『お祭り?』
今月最後の新聞配達を終えて、川のほとり。
通りすがった"にとり水運"の魚雷舟に、今日は乗客の姿はない。代わりに鎮座しているのは、山積みの資材。
「そーだよ。明日はお山の夏祭りさ。今日はそれにつきっきり!」
「参拝道も賑やかだったでしょう? みんなお祭りの準備ですよ」
『わぁ! お店いっぱい!?』
「いーっぱいだとも! 山イチバンの大賑わい! 私も店を出すんだ、寄っておくれよ?」
「別に一番って訳でもないでしょうに。金儲けが絡むとすぐに騒ぐんですよ? 河童というのは」
「ヘンなこと教えないー!」
――ラムネあげないもーん! と子どもにイジワルしてみせるにとり。大慌てでせがむ子どもと水上バトルが始まった。水の上なら河童が優勢。
「今月は土踏月ですから、また違った賑わいを見せてくれそうですねぇ」
配達途中の参拝道を思い出す。
朝早くから、骨組みによじ登っての掘っ建てに、脚立を使っての飾り付け。資材運びの男たちがヒィヒィと汗を流して倒れ込んでいた。
翼を使えばあっという間の仕事も、地を這っては一苦労。すでにいつもと違う夏の風物詩は、なんだか見ていて面白いのだった。
「土踏月が、終わりますね……」
空を見上げる文。
つくつくぼうしもまだ鳴かない、始まったばかりの夏。
明日で、子どもとの生活が終わる。
【 土踏み騒動 最終章 】
上層部からの通達は、天狗達に衝撃を与えた。
ふもとで、行方不明の子どもの遺体が見つかったこと。調査の結果、現在生きている文の子どもは遺体のドッペルゲンガーだったこと。……文と子どもの契約により、土踏月が終わったら子どもを人里に返すことまで明記してもらった。
――これでもう後戻りはできませんね。
まだ心のどこかに、子どもと生活が続けられる未来を夢想していた文も、その通達書を見て、諦念の笑顔を浮かべたのだった。
ともかく、これによって、文の人さらい疑惑は綺麗サッパリと晴れた。
人間側には、何も伝えていない。
遺体のこともドッペルゲンガーのことも伝えず、文の口から事情を説明し、返すだけ。両親相手に何かそれっぽい理由をつけるのは簡単だ。
……困っているのは、子どもへの言葉。
何を言っても、嘘になる。どんな理由を並べても、本当は子どもと一緒にいたいのだ。自分が心のどこかで納得できていないことを、子どもに分かりやすい言葉で納得させるなど不可能だった。
紅魔館での決意表明から、何の良い案も浮かばないまま、現在に至る。
――おやすみ、文おねぇちゃん。
――ええ、おやすみなさい……。
結局、この子との最後の夜も、何も言い出せないまま終えてしまった。
明日でお別れ、ということも、何も。
そして今。
夜の帳の下りた妖怪の山に、提灯明かりが線を引く。太鼓の音を遠くに聞きながら、お出かけの準備だ。
「どうです、似合うでしょう?」
『まごにもいしょうですわね!』
「馬子ですと!? 私は鴉天狗です!」
『あはは、いっこうにかまわん!』
いつもの服とは違い、美しい小紋(こもん)をまとう文。帯と着物の華やかな色合いに、煌びやかなかんざし、手には……カメラ。
腰に手を当ててカメラを持ち、自信満々に胸を張るいつも通りの姿も、着物をつければおしとやかに見え……なくはない。この格好でも十分アクティブに動き回ってしまうのが文だった。
「いいですか? 天狗記者たるもの、お祭りを楽しみながらも、取材を忘れないことが肝心です。何か面白いものがないか目を光らせながら、気を引き締めて楽しむように!」
『光らせます! あっ、文おねぇちゃんを撮らなきゃ!』
「はいポーズ! あややっ、私の格好が面白いという意味ですかねぇ!?」
