レミリアは時折、男を連れ込むことがある。
レミリアは、夕暮れにふらりとひとりで出掛けて行く。そして深夜前に男をひとり、連れて帰ってくるのである。
連れこまれる男は、服装からして外の世界から迷い込んだらしい者たちだった。人里から狩ってくるようなことはしていないらしい。
年齢はおおむね三十路をこえている者が多い。
男たちの様子も様々で、助かったと胸をなでおろしている様子の者、事態が把握できず混乱している者。
レミリアに引きずられるように連れこまれる者もいた。
「食糧」ではないようだった。夜が明ければ、彼らは生きてレミリアの部屋から出てくる。
……意識を失い、げっそりとやつれ、レミリアに担がれて出てくるのだが。
そしてレミリアは、明け方、男を背負い博麗神社の方へと飛んでいく。
おそらくは、外の世界に送り返すために。
咲夜がレミリアのその行動を知ったのは、比較的最近のことだ。
それも、「隠そうとする魔力」のほころびをたまたま見つけたところからである。
紅魔館の時間と空間をほとんど全て把握できる咲夜でさえ気付けたのが最近なのだから、おそらく妖精メイドで知っている者はひとりもいるまい。
上述したことも、咲夜がわずかな偶然の積み重ねで見つけられた事柄を少しずつ積み重ねたのである。
レミリアはそれほど慎重に、その行動を隠しているようだった。
もちろん、咲夜はレミリアのそれを知ってどうこうするつもりはない。
"趣味"があったということには初めこそ驚きはしたものの、吸血鬼とはいえ、ヒトの姿を取っている以上、色々と……そう、色々とあるのだろう。
ただ、レミリアの「好み」がその年齢域であることであることは、咲夜にとっても意外であった。
◆◇◆
「咲夜はレミィの趣味のこと、いつ知ったのかしら」
背中からかけられた声に、咲夜はらしくもなく盆を取り落としそうになった。
動揺をおさえつつ振りかえると、声を掛けた者――パチュリー・ノーレッジは、咲夜に視線すら向けず、本に目を落としたままであった。
「……何のことでしょうか」
咲夜はなんとか、その一言だけを絞り出す。広大で静謐な図書館に、自分の心臓の鼓動が響いているようでいるようでもあった。
パチュリーは一口、咲夜の入れた紅茶をすすり、続ける。
「別にごまかさなくていいわよ。レミィは貴女が趣味のことを知ってるとは思ってないもの」
実際、霊夢にもバレてないし。とパチュリーは付けくわえた。
咲夜は……小さなため息をひとつつき、パチュリーへと向き直る。
「なぜ私がお嬢さまの趣味のことを知っていると?」
「最近レミィに遠慮してるような節があったからね。レミィが一人になれるような時間、増やしてたでしょ?」
そういえば、と、咲夜も自分自身に行いに今気付いた。
意識をしているつもりはなかったのだが。
「ま、他には勘ね。あんまりこういう非論理的な感覚を頼ることはしたくないんだけど」
ぱたりと――「思考操作」の術の本を閉じ、パチュリーはそう締めくくる。
「……記憶を消されるのですね、私は」
仕方のないことか、と咲夜もあきらめもついた。
主があれだけ隠そうとしていることを、メイドが知っていることは許されないだろう。
「しないわよ、そんなこと」
え? と覚えず咲夜は呟く。
「咲夜が言いふらすなんてこと、するわけないからね」
パチュリーは相も変わらずこちらへ視線を向けず、ぶっきらぼうに告げる。
だが、その背中から確かな信頼があることを、咲夜は感じることができた。
「……ありがとうございます、パチュリー様」
「ん。ついでにこの本二冊の中巻持ってきて。下巻だけどっか行っちゃってるから」
パチュリーは読んでいた思考操作の本のほか、「変化の魔法」の本を咲夜に示す。
かしこまりました。そう咲夜は答え、パチュリーに背を向ける。
「ああ、ここからは独り言なんだけど」
パチュリーは、ふいと言葉を漏らす。
「レミィの好みがあの年齢域なのは、あのこのお父様のことが関係あるのかもね」
「先代当主のことを知っているのは、今は美鈴くらいしかいないけど」
しゃららん。
鈴のような、どこかで何かが鳴る音を、咲夜は聞いた気がした。
◆◇◆
パチュリーとの会話から数日。咲夜は未だに、もやもやとした気持ちを抱えたままでいる。
レミリアの父についてのことは、咲夜は昨日、美鈴から飲みの席で少し聞くことができた。
――お館様のことですか?
