「……参ります」
魂魄妖夢が、静かに宣言した。
地に足を着け、深く腰を落とした脇構え。鋭い眼光が、寅丸星を射抜く。
これまでの戦いの中で、一番の覇気。
この次に、勝負を決めてしまうような大技をしかけてくる――そう思わせるに、十分な迫力がある。
「受けて立ちましょう」
星もすくむことなく、妖夢の視線を正面から受け止める。
一瞬の静寂。
その直後、妖夢は摺り上げる太刀を遣い、地を這う波浪のような巨大な剣気を放った。
いや、ただの剣気ではない。
剣気の中に、殺気が混じっている。
きらり、と白刃が光る。八相に構えた妖夢が、剣気を追いかけて、一緒に飛び込んできたのである。
それに対して、星が宝塔を向ける。
いくつもの湾曲した光条が宝塔から放たれ、剣気と妖夢をむかえ撃った。
しかし、剣気の勢いがおとろえても、妖夢は止まらない。捨て身の弾丸となって迫り来る。
星はとっさに宝塔を放し、槍を両手に持ち替えた。
その刹那、響く金属音。
妖夢の剣と、星の槍が交わった。
すると星は、まるで岩なだれがのしかかってきたような錯覚に襲われた。
骨が響き、痺れが走る。
しかし星は踏みとどまった。体は大きくよろけ、踵が土を抉ったが、それでも辛うじて耐えたのである。
――……おかしい。
ねばりつくような剣をとどめているうちに、星は違和感に包まれる。
妖夢は力任せに押し切ろうとするばかりで、引き技や組討、妖術などを仕掛ける気配がない。
……不気味だった。
いままで妖夢は、剛と柔を織り交ぜた変幻自在の剣を遣ってきた。それなのに、この単純過ぎる撃剣。
悪寒が、心を鷲掴みにした。
だが、こうなってしまっては、星から何か技を仕掛けたりすることもできない。
もともと、武器を使う接近戦は得手ではない。妖夢の剣を、妖獣の膂力で止めるので精一杯なのだ。
と、そのとき、左側から小さな乾いた音がした。
――……そちらが本命か!
その方向を一瞥するや、大きく目を見開き、驚愕に染まる星。
なんと、そこには妖夢がもう一人いた。
おそらく命蓮寺の塀を蹴ったのだろう。兆弾する弾丸のような軌跡を描いて、無防備な側面に迫っていた。
いや、違う。妖夢が二人いるのではない。
殺気にまどわされていたが、目の前で競り合っている妖夢からは、人間の気配がないのだ。
これは、半霊が変化したものだろう。
しかし今さらわかったところで、もう遅い。飛びかかってきた妖夢の”人間部分”が、平晴眼から突きを繰り出す――。
「あっ……!」
敗北を覚悟した星だったが――しかし、なぜか、楼観剣は肩口を三寸ばかり斬り抜いただけ。
妖夢はあきらかに動揺し、一瞬の隙が生じた。
そして、その瞬間を、星は見逃さない。
あえて身を退いて妖夢の”半霊部分”の勢いを受け流し、振り向きざまに妖夢の”人間部分”のみぞおちを貫手で突いたのである。
ふらり、と妖夢が後ずさった。
虚ろな目で、信じられないといった風に、己の剣を見下ろしている。
だが、やがて妖夢の意識は遠のていき、糸が切れたように、小さな体が崩れ落ちた。
◇
……それから小一時間。
視線が集まっているのを感じ、妖夢は少し落ち着かなかった。
ひそひそと話し声も聞こえてくる。
「あいつら大丈夫なのか?」「ちっちゃい子の顔色悪いわよ」だの。ちっちゃいのはともかく顔色は生まれつきだ。ほっといてほしい。
しかし、注目されるのも無理ないだろう。彼女の額は包帯でぐるぐる巻きにされており、傍目には怪我人である。
そして、ここは診療所ではなく、甘味処の店先なのだ。
「さてさて、妖夢さんは何にしますか?
