「わたし、ちょっと酔いを冷ましてきますね」
「はいはーい」
となりの幽々子に律儀に断りを入れて、妖夢は席を立った。
博麗神社の恒例の宴会の喧騒を背中で聴きながら、縁側に出る。
そのあとを、ふよふよと半霊がついていった。
「ふぅ……」
火照った頬に、夜風が心地いい。
かなり酔いが回っていたが、しばらく大人しくしていると落ち着いてきた。
と、悪酔いなどとは比べ物にならない異様な感覚が妖夢を襲った。
「みょんぎゃあああああ!!」
闇夜をつんざく悲鳴。
慌ててとなりを見てみると、ふよふよ浮かんでいる半霊になんか黒くてちまいのがかぶりついている。
「こらー! いきなりなにするのー!」
「んみ?」
その黒くてちまいのは、ぼへーっとした顔でぷんぷん怒っている妖夢を見上げた。
多分妖怪の類だということは雰囲気でわかるが、金髪に赤いリボンをつけたその黒いのは、そこらの子供と変わらないように見える。
「い、いきなり人の半分に噛み付くとかなに考えてるのー!」
「んみゃ?」
妖夢の怒声に、その黒いのはきょとんと小首をかしげている。ちょっとかわいい。
でも、どうにも話を理解しているふうではないので、もう一度叱ってやろうとした瞬間。
「ガブリ」
「みょんぎゃあああああ!!」
再び悲鳴。
誰も助けに来ないことを恨みながら、妖夢は半霊にへばりついている黒いのを引っペがした。
黒いのは酔っ払っているのか、「みゃー」とかいう気の抜けた声を上げて廊下に伸びている。
「な……なにこの子……あー歯型ついてるう!」
無残な姿になった半霊をさすりながら、妖夢は廊下に伸びている黒いのに目をやった。
ぴょこんと顔を上げた黒いのと目が合う。
「ねーねー」
「な、なに」
「なんでそこのわらびもちぱっくんしたらおねーさんがぎゃーなの?」
容姿と同じく幼い口調でそう言うので、妖夢も自然と小さい子に接する口調になる。
「あ、あのね、これはわらびもちじゃなくてわたしの半分なの。わかる? だから食べちゃダメ」
「そーなのかー」
「ほんとにわかってるのかなこの子……」
「……」
「……」
のほほーんとした顔の黒いのと妖夢はなぜか無言でにらみ合う形になってしまった。
黒いのはじーっと妖夢を見つめている……いや、違う。
妖夢が抱きかかえている半霊に視線を据えているのだ。
「……じゅるり」
「……」
「きなこ……黒蜜……」
不穏な言葉とよだれを口から漏らしている黒いのの瞳には、もはや隠しようもない殺気が――。
「ちょっと妖夢、あんたさっきからどたばたみょんみょんうるさいわよ」
ふすまが開いて現れたのは、相当飲んでいるのか座った目をした霊夢だった。
こういう状態の霊夢はあまり近寄りたくないが、そうも言っていられない。
「霊夢ー! 助けてくださいー! 食べられちゃうー!」
「あーん?」
じろりと黒いのに一瞥をくれて、霊夢はそいつを猫の子のようにつまみ上げた。
「なんだルーミアか……。こらあんた、神社で半分とはいえ人間襲うとかやめてよね」
「えーだってー、おいしそーだったからー」
ぷらーんとつまみあげられた黒いのは、ルーミアという名前らしい。
ぱたぱたしながら言い訳しているルーミアを、霊夢はぽいっと妖夢に投げてよこした。
慌てて反射的に受け止める妖夢。
「ま、そんな簡単に食べられる心配はないんじゃないの? 妖怪って言ってもそのへんの子供とあんまり変わんないわよ。じゃ、わたしは戻るからね」
「あ、ちょっと霊夢!」
そんな無責任なことを言いながら、霊夢はさっさと部屋に戻ってしまった。
残された妖夢は、受け止めたルーミアを見下ろす。
「すかぴー」
寝ていた。
「え、ちょっとこれ、どうすれば……」
妖夢の困惑をよそに、その膝でのんきな顔で寝ている黒いの――宵闇の妖怪・ルーミアは、むにゃむにゃと寝言を漏らした。
ひどい目にあった宴会から数日後。
妖夢は食材の買い込みに、人里を訪れていた。
屋台の呼び込みに、往来を走り回る子供達。
人里はいつ来ても活気に満ちている。
その、白昼の中。大木の根元。
そこだけ夜に取り残されたように、ぽつんと黒い、闇があった。
闇の中から、それはずるりと姿を現した。
「あー、みょんちゃんだー」
「みょん……ちゃん?」
闇の中からのへーっとした顔を出しているのは、誰あろう妖夢の半霊に未だ癒えぬ傷を刻み込んだ恐るべき宵闇の妖怪。
「あの、ルーミアちゃん、だっけ? そのみょんちゃんって、わたしのこと?」
そう尋ねるとルーミアは、ちんまりとした指先で妖夢を指さした。
「うん、みょんちゃん」
「あの、わたしの名前は妖夢って……」
「ねーねー、みょんちゃん」
「話聞かないなあこの子……」
異様にマイペースなこのちまいのに、妖夢はペースを乱されてしまう。
正直ペースを乱されるのはいつものことなのだが、こんな小さな子相手にそんな風になってしまうとは。
己の未熟を恥じつつ、妖夢はなんとか会話を続けようと試みた。
「えっと、ルーミアちゃん? わたしの名前は魂魄……」
「みょんちゃんは食べてもいいわらびもち?」
「ひぃっ!?」
トラウマを刺激され、反射的に半霊を抱きかかえて後ずさる。
図らずもあの夜と同じ構図。張り詰める緊張。
日常の中にあって、そこだけが切り取られたように別の空気をまとっている。
「ねーね、食べてもいーい?」
ちょこんと小首をかしげるその仕草は、可愛いか可愛くないかで言えばもちろん可愛いのだが妖夢は恐怖に囚われてそれどころではない。
ルーミアはじりじりと間合いを詰めてくる。
その無邪気な笑顔こそが、どんな魔物よりも恐ろしい。
その牙に捉えられる寸前に妖夢を動かしたのは、その四肢に染み込んだ剣士としての本能だった。
右手が素早く左腰に伸びる。
妖夢の肉体は主に命ぜられるまでもなく、抜刀の動作を取っていた。
「これっ!」
「んみ?」
切っ先の代わりにルーミアの眼前に突きつけられたのは、香ばしい香りを放つたい焼き。
帰ったあとのお楽しみとして取っておいたが、命には変えられない。
「こ、これあげるから。ね?」
「ほんとー?」
「ほ、ほんとほんと」
ルーミアは目を輝かせている。どうやら半霊から意識をそらすことには成功したと見てよさそうだ。
妖夢が差し出したたい焼きに、ルーミアはぱくっとかぶりついた。
「んー、おいしー♪」
ああ、良かった。助かった。
屋台のおじさん、ありがとう。
あなたの厳しい修行のもとに生み出されたおいしいたい焼き(つぶあん)が今、一人の少女の命を救いみょんぎゃあああああっ!?
