「あら、あなたは誰だったかしら?」
まさか彼女にそんな言葉を言われると思っていなかったから、私――九十九弁々ははぁ~っと溜息をつかざるを得なかった。
でも、それと同時にそういえばこの方はこんな感じだったなぁ、と懐かしさを覚えずにいられなかったのもまた事実である。
「私をお忘れですか、弁財天さま」
「弁財天……、懐かしい名前を持ち出してきたものね」
彼女はそう言うと、私の顔をまじまじと眺めた。
私の事を思い出そうとしてくれているだろうか――いや、彼女に限ってそんな事は絶対にありえない。
彼女の世界の中心は自分自身であり、他の者は全て興味があるかないかでの対象でしかないのだから。
彼女がそういう生き方をして、そういう考え方を持つ女性である事は、私も重々承知であった。
だからなのかもしれないが、彼女が次に言うセリフを予想できた。
「その名前を知っている事は……あなたもしかして私を殺しに来た地獄からの使者というわけかしら?」
もし、私が別の状況で彼女のセリフを聞いたのなら、何をバカなと笑う事だろう。
この平和ぼけした幻想郷において暗殺だなんて一番似合わない言葉である。
だが、彼女が現在世間で邪仙と呼ばれており、そして今まさに地獄の使者に殺されかかっているこの状況を顧みれば、彼女の言った言葉を否定する事はできない。
「違います。弁天さまはもう私の事をお忘れなんですか?
私は弁々です。貴女さまが使っていた琵琶の弁々です」
私の言葉を聞いて、彼女はようやく表情を変えた。
だけど、それが「あらあら、まぁまぁ」とあまり驚いている感じがしないのは、私のプライドを大いに傷つけた。
別に感動の抱擁とか望んでいるわけではなかったが、それなりの驚きを望んでも別に罰は当たらないと思う。
「弁々! あなた、弁々なの!? あの弁々!?」
「そうです、ようやく思い出してくれましたか?」
「ずいぶんと可愛らしくなったのねぇ。昔とは大違いだわ」
「弁天さまのおかげです。弁天さまに長い間使って頂いたからこそ、琵琶に生命が宿り私という付喪神を生み出すまでに至ったのです」
付喪神として生まれ変わった後、私はすぐに彼女を探す旅に出た。
だが、彼女の放浪癖は度を越しており、すれ違いがかれこれ数百年と続いていた。
ようやく幻想郷に落ち着いたという噂を聞き、私もやってきたのだが、再会した途端にこれである。
あぁ、神はどれだけ私を不幸に陥れたら気がすむのか……
「懐かしいわ。あなたを使ってよくアソコを刺激したものね」
「ぶっ! いきなり何を言い出すんですか!?
私が刺激したのはあくまで弁天さまの背中ですからね。アソコだなんてちょっと卑猥に聞こえる言葉ではぐらかさないでください」
私がつっこむと、彼女はにこりと笑みを見せた。
その笑みで、私は彼女に試されていた事に気づいた。
「私が本当に弁々であるのか試したのですね」
「……そのとおりよ。さすが私の琵琶だった事のあるあなたね。
これでようやくあなたを信用する事ができるわ」
「信用って大げさなって……って言いたいところですけど、この状況ですからね、貴女さまの言う事は正しいのでしょうね」
私は見る。ソレを。
360度、私と彼女を取り囲うソレを。
「それで、弁天さま。この状況を一体どうなさるおつもりなんですか?」
「あら、弁々。昔言わなかったかしら。
『どんな状況でもまず楽しめ。そして私を束縛できる者は誰もいない』と。
それと、弁天って言い方はくすぐったいわ。今は別の名前を名乗っているからそっちで呼んでくれるかしら?」
どんな状況でもまず楽しもうする彼女。
変わり者といえば変わり者で、変人度合でいえばきっと彼女は幻想郷でもトップクラスなのだろう。
だけど、こんな状況でもいつもと変わらないのはやはり一緒にいて安心するというものだ。
だから、私は彼女が好きなのだ。
「青娥娘々。
それはそれはすばらしい仙女さまの名前よ」
☆ ☆ ☆
もう一度確認する。
私と弁天さま――いや、青娥さまを取り囲んでいるのは大量の水である。
ただの水だと侮る事なかれ。水圧がすさまじく、ここまでくると水ではなくもはや壁である。
おそらくだが、手でも触れようものならば弾かれるどころかはじけ飛んでしまう事だろう。
――という説明を、実際に私が触れようとした時に青娥さまに説明された。
「ところで、青娥さま」
「何かしら?」
青娥さまはこの状況にも関わらず自分の髪の毛の枝毛探しをしていた。
まるで退屈で退屈で仕方ないと言わんばかりの行動に私は言葉を失いかけた。
青娥さまが慌てふためく姿というのも見たくないが、この状況でそれほどまでに余裕を見せているのはまさに異常と言えた。
いや、常人にとっての異常と青娥さまにとっての異常は別物なのだから、常人の私には青娥さまの感覚なんて計り知る事はできないのだろう。
「なんでこんな事になったんですか?