私のおすすめは、お店の名物ジャンボシューですね。濃厚なクリームが口の中いっぱいに広がって、もうたまりませんよ!」
妖夢が通行人の目線を気にしていたとき、弾んだ声で虎柄の装束の人物が言った。
寅丸星である。
妖夢の隣に座り、にこやかに笑いながら顔を覗き込んでくる。
その彼女の装束は肩口がばっさりと切れ、隙間から包帯が覗く。傍目からは、やはり怪我人である。
「……この、つぶあん串団子を」
店先のメニュー表を眺め、しばらく間を置いて考えてから、妖夢が答えた。
にこやかに注文を伝える星の様子を、妖夢は不思議そうに見る。
「なぜ、こんなところに連れてきたんですか?」
いぶかしんで、妖夢が訊いた。
命蓮寺前での決闘が終わり、介抱を受けたあと、急に甘味処へ連れてこられたのである。
「悩んだり迷ったりしたときって、甘いものが欲しくなりませんか?」
「まあ、欲しくなるかも」
「だからここに来たんです。あなたの太刀筋からは、迷いを感じました」
「その理由は?」
「この傷がなによりの証拠ですよ。あなたの刀は本来ならば、もっと致命的な部分を狙っていたはず」
星が肩口の包帯を押さえる。刀傷はすでに快復に向かいつつあった。妖夢の怪我も同様である。
それにしては、いささかおおげさに包帯が厚く巻かれていたが、それは治療した星が不慣れだっただけである。
「……あなたの言う通りです。私は、迷っています」
「その理由を、話して頂けませんか?」
「なぜ?」
「もしかしたら、お力になれるかもしれませんし」
妖夢が疑わしげな目でにらむ。
「怪しいわね。宗教勧誘かしら?」
少し前まで、宗教家たちは信仰を賭けて派手に闘っていたのである。それはもう、おにぎりの消耗が激しい闘いだった。
「いえいえ、違いますよ。ちょっとしたお節介です」
星が苦笑する。人当たりの良いはにかみからは、邪気が感じられない。
妖夢は少しだけためらったが、根負けして話すことにした。
「……そうですね。まだお寺に行け、と言われた意味もわからないし……聞いて頂けますか?」
発端は数刻前の白玉楼にさかのぼる。
妖夢の主、西行寺幽々子は最近だらけていた。よくあることだが、今回はだらけ具合がひどい。まさしく食っちゃ寝であった。
それを見かねた妖夢は、剣術指南と称して中庭に連れ出すことにした。
「妖夢の剣は、純粋よねぇ」
幽々子がそのように言ったのは、ちょうど、妖夢がお手本として、さまざまな構えから技を見せたあとのことである。
たとえば、正眼からの基本に忠実な剣術から、刀身を隠した陰剣からの不意の一撃まで。
自分でもなかなか上手くできたと思ったが、はて、純粋とは?
「それは、どういう意味ですか?」
「なんというか……昔の妖忌に似ているわ。妖忌の剣術も、とても純粋だったから」
祖父に似たと言われれば、悪い気はしない。
妖夢にとって祖父は目標であり、憧れである。わずかでも祖父の背中に近づけたのかな、と誇らしく思う。
「でもねぇ、妖忌は剣術について悩んでいたわ」
「どんな悩みですか?」
「この剣で本当に使命を果たせるのか。いやいや、あるいは、他の方法もあるんじゃないかって」
幽々子は語る。
妖忌が目指していたのは、言うなれば万能の剣であった。
斬る、突く、打つ。様々な戦法を遣える太刀を武器とし、そこに妖術を組み合わせる。
そして、正攻法から搦め手まで、多岐に渡る戦術を駆使して戦うのだ。
「妖忌は生真面目だったからねぇ」
だが、いくら鍛えても鍛えても、妖忌は満足しなかった。
万能を目指した剣術と言えど、真の万能には程遠い。これが通用しない敵が現れたらどうする。
そうなれば、西行寺に仕える者の役目を果たせないかもしれない。
ならば、剣術以外の手立てを探すか――いやいや石臼芸は役に立たぬ。
ときに妖忌は、そんな苦悩を漏らしたという。
「お師匠様はその答えを見つけたのですか?」
「見つけたかもしれないし、見つけられなかったかもしれない」
「つまり、わからないと」
「口下手だったからねぇ。妖夢はどう思う?」
と、幽々子に問われて、妖夢は答えに窮した。
妖夢の考え方は、幽々子が語る昔の妖忌のそれと変わらない。
あくまで剣術は戦闘技術。
従者の役目を果たすための手段である。
だが、それが通用しない場合などは、一度も考えたことがなかった。
「それは……」
言葉に詰まり、楼観剣を見下ろす。
しかし、水に濡れたような刀身が映し出すのは、きつく唇を結んだ己の表情のみ。
「迷ってるのね。うん、この上なく迷ってる表情よ妖夢」
「お恥ずかしい限りです」
うつむき眉を寄せる妖夢の肩に、幽々子は優しく手を置いた。
「そういうときは……そうね、お寺とか行ったらいいんじゃない?」
ゆらりと妖夢が顔を上げた。
幽々子の言葉の意味はわからない。だが、いつも真実を突く。
寺に行けばきっと何かわかる。何も確証はなかったが、妖夢は疑うことなく、そう信じ込んだ。
「幽々子様、私はお寺に参ります」
「あらそう。じゃあ剣術指南の稽古はお開きね。解脱しない程度にがんばってらっしゃい」
決心して飛び立とうとする妖夢を、幽々子はとても良い笑顔で見送ってくれた。
それは、屈託のない、花のような笑顔だった。
