「今年は半月なのね」
妹紅が一人で桜を眺めていると、音も立てずに歩いてきた幽々子が空を見上げて言った。
幽々子が言った通り、空には半分の月があった。
「今年は雪もないわよ?」
妹紅は桜の木にもたれたまま桜を見る。視線の先にあるのは、妹紅が好きな八分咲の桜。
「なら、満月と雪のことを想いながら桜を見るしかないわね」
幽々子は妹紅と同じ桜の木にもたれた。
ーー去年と同じね。
妹紅は一人で思った。
違うのは、半月と雪が降っていないこと。
それだけだ。
幽々子は去年と変わらず、何も知らない瞳で桜を見ている。
その姿は、不死身の幽霊であるにも関わらず、人間のように儚げに見えた。
☆☆☆
薄い雲の隙間から、満月が白玉楼を照らしている。広大な庭を囲む桜は満開に咲き誇り、盛大な宴が行われていた。
宴の喧噪から離れ、妹紅は一人で桜の木にもたれていた。冬のような冷たい風に吹かれて花びらを散らすその桜は、白玉楼の中で唯一、八分咲の桜だった。
満月に満開の桜は出来すぎだと妹紅は思う。桜も中秋の名月と同じように、完全でない状態を見て想像する方が美しい。
「いや、桜はそもそも不完全なものか」
ふと思ったことが、言葉となった。
妹紅は改めて考える。
桜が美しいのは、ほんの一瞬の間だ。
その刹那の美が、昔から多くの人々に好まれる理由なのかもしれないが。
いつの時代も嫌われる、永遠の命を持つ自分とは正反対だ。
永遠の命を持ったところで、大した意味もない。
少なくとも、自分は人間よりは長い時間を生きているが、永遠の命が意味を持ったことはほとんどなかった。
人々は、妹紅から見れば一瞬で死んでいく。
その一瞬の中で、永遠が意味を持つことなどない。
ゆえに、永遠である自分にも意味はない。
「ずいぶん寂しい結論だ……」
妹紅は誰に言うでもなく言った。
感傷的になることは、妹紅にとって珍しいことではなかった。
長い間生きていれば、それゆえの悩みは生まれてくる。
まして今は桜の下にいるのだ。
古来、桜は人を狂わせると言われている。
感情を。肉体を。究極的には、人生を。
「貴方も桜は八分咲が好みで?」
突然声をかけられた。
まったく気配を感じられなかったのは、月や桜に心を捕らわれていたためだろう。
「中秋の名月と同じで、満開の桜を想像する方が美しいのよね」
月光を浴び、舞い散る桜を背景に話す西行寺幽々子の声は不思議な響きを持っていて、まるで妹紅の背中にある桜から響いているように聞こえた。
話しながら静かに歩く幽々子は、妹紅と同じ桜の木にもたれる。十六か十七くらいに見える少女は、桜と同じ色の髪を風になびかせ、幽霊らしく着物を左前にあわせている。
「花はさかりに、月はくまなきを見るものかは?」
妹紅は幽々子を見ずに、桜と月を見たまま尋ねた。深い理由はない。
「雨が降るのは困るけれどもね。いくら満開の桜や満月が美しいとは限らないと言っても」
「桜が散るから?」
「ただでさえ短い桜の花が、一夜で散ってしまったら、もののあわれを思う時間もないわ」
「違いない」
風に舞う桜を見ながら、妹紅は言った。
満月は相変わらず柔らかな光を注いで、桜の木々を照らしている。
隣の幽々子を盗み見ると、同じように桜と月を見ていた。その瞳には、長い間生きていた者だけが持つ光を秘めている。
しかしその光は、瞳の裏側に隠れていた。
幽々子は満月と桜に見入られていたから。
「よりによって、満月なんてね。この桜はまだ八分咲だから多少の風情があるけど」
満開の桜や、満月はやはり美しい。
美しいと感じることは、隣で風流を語る幽々子でも変わらないはずだ。
妹紅も満開の桜を見れば、やはり目を奪われる。八分咲の方が好きなのは、桜の美しさの問題ではなく、実際に見ることと、想像することのどちらを好むかという問題だ。
妹紅はどちらかというと想像する方が好きだった。
だから満月に照らされる桜という光景が目の前にあっても、さらに美しい情景を描いていた。
「今もなかなか美しいけど、雪が降ったらもっと美しいと思わない?」
「雪?」
思いがけない言葉だったのか、幽々子は小さく驚き、子供のような表情を見せた。