無口な方でしたが、優しい人でしたね~。たくさんの吸血鬼を束ねる長でもありましたから、お忙しい人でしたけども。
御歳? えーと、モーゼが海を割ったのを見たなんて言っておりましたが……え、見た目の方?
そっちはおじさまの姿を取っておられましたねぇ、三十歳くらいの。
お嬢様とは……面と向かってかわいがることはあまりなかったかもしれないですね。
立場上云々なんて本人はおっしゃられてましたが、感情を表に出すのは苦手なお人でしたから。遠慮がちに頭をなでるのが精いっぱい。
それでもお嬢さまは喜んでおられましたし、お館様からもよく「あの子は目に入れても痛くない」なんて聞かされましたよ。
ただ……奥様がフラン様をお産みになってからすぐに亡くなられて、それからですかね。
お仕事も増えて、お嬢様とお館様が揃うことはほとんどなくなりました。
多分、お館様が亡くなられるまでに会ったのは……数えられるくらいかもしれません。
でも咲夜さん、急にどうしたんです? お館様のことを聞きたいなんて。
……なんとなく?
まぁ昔のことを聞きたくなったらいつでも聞きに来てくださいよ、今となっては咲夜さんに私が勝ってるのは勤続年数くらいですから。
大将! 串焼きふたつ!
昨日のことを思い出しながら、咲夜の頭の中に、パチュリーの言葉がリフレインする。
――レミィの好みがあの年齢域なのは、あのこのお父様のことが関係あるのかもね――
外からは雨の音が聞こえる。この調子だと、今夜一晩降り続くだろう。
……お嬢様は、父上を追い求めている? それも、似た姿の人間を代替にして。
ぶんぶんぶん、と頭を振って、咲夜はその想像を振り払った。
そんなことを考えてしまうとは、主に対し、なんという侮辱であろう。
こんな気分を消し去るには仕事が一番。
雨に退屈しているであろうレミリアのために、紅茶を用意しに行こうと、廊下の角を咲夜は曲がった。
目の前に男を連れたレミリアがいた。
時間が止まる。
空間が凍る。
咲夜は能力を使っていない。
咲夜は思考する。
なぜ目の前にレミリアがいるのか。外は雨で出られないはずだ。レミリアは手には大きな傘を持っている。あれならば男と二人でも入れるだろう。特にレミリアは小柄だから。
だがいつ外に出たのか。いや、咲夜は昼からレミリアから離れて仕事をしている。それに違和感を今この瞬間まで感じなかったのはなぜだろう。これが「隠そうとする魔力」なのだろうか。
そして、どうして今この瞬間にレミリアに気付けたのか。レミリアが気を緩めて魔力が緩んだのかもしれない。気付けないままでいれば、この場にも立ち会わなかっただろうに。
男は誰なのだろう。彫りの深い、黒い髪の三十路すぎの外見だった。外来人で、しかも外国人のようだ。珍しい獲物をレミリアは捕えたのだろう。
「さく、や?」
レミリアの声が、時を動かした。
「……お、お嬢様、そちらの方は?」
聞くべきこと、言うべきこと、様々なことがあったはずだが、咲夜の口から最初に漏れ出たのは、その言葉だった。
「……ああ、客よ」
レミリアは既に平静を取り戻したのか、静かな口調でそう告げる。
だがその声には、確かな狼狽が込められているように感じるのは、矛盾した感覚だろうか。
「で、では、お部屋のご用意を。お嬢様も服が御濡れに」
「いや、いいわ。咲夜は下がってなさい」
ぴしゃりと、取り付く島もなく。レミリアは咲夜の言葉を退ける。
「……畏まりました」
レミリアの直接の言葉には咲夜も逆らえず、ただ、受け入れることしかできない。
咲夜はレミリアの前から、廊下の脇へと道を開けた。
男とレミリアは、咲夜の聞いたことのない言語で何やら語らいながら、咲夜の前を通り過ぎる。
――二人が目の前を横切るその瞬間、咲夜は確かに聞いた。
黙っていろ。
氷の手で心臓を握りしめられたような。
そんな感覚とともに、咲夜の脳にその言葉は響き渡った。
