「はぁ~……」
どうしてこうなったのでしょうか。
つい一時間前くらいまで、食器洗いと洗濯と浴室の掃除と、などと家事について考えていたというのに。何故私は今、人間の里で独りため息をつきながら、屋台のおじさんに「ほら、お嬢ちゃん」とサービスされてしまった綿菓子を頬張っているんでしょうか。
「はぁ」
あぁ、また出てしまった。
いつでしたか……紫様から外の世界の新聞記事――失業者の自殺、増える一方、なんてものを見せられた時はなんの同情も湧かなかったのに。
先程幽々子様の口から出た言葉が、頭から離れない。
――妖夢、貴女しばらくクビ。
認めたくありませんが、今、私魂魄妖夢は失業者です。
▽
ことの起こりは本当につい先ほどの話。幽々子様は夕食の後、いつも屋敷の縁側でお茶を飲まれるので、私はその準備をしていた。
「えーと、今日のお茶菓子は何かあったかしら……」
沢山買い込んでいたはずだったけど、茶棚の脇に置いてあったはずのそれは既に跡形もない――さてはつまみ食いしましたね。
別に幽々子様が主人なのだから召し上がられること自体はまあ、いいのですが。太る体質でもないですし。でもこういう時には少し困る。うーんどうしよう……。
「あっ!そうだ」
二日前に、藍様から人間の里のお饅頭をいただいていたのを思い出した。
「えーっと、確かあれはどこにおいたかな……」
あ!あったあった。
茶棚から少し離れたところにあったそれを手に取り、包みを丁寧にあける。
しかし……。
「は!?」
箱の次は私の口が開いた。
確かに包みは開けられてなかったのに、箱に空いた12個の穴のうち、中身があるのはたった一つだけって。
どういうこと?
ちなみに、ご丁寧なことに他は全て丸まった包み紙だけが収められている。嬉しくて涙が出そうです。
「これじゃなかったかしら?」
いや確かにこの銘柄は藍様から頂いたものだ。それに間違いはないんだけど……。
「じゃあなんで!?」
藍様がそんな主人の友人に対して失礼なことするはずはないし……。幽々子様ならこんな隠すようなマネはしな――。
と、そこまで考えてピンと来た。というより包みが空いてないのに中身がない時点で、販売元が詐欺でなければ理由は一つしか考えられなかった。
「……主人には苦労が絶えないですね、お互い」
思わず苦笑い。でも藍様に責任はないので言わないでおこう。とりあえず他にお菓子は見当たらないし、たった一つだけで我慢してもらうしかない。大きめだし、なんとかなりますよね……多分。ダメだったらどうしよう。
「遅いわよ」
大分経っていたらしい。小走りで向かう私を見るなり一言言われてしまいました。でもそういう幽々子様の顔は笑っている。
申し訳ございません、と謝りつつ、お盆を幽々子様の傍に置き、それを挟んで私も縁側に座る。
花はとうに散ってしまっているけれど、庭一面に並ぶ木々が青々とした葉を漲らせる様子は、これはこれで春とは違った――自然の力強さを感じられるものであった。
ちなみに幽々子様は自分がお茶を飲むとき、何故か必ず私にも付き合うように言う。始めは話し相手になれということなのかと思ったけど、こういう時幽々子様はあまり喋ることがなく、むしろ一言も喋らずに席を立つことすらある。なのでそういうことではないらしい。まあ正直そんな事はどうでもいいんですが。私は幽々子様とお茶を飲むこの時間は好きですしね。
ところが今日の幽々子様はすぐに口を開き――
「あら、お菓子は一つだけ……?」
「うっ」
来た。私に責任があるわけでもないのに、何故か胸の内側が少し苦しくなる。幽々子様はその一つだけのお饅頭を既に頬張りながら、きょとんとした様子でこっちを見てる――言うしかないか。
「申し訳ございません。私の不手際で他にご用意出来るものがありませんでした。明日には準備致しますので、どうか今夜はご辛抱ください……」
つい語尾が竦む。空腹の幽々子様相手なんだからしょうがない、なんて心の中で言い訳しながら返事を待つ。
……が。
「貴女の分はどうしてないの?」
「……はい?」
予想外の返しで、すごく間の抜けた声が出てしまった。だからそれしかないんですって。
「え、えっと……先程説明した理由で、お菓子は先程の一つだけなんです……なのでそれだけでも幽々子様に召し上がっていただこうかなと」
やはり返事はしどろもどろ。お茶の時間にこんな内心ヒヤヒヤになるのは幻想郷中で私だけではないだろうか。
「いやだから、あなたは食べないの?」
「だ、だから……」
か、会話が成り立たない……。
幽々子様はしばらく私を見つめていたが……やがて庭の方に向き直って一言。
「……ふーん」
従者からしたら一番困るセリフがきました。
「え、えっと」
「妖夢」
「は、はいっ!」
この空気をどうしよう、なんて考える余裕すら与えてくれない。
そして――
「貴女、しばらくクビにするわ。しばらくしたら帰ってきなさい」
▽
……で、今に至るわけです。意味がわからないなんて言われても、私にも分からないんだから仕方ない。
もう言われた瞬間頭が真っ白になって……一言、はい、って返事だけしてフラフラと出てしまいました。
――しばらくっていつ迄ですか……。
――片付けとか大丈夫なんですか?