その姿は、なぜか満月に照らされた桜よりも魅力的だった。
理由はわからないけれども。
「雪月花ノ時ニ最モ君ヲ想フ、ってね。その3つが揃い踏み」
妹紅は慌てて幽々子から目をそらして有名な漢詩の一節を話すが、その内容に一瞬気持ちを乱した。
もっとも、「想フ」というのは恋愛感情ではない。忘れないという意味だ。
そのことを知っていた妹紅はすぐに冷静さを取り戻す。
「月雪花ね。確かに、綿雪が降ったら美しいとは思うわ」
「幽々子には、雪が降ったときに想う相手はいるの?」
「わたしにはいないわ。大切な相手は、ちゃんと近くにいるから。妹紅は?」
「わたしにも、いないわ」
妹紅はそれだけ言った。
口にだすと少し気分が沈む。
その様子に気づいたのか、幽々子も何も言ってこなかった。
今の幻想郷で知り合った大切な相手は確かにいる。
けれども、それよりも前に出会った大切な相手は皆死んだ。
そして、幻想郷の大切な相手も、いずれは死ぬ運命にある。
だから、必要以上には深入りしない方がいい。
永遠の命を持つ者としては、仕方がないことだ。
「そういえば、どうしてこの桜だけは八分咲なの?」
沈黙に耐えきれなくなって、妹紅は尋ねた。
実際に、気になっていたことではあるが。
「この桜はなぜか満開になったことがないのよね。西行妖と言うのだけど」
「さ、西行妖!?」
思わぬ言葉に、妹紅は目を丸くして固まった。
まさか、いまさらそんな言葉を聞くことになるなんて……。
「あら? 何か知っているのかしら? いろいろ調べてみたのだけれども、何者かが封印されていることしか分からないのよね。この桜が満開になれば、封印も解けるらしいのだけど」
幽々子は何も知らない無邪気な瞳を輝かせて言った。
西行妖は平安末期に伝説となった桜だ。
その時代、永遠の命を持つ妹紅は生きていた。
それは、歌聖と死を操る少女の桜をめぐる物語。
そして、目の前にいる西行の性を持ち、死を操る幽霊。
妹紅はこっそりとため息をつくと、桜を見上げた。
満月に照らされ花弁を散らす桜は、現実のものとは思えないほど美しい。
しかし、今起こっていることは現実だ
妹紅の頭の中には、たくさんのことが渦を巻いていた。
その中には、幽々子のことだけでなく、自分自身に関わることも含まれていた。
西行妖の物語は、わずかながら藤原の血も関わった物語なのだ。
平安末期。藤原秀郷の子孫に俗名を佐藤義清という男がいた。義清は武家の出身ではあったが風流を好み、若くして出家をして漂泊の旅を続けながら和歌を作った。
後に西行法師と呼ばれることになる義清は、桜を大いに好んだ。
願はくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの 望月のころ
義清は和歌を残し、一本の桜の木の下でその生涯を終えた。
しかし、これが悲劇の始まりだった。
義清の死に様に感銘を受けた歌人たちが、次々に同じ桜の木の下で命を絶っていったのだ。
やがて多くの人々の血を吸った桜は、人間を死に誘う妖力を持つようになり、西行法師の名を取って、西行妖と呼ばれるようになった。
時を同じくして、一人の少女がいた。義清の娘だったその少女は、偶然にも生まれながらにして死を操る力をもっていた。
なにも生み出すことのない、死を操る力を。
それゆえに彼女はその力を嫌った。
そして、同じように死を呼び寄せる妖怪桜を嫌った。
そんな少女が、桜を封じるために自らの命を利用するのは自然なことだったのかもしれない。
少女は自らの命を西行妖の下で絶ち、その身をもって妖怪桜を封じた。
以来、西行妖が満開になることはなかった。
歌聖と少女と桜の悲劇。
その物語は、平安の人々の間で語り継がれた。
そして、物語は当時を生きた妹紅の耳にも届いていた。
西行妖の話は、伝え聞いたものだ。実際にその場面を見たわけではない。
そして、西行妖の話が本当だったとしても、西行妖を鎮めた少女と、幽々子の関係もわからない。
さらに、幽々子と自分の関係もわからない。
幽々子との関係は、遠い血縁である可能性があるという程度だ。
もし、事実だったとしても、世襲などない幻想郷において、どんな意味があるのだろうか?
