大学なんて入るまでが華だ。そんなことを、いつだったか聞いたことがある。親戚だったか、画面越しの芸能人が言った言葉かもしれないけれど、今になってみてその通りだと実感してしまう。
学びたいことは確かにあったし、専攻分野や好きな講義は楽しいが、楽あればなんとやらで、私は今とてつもない退屈に襲われていた。
「大学生には遅刻がなくていいなだなんて、能天気な頃が懐かしく感じちゃうわね」
開いた携帯をメール画面にして、着信がないことにため息が出た。「カフェいかない?」と送った誘いは、まだ開かれていないようだ。
「メリー真面目だからなぁ」
マナーモードの振動に気付いても、講義中に返信する性格じゃない。さて困った。どうやって暇を潰せばいいのだろう。
午後の講義は、関心のいかないものばかりだ。ルーズな方だと自覚してるものの、居眠り出席をキメれるほどに、私の神経は図太くない。
かと言って、意味もなくキャンパスをうろつく趣味だってない。ああ、いかにも持ってそうなイケてる人から「お茶でもどう?」なんてかけられないだろうか。そうしたら私は「安すぎる誘い文句はお断りよ」と返してやるのに。
薄く積雪したホワイトキャンパスのなかで、結っていない右側の髪を撫で払った。きっと様になっているし、耳を澄ませば、私を誘う声が聞こえてきそう。でも現実に、「蓮子じゃーん、今ヒマー?」と背中に当てられた声は高くて、夢想していた低くて芯のあるイケボイスは、所詮幻想でしかなかった。
「なんだミズキか」
「なんだはないっしょー? 同じ専攻なのにさぁ」
「私のは頭に超統一がつくんですけど」
「まーた蓮子の〝私は頭良い〟アピールがはじまった」
殴ってやろうかという気持ちが顔に出たらしく、「こわーい」とポーズを取るミズキは、きゃははと甲高く笑う。この笑い方があまり好きじゃなくて、普段から近寄ることもないのだけど、専攻分野が似ている所為もあってか、向こうからはやたらと絡んでくることが多かった。
死語なんて使いたくないが、〝コギャル〟と言う言葉はこの子のためにあるようだと感じる。生まれる時代を間違えたんじゃないのだろうか。
「ねぇねぇ、今ヒマー? てかヒマでしょー? 遊ばなぁい?」
「なによそのナンパみたいな誘い方。あと決めつけないでよね、私だって予定あるんだから」
「うっそだぁ、マエリさんがいない時は速攻で帰る癖にさぁ。どうせ受ける講義もなくて時間持て余してたんでしょ」
脳たりんな喋り方なのに、変に鋭いなとも思ったが、どんな馬鹿でも大学に受かるなら、そりゃ観察くらいできるか。
「レズかって思うくらい仲良いもんねぇ、て言うかレズぅ? きゃはは」
「頭打たなきゃ治らないなら協力するけど?」
「いやーん、リサこわーい!」
漫才をするくらいなら帰ろう。思った時に、一人足らないんだよねと口にされて、「合コン?」と聞いた。出会いの餌にされるは正直ご遠慮頂きたいところだが、ゲームと言う言葉を耳にして、少しだけ話に興味を持った。
「いつもはポーカーやってるんだけど、今日はチンチロってやつやるって」
「サイコロ振るやつか」
今時珍しいというか、一体どういう風の吹き回しでチンチロなのだろう。どちらにしても、私の気を引くものではなさそうだった。
「なんでも曰く付きだとかで盛り上がってるの」
「て言うと?」
「さぁ? ヤザワが実家の倉から見つけたって聞いたから、本人に聞いてよ」
骨董品マニアのひょろひょろ眼鏡が頭に浮かぶ。人伝に聞くのは大抵ガラクタみたいだけど。
どうすると言われた私は、覗くだけならいいかとついていくことにした。〝曰く付き〟と聞いて心が弾むようだ。こういう安っぽい話は大好物だし、オカルトを掲げる秘封倶楽部としても、曰く付きと聞いて動かないわけにはいかない。
暇を潰すための建前ではないと言い聞かせながら、ミズキの隣を歩いた。「そう言えばさ」
「フットサルのソネケンと付き合ってるって聞いたけど」
「うんうん、ケンジ君、超カッコイイよぉ」
女たらしみたいだけど、と言いそうになり、口を結んだ。人気の側面にはよくあると言うべきか、一部からの評判は悪くて、女絡みの話は絶えず聞こえてくる。
ソネケンもいるよと聞いて、動いている足がちょっと躊躇った。直接会うのは初めてだし、所詮噂かもしれないけれど、ミズキのいないところで言い寄られたりしないだろうか。
「顔が良くて運動もできるから、モテるでしょ」
「優しいからねぇ、はっきり断るのが苦手みたいだよ」
気があるからそうしないだけだろう。「しっかりガードしなきゃね」と意識を促させたところで、大学から出てしまう。どこへ向かうのか訪ねた。
「ヤザワの巣」
歩いて五分程度のところらしく、近くて羨ましいなと漏らした気持ちは、ボロアパートに着いてからひっくり返った。ショートブーツを履くミズキは、錆び付いた階段を鳴らしながら駆け上がる。塗装の剥がれた壁にはひびも走っていて、ここに住むくらいなら、実家から通った方がマシなんじゃないだろうか。
インターホンの音に誘われるよう出てきたのは、ソネケンだった。
「お、友達?」
爽やかな声と顔が私に向けられて、なるほど、こりゃ落ちるわけだと会釈した。
「どうも」
「同じ専攻の宇佐見っちだよー。あ、ブーツだから先上がって」
低い上がりかまちには腰を着けず、壁に手を添えながら、靴を脱いだ。入ってすぐのところには、油汚れの目立つ台所があった。手洗いと風呂場は右手側で、間仕切りはあるのに、肝心のカーテンはなかった。
玄関を繋ぐ廊下には建具もなくて、奥から「さっみぃな」と鼻声が届いた。ヤザワだろう。
「なーに突っ立ってんの」と背中を押されて、散らかっている居間にお邪魔させてもらった。
「不良サークルの宇佐見やんか」
意外やなと話すヤザワが「吸うん?」と手を崩してきたので、鼻を押さえながらどっちが不良よと返してやる。ヤニの染み込んだ部屋は四畳半くらいありそうで、意外に広く感じられた。
ミズキは色違いのモッズコートを脱いで、染みの目立つ絨毯に畳んだ。私のはカーキと違い毛埃が気になる黒色だから、帽子と一緒に鞄の上へ置いた。玄関を背にして、こたつに膝を潜り込ませてもらった。
「トッシーより華があって良いでしょ」
「いつもいる人なんだ」
「同じホラ研のトシマな。つーか、宇佐見ルールわかんの?」
大体ならと返して、鞄から携帯を取り出した。
「リサもわかんないから見るー」
「宇佐見さんはまだガラケーなんだ。良かったら下の名前教えてよ」
「ああ、えっと」
タイミングが悪いのか、ミズキの意識がざるなのか、左へ流した視線には気付いてくれなかった。噂は事実なのだろうなと確信を抱きつつ、躊躇いながらも、一応答えた。
なんて書くのと続けられて、花の蓮だと言った。いよいよ危なっかしく感じられたので、堪らずヤザワに振った。
「曰く付きって聞いたけど」
「ああ」と漏らしてから体をひねり、赤青黒と三色に分けられるサイコロの入った茶碗が、こたつに置かれた。柄もない黄緑の茶碗は大きめで、なんの変哲もない天目形だ。どこを見て曰く付きなのだろうと傾げた私に、ヤザワが茶碗を揺らしてみせた。
「曰く付きはこっちな」
「サイコロ?」
「鬼の賽って言うらしいわ」
へえと伸ばしたミズキが、サイコロを摘んだ。
「普通のコロコロじゃん」
色以外の違いがあるとすれば、市販のよりも角がなく転がりやすそうなところと、漢数字の書かれた面くらいだ。不気味さとかも感じられないそれを、まだ振るなよ? とヤザワは制した。
巻物と一緒に納められていた賽は、負けた人を喰らう、呪われた道具らしい。ホラー研究会の癖に煽り方が下手な奴だ、とは突っ込まないでやろう。
「検証は?」
「これからやんの」
じゃあ金額から決めるかと財布を取り出しはじめて、幾ら賭けるかを振ってきた。
「うちの大学、賭博禁止じゃなかったっけ」
「いいんだよ、大学の外なんだから」
ゲームとしてなら問題ないが、お金が絡むなら話は別で、困るかもと口にした。「金欠なら貸すぜ」
「ちょっとぉ、ケンジ君いるんだからタバコはやめてよね」
わりぃなとソネケンが手を合わせたけど、締まらねぇなとこぼした一言から、ミズキがいない時はやっているのだろうなと思った。
セブンスターを脱ぎ捨てているジャケットにしまい、じゃあ最初はルール確認でやるかと言って、サイコロを投げた。親はミズキだ。
千と振るヤザワに続き、ソネケンも千と言った。
「賭けないって言ったじゃんかー、眼鏡ザワぁ」
「雰囲気作りだよ、雰囲気」
「ならしょうがないかぁ」
蓮子は? と振られて、仕方なく千賭けた。点数なのか金額なのか、いまいちはっきりしなかったが、流されに逆らうのは面倒そうなので、気にしない。
調べたルールには、親の交代は右に回っていく。ミズキが目や役を出さなければ、次の親は私だ。一回二回と屑が続いて、三回目に五が出た。
「やったやった、リサの勝ちぃ?」
「いやいや。振れよ、宇佐見」
促されて投げようとした時に、インターホンが鳴った。「俺出るわ」とソネケンが立ち上がって、玄関に視線が集まる。
おー、と声が上がり「なんでいんの」と、突然の訪問者と笑い合っていた。入ってきた顔に見覚えはなかったが、私を見たチャラいパーマ頭には知られているようだった。
「宇佐見おるやん、なになに、俺クビ? クビ?」
「あれぇ、トッシー今日はこれないんじゃなかったの」
「中止や中止、直前になって女子側がバックレ」
うーさみさみ、宇佐見どいてくれぇとこたつに足を突っ込んできて、トシマは羽織っていたダッフルコートを脱いだ。オカ研に入ってる輩はどうしてこうもひょろくて色白なのだろう。合コン失敗の原因は、案外こいつなんじゃなかろうか。
「丁度ええところにきたし、お前、宇佐見と変わるか?」
「ええよええよ、俺手ぇぬくめてからやるから続けて」
コンビニの袋を漁るトシマは、缶コーヒーを並べて、おるって知らんかったからなぁと手を擦った。「飲めるなら俺の分どう、宇佐見さん」
「ううん、いいよ」
「じゃあお湯沸かしてくるわ」
勝手知ったるヤザワんちなのか、ソネケンは台所へと消えた。肘でつついてくるミズキが「ね、優しいでしょー」と耳打ちしてきて、羨ましいっしょを連発してくる。
ウザいと言うか、自分の男が出しているであろう気の多さに、気付いてはいない様子だった。余程の自信を持っているのかはさておき、トシマに振ろうぜと言われて、順番を回すことにした。
一、二、四の屑で、二回目も屑。三回目に六が出て、私の即勝ちが決まった。「おっ、おっ、幾ら賭けた? 代打だから俺も貰えるよな」
「なわけねぇだろ馬鹿、ルール確認だからどっちみち無効だよ」
宇佐見さん勝ったんだと笑いかけられて、不覚にも、ときめいたものを感じてしまう。――手が早いようなので対象外だが。
「ビギナーズラックってやつかな、あやかりたいね」
だと思うけど、ギャンブルが怖いと言われる所以は、こうして当たってみると、「嬉しい」と気分が持ち上がってしまうところだろう。
上限にもよるだろうけれど、賭けた金額の倍は貰えるのだ、ハマってしまう気持ちも頷ける。
「負けた時は怖いけどね」
「そんじゃ本番はじめっか。今やった上限で、最低は千な」
「て言うかトッシーいつまで蓮子の隣いんのよ、反対回りなって」
「空いてねぇじゃん」
「私から見ての反対側、ケンジ君リサの隣くるよねー」
「ああ――沸いたからお茶淹れてくるわ」
名残惜しそうな台詞を吐いて、トシマは空いた席に移動した。若干目つきが気持ち悪かったので、ミズキのフォロー(のつもりがあるかは知らないけど)に感謝しておこう。牛柄のマグカップにお茶を淹れてきてくれたソネケンは、窮屈そうに、ミズキの隣へと潜り込んだ。
親は、代打だった私からトシマに変わる。賭け金はさっきと同じ千だった。
振らなくても参加できると言われたが、参加するつもりはない。曰く付きを検証するゲームがはじまった。
「今日は勝たせてもらうわ」
意気込んで投げたサイコロの一つは、ぶつかり合った際に弾かれて、茶碗の外に出てしまう。トシマの即負け。「うーわ、最悪や」
「ションベンかますわ出会いは潰れるわ、ほんとツキがないで」
「俺が親だな。――宇佐見、手ぇ空いてるなら記録してくんね? つーか、紙あったかな」
見てるだけというのも味気ないので了解した。鞄からメモ帳とペンを取り出して、トシマの負け分を書く。次の賭け金は千五百で、子役は誰も見送らなかった。二回振った目が四、五、六でヤザワの即勝ちだ。
続行した親の目は三、三、四で、ソネケンの三回目が二、二、五だった。親権利の交代が決定して、ミズキが振る。屑しか出ないまま、次にトシマが振って、五を出した。
携帯を片手に書き写しながら、親と子役のシステムに、面白さを感じていた。
「ちょっと思ったんだけど、これ、最終的に払えるの?」
ゲーム数にもよるだろうけど、なかなかの高レートだと思う。ルール上、上限は上げれても下げることはできないし、大学に通いながらのバイト代なんて、このペースが続けば泡みたいなものだ。疑問をぶつけてみると、ツケが利くから大丈夫と笑われた。
「よっしゃ、次いくかー」
使い方なんて人それぞれだが、価値観の違いはどうにも合わないと感じた。精神学を専攻しているメリーなら、この状況も楽しめるのだろうか。
