「ん……むにゃ」
私が目を覚ますと、窓からの暖かい日の光が差し込んでいた。
私はくあぁ~、とあくびをして、布団の上でうーんと伸びをひとつする。
これは毎朝無意識に行っている定型作業だ。
邪仙 霍青娥といえど、起き抜けは人並みの行動をとってしまう。
そしてこれまたいつもの日課で、枕元の鑿に手を伸ばして髪を結いあげようとする。
ここで、視界に飛び込んだ私の腕が毛むくじゃらであることに、初めて気が付いた。
私はしばし固まる。
そして慌てて自分の眼前まで己の手と思われる物体を持ってきて、観察をする。
腕全体は空色の毛で覆われ、手のひらや指といった凹凸が見られない。まるで先が丸い棒だ。
手をひっくり返すと、そこには信じがたいことに桃色の肉球と尖った爪があった。
力を込めると、グーとパーはできたが、チョキが著しく辛い。
だがこの操作で、これは間違いなく自分の腕だと認識した。
何だこれは!? この腕はまるで……
刹那、私はある予感が背筋を走り、その予感が外れることを切に願って横を向いた。
その方向にあるのは姿見。
その姿見には、空色の耳をぴんと立てた猫が、こちらを向いた状態で映っていた。
「にゃ!? にゃあああぁぁぁぁ!!」
――◇――
朝っぱらから、私は混乱の極みだった。
まず想起したのは、これは夢だ、まだ寝ぼけているということだ。
しかし、かぶりを振っても、頬をつねれないので爪で引っ掻いても、目が覚めるということはない。
結局痛い思いをしただけだった。次からは猫の爪攻撃に注意しよう……
しかし、その痛みがだいぶ己を落ち着かせる。
私はとと、と歩いてみる。驚きだ。猫とは、こんなにも体が軽いのか。
四足歩行に違和感を覚えつつも、私は姿見に近寄って、もう一度姿を確認する。
やはり、純然たる猫だ。体毛は腕と同じく空色。瞳は真円に磨いた瑠璃石のよう。
すらりと細身な体の背後では、のし棒の様な細長い円筒形の尻尾が揺れる。
姿見に右手……この場合は右足をぺたりと当てる。鏡の向こうの私もそれに倣った。
私は、現状を受け入れつつあった。どうやら私は猫になってしまったらしい。
姿見を見ながら、私は自分の身の上を整理してみる。
外見こそ猫だが、意識や明晰な頭脳は間違いなく霍青娥のものである。
体は自由に動くが、頭上の耳やヒゲ、尻尾など人間には無い部位の感覚までハッキリと認識でき、少しむず痒い。
ただ先程叫んだときに分かったのが、人語を失っているということだ。
試しに道教経典を諳んじてみるも、単語がすべて『にゃににゅにぇにょ』になってしまい、恥ずかしくなって止めた。
厄介である。これでは助けを求めるどころか、意思疎通もままならぬ。
次に考えたのは、こうなってしまった原因だ。何故猫になってしまったのか。
私の魂が猫に憑依した?
いや、それなら私の仮死体がどこかにあるはず。しかも体感的に憑依とは違う。
誰かに姿を変えられた?
うーん……人から怨まれる覚えはあるが、猫にされる謂れはない。第一、そんなことをする意味が分からない。
……変なものを食べた?
確か昨日の晩御飯は、ご飯と大根の味噌汁に金平ゴボウと白身魚の梅肉焼き……
私がついに昨晩の献立まで思考し始めたとき、すぐそばの襖の向こうに人の気配を感じた。
「青娥殿、朝餉ができましたよ」
この声は屠自古だ。いつものように私を起こしに来たのだろう。
これは、まずい。
屠自古は、潔癖と言っても差し支えないくらいの綺麗好きだ。
毎日家中をピカピカに掃除し、泥足で室内に入ってくる者はたとえ神子様でも許さない。
そんな屠自古にとって、毛を落としまくる猫は部屋を汚す害獣も同然だろう。
室内に侵入した野良猫扱いされて、追い回されでもしたら目も当てられない。
よし、適当に誤魔化して追い返そう。
「にゃ、にゃー(あと10分だけ……)」
ってどうやって誤魔化す!?
ぬああ~、と私はどうしようもない状況に頭を抱える。
だが、襖の向こうで気配が揺らぐ。
「む……猫?」
やばい! 気づかれた。
私は咄嗟に文机の陰に隠れる。それと同時に、襖がスパーンと小気味よい音を響かせ開かれる。
非常に嫌な流れだ。私はなるべく息をひそめて様子を探る。
……入ってきたのかしら。もー、屠自古は足音がしないから分かりゃしない。
私はそっと顔を出して姿見の方を見やる。
どうやらそちらにも、姿見に映る範囲にもいないらしい。
すこし安心してゆっくりと振り返ったら、屠自古の顔面があった。
「にゃあぁっ!!?」
私はびっくりして、後方にぼーんと一尺程飛び退く。
そこを屠自古は、回避行動を取れない空中で素早く私の胴体を捕まえる。
しゃがんだ状態から一気に立ち上がっての捕獲を成し遂げる屠自古の機敏な動きに、私は恐怖した。
屠自古は私を宙ぶらりんにしたまま、眉間に皺を寄せて品定めする様に私をねめつける。
こ、こ、殺される……
私は本気でそう思い、目を見開いて体を硬直させてしまう。
その時、屠自古が重い口を開く。
「……か」
……か?
「か、可愛いんですけどぉ!!」
「んにゃあぁぁ!?」
開口一番叫ぶや否や、屠自古は頬を私の顔にこすり付けてきた。
「なにこれむっちゃ可愛い! マジやばいんですけど! 超愛いやつぅぅ!」
普段の冷たい口調から一転、雑貨屋でお気に入りの小物を見つけた女学生のごとく甲高い歓声を上げる。
そしてその昂ぶりに比例するかの様に、屠自古のほっぺたは私の顔から腹部へと情熱的に移行する。
ちょ! やめ……く、くすぐったい……
私は抗議の声を上げるも、その声は「んにゃ! にゃあ!」としか届かない。
そのまま半刻ほど体を弄ばれた後、屠自古は私を床にそっと下ろし、さっきの私を捕まえる直前の様に這いつくばって私に視線を合わせる。
そして、寒気がするほど甘ったるい裏声で一言。
「あなた、どうしたのかにゃん?」
……はぁ?