本当にわからないことだらけだ。
一つだけ思うのは、偶然が重なっただけと言うには、あまりにも出来すぎた話であること。そして、もし偶然ではなく真実だとしたら、自分は幽々子と多少なりとも向き合ってはならないということ。
けれども、
「いや、わかんない。西行って幽々子と同じ姓だから、驚いただけよ」
今はわからない。
だから、こう言った。
嘘ではない。
私は何がわからないとも言ってないし、驚いたことも事実だ。
「残念ね。驚いていたから、何か知っていると思ったのに。あら?」
幽々子は言葉通り残念そうにしていたが、不意に言葉を切ると空を見上げ、掌を空中に広げた。
月光に照らされた掌の上に、桜の花弁とともに真っ白な綿雪が落ちていた。雪は掌の上で瞬く間に溶けていく。
「本当に雪が降るなんてね。完璧なのは風情がないと思っていたけど…………。美しいわね」
八分咲の桜の下で語る幽々子は、透けるように儚げだった。
まるで、永遠の命を持った存在ではなく、刹那の時を生きる人間のように。
おそらく、幽々子のもっとも本質的な部分は桜のように刹那なものなのだろう。
それと比較したら、私や輝夜は月だ。
月は時に満ち、時に欠けても輝き続ける。
そんな私たちとは、幽々子は根本的に異なると思う。
だとしたら、なぜ同じ永遠の命を持つものなのに、幽々子は桜のように儚げなのだろうか。
その理由を、妹紅は知っている。
たとえ、幽々子が生前の記憶をなくし、知らなかったとしても。
でも。
本当は違うのかもしれない。
ただ私が突然の話に感傷的になっているだけの可能性もある。
幽々子は不死身の幽霊。
西行妖の話だって出来すぎだ。
偶然で済ませてしまえばいいじゃないか。
偶然で……。
「桜の下で満月と雪を見られるなんて、私たちは幸せものね」
堂々巡りを続ける妹紅の隣で、幽々子は桜が話しているような不思議な声で言った。
妹紅は焦点の合ってなかった視線をぼんやりと空に向ける。
その先には、八分咲の西行妖と満月。
そして。
冬のような冷たい風が吹き抜けて、花と綿雪が月光に透けて舞った。
その光景は、千年のときを生きた妹紅にとっても初めて見る光景だった。
偶然が重なってできた、奇跡のような光景。
もし、現実に見ていなかったら、他人に話されてもあり得ないと言ってしまうだろう。
結局、あり得ないことなんて、あり得ないのだ。
長い時を生きて、分かっていたつもりだが、理解はできていなかった。
けれどもそのことは、一瞬の情景と共に、妹紅の中に刻み込まれた。
それを見せてくれたのは、満月と綿雪、そして背後にある美しい桜だ。
ついさっきまで、永遠の命の意味を思い詰めていたが、妹紅は一つの答えを見つけた気がした。
まだまだ、自分には足りないことがあるし、長く生きてきた故にやらなくてはならないこともある。
その一つが、幽々子のことだ。
「また、西行妖を見に来てもいいかしら?」
「来たからと言って、月と雪があるとは限らないわよ?」
「葉桜だけで十分よ。今日はこんな奇跡を実際に見せてもらったんだから、次は想像で味わうわ」
「そうね。月雪花がそろうなんて、しばらくはないだろうから。今度そんな奇跡が起こるときには、西行妖についても、もう少しわかっているといいんだけれどもね」
「わたしも、そのころにはなにかわかっているかもね」
最後の言葉は、自分に言い聞かせた。
永遠の命を持つようになって、まだ千年。
そのうち結論を出せばいいと思えるほど、気長でもない。
とはいえ、いますぐにすべてを受け入れて答えを出すのは無理だ。
事の因果を理解したところで、そのあと自分がどのように行動するのかという問題がある。
自分と幽々子、そして西行妖の物語。
長い時を経た物語の結末を考えるには、それなりの時間がかかる。
でも、時間がたてば記憶は薄れ、考えないことが当たり前になってしまう。
だから妹紅は、月雪花の時には幽々子のことを考えようと決めた。
妹紅の決意は、その口から語られることはない。
永遠を生きる月のような少女の決意を、月雪花だけが静かに見つめていた。
