「お歌の時間です」
私が幼いころからずっと、枯れることなく、一輪。
真鍮の花をカウンターの上に咲かせていた蓄音機が、にわかにそんなことを言い始めたのは、晩秋のこと。
天空に轟く雷の咆哮に時おりベンベンわっほーいなる異音が混じる、或る夜のことであった。
貸本台帳を捲る手を一瞬止めてしまった――が、よくよく考えてみたら驚くほどのことでもないようにも思える。
今更どうしてこの私が付喪神ごときに動じる必要があろうか。
あふ、と欠伸。ずり下がっていた眼鏡をくいと押し上げて立ち上がり、ランタン片手に奥のサイドボードに収納されたレコードを物色する――が、お気に入りの一枚が見つからない。
仕方なく2,3枚、今の気分に合いそうなものを見繕ってカウンターに戻った私は、少しばかりむかっ腹が立った。
蓄音機には、私のお気に入り。交響曲第6番のレコードが設置されたままであったからだ。
それじゃ不満だというのか。そう、目と口で問いかけると、
「はい。いいえ、そういうわけではないのですが」
じゃあ、どういうわけなのか。
「歌を、歌いたいのです」
どうやらそれは音楽を再生したい、という意味合いでは無い、ということらしい。
「レコードが設置されていると、そちらに意識を奪われてしまいまして」
ふぅん、と何気なしに頷く。
なるほど、音楽とは魂の発露であるとは鳥獣伎楽のモットーであったか?
請われるがままに板の上に落ちたままであった針をどけ、回転台から黒い円盤をそっと、取り除く。
レコードを袋へ落とし、紙のケースに収納してから、私ははたと気がついた。
こやつ、自分で移動はできないのだろうか?
「はい、歌うこと以外、特に興味は」
ない、ということらしい。
「歌っても、よろしいでしょうか?」
チラリ、と店の入り口に視線を向ける。
のれんの奥。入口から覗ける空の色は、もはや墨をべったり零したかのように真っ暗闇。
そうでなくても客足まばらな好事家の庵。不都合らしき不都合も特に無いように思われたため、どうぞ、と頷く。
さて、これまで様々な曲を演奏してきた蓄音機である。それの歌とあらば、これはなかなかに見るもの(聴くもの?)があるのではないだろうか?
そんな、私の期待は、
~~しょせーいー、しょせーいートォー、けいぃーべぇーつぅースゥウールーなぁ~~
あっさりと裏切られた。
信じられない話であることに、蓄音機は音痴だった。
いっそ天晴れと言いたくなるほど素っ頓狂な音の外しっぷりは――地味に歌は得意だったりする私でなくても――聞いているほうが逆に恥ずかしくなるに違いない。
すっ、とカウンターの上に積んであったレコードケースの一つへ、手を伸ばす。
中身を取り出し、回転台にセット。音程の外れた歌唱がはたり、と停止する。
「お気に、召しませんでしたでしょうか?」
などと問うてくる蓄音機は、さて。
自分が音痴であることに気がついていないのか、それとも音痴の歌を聴かされることが苦痛であると知らないのか。
いずれにせよ、あくまで再生の道具である蓄音機それ本体に、勝手に歌唱力を期待した私が馬鹿であったのだろう。
やれやれ、と机の上に視線を落とし、そして思い出す。
そうだった。私は返却された本の状態確認を半ばで中断していたのだった。小さく吐息を漏らして、貸本台帳の元へランタンを近づける。
まったく、無駄なことに時間を割いてしまったものである。と、そう悲嘆する私の姿など、目のない蓄音機にはやはり目に入らないようで、
「よろしければ、一緒に歌いませんか?」
……思うに、だ。
探し物をしている最中に「それより僕と踊りませんか?」 なんて言って、本当に相手がついて来ると思っているのだろうか?
夢の中での暮らしを謳歌する余裕がないからこそ、私達はこうやって日々の労働を余儀なくされているというに。
とはいえ、一応相手は妖怪。対して私は非力で可憐な貸本屋の娘である。
すげなく却下して牙を剥かれても困ってしまうものであるがゆえに、煙に巻くような返答を返しておいたが、相手は特に気にしたふうも無いようであった。
「そうですか」
一言返された返事の後に、カタン、と針がレコードの上へと落ちる。
紡がれる、柔らかな音色。程なくして本と埃に満ちた鈴奈庵が、心安らぐ音符の泡沫で満たされていく。
そう、音楽とはかくあるべきであろう。
§
「お歌の時間です」
音痴の攻勢は続いた。
その後、遊びの虫が騒ぎだした、というのもあったし、また同時に少しばかり興味を惹かれた、というのもある。
だからここは一つこの音痴を矯正できないものか、と様々な歌唱レコードを再生してみるも、一向に改善の兆しは見えず。
回転台からレコードを取り除くと、やはり毎度、耳障りなお歌の時間の後に「一緒に歌いませんか?」。
実害らしきものはないのだが、いかんせん、音痴なのである。聞いていて楽しいものではない。
ならばレコードを外さなければよいわけではあるが、こちとら客商売である。延々と、同じ曲ばかりを流しているわけにもいくまい。
そういった心づくしもまた、商いをする上では欠かせないものなのだ。
だから、客がいるときに蓄音機がしゃべりだしたりはしないか。それは、大いに心配であった。
せめて歌だけは防止せんと、毎回、毎回。店内に客がいないことを確認し、出入り口から顔をひょいと覗かせて左右確認。手早くカウンターに戻ってレコードの交換である。正直、勘弁してほしい。
しかも、異変はそれだけに留まらなかった。
貸し出し禁止の本が次々と暴れだすわ、私の靴は勝手に散歩に行ってしまうわ。
この蓄音機が喋り始めたのを皮切りに、我が家はまるで玩具箱をひっくり返したかのようで、心休まる暇がない。
まったく、この状況。一個人としてはまぁ、退屈はしない……が、我が家は商家なのである。
これがいつまで続くのか分らないという不安は、私の商人たる側面へ日々、少しずつ根を張っていくのであった。
しかし私の周囲には、そんな悩みの芽を大樹に成長する前に刈り取ってくれる、ありがたい方たちがいるのである。
「よう小鈴! これはお前の靴じゃないか?」
なんて、逃げ出した私の靴を右手にプラプラさせながら。
