「しまった、出遅れたか――」
蒼天に轟く色鮮やかな弾幕合戦を見上げ、四季映姫・ヤマザナドゥは軽く歯噛みする。現在戦っているのは聖白蓮と豊聡耳神子か。高貴なる十七条の光が天を裂き、狂い咲く法蓮華が地を埋め尽くし、集った人妖が喉も裂けよと声を張り上げると、それに応えるように弾幕合戦は更に激しさを増していく。
ええじゃないか騒動――人々の口の端に末世という言葉が踊り、宗教家たちが救いの手を差し伸べるべく表舞台へと上がって、どういう経緯か弾幕合戦による人気の奪い合いという異常事態へと発展した。映姫もまた事態の収拾を図るべく、是非曲直庁も動くべしと十王に進言したのだが、人の世の問題は人の手によって解決すべきと一蹴されてしまったのである。ならばと休日の余暇を利用して単独で動くことにしたのだが――自ら口にした通り、遅きに逸した感は否めない。
ふいに一際大きな歓声が上がる。
何度も光条によって前進を阻まれていた白蓮であったが、それでも尚突き進もうとする心意気に打たれたのか、観客の応援が最高潮に達したのだ。声援に背中を押された白蓮は法力を限界まで絞り出し、一発逆転の期待に観客たちが目を輝かせて注視する。
「……帰ろっかな」
観客たちのノリと反比例して、映姫のテンションは落ちていく一方だった。
今回の事件、すでに大筋では解決している。
里に蔓延していた厭世観――その原因も、映姫が十王を説得していた三日三晩のうちに巫女によって明らかにされ、今となっては対策の一環として馬鹿げたお祭り騒ぎが続いているだけなのだ。惰性といっていい。無論それはそれで喜ばしいことだが、では十王とやりあった喧々囂々の三日間は何だったのかと、虚しくなるのも無理はない。
「参戦しちゃえばいいじゃないですか。乱入上等なただのお祭りなんですし、どうせアホなら踊らにゃ損ですよ」
「!?」
ふいに耳元に掛けられた声に振り向くと、目を細めて笑う天狗がそこにいた。
「いきなり背後から声を掛けるのは止めてください。心臓に悪いじゃないですか」
「おや失礼。閻魔さまなら私がこっそり近づいていることくらい、とうにお見通しだと思っておりましたので」
嫌味と感じさせないさらっとした物言いに、映姫はぐっと言葉に詰まる。
油断していたのは事実だが、それを認めるのはどうにも業腹であり、せめて何か言い返そうと口を開いた瞬間に、「いやぁ、しかし大盛況ですねぇ。おかげで新聞も飛ぶように売れて、本当に異変さまさまですよ。ありがたいことです」とあっさり話を変えられてしまって上げた拳の落としどころを見失う。
「……そうですかよかったですねでは忙しいので私はこれで」
天狗に絡まれたら、ペースを狂わされる一方である。
映姫が句読点も挟まず歩み去ろうとすると、天狗は慌てて追い縋ってきた。
「ああ、すいません! 実はちょっと相談があって声をかけさせてもらったんですよ。失礼な言動、平に平にご容赦を」
「……相談? 私に?」
怪訝そうに振り返ると、天狗は露骨に媚びた顔で擦り寄ってくる。その笑顔に心の警鐘が猛烈に鳴り始め、映姫は念のため一歩だけ後ろに下がった。
「不必要に近づかないでください。して相談とは?」
関わりたくないのは山々だが、正面から「相談がある」と言われては、無下に出来ないのが閻魔としての立場である。随分と渋い顔になってしまったが、それを責めるのは酷というものだろう。罪はむしろ天狗の方にある。日頃の行い的に。
「嫌われたもんですねぇ。まぁ良いです。四季さまは今回の顛末をどう思われます?」
「どう、とは?」
「お面に宿った付喪神が人々から『希望』を奪った。そして新たな『希望』を生み出すべく、宗教家連中が弾幕合戦に興じている――その現状についてです」
秦こころはすでに『視』た。
事件解決の足掛かりとなった巫女との対戦こそ観戦できなかったものの、その後自らの『希望』を求めて弾幕合戦に興じるこころの姿は何度も見たし、その存在概念についての観察はすでに完了している。
「特に何も――というのが正直な感想ですね。付喪神による人心の影響は確かに脅威ですが、逆に言えば付喪神程度に左右される心など、いつだって最初から不安定に揺れているものなのです。たとえ一時的に傾いたとしても、時が経てば自然に戻ります。心とはそういうものなのですよ」
不安定であるが故に安定しているという矛盾。
矛盾しているが故に、否、矛盾を内包しているからこそ、『心』なのだと言えるだろう。
「まぁ、そんなものかもしれませんねぇ。実際、里の方は落ち着いてきているようですし」
「邪心を持って人心を操ろうとしているなら何としても止めねばなりませんが、現在の彼女はただ其処に存在しているだけです。此処が幻想郷である以上――彼女の存在もまた、時間と共に受け入れられていくでしょう」
「成程……ですが私が聞きたいのは、そういうことじゃないんですよねぇ」
「というと?」
ここぞとばかりに天狗が詰め寄ってくる。
白々しい笑顔に映姫も思わず仰け反る。
「この異変を利用して名声を集めようとしている宗教家連中に対し、是非曲直庁は、いえ、四季さま個人はどう思っているのか――そこを知りたいわけです」
痛いところを突かれたという風に映姫の顔が曇る。
是非曲直庁としてならば、十王が判断したように中立を貫くべきである。
先の付喪神の話と同じく、宗教家による人心掌握もまた、長い目で見れば一時的な熱狂に過ぎない。神や仏の名を借りる宗教家であればまだしも、神や仏そのものである是非曲直庁ならば、信仰の奪い合いなど一笑に付して然るべきであろう。
だが四季映姫としてどうかと問われると。
忸怩たる思いがあることを、どうしても否定できない。
そして閻魔は――自分自身に対してすら嘘は吐けない。
「……面白くない、というのが正直な気持ちですね。神道、道教、仏教、どれが正しいとか間違っているとか、そういうことではなく、その、」
口にすると面映ゆい。
だが実在する神や仏を差し置いて、神仏の言葉を伝える宗教家自身が信仰を集めるというのは、なんだか――
「成程。つまり嫉妬してるわけですね」
「ぐっ!?」
「しかも嫉妬している自分に自己嫌悪しちゃったりなんかしてどうにもこうにも袋小路な八甲田山ってわけですか。あっはっは、ちっちゃいですねぇ。背だけじゃなく器までちっちゃいとは、そりゃ信仰されないわけですよ」
「そ、そこまで言わなくてもいいでしょう!?」
目に涙まで浮かべて抗議する映姫だったが、天狗は子供をあやすようにぱたぱたと右手を振りながら鷹揚に言った。
「まぁまぁ落ち着いてください。相談というのはここからなんですから」
「へ?」
「道理は一旦横に置いておくとして……四季さんが感情面で煩悶してらっしゃることはよーく理解できました。おっと無理に否定しなくて良いですよ? それは実に自然な感情であって誰かに責められるようなことではありません。個人的には人間味を感じるというか、親しみを感じてしまって逆に好感度が上がったくらいです。グーですよグー!」
「グー……?」
「つまり四季さんとしては自分、いえ是非曲直庁以外が信仰の対象となる現状を好ましく思っていない、しかし力技で信仰を取り戻すのは美学に反する、そういうことですね!」
「あ、いえ、えと」
何か違うというか、強引に論旨を捻じ曲げられてしまった気がするのだが、上手く考えが纏まらない。そして戸惑っている映姫の両肩を掴むと、天狗は更に畳み掛けてくる。
「そうですそうですそういうことなんですよ! なぁに恥じることはありません。むしろ立派ですよ聖人ですか貴女は。是非曲直庁こそが唯一絶対の正義であるのは天の摂理に則った確定事項であるというのに、それに驕らず平和的に世の誤りを正そうと考えてらっしゃるのですから。いやぁ実に感服致しました! そういう奥床しさもまた貴女の魅力の一つ。そういう方だからこそ導き手として相応しいのです! つきましては私も微力ながらお手伝いさせて頂きたいと思います。ああ、遠慮なさらずに! なぁに、礼には及びませんよ、私は好きで四季さんの力になりたいと思っているだけですから。四季さんのためなら例え火の中水の中! この射命丸文、今この瞬間より四季さんの四季さんによる四季さんのために誠心誠意全身全霊粉骨砕身仕えようと思います! 犬とお呼びください、わん!」
肩を掴まれ揺さぶられ、思考も何も掻き回される。勢いに押されて頷き、悪魔の契約書に拇印を押してしまったような気がするが、そんな記憶すら押し流されていく。
背後で大きな破砕音が響く。
長く続いた弾幕合戦の決着が付いたのだろう。
勝敗すら定かでない熱狂的な歓声を、映姫は遠く、海鳴りのように感じていた。
§
「いやこれは幾ら何でも有り得ないでしょう!?」
「は? 何言ってんすか? 何でもやるって言ったじゃんすか? それとも何すか嘘吐いたんすか? 閻魔のくせに! 閻魔のくせにっ!」
ゴツいグラサンを中指でズラし、文は映姫に葉巻の紫煙を吹き掛ける。醸し出される問答無用の迫力に、映姫は涙目になりながら膝を屈した。
「た、確かに何でもするって言いましたけど、これはあまりにもあんまりじゃないですかっ!? こ、こここここここんなんで人前に出られるわけないでしょう!?」
肩出しヘソ出し白黒セーラーに、きっわきわのローライズ&おまえそれ隠す気ねーだろなミニスカ。とどめにエグすぎるTバックときては、流石に女子として防御力低すぎだと思う。
「あとこの格好は既視感ありまくりです! 肖像権侵害で訴えられます!」
客観的に見て、現在の映姫の格好はただの痴女である。
いっそ水着にでもしてもらった方が、まだしも平常心を保てるであろう。
「むぅ、過度の露出は商品価値を徒に落としますし、再考の余地があることは認めましょう。しかし後発であることを考えれば、やはり多少のインパクトがないと」
「ドン引きしますよ!? これじゃただの馬鹿じゃないですか!」
「はっはっは。誰もアイドルに知性なんか求めてませんて。むしろ過度に足りないくらいが丁度良いんです。ほら、昔から言うでしょう――馬鹿な娘ほど可愛いって」
「その慣用句は肉親以外許されません!?」
何故このような事態になったのか。
話は一ヶ月ほど前へと遡る。
『アイドルですってぇ!? この私がっ!?』
『そうです。四季さんも薄々感じていたように、今更弾幕勝負に持ち込んだところで時勢を逸した感は否めません。無論、影響が全くないとまでは言いませんが、暖簾に腕押し焼け石に水、子はかすがいの糠に釘となる可能性の方が高いでしょう』
『そ、それは確かに……』
『それと……言い難いことですが、里における四季さんの評判は余り芳しいものではありません。いえ、ここははっきりと、疎まれていると言った方が良いでしょう』
『ほぇっ!?』
『四季さんは休日のたびに説教行脚をしてらっしゃるそうですが、あれが逆効果なのですよ。無論、明るく正しい死後ライフを送るためのありがたーい御説教なのですから、感謝している者も少なくないでしょうが……大抵の人妖にとって箴言は耳に痛いものですしね。死後に改めて感謝することになるとはいえ、現世において疎ましがられるのも無理なからぬことではないでしょうか』
『そ、そんな……』
『ですからここはスパッと気持ちを切り替えて、新たな道を切り開いていくしかないのです。そこで――アイドルですよ四季さん! アイドルとは文字通り信仰の象徴! 親しみやすくて人々に愛される新時代の偶像となるのです!』
『し、しかし私などが……』
『だーいじょーぶですって! 四季さんならアイドルの素養はバッチシです! むしろ四季さんがアイドルにならなくてどうすんだって感じですよ! グーですグー!』
『グ、グー……し、しかしアイドルなんて十王が許すはずも……』
『あ、その点は大丈夫です。先に許可取りましたから』
『なんですと!?』
『好きにやれと。むしろガンガンやれと。ファンクラブ結成したら一桁台ゲットするからいの一番に教えろと厳命されています。いやはや愛されてますねぇ』
『外堀から埋めてきやがった!?』
『そんなわけで射命丸プロデュースによる四季映姫アイドル化計画は、是非曲直庁公認の、正式な公務となったわけです。十王さまから資金を含めた諸々の援助は惜しまないと太鼓判を頂いておりますので、四季さんはなーんにも心配しなくて良いのですよ』
『お、おおおおおお…………』
『そんなわけで……一緒に頑張りましょうね、四季さん☆』
そうして射命丸プロデューサーによる地獄のレッスンが始まった。
夜雀&山彦コンビによるボイストレーニングに、都会派人形遣いによるハードなダンスレッスン。騒霊たちの元で音感を鍛えつつ、魅力的なボディーラインを作るための過剰なダイエット。閻魔としての職務を免除されたが故に可能となった一日三〇時間を超える非人道的な鍛錬。食事も睡眠もその全てがその一部であり、今日を捨てることで明日を掴む糧とする!
