しとしとしとしと、雨が降り続いている。
雲に覆われてどんよりとした空は休むことなく雨粒を落とし続けており、止む気配は見えない。
突上げ窓の隙間から入り込んでくる空気の冷たさは、まだ冬が終わっていないことを教えてくれる。
ここ数日は暖かい日が続いていて、だいぶ春らしくなってきたなあと思っていたのだけれど。
どうやらリリーホワイトが春を告げにやって来るにはまだもう少し時間がかかるらしい。
雨粒が立てる静かな音に耳を傾けながら、温かな湯船の中に身体を沈める。
冷え切っていた身体の隅々に、じんわりと温かさが伝わっていく感覚がなんとも心地良い。
先ほどまで青白くなっていた肌もすっかりと色を取り戻し、薄い桜色に染まっていた。
「―――んっ……はぁっ……」
ゆっくりと身体を伸ばして、深く溜息を吐きながら肩まで湯船に浸かる。
意識と身体、その両方がお湯の中で一緒になっていくような不思議な感覚に、ゆっくりと瞼を伏せる。
学校の友達で湯船に入るのは面倒だからシャワーしか浴びないという子がいたけれど、絶対人生を損していると思う。
神奈子様と諏訪子様もお風呂が大好きで、外の世界にいた頃もわざわざ実体化しては長湯を楽しんでいたものだ。
「小さい頃はよく三人で一緒に入ったっけ」
まだ幼かった時分、私がお風呂に入ろうとすると、決まって御二柱はどちらが一緒にお風呂に入るかを巡って喧嘩をしていた。
軽い応酬から始まって、そのまま過去の出来事まで遡り、果ては目玉焼きの焼き加減に及ぶ壮絶な言い争いの末、とうとうお互いに御柱と鉄輪を取り出す御二柱。
あわや神社倒壊の危機が訪れる手前、私は決まってみんなで一緒に入ることを提案して。
御二柱と一緒に入る湯船は少し窮屈だったけれど、楽しくてとてもはしゃいだのをよく覚えている。
なにより神奈子様と諏訪子様の楽しそうな表情を見るのが嬉しかったから。
もしかすると、信仰の薄くなった外の世界において、あれが御二柱にとってのささやかな楽しみだったのかもしれない。
そう思うとなんだかしんみりとしてしまう。
「―――早苗、湯加減はどう?」
戸を隔てた向こう側から聞こえてきた声に、思考が現実に引き戻される。
「あ、はい、ちょうど良いです」
「そう、ならいいわ。着替え、ここに置いとくから。ゆっくり温まってきなさい」
上擦ってしまった私の返事を気にした様子もなく、声の主―――霊夢さんはいつもと変わらない調子で告げる。
戸の向こうの影が消えると、聞こえてくるのは再び雨音だけになった。
「はぁっ」
唇から溜息が漏れる。
今度は安堵ではなく、憂いを含んだもの。
もう一度深く溜息を吐いて、湯船に口まで沈み込む。
ゆらゆらと揺れる水面にぶくぶくと音を立てながら、泡が浮かんでは消えていく。
子供っぽいことをしているという自覚はあったのだけれど、どうせ誰も見ていないのだから気にはならない。
胸にそっと手を当てると、手のひらから伝わるのはどきどきと早鐘を打つ確かな鼓動。
頬に感じる熱の原因は入浴によるものだけでは決してなかった。
「今日は霊夢さんと一緒にお買い物に行くはずだったのにな」
消えゆく水泡をぼんやりと眺めながらひとりごちる。
呟いた言葉は水面に揺れる泡に溶け、静かに消えていった。
「今度、買い出しに行くから。早苗も一緒に来なさい」
そんな風に霊夢さんから告げられたのは、もうすぐに春になろうかという穏やかな日和のことだ。
いつものように縁側で一緒にお茶を飲んでいた私はその突然の話に軽い混乱状態に陥った。
(買い物に行く。霊夢さんが。誰と。私と。二人で。いったい何故?)
彼女の言葉が耳を通じて頭に届いたのはわかったのだけれど、すぐには理解が追いつかない。
ぐるぐると回る思考に目を回しそうになりながら必死にその意味を考えようとしていると、額に軽い刺激が走る。
「なに難しそうな顔してるのよ」
呆れたような声と視線に、狼狽する頭が少し落ち着きを取り戻す。
軽く叩かれた額を摩りながら霊夢さんに向き直ると、彼女は溜息を吐きつつ改めて説明をしてくれた。
霊夢さん曰く、冬の間に買い溜めしておいた食料品や日用品の備蓄が底を尽きそうだそうで。
ここのところだいぶ暖かくなってきたので、人里の様子見がてら買い出しに出かけたいとのことらしい。
「それに、そろそろ顔を出さないと、私が冬を越せなかったってみんなに思われちゃうのよ」
失礼な話よね、と憮然とした表情で霊夢さんはお茶を啜る。
私は苦笑しつつも、なんだか冬眠明けの熊みたいだなあなんて失礼なことを考えてしまう。
あ、でも、彼女の場合は野生の熊よりも、だらだらごろごろしているぬいぐるみのクマの方が似合う気がする。
団子を片手に畳の上に寝転がる霊夢さんの姿を想像して、思わず笑みを漏らしたところでまた額を叩かれる。
痛いですよと小さく抗議すると、霊夢さんは「自業自得よ」と澄まし顔でお茶を啜った。
まあ要するに、久しぶりの買い物で荷物の量が多いので人手が欲しいということ。
なんてことはない、ただ普通に買い物に出かけるだけの話。
特別な意味なんてなにもないこと。
それでも、私はその誘いを二つ返事で承諾した。
それはそうだろう。たとえどんなに些細なことであろうと、密かに好意を抱いている相手からの誘いに喜ばない女の子はいない。
他の誰でもない、霊夢さんからのお誘い。断る理由などあるはずもなかった。
その後は当日どこのお店を見て回ろうかと二人で話し込んで。
お暇する時間になるまでの間、私は常時頬が緩みっぱなしだったような気がする。
守矢神社に帰ってからも頬の緩みが戻ることはなく、御二柱に変な目で見られてしまった。
何事かと追及してくる御二柱を適当に誤魔化しつつ自室に退散すると、早速私は約束の日に向けての準備を始めた。
まずは当日に別の用事が入らないよう徹底的に守矢神社での仕事を片付けて。
それから洗い立ての巫女装束にせっせとアイロンをかけ、ぴんと皺を伸ばした。
さらに毎晩、念入りに身体中を綺麗に洗い、素敵な香りのするアロマオイル入りのお風呂に浸かった。