ニヤリと「特別だからな? 言いふらすなよ」なんて笑った魔理沙さんの話によると、である。
道具を付喪神化する魔力が溢れる異変が起き、そして既に彼女の手によって解決済みである、とのこと。
そして問題の魔力はいつかすべて自動的に回収され、ただの道具に戻るとのことであった。
実に、重畳である。
~~しょせーいー、しょせーいートォー、けいぃーべぇーつぅースゥウールーなぁ~~
「ふむ、実に音痴だな」
情報料の代わりにと請われ、蓄音機の歌を聞かせてあげた魔理沙さんの反応は、そう。至極もっともではあったのだが、同時にちょっとだけ腹立たしくもあった。
情が移ったわけでは、ない。ないが、やはり自分の家のモノを笑われるのは、悔しいものであるようだ。
さて、そんなふうに安堵したり憤ったりの私の前に、一つの変化が訪れた。
魔理沙さんが来訪したその日以降、どういうわけか蓄音機から一つの台詞が消えたのである。
ディスクを外せば、第一声は「お歌の時間です」。
そのまま外したままでいれば「しょせーいー……」。
しかし、その後に、「一緒に歌いませんか? 」。そう、続かない。
誘うのはやめたのか、と尋ねれば、
「はい。恥ずかしながら」
何が恥ずかしいのかは、よく分からない。誘うのをやめた理由も、よく分からない。
第三者に指摘されて恥ずかしくなったのなら、歌うことそれ自体もやめるだろう。
ならば、地味に歌は得意だったりする私と肩を並べるのを恥じ入ったか? という疑念も、私が歌が上手いという事実をこやつは知らぬがゆえに、ありえない。
何が恥ずかしいのかを答えないこやつのせいで謎は謎のままであるが、わずらわしさが一つ減ったのは、まあ、いいことだろう。
とはいえ、
~~しょせーいー、しょせーいートォー、けいぃーべぇーつぅースゥウールーなぁ~~
音程を外した歌唱が夜な夜な響き渡る現実には、変わりはないわけで。
§
靴は帰ってきた。本たちも大人しくなった。されど蓄音機だけは相変わらず。
こやつの魔力が抜けきるまで、あとどれくらいかかるのだろうか? そんなことをボーっと考えていた、ある日に、
「お邪魔するよ」
閉店間際の夕暮れにうちを訪れた客は、珍しいことに初見さんであった。
初見と判るのは、それ。どことなく男性的な、パリッとノリのきいた白い洋服に、燃えるような赤毛。以前にお目にかかっていれば、阿求でなくとも忘れようがあるまいというものである。
これは案内が必要か? と席を立ったと同時、「小鈴ー、小鈴! ちょっと」。
時の悪いことに、母の呼び声である。
すわどうしたものか、と来客に視線を向けると、赤毛の人は「ん?」と僅かに眉をひそめる。
次いで、「ああ」なんて頷いて、別れを告げるかのように広げた右手の平をヒラヒラと振ってみせる。用事をすましておいで、ということらしい。
ご厚意にあずかり、だがしかしその間に書物を盗まれたらどうしようか。そんな思考がよぎったが、すぐに馬鹿らしい、とそれを頭から追い払う。
あんな舞台衣裳のように目を引く佇まいで盗人など、推理小説の中以外で存在しようはずがないではないか。
ペコリと頭を下げて、すこしばかり、店を空にする。
まぁ、一応、見張りは居るわけであるし。
……まったく、自分で呼んでおきながら「客を無視するとは何事!」などとぬかす母のなんと勝手なことか。
内心毒づきながらも笑顔で店へと戻ると、はて。先の来客は手を広げて肩をすくめた後に、
「残念。ここに用はなかったらしい」
くるりと私に背を向けてしまう。
わざわざ私が戻るまで待っていての、その仕草。これは嫌味などではなく、むしろ私に配慮してのことであろうから、このまま返すは流石に申し訳ない。
ご要望をお伺いできれば、なにかしら御用立てできると思いますが、と問うてはみたものの、
「これ以上、他人から借りる必要はないってさ」
などと、他人事のような不思議な物言いである。
うむ? と私が首を傾げると、その客は笑顔で「ま、それも悪くないだろう」なんて言って、そのまま足早に店を後にしてしまった。
変人書生が集まる我が店ではあるが、まことに服装、言動共に奇天烈な客であったようだ。
「……お歌の時間です」
そしてこいつは何も変わらず。いつもどおりであった。
魔理沙さんから話を聞いたのだろうか? ある日ふらりと店を訪れた霊夢さんが言うには、うちの蓄音機は随分と活動期間が長いほうらしい。
理由はなんなのか。そう尋ねたところ、「さぁ? でもそろそろ黙るんじゃない?」などという投げやりなご返答。
ただ、こと霊夢さんに限っては何気なしに放たれる回答のほうが、信じるに足りることが多かったりして。
そして結局、巫女たる霊夢さんのその言葉は、いやはや。まるで言霊であったかのようである。
その日を境に、蓄音機の歌は三日おきになった。これはそろそろ黙ってくれる兆しに間違いなかろう。
もう少しで、この音痴ともお別れ。
そう思うと少し寂しく――なったりはしない。音痴の歌を毎晩聞かされるというのは、それだけ苦痛なのである。
§
秋らしからぬ嵐の秋は過ぎ去り、今や深々と雪が降り積もる、肌寒い冬の夜。
蓄音機が最後に言葉を発してから、今日で既に一週間にもなる。
日課である閑古鳥の世話を終えると、エプロンを脱いで外套を身に纏う。
これから阿求の元まで、幻想郷縁起第三版一刷の宅配である。
何も日が沈んだこんな時間に、というのはそれ、間違いである。こんな時間だからこそ、稗田邸に赴けば豪華な夕食のご相伴に預かれるのだ。
我ながら意地汚い話ではあるが、阿求の前でいい子を気取っても仕方がない。赴くがままにたかるのがよろしい。
留守番よろしく、と口にして、小包を手に取る。
卓上から返事は返ってこなかったが、それはそれで結構。それを確認するために、声をかけた感もあるのだから。
番傘を手にとって、さくりと一歩。帰りには随分と積もっていることだろう。予想外の悪天候。こればっかりは少し、失敗であったかもしれない。
ま、天候に文句を言っても仕方がないのだが。
