければならない。私はそれに意識を集中させることにした。
「……」
「……」
「~♪」
テーブルに沈黙が流れる。メリーは俯きながら紅茶の水面を見ている。私が話を切り出すのを待っているのだろう。こいしは笑顔で鼻歌を歌いながら手元に顔を向け、コーヒーにコーヒーフレッシュを三個入れてスプーンでかき混ぜていた。テーブルにはカチャカチャとコップとスプーンが当たる音と周りのしゃべり声がが響いている。取り敢えず会話を再開させなければならないと思った私は、適当な話題を振ることにした。そこから先ほどの話に入っていこう。
「ね、ねぇ。コーヒーフレッシュの成分って知ってる?」
「植物性油に似せた合成油ね。そんなことより、何か、私に話があるんじゃないのー?」
さらりと私の離しを躱しながら、こいしは言った。その顔に、先程までの笑顔はなかった。顔はコーヒーの方に向かれているが目線はこちらを睨みつけて、口元を歪めた笑みを浮かべている。それに気づいた私は、背筋に寒気が走るのを感じ、直感で恐ろしいと思ってしまった。思わず自分の目線をテーブルの方に下げると、彼女の首から下がっているものが視界に入った。精神が異様に不必要に鋭くなっていたためか、その閉じた瞳の形をしたペンダントから何故か視線を感じてしまう。そんなありえないことについてあれこれ思うより、、私は考えなければならないことができた。何故、話があることがわかったのだろうか。そんな素振りを見せた覚えはない。そういえば、先程も話があることを見破られていたような気がする。
「別にさー、気を使ったりしなくていいんだよ?ほら、言ってみなよー」
恐る恐る、目線をこいしの方に戻してみる。彼女の表情にはもとの笑顔が戻っていた。先ほどの、あの恐ろしいものはなんだったのだろうか。それより、話を振られてしまった状況をどうにかしようと思った。メリーに助け舟を出そうにも、私から話しかけることになっているから期待できそうにない。ここは正直に言ったほうが無難かもしれない。意を決して、私は言った。
「さっきの話なんだけど、さ」
「トリフネのこと?メリーさんが中の様子が見えるとかなんとか」
「それのことなんだけど、誰にも言わないって約束してくれる?」
「勿論タダでとは言わないわよ。なんでも……は奢れないけど出来る限りここのケーキとか奢ってあげるからさ」
ここでメリーが会話に参加してくれた。味方してくれる人が一人でもいると心強い。
「秘密にして欲しいってこと?」
「誰にだってさ、広められたくない事だってあるでしょ?」
「ふ~ん……よっぽど大事なことなんだね……」
「そうなの。お願い!秘密にして!」
そう言いながらメリーは顔の前で手を合わせた。一応自分もそれを真似てやってみる。
「……よし、わかった!秘密にしてあげるね!」
こいしはウインクをしながら答えた。交渉成立だ。これで大丈夫だろう。私達は大きな溜息を一つついた。
「あ、でも条件があるよ。」
「うん、なんでも言って。出来ることならなんでもしてあげるから!」
メリーはドンと胸を張って答えた。
「じゃあ……」
そう、一言呟いた瞬間、こいしの表情がまたあの恐ろしい笑みへと変わっていた。それを見た時、何故か首から下げてあるペンダントが目に止まった。今度は私だけではなくメリーも彼女のその表情を見ていたらしく、彼女の方に目線を逸らせると、怯えた表情で固まっていた。何か、嫌な予感がした。
「私もトリフネに連れてってよ」
§
「午後7時47分……」
私は1人、天鳥船神社の鳥居にグッタリと寄りかかり、夜空を眺めていた。雲一つ無く、月もまだまだ満月には程遠い形状をしていて、天体観測にはちょうどいい天候だ。もっとも、私が見えるのは星だけじゃないのだが。