続いていくゲームが三十八回にきたところで、ヤザワから待ったがかかる。使いさしだったメモ帳も終わりかけだったので、この休憩は丁度良かった。
一服してくるとヤザワが席を立ち、空き缶を持ってトシマも追う。ミズキは花摘みだ。
勝ち負けを纏めていると、お湯を沸かしにいっていたソネケンが戻ってきて、アドレス教えてよと迫られた。「折角知り合ったんだからさ、次は外で遊ぼうよ」
ミズキの三人でと添えてきたのは、私の警戒を解かせたいからだろうか。
「彼女の許可もなく交換するのは、ちょっとね」
ミズキにだって教えてないのだから、あんたに教える義理なんてないと言うのが本音だけど、さすがにそれを言う度胸が、今はない。
「仲良いなら、別に大丈夫だよ。俺から言っとくしさ」
「女同士って結構面倒なの。だから、困るわ」
嫌よ嫌よを繰り返している間に、水の流れる音が聞こえてきて、やっと諦めてくれた。お互いに変わらぬ素振りを努めたからか、感づかれることもなかった。薬缶の笛が鳴ると同時に、一服し終えた二人が帰ってきて、ミズキがお茶を淹れに立ち上がった。
元の位置取りに全員が戻って、ヤザワが「なあ」と視線を集めた。
「体調に変化とかあったか?」
負けて呪いが降りかかるなら、私以外の全員がアウトだ。負けの総額ならばトシマに降りかかって、なにかしらの変化だってあるだろう。でも現実には誰かが体調を崩すわけでもなく、幻聴だって聞こえやしない。
有名な低級霊を呼び寄せる儀式の方が、まだ効果を実証しやすいくらいだろう。
「別にないな」
「うちもー。てゆーか飽きちゃったぁ」
「あー、俺心臓痛いかも。これ彼女作らなきゃ死ぬ病気やわー」
ちらちらと向けられる視線は無視して、やっぱりガセなんじゃないの? と肘を突いた。検証終了かぁと肩を落とすヤザワに、ミズキが、「ちっさいものだからいけないんじゃないの?」と口走った。
金額じゃないと思う。そう告げてみると、ミズキは舌を打たず、口でチッチッチと言って、指を振ってみせた。
「喰われるって書いてるってことはー、きっと命を賭けるんよ」
「確かに」と頷かされる。ただそれが真実だとして、検証するに値するだろうか。誰だって自分は可愛いものだろうに。
「やってみたいけど、ちょっと怖いところあるよなぁ」
ソネケンが、口の端を持ち上げる。無理に試す必要もないだろう。やめてしまおうと提案する前に、ミズキの「じゃあさ」が先に出た。
「ジャンケンで負けた人が試すってどう?」
一拍のあとに、面白そうやんと言ったトシマに釣られて、私以外の意見が一致してしまう。こうなると、多数決には逆らえない。
かけ声に乗らないのをけしかけられて、腕を振り抜く。命を張ることになったのはトシマだった。
お前らもなんか賭けろよなと余裕を見せているトシマに、今度はなにを賭けるかで盛り上がりつつあった。命ほどじゃなくとも大きいものなんて、なにがあるだろうか。
隣から、思いついたかもー、とミズキが声を弾ませた。私はくだらない発想であることを、なぜだかわからないけど期待した。
どうにも、空気が重く感じてしまう。
「ねえ、どうせやるならさ、大事なものを賭けてみない?」
それこそ命より大事なものはないだろうに。ヤザワが、確かめるように聞いた。
「その人にとって大事なものなら、なんだっていい感じ。思い出の品とか、そういうの」
だからぁ、と続けたミズキは、「ケンジ君はぁ、リサを賭けて」と腕を絡めた。そいつはいいやと言ってから吹き出したトシマが、「負けたら破局ってか」と腹を抱えた。
「ケンジ君にとって大切なのはぁ……リサだよねー?」
「うん。でもリサを賭けるのは、気が引けるなぁ」
いやぁーんと猫撫で声を出して抱きつくミズキだけど、私の目から見るソネケンは、言葉ほど大事にしているとは思えなかった。
「ミズキを賭けるってことで、いいの?」
「ん、ああ。いいよ」
「じゃあ俺はパソコンだな」とヤザワ。命を張る羽目になったトシマは、どうすっかなーを連呼して、「俺が大切にしているのって童貞なんだけどー、命より重いんだけどー」ジャンケンだからしゃあないよなぁ、と笑いを取っていた。
好きじゃない。
死ぬまではいかなくとも、程々に痛い目を見たらいい。
そんな風に耽っていたら、「宇佐見さんは?」と振られてしまい、声を詰まらせてしまう。細めているソネケンの瞳は、意地悪い感情が孕んでいるように見えた。
……拒んだ仕返しのつもりだろうか。多数決と言うのは、本当に厄介だと思う。突き刺さる複数の視線は、発言の期待をしているだけだとわかるのに、私には無言の圧力に感じられてしまう。
私にとって、大切なものは、なんだろう。
頭のなかを探っているところに、「思っている人くらい、いるでしょー?」と言われた。辿り着いた思考も、その一人を瞼に映し出していた。
だけど私は、その名を言うつもりはない。なぜこの場にいないメリーを巻き込まなくてはいけないのか。
違うとは言わずに、そうねと答えて、サークルの活動を賭けた。
「そりゃあいい。この際ちゃんとした我らがホラ研に入ってくれよ」
「宇佐見とマエリベリーなら大歓迎やなぁ」
堪らんなぁと気持ち悪い笑みを浮かべられて、鳥肌が立ってしまう。じゃあこれでいいんだよねとミズキが仕切り、恐怖体験らしくなってきたからか、各々が座り直していた。
すうっと深呼吸をして、目を閉じた。
――本当にこれでいいのか?
囁かれた問いかけには、トシマが代弁してくれていた。意地悪い仕打ちをしてきたソネケンも、本格的な空気が落ち着かないようで、きょろきょろと目を動かしている。実は心霊現象の類が苦手なんだろうか。
だとしたらざまあみろだ。ヤザワの提案したルールで、親も子役も関係なく全員が、負けなくてはならなくなった。
親は、ミズキだ。このなかの誰かに、呪いは降りかかるだろうか。運命を決める賽の目は振られて、四が出た。
不吉な数字は続いて、私が投げた目は、六が揃っていた。本当に死ぬのかもしれない。出目について一言も発しないところ、ほかの四人とも同じ考えだろう。
硬くなり続ける空気のなか、親の権利が移った。さっさと終わりたくて仕方がなかった。
振り落としたサイコロは、三回とも目なしで、即負け。親になったトシマは強く振りすぎて、二つが茶碗から飛び出てしまった。ヤザワは三連勝したあとに親を渡し、ヒフミや屑を出して負けた。
ソネケンはミズキに六を出されて、引導を渡される。これで、全員が負けたことになる。
負けた時点で変化が起こるのであればトシマだ。最終的な負けの回数なら私。
「なにも、起きないな」
沈黙を破るようにソネケンが言って、時間差かもしれないとヤザワが言う。なにかが起こるかもしれないという不安が部屋を包み、静寂を、もしかしたら人生を終わらせる知らせが、鞄のなかで鳴り響いた。
私の携帯だ。
呪いを受ける役目は、どうやら負け回数らしい。そっと携帯を取り出したら、着信音がやんでしまった。いよいよくるのだろうかと思ったがなにも起きなくて、折り畳んである携帯を開いてみた。
着信の正体は電話じゃなくメールで、しかも二件あった。右上の時刻はもう十八時をすぎている。気が抜けてから当たる視線に気付いて、地獄からの通達じゃなかったと告げた。
「あーもうびっくりしたぁ」
時間を凍てつかせていた重圧がなくなって、結局は紛い物じゃねーかと笑いが飛び交った。確認しようとボタンを押しかけたが、お開きの言葉が出て、あとでいいかと鞄にしまう。
手洗いを借りてから、今日の記録をメリーに見せたいと思って、サイコロの画像を撮らせてもらった。
「ねえ、巻物ってある?」
「あるぜ」
紐をほどき広げられた巻物は古くて、いかにもなくらい草臥れていた。太字で記された道具の名と、鬼の絵が、本文のあとに描かれている。内容は古文だったので読めそうにない。
一応これも撮らせてもらう。
「ヤザワはこれ読めるの?」
「いいや、専攻してる奴に教えてもろた」
帰り支度を済ませていたミズキとソネケンが、玄関の方から声を飛ばしてきた。手を振って見送ったあと、そっかと話を切り、鞄の紐を肩にかけた。
玄関まで見送ってきたトシマが、サークルの件考えてくれよなと言ってくる。「失敗したんだからやーよ」
「じゃあまたやろやろ、今度は相方も誘ってや」
「チンチロじゃなくトランプならね、考えとくよ」
「うは、宇佐見エロいわ、もっかいチンチロ言うてや」
「ばーか」
死ね。階段を降りてから、きた時になかったロードバイクを見つけて、トシマのだろうと思い蹴りを入れた。違ったら、ごめんなさい。
暇を潰すつもりが、こんなに遅くなるなんて思わなかったな。「さむ」重ねた手のひらのなかに息を吹きかけて、手袋を持ってこなかったことに若干後悔した。
携帯を取り出して、メールの確認をする。二件ともメリーだった。
「あー、忘れてた」
恐る恐ると一通目の本文を開けば、「終わったよ」の一文だけ。本当に怖いのは二通目だろうなと思いつつ、開いた内容には「こないの?」と書かれていた。最近通っていたカフェで待っている、と言うことだろうか?
返事しなきゃと思った時に、リロード画面になって、メリーからの催促が届いた。「どーこだ」というタイトルに画像が添付されいて、開くと見慣れない星空が映っていた。
たまにやる戯れだが、すっぽかしたからといって、実在しない星空なんて送られても、場所なんてわかるはずがない。意地悪と返してやって、すぐに送られてきた返事には、なにもしてないよと疑問符までつけられていた。どういうことだろう。
撮った画像がいまいちだからか、緊張で疲れた所為なのか、メリーの場所を探ることができなかった。ふと、空を仰いでみた時に、着信が鳴った。
雲のない綺麗な星空を眺めながら、私は通話ボタンを押して、電話に出る。
『お酒でも飲んでたの?』
「メリー、私、わかんない」
『え?』
「メリーの場所がわかんなくなっちゃった」
鼓膜を震わせる声が、遠ざかっていく。
冬の夜は早くて澄んでいるのに、浮かんでいる星たちの姿を、私は把握できなかった。
2
早足にさせられてしまう一月下旬の空気は、歩いている内に慣れてきて、吹き当たる風も気にならなくなった。通り抜けたたこ焼き屋の残香が鼻に残って、カフェを楽しめなかったお腹が反応してしまう。
救急と警察のサイレンが追い越していって、ポケットからの振動に足を止めた。擦り硝子から透けてくる明かりの反射が邪魔で、画面を横向けてから、ボタンを押した。「今どこ?」
「ゆかりの前」ぽちっとな。
悴む指に息を吹き当てても、一生の友達である末端冷え性はマシにならない。ついと見た暖簾の奥で、ウーロンハイが私を待ってるんじゃなかろうか。
すれ違ったリーマン二人が店に飲み込まれていって、あとに続きたい気持ちを抑えながらまた歩いた。ああ、水割りの焼酎が飲みたい。待ち合わせの公園が見えてから、メリーを呼んでしまえばよかったなと後悔だ。
緩やかな坂道を登り、公園に入って、光源があるところに顔を振った。暗がりのなかベンチに座っている陰を認めてから、湿り気味な砂利の上を駆け足で進んだ。
東屋の横で点滅する電灯がちかちかと、見慣れたナイトキャップから伸びる金髪を映している。パウダーベージュのトレンチコートから伸びている足は、相変わらずと羨ましいくらいに細くて、黒のレギンスを履いていても凍えているように思えた。
「ごめん、寒かったでしょ」
別にと返されてから手を握られて、カイロを渡された。「あったけぇ」
「オヤジみたい」
飲み込んでから上ってくるアルコール成分は恋しいけれど、鞄から代わりと出された缶コーヒーに、固まっていた口の端が持ち上がった。「乾杯?」
「乾杯。どうせならゆかりでしたかったけど」
「酔いたいんだ」
「そりゃこんなことが起きたらね」
コーヒーのコクじゃ、現実から逃げれそうにない。どうしたのと続かないから、言い出すを待ってくれてるのだと思う。半分ほど飲み干した温かさはもうぬるくなりはじめていた。なにから話せばいいのだろう。
飲み口のなかを覗いても、届いてくる薄明かりじゃ中身は認められない、切り出せない。ゆっくりと視線を送ってみたら、メリーは硝子張りの天井を仰いでいた。不意にねえと発してから、すっと右手を空に向けた。
「あれはなにかわかる?」
左肩に頭が寄りかかってきて、指されている右手が目の先に被った。見上げてみる夜空には、きらびやかな星が浮いている。なんだろう、星の名前だろうか。それとも星座のことだろうか。
どちらにしても出てこない。星の知識まで抜け落ちてしまったのに、自分でも、意外なほど気落ちしないのはなぜだろう。
「オリオン座」
「なんだ」
「蓮子が教えてくれたんじゃない。方角を探る時に便利だって」
「そうだっけ」
「見え方で大体わかるとかね。形しか覚えれなかったけど」
線を引く手が下げられてから、横に流れている瞳が刺さった。月光みたいな金色に潜めている感情は、呆れているように感じられて、いい加減に焦れてきているのだろうなと伝わった。この後ろめたい気持ちはなぜ沸いてくるのだろう。「本当に星の見方がわからなくなっちゃったんだ」漏らしてから喉を潤すその動きに釣られて、語り出せない唇にコーヒーを流し込んだ。
「盗られたんだと思う」
盗られたって、誰に?