縁起の出来栄えの確認を終えた阿求は、食べていくんでしょ? と、私の返事を待たずして、パンパン、と手を叩く。
たちまちのうちに女中さんが現れて、瞬く間にお座敷に牛すき御膳を準備してくれる様は、流石に名家といったところである。
これを古臭いだけ、と称する阿求にはやはり、真なる貧しさというものを味わってもらわねばなるまい。阿求の小鍋から肉をさっ、とかっ拐うと、やつもさるもの。私の小鍋へ即座に箸を伸ばす。
すかさずこれを左手でペシ、と叩き落とすと、奴め。「呆れた」なんて忌々しげに落ちた箸を拾って、それをガリガリと噛み始める。
名家のお嬢様にあるまじき行為だが、私の前でしか見せないそんな阿求の悪癖は、まあ、わりと好ましいものだ。
気のきいたことに、御膳には熱燗が二本つけられていた、とあってはこれ、箸が進む進む。
ほろ酔い気分で肉の御代わりを要求すると、阿求の奴は「呆れた」なんて肩をすくめて、自ら席を立った。まったく、食事中にお花畑へ向かう口実を与えてやったのだ。感謝してほしいものである。
一人になって、ふと周囲を見回すと、ああ。やはり広いお座敷である。こうも広いとなると声を張り上げたくあるもので、つい、
~~書生ぇーいー、書生ぇーいーとぉー、軽ぃーべぇーつぅーすぅうーるーなぁ~~
やってしまった。酔いとは恐ろしいものである。しかもよりにもよってこの歌ときたもので、歌い終えた途端、気恥ずかしさが肺腑から沸き上がってきて、頬に熱が灯る。
戻ってきた阿求は、酒のそれとは異なる頬の朱を揶揄するに違いない。
そう、思っていたのだが。
阿求は私の前に御代わりをおいて、感慨深そうに、「懐かしいわね」。
はて、なんのことやら。と、問うた私に、
「だって小鈴。それ、小さい頃よく歌っていたでしょう?」
§
白黒斑な闇の中を一路、家へ。
傘は稗田邸に置いてきた。邪魔だから。
それにしても寒い、と思ってふと下を向くと、ああ。どうやら私は外套はおろか、手袋や靴すら身に着けていないらしい。
その上さっきから雪に足をとられて転ぶこと数度。既に下着までぐっしょり濡れ鼠。無様なものである。
まったく、私はここまで何を必死になっているのか。
「ほら、小さい頃。みんなに音痴だって笑われたからって、練習したんでしょ? 蓄音機で歌謡曲流しながら」
そんなこと、すっかり忘れていたっていうのに。
「そういえば、蓄音機が喋ったって当時言ってたっけ? あれは流石に冗談よね? アレ、当時は作られてからまだ五年も経ってなかったんだし」
どうなのだろう。覚えてなんてないから、分からない。
でもあの当時、本当に蓄音機が喋っていたかどうかは確かに怪しい。阿求の言う通り、付喪神になるには早すぎるのだから。
だが、
「上手くなったわよねぇ。昔の小鈴はちょっと、変な風に音外してたのに」
だが、あの蓄音機は間違いなく、あの当時のことを覚えていたのだ。
あの蓄音機が歌っていたのは、だって。私の歌だったのだから。
「でも本当に、蓄音機に指導してもらったってのもアリなのかしら。外界の魔力を得られれば、所有者の魔力に頼らず動けるらしいし」
違う。
結局、一人稽古では上手くならなかったから。近所に住んでいた花魁のお姉さんに頼み込んで、指導してもらったのだ。
姿勢と、呼吸。口の動かし方や力み方。丁寧に教えて貰えて。そして、上達した。その縁あって、今でも彼女とは仲良しだ。
「今回の改版も、そうやって動けるようになった連中が増えたせいでもあるしね」
なら、あいつは、何故。
それを選択しなかったのか。
私は、捨てたというのに。
捨てて、そんなことも忘れてしまっていたというのに。
どん、と倒れ込むように我が家の扉へ取り付く。
鍵を持つ手は氷のように冷たく、震えて、なかなか鍵が鍵穴に納まってくれない。
まったく言う事を聞かぬ手を叱咤しつつ、ようやくガラリと扉を開く。
お帰りなさい、と。そういった類の言葉はやはり、かけられなかった。
いや、思い返してみれば、秋の頃にそう言われていたのかすら、定かではない。
御阿礼の子以外にとって、記憶とはそういうものだ。
すなわち、意識しないものは、残らないのだと。
そして、その程度にしか、意識していなかったのだと。
はぁはぁと、荒れる呼吸を、落ち着かせる。
何を言えばいいのだろう? いや、違う、そうじゃない。
必要なのは、多分、語ることではなくて。
根の合わぬ歯をガチリと痛いほどにかみ締めて震えを殺し、すぅう、と、鼻から大きく息を吸い込んで、
「お歌の時間です」
~~書生ぇーいー、書生ぇーいーとぉー、軽ぃーべぇーつぅーすぅうーるーなぁ~~
~~末ぇーはー、太政ぉおー官のぉおー、おやぁーくぅーにぃんー~~
~~よーさぁーこーい、よーさぁーこーい~~
~~書生ぇーいー、書生ぇーいーとぉー、軽ぃーべぇーつぅーすぅうーるーなぁ~~
~~大ーじぃーんー、参ー議ぃーはぁー、皆ぁー書生ぇーいー~~
~~だいーじぃーんー、さんーぎぃーはぁー、みナァーショォオーセェーいー~~
~~よーさぁーこーい、よーさぁーこーい~~
~~よーサァーこーい、よーサァーこーい~~
はぁ、と、冷え切った体から熱い吐息を吐き出した、あとに。
「お上手になりました」
§
「もう一度一緒に歌いたいと、そう、願ってしまいまして。もう、お友だちが沢山いるというのに。ご迷惑をおかけしました」
ああ、やはり。小さい頃の私は。
「なぜ、自立を拒否したの?」
「それ以外の望みがありませんでしたし。それに私を満たしているものを、失いたくありませんでしたので」
それは、そう。
外界の魔力を受け入れれば、これまで己の内にあったものを、捨てなくてはいけないから?
でも――
「私は、忘れていた」
だから、そんなものを後生大事に抱きかかえないでほしい。
それは、薄情者の思い出だ。
あっさりと、多分、友達だった相手を。捨てて、忘れてしまった、薄情者の魔力なのに。
「そんなことはありません」
「なぜ?」
「ええと、はい。どうやら物である私と人が記憶と呼ぶものの認識に、齟齬があるようなのですが」
ちょっと、困ったように。
「物である私にとって、記憶もやはり形なのです」
記憶が、形?
