『フヒヒヒヒ! 霊夢の腋、霊夢の腋いい匂い! 嗅がせて! もっと嗅がせて!』
「……うわぁ」
ない。いくら〔違う私〕だといっても、一応は妖怪の賢者であるはずなのに、これはない。もう、なにもかもが終わってしまっている。駄目だこの〔私〕。
私の目の前には、奥行きが五十センチほどあり観音開きの扉がついたテレビがある。そのブラウン管には、いま一つの喜劇が映し出されていた。
〔八雲紫〕は、博麗神社の縁側でお茶を飲んでいた霊夢の背後からスキマで現れ、そのまま霊夢に抱きついた。〔八雲紫〕の手は霊夢をしっかりホールドし、その顔を巫女の露出された腋に押し付ける。どうやら匂いを嗅いでいるらしい。豚の鳴き声かと錯覚する奇声は神社に響き渡り、直後霊夢の悲鳴もそれに加わった。
「あ、夢想封印発動。おー〔私〕吹っ飛ばされた。ってすぐに起き上がって……懲りないわねぇ、また霊夢に飛び掛ったわ」
『あ・ん・たはしつこいのよ、この超弩級の変態妖怪!』
『現在の私の霊夢欲求は最高レベルに達しているわ! もう、止められるはずもない! 私と愛を育みましょう、れいむうううううううううううううう!』
〔八雲紫〕は何度霊夢の攻撃を受けても立ち上がる。ネバーギブアップ、彼女の目には不屈の闘志が炎となって、メラメラと燃え盛っていた。
『八雲紫の性欲が世界を救うと信じてええええええええええええ!』
私は、テレビのスイッチを切った。
展開されていた喜劇はぷつ、という音と共に消え去る。そして、部屋を静寂が包み込んだ。
「ふう」
軽く、ため息を吐く。いまの世界はなかなかインパクトがあった。
それにしても、いまテレビに映っていた〔八雲紫〕を目撃した者は、この女はなんて破廉恥なやつなんだと考えることだろう。確かにあの〔八雲紫〕に関しては私も同意見だ。
しかし、〔全ての八雲紫〕がそうであるとは、考えてもらいたくはない。私は〔八雲紫〕の大多数が破廉恥ではないと知っているし、少なくとも私はそうではないと自負できる。
あまり〔八雲紫たち〕のことを軽蔑してほしくはない。なぜなら、それは私が軽蔑されているということになるからだ。
「さーて。あといくつか別の世界を見て、それからちょっと休憩といきましょうか」
つまり、こういうことだ。
喜劇の主役だったのは、八雲紫。
それを見ていたのも、八雲紫。
パラレルワールドの自分を、私こと八雲紫はテレビで見ていたのだ。
私がパラレルワールドの存在に気がついたのは、今から百年ほど前のことである。スキマの能力調整をしている時、たまたま偶然、平行世界にいる〔私〕の姿が近くにあった姿見に映ったのだ。
最初、さすがの私も戸惑った。だが、少し観察してみると姿見に映る〔私〕は、容姿も声もそっくりだが、性格が大きく異なっていることが分かった。どうやら、むこうからはこちらの姿は見えないらしい。一方的に私に見られている〔私〕は、妖怪の賢者たちの集会において、彼らに尊大かつ横柄に振舞っていた。かなり、煙たがられているようだ。自慢するわけではないが、私は違う。この〔私〕のように嫌われているようでは、賢者たちの和を乱し、幻想郷の運営に支障をきたすではないか。私なら、絶対にこんな無思慮なことはしない。
どうやら鏡に映っているのは、私の過去を、当時登場したてだった映画のように映しとったものではない。かといって、未来のものでもないようだ(繰り返すが、私とは性格が違う)。私は考えた末、これがどこか過去の時点で分岐した平行世界であり、パラレルワールドであると結論を出した。
これ以後、スキマに特殊な調整に施すことにより、私は様々なパラレルワールドを観察できるようになった。
パラレルワールドを観察するとき、最初はその映像を鏡に映していた。けれど、だいたい五十年ほどしてから、外の世界で普及していたテレビにこの役目を与えることにした。テレビは私以外が入ってこれないように術をかけた、私邸の奥にある畳十畳の和室に置いてある。私は藍や橙などの自らの配下を連れず、一人で平行世界を視聴し続けた。
「さてと」
ガチャガチャ。私はチャンネルを回す。テレビはリモコンが付いていない、選局の際は取っ手型のチャンネルを回す、古きよきテレビだ。もちろん、この行動は一種のお遊びで不必要なのだが、しかしこういう無駄が素晴らしいのだ。
チャンネルを回しながら、私は能力を静かに発動させる。こちらの世界と、あちらの世界をつなげる。あちらの世界からはこちらの世界は認識できない。こちら側からも何も干渉出来ないが、しかし映像として見ることは出来る。一方的な観察の始まりだ。
「あ、つながったわね」
ぷつ、という音と共に、映像が映る。
そこには、私ではない〔私〕がいる。
その世界の〔八雲紫〕はかわいいものが大好きだった。屋敷の地下に広大な部屋を設け、そこに世界中のかわいいものをコレクションしていた。特にぬいぐるみが好みらしく、それらに囲まれるのを至上の喜びとしていた。
