じゅう、じううう。
肉を金網に押しつける度、耳触りの良い音が響く。
同時に、食欲をそそる香りが、辺りに漂い、それが鼻孔を通り抜ける度に、自然と笑顔がこぼれてしまう。
本居小鈴は、『ばーべきゅーこんろ』なる物の上に乗せられた肉の塊に、目を釘付けにされていた。
思わず、唾液が口の中にじんわりと広がっていく。
「牛…ですよね、これ。こんなにお高い物、頂いてしまってよろしいのでしょうか…」
慌てて唾液を飲み込んだ小鈴は、小声で呟いた。
それを片耳で聴くマミゾウは、団扇をぱたぱたと扇ぎながら、度々肉の焼け具合を確認していた所であった。
振り向いて笑顔を見せながら、彼女は口を開いた。
「良いのじゃ良いのじゃ。お主には世話になっとるからのう」
「本の貸し出しについては、ただの仕事ですから。ここまでされると、何だか申し訳ないです…」
「ああ、金の心配か? いやいや、金なんぞ余る程あるからの。思う存分、満足するまで食べたらいい」
「はあ」
まあ、葉っぱなら腐る程あるからな。
マミゾウは笑みを浮かべながら、ひっそりと独り言ちた。
だが、彼女とて。
表向きの親切心と、ちょっとした下心から彼女を誘って始めた焼肉が、ここまで彼女の首を絞めることになろうとは、想像だにしていなかったであろう。
人里の外れにぽつんと立つ貸本屋、鈴奈庵。
今そこで、綺麗な焼き色の付いた、分厚い牛肉に目を輝かせる少女こそ、若くして鈴奈庵店主を任せられた本居の娘であり、本居小鈴その人である。
あまり人通りの多い場所ではないが、格安で本を借りれるとあって、付近の住民達からはそれなりの評判は得ているようだ。
もちろん、普通の人間が読んで楽しめる本も、多く取り揃えている。
しかし、それ以上にこの貸本屋は、幻想郷でも稀有な妖魔本を取り扱っていることで、一部の層から熱い支持を受けていたりもする。
妖魔本は、妖怪の日記や妖怪が人間に宛てた手紙の様な、あたりさわりの無い物から、妖怪が自身の存在に関して書き記したものや、妖怪そのものを封じ込めた様なものまで存在する。
マミゾウはそんな妖魔本を、定期的に借りに来ていた。
或いは、借りに来るという名目の下、妖魔本の魔力に当てられ、半ば妖怪化した付喪神を回収に来ていたのである。
人里の中で大量の付喪神が現れたとなれば、人里は大騒ぎになる。それを防ぐにも、こうして定期的に回収するのが一番である。
放っておけば、時機に巫女あたりが退治に駆り出され、無念にも、ただの食器に戻されてしまうことは想像に容易い。
そうなる前に、我らが妖怪達の仲間入りを、正式に果たす手伝いをするのも、化け狸の親分たる彼女の仕事の一つであった。化け狸と付喪神は相性が良いのである。
そして何より、仲間は多い方が良い。
とまあ、人間側から見れば、あまり褒められた理由ではないものの。マミゾウは、鈴奈庵にかなり世話になっているのだ。
人里では人間の姿に化けて行動している為、小鈴はマミゾウが妖怪であることを知らない。妖怪の知識が豊富な外の世界マニア、ぐらいにしか思われていないらしい。
そう考えれば、彼女は単にマミゾウに利用されているだけだとも取れなくはない。
人を騙すこと自体に罪悪感は無い。だが、マミゾウは、それで相手が損ばかりするようでは、化け狸としては失格だと考えていた。
化かす対象は、化かされたことにすら気付かないまま、ほんの少しの幸せを手に入れて、勝手に満足していく。その中で、自分だけが大きな恩恵を得る。
それこそが、この術のあるべき姿であるし、多くの妖怪が駆逐されていた中で、化け狸が永く生き延びてきた理由の一つなのだ。
それに、彼女を利用するだけ利用して、後はポイっと捨てておしまい…など、あまりに非人道的すぎるじゃあないか。マミゾウにも良識ぐらいはある。
彼女からは大きな恩恵を受けているのだから、それなりのお返しをするのが、人の道と言ったものだ。現代の言葉でいう所の、うぃんうぃん関係ってやつ。
という経緯から、マミゾウは彼女に焼肉を振舞っているのであった。他意はない。
人里から少し離れた運河の上流付近の河原で、彼女たち二人はバーベキューをしていた。
二人の和風の服装にはまるで映えない、近代的なバーベキューセット。バーベキューコンロにリゾートチェア、紙の皿にトング。
外の世界から来たマミゾウならではのおもてなしであった。
「ほれ、焼けたぞい」
「あ、はい」
マミゾウは片手に持ったトングで肉を掴むと、もう片方の手で、どこからともなく小皿を取り出し肉を乗せた。
トングで掴まれるやいなや、肉の塊からは大量の肉汁が滴り落ちる。
金網下の木炭に落ちると、ごう、と勢いよく炎が立った。
皿を受け取ろうと近づいていた小鈴は、その熱風に少々怯みながらも、おずおずと皿を受け取る。
小鈴が躊躇っているのは、傍から見ればすぐ分かる。もはや逃げ場はないという合図も兼ねて、マミゾウは皿に箸も付けたのだ。
小鈴は観念したかのように、小さめのため息を付いた。
「それでは頂きます。お礼はその、また」
「そういうのは食べてからにせい」
小鈴は箸で肉の塊を掴んだ。肉の塊から肉汁が滴り落ちる。なんとも食欲のそそる香りだ。
小鈴はごくりと一度、唾を飲み込んだ。肉の塊に齧り付き、こんがり焼けた外の皮に歯を当てると、さく、と小さな音が鳴る。
そのまま生焼けの中身まで、一気に噛みちぎった。
肉の塊に齧り付き、むしゃむしゃと咀嚼する彼女の姿は、なんとなく小動物を彷彿とさせる。
マミゾウの顔からは、自然と笑顔がこぼれていた。それだけでなく、思わず笑い声も漏れてしまう。
「あ、あの…何か?」
それを聞いたのか、小鈴は不思議そうにマミゾウの顔を覗き込んだ。
鈴の髪飾りがしゃらんと小さな音を立て、ツインテールの飴色の髪が揺れる。日本家屋特有の、湿り気のある木の香りが、鼻孔をくすぐった。
あの店でゆっくり本を読む時に香る、紙の匂いもあるか。それに加えて、少し酸っぱい、彼女の汗の匂いに、えーと、これは…石鹸の香りも、同時に感じられた。
何となく、この子も年頃の女の子なのだな、とよく分からない思考が頭を過った。
いやいや、何を考えているのだ儂。マミゾウは慌てて答える。
「い、いや。何でも無いぞ。肉が美味そうだなと思ってな」
マミゾウの顔を怪訝そうに覗き込むものかと思いきや、小鈴はその可愛らしい笑顔を崩さない。
マミゾウは慌てて正面を向き、まず金網に置かれたもう一つの肉を自分用の皿に乗せた。
次の肉を焼くべく、トングで生肉を掴むやいなや、小鈴は、マミゾウのトングを持つ手を突然掴んだ。
困惑した表情でマミゾウが小鈴を見つめると、彼女はまた笑顔を深め、首を傾ける。
「次は私が焼きますから。少し休んでいてください」
「お? こんなもん、大した労力じゃないわ。お主は黙ってその肉を」
「もう食べ終わりました」
「む」
確かに、小鈴の手の皿に残っていたのは、茶色い肉汁だけであった。あの量を食べたのか。この一瞬で。
「…お主、なかなか大食らいよな」
「放っておいてください…」
小鈴は、マミゾウの手から半ば無理矢理トングを奪うと、金網に向かう。
生肉を掴み、乗せる。じうう、と音が鳴り響いた。
小鈴は慣れた手付きで肉を裏返すと、滴り落ちた脂肪に、火の勢いが強まる。
彼女は小さな声で悲鳴を上げたものの、すぐに体制を立て直した。腕を捲って、肩を回す。
「大丈夫かい」
「こう見えても料理は得意なんです。毎日、お母さんの手伝いをしていますから!」
「そ、そうか。なら心配はいらんな」
次々に生肉を投入していく。小鈴は満足そうに、鼻歌なんかを歌いながら、手を動かしていた。
今や、バーベキューコンロの金網の上には、溢れ返れんばかりの肉の塊で埋め尽くされてしまっている。
冷静に考えて、この量の肉を一気に焼くのは、いくらなんでも多すぎじゃあるまいか。二人しかおらんのだぞ。
マミゾウが大きなため息を付くと同時に、大きな笑顔を浮かべて振り向く小鈴。
「これだけあれば、お腹いっぱい食べられますね!」
「…そうじゃな」
時しばらくして。
「わあ、凄いですね、この…すいはんき? とかいう機械!ご飯がこんなにすぐ炊けるなんて!」