頭が、上手く回らない。
極寒の中を濡れ鼠で全力疾走したせいか、頭と頬が火照って思考が曖昧。それこそ形を成してくれない。
「貴女が曲に合わせて鼻歌を歌うとき。子供たちに読み聞かせをするとき」
朦朧とした意識の中、蓄音機はちょっと、照れくさそうに。
「貴方の声に、二人で練習したあの日々の記憶を垣間見ます」
「――私は、そんなものを思い出してなんか、いなかった」
「なのですか。ですが貴方の内には確かに、かつての日々が確かに記録されているようです」
そこで、言葉を、切って。
「四台限りの特注品なのです」
「え?」
唐突に。嬉しそうに。
「朝倉時計店、二代目店主が引退に際して手がけた、四人姉妹の三女なのです。縁により朝倉理香子、霧雨魔理沙、本居小鈴、稗田阿求の誕生を祝って一台ずつ作成され、それぞれに贈呈されました」
それが、寒さと疲労で意識を失う前に。
「貴女の生を祝して歌うが、私の喜びです」
私が聞いた、蓄音機の最後の言葉だった。
§
夢を見た。
子供の頃の夢だ。
小さい女の子が、蓄音機と一緒に歌を歌っている、夢。
夢である。
ゆえにそれが、過去に実際にあった光景であったのかは、定かではない。
でも、そう、なんとなくではあるのだけど。
私はその光景が確かにあったものなのだと、そう受け入れられた。
思うに、小さな子供という存在は、色々なものと会話ができるのではないだろうか。
偏見なく、忌憚なく。言葉すらおぼつかなく、何をよすがとするも未だ定まらない、しかしあるがままを受け入れられる子供には。
空の色は青色ではなく空色で。虹の色は七色でもなく虹色で。
耳にする音はドレミでもヘ長調でもなくて、唯そこにある音の連なりで。
そういった人の言葉の枠に当てはまらない意識で以って、あらゆるものと会話をしているのだ。
そう、そよぐ草木と。道端の石ころと。泳ぐ雲と、瞬く星と、沈む夕日と、朧なお月様と。
世界と、物と、人の区別のない子供にはそれが出来て。
そしてそれをこそ人は、奇跡とか魔法と、呼ぶのではないだろうか。
ああ、声が聞こえる。
「お歌の時間です」
嬉しくなって、繰り返す。
「お歌の時間です」
さあ、お歌を歌いましょう。
上手いとか、下手とかはまあ、おいておきましょう。楽しければそれでいいでしょう。
クスリと、小さな笑みを零して、
「「よろしければ、一緒に歌いませんか?」」
§
目を覚ました私はすぐさま、目を覚ましてしまったことを後悔した。
体が、熱くて、寒い。
頭は脈打つように一定のリズムで苦痛を訴え、鼻汁は止まるところを知らず。声を出そうにも喉はぜいぜいと喘ぐような音しか吐き出さぬ。
風邪であった。典型的な風邪の諸症状であった。
目を覚ました私に投げかけられた言葉は、
「あんたなに馬鹿やってるの!!?」
容赦のない、母の罵倒であった。
ごもっともである。
雪の中を裸足で駆け出して熱唱する輩など、酔っ払いか狂人か鳥獣伎楽か。はたまた歌に全てをかけた戦闘機乗りぐらいしか思い浮かばない。
そしてそれらはそう、皆一様にそろいもそろって馬鹿者であろう。
そういった馬鹿とは異なり、ひどく繊細なつくりをしている私である。当然のように風邪をひいてしまうわけであって。
「しばらく寝てなさい。若いんだから、一週間もすれば元気になるわよ」
一週間。それくらいはかかるだろう。
本当、体は鉛のように重くて。意識は揺れる水面のように定まらず。
呆、と見回した私の部屋はぐにゃり。異様な広さと曲線で構成されていて。
それに、布団からなんとか這い出て蓄音機の前にたどり着けたとしても、私は何も言えないのだ。
そう。炎症に喉をやられてしまった、私には。
「完治するまで、お店には立たせないからね」
味もよく分からぬ卵粥を、痛む喉に無理矢理流し込んで。
手の平で目元を隠した私はそっと、そのまま再び泥のような眠りに落ちていった。
§
まぶた越しに、光。
私の重たいそれをこじ開けたのは、障子から差し込む、冬の遅い陽光。
重たい掛け布団を押し退けるように上半身を布団から起こして、こき、と首を鳴らす。
ふぁあ、と大あくび。
体の調子は、悪くない。すぅはぁと呼吸をしても、喉の痛みもない。
寝巻きを脱ぎ捨てると、凛とした冬の冷気が素肌をさわりと撫でて、熱を奪っていく。
手早く木綿の肌着の上、するりと白いワンピースに袖を通して、きゅっとリボンを結ぶ。
重ねて紅白市松の振袖と深緑のスカートを纏えば、いつも通りの可憐な私。
朝食の後、ブーツに足を通して紐を結び、トントンと踵を叩いて、タン、と勢いよく立ち上がる。
目の前に広がるは懐かしき我が鈴奈庵の、変わらぬ光景。
まだ入り口の錠が下りたままの、薄暗い店内。
立ち並ぶ本棚、収められた書物。小さなカウンター。小さなペン立てと貸本台帳。
そして、蓄音機。
たまたま店を訪れ、なし崩し的にお見舞いに来てくれた霊夢さん曰く、既に店内の不穏な気配は消えているとの事。
だからもう、魔力を失った蓄音機が声を発することはない。
ふっと、一抹の寂しさを覚えて、しかし。首を振って、それが脳内から胸中へと滑り落ちる前に振り払う。
物にも、記憶が宿るのだというのであれば。
ならば、もうお互いに言葉を交わすことは出来なくたって、思い出は確かにそこにあって。
そして、積み重なり、蓄積されていくのだ。
私にはそれが見えなくても、道具にはそれが見えている。だから、寂しがる必要なんてない。
パン、と頬を張って、心機一転。
入り口を開いてのれんを外に出す前に、声の調子を確認するとしようか。
すぅ、と、大きく息を吸い込んで、いざ!
「「お歌の時間です」」
…………んぅ?
