長月。
季節は秋で、幻想郷の色も青々しい緑から紅に染まっていた。
生命がこれでもかというほどに活動し続けた夏も終わり、季節は秋。
喧しく鳴く蝉時雨はどこかへ消え去り、代わりに夜には鈴虫の凛とした共鳴が聞こえてくる季節に幻想郷は差し掛かっていた。
妖怪の山も紅色に染まり、秋が到来しているのだと見ただけでわかるように変化していた。
そして秋は妖怪の山に限った事でなく、人里にもちゃんと秋は拡がっていた。
寺子屋は一週間前に秋季休講期間に入り、普段は喧騒が絶えないのだが今日はその影は見せずにただしんと静まっている。
毎年この期間は慧音が後期の授業の準備をする為に休みを設けているのだ。
前期から後期への移行するまでの間にずれてしまった授業の進行具合を確認や、今後の授業の調整を行っている。
子供たちはそんなことを露知らず、休みを満喫しているのが毎年の恒例である。
子供が休みで喜んでいる間大人が苦しんでいるのはもはや世の常であった。
そして、そんなこれからの準備に追われている寺子屋に二人いた。
一人はこの人里に寺子屋を構え、里の子供たちに様々な事を教えている白沢、上白沢慧音。
そしてもう一人は永遠に死ぬことは無い蓬莱人と呼ばれる人間、藤原妹紅であった。
「ねぇ、慧音。これどこに運ぶんだっけ?」
「ああ、えええっとそれは……倉庫だ。すまん。まだ運んでもらいたい荷物があるので、急いでくれ」
「はいはいー」
慧音に指示されるままに妹紅は寺子屋の外の倉庫へと紐で占めた資料を運んでいく。
慧音はその背中を見送るわけでもなく、ただ目の前に積まれたプリントを整理したり、白板の前に立ってスケジュール帳とのにらめっこをし続けていた。
明後日から授業が開始するのだが全然片付いていないのだった。
理由としては二つほどある。まず一つ目は慧音の本業である歴史の編纂作業が思った以上に進んでしまい、夢中になって続けてしまったのが一つ。
そしてもう一つは迷いの竹林で火事が発生したとの通達を村の若者から受けたのが一点。前者は完全に慧音に落ち度があるのだが、後者は観察不届きで起こった事件だ。
通達を受けてからものの三〇分で火事は沈静化したが、妹紅の頭には大きなたんこぶが出来上がっていた。
そこから妹紅への説教が続き、合計で五日ほどロスをしてしまった。
本来は三日間使いようやく終わる作業なのだが、残された時間は二日未満であり、作業工程はまだ四割にも達していなかった。
その為妹紅に雑用を押し付け、慧音が調整に全面打ち込むという形で作業をしている。
寺子屋の授業の準備で一番時間がかかるのは整頓であり、それを妹紅に任せることにより大幅な時間短縮を行うことが可能であった。
慧音の指示を受けた妹紅は倉庫から戻ってきては、再び書類を纏め紐で縛る作業をする。
「慧音。これは?」
「そうだな……それは、もう燃やしてくれて構わない」
「ん」
妹紅は自分の頭よりも高い位置まで積み上げられた紐で縛った書類を持ち上げる。
持ち上げた時に少し左右によろめいたが、その後は順調に歩を進め庭先へと向かった。
庭先では整理と同時に妹紅の火による処分も行っていた。
焼却と整理を同時に行えるのである意味適材適所ではあると慧音は思いながらスケジュール帳と難しい顔でにらめっこを続けていた。
◆
そして数時間後、白板は見事にきっちりと締められたスケジュールが書き込まれ慧音の難しい顔は消え去っていた。
職員室の中のプリントは綺麗に整頓されており、不要なものは一切無くなっていた。
時刻はもう夕刻であり、人里にはぽつりぽつりと飲食店の提灯が着き始めていた。
空も薄暗く紅に染まり、これから夜が下りてくるのだと実感させる。
日没も迫っており太陽の全貌はもうどこにもなくただただ残滓の紅が空に見えるだけであった。
そんな時間の寺子屋の職員室にペンのキャップを閉める音が小さくこだました。
「よし終わったぞ妹紅」
「ん。ようやく終わったの」
「悪いな。今日一日着き合わせちゃって」
「まぁ暇だったし別にかまわないよ」
妹紅は座っていた椅子から立ち上がり手を頭の上で組んで、大きく体を反らして背伸びをした。
あれから数刻の間、持っては運び、運んでは燃やしをひたすらに繰り返していた妹紅だが、慧音より早く仕事が終わってしまい手もちぶさになっていた。
その為、ただ妹紅は終わった後慧音の後ろ姿を見るのと、輝夜をどうやって殺すかを考えて暇を潰すことを余儀なくされた。
そうした呪縛からようやく抜け出せるという開放感から体の方も正直になってしまい、
「ぐぅ」
妹紅の腹部からそんな情けない声が消えてきた。
不死者でも腹は減る。生理現象だから仕方がない。
妹紅は少しだけ恥ずかしかったのか、腹に手を当て紅くした顔を慧音に見せぬようにそっぽを向いた。
慧音はその様子を見て小さく乾いた笑いをこぼしていた。
「仕方ない。私の家に今日は泊まれ。どうせ帰っても何もないんだろう?」
「……そうさせてもらう」
その後二人は寺子屋の戸締りをして、寺子屋の外へと出た。
空はもう黒に染まっており、その黒の合間に星々の白と月の蒼が埋まっていた。
人里の中央は提灯のオレンジ色の灯りに包まれており、夜にも関わらず賑わいを持っていた。
すこしはずれにある寺子屋からでもその様子は簡単に見ることができた。
今日も今日とて飲んだくれなんかが騒いでいるのだろう。
「さて、どうする? 外で食べるか? それとも家で食べるか?」
石畳で敷かれた正門までの道を肩を並べて歩きながら慧音は妹紅に問うた。
妹紅はそう聞かれ顎に手を当て、少しの間悩んだが答えは正門に付くころには出ていた。
「そうだなぁ。久々に慧音の料理食べたいしそっちで」
「おいおい。私の料理といってもそんな大層な物はでないぞ?」
「私は慧音の料理好きだよ? 特にお蕎麦とか」
「蕎麦か。旬はまだ先だがいいだろう。あと秋刀魚を焼こう」
「やった」
正門に付くと寺子屋の方に一度振り返り、灯りの消し忘れがないかを確認した。
消し忘れがないことを慧音が確認するとそのまま二人は人里とは反対方向にある慧音の自宅へと歩いていく。
二人が歩いていく背中には人里での夜の賑わいが次第に消えて行った。
灯りもどこか不明確になり輪郭がぼやけたような曖昧な明るさが、ただただあるだけだった。
慧音の自宅は何も知らないものが一見すれば、よく言えば落ち着いた環境と思うかもしれないが、悪く言えば村八分されていると思うような状態であった。
辺りは誰の家も無くただ運河が通っているだけであり、夜になると暗がりの中にある一軒家である。
人里の中心部には歩いて行けば二十分程度要する距離に位置しており、自転車では十分で行ける距離だった。
ただこの位置は慧音自ら望んだものであり、人里から隔離されるような扱いを受けている訳ではない。