ある日、彼女は人間の里のファンシーショップというかわいいものがよりどりみどりの、乙女チックな店に足を運ぼうとする。だが、そんな店に入れば自らが秘めた100パーセント少女な心が暴走し、賢者としての威厳は消失するかもしれない。だが、それでも――〔私〕は必死に自制しながらファンシーショップへと向かう。
見ているこちらとしてはなんともむず痒くなってくる。けれども、賢者としての威厳と、一人の少女としての自己を両立させるため四苦八苦するその姿は、なんだか微笑ましい。
……私も、ぬいぐるみ買ってみようかしら。
その世界の〔八雲紫〕はもう幻想郷の管理者ではなくなっていた。外の世界が幻想を受け入れたため、幻想郷はもう必要なくなった。そして、そのまま泡のように溶けて消えてしまったらしい。
〔私〕は霊夢と二人で暮らしていた。幻想郷消滅当初、〔私〕はその苦しみに耐えられず、なにか霊夢に辛い思いをさせてしまったようだ。けれど、〔私〕は立ち直った。今では、霊夢と仲良く笑顔を見せながら、どこかに食事に行く姿がテレビに映っている。
ああ、こういう幻想郷が無くなってしまった世界は、これまでいくつか見てきた。やはり、辛い。この手塩にかけて育てた子供のような、愛しい場所が無くなってしまうのは、辛い。
でも、この世界の〔私〕はそれでも前を向いている。向き続けている。
私にそんな強さはあるのだろうか。
現在、私が把握しているパラレルワールドは四千二百九十二個ある。これは先ほど確認した三つを含めてである。これら全ての世界に、本当に色々な〔私〕がいる。年に数回、不定期に行うこの観察を続けていくなかで、私はそれをつくづく実感した。
特に驚かされたのが、私と霊夢が恋愛関係になっている世界があったことである。この世界の私からすると、とても信じられない。これは、霊夢に魅力がないからというわけでは決してなく、ただ私が一つの人格を深く深く愛するということを忘れてしまったからだ。
もうこの世に生まれてから二千年以上になる。多くの事柄を経験し、私の心は随分と擦り切れてしまった。幻想郷という大きな存在を慈愛することは出来るが、一個の人間に対して恋愛することは、なんというか、それをしたいという欲そのものが無くなってしまったのだ。
別の世界の〔私〕は、いまだ恋愛をしたいという欲求が存在しているのだろうか。膨大なる時間の流れに耐えながら。
もしそうだとするなら、それは私にとってとても――
ガチャガチャ。チャンネルを回す。次の世界を映し出そう。この後の予定を考えるなら、今回のパラレルワールド観察は後一つでおしまいだ。そこは以前見たことがあるところ。
最後に覗き見するのは、〔私〕と霊夢が恋をしている世界。
『あら、霊夢。膝枕してほしいの?』
『……うっさい。いきなり出てきてお茶菓子食べちゃったんだから、これくらいの対価よこしなさい』
全てのものを暖かく包んでくれる春の日差しの中、二人は神社の縁台にいた。〔私〕に膝枕をしてもらっている巫女は、頬に朱が差している。
『ああ、ほんとうに。私、霊夢に好きだって告白してよかったわ』
〔私〕が、幸せそうに笑いながら言った。
『な……! いきなりなによ』
『だって、こんな可愛い女の子の傍にいられるんだから。私、霊夢のおかげで恋という気持ちを思い出せたんだから』
私は、思い出せなかった。
『私にも、まだこんな感情が残っていたのね』
私には、恐らく残っていない。
『私はいま、とっても幸……』
ぷつん。私はテレビのスイッチを切った。
『こんにちは、〔空白〕』
私の背後からこんな声が聞こえた。後ろを振り向く。
この部屋には、テレビが四台ある。一台は今まで並行世界を見ていたテレビ。そして、同じ見た目のもう三台は、横一列に並べてある「交信用」のテレビだ。
『あら、どうしたのかしら〔空白〕? 何か嫌なことでも?』
『え、えっと。相談ならいつでも大丈夫だよ?』
『う~ん、〔児戯〕ちゃん。いまはもっと大事なお話があるからぁ、ちょっと相談はまた後よぉ』
その三台のテレビには、一台につき一人、合わせて三人の〔私〕が映っていた。
平行世界を覗いている八雲紫は、この世界の私一人ではない。パラレルワールドの観測を開始してからしばらくして、別の世界の〔八雲紫〕からこちらへコンタクトがあった。曰く、一緒に覗き見をしないか。同じ力を持った〔八雲紫〕だった。
以降、平行世界を観察できる力を持った〔八雲紫〕を発見、もしくは向こうからコンタクトがあると、私はそんな〔八雲紫たち〕を覗き見仲間としていったのだ。
いまテレビに映っている三人もそんな覗き見仲間である。ちなみに、〔空白〕というのは、違う世界の〔八雲紫〕が私を呼ぶ際の名前だ。それぞれの世界の〔八雲紫〕もその個性に応じて名前を付けられており、例えば一番最初にしゃべった〔八雲紫〕は〔戯言〕と呼ばれている。その名の通り、少々戯言めいた喋り方をするからだ。
『〔空白〕。覗き見サークルとしての会費を払う時間が来たわ。ま、今回は割安だと思うけれど』
『あ、あの〔戯言〕ちゃん。あ、あんまりふざけてちゃ駄目だと思うんだけど……』