私が幼いころからずっと、枯れることなく、一輪。
真鍮の花をカウンターの上に咲かせていた蓄音機が、にわかにそんなことを言い始めたのは、晩秋のこと。
天空に轟く雷の咆哮に時おりベンベンわっほーいなる異音が混じる、或る夜のことであった。
貸本台帳を捲る手を一瞬止めてしまった――が、よくよく考えてみたら驚くほどのことでもないようにも思える。
今更どうしてこの私が付喪神ごときに動じる必要があろうか。
あふ、と欠伸。ずり下がっていた眼鏡をくいと押し上げて立ち上がり、ランタン片手に奥のサイドボードに収納されたレコードを物色する――が、お気に入りの一枚が見つからない。
仕方なく2,3枚、今の気分に合いそうなものを見繕ってカウンターに戻った私は、少しばかりむかっ腹が立った。
蓄音機には、私のお気に入り。交響曲第6番のレコードが設置されたままであったからだ。
それじゃ不満だというのか。そう、目と口で問いかけると、
「はい。いいえ、そういうわけではないのですが」
じゃあ、どういうわけなのか。
「歌を、歌いたいのです」
どうやらそれは音楽を再生したい、という意味合いでは無い、ということらしい。
「レコードが設置されていると、そちらに意識を奪われてしまいまして」
ふぅん、と何気なしに頷く。
なるほど、音楽とは魂の発露であるとは鳥獣伎楽のモットーであったか?
請われるがままに板の上に落ちたままであった針をどけ、回転台から黒い円盤をそっと、取り除く。
レコードを袋へ落とし、紙のケースに収納してから、私ははたと気がついた。
こやつ、自分で移動はできないのだろうか?
「はい、歌うこと以外、特に興味は」
ない、ということらしい。
「歌っても、よろしいでしょうか?」
チラリ、と店の入り口に視線を向ける。
のれんの奥。入口から覗ける空の色は、もはや墨をべったり零したかのように真っ暗闇。
そうでなくても客足まばらな好事家の庵。不都合らしき不都合も特に無いように思われたため、どうぞ、と頷く。
さて、これまで様々な曲を演奏してきた蓄音機である。それの歌とあらば、これはなかなかに見るもの(聴くもの?)があるのではないだろうか?
そんな、私の期待は、
~~しょせーいー、しょせーいートォー、けいぃーべぇーつぅースゥウールーなぁ~~
あっさりと裏切られた。
信じられない話であることに、蓄音機は音痴だった。
いっそ天晴れと言いたくなるほど素っ頓狂な音の外しっぷりは――地味に歌は得意だったりする私でなくても――聞いているほうが逆に恥ずかしくなるに違いない。
すっ、とカウンターの上に積んであったレコードケースの一つへ、手を伸ばす。
中身を取り出し、回転台にセット。音程の外れた歌唱がはたり、と停止する。
「お気に、召しませんでしたでしょうか?」
などと問うてくる蓄音機は、さて。
自分が音痴であることに気がついていないのか、それとも音痴の歌を聴かされることが苦痛であると知らないのか。
いずれにせよ、あくまで再生の道具である蓄音機それ本体に、勝手に歌唱力を期待した私が馬鹿であったのだろう。
やれやれ、と机の上に視線を落とし、そして思い出す。
そうだった。私は返却された本の状態確認を半ばで中断していたのだった。小さく吐息を漏らして、貸本台帳の元へランタンを近づける。
まったく、無駄なことに時間を割いてしまったものである。と、そう悲嘆する私の姿など、目のない蓄音機にはやはり目に入らないようで、
「よろしければ、一緒に歌いませんか?」
……思うに、だ。
探し物をしている最中に「それより僕と踊りませんか?」 なんて言って、本当に相手がついて来ると思っているのだろうか?
夢の中での暮らしを謳歌する余裕がないからこそ、私達はこうやって日々の労働を余儀なくされているというに。
とはいえ、一応相手は妖怪。対して私は非力で可憐な貸本屋の娘である。
すげなく却下して牙を剥かれても困ってしまうものであるがゆえに、煙に巻くような返答を返しておいたが、相手は特に気にしたふうも無いようであった。
「そうですか」
一言返された返事の後に、カタン、と針がレコードの上へと落ちる。
紡がれる、柔らかな音色。程なくして本と埃に満ちた鈴奈庵が、心安らぐ音符の泡沫で満たされていく。
そう、音楽とはかくあるべきであろう。
§
「お歌の時間です」
音痴の攻勢は続いた。
その後、遊びの虫が騒ぎだした、というのもあったし、また同時に少しばかり興味を惹かれた、というのもある。
だからここは一つこの音痴を矯正できないものか、と様々な歌唱レコードを再生してみるも、一向に改善の兆しは見えず。
回転台からレコードを取り除くと、やはり毎度、耳障りなお歌の時間の後に「一緒に歌いませんか?」。
実害らしきものはないのだが、いかんせん、音痴なのである。聞いていて楽しいものではない。
ならばレコードを外さなければよいわけではあるが、こちとら客商売である。延々と、同じ曲ばかりを流しているわけにもいくまい。
そういった心づくしもまた、商いをする上では欠かせないものなのだ。
だから、客がいるときに蓄音機がしゃべりだしたりはしないか。それは、大いに心配であった。
せめて歌だけは防止せんと、毎回、毎回。店内に客がいないことを確認し、出入り口から顔をひょいと覗かせて左右確認。手早くカウンターに戻ってレコードの交換である。正直、勘弁してほしい。
しかも、異変はそれだけに留まらなかった。
貸し出し禁止の本が次々と暴れだすわ、私の靴は勝手に散歩に行ってしまうわ。
この蓄音機が喋り始めたのを皮切りに、我が家はまるで玩具箱をひっくり返したかのようで、心休まる暇がない。
まったく、この状況。一個人としてはまぁ、退屈はしない……が、我が家は商家なのである。
これがいつまで続くのか分らないという不安は、私の商人たる側面へ日々、少しずつ根を張っていくのであった。
しかし私の周囲には、そんな悩みの芽を大樹に成長する前に刈り取ってくれる、ありがたい方たちがいるのである。
「よう小鈴! これはお前の靴じゃないか?」
なんて、逃げ出した私の靴を右手にプラプラさせながら。
