天界には季節の流れがない。
一年を通して桃が実り、寒くもなく暑くもない絶妙な気温が保たれ、何不自由なく暮らすことができる世界だ。冬の飢えを恐れる必要も、夏の日照りを心配する必要もない。しかし比那名居天子は、そんな天界が嫌いだった。そこでどれだけの時間を過ごしても、生きているという実感がない。生きるというのは、桃を食べることでも酒を飲むことでも詩を詠むことでもなく、もっと違う何かのはずなのだ。
「全くもう」
天子は要石に座ったまま天界をぐるりと見渡して、右手で握った桃に噛り付いた。天界の桃は硬く味がない。腹を満たし、体を強くしてくれるが、退屈を潰してはくれない。要するに天子は飽きているのだ。自分を囲う世界にも、そこに住まう人々にも。
「また下界に降りようかしら・・・」
言うが早いか、天子は残った桃を口の中に無理矢理押し込み、下界に向かって飛び立った。
ーーー
天人は下界に降り立つと、高尚な説弁をして民衆を導く。天子も人里で何度かその真似事をしたが、全く面白くなかった。自分自身ですら守れないような教訓を並べて楽しいわけがない。それではただの詐欺師と何ら変わらないではないか。天子が地上に向かうのは、人里に説教しに行くためではない。博麗神社という寂れた神社の巫女、博麗霊夢をからかうためである。
博麗神社は、人里離れた山の中腹にある神社である。ここには博麗の巫女が生活しており、異変解決や妖怪退治によって人妖の均衡を守っている。博麗霊夢は当代の博麗の巫女であり、スペルカードを発明するなど、今までの巫女に比べると異端に位置する少女だ。様々な妖怪と馴染みが深く、天子も下界に降りる度に彼女の元に訪れていた。
天子は博麗神社に降り立つと、鳥居をくぐり拝殿を抜け、呼び鈴をならすこともせずに玄関を開けて、ずんずんと中に進んで行った。そして居間でお茶をすする霊夢を発見した。満足気にお茶をすするその姿は、酒を呑んでいる時の天人のそれに似ていて何となく腹が立つ。お茶を飲むだけで何故そんなに幸せそうなのか、天子には全く分からなかった。
「お邪魔するわよ」
「もうしてるじゃない」
「まだ邪魔というほどのことはしてないわ」
「これからもしないで欲しいんだけど」
天子は部屋の隅に積んである座布団を一枚敷いて、霊夢と向かいあうようにして座った。霊夢は特に動じることもなく、また一口お茶を飲んだ。
博麗神社の居間は、天界と同じくらい殺風景だ。さほど大きくない棚と丸い座卓、古びた棚、隅に積まれた座布団があるだけで、他には何も無い。別に神社にお金が無いから家具を買えないというわけでもないのだ。確かに奉納される賽銭は雀の涙だが、霊夢の主な収入は異変解決と妖怪退治によるもので、少女一人が暮らすには充分なお金があるはずである。せっかく下界には物が腐るほどあるのだし、もっと飾りつければいいのにと天子は思うのだが、霊夢はそういったことに一切興味がないようだった。
「あんたまた退屈してるわけ?」
「えぇ。天界にあるのは桃とお酒と退屈だけ。嫌になるわ」
「別にここに来たからと言って、退屈が凌げるわけじゃないと思うけど」
「いいのよ。貴方や神社の庭を観察してるだけでも、天界にいるよりはましだわ」
天子は庭に出て、葉の落ちた桜の木へと近づいた。天人達は桃の花を風流だ趣があるといって愛でるが、天子は冬の蕾が好きだった。寒さをじっと堪えて、次の春へと繋いでいくその姿は、まさに生きているように天子には思えるのだ。茶色くざらついた木皮を撫で、枝の先についた蕾をじっくりと眺める。以前来た時より、少し大きくなっているような気がした。
「ほら、霊夢。蕾が大きくなっているわ」
「貴方三日前にも同じこと言ってたわよね?」
「あら、そうだったかしら」
「あんたも酔狂よね。世の中には生きることで精一杯な人がたくさんいるのに、毎日退屈だ退屈だって遊び歩いて、天人としてどうなのよ?」
「うるさいわね・・・」
天子は縁側に腰をおろし、不機嫌そうに足をばたつかせる。霊夢の言っていることは正しかった。しかし、正しいから納得できるかと言われれば、そんなことはない。例えば名前も知らない遠くの誰かが飢えに苦しんでいるからと言って、自分も食事をとらずに共に苦しむという者がいるだろうか?居たとしても、それが利口だとは思えない。他人の不幸はどこまで行っても他人の不幸で、自分の不幸と比べることなどできない。人間とはそういう生き物なのだと、天子は思っていた。
そして、こんな考え方をしているから不良天人と呼ばれてしまうのだということも、充分に承知していた。
「下界の人間からしたら、あんたの住む世界は文字通り天国なのよ?苦労しなくても食べ物が手に入って、毎日を歌ってお酒を呑んで過ごす。素晴らしいじゃない」
「何が素晴らしいよ。できることなら代わってあげたいわ。・・・・あ、そうか、代わればいいんだ」
天子は一人勝手に相槌を打って、神社の居間へと戻り、隅に置かれた棚の中を漁り始めた。祭祀の道具を床に投げ飛ばし、何かを探しているようである。
「・・・ちょっと!何やってんのよ!」
霊夢は天子の突拍子もない行動に数秒唖然とした後、慌てて庭を飛び出し、天子の腕を掴んで止めた。それでも天子は止まらず、しまってあった巫女服を一式棚から持ち出して、そのまま着替え始めてしまった。青いロングスカートを脱ぎ捨て、胸に晒を巻いている。
「え、あんた何やってんの?」
「私も博麗の巫女をやるわ」
「は?」
「そう。代わってしまえば良かったのよ。私もこれから博麗の巫女として働く。きっと刺激的な時間を過ごせるに違いないわ」
幻想郷の要である博麗の巫女、その仕事は必ずや楽しいものに違いない。異変解決なんて、聞くだけで心が踊るではないか。霧の異変から逆さ城の異変まで、霊夢が解決した異変の話は聞いているが、どれも不思議と華やかさに満ちていた。強大な妖怪との出会いやスリルに溢れた弾幕勝負は、絶対に天界では味わうことができない。博麗の巫女として仕事をしていけば、そういった刺激的な体験と出会うことができる。そして、天地人の全てを司る自分に解決できない異変などない。天子は本気だった。
「あんた博麗の巫女舐めてるんじゃないの?」
「大丈夫よ。私は貴方より強いし」
「そういう問題じゃないのよ」
「じゃあどういう問題よ」
「・・・・」
霊夢は座布団に座り直し、冷めてしまったお茶を一口啜ってから、腕を組み、首を捻った。天子はその間もお構いなしで着替えを続けている。袴の紐を結び、切り取られた袖の部分を腕に固定した。霊夢はどうも他人の意見に流されやすい、いや、他人の意見に反対することを面倒くさがる節がある。天子が霊夢の言うことを聞かず勝手に着替えを続けるのには、こうした強行的な態度を取れば、霊夢の方が諦めるだろうという計略的な意図があった。
「しょうがないわね。どうせあんたのことだから、数日で飽きるんでしょ」
案の定、霊夢は首を縦に振った。天子は小躍りしそうなほどの喜びを押さえつけて、碧く滑らかな髪のてっぺんに赤いリボンを結び、袴の紐に緋想の剣を括り付けた。これで着替えが終了である。碧い髪に赤いリボン、到底似合うとは思えなかったが、今の天子には服装などはどうでもよく、これから訪れるであろう退屈のない時間だけが全てを動かしていた。
「でも、博麗の巫女は強いだけじゃ務まらない。それは本当よ?」
霊夢の助言もどこ吹く風、天子は、「分かったわ」と曖昧な返事をして、さっそく境内へと飛び出して行った。
ーーー
天子が博麗神社で働き始めてから数日が経った。勿論そんな短期間で異変が起きるわけもなく、参拝客もほとんど見かけていない。閑古鳥すら飛び立ってしまうほどの開業閉店状態に呆れながらも、天子は熱心に掃除を続けていた。神社の裏にある物置から箒とちりとりを持ってきて、境内の石畳を掃く。初冬はまだまだ落葉が終わっておらず、掃除する度に新たな落ち葉が舞い降りて境内を汚していく。天界に植えられた桃は落葉することが無いので、天子にとっては落ち葉掃きすらも新鮮な仕事だった。
「さーってと・・・」
境内の掃除が終わったら、庭の手入れでもしようかしら、そんなことを考えていた天子の目の前に、齢七、八歳ほどの小さな女の子が近寄ってきた。
これは服なのか?そう疑いたくなるほどボロボロの布を一枚身に纏った少女。髪は顔を隠してしまうほど伸び切っていて、この寒い時期にあろうことか裸足だった。石階段を駆け上ってきたのだろう、息を切らしたまま、何かを怖がっているかのような弱々しい足取りで境内へと入ってきた。
「どうしたの?」
天子は放っておけず、箒とちりとりをその場に放り投げて自ら近づき、少女に話しかけた。少女は化け物にでも会ったかのように身を震わせて、天子の方に向き直った。髪の隙間から見える瞳は、刃物のような鋭い光を放っていた。
「お姉さんが博麗の巫女?」
「・・・えぇ、そうよ」
天子は少し考えた後、結局博麗の巫女であると名乗ってしまった。この女の子が尋ねている巫女は博麗霊夢のことなのであろうが、自分も今現在博麗の巫女であることに変わりはない。嘘をついていることにはならないだろう。
少女は辺りを注意深くきょろきょろと見回し、天子の耳元に口を近づけて、声を潜めて言った。
「あのね、私、博麗のお姉さんに助けて欲しいことがあるの」
「助けて欲しいこと?」
「うん」
天子の胸は高鳴り出していた。明らかに訳ありげな少女が助けて欲しいと願い出る。これはどう考えても異変の予兆ではないか。聖人が復活したのか、はたまた山の神様が動き出したのか。掃除もそろそろ飽きてきたし、丁度いい頃合いだ。天子は笑ってしまいそうになるのを必死に堪えて、あえて難し気な表情を作った。
「分かったわ。詳しい話は奥で聞くから、ついておいで」
「・・・うん」
天子は少女の冷たい手を取って、玄関を通し、居間へと案内した。
居間では霊夢が一人静かにお茶を啜っていた。天子が掃除を引き受けてくれるのをいい事に、一日中こうしてのんびり過ごしているのだ。霊夢からしてみれば、天子が勝手に始めたことなので一切責任とかそんなものを感じる必要はないと考えている。
天子が居間に帰ってくるのはともかく、その隣に並んでいる少女は誰なのか。霊夢は一旦湯のみを座卓において、無言のまま天子を睨みつけ、説明するように訴えた。
「この子がね、博麗の巫女に相談があるんだって」
天子はそう言うと、霊夢の向かいに一枚座布団を敷いて、そこに少女を座らせ、台所の食器棚から新たに二つの湯のみを取ってきて、それぞれにお茶を注いだ。天子なりの客人の迎え方である。そうして本人はさも当たり前のように、霊夢の隣にどかりと座り込んだ。霊夢は少女のことも天子のことも知らん顔で、またお茶に手を伸ばし始める。
少女はその間一言も喋らず、天子に勧められた座布団に座り、居間を一瞥した後、俯いいたまま固まってしまった。緊張しているのだろうか。小さな拳を太ももの上で握りしめている。
「えーっと、とりあえず名前は?」
「鈴って言うの」
鈴は簡潔に自分の名前を答え、また黙り込んでしまった。どうも会話が続かない、天子はできうる限りの暖かな笑顔を作り、鈴と視線を合わせるようにした。視線を合わせて喋ることは協調性に繋がり、相手の緊張をほぐす効果があるらしい。天子は空気を読む程度の能力を持つ竜宮の使いから、そう教わっていた。
「それで何があったのかな?」
「収穫まであと少しだった野菜を、誰かに盗まれちゃったの」
天子の努力が報われたのか、鈴は少しずつ、今回博麗神社に訪れた理由を話し始めてくれた。
「私はお父さんと二人で人里のはずれに住んでて、そこで農業をして暮らしているの。でも収穫までもう少しだった大根と白菜を、誰かに盗まれちゃって・・・。お父さんは今風邪で寝てるから、私が博麗のお姉さんに相談しようと思って・・・」
