暦の上では冬も深まり、縦に伸びる洞窟の底、鬼を筆頭とした妖怪たちが住まい、灼熱地獄をそのさらに奥に擁する旧都もすっかりと寒くなった。外套や羽織、手袋などの防寒具が無くては外に出るのも億劫だ。旧都の妖怪たちも普段よりも厚着をしている姿が目立つようになった。売り物もそんな寒い季節を乗り切る物資が店頭に並びはじめ、鬼達が飲む酒も灼熱地獄の熱で温めた熱燗が多くなった。中には我慢比べと称して冷酒ばかり飲む輩もいるようだが。
そんな地底ではあったが私はどんな季節であろうと変わらない。自分の責務、もとい、橋姫という妖怪の本分を果たしていた。
「とはいえ、今日は一段と寒いわね」
いつもの季節ならばスカーフを首に巻いているのだが、最近はマフラーを巻いている。もこもこしていて、ほんのりピンク色。私にしてはファンシーすぎるカラーリングだが、頂き物なので私が選んだわけではない。だが意外と似合っているらしい。なにより温かい。
「うー……これが無かったら寒くて死んでたわ……」
私だってそれなりのランクに属する妖怪であり、冬の寒さ程度で死に絶えるようなことは間違ってもありえないが、寒いものは寒い。寒さを防ぐ工夫はするに越したことはない。それに、私は寒いのはあまり好きではない。
そんなことを思いながらいつも通りに橋の守護という名目の暇つぶしをしているとふわふわと白い輝きが頭上から降ってくるのに気がついた。
「雪だなんて、冷え込むわけだわ」
冬になれば寒くなり、寒くなれば雪が降る。地底なのにいったいどういう仕組みかは知らないが地底にも雪は降る。
手のひらを何もない空間に差し出すと、雪がふわりと舞い降りる。手のひらに降りた雪は程無くして解け、幻想的な純白はなんてことのない雫に姿を変えた。
「……妬ましいわね」
美しい純白の輝き。私が瞳に宿す嫉妬の緑なんかとは違う、穢れのない結晶。
「美しいものは妬ましい」
人の目に映れば美しい姿。しかし人の手に触れれば消えてしまう。跡形もなく、消えてしまう。
「……消えてしまえるなんて、妬ましい」
私は嫉妬の妖怪だ。人、動物、妖怪でさえも、知性を宿す生き物に宿る汚らわしい負の感情の集合体。それが橋姫、嫉妬を糧に生きる者。
同じ結晶でも、私は醜い嫉妬の結晶だ。
――寒い
手のひらに解かした水滴の感覚と、
――冷たい
わたしを包む、つめたさが
――つめたい
―――しい
あの日の橋の下の冷たさのようで
―――妬ましい
「パルスィ!!」
不意に掛けられた大声に我に返った私は、一寸遅れて声の主を特定し、
「さと、り?」
声の主が私の肩を揺すって、私の顔をその赤い瞳で必死に見つめていることに気付いた。
「よかった、我に返ったようですね……」
「あ……ごめん、ありがと」
そして私はようやく事態を把握した。心が乱れて、我を失っていたようだ。
……いけない。昔のことなんて思い出すから、いけない。
さとりが橋に来たのは偶然らしい。何となく街に出かけていて、今日はずいぶん寒いから、パルスィが橋の上で野垂れ死んでいたらどうしましょう、とふと思ったとは彼女の弁。
「パルスィが橋で死んでいたら、せっかく地底に来た人が帰ってしまうじゃないですか。そんな歓迎一発芸要りません。来てみたら何やら本当に大変なことになっているとは思いませんでしたが」
だ、そうだ。地底にそもそも人は滅多に来ないし、死体ごっこによる一発芸なんて私もしたくはないが、口に出してツッコむのは疲れていたのでやめておいた。
そうやっていつだって適当な理由を付けてさとりは橋に遊びに来る。今しがた説明したここに来た理由も明らかに本心ではない。というか本気でそんな考えで来たのならこちらから地霊殿に送り返す、川流しで。桃にでも詰めてどんぶらこどんぶらこと流すのが良いだろうか。
そうやっていつも通りの他愛もない会話をしに、よくある"偶然"でさとりは訪れるのだ。