理由としてはここは人里の入り口に近く、人里の外から入ってくる害のある妖怪を追い払うためである。
周りに何もなければ思う存分に力を振うことができるため、迅速に処理をすることが可能なのだ。
もう一つは月一の歴史編纂作業を静かな環境で行いたいというのもある。
あの作業だけは誰にも邪魔されずに行いたいという、強い要望があるため慧音はここに住んでいる。
人里の皆は中心に住めばいいのにと何度も言っているが、慧音はその都度理由を言っては断っていた。
そんな慧音宅には妹紅はかなりの頻度で来ている。
人里のすぐそばにあるという事から、妹紅的には通いやすいのだった。
それは人里でうろついて奇異の目で見られるという事を恐れずに済むという安心感があるからである。
と言っても、人里で慧音と共に行動をしている妹紅を、奇異の目で見るものは、今や殆ど存在していないのではあるが。
そして慧音宅にはたった今、玄関に灯りが付いた。
「お邪魔します」
「もうそういうのを通り越した頻度で来ているだろう。お前は」
「まぁ、その儀式的なものだよ」
「そういうのは永遠亭に行くときにでもやってくれ。永琳殿が来るたびに襖を蹴り飛ばして困ると言っていたぞ」
「あー……今度から輝夜に目潰しぐらいにしておくよ」
「血飛沫が飛ばないように上手くしろよ。畳に血が付くと掃除が大変だからな」
そんな一般家庭には到底あり得ないであろう会話をしつつも、妹紅と慧音は靴を脱ぎ上がる。
そんな会話とは変わって家の中はさほど豪華絢爛な造りではなく、平均的な人里にある家よりも少しだけ広いといった造りだった。
居間と寝室と台所、厠、風呂そして慧音の書斎があるだけである。
必要最低限の設備しかなく、実に上白沢慧音という人物が着飾らないかを体現しているかのようであった。
慧音と妹紅は居間に付くと、慧音は割烹着を着て台所に立った。
「私も手伝うよ」
妹紅は慧音の後ろをカルガモの子の様について行くが、慧音は少し困った表情をして頬を右手の中指で掻いた。
「と言っても別に手伝ってもらうことは無いからなぁ。妹紅は客人なんだから居間で寛いでいてくれ」
「じゃあ他の事を手伝う」
妹紅は慧音の割烹着の裾を掴み、その場に引き留めた。
その言葉を言われて引き下がるような性格ではないのが妹紅であり、何か他に手伝えることは無いかと慧音に聞き始めた。
それに慧音宅に来ることが多すぎて最早客人を通り越した存在になってしまっているので客として扱われるのは何か不満を持ってしまっていた。
慧音は少し困った表情で天井を見て、手伝ってもらうことは無いかを考え出した。
妹紅がこういうと譲らないのは慧音が一番知っていることであるし、何かを手伝わせた方が早く済むからだ。
「じゃあ、風呂掃除してくれ。その間に私も晩飯を作れるしな」
「わかった。じゃあしてくる」
そういうと、妹紅は割烹着の裾を離して、風呂の方へと向かった。
慧音は妹紅が風呂に行くのを見届けて、小さく息を吐いた。
「もう少しだけ素直になってくれればなぁ」
そんな事を一人ごちながら、台所の蛇口を捻った。
蛇口から零れた水は何かに受け止められることは無く、ただ垂直に打ち続けるだけだった。
◆
「慧音。お茶注ごうか?」
「ん。悪いな」
食卓には既に湯呑とヤカンがあるだけであり、食器の方はキッチンシンクで水につかっていた。
慧音は日課の食後の読書をし出しており、もうずいぶんとページが捲れている。
妹紅への返事も本から視線を落としたまま受け答えながらも、ページを捲っていく。
慧音がそんな感じなので妹紅は特にやることなく、慧音の湯呑をたまに確認するぐらいしかなかった。
本を読んでいる間はただ頬杖をついて慧音の顔を見つめているだけであった。
普段ならば「何か私の顔にでもついているのか」とでも聞かれそうなものである。
しかし本を読んでいる慧音は、どこぞの大図書館よろしくばりの集中力を見せるのである。
それをいい事に妹紅は慧音の本を読んでいる姿を見ることを慧音宅での楽しみの一つとしていた。
本を読んでいるときの慧音は実に無防備であり、後ろへと回っても気づかなさそうなぐらいであった。
そしてそんな慧音を前に、妹紅の紅い双眸は何を捉えているのかといえば、
「(……谷間。意識してないんだろうなぁ)」
完全なおっさん視点であった。
千数百年も経てば貴族の愛娘も、おっさんへと進化してしまっていた。
妹紅の見た目は閉月羞花であり、女性的な美人ではなく中性的な美人である。
慧音のような豊満なスタイルでなくスレンダーな体のラインを持っているのが妹紅なのだった。
男らしい服装をしても美人に見え、女らしい服をしても美人に見える。そんな容姿を持っているのが妹紅である。
しかしどうして時が経つに連れ中身がおっさんへと進化してしまっていた。
ちなみに永琳はこの進化論を論文にして自分の机に仕舞い込んでいるが、自分もおっさんという事を周知に知らしめてしまうことに躊躇し未だ未発表であった。
空になっては慧音の胸元近くに視線を合わせてちら見をし、堪能し終えるとお茶を注ぎ足していた。
そしてお茶を注ぎ終わると、お茶を飲みながら本を読む慧音の顔を見つめるのであった。
やはり妹紅と言えどもスタイルのいい慧音に対しては羨望の視線を度々送ることはあるが、自分にないものはないと諦めている。
それに見れば見るほど自分との圧倒的な差を思い知らされるだけで虚しくなるのであった。
なのでちら見する程度に抑えてはいた、
そんな事をしているとついに慧音が本を捲る音が途絶え、代わりに本を閉じる音がした。
慧音は両手を握りしめ拳を作ると腕を垂直に伸ばし、大きく背伸びをした。
そしてそのまま机に前のめりに倒れ込んだ。
「はぁ、中々に読み応えのある本だった」
「お疲れさん。ところでお風呂どうしようか?」
「ん、なんだまだ入ってなかったのか」
「私延々と慧音のお茶注ぎやってたから」
「やたらお茶が減らないなと思っていたが注いでいてくれたのか」
「慧音、集中しすぎ」
妹紅は軽く笑いながらも、呆れた様子だった。
「仕方ないだろう。仕事の為の本だったんだ。自然と身も入るものだ。しかし」
慧音は壁にかかった振り子時計に視線を移した。
時刻はもうすぐ十一時であり、今日が終わりかけの時間であった。
このまま一人ずつ入っていると今日が終わってしまう。
それに客人である妹紅をせかすのはいかがなものかと慧音は思った。
そして慧音はゆっくりと湯につかりたいという人種なのである。
烏の行水のような湯浴みは余り好みではない。
はて、どうしたものかと考えた結果慧音の頭に妙案が一つ浮かんだ。
「妹紅、一緒に入るか」
ごーんと振り子時計の鐘が鳴った。