――な、なんでいきなり?!
今になって言っとくべき事が沢山思いつくのが悔しい。けどあまりに突拍子もないせいか、現実味も薄れていて、事の大きさの割りにはあまり落ち込んでいない。いやまあ、それなりには落ち込んでますけど。
「これから私は何したらいいんでしょうか……」
先行きは暗い。道の脇にある木材に腰掛けて、綿菓子をまた頬張る――ふわりとした甘みが口いっぱいに蕩け、少しだけ気持ちが和らぐ。
最初は博麗神社にでもいこうと思ったけど、夜更けだというのに人間の里がやたらに明るんでいたので降り立って見た――今日はお祭りらしい。私も先程までいた数メートル先では、普段より少し派手な着物――浴衣に身を包んだ老若男女達が、屋台を挟んで店を切り盛りするいかついおじさん達と笑顔を交わしている。
そんな楽しそうな様子を見ていたら急に服装も、心境も……えらく自分が場違いに思えた。
「……帰ろう」
思わず呟いて立ち上がったけど、帰る場所ないんだった……。
はぁ、と下を向いてまた溜息。今夜は野宿かな、とか考えていると……。
「あら、こんばんわ」
不意に声をかけられた。見上げると、見覚えのある姿が目の前に。
「あら、あなたは……」
まず目に映ったのは透き通るような青い瞳。肩より少し上まで伸ばされた髪はふわりと柔らかく、微かな風に靡いて心地良い香りを運んでくる。服装も青――ただ、随分落ち着いた印象を与える、薄い水色のワンピース。それに青とは少し対照的に映る、白いベストのようなものを羽織っていた。腰には透明で大きなリボンが、羽のようにくるりと結ばれている。
「えっと、お名前は……」
「霍青娥よ。妖夢さん」
そういえば戦ったことがあるだけで、名乗ってもらったことはありませんでしたね……。
「って、なんで私の名前知ってるんですか?」
「それは……ヒ、ミ、ツ」
ふふっと、青娥さんは優雅にクスクスと笑いながら、意地悪な返事をした。
「はぁ……」
一昔前の神霊異変では随分変わった妖怪……?達と関わったけど、中でもこの人が一番よく分からない。名前も知らなかったくらいですし。何でも邪仙なのだそうで、良くない噂はたまに聞きますけど……。
「ところで妖夢さん、なんで今日は一人でこちらに?」
「へ?なんで、ですか?」
以前お会いした時も一人だったでしょ?