はぁと大きく溜息をついた後、鼻からゆっくりと息を吸う。神社を囲うように植えてある桜の香りを感じながら、今日のお昼過ぎでの出来事を想起する。あれはかなりミスってしまった。もう少し深く考えていれば「一緒に連れて行く」と言われる展開が予想できたかもしれないし、それよりもっと前からちゃんと警戒をしていればあのような話を振られても上手く避ける事ができたかもしれない。しかし、もう話は終わってしまった。約束もしてしまった。午後8時に京都駅近くの天鳥船神社に集合して、そこからトリフネへ行く。私と、メリーと、こいしで。私はメリーとの探検に慣れているが、こいしは果たして大丈夫なのだろうか?もし、ついて来ることができなかったのなら、それはそれで結果オーライかも知れない。下手したら、あの現実みたいな夢の世界にずっと閉じ込められてしまうかもしれない。不安やら後悔やらが頭をぐるぐる周っていたからか、柄にもなく時間より前についてしまった。
色々アレそれ考えながら、暗い参道を左手に持っている懐中電灯で照らしつつ、私はゆっくりと本殿の方へと歩いていく。周りを照らすものが星と三日月を少し過ぎたぐらいの月しか無いからか距離をとって見てみると朧げにしかその形を確認できなかったが、近づくにつれてその形状がはっきりと見えるようになってきた。本殿の上の方を懐中電灯で照らしてみると、神主不在の神社なのだろうか、本殿に使用されている木材が傷んで見える。あまり人は訪れていないようだという印象を受けた。歩きながらライトを参道と並行になるように動かすと、お賽銭箱を見つけた。賽錢と書いてあったのだろうか、賽の字と戔がかすれており「金」の文字しか確認できない。まるでお賽銭を今か今かと待ち構えているあまり、それが表面に出てきたようだ、と思った。それを少し哀れに感じた私は、バックから自分の財布を取り出して小銭入れから十円玉二枚と一円玉四枚を手に掴むと、それを目の前の箱に投げ入れた。何回か、軽い金属が木の板とぶつかる音が辺りに響く。私は財布をしまった後そのお賽銭箱に腰掛けた。お尻に木の凹凸の感触が直接伝わってきたが、今は考えないことにする。そして左手の懐中電灯の明かりを消してバッグにしまい、天体観測を再開することにした。
春の大曲線の付近に火星が輝いているのを見つけた時、参道の奥から一つの明かりがこちらを照らしてきた。目が暗闇に慣れていたためか、突然の強い光に一瞬クラクラしてしまう。とっさに右手で近づいてくる光を遮り、私はそれを当ててきた人に声をかけた。
「だ、誰?」
「あ、蓮子」
「蓮子さんお久しぶりー」
「なーんだ、メリーにこいしか」
待ち合わせの相手がやっと登場してきた。というか私が先に到着していたのだが。二人は声をかけてきたのが私だとわかると、どちらかが持っている懐中電灯を足元の方に下げてくれた。再び辺りが暗くなる。
「蓮子、あなたにしては珍しくマイナス四分遅刻よ」
「この世にはマイナスの遅刻なんて存在しないわよ、メリー。それに、仮にそれが存在するとして、正確に言うとするならばマイナス四分と一三秒遅刻になるわね」
「細かいこと気にしてると、世の中渡っていけないわよ?」
「あいにく、理系は理屈っぽい生き物なのよね」
「さ、そんなことより早くトリフネに連れてってよー」
そう言いながらこいしがスキップをしながらこちらに近づいてくる。暗くて詳しく表情を読み取ることはできないが、お昼の時と同じように笑っているように見えた。私はこいしに、焦らなくても連れてってあげるよと言った。そうしなければ秘密にしてもらえないのだからね、と心のなかで思いながら。
私は、こいしが側まで近寄ってきたのを見て、お賽銭箱から立ち上がった。そして彼女が近くまで来て立ち止まった後に、追ってメリーがやってきた。メリーは私とこいしの顔をを交互に見て言った。
「さあ、行きましょうか。トリフネへ」
その光景は、写真や動画での中でしか知ることが出来ない密林という風景そのものであった。私は、その風景をいつの日か観たことがあるかのような感覚にとらわれたが、きっとそれは遺伝子レベルに刻み込まれた本能が、何かしら反応をしたのかもしれないと自己解釈をした。地面に目を移すと、辺りの木々からはえてきている多くの根が所狭しと横たわっていて、少し歩きづらそうな印象を受ける。上を見れば、等間隔に設置された窓から、地上では大気の汚れから見づらい五等級や六等級の星々、私がいる生態系実験棟から回転軸で線対称にした位置にある生態系維持棟、二つの棟を繋ぐ複数の鋼鉄の柱、そして一定間隔で太陽と月、地球が見えた。月からは私が今、地球から三十八万キロメートル離れたところにいると告げている。私の好奇心掻き立てるのはこれらだけで十二分だった。