その鐘は妹紅の中では終焉を告げる鴉の鳴き声に聞こえたという。
◆
脱衣所。
「慧音。ここから逃げ出したいんだけど」
「何を言う。ほら服を脱げ、私と妹紅の仲ではないか」
「いや、その。こうね?」
「言葉がはっきりしない奴だな」
「慧音はさ、戦車とリアカーがぶつかったらどっちが勝つと思う?」
「……ふむ。中々面白い議題だ。少し狭いが風呂の中でじっくり語り合おう。戦争の歴史という物を紐解きながらな」
「……好きにして」
◆
「今日は飲む!」
「な、なんだ。妹紅そんなに張り切って」
「いいの!飲むの!」
風呂から上がった妹紅の第一声はそれであった。
緑色の四角い冷蔵庫から牛乳瓶を取り出していた慧音の背中に浴びせた一声だった。
慧音は唐突の事だったため、体を小さく跳ね上げてしまった。
妹紅が気を荒立てるのも無理はなかった。
ただでさえ、服の上からでもわかる慧音の抜群のスタイルを直に見せつけられ、もはや飲まずにはいられない状況へ陥っていた。
妹紅も女性であれど慧音の女性としての魅力は自分の体と見比べて余りあるものだった。
女性としての視点でも魅力を感じることができるのに、これが男性の視点だった場合どれだけの魅力を感じてしまうのだろう。
そう考えてはたじろぐばかりであった。
容姿だけでなく知徳も備え、そして寺子屋の日々を見ていれば母性も十分に感じることができる。
ただ欠点を上げるとすれば、どこまでも頑固である所であろうか。
そんな慧音は未だに未婚であり、そんな浮いた話も聞こえはしない。
妹紅は常々慧音を嫁に取ることができるならばと思っていた。いや、もはや取る。と妹紅は内心決めていた。
ただ、いかんせん慧音が妹紅の意思に気づいてはくれないのだった。
そんなことにより妹紅は常時生殺しを喰らっていたのである。
その最中これである。無理もない。
ただまだそのことは慧音に告げず、しばらくは胸の奥にしまっておくと決めてはいた。
この状況でも慧音に妹紅の気持ちを告げても茶化しているだけにしか思われないから、まだ動くべきではないという判断であった。
「よくわからんが、明日は私も休みだし手伝ってくれた礼だ。それなら少しだけ上物を出そう」
「期待してもいいの?」
「そんなに期待されては困る。それに上物と言ってもただの梅酒だぞ」
「梅酒か。随分飲んでないし、ちょうどいいかも」
慧音は片手に取った牛乳瓶を冷蔵庫に笑いながら仕舞い、代わりに琥珀色の酒瓶を取り出した。
「それと、そうだ。つまみはどうする?今手頃の物がないんだが」
「んー……そうだね」
急な酒飲みなのだから無いのも無理はなかった。
はて、どうしたものか。
妹紅の家から材料を取ってくるにはいささか時間がかかりすぎてしまう。
だが、この時間になると人里の店もすでに閉まっている頃だろう。
かといってつまみもないような寂しい酒飲みは興を削ぐ。
慧音と共に黙りこくっていると、時計の針が刻む無機質な音とは別の音が聞こえてきた。
凛として硝子細工の如く透明な鈴虫のか細い鳴き声が、妹紅の鼓膜を震わせた。
縁側に続く障子へと妹紅は何かに誘導されるように歩きだし、障子を開けると鈴虫の鳴き声が一層強くなると共に月が黒い空の海にぽっかりと風穴を穿っていた。
月は誰彼と構うことなく、ただただ己の存在感を空を見上げたものに知らしめるかのように、誇大に輝いていた。
人里の提灯の灯りとは対照的に輪郭はくっきりとしていた。
庭先に生えた薄も月光を浴び、黄金色へと輝いていた。
時折吹く秋風に身を揺らし、その輝きを誰彼にでもいいと思わせる様に大きく揺れていた。
秋の月に魅了されたが如く、ただただ月光を帯びた薄は輝き続けていた。
妹紅も例外でなく、空に浮かぶ月に魅入られてしまい少しの間、呆然と立ち尽くした。
そのまま振り返り、ただこちらを見つめる慧音へと一つ提案した。
「じゃあ、月見酒でどうかな?」
「妹紅にしては大分乙な提案だが輝夜にでも感化されたのか」
「まさか。ただちょっとした気の迷いだよ」
永遠亭の姫ならばこういう肴を提案してくるのは容易に想像ができるが、どうにも無骨な妹紅からは想像できない慧音であった。
その為少し訝しげな態度を取りながらも含み笑いをしていた。
「まぁいいさ。手頃の肴がないんだ。その提案に乗ろう」
慧音はそういうと、白い杯を二つと梅酒の入った酒瓶を持って縁側へと歩き出す。
その際に月の光をより感じるために部屋の灯りも消していく。
灯りを消した部屋は生活感を醸し出す空気は消失し、月光が部屋に差し込みモノクロームな空間へと変化した。
慧音は縁側に着くと、腰を下ろして、杯に酒を注いでいく。
妹紅も慧音の横に腰を下ろし、慧音が注いでいる間、ただ茫然と月を見ていた。
二人とも何も話さない空間ではあるが、気まずさを感じさせることは無く寧ろ居心地の良さを二人とも感じ取っていた。
その二人とは対照的に鈴虫は、独特の節回しでどこか寂しげに鳴いていた。
「ほら」
「ありがと」
杯には澄んだ琥珀色の液体が注がれていた。
妹紅は慧音の顔を見ずに惚れたかのように月を見続けていた。
杯の淵に口をつけ、傾けて酒を少量だけ喉に流す。
妹紅は特に感想を何も言わずに、杯を縁側に置いた。
「なんだ。とっておきの酒なんだぞ。美味いの一言でも言ってもいいだろう」
慧音は余りにも無反応だった妹紅に対して少し拗ねたようにいい放ち、杯を傾けた。
「ごめんごめん。なんか少しだけ考えちゃって」
妹紅は慧音の頭を数回軽く叩いた後、慧音に肩を寄せた。
慧音もまるで磁石の様に呼応し、肩を寄せる。
「考えることはいいが思いつめるなよ。後処理をするのはすべて私なんだぞ」
「大丈夫だって。そんな物騒なこと考えてないから」
妹紅は軽く笑った後に小さく息を吐いた。
「ちょっと月見たら今が幸せすぎて怖いなって思っただけだから」
「それならそれでいいんじゃないか。私は妹紅が幸せなら十分に嬉しいぞ」
二人とも決して目を合わせることは無く、ただぽつりと独り言を呟くように続ける。
りぃんと鈴虫が鳴いた。
薄も秋風に吹かれゆらゆらと揺れている。
「千何百年、不本意ながら生きてて今が一番楽しくて、これをいつか失うとなると怖いなって思うよ反面」
妹紅は特に感情を込めることもなく、小さく漏らした。
妹紅の目は相変わらず、慧音の方へは向かず常闇に浮かぶ月へと注がれていた。
慧音はその言葉を聞きながら杯に映る琥珀色の自分の顔を見つめていた。月光に照らされて、明るみに出ているその表情は少しだけ寂しそうではあった。
「なぁに。心配はいらないと思うぞ。どうせ慣れる。歴史家の私が言うのも何だがな、どうせ今の物は過去になれば消失するんだ。……断片はあるだろうがな」
慧音はゆらりと杯を揺らし、水面に映った自分の顔を崩した。