励まされている。
そう思った妖夢は、不甲斐ない己に憤りを感じた。そうして一刻も早く迷いを断ち切るべく、寺を訪れたという。
「それが寺に来た経緯ですか?」
「はい」
「では寺に来るなり、決闘を申し込んできた理由は……?」
「何事も斬ればわかる。真実は斬って確かめる。それが師の教えだからです」
妖夢は真顔で言い切った。
だからといって、藪から棒に、弾幕ごっこ(ほとんど白兵戦だったが)を挑んできたのは何か違う気がするが……。
ひとまず、そこには触れず、星は黙っておくことにした。
それよりも、気になることがあった。
無明(迷い)を智慧で破るは仏の道であるが、それは生きる上でのこと。妖夢が言うような剣術の悩みは、また別物である。
その主の言動は、突飛もなく、かなり違和感を覚えるし……。
(……もしかして稽古が面倒だから、妖夢さんを言い包めて寺へ行くように誘導したとか、そういうオチじゃないですよね)
そのとき、白玉楼でくしゃみの音がしたことは、星も妖夢も知らない。
「そのときの疑問が、剣を曇らせ、距離感を誤らせたのでしょうか……」
妖夢は鎮痛な面持ちで、力なく語る。
それを見て、邪推をしている場合ではない――と、星は思考を切り替えた。
「なるほど、妖夢さんの悩みは、警護役……いえ、誰かを守ろうと考える者なら、誰もが考えることでしょう」
星もまた、そういった懸念を何回も抱いてきたので、その悩みは理解できる。
しかも、それで一度あやまちをおかした身だ。
そんな自分に、こんなことを言える資格があるのか――と、一瞬、逡巡したが
「そうなったとき、私ならみんな一緒に逃げる手立てを講じますけどね。……その結果、こだわりや立場を捨てることになったとしても」
苦笑まじりに、星はそう答えることにした。後半の台詞は、笑っていなかったが。
「それは……怯懦にすぎませんか?」
確かに身命を第一に考えれば、それがもっともである。
しかし、あまりにも意気地がない。
幼い頃から師より剣術を学び、今なお稽古を絶やさない妖夢からすれば、臆病者の発想に映る。
「いいんです。私はどんな形であれ、守りたい人を守れたら、それで構いません」
それでも、星はきっぱりとそう言い切った。
例え臆病者と後ろ指を差されても構わない。そんな、頑固なまでに強い意志が伺える。
「そういう考えも、理解はできますが……」
「納得はできませんか?」
「はい」
「まあ、これは私の至った結論ですからね。うーん……」
星は穏やかに答え、考え込むように腕を組む。
と、そのとき、注文していたシュークリームと団子を、割烹着の店員が届けてくれた。
作りたてなのだろう。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ひとまず食べましょう」という星の勧めに従い、妖夢は団子に噛りついた。つぶあんの甘さが舌の上で溶け、団子の食感が弾む。
なるほど、甘いものを食べると、気分が落ち着く。
「話を戻しますが」
ぺろり、と口の周りについた乳白色のクリームを舐め取りながら、また星は妖夢の顔を覗き込んだ。
「では、中庸を行くのはいかがですか?」
「中庸?」
「我々にとって、大切な考え方の一つです。過不足なく偏りない様……と、言うは易しですが、実際はとても難しい」
星は一旦、言葉を切った。
そして、これからが本番だ、と言いたげに声に力を込めた。
「妖夢さんの場合で言えば、剣術も怠らず、鞘の内の努力も怠らず、ということになりますか。
しかし、中庸とは中途半端という意味ではありません。当然それは、どちらか片方に偏るよりも、はるかに困難な道でしょうね」
妖夢は、腰の刀に視線を落として、しばらく沈黙していた。
だが、やがて顔を上げ、
「中庸を行く……。確かに、私にはそっちのほうが合っているようですね」
さきほどまでの沈痛な表情ではなく、吹っ切れたように覚悟を感じさせる顔つきになって、妖夢は答えた。
それに星が頷いて応え、自分の胸をどんと叩く。
「そうそう、最後に物を言うのは心ですよ。精神を鍛えることも忘れずに」
「精神論ですか」
「ええ、精神論です」
どこか呆れた口調の妖夢に対し、星は押し被せるように言って、力強くまた頷いた。
恥ずかしい台詞だ。
でも、こういうことを言える真っ直ぐなところが、この寅丸星の強みなのかもしれない――。
「あ、ちなみに命蓮寺では精神鍛錬にもなる妖怪向けの法会が二十一日に……」
「それは結構です」
だが、宗教勧誘はしっかり断る妖夢だった。
それから、二人は人里をぶらぶらしながら、談笑を楽しんだ。
星はよく話を聞き、色んな悩みや相談に乗ってくれたので、妖夢の気持ちはずいぶん軽くなった。
幽々子様は、これが狙いだったのだろう。このときになって、ようやく意味がわかった、と妖夢は思った。
「さあ、幽々子様! 今日もみっちり稽古しますよ!」
その後、白玉楼に戻った妖夢は、今まで以上にはりきって剣術指南の役目に臨むようになった。
毎日のように稽古がおこなわれ、幽々子の遊惰な食っちゃ寝生活は終わりを告げた。
幽々子はちょっと悔やんだ。
お寺ではなく、神社にでも行かせるべきだった――と。