「鬼、かな」
草臥れた巻物のなかで腕を振り上げている赤い鬼は、確かに現れたのだ。胸焼けみたくつかえていた言葉は、話しはじめた途端にあふれてきて、ヤザワの家で耽っていた経緯を、メリーは頷きもせずただ見つめてくるばかりだった。話し終えてから缶を傾けたけど、唇に当ててから、からっぽだと気付いた。潤いを求めてしまうのは、肌を刺してくる寒さの所為だろうか。
胸の奥が、乾いている。
「いつも先に動くのは蓮子だけど、なんだかなぁ、抜け駆けみたい」
蟠りの原因がわかって、無意識に寄った眉根を笑われてしまった。気にしすぎよと飲み干した缶を置き、大事がなくてよかったじゃない。果たしてそうだろうか。鬼の賽は本物で、ゲームが終了した瞬間には、呪いをかけられたに違いない。
命を賭けていたトシマが死ななかったのは、負けの負債が私にきたからではないのか?
奪われた自慢の目は序章にしかすぎなくて、やがて厳つい鬼が金棒片手に、命を取り立てにくるのではないのだろうか。「死んじゃうのかな」ついこぼしてしまう。「死なないわ」
「だって、賭けたのは倶楽部の活動なんでしょ?」
「活動の不可イコールが、私の死だったら?」
「そんなの幾らでも考えようがあるじゃない。蓮子の目を取り上げることが、活動の停止に繋がるって思われたのかもしれないし」
「優しいと言うか、なんか抜けてるよね」
笑い返されてからどうするのと聞かれて、ぼんやりと浮かんだ答えに、声を詰まらせてしまう。――活動、やめる?
なんで、そんなことを聞くの。発する前にメリーは、ごめんごめんと言い直すように、「続けたい?」と継いだ。当たり前じゃないと動かしたかった言葉は、喉元で勢いを削がれて、舌の上を転がってから唾液になってしまう。こんな目で、今まで通りにやっていけるのだろうか。
まっすぐに捉えてくる瞳孔は、これからも不思議な境目を見つけれると思う。常人よりも少しだけ良かった目は――私たちを繋ぐ共通点の一つは失われてしまった。
「私は続けたい。蓮子は?」
遠くに見えるネオンが、やけに眩しく感じられた。羽が折れて飛べなくなった鳥は、きっとこんな口惜しさを覚えるのだろう。
「続けたい……やめたくないよ」
への字にして咽びたくなるのを抑えても、目尻からあふれる悔しさは止められなかった。
一時的なものかもしれないとかけられた言葉を、茂みの暗がりから覗いている鬼が、あざ笑っている気がした。落ち着くまで背をさすられていた感覚は家に帰り、眠りにつくまで残っていた。
胸を締めつけていた不安は、一夜を通して薄れていた。気だるい腕でつけたワイドショーのトピックスは、いつも通り変わらない日常を伝えていた。
私だけの変化である、トシマの死を告げて……情報は次に切り替わった。
3
昨日起きた事故のことは、夕方になっても取り上げられていて、新しく入った詳細を局アナが読み上げていた。赤信号のまま突っ込んだロードバイクは、ブレーキが壊れていたらしい。事故現場の道路には、まだ生々しい血の痕跡が映されている。
私が蹴ったからだろうか。暗い思考を浮かべたけど、人の文化はあれくらいで壊れるほどやわじゃない。テレビをつけたのが遅かったから、興味のない芸能ニュースが流れたすぐあとに、番組は終わってしまった。
ヤザワやミズキたちは無事だろうか。怖くて外出を控えたのが幸いだったのか、私に不幸は起きていない。握ったままの携帯には相変わらずと着信がなかった。自分から連絡するのは、怖くてできない。
なにも返ってこなかったらどうしよう。そんな不安ばかりが浮かんでは、重苦しく胸に募っていく。昨日いた面子の番号やアドレスは知らないし、こちらも教えていなかった。ソネケンの申し出を断らなければ良かったと後悔してみても、もう遅かった。
――次はお前だ。
遠くからこの一室を見据えている鬼が、囁いている気がした。マンションのなかは本当に安全だろうか、火事や爆発は起きないだろうか、鬼に操られた強盗が押し入ってきて、羽交い締めにしてから凌辱したあと、私を滅多刺しにして殺すのではなかろうか。そんなのは嫌だ。「メリー」助けて、メリー、一人でいると頭がおかしくなりそう。
震えながら鳴った着信に、私は馬鹿みたいに体を跳ねさせてしまう。買った時から変えていない初期の着信音は、早く取れと味気ない音を出し続けている。
液晶には見慣れた番号とメリーの名前が記されていた。
『寝てたの?』
柔らかい一言に、のしかかっていた緊張が嘘みたいに晴れていった。ああ、よかった、生きててくれた。「ううん、起きてた」
『泣いてるの?』
熱くなる目元を拭ってから、ヤザワたちのことを訊ねた。キャンパス内では見ていないと返されて、胸がちくりと痛んだ。声色から様子を察してきたメリーが訊ねてきて、トシマに不幸があったことを伝えた。
抱えていた言葉を漏らした途端に、保っていた感情の糸が切れて、涙がこぼれていた。
「どうしよう、ねえどうしたらいいの、次は私が殺されちゃうの?」
『落ち着いて、大丈夫、今からそっちいくから』
「だめだよ、私といたらメリーまで酷い目に遭っちゃう。そんなの、嫌だよ……」
『よく聞いて蓮子、鬼は確かにいるけど、それは外じゃなくてあなたの内側に巣くっているの。私が鬼を退治してあげる。だから、ね?』
疑心暗鬼に陥っているのだと、メリーは言った。そうかもしれない、でも、私は目を奪われて、トシマも事故に遭い死んでしまった。ヤザワやソネケン、ミズキたちの無事だってわかっていない。まだ死んでいないのが、私だけだと言い切れるだろうか。怖い、嫌だ、死にたくない……
電話越しから聞こえてくる背景の音が、いつメリーを襲い、奪ってしまうかもしれないと考えて、浮かんでくる暗さを口に出してしまう。
宥められてばかりの時間は、もう着くよのあとに響いた、インターホンを合図に切れた。玄関まで駆けて開いた扉の向こうにはメリーが立っていて、目を合わせてから、だめな妹を心配して訪れた、姉みたいな顔で笑った。
数十年も会っていないような感覚に襲われて、また泣き出してしまった私は、メリーの鼓動に甘えたくて顔をうずめた。
なにが起きるわけでも、誰かが襲撃してくるわけでもなく、私の夜は静かに明けていった。
4
一昨日ぶりに踏み入れた大学はいつも通りだけれど、疎らと続く人波のなかに、知った顔の一つはもういない。もしかしたらそれ以上の顔が減っているかもと考えて、静まったはずの恐怖心が、足下から這い上がってくる気がした。
教室に入って、上段の席に着いた。間隔を開けて同じ席に着いた子が、前列の友達らしき子に「今朝のニュース見た?」と前のめる。「一昨日ダンプに大学生が跳ねられたみたいでさ、うちの学生だったみたい」
「マジで?」
「同じ専攻の子に聞いたらオカ研の奴だって」
「掲示板で一人かくれんぼの実況とかもしてたんだっけ、あそこ」
呪われたとか?
吹き出す彼女たちは知らない。事故に遭った原因が、命を賭けたことなのだと。私の目がそれを証明している。鼻で笑える状態がどれほどの幸せか、なってみるまでわからないだろうな。呪いと言う言葉を聞くだけで、気分が落ちてしまいそうだ。
「そういえばさぁ、フットサルのソネケンいるじゃん、あいつも事故に遭ったらしいよ」
え、あいつも死んだの? ううん、重体らしいけど生きてるって――あ、岡崎センセきちゃった。乗り出していた体を引き、お喋りを控えて真面目に戻る彼女たちだったけど、私の意識は、ソネケンに起きた不幸から離れられない。
生きている、でも、呪いが降りかかった、ソネケンまでもが。ミズキは、ヤザワは、私は?
私たちは、とんでもない化け物を、召喚してしまったんじゃないのだろうか。
開いているノートに文字が走ることもないまま、いつの間にか終わっていた講義のあと、早歩きでミズキのことを探した。好きで通っていると聞いた四号棟の講義室を覗いてみたけれど、見当たらなかった。
脇をすり抜けた子に訊ねてみたが、今日は見ていないと言われてしまう。ほかの子に声をかけようと思ってから、やめた。バイタリティはまだ戻らない。
諦めて一階まで降りて、ぼんやりと廊下を歩き回った。ふと顔を上げて、先にある購買から出てきたミズキを見つけた。自然と動き出す足は速かった。駆け寄った私に気付いてくれたミズキは、気落ちしていた顔に色を取り戻すようだった。
「蓮子ぉ」
心配したよ、こないから、トシマが、トシマがね。抱きつきながら喋るミズキの声が涙ぐみはじめて、わかってると返した声に涙が誘われてしまう。近場のベンチに座ってから、背中をさすってやった。
芯が強い子なんだと思う。落ち着きを取り戻したミズキは、弱々しい声だったけれど、事故の詳細を教えてくれた。
並んで歩いていると、ほどけていた靴紐を踏んだソネケンは、歩道に転んだ。そこに中華料理屋の看板が落ちてきて、両足を挟まれた。もうフットサルはできないと医者に告げられて、泣いていたと言う。
「歩くことはできるの?」
「うん、リハビリすれば。だからリサ手伝うの」
「そっか」
本当に好きなんだと伝わってくるようで、不謹慎だけれど、羨ましいと思えた。賭けていた二人の仲は、どうやら守られているのだとわかってから、疑問が浮かんだ。ソネケンに起こったことは、賭けの内容に掠りもしていない。なぜソネケンだけが怪我をして、ミズキは無事だったのだろうか。思考が口に出てしまい、そう言えばと拾われて、付き添っていた時に変なことを聞いたと継いだ。
「あいつがくるって、ケンジ君、譫言のように脅えてた。声を聞いたんだって」
「声?」
訊ねてみてもソネケンは答えれてくれなくて、ミズキ自身あの場で、声なんて聞いていないらしい。「蓮子は?」
覚えがなかった。納得したのか、どうでもいいことなのかわからないけれど、そっかと会話を切ってから、私たちは別れた。お互いに、気をつけてねと添えて。
薄曇りはじめる今日の天気予報は雪か雨で、後者でないことを祈ってから、見上げていた目を落とした。北側のグラウンドには相変わらずと女子たちがいて、ボールの奪い合いに黄色い声を上げていた。
あのなかにソネケンが戻ることはない。鬼に、奪われたから。
でもなぜ? 賭けていたのは恋人であるミズキで、フットサルを続けることや自分の足ではなかったはずだ。庇ったのならともかく、なぜ、ソネケンだけが?