「どこの猫ちゃんなのかにゃん? 青娥殿の飼い猫にゃんですかぁ?」
……ああ、痛い。なんか、頭とか屠自古とか色々なものが痛い。
私はドン引きだった。
これがふざけている様子ならまだしも、その顔は目尻が下がり、これで交信できていると信じきっている残念な感じだ。
まぁ、実際に言葉の意味はわかるが、原因不明の現象で屠自古の意外すぎる一面を発掘してしまった。
こんな姿、とても他人には見せられないわね……
そう私が引きつった苦笑いを心中でしたその時
「おーい、屠自古~。朝餉はまだかの?」
空気を読んだのか、のんきな声の布都がいきなり現れた。
途端、屠自古はにゃんにゃん語で喋る様が布都の視線に入らぬ内に、直立の姿勢をとる。
そして佇まいを正し、元の物静かでクールな雰囲気に戻った。
す、すごい……
「布都、これを見て」
「ん? おお、猫ではないか。これは中々かわゆいの」
「そういうことじゃなくて、なぜここに青娥殿の代わりに猫がいるのか、ということよ」
しゃがんで私の頭を撫でてきた布都に、屠自古は事務的な口調で問いかける。
なぜその態度が先にできなかったのよ……
「んん? 青娥殿の猫ではないのか?」
「まさか。そんな話は聞いたことがない」
「ふむ。もしや、突然拾ってきたのではないか。こんなに愛らしいのだ、無理もない。
そうか。それで青娥殿は皆に黙って拾ってきたものだから、バツが悪くなって出てこられないのであろう」
「……そうかぁ? 私は青娥殿が、生物にそんな感情を抱くとは考えづらいと思う。
もう死んだ猫なら、あるいは興味を持つかもしれないけど」
屠自古……あんた私をそういう目で見ていたのね……
私は元の姿に戻ったら覚えてなさいと毒づいて、本来の目的を思い出した。
そうだ、私の正体を外部に伝えなければいけない。
だが人語を失った今、どうやってそれを伝える?
私は頭を撫でられながら必死に考え、ピンとひらめいた。
そうだ。仙術だ!
この場で私がいつも披露していた仙術を発動すれば、屠自古や布都でも私の正体に気づくはず。
よし、早速実行よ。まずは壁抜け!
私は尚もかいぐりまわす布都の手からすり抜け、部屋の壁の前に立つ。
そして口に簪を咥えて、トンと壁につける。
今のところ、抜けられそうな感じはない。
ぐっ、と円を描く様に押し付けてみる。
あらいやだ、意外とこの壁手ごわいわねえ……
嫌な汗が体中に滲んできたが、とりあえず前足も簪に添えて押してみる。
中々通り抜けられないから、ちょっと爪で引っ掻いてみる。
何の反応も無い壁を、ほとんど涙目でバリバリと掻き毟る。
「これこれ! そんなところで爪とぎしたら、青娥殿に怒られるぞ」
焦った声で私を抱き上げる布都。
だが私は、ショックで気絶寸前になった。
そんな。仙術まで使えなくなっているなんて!
私は布都の腕の中で必死に様々な仙術を試みた。しかし、雷球を生み出すといった簡単な術さえ不発に終わる。
布都はにゃんにゃんと鳴きながらもがく私に、悲しそうな視線を送る。
「こんなに暴れて、この猫は我が嫌いなのかのう……」
「抱っこされるのが嫌いな猫もいるのよ。離してあげたら」
屠自古の意見に、布都は名残惜しそうに私を床に下ろした。
それを見て、屠自古はふふんとドヤ顔だ。どうやら屠自古は、自分のみが猫に好かれていると思っているらしい。
だが私はそんなことに構っていられない。冷静になれ、と自分に言い聞かせ、突破口を見出そうと考えを巡らす。
こうなったら、外部の人間が気づいてくれるのを期待するしかない。
布都は純真で心優しいけど……残念ながら頼りになりそうもない。
洞察力という点では、ニヒリストで斜に構えている屠自古が優れていそうだが……
私は屠自古を見る。すると屠自古の方も私を凝視していたのか、はたと目があった。
それだけで、屠自古はぱぁっと顔を輝かせ、布都の背後から小さく手を振る。
駄目だ……屠自古は駄目だ……
手詰まりの様相に気分が沈んだその時、救世主は同じく半開きの襖から現れた。
「皆どうしたのです? 朝餉が冷めてしまいますよ」
朝日の加減で後光が差したように現れたその人は、始祖の日本を近代的に治めたカリスマ聖人こと、豊聡耳神子様だ。
神子様は笏を構えたいつものお姿で、私の部屋に足を踏み入れる。
「おや、猫ですか。空色の猫とは珍しい」
「神子様! そんなことはありませんぞ。我は山の巫女に聞きました。
なんでも、外界では青い狸の様な猫が一般的なのだそうで」
「布都、少し黙っていて。神子様、この猫の素性が分からないのです。青娥殿の部屋にいたのですが、青娥殿も見当たりませんし」
「ほう。では少しこの子の声を聴いてみますか」
そう言って神子様は口元に笏を当てて屈みこみ、私の目をじっと見つめる。
これはチャンスだ。私の目も希望に輝く。
神子様は欲の声が聞こえる特殊な能力をお持ちだ。例えば『自分の正体を知って欲しい』という欲を想起すれば、神子様にその願いは言葉を介さずとも伝わるのだ。
問題は動物相手にその力が発揮出来るのかということだったのだが、本人が出来そうな空気を纏わせて私の眼前に来た。
私はこの金の鎖を離さない様に必死で念じ、訴える。
「にゃあ! んにあぁ! にゃんにゃー!」
ほら、気づいて! 私は青娥! 尸解仙になる手伝いしましたよね。
貴方のそばに這い寄る邪仙、青娥娘々です☆
神子様はしばらく熱心に、私の声を聴いている様子だった。
しかし、ある瞬間に目を見開かれる。
そしてこう言葉を漏らす。
「なんと……この猫、もしや」
よし伝わった! 私はほっと胸を撫で下ろす。
神子様は私に手を伸ばしてくる。獣化を解く術をかけてくれるのだろう。
そして手のひらが私の目前まで近づき、
神子様は私の喉をくすぐるように撫でた。
「ふにゃぁん!? にゃー、ゴロゴロゴロ」
えっ!? なっ、なにこれぇ!?
喉を撫でられた途端、脳髄まで痺れるような電撃が尻尾の先まで駆け巡る。
これは、初めての体験だった。喉を撫でられるのが気持ち良すぎて、ぺたんとお腹を地面に落としてしまった。
それと同時に、私はゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。猫が気持ちいいことを示す態度だ。
「ふにゃう……ゴロゴロ」
「やはりこの喜びよう。私には聞こえました。
『構って~、撫でて~』という欲の声が、ハッキリと」
「おお、そうであったのか!」
いやいやいや!? いつ誰がそんなことを望んだのよ!