「ええと、魔理沙さんから貴女はいつも主人に使われてるか、食料の買い出しに出てるかどっちかだって聞いてたもので。もう夜更けで買い出しには見えないし、祭りに来たのなら主人がいないのは変だしで、こんな時間にどうしたのかなと」
さらっと言ってるけど失礼ですねこの人。でも間違ってないから何も言えない……。
「いや、えっと……」
一瞬事の顛末を話そうかと思ったけど、さすがに仲が良いいわけでもないので躊躇う。
しかし……。
「ああ、もしかしてクビになったとか?」
「ギクッ」
「図星ね」
な、なんで……。
そう聞いて見たらあっさりと。
「勘。後は、辛気臭いその顔で祭り単独参加の線はないかなと」
だそうです。なんだか分からないけどこの人、嫌いになりそう。また笑ってるし。
さらに
「そうだわ……貴女、帰るところないなら今晩はうちに来ないかしら?ここから近いし」
「はい?」
次々と藪から棒になんなんでしょうか。
「いえ、勿論無理強いはしないですけど。でもあなた、まさかそんなことはないと思うけど……その幼い見た目で野宿なんてしたら、幻想郷といえどさすがに問題視されるわよ」
一言余計なのと、またしても図星なのはおいといて。
「確かに……」
「だからほら、今夜はうちに来なさいな」
随分強引で突飛な申し出だけど、考えてみたら確かにありがたい。
「……では、お世話になります、霍青娥さん」
「はいはーい。それとフルネームじゃなくても……カクさんでいいわよ」
「では、それだとどっかのみと……なんとかって親藩様の付き人と被るので、青娥さんで」
「さ、行きましょう」
無視された……。
▽
青娥さんの家は、人間の里から少し離れた平地にあった。他の神霊異変で復活した仙人達が変な異空間に住んでいるのを見ていたので、てっきり彼女もそうかと思ってたのに。本人曰く、出来なくはないけど家って感じがしなくて嫌、だとか。確かに分からなくもないです。
ちなみに見た感じ、ただの一軒家みたいです。小綺麗な外観ではあるけど、失礼ながらあまり仙人の家には見えない。
「さ、お入りなさい」
「お邪魔します」
中は外から見るよりも広く、彼女の服装と同じ寒色のモノトーンで構成されていた。床だけは素材の木色がそのまま活かされたフローリング造り、リビングには最低限の家具しかなく、あまり生活感を感じない。ここからはバスルームやトイレへと続く扉の他に、脇に二階へと続く階段が見える。
ところで、考えてみたらあまり他人の家に泊まらない私は、上がったはいいもののどうしたらいいかがわからないんですよね……。先に上がってしまっていいのかしら
「ちょっと待っててね。今支度するから」
そんな私を尻目に、そう言った彼女は左腕を少し上げ、人差し指と中指を揃えたままピンと伸ばした。と、すぐに二階からガチャ、と扉の開く音がして……。
「せーーがーー!」
「うわあああっ!」
び、びっくりした……。響くような大声に驚いている私をよそにダッダッダッ、と足音荒く声の主――使いの宮古芳香が降りてきた。
「あら、驚かせてごめんなさいね。さ、芳香。客人を招いたから、すぐに夕食の支度をなさい」
そう命令すると同時に、芳香さんは何も言わずに台所へと向かった。腕は常に前へ伸ばしたままで、歩き方はぎこちない。なんとも不気味である。
「え、夕食って……?」
もう夜更けなんですけど。
「だって貴女、何も食べてないでしょ?」
「そういえば……」
いつも幽々子様がお茶を召し上がった後で夕飯にしてるものだから、まだ何も食べてないんだった……。それを認識した途端、グゥ~、という間抜けな音が聞こえた。
「ね?座布団に腰掛けて少し待ってなさい。すぐ出来るから」
はい……、とだけ返事し、言われたとおりに座ると、青娥さんも続いて対面に座った。
程なくして、芳香さんが今にも落としそうにカタカタと食器を揺らしながら食事を運んできてくれた。
「ご苦労様。さ、いただきましょう」
「はい、いただきます」
……
……美味しい。
頭の腐ったゾンビが作る料理だなんて、と正直心配していたけど……。味付けはとても繊細に施され、さらに——例えばこのシチューの具材。野菜やお肉なんかもしっかりと下拵えがされていて柔らかく、食べやすい。
「すごく美味しいです」
「でしょう?この子、料理得意なの」
人は見かけによらないなあ、と思いつつもくもくと箸を進める。
私が話し下手なのもあって、そこから2食事を終えるまで、会話は途切れていた。
が、やがて――
で、どうしてクビになったの?