なんだかおっかなびっくり喋っている彼女は、〔児戯〕。変わった〔八雲紫〕で、まるで幼い少女のような心を持っている。
『〔児戯〕ちゃ~ん。真面目ばっかりだと疲れるわよぉ。ねえ、〔空白〕もそう思うでしょ』
いま私に話しをふってきた彼女は〔妖艶〕。彼女は十歳にも満たない幼子の姿をしているのに、おそらく私が見てきた〔八雲紫〕のなかでは最も妖しい色気を持っている。
「まあ、ふざけすぎていて話が進まないのは困ったことじゃないかしら……で、来たのね」
『ええ。この場の三人が既に観測済みよ。一直線に〔空白〕の世界に向かっているわ。手負いの獣は本当に必死に走るものなのね』
『……ごめんなさい。こっちの追跡は間に合わなかったの。ごめんなさい……』
『まぁ、これも観測の力を持っている〔八雲紫〕の義務だからぁ。辛くてもがんばらないといけのよぉ』
義務。そう、〔妖艶〕が言ったようにいまから私がやる仕事は一種の義務なのだ。そもそも、なぜパラレルワールドを観測していたのか。
それは「侵略者」にたいする警戒のためである。
〔八雲紫〕が平行世界を見ることができると気づいたとき、一番最初に思ったのが「侵略者」の存在だった。だからこそ、定期的によその世界を覗いていたのだ。
私は三人から「侵略者」の概要を聞いた。
「じゃ、行ってくるわ」
そしてスキマを開き、その中に入る。「侵略者」をお出迎えしなければいけない。非常に気の滅入る仕事だが、それでもやらないと。これは、八雲紫がやらないといけない仕事だ。
『ああ、それから』
スキマの中に入り、入り口を閉じようとした瞬間、〔戯言〕が言った。
『ご愁傷様』
まったくだ。
人間が見たら即座に発狂してしまうだろう光景が広がる。紫色に覆われた天蓋がときおり地獄めいた赤色に発光し、無感情な目が無数に空間に浮いている。
つまり、いつものスキマの中だ。私は傍目から見ると、散歩でもしているかのようにゆっくりと歩いていた。
しかし、〔空白〕か。私は自分が呼ばれている名前に対して考えを巡らす。この名前を付けたのはあの〔戯言〕である。〔戯言〕いわくぴったりの名前らしいが……いや、やめよう。〔戯言〕の言うことをいちいち考えていては疲れてしまう。
例えそれが事実だったとしても、その事実に心が埋め尽くされる必要はない。
「……さて」
余計な思考はここでシャットダウンといこう。私は「侵略者」の気配を探知した。「侵略者」はまっすぐスキマの空間を移動しながら、こっちに近づいてくる。
私は足を止める。では、ここで御客を待つとしよう。
しばらくして。
彼女は、やってきた。
その紫色のドレスはよれよれで、あちこちに汚れが付着し、ひどい臭いを発している。足取りはふらふらと確かではなく、今にも倒れそうだ。しかし、その目はギラギラと血走っており、獣が獲物を狙うような、確かな凶暴な意思を感じさせた。
彼女は全力疾走でこちらに向かっていたが、私の姿を見とめると、その足を止めた。
じっ、と私を睨みつけてくる。
「……〔私〕ね。そこを、どきなさい」
彼女が言った。
「ええそうよ〔私〕。少しお話ししない?」
私は返事をする。
「……うるさい。なにも聞きたくない。行かせてよ。そっちに行かせてよ!」
「ねえ、〔私〕。私はあなたが行きたがっている世界の〔八雲紫〕なの。……どうしたい?」
彼女の体が一瞬、ビクッと震える。そして、今まで以上の強さでこちらを凝視した。
ふと、彼女の手を見る。彼女の手はきつくきつく握られている。あまりに強く握られているため、遂には血が滴ってきた。
その血が突如変化を起こす。血はどす黒く変色していき、その黒き血は彼女の足元で溜まりをつくる。溜まりは徐々に広がっていき、そして突然空中に浮かび上がった。
「……殺す」
彼女の目は、もはや狂気をまとっていた。
「殺す殺す! 殺してやる! よこせ! お前の世界をよこせえええええ!」
「はあ。やっぱり、こうなるのね」
空中に浮かんだ黒き血は小さな粒に分かれる。そして、一斉に私へと突撃を開始した。
音速を超えるスピードで殺意の塊となった黒き血が襲い掛かる。私は幕状のシールドを全方位に敷き、これに備えた。閃光。衝撃。豪雨が屋根を叩くような音が、響く。
「自分に襲われるっていうのは、やっぱり変な感じよね」
彼女もまた、〔八雲紫〕だ。別の平行世界から、私がいる世界にやってこようとしているのだ。
彼女の世界の幻想郷は滅びてしまった。いや、地球そのものが滅びてしまった。
とつぜん宇宙から異星人がやってきて、地球を攻撃した。なんとも、B級SFのような筋書きだが、それが現実だった。幻想郷も地球側に加勢したのだが、結局負けてしまった。その世界の〔八雲紫〕は他の幻想郷住人が皆殺しの憂き目にあうなか、一人スキマに逃げ込み、命を拾った。
だが、絶望が彼女を襲った。全てが滅んだという現実に、そして一人おめおめと生き残っている自分に〔八雲紫〕は絶望したのだ。
そんなとき。
〔八雲紫〕はパラレルワールドの存在を知った。