妹紅はようやく慧音の方を向いたがその顔は呆れた顔だった。
「……慧音ってさ。時々身もふたもないこと言うよね」
「仕方ないだろう。いずれ来ることなんだ。それなら暇を持て余している間に受け入れる整理をしてたら随分と楽になるからな」
それは妹紅へと向けたことではあるが慧音自身にも言い聞かせるような言い分であった。
慧音自身も妹紅ほどではないが、人間に比べると寿命は十分に長い方である。
そして慧音程人間と関わっている妖怪もそうはいない。
慧音は置いていかれる立場と置いていく側のどちらにも属しているので、いずれ別れという物を体感せざるを得ないのである。
ただ幸運な事にもまだ慧音の事をよくしてくれる人たちは健康であり、一向に床に伏す気配を見せない。
別れにはまだ時間があり、それまでに気持ちの整理を付けることができるのは救いであった。
たまに寺子屋が終わった後にぼうっと茶を啜りながら、考える程度に慧音は考えている。
いつか来る別れに対して、それまでにどのように自分が振舞うべきか等を自問をするぐらいには向き合っていた。
まだ結論は出ていないが、焦ることもなくゆっくり見つけて行けばよいと思いつつ寺子屋業務に励んでいる。
「慧音は適度に忙しいからいいけど、私がそんなことしたら知恵熱でるよ。まぁ、あれだね。私はいきあたりめバッタだね」
「……いきあたりばったりか?」
「そうそれ」
「妹紅も一緒に授業受けた方がいいんじゃないか?」
「あいにく私は睡眠学習専門で」
「さいで」
「うん」
一方の妹紅は幾度の別れを経験してきたが、慧音や人里で交流をしている人らといつか来る別れを少しだけ恐れていた。
何度も何度も妹紅の目の前から人が消えるという事はあったが、ここまで情を入り込ませるということは無かった。
幻想郷という特殊な環境であるからこそなのか不死者である妹紅の存在を、時間は掛かったが受け入れてくれた人々が人里にはいた。
人間をやめた身であった妹紅を受け入れてくれた人間という存在がにわかに妹紅自身は信じられなかった。
最初は半信半疑で触れ合っていたが、慧音と共に行動することでそのわだかまりも溶ける様に無くなっていた。
慧音と出会い様々なことが動きだし、決定的に動いたのは永夜異変で永遠亭が幻想郷中に周知知られるようになってからであった。
人里には薬の販売の為に下りてくる優曇華院の姿が見かけられる様になった。
それに永遠亭への案内の仕事も大分増えた。止まった時が一気に動き出したかのように、妹紅を取り巻く環境も変わった。
人との出会いはより一層振り子のように日を重ねるたびに多くなっていく。だからこそ別れが怖い。
生きてきてこんなに恵まれた環境にはもういられないのではないかと思ってしまうから。
そんな恐怖から妹紅は、余計な事を考えずに行き当たりばったりで今を生きるという考えであった。
「まぁ、お前がそれでいいならいいさ。ただし、私と別れるときに泣きじゃくるなよ?」
「んー……」
妹紅は少し唸ると杯を置いて頭を慧音の方へと傾けた。
普段の妹紅がこの様な事をするのは物珍しく慧音は少し目を見開いていた。
「なんだ。柄にもない事をして」
「いや、ね?どうにも慧音との別れが想像つかなくて。だから慧音に寄り添えばなんか知恵が出てくるような気がした」
「で? 出たのか」
「出ないね」
「だろうな」
慧音は呆れてため息を一つ零した。
妹紅はその様子を見て、笑みを零した。
りぃんとまた鈴虫が鳴いた。
「こうやって、慧音に呆れられるのもいつか終わりが来るんだよね」
「そうだな」
「呆れられるだけじゃなくて、慧音と泣いたり、慧音と笑ったり、慧音と喧嘩したり、慧音とお酒飲んだり。そういうのもいずれ出来なくなるとなると」
慧音は酒瓶を傾けて杯へと注ぐが、もう残りは僅かしかなく、注ぎ口から垂れる一滴が杯に落ち波紋を作った。
その波紋で月は大きく揺らめいた。
「寂しくなるか?」
慧音は妹紅へと問いかけてみるが、妹紅はその問いに
妹紅は体重を全部慧音の肩へと預けて寄り添った。
薄もまた風に揺られ、水面の波の様に揺れている。
妹紅は慧音の問いかけに対して、言葉を発することは無くただじっと慧音に体を預け続けた。
お互いにしばらく無言を貫き、ただ漠然と月を見上げていた。
闇を穿つ月は欠けており、一部は闇に飲みこまれている。
その月を見上げ慧音、妹紅が何を思っているかはお互いにわかりはしないが、ただこの月の美しさを噛みしめていることだけはお互いにわかり切っていた。
どちらの人生も月に大きく揺らされ翻弄し続けたが今は随分と落ち着いた。
「今さっきの質問なんだけど」
「ああ」
「全くの逆で今を楽しまなきゃって思う。明日の事は明日考える。質問に逃げている形になるかもしれないけど、今はそれでいいと思う」
「……それでいいと思うぞ。その方がお前らしい」
妹紅は平淡な声で小さくその言葉を紡いだ。
その言葉の中にある真意は不安などが見え隠れしている事に慧音は気づいたが深くは言及しなかった。
何も急ぐことは無い。今日くらいは、そうほんの暇の間ぐらいならゆっくりしてもいいと思ったからだ。
先は長いが、いつかは終わりが来る。しかしまだ終わるわけではない。慧音の命が朽ちるまでには余裕がある。
それならばその終わりが来る日まで妹紅の隣に居て上げてもいいと慧音は思っていた。
例え別れがより残酷になろうとも、その日までの軌跡を輝かすために。
「それにしても、お前は今みたいに素直に過ごしていてくれれば、私が永琳殿に謝らなくて済むんだがなぁ」
「それを言うなら慧音も、もう少し素直になってくれればいい女なんだけどね……」
妹紅は月明かりが当たる慧音の頬に手を添えて、慧音の蒼い瞳を半眼で覗きこんだ。
「お、おい……!ま、まてっ!」
慧音の顔は、月光に照らせれていても仄かに赤く染まっていたが、それは酔いが回ってなのかそれとも別の何かは分からない。
妹紅は人差し指を首の下へと地を這うように滑らせてると慧音から叩かれた。
「いたっ」
「全く。馬鹿なことを言ってないで早く寝ろ。もう夜も深いんだぞ」
慧音の顔は月明かりに照らされても紅潮しており、その顔を見られないように伏せてそのまま障子をぴしゃりと閉じた。
体重を支えるものが無くなった妹紅はこてんとそのまま横に倒れ込み、世界が九十度傾いたが月は変わらずに輝いている。
体を起こし置いてあった杯に残った酒をじっと見つめ、妹紅は誰に言うでもなく、
「冬よりも私は春が好きだな」
そうひとりごち、妹紅はまだまだ先の季節を夢見て杯を傾けた。
月の輪郭はいつの間にかおぼろげになっていた。
一方で、鈴虫の鳴き声と風に揺れる薄の音は鋭くやたら耳に付くように鳴いていた。
それはいつか来る冬を恐れるかのように、ただただ鳴いていた。