「ふむ・・・」
天子は大げさに首を捻って唸り声をあげた。聞いてみれば何てことはない、少女が訴えているのはただの窃盗ではないか。異変というには、余りにも小規模で俗物的である。この事件の裏に大いなる敵が存在するとは思えないし、刺激的な時間を過ごすことはできないだろう。端的に言うと地味なのだ。
でも・・・と、天子の思考は回転を続ける。この鈴という少女のやつれた姿と、縋り付くような弱々しい声、この少女を見捨てていいのだろうか、いや、それは天人としても、博麗の巫女としても許されやしないだろう。天子は心を決めた。
「ごめんなさい、悪いけど、そういう事件は人里の自警団の方に・・・」
「分かりました。博麗の巫女であるこの比那名居天子が、事件解決を約束しましょう!」
「ちょっとあんた勝手に何を言って・・・!」
霊夢が止めようとするが、一度こうと決めた天子はもう止められない。いつの間にか鈴の隣に回り込んで、固い握手を交わしていた。鈴は訳もわからぬまま両手をぶんぶん上下に振り回されて、数秒唖然としていたが、状況を飲み込むと、ぎこちない笑顔を天子に向けていた。
「・・・ありがとう、博麗のお姉ちゃん」
ーーー
鈴が帰った後、霊夢は今にも弾幕を放ってきそうなほど恐ろしく不機嫌な様子で、一升瓶に入った酒をラッパ飲みしていた。ぐびぐびと喉を液体が通る音が、居間中に響き渡っている。
「本当、何で勝手に引き受けるのよ」
「いいじゃない。これだって立派な善行よ。天人として、救いの手を差し伸べるのは当然だわ」
天子は夜空に浮かぶ丸い月を眺めたまま、霊夢の説教を聞き流していた。月の姿は天界だろうが下界だろうが然程変わらない。きっと月が綺麗なこんな夜は、あの吸血鬼が元気に活動しているのだろう。あの吸血鬼がもう一度派手な異変を起こしてくれないか、そんなことも考えたりした。
霊夢は天子の姿勢を咎めることはせず、大声での説教を続けた。
「貴方、博麗の巫女の仕事が何だか分かってる?」
「何って、人助けでしょ?」
「・・・あんた、本気でそう思ってるの?」
「えぇ。こんなところで冗談を言う理由はないわ」
博麗の巫女の仕事は人助け、そんなの、幻想郷に住む者であれば誰でも知っていることのはずだ。異変を解決するのも、妖怪を退治するのも、神を祀るのも全て人助け。それ以外に何があるというのだろう。天子には、なぜ霊夢がこんな問いかけをしてくるのかが分からなかった。
しかし霊夢は天子の答えに大きく首を横に振って、また酒瓶を口へと傾けた。口端から酒が零れるのもお構いなしである。
「誰かの味方になるということは、誰かの敵になるということ。あんたはもう少し考えてから行動しなさい」
霊夢はそんな言葉を吐き捨てて一升瓶を空にすると、それを台所に置いて、さっさと寝床に帰って行ってしまった。
ーーー
翌日、天子と霊夢は、もう一度博麗神社を訪れた鈴に、彼女の家へと案内してもらっていた。事件の解決は、まず現場を見ることから始まる。霊夢は「なんで私もついて行かなきゃいけないのよ」と渋っていたが、結局天子に無理矢理引っ張られる形で同行することになった。
「なんで私もついて行かなきゃいけないのよ」
もう何度目になるかも分からない霊夢のぼやきが後ろから聞こえてくるが、天子はそれを無視して、どこまでも澄み切った青い空を飛んでいた。初めての博麗の巫女らしい仕事に気持ちが高まっているからか、空は天界から眺めるよりなお一層眩しく見えた。
鈴は天子の用意した要石に乗っかり、同じように空を飛んでいる。きっと空を飛ぶのが初めてなのだろう。両手で目一杯要石を掴み、おっかなびっくりしながら地上を見下ろしている。
「この辺りです」
数分飛んだ後、鈴は山の麓の小さな集落を指差した。
幻想郷は、周囲を妖怪の山を中心とした峰々に囲まれている。迷いの竹林や魔法の森のような例外があるものの、盆地の部分は主に人間が住み、山には妖怪が暮らす。誰が決めたわけでもないが、自然とそうした住み分けがなされてきた。その考えからいくと、鈴の家は妖怪の領域と人間の領域の境界線に存在することになる。人里の外れと呼ぶには、あまりに外れすぎているように思えた。
「この辺りね」
天子は地上に舞い降りて、辺りを見渡した。数件の家屋と、それを覆うように広がる畑、山の傾斜を利用して作られた棚田。更にその奥には黒々とした林が広がっている。現在は冬なので棚田には何も植えられておらず、刈り残された稲株と柔らかい土が露出している。要石をゆっくりと着陸させ、上にしがみついている鈴を抱き上げるようにして降ろした。
霊夢も辺りを用心深く見渡しながら、地面へと降りてきた。あれだけ渋ってはいたものの、いざ現場に着いてみると眼光が明らかに変わる。纏っている空気もどこか鋭くなったように感じる。これが博麗の巫女なのかと、天子は少し感動してしまった。
「鈴の家はどれ?」
「あれ・・・」
鈴が指差したのは、集落の端にある小さな家屋だった。四枚の壁に屋根をのっけただけ、そんなあまりにも単純で質素な家だった。壁の所々に苔が生え腐ってしまっていて、蔦のようなものが全体を覆っている。住居としての機能を果たせているのかさえ怪しい家だ。
天子は、その有様に呆然としてしまった。先日霊夢と話した時の言葉が思い出される。「世の中には生きることで精一杯な人がたくさんいるのに」、きっと鈴とお父さんも、そんな貧しい人々なのだ。遠くの名前も知らない誰かを助けることはできないが、今こうして隣にいる鈴には救いの手を差し伸べることができる。他人の不幸と自分の不幸は比べられないが、知り合いの不幸をただ見捨てることもできない。それもまた人間の一面なのだろう。天子は密かに気を引き締め直した。
天子は鈴の手を取り、ずんずんと家に向かって進んでいく。鈴も少しずつ天子といることに慣れてきたようで、自分から話しかけてくれるようになった。
「今家の中で、お父さんが寝てるの」
「お父さんの病気は大丈夫なの?」
天子の問いかけに対して、鈴は何も言わないまま俯いてしまった。無言の答えとでも言うのか、天子はその仕草から、鈴の父親の体調があまり良くないことを理解した。
霊夢は道の脇や林の入り口の方へとふらついた後、天子と鈴の後を追って歩き始めた。その間も辺りをキョロキョロ見渡しては、道の端から端までを行ったり来たりしている。何かを探しているようだ。
「お父さん!博麗の巫女さん達に来てもらったよ」
鈴は声を張り上げてそう言い、玄関を開けて中に入った。天子と霊夢も後に続くが、室内も外に負けず劣らずの酷さだった。最後に掃除をしたのがいつなのか、問いただしたくなるほどの埃が宙に舞い、雨漏りの跡が床のそこら中についている。中央には壊れかけの囲炉裏があって、その隣で鈴の父親らしき人が寝込んでいた。薄い布団を肩までかけているが、頬のこけ具合から、栄養が足りていないことは一目瞭然だった。鈴は父親の枕元に座ったので、天子、霊夢もその隣に正座した。
「おぉ、来てくださったのですか・・・。私が鈴の父親の、善蔵です・・・」
善蔵は何度も咳き込みながら、今にも途切れてしまいそうなかすれた声でそう言った。天子が道中で思ったとおり、鈴のお父さんの病状は相当に悪いようだ。目を離したすきに折れてしまうのではないか、そんな芯の細さが見受けられる。
「私が博麗の巫女の、博麗霊夢です」
先に自己紹介をしたのは霊夢だった。ここまでの道中ずっと愚痴ばかり漏らしていた霊夢が積極的に挨拶をする。しかも滅多に使うことのない敬語で。天子はその姿に驚いた。どうした気の代わりようだろう?
「同じく、比那名居天子です」
このまま霊夢に主導権を握られるのを嫌がった天子は、自己紹介もそこそこに、さっそく本題を切り出すことにした。
「鈴さんからお聞きしたのですが、畑が荒らされてしまったそうで」
「えぇ。収穫間際だった白菜と大根を、ほとんど盗られてしまいました・・・。これから何を食べて生きていけばいいのか・・・・」
善蔵は布団から上半身を起こし、また数度咳をした。鈴が心配そうに、善蔵の背中をさすっている。頬と同じように肉付きの薄い腕が妙に白く見えて、天子は思わず目をそらした。まるで亡霊に皮膚を巻きつけたような、生気のない冷たい腕。角張った関節と黒く汚れた爪。貧困とはどういうことなのか、天子は初めてそれに触れた気がした。
黙り込んでしまった天子の代わりに、霊夢が話の先を促す。
「まず、畑の作物が盗まれたのはいつですか?」
「二日前です・・・。私はこの有様ですから、確認したのは鈴なのですが・・・」
「うん。夜見たときは何とも無かったのに、朝起きたら野菜がみんな無くなってて・・・。それで・・・」
鈴はその瞳一杯に涙を溜め込んでいて、今にも泣き出してしまいそうだ。小さな手を握りしめて、全身を震わせている。父親と一緒に育てた野菜が一晩で消えたのだ。そのショックは推して知るべきだろう。
「でも、誰に盗まれたのか、大体の見当はついてるんです・・・」
「それは?」
「妖獣です・・・。どうやら、この辺りの林を住処にしている奴がいるようで・・・」
獣として長く生きたものは妖へと昇華する。妖獣とは名前の通り、妖から獣へと進化する過程の中間に位置する存在だった。妖ほどの知性も妖力も無いが、他の獣に比べると力が強く、高齢であることが多い。幻想郷の山間部には、そんな妖獣達が多く生息している。山の裾野にあるこの集落に妖獣が現れたとしても、何ら不思議はないだろう。
「なるほど。では、一度現場を見ておきたいので、鈴さんに畑への案内をお願いしてもいいですか?」
「分かりました・・・」
霊夢は善蔵からの返事を聞くと、無言のまま立ち上がり、玄関へと歩き始めた。天子と鈴も、その後についていく。
ーーー
善蔵の畑は、林沿いの一角にあった。他の家の畑が瑞々しい白と緑に覆われているのに対し、この畑だけが茶色い土を露出している。大根の葉や白菜の根が所々に残っているだけで、作物の大半が盗まれてしまっていた。見事な荒らしようである。
天子はしゃがみ込んで、残った白菜の根に触れてみた。鋭い刃物で裂かれたような、滑らかな断面をしている。本当であればここ一帯に豊かな作物が実り、鈴とお父さんはそれを糧に生きるはずだったのだ。そう考えると、天子の心はますます沈んでいってしまった。同じ幻想郷であるはずなのに、どうしてここまで違うのだろう。天界は何もしなくとも桃が育ち、酒が無くなることもない。しかし一度下界を見てみれば、日々一生懸命に働き、それでも生きることの難しい鈴のような人々がいる。
「あんまり悩み過ぎないことね、あんたらしくもない」
いつの間にか、天子の隣に霊夢が座っていた。天子の手から白菜の根を奪い取り、目線の高さに掲げて観察している。
「天人には天人の、巫女には巫女の、農民には農民の世界と生き方がある。それらをいちいち不幸だとか何だとか比較したって、どうしようもないじゃない」
「でも・・・」
「本当、あんたも面倒なやつね」
霊夢はそれだけ言うと、白菜の根を放り投げ、ふらりふらりと林の方へ歩いて行ってしまった。言葉足らずではあるが、霊夢なりの励ましだったのかもしれない。
その後、天子が畑の周りをうろついていると、鈴が近づいてきて、一本の毛を天子に見せてきた。数センチほどの長さで、灰褐色の太くごわついた毛である。
「これは?」
「畑の隅に落ちてたの」
鈴はそう言うと、畑の南端、ちょうど林に面した辺りを指差した。林から出てきた妖獣が落としていったものかもしれない。狐か、狼か、はたまた狸か、どの獣のものなのかは天子には分からなかったが、人間の髪の毛とは明らかに質と太さが違った。やはり善蔵が言ったとおり、畑を襲ったのは妖獣のようだ。
天子は調査が一歩前進したことに内心ほっとしながら、鈴の頭を撫でてやった。