私はそう心の中で激しくツッコむも、神子様のお手は止まらない。
だが、止めようと思えばいくらでも抵抗の手段がある。引っ掻いても噛みついてもいい。
しかし……できなかった。だって
こんな……こんなしゅごい感覚初めてぇなんだもぉん!
「ゴロゴロゴロゴロ! にゃぁうううん」
「ほらごらんなさい、この弛緩しきった姿を。やはり、猫はいいですねぇ」
「ですよね! 神子様もやはり猫派ですよね!」
「おや、屠自古もそうですか。気が合いますね」
「そ、そんな……私も光栄ですぅ」
屠自古は神子に笑みを向けられ、喉を撫でられたかの様に体をよじらせて照れる。
だが私は、生まれて初めての快楽にただただ翻弄されていた。
猫って……猫って気持ちいい!
本来の目的から脱線どころか爆発炎上している状況下だが、そんな些末な事なぞどうでもいいと感じる。
私が今度猫を見かけたら撫でてやろうと思う程の強烈な快感に溺れてしまっていたその時、肝心の、そして最も忘れてはいけない人物を忘れてしまっていたことに気づく。
「……せーがー。せーがどこー?」
伸びた背筋で廊下をてふてふと歩き、虚ろな瞳に八重歯が印象的な半死半生の輩。
「おやおや、芳香ちゃんが自分で起き出すとは珍しいですね」
神子様が、撫でる手を止めて感心したように呟く。
宮古 芳香。額の術符によって死体であるにも関わらず動き回ることができ、私に忠誠を誓うキョンシーの最高傑作。
そして、自覚している私の偏執な愛情を一身に受け止めてくれる、愛しい愛しい仮初めの人間。
その姿を見た途端、私の興奮は一瞬で褪めた。
ああ、芳香。芳香……
そして冷静に考えたのは、今後の事。
芳香は、定期的に防腐処理や術符の更新をしてやらねば形を保つことすら困難だ。
その技術は私のみが知りえ、俗人にはその真似さえできないだろう。
それに芳香にご飯は誰が食べさせる? 柔軟体操の相手は?
もしこのまま元の姿に戻れなかったら、芳香はどうなるのだろう。
そもそも、私がいなくなったことを芳香はちゃんと理解できるのか?
ぞっとした。絶望すら身近に感じた。
私が静かに戦慄していると、芳香は私に気づいて「お、お~」と言葉を漏らしながら近寄ってくる。
「そうだ、芳香。芳香は青娥殿がどこにいったか知らぬか?」
「いや、知らないから『せーがどこー』って言っていたでしょう」
「おお、そうだぞ。せーがはどこだ~」
「そうそう、青娥どこ~じゃ」
「うあ~、せ~が~」
「……頼むから、この子と同じ土俵で会話するのは止めて」
屠自古が芳香と微妙に交信している布都に頭を抱える中、私の心に芳香の言葉が刺さる。
ああ、こんなにも近く。目の前にいるのに気付いてもらえない。
私は目一杯芳香に愛情を注いだつもりだったのに、芳香も私の愛に応えてくれていると思っていたのに、所詮は作り物の感情だったのか。
もう一生私は……誰かそばに居るのに誰とも分かり合えない。唯一私に残された芳香でさえ失った孤独を背負って生きていくのだろうか。
私の心が深く、冷たい深海の様な闇に呑まれかかったその時、芳香と目が合った。
芳香はじいっと私を凝視して、それから苦労してきゅっきゅと関節を軋ませながら私と目線を合わせる。
芳香……初めて見る毛色の動物だから珍しいのかしら。
私はそんな諦観に浸って、それでも芳香の無垢で無機質な表情を眺めていた。
すると、芳香は口をかぱり、と開いてこう言った。
「あ~、せーがいた~」
左右の八重歯が完全に見える、満面の笑みでの言葉だった。
私は、驚きの余り我が耳を疑った。それは周囲の人間も同様だったらしい。
「な、何を言っておるのだ。それは猫だぞ」
「え、せーがだぞ」
「ちょっと大丈夫? 目玉まで死にかけているんじゃ」
「それでも、せーがだぞ」
そう言って芳香は私の胴体をすんすんと嗅ぎ、ぎこちない手つきで私の頬を撫でる。
「ほら、せーがのいい匂いする。しかも、目がおんなじ。
せーがはいつもきっ、て感じの目だけど、私と一緒のときはふにゃ、ってなるんだ。
せーがー。腹減ったぞぅ。ごはんくれー」
最早芳香は、この姿でも私を完全に私だと認識していることが充分にわかった。
胸に熱い物がこみ上げてきた。ただただ、嬉しかった。
でも、この姿ではぎゅっと抱きしめることも、頭をなでなでしてあげることもできない。
それが、著しくもどかしかった。
そう強く念じた刹那、突然私を煙幕の様に濃い煙がボウンと覆い尽くし、室内が一瞬ざわめく。
誰かが窓を開けて煙を逃がすと、私の視線はさっきより高くなっていた。
部屋の皆、正確には芳香以外の面子の顔が驚愕に彩られている。
私はチラリと横の姿見を見やる。
そこには空色の髪にいつもの寝間着、本当なら数刻前からこの姿のはずだった、人間の形をした霍青娥が映っていた。
「な、なんと……」
「これは……驚きです」
「……ね、猫が消えてやがんよ」
三者三様に信じられないと呟く中、私は芳香と正対する。
「芳香……芳香っ」
「うおっ!? おおう」
私は先程から強く念じていた通り、芳香をぎゅうっと抱きしめた。
芳香は少し驚いたが、私のされるがままに身を任せる。
それが、純粋に嬉しかった。
「芳香。ありがとう……ありがとうね……」
「おお? こ、こちらこそ」
私は礼を述べた。私に気づいてくれたことと、私に気づかせてくれたこと。
だが芳香はいつも通り、少し不思議な表情をして私の体を抱きとめてくれていた。
――◇――
「感動の再会、ですかね」
そう三途の死神 小野塚小町は、茶化した様子で一人ごちる。
小町が覗いているのは、閻魔が用いる浄玻璃の鏡。
この鏡は審判に立たされた魂の現世の罪を映し出し、時に現世そのものを映す映像機の役割も果たす。
鏡の中では青娥と芳香がひしと抱き合い、その姿を鏡の持ち主もまた小町の横で確認していた。
「彼女は白、ということです」
鏡の持ち主、地獄の裁判長である四季映姫はそうきっぱりと断じた。
「白? 霍青娥がですか?