「……蓮子?私達がいることを、忘れてない?」
「忘れちゃやだよー?」
あまりに興奮してしまって、メリーとこいしの存在をすっかり頭から吹き飛んでしまっていた。もし二人に話しかけてもらわなかったら、一人で勝手に探索を開始していたかもしれない。そんな自分を恥じらいつつ、後ろに立っていた二人の方を振り返って謝った。
「ごめんごめん。つい、理系の血が騒いじゃって……てへ」
「もう、蓮子ったら」
二人の元に行こうと歩いてみるが足元がふらついてしまい、近くの木に寄りかかってしまった。遠心力が生み出す擬似重力は地球の数分の一ほどしかなく、訓練なんて受けたことのない私にとっては慣れるのに時間がかかりそうだった。
「大丈夫ー?」
「うん、どうにか……」
なんとか自力で彼女らの近くまで行く。こうした重力下では飛んだり跳ねたりする方が時間が短縮できそうだが、近くに生えている木の枝に衝突してしまいそうであまり進んで試したくはなかった。
そんなことを考えていると、どこからか鮮やかで毒々しい色をした蝶がユラユラとこちらに迫ってきた。最初は数匹がバラバラとやってくる程度だったが、だんだん群れが多くなっていきしまいには数百匹の蝶が私達の近くの木の幹に止まり始めた。どんな種類の蝶なのか考えるために一枚の布のようになった蝶の大群に腕を伸ばそうとした瞬間、昆虫特有の羽音が聞こえてきた。それに反応していまい、ビクンと手を引っ込ませて再び辺りを注意深く観察してみる。すると、さっきまで見えなかった虫たちが姿を表わしはじめているのに気がついた。どの虫も図鑑で一度見たことがあるような種類であったが、どうにも色や形が合わない。どうやらこの衛星には生命力が高く、逆に地球環境には適さない亜種の生き物だけを乗せているらしい。
「普通の生き物じゃ宇宙では生きていけないのかしらね……」
「トリフネの第一目的が汚染地帯で如何に生態系を再現するかっていうのだから、しょうがないんじゃないかな?」
ボソリとつぶやいた私の言葉にこいしが反応してくれた。よろよろとふらつきながらこいしの方を見てみると、指先に先ほどの蝶とは違った種類のそれがとまっていた。その蝶は人の体に流れている血のように真っ赤で、少し不気味である。じゃあね、と彼女が言いながら指を少し揺らすと、その蝶はどこかへと飛んでいってしまった。
その様子を見ていたメリーは、帽子を団扇代わりにばさばさと扇ぎながら言った。
「で、これからどうする?」
「そうだねー……各自が自由に行動してたら迷った時どうしようもなくなるし……」
私が腕組をしながら考えていると、こいしが先に答えた。
「とりあえずー、メリーさんがここで見たっていう鳥居に行ってみない?」
なるほどいいアイディアだと私が思っていると、衛星内に突然甲高い救急車のサイレンような音が鳴り響いた。幻想的な雰囲気から、一気に機械チックな雰囲気に引きこまれたような感じがする。
「……一体なんの警報かしらね?」
「特に気圧の変化もないし、衝撃も無いから何かが衝突したとは考えられないし……」
メリーの呟きに返事をしながら天井を再び見上げる。すると、さっきは気付かなかったがスプリンクラーのような装置が窓と窓の間に等間隔で設置されているのに気がついた。何だろう、胸騒ぎがする。
「メリー、こいし。木の下に移動したほうがいいかもしれないわ」
「え?なんでー?」
こいしが質問してきた瞬間、上空から霧状の水が私達に降りかかってきた。その人工雨は周りの空気とは違ってとても冷たいものだった。私達は、蝶がとまっていない木に抱きつくようにして霧雨を必死に避ける。少し濡れてしまっているが、全身ずぶ濡れになるよりましだろう。
「鳥居に行くのはこれが止んでからにしましょうか」
「「さんせーい。」」
メリーがそう言うと、私とこいしは同時に言った。
鳥居に向かう途中にも、様々な生き物たちの姿を見ることができた。生き物、と言っても見つけられたのは昆虫と植物だけだが。