――と、そのいつも通りの会話をしていたが、どうにもやはり調子が悪い。
「……それなら少し休んでいたらどうですか。家まで送りますし」
「そこまでのことじゃないわ。でもちょっと座って休む……」
私がそう告げて橋の上に腰を下ろす。
さとりは黙って横で立っていた。橋の上で黙って待つのは寒くないかとも思ったが、そんな私の心を読んですぐに返事が返ってくる。
「着込んで来たので寒くはありませんよ」
一言だけ告げる。確かにさとりはコートにマフラー、毛糸の帽子に身を包み、肩からは可愛らしいポシェットを下げている。妹のこいしほど少女趣味を前面に出してはいないが、それでも十分にファンシー。一言で言うと、可愛い。
と、思ってさとりを見ると目が合った。マフラーで口元は見えないがなんだか嬉しそうだ。あぁ、可愛いって思われて嬉しいんだ。
「……黙って休んでてくれませんか」
別に言葉に出して喋ってないんだけども。
「ああ、そういえばマフラー使ってくれてるのですね。作ったかいがありました」
そう、私が付けているマフラーはさとりから貰ったものである。頂き物、と誰からもらったかは濁していたが。だってほら、恥ずかしいじゃないか。なんとなく。
「あなたも可愛いですよ。似合います」
先程私にしてやられたのが悔しいのか、今度は私をからかってきた。
「愛するパルスィの事を思いながらせっせと夜なべして縫いましたからね。おかげであの時期は1日の平均睡眠時間が8時間に減ってしまいました」
その睡眠時間なら十分じゃないのか。じゃあ普段はどれだけ寝てるんだこの引きこもりは。
そんな感じで一方的な会話をされながら休んでいたおかげで、だんだんと調子も良くなってきた。よいしょ、と立ち上がった私にさとりは声をかけた。
「おや、もう大丈夫ですか?」
「大丈夫……おっとっと……」
と、思ったがよろけてしまった。結局、先程私の身に何が起きたかはわからないが、身体にはまだその余波があるようだ。
「……どこが大丈夫なんですか。酔っ払いでもあるまいし。水でも持ってきましょうか?」
「ん……それは大丈夫、ちょっと腰掛けて休むくらいでいい」
そう言って欄干に腰を預けた。
「そうですか。まぁ飲めたものかわからないですしね。この川の水」
お前はいったい何を飲ませようとしていたんだ。先程まで本気で心配してくれていたようには思えない発言である。
「ちゃんと心配していたに決まっているじゃないですか。そうでなければ、私があんな大きな声出したりしないでしょう?」
「まぁ、それはよくわかってるけど」
さとりは普段静かだ。というか普段他者と会ったりしないから会話も少ないし、話す時も静かな自分の邸宅で話すからそれほど大きな声量を必要としない。そんな環境に居るものだから、大きな声を出すのは苦手な方だ。
そんな彼女が私の意識を醒ますためにあれだけ大きな声を出していたんだから心配していないはずはない。
「大きな声を出したからちょっと喉も枯れてしまいましたよ……ちょっと失礼」
と、肩から下げたポシェットの懐から銀製の水筒……たんぶらー?って言うんだっけ?を取り出し、こくこくと飲み物を飲み始めた。あら便利。ってそうじゃなくて。
「……あんた、さっき人には川の水飲ませようとしていなかった?」
「いえ、持ってきたのがホットココアなので、パルスィが甘いもの苦手だったらどうしようかと思いまして」
ココアと川の水だったら大多数の者はココアを選ぶのではなかろうか。仮に甘い飲み物が苦手でも。判断基準の閾値がおかしい。
「……別に苦手じゃないんだけど、甘いの」
「そうでしたそうでした。パルスィの好みを失念していました」
そんなことを非常にわざとらしい口調と身ぶりで答える。
「別にそのくらい忘れててもいいんだけどね」
「冗談ですよ。甘いものは好きでもないけど嫌いでもない。でも猫舌だから熱すぎるものはちょっと苦手、ですね?」