「あもあも」
「こらー!? わたしの手まで食べちゃダメでしょー!?」
延命はほんの数十秒だった。
差し出したたい焼きは慈悲なき妖怪の前に瞬時に平らげられ、今や妖夢の右手は無残に噛み砕かれようとしている。
「ちょっとー!? 放しなさい! 誰かっ、誰か助けてっ! たーべられちゃうぞー!!」
「もぐもぐ」
ルーミアにかぶりつかれた右手をぶんぶん振り回しながら妖夢は泣き叫ぶが、周囲の通行人たちは慈愛の眼差しで見守るばかり。
やっとのことで引っペがすと、妖夢はぜえぜえ言いながらルーミアから後ずさる。
「おいしかったー♪」
「おいしかったってどっちのことなの……」
ルーミアは満足気だが、いつまた襲ってくるともわからない。
半霊を背中に隠しながら、ずりずりと後ずさる。
そんな妖夢に、ルーミアはてててっと小走りに駆け寄ってきた。
思わず身をすくませる妖夢に、ルーミアはぺこりとお辞儀。
「たい焼き、ごちそーさまでしたっ!」
「……あ、えっと、どういたしまして」
罪のないルーミアの笑顔に、妖夢は思わずそう返してしまう。
「そんじゃ、るーみゃは帰ります。またねー!」
「え、あ、うん……」
ふよふよとそれに帰っていくルーミアの後ろ姿を、妖夢はぼんやりと眺めていた。
「……ん? あの子、またねって言った?」
「……とまあ、そういうことがありまして」
「あらまあ、そうなの」
夕刻、白玉楼。
夕飯の席で、妖夢はうんざり顔で主である幽々子に今日のことを報告していた。
それを幽々子は、くすくす笑いながら聞いている。
「そう言えば、ちょっと前に行った博麗神社の宴会で、あなた半霊に歯型つけられてたわよねぇ」
「そうなんですよー……。それでなんか、付け狙われちゃって」
「んふぅ♪ 妖夢ったらぁ、もてもてね」
「笑い事じゃないですよほんとに……今日なんかたい焼きあげたら手まで食べられそうになっちゃったんですから」
「あら、早速餌付け? も~妖夢ったら手が早いんだからぁ」
「そんなんじゃないですって……」
茶化す幽々子に、妖夢はため息で答えた。
「まあでも、分かる気もするわね」
「はい? 何がです?」
妖夢の問いには答えず、かたりと箸を置いた幽々子は妖夢の傍らにふよふよ浮いている半霊に目をやる。
途端、妖夢の全身を戦慄が走りぬけた。
「ちょ、あの、幽々子さま?」
「きなこ……黒蜜……」
どこかで聞いたような不穏な台詞を艶然と笑みを刻む唇からこぼしながら、幽々子はゆらりと立ち上がった。
後ずさる妖夢。しかし遅い。
哀れ、すでに半霊は幽々子の手に落ちていた。
「一度味わいたいと思っていたのよ……ゴーストとやらをね……!」
幽々子の双眸はすでに常ならぬ光を帯びていた。
「このもちもち具合といいぷにぷに具合といい、もう誘ってるとしか思えないわ……うふ、うふ、うふふふふふ……」
「ちょ、幽々子さま待って!」
「……だめ?」
「ううッ!! そ、そんな上目遣い+小首傾げ+困り顔の3コンボごときではわたしは半分くらいしか堕ちませんからね!」
「ちッ」
「今『ちッ』って言った! 今『ちッ』って言った!」
「……言ってないわよ~?」
素知らぬ顔でごまかす幽々子。しかし半霊は離さない。
ぬぐぐぐ、と幽々子の一挙手一答足を凝視する妖夢。
一瞬でも目を離したが最後、一瞬で丸呑みにされてしまうのは必定だ。
両者のあいだに火花が散り、穏やかな夕餉の空気は刃のように張り詰め始める。
「……今日のところは、やめておきましょう」
沈黙を破ったのは、幽々子の方からだった。
解放された半霊が、ふよふよと妖夢の方に戻ってくる。
「あの、ほんとやめてくださいよ幽々子さま……」
「ええ、私も悪かったわ……あんまり美味しそうだから、ついフラフラと……。亡霊の身でありながら、未だに現世の欲に縛られているのね……」
よよよ、と泣き崩れる幽々子に、ほんの一瞬――しかし、致命的な空隙が妖夢に生じた。刹那!
「もがふっ!?」
抵抗する間もなかった。
いつの間にか妖夢は、幽々子の胸に抱きすくめられていた。
豊かな胸の谷間からようやく顔を上げると、幽々子と目が合った。
「ひぃっ!? なんで狩る者の目!?」
「ふふふ……半霊はやめておいてあげる。その代わり……」
ぎらり、と亡霊姫の双眸が、妖気漂う光を帯びる。
頬に添えられた手の感触が、妖夢の背筋を震え上がらせた。
「本体の方を、いただこうかしらね――!」
夜の静謐を引き裂く悲鳴が、白玉楼に響いた。
そして、数刻後。
着衣の乱れた姿で、妖夢はようやく自室へとたどり着いた。
「ううう……もぉお嫁にいけない……」
そのまま頭から枕に突っ込む。もう着替える気力すら残ってはいない。
ダメだ。
精神的ストレスはもはや限界値に達している。
見れば、半霊もなんだかところどころしなびている気がする。
明かりを消すが、眠気はなかなかやってこない。
それというのも、あの黒いののせいだ。
幽々子のいたずらはまあ日常茶飯事なのでいいとして、あの黒いのは子供な分加減を知らなさそう。
今度うっかり隙を見せようものなら……!