よく分かっていらっしゃる子どもだ。
……この祭りが終わったら、この子と別れるのだ。先が続くものと思わせる今の言葉は、軽率だったかもしれない。
でも、もう何も考えたくなかった。
ここまで来てしまったら、あとはもう祭りを楽しむ以外にないじゃないか。それしか、文たちには残されていなかった。
――吹っ切れてしまおう。
「では、参りましょうか!!」
『まいりましょうかっ!!』
パシャリ。
家の前での、最後の記念撮影。
涙は、グッとこらえた。
……ちょっとブレたかもしれない。
◆
参拝道。一番の賑わいを見せる、お山の中央道だ。
闇空に輝くお祭り提灯に、立ち並ぶ食べ物屋台からの熱気。皆がみんな歩いているものだから、人海を渡るのも一苦労な大盛況に見える。
カラコロと鳴り止まない下駄の音に、どこからか上がる謎の歓声、既に酒の入ったおっちゃん達の笑い声。広場の特設会場からは祭囃子が聞こえてくる。
意識の留めどころのない、雑然とした喧噪。人間も妖怪も変わりない、夏祭りらしい光景だ。
妖怪の山らしいところを見てみよう。
『ひぇ! なにあれ!』
「あ、なーんでしょうか? 近くに寄ってみましょう」
『……小人さんが住んでるの?』
「そう見えるでしょう? ざんねん、こいつの正体はトカゲです」
お祭り提灯のひとつに、人影が動き回っている。灯の近くを好み、人のような影を投影させて驚かせる妖怪だ。灯のトカゲ・人影から、名を"ヒトカゲ"という。図鑑No.004には掲載されていない。
ヒュウ――。
一陣の冷たい風。季節外れの涼風に、なんと雪のようなものが舞った。周りから若干の歓声が上がる。
『あ、雪! ……ゆき!?』
「これも妖怪の仕業。通称"雪女の岩戸"と呼ばれる現象です。涼しいでしょう?」
賑やかな夏祭りに出られない雪女の歯噛みを、神話の天岩戸(あまのいわと)伝説とかけて言われるようになったらしい。「そんなことしてないわ」と冬の取材で明らかになってからは"雪女の寝返り"とも呼ばれるようになった。
ちなみに、本当は風をつかさどる"かまいたち"の悪戯心。
――あらあらあら。
今の風で舞ってしまった売り物が、子どものところに届いた。
『お面! でもへんなの……』
「ホントですねぇ。もっと可愛いのはないんでしょうか?」
「失礼ね、格式高い面よ」
回収に来た店の主人に、はいっとお面を返す子ども。
売り物を見れば、天狗や河童、鬼の面に加えて、翁や女、お狐様の能面もある。なんでも最近、旅の付喪神の能楽に感銘を受けたのだとか。
安物ではあるが、細部に金塗や朱漆の艶やかな装飾が施されており、実に遊び心がある。採算が取れているのか分からないが、主人の趣味なのかもしれない。
「神社に行ってみなさいよ。私の作った面が奉納されてるから」
「行ってみましょうか。兎にも角にも、まずはお参りですしね」
『あ、氷あめ!』
「いいですねぇ。兎にも角にも、まずは腹ごしらえとも言いますしね」
……となりに"冷やしあめ"というのもある。関西出身だろうか。
◆
着いたところは山の上。参拝道の最奥にある守矢神社だ。
鳥居に水屋に御神殿。オーソドックスな構造の敷地内に、今日は即席の礼拝所。中では風祝の御祈祷が見られる。作法にならった恭しい所作は、普段の破天荒な言動からはちょっと想像つかないような神聖さを感じさせる。
……まぁ御祈願などしなくとも、大声を出せば裏から出てきそうな距離に神様はいるのだが、それは言わない約束。
水屋で手と口を清め、さぁお賽銭……というところに、とんでもない看板が見えてしまった。
