幻想郷の紅魔館のすぐそばにある霧の湖に一匹の人魚が住んでいました。
彼女の名前はわかさぎ姫。
おっとりした性格で、争い事は好まず、普段は石を拾ったり歌を歌ったりのんびりと生活していました。
元々幻想郷が各々のペースで生きているのんびりとした場所でした。
わかさぎ姫もこのままずっとのんびりと暮らしていくんだわ、と思っていました。
そんな、ある日の事。
わかさぎ姫の元に尋ね人がありました。
「こんにちは、私の名前は西行寺幽々子」
「こ、こんにちは。
私はわかさぎ姫です。ご覧のとおり人魚をやってます」
見慣れない人物だったので、わかさぎ姫はおどおどしながら答えます。
西行寺幽々子の名前を頭のデータベースから引っ張り出そうとしますが、彼女は元々頭の弱い子ですから、いくら頭を捻ったところで出てきません。
――なんだろ? この人は私に何の用事なんだろ?
わかさぎ姫に不安が広がります。
「早速で悪いんだけど、あなた食べてもいいかしら?」
「へ? ……食べる? 私を?」
わかさぎ姫は何を言われたのか理解できずに、幽々子の言葉を反復します。
そして、徐々にわかさぎ姫の頭が理解し始めました。
「ええ~~~っ!!!!!!」
そのわかさぎ姫の叫び声はローレライ伝説の如く、湖中に響き渡りました。
その音でびっくりした氷の妖精が湖に落ち、それを助けようとした緑髪のポニテ妖精が湖に飛び込みましたが、それは些細な問題でした。
そんな叫び声でしたが、当の幽々子はどこ吹く風のよう。
全く表情を崩さず、のんびりとした様子でわかさぎ姫の方を見ています。
「だ、ダメですよ! 私、食べられたら死んじゃいますしっ!」
「そうね。
では、無理やり食べてしまおうかしら」
幽々子はそんな言葉を表情変えずにニコニコ顔のまま言うのです。
わかさぎ姫にとっては恐怖でしかありませんでした。
「わ、私、食べても美味しくありませんし!」
わかさぎ姫にしてみたら納得の言い訳でしたが、幽々子にはそんなものは効きません。
「そんな事ないわ。人魚の肉って美味しそうだし」
「ダメですってばぁ」
「お腹すいてきたし」
「非常食みたいな感じで私を食べないでくださいっ!」
会話の最中にも、わかさぎ姫は必死にこの場を逃げ切る方法を考えていました。
わかさぎ姫は力の弱い妖怪ですから、力勝負はもっての他、弾幕勝負でも勝ち目はありません。
では、逃げる? ……無理でしょう。
いろいろ考えるわかさぎ姫にとあるアイデアが生まれました。
「私のお父さんがっ!」
「お父さんがどうかしたのかしら?」
一度切り出してしまえば、もうこの策で行くしかありません。
わかさぎ姫は思いつくままにしゃべり始めました。
「私のお父さんが重病で今夜が峠なのです。
娘として今夜だけはお父さんのそばにいたいのです」
ふーむ、と幽々子は考え始めました。
わかさぎ姫に父なんてもちろんいません。口からの出まかせです。
いつ幽々子にばれてしまうのか、わかさぎ姫ははらはらしながら見守っていました。
「そうね。
たしかに親の死に目に会えない事程親不孝な事はないわ。
今日はあなたを見逃してあげる。でも、今度会った時は容赦しないからね」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
こうして、わかさぎ姫は何とか危機を脱したのでした。
それから数日の間、わかさぎ姫は幽々子の影におびえながらびくびくと暮らしていました。
もちろん霧の湖にも近づいていません。森の中でひっそりとしていました。
ですが、一週間経ち、二週間経ち、一か月もすると、わかさぎ姫は霧の湖が恋しくなりまた元の場所で暮らす事にしました。
しばらくは平穏な日が続きました。
わかさぎ姫は相変わらず、このままずっとのんびりと暮らしていくんだわ、と考え始めました。
幽々子の事なんてすっかりと忘れていました。
そんな頃に、また悪夢がやってくるのです。
「こんにちは、人魚さん。お久しぶりね」
「こ、こんにちは」
挨拶を返したものの、わかさぎ姫は訪問者が誰か忘れていました。
「今度会ったら容赦しないと言ったはずよね。
今日はあなたを美味しく頂くわね」
お・も・い・だ・し・た!!
わかさぎ姫の脳裏に以前のやりとりがフラッシュバックされます。
――私のバカ! なんで霧の湖に戻ったのよ! 森の中で暮らしていればよかったのに! 私のバカ、バカ!
自分を罵りますが、後の祭り。今はこの場を切り抜けなければいけません。
「人魚の肉が美味しそうって言ってましたが、あれは単なる伝承です。
実際はすっごくまずくて、幽々子さんのお腹を壊しちゃいます」
「ふーん、人魚が言うんだからその情報に間違いはないのかもしれないわね。
でも、人魚の肉を食べたら不老不死になれるのは本当でしょ?」
「ひーーーっ!」
幽々子は亡霊姫だから不老不死なんて関係ないじゃん! ――というつっこみは、今の切羽詰まったわかさぎ姫にはできませんでした。
――食べられちゃう! 私、食べられちゃうよ!