「お、おう…そうじゃな。科学の力は凄いんじゃ…ぐごご」
ぷっくり膨らんだお腹をポン、と一度叩いて、マミゾウは半分白目を剥きながら、空を見上げた。空は雲一つない青空だ。季節は初冬。
冬空は空気こそ冷えるが、綺麗に透き通ったそれは、心を浄化してくれる。
そんな、らしくない考えが頭に浮かぶほど、マミゾウは堪えていた。
ぶっちゃけ食べ過ぎた。気を強く持たないと、すぐにでも戻してしまいそうだ。
小鈴はといえば、未だ、トング片手に肉をひっくり返したり、自分の皿に焼けた肉を乗せたりしている。
たまに、トングのまま肉に齧り付くのだから末恐ろしい。
衛生的にあまり良くないのだが、大丈夫か。しかし、マミゾウにそんな注意をする気力は残っていない。
ご飯を茶碗一杯に盛り付け、その上に肉を乗せる。今度は箸に持ち替えて、ご飯をかきこみつつ、豪快に肉に齧り付く。
もしゃもしゃと音を立てて咀嚼した後、用意しておいたコップの水を、一気に飲み干した。
ぷはー、と気持ちよさそうに息を吐く。そんな小鈴の一連の動きを眺めていたマミゾウは、再び大きなため息を付いた。
可愛い顔して、なんて恐ろしい子だ。
「ううん、ご飯が進みますねえ…このお肉、本当に美味しいです」
「うむ。喜んでもらえたのなら、これ幸いじゃ…げふ」
ああ、彼女の笑顔が逆に辛い。
だがしかし。ここで一つ、マミゾウの中では、非常に大きな問題が発生していた。
この際、肉の量に関してはあまり問題ではない。マミゾウの腹が壊れようと、リバースしようと、小鈴に心配をかけるぐらいで済む。
お金もたっぷりある(何度も言うが、葉っぱのお金だ)から、これ以上量を増やしてもまぁ、なんとかなるだろう。
だが、バーベキューコンロも、この炊飯器も、トングも皿も箸もコップも、実は、すべてマミゾウの子分たる化け狸達が化けたものであった。
ちなみに尻尾も上手く、道具の模様としてカモフラージュさせている。
そう、彼らの限界が来て、変化がバレてしまうことこそ、一番の問題点。
もし彼らの変化がバレてしまえば、マミゾウの正体も、なし崩し的にバレていくのは目に見えている。
慣れない物に化ける、また、化けたままじっと待つ、という行為については、まだ力の弱い若狸達にとっては、少々骨の折れる作業なのだ。
マミゾウは大きく溜息を付いた。
即席で用意した…もとい、子分に化けさせたリゾートチェアに腰を掛け、背もたれに全体重を乗せていたマミゾウに、近づく影。
小鈴は、水の入ったコップと、薄切りにされた肉の乗った小皿を手に、笑顔を浮かべている。
マミゾウは、半分焦点の合わない目でそれを見つめた後、薄い笑顔を浮かべ、何も言わずに受け取る。
小鈴はと言えば、再び身を翻して、バーベキューコンロの方に向かってしまった。
マミゾウの笑顔の意味は、彼女に伝わらなかったようだ。せめて、持ってきてくれるのであれば、水だけに抑えてくれると非常に助かったのだが。
トング片手に、再び肉を焼き始める小鈴。鼻歌混じりに肉を裏返すその後ろ姿に、動きを止める気配など、微塵にも感じられない。
そろそろ、自分の腹が限界だ。そして、それ以上に。
「(そろそろ、彼らが心配じゃ)」
マミゾウの敏感な耳には、バーベキューセットに化けている、彼らの悲痛な叫びが届いていた。
変化の術は、当然妖力の消費を伴う。対象がこれまで化けた事の無いものであれば、その消費は増える。
妖力の消費は勿論、妖怪の身にとっては、体力そのものを消費している事に異ならない。
長い間化け続ける能力は、ある程度の経験と、底なしの体力と、何事にも動じず、ただひたすらに粘り続ける能力、すなわち気合と根気が必要なのだ。長き時に渡って、世を渡り歩いてきたマミゾウである。彼女からすれば、幻想郷に住まう若い狸達には、それらが何一つとして足りてないように思える。
そんな彼らが、一度の変化でどこまで粘れるのか。それは、確かに興味があるものの…今は、試している余裕などない。
彼女に変化がバレてはいけないのだ。
そして、根気という観点で、さらなる悲観的要素が一つ。
「あれ。今、何か音が聞こえませんでした?」
「む? いや、儂には聞こえんかったよ」
「ん…気のせいですかね。確かにこのあたりから、妙に生々しい音が」
「肉に釣られた獣が、腹を鳴らしてるんじゃないかの」
ぐぎゅぎゅ。確かに、バーベキューコンロあたりから、正体不明の音が聞こえる。不定期ではあるものの、その音は断続的に鳴り響いていた。
あまり大きな音ではない為、小鈴にはほとんど気付かれていないのが幸いではある。
正体不明、と白々しい表現をしたものの、マミゾウにはその音の正体が分かっていた。
それは、狸達の腹の音であった。
当然である。彼らは、マミゾウ直々の頼みという事もあり、この仕事を快諾した。
マミゾウの人徳も理由の一つであるが、それ以上に、彼らは報酬に惹かれて化けているのだ。
そもそも、二人では到底食べ切れないほどの大量の肉を用意したのには、理由がある。
大量の肉を小鈴に食べさせ、腹を満たしてもらう。十分満足した所で、彼女には早めに家に帰って頂く。
まぁ、適当に理由を付けて帰せば良いだろうと思っていた。お腹が膨れれば、帰って寝たくなるのが人の世の常だし。
そうして彼女が帰った所で、余った肉を化けていた狸達に振る舞い、あわよくば自分も一杯やりながら頂く。そういう算段だったのだ。
だがしかし、今となっては狸の皮算用。まさか、小鈴がここまで大食いだとは考えもしなかった。彼女の腹が満たされないとなれば、彼女を家に帰すことも難しい。
となれば、マミゾウは、子分たる狸達に肉を振舞う事が出来ない。
つまり、今の彼らは。
「…美味そうな肉を目の前に、ひたすらお預けを食らってるという」
「何か言いました?」
「いや何でも」
マミゾウは大きく溜息を付き、バーベキューセットに目配せした。
彼らは、健気にもマミゾウの指示を待っているのだ。
妖力の摩耗にも耐え、空腹にも耐え、何よりもご馳走を前にしながら、指をくわえて待つことしかできない生き地獄を味わいながら。
そういえば、あれは今日の朝だったか。
このバーベキューの準備をしている時、子分の狸の一人が、「お肉が楽しみだから、今日は朝ごはんを抜きました」と、とても嬉しそうに話してくれたな。
凄まじい罪悪感を感じる。
マミゾウは彼らのリーダーなのだ。彼らは、幻想郷にやってきたばかりのマミゾウを慕ってくれた。頼りにしてくれた。
マミゾウは、彼らの期待に応えなくてはならぬ。
親分たる自分の面子が立たないだとか、そんなことは問題では無いのだ。
これは単純に、彼らとの信頼関係の問題だ。彼らはマミゾウを信じている。
…やるしかない。
マミゾウは決意した。
どうにかして、この状況を打開しなくては。
だがしかし。よく理解いただけているとは思うが、目の前には大きな障害があって。
マミゾウはもはや蒼白になった顔を上げ、バーベキューセットに目をやる。
肉を楽しそうに焼きながら、時に、山のように盛られた白米に箸を付け、時に金網いっぱいに広げられた薄切りの肉を口に放り込んでいる、非力で可憐で、たたの人間のはずの少女がいた。
その華奢な体からは想像も付かないほど、大食いの少女。彼女がここにいる限り、マミゾウの子分達はお先真っ暗である。
変化を続けながら、生き地獄を味わねばならない。
だからと言って、彼女を無理やり追い出す訳にもいかないのが辛い。下手に動けば、怪しまれるのは間違いないからだ。
どうにかして…なるべく、自然な方法で。彼女を家に戻らせねば。
「て、店主さんや」
「ふえ?」
小鈴は口に肉を頬張ったまま、素っ頓狂な声を上げた。
マミゾウと目を合わすと、一度後ろを向いて慌てて肉を飲み込んだ後、再びマミゾウに顔を向け、慌てて笑顔を浮かべた。
その顔は少し紅潮している。なんとも可愛らしい…が、そうもばかり言ってられない。
今、バーベキューセットに化けている彼らからすれば、彼女の笑みは、悪魔のそれにしか見えないのであろうし。
マミゾウも何とか笑顔を繕い、ゆっくり言葉を選びながら、そして平生を装って口を開く。
ええいままよ、会話の中でそれとなく帰宅を促そう作戦の開始だ!