平行世界では、幻想郷は続いていた。巫女と魔法使いが空を飛び、色とりどりの弾幕が世界を彩る。もう、自分の目の前には無くなってしまった風景。しかし、それが確かに存在し続けている世界があったのだ。
〔八雲紫〕は、この世界が欲しくなった。この世界の〔八雲紫〕を殺し、成り代わりたくなった。
どうしてこっちは滅び、あっちは幸せに続いているのか。
こんなの不公平じゃないか。
彼女はそう叫び、そして平行世界の侵略者となった。
複数の〔八雲紫〕が平行世界の観察を続けている理由はここにある。つまり、彼女のような〔八雲紫〕が、別の世界に襲い掛かるのを警戒するためなのだ。〔八雲紫〕は境界を操る力をもっている。その力を応用し、別の世界に害をもたらそうとする〔私〕がいるかもしれない。
もし、そんな〔私〕を発見したら、その世界の〔八雲紫〕は〔自分〕を止めなくてはいけない。例え命を奪ってでも。
「……結構きついなぁ」
黒き血の散弾攻撃はもう何分も続いている。終わる気配を見せない。
「死ね。死ね。死ね。死ね。
よこせ。よこせ。よこせ。
私が奪ってもいいはずだ。だって、同じ八雲紫なんだから。
幽々子がいる。藍がいる。橙がいる。……そして霊夢がいる。
そんな幻想郷を、私は……私は!」
うわごとのように彼女は呟き続ける。
ああ。彼女は本当に幻想郷を愛していたんだな。
私は、この非常時にも関わらず、そんなことを思った。
ざしゅ。そんな音が鳴った。
「ああ。本格的にやばいわね」
シールドに小さな穴があいた。その穴から黒き血の弾丸が、私の体に突っ込んでくる。たちまち、体を貫かれる。穴は次々とあき、次々と私の体にも穴が開く。
だんだん意識が朦朧としてきたのが分かる。まるで命が削られるような感覚だった。
「……どうしてよ」
ふと、彼女が言った。
「どうして……誰も呼ばないの?」
ああ、それか。どうやら〔私〕はそんなことも分からなくなっているらしい。
「あなたには藍も幽々子もいるんでしょう!? 霊夢だっているんでしょう!? だったら皆に助けを求めなさいよ! 私にはもう出来ないことをやりなさいよ!」
散弾が止まる。場を支配していた轟音は鳴り止み、静けさがそれに代わる。
口から血がこぼれた。思ったよりダメージは深そうだ。けれども。
けれども、これだけは言わなくちゃ。
「だって……見せられないじゃない。こんな自分の姿」
「……!!」
目の前の彼女が、激しい衝撃に襲われているのが分かった。体の震えは止まらず、徐々に大きくなっていく。
分かるはずだ。この一言で。だって、同じ〔八雲紫〕なんだから。
「あ、ああ……ああ! ああああああああああ!!」
彼女の呻きは慟哭へと変わっていく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ああああああ!」
私はシールドを解除する。後は、待つだけだ。
彼女は突っ伏し、そのまま一時間ほど泣き続けた。私はその傍らで、声をかけず、ただ待った。そして。
「……ああ」
彼女は、しっかりとした動作で、立ち上がった。
「うん、うん。そうなのよね」
彼女の顔を覗く。そこには笑みがあった。
「八雲紫は、幻想郷の賢者。うさんくさい大妖。それだけは、どこの世界でも一緒なのよね?」
「ええ。たくさんの平行世界を見てきたけど、それだけは変わらないわ」
「……なら、情けない姿を晒している場合じゃないわね」
二本の足で立たないと。彼女ははっきりと言った。
『まさかハッピーエンドで終わるなんてね』
スキマの空間から出て、テレビに映る三人に事の顛末を語った後、〔戯言〕はこんなことを言った。その顔にはただただ感心している様子が見て取れる。
『良かった……! 本当に良かった……!』
『あらぁ〔戯言〕。あなた「ご愁傷様」なんて言っていたけれど、あれ要するに〔自分〕を殺すから言っていたのよねぇ? あてが外れちゃったわね』
『む。うるさいわよ〔妖艶〕』
あれから、この世界を奪おうと考えた彼女は、元の世界に戻った。もう幻想郷は無いけれども、それでも異星人に対し抵抗を続けていこうと考えているらしい。彼女の挑戦が実を結ぶかは分からないけれど、それでも私は成功を願っている。
〔八雲紫〕らしく、うさんくさく立ち回ってしまえばいいのだ。
『あ! そうだ! 一度みんなで会わない? テレビ越しではなくて。きっと楽しいよ』
〔児戯〕が言った。みんなというのは平行世界を観察している〔八雲紫〕のことだろうか。しかし……。
「藤子・F・不二夫?」
その後、三人は交信を切り、三台のテレビのスイッチも切れた。部屋に静寂が戻る。
しかし、いま考えても本当に話が通じる相手で良かった。
前の〔私〕には同じ手が通じなかったのだから。今回は運が良かったと考えるべきだろう。また〔自分〕を殺さずに済んだ。
「ふう」
一つ、息を吐く。さて、また自分の世界に注意を向けよう。いつまでも隣の世界にこだわっていてはいけない。いま私がいるのは、この場所なのだから。
テレビの部屋から外へ出る。奇妙な時間はこれで終わりだ。
「うむ?」
おや、柄にも無い。もう二千年を生きた私に?