一分一秒ごとに映姫の血肉は作り変えられ、その密度を高めていく。
血の一滴すら人々を魅了する――『純血』のアイドルへと生まれ変わるために!
「はい、そこでターン! 違う! 何度言ったら解るのよ、右手はこうでしょ! もう一度最初から! はい、ワンツーワンツー! そうその調子! ほら笑顔忘れない! 次のステップは右から……そう、今の感覚忘れずに! もう一度最初から!」
「精が出ますねぇ」
「あらプロデューサー。もう時間かしら?」
「いえいえ、まだ次のレッスンには時間がありますけど……ちょっと様子を見ておこうと思いましてね」
「そう……いいわ! それじゃ最初から通しでやってみるわよ! ほらほら、立ち位置の確認忘れないで! はい、ミュージックスタート!」
映姫に指示を与えてからアリス・マーガトロイドは文の元へと足を向けた。
文の隣で、壁に背中を預け、肺の底から絞り出すように息を吐く。
「お疲れですか?」
「彼女ほどじゃないけどね。実際よくやっていると思うわよ。一度ゆっくり休養させることをお勧めするわ、トレーナーとしては」
「あはは、如何せん即席培養ですしねぇ。多少の無理は仕方ありません。何しろファーストライブまであと一週間を切っているのですから」
「そうね、確かに」
「――正直なところ如何です? モノになりそうですか?」
文の視線を受け止め、アリスは表情を引き締めた。
「忌憚なく言わせてもらうなら……才能ないわね、あの娘」
「あらら」
「特にリズム感が壊滅的。頭の中に二拍子しかないんじゃないかしら。音楽ってほら四拍子が基本だから、どうしてもズレが生じてくるのよねぇ」
「白黒しか頭にない人ですしねぇ。直りますか、それ?」
「地道に練習するしかないけど……時間が必要ね」
二人が映姫の方に視線を向けると、ロボットが盆踊りしているような凄惨な光景が広がっていた。動きのキレは良いのだが、一瞬動くと必ず一度停止する。コマ落としのフィルムのような、連続性に欠ける酷く歪つな踊りっぷりであった。
「あー……ライブまでにどうにかなりますかね?」
「うーん。振付の構成を弄るにしたって、最低限ってラインはあるしねぇ。一週間だとギリギリかな。ちょっとハードになると思うけど」
「遠慮なくガンガンお願いします」
「オッケー。ほらそこ! 足を止めちゃ駄目って何度も言ってるでしょ!」
指導に戻ったアリスの背中に頭を下げ、文は部屋を後にする。
差し入れを持ってきたのだが、この分じゃ休む暇なんてなさそうだ。
「ライブまで一週間か……しかし時間に直せば一六八時間! 分に直せばなんとびっくり一万とんで八十分! カップラーメンなら三三六〇個も作れちゃうんです! それだけあれば何とかなりそうな気がしてきますよねっ!」
睡眠や食事などの休息時間を全く考慮しない悪魔のような皮算用を弾くと、文は設営に向けての交渉を行うべく次の目的地へと足を早めた。
§
「というわけでライブ当日ですっ! さぁ、はりきっていきましょーう!」
「……いや、幾ら何でも無理でしょこれ」
前日までの晴天は何処へやら。
突如として幻想郷を襲った観測史上最大級の嵐を前に、映姫は呆然と立ち竦むしかなかった。
「屋内ならまだしも野外ですから……お客さんだって全然いないじゃないですか」
並べた椅子は軒並み薙ぎ倒され、スタッフ席のテントもとうに飛ばされていた。叩き付ける豪雨は滝行に慣れた高野山の高僧も中指突き立てるレベルであり、ライブどころかライフが危ない有様である。
「残念ですが仕方ありません。後日また日を改めて――」
「この意気地なしっ!」
「へぶっ!?」
唐突な平手打ちに映姫が目を白黒させる。
「嵐が何ですかっ! お客さんいないからどうだってんですかっ! 貴女のライブに賭ける意気込みはその程度のものだったんですかっ!?」
「え、いや、その」
「誰もいない、ですって……? いるじゃないですか此処にっ! 私がっ! 貴方の歌を待っている一番のファンがっ! 嵐なんて関係ないっ! ステージが吹き飛んだって関係ないっ! ずっと、ずっと貴女の歌を待っていた私が此処に居るんですっ!」
「しゃ、射命丸さん……!」
「かつて伝説と呼ばれたアイドルグループがいました。彼女たちのファーストライブも、告知に失敗しお客は一人もいなかったそうです……ですがっ! それでも彼女たちは歌いました! 『誰も聞いてくれないかもしれない。だけど、歌いたい私は此処にいる!』――そう言って、誰もいない観客席に向かって今の自分たちに出来る最高の歌を贈ったんですっ! そして彼女たちは伝説のアイドルとしての第一歩を踏み出しました。その後の屋上ライブも雨に祟られ、無理な練習のせいで高熱に冒されてもステージに立ち続けた……その熱意があったから彼女たちはトップアイドルになれたんですっ! 四季さんだってこの世界でトップを目指すと誓ったんでしょう!? 嵐なんかに負けていいんですかっ!」
文の嗚咽混じりの叫びに胸を打たれ、映姫もまた瞳を潤ませる。
そうだ。嵐が何だ。人がいないくらいどうだというのだ。
アイドルの道が辛く険しいことなど、最初から承知の上だったではないか!