わからないことはまだある。届いてくる声援から離れて、カフェテリアの近くにあるベンチに腰を下ろした。勝ち負けに関係なく呪われるというのなら、あの日いた全員に変化があるはずで、私も、トシマも、ソネケンも、それぞれが大切な物を鬼に奪われた。賭けた内容と違う物を取り上げられた、私とソネケン。そして命を食われてしまったトシマ。この違いは、なに。
お互いを賭けの対象としていた二人なのに、ソネケンだけを事故に遭わせて、ミズキだけを無事に済ませる理由やメリットが、鬼にあるのだろうか。
「それに、声って?」
私はなにを考えているのだろうか。思考を巡らせたところですぎてしまったことが戻るわけでも、目を取り戻せるわけでもないというのに。
わからない、だから、知りたいと思っているのだろうか、私は。疑問の渦に落としていた意識を引き上げてくる声が届いて、顎を上げた先に、ヤザワが立っていた。
「お前、生きてるんだよな」
訝しげな面は、人を悪魔でも見るかのように思えてしまう。遅れて反応を返した私の隣へ、力尽きたみたいに腰を落とすヤザワは、なんだかやつれているようだった。
自分の持ってきた道具が、知人に起きた不幸の原因だと、責任を感じているのだろう。興味本位で楽しもうとしたのはみんな同じだ。伝えたところで慰めにはならないだろうけど、一人で抱え込む必要なんてない。
塞ぎ込むことが危ないというメリーの受け売りに、暗かった表情を少しだけ明るくしたヤザワは、大丈夫なのかと訊ねてきた。
詰まりそうになった喉から、平静を絞り出してみせた。
「恐怖体験なんか散々やってきたのによ、こんなにも怖いって感じるのはじめてだ」
「みんな、そうだよ」
「なあ宇佐見、お前、サークル活動続けんのか?」
胸を抉られる気分だった。
「俺、しばらくオカ研から離れるわ。ホンマはすぐにでもやめたい気持ちだけどな、一応サークル部長だし、強がらねぇと、トシマに顔立たねぇから。……お節介かもしれんけど宇佐見、そっちも少し止まった方がいいんじゃないか」
確かにそうだ。呪いなんて形がないできごとの差違など、気にしてどうなるって話だし、つい悪い方向に考えたりもしちゃうんだ、私は。でも……
「ねえヤザワ、あの時さ、声って聞いた?」
「なんだよいきなり……聞いてねぇよ、そんなの」
「ソネケンが聞いたって、ミズキが言ってたのよ」
「やめろよもう。お前だって懲り懲りなんだろ」
自分が呪われるのも、知り合いに不幸が起きるのも、嫌に決まっている。怖いけど、メンタルの方向性を矯正された時に、「悔しい?」とメリーに聞かれた。あれは確かめられていたのだと、今は思う。
幽霊も、妖怪も、異次元や神隠しだって信じているけど、私は根っからの理系だ。知りたいと思ったことは知りたいし、感じた違和をうやむやにしておける性格じゃない。こっちに足を突っ込んだ理由である探求心だって、捨てられるはずがない。
「パソコンどうなったの、やっぱり壊れちゃった?」
「聞いてどうするんだよ」
「だって、気にならないの? 賭けの内容と、違う物を奪われたのに。変だと思わない?」
「壊れてないし、心霊現象に違和感もなにもないだろう? なあ頼むよ、怖いんだよ俺、忘れさせてくれ……」
もう、深く関わらない方がいい。あれは捨てるよと言い残して去っていくヤザワの背中は、降り出した雪の色に白んでいくようだった。
かかる雪は冷たいはずなのに、体の奥から、仄かな熱を感じた。呪いが発動するには、きっと条件があるんだ。
「知りたい」
ただ命を食べたいだけなら私もヤザワたちだって、今頃鬼に食われている。紙に住む鬼がトシマだけをさらっていったのは、理由があるはずなんだ。
携帯を取り出して、リダイヤルを押した。五回続いた呼び出し音のあとに飛んできた一言はお寝坊さんで、クレームはお断りですよと続けられた。
『声かけても起きなかった蓮子が悪いんだから』
「ああ、うん、用件はそれじゃないの」
『じゃあ、また良い子良い子して欲しくなっちゃったんだ?』
「違うってば!」
受話口越しに口の端を上げる姿が浮かんでくる。逆襲してやりたいものの手が届かないので諦めることにして、古文に詳しい人がいないかを訊ねた。
『考古学? オカジマ先生じゃだめなの?』
「あいつは目つきエロいから嫌」
『あらら。――ナカジマ君て人がいるんだけど、さっき食堂にいたから、間に合えば捕まるかも』
サンキュと切ってから食堂に走った。特徴を聞き忘れたけれど気にしない。十一時もすぎた食堂はそれなりに人がいて、手当たり次第に声をかけて回った。ナカジマを知ってる人がいて、窓際に座っている二人組の片割れを指差された。
立ち上がり席から離れるのを見て、慌てて近付いた。いきなり呼び止めたからか、ナカジマとその連れに訝しげな視線を向けられた。古文を見て欲しいと伝えたら快諾してくれたナカジマは、今いた席で待っててくれよと言って、トレイを返しにいった。
腰を落とすと二人はすぐに戻ってきて、私は、画像に収めていた巻物を見せた。
「あれ」とナカジマの連れが声を漏らして、前に見せられたやつじゃん。「きみもオカ研なの?」違うと首を振り、ナカジマに目を流した。
「それ、なんて書いてあるの」
「鬼の賽、横道なきことなかれ、役が出ない時、その者のすべてを捧げ、だっけか」
「ちょっと違うな……鬼の賽振るなれば、横道なきなかれ、約違いし時、虚偽の対価をこれ取り立てる」
「虚偽?」
引っかかる言葉だ。ちょっとどころか全然違った解答だが、似通っている部分はある。役と約、すべてを捧げと虚偽の対価、それに横道。
「どういう意味なんだろ」
「あ、あれだあれあれ、一昨年鬼の交流博物館にいったろ」
ああと返して顎を撫でるナカジマは、納得した様子で頷いていた。わからないでいる私にナカジマの目がついっと向いて、「鬼に横道なきものをって台詞があるんだよ」酒呑童子の。
大江山にいた鬼の親玉、酒呑童子は有名だから知っている。けど、横道の差すところがわからなくて、いまいち腑に落ちなかった。
「鬼ってのは悪さするけど、嘘をついて欺くことだけはしない。首を跳ねられた酒呑童子が最後に言い放った言葉なんだけど、多分そこからきてるんだと思うよ」
ほかにはと振られて、もうないと礼を言った。サイコロの画像は見せてもわからないだろうし、多分呪いとは無関係だ。
また面白い物があったら声かけてよと離れていくナカジマたちに、軽く手を振った。混みはじめた食堂から出て、西側にある駐輪場まで歩き、隅っこにある段差へ腰かけた。
鬼の賽振るなれば、横道なきなかれ、約違いし時、虚偽の対価をこれ取り立てる。横道が差しているのは嘘で、続く約違いしは、きっと賽を振る時のルールだ。鬼の賽を振る時に、嘘をついてはならない。それを破ったから、嘘の対価を取り立てたと言うことになる。
「嘘って、なに」
あの日いた全員に呪いは降りかかっている。ミズキはソネケンを、ソネケンは足を、私は目で、トシマは命を。ヤザワは……いや、おかしい、賭けていたパソコンは壊れていないと、ヤザワは言っていた。全員?
「ミズキは?」
ソネケンとミズキはお互いを賭けていた。大切にしている彼氏が怪我をした、これはミズキが嘘をついたペナルティだろう。ならソネケンはどうだ。ミズキには、なにも起きていないじゃないか。
歩けるようになるまで手伝うと言った子だ。ソネケンに対する思いは本気のはずで、嘘の対価というルールが適用されるのはおかしい。その日のうちに、私たちは対価を支払わされた、これは間違いない。今後ミズキに不幸が起きたとしても、呪いによる影響はないと言うこと。
携帯のメモ帳を開いて、ルールから弾かれた二人を打ち込んだ。ミズキとヤザワは嘘をついていない。
「私がついた嘘って」
なんだろう。大事なものを賭けようと提案されて、私はサークルの活動を賭けた。今の私にとっては大事なことだし、嘘じゃなかったけど、命や、その前に浮かんだメリーよりも大事かと言われたら、ノーだ。
これが適用されたと言うのだろうか。ならトシマはどうなんだろう。命を賭けていたし、それ以上に大事なものなんてないだろうけど、でも、ルールを適用されるような嘘もついたはずなんだ。
思考のなかに潜り続けていたら、くだらないお調子が浮かんできた。トシマが命を奪われたのは、笑いを取った一言が原因なの?
繋がった答えに、寒気が這い上がってくる。
冗談じゃない。あんなことで奪われてしまう理不尽さに、抱えた腕が震えてしまう。
「呪いなんだ」
面白半分で試した自分たちが悪い、そういうことなのだろう。もう自覚しているし、取り返そうなんて思わない。けど、思考だけは止めたくない、あと少しなんだ。
ペナルティを受けた奴は一人残っている、ソネケンだ。
あの時にも感じていた、ミズキに対する感情が嘘だったから、対価に足を奪われた。お互いを賭けたにも関わらず、ソネケンだけが不幸に見舞われた理由は、恐らくこれだろう。
絡まった紐みたいになっていた疑問符はほどけたけれど、完全じゃない気がした。なにか、なにかがあるはずなんだ。
引っかかる違和感を見つけて、首筋に鳥肌が立った。
「声だ」
ソネケンが聞いたという声を、私も聞いていた。確かに聞こえたあの一言が、最後の警告だったなんて、二日前の私にわかるはずもない。それほどに自然で、誰が発したのかも疑わなかった。
――本当に、これでいいのか。
いいよ、別に。そう答えようとした私に代わって、トシマは「オッケー」と軽く返していた。鬼の声だとわからずに、私はなにも言わなかった。
思い返してみても、ヤザワとミズキは返答していないし、声など聞いていないと話していた。囁きを耳に入れていたのは、嘘をついていた私とトシマ、ソネケンの三人だけ。
待機状態の画面が光を取り戻して、少し遅れてから着信を鳴らした。通話ボタンを押して左耳に当てた。
『私メリーさん、ねえ、今どこにいるの?』
「西の駐輪場。ねえメリー、解けたよ」
『解けたって?』
呪いの秘密。
聞かせて。
嘘ついたから、それに見合うだけのものを取られたっぽい。
そうなんだ。
うん。
じゃあ、蓮子がついた嘘って、なに。
教えてやんない。
意地悪、呪っちゃうんだから。
もう呪われてるもん。
「私メリーさん、今あなたの後ろにいるの」
「前じゃねーか」
白のスマートフォンを鞄にしまったメリーは、左側に腰を下ろした。「あーあ、また抜け駆けされちゃった」
「どうせなら一緒に考えたかったのになぁ」
膝の上で頬杖を突く顔は笑っていたけど、内心では拗ねられているように感じた。ごめんと言いかける前に、「まあいいけど」と出されて、傾げさせながら見つめてくるメリーは、私もやってみたかったなと言った。
「だめよ、危ないんだから」
「蓮子が言っちゃうかなぁそれ」
柔らかく作ったこぶしを口に当て、一頻り笑ったあと、静かに視線を向けられた。言葉を待っているのだとわかるのに、求められている一言が浮かばなくて、私は合わせている瞳をしばたくことしかできないでいた。
諦めたのか、痺れを切らしたのか、口角を持ち上げたメリーは「で、どうするの?」とかけてきた。
先延ばしにしていた問いだと察したけれど、唇は貝みたいになって開いてくれない。回し車を転がすことに勤むハムスターみたいだった思考は、二者択一を前に情けなく止まってしまう。イエス? ノー? 私はどちらを選びたいの。
「私は」
続けたい、秘封倶楽部をやめたくない。雰囲気の良いカフェを見つけては通ったり、怪しげなサイトの怪談や噂を集めるばかりだけど、ふと思い立って、不思議を見つけにいきたいんだ。
ちょっと怖い思いもするけど、好奇心が赴くままに歩きたい、メリーと、二人で。
「ねえ、メリーは続けてくれるの、こんな私と」
「いつもいつだって、決めてるのは蓮子じゃない。我儘でいてくれないと嫌よ、私」
薄いブラウンの手袋を外した右手が伸びてきて、握られた左手は相変わらずと冷たいのに、体の芯が、じんっと温かくなる気がした。
まったく、うだうだとらしくない。悩む必要なんてないじゃないか。
握られた手を返して、引き上げるように立ち上がった。お尻を軽く払うメリーに、「ついてきてよね」と歯を見せた。
「もちろんよ」
「星の見方、一から覚えないとなぁ」
「振り出しに戻るね」
「まるで人生ゲームだわ」
そうだ、なにを怖がることなんてあるだろう。生きている時間だって、どんな出目になるかわからないサイコロと同じだ。呪いがなくてもいつか終わる命なら、歩むことを躊躇う必要なんてない。
生きている限り、なんどでもやり直して、また進むことができるのだから。
「じゃあ賽を振ろっか。出目は幾つでどこに止まるのかしら」
「三マス進んで、ゆかりで一杯」
「はいはい、仰せのままに」
コートのポケットに突っ込んだまま繋いでいるぬくもりが、私の一番大切な存在だと、今なら、恥ずかしげもなく言える気がした。
学びたいことは確かにあったし、専攻分野や好きな講義は楽しいが、楽あればなんとやらで、私は今とてつもない退屈に襲われていた。
「大学生には遅刻がなくていいなだなんて、能天気な頃が懐かしく感じちゃうわね」