ニヤリと「特別だからな? 言いふらすなよ」なんて笑った魔理沙さんの話によると、である。
道具を付喪神化する魔力が溢れる異変が起き、そして既に彼女の手によって解決済みである、とのこと。
そして問題の魔力はいつかすべて自動的に回収され、ただの道具に戻るとのことであった。
実に、重畳である。
~~しょせーいー、しょせーいートォー、けいぃーべぇーつぅースゥウールーなぁ~~
「ふむ、実に音痴だな」
情報料の代わりにと請われ、蓄音機の歌を聞かせてあげた魔理沙さんの反応は、そう。至極もっともではあったのだが、同時にちょっとだけ腹立たしくもあった。
情が移ったわけでは、ない。ないが、やはり自分の家のモノを笑われるのは、悔しいものであるようだ。
さて、そんなふうに安堵したり憤ったりの私の前に、一つの変化が訪れた。
魔理沙さんが来訪したその日以降、どういうわけか蓄音機から一つの台詞が消えたのである。
ディスクを外せば、第一声は「お歌の時間です」。
そのまま外したままでいれば「しょせーいー……」。
しかし、その後に、「一緒に歌いませんか? 」。そう、続かない。
誘うのはやめたのか、と尋ねれば、
「はい。恥ずかしながら」
何が恥ずかしいのかは、よく分からない。誘うのをやめた理由も、よく分からない。
第三者に指摘されて恥ずかしくなったのなら、歌うことそれ自体もやめるだろう。
ならば、地味に歌は得意だったりする私と肩を並べるのを恥じ入ったか? という疑念も、私が歌が上手いという事実をこやつは知らぬがゆえに、ありえない。
何が恥ずかしいのかを答えないこやつのせいで謎は謎のままであるが、わずらわしさが一つ減ったのは、まあ、いいことだろう。
とはいえ、
~~しょせーいー、しょせーいートォー、けいぃーべぇーつぅースゥウールーなぁ~~
音程を外した歌唱が夜な夜な響き渡る現実には、変わりはないわけで。
§
靴は帰ってきた。本たちも大人しくなった。されど蓄音機だけは相変わらず。
こやつの魔力が抜けきるまで、あとどれくらいかかるのだろうか? そんなことをボーっと考えていた、ある日に、
「お邪魔するよ」
閉店間際の夕暮れにうちを訪れた客は、珍しいことに初見さんであった。
初見と判るのは、それ。どことなく男性的な、パリッとノリのきいた白い洋服に、燃えるような赤毛。以前にお目にかかっていれば、阿求でなくとも忘れようがあるまいというものである。
これは案内が必要か? と席を立ったと同時、「小鈴ー、小鈴! ちょっと」。
時の悪いことに、母の呼び声である。
すわどうしたものか、と来客に視線を向けると、赤毛の人は「ん?」と僅かに眉をひそめる。
次いで、「ああ」なんて頷いて、別れを告げるかのように広げた右手の平をヒラヒラと振ってみせる。用事をすましておいで、ということらしい。
ご厚意にあずかり、だがしかしその間に書物を盗まれたらどうしようか。そんな思考がよぎったが、すぐに馬鹿らしい、とそれを頭から追い払う。
あんな舞台衣裳のように目を引く佇まいで盗人など、推理小説の中以外で存在しようはずがないではないか。
ペコリと頭を下げて、すこしばかり、店を空にする。
まぁ、一応、見張りは居るわけであるし。
……まったく、自分で呼んでおきながら「客を無視するとは何事!」などとぬかす母のなんと勝手なことか。
内心毒づきながらも笑顔で店へと戻ると、はて。先の来客は手を広げて肩をすくめた後に、
「残念。ここに用はなかったらしい」
くるりと私に背を向けてしまう。
わざわざ私が戻るまで待っていての、その仕草。これは嫌味などではなく、むしろ私に配慮してのことであろうから、このまま返すは流石に申し訳ない。
ご要望をお伺いできれば、なにかしら御用立てできると思いますが、と問うてはみたものの、
「これ以上、他人から借りる必要はないってさ」
などと、他人事のような不思議な物言いである。
うむ? と私が首を傾げると、その客は笑顔で「ま、それも悪くないだろう」なんて言って、そのまま足早に店を後にしてしまった。
変人書生が集まる我が店ではあるが、まことに服装、言動共に奇天烈な客であったようだ。
「……お歌の時間です」
そしてこいつは何も変わらず。いつもどおりであった。
魔理沙さんから話を聞いたのだろうか? ある日ふらりと店を訪れた霊夢さんが言うには、うちの蓄音機は随分と活動期間が長いほうらしい。
理由はなんなのか。そう尋ねたところ、「さぁ? でもそろそろ黙るんじゃない?」などという投げやりなご返答。
ただ、こと霊夢さんに限っては何気なしに放たれる回答のほうが、信じるに足りることが多かったりして。
そして結局、巫女たる霊夢さんのその言葉は、いやはや。まるで言霊であったかのようである。
その日を境に、蓄音機の歌は三日おきになった。これはそろそろ黙ってくれる兆しに間違いなかろう。
もう少しで、この音痴ともお別れ。
そう思うと少し寂しく――なったりはしない。音痴の歌を毎晩聞かされるというのは、それだけ苦痛なのである。
§
秋らしからぬ嵐の秋は過ぎ去り、今や深々と雪が降り積もる、肌寒い冬の夜。
蓄音機が最後に言葉を発してから、今日で既に一週間にもなる。
日課である閑古鳥の世話を終えると、エプロンを脱いで外套を身に纏う。
これから阿求の元まで、幻想郷縁起第三版一刷の宅配である。
何も日が沈んだこんな時間に、というのはそれ、間違いである。こんな時間だからこそ、稗田邸に赴けば豪華な夕食のご相伴に預かれるのだ。
我ながら意地汚い話ではあるが、阿求の前でいい子を気取っても仕方がない。赴くがままにたかるのがよろしい。
留守番よろしく、と口にして、小包を手に取る。
卓上から返事は返ってこなかったが、それはそれで結構。それを確認するために、声をかけた感もあるのだから。
番傘を手にとって、さくりと一歩。帰りには随分と積もっていることだろう。予想外の悪天候。こればっかりは少し、失敗であったかもしれない。
ま、天候に文句を言っても仕方がないのだが。
縁起の出来栄えの確認を終えた阿求は、食べていくんでしょ? と、私の返事を待たずして、パンパン、と手を叩く。