あれは壁抜けの邪仙で、地獄のお尋ね者。長生きは結構だが、それが彼岸の理を捻じ曲げた結果となれば、話は別ですよね」
「ええ。重罪、真っ黒です。しかし、その件は鬼神長に一任してあります」
「管轄が違うんでしたっけ」
「私の仕事は魂の生前の功罪に見合った行先決定。地獄全体の統括はしますが、執行は現場の方に委ねる他無いのです」
映姫は椅子にもたれかかる。きい、と少しだけ軋んだ。
その執行する側の立場に近い小町は立ったまま、つらつらと話を続ける。
「でも、今回は四季様自ら天罰を執行された。邪仙とはいえ、生きたまま畜生道に落とすなんていう荒業まで駆使して」
「荒業とは人聞きの悪い。
ただ十王稟議にかけた後、十数枚の書類に判子をいくつか押したまでです」
そう事もなげに、映姫は重大な決議の結果を述べた。
そして、そこまでして青娥に下した制裁の理由を語り始める。
「宮古芳香。彼女は元人間であり、遠い過去に身罷った亡者です。
彼女の魂は彼岸にたどり着き、厳正な裁きの下、冥府に送致されるはずでした。
しかし、そうはならなかった」
「あの邪仙が、反魂の術で魂を横取りした」
「そう。そしてまだ是非曲直庁が組織されていなかった旧地獄時代からの令状が、今も生きているのです」
映姫は一本の竹冊を取り出す。
中に書かれた内容は、宮古芳香の魂魄捜索願であった。
「なーる。選別されるべき魂が誘拐されたなんてトラブルは、四季様のような閻魔が関わらざるを得ない一大事ってわけですか」
「ええ。独自に調査が続けられ、ついに私の担当地、幻想郷に身元が在ることをつきとめました。同時に、邪仙という好ましからざる存在も。
しかし、芳香の魂を奪還しようにも簡単にはいかない」
「どっちもしばらく、私の船には乗りそうにありませんからね」
小町はくつくつと笑う。映姫は「笑い事ではありません」と真顔で窘めてから話を続ける。
「ただ芳香の魂をこちら側に戻すだけでは、青娥がまた取り返しにやって来るでしょう。それも死に物狂いで。そんな事態は避けたい」
「それでまず、裏技を使って青娥を猫に変えた……猫に仙術は無理だから」
「ええ。それにこれは罰の意味合いもあります。一任しているとはいえ、閻魔が知らんぷりしている訳にもいきませんから」
その補足説明に、小町が疑問符を浮かべる。
「罰? 猫に変身することの、どこが罰なんですか?」
「意識あるまま畜生に変身することの辛さが分からない様であれば、あなたもまだまだ死神としては未熟です」
「……どーせあたいは、猫同然のサボりですよー」
そう小町はふてくされる。
映姫は手厳しいことを言ったが、後である男が蟲に変身したという小説を貸してやろうと思った。
「でも、元の姿に戻っちゃいましたね。これでいいんですか」
「いいのです。彼女は白だと分かりましたから」
「はぁ?」
「さ、仕事に戻りなさい。今日も『真面目に』取り組むことです」
「……了解しました。失礼します」
小町は映姫のありがたい嫌味もするりと切り抜け、映姫の執務室からあっさり退室する。
空気の読める部下でよかった。
ふぅ、と映姫はため息をついてそう思い、青娥の処罰に関する書類を眺める。
書面の上部には罰の執行を認める内容が記載されていたが、その執行にはこういった付帯条件が申しつけられていた。
『但し、甲(青娥)の乙(芳香)に対する使用および待遇について、合理また倫理を逸脱していない等情状酌量の余地を確認されたら、速やかにこれを停止する』
現世への、しかも違法とはいえ生ある人間への裁きは並大抵のことではない。この様な強権発動には、しっかりとブレーキが付けられる。
また、反魂の術はその状況に応じて罪の大きさが変わる。
例えば、愛しい人を喪した悲しみの余りの行為であれば裁きはかなり軽くなり、ただ自分の術試しで人間を生み出してみたといった身勝手な理由で行ったのであれば、地獄行きは確定だ。
そしてその判断は、裁判の最高責任者である映姫が全て決定する。
映姫は試した。青娥と芳香の関係性を。
この状況下に放り出されて、もし芳香が青娥の不在に喜び支配から解放されようとしたなら青娥は黒、芳香が悲しみ青娥を求めたのなら白と見極めるつもりだったのだ。
だが、結果は予想以上だった。
青娥と芳香の間には、使役でも支配でもない、情状酌量に充分の深い繋がりがあることを確認できた。
よって、映姫はヤマザナドゥの名の下に青娥の獣化を解いた。
だが今回は、あくまで現世での罰は取り止めになっただけのこと。
邪仙でも不死でない以上、必ずここに訪れる。
その時はまた、私が判決を下すことになるのだろう。無論、青娥の行先は分かり切っている。
それが映姫の仕事であり、そこに同情や憐憫は微塵もない。
しかし、映姫は考える。
青娥の次に訪れる、芳香はどう裁けばよいか。
勾引かされ、意思のあるなしに関わらず使役された少女。
だが、彼女は誘拐犯に信愛の情を抱き、あれは犯罪者だと言い聞かせてもきっと理解しないだろう。
邪仙の共犯は黒か。何も知らない純真な少女は白か。
そもそも、二度死んだ人間を裁くことが出来るのか。
その答えは、全て浄玻璃の鏡の中。
映姫は自分なりの答えを思案しつつ、今はこの鏡に抱き合う二人だけを映しておきたいと柄にも無い感傷に浸ってしまうのだった。
【終】
私が目を覚ますと、窓からの暖かい日の光が差し込んでいた。
私はくあぁ~、とあくびをして、布団の上でうーんと伸びをひとつする。
これは毎朝無意識に行っている定型作業だ。
邪仙 霍青娥といえど、起き抜けは人並みの行動をとってしまう。
そしてこれまたいつもの日課で、枕元の鑿に手を伸ばして髪を結いあげようとする。
ここで、視界に飛び込んだ私の腕が毛むくじゃらであることに、初めて気が付いた。
私はしばし固まる。
そして慌てて自分の眼前まで己の手と思われる物体を持ってきて、観察をする。
腕全体は空色の毛で覆われ、手のひらや指といった凹凸が見られない。まるで先が丸い棒だ。
手をひっくり返すと、そこには信じがたいことに桃色の肉球と尖った爪があった。
力を込めると、グーとパーはできたが、チョキが著しく辛い。
だがこの操作で、これは間違いなく自分の腕だと認識した。
何だこれは!? この腕はまるで……
刹那、私はある予感が背筋を走り、その予感が外れることを切に願って横を向いた。
その方向にあるのは姿見。
その姿見には、空色の耳をぴんと立てた猫が、こちらを向いた状態で映っていた。
「にゃ!? にゃあああぁぁぁぁ!!」