【 はたて女史 美容実演販売中! ~神社コラボの限定香水もあります~ 】
何の人だかりかと思ったら。実にあこぎな商売に手を染めている友人の姿が見えた。
「ちょっとあなたねぇ! 節操なさすぎでしょう!?」
「あっ文! 助けてよ! 私だってこんなことしたくないわよ!」
「こんなことするって聞いてないですよ!? 講習会の記事は私がいつもまとめてるのに、今回はいいんですか!?」
「神社側が『お祭りまで秘密にしてくれ』って言うしさぁ、断るにも相手が相手だしさぁ……。ホントはあんたや椛とお祭り回りたかったのに、散々よ!」
涙目で客をさばくはたて。せっかく出不精が解消されたと思ったら、有名になってしまったばかりに、こんな問題も抱えているのだった。来年は大丈夫だろうか。
そういえば、椛は今日は哨戒任務で来られないと言っていた。ここぞという時に、貧乏くじを器用に引き当てるのが椛という娘だった。彼女もまた、そういう星のもとに生まれてきたのかもしれない。
道中では、発明品を展開するにとりの姿もあった。昨日はラムネを運んでいたのでアテにしていたのだが、別の友人のものだったらしい。ヘンテコで奇抜な発明品ばかりで呆れる文をよそに、子どもは目を輝かせていた。無機質なからくり好きは男の子っぽい。
『はたておねぇちゃん。はい、ラムネ』
「くれるの? グスッ、ありがとう……あっ、そうです! この"炭酸水"には血行を良くする効果があって、これで洗顔すると……」
もうすっかり美容の伝道師が板についているみたいだった。
◆
神社から少し離れたところに、古びた石碑がある。
『これはなに?』
「"射影塚(しゃえいづか)"と言います。私たち天狗記者が使うカメラのお墓ですよ」
古くから、鴉天狗には道具を大切に使う文化が根付いている。愛用の道具がその寿命を迎えたとき、道具への感謝と報道界の繁栄の願いを込めて、ここに奉納されるのだ。
もっとも、今では年末にまとめて神社で供養し、部品は金属として製造に再利用されている。塚は、形だけのものになってしまった。
「他にも、白狼天狗の武具塚、河童の工具塚など、いろいろなものがあります。道具を大切に思う精神は、この山全体、幻想郷全体にも言えることです。そうでもなければ、付喪神など現れましょうか。表の神社の華やかさもいいですが、私にはここが一番ありがたみを感じる場所ですね」
そう言って、静かに手を合わせる文。子どもも真似して手を合わせる。
祭りの最中だが、ここには誰もいない。土も踏み固められておらず、誰かが頻繁に通っているような形跡はなかった。
数少ない年寄り勢がありがたがるような、ちょっと古臭い精神が息づく、寂しい射影塚。だが、祭りの喧騒を遠くに、月明かりに照らされる二人の姿は、まさしく神聖なものに違いなかった。
「……何ですそれ?」
『おそなえ』
そう言って、腰帯にさしていたお手製の葉団扇を、石碑の前に置く。
子どもが持っている、鴉天狗としての唯一の道具だ。
「それはまだ使うものじゃないんですか?」
『いっぱい使ったから、こんど新しいの作る』
今度。
その機会は、もう訪れない。
紅魔館の主が言っていた"運命"。まるでその運命に従うかのように、妖怪の山での形跡を、その身から放していく。
目頭が、急に熱くなった。
儚く、寂しく、美しい、子どもの横顔。
――ありがとうございました。
悟られないように、ごまかすように、再び目を瞑って手を合わせた。
◆
祭りもいい時間になってきた。
参拝道に戻ってくると、広場の方が一段と騒がしい。出店も半分ほどが閉まり、往来は落ち着いた雰囲気を取り戻している。
「締めの"山おどり"ですよ」