新しい下着まで用意してしまったのはちょっとやりすぎだったかもしれない。
これらの準備にあたって、実はアリスさんから様々な協力をいただいた。
幻想郷では流通していない美容用品やら下着を手に入れることができたのは彼女のおかげだ。
しかもこれらは全部お手製とのこと。こんなことまでできるなんて魔法使いってすごい。
どうしてそこまでしてくれるのかと訊ねたところ、彼女もまた別の世界から幻想郷にやって来たそうで。
そういった物が欲しいという気持ちはよくわかるからどうにも放っておけないとのこと。
そうは言っても、普通はここまでしてくれる人なんてそうそういない。
どうやらアリスさんはとても世話焼きな性分らしい。
礼はいらないわ、とは言っていたのだけれど、ここまでしてもらったのだから、今度ちゃんとしたお礼をしたい。
聞いたところによると彼女は人形が好きらしいので、秘蔵の超合金ロボをプレゼントしようと考えている。
しかもただの超合金ロボではない。変形・合体機構を完全再現した優れ物だ。
せっかくだから合体シーンの台詞台本も書いて付けてあげよう。
ふふっ、アリスさん、喜んでくれると嬉しいな。
そんなこんなで、約束の日の前日の夜までに万全の準備を整えることができた私。
明日の朝までの時間を指折り数え、どきどきと高鳴る胸を持て余しながら眠りについた。
けれども、翌日の朝に目を覚まして、部屋のカーテンを開けた先に拡がっていたのは、降りしきる雨だった。
それを見たときの私の絶望たるや、なんて表現したらいいのかわからない。
迂闊だった。完璧に準備を終えたと思っていたのに、まさか一番肝心な天気の確認を忘れていただなんて。
季節の候は春雨。春を迎える雨の季節がやって来たのだった。
いっそのこと空に拡がる雨雲の全てを風で吹き飛ばしてしまおうかと考えた。冗談ではなく割と本気で。
そんなことをしてしまったらさすがに洒落では済まされないので、泣く泣く諦めたのだけれど。
春雨はそんなに長いこと続かないから数日もすれば春めいた良い日和になると御二柱が慰めてくれたが、私はただ打ちひしがれるしかなかった。
この雨では人里に買い物に出かけることが無理なことは明白だった。
せっかく買った物はみんな濡れてしまうし、なにより人里まで飛んで行くだけで全身ずぶ濡れになってしまう。
残念だけれど、日を改める他ない。
それでも、私はどうしても諦め切れなかった。
もしかすると、これから雨が上がる時間があるかもしれない。
そうすればきっと霊夢さんと一緒に出かけられるはずだと。
決意を固めた私は部屋のクローゼットからレインコートを引っ張り出して身に纏った。
まだ外の世界にいた頃に使っていた代物なので、若干サイズが合わなくなっていたけれど、無いよりはずっとましなはずだ。
レインコートで防げない部分は風を使って防げばきっとなんとかなる。
そうして、私は御二柱の制止を振り切り、春雨の舞う空へと飛び立ったのだった。
吹きつけてくる風雨を風祝の力を駆使して凌ぎ、博麗神社を目指して飛び続ける。
それでも、レインコートの隙間から入ってくる雨を吸って、服はだんだんと重くなり、身体の体温を容赦なく奪われていく。
ようやく博麗神社に辿り着いた頃には、全身ずぶ濡れ、寒さで震えが止まらないという、見るも無残な状態になってしまっていた。
思えばよく辿り着けたものだと思う。
風雨に負けて吹き飛ばされてしまったら、怪我をするどころか下手したら死んでしまっていた可能性もあったのに。
ずぶ濡れになるだけで済んだのは日頃の信仰の賜物か、あるいは奇跡だったのかもしれない。
玄関先で出迎えてくれた霊夢さんは開口一番「お風呂沸かしてあるからすぐに入りなさい」と言って、そのまま私をお風呂場へと押し込んだ。
水を吸って重くなった装束を脱ぎ捨て、冷え切っていた身体を湯船に沈めてようやく人心地ついたのがつい先ほどのことである。
「結局、霊夢さんに迷惑かけちゃったなあ」
博麗神社に来たところで買い出しに出かけることができない状況に変わりがあるはずもなく。
それどころかこうして霊夢さんに現在進行形で余計な迷惑をかけてしまっている。
穴があったら入りたいどころか、そのまま埋もれてしまいたい。
「だめだめ、こんなんじゃ」
込み上げてくる罪悪感を振り切るように、顔を上げてゆっくりと深呼吸する。
息を吐くのと同時に、心の中の重たい感情を身体から追い出すように。
(うん、お風呂から上がったら、ちゃんと謝ろう)
そうすればきっと大丈夫だからと、自分に言い聞かせるように小さく頷いて、ようやく少し余裕を取り戻す。
小さく息を吐き、改めて肩までお湯に浸かり直す。
再び耳に届くのは静かな雨音だけだ。
ゆったりと身体を伸ばしながら、のんびりと辺りを見回す。
現代風にリフォームされた守矢神社のお風呂場と違って、博麗神社のお風呂場は昔の造りのままでとても風情を感じる。
霊夢さんもいつもここに入ってるんだよね、とぼんやり考えながら静かに瞼を閉じる。
湯船に沈む霊夢さんのしなやかな肢体。
ほんのりと赤く染まった白い肌。
静かに伏せられる水滴を帯びた長い睫。
艶っぽい吐息を漏らす瑞々しい唇。
頭に浮かぶ彼女の姿は例えようもなく美しくて。
色んな意味でのぼせてしまいそうになる。
―――がたっ
不意に響き渡った大きな音に、びくりと身体が跳ねる。
慌てて音のした方に首を巡らせると、床に転がった木桶がからからと余韻を響かせていた。
どうやら隙間風に吹かれて落下したらしい。
思わずほっと胸を撫で下ろし、それからぶんぶんと頭を振る。
ああもう、いったいなにを考えているのだろうか私は。
よりにもよって霊夢さんの入浴風景を妄想してしまうだなんて、これじゃあまるで変態じゃないか。
彼女の艶姿を必死に頭から追い出そうとするのだけれど、どうしても離れてくれない。
「……出よう」
あんまり長湯していると彼女を心配させてしまうかもしれないし、と言い訳めいた台詞を頭に浮かべて。
どきどきと早鐘を打つ胸を押さえながら、私はゆるゆると湯船から身体を持ち上げるのだった。
