「あ、久しぶり」
開いてて良かった、地元の屋台。
秋の長夜の月にうっすらと照らされ、その店はあった。
ミスティア・ローレライの個人営業屋台は、店主の副業ということもあって、なかなか営業日が固定しない。ついでに言えば、移動を前提とする屋台なので、場所も移動できる。そのためか必ずしも同じ場所で営業しているとは限らない。
たとえば、ミスティアが音楽活動で忙しければ営業していないし、近場で弾幕戦の類が始まれば営業場所を変えてしまう。それだけに、遭遇できたら寄っておこう、というのが常連の発想である。
個人事業主として「虫の知らせサービス」社長であるリグル・ナイトバグにとってもこの店は憩いの場であり、また同じ経営者として愚痴を言える場所でもあった。
この辺りの事情は、チルノやルーミアといった気の良い連中や、幽香や幽々子といった大物たちにも話せるところではない。どちらに話しても「ふーん」で済んでしまう話だ。
だからたまにこの屋台を見つけると、リグルの心は弾むのだ。屋台には赤い提灯が点いていて、お客も数人入っているようだった。どこか賑やかな声が、リグルの耳、あるいは触覚にも届いてくる。
「だ~か~ら~、私は~」
「ああ、分かったから、ほら、飲め飲め。あるいは寝ろ寝ろ」
夜行性の生き物からすれば深夜というほどの時間でもなかったが、もうすでに出来上がっている客もいるらしく、リグルは苦笑しながら屋台の暖簾をくぐる。
「空いているとこ座るね、ミスティ。まずはいつものね」
「ああ、リグル、いらっしゃい」
ミスティアはいつもの割烹着で店側の席に座って、なにやら苦笑していた。リグルを見ると微笑んで迎え、立ち上がって八目鰻の串を掴む。
「おう、リグルじゃないか」
さっきまで出来上がっていた客を宥めていた人物が、こちらを見て声をかけてくる。出来上がっていた客の方はといえば、屋台のテーブルに突っ伏していた。
「……って、うわっ、星熊勇儀!」
「おいおい、その「うわ」ってなんだよ、うわっ、て」
別に気分を害したわけでもなく、それどころか満面の笑みを浮かべて鬼が笑った。旧地獄の大物、地底妖怪の女傑とくれば、リグルとしては驚かざるを得ない。
いや、こんな遭遇、滅多にないものだ。
「……いや、珍しいなぁ、っていう気持ちが少しと、私は鬼ほどは飲めないから絡まれたら困るなぁ、面倒くさいなぁ、って気持ちが殆どで、つい」
リグルは肩を落とし気味に正直にそう答え、ミスティアが苦笑する。
何もそんな正直に、と思ったからだ。とはいえ幽香との付き合いで、大物に嘘を吐いてもどうにもならないことを知っているリグルとしてみれば、これしか手段はない。
そして、勇儀は大物らしく、愉快そうに頷いてリグルの肩をばんばん叩いた。至って上機嫌のご様子である。
「そりゃねぇ、鬼と対等に飲める奴はこの幻想郷を探したっていないだろうさ。でも、あたしは手加減するからね、存外良い勝負ができると思うよ。どうだい、蟲の女王」
「いや、だから勝負しに来たわけじゃなくてね……」
幽香もそうだが、この手の大物は気は良い割に人の話を聞かない。たいてい自分の尺度があって、それをてらいもなく見せつけてくるものだ。正直、幻想郷の妖怪の中では小物だと自認しているリグルとしては非常に困る。
「あによ~、さっきから勇儀、誰と話してるのよ~」
そう言ったのは、さっきまで突っ伏していた客である。屍ではなかった。彼女は顔は上げず、手だけ勇儀の腕を掴んで言う。
「ああ、ヤマメ。客がほかに来たのさ」
「客?誰?」
「リグルさ」
