カラン、とベルを鳴らしながら戸を開けると、穏やかなジャズの音色が流れ出した。
「いらっしゃい」
リンとした声に誘われるままに店に入る。ほんのりと甘い香りを含ませた店内の雰囲気はいつ来ても心が安らぐ。
「どうぞ、いつもの席に」
店主の少女は怜悧な美貌を綻ばせながら私を促した。
軽く会釈をして、日当たりのいい窓際、入口に一番近い二人掛けのテーブルに向かう。私の定位置だ。
季節は春、昼過ぎの今は窓から穏やかな陽光が射して心地いい。
テーブルに水の入ったグラスが置かれる。
「ご注文は?」
「今日はどんなケーキがありますか?」
この喫茶店は少し特殊だ。
ケーキの種類は日替わり、これ自体は普通だけど、どの種類も多くて三切れ程度しか用意がない。
ここが知られざる名店として有名であるっていうわけじゃないのは店内を見てもわかる。
今いる客は私の他に、カウンター席の隅でタブレットに何かを書き込んでいる男の人一人だけだ。
それなのにケーキの取り揃えが少ないのは彼女曰く、焼き過ぎた余りを出しているだけだから、と。
今の客数ならこれくらいでちょうどいいからそうしているのかもしれない。
マスターの銀髪がさらと揺れる。
「今日はミックスベリーのタルトとレアチーズケーキのみかんソースかけね。あと私が焼いたものではないけど、苺を挟んだバリブレストが最後の一切れよ」
「バリブレスト……マスターのじゃないんですね」
「知り合いというか、同僚というか、まあそんな娘が焼いたのが余ったの。珍しいかもしれないわね」
ミックスベリーのタルトはこの店では比較的定番に近いメニューだ。身の締まったベリーが口の中で弾ける感覚、酸味を引き立てるほど良い甘さのカスタード、サクサクと香ばしいタルト生地の食感がたまらない一品で、私も好物だ。
でも今日はレアチーズケーキと、マスターの知り合いが焼いたというバリブレストというケーキが気になる。
「うーん……」
「カロリーとお財布が許す限り、どうぞ二つでも三つでも」
内心を見透かした彼女の甘言に苦笑しながら、それに乗せられることにした。
「それじゃあ、レアチーズケーキとバリブレストを。紅茶はお任せします」
「かしこまりました、少々お待ちください」
マスターがカウンターの内に戻る。水を一口飲んでから、私は少しぼんやりしながら窓の外を眺めていた。
細い路地に面した喫茶店だ、窓の外も往来は少なく、少し古びたコンクリートの建物が日差しに照らされている。
「ケーキ、お待たせしました。紅茶はもう少し待ってね」
テーブルにケーキの皿が二つ置かれる。
バリブレストはぱっと見シュークリームのようにも見えるケーキだった。シュー皮を輪にして、クリームと苺をふんだんに挟んだようなケーキらしい。
レアチーズケーキは真っ白なケーキに鮮やかなオレンジ色のソースが綺麗だった。
余りものなどと言いながら、バリブレストからは焼き立ての香ばしい匂いが漂い、レアチーズケーキのさわやかな酸味を感じさせる匂いも健在だ。時間が作り立てのまま止まっていたみたいに。
続いてテーブルに置かれるポット。白くまるっとしたポットの注ぎ口から、ほんのりと紅茶の香がする。
マスターの青い瞳は、じぃと懐中時計に向けられている。
紅茶の抽出時間は砂時計やデジタルタイマーを使って計るのが普通だと思うけど、彼女はあまりそれらを使わない。
じっと懐中時計の文字盤を見つめて、洗練された手際で紅茶が注がれる。
「紅茶はダージリンのファーストフラッシュ。香りが爽やかですっきりした味わいだから、ケーキにも合うと思うわ」
ウェッジウッドに注がれた紅茶は、普段見るものより色が淡い。
けれども香りは軽やかに立ち上り、いい匂いだなと息を吐く。