「射命丸さん……いえ、射命丸プロデューサー! 私が間違っていました! そうですよね、私には私の歌を待っている人がいる……たとえそれが今は貴女だけなのだとしても、だからといって手を抜く理由にはならない! 申し訳ありません、私としたことが知らず傲慢になっていたようです。私は――私の歌を待っている人の為に歌うと決めたのですから!」
「そうです、そのとおりですよ四季さんっ! 誰よりも間近で貴女の歌を聞きたいから、私は此処に、貴女の隣に居るのですっ!」
「射命丸さん!」
「四季さん!」
二人は固く抱き合って、互いの体温を交わし合う。
心の熱が、雨に奪われた魂に火を灯す。
「それでは……行って参ります!」
「ご武運を! 私は此処で最後まで見届けさせてもらいますからっ!」
そして映姫はステージに向かって駆け出した。
演奏もない、スポットライトもない、そして観客もいない。
吹き荒ぶ風と横殴りの雨が道を阻むが、そんなもので足を止めたりしない。
ステージに辿り着いた映姫が不器用なロボットダンスを踊り、アカペラで歌い始める。曲目はこの日の為に練習してきたデビュー曲――『私の彼はハンニバル』(作詞:西行寺幽々子 作曲:プリズムリバー幻樂団)――ディスコティックなナンバーに和歌のフレーズを乗せた楽曲で、嵐の中、雨に溺れそうになりながら映姫は声を張り上げる。ポップな出だしから緩やかにバラードへと移行し、解放のカタルシスを生み出すサビへと辿り着いた瞬間――強風に煽られた看板が映姫の後頭部を直撃した。そのままごろごろとステージを転がり、顔面から見事な車田落ちを決める。
動かない。
死んだのかもしれない。
その一部始終を写真に収めながら、
「流石四季さん、美味しいですねぇ持ってますねぇ」と、楽しそうに呟いた。
§
「もう無理です。堪忍してください」
あれから三ヶ月。意識不明の重体からようやく目を覚ました映姫は、見舞いに来た文の顔を見るなり開口一番そう言った。意識こそ戻ったものの、首はムチウチが酷く、ギプスで固められた痛々しい姿である。長い入院生活で頬はこけ、まるで死人のような有様であった。
「なーに言ってるんですか四季さんっ! これからですよこれから!」
しかし風は読んでも空気は読まない射命丸。
にこにこ笑顔で映姫の肩をばんばん叩きながら、親指をぐいっと突き立てた。
「いやもうほんと無理ですって。向いてないんですよ私には。今回の件も『いい年こいて無茶すんな』という神様のお告げなんですダンゴ虫はダンゴ虫らしく石の下にいるべきだったんです日の当たるところになんか出ちゃいけなかったんですお願いですから私のことはもうそっとしておいてください……」
「あらら、完全にネガ入っちゃってますねぇ」
さめざめと泣く映姫を眇め、文は困ったように頭を掻く。
今後の展開について打ち合わせするつもりだったのだが、この様子ではとてもそんな話を切り出せそうにない。
「貴女のファンが此処にいますよー? 待ってる人もいるんですよー?」
「待っているのは貴女だけなんですよね? いいです、私は貴女のためだけに歌いましょう。ベッドの中でもお風呂でも二十四時間三六五日ずっと貴女の耳元で歌い続けます」
「それは全力で遠慮したいですねぇ」
まさかのヤンデレモードに発展した映姫から視線を逸らし、文は桃色の脳細胞を高速回転させる。身体はあと一ヶ月もあれば元に戻るだろうし、メンタルも口八丁手八丁でどうにかなるだろう。しかしファーストライブが流れてかれこれ三ヶ月。この空白期間は大きく、それまでの告知・宣伝活動は全てパーになったのだ。スタッフも解散したし、もう一度集めるにしても前のような熱意を保ってくれるか怪しいものである。何しろ飽きっぽいやつしかいないのだ、幻想郷というところは。
「これは本当に諦めるしかないかもしれませんねぇ」
元々閻魔をからかって面白おかしい記事が書ければと始めた企画だ。
別に潰れたところで困ることはないし、いっそ手を引いた方が賢いかもしれない。
「仕方ありません。四季映姫アイドル化計画は中止ということで――」
「ちょーっと待ったぁ!」
突然病室の扉が開かれ、三つの影が躍り出る。
「私たちを!」
「忘れてもらっちゃ!」
「困るわね!」
CooLにポーズを決めた八雲紫・八意永琳・八坂神奈子の末広がり三姉妹に対し、文はこの上なく冷たい視線を向けた。
「何だ、売れ残り三人衆じゃないですか。もうあんたらの時代は終わったんです。本編はおろか書籍でも用済み扱いなんですから大人しく巻末後書きにでも引っ込んでてください」
「いや終わってねぇよ!? むしろこれからだよ!?」
必死に反論する三人衆の妄言に耳を貸さず、文は映姫へと目を向ける。
「そんなわけでお疲れ様でした四季さん。これから普通の女の子に戻って――」
「だから話聞けっつってんだろ!?」
半ギレで文の肩を掴んだ紫は、目に涙を浮かべながら強引に振り向かせる。
「いいアイデアがあるんだってば! 一発逆転間違いなしのナイスーでゴイスーなやつが!」
「はっ。心綺楼どころか輝針城ですらなかったこと扱いになってる凡俗に、なーんのアイデアがあるっつーんですか? 他人のこと気に掛けている暇があったら、まずは自分のことを何とかするべきなんじゃないですか?」
「うぐっ!?」
「そっちの蛇神さまとか求聞口授であんだけ三大宗教戦争を匂わせておきながら、心綺楼では一人だけ完全にハブられてましたもんねー。早苗さんと諏訪子さんは非想天則に出たから良いとして、貴女あれが最後のチャンスだったんじゃないですか? あそこ逃したらもう今後一切未来永劫出番なんかないですよ?」
「だ、だって私じゃ当たり判定大きすぎて……」
「訳わからん注連縄背負ってるからそういうことになるんです。それから貴女もですよ、そこの薬師さん。折角儚月抄という月関係的にめっちゃ美味しい出番を与えらた癖に、無駄に格好いい黒幕ポジ気取ったせいで結果的に出番なくなってるじゃないですか。チートすぎて使い勝手悪いとか中学生の考えたオリキャラですか貴女。それまで月関係で創作してた人を第一宇宙速度突破する勢いで振り落して貴女一体何がしたかったんです?」
「ち、違うのよ!? 本当はあれからもっともっと深くじっくり人間の暗黒面とか色々掘り下げていくつもりだったんだけど! アンケートが! アンケートが!?」
「アンケートひとつ操れない貴女方に下げる頭などないってことですよ。生まれ変わってロリキャラになってから出直してきやがれです」
「ぐぬぬぬぬ……!」
血の涙を流しながら崩れ落ちる三人組であったが、立ち上がって幽鬼のような目で文を見据える。その眼光には敗北者の無念と共に、小さくも確かな輝きが残っていた。
「み、認めるわ、私たちではもはや人気を奪い返すことなど不可能……だけど、だからこそ、私たちはその娘に希望を託すしかないのよ!」
「その娘……四季さんに、ですか?」
文は驚いた顔で紫の目を見る。
真剣で、この上なく真摯な、渇望の瞳。
「……解りました。話だけでも伺うとしましょう」
§
そして幻想郷は新しく生まれ変わった。
いや、創世よろしく創り変えられたといっても過言ではない。
八坂神奈子による原子力発電の本格稼働により、幻想郷のライフスタイルは一変した。河童の協力による大規模工事によって幻想郷中の各家庭に電気が行き渡り、一家に一台八意印のテレビジョンが普及されたのである。月の超技術である通神機能を搭載したテレビジョンによって遠く離れた地とリアルタイムに交神可能となったところに、八雲紫が立ち上げた唯一にして髄一の放送局が二十四時間電波を垂れ流し始めた。目新しいものには目がないお祭り気質な人妖はこの新しい娯楽に飛び付き、テレビに齧りついて離れない子供たちが社会問題にまでなったのである。
そして――八雲放送局は射命丸プロダクションと提携することで、映姫を全面的に推し出していくこととなった。ライブの完全生中継はもとより、バラエティやドキュメンタリーにもゲストとして無理矢理捻じ込み、お茶の間を映姫一色に染め上げたのである。秋元も裸足で逃げ出す露骨なゴリ押しに疑問視を投げ掛ける声もあったが、バンドワゴン効果の前に押し流され、人々の映姫に対する信仰は神をも超えるものとなっていた。
「全てを手に入れることは全てを失うことと等しい……今となっては虚しいものね」
巨万の富を手に入れた文は、超高層ビルの最上階からワイングラス片手に下界を見下ろしていた。バスローブを纏い、風呂上がりの上気した頬を冷まそうとガラスに額を押し付ける。夜を忘れた幻想郷を抱きしめるように、倦んだ吐息をほつりと漏らす。
「潮時、かしらね」
映姫の人気は不動のものとなり、これ以上手を出す必要もない。
出演依頼の書類に判を押すだけの日々に、文は疲れ、飽きていた。
二十四時間三六五日ぶっ続けで出演し続けた映姫はついに過労で倒れ、永琳からもドクターストップを受けている。しばらくは録画でお茶を濁しているが、生の映姫を見たいという声は日に日に募り、暴動まで起きそうな気配まであった。八雲放送局からは代わりのアイドルをプロデュースするよう矢のような催促を受けていたが、どうにもその気になれなくて、何だかんだと理由を付けては先延ばしにしている。
「メディアの力がここまで圧倒的とはね。もう少し張り合いのあるものだと思っていたのだけれど」
自分で刷った新聞を配るために、幻想郷を飛び回っていた頃が懐かしい。
手作りの新聞はあまり読んでもらえなかったけれど、今よりは読者、或いは視聴者との距離が近かった――そんな気がする。
「そもそも私は……私の新聞を読んで、喜ぶ人の顔が見たかっただけなんだけどなぁ」
今では人の顔なんか見えやしない。
見えるのは大衆という名の、曖昧で実体のない怪物だけだ。そして怪物はただ貪欲に供物を求めるのみで、決して文を満たす笑顔を返してくれない。虚しくて当たり前だ――結局のところ自分など、怪物に餌を与える飼育係に過ぎなかったのだから。
「よし、辞めよう」
決断は早かった。
映姫が倒れた時から漠然と考えていたことではあるが、今この瞬間にはっきりと決めた。
「私は天狗だ。天狗は――楽しいことしかしない」
楽しくなくなったから辞める。
それは自然な成り行きで、再考の余地はなく、待っているファンとか、他人の都合とか、そんなものまったく全然ちっとも関係ないことだった。
「この生活ともお別れかぁ。まぁ、それも仕方ないよね」
これまでに稼いだ分だけで七代遊んで暮らせる蓄えはあるのだ。これから何を始めるにせよ、足りないことはないだろう。
「さーて、それじゃ電話でも入れときますかね。引き継ぎのこともあるし」
「――その必要はありませんわ」
背後から掛けられた声に驚き、文は慌てて振り返る。
其処には妖艶に微笑む――八雲紫の姿があった。
「……驚かせないでくださいよ、趣味が悪いなぁ。まぁ、丁度良いです。今から電話しようと思っていたところですので」
「プロデューサーをお辞めになるおつもりだとか?」
にまにまと。
スキマに腰を下ろし、扇で口元を隠しながら、紫は地獄のように微笑う。
「……止めても無駄ですよ? 四季さんの興行権はお渡ししますし、私がいなくても問題ないでしょう? 新たなアイドルを育てるというならならノウハウを教えますし、なんなら手助けしてもいい。ただ、私を矢面に立たせるのは勘弁して欲しいってだけなんですから」
文の背中を冷たい汗が滑り落ちる。