わかさぎ姫はこの場を乗り切るために必死にアイデアを探しました。
「私のお母さんがっ!」
「お母さんがどうかしたのかしら?」
勝手にしゃべりだした口を止める事はできません。
ええーい、ままよ! と、わかさぎ姫はそのままの勢いで続けました。
「私のお母さんが重傷で今夜が峠なのです。
娘として今夜だけはお母さんのそばにいたいのです!」
「ふーむ」
もちろん母が重傷なんて嘘の話です。そもそもわかさぎ姫は天涯孤独の身。
親兄弟がいるわけがありません。
「たしかに親の死に目に会えない事程の親不孝はないわ。
分かったわ、今日だけはあなたを見逃してあげる。でも、次に会ったときは絶対に食べてあげるからね、じゅるり」
こうして、わかさぎ姫は二度目の危機を脱したのでした。
それからのわかさぎ姫は一層注意して生活するようになりました。
霧の湖に近づく事もせず、森の中でひっそりと暮らしていました。
でも、ずっと住んでいた場所はやはり恋しくなるもの。
最初は霧の湖に様子見をし、徐々に行く回数を増やし、しまいには霧の湖でまた暮らし始めました。
ですが、今回のわかさぎ姫は一味違います。
幽々子と出会った時の言い訳をたくさん考えておきました。
これでもう出会っても怖くありません。
わかさぎ姫は元の場所でのんびりと暮らし始めました。
そして、また。幽々子がやってきました。
「お久しぶり。今日こそはちゃんと頂きに来たわ」
「こんにちは。
ですが、私はもう食べられるわけにはいかなくなったのです」
「あら、なぜかしら?」
幽々子が来る前に何回も練習したセリフを頭の中で反復させながら、わかさぎ姫は答えました。
「お父さんも死に、お母さんも死に、私は孤独の身となってしまいました。
私の命はもう私だけのものではありません。
お父さんとお母さんの分も生きなければならなくなったのです。
私の命を簡単にあなたに差し上げる事はできません」
会心のセリフだ、とわかさぎ姫は心の中でガッツポーズを取りました。
これが上手くいけば幽々子に食べられる心配はなくなるはずです。
わかさぎ姫はわくわくしながら幽々子の返答を待っていました。
でも、幽々子の反応はわかさぎ姫が予想していたものと違うものでした。
「残念ね」
「え?」
「あなたの嘘は面白かったから、しばらくは生かしてあげたのに。
最後にそんなつまらない嘘を持ってくるなんて。ほんとに残念だわ」
「ど、ど、ど、どういう事ですか? ウソデハアリマセンヨ?」
一度嘘とばれただけで、わかさぎ姫の化けの皮は簡単にはがれました。
今のわかさぎ姫を見たら誰でも嘘をついている事が分かる事でしょう。
それほどまでに今のわかさぎ姫は動揺していました。
「私は幻想郷における亡霊の管理をしている身だもの。
あなたのお父様やお母様が亡くなったら、私が分からないはずがないわ」
「あ……あ……う……」
わかさぎ姫は言葉に詰まってしまいました。
だったら次の策で、と考えたわかさぎ姫でしたが、次の瞬間に敗北をさとってしまいました。
なぜなら、わかさぎ姫が考えた残りの策は一つ目が「お兄ちゃんが不治の病で」という理由で、二つ目が「桃園の誓いを立てた義理の妹が」という理由だったからです。
もうわかさぎ姫に打つ手はありません。
あとは、せめて痛くないようにして、と願うばかりでした。
一歩、また一歩と幽々子がわかさぎ姫に迫ります。
――もう、ダメだ。
わかさぎ姫がぎゅっと目をつぶった時でした。
「よくもアタイを湖に落としてくれたわね!!」
湖の中から現れたのは氷の妖精――チルノでした。
わかさぎ姫が最初幽々子に出会った時に驚いた声で、誤って湖に落ちたあのチルノです。
チルノはあれからずっと湖の中にいたのです。
長い間湖の中で生活していたせいか、チルノには水かきが生え、背びれが生え、完全に水生生物へと変化していました。
このチルノの登場にはわかさぎ姫はもちろんの事、幽々子もぽかんとしながら突然の来訪者を見ています。
「かっちんこっちんにしちゃうんだから! パーフェクトフリーズ!!」
「え!? きゃーーーっ」
チルノの行動は迅速でした。
放ったスペルカードにより、わかさぎ姫はあっという間に氷漬けにされてしまったのです。
わかさぎ姫を氷漬けにした事で満足したチルノはあっさりとその場を去っていきました。
残されたのは幽々子ただ一人。
氷漬けのわかさぎ姫を手でこんこん、と叩いてみますが簡単に溶けそうにはありません。
「氷漬けにされたら食べる事はできないわね」
溜息をつくと、幽々子は名残惜しそうに去っていきました。
こうしてわかさぎ姫はなんとか食べられる事を逃れたのでした。
氷が解けた頃にまた、わかさぎ姫と幽々子の戦いは始まるのでしょうか?
それは別の機会に、という事にしましょうか。
おしまい。
でもわかさぎ姫は食べようとはしないでくださいよ。
妖夢が捌くのに困っちゃいますから。
次は友達の影狼が助けに来て邪悪な亡霊を倒し、二人は結ばれてめでたしめでたし、とかになりそうですね
妖精は…環境に適応する!などとカッコイイ文章がなぜか頭の内から聞こえたので面白かったんだと思います
わかさぎ姫の慌てる姿いいですね。とてもかわいいです。
いや残酷だからこそ童話なのかな。
童話らしいテーマと童話らしいオチでした