日本の首都にもこんな所がまだあるんだな、というのが宇佐見蓮子の本音だった。
いつから放置されたものか、人が入り込まなくなって久しい雑居ビル中では非常灯すら尽きている。首都圏ギリギリの場所とはいえ土地の価値からすれば非常識であり、だからこそ蓮子はここへ忍び込んだのかもしれなかった。
握られた球状電灯は道筋を確認するときだけ灯され、あとはずっと暗闇だ。
外は夜。いかに驚異的な犯罪率の低さを誇る街であろうとも、十一歳の子供がうろつくのは危険だと蓮子は重々承知しており、だからこそ注意を引かないようにこそこそと動いているのだが、そもそもこんな場所へ来ること自体が無謀なのだとも理解していた。
三度目ともなれば迷うことなく目的の場所へ、三階の外壁に取り付けられた鉄扉の前に蓮子はたどり着き、黒い帽子の位置を直した。何処かへ通じる計画でもあったのだろうか、今では何もない中空が出迎えるだけの扉を迷いのない手つきで扉を開け放つ。
目の前に広がるのは夜、星、月、風、街の灯、そして少女。たっぷり三棟分は向こうにある他のビルとの間に、蓮子とは別の少女が真っ逆さまになって浮かんでいた。陰によって身体のあらゆる細部がぼやけてしまっていたが、顔にまとわりついたその髪の色はおそらく金色、服は藍と紫を組み合わせたワンピースなのだろう。
蓮子がメリーと呼ぶこの少女は、いつもこうして彼女の前に現れる。
心を許した友人が蓮子にはいない。理由は蓮子自身の目にあり、夜空を見上げれば居場所と時間を知ることができる魔法の瞳を持つがために、少女は自ら孤立を選んでいる。科学で代用の効く些末な物であったとはいえ魔法は魔法、子供の心を縛り付けてしまうには充分であった。
人間とつきあうのが下手なわけではなく、事実多くの友を持つに至ってはいるが本質は一人を選んだ。
ゆえに、もうひとつくらいは魔法を持つことも可能であったのだろう。それがメリーであり、彼女とは目を合わせたこともなく、話すと言えばこちらから一方的に口を動かすのみ。表情は陰によって判別がつかぬようになっており、年に数度、季節の数ほどには口元や目元が見えたような気になることもある。
触れ合うことは無かった。出会う場所はすべて蓮子が霊感を得た先であり、相手はいつも路地裏の奥に転がった鏡やガラス、立入禁止の屋上にできた水たまりに映る朧気な風景の中にのみ存在した。動くことは稀で、静かに立って佇むか、目にすることのできぬ椅子に腰掛けているのが常だった。
だが、その名を知る事はできたのだ。最初に出会ったときに知ったものか、すでに記憶からぬぐい去られた過去で知り得たものだろう。
蓮子はメリーに心を許してはいない。話すことも見つめ合うこともできなかったゆえ。だが暖かな日差し、もしくは時間を忘れる窓辺のように安らぎを受け取ることのできる唯一の存在だった。彼女は決して蓮子を拒絶することがなく、それで充分だった。
やがて蓮子はメリーとの関係に名前をつけた。秘封倶楽部。決して外へ出ることのない、密やかな二人であると誇らしく、もしくは自嘲して。
「午後九時四十六分四十二秒」
メリーと出会った時、蓮子は必ず空を見上げて時刻を呟く。それが彼女なりの挨拶となっていた。
蓮子は怯えながら目を閉じ、座って膝を抱えた。自分が何に怯えているのかも知らぬまま。
知っていた。メリーは蓮子が知る唯一の幻想だった。自らの瞳があったために世界は魔法を持っていると信じるに至っていたが、実際に出会えた幻想はメリーのみであり、今では蓮子の世界から幻想が消えようとしていると信じるに至った。
かつての日本と同じように。
二百年前、日本は妖怪の国と技術交換を行っていた。二十一世紀初頭に突然通じ合ってしまった双方だったが、そうなってしまった事自体が妖怪側にとっては存続の危機に直結してしまったらしい。
その理由は明かされていないが、少なくとも蓮子が歴史の睡眠学習で習ったのは、交流が技術に関することのみに限定されていた事、妖怪の国が消失の危機にあったと言う事、そして接触から二十年で妖怪たちが実際に消えてしまった事だった。
前触れもなく、文字通り土と空を残して何もかも無くなったらしい。通じていた道もやがて閉じてしまったために、当時の風景を伝えるのは当時記された論文に付随する数点の写真だけだ。
メリーは破滅を感じさせた分、妖怪の国よりはましなのかもしれない。救おうとして行った全ての調査と手段が失敗した末でもあったから、蓮子は自身が絶望を確認しにここへ訪れているのだとすら思うようになっていた。
沈んだ心で見つめるはずのメリーは、なぜか心安らいだ。メリーが動き出して真っ逆さまに落ちた時の想像を、ここ数日で何度も何度も想像した光景を蓮子は脳裏に描いた。落ちゆく本人の目の前で、足りなかった空想を補填しながら。
「メリーの血潮は赤いのかしら。地面へ落ちて弾けるまでの間、もしかしたら身体に流れているのは緑色の血かもしれない。それどころか。
その時、蓮子に聞こえてきたのは足音、床を静かに蹴る靴の音だった。
かつり。
心臓を鷲掴みにされた少女は懸命にもそちらを振り向く事をせず、気づかない振りをして発光球をそっと握りしめた。
かつり、かつり。
いきなり光を浴びせかけ、服の手首に仕込んだ護身具を叩きつけて逃げる算段を蓮子は立てる。
どのような灯具を使用したものか、相手は全身が内側から光っていた。歩き来るのは蓮子と同い年程度の少女、服は白と黒、帽子は黒、髪は黒、瞳は黒。蓮子は立ち上がった、内心の動揺とは逆に、そっと。