ほんのりと熱を帯びた頬を持て余しながら、縁側に続く廊下を進む。
肌に感じる雨気を含んだ空気が少し肌寒い。
湯冷めしないように気を付けないと、と思いながら廊下の角を曲がると、縁側に座る霊夢さんの姿が覗いて見えた。
この雨だというのに縁側の雨戸は開け放したままだ。
(あれで寒くないのかな)
思わず心配になって、心持ち足を速めながら彼女の背中を覗き込む。
「霊夢さん、お風呂いただきました」
「あら、おかえり。温まった?」
「はい、おかげさまで」
声をかけると、ひょいと霊夢さんがこちらを振り返る。
その拍子にさらりと流れる黒髪が鼻先を掠めて、不覚にもどきりと胸が高鳴ってしまう。
「早苗、なんか顔赤いけど。のぼせた?」
「あ、い、いえ、だいじょうぶ、です」
訝しげな表情を浮かべる霊夢さんに慌てて言葉を返しながら、ふらふらと彼女の隣に腰を下ろす。
まずい。だいぶしどろもどろになってしまったけれど、変に思われてないだろうか。
「そう、ならいいんだけど」
霊夢さんは特に気にした様子もなく、私にお茶の入った湯呑を渡すと、自分の湯呑のお茶を啜る。
(良かった、変な風には思われなかったみたい)
心の中でほっと胸を撫で下ろしつつ、私も湯気を立てる湯呑にふーふーと息を吹きかけながらゆっくりとお茶を啜る。
身体の中からじんわりと温かくなる感覚にほうと一息ついてから、改めて彼女に向き直る。
「すみません、服まで借りてしまって」
「いいわよ別に。私のだと小さいだろうけど、ないよりはましでしょ」
特に胸の辺りとかね、と意地悪い笑みを向けられて、ぼっと頬が熱くなる。
たしかに胸元やお尻の辺りがちょっときついというのはあるのだけれど。
実は服を着る前に思わず顔を埋めてしまっただなんて、とてもじゃないけど言えない。
それどころか、胸一杯に息を吸い込んで「霊夢さんの匂いがする」と呟く自分の姿は間違いなく封印してしまいたい過去トップ3に入る。
そんな私の後ろめたい羞恥など露知らず、霊夢さんは「冗談よ」と笑って視線を外に戻した。
「雨、やまないわね」
「そうですね」
つられるように私も視線を外に移して、二人並んで空を見上げる。
相も変わらずしとしとと降り続ける雨には止む気配が見えない。
この分だと、今日一杯はずっと降り続きそうだ。
これでは守矢神社まで帰れそうにない。どうしようか。
「買い物はまた今度かしらね」
「す、すみません」
「別にあんたが謝ることじゃないでしょうに。この雨じゃ仕方ないわよ」
「それでも、ごめんなさい。こんな天気じゃ出かけられないことなんて、わかりきっていたのに」
謝罪の言葉と共に、先ほど振り切ったはずの罪悪感がまた込み上げてくる。
今思えば、今日の私は周りが見えなくなっていたのだと思う。
風雨の神である神奈子様と、雨に関して誰よりも鋭い諏訪子様の言葉に、間違いなんてあるはずなかったのに。私はとんだ不敬虔者だ。
その上、自分本位で暴走まがいの行動をした結果、霊夢さんにも多大な迷惑をかけてしまった。
彼女への申し訳ない気持ちと自分への情けない気持ちがない交ぜになって、涙が零れそうになる。
ここで泣いてしまったら余計に迷惑をかけてしまうから、唇をぐっと噛み締めて耐え忍ぶ。
「あんたって本当に変なところで真面目よねえ」
私をまっすぐ見つめながら霊夢さんがくすくすと笑う。
呆れたような表情だけれど、嫌悪の色は見えない。
「どうせあんたのことだから、たとえ槍が降っても来るんだろうって思ったわ」
「す、すみませ――」
「そこで謝らないの。それを失念していたなんて私も甘かったってことよ」
「えっ、で、でも……」
「とにかく、終わったことをうだうだ言っても時間の無駄。今度晴れたら買い出し決行よ。以上」
つっけんどんに言い切って、そっぽを向いた霊夢さんはぐいと湯呑のお茶を飲み干す。
空になった湯呑を盆に置くと、桜色の唇をふっと綻ばせた。
ぶっきらぼうだけれど、なぜだか安心する、彼女らしさを宿した笑顔。
霊夢さんの言葉が、笑顔が、じんわりと私の中に溶けていく。
言葉を紡ごうとして、けれども、また謝罪の言葉がついて出そうになって。
だから私はなにも言わずに、微笑みを返した。
心地の良い沈黙が落ちる。
雨音をBGMにして、見つめ合い、笑い合う二人。
まるで時間が止まってしまったかのように錯覚してしまう。
映画のワンシーンをそのまま切り取ったみたいで、なんだかとても素敵だと思った。
「くしゅっ」
不意に霊夢さんの口から可愛らしいくしゃみが漏れる。
そういえば、縁側の雨戸が開いたままだったことをすっかり忘れていた。
「霊夢さん、大丈夫ですか」
「平気よ。ちょっとむずっとしただけだから」
「いけません。風邪を引いたら大変ですから」
「あー、いいからいいから、あんたはそのままにしてなさい」
なにか羽織る物を持って来ようと、腰を浮かせかけたところで彼女に制止される。
訝しげな視線を返すと、なぜか彼女の姿が見えない。
その代わりに胸の中に温かな感触を感じた。
視線を下げると、目の前には見慣れた赤いリボンと艶やかな黒髪が映り込む。
「あー、温いわー」
「れ、霊夢さん!?」
ぼんっと頬が熱くなって、どきどきと鼓動が早鐘を打ち始める。
気がついたら、霊夢さんが私の胸の中にすっぽりと収まっていた。
催眠術だとか超スピードだとかそんなレベルじゃない。
ひょっとしてこれが白昼夢というものなのだろうか。
「こら、動かないの」
「あ、はい、すみません」
やんわりと怒られて、わたわたとする身体を止める。
あれ、どうして私が怒られるんだろう。そんな疑問が浮かぶけれど、とりあえず無視することにする。
今、重要なのは霊夢さんの感触と温もりが衣服と肌を通して伝わってくるというこの現実だ。
なんだかとてもやわらかくて、良い匂いがして、ものすごく恥ずかしい。
「早苗はあったかいわねえ」
「も、もう、私は湯たんぽ代わりですか」
本心を悟られないようにわざと拗ねた感じに言葉を返すと、霊夢さんは気にした様子もなく、ふにゃりとした口調で続ける。