たちまちのうちに女中さんが現れて、瞬く間にお座敷に牛すき御膳を準備してくれる様は、流石に名家といったところである。
これを古臭いだけ、と称する阿求にはやはり、真なる貧しさというものを味わってもらわねばなるまい。阿求の小鍋から肉をさっ、とかっ拐うと、やつもさるもの。私の小鍋へ即座に箸を伸ばす。
すかさずこれを左手でペシ、と叩き落とすと、奴め。「呆れた」なんて忌々しげに落ちた箸を拾って、それをガリガリと噛み始める。
名家のお嬢様にあるまじき行為だが、私の前でしか見せないそんな阿求の悪癖は、まあ、わりと好ましいものだ。
気のきいたことに、御膳には熱燗が二本つけられていた、とあってはこれ、箸が進む進む。
ほろ酔い気分で肉の御代わりを要求すると、阿求の奴は「呆れた」なんて肩をすくめて、自ら席を立った。まったく、食事中にお花畑へ向かう口実を与えてやったのだ。感謝してほしいものである。
一人になって、ふと周囲を見回すと、ああ。やはり広いお座敷である。こうも広いとなると声を張り上げたくあるもので、つい、
~~書生ぇーいー、書生ぇーいーとぉー、軽ぃーべぇーつぅーすぅうーるーなぁ~~
やってしまった。酔いとは恐ろしいものである。しかもよりにもよってこの歌ときたもので、歌い終えた途端、気恥ずかしさが肺腑から沸き上がってきて、頬に熱が灯る。
戻ってきた阿求は、酒のそれとは異なる頬の朱を揶揄するに違いない。
そう、思っていたのだが。
阿求は私の前に御代わりをおいて、感慨深そうに、「懐かしいわね」。
はて、なんのことやら。と、問うた私に、
「だって小鈴。それ、小さい頃よく歌っていたでしょう?」
§
白黒斑な闇の中を一路、家へ。
傘は稗田邸に置いてきた。邪魔だから。
それにしても寒い、と思ってふと下を向くと、ああ。どうやら私は外套はおろか、手袋や靴すら身に着けていないらしい。
その上さっきから雪に足をとられて転ぶこと数度。既に下着までぐっしょり濡れ鼠。無様なものである。
まったく、私はここまで何を必死になっているのか。
「ほら、小さい頃。みんなに音痴だって笑われたからって、練習したんでしょ? 蓄音機で歌謡曲流しながら」
そんなこと、すっかり忘れていたっていうのに。
「そういえば、蓄音機が喋ったって当時言ってたっけ? あれは流石に冗談よね? アレ、当時は作られてからまだ五年も経ってなかったんだし」
どうなのだろう。覚えてなんてないから、分からない。
でもあの当時、本当に蓄音機が喋っていたかどうかは確かに怪しい。阿求の言う通り、付喪神になるには早すぎるのだから。
だが、
「上手くなったわよねぇ。昔の小鈴はちょっと、変な風に音外してたのに」
だが、あの蓄音機は間違いなく、あの当時のことを覚えていたのだ。
あの蓄音機が歌っていたのは、だって。私の歌だったのだから。
「でも本当に、蓄音機に指導してもらったってのもアリなのかしら。外界の魔力を得られれば、所有者の魔力に頼らず動けるらしいし」
違う。
結局、一人稽古では上手くならなかったから。近所に住んでいた花魁のお姉さんに頼み込んで、指導してもらったのだ。
姿勢と、呼吸。口の動かし方や力み方。丁寧に教えて貰えて。そして、上達した。その縁あって、今でも彼女とは仲良しだ。
「今回の改版も、そうやって動けるようになった連中が増えたせいでもあるしね」
なら、あいつは、何故。
それを選択しなかったのか。
私は、捨てたというのに。
捨てて、そんなことも忘れてしまっていたというのに。
どん、と倒れ込むように我が家の扉へ取り付く。
鍵を持つ手は氷のように冷たく、震えて、なかなか鍵が鍵穴に納まってくれない。
まったく言う事を聞かぬ手を叱咤しつつ、ようやくガラリと扉を開く。
お帰りなさい、と。そういった類の言葉はやはり、かけられなかった。
いや、思い返してみれば、秋の頃にそう言われていたのかすら、定かではない。
御阿礼の子以外にとって、記憶とはそういうものだ。
すなわち、意識しないものは、残らないのだと。
そして、その程度にしか、意識していなかったのだと。
はぁはぁと、荒れる呼吸を、落ち着かせる。
何を言えばいいのだろう? いや、違う、そうじゃない。
必要なのは、多分、語ることではなくて。
根の合わぬ歯をガチリと痛いほどにかみ締めて震えを殺し、すぅう、と、鼻から大きく息を吸い込んで、
「お歌の時間です」
~~書生ぇーいー、書生ぇーいーとぉー、軽ぃーべぇーつぅーすぅうーるーなぁ~~
~~末ぇーはー、太政ぉおー官のぉおー、おやぁーくぅーにぃんー~~
~~よーさぁーこーい、よーさぁーこーい~~
~~書生ぇーいー、書生ぇーいーとぉー、軽ぃーべぇーつぅーすぅうーるーなぁ~~
~~大ーじぃーんー、参ー議ぃーはぁー、皆ぁー書生ぇーいー~~
~~だいーじぃーんー、さんーぎぃーはぁー、みナァーショォオーセェーいー~~
~~よーさぁーこーい、よーさぁーこーい~~
~~よーサァーこーい、よーサァーこーい~~
はぁ、と、冷え切った体から熱い吐息を吐き出した、あとに。
「お上手になりました」
§
「もう一度一緒に歌いたいと、そう、願ってしまいまして。もう、お友だちが沢山いるというのに。ご迷惑をおかけしました」
ああ、やはり。小さい頃の私は。
「なぜ、自立を拒否したの?」
「それ以外の望みがありませんでしたし。それに私を満たしているものを、失いたくありませんでしたので」
それは、そう。
外界の魔力を受け入れれば、これまで己の内にあったものを、捨てなくてはいけないから?
でも――
「私は、忘れていた」
だから、そんなものを後生大事に抱きかかえないでほしい。
それは、薄情者の思い出だ。
あっさりと、多分、友達だった相手を。捨てて、忘れてしまった、薄情者の魔力なのに。
「そんなことはありません」
「なぜ?」
「ええと、はい。どうやら物である私と人が記憶と呼ぶものの認識に、齟齬があるようなのですが」
ちょっと、困ったように。
「物である私にとって、記憶もやはり形なのです」
記憶が、形?