「二、三杯分くらいはあるから、どうぞごゆっくり」
そう言ってポットにコジーを被せて、マスターはカウンターに戻った。
「さて」
紅茶に口をつける。軽い渋み、でも嫌味はない。飲み込んだ後に甘みを含んだコクがちろっと顔を出してきた。
おいしい。コーヒー党の私でも、ここの紅茶はそう感じる。
最初に来た時にはメニューにコーヒーがないことに驚いたけど、もしこれからコーヒーがメニューに入ったとしても、私はきっと頼まないだろう。
まずバリブレストに手を伸ばす。ご丁寧に、フォークと一緒にナイフが添えられていた。
厚みのあるシュー皮にナイフを入れて、ホイップクリームとカスタードをたっぷり、それに苺を一片のせて口に運ぶ。
「あっ、ぅふっ」
クリームを欲張りすぎて、唇の端からクリームがはみ出した。
指でそれを拭いながらケーキを口に詰め込む。サクッとした皮の食感にふわっとしたホイップと弾力のあるカスタードの甘み、苺の酸味が口の中で混じり合ってたまらない。
ちょと行儀が悪いかなと思いながら指についたクリームを舐め取る。ミックスベリーのタルトのカスタードとは甘さも弾力も違った。
作るものごとに変えてるのかな、と思ったところで作った人が違うことに気付いて、でもやっぱり変えてるんだろうなとも思った。あのマスターだし。
もむもむと咀嚼。おいしいけど、口の中に甘さがべとつくのは否めない。
そこで食べた後に紅茶を飲むと、さっぱりとした渋みがそんな甘さを洗い流す。
成る程これが相性かと一人得心、これならいくらでも食べられてしまいそうだ。
次のフォークをどちらに向けるか悩んだけど、ここはまずバリブレストを完食しよう。
もう一口紅茶を飲んでから再びフォークとナイフを伸ばす。今度はクリームを控えめに。
そうすると皮のサクサク感とモチモチ感が前面に出てきた。鼻を抜ける匂いもたまらない。
存分に堪能してから三口目に向かう。小さめのケーキだから、これとあともう一口くらいで完食だろう。
想像通り、私はバリブレストを四口で食べ切ってしまった。別に大口開けて食べてたわけじゃない、あくまでケーキが小さかっただけだ。
二杯目の紅茶を飲みながら一息つく。おいしいスイーツは素晴らしい、こんなにも心が満たされる。
……マスターが言ってたカロリーとかいうワードはNGワードなのでキコエナイ。
カラン、とベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。どうぞ、いつもの席へ」
澄んだ声での促しを聞くに、どうやら常連さんらしい。私の横を抜けて、店の奥にあるテーブルにつく男女。カウンターに座ってる男性と知り合いなのか、軽く挨拶を交わしている。
見れば私も見たことのある常連さんだった。まだ若く見えるけど、雰囲気は夫婦のそれに感じられる二人。
覚えている理由は単純だ。ここにいる私を含めた四人以外、この店に客がいるのを見たことがない。
十六ある椅子のうち埋まるのは四席。おかげでいつも、この喫茶店は穏やかだ。
少しそれた意識をケーキに戻す。レアチーズの白色とみかんソースは陽光を受けて幻想的なまでに輝いている。
唾を飲みながらフォークを立てる。バリブレストと違って、こっちは刺さったかも曖昧なくらいやわらかい。ビスケット生地まで届いた感触を確かめてから切って、口に運ぶ。
口の中でとろけるやわらかさ、クリームチーズの濃厚な味わいとみかんの爽やかな甘味と酸味が見事にマッチしている。ビスケット生地のしっとりした食感もアクセント。
こっちもまた、ダージリンファーストフラッシュとの相性抜群だ。三杯分は多かろうといつも思うのに、ケーキと合わせていたらいつも足りなくなってしまう。