私の食器も一緒に下げてくれながら、青娥さんが唐突に、核心に迫る質問を投げかけてきた。
「え、ええっと……」
聞かれるかもとは思っていたけど、やはり言いづらい。そんなわけでまごついてたら、間も無く台所から戻った青娥さんは腰掛けながらにっこりと笑って
「言いたくないならいいわよ?ただしその場合直ぐに叩き出して半霊を拒絶する結界張りますけど」
悪魔かこの人。
違う、邪仙だった。
でも確かに、邪仙のこの人が何故、とは思うけど、ここまでしてくれたのだから、話すのが礼儀なのでしょう。……恥ずかしいですけど
「ええっとですね……」
私はおずおずと話し始めた。
▽
話し出してから10分程が過ぎただろうか。先に言ったとおり、自分でも良く理由がわかってないので、とりあえず前後の次第だけ一句違わずに話し、最後に
「なので、私は正直何故こうなったのか良く……」
と、付け加えた。
それを聞いた青娥さんは「ふーん」と、一言だけ。主人に言われなくても堪えますね、この返事。
正直、こんな話をしても他人に伝わるとは思えなかった。私にすら分からないのだから、当然だろう。繰り返すけど、普段の私であれば、幽々子様にクビにされたら迷わず切腹してるか号泣しているほどだ。なのに、理由が飛びすぎててこんな有様なのだから。
青娥さんが聞いても、呆れるだけに決まってますよね……。
と思っていたのだが、青娥さんは話を聞き終えてから、ずっと目を閉じて黙りこくっていた。沈黙されるのも辛いので、あの……、と声をかけたのだけど、そしたら
「少し待って頂戴」
と言われてしまいました。何故か空気が重い。
やがて目を開いた青娥さん。
気のせいだろうか……彼女の青い瞳の奥で、なんとなく彼女が哀しみを讃えているような気がした。
ややあって、彼女は微かに微笑んで――しかし、逆説的に緊張も孕んだ表情でこちらに向き直り、再び口を開いた。
「……妖夢さん、幾つかお聞きしてもいいかしら?」
「はい?」
なんだろう。
「じゃあ……、まず一つ目。あなたにとって、主人とはどのような存在かしら?」
なんだ、そんなことですか。
「そんなの、決まってます。他の何よりも――私の命よりも大切な方です」
従者として、あるべき当然の返事を返す。それがどうしたというのでしょうか。イマイチ、話との関連性が見えてこない。
青娥さんは返事を聞いても表情を変えずに続ける。
「では、二つ目。貴女には、主人には及ばないかもしれないけど、いざとなったらやはり守りたい存在――例えば親友なんかは、いますか?」
しばし考える……が、これも答えはすぐ見つかった。
「ええ。主人の親友は主人同然の人です。その式神の方々達も、私なんかに守れるのであれば、守りたい存在です。他にも、お世話になっている人間達もいますし……」
言ってて少し照れ臭い。が、やはりそんな私の心中をしってか知らずか、青娥さんは一切表情を変えない。柔和に微笑んで見えるが、その視線は心の内側を覗いているようにも思えてきて、ある意味真顔よりも真剣味がある。
そして、最後の質問が来た。
「では、もう一つだけ」
「はい……」
一度だけ瞬きし、少し息を吸ってから……青娥さんは問いかけた。
「その守りたい人達の中に、貴女自身が入っていないのは何故?」
「え?」
「それは、どういうことで――」
「何故?」
よく意味がわからない。が、私の疑問は遮られ、聞くことが出来なかった。私は意図が読めないまま、仕方なしに考える……。が、答えは出なかった。
「……」
それらしいことは幾つか思いついた。
――剣の道に生きる者として、大切な物を守る時なら自分の身は捨てて然るべきだから、とか。
――今までそんな考えは持ってませんでしたので、とか。
――幼い頃から、自分はいつも主人や祖父に守られてばかりだったから、今度は守りたいんです、とか……。
でも、何故だろう。
どの答えも青娥さんを――いや、私自身を納得させるようなものではない気がして、言えなかった。
というか、そもそも何故、この人はこんなに真面目に聞いてくれるのだろう。
言い方は悪いけど、青娥さんは邪仙で、しかも私の身の上話は先程から言ってたように、お菓子の用意が足りなくて庭師をクビになったという、端から聞いたら笑い話もいいところの内容なのだ。
――なのに何故、こんなにも真剣なのだろうか。
「………………」
結局何も言えず、更に数分が経過した。
それを受けて、青娥さんは私が答えられないのを察したらしく
「分かったわ」
と静かに言った。
私はまだ、何も言えずにいた。
「妖夢さん」
「はい」
「ちょっとあの子を見ててくださるかしら?」
あの子――芳香さんですか。あの方がどうしたというんでしょう。
なんて考えていると、青娥さんは先程同様人差し指と中指を揃え
「芳香、そちらの食器を早く片付けなさいな」
と彼女に命令した。すると芳香さんの額に貼られた札が少し赤い光に包まれる――新たな命令を遂行させるため、札の指令を書き換えたようだ。その後光が消えると共に、すぐに彼女は台所へ向かい、洗い桶に主人が積んだ食器を手に取り、洗い始めた。
「妖夢さん」
「?」
「そもそも今日、貴女は私のお客様ですわ。そして今からやることは、貴女が捨てなければならない事。だから、これからしばらく、手を出してはダメよ」
……?