「うひぃぃ……ぜったい見つからないようにしなきゃ……」
布団の中で身を縮こまらせる妖夢だが、実は別の思いもあった。
(小さい子に、あんなに懐かれるの、初めてだったな……)
一度人里からの依頼で、子供たちに剣道の稽古をつけてくれるよう頼まれたことがある。
自身の未熟から一度は辞退した妖夢だったが、結局押し切られる形で稽古に行くことになった。
そしてその結果は……。
(はぁ……)
今思い出しても、その出来事は妖夢の小さな胸を責めさいなむ。
最初は辞退したものの、やはり誰かから頼られるのはとても嬉しく、妖夢は張り切って出かけていったのだが……。
あまりに本気の稽古をしすぎて、子供たちからはすっかり嫌われてしまったのだ。
今でも人里へ買い物に行ったときに、その時の子供たちは妖夢の姿を見るなり逃げ出してしまう始末。
そんなことがあって、妖夢はすっかり子供が苦手になってしまっていたのだ。
しかし、あのルーミアという子は、そんな妖夢に一方的かつほとんど捕食対象としてではあったがなついてくれた。
困惑はしたものの、それは決して妖夢にとって不快な出来事ではなかったのだ。
まぶたを閉じて、あののんきな笑顔を思い出す。
(みょんちゃん、なんて呼ばれたの、初めてだったな……)
頭からかぶった布団の中に、妖夢はため息をひとつこぼした。
「みょんちゃん、みょんちゃん」
「ひぃっ!?」
数日後。
妖夢がいつものように白玉楼の階段掃除をしていると、後ろから小さな指先で背中をつつかれた。
思わず後ずさる妖夢。
そこには、妖夢の心の奥底に二度とは消えぬトラウマを刻み込んだ恐るべき妖怪の姿があった。
「なにしてるのー」
あいかわらずののほほーんとした顔で、ルーミアは妖夢の顔を覗き込む。
とりあえず、ぎこちなく返事を返す。
「え、あ……お、お庭の掃除してるんだけど……」
「そーなのかー」
「っていうか、ルーミアちゃんなんでこんなとこに?」
「んーとねぇ」
そう言いながら、ルーミアは手に持っていた袋をごそごそと漁っている。
そして、たい焼きを取り出した。
「はい、これー」
「え……?」
事情が飲み込めない妖夢の鼻先に、ルーミアはずいっとたい焼きを突きつけた。
ちょっと冷めてはいたが、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「こないだのお礼ー」
言われてようやく思い当たった。
何日か前の、人里での出来事だ。
確かにあの時、妖夢はルーミアにたい焼きを上げたが……わざわざその時のお礼に来てくれたのだろうか。
「あ……ありがと」
困惑しながらも妖夢は、たい焼きを受け取った。
それを見たルーミアは、にこっと笑って自分の分のたい焼きを取り出す。
「いただきまーす♪」
「い、いただきます……」
階段にちょこんと腰を下ろして、おいしそうにたい焼きをぱくぱく食べているルーミアを横目で見ながら、妖夢もまたたい焼きをひと口。
こんな場所でたい焼きを食べたのは初めてで、誰かと食べたのも初めて。
何か特別な行為をしているようで、落ち着かない。
「みょんちゃん、おいし? おいし?」
「わあ!」
いきなり、ルーミアが目の前に顔を突き出してきた。
端っこにあんこのついた口が触れそうになって、妖夢は思わず顔を赤くする。
そんな妖夢に構わず、ルーミアはほとんど抱きつくようにしてせっついてきた。
「ねーえ、みょんちゃん、たい焼き、おいし?」
「う……うん、美味しい、よ」
本当は混乱して味などわからなかったが、妖夢はなんとかそれだけの言葉を絞り出した。
「にゃはーっ♪」
妖夢の返事がそんなに嬉しかったのか、ルーミアは満面の笑みを浮かべた。
そんなルーミアに、妖夢は困惑と嬉しさとが入り混じった、なんだかよくわからない感情を覚えた。
初めて感じる種類の感情だった。
思えば、この子がここに来てから、初めてづくしだ。
誰かから何かをもらったのも、こんな小さな子になつかれたのも、誰かとここでたい焼きを食べるのも。
(そう言えば、半霊に歯型付けられたのも初めてだっけ……)
そんなことを思うと、自然に笑いがこみ上げてきた。
「んー? なに笑ってるのー?」
「え? ううん、なんでもないよ」
「そーなのかー」
もしゃもしゃたい焼きを食べているルーミアを見ていると、なんだか微笑ましい気持ちになる。
年の離れた妹がいたら、こんな感じなんだろうか。
「ねーねー、みょんちゃん」
なんだか、この「みょんちゃん」呼びも悪くない気がしてきた。
あだ名で呼ばれるのが妙に新鮮に思える。
「なあに?」
「さわってもいーい?」
「へ!? な、ナニをっ!?」
突然のおねだりに、妖夢は反射的にのけぞる。
ルーミアが指さしているのは、案の定というかなんというか、半霊だった。
ややためらってから、妖夢は恐る恐る半霊を差し出した。
「あ、あの、ルーミアちゃん、食べちゃダメだからね?」
「……………………うん、るーみゃ、ちゃんとわかってるよ?」
「今の間はなに!?」
それでも妖夢は、断るのもなんだか悪い気がして、結局半霊を渡してしまった。
ルーミアは嬉しそうに半霊を受け取ると、ぎゅーっと抱きしめた。
「ひゃー、むにむにー♪」
この世の春と言わんばかりの顔で、ルーミアは半霊にほっぺたをすり寄せる。
そのままガブリと行かれないか気が気でない妖夢。
冷や汗たらたらで成り行きを見守っていると、ふと体が暖かいのに気がついた。
(……? これ……)
妖夢とその半霊とは感覚がつながっている。
そのぬくもりは、ルーミアの体温なのだった。
半霊に抱きついているルーミアを見ると、ルーミアもこっちを見ていた。
「えへへへー、ぷにぷにー♪」
屈託のない笑顔を向けるルーミアのその体温を、いま自分が感じていることを意識すると、もう顔が赤くなるのを止めることはできなかった。
「んみ? みょんちゃん顔赤いよ? どしたの?」
「な、なんでもないって……」
しどろもどろにそう答える妖夢を不思議そうに見上げていたルーミアは、ひょいと半霊を妖夢に返した。
反射的に歯形を確認するが、幸いというべきか、無事なようだ。
「ふぃー、たんのーしたー♪」
「そ、そう……お粗末さまでした……」
満足げな顔をしているルーミアから半霊を受け取った妖夢の顔はまだ赤い。