紫の浮かべる禍々しい笑顔に気圧されはしたが、それでも自分の意志だけははっきりと告げておいた。それだけで泥のような疲労が圧し掛かってきたが、此処で引いたらそれこそ地獄まで引きずり込まれるだろう。何としても引く訳にはいかない。
だけど。
八雲紫は――
「あら嫌だ。そんなに警戒しないでくださいな。私は貴女を引き止めにきたんじゃないんですから。むしろ今までお疲れ様――と労いにきたのですよ、射命丸文さん」
「……へ?」
それまでの地獄のような気配を消し、春のように微笑む紫を目の当たりにして、文は気の抜けた返事しか返せなくなる。
「いえいえ本当に貴女のおかげなのよ。貴女の――倫理も、常識も、良識も、道徳も、法律も、慈愛も、憂慮も、遠慮も、誠実さも、正当性も、全て全て投げ捨てて、脇目も振らず、一心不乱に、注ぎ込まれた『娯楽』という名の腐敗の毒は、誰も彼も構わず、人も妖も問わず、神も悪魔も飲み込んで世界を一匹の怪物へ変貌させた。その容赦のなさ、その遠慮のなさこそが、この世のありとあらゆる宗教を飛び越えついに世界を一つに纏め上げたの。その恐ろしさ、いえ、怖れを知らぬさまは、有り様は、人の域を超え、天狗の域を超えた、貴女にしか為し得なかった偉業よ。貴女はそれを存分に誇っていい」
「は、はぁ……」
何だろう。
ちっとも褒められている気がしない。
むしろこれは責められているような――
「だから貴女が此処で降りるというのなら、私にそれを止める権利はない。今までありがとう。お疲れ様。これからのご多幸を心よりお祈り申し上げますわ」
「あ、いえ、こちらこそ……ありがとうござい、ました……」
紫の顔はさっきからずっと柔らかく微笑んだままだ。
ただどうしてだろう。
さっきからずっと――足の震えが止まらない。
「そういえば……四季さんの具合は如何ですか?」
急に矛先を変えられて文は戸惑う。
戸惑いつつも、急き立てられるように文の口は言葉を紡ぐ。
「あ、はい、えと、八意さんに診て貰っていますがあまり芳しくはないようです。メイクで顔色を隠すにも限界がありますし、これを機に引退させようかと……」
「あら、そうなのですか? 困りましたねぇ、次の特番も決まっておりますのに」
「あ、ああ、そうなんですか! それなら大丈夫ですよ! 四季さんもあと一回くらいなら何とかなるでしょう。八意先生のお薬なら死人すら生き返すと評判ですし、その特番を『四季映姫・ヤマザナドゥ引退特番』とすればいいんですから! 視聴率とかもうすんごいことになっちゃいますよ! ウッハウハです!」
映姫が倒れてから一度見舞いに行ったきり、碌に顔も合わせていない。
頬はこけ、酸素吸入器を付けた痛々しい姿だったが、あれから随分経つのだ。立ち上がるくらいは出来るようになっているだろう。後はまぁ、番組構成とか八意先生のイケナイお薬とかで誤魔化せる筈だ。そうに違いない。
「その後は?」
「ふぇ!?」
「何を可愛い声出していらっしゃるのですか。その後ですよその後。番組スケジュールは来年の四月までびっしり詰まっているのです。四季さんはそれに出演して頂けるのかと聞いているのですよ」
「えと、それは、あの」
無理だ。
マジヤバ一〇〇〇パーセント無理無理の無理だ。幾ら文が鬼畜の人でなしだとしても、それが物理的に不可能なことくらい解りきっていた。限界まで酷使させることに躊躇いはないが、本当に死なれては寝覚めが悪いなんてもんじゃない。文の頭脳が高速で回転する。今回急場を凌いだところで、いずれ破綻するのは目に見えている。契約書を交わしている以上、番組を放棄したら多額の違約金を払う事になるが、それも仕方ないと割り切るしかあるまい。
「あの、えと、その……すいません、無理です」
「え? 何だって?」
「あ、いや、その申し訳ありません! 四季さんを使うのは、その……無理なんです!」
紫の足元にワンセコンドでスライディング土下座を決める。
千年近い寿命の中で、数多の苦難を土下座ひとつで乗り越えてきただけのことはある、それはそれは見事な土下座っぷりであった。これほどの土下座を前にしては、地球外生命体ですらドン引きせざるを得ない。
そして紫は――
「そう、残念ね」
文の土下座姿を前にして、軽く肩を竦めながらそう言った。
「正直に言うと……四季さんの容態については先に八意先生から伺っていたし、これ以上の活動が無理なことも本当は解っていたのよ。今のは貴女をちょっと試しただけ。四季さんを売って自分だけ逃げようとしているのなら、ちょっとお灸を据えてやろうかなって。実際、一度は売ったわけだけど……まぁ、大目にみてあげましょ」
文が顔を上げると、紫が呆れたように苦笑していた。
先程までの剣呑さは霞の如く消え去り、優しく金の髪が揺れている。
「四季さんの引退特番ができなかったのは残念だけど……仕方ないわね。身体の方が大事ですもの」
「紫さん……!」
紫の慈愛溢れる微笑みを前に、文は知らず涙を流していた。
幻想郷の賢者、或いは幻想郷そのものと呼ばれる存在の優しさ、心の広さに、文の心は感動に打ち震え、自然に頭を垂れてしまう。
「でも本当に残念だわ。もう四季さんの歌が聞けないなんて」
「今は無理でもいつか歌ってくれますよ。アイドルとしてではなく、貴女の友達として」
「あら、それはとても素敵なお話ね。そうね、その日をのんびりと待つことにしましょう」
どちらからともなくくつくつと笑い、そして徐々に高らかに笑った。
楽しそうに、歌うように。
朗らかに、なだらかに、友達のように。
文のお腹の底に残っていた重たいものが、ふいにするりと抜け落ちる。
ようやく昔のように自由に飛べる、そんな気がした。
「貴女の笑顔、何だか変わったわね。そんな綺麗に笑っていたかしら」
「戻っただけですよ。綺麗さっぱり元通りってやつです。知らず知らず色んなものにしがみついて……自分を見失っちゃってたんですね。ようやく楽になれました」
「ふふ、今の貴女なら四季さんの代わりにアイドルが務まるんじゃない?」
「ご冗談を。柄じゃないですって、そんなの」
そう、柄じゃない。
何かにしがみつくのも、何かに縛られるのも御免だ。
私は天狗、天の狗。空を駆けるが天命だ。
空のようにからっと笑う文を見て、紫は優しく微笑む。
「まぁ、冗談じゃないんだけどね」
そう言って紫が取り出したのは一枚の書面。
映姫を八雲放送局へと専属契約させる際に交わした契約書だった。
「ここ見て貰える? そうここ。ほら、射命丸プロダクションに所属する者の身柄は、本人の意志に関わらず八雲放送局が預かる旨が書いてあるでしょう?」
「は? え? あれ、そうでしたっけ?」
唐突な展開にさしもの文も戸惑い、目を白黒させる。
契約書に目を向けると、確かにそのようなことが書いてあった。
「ああ、そうか。確かにそう書いてますね。しかし貴女もご存知のように、四季さんはあの状態でして……」
その文面には続けて、映姫の独占放映権を渡す代わりに射命丸プロダクションへ一定のマージンを支払う旨が書かれていた。契約の際、莫大なマージンの皮算用に浮かれて碌に書類も見ないまま判を押した気もする。当時を思い返すと「いざとなったら四季さんを身売りするだけだし、私的にはまったくノーリスクだね!」と軽く考えていた節がある。今となっては赤面ものだが、当時の自分なら理解した上で判を押した可能性も否めない。
「仕方ありません。違約金なら払いますのでどうかご勘弁を……」
「その場合、今後十年分の契約破棄ということになるから……これくらいかしらね?」
「ふぁっ!?」
紫が電卓を弾いて算出した金額は、アメリカ大陸が買えるレベルだった。
「いやいやいやこれおかしいでしょう!? 絶対おかしいよねっ!? 何でこんな金額になるんですか!?」
「あら、ここにちゃんと書いているでしょ? 一度の契約違反ならこれくらいだけど、二回目以降は累積で加算されていくって」
「ふぁーっ!?」
その一文は契約書の下にある、米粒より小さな注意書きの中に紛れ込んでいた。
遠藤さんばりの詐欺である。そして優しいおじさんなどこの場にいない。
「てなわけで……払って貰えるかしら?」
「払えませんよ!? 払えるわけないでしょうこんなの!? みとめませーん! こんなのぜったいみとめませ―――――――――――――――ん! あ、いや! そうそうそうですよ! これは四季さんの身柄に関する取り決めです! 四季さんの身体はどうぞご自由に限界まで酷使しちゃってください! 私は関係ないです! 関係なーいーんーでーすー!」
さっきまでの心を入れ替えたきれいな射命丸は何処へやら。
保身を第一に友達を売り飛ばす最低最悪なクズが其処にいた。
「あら? でも四季さんは引退するんでしょ?」
「ノーカンですノーカン! なかったことになりましたっ! そんなわけでどうぞ好き勝手にこきつかってやってください! それじゃ私はこれで」
「いやいや妖夢」
「ふごっ!?」
足早に部屋から出ていこうとした文の襟首を、悪魔の右手が捕まえる。
「この契約書、もう一度よ――――く見て貰える? 射命丸プロダクションに所属する者として貴女たちの名前が並んでいるけれど、アイドルだのプロデューサーだのの役職なんて一文字も書いてないでしょ? ほら、あくまで貴女たちの名前だけ」
「そんなの当たり前――」
「つまり貴女もまた、射命丸プロダクションに属するアイドルの一人ってわけ。四季さんがああいう状態な上、違約金も払えないとなれば貴女に頑張ってもらうしかないのよ。勿論、アイドルとしてね?」
「そ、そんな無茶な!?」
「契約は契約。そんなわけで今日から早速頑張ってもらうことになるわ。ああそうそう、貴女のために付き人も用意しといたわよ」
「ドーモ。ヤマザナドゥ=サンです。貴女をプロデュースすべく誠心誠意頑張らせて頂きます。なぁに、ノウハウはこの身にみっちり嫌というほど叩き込まれておりますので大船に乗ったつもりでお任せください。二十四時間三百六十五日おはようからおやすみまで隈なく隅々毛穴から指先まできっちりプロデュースさせて頂きますのでひとつ宜しく」
「あ、ああああああ……」
「トップアイドルを目指して――一緒に頑張りましょうね、射命丸さん♡」
摩天楼に射命丸文の絶叫が鳴り響く。
幻想郷は今日も平和であった。
《終わってしまえ》
蒼天に轟く色鮮やかな弾幕合戦を見上げ、四季映姫・ヤマザナドゥは軽く歯噛みする。現在戦っているのは聖白蓮と豊聡耳神子か。高貴なる十七条の光が天を裂き、狂い咲く法蓮華が地を埋め尽くし、集った人妖が喉も裂けよと声を張り上げると、それに応えるように弾幕合戦は更に激しさを増していく。
ええじゃないか騒動――人々の口の端に末世という言葉が踊り、宗教家たちが救いの手を差し伸べるべく表舞台へと上がって、どういう経緯か弾幕合戦による人気の奪い合いという異常事態へと発展した。映姫もまた事態の収拾を図るべく、是非曲直庁も動くべしと十王に進言したのだが、人の世の問題は人の手によって解決すべきと一蹴されてしまったのである。ならばと休日の余暇を利用して単独で動くことにしたのだが――自ら口にした通り、遅きに逸した感は否めない。
ふいに一際大きな歓声が上がる。
何度も光条によって前進を阻まれていた白蓮であったが、それでも尚突き進もうとする心意気に打たれたのか、観客の応援が最高潮に達したのだ。声援に背中を押された白蓮は法力を限界まで絞り出し、一発逆転の期待に観客たちが目を輝かせて注視する。
「……帰ろっかな」
観客たちのノリと反比例して、映姫のテンションは落ちていく一方だった。
今回の事件、すでに大筋では解決している。