「よく見つけてくれたわね、鈴」
「うん!」
その時、天子の前で初めて鈴が笑った。右頬に小さなえくぼができ、一重の鋭い目が優しい曲線を描く。天子にはその笑顔がとても眩しく価値のあるものに思えて、少しだけ気持ちが軽くなった。
この後も天子と霊夢は畑の周辺を探索したが、結局何も見つけることはできなかった。二人は鈴にお別れをして、神社へと帰った。
ーーー
その晩天子は、霊夢にあてがわれた部屋で、布団に入ったまま寝れずにいた。無理矢理目を閉じてみるけれど、ただ時間が流れていくだけで一向に眠りにつくことはできない。
「うぅ・・・」
天子は一つ寝返りをうって、諦めたように起き上がり、襖を開いて、縁側へと出た。
博麗神社の縁側は、ある意味人気な場所である。昼間は掃除終わりの巫女がお茶を飲み、夜は呑んだくれの鬼が仲間とともに酒を煽る。しかし今は草木も眠る丑三つ時、虫の鳴き声もない静かな空間に、天子は一人座り込んだ。空には一杯の星が瞬き、その中心に欠けた月が見える。外の世界では見ることのできない雄大な星空があった。
天子は目を閉じて、鈴と善蔵のことを思い出していた。善蔵の細い腕と鈴の笑顔。彼女達の生活は決して楽とは言えないだろう。毎日田畑を耕し、米を育て、やっと食い繋いでいく。自分の今までの暮らしとは、まさに天地の差があるように思えた。しかし、彼女達は生きているのだ。毎日を退屈に過ごす自分よりも、よっぽど輝いてみえた。
「ふぅ・・・」
吐く息は白い薄膜を作り、黒い世界に溶けていく。自分には何ができるだろうか。しばらく考えた後、天子は立ち上がり、霊夢の寝室へと向かって歩き始めた。
霊夢の寝室は、居間と似たり寄ったりの殺風景具合だった。畳の上にある一枚の布団と、それをしまうための大きな押入れ、明かりをつける灯台、それ以外のものはほとんど何もない。余りにも簡素で無欲な部屋だ。
霊夢はその部屋の中央の布団に潜り込んで、小さな寝息をたてて寝ていた。普段は無愛想で怒りっぽい霊夢だが、寝顔は可愛い少女そのもの。整った顔立ちと、それを適度に覆い隠す黒髪が美しい。天子は一瞬起こすことを躊躇ったが、結局霊夢の肩を揺すった。
「んぬぅー」
意味不明な唸り声を上げながら、霊夢の目が開いた。状況を確認するように二、三回瞬きをした後、大きく伸びをする。
「貴方、夜中は一人で便所行けないの?」
「そんなわけないでしょう!そもそも天人は便所になんか行かないわよ!」
「へー」
心底興味なさそうに、霊夢がいい加減な相槌を打つ。
「で、便所に行く必要のない天人さんが、こんな夜中に何のようかしら?」
「捕まえるのよ」
「ん?」
「鈴の家の野菜を奪った妖獣を捕まえにいくの!集落の他の畑を襲いにくるかもしれないでしょ!?」
「そんな可能性を語るために私を起こしたの?」
鈴の住む集落で襲われた畑はまだ一枚のみ。近日中に他の畑が襲われる可能性は、天子の行動理由としては十分なものだった。天子はもう見たくなかったのだ。貧困も細い腕もまずい桃も。
「文句言ってないで、さっさと出かけるわよ!」
だらりと力を抜いたままの霊夢を、天子が片手でひょいと持ち上げ、そのまま玄関から神社を飛び出した。境内の正面にそびえる大鳥居が、月の光を反射して鮮やかな赤色に光っている。
「ちょっと待ちなさい!私寝巻きのままなのよ!」
天子はそう言って暴れる霊夢を、神社の傍に差し込んでおいた要石の上に放り投げ、そのまま上空へと急発進した。星がみるみるうちに近づいて、切り裂くような風を全身に受ける。向かう先は里はずれの集落。
「絶対捕まえてやる」
天子の決意は、静かな月夜に染み込んでいった。
ーーー
天子と霊夢は、民家の影に隠れて林の方をじっと見つめていた。天子は緋想の剣に手をかけ、妖獣が現れたらすぐにでも斬り殺さんとする勢いである。まるで冥界の庭師のようだ。
「ったく、なんで私がこんな目に・・・」
昼間に来た時と同じように、霊夢は呪詛のように愚痴を繰り返していた。寒さで全身がびくりと震える。腕の鳥肌が総立ちである。
そんな二人の姿を知ってか知らずか、林は物音一つたてることなく静寂を保っている。この林の中に、本当に生き物は住んでいるのか、そう疑いたくなるほど不気味で無機質な静けさだった。
「来ないわねえ」
「そう簡単に来るわけないでしょ。そもそもあんた剣なんか握ってどうするつもりなわけ?」
「どうするって・・・妖獣を退治するのよ」
「馬鹿らしい」
霊夢は完全に不貞腐れてしまった様で、ぼんやりと月を見上げながら何度となく溜息をついた。空っぽの賽銭箱を眺めているときと同じ表情である。
「あのね、野菜が盗まれた程度でいちいち剣振るってらんないわよ。人と妖にはバランスってもんが・・・」
「静かにっ!」
突然天子が霊夢の口を覆い、民家の陰に引き込んだ。天子が少しだけ顔を出して林の様子を探る。
そうしていると、林を抜けて白い狼の妖獣が一匹出てきた。通常の狼に比べると一回り体が大きく、多少の妖力を備えているものの、白狼天狗のような知性と体躯は持ち合わせていない。そんな中途半端な妖怪だった。林から顔を出した妖獣は、キョロキョロと辺りを見回し、集落へと入り込むタイミングを見計らっているようであった。
「霊夢、行くわよ」
その言葉に霊夢が振り返ったときには、すでに天子は駆け出していた。吹き抜ける風のように軽やかな動きで、妖獣との距離を詰める。妖獣も天子の動きに気づいて逃げ出そうとするが、そのまま抑え込まれてしまった。
「貴方が野菜を盗んだのね」
妖獣の毛は、鈴に渡されたものと同じ灰褐色だった。枝葉の隙間から差し込む月光が反射して輝く。天子はごくりと一つ喉を鳴らして、腰に携えた緋想の剣を抜いた。緋想の剣は赤く揺らめいて、まるで暗がりを照らす蝋燭のようだった。柄を持つ手が震えて、頬を生温い汗が一滴一滴と伝っていく。妖獣は息苦しそうに顔を歪ませて、逃げ出そうと必死にもがいている。しかし天人の腕力には敵うはずもなく、その姿が余計天子を苛つかせた。この妖獣には、受けるべき罰がある。
「貴方のせいで、苦しんだ人がいる」
「やめなさい」
天子に追いついた霊夢が、剣を握る腕を掴んだ。抑揚のない真っ平らな声で喋りかける。
「あんた、もう少しこの妖獣を見てみなさい」
天子は視線を霊夢から妖獣に戻した。口の中で見え隠れする鋭い牙、本当に見えているのか疑いたくなるほど黒々とした瞳孔。そこに映る青髪の少女が天子自身だと気付くのに、数秒かかった。
「随分痩せてると思わない?」
霊夢の言ったとおり、妖獣は随分と痩せ細っていた。腹も足も、骨が浮き出てしまっている。善蔵の腕と同じ、冷たい体だった。
「肉食である狼の妖獣が野菜を食べるなんて、相当切羽詰まった状態じゃない限りあり得ないわ。鈴の家と同じ、こいつも食べなきゃ死んでたのよ」
霊夢は天子の腕を掴んだまま、隣に座り込んだ。
「あんたの気持は分かるわよ?鈴達を助けてあげたいと思う気持ちは。でも、この妖獣も苦しんでいる。弱者に救いの手を差し伸べようと踏み出した足で、他の弱者を踏みつぶすんじゃ、何の意味もないわ。」
「でも、こいつは確かに畑の野菜を・・・!」
「盗んだから殺すの?野菜と命を引き換えなんて、悪魔もびっくりの交換ね。」
霊夢の問いかけに、天子はただ黙りこむ他なかった。天子の頭の中を、様々な情景と思いがよぎった。退屈な天界、霊夢の溜息、鈴の笑顔、鈴のお父さんの病床、そして目の前で弱い息を吐く妖獣。何が正しくて何が間違いだとか、そんなものは分からない。鈴は苦しんでいて、でもこの妖獣も苦しんでいて。じゃあ誰が救われたんだと、天子は思わず涙を流していた。自分は何も知らなかったのだ。生きることの厳しさも知らず、自分の退屈がどれだけ無価値なものであるかも、本当に何も知らなかった。
視界がぼやけて、腕に込めた力が抜けていく。気道が開いた妖獣はひゅーひゅーと苦しそうに息をして、天子の腕に爪を立てようとするが、天人の体は硬く、擦り傷一つつかない。天子は妖獣の攻撃を避けようともせず、ただ泣き続けた。大粒の涙が、地面に幽かな染みを作っていく。
「離してやりなさいよ」
天子は剣を鞘におさめ、妖獣の首元から手を離した。妖獣は懸命に立ち上がって、一度も振り返ることなく林の奥へ奥へと走り、そのまま見えなくなった。
「あら、あんたにしては物分かりがいいじゃない」
「そうね、私もやっと分かったみたい」
いつの間に時間が過ぎたのか、朝の陽ざしが林に零れかかり、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。天子は狼が消えていった茂みをただ呆然と眺めていた。
ーーー
神社に帰った天子が目を覚ましたのは、太陽がてっぺんに輝く正午のことだった。頭は霧に包まれたように鈍重で、こめかみの辺りが少し痛んだ。障子を通って差し込む光に少し目を細めながら、居間の方へと移動する。居間では霊夢が一人お茶を啜っていた。昨晩あんなことがあったのにも関わらず、いつもと一切変わることのないその振る舞いに、天子は少し驚いた。
「昨日あんなことがあったのに、よく呑気にお茶なんか飲んでられるわね」
「呑気に寝てたあんたには言われたくないわよ」
そんな軽口を叩きあいながら、天子は台所に行って自分の湯飲みを取り、座卓の上の急須からお茶をそそいだ。絹のように滑らかな湯気を立てて、温かいお茶が湯飲みを満たす。
「で、あんた今日はどうするつもりなの?」
「一旦天界に帰って桃を取ってくる」
「桃?」
「そう。鈴達にあげようかと思って」
「ついでに私にもよこしなさいよ。今までの宿代として」
「別にいいわよ」
天子は、昨晩妖獣を逃したことを未だ気にしていた。妖獣もまた鈴達と同じように、飢えて苦しんでいた。野菜を盗んだからといって殺すわけにはいかない。その判断自体は間違ったものだとは思わないが、それでも天子の心の内には、煮え切らない灰色をした感情が残っていた。
「じゃあ、あんたが天界から帰ってきたら、もう一度鈴の家に行きましょうかね」
「ええ」
天子は鮮やかな緑色をしたお茶を飲み干し、静かに立ち上がった。
ーーー
天子が天界に帰るのは数週間ぶりだったが、その風景は全く変わっていなかった。無限の時を生きる天人にとって、数週間などという時間は無いに等しい。晴れた空に湧き上がる泉、船を浮かべて詩を詠み合う人々。下界は冬野菜の収穫で慌ただしく動き始めたというのに、ここの暮らしは何の変化もない。天子はため息を一つついて、傍らの桃の木から実を数個もぎ取り、神社から持ってきた風呂敷で包んだ。青、白、桃色と明るい色調の天界で、濃緑色の風呂敷は随分浮いて見えた。きっと自分も同じように浮いているのだ。何を悟るでもなく、何を成し遂げるでもなく、中途半端な天人。
「何考えてんだろ・・・」
天子はどこからともなく胸に吹き込んできた自虐を振り払い、桃で膨らんだ風呂敷を背負った。霊夢には先に鈴の家に向かうよう言っておいたので、急がなければならない。天子は雲の隙間を抜けて、人里のはずれにある集落を目指した。
ーーー
天子が村に到着した時、霊夢は道端の岩に座り、神社から持ってきた煎餅を齧りながら、村を行き交う人々を眺めていた。
「やっと来たのね」
「こんなところで何やってんのよ」
「ほら、鈴の家を見てみなさい」
霊夢に言われて振り返ると、鈴の家の前に小さな人だかりができていた。皆この村の住人らしい。大根や白菜、ウサギなどの食べ物をかついでいる。
「何あれ?」
「畑を荒らされちゃった鈴の家に、お裾分けらしいわよ。この村の人たちは皆助け合って生きてるのね」