やってくるのは宇佐見蓮子その人だったのだ。
「こんにちは」
やって来た人影が蓮子の声で言った。
「狂うにしても早すぎる」
蓮子がそう答えたものだから、相手は怪訝そうな表情をした。
「貴方、宇佐見蓮子で合ってる?」
「ええ」
「秘封倶楽部は?」
「知ってる」
別の蓮子がいつの間にか手にしていた日傘(夜に?)をふわりと広げて隠れると、その陰から別の少女が現れた。長く垂れた金の髪は夜の中に在るとはいえ月を思わせ、その瞳は夜に浮かぶ虹、唇は血塗られた豹の牙。
変わらず平静な蓮子を見て、少女はつまらなそうに傘を揺らした。
「驚きはしているけど、芯は冷たいまま。ここの宇佐見蓮子は何かしら欠けているのか。改めてこんばんは、冷えたお嬢さん。私は八雲紫。妖怪にして別世界における秘封倶楽部の導師、今は彼女たちの露払いをしているの」
「こんばんは」
では失うのか、と蓮子は胸を痛めた。新しい幻想が目の前に現れたのは明白であり、この出会いが背後にいる古い友人の消失に関係していると想像した。
「あまり愉快な状況ではないみたい」
蓮子の目を下から覗き込み、紫は小首を傾げてみせる。
「ともあれ、私の願いを聞いてくださらない?」
「何かを失えというのでなければ」
「大変結構」
手振りで相手に腰掛けることを勧め、蓮子はその隣へ直接座った。
別世界からやって来た紫は切り出した。
そもそもこの妖怪が別の秘封倶楽部と出会ったのは偶然。そこの蓮子とメリーは生きた人間同士であり、幻想を体験するために二人で動きまわっているのだという。いくらかの応酬の後、暇つぶしとして秘封倶楽部の導師となった紫は二人に助言を与え、時には彼女たちに先んじて夢を覗いた。
「私がここへ辿り着くのは大変だったそうです。人間で言うならば片腕程度を霧散させて探り当てた、のでしょうかしら」
「貴方、大丈夫?」
「全然。話しながら調節します。わかりやすくします。数万の粒に変えた片腕相当は全てが探査機であり、目標の座標を見つけた一つが信号を発して近くの元八雲紫を呼び集めたのです。
大半は信号が届かぬほどに広がってしまったのですが、ともかく私ができあがり、宇佐見蓮子を探し当てたというところ。
言語を調整してみたけど、通じてる?」
「ええ。日本語がお上手で何より」
「壊れかけの身に光栄ですわ」
紫がここへやって来た発端は、あちらの宇佐見蓮子が立てた幼稚で未熟な仮説を実証すべく、目の前の少女に接触するためだった。向こう側の蓮子は夢の出先で遊ぶ際、物理法則の一部を無視して動く事ができた。
メリーはそのままであるのに、どうして自分だけが肉体の枷から外れているのか?
蓮子はメリーの夢を並行世界だと仮定した。そして行く先にはもう一人の自分が居て、一時的にすり替わってしまうのだと。
だから蓮子にとって夢の向こう側は非現実で、すこし人間離れしてしまうという論旨だった。
「オカルトね」
蓮子は言った。
「ええ。事実も違っていますし。すぐに証明可能な答えだけで七つありますけれど、宇佐見蓮子の仮説はどれにカスリもしていないし、論を進めても的中することはないでしょうね」
「それでも暇つぶしのためにやって来た、と」
「飲み込みが早いのは結構。証明にはどうしても観測者が二人以上必要です。貴方にはその一端を担ってほしい」
蓮子は鼻白んだ。もうひとりの自分と面を向き合わせて会ってくれないかと言われたのだ。
この手の矛盾に関しては思考実験が数多くの仮説を用意しており、大学で超統一物理学が専攻の彼女にとっては身近な分野だ。そのために最悪な結末を示唆する仮説がすぐさま頭を巡り、蓮子は遠回しな殺害予告をされた気分だった。
「怯える事はありません。ヒントは可能性空間。こちらの世界にこの仮説はあって?」
紫の言葉を探るために蓮子の目が細くなった。
「こうあったかもしれないという世界。だから、もし重なったとしても同時に存在する可能性も許容される、ということね」
「ご名答。実際はそれなりのバランスが要求されますけれど、片方の肉体や精神が弱り切っていなければ放逐はまず起こりません」
「放逐、ね」
「放逐です」
「私の見返りは」
「多少の我儘ならば聞いて差し上げられます」
「たかが片腕の半分で?」
「正確には、私がこれから帰って、本体ともう一人の貴方がやってくるときに叶える事になるでしょう。何週間後か何ヶ月後か、私はメッセンジャーガールといったところ」
「そういうの、空手形って言うのよ」
「夢を詰め込んだ紙切れのどこに問題があるのかしら」
「そうね。でも私の願いは大それたことじゃない。今の貴方でもできることかもしれないから教えてあげる」
蓮子はメリーを指さした。
「あの子を助けて欲しい」
虚空を見つめた紫が肩をすくめる。
「私には夜景しか見えません。失礼」
紫の手が蓮子の頭に吸い込まれた。
「これは、人間のようではあるけれど……」
「メリーよ」
「マエリベリー?」
「そんな子は知らない。私が小さい頃から見かける唯一の非現実があの子で、救い出したいの。頭に手を突っ込んで何かできるんなら、今すぐ助けて。それが私の願い」
肩をつかむ蓮子の腕を、紫は軽やかに押しのけた。
「鎮まりなさい。貴方の脳を読んではいるけれど、その像がはっきりと見えてるわけではない。ましてや読心など今の私に出来はしない。事情を説明して頂戴。できれば彼女に関することは全部」
説明の間、紫は話し手の頭に手を突っ込んでは質問を混ぜ返し、かと思えば先んじて話を継ぎ、口を半開きにしたまま固まる事すらあった。