咲夜が頭を下げたまま、指一本動かせない状態から解き放たれたのは、二人の姿が完全に見えなくなってから。
解放されても、まだ鉛のように重い体をやっと咲夜は起こす。
心臓の鼓動は、未だに早い。
……お嬢様の孤独は、癒せないのだろうか。
二人の姿を追うように、咲夜は廊下の先を見る。
そこには既に、誰もいない。
しゃらりと、何かが鳴る幻聴が聞こえた気がした。
◆◇◆
今日は霧が濃い。
結局咲夜は、あの後何もする気にもなれず、手早く最低限の仕事を終わらせ、早めの睡眠を取っていた。
早い時間帯に床に入っただからだろうか。
咲夜は早朝に目を覚ましていた。
陰鬱とした気分だった。
昨晩の衝撃が、まだ胸に残っている感覚。
主人の孤独ひとつ癒せぬ無力感。
……水でも飲もう。
咲夜はベッドから身を起こし、部屋を出た。
廊下には静けさが満ちている。聞こえるのは咲夜の足音だけだ。
夜番のメイド妖精はちょうど眠りにつく時間であるし、昼番のメイドの妖精たちはまだ起きだしてはいないらしい。
台所へ向かうために、咲夜は廊下の角を曲がった。
「わぷ」
軽い衝撃と、くぐもった声。
はてと咲夜が視線をおろせば、金の髪と七色のいびつな翼。
「……フラン様?」
レミリアの妹君、フランドール・スカーレットがそこにいた。
「あ……さ、咲夜? ご、ごめん、ぶつかっちゃって」
たはは、と困ったような笑顔を見せながら、フランは咲夜から離れる。
珍しい、と咲夜は思う。フランの生活は完全に夜型で、この時間に起きていることは滅多にないからだ。
たまの気まぐれに生活習慣を変えたのかもしれない。
どこか焦っているような様子なのは、珍しい習慣を見られた気恥ずかしさからなのだろう。
「今日は早起きなのですね」
咲夜は笑顔を作る。
フランもはにかみ、しゃらりらと翼が鳴る。
綺麗な音を鳴らす羽だ、と咲夜は思う。
「ううん、逆だよ。今から寝るとこ。咲夜はどうしたの?」
ぷあ、と おおきなあくびをして、フランは目をこすりながら、咲夜に問いかけた。
たしかに ねむたげな様子だ。
フランの 羽が 鳴る。
「いえ、少し……喉が渇きまして……台所……に……」
しゃらり、しゃらりら。
しゃらららら。
「咲夜もねむそうだよ? もうちょっと寝よう、ね?」
にこにこと ふらんは 言う
あまり はなしが ながくなるのも わるいと さくやは はなしを きりあげる。
「そう、です、ね。おやすみ、な、さい、ませ」
しゃららら、しゃららら、しゃららら。
しゃららら、しゃららら、しゃららら。
「うん、おやすみ」
◆◇◆
パタン。
静かになった咲夜を部屋に戻し、扉を閉じて廊下に出る。
「……ばれたら、いけないからね」
思考操作魔法の下巻も読んでおいて正解だった。
変化の魔法だけでは、どうなっていたことやら。
昨日は焦ったものだ。
あそこで咲夜と鉢合わせてから、どう消すべきか、姉といる間も、それしか考えていなかった。
幸い、魔法を使うだけで済んだけれども。
小悪魔に図書館からもう数冊、くすねてくるように頼むべきかもしれない。
対価も用意しなくてはいけない。
でも、しなければいけない。やめるわけにはいかない。
「……わたしが、おとうさまと おかあさまを おねえさまから うばったんだ」
誰に向けてでもなく、呟く。
生まれたせいで、母は死んだ。
生まれたせいで、父も死んだ。
だから、返さなくてはいけない。
これからは、人間を使う必要など、ないのだ。
「……わたしがいるよ、おねえさま……」
鈴の。音が。鳴る。
(了)
レミリアは、夕暮れにふらりとひとりで出掛けて行く。そして深夜前に男をひとり、連れて帰ってくるのである。
連れこまれる男は、服装からして外の世界から迷い込んだらしい者たちだった。人里から狩ってくるようなことはしていないらしい。
年齢はおおむね三十路をこえている者が多い。
男たちの様子も様々で、助かったと胸をなでおろしている様子の者、事態が把握できず混乱している者。