数年前に、突如としてトロヤ群に移動を始めたトリフネ。衛星を回収しようという積極的な動きは現時点では見受けられない。理由としては、実験の第一フェイズであり主目的でもある、汚染地帯でも循環可能な生態系の実験がすでに終わっているからだ。データは既に回収済みであり、わざわざ衛星を回収する理由がなく、そもそも科学者達は既に衛星内部の生物は死滅した考えているからだ。
そんな学者の想像に反して、衛星の中は閉鎖された楽園としてまだ機能していたのだ。人の手から離れた生き物たちはとても生き生きしていて、地上とはまるで違う世界がそこにはあった。
そんなことを考えながら三人一緒に歩いていると、目的の物が目の前にあった。その鳥居は蔦が沢山絡まっており、遠くからでは確認しづらいほどとなっていた。その鳥居を抜けると、本殿がそこにあった。
「え、本殿まであるの?」
「あ、本当だー」
「私が見た夢では確認できなかったんだけどな……?っていうか、これ見たことあるような……」
その本殿はどうみても、待ち合わせに使った地上の天鳥船神社にそっくりであった。だがそっくりなのは本殿だけで、灯籠や手水舎なんかは一つも設置されていない。参道も見えないが、ただ単に無いのかそれとも足元にある根っこに覆われてしまっているだけなのかはわからない。それでも、鳥居と本殿が存在するだけで何か神聖な雰囲気が醸しだされていた。
「どうみても、天鳥船神社ね……」
根っこに引っかからないようにゆっくりと歩いてきたメリーが言った。私と同じような結論に達したのだろう。
私が本殿に備え付けられている賽銭箱らしき箱を叩いていると、少し遠くにいたこいしが私達を指さして声を上げた。
「あれ、なんか見えるよー?」
いや、正確には私達より上の方を指さしていた。一体何があるのかと気になり、彼女の側まで近づきながら、本殿の上の方に目を向けた。一見木々が乱立していて見分けがつかないが、そこには紛れも無く、天井を貫いている人工物があった。気になった私は二言三言彼女たちと言葉を交わして、一緒にその人工物に近づくことにした。
本殿の裏に隠れるようにそびえ立っているそれは、生態系維持棟へと繋がっているらしいエレベーターであった。大きさは世間一般的なものではなく、病院のそれと同じような大きさで、触るとひんやりと冷たい。このエレベーターも他と同じように蔦が絡まっていて、遠くからだと背景と同化していて見分けがつかなかった。
「これ、動くのかな……?」
そう呟きながら扉の右側についていたボタンを数回押してみたが、うんともすんとも言わなかった。建設の時にしか使わないと判断して機能を停止してあるのか、それとも長年放置されてしまって錆びついてしまったのだろうか。少なくとも、生態系維持棟に行くことは出来ないということがわかった。
「あら、動かないの蓮子?」
「そうみたい……残念ね。もしかしたら、人類で初めて宇宙で生態系を管理している場所を拝めることが出来るのかと思ったのに。」
私は肩の辺りで両の掌を上へ向けて、やれやれといった感じで少し大げさに答えた。誰も想像だにしなかった、宇宙にひっそりと佇む生き物の楽園をこの目で見られたんだ。それ以上望むのは少し我儘だろう。
「じゃあ、そろそろ帰ろうかしらね。」
そうメリーが言った瞬間、近くの木の枝が大きく揺れて何かがこちらに顔を覗かせてきた。
木の影から現れた獣は、見たこともない姿をしていた。全身が長い体毛で覆われていて、腕や足は丸太のように太く、指らしき所からはかなり大きい鉤爪が生えており、私達の頭より二回りほど大きい猿によく似た頭部からは涎がダラダラ滴り落ちている。体の形は人間のそれと同じで、二足歩行をしている。体長は私達を軽く見下ろすほど巨大で、圧倒されてしまった。
突然の巨大生物の登場で呆然としている私達をおいて、ソイツは木に隠れていた片腕を口元の方へと動かしていた。その手にも鉤爪がついていたのだが、それに1つずつ何かが刺さっているのが見えた。それは、先ほどまで周りを優雅に飛んでいたであろう蝶であった。するとソイツは口を大きく開き、夢中で蝶を貪り食い始めた。その様子は、その場で固まっていた私達に大声を出させるのには充分だった。