里に蔓延していた厭世観――その原因も、映姫が十王を説得していた三日三晩のうちに巫女によって明らかにされ、今となっては対策の一環として馬鹿げたお祭り騒ぎが続いているだけなのだ。惰性といっていい。無論それはそれで喜ばしいことだが、では十王とやりあった喧々囂々の三日間は何だったのかと、虚しくなるのも無理はない。
「参戦しちゃえばいいじゃないですか。乱入上等なただのお祭りなんですし、どうせアホなら踊らにゃ損ですよ」
「!?」
ふいに耳元に掛けられた声に振り向くと、目を細めて笑う天狗がそこにいた。
「いきなり背後から声を掛けるのは止めてください。心臓に悪いじゃないですか」
「おや失礼。閻魔さまなら私がこっそり近づいていることくらい、とうにお見通しだと思っておりましたので」
嫌味と感じさせないさらっとした物言いに、映姫はぐっと言葉に詰まる。
油断していたのは事実だが、それを認めるのはどうにも業腹であり、せめて何か言い返そうと口を開いた瞬間に、「いやぁ、しかし大盛況ですねぇ。おかげで新聞も飛ぶように売れて、本当に異変さまさまですよ。ありがたいことです」とあっさり話を変えられてしまって上げた拳の落としどころを見失う。
「……そうですかよかったですねでは忙しいので私はこれで」
天狗に絡まれたら、ペースを狂わされる一方である。
映姫が句読点も挟まず歩み去ろうとすると、天狗は慌てて追い縋ってきた。
「ああ、すいません! 実はちょっと相談があって声をかけさせてもらったんですよ。失礼な言動、平に平にご容赦を」
「……相談? 私に?」
怪訝そうに振り返ると、天狗は露骨に媚びた顔で擦り寄ってくる。その笑顔に心の警鐘が猛烈に鳴り始め、映姫は念のため一歩だけ後ろに下がった。
「不必要に近づかないでください。して相談とは?」
関わりたくないのは山々だが、正面から「相談がある」と言われては、無下に出来ないのが閻魔としての立場である。随分と渋い顔になってしまったが、それを責めるのは酷というものだろう。罪はむしろ天狗の方にある。日頃の行い的に。
「嫌われたもんですねぇ。まぁ良いです。四季さまは今回の顛末をどう思われます?」
「どう、とは?」
「お面に宿った付喪神が人々から『希望』を奪った。そして新たな『希望』を生み出すべく、宗教家連中が弾幕合戦に興じている――その現状についてです」
秦こころはすでに『視』た。
事件解決の足掛かりとなった巫女との対戦こそ観戦できなかったものの、その後自らの『希望』を求めて弾幕合戦に興じるこころの姿は何度も見たし、その存在概念についての観察はすでに完了している。
「特に何も――というのが正直な感想ですね。付喪神による人心の影響は確かに脅威ですが、逆に言えば付喪神程度に左右される心など、いつだって最初から不安定に揺れているものなのです。たとえ一時的に傾いたとしても、時が経てば自然に戻ります。心とはそういうものなのですよ」
不安定であるが故に安定しているという矛盾。
矛盾しているが故に、否、矛盾を内包しているからこそ、『心』なのだと言えるだろう。
「まぁ、そんなものかもしれませんねぇ。実際、里の方は落ち着いてきているようですし」
「邪心を持って人心を操ろうとしているなら何としても止めねばなりませんが、現在の彼女はただ其処に存在しているだけです。此処が幻想郷である以上――彼女の存在もまた、時間と共に受け入れられていくでしょう」
「成程……ですが私が聞きたいのは、そういうことじゃないんですよねぇ」
「というと?」
ここぞとばかりに天狗が詰め寄ってくる。
白々しい笑顔に映姫も思わず仰け反る。
「この異変を利用して名声を集めようとしている宗教家連中に対し、是非曲直庁は、いえ、四季さま個人はどう思っているのか――そこを知りたいわけです」
痛いところを突かれたという風に映姫の顔が曇る。
是非曲直庁としてならば、十王が判断したように中立を貫くべきである。
先の付喪神の話と同じく、宗教家による人心掌握もまた、長い目で見れば一時的な熱狂に過ぎない。神や仏の名を借りる宗教家であればまだしも、神や仏そのものである是非曲直庁ならば、信仰の奪い合いなど一笑に付して然るべきであろう。
だが四季映姫としてどうかと問われると。
忸怩たる思いがあることを、どうしても否定できない。
そして閻魔は――自分自身に対してすら嘘は吐けない。
「……面白くない、というのが正直な気持ちですね。神道、道教、仏教、どれが正しいとか間違っているとか、そういうことではなく、その、」
口にすると面映ゆい。
だが実在する神や仏を差し置いて、神仏の言葉を伝える宗教家自身が信仰を集めるというのは、なんだか――
「成程。つまり嫉妬してるわけですね」
「ぐっ!?」
「しかも嫉妬している自分に自己嫌悪しちゃったりなんかしてどうにもこうにも袋小路な八甲田山ってわけですか。あっはっは、ちっちゃいですねぇ。背だけじゃなく器までちっちゃいとは、そりゃ信仰されないわけですよ」
「そ、そこまで言わなくてもいいでしょう!?」
目に涙まで浮かべて抗議する映姫だったが、天狗は子供をあやすようにぱたぱたと右手を振りながら鷹揚に言った。
「まぁまぁ落ち着いてください。相談というのはここからなんですから」
「へ?」
「道理は一旦横に置いておくとして……四季さんが感情面で煩悶してらっしゃることはよーく理解できました。おっと無理に否定しなくて良いですよ? それは実に自然な感情であって誰かに責められるようなことではありません。個人的には人間味を感じるというか、親しみを感じてしまって逆に好感度が上がったくらいです。グーですよグー!」
「グー……?」
「つまり四季さんとしては自分、いえ是非曲直庁以外が信仰の対象となる現状を好ましく思っていない、しかし力技で信仰を取り戻すのは美学に反する、そういうことですね!」
「あ、いえ、えと」
何か違うというか、強引に論旨を捻じ曲げられてしまった気がするのだが、上手く考えが纏まらない。そして戸惑っている映姫の両肩を掴むと、天狗は更に畳み掛けてくる。
「そうですそうですそういうことなんですよ! なぁに恥じることはありません。むしろ立派ですよ聖人ですか貴女は。是非曲直庁こそが唯一絶対の正義であるのは天の摂理に則った確定事項であるというのに、それに驕らず平和的に世の誤りを正そうと考えてらっしゃるのですから。いやぁ実に感服致しました! そういう奥床しさもまた貴女の魅力の一つ。そういう方だからこそ導き手として相応しいのです! つきましては私も微力ながらお手伝いさせて頂きたいと思います。ああ、遠慮なさらずに! なぁに、礼には及びませんよ、私は好きで四季さんの力になりたいと思っているだけですから。四季さんのためなら例え火の中水の中! この射命丸文、今この瞬間より四季さんの四季さんによる四季さんのために誠心誠意全身全霊粉骨砕身仕えようと思います! 犬とお呼びください、わん!」
肩を掴まれ揺さぶられ、思考も何も掻き回される。勢いに押されて頷き、悪魔の契約書に拇印を押してしまったような気がするが、そんな記憶すら押し流されていく。
背後で大きな破砕音が響く。
長く続いた弾幕合戦の決着が付いたのだろう。
勝敗すら定かでない熱狂的な歓声を、映姫は遠く、海鳴りのように感じていた。
§
「いやこれは幾ら何でも有り得ないでしょう!?」
「は? 何言ってんすか? 何でもやるって言ったじゃんすか? それとも何すか嘘吐いたんすか? 閻魔のくせに! 閻魔のくせにっ!」
ゴツいグラサンを中指でズラし、文は映姫に葉巻の紫煙を吹き掛ける。醸し出される問答無用の迫力に、映姫は涙目になりながら膝を屈した。
「た、確かに何でもするって言いましたけど、これはあまりにもあんまりじゃないですかっ!? こ、こここここここんなんで人前に出られるわけないでしょう!?」
肩出しヘソ出し白黒セーラーに、きっわきわのローライズ&おまえそれ隠す気ねーだろなミニスカ。とどめにエグすぎるTバックときては、流石に女子として防御力低すぎだと思う。
「あとこの格好は既視感ありまくりです! 肖像権侵害で訴えられます!」
客観的に見て、現在の映姫の格好はただの痴女である。
いっそ水着にでもしてもらった方が、まだしも平常心を保てるであろう。
「むぅ、過度の露出は商品価値を徒に落としますし、再考の余地があることは認めましょう。しかし後発であることを考えれば、やはり多少のインパクトがないと」
「ドン引きしますよ!? これじゃただの馬鹿じゃないですか!」
「はっはっは。誰もアイドルに知性なんか求めてませんて。むしろ過度に足りないくらいが丁度良いんです。ほら、昔から言うでしょう――馬鹿な娘ほど可愛いって」
「その慣用句は肉親以外許されません!?」
何故このような事態になったのか。
話は一ヶ月ほど前へと遡る。
『アイドルですってぇ!? この私がっ!?』
『そうです。四季さんも薄々感じていたように、今更弾幕勝負に持ち込んだところで時勢を逸した感は否めません。無論、影響が全くないとまでは言いませんが、暖簾に腕押し焼け石に水、子はかすがいの糠に釘となる可能性の方が高いでしょう』
『そ、それは確かに……』
『それと……言い難いことですが、里における四季さんの評判は余り芳しいものではありません。いえ、ここははっきりと、疎まれていると言った方が良いでしょう』
『ほぇっ!?』
『四季さんは休日のたびに説教行脚をしてらっしゃるそうですが、あれが逆効果なのですよ。無論、明るく正しい死後ライフを送るためのありがたーい御説教なのですから、感謝している者も少なくないでしょうが……大抵の人妖にとって箴言は耳に痛いものですしね。死後に改めて感謝することになるとはいえ、現世において疎ましがられるのも無理なからぬことではないでしょうか』
『そ、そんな……』
『ですからここはスパッと気持ちを切り替えて、新たな道を切り開いていくしかないのです。そこで――アイドルですよ四季さん! アイドルとは文字通り信仰の象徴! 親しみやすくて人々に愛される新時代の偶像となるのです!』
『し、しかし私などが……』
『だーいじょーぶですって! 四季さんならアイドルの素養はバッチシです! むしろ四季さんがアイドルにならなくてどうすんだって感じですよ! グーですグー!』
『グ、グー……し、しかしアイドルなんて十王が許すはずも……』
『あ、その点は大丈夫です。先に許可取りましたから』
『なんですと!?』
『好きにやれと。むしろガンガンやれと。ファンクラブ結成したら一桁台ゲットするからいの一番に教えろと厳命されています。いやはや愛されてますねぇ』
『外堀から埋めてきやがった!?』
『そんなわけで射命丸プロデュースによる四季映姫アイドル化計画は、是非曲直庁公認の、正式な公務となったわけです。十王さまから資金を含めた諸々の援助は惜しまないと太鼓判を頂いておりますので、四季さんはなーんにも心配しなくて良いのですよ』
『お、おおおおおお…………』
『そんなわけで……一緒に頑張りましょうね、四季さん☆』
そうして射命丸プロデューサーによる地獄のレッスンが始まった。
夜雀&山彦コンビによるボイストレーニングに、都会派人形遣いによるハードなダンスレッスン。騒霊たちの元で音感を鍛えつつ、魅力的なボディーラインを作るための過剰なダイエット。閻魔としての職務を免除されたが故に可能となった一日三〇時間を超える非人道的な鍛錬。食事も睡眠もその全てがその一部であり、今日を捨てることで明日を掴む糧とする!