どういうことでしょうか。
が、その答えはすぐにやってきた。
彼女――宮古芳香の体のつくりはとても不便に出来ていた。腕は曲げなかったのではなく、肩の関節以外、自由に曲げられなかったのである。今、彼女は底の方の洗い桶の食器を上手く取れない。やっと取れても、手首の関節も不自由で、上手く動かせない。水量の調節も上手くいかず、食器の表面が強く水を弾く。あっという間に床は水浸しになっていった。
正直、見ていられない。が立ち上がろうとしたら
「手出しはダメよ、妖夢さん。言ったでしょう?」
こういうことか……。青娥さんは私が手伝うことを許さなかった。
こうしている間にも、芳香さんは眉一つ動かさずに作業を続ける。無理に腕を曲げようして、異常に力を加えてるようにも見えた。
20分程。いや、見てる側も辛かったから長く感じただけかもしれない。実際は10分かそこらだっただろうか。ようやく全ての作業を終えた芳香さんがこちらにやってきた。さっきまで気付かなかったけど、彼女の目は虚ろで、光がない……まあ、ゾンビだし当然なのだろうか。光どころか、疲れや悲しみすらも見出せない、濁った目だった。
何はともあれ、やっと終わった。ところが少しホッとしたのもつかの間。青娥さんは当然のようにまた札を書き換え
「芳香、床が汚れているわ。掃除しなさい。雑巾はあちらよ」
と命令した。そしてすぐに動き出す彼女。先程無理をしたせいだろう。横から見ると彼女の二の腕の先は、僅かだが不自然な方向に曲がり、赤く腫れてるのが分かった――もう見ていられない。
「あの、お願いです。これ以上はやめてください。私やりますから」
立ち上がり、懇願する。
しかし青娥さんは首を横に振る。
「ダメよ。もう少し、見てなさい」
「もう無理です!今すぐやめさせ――」
「黙って見てろ」
突然の変化。
別人かと思うくらい、低い声だった。先ほどまで緩く弧を描いていた唇は締まり、目は冷たく鋭い。
あまりの迫力に気圧されて、私はへなへなと腰が砕ける。
しかし、彼女の言葉に何故怒りが込められたのか?私には分からなかった。
こうしている間にも、芳香さんは命令を果たそうと懸命に動いていた。が、まず床を拭くための雑巾を取ることすらできない。足の関節も、腕ほどではないにしろ、上手く曲がらないのだ。やがて芳香さんは、前屈みになりすぎて、倒れこんだ。それは無理にくの字にまで曲げた膝と変に曲がった腕に大きく負担をかけ、そして――腕がポキッという景気の良い音を立てて折れた。食事の必要がない身体である故に、脆くなっていたのだろう。バランスを崩し、顔が地面に打ち付けられる。
「ひっ……」
それでも彼女は一心に命令に背くことなく動く。痛みはないらしいが、腕が使えないのは分かるのだろう。薄汚れた雑巾を口で咥え、這うように目的地へと向かおうとする。
「……っ!」
そこまできて、ようやく主人――青娥さんは彼女の元へ行き、故障した彼女を治す。命令も止めた。そして彼女を抱きかかえ、二階の元いた部屋へと連れ戻した。
彼女の意図は、未だに読めない。
程なくして、里で会った時の様に微笑みを浮かべながら青娥さんが戻ってきた。それを見てるうち、何故だか腹が立ってきた――貴女、どうしてそんな平気な顔していられるの、と。
「私の意図が分からない、って顔してるわね」
何食わぬ顔で言われたので、思わず
「当たり前です!何故です!?何故あんな……」
と責め立てるように言ったが、上手く言葉が出ない。それほどまでに凄惨だったのだ。
――こんなところ、来るんじゃなかったと思う程に。
「部下に酷いことを、かしら?」
分かってるなら、何故……。
詰まっている言葉が、堰を切る寸前だった。
しかし、またもや私の言葉は、彼女の一言に呑み込まれた。
「でも、私の芳香と今の貴女、何が違うの?」
……は?