そんな妖夢の目の前に、にゅっとルーミアが頭を突き出した。
「はい、どーぞ」
「どーぞって……な、なに?」
「お返し」
「お返し?」
「うん。わらびもちさわらせてくれたから、そのお返しー。ルーミアのこと、さわっていーよ?」
「え、えええー……!?」
唐突な提案に、妖夢はさらに顔を赤くした。
いきなりそんなことを言われても、どうしていいかわからない。
「ほれほれ」
「えええー……じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
混乱したまま妖夢は、言われるままにルーミアの頭に手を置いた。
小さなこの頭を撫でたことなどない妖夢は、たったこれだけのことでもひどく緊張してしまう。
ルーミアの金髪は見た目と同じでふわふわで、いかにも繊細なものに見えた。
大切なものを扱う仕草で、妖夢はゆっくりとルーミアの頭を撫でる。
ルーミアの顔を覗き込むと、子猫のように目を細めて気持ちよさそうにしていた。ほっとする妖夢。
「みゃ~……」
何を話すでもなく、こうしてルーミアの頭を撫でていると、なんだかひどく穏やかな気持ちになってくる。
さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
「……きもち、いい?」
そんな言葉が、自然とこぼれ出た。
妖夢を見上げて、ルーミアは無邪気に笑う。
「えへへー♪ なでなでしてもらうの、すきー♪」
とんでもない出会い方ではあったが、妖夢は素直にこの小さな妖怪との出会いを嬉しく思っていた、
今まで色んな人妖と関わってきたが、こんな相手は……はじめてだった。
周りを見れば、冥界の姫に強大な力を持つスキマ妖怪、博麗の巫女……そして、あまりにも偉大な、自分の師。
あまりも強大な力を持つ者たちのそばにいれば自分の無力さ、未熟さを痛感させられ、幼い子供たちには怖がられ。
そういった中で、この小さな妖怪のとなりは、なぜだか妖夢に不思議な安らぎをもたらしてくれていた。
「ね、ルーミアちゃん」
「んみ? なーに?」
「……あ、ありがと」
ルーミアは不思議そうな顔をしていたが、妖夢が顔を赤くして視線をそらすと、にへっと笑った。
「ねーね、みょんちゃん」
「うん?」
「頭だけじゃなくてね、ほかのとこもなでなでしてほしいなー」
「ほっ、ほかのとこっ!?」
「うんっ。ほぉらー」
「あっ、あ……」
小さな手でルーミアは妖夢の手を取り、自分のほほにあてがった。
子供特有の柔らかさと暖かさに、妖夢は戸惑う。
「えへへー、ぷにぷにでしょー?」
「う、うん……」
こんなふうに他人に触れたのも、初めてのことだった。
ルーミアと出会ってから、なんだか初めてのことばかりだ。
それが嬉しくて、おかしくて、妖夢は柔らかく笑った。
ルーミアも、それに合わせて笑った。
「みょんちゃん、もっとぉ……もっとぷにぷに、してー……?」
どこか陶然とした声音のルーミアのおねだりに、妖夢はもう従うしかなかった。
「よーむー? よーむー、ごはんまぁだー?」
と、上の方から幽々子の声が聞こえた。
ルーミアと話しているのが楽しくて、庭掃除とそのあとの食事の支度をすっかり忘れていた。
「す、すいません幽々子さま! 今すぐ……」
そう言いかけて妖夢はルーミアのことに思い至った。なんと説明したものか。
まあ、友達だと言えば済む話だ。
そう言えば……。
(幽々子さまに友達紹介するのなんて……はじめて、だな……)
胸の奥が、ぽっと熱くなった気がする。
「あのっ、幽々子さま。この子はルーミアって言って……」
そう言いかけて、妖夢の言葉は断ち切られた。
妖夢の言葉を断ち切ったのは、幽々子の表情だった。
片袖で口元を隠しているが、その口元には笑みが浮かんでいるのは明らかだった。
――そう、嗜虐の笑みが。
「……あらぁ? あらあらあらぁ……?」
いけない。これはまずい。
間違いなくネタにされる。今すぐ、今すぐ阻止しなければ!
幽々子さまこれは違うんですこの子はただの友達なんです! そう言って止めなくてはならない!
「幽々子さまこれはッ」
「ああ……妖夢にもついに春が来たのね!? ゆゆこうれしいっ! しかも相手は金髪ょぅι゛ょとかレベル高いわ妖夢! 妖忌も草葉の陰でダブルピースよ!」
「ちょっと待ってください幽々子さまは致命的な勘違いをですね」
「皆まで言う必要はないわ妖夢! ゆゆこ全部わかってる! いいのよ食事の用意なんて後回しで、遠慮なくイチャイチャネチョネチョするがいいわ!」
「ねーねーみょんちゃん、ネチョネチョってなーに?」
「やめてえっ! 穢れを知らない純真な瞳でそういう種類の質問をするのはッ! そういう質問は匿名で紅魔館の紫もやしのMAHOO知恵袋に投稿して!」
「妖夢、そこはやっぱりあなた自身が手とり足取り教えて上げるのがいいんじゃないかしら?」
「幽々子さまは黙ってて!」
「あ、そうだわ! この記念すべき瞬間を後世に残さなくちゃ! ほーらふたりともぴーすぴーす♪」
「えへへー、ぴーすー♪」
「幽々子さまそのカメラどっから出したんですか!? あとルーミアちゃんもあっさり乗せられない!」
刀の柄に手がかかるのを、妖夢は全力でこらえるが限界が近い。
ルーミアはそんな妖夢の事などお構いなしに、ぐいぐいと袖を引っ張っている。
「ねーねーみょんちゃん、お写真とってもらおーよぅ」
「ごめんねルーミアちゃん、その写真は明日、下手したら今日中にもあることないこと書きまくった記事と一緒に幻想郷中に広まるからダメなの……」
「ええーっ」
ルーミアはぷーっとふくれるが、すぐに何かいいことを思いついたような顔でにこっと笑った。
「じゃあね、じゃあね!」
「な……なに……?」
遠慮なしに顔を突き出してくるルーミアの満面の笑みで視界がいっぱいになる。
「みょんちゃんとふたりっきりならぁ、いーよねっ♪」
「……っ!!」
また一つ、妖夢は初めての経験をした。
相手が可愛すぎて気絶するなど、はじめてのことだった。
ついでに――。
気絶した姿を、写真に収められることも。
「はいはーい」
となりの幽々子に律儀に断りを入れて、妖夢は席を立った。
博麗神社の恒例の宴会の喧騒を背中で聴きながら、縁側に出る。