開いた携帯をメール画面にして、着信がないことにため息が出た。「カフェいかない?」と送った誘いは、まだ開かれていないようだ。
「メリー真面目だからなぁ」
マナーモードの振動に気付いても、講義中に返信する性格じゃない。さて困った。どうやって暇を潰せばいいのだろう。
午後の講義は、関心のいかないものばかりだ。ルーズな方だと自覚してるものの、居眠り出席をキメれるほどに、私の神経は図太くない。
かと言って、意味もなくキャンパスをうろつく趣味だってない。ああ、いかにも持ってそうなイケてる人から「お茶でもどう?」なんてかけられないだろうか。そうしたら私は「安すぎる誘い文句はお断りよ」と返してやるのに。
薄く積雪したホワイトキャンパスのなかで、結っていない右側の髪を撫で払った。きっと様になっているし、耳を澄ませば、私を誘う声が聞こえてきそう。でも現実に、「蓮子じゃーん、今ヒマー?」と背中に当てられた声は高くて、夢想していた低くて芯のあるイケボイスは、所詮幻想でしかなかった。
「なんだミズキか」
「なんだはないっしょー? 同じ専攻なのにさぁ」
「私のは頭に超統一がつくんですけど」
「まーた蓮子の〝私は頭良い〟アピールがはじまった」
殴ってやろうかという気持ちが顔に出たらしく、「こわーい」とポーズを取るミズキは、きゃははと甲高く笑う。この笑い方があまり好きじゃなくて、普段から近寄ることもないのだけど、専攻分野が似ている所為もあってか、向こうからはやたらと絡んでくることが多かった。
死語なんて使いたくないが、〝コギャル〟と言う言葉はこの子のためにあるようだと感じる。生まれる時代を間違えたんじゃないのだろうか。
「ねぇねぇ、今ヒマー? てかヒマでしょー? 遊ばなぁい?」
「なによそのナンパみたいな誘い方。あと決めつけないでよね、私だって予定あるんだから」
「うっそだぁ、マエリさんがいない時は速攻で帰る癖にさぁ。どうせ受ける講義もなくて時間持て余してたんでしょ」
脳たりんな喋り方なのに、変に鋭いなとも思ったが、どんな馬鹿でも大学に受かるなら、そりゃ観察くらいできるか。
「レズかって思うくらい仲良いもんねぇ、て言うかレズぅ? きゃはは」
「頭打たなきゃ治らないなら協力するけど?」
「いやーん、リサこわーい!」
漫才をするくらいなら帰ろう。思った時に、一人足らないんだよねと口にされて、「合コン?」と聞いた。出会いの餌にされるは正直ご遠慮頂きたいところだが、ゲームと言う言葉を耳にして、少しだけ話に興味を持った。
「いつもはポーカーやってるんだけど、今日はチンチロってやつやるって」
「サイコロ振るやつか」
今時珍しいというか、一体どういう風の吹き回しでチンチロなのだろう。どちらにしても、私の気を引くものではなさそうだった。
「なんでも曰く付きだとかで盛り上がってるの」
「て言うと?」
「さぁ? ヤザワが実家の倉から見つけたって聞いたから、本人に聞いてよ」
骨董品マニアのひょろひょろ眼鏡が頭に浮かぶ。人伝に聞くのは大抵ガラクタみたいだけど。
どうすると言われた私は、覗くだけならいいかとついていくことにした。〝曰く付き〟と聞いて心が弾むようだ。こういう安っぽい話は大好物だし、オカルトを掲げる秘封倶楽部としても、曰く付きと聞いて動かないわけにはいかない。
暇を潰すための建前ではないと言い聞かせながら、ミズキの隣を歩いた。「そう言えばさ」
「フットサルのソネケンと付き合ってるって聞いたけど」
「うんうん、ケンジ君、超カッコイイよぉ」
女たらしみたいだけど、と言いそうになり、口を結んだ。人気の側面にはよくあると言うべきか、一部からの評判は悪くて、女絡みの話は絶えず聞こえてくる。
ソネケンもいるよと聞いて、動いている足がちょっと躊躇った。直接会うのは初めてだし、所詮噂かもしれないけれど、ミズキのいないところで言い寄られたりしないだろうか。
「顔が良くて運動もできるから、モテるでしょ」
「優しいからねぇ、はっきり断るのが苦手みたいだよ」
気があるからそうしないだけだろう。「しっかりガードしなきゃね」と意識を促させたところで、大学から出てしまう。どこへ向かうのか訪ねた。
「ヤザワの巣」
歩いて五分程度のところらしく、近くて羨ましいなと漏らした気持ちは、ボロアパートに着いてからひっくり返った。ショートブーツを履くミズキは、錆び付いた階段を鳴らしながら駆け上がる。塗装の剥がれた壁にはひびも走っていて、ここに住むくらいなら、実家から通った方がマシなんじゃないだろうか。
インターホンの音に誘われるよう出てきたのは、ソネケンだった。
「お、友達?」
爽やかな声と顔が私に向けられて、なるほど、こりゃ落ちるわけだと会釈した。
「どうも」
「同じ専攻の宇佐見っちだよー。あ、ブーツだから先上がって」
低い上がりかまちには腰を着けず、壁に手を添えながら、靴を脱いだ。入ってすぐのところには、油汚れの目立つ台所があった。手洗いと風呂場は右手側で、間仕切りはあるのに、肝心のカーテンはなかった。
玄関を繋ぐ廊下には建具もなくて、奥から「さっみぃな」と鼻声が届いた。ヤザワだろう。
「なーに突っ立ってんの」と背中を押されて、散らかっている居間にお邪魔させてもらった。
「不良サークルの宇佐見やんか」
意外やなと話すヤザワが「吸うん?」と手を崩してきたので、鼻を押さえながらどっちが不良よと返してやる。ヤニの染み込んだ部屋は四畳半くらいありそうで、意外に広く感じられた。
ミズキは色違いのモッズコートを脱いで、染みの目立つ絨毯に畳んだ。私のはカーキと違い毛埃が気になる黒色だから、帽子と一緒に鞄の上へ置いた。玄関を背にして、こたつに膝を潜り込ませてもらった。
「トッシーより華があって良いでしょ」
「いつもいる人なんだ」
「同じホラ研のトシマな。つーか、宇佐見ルールわかんの?」
大体ならと返して、鞄から携帯を取り出した。
「リサもわかんないから見るー」
「宇佐見さんはまだガラケーなんだ。良かったら下の名前教えてよ」
「ああ、えっと」
タイミングが悪いのか、ミズキの意識がざるなのか、左へ流した視線には気付いてくれなかった。噂は事実なのだろうなと確信を抱きつつ、躊躇いながらも、一応答えた。
なんて書くのと続けられて、花の蓮だと言った。いよいよ危なっかしく感じられたので、堪らずヤザワに振った。
「曰く付きって聞いたけど」
「ああ」と漏らしてから体をひねり、赤青黒と三色に分けられるサイコロの入った茶碗が、こたつに置かれた。柄もない黄緑の茶碗は大きめで、なんの変哲もない天目形だ。どこを見て曰く付きなのだろうと傾げた私に、ヤザワが茶碗を揺らしてみせた。
「曰く付きはこっちな」
「サイコロ?」
「鬼の賽って言うらしいわ」
へえと伸ばしたミズキが、サイコロを摘んだ。
「普通のコロコロじゃん」
色以外の違いがあるとすれば、市販のよりも角がなく転がりやすそうなところと、漢数字の書かれた面くらいだ。不気味さとかも感じられないそれを、まだ振るなよ? とヤザワは制した。
巻物と一緒に納められていた賽は、負けた人を喰らう、呪われた道具らしい。ホラー研究会の癖に煽り方が下手な奴だ、とは突っ込まないでやろう。
「検証は?」
「これからやんの」
じゃあ金額から決めるかと財布を取り出しはじめて、幾ら賭けるかを振ってきた。
「うちの大学、賭博禁止じゃなかったっけ」
「いいんだよ、大学の外なんだから」
ゲームとしてなら問題ないが、お金が絡むなら話は別で、困るかもと口にした。「金欠なら貸すぜ」
「ちょっとぉ、ケンジ君いるんだからタバコはやめてよね」
わりぃなとソネケンが手を合わせたけど、締まらねぇなとこぼした一言から、ミズキがいない時はやっているのだろうなと思った。
セブンスターを脱ぎ捨てているジャケットにしまい、じゃあ最初はルール確認でやるかと言って、サイコロを投げた。親はミズキだ。
千と振るヤザワに続き、ソネケンも千と言った。
「賭けないって言ったじゃんかー、眼鏡ザワぁ」
「雰囲気作りだよ、雰囲気」
「ならしょうがないかぁ」
蓮子は? と振られて、仕方なく千賭けた。点数なのか金額なのか、いまいちはっきりしなかったが、流されに逆らうのは面倒そうなので、気にしない。
調べたルールには、親の交代は右に回っていく。ミズキが目や役を出さなければ、次の親は私だ。一回二回と屑が続いて、三回目に五が出た。
「やったやった、リサの勝ちぃ?」
「いやいや。振れよ、宇佐見」
促されて投げようとした時に、インターホンが鳴った。「俺出るわ」とソネケンが立ち上がって、玄関に視線が集まる。
おー、と声が上がり「なんでいんの」と、突然の訪問者と笑い合っていた。入ってきた顔に見覚えはなかったが、私を見たチャラいパーマ頭には知られているようだった。
「宇佐見おるやん、なになに、俺クビ? クビ?」
「あれぇ、トッシー今日はこれないんじゃなかったの」
「中止や中止、直前になって女子側がバックレ」
うーさみさみ、宇佐見どいてくれぇとこたつに足を突っ込んできて、トシマは羽織っていたダッフルコートを脱いだ。オカ研に入ってる輩はどうしてこうもひょろくて色白なのだろう。合コン失敗の原因は、案外こいつなんじゃなかろうか。
「丁度ええところにきたし、お前、宇佐見と変わるか?」
「ええよええよ、俺手ぇぬくめてからやるから続けて」
コンビニの袋を漁るトシマは、缶コーヒーを並べて、おるって知らんかったからなぁと手を擦った。「飲めるなら俺の分どう、宇佐見さん」
「ううん、いいよ」
「じゃあお湯沸かしてくるわ」
勝手知ったるヤザワんちなのか、ソネケンは台所へと消えた。肘でつついてくるミズキが「ね、優しいでしょー」と耳打ちしてきて、羨ましいっしょを連発してくる。
ウザいと言うか、自分の男が出しているであろう気の多さに、気付いてはいない様子だった。余程の自信を持っているのかはさておき、トシマに振ろうぜと言われて、順番を回すことにした。
一、二、四の屑で、二回目も屑。三回目に六が出て、私の即勝ちが決まった。「おっ、おっ、幾ら賭けた? 代打だから俺も貰えるよな」
「なわけねぇだろ馬鹿、ルール確認だからどっちみち無効だよ」
宇佐見さん勝ったんだと笑いかけられて、不覚にも、ときめいたものを感じてしまう。――手が早いようなので対象外だが。
「ビギナーズラックってやつかな、あやかりたいね」
だと思うけど、ギャンブルが怖いと言われる所以は、こうして当たってみると、「嬉しい」と気分が持ち上がってしまうところだろう。
上限にもよるだろうけれど、賭けた金額の倍は貰えるのだ、ハマってしまう気持ちも頷ける。
「負けた時は怖いけどね」
「そんじゃ本番はじめっか。今やった上限で、最低は千な」
「て言うかトッシーいつまで蓮子の隣いんのよ、反対回りなって」
「空いてねぇじゃん」
「私から見ての反対側、ケンジ君リサの隣くるよねー」
「ああ――沸いたからお茶淹れてくるわ」
名残惜しそうな台詞を吐いて、トシマは空いた席に移動した。若干目つきが気持ち悪かったので、ミズキのフォロー(のつもりがあるかは知らないけど)に感謝しておこう。牛柄のマグカップにお茶を淹れてきてくれたソネケンは、窮屈そうに、ミズキの隣へと潜り込んだ。
親は、代打だった私からトシマに変わる。賭け金はさっきと同じ千だった。
振らなくても参加できると言われたが、参加するつもりはない。曰く付きを検証するゲームがはじまった。
「今日は勝たせてもらうわ」
意気込んで投げたサイコロの一つは、ぶつかり合った際に弾かれて、茶碗の外に出てしまう。トシマの即負け。「うーわ、最悪や」
「ションベンかますわ出会いは潰れるわ、ほんとツキがないで」
「俺が親だな。――宇佐見、手ぇ空いてるなら記録してくんね? つーか、紙あったかな」
見てるだけというのも味気ないので了解した。鞄からメモ帳とペンを取り出して、トシマの負け分を書く。次の賭け金は千五百で、子役は誰も見送らなかった。二回振った目が四、五、六でヤザワの即勝ちだ。
続行した親の目は三、三、四で、ソネケンの三回目が二、二、五だった。親権利の交代が決定して、ミズキが振る。屑しか出ないまま、次にトシマが振って、五を出した。
携帯を片手に書き写しながら、親と子役のシステムに、面白さを感じていた。
「ちょっと思ったんだけど、これ、最終的に払えるの?」
ゲーム数にもよるだろうけど、なかなかの高レートだと思う。ルール上、上限は上げれても下げることはできないし、大学に通いながらのバイト代なんて、このペースが続けば泡みたいなものだ。疑問をぶつけてみると、ツケが利くから大丈夫と笑われた。
「よっしゃ、次いくかー」
使い方なんて人それぞれだが、価値観の違いはどうにも合わないと感じた。精神学を専攻しているメリーなら、この状況も楽しめるのだろうか。
続いていくゲームが三十八回にきたところで、ヤザワから待ったがかかる。使いさしだったメモ帳も終わりかけだったので、この休憩は丁度良かった。