全然違います。私のはただの私自身の失態。貴女のは――
言ってやりたいが、上手く言葉が出ない。
「ねぇ、妖夢さん」
……返事はせず、ただ視線を合わせる。彼女は続けた。
「先の質問に対する貴女の回答は、今見せた芳香と全く同じ将来を私に暗示させたわ。貴女は違うと思うかもしれない。でもそう思っているのは貴女だけよ。あの子は中身がない。友達もいない。力もさして強くない。でも、能力以上の命令であっても、絶対に逆らわない。」
それは、貴女が操っているからでしょう?と震える声で言い返す。
「確かにそうかもしれない。でも、それなら……」
「それなら、操られてないのに、貴女は今どうしてこんなところにいるの?」
――?!
それは、どういう……。
今日何度目がわからないこの心の声。しかし、今までとは明らかに違う。
……そういうことですか。
ようやく分かった。
いや、分かってしまった。
「貴女は優しい人よ、妖夢さん。でも、その優しさには欠点があるわ。その欠点とは……」
自分を大切にしないこと――。
口には出さなかったのに、青娥さんは頷いたように見えた。
「貴女は自分を犠牲にしすぎている。それが原因で、明らかに自分とは無関係の事の責任を取っている事に気付きもしない。もっと自分を大切にしなければ、貴女は必ずさっきの芳香のようになるわ。しかも友達のいる貴女の場合、その時負う傷は肉体的なものではないかもしれない。心の傷は、そう治せないのよ」
何も言えない。
その通りだ。
「……多分、貴女の主人はそれを見抜いてたんでしょうね。それでこんな大げさな事したんじゃないかしら」
「え?」
「言ってたんでしょ。貴女の分はないの?って……。些細過ぎて気付かなかったかしら?」
……あ!
「確かに言ってた……」
あの噛み合わない会話はそういうことだったのですか。
でも理不尽な要求には慣れてるから、いつも通りかと……てっきり。
「でもね、どんな大きな事もきっかけは本当に些細なの。さっきのも、貴女は見るに耐えなかったかもしれないけど、ただの洗い物と掃除よ?」
「はい……」
「万事において、等しく見るべし。貴女は自分に厳しい癖に、人に……特に主人に甘すぎる。」
ぐうの音も出ません。
私は私なりに尽くしてきただけのつもりだった。
でも、ずっと、逆に幽々子様に心配かけていたのか私は。
不謹慎だけど……。
それが私には今、堪らなく嬉しくもあった。
――幽々子様、ありがとうございます。
そして……。
ごめんなさい。
▽
暗闇が包み込む静寂の中、どこまでも続くような長い階段を上って行く。冥界の気温は人間界より若干低く、今日のような雲のない日であれば夜は冷房がなくても十分な程度にまで冷え込む。
しばらくして、ようやく屋敷の入り口にたどり着いた。――にしても、まさかこんな早く帰ることになるなんて。
▽
つい先ほどの話。
「もう、大丈夫みたいね」
「……はい!」
「それじゃ、妖夢さん。貴女早く帰ってあげなさいな」
「は?!」
いやいや、私まだしばらくクビですから。
まだ数時間しか経ってないですから。
そういうと青娥さんは声をあげて笑った
「ばかね、しばらくってのは追い出した理由が分かったら帰って来いってことよ。多分。でも間違ってないと思うわ」
「あー……そう、なんですかね……」
「当たり前でしょ」
でも、もう午前の1時……幽々子様はとっくにお休みになってるかと思いますが。
そう言うとまた青娥さんはクスクス笑って
「そんなわけないでしょ。……はあ、こりゃあ貴女のご主人もこんな荒療治にするわけだわ」
なんでそんな言い切れるのか。
でも、不思議と疑う気はしなかった。
「分かりました。帰ります……」
「ええ、もう暗いので気をつけて。幽霊がいるかもしれないわよ」
ひっ!