「あ、それいいかも。早苗を抱いて寝れば風邪引く心配なさそうだし。今夜、一緒に寝ようか?」
「えぇっ!?」
大胆かつ魅力的なお誘いに、思考がフリーズしかける。
もしそんなことになったら本当にどうなってしまうかわかったものじゃない。
(落ち着いて、落ち着くのよ、早苗)
呪文のように繰り返して、何度も深呼吸をする。
けれども、息を吸う度、霊夢さんの匂いが鼻腔をくすぐって、とても落ち着くどころの話じゃない。
この胸の鼓動を彼女に聞かれてしまうんじゃないかと気が気でなくて。
なにか答えなくちゃと必死に口を動かそうとするのだけれど、なんの言葉も出てこない。
「えへへ、早苗……」
「あぅぅっ」
甘えるような声で囁かれて、意識が飛びそうになる。
思考回路はすでに処理能力の限界を超え、馬鹿みたいに鼓動が早い。
温かい、やわらかい、良い匂い。
すでに私の頭はそれだけしか思い浮かべなくなっていた。
もう、どうにかなってしまいそうで、これ以上、私の心と身体はとても持ちそうになかった。
「れ、霊夢さんっ!」
ぎゅっと目を瞑り、彼女の身体を抱きしめながら名前を呼ぶ。
この後になんて言葉を続けたらいいのかはわからない。そんな中途半端な覚悟を決めて。
開いた口からついて出た言葉こそが正解だと信じて、じっと彼女の返事を待つ。
けれども、いくら待っても返事がない。
「……霊夢さん?」
訝しんで胸の中の霊夢さんを覗き込むと、彼女は静かな寝息を立てていた。
感じるのは彼女のやわらかな温もりと確かな息遣い。
まるで子供のように純真無垢であどけない寝顔は、ただひたすらに可愛らしい。
「……もう」
思わず溜息が漏れる。
先ほどまでの激しい鼓動はまるで嘘のように収まっていて。
燃えるようだった頬の熱も静かに引いていく。
もう一度、溜息をついて、彼女の身体を抱え直す。
伝わる感触はやっぱりやわらかくて、温かい。
くすぐったいような、苦しいような、なんだかよくわからないものが胸の中に拡がっていく。
ほっとしたような、がっかりしたような、なんだか複雑な気持ち。
でも、きっとこれでよかったのだと思う。
もしあのまま言葉を紡いでいたら、なにを言ってしまっていたかわかったものではなかったし。
溢れる感情を誤魔化すように、抱きしめる手にほんの少し力を込める。
「温かいのは、霊夢さんですよ」
初めの頃はぶっきらぼうな人だと思った。
いつもそっけなくて、思ったことをずばずばと言ってきて。
その上、馬鹿みたいに強くて、本当に容赦がなくて。
落ち込んだり、泣きそうになったことは一度や二度じゃなかったのだけれど。
でも、そんな態度の中に見え隠れする彼女の優しさに触れて、胸に温かなものが灯るのを感じた。
彼女に会いに行く度、それはどんどん大きくなっていって。
胸に満ちていくのはたとえようもないくらいの愛おしさと幸福感。
気づけば、私の隣には、心の中には、いつも霊夢さんがいた。
霊夢さんとずっと一緒にいたい。
彼女に私のこの胸の想いを伝えたい。
でも、もし、彼女に想いを打ち明けて、拒絶されてしまったら。
彼女に、気味の悪いものを見るような目で見られてしまったら。
そうなったら、きっと私はもう生きていけないだろう。
女の子同士の恋。
それはそう簡単に受け入れられるものではない。
たとえ、常識にとらわれてはいけないこの幻想郷であっても。
だから私はこの想いを心の奥にしまい込んで、霊夢さんと接することを決めた。
いつか訪れるであろう彼女と過ごす時間の終わりに目を背けて。
今この一時の幻想のような幸せに溺れるように。
「霊夢さん」
泣きたくなるような気持ちを押し殺して、彼女の頬に触れる。
温かく、やわらかなカーブを描くその先には、静かに寝息を漏らす桜色の唇。
先ほど湯船の中で想像したものよりもずっと瑞々しく、綺麗だった。
誘われるがままに引き寄せられる。
息が交わるくらいに近い距離。
彼女の唇に自分の唇を合わせようとして。
「んっ……」
結局、彼女の額に口づけを落として、そっと目を閉じる。
今はただ、彼女の温もりを抱きしめて眠ることにしよう。
そうすればきっと、幸せな夢を見ることができるはずだから。
(おやすみなさい、霊夢さん……私の、大好きな人……)
心の中でそっと囁いて、私は静かに意識を闇に委ねた。
暗闇と静寂の中、小さな音が聞こえる。
一つはしとしとと降る雨の音。もう一つは私を抱きしめる少女の確かな息遣い。
そっと目を開けて、様子を伺う。
視線の先の少女は目を瞑って、静かな寝息を立てていた。
軽く顔で胸を押してみたり、抱きしめる手に力を入れてみるが、起きる気配はない。
どうやら本当に眠っているようだ。
彼女は私と違って平然と狸寝入りができるような性質ではないし、間違いないだろう。
私の勘もそう言っている。
ほっと溜息を吐きながら彼女の胸に顔を押し付ける。
温かくて、やわらかくて、とても良い匂いがする。そしてすごく大きい。
いったい何をどうしたらこんなにもすばらしいものが育つのだろうか。
ちょっとした嫉妬を込めて、彼女の胸をぐりぐりと捏ね回してやる。
「……っ……ぁ……」
艶やかな唇から漏れた甘い声にはっと我に返る。
まずい。ひょっとして起こしてしまったか。
すぐに動きを止めて、目を瞑る。
しばらく寝たふりをしながら、そっと薄目を開けて彼女の顔を盗み見る。
幸い、彼女は先ほどと変わらない穏やかな表情で静かな寝息を立てていた。
やれやれと安堵し、再度、彼女の胸に顔を埋める。
温かい。
彼女は誰よりも温かい。
心底そう思う。
ふぁ、と欠伸が漏れた。
無理もない。なにせこの心地良さだ。
遠からず、私も眠りに落ちてしまうだろう。
だけど、そうなる前に言っておかなければならないことがある。
彼女の身体をぎゅっと抱きすくめて、耳元に唇を寄せる。
それからちょっと怒ったように溜息を吐いて、そうっと囁いた。
「唇にしてくれて良かったのに。早苗の鈍感」
雲に覆われてどんよりとした空は休むことなく雨粒を落とし続けており、止む気配は見えない。