そう言うとさとりは私の隣に並び、欲したものを差し出す。
「猫舌なあなたでも飲める程度の温かさですよ」
「う、ありがと」
二人で橋の欄干を背にして隣合う。
「おいしい」
熱すぎずちょうどいい温度だ。甘くておいしくて、温まる。
機械的な筒をさとりに返すと、手際良く蓋を閉め、それをまたポシェットにしまった。うーん、これは便利。河童に問い合わせてみよう。
「パルスィに関する事ならちゃんと覚えてます。忘れるわけがないじゃないですか」
私の事を覚えている。
「なんでも、ね」
「ええ、なんでも覚えていますよ、きっと」
「それは」
それは良いこともどうでもいいことも――悪いことも――覚えているということ。
「私が消えてしまっても、覚えている?」
――自分でもわからないのに、どうしてかそんな言葉が口をついてしまった。
「……」
途端に空気は変わり、さとりは黙ってしまった。なんでそんな質問をしてしまったのかわからない。
「……」
しかし、なんでもない、と撤回する気にもなれなかった。自分でもわからない。さっきの動揺がまだ続いているのか。
そうやって少しの沈黙が二人を包む。雪が降っているからか、世界の音が全て無くなってしまったかのような感覚に陥る。
「……パルスィ、雪は嫌いですか」
音の無い世界で先に口を開いたのはさとりだった。質問に質問で返すのはあまり感心しない。
「……どうして、そんな事を聞くの」
そういう私も質問で返してしまった。少し躊躇した後にさとりは答える。
「……先程、貴女を止めたときに、視えてしまったので」
視えた、というのは当然私の心の中だろう。そういえばどうして私はああなってしまったのだろう。なんとなくしか覚えていない。
ああ……そういえば、何か嫌な事を思い出したんだ。雪を見ていて。
「思い出さないで」
ピシャリとさとりが告げて私の思考を遮断する。
「思い出さないで、ください」
二度目は一度目より少し弱々しく、同じ言葉を続けた。
「……そう何度もあんな風にならないわよ」
さとりは厳しい顔をして私を見ている。それは裏を返せば不安だということだろう。
「大丈夫」
そう言うと余計に心配するかとも思ったが、今度は大丈夫な気がしたからそう言った。そして想いを馳せる。私が思い出した、何かの記憶に、
「……多分、さとりが視たのは……私が思い出したのは、私の過去の断片。橋姫になる前の」
今日と似た、でも何かが決定的に違う。寒い雪空の記憶。
「いや、橋姫になる寸前の時、かな」
違うのは私が妖怪か人間だったかの差だけではきっとないのだろう。
人を妬んで鬼になった日。
冷たい川の中で、燃えるような暗い嫉妬に力を望んだ日。
身体は冷えていくのに、心だけは嫉妬の灯で燃えていく。
ふと、空を見上げたら雪が降っていた。
――ああ、綺麗で、冷たくて
――妬ましい
それがきっと人間としての"私"の最期の記憶。
それがきっと橋姫としての水橋パルスィの最初の記憶。
「寒い日は嫌いなの」
雪は、私の最初の嫉妬だから。
「ああ、だから」
だから、燃え盛る嫉妬を思い出してしまったんだ。
嫉妬に身を焦がし、何もかもを焼き尽くしたことを。そうして焦がれても何も残らないことを、思い出してしまったんだ。
「勝手に想起させて自分は消えてしまうなんて、妬ましいじゃない」
何も残らない私を置いて消えていく雪。
綺麗な雪は消えていく。醜い私は消えずに残る。
残った私の醜い嫉妬は、また他者を妬いて、焼いて、殺してしまう。
そして残るのはいつだって大嫌いな私一人。
「……そんなの、寂しすぎるじゃ、ない」
変わらずしんしんと降る雪の中で、少し声が震えた。
「パルスィ」
さとりが静かに私の名前を呼んだ。静かだけど、凛とした声で、はっきりと聞こえた。
「寒い日は嫌いですか」
「……うん」
「それなら」
さとりの小さな手が、私の手に触れた。