そのあとを、ふよふよと半霊がついていった。
「ふぅ……」
火照った頬に、夜風が心地いい。
かなり酔いが回っていたが、しばらく大人しくしていると落ち着いてきた。
と、悪酔いなどとは比べ物にならない異様な感覚が妖夢を襲った。
「みょんぎゃあああああ!!」
闇夜をつんざく悲鳴。
慌ててとなりを見てみると、ふよふよ浮かんでいる半霊になんか黒くてちまいのがかぶりついている。
「こらー! いきなりなにするのー!」
「んみ?」
その黒くてちまいのは、ぼへーっとした顔でぷんぷん怒っている妖夢を見上げた。
多分妖怪の類だということは雰囲気でわかるが、金髪に赤いリボンをつけたその黒いのは、そこらの子供と変わらないように見える。
「い、いきなり人の半分に噛み付くとかなに考えてるのー!」
「んみゃ?」
妖夢の怒声に、その黒いのはきょとんと小首をかしげている。ちょっとかわいい。
でも、どうにも話を理解しているふうではないので、もう一度叱ってやろうとした瞬間。
「ガブリ」
「みょんぎゃあああああ!!」
再び悲鳴。
誰も助けに来ないことを恨みながら、妖夢は半霊にへばりついている黒いのを引っペがした。
黒いのは酔っ払っているのか、「みゃー」とかいう気の抜けた声を上げて廊下に伸びている。
「な……なにこの子……あー歯型ついてるう!」
無残な姿になった半霊をさすりながら、妖夢は廊下に伸びている黒いのに目をやった。
ぴょこんと顔を上げた黒いのと目が合う。
「ねーねー」
「な、なに」
「なんでそこのわらびもちぱっくんしたらおねーさんがぎゃーなの?」
容姿と同じく幼い口調でそう言うので、妖夢も自然と小さい子に接する口調になる。
「あ、あのね、これはわらびもちじゃなくてわたしの半分なの。わかる? だから食べちゃダメ」
「そーなのかー」
「ほんとにわかってるのかなこの子……」
「……」
「……」
のほほーんとした顔の黒いのと妖夢はなぜか無言でにらみ合う形になってしまった。
黒いのはじーっと妖夢を見つめている……いや、違う。
妖夢が抱きかかえている半霊に視線を据えているのだ。
「……じゅるり」
「……」
「きなこ……黒蜜……」
不穏な言葉とよだれを口から漏らしている黒いのの瞳には、もはや隠しようもない殺気が――。
「ちょっと妖夢、あんたさっきからどたばたみょんみょんうるさいわよ」
ふすまが開いて現れたのは、相当飲んでいるのか座った目をした霊夢だった。
こういう状態の霊夢はあまり近寄りたくないが、そうも言っていられない。
「霊夢ー! 助けてくださいー! 食べられちゃうー!」
「あーん?」
じろりと黒いのに一瞥をくれて、霊夢はそいつを猫の子のようにつまみ上げた。
「なんだルーミアか……。こらあんた、神社で半分とはいえ人間襲うとかやめてよね」
「えーだってー、おいしそーだったからー」
ぷらーんとつまみあげられた黒いのは、ルーミアという名前らしい。
ぱたぱたしながら言い訳しているルーミアを、霊夢はぽいっと妖夢に投げてよこした。
慌てて反射的に受け止める妖夢。
「ま、そんな簡単に食べられる心配はないんじゃないの? 妖怪って言ってもそのへんの子供とあんまり変わんないわよ。じゃ、わたしは戻るからね」
「あ、ちょっと霊夢!」
そんな無責任なことを言いながら、霊夢はさっさと部屋に戻ってしまった。
残された妖夢は、受け止めたルーミアを見下ろす。
「すかぴー」
寝ていた。
「え、ちょっとこれ、どうすれば……」
妖夢の困惑をよそに、その膝でのんきな顔で寝ている黒いの――宵闇の妖怪・ルーミアは、むにゃむにゃと寝言を漏らした。
ひどい目にあった宴会から数日後。
妖夢は食材の買い込みに、人里を訪れていた。
屋台の呼び込みに、往来を走り回る子供達。
人里はいつ来ても活気に満ちている。
その、白昼の中。大木の根元。
そこだけ夜に取り残されたように、ぽつんと黒い、闇があった。
闇の中から、それはずるりと姿を現した。
「あー、みょんちゃんだー」
「みょん……ちゃん?」
闇の中からのへーっとした顔を出しているのは、誰あろう妖夢の半霊に未だ癒えぬ傷を刻み込んだ恐るべき宵闇の妖怪。
「あの、ルーミアちゃん、だっけ? そのみょんちゃんって、わたしのこと?」
そう尋ねるとルーミアは、ちんまりとした指先で妖夢を指さした。
「うん、みょんちゃん」
「あの、わたしの名前は妖夢って……」
「ねーねー、みょんちゃん」
「話聞かないなあこの子……」
異様にマイペースなこのちまいのに、妖夢はペースを乱されてしまう。
正直ペースを乱されるのはいつものことなのだが、こんな小さな子相手にそんな風になってしまうとは。
己の未熟を恥じつつ、妖夢はなんとか会話を続けようと試みた。
「えっと、ルーミアちゃん? わたしの名前は魂魄……」
「みょんちゃんは食べてもいいわらびもち?」
「ひぃっ!?」
トラウマを刺激され、反射的に半霊を抱きかかえて後ずさる。
図らずもあの夜と同じ構図。張り詰める緊張。
日常の中にあって、そこだけが切り取られたように別の空気をまとっている。
「ねーね、食べてもいーい?」
ちょこんと小首をかしげるその仕草は、可愛いか可愛くないかで言えばもちろん可愛いのだが妖夢は恐怖に囚われてそれどころではない。
ルーミアはじりじりと間合いを詰めてくる。
その無邪気な笑顔こそが、どんな魔物よりも恐ろしい。
その牙に捉えられる寸前に妖夢を動かしたのは、その四肢に染み込んだ剣士としての本能だった。
右手が素早く左腰に伸びる。
妖夢の肉体は主に命ぜられるまでもなく、抜刀の動作を取っていた。
「これっ!」
「んみ?」
切っ先の代わりにルーミアの眼前に突きつけられたのは、香ばしい香りを放つたい焼き。
帰ったあとのお楽しみとして取っておいたが、命には変えられない。
「こ、これあげるから。ね?」
「ほんとー?」
「ほ、ほんとほんと」
ルーミアは目を輝かせている。どうやら半霊から意識をそらすことには成功したと見てよさそうだ。
妖夢が差し出したたい焼きに、ルーミアはぱくっとかぶりついた。
「んー、おいしー♪」
ああ、良かった。助かった。
屋台のおじさん、ありがとう。
あなたの厳しい修行のもとに生み出されたおいしいたい焼き(つぶあん)が今、一人の少女の命を救いみょんぎゃあああああっ!?