蓮子が目の前の存在をどう捕らえていいのかわからなくなってきた頃、彼女自身の瞳についての説明の際、ようやく紫は正気じみた様子に戻って言った。
「何処でも星と月を観測できる? 昼間や、建物の天井越しでも可能なの?」
蓮子はうなずいた。
「呆れた。空を直接見る必要も無いだなんて。風景から時点の座標を知るのは高性能な式神であれば可能でしょうけれど、空という概念から現在を読み取るのは狂気の沙汰です。日常生活が不便で仕方がないでしょう」
「最初からこうじゃなかったから。メリーへの挨拶に必要だったの。幻想と出会って、私が返せる幻想はこの瞳だけだから。挨拶は返さないといけない。
なんとか昼間や屋内でも空を見ることができるようになりたくて、そのうち解るようになった」
「恐ろしいことを」
紫は笑った。
「貴方は少し進みすぎている。一念は岩を通すと言うけれど、地球まで通してしまうだなんてねえ。ま、そのお陰でなんとかなるかもしれないわ、そのメリイ。
フラジリテヰだらけの八雲紫でよければやってみましょう。貴方の勘が正しければ時間は残されていないようだし。
方法を教えます、宇佐見蓮子。貴方は今から魔法が使えるようになります。それを使って幻影を永らえなさい」
相手の真意を掴もうとして、蓮子はしかめっ面になった。
「言葉通りの意味です。人間から見れば多くのことを、意思だけを引き金に実行できる能力が与えてさしあげます。代償は貴方の身体と魂を削ること。
星を見ただけでその時間が分かり、月を見ただけでその場所が分かる能力には或る余録が付け足されている。蓮子、貴方はそれについて考えたことがあるかしら?」
「ええと、時間と空間の操作につながるわね」
「つながりません。
余録とは、世界を知ることができる点です。場所と時間の絶対値を読み取れるということは、他の場所や時間の全てと繋がることができるということ。
もちろん参照するだけで利用はできませんが、その膨大なエネルギーと線を結べるのが宇佐見蓮子という子供の特権です。
あちらの蓮子と比べて練り上げられている貴方のラインは太く、今の私でも世界から力を取り出せる。そして私はその力を利用して魔法のようなものを扱える」
「貴方、魔法使いなの」
「可能性空間を虱潰しに当たることのできるような力は、人間から見れば魔法と大差ないと思いますけど。ただし、力の通過点となる貴方はただの人間なのですから、あまり大きな負荷には耐えられません。それが先ほど言った代償の話。
幻想に対する手段としてのみ使う、程度であれば問題無いかしら。
さあ、私が本体の元へ戻るまでに残された時間は一晩といったところ。それまでに解決できるかどうかは貴方次第」
蓮子は扉の向こう側を、メリーを見た。彼女が偶像であるのは少女自身にもわかっていた。睡眠学習は不幸にも多くの概念と単語を蓮子の脳に詰めんこんでおり、そこには彼女の心情や状況を表すために使える物も多く含まれていた。
少女らしい感傷と感受性でメリーを言語化せずに放っておくのは不可能であり、その意味で蓮子は冷めていたのかもしれない。
偶像のために身を削ることを蓮子は躊躇していた。
「意外ね」
紫が言う。
「友人のためならばすぐに飛びつくと?」
「先ほどの剣幕を考えれば、そうなるかと。思慮分別がある」
「臆病っていうのよ、こういうのは」
蓮子は立ち上がるとしばらく目を閉じてから聞いた。
「ねえ紫、メリーって何?」
「貴方だけの幻影」
「私が聞きたいのはそういうことじゃない。そちら側にも宇佐見蓮子とマエ……メリーがいるのであれば、双方に何かしらの関係があると考えるべき。こちら側のメリーって、そちら側のメリーの影に当たるの?」
「残酷なことを臆面もなく言うのねえ」
紫は蓮子を見上げたまま笑った。
「私達の世界とこの世界の、何かしらの距離が近しいということだけは確かです。貴方たち宇佐見蓮子という存在を通してマエリエリー・ハーンの姿が投影され、それを貴方が観測しているという見方は魅力的ですが、逆もまた然り。
影を写し出した先の影が裏返り、肉を持つことも珍しいことではありません」
「貴方がどういう妖怪か、少しわかってきたよ。胡乱に胡乱を重ねたような人ね」
紫は座ってニヤついたままだ。
「投影とするならば、私がガラスや鏡を通して見ていたのは何に投影されたメリーだったの」
「幻想を映し出すための銀幕もまた幻想です。貴方はたまたま適切な形をした幻想にメリーを映し出せたのでしょう。そのうち焦げ付いて使い物にならなくなってしまうような安物なら、道端に落ちていることもままあります」
「じゃあ長い間、少なくとも人間が死ぬまでの時間は使用できる幻想を、今晩限定の魔法で作り出すことは可能かしら」
「先に貴方の身体が焼き切れる」
「この街で見つけ出すことは?」
「あるいは可能かもしれません」
「二百年前の残滓がどこかにあるかもしれない、か」
「何ですって?」
「昔の技術交換の欠片がどこかにあるかもしれないってことよ。妖怪の置き土産が……ああ、そこも貴方の世界と違うの? 説明だけで一晩の半分は消えちゃう気がしてきた」
「魔法でも使えるなら、この程度の記憶共有はすぐでしょうね」
「そうくるの。私が持っている知識の全てを貴方が読み取るとして、代償はどの程度かしら?」
「指の爪先が一欠といったところ」
「傷つくわね。やり方を教えて頂戴」
「少しは臆病になったらどうなの」
「知らなきゃ臆病にもなれないわ。さあ、どうやるの」
「空を見上げてどうしたいか願いなさい」