「寒いですか」
きゅ、と暖かな熱が握ってくれた手から私の手に伝わる。
「……ううん、あったかい」
驚いたのに、落ち着いているのは何故だろう。それ以上に安心しているからだろうか。
「ありがとう」
握ってくれた手を、私も握り返す。強く握れば折れてしまいそうなさとりの細い指に優しく返す。
「先程私が視たのは」
私を見ずに、さとりは俯いて、言葉だけを投げ掛ける。
「嫉妬よりも、寂しさでしたよ」
「……」
そんなさとりを見ながら私は黙って聞いていた。
「嫉妬の中に、どうしようもない寂しさが、見えました」
「……寂しさ」
そうか、そうなのかもしれない。それに、さっき自分でも言ったばかりだ。そんなの、寂しすぎる、と。
「ごめんなさい」
どうして。
……どうして、さとりが泣きそうな声でそんなことを言うのだろう。
「あなたの記憶を視るだけで、私には何もできない」
私の手を握る手に少しだけ力が込められる。
「あなたの話を聞いても、あなたの寂しさがわかっても、私にできることが見つけられない」
そんなこと。
「こうして、隣に立って、手を繋いで、それだけしかできない」
「……それだけで」
自然と口から言葉が出ていた。
「それだけで、いい」
「それしかできないのにですか」
「傍にいれば」
さとりのもう片方の手を私から握る。
「……傍にいてくれれば、あたたかい」
うつむいていたさとりが私を見上げた。
今にも泣きそうな顔をして、私を見ている。
「……そんなことで、いいんですか」
いつも小さい声が、余計に小さく、震えて聞こえた。
「十分よ」
雪は変わらず、空の無い地底の空から降っている。
「さとりが隣にいてくれるなら、もう寒くないから」
だから、そのまま傍に居て欲しいと、そう思った。
「……うん、それならもう少し、二人で雪を眺めていましょうか」
私とさとりの距離が近付く。
二人で手を繋いで、地底の空から降る雪を眺めていた。
地底に、旧都に雪が降る。
音の無い、冷たい世界に降る雪はとても綺麗で、妬ましくて。でも、
――こうして二人で見る雪なら、悪くない。そう思った。
そんな地底ではあったが私はどんな季節であろうと変わらない。自分の責務、もとい、橋姫という妖怪の本分を果たしていた。
「とはいえ、今日は一段と寒いわね」
いつもの季節ならばスカーフを首に巻いているのだが、最近はマフラーを巻いている。もこもこしていて、ほんのりピンク色。私にしてはファンシーすぎるカラーリングだが、頂き物なので私が選んだわけではない。だが意外と似合っているらしい。なにより温かい。
「うー……これが無かったら寒くて死んでたわ……」
私だってそれなりのランクに属する妖怪であり、冬の寒さ程度で死に絶えるようなことは間違ってもありえないが、寒いものは寒い。寒さを防ぐ工夫はするに越したことはない。それに、私は寒いのはあまり好きではない。
そんなことを思いながらいつも通りに橋の守護という名目の暇つぶしをしているとふわふわと白い輝きが頭上から降ってくるのに気がついた。
「雪だなんて、冷え込むわけだわ」
冬になれば寒くなり、寒くなれば雪が降る。地底なのにいったいどういう仕組みかは知らないが地底にも雪は降る。
手のひらを何もない空間に差し出すと、雪がふわりと舞い降りる。手のひらに降りた雪は程無くして解け、幻想的な純白はなんてことのない雫に姿を変えた。
「……妬ましいわね」
美しい純白の輝き。私が瞳に宿す嫉妬の緑なんかとは違う、穢れのない結晶。
「美しいものは妬ましい」
人の目に映れば美しい姿。しかし人の手に触れれば消えてしまう。跡形もなく、消えてしまう。
「……消えてしまえるなんて、妬ましい」
私は嫉妬の妖怪だ。人、動物、妖怪でさえも、知性を宿す生き物に宿る汚らわしい負の感情の集合体。それが橋姫、嫉妬を糧に生きる者。
同じ結晶でも、私は醜い嫉妬の結晶だ。