――◇――
朝っぱらから、私は混乱の極みだった。
まず想起したのは、これは夢だ、まだ寝ぼけているということだ。
しかし、かぶりを振っても、頬をつねれないので爪で引っ掻いても、目が覚めるということはない。
結局痛い思いをしただけだった。次からは猫の爪攻撃に注意しよう……
しかし、その痛みがだいぶ己を落ち着かせる。
私はとと、と歩いてみる。驚きだ。猫とは、こんなにも体が軽いのか。
四足歩行に違和感を覚えつつも、私は姿見に近寄って、もう一度姿を確認する。
やはり、純然たる猫だ。体毛は腕と同じく空色。瞳は真円に磨いた瑠璃石のよう。
すらりと細身な体の背後では、のし棒の様な細長い円筒形の尻尾が揺れる。
姿見に右手……この場合は右足をぺたりと当てる。鏡の向こうの私もそれに倣った。
私は、現状を受け入れつつあった。どうやら私は猫になってしまったらしい。
姿見を見ながら、私は自分の身の上を整理してみる。
外見こそ猫だが、意識や明晰な頭脳は間違いなく霍青娥のものである。
体は自由に動くが、頭上の耳やヒゲ、尻尾など人間には無い部位の感覚までハッキリと認識でき、少しむず痒い。
ただ先程叫んだときに分かったのが、人語を失っているということだ。
試しに道教経典を諳んじてみるも、単語がすべて『にゃににゅにぇにょ』になってしまい、恥ずかしくなって止めた。
厄介である。これでは助けを求めるどころか、意思疎通もままならぬ。
次に考えたのは、こうなってしまった原因だ。何故猫になってしまったのか。
私の魂が猫に憑依した?
いや、それなら私の仮死体がどこかにあるはず。しかも体感的に憑依とは違う。
誰かに姿を変えられた?
うーん……人から怨まれる覚えはあるが、猫にされる謂れはない。第一、そんなことをする意味が分からない。
……変なものを食べた?
確か昨日の晩御飯は、ご飯と大根の味噌汁に金平ゴボウと白身魚の梅肉焼き……
私がついに昨晩の献立まで思考し始めたとき、すぐそばの襖の向こうに人の気配を感じた。
「青娥殿、朝餉ができましたよ」
この声は屠自古だ。いつものように私を起こしに来たのだろう。
これは、まずい。
屠自古は、潔癖と言っても差し支えないくらいの綺麗好きだ。
毎日家中をピカピカに掃除し、泥足で室内に入ってくる者はたとえ神子様でも許さない。
そんな屠自古にとって、毛を落としまくる猫は部屋を汚す害獣も同然だろう。
室内に侵入した野良猫扱いされて、追い回されでもしたら目も当てられない。
よし、適当に誤魔化して追い返そう。
「にゃ、にゃー(あと10分だけ……)」
ってどうやって誤魔化す!?
ぬああ~、と私はどうしようもない状況に頭を抱える。
だが、襖の向こうで気配が揺らぐ。
「む……猫?」
やばい! 気づかれた。
私は咄嗟に文机の陰に隠れる。それと同時に、襖がスパーンと小気味よい音を響かせ開かれる。
非常に嫌な流れだ。私はなるべく息をひそめて様子を探る。
……入ってきたのかしら。もー、屠自古は足音がしないから分かりゃしない。
私はそっと顔を出して姿見の方を見やる。
どうやらそちらにも、姿見に映る範囲にもいないらしい。
すこし安心してゆっくりと振り返ったら、屠自古の顔面があった。
「にゃあぁっ!!?」
私はびっくりして、後方にぼーんと一尺程飛び退く。
そこを屠自古は、回避行動を取れない空中で素早く私の胴体を捕まえる。
しゃがんだ状態から一気に立ち上がっての捕獲を成し遂げる屠自古の機敏な動きに、私は恐怖した。
屠自古は私を宙ぶらりんにしたまま、眉間に皺を寄せて品定めする様に私をねめつける。
こ、こ、殺される……
私は本気でそう思い、目を見開いて体を硬直させてしまう。
その時、屠自古が重い口を開く。
「……か」
……か?
「か、可愛いんですけどぉ!!」
「んにゃあぁぁ!?」
開口一番叫ぶや否や、屠自古は頬を私の顔にこすり付けてきた。
「なにこれむっちゃ可愛い! マジやばいんですけど! 超愛いやつぅぅ!」
普段の冷たい口調から一転、雑貨屋でお気に入りの小物を見つけた女学生のごとく甲高い歓声を上げる。
そしてその昂ぶりに比例するかの様に、屠自古のほっぺたは私の顔から腹部へと情熱的に移行する。
ちょ! やめ……く、くすぐったい……
私は抗議の声を上げるも、その声は「んにゃ! にゃあ!」としか届かない。
そのまま半刻ほど体を弄ばれた後、屠自古は私を床にそっと下ろし、さっきの私を捕まえる直前の様に這いつくばって私に視線を合わせる。
そして、寒気がするほど甘ったるい裏声で一言。
「あなた、どうしたのかにゃん?」
……はぁ?
「どこの猫ちゃんなのかにゃん? 青娥殿の飼い猫にゃんですかぁ?」
……ああ、痛い。なんか、頭とか屠自古とか色々なものが痛い。
私はドン引きだった。
これがふざけている様子ならまだしも、その顔は目尻が下がり、これで交信できていると信じきっている残念な感じだ。
まぁ、実際に言葉の意味はわかるが、原因不明の現象で屠自古の意外すぎる一面を発掘してしまった。
こんな姿、とても他人には見せられないわね……
そう私が引きつった苦笑いを心中でしたその時
「おーい、屠自古~。朝餉はまだかの?」
空気を読んだのか、のんきな声の布都がいきなり現れた。
途端、屠自古はにゃんにゃん語で喋る様が布都の視線に入らぬ内に、直立の姿勢をとる。
そして佇まいを正し、元の物静かでクールな雰囲気に戻った。
す、すごい……
「布都、これを見て」
「ん? おお、猫ではないか。これは中々かわゆいの」
「そういうことじゃなくて、なぜここに青娥殿の代わりに猫がいるのか、ということよ」
しゃがんで私の頭を撫でてきた布都に、屠自古は事務的な口調で問いかける。
なぜその態度が先にできなかったのよ……
「んん? 青娥殿の猫ではないのか?」
「まさか。そんな話は聞いたことがない」
「ふむ。もしや、突然拾ってきたのではないか。こんなに愛らしいのだ、無理もない。
そうか。それで青娥殿は皆に黙って拾ってきたものだから、バツが悪くなって出てこられないのであろう」
「……そうかぁ? 私は青娥殿が、生物にそんな感情を抱くとは考えづらいと思う。
もう死んだ猫なら、あるいは興味を持つかもしれないけど」
屠自古……あんた私をそういう目で見ていたのね……
私は元の姿に戻ったら覚えてなさいと毒づいて、本来の目的を思い出した。
そうだ、私の正体を外部に伝えなければいけない。
だが人語を失った今、どうやってそれを伝える?