青娥さまは幻想郷では邪仙と呼ばれており、何度も死神を追い返してきたっていう噂は聞きましたけど。
これ、死神ができる芸当を超えてますよね?」
「そうねぇ。少しばかり死神を追い返し過ぎたのが原因かしら?」
「というと?」
「地獄が少し本気を出してきちゃったみたいね。
この水から察するに鬼神長の水鬼ちゃんの仕業かしらね」
一瞬、私は青娥さまが何を言っているのか分からなかった。
青娥さまは「明日は雨かしらね」というような気軽さでとんでもない名前を出したのだ。
死神に襲われるだけでも恐ろしいのに、鬼神長といえば地獄の最上位である。
狙われたらまず回避は不可能。その言葉を聞くだけで震えあがる程の名を、青娥さまはあっさりと、まるで友人感覚で口にしたのだ。
「きっとこの前一緒に飲みに行った時に会計をちょろまかしたのがばれたんだわ。
水鬼ちゃんってあれでいて結構細かい性格の娘だからね~」
「地獄の鬼神長と飲みに行くんですか!?」
「あら、お互い仕事の時は命を削って戦う仲でも、お酒を囲えば和気藹々と楽しく飲める。
幻想郷ってそういうものでしょう?」
それを当然と言わんばかりの笑みを見せる青娥さま。
たしかに私は幻想郷に来てまだ日が浅いから常識にはまだ疎いのは理解しているけど。
たしかに幻想郷では外の世界で見られないヌルさが存在しているけど。
それでも鬼神長と邪仙が同じ席の酒を囲むのはかなり異常だと思う。それとも、そう思う私が異常なのだろうか?
でも、ここまで考えてふと思う。
「私って確実に場違いですよね」
青娥さまは邪仙と呼ばれる事もあるが、その実力は折り紙つき。幻想郷に数いる猛者の中でもトップクラスであろう。
鬼神長の水鬼は先ほど説明した通り。
泣く子も黙るという言葉があるが、鬼神長を目の前にした者は泣く前に黙らせられるとの事である
対して、私。
ただの付喪神。自慢はただ長く生きてきた事のみ。長く生きてきたとはいえ、青娥さまや水鬼と比べればセミの一生程度。
羅列すればするほど、私が場違いであるという事が誰にでもわかってもらえる事だろう。
「あら、いい経験じゃない」
「その代償が命なのは私的に納得できません」
「そうよね、命が一度しかないのが理不尽なのだわ。
死ぬという体験をしてみたいのだけれど、そこからまた生き返るのは困難だろうし。
ほんとに理不尽だわぁ」
私と青娥さまで会話がずれてる気がする。
「あぁ、そういえば一度死んでキョンシーとして生き返すっていう手段があったわね。
どう、弁々ちゃん。キョンシーに興味ないかしら?」
「それって、私に一度死ねって言ってるようなものですよね」
「え? キョンシーに興味がないの?
変わった娘ねぇ。キョンシーってあんなに可愛いのに」
幻想郷一変人の青娥さまに変わった娘って言われた!?
いや、待てよ。変人に変わった娘って言われたから私は常人って事なんだろうか?
……うん、それだったら悪くないな。
「って、違います!! 今はそんな会話をしている状況ではなくて!!」
もう一度言う。
私と青娥さまは現在水鬼の作った水壁に閉じ込められているのだ。
このまま脱出できなければ窒息、いやその前に水に押しつぶされる危険性だってあるのだ。
「青娥さまはどうするおつもりですか? このままでは本気でまずいですよ?」
「う~ん、私一人なら脱出は簡単なのよ。ただ弁々ちゃんも脱出させるとなると……」
そこで青娥さまは言葉を濁した。
「まさか、私が足手まといになって……」
そういえば、と思い出す。
青娥さまの事だ。きっと以前にも鬼神長に命を狙われた事もあるのだろう。
だけど、青娥さま一人だから今まで紙一重のところで逃げてこられたのだ。
そこに私が加われば、青娥さまに余裕はなくなり逃げ切る事は絶望的になりうる。
……なぜ私はこんな状況に飛び込んでしまったのだろうか。
今更ながらに悔やんでしまう。
「弁々ちゃんがキョンシーになれば話は別なのだけれど……」
ちらりとこちらを見る青娥さま。
……前言撤回。
この人は邪仙だ。聖者ではない。心の穢れた邪仙だ。
「青娥さま、今かなり余裕がありますよね?
