四話 朱雀
朱雀門――その楼上の更に上、屋根瓦の上に立つ影が一つ。欠けた月影に照らされた黒い烏帽子と直衣を見て、初めは酔っぱらった官吏が門の屋根に上ったのだろうかと思った。
しかし、よくよく見てみれば、その足元は微動だにせず、爛々と輝く両の瞳が、空を駆けて近づくこちらを真っ直ぐに見据えていた。
「微塵も隠密せんまま京の空を駆けるとは、中々良い気概じゃな!」
その者は、少女の声で朗々と声を上げた。
「……あんた、誰よ?」
雲山をその者から少し離れた中空で停止させてじっと見下ろせば、そこには一人の少女が、肩上まで伸びた髪を夜風に揺らしながら、腕を組んで堂々と仁王立ちしていた。
「我か!我はこの朱雀門を根城とする鬼じゃ!名は特に無いが、不便であるならば朱雀と呼ぶがよい!」
自称鬼の少女は、京全体に響かせるかの如き大音声で名乗りを上げた。
「あんたが、朱雀門の鬼……?」
「あんた、ではない。朱雀と呼べ」
不満げにそう言うこの少女が、羅城門の鬼の言っていた朱雀門の鬼?彼女の話では、相手は男だったはずだが。
村紗も同じ疑問を感じたらしく、私の背後から身を乗り出し、眼下の少女に声を投げかけた。
「朱雀門の鬼って、男じゃないのですか?」
すると少女は、不思議そうな顔をしながらまた大声を返した。
「我は初めから少女じゃよ。まぁ、衣服は男物じゃが、ここにちゃんと角もある」
そう言って烏帽子を脱げば、確かに、カラスのように黒い髪から分け出でて、天へと伸びる立派な朱色の角が一本、少女の頭部に生えていた。どうやら、この少女は本当に鬼らしい。
「けど、羅城門の鬼は、あんたを男だって言っていたけど?」
羅城門の鬼と聞くと、少女は「あぁ」と得心したように頷き、言葉を続けた。
「羅城門の鬼とは、今羅城門におるババアのことじゃな。あやつは角付きのくせに力も弱き臆病者でのう……我に直接挨拶にも来んのじゃ。まぁ、そんな奴じゃから、大方、夜半に笛吹く我の姿を見て、この雅な装束から男だと勘違いしたのじゃろうて」
全く仕方のない奴じゃ。そう言葉を結んで、少女はため息を吐いた。
「つまり、あんたが正真正銘の朱雀門の鬼ってわけね」
「あんた、ではない。朱雀じゃ。何度も言わせるでない。じゃが、我こそが朱雀門の鬼じゃ。そして、失礼なお主は人間じゃな?」
「えぇ、そうよ」
「何故、人間が妖怪と共におるのじゃ?」
「……約束したからよ」
多分、きっと、おそらく、そうだ。少なくとも、雲山はいつもそうとしか言わない。
「ふむ……なるほど。それならば納得じゃ」
意外にも、鬼の少女――朱雀は、それで納得した様子だった。
「納得ついでに、こっちの質問にも答えてもらえるかしら?」
「良いとも。答えられることならば、全て嘘偽り誇張なく伝えようぞ。じゃが……」
「……何よ?」
勿体つけるように話し渋る朱雀に苛立ち、急かす。すると、彼女は待ってましたと言わんばかりにニカッと笑った。
「話すならば、もっと良い所があるぞ?」
「別に、長話するつもりはないわよ」
「我はそのつもりじゃよ。何せ、何十年ぶりかの客じゃ。手厚く持て成させてもらおうぞ」
そう言って朱雀は、躊躇うことなく屋根から飛び降り――たかと思いきや、空中にふわりと浮かび、空を舞うようにして楼内に飛び入っていった。
「どうやら、こっちは本物の鬼神みたいですね!」
「そうね」
興奮した様子の村紗に何度目かの呆れを覚えながら、雲山に頼んで朱雀の後を追い、朱雀門の中に入る。