村の人たちも、鈴と同じ、汚れた野良着を着ていた。きっと彼らも生きていくのに必死なのだ。けれど、背筋の曲がった老人も、武骨な体型をした男も、赤子を抱き抱えた女も、苦しい中で助け合っている。妖獣は貧しさ故に奪ったが、貧しい故に助け合えることもあるのだ。天子は嬉しくなって、鈴の家に集まる人々の輪に入って行こうとした。
「待ちなさい、天子」
しかし、駆け出そうとした天子の肩を霊夢が抑えた。天子は突然の接触に驚き、霊夢の方へ振り返る。
「何するのよ!?」
「ずっと引っかかってたの。初めてこの村に来た時からずっと」
霊夢の顔が少しずつ険しくなっていく。大胆不敵で、しかしどこか悲しげな、博麗の巫女の表情だった。
「この事件、まだ裏があるわ」
ーーー
天子と霊夢は岩に座ったまま、鈴の家から人がいなくなるのを待った。その間、霊夢は一切口をきこうとしなかった。その間、天子は「この事件、まだ裏があるわ」という霊夢の言葉の意味を考えてみたのだが、結局何も分からなかった。霊夢の発言は余りにも突然で、解釈のしようがなかった。
日が傾き、村の人々がいなくなった頃合いを見計らって、霊夢が立ち上がった。夕焼けに照らされて、霊夢の赤い巫女服がさらに紅く染まっていく。
「さあ、行きましょうか」
「なんで皆がいなくなるまで待ってたの?」
「野次馬がいるとやりづらいじゃない」
霊夢は迷いの無い足取りで、鈴の家へと進んでいった。天子もそれに続いていく。鈴の家は相変わらず雑草が茂り、蔦が絡まったままだったが、その脇には村の人々が届けてくれた食料が山積みにしてあった。これだけの量があれば、冬を越すことができるだろう。
「さあ、行くわよ」
そう声をかけると、霊夢は何の挨拶もノックもなしに、突然鈴の家の戸を開き、玄関に乗り込んでいった。天子は、霊夢の破天荒な行動に一瞬呆気に取られてしまったが、すぐに霊夢を追って鈴の家に入った。
「ちょっと、さすがに失礼でしょ霊夢!・・・・え?」
天子が見たもの。壊れかけの囲炉裏と、敷かれたままの布団。傍らに座る鈴と、体の底から健康そうな笑顔を浮かべる善蔵の姿。
「もう仮病は終わりみたいね、善蔵さん」
ーーー
「あ・・・っ」
霊夢と天子の来訪に、鈴は小さな悲鳴をあげた。善蔵も目を見開いたまま固まってしまい、動こうとしなかった。霊夢は一つため息をついて、そのまま部屋へと上がりこむ。
「仮病・・・?」
天子には全く意味が分からなかった。つい昨日まで苦しげな咳にうなされていた善蔵が、元気そうに鈴と談笑している。永遠亭の薬師のおかげか、はたまた天子の祈りが天に通じたのか。一体、何がどうなっているのだろう。
「ほら、何もたもたしてんのよ」
霊夢は茫然と立ち尽くしてしまっている天子の腕を掴んで、無理やり部屋へと引き上げた。
「霊夢・・・。これは一体?」
「全部自作自演だったのよ。本当は野菜も盗まれていないし、妖獣も畑を荒らしてなんていない」
霊夢の口ぶりは、まるで地獄の裁判長のような、淀みのないものだった。霊夢の言葉に善蔵はますます恐れ慄き、顔を引きつらせ、鈴は長い髪に表情を隠し、微かに震えていた。二人とも何もしゃべろうとしない。
「最初におかしいと思ったのは、この家を初めて訪れた時だった。普通客を家に通す時は、咳は我慢するし、布団に寝転んだままでいたりしないでしょう?でも善蔵さんは自分が病気であることを見せびらかすかのように何度も大きな咳をして、布団から出ようともしなかった」
「そう言われてみると・・」
例え病気であろうとも、客人に対してはある程度の誠意を見せるものである。しかも、相手は初めての顔見せなうえに、自らが招いた客なのだ。天子はあの時、善蔵の体調がひどく悪いのだと思いそれ以上考えようとはしなかったが、言われてみると確かに不自然に思えた。
「後は、畑の荒らされ方がおかしかったのよね。所々に白菜の茎や大根の葉が残されていたけれど、どれも断面が異常に滑らかだった。妖獣が奪っていったのなら、歯形や爪形が残っているはずなのに。まあ、もしかするとカマイタチの仕業なんじゃないかとも思ったんだけど、昨日やってきたのは狼だったしね」
霊夢の言うことは何から何まで正しかった。善蔵の態度も畑の荒らされ方も、直接的でないとはいえ、野菜の盗難が自演であることを示しているように思えた。そして何よりも、今目の前にいる善蔵の蒼い表情が、真実を物語ってる。
しかし、天子にはまだ納得できない点があった。
「でも霊夢、善蔵さんはなんでそんなことしたの?自分の畑を自分で荒らしたって、何の意味もないじゃない」
「意味はあるわよ。家の前に沢山積み上げられてたでしょ?」
「家の前に積み上げられてた?」
「野菜よ。村の人たちが分けてくれた野菜。それがこの人たちの動機」
「あ」
天子も、霊夢の言わんとすることを理解した。
「そっか。もし病気で寝込んでいる農家の野菜が妖獣に盗まれたら、この村の人たちは善意から食料を分けてくれる。それを見越して、善蔵さんは自分の畑を荒らしたんだ」
「そういうこと。自分の畑で収穫した野菜は、屋根裏か床下にでも隠しているんでしょう。そうですよね、善蔵さん?」
善蔵はがくりとうなだれて、何も言わずにゆっくりと首を縦に振った。この男は人をだますにはあまりにも善良すぎる、天子にはそう思えた。霊夢の推察に一切反論もせずただ頷く善蔵の姿を見ていると、何故こんな事件を起こそうとしたのか、全く分からなかった。霊夢は一歩、また一歩と善蔵に近づき、その腕を掴む。
「とりあえず、もらった野菜を村の人たちに返しなさい」
「しょうがないじゃない・・・」
声が聞こえた。掠れた鋭い声だった。
「食べなきゃ生きていけないもん・・・」
それは鈴の声だった。
「博麗のお姉ちゃん達には分からないんだよ。毎日毎日畑の野菜を育てて、一生懸命育てて、それでも私達は生きていけないんだ」
「鈴、やっぱり貴方も知っていたの?この事件が全部自作自演だということ」
「知ってたよ。全部全部知ってたよ」
鈴の答えを聞かなくても、天子には既に分かっていた。野菜を盗んだのは妖獣、天子にそう錯覚させたのは、畑に落ちていた獣の毛だった。そしてそれを天子に渡したのは、目の前で叫ぶ少女だったのだから。
鈴は真っ直ぐと二人を睨みつけていた。天人と巫女、鈴から見れば二人は恐怖の存在である。幻想郷を支配する魑魅魍魎と対等に渡り合う人間達。どれだけ見上げても姿をとらえられないほど、高みに存在する者達。鈴は大きく見開いた瞳に涙を浮かべ、歯を食いしばり、それでも天子と霊夢から目を逸らそうとしなかった。
天子は、初めて鈴と会った時のことを思い出した。博麗神社の境内、汚れた着物に身を包んだ鈴の目は、今と同じように鋭く、暗く光っていた。あの時から、全部嘘だったのだろう。初めて見せてくれた笑顔を美しいと感じたのも、とんだ勘違いだったのかもしれない。
「お姉ちゃん達は幸せそうだね。生きるの簡単でしょ?妖怪さん達を怖がる必要もなくて、食べ物の心配をする必要もなくて。人を騙してまで食べ物を手に入れるなんて、馬鹿だなあと思ったんでしょ?」
鈴は言葉を続けた。小さい喉をいっぱいに震わせて叫んだ。しかし鈴の叫びは、霊夢と天子に向けられていたのだろうか、もっと違う何かに、必死で食らいついているようにも見えた。
「そうね。退屈な時もあるけど、私はおおむね幸せかしら」
答えたのは、霊夢ではなく天子だった。
「食べ物は桃があるし、妖怪なんて相手にならないし。少なくとも、貴方よりはいい生活をしているわね」
天子はずっと考えていた。貧困とは何なのかを見せつけられて、自分の生き方に疑問を持った。そして今、この少女を救わなければならない、そう思った。
「だから、私だけは騙されてあげる」
天子は鈴にそっと近づき、その小さな身体を抱きしめた。硬い髪の毛を撫で、汚れた着物に触れて、きつくきつく抱きしめた。染み込んだ土の匂いを嗅ぎ、ゆっくりと話し続けた。
「私だけは、貴方達の嘘に騙されてあげる。食べ物なんていくらでもあげるし、妖怪だって全部追い払ってあげる。私は幸せだから、貴方を救ってあげる」
天人と農民、その差はあまりにも大きい。それでも、手を差し伸べることはできる。上に立つ者だからこそ、救うことができる。それが天子の答えだった。
糸が切れたように、鈴は泣いた。瞳に溜まっていた涙は頬を滑り落ち、天子の服を濡らした。天子は鈴の涙を拭い笑う。その姿は、まるで母親のように温かく、優しいものだった。
「まあ、腐っても天人ってところかしらね。事件も一件落着だし」
霊夢はそう言って善蔵の腕を離し、ふらりふらりと家屋を出た。外は山の裾野から溢れる夕陽に照らされ、真っ赤に染まっている。空も里も、畑も家も、全てが皆等しく紅い。謎を解いたのは自分であるはずなのに、結局おいしいところを全て天子に持っていかれてしまった。霊夢はそのことに多少の腹立たしさを覚えながらも、小さく笑った。
「妖怪が絡んだ事件でも無いんだし、これ以上博麗の巫女の出番は無いわ。帰るわよ、天子」
「ちょっと、待ちなさいよ!霊夢!」
「ねえ、博麗のお姉ちゃん」
霊夢を追いかけて走りだした天子を、鈴が呼び止めた。何かを見つけることができたのかもしれない、そう感じさせる、強く確かな声だった。
「何よ?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
天子は振り返り、もう一度笑った。
こうして博麗の巫女ーー比那名居天子の手がけた異変は誰の目にも止まらぬまま、ひっそりと幕を閉じることになる。そもそもこんな小規模で幻想の欠片もない出来事を、異変と呼ぶことは間違いかもしれない。しかし、天子の心に一つの異変が起きたことだけは、紛れもない事実だった。
ーーー
異変解決から数日後、天子は博麗の巫女を辞めて天界へと帰ってきていた。稀代の飽き性であるはずの天子が、約一カ月もの間巫女としての仕事を続けていたというのはある意味奇跡である。
「本当、総領娘様が一ヶ月も働き続けていたなんて、近日中に異変でも起こるんじゃないでしょうか・・・」
天子と隣り合うように座る竜宮の使いーー永江衣玖はそう言って笑顔を浮かべた。子供の成長を見守る親のような温かい笑顔である。馬鹿にされているような気がして、天子は少し声を荒げた。
「異変?起こるならぜひ起こって欲しいわね。私が解決に出向いてあげるから」
この一ヶ月間で、天子が大きな異変にめぐり合うことはなかった。幻想郷を東奔西走、快刀乱麻の大活躍を期待していたのだが、いくら幻想郷でも日常的に異変が起こるわけではない。博麗の巫女だって、ほとんどの時間は暇で退屈なのだ。境内の掃除と、縁側での日向ぼっこで一日が終わってしまう。そんな日々が縷々と続いて、日常というものが出来上がっている。農民から天人まで、皆そうやって生きている。
あの親子も、そういう風に生きていくはずなのだ。
「総領娘様、少し変わりましたね」
「そう?自分じゃなんとも思わないけれど」
「いえいえ。私は空気を読む程度の能力を持っていますからね、そういうことには敏感なんです。何と言いますか、少し性格が丸くなったというか、物腰が柔らかくなったというか・・・・」
「何よ。その言い方だと、今までの私は乱暴で粗雑だったみたいじゃない」
「え、そうですよ?それに少し改善されただけで、今でも総領娘様は乱暴で飽き性で粗雑でお転婆です」
「あんたねえ・・・」
本当にこの妖怪は空気が読めているのだろうか?天子は山ほどある文句を何とか抑えつけて、手に握った桃を一口齧る。
今まで無味無臭だと思っていた桃が、少しだけ甘く感じた。
一年を通して桃が実り、寒くもなく暑くもない絶妙な気温が保たれ、何不自由なく暮らすことができる世界だ。冬の飢えを恐れる必要も、夏の日照りを心配する必要もない。しかし比那名居天子は、そんな天界が嫌いだった。そこでどれだけの時間を過ごしても、生きているという実感がない。生きるというのは、桃を食べることでも酒を飲むことでも詩を詠むことでもなく、もっと違う何かのはずなのだ。