突上げ窓の隙間から入り込んでくる空気の冷たさは、まだ冬が終わっていないことを教えてくれる。
ここ数日は暖かい日が続いていて、だいぶ春らしくなってきたなあと思っていたのだけれど。
どうやらリリーホワイトが春を告げにやって来るにはまだもう少し時間がかかるらしい。
雨粒が立てる静かな音に耳を傾けながら、温かな湯船の中に身体を沈める。
冷え切っていた身体の隅々に、じんわりと温かさが伝わっていく感覚がなんとも心地良い。
先ほどまで青白くなっていた肌もすっかりと色を取り戻し、薄い桜色に染まっていた。
「―――んっ……はぁっ……」
ゆっくりと身体を伸ばして、深く溜息を吐きながら肩まで湯船に浸かる。
意識と身体、その両方がお湯の中で一緒になっていくような不思議な感覚に、ゆっくりと瞼を伏せる。
学校の友達で湯船に入るのは面倒だからシャワーしか浴びないという子がいたけれど、絶対人生を損していると思う。
神奈子様と諏訪子様もお風呂が大好きで、外の世界にいた頃もわざわざ実体化しては長湯を楽しんでいたものだ。
「小さい頃はよく三人で一緒に入ったっけ」
まだ幼かった時分、私がお風呂に入ろうとすると、決まって御二柱はどちらが一緒にお風呂に入るかを巡って喧嘩をしていた。
軽い応酬から始まって、そのまま過去の出来事まで遡り、果ては目玉焼きの焼き加減に及ぶ壮絶な言い争いの末、とうとうお互いに御柱と鉄輪を取り出す御二柱。
あわや神社倒壊の危機が訪れる手前、私は決まってみんなで一緒に入ることを提案して。
御二柱と一緒に入る湯船は少し窮屈だったけれど、楽しくてとてもはしゃいだのをよく覚えている。
なにより神奈子様と諏訪子様の楽しそうな表情を見るのが嬉しかったから。
もしかすると、信仰の薄くなった外の世界において、あれが御二柱にとってのささやかな楽しみだったのかもしれない。
そう思うとなんだかしんみりとしてしまう。
「―――早苗、湯加減はどう?」
戸を隔てた向こう側から聞こえてきた声に、思考が現実に引き戻される。
「あ、はい、ちょうど良いです」
「そう、ならいいわ。着替え、ここに置いとくから。ゆっくり温まってきなさい」
上擦ってしまった私の返事を気にした様子もなく、声の主―――霊夢さんはいつもと変わらない調子で告げる。
戸の向こうの影が消えると、聞こえてくるのは再び雨音だけになった。
「はぁっ」
唇から溜息が漏れる。
今度は安堵ではなく、憂いを含んだもの。
もう一度深く溜息を吐いて、湯船に口まで沈み込む。
ゆらゆらと揺れる水面にぶくぶくと音を立てながら、泡が浮かんでは消えていく。
子供っぽいことをしているという自覚はあったのだけれど、どうせ誰も見ていないのだから気にはならない。
胸にそっと手を当てると、手のひらから伝わるのはどきどきと早鐘を打つ確かな鼓動。
頬に感じる熱の原因は入浴によるものだけでは決してなかった。
「今日は霊夢さんと一緒にお買い物に行くはずだったのにな」
消えゆく水泡をぼんやりと眺めながらひとりごちる。
呟いた言葉は水面に揺れる泡に溶け、静かに消えていった。
「今度、買い出しに行くから。早苗も一緒に来なさい」
そんな風に霊夢さんから告げられたのは、もうすぐに春になろうかという穏やかな日和のことだ。
いつものように縁側で一緒にお茶を飲んでいた私はその突然の話に軽い混乱状態に陥った。
(買い物に行く。霊夢さんが。誰と。私と。二人で。いったい何故?)
彼女の言葉が耳を通じて頭に届いたのはわかったのだけれど、すぐには理解が追いつかない。
ぐるぐると回る思考に目を回しそうになりながら必死にその意味を考えようとしていると、額に軽い刺激が走る。
「なに難しそうな顔してるのよ」
呆れたような声と視線に、狼狽する頭が少し落ち着きを取り戻す。
軽く叩かれた額を摩りながら霊夢さんに向き直ると、彼女は溜息を吐きつつ改めて説明をしてくれた。
霊夢さん曰く、冬の間に買い溜めしておいた食料品や日用品の備蓄が底を尽きそうだそうで。
ここのところだいぶ暖かくなってきたので、人里の様子見がてら買い出しに出かけたいとのことらしい。
「それに、そろそろ顔を出さないと、私が冬を越せなかったってみんなに思われちゃうのよ」
失礼な話よね、と憮然とした表情で霊夢さんはお茶を啜る。
私は苦笑しつつも、なんだか冬眠明けの熊みたいだなあなんて失礼なことを考えてしまう。
あ、でも、彼女の場合は野生の熊よりも、だらだらごろごろしているぬいぐるみのクマの方が似合う気がする。
団子を片手に畳の上に寝転がる霊夢さんの姿を想像して、思わず笑みを漏らしたところでまた額を叩かれる。
痛いですよと小さく抗議すると、霊夢さんは「自業自得よ」と澄まし顔でお茶を啜った。
まあ要するに、久しぶりの買い物で荷物の量が多いので人手が欲しいということ。
なんてことはない、ただ普通に買い物に出かけるだけの話。
特別な意味なんてなにもないこと。
それでも、私はその誘いを二つ返事で承諾した。
それはそうだろう。たとえどんなに些細なことであろうと、密かに好意を抱いている相手からの誘いに喜ばない女の子はいない。
他の誰でもない、霊夢さんからのお誘い。断る理由などあるはずもなかった。
その後は当日どこのお店を見て回ろうかと二人で話し込んで。
お暇する時間になるまでの間、私は常時頬が緩みっぱなしだったような気がする。
守矢神社に帰ってからも頬の緩みが戻ることはなく、御二柱に変な目で見られてしまった。
何事かと追及してくる御二柱を適当に誤魔化しつつ自室に退散すると、早速私は約束の日に向けての準備を始めた。
まずは当日に別の用事が入らないよう徹底的に守矢神社での仕事を片付けて。
それから洗い立ての巫女装束にせっせとアイロンをかけ、ぴんと皺を伸ばした。
さらに毎晩、念入りに身体中を綺麗に洗い、素敵な香りのするアロマオイル入りのお風呂に浸かった。
新しい下着まで用意してしまったのはちょっとやりすぎだったかもしれない。
これらの準備にあたって、実はアリスさんから様々な協力をいただいた。