「あもあも」
「こらー!? わたしの手まで食べちゃダメでしょー!?」
延命はほんの数十秒だった。
差し出したたい焼きは慈悲なき妖怪の前に瞬時に平らげられ、今や妖夢の右手は無残に噛み砕かれようとしている。
「ちょっとー!? 放しなさい! 誰かっ、誰か助けてっ! たーべられちゃうぞー!!」
「もぐもぐ」
ルーミアにかぶりつかれた右手をぶんぶん振り回しながら妖夢は泣き叫ぶが、周囲の通行人たちは慈愛の眼差しで見守るばかり。
やっとのことで引っペがすと、妖夢はぜえぜえ言いながらルーミアから後ずさる。
「おいしかったー♪」
「おいしかったってどっちのことなの……」
ルーミアは満足気だが、いつまた襲ってくるともわからない。
半霊を背中に隠しながら、ずりずりと後ずさる。
そんな妖夢に、ルーミアはてててっと小走りに駆け寄ってきた。
思わず身をすくませる妖夢に、ルーミアはぺこりとお辞儀。
「たい焼き、ごちそーさまでしたっ!」
「……あ、えっと、どういたしまして」
罪のないルーミアの笑顔に、妖夢は思わずそう返してしまう。
「そんじゃ、るーみゃは帰ります。またねー!」
「え、あ、うん……」
ふよふよとそれに帰っていくルーミアの後ろ姿を、妖夢はぼんやりと眺めていた。
「……ん? あの子、またねって言った?」
「……とまあ、そういうことがありまして」
「あらまあ、そうなの」
夕刻、白玉楼。
夕飯の席で、妖夢はうんざり顔で主である幽々子に今日のことを報告していた。
それを幽々子は、くすくす笑いながら聞いている。
「そう言えば、ちょっと前に行った博麗神社の宴会で、あなた半霊に歯型つけられてたわよねぇ」
「そうなんですよー……。それでなんか、付け狙われちゃって」
「んふぅ♪ 妖夢ったらぁ、もてもてね」
「笑い事じゃないですよほんとに……今日なんかたい焼きあげたら手まで食べられそうになっちゃったんですから」
「あら、早速餌付け? も~妖夢ったら手が早いんだからぁ」
「そんなんじゃないですって……」
茶化す幽々子に、妖夢はため息で答えた。
「まあでも、分かる気もするわね」
「はい? 何がです?」
妖夢の問いには答えず、かたりと箸を置いた幽々子は妖夢の傍らにふよふよ浮いている半霊に目をやる。
途端、妖夢の全身を戦慄が走りぬけた。
「ちょ、あの、幽々子さま?」
「きなこ……黒蜜……」
どこかで聞いたような不穏な台詞を艶然と笑みを刻む唇からこぼしながら、幽々子はゆらりと立ち上がった。
後ずさる妖夢。しかし遅い。
哀れ、すでに半霊は幽々子の手に落ちていた。
「一度味わいたいと思っていたのよ……ゴーストとやらをね……!」
幽々子の双眸はすでに常ならぬ光を帯びていた。
「このもちもち具合といいぷにぷに具合といい、もう誘ってるとしか思えないわ……うふ、うふ、うふふふふふ……」
「ちょ、幽々子さま待って!」
「……だめ?」
「ううッ!! そ、そんな上目遣い+小首傾げ+困り顔の3コンボごときではわたしは半分くらいしか堕ちませんからね!」
「ちッ」
「今『ちッ』って言った! 今『ちッ』って言った!」
「……言ってないわよ~?」
素知らぬ顔でごまかす幽々子。しかし半霊は離さない。
ぬぐぐぐ、と幽々子の一挙手一答足を凝視する妖夢。
一瞬でも目を離したが最後、一瞬で丸呑みにされてしまうのは必定だ。
両者のあいだに火花が散り、穏やかな夕餉の空気は刃のように張り詰め始める。
「……今日のところは、やめておきましょう」
沈黙を破ったのは、幽々子の方からだった。
解放された半霊が、ふよふよと妖夢の方に戻ってくる。
「あの、ほんとやめてくださいよ幽々子さま……」
「ええ、私も悪かったわ……あんまり美味しそうだから、ついフラフラと……。亡霊の身でありながら、未だに現世の欲に縛られているのね……」
よよよ、と泣き崩れる幽々子に、ほんの一瞬――しかし、致命的な空隙が妖夢に生じた。刹那!
「もがふっ!?」
抵抗する間もなかった。
いつの間にか妖夢は、幽々子の胸に抱きすくめられていた。
豊かな胸の谷間からようやく顔を上げると、幽々子と目が合った。
「ひぃっ!? なんで狩る者の目!?」
「ふふふ……半霊はやめておいてあげる。その代わり……」
ぎらり、と亡霊姫の双眸が、妖気漂う光を帯びる。
頬に添えられた手の感触が、妖夢の背筋を震え上がらせた。
「本体の方を、いただこうかしらね――!」
夜の静謐を引き裂く悲鳴が、白玉楼に響いた。
そして、数刻後。
着衣の乱れた姿で、妖夢はようやく自室へとたどり着いた。
「ううう……もぉお嫁にいけない……」
そのまま頭から枕に突っ込む。もう着替える気力すら残ってはいない。
ダメだ。
精神的ストレスはもはや限界値に達している。
見れば、半霊もなんだかところどころしなびている気がする。
明かりを消すが、眠気はなかなかやってこない。
それというのも、あの黒いののせいだ。
幽々子のいたずらはまあ日常茶飯事なのでいいとして、あの黒いのは子供な分加減を知らなさそう。
今度うっかり隙を見せようものなら……!