季節は秋で、幻想郷の色も青々しい緑から紅に染まっていた。
生命がこれでもかというほどに活動し続けた夏も終わり、季節は秋。
喧しく鳴く蝉時雨はどこかへ消え去り、代わりに夜には鈴虫の凛とした共鳴が聞こえてくる季節に幻想郷は差し掛かっていた。
妖怪の山も紅色に染まり、秋が到来しているのだと見ただけでわかるように変化していた。
そして秋は妖怪の山に限った事でなく、人里にもちゃんと秋は拡がっていた。
寺子屋は一週間前に秋季休講期間に入り、普段は喧騒が絶えないのだが今日はその影は見せずにただしんと静まっている。
毎年この期間は慧音が後期の授業の準備をする為に休みを設けているのだ。
前期から後期への移行するまでの間にずれてしまった授業の進行具合を確認や、今後の授業の調整を行っている。
子供たちはそんなことを露知らず、休みを満喫しているのが毎年の恒例である。
子供が休みで喜んでいる間大人が苦しんでいるのはもはや世の常であった。
そして、そんなこれからの準備に追われている寺子屋に二人いた。
一人はこの人里に寺子屋を構え、里の子供たちに様々な事を教えている白沢、上白沢慧音。
そしてもう一人は永遠に死ぬことは無い蓬莱人と呼ばれる人間、藤原妹紅であった。
「ねぇ、慧音。これどこに運ぶんだっけ?」
「ああ、えええっとそれは……倉庫だ。すまん。まだ運んでもらいたい荷物があるので、急いでくれ」
「はいはいー」
慧音に指示されるままに妹紅は寺子屋の外の倉庫へと紐で占めた資料を運んでいく。
慧音はその背中を見送るわけでもなく、ただ目の前に積まれたプリントを整理したり、白板の前に立ってスケジュール帳とのにらめっこをし続けていた。
明後日から授業が開始するのだが全然片付いていないのだった。
理由としては二つほどある。まず一つ目は慧音の本業である歴史の編纂作業が思った以上に進んでしまい、夢中になって続けてしまったのが一つ。
そしてもう一つは迷いの竹林で火事が発生したとの通達を村の若者から受けたのが一点。前者は完全に慧音に落ち度があるのだが、後者は観察不届きで起こった事件だ。
通達を受けてからものの三〇分で火事は沈静化したが、妹紅の頭には大きなたんこぶが出来上がっていた。
そこから妹紅への説教が続き、合計で五日ほどロスをしてしまった。
本来は三日間使いようやく終わる作業なのだが、残された時間は二日未満であり、作業工程はまだ四割にも達していなかった。
その為妹紅に雑用を押し付け、慧音が調整に全面打ち込むという形で作業をしている。
寺子屋の授業の準備で一番時間がかかるのは整頓であり、それを妹紅に任せることにより大幅な時間短縮を行うことが可能であった。
慧音の指示を受けた妹紅は倉庫から戻ってきては、再び書類を纏め紐で縛る作業をする。
「慧音。これは?」
「そうだな……それは、もう燃やしてくれて構わない」
「ん」
妹紅は自分の頭よりも高い位置まで積み上げられた紐で縛った書類を持ち上げる。
持ち上げた時に少し左右によろめいたが、その後は順調に歩を進め庭先へと向かった。
庭先では整理と同時に妹紅の火による処分も行っていた。
焼却と整理を同時に行えるのである意味適材適所ではあると慧音は思いながらスケジュール帳と難しい顔でにらめっこを続けていた。
◆
そして数時間後、白板は見事にきっちりと締められたスケジュールが書き込まれ慧音の難しい顔は消え去っていた。
職員室の中のプリントは綺麗に整頓されており、不要なものは一切無くなっていた。
時刻はもう夕刻であり、人里にはぽつりぽつりと飲食店の提灯が着き始めていた。
空も薄暗く紅に染まり、これから夜が下りてくるのだと実感させる。
日没も迫っており太陽の全貌はもうどこにもなくただただ残滓の紅が空に見えるだけであった。
そんな時間の寺子屋の職員室にペンのキャップを閉める音が小さくこだました。
「よし終わったぞ妹紅」
「ん。ようやく終わったの」
「悪いな。今日一日着き合わせちゃって」
「まぁ暇だったし別にかまわないよ」
妹紅は座っていた椅子から立ち上がり手を頭の上で組んで、大きく体を反らして背伸びをした。
あれから数刻の間、持っては運び、運んでは燃やしをひたすらに繰り返していた妹紅だが、慧音より早く仕事が終わってしまい手もちぶさになっていた。
その為、ただ妹紅は終わった後慧音の後ろ姿を見るのと、輝夜をどうやって殺すかを考えて暇を潰すことを余儀なくされた。
そうした呪縛からようやく抜け出せるという開放感から体の方も正直になってしまい、
「ぐぅ」
妹紅の腹部からそんな情けない声が消えてきた。
不死者でも腹は減る。生理現象だから仕方がない。
妹紅は少しだけ恥ずかしかったのか、腹に手を当て紅くした顔を慧音に見せぬようにそっぽを向いた。
慧音はその様子を見て小さく乾いた笑いをこぼしていた。
「仕方ない。私の家に今日は泊まれ。どうせ帰っても何もないんだろう?」
「……そうさせてもらう」
その後二人は寺子屋の戸締りをして、寺子屋の外へと出た。
空はもう黒に染まっており、その黒の合間に星々の白と月の蒼が埋まっていた。
人里の中央は提灯のオレンジ色の灯りに包まれており、夜にも関わらず賑わいを持っていた。
すこしはずれにある寺子屋からでもその様子は簡単に見ることができた。
今日も今日とて飲んだくれなんかが騒いでいるのだろう。
「さて、どうする? 外で食べるか? それとも家で食べるか?」
石畳で敷かれた正門までの道を肩を並べて歩きながら慧音は妹紅に問うた。
妹紅はそう聞かれ顎に手を当て、少しの間悩んだが答えは正門に付くころには出ていた。
「そうだなぁ。久々に慧音の料理食べたいしそっちで」
「おいおい。私の料理といってもそんな大層な物はでないぞ?」
「私は慧音の料理好きだよ? 特にお蕎麦とか」
「蕎麦か。旬はまだ先だがいいだろう。あと秋刀魚を焼こう」
「やった」
正門に付くと寺子屋の方に一度振り返り、灯りの消し忘れがないかを確認した。
消し忘れがないことを慧音が確認するとそのまま二人は人里とは反対方向にある慧音の自宅へと歩いていく。
二人が歩いていく背中には人里での夜の賑わいが次第に消えて行った。
灯りもどこか不明確になり輪郭がぼやけたような曖昧な明るさが、ただただあるだけだった。
慧音の自宅は何も知らないものが一見すれば、よく言えば落ち着いた環境と思うかもしれないが、悪く言えば村八分されていると思うような状態であった。
辺りは誰の家も無くただ運河が通っているだけであり、夜になると暗がりの中にある一軒家である。
人里の中心部には歩いて行けば二十分程度要する距離に位置しており、自転車では十分で行ける距離だった。
ただこの位置は慧音自ら望んだものであり、人里から隔離されるような扱いを受けている訳ではない。