一分一秒ごとに映姫の血肉は作り変えられ、その密度を高めていく。
血の一滴すら人々を魅了する――『純血』のアイドルへと生まれ変わるために!
「はい、そこでターン! 違う! 何度言ったら解るのよ、右手はこうでしょ! もう一度最初から! はい、ワンツーワンツー! そうその調子! ほら笑顔忘れない! 次のステップは右から……そう、今の感覚忘れずに! もう一度最初から!」
「精が出ますねぇ」
「あらプロデューサー。もう時間かしら?」
「いえいえ、まだ次のレッスンには時間がありますけど……ちょっと様子を見ておこうと思いましてね」
「そう……いいわ! それじゃ最初から通しでやってみるわよ! ほらほら、立ち位置の確認忘れないで! はい、ミュージックスタート!」
映姫に指示を与えてからアリス・マーガトロイドは文の元へと足を向けた。
文の隣で、壁に背中を預け、肺の底から絞り出すように息を吐く。
「お疲れですか?」
「彼女ほどじゃないけどね。実際よくやっていると思うわよ。一度ゆっくり休養させることをお勧めするわ、トレーナーとしては」
「あはは、如何せん即席培養ですしねぇ。多少の無理は仕方ありません。何しろファーストライブまであと一週間を切っているのですから」
「そうね、確かに」
「――正直なところ如何です? モノになりそうですか?」
文の視線を受け止め、アリスは表情を引き締めた。
「忌憚なく言わせてもらうなら……才能ないわね、あの娘」
「あらら」
「特にリズム感が壊滅的。頭の中に二拍子しかないんじゃないかしら。音楽ってほら四拍子が基本だから、どうしてもズレが生じてくるのよねぇ」
「白黒しか頭にない人ですしねぇ。直りますか、それ?」
「地道に練習するしかないけど……時間が必要ね」
二人が映姫の方に視線を向けると、ロボットが盆踊りしているような凄惨な光景が広がっていた。動きのキレは良いのだが、一瞬動くと必ず一度停止する。コマ落としのフィルムのような、連続性に欠ける酷く歪つな踊りっぷりであった。
「あー……ライブまでにどうにかなりますかね?」
「うーん。振付の構成を弄るにしたって、最低限ってラインはあるしねぇ。一週間だとギリギリかな。ちょっとハードになると思うけど」
「遠慮なくガンガンお願いします」
「オッケー。ほらそこ! 足を止めちゃ駄目って何度も言ってるでしょ!」
指導に戻ったアリスの背中に頭を下げ、文は部屋を後にする。
差し入れを持ってきたのだが、この分じゃ休む暇なんてなさそうだ。
「ライブまで一週間か……しかし時間に直せば一六八時間! 分に直せばなんとびっくり一万とんで八十分! カップラーメンなら三三六〇個も作れちゃうんです! それだけあれば何とかなりそうな気がしてきますよねっ!」
睡眠や食事などの休息時間を全く考慮しない悪魔のような皮算用を弾くと、文は設営に向けての交渉を行うべく次の目的地へと足を早めた。
§
「というわけでライブ当日ですっ! さぁ、はりきっていきましょーう!」
「……いや、幾ら何でも無理でしょこれ」
前日までの晴天は何処へやら。
突如として幻想郷を襲った観測史上最大級の嵐を前に、映姫は呆然と立ち竦むしかなかった。
「屋内ならまだしも野外ですから……お客さんだって全然いないじゃないですか」
並べた椅子は軒並み薙ぎ倒され、スタッフ席のテントもとうに飛ばされていた。叩き付ける豪雨は滝行に慣れた高野山の高僧も中指突き立てるレベルであり、ライブどころかライフが危ない有様である。
「残念ですが仕方ありません。後日また日を改めて――」
「この意気地なしっ!」
「へぶっ!?」
唐突な平手打ちに映姫が目を白黒させる。
「嵐が何ですかっ! お客さんいないからどうだってんですかっ! 貴女のライブに賭ける意気込みはその程度のものだったんですかっ!?」
「え、いや、その」
「誰もいない、ですって……? いるじゃないですか此処にっ! 私がっ! 貴方の歌を待っている一番のファンがっ! 嵐なんて関係ないっ! ステージが吹き飛んだって関係ないっ! ずっと、ずっと貴女の歌を待っていた私が此処に居るんですっ!」
「しゃ、射命丸さん……!」
「かつて伝説と呼ばれたアイドルグループがいました。彼女たちのファーストライブも、告知に失敗しお客は一人もいなかったそうです……ですがっ! それでも彼女たちは歌いました! 『誰も聞いてくれないかもしれない。だけど、歌いたい私は此処にいる!』――そう言って、誰もいない観客席に向かって今の自分たちに出来る最高の歌を贈ったんですっ! そして彼女たちは伝説のアイドルとしての第一歩を踏み出しました。その後の屋上ライブも雨に祟られ、無理な練習のせいで高熱に冒されてもステージに立ち続けた……その熱意があったから彼女たちはトップアイドルになれたんですっ! 四季さんだってこの世界でトップを目指すと誓ったんでしょう!? 嵐なんかに負けていいんですかっ!」
文の嗚咽混じりの叫びに胸を打たれ、映姫もまた瞳を潤ませる。
そうだ。嵐が何だ。人がいないくらいどうだというのだ。
アイドルの道が辛く険しいことなど、最初から承知の上だったではないか!
「射命丸さん……いえ、射命丸プロデューサー! 私が間違っていました! そうですよね、私には私の歌を待っている人がいる……たとえそれが今は貴女だけなのだとしても、だからといって手を抜く理由にはならない! 申し訳ありません、私としたことが知らず傲慢になっていたようです。私は――私の歌を待っている人の為に歌うと決めたのですから!」
「そうです、そのとおりですよ四季さんっ! 誰よりも間近で貴女の歌を聞きたいから、私は此処に、貴女の隣に居るのですっ!」
「射命丸さん!」
「四季さん!」
二人は固く抱き合って、互いの体温を交わし合う。
心の熱が、雨に奪われた魂に火を灯す。
「それでは……行って参ります!」
「ご武運を! 私は此処で最後まで見届けさせてもらいますからっ!」
そして映姫はステージに向かって駆け出した。
演奏もない、スポットライトもない、そして観客もいない。
吹き荒ぶ風と横殴りの雨が道を阻むが、そんなもので足を止めたりしない。
ステージに辿り着いた映姫が不器用なロボットダンスを踊り、アカペラで歌い始める。曲目はこの日の為に練習してきたデビュー曲――『私の彼はハンニバル』(作詞:西行寺幽々子 作曲:プリズムリバー幻樂団)――ディスコティックなナンバーに和歌のフレーズを乗せた楽曲で、嵐の中、雨に溺れそうになりながら映姫は声を張り上げる。ポップな出だしから緩やかにバラードへと移行し、解放のカタルシスを生み出すサビへと辿り着いた瞬間――強風に煽られた看板が映姫の後頭部を直撃した。そのままごろごろとステージを転がり、顔面から見事な車田落ちを決める。
動かない。
死んだのかもしれない。
その一部始終を写真に収めながら、
「流石四季さん、美味しいですねぇ持ってますねぇ」と、楽しそうに呟いた。
§
「もう無理です。堪忍してください」
あれから三ヶ月。意識不明の重体からようやく目を覚ました映姫は、見舞いに来た文の顔を見るなり開口一番そう言った。意識こそ戻ったものの、首はムチウチが酷く、ギプスで固められた痛々しい姿である。長い入院生活で頬はこけ、まるで死人のような有様であった。
「なーに言ってるんですか四季さんっ! これからですよこれから!」
しかし風は読んでも空気は読まない射命丸。
にこにこ笑顔で映姫の肩をばんばん叩きながら、親指をぐいっと突き立てた。
「いやもうほんと無理ですって。向いてないんですよ私には。今回の件も『いい年こいて無茶すんな』という神様のお告げなんですダンゴ虫はダンゴ虫らしく石の下にいるべきだったんです日の当たるところになんか出ちゃいけなかったんですお願いですから私のことはもうそっとしておいてください……」
「あらら、完全にネガ入っちゃってますねぇ」
さめざめと泣く映姫を眇め、文は困ったように頭を掻く。
今後の展開について打ち合わせするつもりだったのだが、この様子ではとてもそんな話を切り出せそうにない。
「貴女のファンが此処にいますよー? 待ってる人もいるんですよー?」
「待っているのは貴女だけなんですよね? いいです、私は貴女のためだけに歌いましょう。ベッドの中でもお風呂でも二十四時間三六五日ずっと貴女の耳元で歌い続けます」
「それは全力で遠慮したいですねぇ」
まさかのヤンデレモードに発展した映姫から視線を逸らし、文は桃色の脳細胞を高速回転させる。身体はあと一ヶ月もあれば元に戻るだろうし、メンタルも口八丁手八丁でどうにかなるだろう。しかしファーストライブが流れてかれこれ三ヶ月。この空白期間は大きく、それまでの告知・宣伝活動は全てパーになったのだ。スタッフも解散したし、もう一度集めるにしても前のような熱意を保ってくれるか怪しいものである。何しろ飽きっぽいやつしかいないのだ、幻想郷というところは。
「これは本当に諦めるしかないかもしれませんねぇ」
元々閻魔をからかって面白おかしい記事が書ければと始めた企画だ。
別に潰れたところで困ることはないし、いっそ手を引いた方が賢いかもしれない。
「仕方ありません。四季映姫アイドル化計画は中止ということで――」
「ちょーっと待ったぁ!」
突然病室の扉が開かれ、三つの影が躍り出る。
「私たちを!」
「忘れてもらっちゃ!」
「困るわね!」
CooLにポーズを決めた八雲紫・八意永琳・八坂神奈子の末広がり三姉妹に対し、文はこの上なく冷たい視線を向けた。
「何だ、売れ残り三人衆じゃないですか。もうあんたらの時代は終わったんです。本編はおろか書籍でも用済み扱いなんですから大人しく巻末後書きにでも引っ込んでてください」