空になったカップにおかわりを注げば、ポットの中身はもう空だ。
「おかわりは入り用かしら?」
狙い澄ましたようなタイミングでの問いにちょっと考える。
「……お願いします。今度は紅茶だけで満足感のあるやつを」
「かしこまりました」
するりとポットが下げられる。
カップに口を付けながら、私はマスターの姿を目で追った。
カウンターの中で紅茶とケーキの準備をする彼女の動きは洗練されている。
外見から判断する歳は私と同じくらいか、もしかしたら下かもしれないのに、動きや態度、雰囲気には老練の趣さえある。
オタク街にいるキャピキャピしたメイドとは違う、紺青を基調にしたヴィクトリアンメイド風の服を纏う銀髪の彼女は、どこか物語から抜け出してきたような非現実性を漂わせていた。
「考え事かしら」
少し重い音を立ててポットが置かれる。さっきの真っ白なものと違って、こっちはシャンパンカラーで模様が彩られている。カップとソーサーも同じデザインだ。
「いえ、大したことじゃ」
ケーキを口に運びながら笑う。マスターが時間を計る間に食べ終えて、紅茶も飲み終えた。
パチ、と懐中時計の蓋が閉まる。
「今回の紅茶はディンブラ。この茶園のものはコクが深くて甘みもあるから、しっかり満足感を楽しんでもらえると思うわ」
注がれる水色は濃い。ボーンチャイナの純白との調和は美しいの一言で、香りはそこまで強くないけど、仄かに花の香りがした。
「ストレートも勿論おいしいけれど、ミルクティーを好む人も多いわ。どちらにします?」
「今回はストレートで」
「そんな気がしてたわ」
マスターはクスリと笑い、ソーサーに載ったカップを私の前に差し出す。
そしてその隣に、小さなバスケットが置かれた。
「このクッキーはサービス、どうぞ召し上がれ」
「わ、ありがとうございます」
取り立てて飾り気のないシンプルなクッキーだった。焼き立てなのか、良い匂いが鼻腔をくすぐる。
「それじゃあ、ごゆっくり」
ケーキのお皿をカップを下げて立ち去る。
出されたディンブラは、口に含むと深いコクが感じられた。ダージリンよりくっきりとした紅茶らしいやわらかな甘さと、全体を引き締める渋みの調和がいい。
一口飲んで息を吐く、これだけでも満足感が強い。
口の中の風味を楽しみながら、私はポーチから本を取り出す。これを読むために来たのだけれど、ケーキを食べながらだと読むタイミングがなかったから仕方ない。
ある放浪の床屋を中心とした十二の短編から成る本だ。現実と空想とが入り混じった、ファンタジックというよりメルヘンの空気感。そこに一滴混じる寂しさと悲しみ。そんな本だ。
本を読むのは遅くない、むしろ速いほうだと自覚している。
けれどこんなのんびりとした時間、心穏やかな空間、そして紅茶があるのだから、どうせならゆっくり本を読もうとこれを選んできた。
冬の読書なんていいなと思ったり、天使の残骸に思いを馳せたり、去年のクリスマスに食べたローストチキンはおいしかったなんて思ったりしながら、紅茶とクッキーをお供に読み進める。
不思議な気分になる。
店の中にはジャズが流れ、男女の常連さんの話し声もささやかに届く。
当然だ。ここは万人に開かれた喫茶店、プライベートスペースには程遠い。
それでもここには確かに、私だけの『空間』と『空気』と『時間』がある。
だから、この店が好きだった。
ここでは、私は一人。
そんな安らぎもあるものだ。
やがて床屋は、最初の客の髪を切る。
私はカップに残った紅茶を飲み干して、本を閉じた。そして、遥か昔に父親に連れられて行った床屋での記憶を回想する。
床屋なんてのは刃物を扱う人の前に無防備も無防備に身体をさらしているわけで、よくよく考えれば安心できる状況でないと思う。