胸のなかには満足感があった。
「……うわぁ」
ない。いくら〔違う私〕だといっても、一応は妖怪の賢者であるはずなのに、これはない。もう、なにもかもが終わってしまっている。駄目だこの〔私〕。
私の目の前には、奥行きが五十センチほどあり観音開きの扉がついたテレビがある。そのブラウン管には、いま一つの喜劇が映し出されていた。
〔八雲紫〕は、博麗神社の縁側でお茶を飲んでいた霊夢の背後からスキマで現れ、そのまま霊夢に抱きついた。〔八雲紫〕の手は霊夢をしっかりホールドし、その顔を巫女の露出された腋に押し付ける。どうやら匂いを嗅いでいるらしい。豚の鳴き声かと錯覚する奇声は神社に響き渡り、直後霊夢の悲鳴もそれに加わった。
「あ、夢想封印発動。おー〔私〕吹っ飛ばされた。ってすぐに起き上がって……懲りないわねぇ、また霊夢に飛び掛ったわ」
『あ・ん・たはしつこいのよ、この超弩級の変態妖怪!』
『現在の私の霊夢欲求は最高レベルに達しているわ! もう、止められるはずもない! 私と愛を育みましょう、れいむうううううううううううううう!』
〔八雲紫〕は何度霊夢の攻撃を受けても立ち上がる。ネバーギブアップ、彼女の目には不屈の闘志が炎となって、メラメラと燃え盛っていた。
『八雲紫の性欲が世界を救うと信じてええええええええええええ!』
私は、テレビのスイッチを切った。
展開されていた喜劇はぷつ、という音と共に消え去る。そして、部屋を静寂が包み込んだ。
「ふう」
軽く、ため息を吐く。いまの世界はなかなかインパクトがあった。
それにしても、いまテレビに映っていた〔八雲紫〕を目撃した者は、この女はなんて破廉恥なやつなんだと考えることだろう。確かにあの〔八雲紫〕に関しては私も同意見だ。
しかし、〔全ての八雲紫〕がそうであるとは、考えてもらいたくはない。私は〔八雲紫〕の大多数が破廉恥ではないと知っているし、少なくとも私はそうではないと自負できる。
あまり〔八雲紫たち〕のことを軽蔑してほしくはない。なぜなら、それは私が軽蔑されているということになるからだ。
「さーて。あといくつか別の世界を見て、それからちょっと休憩といきましょうか」
つまり、こういうことだ。
喜劇の主役だったのは、八雲紫。
それを見ていたのも、八雲紫。
パラレルワールドの自分を、私こと八雲紫はテレビで見ていたのだ。
私がパラレルワールドの存在に気がついたのは、今から百年ほど前のことである。スキマの能力調整をしている時、たまたま偶然、平行世界にいる〔私〕の姿が近くにあった姿見に映ったのだ。
最初、さすがの私も戸惑った。だが、少し観察してみると姿見に映る〔私〕は、容姿も声もそっくりだが、性格が大きく異なっていることが分かった。どうやら、むこうからはこちらの姿は見えないらしい。一方的に私に見られている〔私〕は、妖怪の賢者たちの集会において、彼らに尊大かつ横柄に振舞っていた。かなり、煙たがられているようだ。自慢するわけではないが、私は違う。この〔私〕のように嫌われているようでは、賢者たちの和を乱し、幻想郷の運営に支障をきたすではないか。私なら、絶対にこんな無思慮なことはしない。
どうやら鏡に映っているのは、私の過去を、当時登場したてだった映画のように映しとったものではない。かといって、未来のものでもないようだ(繰り返すが、私とは性格が違う)。私は考えた末、これがどこか過去の時点で分岐した平行世界であり、パラレルワールドであると結論を出した。
これ以後、スキマに特殊な調整に施すことにより、私は様々なパラレルワールドを観察できるようになった。
パラレルワールドを観察するとき、最初はその映像を鏡に映していた。けれど、だいたい五十年ほどしてから、外の世界で普及していたテレビにこの役目を与えることにした。テレビは私以外が入ってこれないように術をかけた、私邸の奥にある畳十畳の和室に置いてある。私は藍や橙などの自らの配下を連れず、一人で平行世界を視聴し続けた。
「さてと」
ガチャガチャ。私はチャンネルを回す。テレビはリモコンが付いていない、選局の際は取っ手型のチャンネルを回す、古きよきテレビだ。もちろん、この行動は一種のお遊びで不必要なのだが、しかしこういう無駄が素晴らしいのだ。
チャンネルを回しながら、私は能力を静かに発動させる。こちらの世界と、あちらの世界をつなげる。あちらの世界からはこちらの世界は認識できない。こちら側からも何も干渉出来ないが、しかし映像として見ることは出来る。一方的な観察の始まりだ。
「あ、つながったわね」
ぷつ、という音と共に、映像が映る。
そこには、私ではない〔私〕がいる。
その世界の〔八雲紫〕はかわいいものが大好きだった。屋敷の地下に広大な部屋を設け、そこに世界中のかわいいものをコレクションしていた。特にぬいぐるみが好みらしく、それらに囲まれるのを至上の喜びとしていた。
ある日、彼女は人間の里のファンシーショップというかわいいものがよりどりみどりの、乙女チックな店に足を運ぼうとする。だが、そんな店に入れば自らが秘めた100パーセント少女な心が暴走し、賢者としての威厳は消失するかもしれない。だが、それでも――〔私〕は必死に自制しながらファンシーショップへと向かう。