一服してくるとヤザワが席を立ち、空き缶を持ってトシマも追う。ミズキは花摘みだ。
勝ち負けを纏めていると、お湯を沸かしにいっていたソネケンが戻ってきて、アドレス教えてよと迫られた。「折角知り合ったんだからさ、次は外で遊ぼうよ」
ミズキの三人でと添えてきたのは、私の警戒を解かせたいからだろうか。
「彼女の許可もなく交換するのは、ちょっとね」
ミズキにだって教えてないのだから、あんたに教える義理なんてないと言うのが本音だけど、さすがにそれを言う度胸が、今はない。
「仲良いなら、別に大丈夫だよ。俺から言っとくしさ」
「女同士って結構面倒なの。だから、困るわ」
嫌よ嫌よを繰り返している間に、水の流れる音が聞こえてきて、やっと諦めてくれた。お互いに変わらぬ素振りを努めたからか、感づかれることもなかった。薬缶の笛が鳴ると同時に、一服し終えた二人が帰ってきて、ミズキがお茶を淹れに立ち上がった。
元の位置取りに全員が戻って、ヤザワが「なあ」と視線を集めた。
「体調に変化とかあったか?」
負けて呪いが降りかかるなら、私以外の全員がアウトだ。負けの総額ならばトシマに降りかかって、なにかしらの変化だってあるだろう。でも現実には誰かが体調を崩すわけでもなく、幻聴だって聞こえやしない。
有名な低級霊を呼び寄せる儀式の方が、まだ効果を実証しやすいくらいだろう。
「別にないな」
「うちもー。てゆーか飽きちゃったぁ」
「あー、俺心臓痛いかも。これ彼女作らなきゃ死ぬ病気やわー」
ちらちらと向けられる視線は無視して、やっぱりガセなんじゃないの? と肘を突いた。検証終了かぁと肩を落とすヤザワに、ミズキが、「ちっさいものだからいけないんじゃないの?」と口走った。
金額じゃないと思う。そう告げてみると、ミズキは舌を打たず、口でチッチッチと言って、指を振ってみせた。
「喰われるって書いてるってことはー、きっと命を賭けるんよ」
「確かに」と頷かされる。ただそれが真実だとして、検証するに値するだろうか。誰だって自分は可愛いものだろうに。
「やってみたいけど、ちょっと怖いところあるよなぁ」
ソネケンが、口の端を持ち上げる。無理に試す必要もないだろう。やめてしまおうと提案する前に、ミズキの「じゃあさ」が先に出た。
「ジャンケンで負けた人が試すってどう?」
一拍のあとに、面白そうやんと言ったトシマに釣られて、私以外の意見が一致してしまう。こうなると、多数決には逆らえない。
かけ声に乗らないのをけしかけられて、腕を振り抜く。命を張ることになったのはトシマだった。
お前らもなんか賭けろよなと余裕を見せているトシマに、今度はなにを賭けるかで盛り上がりつつあった。命ほどじゃなくとも大きいものなんて、なにがあるだろうか。
隣から、思いついたかもー、とミズキが声を弾ませた。私はくだらない発想であることを、なぜだかわからないけど期待した。
どうにも、空気が重く感じてしまう。
「ねえ、どうせやるならさ、大事なものを賭けてみない?」
それこそ命より大事なものはないだろうに。ヤザワが、確かめるように聞いた。
「その人にとって大事なものなら、なんだっていい感じ。思い出の品とか、そういうの」
だからぁ、と続けたミズキは、「ケンジ君はぁ、リサを賭けて」と腕を絡めた。そいつはいいやと言ってから吹き出したトシマが、「負けたら破局ってか」と腹を抱えた。
「ケンジ君にとって大切なのはぁ……リサだよねー?」
「うん。でもリサを賭けるのは、気が引けるなぁ」
いやぁーんと猫撫で声を出して抱きつくミズキだけど、私の目から見るソネケンは、言葉ほど大事にしているとは思えなかった。
「ミズキを賭けるってことで、いいの?」
「ん、ああ。いいよ」
「じゃあ俺はパソコンだな」とヤザワ。命を張る羽目になったトシマは、どうすっかなーを連呼して、「俺が大切にしているのって童貞なんだけどー、命より重いんだけどー」ジャンケンだからしゃあないよなぁ、と笑いを取っていた。
好きじゃない。
死ぬまではいかなくとも、程々に痛い目を見たらいい。
そんな風に耽っていたら、「宇佐見さんは?」と振られてしまい、声を詰まらせてしまう。細めているソネケンの瞳は、意地悪い感情が孕んでいるように見えた。
……拒んだ仕返しのつもりだろうか。多数決と言うのは、本当に厄介だと思う。突き刺さる複数の視線は、発言の期待をしているだけだとわかるのに、私には無言の圧力に感じられてしまう。
私にとって、大切なものは、なんだろう。
頭のなかを探っているところに、「思っている人くらい、いるでしょー?」と言われた。辿り着いた思考も、その一人を瞼に映し出していた。
だけど私は、その名を言うつもりはない。なぜこの場にいないメリーを巻き込まなくてはいけないのか。
違うとは言わずに、そうねと答えて、サークルの活動を賭けた。
「そりゃあいい。この際ちゃんとした我らがホラ研に入ってくれよ」
「宇佐見とマエリベリーなら大歓迎やなぁ」
堪らんなぁと気持ち悪い笑みを浮かべられて、鳥肌が立ってしまう。じゃあこれでいいんだよねとミズキが仕切り、恐怖体験らしくなってきたからか、各々が座り直していた。
すうっと深呼吸をして、目を閉じた。
――本当にこれでいいのか?
囁かれた問いかけには、トシマが代弁してくれていた。意地悪い仕打ちをしてきたソネケンも、本格的な空気が落ち着かないようで、きょろきょろと目を動かしている。実は心霊現象の類が苦手なんだろうか。
だとしたらざまあみろだ。ヤザワの提案したルールで、親も子役も関係なく全員が、負けなくてはならなくなった。
親は、ミズキだ。このなかの誰かに、呪いは降りかかるだろうか。運命を決める賽の目は振られて、四が出た。
不吉な数字は続いて、私が投げた目は、六が揃っていた。本当に死ぬのかもしれない。出目について一言も発しないところ、ほかの四人とも同じ考えだろう。
硬くなり続ける空気のなか、親の権利が移った。さっさと終わりたくて仕方がなかった。
振り落としたサイコロは、三回とも目なしで、即負け。親になったトシマは強く振りすぎて、二つが茶碗から飛び出てしまった。ヤザワは三連勝したあとに親を渡し、ヒフミや屑を出して負けた。
ソネケンはミズキに六を出されて、引導を渡される。これで、全員が負けたことになる。
負けた時点で変化が起こるのであればトシマだ。最終的な負けの回数なら私。
「なにも、起きないな」
沈黙を破るようにソネケンが言って、時間差かもしれないとヤザワが言う。なにかが起こるかもしれないという不安が部屋を包み、静寂を、もしかしたら人生を終わらせる知らせが、鞄のなかで鳴り響いた。
私の携帯だ。
呪いを受ける役目は、どうやら負け回数らしい。そっと携帯を取り出したら、着信音がやんでしまった。いよいよくるのだろうかと思ったがなにも起きなくて、折り畳んである携帯を開いてみた。
着信の正体は電話じゃなくメールで、しかも二件あった。右上の時刻はもう十八時をすぎている。気が抜けてから当たる視線に気付いて、地獄からの通達じゃなかったと告げた。
「あーもうびっくりしたぁ」
時間を凍てつかせていた重圧がなくなって、結局は紛い物じゃねーかと笑いが飛び交った。確認しようとボタンを押しかけたが、お開きの言葉が出て、あとでいいかと鞄にしまう。
手洗いを借りてから、今日の記録をメリーに見せたいと思って、サイコロの画像を撮らせてもらった。
「ねえ、巻物ってある?」
「あるぜ」
紐をほどき広げられた巻物は古くて、いかにもなくらい草臥れていた。太字で記された道具の名と、鬼の絵が、本文のあとに描かれている。内容は古文だったので読めそうにない。
一応これも撮らせてもらう。
「ヤザワはこれ読めるの?」
「いいや、専攻してる奴に教えてもろた」
帰り支度を済ませていたミズキとソネケンが、玄関の方から声を飛ばしてきた。手を振って見送ったあと、そっかと話を切り、鞄の紐を肩にかけた。
玄関まで見送ってきたトシマが、サークルの件考えてくれよなと言ってくる。「失敗したんだからやーよ」
「じゃあまたやろやろ、今度は相方も誘ってや」
「チンチロじゃなくトランプならね、考えとくよ」
「うは、宇佐見エロいわ、もっかいチンチロ言うてや」
「ばーか」
死ね。階段を降りてから、きた時になかったロードバイクを見つけて、トシマのだろうと思い蹴りを入れた。違ったら、ごめんなさい。
暇を潰すつもりが、こんなに遅くなるなんて思わなかったな。「さむ」重ねた手のひらのなかに息を吹きかけて、手袋を持ってこなかったことに若干後悔した。
携帯を取り出して、メールの確認をする。二件ともメリーだった。
「あー、忘れてた」
恐る恐ると一通目の本文を開けば、「終わったよ」の一文だけ。本当に怖いのは二通目だろうなと思いつつ、開いた内容には「こないの?」と書かれていた。最近通っていたカフェで待っている、と言うことだろうか?
返事しなきゃと思った時に、リロード画面になって、メリーからの催促が届いた。「どーこだ」というタイトルに画像が添付されいて、開くと見慣れない星空が映っていた。
たまにやる戯れだが、すっぽかしたからといって、実在しない星空なんて送られても、場所なんてわかるはずがない。意地悪と返してやって、すぐに送られてきた返事には、なにもしてないよと疑問符までつけられていた。どういうことだろう。
撮った画像がいまいちだからか、緊張で疲れた所為なのか、メリーの場所を探ることができなかった。ふと、空を仰いでみた時に、着信が鳴った。
雲のない綺麗な星空を眺めながら、私は通話ボタンを押して、電話に出る。
『お酒でも飲んでたの?』
「メリー、私、わかんない」
『え?』
「メリーの場所がわかんなくなっちゃった」
鼓膜を震わせる声が、遠ざかっていく。
冬の夜は早くて澄んでいるのに、浮かんでいる星たちの姿を、私は把握できなかった。
2
早足にさせられてしまう一月下旬の空気は、歩いている内に慣れてきて、吹き当たる風も気にならなくなった。通り抜けたたこ焼き屋の残香が鼻に残って、カフェを楽しめなかったお腹が反応してしまう。
救急と警察のサイレンが追い越していって、ポケットからの振動に足を止めた。擦り硝子から透けてくる明かりの反射が邪魔で、画面を横向けてから、ボタンを押した。「今どこ?」
「ゆかりの前」ぽちっとな。
悴む指に息を吹き当てても、一生の友達である末端冷え性はマシにならない。ついと見た暖簾の奥で、ウーロンハイが私を待ってるんじゃなかろうか。
すれ違ったリーマン二人が店に飲み込まれていって、あとに続きたい気持ちを抑えながらまた歩いた。ああ、水割りの焼酎が飲みたい。待ち合わせの公園が見えてから、メリーを呼んでしまえばよかったなと後悔だ。
緩やかな坂道を登り、公園に入って、光源があるところに顔を振った。暗がりのなかベンチに座っている陰を認めてから、湿り気味な砂利の上を駆け足で進んだ。
東屋の横で点滅する電灯がちかちかと、見慣れたナイトキャップから伸びる金髪を映している。パウダーベージュのトレンチコートから伸びている足は、相変わらずと羨ましいくらいに細くて、黒のレギンスを履いていても凍えているように思えた。
「ごめん、寒かったでしょ」
別にと返されてから手を握られて、カイロを渡された。「あったけぇ」
「オヤジみたい」
飲み込んでから上ってくるアルコール成分は恋しいけれど、鞄から代わりと出された缶コーヒーに、固まっていた口の端が持ち上がった。「乾杯?」
「乾杯。どうせならゆかりでしたかったけど」
「酔いたいんだ」
「そりゃこんなことが起きたらね」
コーヒーのコクじゃ、現実から逃げれそうにない。どうしたのと続かないから、言い出すを待ってくれてるのだと思う。半分ほど飲み干した温かさはもうぬるくなりはじめていた。なにから話せばいいのだろう。
飲み口のなかを覗いても、届いてくる薄明かりじゃ中身は認められない、切り出せない。ゆっくりと視線を送ってみたら、メリーは硝子張りの天井を仰いでいた。不意にねえと発してから、すっと右手を空に向けた。
「あれはなにかわかる?」
左肩に頭が寄りかかってきて、指されている右手が目の先に被った。見上げてみる夜空には、きらびやかな星が浮いている。なんだろう、星の名前だろうか。それとも星座のことだろうか。
どちらにしても出てこない。星の知識まで抜け落ちてしまったのに、自分でも、意外なほど気落ちしないのはなぜだろう。
「オリオン座」
「なんだ」
「蓮子が教えてくれたんじゃない。方角を探る時に便利だって」
「そうだっけ」
「見え方で大体わかるとかね。形しか覚えれなかったけど」
線を引く手が下げられてから、横に流れている瞳が刺さった。月光みたいな金色に潜めている感情は、呆れているように感じられて、いい加減に焦れてきているのだろうなと伝わった。この後ろめたい気持ちはなぜ沸いてくるのだろう。「本当に星の見方がわからなくなっちゃったんだ」漏らしてから喉を潤すその動きに釣られて、語り出せない唇にコーヒーを流し込んだ。
「盗られたんだと思う」
盗られたって、誰に?