でもどうしてか、しゃきりしゃきりと耳元で音がするたび、心が安らいでそのまま眠くなって、時には涎を垂らしてしまったりする。
あの感覚が不思議で仕方なかったけど、床屋の椅子の上が自分だけの空間になってたからなのかなと最近思ったりして、よくわかんないなと思いながら、私はカップに紅茶を注いだ。
最後の一杯だった。
窓の外を見ると、春の陽は西へ傾き、既に薄暮だった。アパートに帰るころにはもう真っ暗かもしれない。
「……まあ、別にいっか」
と、慌てないことにした。
結局そこから一杯分紅茶をおかわりして、店を出ようと席を立った時にはもう空は真っ暗だった。
マスターを呼んでお会計をお願いする。あれだけ紅茶を飲んでケーキを食べても全部で三千円にもならない。破格の値段だ。
儲け目的ではないからと、マスターは軽く笑うけど。
薄手のコートを羽織って帽子を被る。
カウンターのマスターに目を向けると、彼女は穏やかな微笑を浮かべながら、愛用の懐中時計の文字盤を私に向けた。
「プライベートタイムはお楽しみいただけましたか?」
帰り際に投げ掛けられる決まり文句だ。
帽子の鍔を少し持ち上げて、頷く。
「はい」
「それはよかった。またのお越しを、お待ちしています」
その言葉に送られて店を出た。春とはいえ、夜は少し冷える。
雑に羽織っていたコートの前を合わせながら、私は店の看板を見上げた。
『Private Square』
……うん、また来よう。
そう思いながら、京都の雑踏に足を向ける。
ふと見れば、見慣れた金髪の少女が歩いていた。
「メリー、奇遇じゃない!」
声に反応して立ち止まった彼女の元へ、私は駆け出した。
「いらっしゃい」
リンとした声に誘われるままに店に入る。ほんのりと甘い香りを含ませた店内の雰囲気はいつ来ても心が安らぐ。
「どうぞ、いつもの席に」
店主の少女は怜悧な美貌を綻ばせながら私を促した。
軽く会釈をして、日当たりのいい窓際、入口に一番近い二人掛けのテーブルに向かう。私の定位置だ。
季節は春、昼過ぎの今は窓から穏やかな陽光が射して心地いい。
テーブルに水の入ったグラスが置かれる。
「ご注文は?」
「今日はどんなケーキがありますか?」
この喫茶店は少し特殊だ。
ケーキの種類は日替わり、これ自体は普通だけど、どの種類も多くて三切れ程度しか用意がない。
ここが知られざる名店として有名であるっていうわけじゃないのは店内を見てもわかる。
今いる客は私の他に、カウンター席の隅でタブレットに何かを書き込んでいる男の人一人だけだ。
それなのにケーキの取り揃えが少ないのは彼女曰く、焼き過ぎた余りを出しているだけだから、と。
今の客数ならこれくらいでちょうどいいからそうしているのかもしれない。
マスターの銀髪がさらと揺れる。
「今日はミックスベリーのタルトとレアチーズケーキのみかんソースかけね。あと私が焼いたものではないけど、苺を挟んだバリブレストが最後の一切れよ」
「バリブレスト……マスターのじゃないんですね」
「知り合いというか、同僚というか、まあそんな娘が焼いたのが余ったの。珍しいかもしれないわね」
ミックスベリーのタルトはこの店では比較的定番に近いメニューだ。身の締まったベリーが口の中で弾ける感覚、酸味を引き立てるほど良い甘さのカスタード、サクサクと香ばしいタルト生地の食感がたまらない一品で、私も好物だ。
でも今日はレアチーズケーキと、マスターの知り合いが焼いたというバリブレストというケーキが気になる。
「うーん……」
「カロリーとお財布が許す限り、どうぞ二つでも三つでも」
内心を見透かした彼女の甘言に苦笑しながら、それに乗せられることにした。
「それじゃあ、レアチーズケーキとバリブレストを。紅茶はお任せします」