「そろそろお腹も満たされたんじゃないかと思ってな」
「私ですか? ご心配なさらず、まだまだたくさん食べれますよ!」
「…そうかい」
あ、駄目っぽい。
早くも心が折れそう。
「あ、もしかしてそちら側が、ですか? す、すいません気が利かなくって! 私、ちょっと人より食べる方なので。人にこう、あまり気を遣えなくて」
「お、おう、そうじゃな。そうじゃった。儂はお腹いっぱいだから、ちいと休ませてもらうぞい」
「分かりました。それでは私一人で食べてます。余ってしまっては勿体ないので」
「おう」
どう考えてもちょっとじゃなかろうに、と喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだマミゾウ。
作戦失敗どころか、逆に変に気を遣われる始末。大量の肉を用意したのも、完全に裏目に出た。
マミゾウは、再びコンロに向かった彼女を見て、乾いた笑いを浮かべる事しかできなかった。
とりあえず腹痛の問題を解決することは出来たが、そんな事は二の次だ。会話を続けても、何の進展も無さそうなので、次の手を考えねば。
マミゾウは、理由も無く笑みを浮かべながら、何となしに空を見上げた。
透き通った青空が広がる。その目には、光る物が浮かんでいた。もはやお手上げだ。面妖な事に、彼女の腹に限界は無いようだ。
どうにかして、自然に…とにかく自然に、彼女が自発的に『帰ろう』と思わせる為の、何かしらのアクションを起こさなくてはならないのだ。
そんな都合の良い方法があってたまるか。マミゾウは涙目になりながら、小鈴を恨めし気に見つめた。
彼女はそんな悩みもお構いなく、肉を楽しそうに頬張り続けている。
だが。マミゾウの耳には、常に、彼女の子分たる狸達の悲痛な叫びが届いているのだ。
時間も無い、急がねばならぬ。考えるのだ。
マミゾウはリゾートチェアに腰を掛け、眉間に皺を寄せていた。頭を捻りに捻り、絞り出すのだ。この状況から打開する方法を。
そんな時だった。彼女たちの間に、ひゅう、と優しい風が吹き抜けた。
僅かな風。焼肉にお熱な小鈴は、その風を気に掛けることは無い。
しかし、それに反して。マミゾウは、その風が僅かな水気を含んでいる事に気付いたのであった。
よく考えてみれば当たり前である。すぐそばに、人里に通ずる運河の支流が流れているのだから。
風に揺られて、からからに干からびた葉っぱが三枚、マミゾウのもとへ舞い落ちて来た。
マミゾウはそれを、形を崩さないよう優しく掴み、指の間に挟み込んだ。
マミゾウは、顎にもう片方の手をあて、何か考え事をしている様子を見せる。目を閉じ、脳をフル回転させる。
目を開ける。眼鏡の奥の瞳に、既に光るものは無い。そこにあるのは、闘志を秘めた瞳。
そしていかにも大妖怪らしい、余裕たっぷりの不敵な笑みを浮かべ。
「…あるじゃないか、何よりも自然な方法が」
マミゾウは、リゾートチェアから立ち上がると、水辺に歩みを進めながら、一人でそう呟いた。焼肉に集中している小鈴はそれに気づかない。
僅かな水。僅かな風。そして、三枚ぽっちの枯れ葉。しかしそれは、マミゾウの第二の作戦を決行させるに、十分すぎるリソースであった。
マミゾウは、指に挟んだ三枚の枯れ葉を見つめた。そのうちの二枚を、川の水に浸し始める。
水に浸された枯れ葉は、僅かな水分をその表面に持ち得るものの、再び潤いを取り戻すことは無い。が、それで十分だ。
マミゾウの…化け狸の大将の。そして、佐渡の二ッ岩の名に懸けて、『化ける』事に関して不可能は無いと、ここで証明してみせよう。
マミゾウは、指に挟んだ三枚の枯れ葉を、思いっきり放り投げた。三枚の枯れ葉は、不可思議な力によって、空高くまで舞い上がる。ある程度の高さまで到達した所で、枯れ葉はゆらゆら宙に浮き始めた。
「さあ、始めるぞい。マミゾウ秘伝の変化術を、とくとご覧あれ!」
そして、マミゾウがそう小声で叫んだ途端の事だった。
突如、枯れ葉が突如煙に包まれた。水気の少ない墨を含んだ筆を走らせた、絵巻物に描かれているような、不自然な煙。
燃えている訳でもないのに、空に浮かぶ枯れ葉は、その煙を周囲に纏っていく。徐々に量を増し、既に枯れ葉の姿が見えなくなったところで。
「きゃーっ!」
どごぉん、と凄まじい轟音が辺りに響いた。それと同時に、小鈴も思わず悲鳴を上げてしまった。
小鈴は何事かと思い、首をぶんぶん振って辺りを見回すが、特に何も見当たらない。
後ろを見渡すと、同様に驚いた様子を見せ、辺りを見回しているマミゾウがいた。
左右にも前後にも何も見当たらないとなれば、残すは上空のみ。小鈴は、青ざめた顔で空を眺めながら、呟いた。
「あ、あら? さっきまであんなに良い天気だったのに」
いつの間にか、上空は黒い雲に覆われていた。太陽は遮られ、ひんやりとした風が髪を撫でる。
小鈴は思わず身震いをした。真っ黒に染まった空が、一瞬だけ光る。
どがしゃん、と再び空の咆える音が辺りに轟くと同時に、案の定、大量の雨粒が空から降り注いできたのだ。少々季節外れの夕立。
もちろん、この季節に、そしてあれほどまでに晴れ渡っていた空を、目に焼き付けていた小鈴に、ここまでの雨が降るなど予想できるはずもない。
彼女は上に羽織っていたコートを慌てて頭に被った。しかし風が通り抜けると、その冷え込みに思わず体が震えてしまう。
その上、目の前には金網に乗っかった肉。既に半分程焼けていたそれは、急な雨粒に当てられ、変な蒸気を放っている。
それを見た小鈴は、またも慌てて、バーベキューコンロの上にコートを被せようとするが、微妙に火が残っているのに気が付いて、寸での所で手を止めた。
しかし、雨に晒された肉は、なんとも食欲を失わせる。じゅううう、と音を立てながら、蒸気を吹き出す肉と金網と木炭。小鈴の慌て振りは最高潮になった。
小鈴は助けを求めるように後ろを振り向いた。
「ひ、ひええ! どどどど、どうしましょう!」
「こんな季節に珍しいのお! とりあえずこいつらを早く片付けねばならんな!店主さんや、ここは儂に任せて、お主は家に帰ったらどうじゃ!」
慌てふためく小鈴とは正反対に、この状況を楽しんでいるかの様に、豪快に笑いながら大声で叫ぶマミゾウ。雨の音と時々鳴り響く雷鳴のおかげで、大声を出さなければ会話が成り立たない。小鈴はコートを頭に被せ、涙目になりながら叫ぶ。
「手伝います! ここまで世話になっておきながら、貴方を置いていく訳にはいきません!」
「お主がいた所で大した役にも立たんよ!」
「ひ、酷いですそんなの!」
びしょ濡れになったコートを被りながら、必死に訴える小鈴。
しかし、マミゾウは小鈴の泣き顔を正面に受けながら、ぐいと顔を近づけて、大きな笑顔を作った。
さきほどの豪快なそれとは違う、優しい笑み。
小鈴は思わずたじろぐ。
「このままじゃお主が風邪を引いてしまうじゃろ、馬鹿め」
鼻に息がかかるぐらいの距離に顔を近づけながら、マミゾウはそう言い放ったのであった。
その後すぐに小鈴は顔を真っ赤にして、何かごにょごにょと独り言を言った後、すぐに走り去ってしまったとか。
「ということがあったのよ」
人里外れの貸本屋、鈴奈庵。太陽も高く昇り、ひんやりとした初冬の空気に、ほんのりとやさしい温もりを感じさせる時間帯であった。
こんな昼下がりに、わざわざ貸本屋に顔を出すような暇人は少ないと考え、一人妖魔本の研究を続けていた小鈴の下に、訪ねてきたのは一人の少女。稗田阿求は、彼女の数少ない友人であった。
阿求は、目を細めながら険しい顔を崩さない。