「全くもう」
天子は要石に座ったまま天界をぐるりと見渡して、右手で握った桃に噛り付いた。天界の桃は硬く味がない。腹を満たし、体を強くしてくれるが、退屈を潰してはくれない。要するに天子は飽きているのだ。自分を囲う世界にも、そこに住まう人々にも。
「また下界に降りようかしら・・・」
言うが早いか、天子は残った桃を口の中に無理矢理押し込み、下界に向かって飛び立った。
ーーー
天人は下界に降り立つと、高尚な説弁をして民衆を導く。天子も人里で何度かその真似事をしたが、全く面白くなかった。自分自身ですら守れないような教訓を並べて楽しいわけがない。それではただの詐欺師と何ら変わらないではないか。天子が地上に向かうのは、人里に説教しに行くためではない。博麗神社という寂れた神社の巫女、博麗霊夢をからかうためである。
博麗神社は、人里離れた山の中腹にある神社である。ここには博麗の巫女が生活しており、異変解決や妖怪退治によって人妖の均衡を守っている。博麗霊夢は当代の博麗の巫女であり、スペルカードを発明するなど、今までの巫女に比べると異端に位置する少女だ。様々な妖怪と馴染みが深く、天子も下界に降りる度に彼女の元に訪れていた。
天子は博麗神社に降り立つと、鳥居をくぐり拝殿を抜け、呼び鈴をならすこともせずに玄関を開けて、ずんずんと中に進んで行った。そして居間でお茶をすする霊夢を発見した。満足気にお茶をすするその姿は、酒を呑んでいる時の天人のそれに似ていて何となく腹が立つ。お茶を飲むだけで何故そんなに幸せそうなのか、天子には全く分からなかった。
「お邪魔するわよ」
「もうしてるじゃない」
「まだ邪魔というほどのことはしてないわ」
「これからもしないで欲しいんだけど」
天子は部屋の隅に積んである座布団を一枚敷いて、霊夢と向かいあうようにして座った。霊夢は特に動じることもなく、また一口お茶を飲んだ。
博麗神社の居間は、天界と同じくらい殺風景だ。さほど大きくない棚と丸い座卓、古びた棚、隅に積まれた座布団があるだけで、他には何も無い。別に神社にお金が無いから家具を買えないというわけでもないのだ。確かに奉納される賽銭は雀の涙だが、霊夢の主な収入は異変解決と妖怪退治によるもので、少女一人が暮らすには充分なお金があるはずである。せっかく下界には物が腐るほどあるのだし、もっと飾りつければいいのにと天子は思うのだが、霊夢はそういったことに一切興味がないようだった。
「あんたまた退屈してるわけ?」
「えぇ。天界にあるのは桃とお酒と退屈だけ。嫌になるわ」
「別にここに来たからと言って、退屈が凌げるわけじゃないと思うけど」
「いいのよ。貴方や神社の庭を観察してるだけでも、天界にいるよりはましだわ」
天子は庭に出て、葉の落ちた桜の木へと近づいた。天人達は桃の花を風流だ趣があるといって愛でるが、天子は冬の蕾が好きだった。寒さをじっと堪えて、次の春へと繋いでいくその姿は、まさに生きているように天子には思えるのだ。茶色くざらついた木皮を撫で、枝の先についた蕾をじっくりと眺める。以前来た時より、少し大きくなっているような気がした。
「ほら、霊夢。蕾が大きくなっているわ」
「貴方三日前にも同じこと言ってたわよね?」
「あら、そうだったかしら」
「あんたも酔狂よね。世の中には生きることで精一杯な人がたくさんいるのに、毎日退屈だ退屈だって遊び歩いて、天人としてどうなのよ?」
「うるさいわね・・・」
天子は縁側に腰をおろし、不機嫌そうに足をばたつかせる。霊夢の言っていることは正しかった。しかし、正しいから納得できるかと言われれば、そんなことはない。例えば名前も知らない遠くの誰かが飢えに苦しんでいるからと言って、自分も食事をとらずに共に苦しむという者がいるだろうか?居たとしても、それが利口だとは思えない。他人の不幸はどこまで行っても他人の不幸で、自分の不幸と比べることなどできない。人間とはそういう生き物なのだと、天子は思っていた。
そして、こんな考え方をしているから不良天人と呼ばれてしまうのだということも、充分に承知していた。
「下界の人間からしたら、あんたの住む世界は文字通り天国なのよ?苦労しなくても食べ物が手に入って、毎日を歌ってお酒を呑んで過ごす。素晴らしいじゃない」
「何が素晴らしいよ。できることなら代わってあげたいわ。・・・・あ、そうか、代わればいいんだ」
天子は一人勝手に相槌を打って、神社の居間へと戻り、隅に置かれた棚の中を漁り始めた。祭祀の道具を床に投げ飛ばし、何かを探しているようである。
「・・・ちょっと!何やってんのよ!」
霊夢は天子の突拍子もない行動に数秒唖然とした後、慌てて庭を飛び出し、天子の腕を掴んで止めた。それでも天子は止まらず、しまってあった巫女服を一式棚から持ち出して、そのまま着替え始めてしまった。青いロングスカートを脱ぎ捨て、胸に晒を巻いている。
「え、あんた何やってんの?」
「私も博麗の巫女をやるわ」
「は?」
「そう。代わってしまえば良かったのよ。私もこれから博麗の巫女として働く。きっと刺激的な時間を過ごせるに違いないわ」
幻想郷の要である博麗の巫女、その仕事は必ずや楽しいものに違いない。異変解決なんて、聞くだけで心が踊るではないか。霧の異変から逆さ城の異変まで、霊夢が解決した異変の話は聞いているが、どれも不思議と華やかさに満ちていた。強大な妖怪との出会いやスリルに溢れた弾幕勝負は、絶対に天界では味わうことができない。博麗の巫女として仕事をしていけば、そういった刺激的な体験と出会うことができる。そして、天地人の全てを司る自分に解決できない異変などない。天子は本気だった。
「あんた博麗の巫女舐めてるんじゃないの?」
「大丈夫よ。私は貴方より強いし」
「そういう問題じゃないのよ」
「じゃあどういう問題よ」
「・・・・」
霊夢は座布団に座り直し、冷めてしまったお茶を一口啜ってから、腕を組み、首を捻った。天子はその間もお構いなしで着替えを続けている。袴の紐を結び、切り取られた袖の部分を腕に固定した。霊夢はどうも他人の意見に流されやすい、いや、他人の意見に反対することを面倒くさがる節がある。天子が霊夢の言うことを聞かず勝手に着替えを続けるのには、こうした強行的な態度を取れば、霊夢の方が諦めるだろうという計略的な意図があった。
「しょうがないわね。どうせあんたのことだから、数日で飽きるんでしょ」
案の定、霊夢は首を縦に振った。天子は小躍りしそうなほどの喜びを押さえつけて、碧く滑らかな髪のてっぺんに赤いリボンを結び、袴の紐に緋想の剣を括り付けた。これで着替えが終了である。碧い髪に赤いリボン、到底似合うとは思えなかったが、今の天子には服装などはどうでもよく、これから訪れるであろう退屈のない時間だけが全てを動かしていた。
「でも、博麗の巫女は強いだけじゃ務まらない。それは本当よ?」
霊夢の助言もどこ吹く風、天子は、「分かったわ」と曖昧な返事をして、さっそく境内へと飛び出して行った。
ーーー
天子が博麗神社で働き始めてから数日が経った。勿論そんな短期間で異変が起きるわけもなく、参拝客もほとんど見かけていない。閑古鳥すら飛び立ってしまうほどの開業閉店状態に呆れながらも、天子は熱心に掃除を続けていた。神社の裏にある物置から箒とちりとりを持ってきて、境内の石畳を掃く。初冬はまだまだ落葉が終わっておらず、掃除する度に新たな落ち葉が舞い降りて境内を汚していく。天界に植えられた桃は落葉することが無いので、天子にとっては落ち葉掃きすらも新鮮な仕事だった。
「さーってと・・・」
境内の掃除が終わったら、庭の手入れでもしようかしら、そんなことを考えていた天子の目の前に、齢七、八歳ほどの小さな女の子が近寄ってきた。
これは服なのか?そう疑いたくなるほどボロボロの布を一枚身に纏った少女。髪は顔を隠してしまうほど伸び切っていて、この寒い時期にあろうことか裸足だった。石階段を駆け上ってきたのだろう、息を切らしたまま、何かを怖がっているかのような弱々しい足取りで境内へと入ってきた。
「どうしたの?」
天子は放っておけず、箒とちりとりをその場に放り投げて自ら近づき、少女に話しかけた。少女は化け物にでも会ったかのように身を震わせて、天子の方に向き直った。髪の隙間から見える瞳は、刃物のような鋭い光を放っていた。
「お姉さんが博麗の巫女?」
「・・・えぇ、そうよ」
天子は少し考えた後、結局博麗の巫女であると名乗ってしまった。この女の子が尋ねている巫女は博麗霊夢のことなのであろうが、自分も今現在博麗の巫女であることに変わりはない。嘘をついていることにはならないだろう。
少女は辺りを注意深くきょろきょろと見回し、天子の耳元に口を近づけて、声を潜めて言った。
「あのね、私、博麗のお姉さんに助けて欲しいことがあるの」
「助けて欲しいこと?」
「うん」
天子の胸は高鳴り出していた。明らかに訳ありげな少女が助けて欲しいと願い出る。これはどう考えても異変の予兆ではないか。聖人が復活したのか、はたまた山の神様が動き出したのか。掃除もそろそろ飽きてきたし、丁度いい頃合いだ。天子は笑ってしまいそうになるのを必死に堪えて、あえて難し気な表情を作った。
「分かったわ。詳しい話は奥で聞くから、ついておいで」
「・・・うん」
天子は少女の冷たい手を取って、玄関を通し、居間へと案内した。
居間では霊夢が一人静かにお茶を啜っていた。天子が掃除を引き受けてくれるのをいい事に、一日中こうしてのんびり過ごしているのだ。霊夢からしてみれば、天子が勝手に始めたことなので一切責任とかそんなものを感じる必要はないと考えている。
天子が居間に帰ってくるのはともかく、その隣に並んでいる少女は誰なのか。霊夢は一旦湯のみを座卓において、無言のまま天子を睨みつけ、説明するように訴えた。
「この子がね、博麗の巫女に相談があるんだって」
天子はそう言うと、霊夢の向かいに一枚座布団を敷いて、そこに少女を座らせ、台所の食器棚から新たに二つの湯のみを取ってきて、それぞれにお茶を注いだ。天子なりの客人の迎え方である。そうして本人はさも当たり前のように、霊夢の隣にどかりと座り込んだ。霊夢は少女のことも天子のことも知らん顔で、またお茶に手を伸ばし始める。
少女はその間一言も喋らず、天子に勧められた座布団に座り、居間を一瞥した後、俯いいたまま固まってしまった。緊張しているのだろうか。小さな拳を太ももの上で握りしめている。
「えーっと、とりあえず名前は?」
「鈴って言うの」
鈴は簡潔に自分の名前を答え、また黙り込んでしまった。どうも会話が続かない、天子はできうる限りの暖かな笑顔を作り、鈴と視線を合わせるようにした。視線を合わせて喋ることは協調性に繋がり、相手の緊張をほぐす効果があるらしい。天子は空気を読む程度の能力を持つ竜宮の使いから、そう教わっていた。
「それで何があったのかな?」
「収穫まであと少しだった野菜を、誰かに盗まれちゃったの」
天子の努力が報われたのか、鈴は少しずつ、今回博麗神社に訪れた理由を話し始めてくれた。
「私はお父さんと二人で人里のはずれに住んでて、そこで農業をして暮らしているの。でも収穫までもう少しだった大根と白菜を、誰かに盗まれちゃって・・・。お父さんは今風邪で寝てるから、私が博麗のお姉さんに相談しようと思って・・・」
「ふむ・・・」
天子は大げさに首を捻って唸り声をあげた。聞いてみれば何てことはない、少女が訴えているのはただの窃盗ではないか。異変というには、余りにも小規模で俗物的である。この事件の裏に大いなる敵が存在するとは思えないし、刺激的な時間を過ごすことはできないだろう。端的に言うと地味なのだ。