「かしこまりました、少々お待ちください」
マスターがカウンターの内に戻る。水を一口飲んでから、私は少しぼんやりしながら窓の外を眺めていた。
細い路地に面した喫茶店だ、窓の外も往来は少なく、少し古びたコンクリートの建物が日差しに照らされている。
「ケーキ、お待たせしました。紅茶はもう少し待ってね」
テーブルにケーキの皿が二つ置かれる。
バリブレストはぱっと見シュークリームのようにも見えるケーキだった。シュー皮を輪にして、クリームと苺をふんだんに挟んだようなケーキらしい。
レアチーズケーキは真っ白なケーキに鮮やかなオレンジ色のソースが綺麗だった。
余りものなどと言いながら、バリブレストからは焼き立ての香ばしい匂いが漂い、レアチーズケーキのさわやかな酸味を感じさせる匂いも健在だ。時間が作り立てのまま止まっていたみたいに。
続いてテーブルに置かれるポット。白くまるっとしたポットの注ぎ口から、ほんのりと紅茶の香がする。
マスターの青い瞳は、じぃと懐中時計に向けられている。
紅茶の抽出時間は砂時計やデジタルタイマーを使って計るのが普通だと思うけど、彼女はあまりそれらを使わない。
じっと懐中時計の文字盤を見つめて、洗練された手際で紅茶が注がれる。
「紅茶はダージリンのファーストフラッシュ。香りが爽やかですっきりした味わいだから、ケーキにも合うと思うわ」
ウェッジウッドに注がれた紅茶は、普段見るものより色が淡い。
けれども香りは軽やかに立ち上り、いい匂いだなと息を吐く。
「二、三杯分くらいはあるから、どうぞごゆっくり」
そう言ってポットにコジーを被せて、マスターはカウンターに戻った。
「さて」
紅茶に口をつける。軽い渋み、でも嫌味はない。飲み込んだ後に甘みを含んだコクがちろっと顔を出してきた。
おいしい。コーヒー党の私でも、ここの紅茶はそう感じる。
最初に来た時にはメニューにコーヒーがないことに驚いたけど、もしこれからコーヒーがメニューに入ったとしても、私はきっと頼まないだろう。
まずバリブレストに手を伸ばす。ご丁寧に、フォークと一緒にナイフが添えられていた。
厚みのあるシュー皮にナイフを入れて、ホイップクリームとカスタードをたっぷり、それに苺を一片のせて口に運ぶ。
「あっ、ぅふっ」
クリームを欲張りすぎて、唇の端からクリームがはみ出した。
指でそれを拭いながらケーキを口に詰め込む。サクッとした皮の食感にふわっとしたホイップと弾力のあるカスタードの甘み、苺の酸味が口の中で混じり合ってたまらない。
ちょと行儀が悪いかなと思いながら指についたクリームを舐め取る。ミックスベリーのタルトのカスタードとは甘さも弾力も違った。
作るものごとに変えてるのかな、と思ったところで作った人が違うことに気付いて、でもやっぱり変えてるんだろうなとも思った。あのマスターだし。
もむもむと咀嚼。おいしいけど、口の中に甘さがべとつくのは否めない。
そこで食べた後に紅茶を飲むと、さっぱりとした渋みがそんな甘さを洗い流す。
成る程これが相性かと一人得心、これならいくらでも食べられてしまいそうだ。
次のフォークをどちらに向けるか悩んだけど、ここはまずバリブレストを完食しよう。
もう一口紅茶を飲んでから再びフォークとナイフを伸ばす。今度はクリームを控えめに。
そうすると皮のサクサク感とモチモチ感が前面に出てきた。鼻を抜ける匂いもたまらない。
存分に堪能してから三口目に向かう。小さめのケーキだから、これとあともう一口くらいで完食だろう。
想像通り、私はバリブレストを四口で食べ切ってしまった。別に大口開けて食べてたわけじゃない、あくまでケーキが小さかっただけだ。