「「「う、うわあああああああ!!!!!」」」
叫ぶやいなや、私達は我先にと一心不乱に鳥居の方へと走っていた。身の毛もよだつような不気味な物から遠ざかるために。
「な、何よアレ!?」
「知らない!!知りたくもない!!」
「ぎゃー!すっごーくこわーい!」
私達は全速力で、そのまま真っすぐ走った。こんなに本気で走ったのは小学校の運動会以来と言わんばかりに脚や腕をブンブンと動かす。いつの間にか恐怖と熱気で全身から汗が出てきて、服を湿らしてしまうこととなった。そんな服のベタつきも今は関係ない。ひたすら走らなければ。ソイツに対して全身が危険信号を発していた。
鳥居を抜けた辺りで走るスピードを少し緩めて後ろを振り向いてみた。どうか、追いかけていませんように……という儚い願いは無残にも砕け散った。私達の叫び声に反応したのだろうソイツが私達目掛けて猛スピードで近づいてきていたのだ。食事を邪魔されたためか、両腕を振り回して鉤爪で近くの木々を傷つけまくっていた。一振りで硬かったあの樹肌をいとも簡単に削りとっている様子を見て、私達生身の人間じゃあたったら一発でアウトだなと察した。
鳥居を通り、木々の隙間をくぐり抜け、枝々の妨害を無視して私達は走った。だけれど、ソイツもしつこく追いかけている。遭遇して数分しか経っていないのに、何十分にも何時間にも感じていた。秘封倶楽部はオカルトサークルであり、例え何処かへ出掛けるにしてもそれは体を動かすのためではない。即ち運動に慣れていない私とメリーの足には、既に限界が訪れていた。足を一歩一歩前に押し出すたびに筋肉から痛みとして休憩を求めてくる悲鳴が聞こえていた。その度に「アイツを撒けたら休めるから、それまで頑張って……!」と自分に言い聞かせて何とか気力だけで前進しているという様である。
そんな時、相棒の口から拍子抜けた声が聞こえた。
「あっ」
私がそれに気づいてそっちの方を見ると、メリーが根の間に足を引っ掛けてしまって、前のめりになっていた。私はとっさに彼女の名前を叫んでいた。その時だけ、まるでスローモーション映像のように動きがゆっくりに見えた。一歩前に出した足でその場に重心を留めて、メリーの方へと何とか体を向けて地面を蹴り無理やり両手を伸ばしながら彼女と地面の間へと割って入る。突然の転倒で動転しているのか、受け身をとっていないメリーを何とかダイビングキャッチするとそのまま彼女と一緒に、地面に倒れてしまった。
「メリーさんに蓮子さん大丈夫?」
「いっつぁ……メ、メリー大丈夫!?」
「ご、ごめん蓮子!私は大丈夫だったけど貴方は……?」
メリーは私から離れると、私の腕を掴んで袖をまくられた。そこには根っこや地面と擦れて出来たのであろう傷が多数できていた。ほとんどは赤くなっていたりしているだけだが、二箇所三箇所血が出ているところもあった。多少痛みを感じるが、我慢できるレベルだ。
「これくらい大したことないわよ!それよりアイツは……」
私はさっきまで走っていた方へと頭を向けた。そこにはあの獣が、ほんの数メートルという近さまで接近していた。鉤爪が擦れる音や荒い呼吸音が走る音とともに近寄ってきているのが感じられる。殺されると直感で思い、メリーを護ろうという一心でとっさに自分の体に抱き寄せた。
「二人には……絶対指一本触れさせない!」
すると突然、隣にいたこいしが獣と私達の直線上に割って入ってきた。このままでは、私達より先に彼女が襲われてしまう。
「こいし!早く逃げて!」
私は必死になって彼女に言ったが、動こうとはしない。
「大丈夫、安心して。メリーさんは帰れるように支度しておいてね」
「あ、わかったわ……」
そうこいしに言われると、メリーは目を瞑って私の体を強く抱きついてきた。反射的に私を抱き返す。
「神社に、地球に、帰れますように……!」
そうメリーが呟いた刹那、こいしは恐らく獣に対して言い放った。
「さぁ、獣さん。覚悟はしなさい!!」