レミリアに引きずられるように連れこまれる者もいた。
「食糧」ではないようだった。夜が明ければ、彼らは生きてレミリアの部屋から出てくる。
……意識を失い、げっそりとやつれ、レミリアに担がれて出てくるのだが。
そしてレミリアは、明け方、男を背負い博麗神社の方へと飛んでいく。
おそらくは、外の世界に送り返すために。
咲夜がレミリアのその行動を知ったのは、比較的最近のことだ。
それも、「隠そうとする魔力」のほころびをたまたま見つけたところからである。
紅魔館の時間と空間をほとんど全て把握できる咲夜でさえ気付けたのが最近なのだから、おそらく妖精メイドで知っている者はひとりもいるまい。
上述したことも、咲夜がわずかな偶然の積み重ねで見つけられた事柄を少しずつ積み重ねたのである。
レミリアはそれほど慎重に、その行動を隠しているようだった。
もちろん、咲夜はレミリアのそれを知ってどうこうするつもりはない。
"趣味"があったということには初めこそ驚きはしたものの、吸血鬼とはいえ、ヒトの姿を取っている以上、色々と……そう、色々とあるのだろう。
ただ、レミリアの「好み」がその年齢域であることであることは、咲夜にとっても意外であった。
◆◇◆
「咲夜はレミィの趣味のこと、いつ知ったのかしら」
背中からかけられた声に、咲夜はらしくもなく盆を取り落としそうになった。
動揺をおさえつつ振りかえると、声を掛けた者――パチュリー・ノーレッジは、咲夜に視線すら向けず、本に目を落としたままであった。
「……何のことでしょうか」
咲夜はなんとか、その一言だけを絞り出す。広大で静謐な図書館に、自分の心臓の鼓動が響いているようでいるようでもあった。
パチュリーは一口、咲夜の入れた紅茶をすすり、続ける。
「別にごまかさなくていいわよ。レミィは貴女が趣味のことを知ってるとは思ってないもの」
実際、霊夢にもバレてないし。とパチュリーは付けくわえた。
咲夜は……小さなため息をひとつつき、パチュリーへと向き直る。
「なぜ私がお嬢さまの趣味のことを知っていると?」
「最近レミィに遠慮してるような節があったからね。レミィが一人になれるような時間、増やしてたでしょ?」
そういえば、と、咲夜も自分自身に行いに今気付いた。
意識をしているつもりはなかったのだが。
「ま、他には勘ね。あんまりこういう非論理的な感覚を頼ることはしたくないんだけど」
ぱたりと――「思考操作」の術の本を閉じ、パチュリーはそう締めくくる。
「……記憶を消されるのですね、私は」
仕方のないことか、と咲夜もあきらめもついた。
主があれだけ隠そうとしていることを、メイドが知っていることは許されないだろう。
「しないわよ、そんなこと」
え? と覚えず咲夜は呟く。
「咲夜が言いふらすなんてこと、するわけないからね」
パチュリーは相も変わらずこちらへ視線を向けず、ぶっきらぼうに告げる。
だが、その背中から確かな信頼があることを、咲夜は感じることができた。
「……ありがとうございます、パチュリー様」
「ん。ついでにこの本二冊の中巻持ってきて。下巻だけどっか行っちゃってるから」
パチュリーは読んでいた思考操作の本のほか、「変化の魔法」の本を咲夜に示す。
かしこまりました。そう咲夜は答え、パチュリーに背を向ける。
「ああ、ここからは独り言なんだけど」
パチュリーは、ふいと言葉を漏らす。
「レミィの好みがあの年齢域なのは、あのこのお父様のことが関係あるのかもね」
「先代当主のことを知っているのは、今は美鈴くらいしかいないけど」
しゃららん。
鈴のような、どこかで何かが鳴る音を、咲夜は聞いた気がした。
◆◇◆
パチュリーとの会話から数日。咲夜は未だに、もやもやとした気持ちを抱えたままでいる。
レミリアの父についてのことは、咲夜は昨日、美鈴から飲みの席で少し聞くことができた。
――お館様のことですか?