「いや終わってねぇよ!? むしろこれからだよ!?」
必死に反論する三人衆の妄言に耳を貸さず、文は映姫へと目を向ける。
「そんなわけでお疲れ様でした四季さん。これから普通の女の子に戻って――」
「だから話聞けっつってんだろ!?」
半ギレで文の肩を掴んだ紫は、目に涙を浮かべながら強引に振り向かせる。
「いいアイデアがあるんだってば! 一発逆転間違いなしのナイスーでゴイスーなやつが!」
「はっ。心綺楼どころか輝針城ですらなかったこと扱いになってる凡俗に、なーんのアイデアがあるっつーんですか? 他人のこと気に掛けている暇があったら、まずは自分のことを何とかするべきなんじゃないですか?」
「うぐっ!?」
「そっちの蛇神さまとか求聞口授であんだけ三大宗教戦争を匂わせておきながら、心綺楼では一人だけ完全にハブられてましたもんねー。早苗さんと諏訪子さんは非想天則に出たから良いとして、貴女あれが最後のチャンスだったんじゃないですか? あそこ逃したらもう今後一切未来永劫出番なんかないですよ?」
「だ、だって私じゃ当たり判定大きすぎて……」
「訳わからん注連縄背負ってるからそういうことになるんです。それから貴女もですよ、そこの薬師さん。折角儚月抄という月関係的にめっちゃ美味しい出番を与えらた癖に、無駄に格好いい黒幕ポジ気取ったせいで結果的に出番なくなってるじゃないですか。チートすぎて使い勝手悪いとか中学生の考えたオリキャラですか貴女。それまで月関係で創作してた人を第一宇宙速度突破する勢いで振り落して貴女一体何がしたかったんです?」
「ち、違うのよ!? 本当はあれからもっともっと深くじっくり人間の暗黒面とか色々掘り下げていくつもりだったんだけど! アンケートが! アンケートが!?」
「アンケートひとつ操れない貴女方に下げる頭などないってことですよ。生まれ変わってロリキャラになってから出直してきやがれです」
「ぐぬぬぬぬ……!」
血の涙を流しながら崩れ落ちる三人組であったが、立ち上がって幽鬼のような目で文を見据える。その眼光には敗北者の無念と共に、小さくも確かな輝きが残っていた。
「み、認めるわ、私たちではもはや人気を奪い返すことなど不可能……だけど、だからこそ、私たちはその娘に希望を託すしかないのよ!」
「その娘……四季さんに、ですか?」
文は驚いた顔で紫の目を見る。
真剣で、この上なく真摯な、渇望の瞳。
「……解りました。話だけでも伺うとしましょう」
§
そして幻想郷は新しく生まれ変わった。
いや、創世よろしく創り変えられたといっても過言ではない。
八坂神奈子による原子力発電の本格稼働により、幻想郷のライフスタイルは一変した。河童の協力による大規模工事によって幻想郷中の各家庭に電気が行き渡り、一家に一台八意印のテレビジョンが普及されたのである。月の超技術である通神機能を搭載したテレビジョンによって遠く離れた地とリアルタイムに交神可能となったところに、八雲紫が立ち上げた唯一にして髄一の放送局が二十四時間電波を垂れ流し始めた。目新しいものには目がないお祭り気質な人妖はこの新しい娯楽に飛び付き、テレビに齧りついて離れない子供たちが社会問題にまでなったのである。
そして――八雲放送局は射命丸プロダクションと提携することで、映姫を全面的に推し出していくこととなった。ライブの完全生中継はもとより、バラエティやドキュメンタリーにもゲストとして無理矢理捻じ込み、お茶の間を映姫一色に染め上げたのである。秋元も裸足で逃げ出す露骨なゴリ押しに疑問視を投げ掛ける声もあったが、バンドワゴン効果の前に押し流され、人々の映姫に対する信仰は神をも超えるものとなっていた。
「全てを手に入れることは全てを失うことと等しい……今となっては虚しいものね」
巨万の富を手に入れた文は、超高層ビルの最上階からワイングラス片手に下界を見下ろしていた。バスローブを纏い、風呂上がりの上気した頬を冷まそうとガラスに額を押し付ける。夜を忘れた幻想郷を抱きしめるように、倦んだ吐息をほつりと漏らす。
「潮時、かしらね」
映姫の人気は不動のものとなり、これ以上手を出す必要もない。
出演依頼の書類に判を押すだけの日々に、文は疲れ、飽きていた。
二十四時間三六五日ぶっ続けで出演し続けた映姫はついに過労で倒れ、永琳からもドクターストップを受けている。しばらくは録画でお茶を濁しているが、生の映姫を見たいという声は日に日に募り、暴動まで起きそうな気配まであった。八雲放送局からは代わりのアイドルをプロデュースするよう矢のような催促を受けていたが、どうにもその気になれなくて、何だかんだと理由を付けては先延ばしにしている。
「メディアの力がここまで圧倒的とはね。もう少し張り合いのあるものだと思っていたのだけれど」
自分で刷った新聞を配るために、幻想郷を飛び回っていた頃が懐かしい。
手作りの新聞はあまり読んでもらえなかったけれど、今よりは読者、或いは視聴者との距離が近かった――そんな気がする。
「そもそも私は……私の新聞を読んで、喜ぶ人の顔が見たかっただけなんだけどなぁ」
今では人の顔なんか見えやしない。
見えるのは大衆という名の、曖昧で実体のない怪物だけだ。そして怪物はただ貪欲に供物を求めるのみで、決して文を満たす笑顔を返してくれない。虚しくて当たり前だ――結局のところ自分など、怪物に餌を与える飼育係に過ぎなかったのだから。
「よし、辞めよう」
決断は早かった。
映姫が倒れた時から漠然と考えていたことではあるが、今この瞬間にはっきりと決めた。
「私は天狗だ。天狗は――楽しいことしかしない」
楽しくなくなったから辞める。
それは自然な成り行きで、再考の余地はなく、待っているファンとか、他人の都合とか、そんなものまったく全然ちっとも関係ないことだった。
「この生活ともお別れかぁ。まぁ、それも仕方ないよね」
これまでに稼いだ分だけで七代遊んで暮らせる蓄えはあるのだ。これから何を始めるにせよ、足りないことはないだろう。
「さーて、それじゃ電話でも入れときますかね。引き継ぎのこともあるし」
「――その必要はありませんわ」
背後から掛けられた声に驚き、文は慌てて振り返る。
其処には妖艶に微笑む――八雲紫の姿があった。
「……驚かせないでくださいよ、趣味が悪いなぁ。まぁ、丁度良いです。今から電話しようと思っていたところですので」
「プロデューサーをお辞めになるおつもりだとか?」
にまにまと。
スキマに腰を下ろし、扇で口元を隠しながら、紫は地獄のように微笑う。
「……止めても無駄ですよ? 四季さんの興行権はお渡ししますし、私がいなくても問題ないでしょう? 新たなアイドルを育てるというならならノウハウを教えますし、なんなら手助けしてもいい。ただ、私を矢面に立たせるのは勘弁して欲しいってだけなんですから」
文の背中を冷たい汗が滑り落ちる。
紫の浮かべる禍々しい笑顔に気圧されはしたが、それでも自分の意志だけははっきりと告げておいた。それだけで泥のような疲労が圧し掛かってきたが、此処で引いたらそれこそ地獄まで引きずり込まれるだろう。何としても引く訳にはいかない。
だけど。
八雲紫は――
「あら嫌だ。そんなに警戒しないでくださいな。私は貴女を引き止めにきたんじゃないんですから。むしろ今までお疲れ様――と労いにきたのですよ、射命丸文さん」
「……へ?」
それまでの地獄のような気配を消し、春のように微笑む紫を目の当たりにして、文は気の抜けた返事しか返せなくなる。
「いえいえ本当に貴女のおかげなのよ。貴女の――倫理も、常識も、良識も、道徳も、法律も、慈愛も、憂慮も、遠慮も、誠実さも、正当性も、全て全て投げ捨てて、脇目も振らず、一心不乱に、注ぎ込まれた『娯楽』という名の腐敗の毒は、誰も彼も構わず、人も妖も問わず、神も悪魔も飲み込んで世界を一匹の怪物へ変貌させた。その容赦のなさ、その遠慮のなさこそが、この世のありとあらゆる宗教を飛び越えついに世界を一つに纏め上げたの。その恐ろしさ、いえ、怖れを知らぬさまは、有り様は、人の域を超え、天狗の域を超えた、貴女にしか為し得なかった偉業よ。貴女はそれを存分に誇っていい」
「は、はぁ……」
何だろう。
ちっとも褒められている気がしない。
むしろこれは責められているような――
「だから貴女が此処で降りるというのなら、私にそれを止める権利はない。今までありがとう。お疲れ様。これからのご多幸を心よりお祈り申し上げますわ」
「あ、いえ、こちらこそ……ありがとうござい、ました……」
紫の顔はさっきからずっと柔らかく微笑んだままだ。
ただどうしてだろう。
さっきからずっと――足の震えが止まらない。
「そういえば……四季さんの具合は如何ですか?」
急に矛先を変えられて文は戸惑う。
戸惑いつつも、急き立てられるように文の口は言葉を紡ぐ。
「あ、はい、えと、八意さんに診て貰っていますがあまり芳しくはないようです。メイクで顔色を隠すにも限界がありますし、これを機に引退させようかと……」
「あら、そうなのですか? 困りましたねぇ、次の特番も決まっておりますのに」
「あ、ああ、そうなんですか! それなら大丈夫ですよ! 四季さんもあと一回くらいなら何とかなるでしょう。八意先生のお薬なら死人すら生き返すと評判ですし、その特番を『四季映姫・ヤマザナドゥ引退特番』とすればいいんですから! 視聴率とかもうすんごいことになっちゃいますよ! ウッハウハです!」
映姫が倒れてから一度見舞いに行ったきり、碌に顔も合わせていない。
頬はこけ、酸素吸入器を付けた痛々しい姿だったが、あれから随分経つのだ。立ち上がるくらいは出来るようになっているだろう。後はまぁ、番組構成とか八意先生のイケナイお薬とかで誤魔化せる筈だ。そうに違いない。