すると彼女の両方の袖から、何か太いひも状の物が伸びていくのが見えたような気がした。瞬間、突如辺りが明るくなっていった。あまりの白さに反射的に目を瞑るが、それでも光の流入は遮ることが出来なかった。そして五感の一つ一つが、まるでスイッチをパチンとオンからオフへと切り替えるかのように次々と感じ取れなくなっていき、最後にはテレビの電源が切れるようにブツリと光を感じることも出来なくなってしまった。
少し時間が経つと、それを感じることが出来なくなったのと同じように五感が次々と戻ってきた。風で木葉が擦れる音、誰かの服から香る洗剤の匂い、背中に感じる調度良い暖かさの柔らかいもの、綺麗な星空。ゆっくりと頭が回転しだし、現状を把握しようとする。
「れ、蓮子にこいし……重い……どいて……」
その声を聞いて、体がビクンと反射的に何かに寝っ転がっていた状態から起き上がる。足を根っこに侵食されていない普通の参道にしっかりと踏みしめてから、後ろを振り向いた。そこには、お賽銭箱にもたれかかっているメリーと、彼女に寄りかかっているこいしがいた。こいしもぴょんぴょんと跳ねながらメリーから離れる。
私はふと顔を上げて月へと眼を向ける。月を見て伝わってくる私の現在位置は、京都の、地球の天鳥船神社であった。無事に戻ってくることが出来たのである。
「しっかしこうやって帰ってくると、まるで夢みたいね。ま、メリーの夢を見てたよなものだけど。」
私は帽子の位置を直しながら言った。その時、そういえば腕怪我してたな……と思い出して袖をまくってみたが、それらしいものは無かった。やっぱり夢の出来事だったから、私の体には影響しないのだろう。
「何を言っているのよ。あれは、正真正銘トリフネの真実よ」
「そりゃそうだけどー……」
「っていうか今日の蓮子、なんだかいつもとは違った感じがするわ」
「そう?」
「普段なら、ああいう化け物でもみたら、『ふむふむ、あれはこうこうこういう生き物なのかもしれない』って突然考察を始めるでしょう?それなのに、まるで人が変わったかのように一目散で逃げてたじゃない」
途中、私の声を真似て言っているつもりだったのだろうが、アレンジし過ぎていてなんだかよくわからなかった。
「う、うーん……確かに私らしくなかった、かな……」
そう言いながら少し前の出来事を思い出す。だが、何故か頭のなかで上手く再生されない箇所がひとつあった。私は一体ここに帰ってくる直前、視界が真っ白になる前に何を見たのだろうか?何か、とても重要な物を見た覚えがあるが、どうしても思い出せない。
「それを言うならメリー、貴方だって変じゃなかった?」
「私はいつでも普通ですわ」
「いやそうじゃなくてさ、普通は危険な目にあう直前で夢から醒めてなかった?」
メリーに出会って少し経った時に相談された夢の内容や、他にも時々聞かされた話を思い出しながら私は言った。彼女の力による不思議なそれは、化け物のようなものに襲われるすんでのところでハイおしまいというものが多かったはずである。今回も実際危ない状況に陥っていたはずなのに、強制的に戻ってはこれなかった。
「私も最初はすぐに帰ることになると思ったわ。でも今日はダメだった……あれ、でもなんでこいしに促されたら戻れたんだろう?」
私とメリーは不思議がって一緒にこいしを見つめる。その視線に気がついたのかどうなのかわからないが、彼女はこちらに振り返ると、その場でスキップをしながら嬉しそうに言った。
「怖かったけど、楽しかったー!」
あんな怖い出来事があったのにそれを楽しいといえるこいしが、私には少し羨ましく思えた。
「取り敢えず、今日の探検はこれくらいにして、解散しましょうかね」
「さんせーい。疲れたから家帰ってお布団にダイブしたいー」
「そうね……そうしますか……」
会話に流されて思わず私は頷きながらそう言う。結局、重要な何かは思い出せずに帰路へとつくこととなった。まるで、喉に小骨が引っかかってしまったような気持ち悪さを感じたが、どうやっても思い出せぬまま終わってしまった。
……
微妙に解消されない謎が多いのも少しストレスを感じました。
少しでも「疑問解消してスッキリ」みたいな部分があると読んでて疲れないかと。
後編に期待。