二杯目の紅茶を飲みながら一息つく。おいしいスイーツは素晴らしい、こんなにも心が満たされる。
……マスターが言ってたカロリーとかいうワードはNGワードなのでキコエナイ。
カラン、とベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。どうぞ、いつもの席へ」
澄んだ声での促しを聞くに、どうやら常連さんらしい。私の横を抜けて、店の奥にあるテーブルにつく男女。カウンターに座ってる男性と知り合いなのか、軽く挨拶を交わしている。
見れば私も見たことのある常連さんだった。まだ若く見えるけど、雰囲気は夫婦のそれに感じられる二人。
覚えている理由は単純だ。ここにいる私を含めた四人以外、この店に客がいるのを見たことがない。
十六ある椅子のうち埋まるのは四席。おかげでいつも、この喫茶店は穏やかだ。
少しそれた意識をケーキに戻す。レアチーズの白色とみかんソースは陽光を受けて幻想的なまでに輝いている。
唾を飲みながらフォークを立てる。バリブレストと違って、こっちは刺さったかも曖昧なくらいやわらかい。ビスケット生地まで届いた感触を確かめてから切って、口に運ぶ。
口の中でとろけるやわらかさ、クリームチーズの濃厚な味わいとみかんの爽やかな甘味と酸味が見事にマッチしている。ビスケット生地のしっとりした食感もアクセント。
こっちもまた、ダージリンファーストフラッシュとの相性抜群だ。三杯分は多かろうといつも思うのに、ケーキと合わせていたらいつも足りなくなってしまう。
空になったカップにおかわりを注げば、ポットの中身はもう空だ。
「おかわりは入り用かしら?」
狙い澄ましたようなタイミングでの問いにちょっと考える。
「……お願いします。今度は紅茶だけで満足感のあるやつを」
「かしこまりました」
するりとポットが下げられる。
カップに口を付けながら、私はマスターの姿を目で追った。
カウンターの中で紅茶とケーキの準備をする彼女の動きは洗練されている。
外見から判断する歳は私と同じくらいか、もしかしたら下かもしれないのに、動きや態度、雰囲気には老練の趣さえある。
オタク街にいるキャピキャピしたメイドとは違う、紺青を基調にしたヴィクトリアンメイド風の服を纏う銀髪の彼女は、どこか物語から抜け出してきたような非現実性を漂わせていた。
「考え事かしら」
少し重い音を立ててポットが置かれる。さっきの真っ白なものと違って、こっちはシャンパンカラーで模様が彩られている。カップとソーサーも同じデザインだ。
「いえ、大したことじゃ」
ケーキを口に運びながら笑う。マスターが時間を計る間に食べ終えて、紅茶も飲み終えた。
パチ、と懐中時計の蓋が閉まる。
「今回の紅茶はディンブラ。この茶園のものはコクが深くて甘みもあるから、しっかり満足感を楽しんでもらえると思うわ」
注がれる水色は濃い。ボーンチャイナの純白との調和は美しいの一言で、香りはそこまで強くないけど、仄かに花の香りがした。
「ストレートも勿論おいしいけれど、ミルクティーを好む人も多いわ。どちらにします?」
「今回はストレートで」
「そんな気がしてたわ」
マスターはクスリと笑い、ソーサーに載ったカップを私の前に差し出す。
そしてその隣に、小さなバスケットが置かれた。
「このクッキーはサービス、どうぞ召し上がれ」
「わ、ありがとうございます」
取り立てて飾り気のないシンプルなクッキーだった。焼き立てなのか、良い匂いが鼻腔をくすぐる。
「それじゃあ、ごゆっくり」
ケーキのお皿をカップを下げて立ち去る。
出されたディンブラは、口に含むと深いコクが感じられた。ダージリンよりくっきりとした紅茶らしいやわらかな甘さと、全体を引き締める渋みの調和がいい。