「鬼、かな」
草臥れた巻物のなかで腕を振り上げている赤い鬼は、確かに現れたのだ。胸焼けみたくつかえていた言葉は、話しはじめた途端にあふれてきて、ヤザワの家で耽っていた経緯を、メリーは頷きもせずただ見つめてくるばかりだった。話し終えてから缶を傾けたけど、唇に当ててから、からっぽだと気付いた。潤いを求めてしまうのは、肌を刺してくる寒さの所為だろうか。
胸の奥が、乾いている。
「いつも先に動くのは蓮子だけど、なんだかなぁ、抜け駆けみたい」
蟠りの原因がわかって、無意識に寄った眉根を笑われてしまった。気にしすぎよと飲み干した缶を置き、大事がなくてよかったじゃない。果たしてそうだろうか。鬼の賽は本物で、ゲームが終了した瞬間には、呪いをかけられたに違いない。
命を賭けていたトシマが死ななかったのは、負けの負債が私にきたからではないのか?
奪われた自慢の目は序章にしかすぎなくて、やがて厳つい鬼が金棒片手に、命を取り立てにくるのではないのだろうか。「死んじゃうのかな」ついこぼしてしまう。「死なないわ」
「だって、賭けたのは倶楽部の活動なんでしょ?」
「活動の不可イコールが、私の死だったら?」
「そんなの幾らでも考えようがあるじゃない。蓮子の目を取り上げることが、活動の停止に繋がるって思われたのかもしれないし」
「優しいと言うか、なんか抜けてるよね」
笑い返されてからどうするのと聞かれて、ぼんやりと浮かんだ答えに、声を詰まらせてしまう。――活動、やめる?
なんで、そんなことを聞くの。発する前にメリーは、ごめんごめんと言い直すように、「続けたい?」と継いだ。当たり前じゃないと動かしたかった言葉は、喉元で勢いを削がれて、舌の上を転がってから唾液になってしまう。こんな目で、今まで通りにやっていけるのだろうか。
まっすぐに捉えてくる瞳孔は、これからも不思議な境目を見つけれると思う。常人よりも少しだけ良かった目は――私たちを繋ぐ共通点の一つは失われてしまった。
「私は続けたい。蓮子は?」
遠くに見えるネオンが、やけに眩しく感じられた。羽が折れて飛べなくなった鳥は、きっとこんな口惜しさを覚えるのだろう。
「続けたい……やめたくないよ」
への字にして咽びたくなるのを抑えても、目尻からあふれる悔しさは止められなかった。
一時的なものかもしれないとかけられた言葉を、茂みの暗がりから覗いている鬼が、あざ笑っている気がした。落ち着くまで背をさすられていた感覚は家に帰り、眠りにつくまで残っていた。
胸を締めつけていた不安は、一夜を通して薄れていた。気だるい腕でつけたワイドショーのトピックスは、いつも通り変わらない日常を伝えていた。
私だけの変化である、トシマの死を告げて……情報は次に切り替わった。
3
昨日起きた事故のことは、夕方になっても取り上げられていて、新しく入った詳細を局アナが読み上げていた。赤信号のまま突っ込んだロードバイクは、ブレーキが壊れていたらしい。事故現場の道路には、まだ生々しい血の痕跡が映されている。
私が蹴ったからだろうか。暗い思考を浮かべたけど、人の文化はあれくらいで壊れるほどやわじゃない。テレビをつけたのが遅かったから、興味のない芸能ニュースが流れたすぐあとに、番組は終わってしまった。
ヤザワやミズキたちは無事だろうか。怖くて外出を控えたのが幸いだったのか、私に不幸は起きていない。握ったままの携帯には相変わらずと着信がなかった。自分から連絡するのは、怖くてできない。
なにも返ってこなかったらどうしよう。そんな不安ばかりが浮かんでは、重苦しく胸に募っていく。昨日いた面子の番号やアドレスは知らないし、こちらも教えていなかった。ソネケンの申し出を断らなければ良かったと後悔してみても、もう遅かった。
――次はお前だ。
遠くからこの一室を見据えている鬼が、囁いている気がした。マンションのなかは本当に安全だろうか、火事や爆発は起きないだろうか、鬼に操られた強盗が押し入ってきて、羽交い締めにしてから凌辱したあと、私を滅多刺しにして殺すのではなかろうか。そんなのは嫌だ。「メリー」助けて、メリー、一人でいると頭がおかしくなりそう。
震えながら鳴った着信に、私は馬鹿みたいに体を跳ねさせてしまう。買った時から変えていない初期の着信音は、早く取れと味気ない音を出し続けている。
液晶には見慣れた番号とメリーの名前が記されていた。
『寝てたの?』
柔らかい一言に、のしかかっていた緊張が嘘みたいに晴れていった。ああ、よかった、生きててくれた。「ううん、起きてた」
『泣いてるの?』
熱くなる目元を拭ってから、ヤザワたちのことを訊ねた。キャンパス内では見ていないと返されて、胸がちくりと痛んだ。声色から様子を察してきたメリーが訊ねてきて、トシマに不幸があったことを伝えた。
抱えていた言葉を漏らした途端に、保っていた感情の糸が切れて、涙がこぼれていた。
「どうしよう、ねえどうしたらいいの、次は私が殺されちゃうの?」
『落ち着いて、大丈夫、今からそっちいくから』
「だめだよ、私といたらメリーまで酷い目に遭っちゃう。そんなの、嫌だよ……」
『よく聞いて蓮子、鬼は確かにいるけど、それは外じゃなくてあなたの内側に巣くっているの。私が鬼を退治してあげる。だから、ね?』
疑心暗鬼に陥っているのだと、メリーは言った。そうかもしれない、でも、私は目を奪われて、トシマも事故に遭い死んでしまった。ヤザワやソネケン、ミズキたちの無事だってわかっていない。まだ死んでいないのが、私だけだと言い切れるだろうか。怖い、嫌だ、死にたくない……
電話越しから聞こえてくる背景の音が、いつメリーを襲い、奪ってしまうかもしれないと考えて、浮かんでくる暗さを口に出してしまう。
宥められてばかりの時間は、もう着くよのあとに響いた、インターホンを合図に切れた。玄関まで駆けて開いた扉の向こうにはメリーが立っていて、目を合わせてから、だめな妹を心配して訪れた、姉みたいな顔で笑った。
数十年も会っていないような感覚に襲われて、また泣き出してしまった私は、メリーの鼓動に甘えたくて顔をうずめた。
なにが起きるわけでも、誰かが襲撃してくるわけでもなく、私の夜は静かに明けていった。
4
一昨日ぶりに踏み入れた大学はいつも通りだけれど、疎らと続く人波のなかに、知った顔の一つはもういない。もしかしたらそれ以上の顔が減っているかもと考えて、静まったはずの恐怖心が、足下から這い上がってくる気がした。
教室に入って、上段の席に着いた。間隔を開けて同じ席に着いた子が、前列の友達らしき子に「今朝のニュース見た?」と前のめる。「一昨日ダンプに大学生が跳ねられたみたいでさ、うちの学生だったみたい」
「マジで?」
「同じ専攻の子に聞いたらオカ研の奴だって」
「掲示板で一人かくれんぼの実況とかもしてたんだっけ、あそこ」
呪われたとか?
吹き出す彼女たちは知らない。事故に遭った原因が、命を賭けたことなのだと。私の目がそれを証明している。鼻で笑える状態がどれほどの幸せか、なってみるまでわからないだろうな。呪いと言う言葉を聞くだけで、気分が落ちてしまいそうだ。
「そういえばさぁ、フットサルのソネケンいるじゃん、あいつも事故に遭ったらしいよ」
え、あいつも死んだの? ううん、重体らしいけど生きてるって――あ、岡崎センセきちゃった。乗り出していた体を引き、お喋りを控えて真面目に戻る彼女たちだったけど、私の意識は、ソネケンに起きた不幸から離れられない。
生きている、でも、呪いが降りかかった、ソネケンまでもが。ミズキは、ヤザワは、私は?
私たちは、とんでもない化け物を、召喚してしまったんじゃないのだろうか。
開いているノートに文字が走ることもないまま、いつの間にか終わっていた講義のあと、早歩きでミズキのことを探した。好きで通っていると聞いた四号棟の講義室を覗いてみたけれど、見当たらなかった。
脇をすり抜けた子に訊ねてみたが、今日は見ていないと言われてしまう。ほかの子に声をかけようと思ってから、やめた。バイタリティはまだ戻らない。
諦めて一階まで降りて、ぼんやりと廊下を歩き回った。ふと顔を上げて、先にある購買から出てきたミズキを見つけた。自然と動き出す足は速かった。駆け寄った私に気付いてくれたミズキは、気落ちしていた顔に色を取り戻すようだった。
「蓮子ぉ」
心配したよ、こないから、トシマが、トシマがね。抱きつきながら喋るミズキの声が涙ぐみはじめて、わかってると返した声に涙が誘われてしまう。近場のベンチに座ってから、背中をさすってやった。
芯が強い子なんだと思う。落ち着きを取り戻したミズキは、弱々しい声だったけれど、事故の詳細を教えてくれた。
並んで歩いていると、ほどけていた靴紐を踏んだソネケンは、歩道に転んだ。そこに中華料理屋の看板が落ちてきて、両足を挟まれた。もうフットサルはできないと医者に告げられて、泣いていたと言う。
「歩くことはできるの?」
「うん、リハビリすれば。だからリサ手伝うの」
「そっか」
本当に好きなんだと伝わってくるようで、不謹慎だけれど、羨ましいと思えた。賭けていた二人の仲は、どうやら守られているのだとわかってから、疑問が浮かんだ。ソネケンに起こったことは、賭けの内容に掠りもしていない。なぜソネケンだけが怪我をして、ミズキは無事だったのだろうか。思考が口に出てしまい、そう言えばと拾われて、付き添っていた時に変なことを聞いたと継いだ。
「あいつがくるって、ケンジ君、譫言のように脅えてた。声を聞いたんだって」
「声?」
訊ねてみてもソネケンは答えれてくれなくて、ミズキ自身あの場で、声なんて聞いていないらしい。「蓮子は?」
覚えがなかった。納得したのか、どうでもいいことなのかわからないけれど、そっかと会話を切ってから、私たちは別れた。お互いに、気をつけてねと添えて。
薄曇りはじめる今日の天気予報は雪か雨で、後者でないことを祈ってから、見上げていた目を落とした。北側のグラウンドには相変わらずと女子たちがいて、ボールの奪い合いに黄色い声を上げていた。
あのなかにソネケンが戻ることはない。鬼に、奪われたから。
でもなぜ? 賭けていたのは恋人であるミズキで、フットサルを続けることや自分の足ではなかったはずだ。庇ったのならともかく、なぜ、ソネケンだけが?