蓮子は天井を見上げた。そして右手の人差し指に燃えるような熱が走ったために反射的に視線を走らせると、そこから細く白い煙が一筋立ち上っていた。
闇の中で白々と光る煙、明らかに現実のものではない、星じみた光はやがて立ち消えた。人工灯を点けて見れば、爪の先が多少欠けているだけで指には火傷ひとつない。
「実際に燃えるわけではないけれど、肉はしっかり損なうわよ。痛みも今体験した通り。願いはかなえました。色々と閲覧させていただきましたわ。それなりに憂鬱な話もちらほら」
「じゃあもう一度。この街でメリーを映し出すための幻想を求めるのは有意義かしら」
「ええ」
「なら約束しましょう。私は貴方と、もう一人の私の実験を手伝う。その代わり、私のメリーを救うために一緒に行動してもらう。協力的にね」
「最後はあなた次第よ。でも優しいふりはしてあげる」
紫は笑って立ち上がると蓮子に身体を投げ出し、吸い込まれるようにして消えた。
「ああ、やっぱり隙間にいると落ち着きます。とりわけ人間の中は隙間の宝庫ですもの。よしなに、蓮子」
蓮子の心の中で言葉が残響する。
「どこが優しいのよ。人の身体へ勝手に立ち入って」
「優しいのはこれから。少しだけ好意を差し上げますから、少し空を見てくださらない?」
顔を上げた蓮子の体中から幾筋の煙が立ち上ったが、やって来たのは鋭い痛みではなく、風邪のような熱っぽさだった。
「代償の負荷を全身に広げれば、気分的に楽でしょう? メリーを持ち運べるように取り込みました。今は私の中に収めてあります」
蓮子が扉の向こうを見ると、確かにそこからメリーの姿は消えていた。
「幻だからこうする必要もないのでしょうけれど、事が成る時にピント合わせ程度の役には立つと思いますわ」
「なるほど。で、身体が火照ったままなんだけど、憑き殺すつもりかしら」
「夜を延ばしてあげてるのに、つれない言い様ですこと」
「時間操作してるの?」
「その点に関しては人間が大仰なのです。妖怪は夜の間は力強く、日の出とともに衰える。そして日の運行を遮りうる者は確かにおりません。
ですが、与えられた夜の間を自らの裁量の内に多少引き伸ばす事は可能なのです。時間操作などという莫大な無駄をせずとも」
「人間にはわからない感覚だけど、時間をもらえるならありがたくもらうわよ。ああ、凄くお腹が減ってきた」
「副次的な代償です。楽しみね、ここの食事は。貴方越しに味わうとしましょう」
「それはそれは、お楽しみに」
蓮子は扉に手をかけると、誰もいない中空をじっと見つめてから勢い良く、盛大な音を鳴らして閉めた。
山々と多くの河水を含む盆地に遠野は今も存在している。結界学の発展は地勢に新しい価値を見出し、首都であろうと区画整備には自然からの流用が好ましいと判断された。
故に人が暮らすための場所は土地ではなく空を覆う棚状の人造地と地下へと求められ、巨大な蟻塚さながらの都市を生み出すに至っている。
その中で一番背の高い星線観測塔の灯を横目に、蓮子は歩いていた。夜もずいぶんと深くなってきたが通行人はまだまだ多い。
前からやって来る酔った社会人の団体をかわすと、観光客たちとすれ違う。その中に混ざった金色の髪をした少女の後ろ姿をメリーと重ね、同時に紫の事にも考えが飛ぶ。
同行することになった紫は目的地の探査をしていることになっていたが、実に信用はならなかった。見慣れぬ物を見つけて質問攻めにしたり、眠りめいたものに沈み込んで反応がなくなったり、理由もなく蓮子の内側から出てきて走り回るのはしょっちゅうだ。
元の性格に加えて損壊したとなれば不安定なのも当然と妖怪は嘯き、ある時など、すれ違った他人の中へ入り込んで心の中身をいじりもした。
人間がどの程度違っているのかを確認するためであり、人間への悪意は妖怪の本能だと言い放った紫に蓮子は溜息をつくのみだった。
他人への興味は薄く、特に今夜は
「ふらっぺ、ふらっぺ」
無邪気な声で歌う紫の声も合成音声のそれと違いは無いように蓮子は思う。とはいえ手にした甘味を口に入れると、嬉しそうにする紫には気を良くした。二口目を味わおうと使い捨ての蓋付きカップに口を近づけると、適量の氷と果実のミックスが宙に浮き上がり、蓮子の口に吸いこまれる。
「この技術は妖怪由来ね」
「どれ」
「食物が勝手に口へ運ばれてる」
「ええ? あー。そういえばそうか」
「辺りを見渡せばありとあらゆる部分で使ってもらえているようで何よりです。おぞましい」
「技術に卑賤なんてないでしょ」
「ヒトの皮と筋と腱で動く巨大な絡繰りの真っただ中に置かれても、同じことが言えるかしら」
蓮子は咀嚼を止めた。
「妖怪の国からの技術交換って、そういう意味だったの?」
「まさか。ただ、我々は想念の生き物です。能力が理論や仕組みに洗練されたとしても、どうしようもないほど面影を残してしまう。人間にはただの方程式としか見えない物も、見る者が見れば骸そのもの。
私は今、潰れた手足と骨で組まれた街の中にいるのです。屈辱こそ無いにせよ。メリーにとっても不幸な状況よ。おわかり?」
「メリーを容れるだけの余地を残した場所は貴方の想像より少ない、という事ね。二百年前に編み出された技術に依らず、妖怪が好みそうな場所なんて数少ないもの。きっと一晩で回りきれそうなほどに」
蓮子は携帯端末に収められた書庫を開いた。そこには多くの怪異と幻想に関してのメモが収められており、そこから遠野に残る妖怪の跡地と、結界学に裏付けられた霊地に関する物をすぐ読めるように抜き取っていく。