私幽霊苦手なんですからやめてくださいよ!
「貴女半分幽霊じゃない」
「うるさい」
思い返せば、今日一日バカにされてしかいない気がしますが、気のせいでしょうか?
……そんなこともないか。
荷物は刀以外特になかったので、ほぼ手ぶらで玄関へ。引き戸を開けると、星の瞬きが空一面に浮かび、夜を讃えていた。空の向こうにある冥界がまるで、はやく来なさい、と言っているかのように。
「ああ、そうだわ妖夢さん、これ持って行きなさい」
「これは……?」
そう言って渡された手提げ袋の中には、白い箱が入っていふ。
「きっと、後で役に立つものよ。家の前で開けて見なさい」
なんとなく、私には既に中身が分かった気がした。
「ありがとうございます」
「それじゃ、迷わないように気をつけて」
「あの、青娥さん」
ここに来て、初めて私は青娥さんの言葉を遮った。
「何かしら?」
私は受け取った荷物を横に置いて、頭を下げる
「今日は本当に――」
「ああ、そういうのいいわ気持ち悪いから」
え、えぇぇ?
気持ち悪いって……。
お礼くらいきちんと言わせてくれてもいいじゃないですか。
そう言い返そうとした途端
「私は邪仙よ。天人に認められず、人を助ける存在になりきれなかった。貴女が私に感謝したとしても、私にとってただの暇つぶしかもしれない。貴女の落ち込んだ表情見て、面白そうだったから話しかけただけ。お礼を言われる筋合いはないわ」
本当はこの人、心が読めるんじゃないかしら。そう思ってしまうくらい、次のセリフが潰される。敵いそうにない。
「そうですか……」
「ええ」
……あ、そうだ。
「分かりました。じゃあ、お礼が言えない代わりに1つだけ質問をさせて下さい」
「ふふっ、なにそれ。まあいいですけど」
――じゃあ、遠慮なく。
――――――?
▽
屋敷の玄関、廊下は一日中灯りがついているが、入り口に人影は見えない。やっぱりお休みになられてるかしら?
……いや。
と、ここで青娥さんに言われたことを思い出し、箱の中身を開ける――やっぱりね。丁寧なことに、既に二つに割られている。
そして、私はそれを手に、玄関の引き戸を開けた。
そこには――
「遅かったわね」
幽々子様が待っていてくれた。少しだけ眠そうに――でも、とても真剣な表情で。
「……それで?」
私はスッと、左手で青娥さんのお土産――半分こにされた饅頭を幽々子様に差し出した。もう一方は、右手に。そして一言。
「ただいま帰りました、幽々子様」
満足する答えを得られたのだろう。
幽々子様も、ようやくいつものように表情を崩し、にっこりと笑ってくれた。
「お帰りなさい、妖夢」
▽
――青娥さん、貴女にとって大切な存在はいますか?
あら……
わかってるくせに。
大切なものなんて、他には何もない。
自分がそう思える程の人にとっての大切なものは、きっと……あなた自身だから。
完
これほんとに邪仙か?もしかしたら、どこぞのタヌキと鵺あたりが化けてるんじゃないだろうか…。
でも、そんなの些細な問題な程いい話でした!
青娥は最近本当に邪悪極まりない扱いを(キョンシーの設定上当然とはいえ)受けていましたから、こんなきれいな青娥は
新鮮です。
すごくいい話でした。
お読みいただき、ありがとうございました。
青娥は確かに綺麗すぎるかな?と思いましたが、邪仙とはいえ仙人。気まぐれなら尚更こんな一面もありではないかな?と思ってあえていい人青娥にしてみました。
楽しんでいただけて幸いです!
青娥はあえて悪い人に見えていい人なんだ!的な推しにしてみました(´・Д・)
楽しんでいただけましたようで、何よりです。
よろしければ今後とも応援してやってください。
ありがとうございます!
至らぬ点も多々あろうかと思いますが、今後もよろしくお願いします。