――寒い
手のひらに解かした水滴の感覚と、
――冷たい
わたしを包む、つめたさが
――つめたい
―――しい
あの日の橋の下の冷たさのようで
―――妬ましい
「パルスィ!!」
不意に掛けられた大声に我に返った私は、一寸遅れて声の主を特定し、
「さと、り?」
声の主が私の肩を揺すって、私の顔をその赤い瞳で必死に見つめていることに気付いた。
「よかった、我に返ったようですね……」
「あ……ごめん、ありがと」
そして私はようやく事態を把握した。心が乱れて、我を失っていたようだ。
……いけない。昔のことなんて思い出すから、いけない。
さとりが橋に来たのは偶然らしい。何となく街に出かけていて、今日はずいぶん寒いから、パルスィが橋の上で野垂れ死んでいたらどうしましょう、とふと思ったとは彼女の弁。
「パルスィが橋で死んでいたら、せっかく地底に来た人が帰ってしまうじゃないですか。そんな歓迎一発芸要りません。来てみたら何やら本当に大変なことになっているとは思いませんでしたが」
だ、そうだ。地底にそもそも人は滅多に来ないし、死体ごっこによる一発芸なんて私もしたくはないが、口に出してツッコむのは疲れていたのでやめておいた。
そうやっていつだって適当な理由を付けてさとりは橋に遊びに来る。今しがた説明したここに来た理由も明らかに本心ではない。というか本気でそんな考えで来たのならこちらから地霊殿に送り返す、川流しで。桃にでも詰めてどんぶらこどんぶらこと流すのが良いだろうか。
そうやっていつも通りの他愛もない会話をしに、よくある"偶然"でさとりは訪れるのだ。
――と、そのいつも通りの会話をしていたが、どうにもやはり調子が悪い。
「……それなら少し休んでいたらどうですか。家まで送りますし」
「そこまでのことじゃないわ。でもちょっと座って休む……」
私がそう告げて橋の上に腰を下ろす。
さとりは黙って横で立っていた。橋の上で黙って待つのは寒くないかとも思ったが、そんな私の心を読んですぐに返事が返ってくる。
「着込んで来たので寒くはありませんよ」
一言だけ告げる。確かにさとりはコートにマフラー、毛糸の帽子に身を包み、肩からは可愛らしいポシェットを下げている。妹のこいしほど少女趣味を前面に出してはいないが、それでも十分にファンシー。一言で言うと、可愛い。
と、思ってさとりを見ると目が合った。マフラーで口元は見えないがなんだか嬉しそうだ。あぁ、可愛いって思われて嬉しいんだ。
「……黙って休んでてくれませんか」
別に言葉に出して喋ってないんだけども。
「ああ、そういえばマフラー使ってくれてるのですね。作ったかいがありました」
そう、私が付けているマフラーはさとりから貰ったものである。頂き物、と誰からもらったかは濁していたが。だってほら、恥ずかしいじゃないか。なんとなく。
「あなたも可愛いですよ。似合います」
先程私にしてやられたのが悔しいのか、今度は私をからかってきた。
「愛するパルスィの事を思いながらせっせと夜なべして縫いましたからね。おかげであの時期は1日の平均睡眠時間が8時間に減ってしまいました」
その睡眠時間なら十分じゃないのか。じゃあ普段はどれだけ寝てるんだこの引きこもりは。
そんな感じで一方的な会話をされながら休んでいたおかげで、だんだんと調子も良くなってきた。よいしょ、と立ち上がった私にさとりは声をかけた。
「おや、もう大丈夫ですか?」
「大丈夫……おっとっと……」
と、思ったがよろけてしまった。結局、先程私の身に何が起きたかはわからないが、身体にはまだその余波があるようだ。
「……どこが大丈夫なんですか。酔っ払いでもあるまいし。水でも持ってきましょうか?」
「ん……それは大丈夫、ちょっと腰掛けて休むくらいでいい」
そう言って欄干に腰を預けた。
「そうですか。まぁ飲めたものかわからないですしね。この川の水」