粗方をまとめた蓮子が指先を滑らせると、行き先の候補全てに順路と到着時刻が記された地図が作成された。
「単純な演算ではないね」
「アンタ、妙に計算と数字に興味が有るわね。正体算術の妖怪とかじゃないでしょうね」
「数字いじりが趣味なのです。未来予知じみた動きも感じるし、この地図を動かしている根幹に何があるか知っていて?」
「通信網の速度強化と暗号化に使用されてるプログラム、としか。シルマシって呼ばれてる」
「なるほど。まずは何処へ向かうの」
「アジカダにしましょう」
そう言って蓮子は笑った。ここから地下三十九層になるアジカダへ向かうには一時間ほど要するのだが、今の蓮子であればおそらく二十分もかかるまい。夜を延ばす紫の術は確かに有用だった。多少の健康を引き換えるにしても。
うずうずしている紫のために冷たく甘い飲料を喉へ流し込むと、蓮子は最寄り駅へと向かった。
この遠野においても列車は人々を運ぶ足として現役であり、ただ上下に移動する点において紫の知る物と異なっていた。階層都市として発達したこの地を文字通り縦横無尽に走るインフラのひとつ、クマナゲ線の車両に乗り込む。車両の中に人はまばらで、黒、茶、金、白の髪がぽつりぽつりと見えるだけだ。
蓮子が席に座ると紫が言った。
「ここの駅名を始めとして、どうも聞いた覚えがある名称ばかりね。私の知る遠野、そこに伝わる怪奇の名前」
「妖怪由来の技術が多いから、ネーミングなんかにそのまま流用されたり、あとは結界学が浸透しすぎてるからじゃないの。元になる物を残すような処理をするって話よ。名前を残すのもその一環でしょう」
「おかしなものよ。『太郎が今日の朝、花子に乗り遅れて遅刻した』なんて会話が成立してるんだから」
蓮子は笑い、手書きの手帳を取り出した。そこには手書きの文字がびっしりで、先ほどの携帯端末のメモと内容を同じくしていた。
「ねえ、この場所って見覚えがある?」
風景が撮影された写真を見ながら蓮子が言った。
「いえ。でもここは、マヨヒガよ」
「さすが。これはコピーだけど、妖怪の国を撮影した貴重なものよ。お守りにしてるんだけど、妖気とか入ってないかな」
「あるわけないでしょう」
「失礼。じゃあ、記録だと妖怪の国は龍が生み出したっていうことだけど、これは本当なの?」
「関係はしましたが、別に龍が無から創造したわけではない。そういったことも人間側の方には漏らさなかったのね。急所になりかねない歴史や生い立ちは適当に嘘を混ぜて伝えている」
「嫌われてたのね、私達」
「おそらくは。ここからは私の想像になりますけれど、仮にこの地にあった場所が私のよく知る場所と同じであったならば、そこの住人は新しい居場所を見つけたか、見つけるために姿を消したのでしょう。
去り際に挨拶ひとつ残さなかったということは、ここの人間達に愛想を尽かしていたはずです。そしておそらくは恐れてもいた」
「時空間移動かしら」
「したのであれば空間移動でしょう。未来へは行っていないはずです。向かうべき座標が膨大すぎて危険極まりない。そして過去へ向かうのは、私のように可能性世界への移動ではないのですから同一体の矛盾が生まれかねない。それも共同体での跳躍となれば、やはり危険すぎます。
どちらにしろ、今は別のことを考えるほうが有意義だと思いますけれど。せっかく私の目を引く物もなく、退屈な電車に揺られているのですから」
蓮子はこれから旧時代の結界区域――寺社を中心に移動していくつもりだと告げると、即座に却下された。多くの場合、寺社は祭祀のために専用の配置を用いられていて、外部からはすでに閉じられている事がほとんどだからだ。
「先住民が居るわけか」
「山人を見つけた人間のようなことを言うのね」
紫の言語は直接蓮子の頭へ伝えられている。胸の奥に息づく妖怪からの意志は、どのようにして細やかな所作も理解できるようになっており、姿の見えぬ相手とのやりとりは言語に限る事に慣れた蓮子を戸惑わせる。
とはいえそこは柔軟な彼女のこと。すでに相手に返事をする時、自らの肉体的な動きをイメージとして付け加えていた。退屈そうに寝そべる紫の姿が脳裏にちらつくために、蓮子はそれを意識の外へ転がそうと躍起になり、その都度横になった妖怪の想像は戻ってきた。
幾度かおちょくられた後に、蓮子はそのイメージを止めた。
「オッケー、紫。どこまで考えてるのか知らないけれど、インスピレーションをありがとう」
「どういたしまして」
「優先して回るのは人のいない、見落とされた、行政の手も回っていない場所にしましょう。私達が今夜最初に出会った場所のように」
蓮子は帽子を一度脱ぎ、髪へ手櫛を加えてからかぶり直した。
「でも、言いたいことがあるんならハッキリ言いなさいよ。フラジャイル」
「貴方は少し遠慮をなさい」
タイマグラ区のアベガに二人が到着したのは満月も下り坂、日が近づいたと言えぬでもない時刻。闇の中でも物が見えるよう視力に魔法をかけた蓮子の頬を霧雨が濡らす中、紫が言った。
「ここなら良いでしょう」
蓮子はたどり着いた場所をじっと見ていた。首都の中心域と外縁部の狭間に位置する高台、どの都にもある忘れられたかの如き閑地が今や目の前にあり、剥き出しの土を濡らすばかりだった。
か細い電灯が遠くへ数本見え、木はまばら、建造物は皆無であり、住宅地にも観光地にもならぬ見落とされた場所には闇と少女があるのみ。
「あとは鏡を持ち込めばいつでもメリーに会える。異界への入り口、窓枠が必要なのよね、この場合。端末のカメラ機能でもいけるよね」
「写ればなんでもいいはずよ。宇佐見蓮子は単純なのですから」