幻想郷では流通していない美容用品やら下着を手に入れることができたのは彼女のおかげだ。
しかもこれらは全部お手製とのこと。こんなことまでできるなんて魔法使いってすごい。
どうしてそこまでしてくれるのかと訊ねたところ、彼女もまた別の世界から幻想郷にやって来たそうで。
そういった物が欲しいという気持ちはよくわかるからどうにも放っておけないとのこと。
そうは言っても、普通はここまでしてくれる人なんてそうそういない。
どうやらアリスさんはとても世話焼きな性分らしい。
礼はいらないわ、とは言っていたのだけれど、ここまでしてもらったのだから、今度ちゃんとしたお礼をしたい。
聞いたところによると彼女は人形が好きらしいので、秘蔵の超合金ロボをプレゼントしようと考えている。
しかもただの超合金ロボではない。変形・合体機構を完全再現した優れ物だ。
せっかくだから合体シーンの台詞台本も書いて付けてあげよう。
ふふっ、アリスさん、喜んでくれると嬉しいな。
そんなこんなで、約束の日の前日の夜までに万全の準備を整えることができた私。
明日の朝までの時間を指折り数え、どきどきと高鳴る胸を持て余しながら眠りについた。
けれども、翌日の朝に目を覚まして、部屋のカーテンを開けた先に拡がっていたのは、降りしきる雨だった。
それを見たときの私の絶望たるや、なんて表現したらいいのかわからない。
迂闊だった。完璧に準備を終えたと思っていたのに、まさか一番肝心な天気の確認を忘れていただなんて。
季節の候は春雨。春を迎える雨の季節がやって来たのだった。
いっそのこと空に拡がる雨雲の全てを風で吹き飛ばしてしまおうかと考えた。冗談ではなく割と本気で。
そんなことをしてしまったらさすがに洒落では済まされないので、泣く泣く諦めたのだけれど。
春雨はそんなに長いこと続かないから数日もすれば春めいた良い日和になると御二柱が慰めてくれたが、私はただ打ちひしがれるしかなかった。
この雨では人里に買い物に出かけることが無理なことは明白だった。
せっかく買った物はみんな濡れてしまうし、なにより人里まで飛んで行くだけで全身ずぶ濡れになってしまう。
残念だけれど、日を改める他ない。
それでも、私はどうしても諦め切れなかった。
もしかすると、これから雨が上がる時間があるかもしれない。
そうすればきっと霊夢さんと一緒に出かけられるはずだと。
決意を固めた私は部屋のクローゼットからレインコートを引っ張り出して身に纏った。
まだ外の世界にいた頃に使っていた代物なので、若干サイズが合わなくなっていたけれど、無いよりはずっとましなはずだ。
レインコートで防げない部分は風を使って防げばきっとなんとかなる。
そうして、私は御二柱の制止を振り切り、春雨の舞う空へと飛び立ったのだった。
吹きつけてくる風雨を風祝の力を駆使して凌ぎ、博麗神社を目指して飛び続ける。
それでも、レインコートの隙間から入ってくる雨を吸って、服はだんだんと重くなり、身体の体温を容赦なく奪われていく。
ようやく博麗神社に辿り着いた頃には、全身ずぶ濡れ、寒さで震えが止まらないという、見るも無残な状態になってしまっていた。
思えばよく辿り着けたものだと思う。
風雨に負けて吹き飛ばされてしまったら、怪我をするどころか下手したら死んでしまっていた可能性もあったのに。
ずぶ濡れになるだけで済んだのは日頃の信仰の賜物か、あるいは奇跡だったのかもしれない。
玄関先で出迎えてくれた霊夢さんは開口一番「お風呂沸かしてあるからすぐに入りなさい」と言って、そのまま私をお風呂場へと押し込んだ。
水を吸って重くなった装束を脱ぎ捨て、冷え切っていた身体を湯船に沈めてようやく人心地ついたのがつい先ほどのことである。
「結局、霊夢さんに迷惑かけちゃったなあ」
博麗神社に来たところで買い出しに出かけることができない状況に変わりがあるはずもなく。
それどころかこうして霊夢さんに現在進行形で余計な迷惑をかけてしまっている。
穴があったら入りたいどころか、そのまま埋もれてしまいたい。
「だめだめ、こんなんじゃ」
込み上げてくる罪悪感を振り切るように、顔を上げてゆっくりと深呼吸する。
息を吐くのと同時に、心の中の重たい感情を身体から追い出すように。
(うん、お風呂から上がったら、ちゃんと謝ろう)
そうすればきっと大丈夫だからと、自分に言い聞かせるように小さく頷いて、ようやく少し余裕を取り戻す。
小さく息を吐き、改めて肩までお湯に浸かり直す。
再び耳に届くのは静かな雨音だけだ。
ゆったりと身体を伸ばしながら、のんびりと辺りを見回す。
現代風にリフォームされた守矢神社のお風呂場と違って、博麗神社のお風呂場は昔の造りのままでとても風情を感じる。
霊夢さんもいつもここに入ってるんだよね、とぼんやり考えながら静かに瞼を閉じる。
湯船に沈む霊夢さんのしなやかな肢体。
ほんのりと赤く染まった白い肌。
静かに伏せられる水滴を帯びた長い睫。
艶っぽい吐息を漏らす瑞々しい唇。
頭に浮かぶ彼女の姿は例えようもなく美しくて。
色んな意味でのぼせてしまいそうになる。
―――がたっ
不意に響き渡った大きな音に、びくりと身体が跳ねる。
慌てて音のした方に首を巡らせると、床に転がった木桶がからからと余韻を響かせていた。
どうやら隙間風に吹かれて落下したらしい。
思わずほっと胸を撫で下ろし、それからぶんぶんと頭を振る。
ああもう、いったいなにを考えているのだろうか私は。
よりにもよって霊夢さんの入浴風景を妄想してしまうだなんて、これじゃあまるで変態じゃないか。
彼女の艶姿を必死に頭から追い出そうとするのだけれど、どうしても離れてくれない。
「……出よう」
あんまり長湯していると彼女を心配させてしまうかもしれないし、と言い訳めいた台詞を頭に浮かべて。
どきどきと早鐘を打つ胸を押さえながら、私はゆるゆると湯船から身体を持ち上げるのだった。
ほんのりと熱を帯びた頬を持て余しながら、縁側に続く廊下を進む。
肌に感じる雨気を含んだ空気が少し肌寒い。