「いやいや。どう考えてもおかしいでしょ、色々と」
「そうかなぁ」
小鈴は首を傾げ、怪訝そうな表情を阿求に向ける。
その対象は焼肉を振舞った例の客、ではなく阿求の疑いに、である。阿求は、友人の危機感の無さに頭を抱えた。
「…あんたねぇ。何の義理があって人に牛肉なんて振舞うのよ。ただのお客さんでしょその人」
「えー? だって、かなりのお得意様なのよ。付き合いもそれなりだし、結構な頻度で本を借りてくれるし」
「それにしてもよ」
「そうかなぁ。でも実際、お肉は美味しかったし、私は得しかしてないんだけど」
「そうなんだけどさ。わざわざ人里から離れた所で食事を振舞うってのもおかしな話だと思わない? 妖怪も出るかもしれないし、普通の人間の仕業じゃないと思うのだけど」
「ああ、あの人は妖怪に関しては詳しそうだし。大丈夫だと踏んだんじゃないかしら」
「…うーん。他に何か気付いたことはなかったの?」
阿求が尋ねると、小鈴は頬杖を突きながら目を瞑った。
少しだけ険しい表情をしたかと思うと、すぐに「あっ」と小さな声をあげる。
「そういえば、その『ばーべきゅーせっと』なんだけど、これがなかなか洒落てて。全部の道具にしましまの模様が入ってたわ」
「しましま? 」
「そうそう、後、肉を焼いてる途中に、近くからやたら生々しい音が聞こえたの。どこから聞こえてきたのかは分からないけど」
「生々しい音ねぇ…。なんとなく察しは付くけど」
阿求は眉間に皺を寄せたまま、大きく溜息を付いた。こんな奇妙な真似が出来るのは、彼らだけだ。
彼女の長き時に渡って蓄積された豊富な知識に照らし合わせれば、当然の結論である。
「…やっぱり、妖怪に化かされてたんじゃないの。例えば、化け狸とかにさ」
「…むう、こりゃまずい事になったぞい」
鈴奈庵の屋根の上に寝そべり、中の会話に聞き耳を立てていたマミゾウの顔が、一気に険しくなる。
少し頭が残念な店主には、頭の切れる友人がいたことをすっかり忘れていた。
このままだと、正体がバレるのも時間の問題か。マミゾウは大きく溜息を付いた。
あの日、『天候を化かす』という大技をやってのけたマミゾウは、自分の芸術的とも言える変化の術に酔いしれていたのである。
完全に小鈴を化かせる事に成功したと、確信さえしていたのだ。
しかし、後々考えてみれば、この雨の変化もなかなか不自然であるし、尻尾のカモフラージュも、子分達の腹の音も、疑われても仕方が無いだろう。
いくら予想外の出来事が起きたからとはいえ、詰めが甘かったか。
実際の所、正体がバレても、このままずらかればマミゾウに実害はほぼ無い。
最悪、妖魔本と付喪神の回収は盗み出すような形でも十分可能だし。
あるとすれば、"あの姿"でこの貸本屋に入りづらくなるぐらいだ。他の姿に化ければ、正面からも十分入り込める。
しかし勿論、あの子との関係はリセットされてしまう。そういう意味ではちょっと寂しいかもしれない。
マミゾウが再び大きな溜息を付いている中、屋根の下では二人の少女の会話が続いていた。
「だからさ、危ないってその人。もう関わらない方がいいわよ」
「そんな事言ってもねぇ。お得意様だし」
「あんたねぇ…もう少し危機感を持ちなさいよ。変化の術に長けてる妖怪は狡猾だからね。知らない間にあんたの大切な妖魔本を盗んでるかも」
「えっ、ちょっとちょっと! それは困るわ!」
「でしょう。なら、その人とはこれ以上関わらない事ね」
「そんなあ…」
小鈴がしょげている姿は、屋根の上からでも容易に想像できる。そこまで慕ってくれているのは、嬉しい限りではあるが。
「そうだ!」
しばらく間を空けた後、突如、小鈴が大声をあげた。
「こう考えればいいんじゃない? 化け狸があの人に化けて出て、それで私を騙したの! 濡れ衣を着せる為に、あの人に化けた! これでどうよ!」
「え、えぇ…?いやまぁ、無くは無いかも知れないけど、ちょっと現実的じゃないような。というか濡れ衣って実害あったの」
「いや、そうに違いないわ! あの人に限って、そんな事はしないもの!」
「ちょっと小鈴、私の話聞いてる?」
「妖怪め、よくも騙してくれたわね! 霊夢さんに言いつけて、退治してもらうんだから!」
「小鈴、落ち着きなさいって」
その瞬間であった。鈴奈庵の開け放たれた戸の上で、暖簾が揺れる。からりとドアベルが鳴り響いた。
二人は同時に、音のする方に顔を向けた。しばしの沈黙。
暖簾を開けた女性は、肩にかかった長い茶髪を払い、手を顎に当てながら優しい笑顔を浮かべ、一言。
「ちょいといいかね」
二人は同時に「あーっ!」と、声をあげた。して、同時に顔を見合わせる。
「えっ、阿求、あの人と知り合い?」
「え、ええまぁ。あの、チュパカブラの一件の時にお世話に…ってもしかして、この人が例の!」
阿求は思わず、声を荒らげてしまう。小鈴は小声で「そうよ」とだけ呟く。
例の女性は、阿求の姿に気付くと、ぺこりと頭を下げながら笑顔を深めた。
「おお、そちらは稗田の当主様。久しぶりですな」
「あ、はい。その節はお世話になりました」
「店主さんも久しぶりじゃのう」
「はい、そうですね…ってええ!?」
例の女性は笑みを崩さないものの、声を大にして驚く小鈴に顔を向けて、首をかしげた。
「あ、あの、先日はお世話になりました…よね?」
「先日? いや、最後に儂がここに来たのは、随分前のような気がするぞい」
「ほら昨日、運河の上の方で、一緒に」
「はて、なんのことやら…」
小鈴がちらりと阿求の方をみやると、阿求も信じられないといった様子で、こちらを見つめ返していた。
少し緊張した面持ちで小鈴は例の女性の方、正面を向き直す。女性も女性で、少しだけ怪訝そうな表情を浮かべていた。
小鈴が切り出す。
「という事は、昨日のは…?」
「話が見えんの。もしかして店主さんは、昨日儂に出会ったのかい?」
「は、はい! そうなんです!」
「ふむ。運河の上の方、と言ったな」
例の女性…マミゾウはニヤリと笑った。傍から見れば、それは間違いなく優しい笑み。だから、その眼鏡が怪しくきらめいた事に、気づいた者は誰もいなかった。口元を歪めながら、彼女は言う。
「あの辺は化け狐共のテリトリーじゃからのう。奴らに化かされたのかもしれんな」
だがしかし、当の本人も。その後すぐに、それも無意識の内に安堵の溜息を漏らしていた事には、全く気付かなかったとか。
肉を金網に押しつける度、耳触りの良い音が響く。
同時に、食欲をそそる香りが、辺りに漂い、それが鼻孔を通り抜ける度に、自然と笑顔がこぼれてしまう。
本居小鈴は、『ばーべきゅーこんろ』なる物の上に乗せられた肉の塊に、目を釘付けにされていた。
思わず、唾液が口の中にじんわりと広がっていく。
「牛…ですよね、これ。こんなにお高い物、頂いてしまってよろしいのでしょうか…」
慌てて唾液を飲み込んだ小鈴は、小声で呟いた。
それを片耳で聴くマミゾウは、団扇をぱたぱたと扇ぎながら、度々肉の焼け具合を確認していた所であった。
振り向いて笑顔を見せながら、彼女は口を開いた。
「良いのじゃ良いのじゃ。お主には世話になっとるからのう」
「本の貸し出しについては、ただの仕事ですから。ここまでされると、何だか申し訳ないです…」
「ああ、金の心配か? いやいや、金なんぞ余る程あるからの。思う存分、満足するまで食べたらいい」
「はあ」
まあ、葉っぱなら腐る程あるからな。
マミゾウは笑みを浮かべながら、ひっそりと独り言ちた。
だが、彼女とて。