見ているこちらとしてはなんともむず痒くなってくる。けれども、賢者としての威厳と、一人の少女としての自己を両立させるため四苦八苦するその姿は、なんだか微笑ましい。
……私も、ぬいぐるみ買ってみようかしら。
その世界の〔八雲紫〕はもう幻想郷の管理者ではなくなっていた。外の世界が幻想を受け入れたため、幻想郷はもう必要なくなった。そして、そのまま泡のように溶けて消えてしまったらしい。
〔私〕は霊夢と二人で暮らしていた。幻想郷消滅当初、〔私〕はその苦しみに耐えられず、なにか霊夢に辛い思いをさせてしまったようだ。けれど、〔私〕は立ち直った。今では、霊夢と仲良く笑顔を見せながら、どこかに食事に行く姿がテレビに映っている。
ああ、こういう幻想郷が無くなってしまった世界は、これまでいくつか見てきた。やはり、辛い。この手塩にかけて育てた子供のような、愛しい場所が無くなってしまうのは、辛い。
でも、この世界の〔私〕はそれでも前を向いている。向き続けている。
私にそんな強さはあるのだろうか。
現在、私が把握しているパラレルワールドは四千二百九十二個ある。これは先ほど確認した三つを含めてである。これら全ての世界に、本当に色々な〔私〕がいる。年に数回、不定期に行うこの観察を続けていくなかで、私はそれをつくづく実感した。
特に驚かされたのが、私と霊夢が恋愛関係になっている世界があったことである。この世界の私からすると、とても信じられない。これは、霊夢に魅力がないからというわけでは決してなく、ただ私が一つの人格を深く深く愛するということを忘れてしまったからだ。
もうこの世に生まれてから二千年以上になる。多くの事柄を経験し、私の心は随分と擦り切れてしまった。幻想郷という大きな存在を慈愛することは出来るが、一個の人間に対して恋愛することは、なんというか、それをしたいという欲そのものが無くなってしまったのだ。
別の世界の〔私〕は、いまだ恋愛をしたいという欲求が存在しているのだろうか。膨大なる時間の流れに耐えながら。
もしそうだとするなら、それは私にとってとても――
ガチャガチャ。チャンネルを回す。次の世界を映し出そう。この後の予定を考えるなら、今回のパラレルワールド観察は後一つでおしまいだ。そこは以前見たことがあるところ。
最後に覗き見するのは、〔私〕と霊夢が恋をしている世界。
『あら、霊夢。膝枕してほしいの?』
『……うっさい。いきなり出てきてお茶菓子食べちゃったんだから、これくらいの対価よこしなさい』
全てのものを暖かく包んでくれる春の日差しの中、二人は神社の縁台にいた。〔私〕に膝枕をしてもらっている巫女は、頬に朱が差している。
『ああ、ほんとうに。私、霊夢に好きだって告白してよかったわ』
〔私〕が、幸せそうに笑いながら言った。
『な……! いきなりなによ』
『だって、こんな可愛い女の子の傍にいられるんだから。私、霊夢のおかげで恋という気持ちを思い出せたんだから』
私は、思い出せなかった。
『私にも、まだこんな感情が残っていたのね』
私には、恐らく残っていない。
『私はいま、とっても幸……』
ぷつん。私はテレビのスイッチを切った。
『こんにちは、〔空白〕』
私の背後からこんな声が聞こえた。後ろを振り向く。
この部屋には、テレビが四台ある。一台は今まで並行世界を見ていたテレビ。そして、同じ見た目のもう三台は、横一列に並べてある「交信用」のテレビだ。
『あら、どうしたのかしら〔空白〕? 何か嫌なことでも?』
『え、えっと。相談ならいつでも大丈夫だよ?』
『う~ん、〔児戯〕ちゃん。いまはもっと大事なお話があるからぁ、ちょっと相談はまた後よぉ』
その三台のテレビには、一台につき一人、合わせて三人の〔私〕が映っていた。
平行世界を覗いている八雲紫は、この世界の私一人ではない。パラレルワールドの観測を開始してからしばらくして、別の世界の〔八雲紫〕からこちらへコンタクトがあった。曰く、一緒に覗き見をしないか。同じ力を持った〔八雲紫〕だった。
以降、平行世界を観察できる力を持った〔八雲紫〕を発見、もしくは向こうからコンタクトがあると、私はそんな〔八雲紫たち〕を覗き見仲間としていったのだ。
いまテレビに映っている三人もそんな覗き見仲間である。ちなみに、〔空白〕というのは、違う世界の〔八雲紫〕が私を呼ぶ際の名前だ。それぞれの世界の〔八雲紫〕もその個性に応じて名前を付けられており、例えば一番最初にしゃべった〔八雲紫〕は〔戯言〕と呼ばれている。その名の通り、少々戯言めいた喋り方をするからだ。
『〔空白〕。覗き見サークルとしての会費を払う時間が来たわ。ま、今回は割安だと思うけれど』
『あ、あの〔戯言〕ちゃん。あ、あんまりふざけてちゃ駄目だと思うんだけど……』
なんだかおっかなびっくり喋っている彼女は、〔児戯〕。変わった〔八雲紫〕で、まるで幼い少女のような心を持っている。