でも・・・と、天子の思考は回転を続ける。この鈴という少女のやつれた姿と、縋り付くような弱々しい声、この少女を見捨てていいのだろうか、いや、それは天人としても、博麗の巫女としても許されやしないだろう。天子は心を決めた。
「ごめんなさい、悪いけど、そういう事件は人里の自警団の方に・・・」
「分かりました。博麗の巫女であるこの比那名居天子が、事件解決を約束しましょう!」
「ちょっとあんた勝手に何を言って・・・!」
霊夢が止めようとするが、一度こうと決めた天子はもう止められない。いつの間にか鈴の隣に回り込んで、固い握手を交わしていた。鈴は訳もわからぬまま両手をぶんぶん上下に振り回されて、数秒唖然としていたが、状況を飲み込むと、ぎこちない笑顔を天子に向けていた。
「・・・ありがとう、博麗のお姉ちゃん」
ーーー
鈴が帰った後、霊夢は今にも弾幕を放ってきそうなほど恐ろしく不機嫌な様子で、一升瓶に入った酒をラッパ飲みしていた。ぐびぐびと喉を液体が通る音が、居間中に響き渡っている。
「本当、何で勝手に引き受けるのよ」
「いいじゃない。これだって立派な善行よ。天人として、救いの手を差し伸べるのは当然だわ」
天子は夜空に浮かぶ丸い月を眺めたまま、霊夢の説教を聞き流していた。月の姿は天界だろうが下界だろうが然程変わらない。きっと月が綺麗なこんな夜は、あの吸血鬼が元気に活動しているのだろう。あの吸血鬼がもう一度派手な異変を起こしてくれないか、そんなことも考えたりした。
霊夢は天子の姿勢を咎めることはせず、大声での説教を続けた。
「貴方、博麗の巫女の仕事が何だか分かってる?」
「何って、人助けでしょ?」
「・・・あんた、本気でそう思ってるの?」
「えぇ。こんなところで冗談を言う理由はないわ」
博麗の巫女の仕事は人助け、そんなの、幻想郷に住む者であれば誰でも知っていることのはずだ。異変を解決するのも、妖怪を退治するのも、神を祀るのも全て人助け。それ以外に何があるというのだろう。天子には、なぜ霊夢がこんな問いかけをしてくるのかが分からなかった。
しかし霊夢は天子の答えに大きく首を横に振って、また酒瓶を口へと傾けた。口端から酒が零れるのもお構いなしである。
「誰かの味方になるということは、誰かの敵になるということ。あんたはもう少し考えてから行動しなさい」
霊夢はそんな言葉を吐き捨てて一升瓶を空にすると、それを台所に置いて、さっさと寝床に帰って行ってしまった。
ーーー
翌日、天子と霊夢は、もう一度博麗神社を訪れた鈴に、彼女の家へと案内してもらっていた。事件の解決は、まず現場を見ることから始まる。霊夢は「なんで私もついて行かなきゃいけないのよ」と渋っていたが、結局天子に無理矢理引っ張られる形で同行することになった。
「なんで私もついて行かなきゃいけないのよ」
もう何度目になるかも分からない霊夢のぼやきが後ろから聞こえてくるが、天子はそれを無視して、どこまでも澄み切った青い空を飛んでいた。初めての博麗の巫女らしい仕事に気持ちが高まっているからか、空は天界から眺めるよりなお一層眩しく見えた。
鈴は天子の用意した要石に乗っかり、同じように空を飛んでいる。きっと空を飛ぶのが初めてなのだろう。両手で目一杯要石を掴み、おっかなびっくりしながら地上を見下ろしている。
「この辺りです」
数分飛んだ後、鈴は山の麓の小さな集落を指差した。
幻想郷は、周囲を妖怪の山を中心とした峰々に囲まれている。迷いの竹林や魔法の森のような例外があるものの、盆地の部分は主に人間が住み、山には妖怪が暮らす。誰が決めたわけでもないが、自然とそうした住み分けがなされてきた。その考えからいくと、鈴の家は妖怪の領域と人間の領域の境界線に存在することになる。人里の外れと呼ぶには、あまりに外れすぎているように思えた。
「この辺りね」
天子は地上に舞い降りて、辺りを見渡した。数件の家屋と、それを覆うように広がる畑、山の傾斜を利用して作られた棚田。更にその奥には黒々とした林が広がっている。現在は冬なので棚田には何も植えられておらず、刈り残された稲株と柔らかい土が露出している。要石をゆっくりと着陸させ、上にしがみついている鈴を抱き上げるようにして降ろした。
霊夢も辺りを用心深く見渡しながら、地面へと降りてきた。あれだけ渋ってはいたものの、いざ現場に着いてみると眼光が明らかに変わる。纏っている空気もどこか鋭くなったように感じる。これが博麗の巫女なのかと、天子は少し感動してしまった。
「鈴の家はどれ?」
「あれ・・・」
鈴が指差したのは、集落の端にある小さな家屋だった。四枚の壁に屋根をのっけただけ、そんなあまりにも単純で質素な家だった。壁の所々に苔が生え腐ってしまっていて、蔦のようなものが全体を覆っている。住居としての機能を果たせているのかさえ怪しい家だ。
天子は、その有様に呆然としてしまった。先日霊夢と話した時の言葉が思い出される。「世の中には生きることで精一杯な人がたくさんいるのに」、きっと鈴とお父さんも、そんな貧しい人々なのだ。遠くの名前も知らない誰かを助けることはできないが、今こうして隣にいる鈴には救いの手を差し伸べることができる。他人の不幸と自分の不幸は比べられないが、知り合いの不幸をただ見捨てることもできない。それもまた人間の一面なのだろう。天子は密かに気を引き締め直した。
天子は鈴の手を取り、ずんずんと家に向かって進んでいく。鈴も少しずつ天子といることに慣れてきたようで、自分から話しかけてくれるようになった。
「今家の中で、お父さんが寝てるの」
「お父さんの病気は大丈夫なの?」
天子の問いかけに対して、鈴は何も言わないまま俯いてしまった。無言の答えとでも言うのか、天子はその仕草から、鈴の父親の体調があまり良くないことを理解した。
霊夢は道の脇や林の入り口の方へとふらついた後、天子と鈴の後を追って歩き始めた。その間も辺りをキョロキョロ見渡しては、道の端から端までを行ったり来たりしている。何かを探しているようだ。
「お父さん!博麗の巫女さん達に来てもらったよ」
鈴は声を張り上げてそう言い、玄関を開けて中に入った。天子と霊夢も後に続くが、室内も外に負けず劣らずの酷さだった。最後に掃除をしたのがいつなのか、問いただしたくなるほどの埃が宙に舞い、雨漏りの跡が床のそこら中についている。中央には壊れかけの囲炉裏があって、その隣で鈴の父親らしき人が寝込んでいた。薄い布団を肩までかけているが、頬のこけ具合から、栄養が足りていないことは一目瞭然だった。鈴は父親の枕元に座ったので、天子、霊夢もその隣に正座した。
「おぉ、来てくださったのですか・・・。私が鈴の父親の、善蔵です・・・」
善蔵は何度も咳き込みながら、今にも途切れてしまいそうなかすれた声でそう言った。天子が道中で思ったとおり、鈴のお父さんの病状は相当に悪いようだ。目を離したすきに折れてしまうのではないか、そんな芯の細さが見受けられる。
「私が博麗の巫女の、博麗霊夢です」
先に自己紹介をしたのは霊夢だった。ここまでの道中ずっと愚痴ばかり漏らしていた霊夢が積極的に挨拶をする。しかも滅多に使うことのない敬語で。天子はその姿に驚いた。どうした気の代わりようだろう?
「同じく、比那名居天子です」
このまま霊夢に主導権を握られるのを嫌がった天子は、自己紹介もそこそこに、さっそく本題を切り出すことにした。
「鈴さんからお聞きしたのですが、畑が荒らされてしまったそうで」
「えぇ。収穫間際だった白菜と大根を、ほとんど盗られてしまいました・・・。これから何を食べて生きていけばいいのか・・・・」
善蔵は布団から上半身を起こし、また数度咳をした。鈴が心配そうに、善蔵の背中をさすっている。頬と同じように肉付きの薄い腕が妙に白く見えて、天子は思わず目をそらした。まるで亡霊に皮膚を巻きつけたような、生気のない冷たい腕。角張った関節と黒く汚れた爪。貧困とはどういうことなのか、天子は初めてそれに触れた気がした。
黙り込んでしまった天子の代わりに、霊夢が話の先を促す。
「まず、畑の作物が盗まれたのはいつですか?」
「二日前です・・・。私はこの有様ですから、確認したのは鈴なのですが・・・」
「うん。夜見たときは何とも無かったのに、朝起きたら野菜がみんな無くなってて・・・。それで・・・」
鈴はその瞳一杯に涙を溜め込んでいて、今にも泣き出してしまいそうだ。小さな手を握りしめて、全身を震わせている。父親と一緒に育てた野菜が一晩で消えたのだ。そのショックは推して知るべきだろう。
「でも、誰に盗まれたのか、大体の見当はついてるんです・・・」
「それは?」
「妖獣です・・・。どうやら、この辺りの林を住処にしている奴がいるようで・・・」
獣として長く生きたものは妖へと昇華する。妖獣とは名前の通り、妖から獣へと進化する過程の中間に位置する存在だった。妖ほどの知性も妖力も無いが、他の獣に比べると力が強く、高齢であることが多い。幻想郷の山間部には、そんな妖獣達が多く生息している。山の裾野にあるこの集落に妖獣が現れたとしても、何ら不思議はないだろう。
「なるほど。では、一度現場を見ておきたいので、鈴さんに畑への案内をお願いしてもいいですか?」
「分かりました・・・」
霊夢は善蔵からの返事を聞くと、無言のまま立ち上がり、玄関へと歩き始めた。天子と鈴も、その後についていく。
ーーー
善蔵の畑は、林沿いの一角にあった。他の家の畑が瑞々しい白と緑に覆われているのに対し、この畑だけが茶色い土を露出している。大根の葉や白菜の根が所々に残っているだけで、作物の大半が盗まれてしまっていた。見事な荒らしようである。
天子はしゃがみ込んで、残った白菜の根に触れてみた。鋭い刃物で裂かれたような、滑らかな断面をしている。本当であればここ一帯に豊かな作物が実り、鈴とお父さんはそれを糧に生きるはずだったのだ。そう考えると、天子の心はますます沈んでいってしまった。同じ幻想郷であるはずなのに、どうしてここまで違うのだろう。天界は何もしなくとも桃が育ち、酒が無くなることもない。しかし一度下界を見てみれば、日々一生懸命に働き、それでも生きることの難しい鈴のような人々がいる。
「あんまり悩み過ぎないことね、あんたらしくもない」
いつの間にか、天子の隣に霊夢が座っていた。天子の手から白菜の根を奪い取り、目線の高さに掲げて観察している。
「天人には天人の、巫女には巫女の、農民には農民の世界と生き方がある。それらをいちいち不幸だとか何だとか比較したって、どうしようもないじゃない」
「でも・・・」
「本当、あんたも面倒なやつね」
霊夢はそれだけ言うと、白菜の根を放り投げ、ふらりふらりと林の方へ歩いて行ってしまった。言葉足らずではあるが、霊夢なりの励ましだったのかもしれない。
その後、天子が畑の周りをうろついていると、鈴が近づいてきて、一本の毛を天子に見せてきた。数センチほどの長さで、灰褐色の太くごわついた毛である。
「これは?」
「畑の隅に落ちてたの」
鈴はそう言うと、畑の南端、ちょうど林に面した辺りを指差した。林から出てきた妖獣が落としていったものかもしれない。狐か、狼か、はたまた狸か、どの獣のものなのかは天子には分からなかったが、人間の髪の毛とは明らかに質と太さが違った。やはり善蔵が言ったとおり、畑を襲ったのは妖獣のようだ。
天子は調査が一歩前進したことに内心ほっとしながら、鈴の頭を撫でてやった。
「よく見つけてくれたわね、鈴」
「うん!」
その時、天子の前で初めて鈴が笑った。右頬に小さなえくぼができ、一重の鋭い目が優しい曲線を描く。天子にはその笑顔がとても眩しく価値のあるものに思えて、少しだけ気持ちが軽くなった。