祭りの残り時間を、山の衆無礼講で踊り切る、夏祭りのクライマックスだ。
天狗や河童はもちろん、名も知れぬ小さな妖怪から神様まで、お囃子に合わせて踊り歩くのだ。この日に限っては人間の参拝客も少なからずおり、踊り集団の"連(れん)"に混ざって祭りを盛り上げる豪胆な者もいる。
広場には、小中大3段からなる360°の巨大円形ステージ。上段から、ピシッと揃った伝統踊りの達者な"竜連"、事前申請から抽選で選ばれた"鯉連"、抽選漏れしたその他大勢の"どじょう連"。ステージを囲むように即興踊りの"飛び入り連"と観客が集まる。
すでに異様な熱気に包まれている広場の様子は、人間の子供などにはちょっと近寄りがたいものがあった。
「私たちは木の上で見学しましょうかねぇ」
そう言って、木を見上げる。
土踏月の掟で羽は使ってはいけないのだが、明らかにそれを破って木に登ったであろう者が散見される。土踏月の最終日にこの祭りの陽気だ、無理もない。白狼天狗が来ないところを見ると、上層部も黙認のようだ。
座れる木の枝を探して、狙いを定める。子どもを抱いて、いざ飛ぼうとした、そのとき。
「いた! 文~!」
「文さ~ん!」
「おぉ、ちっこいのもいるぞ~!」
後方から声をかけてきたのは、いつもの顔ぶれ。
「はたて、にとり! 椛まで!? 仕事はどうしたの!?」
「えへへ、どうしてもって言って、抜けさせてもらいました。『あの子どもとの思い出づくりなら行ってこい』『写真よろしく』って。知ってました? その子、白狼天狗の間ではアイドルなんですよ?」
「そ、そうだったんですか!?」
白狼天狗には、緊急飛行騒動で迷惑をかけてしまった。上層部からの咎めも受けたであろうが、それは自分たちの非であることをしっかり認識した上でのことだった。
恨みを買ったと思っていたが、そんな負い目を感じる必要などなかったのだ。文の考えとは対照的に、文と子どもの関係は、周りから優しい目で見守られているのだった。……そんなこと、今の今まで知らなかった。
「あーもう! こんな時間にやっと抜けさせてくれるんだからね、神社の奴! 出店ひとつも回れなかったじゃない!」
「へっへーん! やっぱりこれがイチバンのお祭りだよ! 売り上げは上々! これでまたしばらくは研究に没頭できるね!」
はたてとにとりにも、語りつくせないドラマがあったに違いない。
「ところで、何あんた木に登ろうとしてんのよ? まさか踊らない気?」
「えぇ? だって、この子もいますし……」
「だからこそですよ! ここまで来て何をためらってるんですか!」
「そーそー! やらぬ後悔より、やる後悔! 流れに任せてどんぶらこさぁー!」
『ひぇえええ!!』
3人に巻き込まれる形で、"飛び入り連"の輪に入る文と子ども。
子どもにとっては、図体のでかい魑魅魍魎の百鬼夜行に紛れ込んだのだ。恐ろしいったらありゃしない。
「おぉ!? なんだなんだ、ちっこい人間がいるぜ!!」
「射命丸んトコのか! やるねぇ、根性ある奴ぁ大歓迎だ!!」
早くも、たくさんの手にもみくちゃにされる子ども。涙目で文にすがりつく。
……こんなに歓迎されるなんて、本当に、知らなかった。
「ははっ……参りました。これは逃げられませんねぇ」
『どどどう、どう、どうすればいいの!?』
「どうするって、そりゃあもう……」
ドン――!!
一発の太鼓とともに、静まり返る一同。
天守閣のように高いステージのてっぺんに立つ者が、声を張り上げる。
≪さても今宵は無礼講!! 皆の衆!! いざ、土踏み、拍打ち、踊り明かさん、山の音頭を!!≫
ドドン――!!