勇儀がそう言うと、いきなり黒谷ヤマメはむくっ、と顔を上げた。
「リグルって、リグル・ナイトバグ?」
「そうさ、なぁ?」
勇儀が楽しそうにリグルにウィンクをする。
しかし、リグルにしてみると、すでに出来上がっている二人に当然酔いでは追いつけず、何となくミスティアに救いの視線を投げる。梯子酒でもない限り、そのくらいしかできないだろう。
「そうよ、ヤマメ。ほら、リグル。まずは2本とお銚子ね」
勇儀の言葉を受けて、ミスティが答える。そのままリグルに八目鰻の蒲焼きと熱燗のお銚子を並べた。
「リグル……?」
ヤマメはしばらく視線をさまよわせた後、リグルに固定する。
勇儀と違って、完全に出来上がって真っ赤な顔をしている土蜘蛛に、リグルはとりあえず営業用の微笑を浮かべた。
古人の名言に曰く「とりあえず、わろとけ、わろとけ」。
「あ~!リグル様だ~!ちーす、リグル様、ち~す」
「ち、ち~す?」
全員が固まってヤマメを見ると、ヤマメは直立不動に立ち上がり、おもむろに直角でリグルにお辞儀した。
「こ、こんばんわ、ヤマメさん。……い、いや、ヤマメさん、なんで様付なんですかっ!?」
リグルがうわずって思わず立ち上がり、慌ててお辞儀し返す。そしてすぐさま聞き返した。
「おお、なんだ。二人は知り合いなのか?」
「知り合いっていうか……」
リグルとしては名前だけはかねがね、あとは多少、蟲関係で知っている程度にすぎないのだが。
「知り合いなんてとんでもないれす。リグル・ナイトバグ様は蟲の女王れすよ?私たち蜘蛛族から見たらめっちゃ偉いれす。めがっさ偉いれす」
まるで説教するように勇儀に言う。ヤマメはトロンとした目で言うと、またストンと座り直した。
「いや全然、偉くないよ?どちらかというと、土蜘蛛の方が歴史もあって由緒ある大妖怪だよ?」
リグルが一杯も飲めないうちから酔っぱらった状態に追い込まれる。勿論、パンチドランカー的な意味で。
「土蜘蛛なんれ、所詮、歴史と伝統だけれすよ。蟲族の女王様には構いません」
ヤマメは敢えてリグルの言葉を否定せずにそう言い切ると、一気にお酒を煽ってタンとテーブルにお猪口を打ち付ける。
「いやいや、鬼とか天狗とか鵺とか古狸とか九尾の狐とか、私は全然適わないからね?」
実際、伝統と格式で言ったら、土蜘蛛と言えば日本史上まれにみる大妖怪である。
民話大系出身の妖怪が裸足で逃げ出すほどの悪行で国家に祟ったわけで、実際、幻想郷でも旧地獄にいた理由はその病気を操る程度の能力にあったわけだが。
「もう、謙遜しないれくらさいよ~。さ、飲んでくらさい。ここは勇儀の奢りれすから」
「えっ!?」
さっきから土蜘蛛と蛍の会話を肴に、にやにやしつつ酒を煽っていた勇儀が驚く。
「そうなのかいっ!?」
「はい、じゃ、付けときますね」
「付けられたっ!?」
しれっと伝票を一つにまとめるミスティアに、愕然とする鬼。
「いや、まだ一口も飲めていな……」
ヤマメがリグルのお銚子をひったくり、お猪口に注いで渡す。そして、有無を言わせず、叫んだ。
「かんぱ~い!」
「か、乾杯」
「乾杯!」
ヤマメの先導に、勇儀とリグルもお猪口を合わせた。陶器のカチンとなる音がして、全員で飲む。
「おいひい」
「うまいな」
「……おいしいね」
ちなみに、勇儀はお猪口を空けると、すぐにお猪口ではなく自分の杯にまた、熱燗を注いでいる。
リグルもとりあえずお酒を飲めたことで、ちょっとほっとした。それを見ていたミスティアも安心したのか、お猪口を出してくる。
「じゃ、私もおつきあいしようかな?」