表向きの親切心と、ちょっとした下心から彼女を誘って始めた焼肉が、ここまで彼女の首を絞めることになろうとは、想像だにしていなかったであろう。
人里の外れにぽつんと立つ貸本屋、鈴奈庵。
今そこで、綺麗な焼き色の付いた、分厚い牛肉に目を輝かせる少女こそ、若くして鈴奈庵店主を任せられた本居の娘であり、本居小鈴その人である。
あまり人通りの多い場所ではないが、格安で本を借りれるとあって、付近の住民達からはそれなりの評判は得ているようだ。
もちろん、普通の人間が読んで楽しめる本も、多く取り揃えている。
しかし、それ以上にこの貸本屋は、幻想郷でも稀有な妖魔本を取り扱っていることで、一部の層から熱い支持を受けていたりもする。
妖魔本は、妖怪の日記や妖怪が人間に宛てた手紙の様な、あたりさわりの無い物から、妖怪が自身の存在に関して書き記したものや、妖怪そのものを封じ込めた様なものまで存在する。
マミゾウはそんな妖魔本を、定期的に借りに来ていた。
或いは、借りに来るという名目の下、妖魔本の魔力に当てられ、半ば妖怪化した付喪神を回収に来ていたのである。
人里の中で大量の付喪神が現れたとなれば、人里は大騒ぎになる。それを防ぐにも、こうして定期的に回収するのが一番である。
放っておけば、時機に巫女あたりが退治に駆り出され、無念にも、ただの食器に戻されてしまうことは想像に容易い。
そうなる前に、我らが妖怪達の仲間入りを、正式に果たす手伝いをするのも、化け狸の親分たる彼女の仕事の一つであった。化け狸と付喪神は相性が良いのである。
そして何より、仲間は多い方が良い。
とまあ、人間側から見れば、あまり褒められた理由ではないものの。マミゾウは、鈴奈庵にかなり世話になっているのだ。
人里では人間の姿に化けて行動している為、小鈴はマミゾウが妖怪であることを知らない。妖怪の知識が豊富な外の世界マニア、ぐらいにしか思われていないらしい。
そう考えれば、彼女は単にマミゾウに利用されているだけだとも取れなくはない。
人を騙すこと自体に罪悪感は無い。だが、マミゾウは、それで相手が損ばかりするようでは、化け狸としては失格だと考えていた。
化かす対象は、化かされたことにすら気付かないまま、ほんの少しの幸せを手に入れて、勝手に満足していく。その中で、自分だけが大きな恩恵を得る。
それこそが、この術のあるべき姿であるし、多くの妖怪が駆逐されていた中で、化け狸が永く生き延びてきた理由の一つなのだ。
それに、彼女を利用するだけ利用して、後はポイっと捨てておしまい…など、あまりに非人道的すぎるじゃあないか。マミゾウにも良識ぐらいはある。
彼女からは大きな恩恵を受けているのだから、それなりのお返しをするのが、人の道と言ったものだ。現代の言葉でいう所の、うぃんうぃん関係ってやつ。
という経緯から、マミゾウは彼女に焼肉を振舞っているのであった。他意はない。
人里から少し離れた運河の上流付近の河原で、彼女たち二人はバーベキューをしていた。
二人の和風の服装にはまるで映えない、近代的なバーベキューセット。バーベキューコンロにリゾートチェア、紙の皿にトング。
外の世界から来たマミゾウならではのおもてなしであった。
「ほれ、焼けたぞい」
「あ、はい」
マミゾウは片手に持ったトングで肉を掴むと、もう片方の手で、どこからともなく小皿を取り出し肉を乗せた。
トングで掴まれるやいなや、肉の塊からは大量の肉汁が滴り落ちる。
金網下の木炭に落ちると、ごう、と勢いよく炎が立った。
皿を受け取ろうと近づいていた小鈴は、その熱風に少々怯みながらも、おずおずと皿を受け取る。
小鈴が躊躇っているのは、傍から見ればすぐ分かる。もはや逃げ場はないという合図も兼ねて、マミゾウは皿に箸も付けたのだ。
小鈴は観念したかのように、小さめのため息を付いた。
「それでは頂きます。お礼はその、また」
「そういうのは食べてからにせい」
小鈴は箸で肉の塊を掴んだ。肉の塊から肉汁が滴り落ちる。なんとも食欲のそそる香りだ。
小鈴はごくりと一度、唾を飲み込んだ。肉の塊に齧り付き、こんがり焼けた外の皮に歯を当てると、さく、と小さな音が鳴る。
そのまま生焼けの中身まで、一気に噛みちぎった。
肉の塊に齧り付き、むしゃむしゃと咀嚼する彼女の姿は、なんとなく小動物を彷彿とさせる。
マミゾウの顔からは、自然と笑顔がこぼれていた。それだけでなく、思わず笑い声も漏れてしまう。
「あ、あの…何か?」
それを聞いたのか、小鈴は不思議そうにマミゾウの顔を覗き込んだ。
鈴の髪飾りがしゃらんと小さな音を立て、ツインテールの飴色の髪が揺れる。日本家屋特有の、湿り気のある木の香りが、鼻孔をくすぐった。
あの店でゆっくり本を読む時に香る、紙の匂いもあるか。それに加えて、少し酸っぱい、彼女の汗の匂いに、えーと、これは…石鹸の香りも、同時に感じられた。
何となく、この子も年頃の女の子なのだな、とよく分からない思考が頭を過った。
いやいや、何を考えているのだ儂。マミゾウは慌てて答える。
「い、いや。何でも無いぞ。肉が美味そうだなと思ってな」
マミゾウの顔を怪訝そうに覗き込むものかと思いきや、小鈴はその可愛らしい笑顔を崩さない。
マミゾウは慌てて正面を向き、まず金網に置かれたもう一つの肉を自分用の皿に乗せた。
次の肉を焼くべく、トングで生肉を掴むやいなや、小鈴は、マミゾウのトングを持つ手を突然掴んだ。
困惑した表情でマミゾウが小鈴を見つめると、彼女はまた笑顔を深め、首を傾ける。
「次は私が焼きますから。少し休んでいてください」
「お? こんなもん、大した労力じゃないわ。お主は黙ってその肉を」
「もう食べ終わりました」
「む」
確かに、小鈴の手の皿に残っていたのは、茶色い肉汁だけであった。あの量を食べたのか。この一瞬で。
「…お主、なかなか大食らいよな」
「放っておいてください…」
小鈴は、マミゾウの手から半ば無理矢理トングを奪うと、金網に向かう。
生肉を掴み、乗せる。じうう、と音が鳴り響いた。
小鈴は慣れた手付きで肉を裏返すと、滴り落ちた脂肪に、火の勢いが強まる。
彼女は小さな声で悲鳴を上げたものの、すぐに体制を立て直した。腕を捲って、肩を回す。
「大丈夫かい」
「こう見えても料理は得意なんです。毎日、お母さんの手伝いをしていますから!」
「そ、そうか。なら心配はいらんな」
次々に生肉を投入していく。小鈴は満足そうに、鼻歌なんかを歌いながら、手を動かしていた。
今や、バーベキューコンロの金網の上には、溢れ返れんばかりの肉の塊で埋め尽くされてしまっている。
冷静に考えて、この量の肉を一気に焼くのは、いくらなんでも多すぎじゃあるまいか。二人しかおらんのだぞ。
マミゾウが大きなため息を付くと同時に、大きな笑顔を浮かべて振り向く小鈴。
「これだけあれば、お腹いっぱい食べられますね!」
「…そうじゃな」
時しばらくして。
「わあ、凄いですね、この…すいはんき? とかいう機械!ご飯がこんなにすぐ炊けるなんて!」
「お、おう…そうじゃな。科学の力は凄いんじゃ…ぐごご」
ぷっくり膨らんだお腹をポン、と一度叩いて、マミゾウは半分白目を剥きながら、空を見上げた。空は雲一つない青空だ。季節は初冬。
冬空は空気こそ冷えるが、綺麗に透き通ったそれは、心を浄化してくれる。
そんな、らしくない考えが頭に浮かぶほど、マミゾウは堪えていた。
ぶっちゃけ食べ過ぎた。気を強く持たないと、すぐにでも戻してしまいそうだ。
小鈴はといえば、未だ、トング片手に肉をひっくり返したり、自分の皿に焼けた肉を乗せたりしている。
たまに、トングのまま肉に齧り付くのだから末恐ろしい。