理由としてはここは人里の入り口に近く、人里の外から入ってくる害のある妖怪を追い払うためである。
周りに何もなければ思う存分に力を振うことができるため、迅速に処理をすることが可能なのだ。
もう一つは月一の歴史編纂作業を静かな環境で行いたいというのもある。
あの作業だけは誰にも邪魔されずに行いたいという、強い要望があるため慧音はここに住んでいる。
人里の皆は中心に住めばいいのにと何度も言っているが、慧音はその都度理由を言っては断っていた。
そんな慧音宅には妹紅はかなりの頻度で来ている。
人里のすぐそばにあるという事から、妹紅的には通いやすいのだった。
それは人里でうろついて奇異の目で見られるという事を恐れずに済むという安心感があるからである。
と言っても、人里で慧音と共に行動をしている妹紅を、奇異の目で見るものは、今や殆ど存在していないのではあるが。
そして慧音宅にはたった今、玄関に灯りが付いた。
「お邪魔します」
「もうそういうのを通り越した頻度で来ているだろう。お前は」
「まぁ、その儀式的なものだよ」
「そういうのは永遠亭に行くときにでもやってくれ。永琳殿が来るたびに襖を蹴り飛ばして困ると言っていたぞ」
「あー……今度から輝夜に目潰しぐらいにしておくよ」
「血飛沫が飛ばないように上手くしろよ。畳に血が付くと掃除が大変だからな」
そんな一般家庭には到底あり得ないであろう会話をしつつも、妹紅と慧音は靴を脱ぎ上がる。
そんな会話とは変わって家の中はさほど豪華絢爛な造りではなく、平均的な人里にある家よりも少しだけ広いといった造りだった。
居間と寝室と台所、厠、風呂そして慧音の書斎があるだけである。
必要最低限の設備しかなく、実に上白沢慧音という人物が着飾らないかを体現しているかのようであった。
慧音と妹紅は居間に付くと、慧音は割烹着を着て台所に立った。
「私も手伝うよ」
妹紅は慧音の後ろをカルガモの子の様について行くが、慧音は少し困った表情をして頬を右手の中指で掻いた。
「と言っても別に手伝ってもらうことは無いからなぁ。妹紅は客人なんだから居間で寛いでいてくれ」
「じゃあ他の事を手伝う」
妹紅は慧音の割烹着の裾を掴み、その場に引き留めた。
その言葉を言われて引き下がるような性格ではないのが妹紅であり、何か他に手伝えることは無いかと慧音に聞き始めた。
それに慧音宅に来ることが多すぎて最早客人を通り越した存在になってしまっているので客として扱われるのは何か不満を持ってしまっていた。
慧音は少し困った表情で天井を見て、手伝ってもらうことは無いかを考え出した。
妹紅がこういうと譲らないのは慧音が一番知っていることであるし、何かを手伝わせた方が早く済むからだ。
「じゃあ、風呂掃除してくれ。その間に私も晩飯を作れるしな」
「わかった。じゃあしてくる」
そういうと、妹紅は割烹着の裾を離して、風呂の方へと向かった。
慧音は妹紅が風呂に行くのを見届けて、小さく息を吐いた。
「もう少しだけ素直になってくれればなぁ」
そんな事を一人ごちながら、台所の蛇口を捻った。
蛇口から零れた水は何かに受け止められることは無く、ただ垂直に打ち続けるだけだった。
◆
「慧音。お茶注ごうか?」
「ん。悪いな」
食卓には既に湯呑とヤカンがあるだけであり、食器の方はキッチンシンクで水につかっていた。
慧音は日課の食後の読書をし出しており、もうずいぶんとページが捲れている。
妹紅への返事も本から視線を落としたまま受け答えながらも、ページを捲っていく。
慧音がそんな感じなので妹紅は特にやることなく、慧音の湯呑をたまに確認するぐらいしかなかった。
本を読んでいる間はただ頬杖をついて慧音の顔を見つめているだけであった。
普段ならば「何か私の顔にでもついているのか」とでも聞かれそうなものである。
しかし本を読んでいる慧音は、どこぞの大図書館よろしくばりの集中力を見せるのである。
それをいい事に妹紅は慧音の本を読んでいる姿を見ることを慧音宅での楽しみの一つとしていた。
本を読んでいるときの慧音は実に無防備であり、後ろへと回っても気づかなさそうなぐらいであった。
そしてそんな慧音を前に、妹紅の紅い双眸は何を捉えているのかといえば、
「(……谷間。意識してないんだろうなぁ)」
完全なおっさん視点であった。
千数百年も経てば貴族の愛娘も、おっさんへと進化してしまっていた。
妹紅の見た目は閉月羞花であり、女性的な美人ではなく中性的な美人である。
慧音のような豊満なスタイルでなくスレンダーな体のラインを持っているのが妹紅なのだった。
男らしい服装をしても美人に見え、女らしい服をしても美人に見える。そんな容姿を持っているのが妹紅である。
しかしどうして時が経つに連れ中身がおっさんへと進化してしまっていた。
ちなみに永琳はこの進化論を論文にして自分の机に仕舞い込んでいるが、自分もおっさんという事を周知に知らしめてしまうことに躊躇し未だ未発表であった。
空になっては慧音の胸元近くに視線を合わせてちら見をし、堪能し終えるとお茶を注ぎ足していた。
そしてお茶を注ぎ終わると、お茶を飲みながら本を読む慧音の顔を見つめるのであった。
やはり妹紅と言えどもスタイルのいい慧音に対しては羨望の視線を度々送ることはあるが、自分にないものはないと諦めている。
それに見れば見るほど自分との圧倒的な差を思い知らされるだけで虚しくなるのであった。
なのでちら見する程度に抑えてはいた、
そんな事をしているとついに慧音が本を捲る音が途絶え、代わりに本を閉じる音がした。
慧音は両手を握りしめ拳を作ると腕を垂直に伸ばし、大きく背伸びをした。
そしてそのまま机に前のめりに倒れ込んだ。
「はぁ、中々に読み応えのある本だった」
「お疲れさん。ところでお風呂どうしようか?」
「ん、なんだまだ入ってなかったのか」
「私延々と慧音のお茶注ぎやってたから」
「やたらお茶が減らないなと思っていたが注いでいてくれたのか」
「慧音、集中しすぎ」
妹紅は軽く笑いながらも、呆れた様子だった。
「仕方ないだろう。仕事の為の本だったんだ。自然と身も入るものだ。しかし」
慧音は壁にかかった振り子時計に視線を移した。
時刻はもうすぐ十一時であり、今日が終わりかけの時間であった。
このまま一人ずつ入っていると今日が終わってしまう。
それに客人である妹紅をせかすのはいかがなものかと慧音は思った。
そして慧音はゆっくりと湯につかりたいという人種なのである。
烏の行水のような湯浴みは余り好みではない。
はて、どうしたものかと考えた結果慧音の頭に妙案が一つ浮かんだ。
「妹紅、一緒に入るか」
ごーんと振り子時計の鐘が鳴った。