罠があるのではと多少の覚悟はしていたが、少なくとも、入り口に罠はなかった。しかし、いくつもの燭台で照らされた楼内は、尋常ならざる程に酒臭かった。たまに寺に来ていた和尚の旧友が大酒飲みだったから酒の臭いと言うものを知っていたが、そうでなければ、ここに充満しているそれを毒の香か何かだと勘違いしてもおかしくはなかっただろう。
「お、逃げずに来たな」
畳の上に所狭しと転がる酒瓶や食器や調度品などを熱心な様子でがちゃがちゃと部屋の隅に押しやりながら、こちらに背を向けたまま朱雀は言った。「適当に座っといてくれ。今、とっておきを用意するからのう」
「とっておき?」
色々と疑問に思うことはあるが、ともかくは彼女に促されるまま、畳の上に座る。小太刀だけは、いつでも抜けるよう腰に差しておく。
「そうじゃ。とっておきじゃよ」
朱雀はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、物の山からいくつか引っ張り出してきた。
「まずは、これじゃ」
それは、双六の盤だった。升目の引かれた上質な木材製の長方形の盤の上に、白と黒の石が乱雑に置かれている。盤双六のことはよく知らないが、確か、賽子と白黒の石を用いて行う遊戯だったか。
「我は博打が好きでの。お主はどうじゃ?」
「私は、ちょっと……」
囲碁なら少々打ったことはあるが、盤双六はやったことがない。しかし、村紗は違ったようで、元気よく「大好きです!」と答えていた。
「そうかそうか。それじゃあ、お次はこれじゃ」
村紗の答えに満足そうに頷きながら朱雀が次に取り出したのは、三尺はあろうかという巨大な純白の酒甕だった。どう見ても少女が持ち上げられる大きさでも重さでもなさそうだが、彼女はそれを軽々と持ち上げ、ゆっくりと畳の上に置いた。これも、鬼神の為せる技か。
「これは高級僧坊酒の一つじゃ。中々高価だったがのう。これも博打のおかげじゃよ」
キヒヒと笑う朱雀が勢いよく甕の蓋を開ければ、部屋全体に更に強烈な酒気が溢れ、思わず鼻に手を当てた。
「む?お主は、酒は飲まんのか?」
朱雀がこちらを覗き込み、心配そうに言った。
「ま、まぁね……」
「なんとまぁ、それは勿体ない!」
心底憐れむように叫ぶと、彼女はそそくさと床に置かれていた真っ赤な杯を拾い上げ、いつの間にか手にしていた真っ白な布で表面を拭い、甕に差してあった柄杓で以て杯一杯に並々と透き通った液体を注ぎ、こちらにぐいと差し出してきた。
「ほれ、まずは一献」
「え、えぇ……」
その勢いに押され、思わず杯を手に取る。そして、思う。私は別に、鬼と宴会をする為にここに来たわけではないだろう、と。つい受け取ってしまったが、この酒に毒気がないとは限らない。少女のなりをしているが、彼女が妖怪であることは十中八九間違いない。それならば、気軽に相手の調子に乗るわけにはいかない。
「む。さては、毒でも入っておらぬかと疑っておるな?」
じっと杯を見つめたままの私の心中を察してか、鬼は柄杓を酒甕の中に突っ込み、汲み上げた酒をそのまま一息に飲み干して見せた。
「ぷふぅ……。我ら鬼は、酒が大好きじゃ。故に、酒に毒など入れはせん。酒を冒涜するような真似をするのは、お主ら人間ぐらいのもんじゃて」
鬼は満足そうに喉を鳴らしながらそう言い、再び柄杓を酒甕に入れて汲み上げた酒を大層美味しそうに飲んだ。
「どうやら本当に毒なんて入ってないみたいですし、一輪さんが飲まないなら、私が貰いますけど?」
村紗のその言葉に鬼はすかさず反応し、喜びの声を上げた。
「む、お主はイケる口か!」
「えぇ、まあ。頂き物は拒みませんよ」
「そうかそうか!」
鬼は嬉しそうにまた別の杯を用意すると再び酒を注ぎ、村紗に差し出した。
「どうも。それじゃあ、いたただきます」