「勿論れすよ。女将さんの分も勇儀が払ゆからね?」
「了解!じゃ、付けとくねっ!」
「それも付けるんかいっ!?」
お前ら、自由だなぁ~、と感心しながら勇儀が杯を煽った。別段、こういう雰囲気が嫌いなわけではないのだろう。
むしろ、この鬼は好きというべきか。
「にひても、今日は良い夜れす。女王様に会えるなんて」
「いや、だからね……」
そこまで言って、リグルは八目鰻をかじった。
「私もヤマメさんに会えて、こうして飲めるのは嬉しいんだよ?」
その言葉を聴いて、ヤマメは幸せそうににっこり笑う。
「おお、さすが蟲の女王だな。たらし込むのがうまい」
「勇儀さんっ!」
思わずリグルが叫ぶと、勇儀が右手だけ立てて悪い悪い、と笑う。
「だから、そうじゃなくてね。私は蟲の妖怪だけど、蛍なわけで。重要なことだから繰り返すよ?私、蛍なの。おーけー?」
リグルの言葉にヤマメも勇儀も頷き、ミスティアが笑う。
なんでリグルってば、アイデンティティの危機に追い込まれてるのだろうと女将は思ったのだ。
「でね。ヤマメさん。ここが重要なんだけど、ヤマメさんは蜘蛛じゃないですか?」
「土蜘蛛れす。伝統と格式、古来から現代に受け継がれる国家に巣食う病魔、土蜘蛛れす。それしか取り柄はないれす。どうも、女王様、お世話になってます」
急に丁寧に流暢に語られ、リグルは目を点にする。
あれ、酔ってるんだよね、この妖怪。
リグルが目を泳がせると、勇儀は重々しく頷いた。
「ああ、大丈夫。こいつは完全無欠、完璧に酔ってるから。普段は空気の読める、心遣いと配慮の妖怪、地底のアイドルだからな。こんなこと、言わないさ」
そう言って、勇儀はおでんの汁を啜る。
「できることなら、全部記録して素面になったこいつに聞かせてやりたいよ」
そんな皮肉混じりの勇儀の言葉に、ヤマメが頷いた。
「そうれすね。やっぱり土蜘蛛って、疫病があって成り立つところがありますから。疫病が土蜘蛛に輝けって囁いている感じ、れすか?」
全く、勇儀とヤマメで会話が成立していなかった。
「で、でね。話を戻すけど」
リグルがその様子に危機感を受けて口を開く。このままだと、この泥酔空間に飲み込まれる気がしたからだ。ちなみに、泥酔空間では酔っぱらいの力は3倍になる。当店比。(あくまで女将個人の印象です。科学的なデータではありません)
「私が蛍で、ヤマメさんが蜘蛛。そうすると、ヤマメさんの方が、ほら、捕食者じゃない?蜘蛛って昆虫、食べるじゃない?」
「食べてほしいのれすか?」
ほわーっとしたヤマメが、不思議そうに言う。
思わず、リグルとミスティアは含んでいたお酒を吹き出し、勇儀が未熟者、という目をしてまた杯を煽った。
「いや、そういう意味じゃなくてねっ!」
「どういう意味れすかね?」
紅潮したリグルを前にヤマメが首を傾げる。勿論、ヤマメの中では文字通りの意味しかない。そこに多義性はないのだ。
「い、いや。別に食べてほしいわけじゃなくてね。ほら、序列、みたいなのあるじゃない。体育会系っていうのかな、天狗とか河童とかが持ってる社会性、みたいな?」
ちなみに、社会的動物の代表は人と蟻であり、蟻は昆虫である。
「勿論分かってますじょ?らから、女王様、と」
「うん、そこ。そこなんだ。私が女王様、っておかしいよね?私は土蜘蛛の女王じゃないよね?」
「れも、蟲の女王れすよ?」
蟲、というところを強調してヤマメは言い、ダンと額をまた屋台に打ち付けた。明日あたり、赤くなってそうである。
「うーん、それなんだけど、それただのあだ名だからね?私はあくまで蛍の妖怪、虫を操る程度の能力、だからね」