「うひぃぃ……ぜったい見つからないようにしなきゃ……」
布団の中で身を縮こまらせる妖夢だが、実は別の思いもあった。
(小さい子に、あんなに懐かれるの、初めてだったな……)
一度人里からの依頼で、子供たちに剣道の稽古をつけてくれるよう頼まれたことがある。
自身の未熟から一度は辞退した妖夢だったが、結局押し切られる形で稽古に行くことになった。
そしてその結果は……。
(はぁ……)
今思い出しても、その出来事は妖夢の小さな胸を責めさいなむ。
最初は辞退したものの、やはり誰かから頼られるのはとても嬉しく、妖夢は張り切って出かけていったのだが……。
あまりに本気の稽古をしすぎて、子供たちからはすっかり嫌われてしまったのだ。
今でも人里へ買い物に行ったときに、その時の子供たちは妖夢の姿を見るなり逃げ出してしまう始末。
そんなことがあって、妖夢はすっかり子供が苦手になってしまっていたのだ。
しかし、あのルーミアという子は、そんな妖夢に一方的かつほとんど捕食対象としてではあったがなついてくれた。
困惑はしたものの、それは決して妖夢にとって不快な出来事ではなかったのだ。
まぶたを閉じて、あののんきな笑顔を思い出す。
(みょんちゃん、なんて呼ばれたの、初めてだったな……)
頭からかぶった布団の中に、妖夢はため息をひとつこぼした。
「みょんちゃん、みょんちゃん」
「ひぃっ!?」
数日後。
妖夢がいつものように白玉楼の階段掃除をしていると、後ろから小さな指先で背中をつつかれた。
思わず後ずさる妖夢。
そこには、妖夢の心の奥底に二度とは消えぬトラウマを刻み込んだ恐るべき妖怪の姿があった。
「なにしてるのー」
あいかわらずののほほーんとした顔で、ルーミアは妖夢の顔を覗き込む。
とりあえず、ぎこちなく返事を返す。
「え、あ……お、お庭の掃除してるんだけど……」
「そーなのかー」
「っていうか、ルーミアちゃんなんでこんなとこに?」
「んーとねぇ」
そう言いながら、ルーミアは手に持っていた袋をごそごそと漁っている。
そして、たい焼きを取り出した。
「はい、これー」
「え……?」
事情が飲み込めない妖夢の鼻先に、ルーミアはずいっとたい焼きを突きつけた。
ちょっと冷めてはいたが、香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「こないだのお礼ー」
言われてようやく思い当たった。
何日か前の、人里での出来事だ。
確かにあの時、妖夢はルーミアにたい焼きを上げたが……わざわざその時のお礼に来てくれたのだろうか。
「あ……ありがと」
困惑しながらも妖夢は、たい焼きを受け取った。
それを見たルーミアは、にこっと笑って自分の分のたい焼きを取り出す。
「いただきまーす♪」
「い、いただきます……」
階段にちょこんと腰を下ろして、おいしそうにたい焼きをぱくぱく食べているルーミアを横目で見ながら、妖夢もまたたい焼きをひと口。
こんな場所でたい焼きを食べたのは初めてで、誰かと食べたのも初めて。
何か特別な行為をしているようで、落ち着かない。
「みょんちゃん、おいし? おいし?」
「わあ!」
いきなり、ルーミアが目の前に顔を突き出してきた。
端っこにあんこのついた口が触れそうになって、妖夢は思わず顔を赤くする。
そんな妖夢に構わず、ルーミアはほとんど抱きつくようにしてせっついてきた。
「ねーえ、みょんちゃん、たい焼き、おいし?」
「う……うん、美味しい、よ」
本当は混乱して味などわからなかったが、妖夢はなんとかそれだけの言葉を絞り出した。
「にゃはーっ♪」
妖夢の返事がそんなに嬉しかったのか、ルーミアは満面の笑みを浮かべた。
そんなルーミアに、妖夢は困惑と嬉しさとが入り混じった、なんだかよくわからない感情を覚えた。
初めて感じる種類の感情だった。
思えば、この子がここに来てから、初めてづくしだ。
誰かから何かをもらったのも、こんな小さな子になつかれたのも、誰かとここでたい焼きを食べるのも。
(そう言えば、半霊に歯型付けられたのも初めてだっけ……)
そんなことを思うと、自然に笑いがこみ上げてきた。
「んー? なに笑ってるのー?」
「え? ううん、なんでもないよ」
「そーなのかー」
もしゃもしゃたい焼きを食べているルーミアを見ていると、なんだか微笑ましい気持ちになる。
年の離れた妹がいたら、こんな感じなんだろうか。
「ねーねー、みょんちゃん」
なんだか、この「みょんちゃん」呼びも悪くない気がしてきた。
あだ名で呼ばれるのが妙に新鮮に思える。
「なあに?」
「さわってもいーい?」
「へ!? な、ナニをっ!?」
突然のおねだりに、妖夢は反射的にのけぞる。
ルーミアが指さしているのは、案の定というかなんというか、半霊だった。
ややためらってから、妖夢は恐る恐る半霊を差し出した。
「あ、あの、ルーミアちゃん、食べちゃダメだからね?」
「……………………うん、るーみゃ、ちゃんとわかってるよ?」
「今の間はなに!?」
それでも妖夢は、断るのもなんだか悪い気がして、結局半霊を渡してしまった。
ルーミアは嬉しそうに半霊を受け取ると、ぎゅーっと抱きしめた。
「ひゃー、むにむにー♪」
この世の春と言わんばかりの顔で、ルーミアは半霊にほっぺたをすり寄せる。
そのままガブリと行かれないか気が気でない妖夢。
冷や汗たらたらで成り行きを見守っていると、ふと体が暖かいのに気がついた。
(……? これ……)
妖夢とその半霊とは感覚がつながっている。
そのぬくもりは、ルーミアの体温なのだった。
半霊に抱きついているルーミアを見ると、ルーミアもこっちを見ていた。
「えへへへー、ぷにぷにー♪」
屈託のない笑顔を向けるルーミアのその体温を、いま自分が感じていることを意識すると、もう顔が赤くなるのを止めることはできなかった。
「んみ? みょんちゃん顔赤いよ? どしたの?」
「な、なんでもないって……」
しどろもどろにそう答える妖夢を不思議そうに見上げていたルーミアは、ひょいと半霊を妖夢に返した。
反射的に歯形を確認するが、幸いというべきか、無事なようだ。
「ふぃー、たんのーしたー♪」