妹紅が一人で桜を眺めていると、音も立てずに歩いてきた幽々子が空を見上げて言った。
幽々子が言った通り、空には半分の月があった。
「今年は雪もないわよ?」
妹紅は桜の木にもたれたまま桜を見る。視線の先にあるのは、妹紅が好きな八分咲の桜。
「なら、満月と雪のことを想いながら桜を見るしかないわね」
幽々子は妹紅と同じ桜の木にもたれた。
ーー去年と同じね。
妹紅は一人で思った。
違うのは、半月と雪が降っていないこと。
それだけだ。
幽々子は去年と変わらず、何も知らない瞳で桜を見ている。
その姿は、不死身の幽霊であるにも関わらず、人間のように儚げに見えた。
☆☆☆
薄い雲の隙間から、満月が白玉楼を照らしている。広大な庭を囲む桜は満開に咲き誇り、盛大な宴が行われていた。
宴の喧噪から離れ、妹紅は一人で桜の木にもたれていた。冬のような冷たい風に吹かれて花びらを散らすその桜は、白玉楼の中で唯一、八分咲の桜だった。
満月に満開の桜は出来すぎだと妹紅は思う。桜も中秋の名月と同じように、完全でない状態を見て想像する方が美しい。
「いや、桜はそもそも不完全なものか」
ふと思ったことが、言葉となった。
妹紅は改めて考える。
桜が美しいのは、ほんの一瞬の間だ。
その刹那の美が、昔から多くの人々に好まれる理由なのかもしれないが。
いつの時代も嫌われる、永遠の命を持つ自分とは正反対だ。
永遠の命を持ったところで、大した意味もない。
少なくとも、自分は人間よりは長い時間を生きているが、永遠の命が意味を持ったことはほとんどなかった。
人々は、妹紅から見れば一瞬で死んでいく。
その一瞬の中で、永遠が意味を持つことなどない。
ゆえに、永遠である自分にも意味はない。
「ずいぶん寂しい結論だ……」
妹紅は誰に言うでもなく言った。
感傷的になることは、妹紅にとって珍しいことではなかった。
長い間生きていれば、それゆえの悩みは生まれてくる。
まして今は桜の下にいるのだ。
古来、桜は人を狂わせると言われている。
感情を。肉体を。究極的には、人生を。
「貴方も桜は八分咲が好みで?」
突然声をかけられた。
まったく気配を感じられなかったのは、月や桜に心を捕らわれていたためだろう。
「中秋の名月と同じで、満開の桜を想像する方が美しいのよね」
月光を浴び、舞い散る桜を背景に話す西行寺幽々子の声は不思議な響きを持っていて、まるで妹紅の背中にある桜から響いているように聞こえた。
話しながら静かに歩く幽々子は、妹紅と同じ桜の木にもたれる。十六か十七くらいに見える少女は、桜と同じ色の髪を風になびかせ、幽霊らしく着物を左前にあわせている。
「花はさかりに、月はくまなきを見るものかは?」
妹紅は幽々子を見ずに、桜と月を見たまま尋ねた。深い理由はない。
「雨が降るのは困るけれどもね。いくら満開の桜や満月が美しいとは限らないと言っても」
「桜が散るから?」
「ただでさえ短い桜の花が、一夜で散ってしまったら、もののあわれを思う時間もないわ」
「違いない」
風に舞う桜を見ながら、妹紅は言った。
満月は相変わらず柔らかな光を注いで、桜の木々を照らしている。
隣の幽々子を盗み見ると、同じように桜と月を見ていた。その瞳には、長い間生きていた者だけが持つ光を秘めている。
しかしその光は、瞳の裏側に隠れていた。
幽々子は満月と桜に見入られていたから。
「よりによって、満月なんてね。この桜はまだ八分咲だから多少の風情があるけど」
満開の桜や、満月はやはり美しい。
美しいと感じることは、隣で風流を語る幽々子でも変わらないはずだ。
妹紅も満開の桜を見れば、やはり目を奪われる。八分咲の方が好きなのは、桜の美しさの問題ではなく、実際に見ることと、想像することのどちらを好むかという問題だ。
妹紅はどちらかというと想像する方が好きだった。
だから満月に照らされる桜という光景が目の前にあっても、さらに美しい情景を描いていた。
「今もなかなか美しいけど、雪が降ったらもっと美しいと思わない?」
「雪?」
思いがけない言葉だったのか、幽々子は小さく驚き、子供のような表情を見せた。