その鐘は妹紅の中では終焉を告げる鴉の鳴き声に聞こえたという。
◆
脱衣所。
「慧音。ここから逃げ出したいんだけど」
「何を言う。ほら服を脱げ、私と妹紅の仲ではないか」
「いや、その。こうね?」
「言葉がはっきりしない奴だな」
「慧音はさ、戦車とリアカーがぶつかったらどっちが勝つと思う?」
「……ふむ。中々面白い議題だ。少し狭いが風呂の中でじっくり語り合おう。戦争の歴史という物を紐解きながらな」
「……好きにして」
◆
「今日は飲む!」
「な、なんだ。妹紅そんなに張り切って」
「いいの!飲むの!」
風呂から上がった妹紅の第一声はそれであった。
緑色の四角い冷蔵庫から牛乳瓶を取り出していた慧音の背中に浴びせた一声だった。
慧音は唐突の事だったため、体を小さく跳ね上げてしまった。
妹紅が気を荒立てるのも無理はなかった。
ただでさえ、服の上からでもわかる慧音の抜群のスタイルを直に見せつけられ、もはや飲まずにはいられない状況へ陥っていた。
妹紅も女性であれど慧音の女性としての魅力は自分の体と見比べて余りあるものだった。
女性としての視点でも魅力を感じることができるのに、これが男性の視点だった場合どれだけの魅力を感じてしまうのだろう。
そう考えてはたじろぐばかりであった。
容姿だけでなく知徳も備え、そして寺子屋の日々を見ていれば母性も十分に感じることができる。
ただ欠点を上げるとすれば、どこまでも頑固である所であろうか。
そんな慧音は未だに未婚であり、そんな浮いた話も聞こえはしない。
妹紅は常々慧音を嫁に取ることができるならばと思っていた。いや、もはや取る。と妹紅は内心決めていた。
ただ、いかんせん慧音が妹紅の意思に気づいてはくれないのだった。
そんなことにより妹紅は常時生殺しを喰らっていたのである。
その最中これである。無理もない。
ただまだそのことは慧音に告げず、しばらくは胸の奥にしまっておくと決めてはいた。
この状況でも慧音に妹紅の気持ちを告げても茶化しているだけにしか思われないから、まだ動くべきではないという判断であった。
「よくわからんが、明日は私も休みだし手伝ってくれた礼だ。それなら少しだけ上物を出そう」
「期待してもいいの?」
「そんなに期待されては困る。それに上物と言ってもただの梅酒だぞ」
「梅酒か。随分飲んでないし、ちょうどいいかも」
慧音は片手に取った牛乳瓶を冷蔵庫に笑いながら仕舞い、代わりに琥珀色の酒瓶を取り出した。
「それと、そうだ。つまみはどうする?今手頃の物がないんだが」
「んー……そうだね」
急な酒飲みなのだから無いのも無理はなかった。
はて、どうしたものか。
妹紅の家から材料を取ってくるにはいささか時間がかかりすぎてしまう。
だが、この時間になると人里の店もすでに閉まっている頃だろう。
かといってつまみもないような寂しい酒飲みは興を削ぐ。
慧音と共に黙りこくっていると、時計の針が刻む無機質な音とは別の音が聞こえてきた。
凛として硝子細工の如く透明な鈴虫のか細い鳴き声が、妹紅の鼓膜を震わせた。
縁側に続く障子へと妹紅は何かに誘導されるように歩きだし、障子を開けると鈴虫の鳴き声が一層強くなると共に月が黒い空の海にぽっかりと風穴を穿っていた。
月は誰彼と構うことなく、ただただ己の存在感を空を見上げたものに知らしめるかのように、誇大に輝いていた。
人里の提灯の灯りとは対照的に輪郭はくっきりとしていた。
庭先に生えた薄も月光を浴び、黄金色へと輝いていた。
時折吹く秋風に身を揺らし、その輝きを誰彼にでもいいと思わせる様に大きく揺れていた。
秋の月に魅了されたが如く、ただただ月光を帯びた薄は輝き続けていた。
妹紅も例外でなく、空に浮かぶ月に魅入られてしまい少しの間、呆然と立ち尽くした。
そのまま振り返り、ただこちらを見つめる慧音へと一つ提案した。
「じゃあ、月見酒でどうかな?」
「妹紅にしては大分乙な提案だが輝夜にでも感化されたのか」
「まさか。ただちょっとした気の迷いだよ」
永遠亭の姫ならばこういう肴を提案してくるのは容易に想像ができるが、どうにも無骨な妹紅からは想像できない慧音であった。
その為少し訝しげな態度を取りながらも含み笑いをしていた。
「まぁいいさ。手頃の肴がないんだ。その提案に乗ろう」
慧音はそういうと、白い杯を二つと梅酒の入った酒瓶を持って縁側へと歩き出す。
その際に月の光をより感じるために部屋の灯りも消していく。
灯りを消した部屋は生活感を醸し出す空気は消失し、月光が部屋に差し込みモノクロームな空間へと変化した。
慧音は縁側に着くと、腰を下ろして、杯に酒を注いでいく。
妹紅も慧音の横に腰を下ろし、慧音が注いでいる間、ただ茫然と月を見ていた。
二人とも何も話さない空間ではあるが、気まずさを感じさせることは無く寧ろ居心地の良さを二人とも感じ取っていた。
その二人とは対照的に鈴虫は、独特の節回しでどこか寂しげに鳴いていた。
「ほら」
「ありがと」
杯には澄んだ琥珀色の液体が注がれていた。
妹紅は慧音の顔を見ずに惚れたかのように月を見続けていた。
杯の淵に口をつけ、傾けて酒を少量だけ喉に流す。
妹紅は特に感想を何も言わずに、杯を縁側に置いた。
「なんだ。とっておきの酒なんだぞ。美味いの一言でも言ってもいいだろう」
慧音は余りにも無反応だった妹紅に対して少し拗ねたようにいい放ち、杯を傾けた。
「ごめんごめん。なんか少しだけ考えちゃって」
妹紅は慧音の頭を数回軽く叩いた後、慧音に肩を寄せた。
慧音もまるで磁石の様に呼応し、肩を寄せる。
「考えることはいいが思いつめるなよ。後処理をするのはすべて私なんだぞ」
「大丈夫だって。そんな物騒なこと考えてないから」
妹紅は軽く笑った後に小さく息を吐いた。
「ちょっと月見たら今が幸せすぎて怖いなって思っただけだから」
「それならそれでいいんじゃないか。私は妹紅が幸せなら十分に嬉しいぞ」
二人とも決して目を合わせることは無く、ただぽつりと独り言を呟くように続ける。
りぃんと鈴虫が鳴いた。
薄も秋風に吹かれゆらゆらと揺れている。
「千何百年、不本意ながら生きてて今が一番楽しくて、これをいつか失うとなると怖いなって思うよ反面」
妹紅は特に感情を込めることもなく、小さく漏らした。
妹紅の目は相変わらず、慧音の方へは向かず常闇に浮かぶ月へと注がれていた。
慧音はその言葉を聞きながら杯に映る琥珀色の自分の顔を見つめていた。月光に照らされて、明るみに出ているその表情は少しだけ寂しそうではあった。
「なぁに。心配はいらないと思うぞ。どうせ慣れる。歴史家の私が言うのも何だがな、どうせ今の物は過去になれば消失するんだ。……断片はあるだろうがな」
慧音はゆらりと杯を揺らし、水面に映った自分の顔を崩した。