「最後まで口の減らない奴」
多くの喜びと一抹の寂寥を隠しもせず、蓮子は携帯端末を起動した。
それを街は待っていた。
遠野の首都としての歴史はまだ浅かったが、齢を重ねるにつれ人々はつのり、その北や南にビルがきらめき、東や西の地下は掘り進められ住処が拡がっていった。草が生えるがごとき雑多な繁栄を街は微睡んで享受し、そして常に忘れなかった。
街はまず聞いた。そして嗅ぎ、見た。黒い帽子を被った少女を。昨日までは確かに人間だった彼女を。次は触れなければならぬ。撫で、梳き、抱き、解し、こぼして溶かさねばならぬ。
街はやるべき事だけを知らされていた。街は味わわねばならなかった。だからそうした。
蓮子は不意に五人の少女が周りに立っているのを認めた。長く、顔を覆うように垂らされた髪の色は金。紫色の服装も細い体格も全て同一人物と見紛うほど似ている。
彼女らは何もない処から現れたようであり、それから姿がはっきりするにつれ、その佇まいが無気力なものでありながら力に溢れ、現実味を帯びて見えた。蓮子は目を離すこともならなかった。
彼女たちは慎ましさも小心さもなくつかつかと歩み寄り、その手全てが蓮子の身体のいずれかを掴んだ。蓮子の手から携帯端末が滑り落ちるのと、紫が注意を発したのはほぼ同時。
身体からあらゆる重力が失われた。超自然的な手法を用いたのであろう、一息の間に地面へ大穴が空き、そのくせ蓮子は地面が残っているかのごとく立っていたにも関わらず。
足裏は固い地面の感覚を伝えてくる一方で、落ち続ける浮遊感もまた無視できぬほど強い。さらに正体不明の少女たちの腕もまた確固たる物だ。
蓮子は今や完全に困惑し、恐怖と苦悶に呻いた。そして見た。地面に空いた物と同じ濡羽色の穴が自らの周囲にいくつも浮かび上がるのを。
その貪欲な顎(あぎと)から火箭(ひや)の群れが蓮子の身体に注がれると、少女が悲鳴を上げるよりも早く、その体を貫いていった。
四方八方から突き出されたのは細く長い杭の数は九の九倍、地質調査のボウリングのように中は空洞となった針は蓮子の喉、胸、筋肉、骨、内蔵、心臓へ最小限の破壊で到達し、反射で収縮する少女の頭が空を見上げた。
次の瞬間に蓮子は別の場所へ立っており、そのまま地面へ崩れ落ちた。先ほどの場所から最寄駅へ繋がる歩道の真ん中、街灯から光が落ちる場所で、倒れた蓮子の体中から星の霧が吹き上がっていた。それを傍らに立つ紫が無表情で見下ろしている。
蓮子が空を見るなり、紫は覚えのある座標への空間跳躍を行い、同時に体の傷も塞いだ。
背を丸め体を抱きしめ震える蓮子からは一滴の血も溢れていなかったが、今しがた使用された力の代償は目につかぬ部分で呵責無しに少女を傷めつけていたし、なによりも死の残照が至るところに注ぎ込まれ、こびり付いていた。
致命的な深さまで肉を割かれる感触、全身へ伝わる骨が砕ける音。全てが彼女の魂を脅かした。
顔中を濡らして嗚咽する蓮子を覗きこむような姿勢のまま、紫は微動だにしない。彼女にも何らかの衝撃があったのは間違いなく、そのために機能不全を起こしたのか。もしくは珍しい人間の反応をつぶさに眺めていたのかもしれぬ。
どちらにしろ、陰から街灯の下に出てきた金色の髪の少女に紫は一瞥もくれず、少女もまた紫など居ないかのごとく振る舞い、蓮子へ緩やかに覆いかぶさっていった。白い霧がなお燻る体に渾身の力を込めてそれに抵抗する混乱の中で蓮子は知った。
つい先程、全くの突然に、見知った世界は焼き払われ、埋葬されてしまったのだと。
蓮子は泣きじゃくりながら、右の瞳で顔の見えない少女を見、左の瞳はこちらを見下す紫を捉えている。そうして揉み合う間に再び身体から重力が奪われ辺りの空間に穴が穿たれると見るや、蓮子は紫の足首を握り締めて今度は自分の意志でそこから消えた。
苦痛に呻きながらも、今度は道に膝を着くことなく蓮子は歩き始めた。至る所から伸びてくる金色の髪と細い腕をかわして逃げ続け、やがて暗い場所には追手が来るまで時間がかかる事を知った。あの恐ろしい穴と言えば動き続けている間に出会う事は無かった。
蓮子は光の少ない路地を選んで宛もなく進み続け、郊外へ向かっていく内に停止した妖怪が復調すると、やがて口を開いた。
「あれは罠だったのでしょう。何かの拍子に戻ってきた妖怪を囚えて腑分けを施すための装置を、我々にとっては身内の残骸に囲まれることのない空白地に置いておく」
「私はそれに引っかかった。おそらくは今夜、アンタと出会ってから私は標的として観察され、人間以外だと判定された。正しい事に」
重い心を抱きながらも蓮子は歩くことを止めなかった。解決策は見い出せず、残された時間も多くはない。さりとて街におぞましいやり方で殺されるのを受け入れる訳にもいかず、さまよい続けた。
少女はあまりにも多くを失っていた。家族、住処、友人、将来、歴史、尊厳。すべてを取り戻す手段がどこにあるだろう? 魔法に願えば可能であろうか? ではそのために蓮子をいかほど裂けばよい? 到底不可能だ。
灯が全くない廃棄された雑居ビル、最後にメリーを見た扉の前まで蓮子は戻っていた。壁にもたれて座り込むその体から立ち昇る霧はきらきらと光っている。帽子を両手に抱えた蓮子に、紫が言った。
「夜空を見て、妖怪になりたいと願いなさい。そして東京に向かい、私の本体ともう一人の宇佐見蓮子がやって来るまで身を隠すのです。
あの追手は二百年前からの技術すべてに埋め込まれていますが、古都であれば多少はまし。故郷であれば地理に疎いということもない。