衛生的にあまり良くないのだが、大丈夫か。しかし、マミゾウにそんな注意をする気力は残っていない。
ご飯を茶碗一杯に盛り付け、その上に肉を乗せる。今度は箸に持ち替えて、ご飯をかきこみつつ、豪快に肉に齧り付く。
もしゃもしゃと音を立てて咀嚼した後、用意しておいたコップの水を、一気に飲み干した。
ぷはー、と気持ちよさそうに息を吐く。そんな小鈴の一連の動きを眺めていたマミゾウは、再び大きなため息を付いた。
可愛い顔して、なんて恐ろしい子だ。
「ううん、ご飯が進みますねえ…このお肉、本当に美味しいです」
「うむ。喜んでもらえたのなら、これ幸いじゃ…げふ」
ああ、彼女の笑顔が逆に辛い。
だがしかし。ここで一つ、マミゾウの中では、非常に大きな問題が発生していた。
この際、肉の量に関してはあまり問題ではない。マミゾウの腹が壊れようと、リバースしようと、小鈴に心配をかけるぐらいで済む。
お金もたっぷりある(何度も言うが、葉っぱのお金だ)から、これ以上量を増やしてもまぁ、なんとかなるだろう。
だが、バーベキューコンロも、この炊飯器も、トングも皿も箸もコップも、実は、すべてマミゾウの子分たる化け狸達が化けたものであった。
ちなみに尻尾も上手く、道具の模様としてカモフラージュさせている。
そう、彼らの限界が来て、変化がバレてしまうことこそ、一番の問題点。
もし彼らの変化がバレてしまえば、マミゾウの正体も、なし崩し的にバレていくのは目に見えている。
慣れない物に化ける、また、化けたままじっと待つ、という行為については、まだ力の弱い若狸達にとっては、少々骨の折れる作業なのだ。
マミゾウは大きく溜息を付いた。
即席で用意した…もとい、子分に化けさせたリゾートチェアに腰を掛け、背もたれに全体重を乗せていたマミゾウに、近づく影。
小鈴は、水の入ったコップと、薄切りにされた肉の乗った小皿を手に、笑顔を浮かべている。
マミゾウは、半分焦点の合わない目でそれを見つめた後、薄い笑顔を浮かべ、何も言わずに受け取る。
小鈴はと言えば、再び身を翻して、バーベキューコンロの方に向かってしまった。
マミゾウの笑顔の意味は、彼女に伝わらなかったようだ。せめて、持ってきてくれるのであれば、水だけに抑えてくれると非常に助かったのだが。
トング片手に、再び肉を焼き始める小鈴。鼻歌混じりに肉を裏返すその後ろ姿に、動きを止める気配など、微塵にも感じられない。
そろそろ、自分の腹が限界だ。そして、それ以上に。
「(そろそろ、彼らが心配じゃ)」
マミゾウの敏感な耳には、バーベキューセットに化けている、彼らの悲痛な叫びが届いていた。
変化の術は、当然妖力の消費を伴う。対象がこれまで化けた事の無いものであれば、その消費は増える。
妖力の消費は勿論、妖怪の身にとっては、体力そのものを消費している事に異ならない。
長い間化け続ける能力は、ある程度の経験と、底なしの体力と、何事にも動じず、ただひたすらに粘り続ける能力、すなわち気合と根気が必要なのだ。長き時に渡って、世を渡り歩いてきたマミゾウである。彼女からすれば、幻想郷に住まう若い狸達には、それらが何一つとして足りてないように思える。
そんな彼らが、一度の変化でどこまで粘れるのか。それは、確かに興味があるものの…今は、試している余裕などない。
彼女に変化がバレてはいけないのだ。
そして、根気という観点で、さらなる悲観的要素が一つ。
「あれ。今、何か音が聞こえませんでした?」
「む? いや、儂には聞こえんかったよ」
「ん…気のせいですかね。確かにこのあたりから、妙に生々しい音が」
「肉に釣られた獣が、腹を鳴らしてるんじゃないかの」
ぐぎゅぎゅ。確かに、バーベキューコンロあたりから、正体不明の音が聞こえる。不定期ではあるものの、その音は断続的に鳴り響いていた。
あまり大きな音ではない為、小鈴にはほとんど気付かれていないのが幸いではある。
正体不明、と白々しい表現をしたものの、マミゾウにはその音の正体が分かっていた。
それは、狸達の腹の音であった。
当然である。彼らは、マミゾウ直々の頼みという事もあり、この仕事を快諾した。
マミゾウの人徳も理由の一つであるが、それ以上に、彼らは報酬に惹かれて化けているのだ。
そもそも、二人では到底食べ切れないほどの大量の肉を用意したのには、理由がある。
大量の肉を小鈴に食べさせ、腹を満たしてもらう。十分満足した所で、彼女には早めに家に帰って頂く。
まぁ、適当に理由を付けて帰せば良いだろうと思っていた。お腹が膨れれば、帰って寝たくなるのが人の世の常だし。
そうして彼女が帰った所で、余った肉を化けていた狸達に振る舞い、あわよくば自分も一杯やりながら頂く。そういう算段だったのだ。
だがしかし、今となっては狸の皮算用。まさか、小鈴がここまで大食いだとは考えもしなかった。彼女の腹が満たされないとなれば、彼女を家に帰すことも難しい。
となれば、マミゾウは、子分たる狸達に肉を振舞う事が出来ない。
つまり、今の彼らは。
「…美味そうな肉を目の前に、ひたすらお預けを食らってるという」
「何か言いました?」
「いや何でも」
マミゾウは大きく溜息を付き、バーベキューセットに目配せした。
彼らは、健気にもマミゾウの指示を待っているのだ。
妖力の摩耗にも耐え、空腹にも耐え、何よりもご馳走を前にしながら、指をくわえて待つことしかできない生き地獄を味わいながら。
そういえば、あれは今日の朝だったか。
このバーベキューの準備をしている時、子分の狸の一人が、「お肉が楽しみだから、今日は朝ごはんを抜きました」と、とても嬉しそうに話してくれたな。
凄まじい罪悪感を感じる。
マミゾウは彼らのリーダーなのだ。彼らは、幻想郷にやってきたばかりのマミゾウを慕ってくれた。頼りにしてくれた。
マミゾウは、彼らの期待に応えなくてはならぬ。
親分たる自分の面子が立たないだとか、そんなことは問題では無いのだ。
これは単純に、彼らとの信頼関係の問題だ。彼らはマミゾウを信じている。
…やるしかない。
マミゾウは決意した。
どうにかして、この状況を打開しなくては。
だがしかし。よく理解いただけているとは思うが、目の前には大きな障害があって。
マミゾウはもはや蒼白になった顔を上げ、バーベキューセットに目をやる。
肉を楽しそうに焼きながら、時に、山のように盛られた白米に箸を付け、時に金網いっぱいに広げられた薄切りの肉を口に放り込んでいる、非力で可憐で、たたの人間のはずの少女がいた。
その華奢な体からは想像も付かないほど、大食いの少女。彼女がここにいる限り、マミゾウの子分達はお先真っ暗である。
変化を続けながら、生き地獄を味わねばならない。
だからと言って、彼女を無理やり追い出す訳にもいかないのが辛い。下手に動けば、怪しまれるのは間違いないからだ。
どうにかして…なるべく、自然な方法で。彼女を家に戻らせねば。
「て、店主さんや」
「ふえ?」
小鈴は口に肉を頬張ったまま、素っ頓狂な声を上げた。
マミゾウと目を合わすと、一度後ろを向いて慌てて肉を飲み込んだ後、再びマミゾウに顔を向け、慌てて笑顔を浮かべた。
その顔は少し紅潮している。なんとも可愛らしい…が、そうもばかり言ってられない。
今、バーベキューセットに化けている彼らからすれば、彼女の笑みは、悪魔のそれにしか見えないのであろうし。
マミゾウも何とか笑顔を繕い、ゆっくり言葉を選びながら、そして平生を装って口を開く。
ええいままよ、会話の中でそれとなく帰宅を促そう作戦の開始だ!