村紗はそれを躊躇いなく受け取り、口に運ぼうとする。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」
「え?なんですか、一輪さん?」
「あんたに毒味はさせられないわよ……」
どうせ、飲むなと言っても飲むのだろう。ならば、先に飲むのは私の役目だ。こんな所で死ぬわけにはいかないが、こんな所で彼女を死なせるわけにもいかない。
それに、この鬼――朱雀からは、何となく邪悪な感じを受けない気がする。集落を襲っていた妖怪達や、羅城門の鬼や、餓鬼や、餓鬼を使役していた火傷男などから感じた嫌な感じが、この鬼からはしないのだ。だから、心の奥では、飲んでも大丈夫な気もしていた。
「毒など入ってないと言っておろうに……」
少し落ち込んだように言いながら、朱雀は自分の杯に酒を注いだ。
「鬼の言うことなんて、信用出来ないわ」
「我は嘘など吐かぬぞ」
「羅城門の鬼も同じことを言っていたわね。鬼は嘘を吐かないって」
「む。そうか。しかし、あ奴のそれと我のそれはまるで違う。我は確かに、酒天様に嘘を吐かぬと誓った鬼じゃからな」
朱雀は自慢げに鼻を鳴らし、酒をあおった。
「酒天様?」
「そうじゃ。我らの大将じゃったお方じゃ。嘘が嫌いでのう。酒を盗む者と嘘を吐く者だけは、何があろうと赦さぬお方だったよ……」
朱雀は懐かしそうに呟き「だから、安心せい」と相変わらず根拠なく言い放った。
「……まぁ、何でもいいけど」
ゆっくりと、杯に口を浸けてみる。やんわりと冷たい液体が、唇に触れ、舌の上を滑り、口内に染みわたる。それを、喉の奥の方でごくりと飲み下す。途端に喉を焼くような熱い感覚が襲い、慌てて息を吸った瞬間、喉がきゅうと縮こまり、思い切りむせ返った。
「キヒヒヒ!良い飲みっぷりじゃあないか!」
「一輪さん、本当に初めてだったのですね……」
村紗はそう言いながら、すうっと杯の中身を飲み干し「わあ、これは美味しいお酒ですね!」と何ともないように言ってのけた。
「そうじゃろうそうじゃろう!ささ、そちらの雲の御仁も一献どうじゃ?」
「うむ。頂こうかのう」
雲山もどうやら酒は平気らしい。こっちがゲホゲホとむせ返っている間に、彼らは大層ご機嫌な様子で酒を酌み交わしている。この、自分だけが飲み慣れていないという事実に、どこか強い焦りを覚える。まるで、自分だけがまだまだお子様のように感じる。
「ゲホッ、全く、こんなッ…ものの、なにが、美味しいの、かしらッ……ゲホッ」
こんな、喉が焼けるような思いをして、何が楽しいのか。こんなもの、わざわざ戒律で禁止するまでもない気がするが。
「辛いのが苦手なら、濁酒にするかのう」
朱雀はまた楽しそうに言い、今度は小ぶりな瓶を取り出した。表面には、どういう意味だろうか「伊吹」という二文字が焼き入れられている。
「も、もうお酒は良いわよ……」
いい加減、本題に入りたい。早くしないと、もう、何だか頭が重い……。
「まぁまぁ、そう言うでない」
朱雀は私の手から杯をひったくると、再び布で拭いた後、瓶から今度は白く濁った液体をどろりと注ぎ、またぐいと無理やり私の手に握らせてきた。
「それはまた、随分と甘そうですね」
村紗の言う通り、濃厚な米の甘い臭いがむわりと漂ってくる。これもまた、臭いだけで酔っぱらってしまえるに違いない。
「あぁ。これもまた美味じゃよ?」
視界の隅で、朱雀が村紗と雲山の杯にもその濁った液体を注いでいた。
「今後はさっきのような清い酒が一般的となるであろうが、濁酒もまた美味であることには変わりはないと、我は常々、そう思うのじゃよ。とりわけこの伊吹瓶にて造られし酒は中々に美味なのじゃよ」