「蟲、れすよね?」
「虫、だよ?」
リグルとヤマメ、二人がじっとお互いを見つめる。しばらく不思議な沈黙が流れる。
「かんぱーい」
「か、かんぱーい」
いきなり繰り出されたヤマメのお猪口を、リグルもお猪口で受け止める。
「れすから、蟲なので、蜘蛛も傘下れすよ?蜘蛛も女王様の傘下れすから、蠍もそうれすね」
「えっ、私、蠍も操れたっけ?」
思わず自分の能力を再確認するリグル。
いや、そんな目で見られても困るんだけど、とミスティアは首を振りながら、おでん盛り合わせをリグルのところに置く。ほっくほくの芋が湯気を立てていた。
「……そうか、鋏角亜門って、蟲なんだなぁ」
勇儀がおでんにしみて、形が崩れつつあるはんぺんを口にしながら頷く。勇儀の手元にもおでんの盛り合わせがあり、すでに半分程度になっていた。
「思いらしてくらさいよ、女王様。多分、蟲を操っているとき、無意識に蜘蛛とか蠍とか水蜘蛛とかいましたから。ってかいたれす。きっといました」
えっ、そうだっけなぁ、とお猪口を煽りつつリグルは思い出そうとするが。
「ああ……。いたかな?えっと昆虫類以外もいたような?」
「あれれすよ?確か多足類はいましらよね?」
「あ~、いたんじゃない、リグル」
ミスティアは思い出すように頷いた。
「ほら、鳥類って虫食べるから。確か、リグルの操っている虫を見て、あ、おいしそう、って思った気がする」
「す、凄いこと考えてたんだね、ミスティ」
突然の親友のカミングアウトに、リグルがショックを受ける。
「ヤスデとか、ムカデとか、確かにいた気がするなぁ」
「……言われてみると……」
リグルは八目鰻をかじりつつ思い出してみる。たしかに、多足類が地面を埋め尽くして「うねっていた」気がしてきた。ミミズとか芋虫とかもいたかも。
「ついでに、カマキリとかシロアリとかも操ってなかったか?リグル」
勇儀も興味津々といった感じで聞いてくる。
「……操ってた気がする。いや、でもあれは昆虫だし。……段々、自信がなくなってきた」
リグル・ナイトバグ。蟲の女王。
そういえば、操っているときにはその能力で、特に意識せずに蟲たちを操ってきたかもしれない。
「いや、でも、その理屈でいくと、私、完全に甲殻類も操れることになっちゃうよ?」
リグルが反論すると、ミスティが目を光らせた。
「えっ?リグル、蟹とか海老とか操れるの?そしたら、うちのメニューすっごく豊富になるじゃない」
「いや、だからね。私が甲殻類操ってるの見たことないでしょ?」
テンションを上げる屋台の女将に、リグルが落ち着かせるように言う。
「だがそうとは限らないさ。幻想郷には海がないだけ、ってこともある」
そんなリグルを相手に勇儀は冷静に指摘して、なっ?と肩を軽く叩いた。
「お前、操れるんじゃないか?」
「……私、そんなに凄かったかな?」
でも、蟹や海老は蟲じゃないはず。
え、いや、ダンゴムシとかフナムシとか、蟲なの?
あれ、ショッキラスも?うん、ショッキラスって幻想郷入りしてなかったっけ?
でも、あれいたら、すっごい怖いよね?
混乱するリグルとしても、蛍や蝶、蛾、蜻蛉や蜂、飛蝗、蟋蟀、蚊、蝉などとさまざまに操ってきた覚えがある。湖や川の傍なら、タガメやゲンゴロウなど水生昆虫も操ってきた。
リグルほどの妖怪となれば、それは成虫だけでなく生活環としての幼虫すら自在に操るだろう。だが、それ以外の「蟲」って、操ってたろうか。
いまいち、自信がなくなってくる。
ってか、「蟲」って、「虫」と違うの?