私一人を簡単に逃がすくらいの余裕が十分にありますよね?」
「むぅ、さすがに長い間一緒にいただけの事はあって、弁々ちゃんに私の策は通じないようね」
青娥さまはそう言うと、ぷくりと頬を膨らませた。
無茶苦茶な発言をして、平気で人に嘘をつき、平気で他人を蹴落とす青娥さまだが、たまにこういう子供っぽい表情も見せる。
青娥さまはどんな時でも自分に素直な御人なのだ。
「弁々ちゃん。もう一度状況を整理してみて。
私たちが逃げられる場所なんて本当にないのかしら?」
「いや、だって四方は水で囲まれてますし、上空だって同じでしょう?
水鬼が作った水の包囲網ですからね、欠点なんてないんじゃないでしょうか?」
「水鬼ちゃんはね、いつでも自信満々なの。だから慢心も多い。
そんな娘だから会計の時に自分が多く支払っている事も気づかないのだわ」
青娥さまは足元を指さす。
私たちが立っている地面を、青娥さまは指さしたのだ。
「四方全て水。上もダメ。なら、脱出は下しかないじゃない。
地面とはいえ、これも壁の一種。壁ならば私にはどんなものでも抜けられる」
簪を取り出し、脱出を計る青娥さまを見て、私は付喪神になれたとはいえまだまだ青娥さまの足元にすら及ばない事を気づくのだった。
「あ~、頑張ったらお腹すいちゃったわ」
水鬼の包囲網を潜り抜け、ようやく地中から地面へと抜けられたところで発した一言がこれである。
たしかに頑張ったのは青娥さまだけど、なんとなくこの一言には納得がいかない気がした。
ちなみに私たちを閉じ込めた水柱はそのままにしてある。
青娥さま曰く「いつになったらもぬけのからに気づくんでしょうね」と、くすくすと笑っていた。
相変わらずの殿上人の会話だと私は思う。
「カレーでも作ろうかしら。弁々ちゃんももちろん食べるわよね?」
「カレーですか。それはまた幻想郷では珍しいメニューですよね」
「弁々ちゃんに弁天って呼び方をされたら、急に印度の地が恋しくなったの。
ほら、私って印度ではサラスバディって呼ばれてた事もあるから」
サラスバディとは印度の地において神として崇められる存在である。
神であり、仙女であり、そして幻想郷では邪仙と呼ばれる。
一体、我が主はどこまで突き進むつもりなのだろうか。
そしてできたカレーがこれである。
最初の方はたまねぎを炒めたり、スパイスを配合したり、ルーを煮込んだりと青娥さまにしてはまともな作り方をしていた。
印度の地を思い出したと青娥さまは言ったから、カレー作りにもプライドを持っているんだろうなぁ、と私は思った。
だが、やはり青娥さまは青娥さまだった。
りんごやはちみつはカレーの隠し味としては有名なところだ。
そこに青娥さまはバナナにチョコレートにコーヒーまで、そこら中にある食材を入れ始めた。
私も止めたのだが、青娥さまの暴走は留まる事は知らなかった。
おまけに梅干し、赤ワインとカレーとは全く無縁のものを入れて完成させた。
「…………」
においは悪くない――むしろ、食欲をそそるのが憎らしいところである。
青娥さまの方をちらりと見ると、にこにこ笑っていた。そして当然の事ながら自分のカレーにはまだ手をつけていない。
毒見か? 私に毒見させるつもりなのか?