どこか、物憂げに呟きながら、少女の顔をした鬼は杯に並々注いだ濁った液体を一息に飲み干した。村紗と雲山もまた、杯の中身を一飲みにした。
「うん。甘くて美味しいです」
「そうじゃろう。さあて、お主はどうじゃ?こっちの娘は、中々立派なもんじゃぞ?それとも、お主はまだまだ小童かのう?んん?」
「な、なんですって……」
そんな挑発に乗せられて、わざわざ飲むわけ――。
「一輪、無理せんでも良い。無理に飲めば、損をするのは己だからな……ゲフッ」
その、げっぷ混じりの雲山の言葉で、決心が着いた。
「……良いわ、やってやろうじゃない」
「おお!そうでなくてはな!」
「よっ、一輪さん!三千世界一!」
「お、お主ら……あまり囃しては危ないぞ?」
「雲山、あなたは黙ってて。こっちは覚悟決めてここまで来てるんだから。なめんじゃないわよ!」
そう啖呵を切って、思い切り杯を傾ける。口全体に濃厚な米の甘味と酒気が広がり、喉を生温かい液体が通り過ぎる。そして、結局、またむせた。
「どうです?こっちはさっきよりは楽だと思いますよ?」
「そ、そうかもね……」
どっちにしてもむせてちゃ話にならないだろうけど。でも、どちらかと言うと、最初に飲んだ物の方が、意識が冴えるような気がして、良いかもしれない。
「その様子じゃと、お主は辛口派かのう?」
「まぁ、そうかもね」
どっちにしても、別に、また飲みたいだなんて思わないけれど。
「――さて、では、そろそろ話を聞こうかのう」
そう突然切り出した朱雀の顔は、いつの間にか真っ朱だった。この朱雀門の柱の丹塗りにも劣らぬ朱さで、角の色とお揃いだった。しかしそれでも呂律はしっかり回っており、視線も揺らいではいなかった。これも、流石の鬼ということか。
対する私は、もう大分頭が重かった。しかし、それでも、要件だけはしっかり果たさなくてはと思い、何とか言葉を紡ぐ。
「私達は……いえ、私と雲山は、ある男を探しているの」
「ほう……さては、想い人か?」
鬼のその冗談を、鼻で笑う。
「そうね。想い人よ」
「え、そうなのですか?」
「えぇ、そうよ……。どこまででも追いかけたいと想う程に……憎んでも憎み切れない……恨んでも恨み切れないヒト。強く、深く、切実に、この心の奥底から、この手で殺したいと想うヒト……よ」
言葉が、無意識の内にすらすらと出ていく。じんわりと、身体が熱くなってくる。それもこれも、酒のせいだろうか。ならば、酒も、案外悪い物でもないかもしれない。この感覚は、悪い気分ではない。
「……ふむ。その者の特徴は?」
「餓鬼を使役する男よ。顔に、頭まで届く程の大きな火傷の跡があるわ」
「……なるほど、な」
朱雀は、腕を組んで少し俯き、黙り込んだ。
「……何か、知ってるのね」
「あぁ」
「話して貰えるわよね?」
「……お主に、覚悟はあるか?」
朱雀は、目線だけをこちらに向け、静かに言った。雲山にも劣らない、深く身体に響く声色で、私に問いかけてきた。
「覚悟?」
「そうじゃ。狂い咲く悪のか細き根を知る覚悟じゃ」
鬼の、その問いの視線を、真正面から見返す。
「知る覚悟も、斬る覚悟も、今まで一度たりとも手放したことはないわ。そしてこの先も、握りしめ続けてみせるわ……」
最初からずっと、揺ぐつもりなど一度もない。あの焼け落ちた家に、供養した我が弟の右手に、掴んだこの刃に、この命を懸けて誓ったのだから。
「……そうか。ならば教えよう」
朱雀は、重々しげに口を開いた。
――それは、とある男の物語だった。裏切りと狂気の渦巻く、人間共の愚かな物語だった。