無口な方でしたが、優しい人でしたね~。たくさんの吸血鬼を束ねる長でもありましたから、お忙しい人でしたけども。
御歳? えーと、モーゼが海を割ったのを見たなんて言っておりましたが……え、見た目の方?
そっちはおじさまの姿を取っておられましたねぇ、三十歳くらいの。
お嬢様とは……面と向かってかわいがることはあまりなかったかもしれないですね。
立場上云々なんて本人はおっしゃられてましたが、感情を表に出すのは苦手なお人でしたから。遠慮がちに頭をなでるのが精いっぱい。
それでもお嬢さまは喜んでおられましたし、お館様からもよく「あの子は目に入れても痛くない」なんて聞かされましたよ。
ただ……奥様がフラン様をお産みになってからすぐに亡くなられて、それからですかね。
お仕事も増えて、お嬢様とお館様が揃うことはほとんどなくなりました。
多分、お館様が亡くなられるまでに会ったのは……数えられるくらいかもしれません。
でも咲夜さん、急にどうしたんです? お館様のことを聞きたいなんて。
……なんとなく?
まぁ昔のことを聞きたくなったらいつでも聞きに来てくださいよ、今となっては咲夜さんに私が勝ってるのは勤続年数くらいですから。
大将! 串焼きふたつ!
昨日のことを思い出しながら、咲夜の頭の中に、パチュリーの言葉がリフレインする。
――レミィの好みがあの年齢域なのは、あのこのお父様のことが関係あるのかもね――
外からは雨の音が聞こえる。この調子だと、今夜一晩降り続くだろう。
……お嬢様は、父上を追い求めている? それも、似た姿の人間を代替にして。
ぶんぶんぶん、と頭を振って、咲夜はその想像を振り払った。
そんなことを考えてしまうとは、主に対し、なんという侮辱であろう。
こんな気分を消し去るには仕事が一番。
雨に退屈しているであろうレミリアのために、紅茶を用意しに行こうと、廊下の角を咲夜は曲がった。
目の前に男を連れたレミリアがいた。
時間が止まる。
空間が凍る。
咲夜は能力を使っていない。
咲夜は思考する。
なぜ目の前にレミリアがいるのか。外は雨で出られないはずだ。レミリアは手には大きな傘を持っている。あれならば男と二人でも入れるだろう。特にレミリアは小柄だから。
だがいつ外に出たのか。いや、咲夜は昼からレミリアから離れて仕事をしている。それに違和感を今この瞬間まで感じなかったのはなぜだろう。これが「隠そうとする魔力」なのだろうか。
そして、どうして今この瞬間にレミリアに気付けたのか。レミリアが気を緩めて魔力が緩んだのかもしれない。気付けないままでいれば、この場にも立ち会わなかっただろうに。
男は誰なのだろう。彫りの深い、黒い髪の三十路すぎの外見だった。外来人で、しかも外国人のようだ。珍しい獲物をレミリアは捕えたのだろう。
「さく、や?」
レミリアの声が、時を動かした。
「……お、お嬢様、そちらの方は?」
聞くべきこと、言うべきこと、様々なことがあったはずだが、咲夜の口から最初に漏れ出たのは、その言葉だった。
「……ああ、客よ」
レミリアは既に平静を取り戻したのか、静かな口調でそう告げる。
だがその声には、確かな狼狽が込められているように感じるのは、矛盾した感覚だろうか。
「で、では、お部屋のご用意を。お嬢様も服が御濡れに」
「いや、いいわ。咲夜は下がってなさい」
ぴしゃりと、取り付く島もなく。レミリアは咲夜の言葉を退ける。
「……畏まりました」
レミリアの直接の言葉には咲夜も逆らえず、ただ、受け入れることしかできない。
咲夜はレミリアの前から、廊下の脇へと道を開けた。
男とレミリアは、咲夜の聞いたことのない言語で何やら語らいながら、咲夜の前を通り過ぎる。