湯冷めしないように気を付けないと、と思いながら廊下の角を曲がると、縁側に座る霊夢さんの姿が覗いて見えた。
この雨だというのに縁側の雨戸は開け放したままだ。
(あれで寒くないのかな)
思わず心配になって、心持ち足を速めながら彼女の背中を覗き込む。
「霊夢さん、お風呂いただきました」
「あら、おかえり。温まった?」
「はい、おかげさまで」
声をかけると、ひょいと霊夢さんがこちらを振り返る。
その拍子にさらりと流れる黒髪が鼻先を掠めて、不覚にもどきりと胸が高鳴ってしまう。
「早苗、なんか顔赤いけど。のぼせた?」
「あ、い、いえ、だいじょうぶ、です」
訝しげな表情を浮かべる霊夢さんに慌てて言葉を返しながら、ふらふらと彼女の隣に腰を下ろす。
まずい。だいぶしどろもどろになってしまったけれど、変に思われてないだろうか。
「そう、ならいいんだけど」
霊夢さんは特に気にした様子もなく、私にお茶の入った湯呑を渡すと、自分の湯呑のお茶を啜る。
(良かった、変な風には思われなかったみたい)
心の中でほっと胸を撫で下ろしつつ、私も湯気を立てる湯呑にふーふーと息を吹きかけながらゆっくりとお茶を啜る。
身体の中からじんわりと温かくなる感覚にほうと一息ついてから、改めて彼女に向き直る。
「すみません、服まで借りてしまって」
「いいわよ別に。私のだと小さいだろうけど、ないよりはましでしょ」
特に胸の辺りとかね、と意地悪い笑みを向けられて、ぼっと頬が熱くなる。
たしかに胸元やお尻の辺りがちょっときついというのはあるのだけれど。
実は服を着る前に思わず顔を埋めてしまっただなんて、とてもじゃないけど言えない。
それどころか、胸一杯に息を吸い込んで「霊夢さんの匂いがする」と呟く自分の姿は間違いなく封印してしまいたい過去トップ3に入る。
そんな私の後ろめたい羞恥など露知らず、霊夢さんは「冗談よ」と笑って視線を外に戻した。
「雨、やまないわね」
「そうですね」
つられるように私も視線を外に移して、二人並んで空を見上げる。
相も変わらずしとしとと降り続ける雨には止む気配が見えない。
この分だと、今日一杯はずっと降り続きそうだ。
これでは守矢神社まで帰れそうにない。どうしようか。
「買い物はまた今度かしらね」
「す、すみません」
「別にあんたが謝ることじゃないでしょうに。この雨じゃ仕方ないわよ」
「それでも、ごめんなさい。こんな天気じゃ出かけられないことなんて、わかりきっていたのに」
謝罪の言葉と共に、先ほど振り切ったはずの罪悪感がまた込み上げてくる。
今思えば、今日の私は周りが見えなくなっていたのだと思う。
風雨の神である神奈子様と、雨に関して誰よりも鋭い諏訪子様の言葉に、間違いなんてあるはずなかったのに。私はとんだ不敬虔者だ。
その上、自分本位で暴走まがいの行動をした結果、霊夢さんにも多大な迷惑をかけてしまった。
彼女への申し訳ない気持ちと自分への情けない気持ちがない交ぜになって、涙が零れそうになる。
ここで泣いてしまったら余計に迷惑をかけてしまうから、唇をぐっと噛み締めて耐え忍ぶ。
「あんたって本当に変なところで真面目よねえ」
私をまっすぐ見つめながら霊夢さんがくすくすと笑う。
呆れたような表情だけれど、嫌悪の色は見えない。
「どうせあんたのことだから、たとえ槍が降っても来るんだろうって思ったわ」
「す、すみませ――」
「そこで謝らないの。それを失念していたなんて私も甘かったってことよ」
「えっ、で、でも……」
「とにかく、終わったことをうだうだ言っても時間の無駄。今度晴れたら買い出し決行よ。以上」
つっけんどんに言い切って、そっぽを向いた霊夢さんはぐいと湯呑のお茶を飲み干す。
空になった湯呑を盆に置くと、桜色の唇をふっと綻ばせた。
ぶっきらぼうだけれど、なぜだか安心する、彼女らしさを宿した笑顔。
霊夢さんの言葉が、笑顔が、じんわりと私の中に溶けていく。
言葉を紡ごうとして、けれども、また謝罪の言葉がついて出そうになって。
だから私はなにも言わずに、微笑みを返した。
心地の良い沈黙が落ちる。
雨音をBGMにして、見つめ合い、笑い合う二人。
まるで時間が止まってしまったかのように錯覚してしまう。
映画のワンシーンをそのまま切り取ったみたいで、なんだかとても素敵だと思った。
「くしゅっ」
不意に霊夢さんの口から可愛らしいくしゃみが漏れる。
そういえば、縁側の雨戸が開いたままだったことをすっかり忘れていた。
「霊夢さん、大丈夫ですか」
「平気よ。ちょっとむずっとしただけだから」
「いけません。風邪を引いたら大変ですから」
「あー、いいからいいから、あんたはそのままにしてなさい」
なにか羽織る物を持って来ようと、腰を浮かせかけたところで彼女に制止される。
訝しげな視線を返すと、なぜか彼女の姿が見えない。
その代わりに胸の中に温かな感触を感じた。
視線を下げると、目の前には見慣れた赤いリボンと艶やかな黒髪が映り込む。
「あー、温いわー」
「れ、霊夢さん!?」
ぼんっと頬が熱くなって、どきどきと鼓動が早鐘を打ち始める。
気がついたら、霊夢さんが私の胸の中にすっぽりと収まっていた。
催眠術だとか超スピードだとかそんなレベルじゃない。
ひょっとしてこれが白昼夢というものなのだろうか。
「こら、動かないの」
「あ、はい、すみません」
やんわりと怒られて、わたわたとする身体を止める。
あれ、どうして私が怒られるんだろう。そんな疑問が浮かぶけれど、とりあえず無視することにする。
今、重要なのは霊夢さんの感触と温もりが衣服と肌を通して伝わってくるというこの現実だ。
なんだかとてもやわらかくて、良い匂いがして、ものすごく恥ずかしい。
「早苗はあったかいわねえ」
「も、もう、私は湯たんぽ代わりですか」
本心を悟られないようにわざと拗ねた感じに言葉を返すと、霊夢さんは気にした様子もなく、ふにゃりとした口調で続ける。
「あ、それいいかも。早苗を抱いて寝れば風邪引く心配なさそうだし。今夜、一緒に寝ようか?」