再びの太鼓の合図に、大歓声が巻き起こる。
その声量に不思議とかき消されぬ、流麗なお囃子が鳴り響き始めた。
「踊り明かすしかありませんよ!!!」
子どもの高らかな悲鳴が、響くことなく揉み消された。
そう、夢。
まさに夢のようだった。
闇夜にライトアップされたステージ。
竜連の優雅な舞に、鯉連の統一感のある節、どじょう連の勢いの良い拍打ちに、飛び入り連が無作法に騒ぎ立てる。
調子のよいお囃子が、熱く魂を揺さぶる。
憑き物でも落ちたように気持ちのいい笑顔で踊る、はたて、椛、にとり。
その友人たちに囲まれ、必死になって踊る子どもと、相方になって先導する文。
無限に輝くこの舞台を、夢と呼ばずして何とする。
今までのことも、これからのことも、すべて忘れて。
だから。
この時のことを、文はよく覚えていない。
◆
永遠とも思える時間も、いつかは終わるもので。
山おどりは、大盛況のうちに終了した。
祭りも終わり、ここで解散。そう思われたときに、上層部から知らせが入る。
「天狗の皆さんは残っていてください。参拝道にいる天狗の方は広場へご集合ください」
もう一つ、大きな行事が残っていた。
「天狗の皆さん。夏祭り、お疲れ様でした。今年は例年にも増して、大変な盛況を見せたのではないでしょうか」
天狗の上層部が前に立ち、挨拶をする。
「しかし! 私たちはもう一つ、大きな儀式を執り行わなければなりません。そう、土踏月の終了宣言です。長らく忘れていた飛行も、この太鼓の音ともに遂に解禁されるのです。皆さん、翼の準備はよろしいですか?」
一同から歓声が上がる。
一ヶ月前の夜明けから始まった土踏月。解禁は明日の夜明けであったはずだが、今この場で執り行おうという、上層部の粋だった。
文たちも顔を見合わせる。
「やっと終わるのね、この忌々しい土踏月が」
「ふふっ、もうしばらくは歩きたくありませんね」
『飛べるようになるの?』
「ええ、そのようですね……」
――あっ!!
文と子ども、お互い顔を見合わせる。こんな中でも、不思議と思い出すことができた。
『きよくただしい!』
「射命丸! 約束でしたね!」
「……何よそれ」
「特別フライトの約束です。土踏月が終わったら、一緒に空を飛ぼうと!」
「最高のタイミングじゃありませんか! 素敵です!」
「いや、そうじゃなくて、さっきの合言葉みたいなさ……」
抱き合って喜ぶ文たちに、置いてけぼりのはたて。
――わたしまで飛ぶのは、無粋ってもんだねぇ。
そう言って、一歩下がるにとり。きっとロケットの打ち上げのような、珍しいものが見られるだろう。これから始まる光景に、胸を弾ませていた。
『どうすればいいの!?』
「私と一緒に、地面を強く蹴るのです。あとは私の風に身を任せるだけ。しっかりつかまってないと、落っこちてしまうかもしれませんよ? おぉ、怖い怖い……」
『おぉ! こ、こわいこわい!』
「だーいじょうぶよ! 文なら落ちる寸前で助けてくれるって! ちょっと速くて怖いと思うけど!」
「私たちの山の景色を、よぉーく見ておいて下さいね! きっと素敵な思い出になりますから!」
はたてと椛に全身を揉まれ、励まされる子ども。もうやるしかないと、しだいに顔つきも勇気に満ち溢れてきた。
そうこうしている間に、時間は迫ってきた。太鼓の前に、バチが構えられる。
文が子どもをしっかり抱きしめる。子どもも文にギュッとつかまった。
視線先は、月の輝くパノラマの夜空。
「皆さん! 準備は整いましたか? それでは、土踏月の終了です!!」
奏者が、雄々しくバチを振りかぶった。
「行きますよ!!」
『うんっ!!』
ドン――ッ!!
力一杯、地面を蹴った。
太鼓の音に弾き出され、一斉に空に舞い上がる天狗達。
翼を広げた文は、弾丸のように、空に真っ直ぐと吸い上げられる。
誰よりも速く、高く、グングンと突き進む。
上空で風を止める。ふわっと体が宙に浮いた。
遅れて、翼を取り戻した天狗達が、歓声とともに、花火のように咲き広がった。
上も下もなくなった、一瞬の無重力。
満天に散りばめられた、星の大平原。
月明かりに照らし出される、悠然とした山の姿。
その二つを繋ぐパノラマの先には、限りの見えぬ幻想の大自然が広がっていた。
体を離し、手を握り合う二人。
そのまま、重力に従い、落下を始める。
――どうです、お山の空は?