朱雀門――その楼上の更に上、屋根瓦の上に立つ影が一つ。欠けた月影に照らされた黒い烏帽子と直衣を見て、初めは酔っぱらった官吏が門の屋根に上ったのだろうかと思った。
しかし、よくよく見てみれば、その足元は微動だにせず、爛々と輝く両の瞳が、空を駆けて近づくこちらを真っ直ぐに見据えていた。
「微塵も隠密せんまま京の空を駆けるとは、中々良い気概じゃな!」
その者は、少女の声で朗々と声を上げた。
「……あんた、誰よ?」
雲山をその者から少し離れた中空で停止させてじっと見下ろせば、そこには一人の少女が、肩上まで伸びた髪を夜風に揺らしながら、腕を組んで堂々と仁王立ちしていた。
「我か!我はこの朱雀門を根城とする鬼じゃ!名は特に無いが、不便であるならば朱雀と呼ぶがよい!」
自称鬼の少女は、京全体に響かせるかの如き大音声で名乗りを上げた。
「あんたが、朱雀門の鬼……?」
「あんた、ではない。朱雀と呼べ」
不満げにそう言うこの少女が、羅城門の鬼の言っていた朱雀門の鬼?彼女の話では、相手は男だったはずだが。
村紗も同じ疑問を感じたらしく、私の背後から身を乗り出し、眼下の少女に声を投げかけた。
「朱雀門の鬼って、男じゃないのですか?」
すると少女は、不思議そうな顔をしながらまた大声を返した。
「我は初めから少女じゃよ。まぁ、衣服は男物じゃが、ここにちゃんと角もある」
そう言って烏帽子を脱げば、確かに、カラスのように黒い髪から分け出でて、天へと伸びる立派な朱色の角が一本、少女の頭部に生えていた。どうやら、この少女は本当に鬼らしい。
「けど、羅城門の鬼は、あんたを男だって言っていたけど?」
羅城門の鬼と聞くと、少女は「あぁ」と得心したように頷き、言葉を続けた。
「羅城門の鬼とは、今羅城門におるババアのことじゃな。あやつは角付きのくせに力も弱き臆病者でのう……我に直接挨拶にも来んのじゃ。まぁ、そんな奴じゃから、大方、夜半に笛吹く我の姿を見て、この雅な装束から男だと勘違いしたのじゃろうて」
全く仕方のない奴じゃ。そう言葉を結んで、少女はため息を吐いた。
「つまり、あんたが正真正銘の朱雀門の鬼ってわけね」
「あんた、ではない。朱雀じゃ。何度も言わせるでない。じゃが、我こそが朱雀門の鬼じゃ。そして、失礼なお主は人間じゃな?」
「えぇ、そうよ」
「何故、人間が妖怪と共におるのじゃ?」
「……約束したからよ」
多分、きっと、おそらく、そうだ。少なくとも、雲山はいつもそうとしか言わない。
「ふむ……なるほど。それならば納得じゃ」
意外にも、鬼の少女――朱雀は、それで納得した様子だった。
「納得ついでに、こっちの質問にも答えてもらえるかしら?」
「良いとも。答えられることならば、全て嘘偽り誇張なく伝えようぞ。じゃが……」
「……何よ?」
勿体つけるように話し渋る朱雀に苛立ち、急かす。すると、彼女は待ってましたと言わんばかりにニカッと笑った。
「話すならば、もっと良い所があるぞ?」
「別に、長話するつもりはないわよ」
「我はそのつもりじゃよ。何せ、何十年ぶりかの客じゃ。手厚く持て成させてもらおうぞ」
そう言って朱雀は、躊躇うことなく屋根から飛び降り――たかと思いきや、空中にふわりと浮かび、空を舞うようにして楼内に飛び入っていった。
「どうやら、こっちは本物の鬼神みたいですね!」
「そうね」
興奮した様子の村紗に何度目かの呆れを覚えながら、雲山に頼んで朱雀の後を追い、朱雀門の中に入る。