お前はいったい何を飲ませようとしていたんだ。先程まで本気で心配してくれていたようには思えない発言である。
「ちゃんと心配していたに決まっているじゃないですか。そうでなければ、私があんな大きな声出したりしないでしょう?」
「まぁ、それはよくわかってるけど」
さとりは普段静かだ。というか普段他者と会ったりしないから会話も少ないし、話す時も静かな自分の邸宅で話すからそれほど大きな声量を必要としない。そんな環境に居るものだから、大きな声を出すのは苦手な方だ。
そんな彼女が私の意識を醒ますためにあれだけ大きな声を出していたんだから心配していないはずはない。
「大きな声を出したからちょっと喉も枯れてしまいましたよ……ちょっと失礼」
と、肩から下げたポシェットの懐から銀製の水筒……たんぶらー?って言うんだっけ?を取り出し、こくこくと飲み物を飲み始めた。あら便利。ってそうじゃなくて。
「……あんた、さっき人には川の水飲ませようとしていなかった?」
「いえ、持ってきたのがホットココアなので、パルスィが甘いもの苦手だったらどうしようかと思いまして」
ココアと川の水だったら大多数の者はココアを選ぶのではなかろうか。仮に甘い飲み物が苦手でも。判断基準の閾値がおかしい。
「……別に苦手じゃないんだけど、甘いの」
「そうでしたそうでした。パルスィの好みを失念していました」
そんなことを非常にわざとらしい口調と身ぶりで答える。
「別にそのくらい忘れててもいいんだけどね」
「冗談ですよ。甘いものは好きでもないけど嫌いでもない。でも猫舌だから熱すぎるものはちょっと苦手、ですね?」
そう言うとさとりは私の隣に並び、欲したものを差し出す。
「猫舌なあなたでも飲める程度の温かさですよ」
「う、ありがと」
二人で橋の欄干を背にして隣合う。
「おいしい」
熱すぎずちょうどいい温度だ。甘くておいしくて、温まる。
機械的な筒をさとりに返すと、手際良く蓋を閉め、それをまたポシェットにしまった。うーん、これは便利。河童に問い合わせてみよう。
「パルスィに関する事ならちゃんと覚えてます。忘れるわけがないじゃないですか」
私の事を覚えている。
「なんでも、ね」
「ええ、なんでも覚えていますよ、きっと」
「それは」
それは良いこともどうでもいいことも――悪いことも――覚えているということ。
「私が消えてしまっても、覚えている?」
――自分でもわからないのに、どうしてかそんな言葉が口をついてしまった。
「……」
途端に空気は変わり、さとりは黙ってしまった。なんでそんな質問をしてしまったのかわからない。
「……」
しかし、なんでもない、と撤回する気にもなれなかった。自分でもわからない。さっきの動揺がまだ続いているのか。
そうやって少しの沈黙が二人を包む。雪が降っているからか、世界の音が全て無くなってしまったかのような感覚に陥る。
「……パルスィ、雪は嫌いですか」
音の無い世界で先に口を開いたのはさとりだった。質問に質問で返すのはあまり感心しない。
「……どうして、そんな事を聞くの」
そういう私も質問で返してしまった。少し躊躇した後にさとりは答える。
「……先程、貴女を止めたときに、視えてしまったので」
視えた、というのは当然私の心の中だろう。そういえばどうして私はああなってしまったのだろう。なんとなくしか覚えていない。
ああ……そういえば、何か嫌な事を思い出したんだ。雪を見ていて。
「思い出さないで」
ピシャリとさとりが告げて私の思考を遮断する。
「思い出さないで、ください」
二度目は一度目より少し弱々しく、同じ言葉を続けた。
「……そう何度もあんな風にならないわよ」
さとりは厳しい顔をして私を見ている。それは裏を返せば不安だということだろう。
「大丈夫」
そう言うと余計に心配するかとも思ったが、今度は大丈夫な気がしたからそう言った。そして想いを馳せる。私が思い出した、何かの記憶に、