人間に比べて強靭な妖怪になってしまえば逃げ切れるし、そうして私と出逢えば向こう側の妖怪の国、幻想郷へ連れて行ってもらえるはずよ。生き延びたいのであればそうしなさい。
この世界は我々にとってすでに砂漠、貴方はたまたまそこに落とされてしまった植物の種子なのです。救わずにおけましょうか」
「メリーを置いていくわけにはいかない。この世界に私があってこそ、メリーもまた存在できる。逆ではないのよ」
「わずかな幻想の水面に写った白百合を見て、貴方は惹かれただけにすぎない。もう水たまりは干からびて消えるのみ。こうなってはもう、どちらにしてもメリーは消える」
その時、外壁に取り付けられた扉が凄まじい音を立てて鳴った。ゆっくりと、二度、三度。軋んで変形していく扉の向こうに何がいるのかを二人は知っていた。
蓮子は天井を見上げて言った。
「幻想郷へ導いて、紫。今この世界に残された、閉じかけている瀕死の更地へ」
「そこで助けを待つのは無理よ」
「いいえ、呼ぶの。幻想郷を。二百年前の妖怪たちを、失われた幻想の湖を。これでね」
蓮子は片方の指で自分の瞳を指さし、もう片方の指で手帳から写真を取り出した。少女は立ち上がりながら帽子を深くかぶった。走っても落ちてしまわぬように。
「さあ、教えてよ導師。私は何処へ向かえば忘れられた地へ、マヨヒガへたどり着けるの」
答えを聞くのと扉が捻じ切れるのはほぼ同時。向こう側から入り込んでくる金髪の少女たちをすり抜けるように煙が巻き上がり、その中から蓮子が何もない宙へ飛び出し、空へ向かって駆け上っていく。
霧雨は既に止み、雲も風にずいぶんと流されたのかちらちらと星が覗いていた。この街で一番高い所、星線観測塔の頂上を目指して蓮子は己を削りつつ一人走った。何もなければ追手も現れることは叶わぬ。
紫は妖怪たちが消え失せたのではなく何処かへ向かっていったのだと言った。おそらくは再び人間の介入を許さない場所を目指して。そして現在の幻想郷はといえば、見棄てられ、全てから顧みられず閉じた世界となっていた。
蓮子は過去の幻想郷に未来への時間跳躍を行わせるつもりだった。メリーが存在する余地を生み出すために。紫が言った。
「貴方が消えればメリーも消える」
「いいえ。映し出された白百合の水影をメリーと名付けた私が消えても、それは白百合が枯れない限り、水面がある限り残り続ける。観測者なんていらない。私が消したくないのはその風景なのだから」
「私達に出来はしない」
「じゃあ今から私がやろうと考えていることの確認をさせて。すで察してはいるだろうけれど」
さて、時間移動に関しては完璧な座標が必要だとも紫は説明している。時間と場所、その完璧な絶対値。偶然にも宇佐見蓮子はそのふたつを得ることができたが、表現方法は人間の幼稚な数字でしかない。過去の幻想郷との連絡が叶わぬものである事も紫は蓮子に口説いただろう。
答えは先程ビルの中ですでに蓮子が示している。消え去る前の幻想郷の風景は写真となって現存していた。紫が言ったではないか。高性能な式神であれば、風景から時点を読み取ることは可能だと。そして紫は欠けているとはいえ、式神以上の者だった。行くべき過去は既に記されている
「そして現在の幻想郷の座標は私が観測すればいい。満点の星空程度の情報があれば、幻想郷の時間移動は可能かしら?」
「可能よ」
「私がその情報をアンタに伝えるようになること、そしてその情報を携えて過去へ向かうことが出来る力の確保は可能?」
「不可能よ。身体が保たない」
「私が死ぬのであればどうかしら」
「可能よ」
耐え切れなくなった指の一本が弾けて霧と化した頃、蓮子は遂に遠野の頂点に降り立ち、東を、朝の光に紅く焼かれはじめている遠い空を見つめた。金属の柱で編まれた塔の下からは次々と追手が這い出ており、強風が吹き荒ぶ中、金色の髪を滝のようにうねらせてよじ登って来る。
その日最初の陽光が差し込むと同時に蓮子の姿は消え失せ、後に残った霧はすぐさま風に千切られて見えなくなった。
マヨヒガへ残されていたのは荒野と光のない空だけ。草一本たりとも残されているものはなく、星ひとつといえども灯されてはいなかった。地面より突き出した岩に座り、湧き昇りさやけく煙を上げて苦痛に耐える蓮子の他には何もない世界。
しばし後に蓮子は立ち上がり、よろけながら空を見た。呟かれたのは時刻と場所、彼女にとっては馴染みの、紫が言うには幼稚な言葉と数字の羅列であり、岩に座ったままの妖怪は応えもなくじっと見つめている。
蓮子が再び呟いた言葉は先程よりも多少詳しく、長い時間を必要とした。身体からより多くの煙が上がる。
それは次々と続けられていった。重ねられていく度に前の物よりもより深く、より細かく、より鮮明に告げられては途切れ、また初めから繰り返された。
やがて言葉だけで足りなくなったのか、何かしら別の要素、見振りや感応力が動員され、呼吸、四肢、髪の動き、今や身体を覆い尽くす勢いの霧を以って紫に伝えた。そして最後に、蓮子は人の言葉を捨てるに至った。
高らかに、人間にとってはまるで意味を成さない音の上下が少女の口から次々と生まれて来るこの段階になった頃、蓮子はすでに人間ではなくなっており、身体中のそこかしこから光の粒が飛び散った。
この灰を叩きつけられた紫は、その部位が尽くはじけ飛ぶように抉られたが、その下からは血肉やそれ以外のおぞましい傷が覗くのではなく、膚からは膚の、服からは服の、髪からは髪の完璧に同じ物が姿を現した。