罠があるのではと多少の覚悟はしていたが、少なくとも、入り口に罠はなかった。しかし、いくつもの燭台で照らされた楼内は、尋常ならざる程に酒臭かった。たまに寺に来ていた和尚の旧友が大酒飲みだったから酒の臭いと言うものを知っていたが、そうでなければ、ここに充満しているそれを毒の香か何かだと勘違いしてもおかしくはなかっただろう。
「お、逃げずに来たな」
畳の上に所狭しと転がる酒瓶や食器や調度品などを熱心な様子でがちゃがちゃと部屋の隅に押しやりながら、こちらに背を向けたまま朱雀は言った。「適当に座っといてくれ。今、とっておきを用意するからのう」
「とっておき?」
色々と疑問に思うことはあるが、ともかくは彼女に促されるまま、畳の上に座る。小太刀だけは、いつでも抜けるよう腰に差しておく。
「そうじゃ。とっておきじゃよ」
朱雀はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、物の山からいくつか引っ張り出してきた。
「まずは、これじゃ」
それは、双六の盤だった。升目の引かれた上質な木材製の長方形の盤の上に、白と黒の石が乱雑に置かれている。盤双六のことはよく知らないが、確か、賽子と白黒の石を用いて行う遊戯だったか。
「我は博打が好きでの。お主はどうじゃ?」
「私は、ちょっと……」
囲碁なら少々打ったことはあるが、盤双六はやったことがない。しかし、村紗は違ったようで、元気よく「大好きです!」と答えていた。
「そうかそうか。それじゃあ、お次はこれじゃ」
村紗の答えに満足そうに頷きながら朱雀が次に取り出したのは、三尺はあろうかという巨大な純白の酒甕だった。どう見ても少女が持ち上げられる大きさでも重さでもなさそうだが、彼女はそれを軽々と持ち上げ、ゆっくりと畳の上に置いた。これも、鬼神の為せる技か。
「これは高級僧坊酒の一つじゃ。中々高価だったがのう。これも博打のおかげじゃよ」
キヒヒと笑う朱雀が勢いよく甕の蓋を開ければ、部屋全体に更に強烈な酒気が溢れ、思わず鼻に手を当てた。
「む?お主は、酒は飲まんのか?」
朱雀がこちらを覗き込み、心配そうに言った。
「ま、まぁね……」
「なんとまぁ、それは勿体ない!」
心底憐れむように叫ぶと、彼女はそそくさと床に置かれていた真っ赤な杯を拾い上げ、いつの間にか手にしていた真っ白な布で表面を拭い、甕に差してあった柄杓で以て杯一杯に並々と透き通った液体を注ぎ、こちらにぐいと差し出してきた。
「ほれ、まずは一献」
「え、えぇ……」
その勢いに押され、思わず杯を手に取る。そして、思う。私は別に、鬼と宴会をする為にここに来たわけではないだろう、と。つい受け取ってしまったが、この酒に毒気がないとは限らない。少女のなりをしているが、彼女が妖怪であることは十中八九間違いない。それならば、気軽に相手の調子に乗るわけにはいかない。
「む。さては、毒でも入っておらぬかと疑っておるな?」
じっと杯を見つめたままの私の心中を察してか、鬼は柄杓を酒甕の中に突っ込み、汲み上げた酒をそのまま一息に飲み干して見せた。
「ぷふぅ……。我ら鬼は、酒が大好きじゃ。故に、酒に毒など入れはせん。酒を冒涜するような真似をするのは、お主ら人間ぐらいのもんじゃて」
鬼は満足そうに喉を鳴らしながらそう言い、再び柄杓を酒甕に入れて汲み上げた酒を大層美味しそうに飲んだ。
「どうやら本当に毒なんて入ってないみたいですし、一輪さんが飲まないなら、私が貰いますけど?」
村紗のその言葉に鬼はすかさず反応し、喜びの声を上げた。
「む、お主はイケる口か!」
「えぇ、まあ。頂き物は拒みませんよ」
「そうかそうか!」
鬼は嬉しそうにまた別の杯を用意すると再び酒を注ぎ、村紗に差し出した。
「どうも。それじゃあ、いたただきます」