『〔児戯〕ちゃ~ん。真面目ばっかりだと疲れるわよぉ。ねえ、〔空白〕もそう思うでしょ』
いま私に話しをふってきた彼女は〔妖艶〕。彼女は十歳にも満たない幼子の姿をしているのに、おそらく私が見てきた〔八雲紫〕のなかでは最も妖しい色気を持っている。
「まあ、ふざけすぎていて話が進まないのは困ったことじゃないかしら……で、来たのね」
『ええ。この場の三人が既に観測済みよ。一直線に〔空白〕の世界に向かっているわ。手負いの獣は本当に必死に走るものなのね』
『……ごめんなさい。こっちの追跡は間に合わなかったの。ごめんなさい……』
『まぁ、これも観測の力を持っている〔八雲紫〕の義務だからぁ。辛くてもがんばらないといけのよぉ』
義務。そう、〔妖艶〕が言ったようにいまから私がやる仕事は一種の義務なのだ。そもそも、なぜパラレルワールドを観測していたのか。
それは「侵略者」にたいする警戒のためである。
〔八雲紫〕が平行世界を見ることができると気づいたとき、一番最初に思ったのが「侵略者」の存在だった。だからこそ、定期的によその世界を覗いていたのだ。
私は三人から「侵略者」の概要を聞いた。
「じゃ、行ってくるわ」
そしてスキマを開き、その中に入る。「侵略者」をお出迎えしなければいけない。非常に気の滅入る仕事だが、それでもやらないと。これは、八雲紫がやらないといけない仕事だ。
『ああ、それから』
スキマの中に入り、入り口を閉じようとした瞬間、〔戯言〕が言った。
『ご愁傷様』
まったくだ。
人間が見たら即座に発狂してしまうだろう光景が広がる。紫色に覆われた天蓋がときおり地獄めいた赤色に発光し、無感情な目が無数に空間に浮いている。
つまり、いつものスキマの中だ。私は傍目から見ると、散歩でもしているかのようにゆっくりと歩いていた。
しかし、〔空白〕か。私は自分が呼ばれている名前に対して考えを巡らす。この名前を付けたのはあの〔戯言〕である。〔戯言〕いわくぴったりの名前らしいが……いや、やめよう。〔戯言〕の言うことをいちいち考えていては疲れてしまう。
例えそれが事実だったとしても、その事実に心が埋め尽くされる必要はない。
「……さて」
余計な思考はここでシャットダウンといこう。私は「侵略者」の気配を探知した。「侵略者」はまっすぐスキマの空間を移動しながら、こっちに近づいてくる。
私は足を止める。では、ここで御客を待つとしよう。
しばらくして。
彼女は、やってきた。
その紫色のドレスはよれよれで、あちこちに汚れが付着し、ひどい臭いを発している。足取りはふらふらと確かではなく、今にも倒れそうだ。しかし、その目はギラギラと血走っており、獣が獲物を狙うような、確かな凶暴な意思を感じさせた。
彼女は全力疾走でこちらに向かっていたが、私の姿を見とめると、その足を止めた。
じっ、と私を睨みつけてくる。
「……〔私〕ね。そこを、どきなさい」
彼女が言った。
「ええそうよ〔私〕。少しお話ししない?」
私は返事をする。
「……うるさい。なにも聞きたくない。行かせてよ。そっちに行かせてよ!」
「ねえ、〔私〕。私はあなたが行きたがっている世界の〔八雲紫〕なの。……どうしたい?」
彼女の体が一瞬、ビクッと震える。そして、今まで以上の強さでこちらを凝視した。
ふと、彼女の手を見る。彼女の手はきつくきつく握られている。あまりに強く握られているため、遂には血が滴ってきた。
その血が突如変化を起こす。血はどす黒く変色していき、その黒き血は彼女の足元で溜まりをつくる。溜まりは徐々に広がっていき、そして突然空中に浮かび上がった。
「……殺す」
彼女の目は、もはや狂気をまとっていた。
「殺す殺す! 殺してやる! よこせ! お前の世界をよこせえええええ!」
「はあ。やっぱり、こうなるのね」
空中に浮かんだ黒き血は小さな粒に分かれる。そして、一斉に私へと突撃を開始した。
音速を超えるスピードで殺意の塊となった黒き血が襲い掛かる。私は幕状のシールドを全方位に敷き、これに備えた。閃光。衝撃。豪雨が屋根を叩くような音が、響く。
「自分に襲われるっていうのは、やっぱり変な感じよね」
彼女もまた、〔八雲紫〕だ。別の平行世界から、私がいる世界にやってこようとしているのだ。
彼女の世界の幻想郷は滅びてしまった。いや、地球そのものが滅びてしまった。
とつぜん宇宙から異星人がやってきて、地球を攻撃した。なんとも、B級SFのような筋書きだが、それが現実だった。幻想郷も地球側に加勢したのだが、結局負けてしまった。その世界の〔八雲紫〕は他の幻想郷住人が皆殺しの憂き目にあうなか、一人スキマに逃げ込み、命を拾った。
だが、絶望が彼女を襲った。全てが滅んだという現実に、そして一人おめおめと生き残っている自分に〔八雲紫〕は絶望したのだ。
そんなとき。
〔八雲紫〕はパラレルワールドの存在を知った。
平行世界では、幻想郷は続いていた。巫女と魔法使いが空を飛び、色とりどりの弾幕が世界を彩る。もう、自分の目の前には無くなってしまった風景。しかし、それが確かに存在し続けている世界があったのだ。