――二人が目の前を横切るその瞬間、咲夜は確かに聞いた。
黙っていろ。
氷の手で心臓を握りしめられたような。
そんな感覚とともに、咲夜の脳にその言葉は響き渡った。
咲夜が頭を下げたまま、指一本動かせない状態から解き放たれたのは、二人の姿が完全に見えなくなってから。
解放されても、まだ鉛のように重い体をやっと咲夜は起こす。
心臓の鼓動は、未だに早い。
……お嬢様の孤独は、癒せないのだろうか。
二人の姿を追うように、咲夜は廊下の先を見る。
そこには既に、誰もいない。
しゃらりと、何かが鳴る幻聴が聞こえた気がした。
◆◇◆
今日は霧が濃い。
結局咲夜は、あの後何もする気にもなれず、手早く最低限の仕事を終わらせ、早めの睡眠を取っていた。
早い時間帯に床に入っただからだろうか。
咲夜は早朝に目を覚ましていた。
陰鬱とした気分だった。
昨晩の衝撃が、まだ胸に残っている感覚。
主人の孤独ひとつ癒せぬ無力感。
……水でも飲もう。
咲夜はベッドから身を起こし、部屋を出た。
廊下には静けさが満ちている。聞こえるのは咲夜の足音だけだ。
夜番のメイド妖精はちょうど眠りにつく時間であるし、昼番のメイドの妖精たちはまだ起きだしてはいないらしい。
台所へ向かうために、咲夜は廊下の角を曲がった。
「わぷ」
軽い衝撃と、くぐもった声。
はてと咲夜が視線をおろせば、金の髪と七色のいびつな翼。
「……フラン様?」
レミリアの妹君、フランドール・スカーレットがそこにいた。
「あ……さ、咲夜? ご、ごめん、ぶつかっちゃって」
たはは、と困ったような笑顔を見せながら、フランは咲夜から離れる。
珍しい、と咲夜は思う。フランの生活は完全に夜型で、この時間に起きていることは滅多にないからだ。
たまの気まぐれに生活習慣を変えたのかもしれない。
どこか焦っているような様子なのは、珍しい習慣を見られた気恥ずかしさからなのだろう。
「今日は早起きなのですね」
咲夜は笑顔を作る。
フランもはにかみ、しゃらりらと翼が鳴る。
綺麗な音を鳴らす羽だ、と咲夜は思う。
「ううん、逆だよ。今から寝るとこ。咲夜はどうしたの?」
ぷあ、と おおきなあくびをして、フランは目をこすりながら、咲夜に問いかけた。
たしかに ねむたげな様子だ。
フランの 羽が 鳴る。
「いえ、少し……喉が渇きまして……台所……に……」
しゃらり、しゃらりら。
しゃらららら。
「咲夜もねむそうだよ? もうちょっと寝よう、ね?」
にこにこと ふらんは 言う
あまり はなしが ながくなるのも わるいと さくやは はなしを きりあげる。
「そう、です、ね。おやすみ、な、さい、ませ」
しゃららら、しゃららら、しゃららら。
しゃららら、しゃららら、しゃららら。
「うん、おやすみ」
◆◇◆
パタン。
静かになった咲夜を部屋に戻し、扉を閉じて廊下に出る。
「……ばれたら、いけないからね」
思考操作魔法の下巻も読んでおいて正解だった。
変化の魔法だけでは、どうなっていたことやら。
昨日は焦ったものだ。
あそこで咲夜と鉢合わせてから、どう消すべきか、姉といる間も、それしか考えていなかった。
幸い、魔法を使うだけで済んだけれども。
小悪魔に図書館からもう数冊、くすねてくるように頼むべきかもしれない。
対価も用意しなくてはいけない。
でも、しなければいけない。やめるわけにはいかない。
「……わたしが、おとうさまと おかあさまを おねえさまから うばったんだ」
誰に向けてでもなく、呟く。
生まれたせいで、母は死んだ。
生まれたせいで、父も死んだ。
だから、返さなくてはいけない。
これからは、人間を使う必要など、ないのだ。
「……わたしがいるよ、おねえさま……」
鈴の。音が。鳴る。
(了)