――すごい! すごいよ!! 文おねぇちゃん! ありがとう!!
恐怖と、快感と、感動と。
ごちゃ混ぜになった感情にどうしようもなく、涙を流す子ども。
その涙は、頬を伝うことなく、空へ消えていく。
あぁ、お別れの言葉は、これに決めた。
――「ありがとう」と。
◆
二人で、参拝道を歩く。
幻想的なフライト。約束を果たしたところで、お祭りは今度こそ終了してしまった。
土踏月も、本当に終わってしまった。
文にとっては、帰り道。
子どもにとっては……この子にもまた、帰り道なのだ。
特別なことはない。どこにでもある、ただのお別れ。
ただ、その事を、子どもはまだ知らない。今から伝えなければならない。
『文おねぇちゃん。そっちはお山から下りちゃうよ?』
「……ちょっと散歩しましょう」
ふもとまで下りて。
山の入り口で言おう。
それから、そのまま人里まで届けよう。
「今日は楽しかったですね」
『うん』
「お空の旅はどうでした? ちゃんと景色は見えましたか?」
『うん』
「踊り、上手でしたよ」
『うん……』
「……お腹いっぱいになりましたね」
『文おねぇちゃん』
つないでいた手が、ギュッと握りしめられる。
『……だいじょうぶ?』
心配そうな顔で、文の方を向く。
――大丈夫じゃありません。
「何がです?」
『元気ない』
「いっぱいはしゃいで、疲れたでしょう?」
『じゃあ、家に帰ろう!?』
すがるような視線で訴える。
……勘のいい子だ。
このまま歩いていくと、なにか良くないことがある。そんなことを感じ取ってしまったようだ。
――良くないことなど、ありません。
『ねぇ、どうしたの? ねぇ!』
「大丈夫ですよ」
――大丈夫じゃありません。
しばらく歩いた。
来た道を見れば、提灯の明かりがまばらになっている。
鳥居の下で立ち止まった。
ふもとの、山の入り口。
子どもの方を向く文。
言うと決めていたのだ。
「ここで……」
――お別れです。
その言葉を紡ぐより先に。
「あっ……」
女性の声が聞こえた。
二人で、声の方を見る。
一人の、人間の女性が、こちらを見ている。
こちら……いや、子どもの方を。
子どもに目をやる文。
その口元が、こう動いた。
『……おかあさん』
ドクン。
『おかあさん! おかあさん!!』
「あぁ……ああっ……よく無事で……!!」
母のもとに走っていく子ども。
愛する我が子を、その胸に抱きしめる母。
捜索に来ていたのだ。
子どもの失踪から一ヶ月。あらゆる手を施しても見つからない我が子の最後の希望として、今日の夏祭りに来ていたのだ。
妖怪の山で一ヶ月など、子どもが生きていられるわけがない。そう分かっていながらも、手がかりだけでも見つけに来ていたのだ。
祭りも終わり、人里から来た人間も帰ってしまった今、まさに諦めようとしていたときに、文たちが来たのだった。
ドクン。
"おかあさん"
そう呼ばれるのは、私ではないのか。
そう抱きつかれるのは、私ではないのか。
その女が、おかあさんなのか。
「みんなが待っているの、さぁ帰りましょう……」
『えっ……』
母のもとから距離をとる子ども。
困った顔で、文の方を向いた。
母に会ったからといって、忘れるわけではない。
文のことを。椛やはたて、山での生活のことを。
「どうしたの? さぁ……」
『えっ、でも……』
「あ……」
母が、文の方を向く。
何かを悟ると、無表情で立ち尽くす文のもとに、歩み寄ってきた。
「あなたが、この子を助けてくださったのですね」
「……」
「一ヵ月間、ずっと探しておりました。まさか妖怪の山で保護されていたなんて……。感謝の言葉もありません」
とても冷静で、聡明な母だ。
状況を的確に判断し、妖怪に対して感謝の言葉を述べている。
子どもが生きて帰ってきてくれたことを、文のおかげだと思っている。
本当は死んでいたのに。文が手を施さなくても、じきに母のもとに帰るはずだったのに。
"おかあさん"の、貴女のもとにッ!