「その後は?」
「ふぇ!?」
「何を可愛い声出していらっしゃるのですか。その後ですよその後。番組スケジュールは来年の四月までびっしり詰まっているのです。四季さんはそれに出演して頂けるのかと聞いているのですよ」
「えと、それは、あの」
無理だ。
マジヤバ一〇〇〇パーセント無理無理の無理だ。幾ら文が鬼畜の人でなしだとしても、それが物理的に不可能なことくらい解りきっていた。限界まで酷使させることに躊躇いはないが、本当に死なれては寝覚めが悪いなんてもんじゃない。文の頭脳が高速で回転する。今回急場を凌いだところで、いずれ破綻するのは目に見えている。契約書を交わしている以上、番組を放棄したら多額の違約金を払う事になるが、それも仕方ないと割り切るしかあるまい。
「あの、えと、その……すいません、無理です」
「え? 何だって?」
「あ、いや、その申し訳ありません! 四季さんを使うのは、その……無理なんです!」
紫の足元にワンセコンドでスライディング土下座を決める。
千年近い寿命の中で、数多の苦難を土下座ひとつで乗り越えてきただけのことはある、それはそれは見事な土下座っぷりであった。これほどの土下座を前にしては、地球外生命体ですらドン引きせざるを得ない。
そして紫は――
「そう、残念ね」
文の土下座姿を前にして、軽く肩を竦めながらそう言った。
「正直に言うと……四季さんの容態については先に八意先生から伺っていたし、これ以上の活動が無理なことも本当は解っていたのよ。今のは貴女をちょっと試しただけ。四季さんを売って自分だけ逃げようとしているのなら、ちょっとお灸を据えてやろうかなって。実際、一度は売ったわけだけど……まぁ、大目にみてあげましょ」
文が顔を上げると、紫が呆れたように苦笑していた。
先程までの剣呑さは霞の如く消え去り、優しく金の髪が揺れている。
「四季さんの引退特番ができなかったのは残念だけど……仕方ないわね。身体の方が大事ですもの」
「紫さん……!」
紫の慈愛溢れる微笑みを前に、文は知らず涙を流していた。
幻想郷の賢者、或いは幻想郷そのものと呼ばれる存在の優しさ、心の広さに、文の心は感動に打ち震え、自然に頭を垂れてしまう。
「でも本当に残念だわ。もう四季さんの歌が聞けないなんて」
「今は無理でもいつか歌ってくれますよ。アイドルとしてではなく、貴女の友達として」
「あら、それはとても素敵なお話ね。そうね、その日をのんびりと待つことにしましょう」
どちらからともなくくつくつと笑い、そして徐々に高らかに笑った。
楽しそうに、歌うように。
朗らかに、なだらかに、友達のように。
文のお腹の底に残っていた重たいものが、ふいにするりと抜け落ちる。
ようやく昔のように自由に飛べる、そんな気がした。
「貴女の笑顔、何だか変わったわね。そんな綺麗に笑っていたかしら」
「戻っただけですよ。綺麗さっぱり元通りってやつです。知らず知らず色んなものにしがみついて……自分を見失っちゃってたんですね。ようやく楽になれました」
「ふふ、今の貴女なら四季さんの代わりにアイドルが務まるんじゃない?」
「ご冗談を。柄じゃないですって、そんなの」
そう、柄じゃない。
何かにしがみつくのも、何かに縛られるのも御免だ。
私は天狗、天の狗。空を駆けるが天命だ。
空のようにからっと笑う文を見て、紫は優しく微笑む。
「まぁ、冗談じゃないんだけどね」
そう言って紫が取り出したのは一枚の書面。
映姫を八雲放送局へと専属契約させる際に交わした契約書だった。
「ここ見て貰える? そうここ。ほら、射命丸プロダクションに所属する者の身柄は、本人の意志に関わらず八雲放送局が預かる旨が書いてあるでしょう?」
「は? え? あれ、そうでしたっけ?」
唐突な展開にさしもの文も戸惑い、目を白黒させる。
契約書に目を向けると、確かにそのようなことが書いてあった。
「ああ、そうか。確かにそう書いてますね。しかし貴女もご存知のように、四季さんはあの状態でして……」
その文面には続けて、映姫の独占放映権を渡す代わりに射命丸プロダクションへ一定のマージンを支払う旨が書かれていた。契約の際、莫大なマージンの皮算用に浮かれて碌に書類も見ないまま判を押した気もする。当時を思い返すと「いざとなったら四季さんを身売りするだけだし、私的にはまったくノーリスクだね!」と軽く考えていた節がある。今となっては赤面ものだが、当時の自分なら理解した上で判を押した可能性も否めない。
「仕方ありません。違約金なら払いますのでどうかご勘弁を……」
「その場合、今後十年分の契約破棄ということになるから……これくらいかしらね?」
「ふぁっ!?」
紫が電卓を弾いて算出した金額は、アメリカ大陸が買えるレベルだった。
「いやいやいやこれおかしいでしょう!? 絶対おかしいよねっ!? 何でこんな金額になるんですか!?」
「あら、ここにちゃんと書いているでしょ? 一度の契約違反ならこれくらいだけど、二回目以降は累積で加算されていくって」
「ふぁーっ!?」
その一文は契約書の下にある、米粒より小さな注意書きの中に紛れ込んでいた。
遠藤さんばりの詐欺である。そして優しいおじさんなどこの場にいない。
「てなわけで……払って貰えるかしら?」
「払えませんよ!? 払えるわけないでしょうこんなの!? みとめませーん! こんなのぜったいみとめませ―――――――――――――――ん! あ、いや! そうそうそうですよ! これは四季さんの身柄に関する取り決めです! 四季さんの身体はどうぞご自由に限界まで酷使しちゃってください! 私は関係ないです! 関係なーいーんーでーすー!」
さっきまでの心を入れ替えたきれいな射命丸は何処へやら。
保身を第一に友達を売り飛ばす最低最悪なクズが其処にいた。
「あら? でも四季さんは引退するんでしょ?」
「ノーカンですノーカン! なかったことになりましたっ! そんなわけでどうぞ好き勝手にこきつかってやってください! それじゃ私はこれで」
「いやいや妖夢」
「ふごっ!?」
足早に部屋から出ていこうとした文の襟首を、悪魔の右手が捕まえる。
「この契約書、もう一度よ――――く見て貰える? 射命丸プロダクションに所属する者として貴女たちの名前が並んでいるけれど、アイドルだのプロデューサーだのの役職なんて一文字も書いてないでしょ? ほら、あくまで貴女たちの名前だけ」
「そんなの当たり前――」
「つまり貴女もまた、射命丸プロダクションに属するアイドルの一人ってわけ。四季さんがああいう状態な上、違約金も払えないとなれば貴女に頑張ってもらうしかないのよ。勿論、アイドルとしてね?」
「そ、そんな無茶な!?」
「契約は契約。そんなわけで今日から早速頑張ってもらうことになるわ。ああそうそう、貴女のために付き人も用意しといたわよ」
「ドーモ。ヤマザナドゥ=サンです。貴女をプロデュースすべく誠心誠意頑張らせて頂きます。なぁに、ノウハウはこの身にみっちり嫌というほど叩き込まれておりますので大船に乗ったつもりでお任せください。二十四時間三百六十五日おはようからおやすみまで隈なく隅々毛穴から指先まできっちりプロデュースさせて頂きますのでひとつ宜しく」
「あ、ああああああ……」
「トップアイドルを目指して――一緒に頑張りましょうね、射命丸さん♡」
摩天楼に射命丸文の絶叫が鳴り響く。
幻想郷は今日も平和であった。
《終わってしまえ》
ソロで歌で売るアイドルももう幻想入りでしょうかねー。昭和の空気が楽しめました。
映姫がアイドルの階段を駆けていく様など、ちょっと物語としても駆け足だったかなと思う部分もちらほらあったように思います。
読み進めていって、期待通りに展開する場面と期待以上に展開する場面とがありました。更には期待を裏切って欲しいところでしたが、物語の滑らかな推移を思えば、急転直下という訳にもいきませんやね。
語彙が豊富で読み易く、キャスティングも相応しく、メタネタのバランスも程よい。良作と思います。
これからもよろしくお願いします。
映姫様は可愛いなあ
良く出来た三十分アニメの一話完結話しっぽい
ただ冒頭の急展開がややついていきにくく、
さらにヤマザナがアイドルになる動機が、読んだ側の感想として感情的な動機というより、理論的な動機なので、感情移入しにくいのが残念
その語の波瀾万丈っぷりが良かっただけに、序盤で感情的に物語りに没入しにくかったのが惜しかった。
相変わらずですね。お帰りなさいたろちゃん。
というわけで、2やSPも当然あるんですよね?
話のテンポやセリフ回しなど、最後まで読む人を飽きさせない、流石に現役で頑張っている人は違うぜ、と思いました。
久々の床間たろひ分を吸収できましたよ。
文が出る続編を期待してもいいですか?
体にボルトが入ってる改造人間より。
アイドルとして成功していく過程がはしょられてるのが残念。そこはしょるんなら、別に映姫様でなくてもよくね? とか思ってしまう。初めて成功した時のエピソードくらいは見たかった感。
ていうか文さんあんた『閻魔をからかって面白おかしい記事が書ければ』って動機でよく十王と交渉出来たな。少なくとも俺はそんな軽い動機でそんな面倒かつ怖いことできねえ。ただでさえ真実を暴く浄玻璃の鏡を持ってる相手だというのに。そこらへんの十王と文のやり取りが気になります。そもそも彼岸の住人相手にどうやって連絡とったのかが謎。
ともあれ、他の方の『三十分アニメの一話完結話っぽい』って感想を見て、そういう見方をしてみれば、なるほどうまく収まってるな、とは思いました。
しぶとく生きておるんじゃよwwwみたいなw
これからも頑張ってください。
えいきっき可愛いなw