「どうしたの、お腹減ってるでしょ? 遠慮せずに召し上がりなさい」
「いや……しかし、これは……」
私は言葉に詰まる。
「それとも……食べられない?」
その突然の一言は――私を震わせた。
……最初は、このカレーは先ほどのように試されているのではないかと思った。
このカレーを食べずにいる事、それが青娥さまの望んだ答えだと思った。
でも、その青娥さまの言葉を聞いて、それが間違いだったという事に気づいた。
思えば、青娥さまは孤独な人なのだ。
仙人は幻想郷でも稀な存在で、自分と分かち合える友人もいない事だろう。
加えて青娥さまは邪仙だと他人から揶揄されるのだ。
青娥さまが私の前であんなにはしゃいでいたのも、寂しさの裏返しなのかもしれない。
――そうと分かれば、私が信じずに誰が青娥さまを信じるのだろう?
「ご安心ください、青娥さま」
「弁々ちゃん……?」
「青娥さまがいくら卑怯な手を使って幻想郷の嫌われ者になったとしても、私はずっと青娥さまを好きでいます。
青娥さまがいくら邪仙と呼ばれようとも、私は青娥さまを立派な仙女さまだと思っています。
青娥さまが幻想郷中を敵に回したとしても、私はずっと青娥さまの味方でいます。
だって、私が付喪神としてこの場にいるのは、青娥さまがずっとずっと大切に私を使ってくださったおかげですから。
私の『弁』々は『弁』天さまと同じ文字。貴女さまから授かった大切な名前です。
名が生涯変わらないのと同じように、私は生涯青娥さまに忠誠を誓います」
そして、私はカレーを食べた。
むしゃむしゃと咀嚼、そして飲み込む。
「え!?」
私は一瞬、舌が感じ取った味覚を己の脳内で信じる事ができなかった。
……美味しい……? いや、まさか……そんな……
もう一度、スプーンでカレーをすくい口の中に入れる。
後はもう手が止まらなくなった。
最初は口の中を辛さが暴れまわるのだが、すぐに消え去り後には心地のいい辛さが口の中に残る。
その心地のいい辛さがまた次を食べたいと急かすのだ。
加えて、この甘味、辛み、酸味、苦みが織りなすハーモニーは私を捕まえて離さない。
たまねぎを食べれば甘味が広がり、じゃがいもを食べれば香ばしさが広がり、鶏肉を食べればジューシーさが広がる。
これはまさに∞のシンフォニー。
次はどんな味がするんだろう。次はどのように私を楽しませてくれるのだろう。
止まらない。
また食べたい。まだ食べたい!
……気づくと、私はカレーを完食していた。
「青娥さま……これは?」
青娥さまのにこにこ顔は最初から変わらない。
だけど、長い間一緒にいたから、私には青娥さまの微妙な感情変化は分かった。
青娥さまは嬉しがっていた。
「うふふっ、途中から入れた材料を弁々ちゃんは失敗だと思ったでしょ?
でも、違うの。バナナは程よい甘味を加え、チョコレートはコクを増大させて、コーヒーはローストの香りがより深みの味を引き出す。
さらに梅干しは酸味を複雑するばかりかあと味をすっきりさせてくれて、最後の赤ワインは酸味とコクを出すだけでなく肉を柔らかくする効果もあるのよ」
「そうだったんですか……」
青娥さまは最初から計算通りだったのだろう。
私は何を迷っていたのだろうか。青娥さまは私を水壁から助けてくれた。
青娥さまが私を陥れる事は絶対にないのに。
……弄ぶ事はたまにあるけど。
「カレーって幻想郷に似ていると思わない?」
「え?」
「いろいろな種族が一つの場所に集まって、傍から見れば絶対に合わないと思っても、実際はみんながみんな楽しくやれてる。
そういうカレーらしい幻想郷だからこそ、私も退屈せずに過ごせるのだわ」
死神に命を追われ、さらには鬼神長にまで目をつけられたのにも関わらず、青娥さまは自分の目で仙女らしく幻想郷を見続けたのだろう。
だからこそ、そんな答えが出せるのだ。
私はまだまだ青娥さまには届かない。
だから、まだまだ青娥さまの元で学んでいこうと思った。
了
これは新しい発想ですね
ゆえに、対等に語らえる相手が居ないのかもしれないなぁ、と。
弁々ちゃんは台頭な位置に立つ人物ではないだろうけど、支える位置にはいてくれそうで。
邪仙「計画通り!!」以上、カレーに対してのコメントでした。
早く原作で水鬼ちゃんが見たい!
まあ、女の子かどうかも怪しいところですが
娘々の邪仙っぽさがカレーのコクのようにしっかり出ていたと思いました
お見事。
の下の句は弁財天が教えただとか。
自由奔放な娘々も良いし、それを尊敬する弁々も可愛い!