私は頭を撫でられながら必死に考え、ピンとひらめいた。
そうだ。仙術だ!
この場で私がいつも披露していた仙術を発動すれば、屠自古や布都でも私の正体に気づくはず。
よし、早速実行よ。まずは壁抜け!
私は尚もかいぐりまわす布都の手からすり抜け、部屋の壁の前に立つ。
そして口に簪を咥えて、トンと壁につける。
今のところ、抜けられそうな感じはない。
ぐっ、と円を描く様に押し付けてみる。
あらいやだ、意外とこの壁手ごわいわねえ……
嫌な汗が体中に滲んできたが、とりあえず前足も簪に添えて押してみる。
中々通り抜けられないから、ちょっと爪で引っ掻いてみる。
何の反応も無い壁を、ほとんど涙目でバリバリと掻き毟る。
「これこれ! そんなところで爪とぎしたら、青娥殿に怒られるぞ」
焦った声で私を抱き上げる布都。
だが私は、ショックで気絶寸前になった。
そんな。仙術まで使えなくなっているなんて!
私は布都の腕の中で必死に様々な仙術を試みた。しかし、雷球を生み出すといった簡単な術さえ不発に終わる。
布都はにゃんにゃんと鳴きながらもがく私に、悲しそうな視線を送る。
「こんなに暴れて、この猫は我が嫌いなのかのう……」
「抱っこされるのが嫌いな猫もいるのよ。離してあげたら」
屠自古の意見に、布都は名残惜しそうに私を床に下ろした。
それを見て、屠自古はふふんとドヤ顔だ。どうやら屠自古は、自分のみが猫に好かれていると思っているらしい。
だが私はそんなことに構っていられない。冷静になれ、と自分に言い聞かせ、突破口を見出そうと考えを巡らす。
こうなったら、外部の人間が気づいてくれるのを期待するしかない。
布都は純真で心優しいけど……残念ながら頼りになりそうもない。
洞察力という点では、ニヒリストで斜に構えている屠自古が優れていそうだが……
私は屠自古を見る。すると屠自古の方も私を凝視していたのか、はたと目があった。
それだけで、屠自古はぱぁっと顔を輝かせ、布都の背後から小さく手を振る。
駄目だ……屠自古は駄目だ……
手詰まりの様相に気分が沈んだその時、救世主は同じく半開きの襖から現れた。
「皆どうしたのです? 朝餉が冷めてしまいますよ」
朝日の加減で後光が差したように現れたその人は、始祖の日本を近代的に治めたカリスマ聖人こと、豊聡耳神子様だ。
神子様は笏を構えたいつものお姿で、私の部屋に足を踏み入れる。
「おや、猫ですか。空色の猫とは珍しい」
「神子様! そんなことはありませんぞ。我は山の巫女に聞きました。
なんでも、外界では青い狸の様な猫が一般的なのだそうで」
「布都、少し黙っていて。神子様、この猫の素性が分からないのです。青娥殿の部屋にいたのですが、青娥殿も見当たりませんし」
「ほう。では少しこの子の声を聴いてみますか」
そう言って神子様は口元に笏を当てて屈みこみ、私の目をじっと見つめる。
これはチャンスだ。私の目も希望に輝く。
神子様は欲の声が聞こえる特殊な能力をお持ちだ。例えば『自分の正体を知って欲しい』という欲を想起すれば、神子様にその願いは言葉を介さずとも伝わるのだ。
問題は動物相手にその力が発揮出来るのかということだったのだが、本人が出来そうな空気を纏わせて私の眼前に来た。
私はこの金の鎖を離さない様に必死で念じ、訴える。
「にゃあ! んにあぁ! にゃんにゃー!」
ほら、気づいて! 私は青娥! 尸解仙になる手伝いしましたよね。
貴方のそばに這い寄る邪仙、青娥娘々です☆
神子様はしばらく熱心に、私の声を聴いている様子だった。
しかし、ある瞬間に目を見開かれる。
そしてこう言葉を漏らす。
「なんと……この猫、もしや」
よし伝わった! 私はほっと胸を撫で下ろす。
神子様は私に手を伸ばしてくる。獣化を解く術をかけてくれるのだろう。
そして手のひらが私の目前まで近づき、
神子様は私の喉をくすぐるように撫でた。
「ふにゃぁん!? にゃー、ゴロゴロゴロ」
えっ!? なっ、なにこれぇ!?
喉を撫でられた途端、脳髄まで痺れるような電撃が尻尾の先まで駆け巡る。
これは、初めての体験だった。喉を撫でられるのが気持ち良すぎて、ぺたんとお腹を地面に落としてしまった。
それと同時に、私はゴロゴロと喉を鳴らしてしまう。猫が気持ちいいことを示す態度だ。
「ふにゃう……ゴロゴロ」
「やはりこの喜びよう。私には聞こえました。
『構って~、撫でて~』という欲の声が、ハッキリと」
「おお、そうであったのか!」
いやいやいや!? いつ誰がそんなことを望んだのよ!
私はそう心の中で激しくツッコむも、神子様のお手は止まらない。
だが、止めようと思えばいくらでも抵抗の手段がある。引っ掻いても噛みついてもいい。
しかし……できなかった。だって
こんな……こんなしゅごい感覚初めてぇなんだもぉん!
「ゴロゴロゴロゴロ! にゃぁうううん」
「ほらごらんなさい、この弛緩しきった姿を。やはり、猫はいいですねぇ」
「ですよね! 神子様もやはり猫派ですよね!」
「おや、屠自古もそうですか。気が合いますね」
「そ、そんな……私も光栄ですぅ」
屠自古は神子に笑みを向けられ、喉を撫でられたかの様に体をよじらせて照れる。
だが私は、生まれて初めての快楽にただただ翻弄されていた。
猫って……猫って気持ちいい!