その姿は、なぜか満月に照らされた桜よりも魅力的だった。
理由はわからないけれども。
「雪月花ノ時ニ最モ君ヲ想フ、ってね。その3つが揃い踏み」
妹紅は慌てて幽々子から目をそらして有名な漢詩の一節を話すが、その内容に一瞬気持ちを乱した。
もっとも、「想フ」というのは恋愛感情ではない。忘れないという意味だ。
そのことを知っていた妹紅はすぐに冷静さを取り戻す。
「月雪花ね。確かに、綿雪が降ったら美しいとは思うわ」
「幽々子には、雪が降ったときに想う相手はいるの?」
「わたしにはいないわ。大切な相手は、ちゃんと近くにいるから。妹紅は?」
「わたしにも、いないわ」
妹紅はそれだけ言った。
口にだすと少し気分が沈む。
その様子に気づいたのか、幽々子も何も言ってこなかった。
今の幻想郷で知り合った大切な相手は確かにいる。
けれども、それよりも前に出会った大切な相手は皆死んだ。
そして、幻想郷の大切な相手も、いずれは死ぬ運命にある。
だから、必要以上には深入りしない方がいい。
永遠の命を持つ者としては、仕方がないことだ。
「そういえば、どうしてこの桜だけは八分咲なの?」
沈黙に耐えきれなくなって、妹紅は尋ねた。
実際に、気になっていたことではあるが。
「この桜はなぜか満開になったことがないのよね。西行妖と言うのだけど」
「さ、西行妖!?」
思わぬ言葉に、妹紅は目を丸くして固まった。
まさか、いまさらそんな言葉を聞くことになるなんて……。
「あら? 何か知っているのかしら? いろいろ調べてみたのだけれども、何者かが封印されていることしか分からないのよね。この桜が満開になれば、封印も解けるらしいのだけど」
幽々子は何も知らない無邪気な瞳を輝かせて言った。
西行妖は平安末期に伝説となった桜だ。
その時代、永遠の命を持つ妹紅は生きていた。
それは、歌聖と死を操る少女の桜をめぐる物語。
そして、目の前にいる西行の性を持ち、死を操る幽霊。
妹紅はこっそりとため息をつくと、桜を見上げた。
満月に照らされ花弁を散らす桜は、現実のものとは思えないほど美しい。
しかし、今起こっていることは現実だ
妹紅の頭の中には、たくさんのことが渦を巻いていた。
その中には、幽々子のことだけでなく、自分自身に関わることも含まれていた。
西行妖の物語は、わずかながら藤原の血も関わった物語なのだ。
平安末期。藤原秀郷の子孫に俗名を佐藤義清という男がいた。義清は武家の出身ではあったが風流を好み、若くして出家をして漂泊の旅を続けながら和歌を作った。
後に西行法師と呼ばれることになる義清は、桜を大いに好んだ。
願はくは 花のしたにて 春しなん そのきさらぎの 望月のころ
義清は和歌を残し、一本の桜の木の下でその生涯を終えた。
しかし、これが悲劇の始まりだった。
義清の死に様に感銘を受けた歌人たちが、次々に同じ桜の木の下で命を絶っていったのだ。
やがて多くの人々の血を吸った桜は、人間を死に誘う妖力を持つようになり、西行法師の名を取って、西行妖と呼ばれるようになった。
時を同じくして、一人の少女がいた。義清の娘だったその少女は、偶然にも生まれながらにして死を操る力をもっていた。
なにも生み出すことのない、死を操る力を。
それゆえに彼女はその力を嫌った。
そして、同じように死を呼び寄せる妖怪桜を嫌った。
そんな少女が、桜を封じるために自らの命を利用するのは自然なことだったのかもしれない。
少女は自らの命を西行妖の下で絶ち、その身をもって妖怪桜を封じた。
以来、西行妖が満開になることはなかった。
歌聖と少女と桜の悲劇。
その物語は、平安の人々の間で語り継がれた。
そして、物語は当時を生きた妹紅の耳にも届いていた。
西行妖の話は、伝え聞いたものだ。実際にその場面を見たわけではない。
そして、西行妖の話が本当だったとしても、西行妖を鎮めた少女と、幽々子の関係もわからない。
さらに、幽々子と自分の関係もわからない。
幽々子との関係は、遠い血縁である可能性があるという程度だ。
もし、事実だったとしても、世襲などない幻想郷において、どんな意味があるのだろうか?