頭が、上手く回らない。
極寒の中を濡れ鼠で全力疾走したせいか、頭と頬が火照って思考が曖昧。それこそ形を成してくれない。
「貴女が曲に合わせて鼻歌を歌うとき。子供たちに読み聞かせをするとき」
朦朧とした意識の中、蓄音機はちょっと、照れくさそうに。
「貴方の声に、二人で練習したあの日々の記憶を垣間見ます」
「――私は、そんなものを思い出してなんか、いなかった」
「なのですか。ですが貴方の内には確かに、かつての日々が確かに記録されているようです」
そこで、言葉を、切って。
「四台限りの特注品なのです」
「え?」
唐突に。嬉しそうに。
「朝倉時計店、二代目店主が引退に際して手がけた、四人姉妹の三女なのです。縁により朝倉理香子、霧雨魔理沙、本居小鈴、稗田阿求の誕生を祝って一台ずつ作成され、それぞれに贈呈されました」
それが、寒さと疲労で意識を失う前に。
「貴女の生を祝して歌うが、私の喜びです」
私が聞いた、蓄音機の最後の言葉だった。
§
夢を見た。
子供の頃の夢だ。
小さい女の子が、蓄音機と一緒に歌を歌っている、夢。
夢である。
ゆえにそれが、過去に実際にあった光景であったのかは、定かではない。
でも、そう、なんとなくではあるのだけど。
私はその光景が確かにあったものなのだと、そう受け入れられた。
思うに、小さな子供という存在は、色々なものと会話ができるのではないだろうか。
偏見なく、忌憚なく。言葉すらおぼつかなく、何をよすがとするも未だ定まらない、しかしあるがままを受け入れられる子供には。
空の色は青色ではなく空色で。虹の色は七色でもなく虹色で。
耳にする音はドレミでもヘ長調でもなくて、唯そこにある音の連なりで。
そういった人の言葉の枠に当てはまらない意識で以って、あらゆるものと会話をしているのだ。
そう、そよぐ草木と。道端の石ころと。泳ぐ雲と、瞬く星と、沈む夕日と、朧なお月様と。
世界と、物と、人の区別のない子供にはそれが出来て。
そしてそれをこそ人は、奇跡とか魔法と、呼ぶのではないだろうか。
ああ、声が聞こえる。
「お歌の時間です」
嬉しくなって、繰り返す。
「お歌の時間です」
さあ、お歌を歌いましょう。
上手いとか、下手とかはまあ、おいておきましょう。楽しければそれでいいでしょう。
クスリと、小さな笑みを零して、
「「よろしければ、一緒に歌いませんか?」」
§
目を覚ました私はすぐさま、目を覚ましてしまったことを後悔した。
体が、熱くて、寒い。
頭は脈打つように一定のリズムで苦痛を訴え、鼻汁は止まるところを知らず。声を出そうにも喉はぜいぜいと喘ぐような音しか吐き出さぬ。
風邪であった。典型的な風邪の諸症状であった。
目を覚ました私に投げかけられた言葉は、
「あんたなに馬鹿やってるの!!?」
容赦のない、母の罵倒であった。
ごもっともである。
雪の中を裸足で駆け出して熱唱する輩など、酔っ払いか狂人か鳥獣伎楽か。はたまた歌に全てをかけた戦闘機乗りぐらいしか思い浮かばない。
そしてそれらはそう、皆一様にそろいもそろって馬鹿者であろう。
そういった馬鹿とは異なり、ひどく繊細なつくりをしている私である。当然のように風邪をひいてしまうわけであって。
「しばらく寝てなさい。若いんだから、一週間もすれば元気になるわよ」
一週間。それくらいはかかるだろう。
本当、体は鉛のように重くて。意識は揺れる水面のように定まらず。
呆、と見回した私の部屋はぐにゃり。異様な広さと曲線で構成されていて。
それに、布団からなんとか這い出て蓄音機の前にたどり着けたとしても、私は何も言えないのだ。
そう。炎症に喉をやられてしまった、私には。
「完治するまで、お店には立たせないからね」
味もよく分からぬ卵粥を、痛む喉に無理矢理流し込んで。
手の平で目元を隠した私はそっと、そのまま再び泥のような眠りに落ちていった。
§
まぶた越しに、光。
私の重たいそれをこじ開けたのは、障子から差し込む、冬の遅い陽光。
重たい掛け布団を押し退けるように上半身を布団から起こして、こき、と首を鳴らす。
ふぁあ、と大あくび。
体の調子は、悪くない。すぅはぁと呼吸をしても、喉の痛みもない。
寝巻きを脱ぎ捨てると、凛とした冬の冷気が素肌をさわりと撫でて、熱を奪っていく。
手早く木綿の肌着の上、するりと白いワンピースに袖を通して、きゅっとリボンを結ぶ。
重ねて紅白市松の振袖と深緑のスカートを纏えば、いつも通りの可憐な私。
朝食の後、ブーツに足を通して紐を結び、トントンと踵を叩いて、タン、と勢いよく立ち上がる。
目の前に広がるは懐かしき我が鈴奈庵の、変わらぬ光景。
まだ入り口の錠が下りたままの、薄暗い店内。
立ち並ぶ本棚、収められた書物。小さなカウンター。小さなペン立てと貸本台帳。
そして、蓄音機。
たまたま店を訪れ、なし崩し的にお見舞いに来てくれた霊夢さん曰く、既に店内の不穏な気配は消えているとの事。
だからもう、魔力を失った蓄音機が声を発することはない。
ふっと、一抹の寂しさを覚えて、しかし。首を振って、それが脳内から胸中へと滑り落ちる前に振り払う。
物にも、記憶が宿るのだというのであれば。
ならば、もうお互いに言葉を交わすことは出来なくたって、思い出は確かにそこにあって。
そして、積み重なり、蓄積されていくのだ。
私にはそれが見えなくても、道具にはそれが見えている。だから、寂しがる必要なんてない。
パン、と頬を張って、心機一転。
入り口を開いてのれんを外に出す前に、声の調子を確認するとしようか。
すぅ、と、大きく息を吸い込んで、いざ!
「「お歌の時間です」」
…………んぅ?
原作を踏まえながら幻想郷仕立てに仕上がっています。
……と、感慨に浸っていたら、あとがきに全て持ってかれましたwww
原作の設定を織り交ぜつつ、テンポの良い一人称が印象的でした
勢いは元々有ったけど、粗が取れて来て無理なく言葉を選別出来てる感じ。
すごくおもしろかった。あんがと。
歌う蓄音機のいる貸本屋というのもそれはそれで雰囲気がありそうでよさそうですねぇ。
里の人たちにどう思われるかわかりませんが。
あと、後書きで笑い、
概要と題名にもそういうことかと笑わせていただきましたw
ともかく、あったかい気持ちになれる良作でした。
でもあとがきの破壊力がwwwwww
タイトル含めてセンスが溢れてる。
魔理沙は犠牲になったのだ
まぁ思い出した時に生まれた感情は、恥というよりは後悔のようでしたけど。
物にも記憶、ってのはアカシック何某みたいなもんですかね。
面白かった!