「そろそろお腹も満たされたんじゃないかと思ってな」
「私ですか? ご心配なさらず、まだまだたくさん食べれますよ!」
「…そうかい」
あ、駄目っぽい。
早くも心が折れそう。
「あ、もしかしてそちら側が、ですか? す、すいません気が利かなくって! 私、ちょっと人より食べる方なので。人にこう、あまり気を遣えなくて」
「お、おう、そうじゃな。そうじゃった。儂はお腹いっぱいだから、ちいと休ませてもらうぞい」
「分かりました。それでは私一人で食べてます。余ってしまっては勿体ないので」
「おう」
どう考えてもちょっとじゃなかろうに、と喉まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだマミゾウ。
作戦失敗どころか、逆に変に気を遣われる始末。大量の肉を用意したのも、完全に裏目に出た。
マミゾウは、再びコンロに向かった彼女を見て、乾いた笑いを浮かべる事しかできなかった。
とりあえず腹痛の問題を解決することは出来たが、そんな事は二の次だ。会話を続けても、何の進展も無さそうなので、次の手を考えねば。
マミゾウは、理由も無く笑みを浮かべながら、何となしに空を見上げた。
透き通った青空が広がる。その目には、光る物が浮かんでいた。もはやお手上げだ。面妖な事に、彼女の腹に限界は無いようだ。
どうにかして、自然に…とにかく自然に、彼女が自発的に『帰ろう』と思わせる為の、何かしらのアクションを起こさなくてはならないのだ。
そんな都合の良い方法があってたまるか。マミゾウは涙目になりながら、小鈴を恨めし気に見つめた。
彼女はそんな悩みもお構いなく、肉を楽しそうに頬張り続けている。
だが。マミゾウの耳には、常に、彼女の子分たる狸達の悲痛な叫びが届いているのだ。
時間も無い、急がねばならぬ。考えるのだ。
マミゾウはリゾートチェアに腰を掛け、眉間に皺を寄せていた。頭を捻りに捻り、絞り出すのだ。この状況から打開する方法を。
そんな時だった。彼女たちの間に、ひゅう、と優しい風が吹き抜けた。
僅かな風。焼肉にお熱な小鈴は、その風を気に掛けることは無い。
しかし、それに反して。マミゾウは、その風が僅かな水気を含んでいる事に気付いたのであった。
よく考えてみれば当たり前である。すぐそばに、人里に通ずる運河の支流が流れているのだから。
風に揺られて、からからに干からびた葉っぱが三枚、マミゾウのもとへ舞い落ちて来た。
マミゾウはそれを、形を崩さないよう優しく掴み、指の間に挟み込んだ。
マミゾウは、顎にもう片方の手をあて、何か考え事をしている様子を見せる。目を閉じ、脳をフル回転させる。
目を開ける。眼鏡の奥の瞳に、既に光るものは無い。そこにあるのは、闘志を秘めた瞳。
そしていかにも大妖怪らしい、余裕たっぷりの不敵な笑みを浮かべ。
「…あるじゃないか、何よりも自然な方法が」
マミゾウは、リゾートチェアから立ち上がると、水辺に歩みを進めながら、一人でそう呟いた。焼肉に集中している小鈴はそれに気づかない。
僅かな水。僅かな風。そして、三枚ぽっちの枯れ葉。しかしそれは、マミゾウの第二の作戦を決行させるに、十分すぎるリソースであった。
マミゾウは、指に挟んだ三枚の枯れ葉を見つめた。そのうちの二枚を、川の水に浸し始める。
水に浸された枯れ葉は、僅かな水分をその表面に持ち得るものの、再び潤いを取り戻すことは無い。が、それで十分だ。
マミゾウの…化け狸の大将の。そして、佐渡の二ッ岩の名に懸けて、『化ける』事に関して不可能は無いと、ここで証明してみせよう。
マミゾウは、指に挟んだ三枚の枯れ葉を、思いっきり放り投げた。三枚の枯れ葉は、不可思議な力によって、空高くまで舞い上がる。ある程度の高さまで到達した所で、枯れ葉はゆらゆら宙に浮き始めた。
「さあ、始めるぞい。マミゾウ秘伝の変化術を、とくとご覧あれ!」
そして、マミゾウがそう小声で叫んだ途端の事だった。
突如、枯れ葉が突如煙に包まれた。水気の少ない墨を含んだ筆を走らせた、絵巻物に描かれているような、不自然な煙。
燃えている訳でもないのに、空に浮かぶ枯れ葉は、その煙を周囲に纏っていく。徐々に量を増し、既に枯れ葉の姿が見えなくなったところで。
「きゃーっ!」
どごぉん、と凄まじい轟音が辺りに響いた。それと同時に、小鈴も思わず悲鳴を上げてしまった。
小鈴は何事かと思い、首をぶんぶん振って辺りを見回すが、特に何も見当たらない。
後ろを見渡すと、同様に驚いた様子を見せ、辺りを見回しているマミゾウがいた。
左右にも前後にも何も見当たらないとなれば、残すは上空のみ。小鈴は、青ざめた顔で空を眺めながら、呟いた。
「あ、あら? さっきまであんなに良い天気だったのに」
いつの間にか、上空は黒い雲に覆われていた。太陽は遮られ、ひんやりとした風が髪を撫でる。
小鈴は思わず身震いをした。真っ黒に染まった空が、一瞬だけ光る。
どがしゃん、と再び空の咆える音が辺りに轟くと同時に、案の定、大量の雨粒が空から降り注いできたのだ。少々季節外れの夕立。
もちろん、この季節に、そしてあれほどまでに晴れ渡っていた空を、目に焼き付けていた小鈴に、ここまでの雨が降るなど予想できるはずもない。
彼女は上に羽織っていたコートを慌てて頭に被った。しかし風が通り抜けると、その冷え込みに思わず体が震えてしまう。
その上、目の前には金網に乗っかった肉。既に半分程焼けていたそれは、急な雨粒に当てられ、変な蒸気を放っている。
それを見た小鈴は、またも慌てて、バーベキューコンロの上にコートを被せようとするが、微妙に火が残っているのに気が付いて、寸での所で手を止めた。
しかし、雨に晒された肉は、なんとも食欲を失わせる。じゅううう、と音を立てながら、蒸気を吹き出す肉と金網と木炭。小鈴の慌て振りは最高潮になった。
小鈴は助けを求めるように後ろを振り向いた。
「ひ、ひええ! どどどど、どうしましょう!」
「こんな季節に珍しいのお! とりあえずこいつらを早く片付けねばならんな!店主さんや、ここは儂に任せて、お主は家に帰ったらどうじゃ!」
慌てふためく小鈴とは正反対に、この状況を楽しんでいるかの様に、豪快に笑いながら大声で叫ぶマミゾウ。雨の音と時々鳴り響く雷鳴のおかげで、大声を出さなければ会話が成り立たない。小鈴はコートを頭に被せ、涙目になりながら叫ぶ。
「手伝います! ここまで世話になっておきながら、貴方を置いていく訳にはいきません!」
「お主がいた所で大した役にも立たんよ!」
「ひ、酷いですそんなの!」
びしょ濡れになったコートを被りながら、必死に訴える小鈴。
しかし、マミゾウは小鈴の泣き顔を正面に受けながら、ぐいと顔を近づけて、大きな笑顔を作った。
さきほどの豪快なそれとは違う、優しい笑み。
小鈴は思わずたじろぐ。
「このままじゃお主が風邪を引いてしまうじゃろ、馬鹿め」
鼻に息がかかるぐらいの距離に顔を近づけながら、マミゾウはそう言い放ったのであった。
その後すぐに小鈴は顔を真っ赤にして、何かごにょごにょと独り言を言った後、すぐに走り去ってしまったとか。
「ということがあったのよ」
人里外れの貸本屋、鈴奈庵。太陽も高く昇り、ひんやりとした初冬の空気に、ほんのりとやさしい温もりを感じさせる時間帯であった。
こんな昼下がりに、わざわざ貸本屋に顔を出すような暇人は少ないと考え、一人妖魔本の研究を続けていた小鈴の下に、訪ねてきたのは一人の少女。稗田阿求は、彼女の数少ない友人であった。