心臓を含める器官がいくつも破れるか霧になった頃、ようやく蓮子の声は止まった。身じろぎもせず空を見上げる蓮子の瞳には、自らが変換されて立ち上る光の粒と何も無い黒い空があり、まるで夜空のようではあったが何も読み取れない。
蓮子は生まれて初めて、何処に居るのか解らない夜空を眺めていた。彼女の顔に浮かぶのは歓喜、陶酔、わずかな恐怖、それら全てに勝る諦念だった。
何においても終わるということはそういう事であり、生命が止まる時においてもそうなのだと蓮子は知った。まだ十一であったのに。
やがて見知らぬ空も見飽き、ふと一人で消えるのが寂しくなった少女は紫へ視線を戻した。
メリーが立っていた。存在するはずのない友達は無表情で、そこから感情を推察するには蓮子の機能が変わり過ぎていたため、彼女は想像で補うことにしたがそれも巧くはいかなかった。蓮子は結局、メリーから何も読み取れないままだったが、それでも最後に笑ってみせた。それで全てが事足りた。
メリーの顔はなおも静かでしんとしており、冬の蓮の如き沈黙を以って消えゆく少女を送り出そうとしている。
蓮子の胸中を飛び交った言葉は様々であったかもしれぬし、もっとも単純な言葉ひとつであったかもしれぬ。星との感合を済ませた後とあっては人間以外の言語が胸までせり上がってきた事も有り得る。
とはいえ、結局発せられた言葉は一言だった。別れを友人に告げるや否や、宇佐見蓮子の全ては霧散した。
メリー、蓮子の親友の姿へと変化していた八雲紫はその姿のまま、蓮子から引き出した力を使って約束を果たした。彼女の周りへ数多のスキマが浮かんでは消える。まばゆい紫、くすぶる縞瑪瑙の深緑、灼熱する鋼鉄の白、滴る鮮血の朱などが一千万ほど燃え輝いた。
無限の黒宇宙にひしめく星屑たちは、始まりと同じく突然全てが枯れ果て、その跡にひとつの人影が跪いていた。闇の中で仄かに光るの九つの尾は年古りた狐の物。
紫は一瞥もせず、代わりに右の掌で顔の半分を隠した。その指の間から覗くのはメリーの物ではなく、紫本人の眼。
「お手数をお掛け致します、我が主ではない八雲紫様」
八雲紫の式である八雲藍は、地面を見たまま言った。
「これも縁。全て整えられています。半端な顕現の身ではありますが、質問があれば答えましょう。あるとも思えませんが」
「ございません。この地の情報は私に持たされた式と全て符合、もしくは誤差の範囲内で収束しております」
「それは重畳。急ぐ身ゆえにこれから行われる時間旅行の見物もできかねますが、久しく健やかにとお伝えしてください」
「主へでしょうか」
「全ての者に」
「畏まりました」
八雲紫は左右を見渡した。この大地の上に長く重く横たわり、意のままに振舞っていた空虚は既に立ち去り、いまでは同じ面を持ちながら別の者が、余地が生まれているのが感じられた。
「私から一つ伺ってもよろしいかしら。八雲藍」
紫が言った。
「すぐに主へお繋ぎします」
「貴方で構わない」
「はい」
地面を見つめたまま肯首する藍の顔に疑問が浮かぶ。
「貴方は、竜の歌声を聞いたことがありますか?」
「いえ。寡聞にして」
三秒の深い沈黙があった。
「私はもう去りましょう。さようなら、八雲の式」
開いたスキマへ八雲紫の服の裾がすっかり飲み込まれると、その場に残ったメリーの希薄な身体が傾き、崩れ落ちる前に宙へ溶け去るように消えた。
同時に、この世界の二百年前からやって来た八雲紫が藍の背後に現れた。
「藍。もう一人の私は何をまごついていたの。おまえのせいで手違いでも起こしたんじゃないでしょうね」
「滅相もありません。かの方は完璧でした、紫様と同じく。ただ」
口を閉じた藍を無言で威圧して、紫が先を促す。
「龍の歌を聞いたことはあるか、とお尋ねになられた後、泣かれておられました」
「たわけ。妖怪が、私が真の意味で泣けぬ事は知っているでしょう」
八雲紫はあたりを見渡して言った。
「取り急ぎ、移住を始めてしまいましょう。予定通りすべての者が力を合わせれば、一日もかからず終わります。ついでに外の人間どもから、二百年貸し出していた物も全て返してもらうとしましょうか」
「それも一日でやるおつもりですか」
「引っ越しだけでは物足りぬ者も少なくないのです」
彼女たちは何も知らぬまま、これから新しい幻想郷へ移り住むのだ。自分たちが飛ばした二百年余りの時間に生まれ育った一人の宇佐見蓮子という少女を、そして彼女を看取った妖怪に手渡された言葉を知らぬまま。
別世界での冒険を終えた紫は本体の元へ戻り、体験の全てを吸収された。彼女はその中に蓮子が付けた傷を見出して味わう羽目になり、密かに驚いていた。
あの世界へ投影されたメリーの残像を知るのは今や自分のみなのだ。ただ一人、ただひとつから隙間は生じぬ。常に対立項を求め、もしくは産み出さねばならぬはずのスキマ妖怪にとっては矛盾であり、その矛盾を解消できる人間の観測者は永久に失われてしまった。
小さくはあるが癒えぬ傷を付けられた紫は、その痕を慈しんだ。癒やすつもりもなかった。これこそが生命を輝かせるための火種。
「なるほど」
蓮子が最後に伝えた言葉を、紫は口にした。
「後悔はない」
全部理解できませんでしたが雰囲気がよかったです
高度だがやってることはなんのことはない、いつもの蓮メリちゅっちゅなので
問題なかった
まあそれなりに楽しめたのだけれども。
助かります。
科学と幻想がよい塩梅で混じって、どことなくカッコよさを感じました。
嗚呼、もっと読んでいたい、そう思わせる情景と、切ない余韻の残し方、素敵な作品だと思います。