「そ、そう……お粗末さまでした……」
満足げな顔をしているルーミアから半霊を受け取った妖夢の顔はまだ赤い。
そんな妖夢の目の前に、にゅっとルーミアが頭を突き出した。
「はい、どーぞ」
「どーぞって……な、なに?」
「お返し」
「お返し?」
「うん。わらびもちさわらせてくれたから、そのお返しー。ルーミアのこと、さわっていーよ?」
「え、えええー……!?」
唐突な提案に、妖夢はさらに顔を赤くした。
いきなりそんなことを言われても、どうしていいかわからない。
「ほれほれ」
「えええー……じゃ、じゃあお言葉に甘えて……」
混乱したまま妖夢は、言われるままにルーミアの頭に手を置いた。
小さなこの頭を撫でたことなどない妖夢は、たったこれだけのことでもひどく緊張してしまう。
ルーミアの金髪は見た目と同じでふわふわで、いかにも繊細なものに見えた。
大切なものを扱う仕草で、妖夢はゆっくりとルーミアの頭を撫でる。
ルーミアの顔を覗き込むと、子猫のように目を細めて気持ちよさそうにしていた。ほっとする妖夢。
「みゃ~……」
何を話すでもなく、こうしてルーミアの頭を撫でていると、なんだかひどく穏やかな気持ちになってくる。
さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
「……きもち、いい?」
そんな言葉が、自然とこぼれ出た。
妖夢を見上げて、ルーミアは無邪気に笑う。
「えへへー♪ なでなでしてもらうの、すきー♪」
とんでもない出会い方ではあったが、妖夢は素直にこの小さな妖怪との出会いを嬉しく思っていた、
今まで色んな人妖と関わってきたが、こんな相手は……はじめてだった。
周りを見れば、冥界の姫に強大な力を持つスキマ妖怪、博麗の巫女……そして、あまりにも偉大な、自分の師。
あまりも強大な力を持つ者たちのそばにいれば自分の無力さ、未熟さを痛感させられ、幼い子供たちには怖がられ。
そういった中で、この小さな妖怪のとなりは、なぜだか妖夢に不思議な安らぎをもたらしてくれていた。
「ね、ルーミアちゃん」
「んみ? なーに?」
「……あ、ありがと」
ルーミアは不思議そうな顔をしていたが、妖夢が顔を赤くして視線をそらすと、にへっと笑った。
「ねーね、みょんちゃん」
「うん?」
「頭だけじゃなくてね、ほかのとこもなでなでしてほしいなー」
「ほっ、ほかのとこっ!?」
「うんっ。ほぉらー」
「あっ、あ……」
小さな手でルーミアは妖夢の手を取り、自分のほほにあてがった。
子供特有の柔らかさと暖かさに、妖夢は戸惑う。
「えへへー、ぷにぷにでしょー?」
「う、うん……」
こんなふうに他人に触れたのも、初めてのことだった。
ルーミアと出会ってから、なんだか初めてのことばかりだ。
それが嬉しくて、おかしくて、妖夢は柔らかく笑った。
ルーミアも、それに合わせて笑った。
「みょんちゃん、もっとぉ……もっとぷにぷに、してー……?」
どこか陶然とした声音のルーミアのおねだりに、妖夢はもう従うしかなかった。
「よーむー? よーむー、ごはんまぁだー?」
と、上の方から幽々子の声が聞こえた。
ルーミアと話しているのが楽しくて、庭掃除とそのあとの食事の支度をすっかり忘れていた。
「す、すいません幽々子さま! 今すぐ……」
そう言いかけて妖夢はルーミアのことに思い至った。なんと説明したものか。
まあ、友達だと言えば済む話だ。
そう言えば……。
(幽々子さまに友達紹介するのなんて……はじめて、だな……)
胸の奥が、ぽっと熱くなった気がする。
「あのっ、幽々子さま。この子はルーミアって言って……」
そう言いかけて、妖夢の言葉は断ち切られた。
妖夢の言葉を断ち切ったのは、幽々子の表情だった。
片袖で口元を隠しているが、その口元には笑みが浮かんでいるのは明らかだった。
――そう、嗜虐の笑みが。
「……あらぁ? あらあらあらぁ……?」
いけない。これはまずい。
間違いなくネタにされる。今すぐ、今すぐ阻止しなければ!
幽々子さまこれは違うんですこの子はただの友達なんです! そう言って止めなくてはならない!
「幽々子さまこれはッ」
「ああ……妖夢にもついに春が来たのね!? ゆゆこうれしいっ! しかも相手は金髪ょぅι゛ょとかレベル高いわ妖夢! 妖忌も草葉の陰でダブルピースよ!」
「ちょっと待ってください幽々子さまは致命的な勘違いをですね」
「皆まで言う必要はないわ妖夢! ゆゆこ全部わかってる! いいのよ食事の用意なんて後回しで、遠慮なくイチャイチャネチョネチョするがいいわ!」
「ねーねーみょんちゃん、ネチョネチョってなーに?」
「やめてえっ! 穢れを知らない純真な瞳でそういう種類の質問をするのはッ! そういう質問は匿名で紅魔館の紫もやしのMAHOO知恵袋に投稿して!」
「妖夢、そこはやっぱりあなた自身が手とり足取り教えて上げるのがいいんじゃないかしら?」
「幽々子さまは黙ってて!」
「あ、そうだわ! この記念すべき瞬間を後世に残さなくちゃ! ほーらふたりともぴーすぴーす♪」
「えへへー、ぴーすー♪」
「幽々子さまそのカメラどっから出したんですか!? あとルーミアちゃんもあっさり乗せられない!」
刀の柄に手がかかるのを、妖夢は全力でこらえるが限界が近い。
ルーミアはそんな妖夢の事などお構いなしに、ぐいぐいと袖を引っ張っている。
「ねーねーみょんちゃん、お写真とってもらおーよぅ」
「ごめんねルーミアちゃん、その写真は明日、下手したら今日中にもあることないこと書きまくった記事と一緒に幻想郷中に広まるからダメなの……」
「ええーっ」
ルーミアはぷーっとふくれるが、すぐに何かいいことを思いついたような顔でにこっと笑った。
「じゃあね、じゃあね!」
「な……なに……?」
遠慮なしに顔を突き出してくるルーミアの満面の笑みで視界がいっぱいになる。
「みょんちゃんとふたりっきりならぁ、いーよねっ♪」
「……っ!!」
また一つ、妖夢は初めての経験をした。
相手が可愛すぎて気絶するなど、はじめてのことだった。
ついでに――。
気絶した姿を、写真に収められることも。
和みと糖分ごちそうさまでした。