村紗はそれを躊躇いなく受け取り、口に運ぼうとする。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ」
「え?なんですか、一輪さん?」
「あんたに毒味はさせられないわよ……」
どうせ、飲むなと言っても飲むのだろう。ならば、先に飲むのは私の役目だ。こんな所で死ぬわけにはいかないが、こんな所で彼女を死なせるわけにもいかない。
それに、この鬼――朱雀からは、何となく邪悪な感じを受けない気がする。集落を襲っていた妖怪達や、羅城門の鬼や、餓鬼や、餓鬼を使役していた火傷男などから感じた嫌な感じが、この鬼からはしないのだ。だから、心の奥では、飲んでも大丈夫な気もしていた。
「毒など入ってないと言っておろうに……」
少し落ち込んだように言いながら、朱雀は自分の杯に酒を注いだ。
「鬼の言うことなんて、信用出来ないわ」
「我は嘘など吐かぬぞ」
「羅城門の鬼も同じことを言っていたわね。鬼は嘘を吐かないって」
「む。そうか。しかし、あ奴のそれと我のそれはまるで違う。我は確かに、酒天様に嘘を吐かぬと誓った鬼じゃからな」
朱雀は自慢げに鼻を鳴らし、酒をあおった。
「酒天様?」
「そうじゃ。我らの大将じゃったお方じゃ。嘘が嫌いでのう。酒を盗む者と嘘を吐く者だけは、何があろうと赦さぬお方だったよ……」
朱雀は懐かしそうに呟き「だから、安心せい」と相変わらず根拠なく言い放った。
「……まぁ、何でもいいけど」
ゆっくりと、杯に口を浸けてみる。やんわりと冷たい液体が、唇に触れ、舌の上を滑り、口内に染みわたる。それを、喉の奥の方でごくりと飲み下す。途端に喉を焼くような熱い感覚が襲い、慌てて息を吸った瞬間、喉がきゅうと縮こまり、思い切りむせ返った。
「キヒヒヒ!良い飲みっぷりじゃあないか!」
「一輪さん、本当に初めてだったのですね……」
村紗はそう言いながら、すうっと杯の中身を飲み干し「わあ、これは美味しいお酒ですね!」と何ともないように言ってのけた。
「そうじゃろうそうじゃろう!ささ、そちらの雲の御仁も一献どうじゃ?」
「うむ。頂こうかのう」
雲山もどうやら酒は平気らしい。こっちがゲホゲホとむせ返っている間に、彼らは大層ご機嫌な様子で酒を酌み交わしている。この、自分だけが飲み慣れていないという事実に、どこか強い焦りを覚える。まるで、自分だけがまだまだお子様のように感じる。
「ゲホッ、全く、こんなッ…ものの、なにが、美味しいの、かしらッ……ゲホッ」
こんな、喉が焼けるような思いをして、何が楽しいのか。こんなもの、わざわざ戒律で禁止するまでもない気がするが。
「辛いのが苦手なら、濁酒にするかのう」
朱雀はまた楽しそうに言い、今度は小ぶりな瓶を取り出した。表面には、どういう意味だろうか「伊吹」という二文字が焼き入れられている。
「も、もうお酒は良いわよ……」
いい加減、本題に入りたい。早くしないと、もう、何だか頭が重い……。
「まぁまぁ、そう言うでない」
朱雀は私の手から杯をひったくると、再び布で拭いた後、瓶から今度は白く濁った液体をどろりと注ぎ、またぐいと無理やり私の手に握らせてきた。
「それはまた、随分と甘そうですね」
村紗の言う通り、濃厚な米の甘い臭いがむわりと漂ってくる。これもまた、臭いだけで酔っぱらってしまえるに違いない。
「あぁ。これもまた美味じゃよ?」
視界の隅で、朱雀が村紗と雲山の杯にもその濁った液体を注いでいた。
「今後はさっきのような清い酒が一般的となるであろうが、濁酒もまた美味であることには変わりはないと、我は常々、そう思うのじゃよ。とりわけこの伊吹瓶にて造られし酒は中々に美味なのじゃよ」