本来の目的から脱線どころか爆発炎上している状況下だが、そんな些末な事なぞどうでもいいと感じる。
私が今度猫を見かけたら撫でてやろうと思う程の強烈な快感に溺れてしまっていたその時、肝心の、そして最も忘れてはいけない人物を忘れてしまっていたことに気づく。
「……せーがー。せーがどこー?」
伸びた背筋で廊下をてふてふと歩き、虚ろな瞳に八重歯が印象的な半死半生の輩。
「おやおや、芳香ちゃんが自分で起き出すとは珍しいですね」
神子様が、撫でる手を止めて感心したように呟く。
宮古 芳香。額の術符によって死体であるにも関わらず動き回ることができ、私に忠誠を誓うキョンシーの最高傑作。
そして、自覚している私の偏執な愛情を一身に受け止めてくれる、愛しい愛しい仮初めの人間。
その姿を見た途端、私の興奮は一瞬で褪めた。
ああ、芳香。芳香……
そして冷静に考えたのは、今後の事。
芳香は、定期的に防腐処理や術符の更新をしてやらねば形を保つことすら困難だ。
その技術は私のみが知りえ、俗人にはその真似さえできないだろう。
それに芳香にご飯は誰が食べさせる? 柔軟体操の相手は?
もしこのまま元の姿に戻れなかったら、芳香はどうなるのだろう。
そもそも、私がいなくなったことを芳香はちゃんと理解できるのか?
ぞっとした。絶望すら身近に感じた。
私が静かに戦慄していると、芳香は私に気づいて「お、お~」と言葉を漏らしながら近寄ってくる。
「そうだ、芳香。芳香は青娥殿がどこにいったか知らぬか?」
「いや、知らないから『せーがどこー』って言っていたでしょう」
「おお、そうだぞ。せーがはどこだ~」
「そうそう、青娥どこ~じゃ」
「うあ~、せ~が~」
「……頼むから、この子と同じ土俵で会話するのは止めて」
屠自古が芳香と微妙に交信している布都に頭を抱える中、私の心に芳香の言葉が刺さる。
ああ、こんなにも近く。目の前にいるのに気付いてもらえない。
私は目一杯芳香に愛情を注いだつもりだったのに、芳香も私の愛に応えてくれていると思っていたのに、所詮は作り物の感情だったのか。
もう一生私は……誰かそばに居るのに誰とも分かり合えない。唯一私に残された芳香でさえ失った孤独を背負って生きていくのだろうか。
私の心が深く、冷たい深海の様な闇に呑まれかかったその時、芳香と目が合った。
芳香はじいっと私を凝視して、それから苦労してきゅっきゅと関節を軋ませながら私と目線を合わせる。
芳香……初めて見る毛色の動物だから珍しいのかしら。
私はそんな諦観に浸って、それでも芳香の無垢で無機質な表情を眺めていた。
すると、芳香は口をかぱり、と開いてこう言った。
「あ~、せーがいた~」
左右の八重歯が完全に見える、満面の笑みでの言葉だった。
私は、驚きの余り我が耳を疑った。それは周囲の人間も同様だったらしい。
「な、何を言っておるのだ。それは猫だぞ」
「え、せーがだぞ」
「ちょっと大丈夫? 目玉まで死にかけているんじゃ」
「それでも、せーがだぞ」
そう言って芳香は私の胴体をすんすんと嗅ぎ、ぎこちない手つきで私の頬を撫でる。
「ほら、せーがのいい匂いする。しかも、目がおんなじ。
せーがはいつもきっ、て感じの目だけど、私と一緒のときはふにゃ、ってなるんだ。
せーがー。腹減ったぞぅ。ごはんくれー」
最早芳香は、この姿でも私を完全に私だと認識していることが充分にわかった。
胸に熱い物がこみ上げてきた。ただただ、嬉しかった。
でも、この姿ではぎゅっと抱きしめることも、頭をなでなでしてあげることもできない。
それが、著しくもどかしかった。
そう強く念じた刹那、突然私を煙幕の様に濃い煙がボウンと覆い尽くし、室内が一瞬ざわめく。
誰かが窓を開けて煙を逃がすと、私の視線はさっきより高くなっていた。
部屋の皆、正確には芳香以外の面子の顔が驚愕に彩られている。
私はチラリと横の姿見を見やる。
そこには空色の髪にいつもの寝間着、本当なら数刻前からこの姿のはずだった、人間の形をした霍青娥が映っていた。
「な、なんと……」
「これは……驚きです」
「……ね、猫が消えてやがんよ」
三者三様に信じられないと呟く中、私は芳香と正対する。
「芳香……芳香っ」
「うおっ!? おおう」
私は先程から強く念じていた通り、芳香をぎゅうっと抱きしめた。
芳香は少し驚いたが、私のされるがままに身を任せる。
それが、純粋に嬉しかった。
「芳香。ありがとう……ありがとうね……」
「おお? こ、こちらこそ」
私は礼を述べた。私に気づいてくれたことと、私に気づかせてくれたこと。
だが芳香はいつも通り、少し不思議な表情をして私の体を抱きとめてくれていた。
――◇――
「感動の再会、ですかね」
そう三途の死神 小野塚小町は、茶化した様子で一人ごちる。
小町が覗いているのは、閻魔が用いる浄玻璃の鏡。
この鏡は審判に立たされた魂の現世の罪を映し出し、時に現世そのものを映す映像機の役割も果たす。
鏡の中では青娥と芳香がひしと抱き合い、その姿を鏡の持ち主もまた小町の横で確認していた。
「彼女は白、ということです」
鏡の持ち主、地獄の裁判長である四季映姫はそうきっぱりと断じた。
「白? 霍青娥がですか?