「……多分、さとりが視たのは……私が思い出したのは、私の過去の断片。橋姫になる前の」
今日と似た、でも何かが決定的に違う。寒い雪空の記憶。
「いや、橋姫になる寸前の時、かな」
違うのは私が妖怪か人間だったかの差だけではきっとないのだろう。
人を妬んで鬼になった日。
冷たい川の中で、燃えるような暗い嫉妬に力を望んだ日。
身体は冷えていくのに、心だけは嫉妬の灯で燃えていく。
ふと、空を見上げたら雪が降っていた。
――ああ、綺麗で、冷たくて
――妬ましい
それがきっと人間としての"私"の最期の記憶。
それがきっと橋姫としての水橋パルスィの最初の記憶。
「寒い日は嫌いなの」
雪は、私の最初の嫉妬だから。
「ああ、だから」
だから、燃え盛る嫉妬を思い出してしまったんだ。
嫉妬に身を焦がし、何もかもを焼き尽くしたことを。そうして焦がれても何も残らないことを、思い出してしまったんだ。
「勝手に想起させて自分は消えてしまうなんて、妬ましいじゃない」
何も残らない私を置いて消えていく雪。
綺麗な雪は消えていく。醜い私は消えずに残る。
残った私の醜い嫉妬は、また他者を妬いて、焼いて、殺してしまう。
そして残るのはいつだって大嫌いな私一人。
「……そんなの、寂しすぎるじゃ、ない」
変わらずしんしんと降る雪の中で、少し声が震えた。
「パルスィ」
さとりが静かに私の名前を呼んだ。静かだけど、凛とした声で、はっきりと聞こえた。
「寒い日は嫌いですか」
「……うん」
「それなら」
さとりの小さな手が、私の手に触れた。
「寒いですか」
きゅ、と暖かな熱が握ってくれた手から私の手に伝わる。
「……ううん、あったかい」
驚いたのに、落ち着いているのは何故だろう。それ以上に安心しているからだろうか。
「ありがとう」
握ってくれた手を、私も握り返す。強く握れば折れてしまいそうなさとりの細い指に優しく返す。
「先程私が視たのは」
私を見ずに、さとりは俯いて、言葉だけを投げ掛ける。
「嫉妬よりも、寂しさでしたよ」
「……」
そんなさとりを見ながら私は黙って聞いていた。
「嫉妬の中に、どうしようもない寂しさが、見えました」
「……寂しさ」
そうか、そうなのかもしれない。それに、さっき自分でも言ったばかりだ。そんなの、寂しすぎる、と。
「ごめんなさい」
どうして。
……どうして、さとりが泣きそうな声でそんなことを言うのだろう。
「あなたの記憶を視るだけで、私には何もできない」
私の手を握る手に少しだけ力が込められる。
「あなたの話を聞いても、あなたの寂しさがわかっても、私にできることが見つけられない」
そんなこと。
「こうして、隣に立って、手を繋いで、それだけしかできない」
「……それだけで」
自然と口から言葉が出ていた。
「それだけで、いい」
「それしかできないのにですか」
「傍にいれば」
さとりのもう片方の手を私から握る。
「……傍にいてくれれば、あたたかい」
うつむいていたさとりが私を見上げた。
今にも泣きそうな顔をして、私を見ている。
「……そんなことで、いいんですか」
いつも小さい声が、余計に小さく、震えて聞こえた。
「十分よ」
雪は変わらず、空の無い地底の空から降っている。
「さとりが隣にいてくれるなら、もう寒くないから」
だから、そのまま傍に居て欲しいと、そう思った。
「……うん、それならもう少し、二人で雪を眺めていましょうか」
私とさとりの距離が近付く。
二人で手を繋いで、地底の空から降る雪を眺めていた。
地底に、旧都に雪が降る。
音の無い、冷たい世界に降る雪はとても綺麗で、妬ましくて。でも、
――こうして二人で見る雪なら、悪くない。そう思った。
このふたりには静かで肌寒いくらいの雰囲気が似合いますね。
過去作見てみたら大体読んでて吹いたw
パルスィには儚い雪がよく似合う……