本当にわからないことだらけだ。
一つだけ思うのは、偶然が重なっただけと言うには、あまりにも出来すぎた話であること。そして、もし偶然ではなく真実だとしたら、自分は幽々子と多少なりとも向き合ってはならないということ。
けれども、
「いや、わかんない。西行って幽々子と同じ姓だから、驚いただけよ」
今はわからない。
だから、こう言った。
嘘ではない。
私は何がわからないとも言ってないし、驚いたことも事実だ。
「残念ね。驚いていたから、何か知っていると思ったのに。あら?」
幽々子は言葉通り残念そうにしていたが、不意に言葉を切ると空を見上げ、掌を空中に広げた。
月光に照らされた掌の上に、桜の花弁とともに真っ白な綿雪が落ちていた。雪は掌の上で瞬く間に溶けていく。
「本当に雪が降るなんてね。完璧なのは風情がないと思っていたけど…………。美しいわね」
八分咲の桜の下で語る幽々子は、透けるように儚げだった。
まるで、永遠の命を持った存在ではなく、刹那の時を生きる人間のように。
おそらく、幽々子のもっとも本質的な部分は桜のように刹那なものなのだろう。
それと比較したら、私や輝夜は月だ。
月は時に満ち、時に欠けても輝き続ける。
そんな私たちとは、幽々子は根本的に異なると思う。
だとしたら、なぜ同じ永遠の命を持つものなのに、幽々子は桜のように儚げなのだろうか。
その理由を、妹紅は知っている。
たとえ、幽々子が生前の記憶をなくし、知らなかったとしても。
でも。
本当は違うのかもしれない。
ただ私が突然の話に感傷的になっているだけの可能性もある。
幽々子は不死身の幽霊。
西行妖の話だって出来すぎだ。
偶然で済ませてしまえばいいじゃないか。
偶然で……。
「桜の下で満月と雪を見られるなんて、私たちは幸せものね」
堂々巡りを続ける妹紅の隣で、幽々子は桜が話しているような不思議な声で言った。
妹紅は焦点の合ってなかった視線をぼんやりと空に向ける。
その先には、八分咲の西行妖と満月。
そして。
冬のような冷たい風が吹き抜けて、花と綿雪が月光に透けて舞った。
その光景は、千年のときを生きた妹紅にとっても初めて見る光景だった。
偶然が重なってできた、奇跡のような光景。
もし、現実に見ていなかったら、他人に話されてもあり得ないと言ってしまうだろう。
結局、あり得ないことなんて、あり得ないのだ。
長い時を生きて、分かっていたつもりだが、理解はできていなかった。
けれどもそのことは、一瞬の情景と共に、妹紅の中に刻み込まれた。
それを見せてくれたのは、満月と綿雪、そして背後にある美しい桜だ。
ついさっきまで、永遠の命の意味を思い詰めていたが、妹紅は一つの答えを見つけた気がした。
まだまだ、自分には足りないことがあるし、長く生きてきた故にやらなくてはならないこともある。
その一つが、幽々子のことだ。
「また、西行妖を見に来てもいいかしら?」
「来たからと言って、月と雪があるとは限らないわよ?」
「葉桜だけで十分よ。今日はこんな奇跡を実際に見せてもらったんだから、次は想像で味わうわ」
「そうね。月雪花がそろうなんて、しばらくはないだろうから。今度そんな奇跡が起こるときには、西行妖についても、もう少しわかっているといいんだけれどもね」
「わたしも、そのころにはなにかわかっているかもね」
最後の言葉は、自分に言い聞かせた。
永遠の命を持つようになって、まだ千年。
そのうち結論を出せばいいと思えるほど、気長でもない。
とはいえ、いますぐにすべてを受け入れて答えを出すのは無理だ。
事の因果を理解したところで、そのあと自分がどのように行動するのかという問題がある。
自分と幽々子、そして西行妖の物語。
長い時を経た物語の結末を考えるには、それなりの時間がかかる。
でも、時間がたてば記憶は薄れ、考えないことが当たり前になってしまう。
だから妹紅は、月雪花の時には幽々子のことを考えようと決めた。
妹紅の決意は、その口から語られることはない。
永遠を生きる月のような少女の決意を、月雪花だけが静かに見つめていた。
永遠と刹那は妹紅にとって命題になりそう。