〔八雲紫〕は、この世界が欲しくなった。この世界の〔八雲紫〕を殺し、成り代わりたくなった。
どうしてこっちは滅び、あっちは幸せに続いているのか。
こんなの不公平じゃないか。
彼女はそう叫び、そして平行世界の侵略者となった。
複数の〔八雲紫〕が平行世界の観察を続けている理由はここにある。つまり、彼女のような〔八雲紫〕が、別の世界に襲い掛かるのを警戒するためなのだ。〔八雲紫〕は境界を操る力をもっている。その力を応用し、別の世界に害をもたらそうとする〔私〕がいるかもしれない。
もし、そんな〔私〕を発見したら、その世界の〔八雲紫〕は〔自分〕を止めなくてはいけない。例え命を奪ってでも。
「……結構きついなぁ」
黒き血の散弾攻撃はもう何分も続いている。終わる気配を見せない。
「死ね。死ね。死ね。死ね。
よこせ。よこせ。よこせ。
私が奪ってもいいはずだ。だって、同じ八雲紫なんだから。
幽々子がいる。藍がいる。橙がいる。……そして霊夢がいる。
そんな幻想郷を、私は……私は!」
うわごとのように彼女は呟き続ける。
ああ。彼女は本当に幻想郷を愛していたんだな。
私は、この非常時にも関わらず、そんなことを思った。
ざしゅ。そんな音が鳴った。
「ああ。本格的にやばいわね」
シールドに小さな穴があいた。その穴から黒き血の弾丸が、私の体に突っ込んでくる。たちまち、体を貫かれる。穴は次々とあき、次々と私の体にも穴が開く。
だんだん意識が朦朧としてきたのが分かる。まるで命が削られるような感覚だった。
「……どうしてよ」
ふと、彼女が言った。
「どうして……誰も呼ばないの?」
ああ、それか。どうやら〔私〕はそんなことも分からなくなっているらしい。
「あなたには藍も幽々子もいるんでしょう!? 霊夢だっているんでしょう!? だったら皆に助けを求めなさいよ! 私にはもう出来ないことをやりなさいよ!」
散弾が止まる。場を支配していた轟音は鳴り止み、静けさがそれに代わる。
口から血がこぼれた。思ったよりダメージは深そうだ。けれども。
けれども、これだけは言わなくちゃ。
「だって……見せられないじゃない。こんな自分の姿」
「……!!」
目の前の彼女が、激しい衝撃に襲われているのが分かった。体の震えは止まらず、徐々に大きくなっていく。
分かるはずだ。この一言で。だって、同じ〔八雲紫〕なんだから。
「あ、ああ……ああ! ああああああああああ!!」
彼女の呻きは慟哭へと変わっていく。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! ああああああ!」
私はシールドを解除する。後は、待つだけだ。
彼女は突っ伏し、そのまま一時間ほど泣き続けた。私はその傍らで、声をかけず、ただ待った。そして。
「……ああ」
彼女は、しっかりとした動作で、立ち上がった。
「うん、うん。そうなのよね」
彼女の顔を覗く。そこには笑みがあった。
「八雲紫は、幻想郷の賢者。うさんくさい大妖。それだけは、どこの世界でも一緒なのよね?」
「ええ。たくさんの平行世界を見てきたけど、それだけは変わらないわ」
「……なら、情けない姿を晒している場合じゃないわね」
二本の足で立たないと。彼女ははっきりと言った。
『まさかハッピーエンドで終わるなんてね』
スキマの空間から出て、テレビに映る三人に事の顛末を語った後、〔戯言〕はこんなことを言った。その顔にはただただ感心している様子が見て取れる。
『良かった……! 本当に良かった……!』
『あらぁ〔戯言〕。あなた「ご愁傷様」なんて言っていたけれど、あれ要するに〔自分〕を殺すから言っていたのよねぇ? あてが外れちゃったわね』
『む。うるさいわよ〔妖艶〕』
あれから、この世界を奪おうと考えた彼女は、元の世界に戻った。もう幻想郷は無いけれども、それでも異星人に対し抵抗を続けていこうと考えているらしい。彼女の挑戦が実を結ぶかは分からないけれど、それでも私は成功を願っている。
〔八雲紫〕らしく、うさんくさく立ち回ってしまえばいいのだ。
『あ! そうだ! 一度みんなで会わない? テレビ越しではなくて。きっと楽しいよ』
〔児戯〕が言った。みんなというのは平行世界を観察している〔八雲紫〕のことだろうか。しかし……。
「藤子・F・不二夫?」
その後、三人は交信を切り、三台のテレビのスイッチも切れた。部屋に静寂が戻る。
しかし、いま考えても本当に話が通じる相手で良かった。
前の〔私〕には同じ手が通じなかったのだから。今回は運が良かったと考えるべきだろう。また〔自分〕を殺さずに済んだ。
「ふう」
一つ、息を吐く。さて、また自分の世界に注意を向けよう。いつまでも隣の世界にこだわっていてはいけない。いま私がいるのは、この場所なのだから。
テレビの部屋から外へ出る。奇妙な時間はこれで終わりだ。
「うむ?」
おや、柄にも無い。もう二千年を生きた私に?
胸のなかには満足感があった。
パラレルワールドものって面白いけどややこしい印象があります。