妹紅はようやく慧音の方を向いたがその顔は呆れた顔だった。
「……慧音ってさ。時々身もふたもないこと言うよね」
「仕方ないだろう。いずれ来ることなんだ。それなら暇を持て余している間に受け入れる整理をしてたら随分と楽になるからな」
それは妹紅へと向けたことではあるが慧音自身にも言い聞かせるような言い分であった。
慧音自身も妹紅ほどではないが、人間に比べると寿命は十分に長い方である。
そして慧音程人間と関わっている妖怪もそうはいない。
慧音は置いていかれる立場と置いていく側のどちらにも属しているので、いずれ別れという物を体感せざるを得ないのである。
ただ幸運な事にもまだ慧音の事をよくしてくれる人たちは健康であり、一向に床に伏す気配を見せない。
別れにはまだ時間があり、それまでに気持ちの整理を付けることができるのは救いであった。
たまに寺子屋が終わった後にぼうっと茶を啜りながら、考える程度に慧音は考えている。
いつか来る別れに対して、それまでにどのように自分が振舞うべきか等を自問をするぐらいには向き合っていた。
まだ結論は出ていないが、焦ることもなくゆっくり見つけて行けばよいと思いつつ寺子屋業務に励んでいる。
「慧音は適度に忙しいからいいけど、私がそんなことしたら知恵熱でるよ。まぁ、あれだね。私はいきあたりめバッタだね」
「……いきあたりばったりか?」
「そうそれ」
「妹紅も一緒に授業受けた方がいいんじゃないか?」
「あいにく私は睡眠学習専門で」
「さいで」
「うん」
一方の妹紅は幾度の別れを経験してきたが、慧音や人里で交流をしている人らといつか来る別れを少しだけ恐れていた。
何度も何度も妹紅の目の前から人が消えるという事はあったが、ここまで情を入り込ませるということは無かった。
幻想郷という特殊な環境であるからこそなのか不死者である妹紅の存在を、時間は掛かったが受け入れてくれた人々が人里にはいた。
人間をやめた身であった妹紅を受け入れてくれた人間という存在がにわかに妹紅自身は信じられなかった。
最初は半信半疑で触れ合っていたが、慧音と共に行動することでそのわだかまりも溶ける様に無くなっていた。
慧音と出会い様々なことが動きだし、決定的に動いたのは永夜異変で永遠亭が幻想郷中に周知知られるようになってからであった。
人里には薬の販売の為に下りてくる優曇華院の姿が見かけられる様になった。
それに永遠亭への案内の仕事も大分増えた。止まった時が一気に動き出したかのように、妹紅を取り巻く環境も変わった。
人との出会いはより一層振り子のように日を重ねるたびに多くなっていく。だからこそ別れが怖い。
生きてきてこんなに恵まれた環境にはもういられないのではないかと思ってしまうから。
そんな恐怖から妹紅は、余計な事を考えずに行き当たりばったりで今を生きるという考えであった。
「まぁ、お前がそれでいいならいいさ。ただし、私と別れるときに泣きじゃくるなよ?」
「んー……」
妹紅は少し唸ると杯を置いて頭を慧音の方へと傾けた。
普段の妹紅がこの様な事をするのは物珍しく慧音は少し目を見開いていた。
「なんだ。柄にもない事をして」
「いや、ね?どうにも慧音との別れが想像つかなくて。だから慧音に寄り添えばなんか知恵が出てくるような気がした」
「で? 出たのか」
「出ないね」
「だろうな」
慧音は呆れてため息を一つ零した。
妹紅はその様子を見て、笑みを零した。
りぃんとまた鈴虫が鳴いた。
「こうやって、慧音に呆れられるのもいつか終わりが来るんだよね」
「そうだな」
「呆れられるだけじゃなくて、慧音と泣いたり、慧音と笑ったり、慧音と喧嘩したり、慧音とお酒飲んだり。そういうのもいずれ出来なくなるとなると」
慧音は酒瓶を傾けて杯へと注ぐが、もう残りは僅かしかなく、注ぎ口から垂れる一滴が杯に落ち波紋を作った。
その波紋で月は大きく揺らめいた。
「寂しくなるか?」
慧音は妹紅へと問いかけてみるが、妹紅はその問いに
妹紅は体重を全部慧音の肩へと預けて寄り添った。
薄もまた風に揺られ、水面の波の様に揺れている。
妹紅は慧音の問いかけに対して、言葉を発することは無くただじっと慧音に体を預け続けた。
お互いにしばらく無言を貫き、ただ漠然と月を見上げていた。
闇を穿つ月は欠けており、一部は闇に飲みこまれている。
その月を見上げ慧音、妹紅が何を思っているかはお互いにわかりはしないが、ただこの月の美しさを噛みしめていることだけはお互いにわかり切っていた。
どちらの人生も月に大きく揺らされ翻弄し続けたが今は随分と落ち着いた。
「今さっきの質問なんだけど」
「ああ」
「全くの逆で今を楽しまなきゃって思う。明日の事は明日考える。質問に逃げている形になるかもしれないけど、今はそれでいいと思う」
「……それでいいと思うぞ。その方がお前らしい」
妹紅は平淡な声で小さくその言葉を紡いだ。
その言葉の中にある真意は不安などが見え隠れしている事に慧音は気づいたが深くは言及しなかった。
何も急ぐことは無い。今日くらいは、そうほんの暇の間ぐらいならゆっくりしてもいいと思ったからだ。
先は長いが、いつかは終わりが来る。しかしまだ終わるわけではない。慧音の命が朽ちるまでには余裕がある。
それならばその終わりが来る日まで妹紅の隣に居て上げてもいいと慧音は思っていた。
例え別れがより残酷になろうとも、その日までの軌跡を輝かすために。
「それにしても、お前は今みたいに素直に過ごしていてくれれば、私が永琳殿に謝らなくて済むんだがなぁ」
「それを言うなら慧音も、もう少し素直になってくれればいい女なんだけどね……」
妹紅は月明かりが当たる慧音の頬に手を添えて、慧音の蒼い瞳を半眼で覗きこんだ。
「お、おい……!ま、まてっ!」
慧音の顔は、月光に照らせれていても仄かに赤く染まっていたが、それは酔いが回ってなのかそれとも別の何かは分からない。
妹紅は人差し指を首の下へと地を這うように滑らせてると慧音から叩かれた。
「いたっ」
「全く。馬鹿なことを言ってないで早く寝ろ。もう夜も深いんだぞ」
慧音の顔は月明かりに照らされても紅潮しており、その顔を見られないように伏せてそのまま障子をぴしゃりと閉じた。
体重を支えるものが無くなった妹紅はこてんとそのまま横に倒れ込み、世界が九十度傾いたが月は変わらずに輝いている。
体を起こし置いてあった杯に残った酒をじっと見つめ、妹紅は誰に言うでもなく、
「冬よりも私は春が好きだな」
そうひとりごち、妹紅はまだまだ先の季節を夢見て杯を傾けた。
月の輪郭はいつの間にかおぼろげになっていた。
一方で、鈴虫の鳴き声と風に揺れる薄の音は鋭くやたら耳に付くように鳴いていた。
それはいつか来る冬を恐れるかのように、ただただ鳴いていた。