わからないことはまだある。届いてくる声援から離れて、カフェテリアの近くにあるベンチに腰を下ろした。勝ち負けに関係なく呪われるというのなら、あの日いた全員に変化があるはずで、私も、トシマも、ソネケンも、それぞれが大切な物を鬼に奪われた。賭けた内容と違う物を取り上げられた、私とソネケン。そして命を食われてしまったトシマ。この違いは、なに。
お互いを賭けの対象としていた二人なのに、ソネケンだけを事故に遭わせて、ミズキだけを無事に済ませる理由やメリットが、鬼にあるのだろうか。
「それに、声って?」
私はなにを考えているのだろうか。思考を巡らせたところですぎてしまったことが戻るわけでも、目を取り戻せるわけでもないというのに。
わからない、だから、知りたいと思っているのだろうか、私は。疑問の渦に落としていた意識を引き上げてくる声が届いて、顎を上げた先に、ヤザワが立っていた。
「お前、生きてるんだよな」
訝しげな面は、人を悪魔でも見るかのように思えてしまう。遅れて反応を返した私の隣へ、力尽きたみたいに腰を落とすヤザワは、なんだかやつれているようだった。
自分の持ってきた道具が、知人に起きた不幸の原因だと、責任を感じているのだろう。興味本位で楽しもうとしたのはみんな同じだ。伝えたところで慰めにはならないだろうけど、一人で抱え込む必要なんてない。
塞ぎ込むことが危ないというメリーの受け売りに、暗かった表情を少しだけ明るくしたヤザワは、大丈夫なのかと訊ねてきた。
詰まりそうになった喉から、平静を絞り出してみせた。
「恐怖体験なんか散々やってきたのによ、こんなにも怖いって感じるのはじめてだ」
「みんな、そうだよ」
「なあ宇佐見、お前、サークル活動続けんのか?」
胸を抉られる気分だった。
「俺、しばらくオカ研から離れるわ。ホンマはすぐにでもやめたい気持ちだけどな、一応サークル部長だし、強がらねぇと、トシマに顔立たねぇから。……お節介かもしれんけど宇佐見、そっちも少し止まった方がいいんじゃないか」
確かにそうだ。呪いなんて形がないできごとの差違など、気にしてどうなるって話だし、つい悪い方向に考えたりもしちゃうんだ、私は。でも……
「ねえヤザワ、あの時さ、声って聞いた?」
「なんだよいきなり……聞いてねぇよ、そんなの」
「ソネケンが聞いたって、ミズキが言ってたのよ」
「やめろよもう。お前だって懲り懲りなんだろ」
自分が呪われるのも、知り合いに不幸が起きるのも、嫌に決まっている。怖いけど、メンタルの方向性を矯正された時に、「悔しい?」とメリーに聞かれた。あれは確かめられていたのだと、今は思う。
幽霊も、妖怪も、異次元や神隠しだって信じているけど、私は根っからの理系だ。知りたいと思ったことは知りたいし、感じた違和をうやむやにしておける性格じゃない。こっちに足を突っ込んだ理由である探求心だって、捨てられるはずがない。
「パソコンどうなったの、やっぱり壊れちゃった?」
「聞いてどうするんだよ」
「だって、気にならないの? 賭けの内容と、違う物を奪われたのに。変だと思わない?」
「壊れてないし、心霊現象に違和感もなにもないだろう? なあ頼むよ、怖いんだよ俺、忘れさせてくれ……」
もう、深く関わらない方がいい。あれは捨てるよと言い残して去っていくヤザワの背中は、降り出した雪の色に白んでいくようだった。
かかる雪は冷たいはずなのに、体の奥から、仄かな熱を感じた。呪いが発動するには、きっと条件があるんだ。
「知りたい」
ただ命を食べたいだけなら私もヤザワたちだって、今頃鬼に食われている。紙に住む鬼がトシマだけをさらっていったのは、理由があるはずなんだ。
携帯を取り出して、リダイヤルを押した。五回続いた呼び出し音のあとに飛んできた一言はお寝坊さんで、クレームはお断りですよと続けられた。
『声かけても起きなかった蓮子が悪いんだから』
「ああ、うん、用件はそれじゃないの」
『じゃあ、また良い子良い子して欲しくなっちゃったんだ?』
「違うってば!」
受話口越しに口の端を上げる姿が浮かんでくる。逆襲してやりたいものの手が届かないので諦めることにして、古文に詳しい人がいないかを訊ねた。
『考古学? オカジマ先生じゃだめなの?』
「あいつは目つきエロいから嫌」
『あらら。――ナカジマ君て人がいるんだけど、さっき食堂にいたから、間に合えば捕まるかも』
サンキュと切ってから食堂に走った。特徴を聞き忘れたけれど気にしない。十一時もすぎた食堂はそれなりに人がいて、手当たり次第に声をかけて回った。ナカジマを知ってる人がいて、窓際に座っている二人組の片割れを指差された。
立ち上がり席から離れるのを見て、慌てて近付いた。いきなり呼び止めたからか、ナカジマとその連れに訝しげな視線を向けられた。古文を見て欲しいと伝えたら快諾してくれたナカジマは、今いた席で待っててくれよと言って、トレイを返しにいった。
腰を落とすと二人はすぐに戻ってきて、私は、画像に収めていた巻物を見せた。
「あれ」とナカジマの連れが声を漏らして、前に見せられたやつじゃん。「きみもオカ研なの?」違うと首を振り、ナカジマに目を流した。
「それ、なんて書いてあるの」
「鬼の賽、横道なきことなかれ、役が出ない時、その者のすべてを捧げ、だっけか」
「ちょっと違うな……鬼の賽振るなれば、横道なきなかれ、約違いし時、虚偽の対価をこれ取り立てる」
「虚偽?」
引っかかる言葉だ。ちょっとどころか全然違った解答だが、似通っている部分はある。役と約、すべてを捧げと虚偽の対価、それに横道。
「どういう意味なんだろ」
「あ、あれだあれあれ、一昨年鬼の交流博物館にいったろ」
ああと返して顎を撫でるナカジマは、納得した様子で頷いていた。わからないでいる私にナカジマの目がついっと向いて、「鬼に横道なきものをって台詞があるんだよ」酒呑童子の。
大江山にいた鬼の親玉、酒呑童子は有名だから知っている。けど、横道の差すところがわからなくて、いまいち腑に落ちなかった。
「鬼ってのは悪さするけど、嘘をついて欺くことだけはしない。首を跳ねられた酒呑童子が最後に言い放った言葉なんだけど、多分そこからきてるんだと思うよ」
ほかにはと振られて、もうないと礼を言った。サイコロの画像は見せてもわからないだろうし、多分呪いとは無関係だ。
また面白い物があったら声かけてよと離れていくナカジマたちに、軽く手を振った。混みはじめた食堂から出て、西側にある駐輪場まで歩き、隅っこにある段差へ腰かけた。
鬼の賽振るなれば、横道なきなかれ、約違いし時、虚偽の対価をこれ取り立てる。横道が差しているのは嘘で、続く約違いしは、きっと賽を振る時のルールだ。鬼の賽を振る時に、嘘をついてはならない。それを破ったから、嘘の対価を取り立てたと言うことになる。
「嘘って、なに」
あの日いた全員に呪いは降りかかっている。ミズキはソネケンを、ソネケンは足を、私は目で、トシマは命を。ヤザワは……いや、おかしい、賭けていたパソコンは壊れていないと、ヤザワは言っていた。全員?
「ミズキは?」
ソネケンとミズキはお互いを賭けていた。大切にしている彼氏が怪我をした、これはミズキが嘘をついたペナルティだろう。ならソネケンはどうだ。ミズキには、なにも起きていないじゃないか。
歩けるようになるまで手伝うと言った子だ。ソネケンに対する思いは本気のはずで、嘘の対価というルールが適用されるのはおかしい。その日のうちに、私たちは対価を支払わされた、これは間違いない。今後ミズキに不幸が起きたとしても、呪いによる影響はないと言うこと。
携帯のメモ帳を開いて、ルールから弾かれた二人を打ち込んだ。ミズキとヤザワは嘘をついていない。
「私がついた嘘って」
なんだろう。大事なものを賭けようと提案されて、私はサークルの活動を賭けた。今の私にとっては大事なことだし、嘘じゃなかったけど、命や、その前に浮かんだメリーよりも大事かと言われたら、ノーだ。
これが適用されたと言うのだろうか。ならトシマはどうなんだろう。命を賭けていたし、それ以上に大事なものなんてないだろうけど、でも、ルールを適用されるような嘘もついたはずなんだ。
思考のなかに潜り続けていたら、くだらないお調子が浮かんできた。トシマが命を奪われたのは、笑いを取った一言が原因なの?
繋がった答えに、寒気が這い上がってくる。
冗談じゃない。あんなことで奪われてしまう理不尽さに、抱えた腕が震えてしまう。
「呪いなんだ」
面白半分で試した自分たちが悪い、そういうことなのだろう。もう自覚しているし、取り返そうなんて思わない。けど、思考だけは止めたくない、あと少しなんだ。
ペナルティを受けた奴は一人残っている、ソネケンだ。
あの時にも感じていた、ミズキに対する感情が嘘だったから、対価に足を奪われた。お互いを賭けたにも関わらず、ソネケンだけが不幸に見舞われた理由は、恐らくこれだろう。
絡まった紐みたいになっていた疑問符はほどけたけれど、完全じゃない気がした。なにか、なにかがあるはずなんだ。
引っかかる違和感を見つけて、首筋に鳥肌が立った。
「声だ」
ソネケンが聞いたという声を、私も聞いていた。確かに聞こえたあの一言が、最後の警告だったなんて、二日前の私にわかるはずもない。それほどに自然で、誰が発したのかも疑わなかった。
――本当に、これでいいのか。
いいよ、別に。そう答えようとした私に代わって、トシマは「オッケー」と軽く返していた。鬼の声だとわからずに、私はなにも言わなかった。
思い返してみても、ヤザワとミズキは返答していないし、声など聞いていないと話していた。囁きを耳に入れていたのは、嘘をついていた私とトシマ、ソネケンの三人だけ。
待機状態の画面が光を取り戻して、少し遅れてから着信を鳴らした。通話ボタンを押して左耳に当てた。
『私メリーさん、ねえ、今どこにいるの?』
「西の駐輪場。ねえメリー、解けたよ」
『解けたって?』
呪いの秘密。
聞かせて。
嘘ついたから、それに見合うだけのものを取られたっぽい。
そうなんだ。
うん。
じゃあ、蓮子がついた嘘って、なに。
教えてやんない。
意地悪、呪っちゃうんだから。
もう呪われてるもん。
「私メリーさん、今あなたの後ろにいるの」
「前じゃねーか」
白のスマートフォンを鞄にしまったメリーは、左側に腰を下ろした。「あーあ、また抜け駆けされちゃった」
「どうせなら一緒に考えたかったのになぁ」
膝の上で頬杖を突く顔は笑っていたけど、内心では拗ねられているように感じた。ごめんと言いかける前に、「まあいいけど」と出されて、傾げさせながら見つめてくるメリーは、私もやってみたかったなと言った。
「だめよ、危ないんだから」
「蓮子が言っちゃうかなぁそれ」
柔らかく作ったこぶしを口に当て、一頻り笑ったあと、静かに視線を向けられた。言葉を待っているのだとわかるのに、求められている一言が浮かばなくて、私は合わせている瞳をしばたくことしかできないでいた。
諦めたのか、痺れを切らしたのか、口角を持ち上げたメリーは「で、どうするの?」とかけてきた。
先延ばしにしていた問いだと察したけれど、唇は貝みたいになって開いてくれない。回し車を転がすことに勤むハムスターみたいだった思考は、二者択一を前に情けなく止まってしまう。イエス? ノー? 私はどちらを選びたいの。
「私は」
続けたい、秘封倶楽部をやめたくない。雰囲気の良いカフェを見つけては通ったり、怪しげなサイトの怪談や噂を集めるばかりだけど、ふと思い立って、不思議を見つけにいきたいんだ。
ちょっと怖い思いもするけど、好奇心が赴くままに歩きたい、メリーと、二人で。
「ねえ、メリーは続けてくれるの、こんな私と」
「いつもいつだって、決めてるのは蓮子じゃない。我儘でいてくれないと嫌よ、私」
薄いブラウンの手袋を外した右手が伸びてきて、握られた左手は相変わらずと冷たいのに、体の芯が、じんっと温かくなる気がした。
まったく、うだうだとらしくない。悩む必要なんてないじゃないか。
握られた手を返して、引き上げるように立ち上がった。お尻を軽く払うメリーに、「ついてきてよね」と歯を見せた。
「もちろんよ」
「星の見方、一から覚えないとなぁ」
「振り出しに戻るね」
「まるで人生ゲームだわ」
そうだ、なにを怖がることなんてあるだろう。生きている時間だって、どんな出目になるかわからないサイコロと同じだ。呪いがなくてもいつか終わる命なら、歩むことを躊躇う必要なんてない。
生きている限り、なんどでもやり直して、また進むことができるのだから。
「じゃあ賽を振ろっか。出目は幾つでどこに止まるのかしら」
「三マス進んで、ゆかりで一杯」
「はいはい、仰せのままに」
コートのポケットに突っ込んだまま繋いでいるぬくもりが、私の一番大切な存在だと、今なら、恥ずかしげもなく言える気がした。
軽薄な会話の中に潜む取り返しのつかない罠。会話の軽さと事態の重さのギャップが良かったです。
取られっぱなしで終ってほしくないですね
鬼は何を思って賽を作ったのか。恐怖を喰らうためなのだろうか?
蓮子の思考の中で謎が段々と解けてく様に、心地よさとホラー特有の寒気を感じました
この話の続きではなくても、この秘封倶楽部の活動はまた見てみたいです