この後も天子と霊夢は畑の周辺を探索したが、結局何も見つけることはできなかった。二人は鈴にお別れをして、神社へと帰った。
ーーー
その晩天子は、霊夢にあてがわれた部屋で、布団に入ったまま寝れずにいた。無理矢理目を閉じてみるけれど、ただ時間が流れていくだけで一向に眠りにつくことはできない。
「うぅ・・・」
天子は一つ寝返りをうって、諦めたように起き上がり、襖を開いて、縁側へと出た。
博麗神社の縁側は、ある意味人気な場所である。昼間は掃除終わりの巫女がお茶を飲み、夜は呑んだくれの鬼が仲間とともに酒を煽る。しかし今は草木も眠る丑三つ時、虫の鳴き声もない静かな空間に、天子は一人座り込んだ。空には一杯の星が瞬き、その中心に欠けた月が見える。外の世界では見ることのできない雄大な星空があった。
天子は目を閉じて、鈴と善蔵のことを思い出していた。善蔵の細い腕と鈴の笑顔。彼女達の生活は決して楽とは言えないだろう。毎日田畑を耕し、米を育て、やっと食い繋いでいく。自分の今までの暮らしとは、まさに天地の差があるように思えた。しかし、彼女達は生きているのだ。毎日を退屈に過ごす自分よりも、よっぽど輝いてみえた。
「ふぅ・・・」
吐く息は白い薄膜を作り、黒い世界に溶けていく。自分には何ができるだろうか。しばらく考えた後、天子は立ち上がり、霊夢の寝室へと向かって歩き始めた。
霊夢の寝室は、居間と似たり寄ったりの殺風景具合だった。畳の上にある一枚の布団と、それをしまうための大きな押入れ、明かりをつける灯台、それ以外のものはほとんど何もない。余りにも簡素で無欲な部屋だ。
霊夢はその部屋の中央の布団に潜り込んで、小さな寝息をたてて寝ていた。普段は無愛想で怒りっぽい霊夢だが、寝顔は可愛い少女そのもの。整った顔立ちと、それを適度に覆い隠す黒髪が美しい。天子は一瞬起こすことを躊躇ったが、結局霊夢の肩を揺すった。
「んぬぅー」
意味不明な唸り声を上げながら、霊夢の目が開いた。状況を確認するように二、三回瞬きをした後、大きく伸びをする。
「貴方、夜中は一人で便所行けないの?」
「そんなわけないでしょう!そもそも天人は便所になんか行かないわよ!」
「へー」
心底興味なさそうに、霊夢がいい加減な相槌を打つ。
「で、便所に行く必要のない天人さんが、こんな夜中に何のようかしら?」
「捕まえるのよ」
「ん?」
「鈴の家の野菜を奪った妖獣を捕まえにいくの!集落の他の畑を襲いにくるかもしれないでしょ!?」
「そんな可能性を語るために私を起こしたの?」
鈴の住む集落で襲われた畑はまだ一枚のみ。近日中に他の畑が襲われる可能性は、天子の行動理由としては十分なものだった。天子はもう見たくなかったのだ。貧困も細い腕もまずい桃も。
「文句言ってないで、さっさと出かけるわよ!」
だらりと力を抜いたままの霊夢を、天子が片手でひょいと持ち上げ、そのまま玄関から神社を飛び出した。境内の正面にそびえる大鳥居が、月の光を反射して鮮やかな赤色に光っている。
「ちょっと待ちなさい!私寝巻きのままなのよ!」
天子はそう言って暴れる霊夢を、神社の傍に差し込んでおいた要石の上に放り投げ、そのまま上空へと急発進した。星がみるみるうちに近づいて、切り裂くような風を全身に受ける。向かう先は里はずれの集落。
「絶対捕まえてやる」
天子の決意は、静かな月夜に染み込んでいった。
ーーー
天子と霊夢は、民家の影に隠れて林の方をじっと見つめていた。天子は緋想の剣に手をかけ、妖獣が現れたらすぐにでも斬り殺さんとする勢いである。まるで冥界の庭師のようだ。
「ったく、なんで私がこんな目に・・・」
昼間に来た時と同じように、霊夢は呪詛のように愚痴を繰り返していた。寒さで全身がびくりと震える。腕の鳥肌が総立ちである。
そんな二人の姿を知ってか知らずか、林は物音一つたてることなく静寂を保っている。この林の中に、本当に生き物は住んでいるのか、そう疑いたくなるほど不気味で無機質な静けさだった。
「来ないわねえ」
「そう簡単に来るわけないでしょ。そもそもあんた剣なんか握ってどうするつもりなわけ?」
「どうするって・・・妖獣を退治するのよ」
「馬鹿らしい」
霊夢は完全に不貞腐れてしまった様で、ぼんやりと月を見上げながら何度となく溜息をついた。空っぽの賽銭箱を眺めているときと同じ表情である。
「あのね、野菜が盗まれた程度でいちいち剣振るってらんないわよ。人と妖にはバランスってもんが・・・」
「静かにっ!」
突然天子が霊夢の口を覆い、民家の陰に引き込んだ。天子が少しだけ顔を出して林の様子を探る。
そうしていると、林を抜けて白い狼の妖獣が一匹出てきた。通常の狼に比べると一回り体が大きく、多少の妖力を備えているものの、白狼天狗のような知性と体躯は持ち合わせていない。そんな中途半端な妖怪だった。林から顔を出した妖獣は、キョロキョロと辺りを見回し、集落へと入り込むタイミングを見計らっているようであった。
「霊夢、行くわよ」
その言葉に霊夢が振り返ったときには、すでに天子は駆け出していた。吹き抜ける風のように軽やかな動きで、妖獣との距離を詰める。妖獣も天子の動きに気づいて逃げ出そうとするが、そのまま抑え込まれてしまった。
「貴方が野菜を盗んだのね」
妖獣の毛は、鈴に渡されたものと同じ灰褐色だった。枝葉の隙間から差し込む月光が反射して輝く。天子はごくりと一つ喉を鳴らして、腰に携えた緋想の剣を抜いた。緋想の剣は赤く揺らめいて、まるで暗がりを照らす蝋燭のようだった。柄を持つ手が震えて、頬を生温い汗が一滴一滴と伝っていく。妖獣は息苦しそうに顔を歪ませて、逃げ出そうと必死にもがいている。しかし天人の腕力には敵うはずもなく、その姿が余計天子を苛つかせた。この妖獣には、受けるべき罰がある。
「貴方のせいで、苦しんだ人がいる」
「やめなさい」
天子に追いついた霊夢が、剣を握る腕を掴んだ。抑揚のない真っ平らな声で喋りかける。
「あんた、もう少しこの妖獣を見てみなさい」
天子は視線を霊夢から妖獣に戻した。口の中で見え隠れする鋭い牙、本当に見えているのか疑いたくなるほど黒々とした瞳孔。そこに映る青髪の少女が天子自身だと気付くのに、数秒かかった。
「随分痩せてると思わない?」
霊夢の言ったとおり、妖獣は随分と痩せ細っていた。腹も足も、骨が浮き出てしまっている。善蔵の腕と同じ、冷たい体だった。
「肉食である狼の妖獣が野菜を食べるなんて、相当切羽詰まった状態じゃない限りあり得ないわ。鈴の家と同じ、こいつも食べなきゃ死んでたのよ」
霊夢は天子の腕を掴んだまま、隣に座り込んだ。
「あんたの気持は分かるわよ?鈴達を助けてあげたいと思う気持ちは。でも、この妖獣も苦しんでいる。弱者に救いの手を差し伸べようと踏み出した足で、他の弱者を踏みつぶすんじゃ、何の意味もないわ。」
「でも、こいつは確かに畑の野菜を・・・!」
「盗んだから殺すの?野菜と命を引き換えなんて、悪魔もびっくりの交換ね。」
霊夢の問いかけに、天子はただ黙りこむ他なかった。天子の頭の中を、様々な情景と思いがよぎった。退屈な天界、霊夢の溜息、鈴の笑顔、鈴のお父さんの病床、そして目の前で弱い息を吐く妖獣。何が正しくて何が間違いだとか、そんなものは分からない。鈴は苦しんでいて、でもこの妖獣も苦しんでいて。じゃあ誰が救われたんだと、天子は思わず涙を流していた。自分は何も知らなかったのだ。生きることの厳しさも知らず、自分の退屈がどれだけ無価値なものであるかも、本当に何も知らなかった。
視界がぼやけて、腕に込めた力が抜けていく。気道が開いた妖獣はひゅーひゅーと苦しそうに息をして、天子の腕に爪を立てようとするが、天人の体は硬く、擦り傷一つつかない。天子は妖獣の攻撃を避けようともせず、ただ泣き続けた。大粒の涙が、地面に幽かな染みを作っていく。
「離してやりなさいよ」
天子は剣を鞘におさめ、妖獣の首元から手を離した。妖獣は懸命に立ち上がって、一度も振り返ることなく林の奥へ奥へと走り、そのまま見えなくなった。
「あら、あんたにしては物分かりがいいじゃない」
「そうね、私もやっと分かったみたい」
いつの間に時間が過ぎたのか、朝の陽ざしが林に零れかかり、どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくる。天子は狼が消えていった茂みをただ呆然と眺めていた。
ーーー
神社に帰った天子が目を覚ましたのは、太陽がてっぺんに輝く正午のことだった。頭は霧に包まれたように鈍重で、こめかみの辺りが少し痛んだ。障子を通って差し込む光に少し目を細めながら、居間の方へと移動する。居間では霊夢が一人お茶を啜っていた。昨晩あんなことがあったのにも関わらず、いつもと一切変わることのないその振る舞いに、天子は少し驚いた。
「昨日あんなことがあったのに、よく呑気にお茶なんか飲んでられるわね」
「呑気に寝てたあんたには言われたくないわよ」
そんな軽口を叩きあいながら、天子は台所に行って自分の湯飲みを取り、座卓の上の急須からお茶をそそいだ。絹のように滑らかな湯気を立てて、温かいお茶が湯飲みを満たす。
「で、あんた今日はどうするつもりなの?」
「一旦天界に帰って桃を取ってくる」
「桃?」
「そう。鈴達にあげようかと思って」
「ついでに私にもよこしなさいよ。今までの宿代として」
「別にいいわよ」
天子は、昨晩妖獣を逃したことを未だ気にしていた。妖獣もまた鈴達と同じように、飢えて苦しんでいた。野菜を盗んだからといって殺すわけにはいかない。その判断自体は間違ったものだとは思わないが、それでも天子の心の内には、煮え切らない灰色をした感情が残っていた。
「じゃあ、あんたが天界から帰ってきたら、もう一度鈴の家に行きましょうかね」
「ええ」
天子は鮮やかな緑色をしたお茶を飲み干し、静かに立ち上がった。
ーーー
天子が天界に帰るのは数週間ぶりだったが、その風景は全く変わっていなかった。無限の時を生きる天人にとって、数週間などという時間は無いに等しい。晴れた空に湧き上がる泉、船を浮かべて詩を詠み合う人々。下界は冬野菜の収穫で慌ただしく動き始めたというのに、ここの暮らしは何の変化もない。天子はため息を一つついて、傍らの桃の木から実を数個もぎ取り、神社から持ってきた風呂敷で包んだ。青、白、桃色と明るい色調の天界で、濃緑色の風呂敷は随分浮いて見えた。きっと自分も同じように浮いているのだ。何を悟るでもなく、何を成し遂げるでもなく、中途半端な天人。
「何考えてんだろ・・・」
天子はどこからともなく胸に吹き込んできた自虐を振り払い、桃で膨らんだ風呂敷を背負った。霊夢には先に鈴の家に向かうよう言っておいたので、急がなければならない。天子は雲の隙間を抜けて、人里のはずれにある集落を目指した。
ーーー
天子が村に到着した時、霊夢は道端の岩に座り、神社から持ってきた煎餅を齧りながら、村を行き交う人々を眺めていた。
「やっと来たのね」
「こんなところで何やってんのよ」
「ほら、鈴の家を見てみなさい」
霊夢に言われて振り返ると、鈴の家の前に小さな人だかりができていた。皆この村の住人らしい。大根や白菜、ウサギなどの食べ物をかついでいる。
「何あれ?」
「畑を荒らされちゃった鈴の家に、お裾分けらしいわよ。この村の人たちは皆助け合って生きてるのね」
村の人たちも、鈴と同じ、汚れた野良着を着ていた。きっと彼らも生きていくのに必死なのだ。けれど、背筋の曲がった老人も、武骨な体型をした男も、赤子を抱き抱えた女も、苦しい中で助け合っている。妖獣は貧しさ故に奪ったが、貧しい故に助け合えることもあるのだ。天子は嬉しくなって、鈴の家に集まる人々の輪に入って行こうとした。
「待ちなさい、天子」
しかし、駆け出そうとした天子の肩を霊夢が抑えた。天子は突然の接触に驚き、霊夢の方へ振り返る。