「……えぇ、迷惑な話でしたね」
深々と頭を下げていた母が、訝しげにこちらを見る。
敵対心むき出しの文の様子に、子どもも怯えた。
「貴女の監督不行き届きの負担を、私が背負っていたんですよ。妖怪が人間の尻拭いをするなど言語道断。ちゃんちゃらおかしいことですよ」
目を見開き、牙をむき出して、口元だけを不敵に笑わせる文。
『あ、文おねぇちゃ』
「今回のことは早く忘れることですねぇ。上層部も見逃すそうです。次はありませんよ……」
まさに妖怪そのものの禍々しい気をまとう文。
怖気づいた母は、慌てて一礼すると、子どもを連れて逃げるように行ってしまった。
――どうして?
子どもがそんな非難めいた視線を向けているような気がしたが、詳細は分からない。
努めて、母の方だけを見ていたから。
最後に見る子どもの表情は、そんなものではないはずだから。
◆
鳥居の下に、一人の天狗少女が取り残される。
「あ、文……」
それを心配した数人の仲間が、その天狗のもとに歩み寄る。
「どうして、あんなこと言ったんですか……」
「あいつもう、あんたに……」
二度と、会えなくなる。
言いようはいくらでもあった。
前もって子どもと話し合っていれば。
今だって、時間をかけて説明していれば、こんな別れ方はしなくて良かった。
またいつでも遊びに来てくれと、笑って送ることができたはずだった。
「ヘンですねぇ……」
……憎かった。
「"ありがとう"って……」
これからずっと一緒にいられる母が、憎かった。
母に会えた子どもの笑顔が、憎かった。
「決めていたのに……」
二人を憎いと思う自分自身が、おぞましかった。
――ぅぅ……ぅええん…………
鳥居の下に、一人の天狗少女が取り残される。
仲間に肩を抱かれながら、取り残される。
何も残さず消えていった、温もりを求めて。
ブレた一枚の記念写真が、空に舞っていった。
【 最終章 完 】
幾年月が過ぎて。
――あれから大変だったんだよー? 翼をもいで旅に出るとか、幻想郷の向こう側に行くだとか言い出すし。カメラをピカピカに修理してあげたり、尻尾を触らせてあげたり、新鮮なネタをあげてみたり、みんなでなだめるのに必死だったさぁ。
一人の青年が、妖怪の山を訪れた。
返し損ねた古いタグを、首からぶら下げて。
――もっと早く来てくれたらよかったんですけど、お互い時間は必要でしたよね。そのタグを見たときはびっくりしましたよ。私が最初に見つけたんですよね? 今回も! なんだか嬉しいです!
道は迷わない。
このルートを上れば、たどり着くはず。
そうそう、ここで白狼天狗に取り囲まれたっけ。
――でもさぁ、分かる? 文の顔。前は『私の子どもに何すんのよ!』みたいな感じだったじゃん? 今じゃ『私の男に触らないで!』みたいな? 立派になって帰ってきちゃって、このこの……イタタタッ! やめてよ文!
河童の舟から飛ばされたのが、このあたり。
この道をたどって行けば。
ほら、着いた。
コンコン――。
「はいはい、どちら様ですかねぇ。もうすぐ土踏月だという忙しいときに、まったく……」
ガチャリ――。
『あの、すみません!』
【 土踏み騒動 おわり 】
堂々の完結おめでとうございます。途中で完がでてきて、自分に「まだだ、まだ終わらんぞ!」
と言い聞かせてたら後日談。ハッピーエンドでこちらも安心しました。
この子供は、氏の一番最初の男ですよね?きっと。そうだったら結婚おめでとうといいたいですねw
お疲れ様でした!