阿求は、目を細めながら険しい顔を崩さない。
「いやいや。どう考えてもおかしいでしょ、色々と」
「そうかなぁ」
小鈴は首を傾げ、怪訝そうな表情を阿求に向ける。
その対象は焼肉を振舞った例の客、ではなく阿求の疑いに、である。阿求は、友人の危機感の無さに頭を抱えた。
「…あんたねぇ。何の義理があって人に牛肉なんて振舞うのよ。ただのお客さんでしょその人」
「えー? だって、かなりのお得意様なのよ。付き合いもそれなりだし、結構な頻度で本を借りてくれるし」
「それにしてもよ」
「そうかなぁ。でも実際、お肉は美味しかったし、私は得しかしてないんだけど」
「そうなんだけどさ。わざわざ人里から離れた所で食事を振舞うってのもおかしな話だと思わない? 妖怪も出るかもしれないし、普通の人間の仕業じゃないと思うのだけど」
「ああ、あの人は妖怪に関しては詳しそうだし。大丈夫だと踏んだんじゃないかしら」
「…うーん。他に何か気付いたことはなかったの?」
阿求が尋ねると、小鈴は頬杖を突きながら目を瞑った。
少しだけ険しい表情をしたかと思うと、すぐに「あっ」と小さな声をあげる。
「そういえば、その『ばーべきゅーせっと』なんだけど、これがなかなか洒落てて。全部の道具にしましまの模様が入ってたわ」
「しましま? 」
「そうそう、後、肉を焼いてる途中に、近くからやたら生々しい音が聞こえたの。どこから聞こえてきたのかは分からないけど」
「生々しい音ねぇ…。なんとなく察しは付くけど」
阿求は眉間に皺を寄せたまま、大きく溜息を付いた。こんな奇妙な真似が出来るのは、彼らだけだ。
彼女の長き時に渡って蓄積された豊富な知識に照らし合わせれば、当然の結論である。
「…やっぱり、妖怪に化かされてたんじゃないの。例えば、化け狸とかにさ」
「…むう、こりゃまずい事になったぞい」
鈴奈庵の屋根の上に寝そべり、中の会話に聞き耳を立てていたマミゾウの顔が、一気に険しくなる。
少し頭が残念な店主には、頭の切れる友人がいたことをすっかり忘れていた。
このままだと、正体がバレるのも時間の問題か。マミゾウは大きく溜息を付いた。
あの日、『天候を化かす』という大技をやってのけたマミゾウは、自分の芸術的とも言える変化の術に酔いしれていたのである。
完全に小鈴を化かせる事に成功したと、確信さえしていたのだ。
しかし、後々考えてみれば、この雨の変化もなかなか不自然であるし、尻尾のカモフラージュも、子分達の腹の音も、疑われても仕方が無いだろう。
いくら予想外の出来事が起きたからとはいえ、詰めが甘かったか。
実際の所、正体がバレても、このままずらかればマミゾウに実害はほぼ無い。
最悪、妖魔本と付喪神の回収は盗み出すような形でも十分可能だし。
あるとすれば、"あの姿"でこの貸本屋に入りづらくなるぐらいだ。他の姿に化ければ、正面からも十分入り込める。
しかし勿論、あの子との関係はリセットされてしまう。そういう意味ではちょっと寂しいかもしれない。
マミゾウが再び大きな溜息を付いている中、屋根の下では二人の少女の会話が続いていた。
「だからさ、危ないってその人。もう関わらない方がいいわよ」
「そんな事言ってもねぇ。お得意様だし」
「あんたねぇ…もう少し危機感を持ちなさいよ。変化の術に長けてる妖怪は狡猾だからね。知らない間にあんたの大切な妖魔本を盗んでるかも」
「えっ、ちょっとちょっと! それは困るわ!」
「でしょう。なら、その人とはこれ以上関わらない事ね」
「そんなあ…」
小鈴がしょげている姿は、屋根の上からでも容易に想像できる。そこまで慕ってくれているのは、嬉しい限りではあるが。
「そうだ!」
しばらく間を空けた後、突如、小鈴が大声をあげた。
「こう考えればいいんじゃない? 化け狸があの人に化けて出て、それで私を騙したの! 濡れ衣を着せる為に、あの人に化けた! これでどうよ!」
「え、えぇ…?いやまぁ、無くは無いかも知れないけど、ちょっと現実的じゃないような。というか濡れ衣って実害あったの」
「いや、そうに違いないわ! あの人に限って、そんな事はしないもの!」
「ちょっと小鈴、私の話聞いてる?」
「妖怪め、よくも騙してくれたわね! 霊夢さんに言いつけて、退治してもらうんだから!」
「小鈴、落ち着きなさいって」
その瞬間であった。鈴奈庵の開け放たれた戸の上で、暖簾が揺れる。からりとドアベルが鳴り響いた。
二人は同時に、音のする方に顔を向けた。しばしの沈黙。
暖簾を開けた女性は、肩にかかった長い茶髪を払い、手を顎に当てながら優しい笑顔を浮かべ、一言。
「ちょいといいかね」
二人は同時に「あーっ!」と、声をあげた。して、同時に顔を見合わせる。
「えっ、阿求、あの人と知り合い?」
「え、ええまぁ。あの、チュパカブラの一件の時にお世話に…ってもしかして、この人が例の!」
阿求は思わず、声を荒らげてしまう。小鈴は小声で「そうよ」とだけ呟く。
例の女性は、阿求の姿に気付くと、ぺこりと頭を下げながら笑顔を深めた。
「おお、そちらは稗田の当主様。久しぶりですな」
「あ、はい。その節はお世話になりました」
「店主さんも久しぶりじゃのう」
「はい、そうですね…ってええ!?」
例の女性は笑みを崩さないものの、声を大にして驚く小鈴に顔を向けて、首をかしげた。
「あ、あの、先日はお世話になりました…よね?」
「先日? いや、最後に儂がここに来たのは、随分前のような気がするぞい」
「ほら昨日、運河の上の方で、一緒に」
「はて、なんのことやら…」
小鈴がちらりと阿求の方をみやると、阿求も信じられないといった様子で、こちらを見つめ返していた。
少し緊張した面持ちで小鈴は例の女性の方、正面を向き直す。女性も女性で、少しだけ怪訝そうな表情を浮かべていた。
小鈴が切り出す。
「という事は、昨日のは…?」
「話が見えんの。もしかして店主さんは、昨日儂に出会ったのかい?」
「は、はい! そうなんです!」
「ふむ。運河の上の方、と言ったな」
例の女性…マミゾウはニヤリと笑った。傍から見れば、それは間違いなく優しい笑み。だから、その眼鏡が怪しくきらめいた事に、気づいた者は誰もいなかった。口元を歪めながら、彼女は言う。
「あの辺は化け狐共のテリトリーじゃからのう。奴らに化かされたのかもしれんな」
だがしかし、当の本人も。その後すぐに、それも無意識の内に安堵の溜息を漏らしていた事には、全く気付かなかったとか。
それぞれのキャラづけもしっかりできてていいですねぇ。
確かに大食い小鈴ちゃんは流行るべきそうすべき
マミゾウさん、可愛いな?
テンポよく笑えて小気味の良いお話でした。ごちそうさまです。
…おなかへった。
そうとしか思えない…。お腹すいた…。
そんな事より親分可愛いな。
小鈴は見かけによらずしたたかなので、これだけ大食いでも不自然さを感じません。良いキャラしてます。
マミゾウさん人間くさくてよかったです。
最後に疑惑を狐になしりつけるところも憎い演出ですね。
鈴奈庵ほんと好き
大食い小鈴ちゃん流行れ。
あの…この作品をレビューしてもよろしいですか?
>>20の方
れ、レビュー!むしろこちら側からお願いしたいぐらいです…!
気に入って頂けたようで幸いです。ありがとうございます
このくらいエネルギッシュじゃないと妖魔本とか扱えないんでしょうねぇ
ttp://ameblo.jp/zetsubou-toho/entry-11789344360.html
たくさん笑わせてもらいましたww