一口飲んで息を吐く、これだけでも満足感が強い。
口の中の風味を楽しみながら、私はポーチから本を取り出す。これを読むために来たのだけれど、ケーキを食べながらだと読むタイミングがなかったから仕方ない。
ある放浪の床屋を中心とした十二の短編から成る本だ。現実と空想とが入り混じった、ファンタジックというよりメルヘンの空気感。そこに一滴混じる寂しさと悲しみ。そんな本だ。
本を読むのは遅くない、むしろ速いほうだと自覚している。
けれどこんなのんびりとした時間、心穏やかな空間、そして紅茶があるのだから、どうせならゆっくり本を読もうとこれを選んできた。
冬の読書なんていいなと思ったり、天使の残骸に思いを馳せたり、去年のクリスマスに食べたローストチキンはおいしかったなんて思ったりしながら、紅茶とクッキーをお供に読み進める。
不思議な気分になる。
店の中にはジャズが流れ、男女の常連さんの話し声もささやかに届く。
当然だ。ここは万人に開かれた喫茶店、プライベートスペースには程遠い。
それでもここには確かに、私だけの『空間』と『空気』と『時間』がある。
だから、この店が好きだった。
ここでは、私は一人。
そんな安らぎもあるものだ。
やがて床屋は、最初の客の髪を切る。
私はカップに残った紅茶を飲み干して、本を閉じた。そして、遥か昔に父親に連れられて行った床屋での記憶を回想する。
床屋なんてのは刃物を扱う人の前に無防備も無防備に身体をさらしているわけで、よくよく考えれば安心できる状況でないと思う。
でもどうしてか、しゃきりしゃきりと耳元で音がするたび、心が安らいでそのまま眠くなって、時には涎を垂らしてしまったりする。
あの感覚が不思議で仕方なかったけど、床屋の椅子の上が自分だけの空間になってたからなのかなと最近思ったりして、よくわかんないなと思いながら、私はカップに紅茶を注いだ。
最後の一杯だった。
窓の外を見ると、春の陽は西へ傾き、既に薄暮だった。アパートに帰るころにはもう真っ暗かもしれない。
「……まあ、別にいっか」
と、慌てないことにした。
結局そこから一杯分紅茶をおかわりして、店を出ようと席を立った時にはもう空は真っ暗だった。
マスターを呼んでお会計をお願いする。あれだけ紅茶を飲んでケーキを食べても全部で三千円にもならない。破格の値段だ。
儲け目的ではないからと、マスターは軽く笑うけど。
薄手のコートを羽織って帽子を被る。
カウンターのマスターに目を向けると、彼女は穏やかな微笑を浮かべながら、愛用の懐中時計の文字盤を私に向けた。
「プライベートタイムはお楽しみいただけましたか?」
帰り際に投げ掛けられる決まり文句だ。
帽子の鍔を少し持ち上げて、頷く。
「はい」
「それはよかった。またのお越しを、お待ちしています」
その言葉に送られて店を出た。春とはいえ、夜は少し冷える。
雑に羽織っていたコートの前を合わせながら、私は店の看板を見上げた。
『Private Square』
……うん、また来よう。
そう思いながら、京都の雑踏に足を向ける。
ふと見れば、見慣れた金髪の少女が歩いていた。
「メリー、奇遇じゃない!」
声に反応して立ち止まった彼女の元へ、私は駆け出した。
ちょっと行ってみたいかも。
実は店名が出るまで、ルナ・クロックって店の名前かなーと思っていたのは秘密w
ケーキが無性に食べたくなってきました。
それはそうとこの店はどこにありますか!
メリーもそうですけど、蓮子もこういうお洒落なことが似合いますね
バリってインドネシアのバリ島? いったい何年がかりのトライアスロンだよ。
ということばかり気にかかってあんまりおいしそうに思えなかったよ……そしてそこが今一だとお話も微妙。