「えぇっ!?」
大胆かつ魅力的なお誘いに、思考がフリーズしかける。
もしそんなことになったら本当にどうなってしまうかわかったものじゃない。
(落ち着いて、落ち着くのよ、早苗)
呪文のように繰り返して、何度も深呼吸をする。
けれども、息を吸う度、霊夢さんの匂いが鼻腔をくすぐって、とても落ち着くどころの話じゃない。
この胸の鼓動を彼女に聞かれてしまうんじゃないかと気が気でなくて。
なにか答えなくちゃと必死に口を動かそうとするのだけれど、なんの言葉も出てこない。
「えへへ、早苗……」
「あぅぅっ」
甘えるような声で囁かれて、意識が飛びそうになる。
思考回路はすでに処理能力の限界を超え、馬鹿みたいに鼓動が早い。
温かい、やわらかい、良い匂い。
すでに私の頭はそれだけしか思い浮かべなくなっていた。
もう、どうにかなってしまいそうで、これ以上、私の心と身体はとても持ちそうになかった。
「れ、霊夢さんっ!」
ぎゅっと目を瞑り、彼女の身体を抱きしめながら名前を呼ぶ。
この後になんて言葉を続けたらいいのかはわからない。そんな中途半端な覚悟を決めて。
開いた口からついて出た言葉こそが正解だと信じて、じっと彼女の返事を待つ。
けれども、いくら待っても返事がない。
「……霊夢さん?」
訝しんで胸の中の霊夢さんを覗き込むと、彼女は静かな寝息を立てていた。
感じるのは彼女のやわらかな温もりと確かな息遣い。
まるで子供のように純真無垢であどけない寝顔は、ただひたすらに可愛らしい。
「……もう」
思わず溜息が漏れる。
先ほどまでの激しい鼓動はまるで嘘のように収まっていて。
燃えるようだった頬の熱も静かに引いていく。
もう一度、溜息をついて、彼女の身体を抱え直す。
伝わる感触はやっぱりやわらかくて、温かい。
くすぐったいような、苦しいような、なんだかよくわからないものが胸の中に拡がっていく。
ほっとしたような、がっかりしたような、なんだか複雑な気持ち。
でも、きっとこれでよかったのだと思う。
もしあのまま言葉を紡いでいたら、なにを言ってしまっていたかわかったものではなかったし。
溢れる感情を誤魔化すように、抱きしめる手にほんの少し力を込める。
「温かいのは、霊夢さんですよ」
初めの頃はぶっきらぼうな人だと思った。
いつもそっけなくて、思ったことをずばずばと言ってきて。
その上、馬鹿みたいに強くて、本当に容赦がなくて。
落ち込んだり、泣きそうになったことは一度や二度じゃなかったのだけれど。
でも、そんな態度の中に見え隠れする彼女の優しさに触れて、胸に温かなものが灯るのを感じた。
彼女に会いに行く度、それはどんどん大きくなっていって。
胸に満ちていくのはたとえようもないくらいの愛おしさと幸福感。
気づけば、私の隣には、心の中には、いつも霊夢さんがいた。
霊夢さんとずっと一緒にいたい。
彼女に私のこの胸の想いを伝えたい。
でも、もし、彼女に想いを打ち明けて、拒絶されてしまったら。
彼女に、気味の悪いものを見るような目で見られてしまったら。
そうなったら、きっと私はもう生きていけないだろう。
女の子同士の恋。
それはそう簡単に受け入れられるものではない。
たとえ、常識にとらわれてはいけないこの幻想郷であっても。
だから私はこの想いを心の奥にしまい込んで、霊夢さんと接することを決めた。
いつか訪れるであろう彼女と過ごす時間の終わりに目を背けて。
今この一時の幻想のような幸せに溺れるように。
「霊夢さん」
泣きたくなるような気持ちを押し殺して、彼女の頬に触れる。
温かく、やわらかなカーブを描くその先には、静かに寝息を漏らす桜色の唇。
先ほど湯船の中で想像したものよりもずっと瑞々しく、綺麗だった。
誘われるがままに引き寄せられる。
息が交わるくらいに近い距離。
彼女の唇に自分の唇を合わせようとして。
「んっ……」
結局、彼女の額に口づけを落として、そっと目を閉じる。
今はただ、彼女の温もりを抱きしめて眠ることにしよう。
そうすればきっと、幸せな夢を見ることができるはずだから。
(おやすみなさい、霊夢さん……私の、大好きな人……)
心の中でそっと囁いて、私は静かに意識を闇に委ねた。
暗闇と静寂の中、小さな音が聞こえる。
一つはしとしとと降る雨の音。もう一つは私を抱きしめる少女の確かな息遣い。
そっと目を開けて、様子を伺う。
視線の先の少女は目を瞑って、静かな寝息を立てていた。
軽く顔で胸を押してみたり、抱きしめる手に力を入れてみるが、起きる気配はない。
どうやら本当に眠っているようだ。
彼女は私と違って平然と狸寝入りができるような性質ではないし、間違いないだろう。
私の勘もそう言っている。
ほっと溜息を吐きながら彼女の胸に顔を押し付ける。
温かくて、やわらかくて、とても良い匂いがする。そしてすごく大きい。
いったい何をどうしたらこんなにもすばらしいものが育つのだろうか。
ちょっとした嫉妬を込めて、彼女の胸をぐりぐりと捏ね回してやる。
「……っ……ぁ……」
艶やかな唇から漏れた甘い声にはっと我に返る。
まずい。ひょっとして起こしてしまったか。
すぐに動きを止めて、目を瞑る。
しばらく寝たふりをしながら、そっと薄目を開けて彼女の顔を盗み見る。
幸い、彼女は先ほどと変わらない穏やかな表情で静かな寝息を立てていた。
やれやれと安堵し、再度、彼女の胸に顔を埋める。
温かい。
彼女は誰よりも温かい。
心底そう思う。
ふぁ、と欠伸が漏れた。
無理もない。なにせこの心地良さだ。
遠からず、私も眠りに落ちてしまうだろう。
だけど、そうなる前に言っておかなければならないことがある。
彼女の身体をぎゅっと抱きすくめて、耳元に唇を寄せる。
それからちょっと怒ったように溜息を吐いて、そうっと囁いた。
「唇にしてくれて良かったのに。早苗の鈍感」
口の中がゲロ甘です
春よ来い、早く来い
この霊夢の可愛さは完全にメーター振り切れてますね。
二人とも両想いなんだから、もっとイドの解放が必要だと思いますっ!
久々に甘いレイサナでした。