「何するのよ!?」
「ずっと引っかかってたの。初めてこの村に来た時からずっと」
霊夢の顔が少しずつ険しくなっていく。大胆不敵で、しかしどこか悲しげな、博麗の巫女の表情だった。
「この事件、まだ裏があるわ」
ーーー
天子と霊夢は岩に座ったまま、鈴の家から人がいなくなるのを待った。その間、霊夢は一切口をきこうとしなかった。その間、天子は「この事件、まだ裏があるわ」という霊夢の言葉の意味を考えてみたのだが、結局何も分からなかった。霊夢の発言は余りにも突然で、解釈のしようがなかった。
日が傾き、村の人々がいなくなった頃合いを見計らって、霊夢が立ち上がった。夕焼けに照らされて、霊夢の赤い巫女服がさらに紅く染まっていく。
「さあ、行きましょうか」
「なんで皆がいなくなるまで待ってたの?」
「野次馬がいるとやりづらいじゃない」
霊夢は迷いの無い足取りで、鈴の家へと進んでいった。天子もそれに続いていく。鈴の家は相変わらず雑草が茂り、蔦が絡まったままだったが、その脇には村の人々が届けてくれた食料が山積みにしてあった。これだけの量があれば、冬を越すことができるだろう。
「さあ、行くわよ」
そう声をかけると、霊夢は何の挨拶もノックもなしに、突然鈴の家の戸を開き、玄関に乗り込んでいった。天子は、霊夢の破天荒な行動に一瞬呆気に取られてしまったが、すぐに霊夢を追って鈴の家に入った。
「ちょっと、さすがに失礼でしょ霊夢!・・・・え?」
天子が見たもの。壊れかけの囲炉裏と、敷かれたままの布団。傍らに座る鈴と、体の底から健康そうな笑顔を浮かべる善蔵の姿。
「もう仮病は終わりみたいね、善蔵さん」
ーーー
「あ・・・っ」
霊夢と天子の来訪に、鈴は小さな悲鳴をあげた。善蔵も目を見開いたまま固まってしまい、動こうとしなかった。霊夢は一つため息をついて、そのまま部屋へと上がりこむ。
「仮病・・・?」
天子には全く意味が分からなかった。つい昨日まで苦しげな咳にうなされていた善蔵が、元気そうに鈴と談笑している。永遠亭の薬師のおかげか、はたまた天子の祈りが天に通じたのか。一体、何がどうなっているのだろう。
「ほら、何もたもたしてんのよ」
霊夢は茫然と立ち尽くしてしまっている天子の腕を掴んで、無理やり部屋へと引き上げた。
「霊夢・・・。これは一体?」
「全部自作自演だったのよ。本当は野菜も盗まれていないし、妖獣も畑を荒らしてなんていない」
霊夢の口ぶりは、まるで地獄の裁判長のような、淀みのないものだった。霊夢の言葉に善蔵はますます恐れ慄き、顔を引きつらせ、鈴は長い髪に表情を隠し、微かに震えていた。二人とも何もしゃべろうとしない。
「最初におかしいと思ったのは、この家を初めて訪れた時だった。普通客を家に通す時は、咳は我慢するし、布団に寝転んだままでいたりしないでしょう?でも善蔵さんは自分が病気であることを見せびらかすかのように何度も大きな咳をして、布団から出ようともしなかった」
「そう言われてみると・・」
例え病気であろうとも、客人に対してはある程度の誠意を見せるものである。しかも、相手は初めての顔見せなうえに、自らが招いた客なのだ。天子はあの時、善蔵の体調がひどく悪いのだと思いそれ以上考えようとはしなかったが、言われてみると確かに不自然に思えた。
「後は、畑の荒らされ方がおかしかったのよね。所々に白菜の茎や大根の葉が残されていたけれど、どれも断面が異常に滑らかだった。妖獣が奪っていったのなら、歯形や爪形が残っているはずなのに。まあ、もしかするとカマイタチの仕業なんじゃないかとも思ったんだけど、昨日やってきたのは狼だったしね」
霊夢の言うことは何から何まで正しかった。善蔵の態度も畑の荒らされ方も、直接的でないとはいえ、野菜の盗難が自演であることを示しているように思えた。そして何よりも、今目の前にいる善蔵の蒼い表情が、真実を物語ってる。
しかし、天子にはまだ納得できない点があった。
「でも霊夢、善蔵さんはなんでそんなことしたの?自分の畑を自分で荒らしたって、何の意味もないじゃない」
「意味はあるわよ。家の前に沢山積み上げられてたでしょ?」
「家の前に積み上げられてた?」
「野菜よ。村の人たちが分けてくれた野菜。それがこの人たちの動機」
「あ」
天子も、霊夢の言わんとすることを理解した。
「そっか。もし病気で寝込んでいる農家の野菜が妖獣に盗まれたら、この村の人たちは善意から食料を分けてくれる。それを見越して、善蔵さんは自分の畑を荒らしたんだ」
「そういうこと。自分の畑で収穫した野菜は、屋根裏か床下にでも隠しているんでしょう。そうですよね、善蔵さん?」
善蔵はがくりとうなだれて、何も言わずにゆっくりと首を縦に振った。この男は人をだますにはあまりにも善良すぎる、天子にはそう思えた。霊夢の推察に一切反論もせずただ頷く善蔵の姿を見ていると、何故こんな事件を起こそうとしたのか、全く分からなかった。霊夢は一歩、また一歩と善蔵に近づき、その腕を掴む。
「とりあえず、もらった野菜を村の人たちに返しなさい」
「しょうがないじゃない・・・」
声が聞こえた。掠れた鋭い声だった。
「食べなきゃ生きていけないもん・・・」
それは鈴の声だった。
「博麗のお姉ちゃん達には分からないんだよ。毎日毎日畑の野菜を育てて、一生懸命育てて、それでも私達は生きていけないんだ」
「鈴、やっぱり貴方も知っていたの?この事件が全部自作自演だということ」
「知ってたよ。全部全部知ってたよ」
鈴の答えを聞かなくても、天子には既に分かっていた。野菜を盗んだのは妖獣、天子にそう錯覚させたのは、畑に落ちていた獣の毛だった。そしてそれを天子に渡したのは、目の前で叫ぶ少女だったのだから。
鈴は真っ直ぐと二人を睨みつけていた。天人と巫女、鈴から見れば二人は恐怖の存在である。幻想郷を支配する魑魅魍魎と対等に渡り合う人間達。どれだけ見上げても姿をとらえられないほど、高みに存在する者達。鈴は大きく見開いた瞳に涙を浮かべ、歯を食いしばり、それでも天子と霊夢から目を逸らそうとしなかった。
天子は、初めて鈴と会った時のことを思い出した。博麗神社の境内、汚れた着物に身を包んだ鈴の目は、今と同じように鋭く、暗く光っていた。あの時から、全部嘘だったのだろう。初めて見せてくれた笑顔を美しいと感じたのも、とんだ勘違いだったのかもしれない。
「お姉ちゃん達は幸せそうだね。生きるの簡単でしょ?妖怪さん達を怖がる必要もなくて、食べ物の心配をする必要もなくて。人を騙してまで食べ物を手に入れるなんて、馬鹿だなあと思ったんでしょ?」
鈴は言葉を続けた。小さい喉をいっぱいに震わせて叫んだ。しかし鈴の叫びは、霊夢と天子に向けられていたのだろうか、もっと違う何かに、必死で食らいついているようにも見えた。
「そうね。退屈な時もあるけど、私はおおむね幸せかしら」
答えたのは、霊夢ではなく天子だった。
「食べ物は桃があるし、妖怪なんて相手にならないし。少なくとも、貴方よりはいい生活をしているわね」
天子はずっと考えていた。貧困とは何なのかを見せつけられて、自分の生き方に疑問を持った。そして今、この少女を救わなければならない、そう思った。
「だから、私だけは騙されてあげる」
天子は鈴にそっと近づき、その小さな身体を抱きしめた。硬い髪の毛を撫で、汚れた着物に触れて、きつくきつく抱きしめた。染み込んだ土の匂いを嗅ぎ、ゆっくりと話し続けた。
「私だけは、貴方達の嘘に騙されてあげる。食べ物なんていくらでもあげるし、妖怪だって全部追い払ってあげる。私は幸せだから、貴方を救ってあげる」
天人と農民、その差はあまりにも大きい。それでも、手を差し伸べることはできる。上に立つ者だからこそ、救うことができる。それが天子の答えだった。
糸が切れたように、鈴は泣いた。瞳に溜まっていた涙は頬を滑り落ち、天子の服を濡らした。天子は鈴の涙を拭い笑う。その姿は、まるで母親のように温かく、優しいものだった。
「まあ、腐っても天人ってところかしらね。事件も一件落着だし」
霊夢はそう言って善蔵の腕を離し、ふらりふらりと家屋を出た。外は山の裾野から溢れる夕陽に照らされ、真っ赤に染まっている。空も里も、畑も家も、全てが皆等しく紅い。謎を解いたのは自分であるはずなのに、結局おいしいところを全て天子に持っていかれてしまった。霊夢はそのことに多少の腹立たしさを覚えながらも、小さく笑った。
「妖怪が絡んだ事件でも無いんだし、これ以上博麗の巫女の出番は無いわ。帰るわよ、天子」
「ちょっと、待ちなさいよ!霊夢!」
「ねえ、博麗のお姉ちゃん」
霊夢を追いかけて走りだした天子を、鈴が呼び止めた。何かを見つけることができたのかもしれない、そう感じさせる、強く確かな声だった。
「何よ?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
天子は振り返り、もう一度笑った。
こうして博麗の巫女ーー比那名居天子の手がけた異変は誰の目にも止まらぬまま、ひっそりと幕を閉じることになる。そもそもこんな小規模で幻想の欠片もない出来事を、異変と呼ぶことは間違いかもしれない。しかし、天子の心に一つの異変が起きたことだけは、紛れもない事実だった。
ーーー
異変解決から数日後、天子は博麗の巫女を辞めて天界へと帰ってきていた。稀代の飽き性であるはずの天子が、約一カ月もの間巫女としての仕事を続けていたというのはある意味奇跡である。
「本当、総領娘様が一ヶ月も働き続けていたなんて、近日中に異変でも起こるんじゃないでしょうか・・・」
天子と隣り合うように座る竜宮の使いーー永江衣玖はそう言って笑顔を浮かべた。子供の成長を見守る親のような温かい笑顔である。馬鹿にされているような気がして、天子は少し声を荒げた。
「異変?起こるならぜひ起こって欲しいわね。私が解決に出向いてあげるから」
この一ヶ月間で、天子が大きな異変にめぐり合うことはなかった。幻想郷を東奔西走、快刀乱麻の大活躍を期待していたのだが、いくら幻想郷でも日常的に異変が起こるわけではない。博麗の巫女だって、ほとんどの時間は暇で退屈なのだ。境内の掃除と、縁側での日向ぼっこで一日が終わってしまう。そんな日々が縷々と続いて、日常というものが出来上がっている。農民から天人まで、皆そうやって生きている。
あの親子も、そういう風に生きていくはずなのだ。
「総領娘様、少し変わりましたね」
「そう?自分じゃなんとも思わないけれど」
「いえいえ。私は空気を読む程度の能力を持っていますからね、そういうことには敏感なんです。何と言いますか、少し性格が丸くなったというか、物腰が柔らかくなったというか・・・・」
「何よ。その言い方だと、今までの私は乱暴で粗雑だったみたいじゃない」
「え、そうですよ?それに少し改善されただけで、今でも総領娘様は乱暴で飽き性で粗雑でお転婆です」
「あんたねえ・・・」
本当にこの妖怪は空気が読めているのだろうか?天子は山ほどある文句を何とか抑えつけて、手に握った桃を一口齧る。
今まで無味無臭だと思っていた桃が、少しだけ甘く感じた。
すごくいいですね!
やっぱやりきれない世界観でも救いがある終わり方はいいものだ
便利な世界に住み続けているせいで周囲の環境が自らを退屈にしていると思ってしまい、だからこそ躍動的で活気溢れる地上(下界)に憧れる。
彼女達にとっては地上が極楽浄土なんでしょうね...
良い作品でした。
そんな言葉を、何処かで聞いたのを思い出しました。
誰も救われないバットエンドを予想していただけに、てんこの全部守るという言葉に感動して、読み終えた後はとてもスッキリした気分になれました。
テーマ自体はそれ程斬新ではない……ですが、作者さん独自カラーが端々から窺えます。