どこか、物憂げに呟きながら、少女の顔をした鬼は杯に並々注いだ濁った液体を一息に飲み干した。村紗と雲山もまた、杯の中身を一飲みにした。
「うん。甘くて美味しいです」
「そうじゃろう。さあて、お主はどうじゃ?こっちの娘は、中々立派なもんじゃぞ?それとも、お主はまだまだ小童かのう?んん?」
「な、なんですって……」
そんな挑発に乗せられて、わざわざ飲むわけ――。
「一輪、無理せんでも良い。無理に飲めば、損をするのは己だからな……ゲフッ」
その、げっぷ混じりの雲山の言葉で、決心が着いた。
「……良いわ、やってやろうじゃない」
「おお!そうでなくてはな!」
「よっ、一輪さん!三千世界一!」
「お、お主ら……あまり囃しては危ないぞ?」
「雲山、あなたは黙ってて。こっちは覚悟決めてここまで来てるんだから。なめんじゃないわよ!」
そう啖呵を切って、思い切り杯を傾ける。口全体に濃厚な米の甘味と酒気が広がり、喉を生温かい液体が通り過ぎる。そして、結局、またむせた。
「どうです?こっちはさっきよりは楽だと思いますよ?」
「そ、そうかもね……」
どっちにしてもむせてちゃ話にならないだろうけど。でも、どちらかと言うと、最初に飲んだ物の方が、意識が冴えるような気がして、良いかもしれない。
「その様子じゃと、お主は辛口派かのう?」
「まぁ、そうかもね」
どっちにしても、別に、また飲みたいだなんて思わないけれど。
「――さて、では、そろそろ話を聞こうかのう」
そう突然切り出した朱雀の顔は、いつの間にか真っ朱だった。この朱雀門の柱の丹塗りにも劣らぬ朱さで、角の色とお揃いだった。しかしそれでも呂律はしっかり回っており、視線も揺らいではいなかった。これも、流石の鬼ということか。
対する私は、もう大分頭が重かった。しかし、それでも、要件だけはしっかり果たさなくてはと思い、何とか言葉を紡ぐ。
「私達は……いえ、私と雲山は、ある男を探しているの」
「ほう……さては、想い人か?」
鬼のその冗談を、鼻で笑う。
「そうね。想い人よ」
「え、そうなのですか?」
「えぇ、そうよ……。どこまででも追いかけたいと想う程に……憎んでも憎み切れない……恨んでも恨み切れないヒト。強く、深く、切実に、この心の奥底から、この手で殺したいと想うヒト……よ」
言葉が、無意識の内にすらすらと出ていく。じんわりと、身体が熱くなってくる。それもこれも、酒のせいだろうか。ならば、酒も、案外悪い物でもないかもしれない。この感覚は、悪い気分ではない。
「……ふむ。その者の特徴は?」
「餓鬼を使役する男よ。顔に、頭まで届く程の大きな火傷の跡があるわ」
「……なるほど、な」
朱雀は、腕を組んで少し俯き、黙り込んだ。
「……何か、知ってるのね」
「あぁ」
「話して貰えるわよね?」
「……お主に、覚悟はあるか?」
朱雀は、目線だけをこちらに向け、静かに言った。雲山にも劣らない、深く身体に響く声色で、私に問いかけてきた。
「覚悟?」
「そうじゃ。狂い咲く悪のか細き根を知る覚悟じゃ」
鬼の、その問いの視線を、真正面から見返す。
「知る覚悟も、斬る覚悟も、今まで一度たりとも手放したことはないわ。そしてこの先も、握りしめ続けてみせるわ……」
最初からずっと、揺ぐつもりなど一度もない。あの焼け落ちた家に、供養した我が弟の右手に、掴んだこの刃に、この命を懸けて誓ったのだから。
「……そうか。ならば教えよう」
朱雀は、重々しげに口を開いた。
――それは、とある男の物語だった。裏切りと狂気の渦巻く、人間共の愚かな物語だった。