あれは壁抜けの邪仙で、地獄のお尋ね者。長生きは結構だが、それが彼岸の理を捻じ曲げた結果となれば、話は別ですよね」
「ええ。重罪、真っ黒です。しかし、その件は鬼神長に一任してあります」
「管轄が違うんでしたっけ」
「私の仕事は魂の生前の功罪に見合った行先決定。地獄全体の統括はしますが、執行は現場の方に委ねる他無いのです」
映姫は椅子にもたれかかる。きい、と少しだけ軋んだ。
その執行する側の立場に近い小町は立ったまま、つらつらと話を続ける。
「でも、今回は四季様自ら天罰を執行された。邪仙とはいえ、生きたまま畜生道に落とすなんていう荒業まで駆使して」
「荒業とは人聞きの悪い。
ただ十王稟議にかけた後、十数枚の書類に判子をいくつか押したまでです」
そう事もなげに、映姫は重大な決議の結果を述べた。
そして、そこまでして青娥に下した制裁の理由を語り始める。
「宮古芳香。彼女は元人間であり、遠い過去に身罷った亡者です。
彼女の魂は彼岸にたどり着き、厳正な裁きの下、冥府に送致されるはずでした。
しかし、そうはならなかった」
「あの邪仙が、反魂の術で魂を横取りした」
「そう。そしてまだ是非曲直庁が組織されていなかった旧地獄時代からの令状が、今も生きているのです」
映姫は一本の竹冊を取り出す。
中に書かれた内容は、宮古芳香の魂魄捜索願であった。
「なーる。選別されるべき魂が誘拐されたなんてトラブルは、四季様のような閻魔が関わらざるを得ない一大事ってわけですか」
「ええ。独自に調査が続けられ、ついに私の担当地、幻想郷に身元が在ることをつきとめました。同時に、邪仙という好ましからざる存在も。
しかし、芳香の魂を奪還しようにも簡単にはいかない」
「どっちもしばらく、私の船には乗りそうにありませんからね」
小町はくつくつと笑う。映姫は「笑い事ではありません」と真顔で窘めてから話を続ける。
「ただ芳香の魂をこちら側に戻すだけでは、青娥がまた取り返しにやって来るでしょう。それも死に物狂いで。そんな事態は避けたい」
「それでまず、裏技を使って青娥を猫に変えた……猫に仙術は無理だから」
「ええ。それにこれは罰の意味合いもあります。一任しているとはいえ、閻魔が知らんぷりしている訳にもいきませんから」
その補足説明に、小町が疑問符を浮かべる。
「罰? 猫に変身することの、どこが罰なんですか?」
「意識あるまま畜生に変身することの辛さが分からない様であれば、あなたもまだまだ死神としては未熟です」
「……どーせあたいは、猫同然のサボりですよー」
そう小町はふてくされる。
映姫は手厳しいことを言ったが、後である男が蟲に変身したという小説を貸してやろうと思った。
「でも、元の姿に戻っちゃいましたね。これでいいんですか」
「いいのです。彼女は白だと分かりましたから」
「はぁ?」
「さ、仕事に戻りなさい。今日も『真面目に』取り組むことです」
「……了解しました。失礼します」
小町は映姫のありがたい嫌味もするりと切り抜け、映姫の執務室からあっさり退室する。
空気の読める部下でよかった。
ふぅ、と映姫はため息をついてそう思い、青娥の処罰に関する書類を眺める。
書面の上部には罰の執行を認める内容が記載されていたが、その執行にはこういった付帯条件が申しつけられていた。
『但し、甲(青娥)の乙(芳香)に対する使用および待遇について、合理また倫理を逸脱していない等情状酌量の余地を確認されたら、速やかにこれを停止する』
現世への、しかも違法とはいえ生ある人間への裁きは並大抵のことではない。この様な強権発動には、しっかりとブレーキが付けられる。
また、反魂の術はその状況に応じて罪の大きさが変わる。
例えば、愛しい人を喪した悲しみの余りの行為であれば裁きはかなり軽くなり、ただ自分の術試しで人間を生み出してみたといった身勝手な理由で行ったのであれば、地獄行きは確定だ。
そしてその判断は、裁判の最高責任者である映姫が全て決定する。
映姫は試した。青娥と芳香の関係性を。
この状況下に放り出されて、もし芳香が青娥の不在に喜び支配から解放されようとしたなら青娥は黒、芳香が悲しみ青娥を求めたのなら白と見極めるつもりだったのだ。
だが、結果は予想以上だった。
青娥と芳香の間には、使役でも支配でもない、情状酌量に充分の深い繋がりがあることを確認できた。
よって、映姫はヤマザナドゥの名の下に青娥の獣化を解いた。
だが今回は、あくまで現世での罰は取り止めになっただけのこと。
邪仙でも不死でない以上、必ずここに訪れる。
その時はまた、私が判決を下すことになるのだろう。無論、青娥の行先は分かり切っている。
それが映姫の仕事であり、そこに同情や憐憫は微塵もない。
しかし、映姫は考える。
青娥の次に訪れる、芳香はどう裁けばよいか。
勾引かされ、意思のあるなしに関わらず使役された少女。
だが、彼女は誘拐犯に信愛の情を抱き、あれは犯罪者だと言い聞かせてもきっと理解しないだろう。
邪仙の共犯は黒か。何も知らない純真な少女は白か。
そもそも、二度死んだ人間を裁くことが出来るのか。
その答えは、全て浄玻璃の鏡の中。
映姫は自分なりの答えを思案しつつ、今はこの鏡に抱き合う二人だけを映しておきたいと柄にも無い感傷に浸ってしまうのだった。
【終】
猫のせーがも、デレデレとじこも、ちょっぴりなシリアスも良かったです。
あと、屠自古可愛いです。いつもクールなのにたまにデレデレしちゃう屠自古すごく可愛いです
浄瑠璃の鏡って用法は正しいんですかね?
浄玻璃の鏡の誤用だと思うんですが
良いですよ、猫。あと青娥さんのイメージは、目の前の快楽に案外弱いお方なのかなぁ~と。
8番様
さすがに娘々、その名の通りマジにゃんにゃん。
奇声を発する程度の能力様
ありがとうございます。嬉しいです。
リペヤー様
にゃんにゃかにゃん! 全体的なお褒めのお言葉、誠にありがとうございます。
非現実世界に棲む者様
いえいえこちらこそ、ご感想を頂きありがとうございました。
15番様
小一時間はさすがに厳しい! 自分の持っている辞書によると、半刻はだいたい15分くらいとあったのですが、冷静に考えるとそれでも長いな(笑)
後半のシリアスと同じウエイトで構成してしまったために、にゃんにゃん描写がやや軽かったかも。
次はひたすらにゃんにゃんするお話もいいかな、と思っています。
22番様
ようこそいらっしゃいました。歓迎いたします。
絶望を司る程度の能力様
それはそれは……とりあえず、姿勢を低くして笑顔で接してみるというのはいかがでしょう?
動物と目線を近づけるだけでもだいぶ違うかと。
24番様
むしろ芳香のように生命も飛躍する関係性があったからこそ、気づけたのではないかな、と思います。
あと、デレデレ屠自古のターンは書いててすごく楽しかったです!
25番様
ご指摘、誠にありがとうございます。修正いたしました。
今まで浄瑠璃の鏡と勘違いしていました。
28番様
ありがとうございます。
にゃんにゃん地獄:もしかして? 等活地獄 生き物は大切にね。がま口でした。