「そうれすよ。女王様は凄いんれす。多分、環形動物門とか、線虫類とか類線形動物門とかも操れるはずれす」
ちなみに、おなじみとしては左から、ミミズ、センチュウ、ハリガネムシです。閲覧注意。
「……一応、ここ食事とお酒、雰囲気と三拍子そろった屋台なんだけどな」
三つ星屋台の自信から、ミスティアが呟く。
「人がいなくて良かったな。妖怪だけならたいしたことはないさ」
その呟きにも全く動じていない勇儀が、声を出して笑う。確かにここに霊夢や魔理沙がいたら殴り合いになっていたかもしれない。
蟲対人類。
もちろん、勇儀は蟲側の味方だ。
「それは偏見れすよ?線虫類は寄生している連中より自然生活している方が遙かに多いんれすから。有名らからって、常に寄生しているわけじゃないんれす」
「……まぁ、昆虫にとっては餌だしね、線虫」
リグルも頷くが、すぐに思い返して唸る。
「いや、でもハリガネムシは逆に昆虫を利用するっけなぁ」
ハリガネムシがカマキリを乗っ取る話は昆虫よもやま系、あるいは昆虫あるある系の人気話である。
ちなみにカマキリ三大あるある話は「雌に食われる雄」「カマキリの卵が孵化して幼虫ぞろぞろ、人間がPTSDに」「ハリガネムシに乗っ取られて水辺へ。どうあがいても絶望」「実は隠してたたけれどゴキブリの親族(近縁)。シロアリとも」である。ちなみに四大になってしまった。計画性のなさが伺えよう。
なお、雌に食われる雄という話は、普通雄が移動しているため空腹の雌に食われる場面は少なく、また、ハリガネムシはカマキリに寄生するも乾燥して死ぬことも多いため、実は余り例がないそうで、一部虫ファンをがっかりさせてくれる。
……信じてたのに。
「でも、アニサキスとかサナダムシとか、霊夢や魔理沙がいたら確実に殴られてるよね?早苗とかだったら、絶対許してくれないよ?」
「人間って勝手だよねぇ。早苗なんて、甲虫は嫌いじゃなさそうなのにねぇ」
甲虫は比較的人間に人気がある。
ムシキングとか蟲姫様とかエグゼドエグゼスとか。
早苗さんから見れば、ちょっとした「私の夏休み」状態である。きっと8月32日に遭遇して悪戦苦闘するのだろう。
とはいえ、人間の主観によれば、甲虫・蝶は価値が高いそうなのだ。
ついでに言えば、スカラベとかに至っては財宝の類であるらしい。人間の主観は分からないよね、とリグルが愚痴る。
「まぁ、勝手って言えばあたしたちも同じさ。主観ってのは常に勝手、だから多様でやっていけるのさ。それを理解していても正直、いらっとすることの方が多いけどな」
実際、人間を見捨てた、あるいは見捨てられたのかもしれない鬼の一人がそう言って笑う。
「そうだね。でも、私、意識して線虫類とか類線形動物門を操ったことないし」
蟲を操るときに、敢えて線虫に限定、とかしたことなかったな、とリグルが一人ごちだ。
「甲殻類が操れるかも、やってみないと分からないしな」
勇儀はうなずき、今度、あの隙間妖怪に頼んでみるか、などと言い出す。
さすがは鬼族、大妖怪相手に引かない、媚びない、諂わない。鬼族に自重の二文字はないのだ。
少しは配慮してほしいですね、とは射命丸文の言葉である。
「というわけれ、リグル様は女王様なのれす」
「いや、だからね、全然、女王様じゃないよね?ただの能力だし、その能力に付けられた二つ名にすぎないし」
そう言って必死に手を振って否定するリグルに、ヤマメは椅子を担いで近づき、空いていた左隣に座った。
「どうしてそんなに女王様であることを嫌がりますか?過度の謙遜は逆に失礼れすよ?」
「謙遜とかじゃなくてね。そうじゃなくて、私が言いたかったのは……」
そこまで言うと、リグルは「ひゃっ」とかわいい声を上げた。
「な、なんで抱きつくんですか!?」
「良い匂いがしてるかられす」
「た、食べられるっ!?」
「どっちの意味で?」
リグルがおびえて立ち上がって叫んだ言葉に、ミスティが思わず聞き返す。
だから、この言葉に多義性はないと何度言えば。
「こら、止めないか、ヤマメ」
勇儀は拳を鳴らしてヤマメを引っ剥がす。
「酒飲みとして節度をわきまえないとな」
「……なんで邪魔するの~」
ヤマメが両手をリグルに延ばし、あ~う~、などと言う。
ちょっとした宮古芳香状態だが、やがて、がくんと首をおろした。
「落ちてる?」
「違う違う、がっかりしているだけさ」
「あい。だって、良い匂いがしたんれすもん」
椅子とヤマメを担いだ勇儀が、またヤマメを勇儀の右隣に強制的に座らせるのを見て、リグルもまた安心して座り直す。
「良い匂い?」
ミスティアはリグルに近づいて鼻をならしたが、そんな匂いはしない。
「ちょ、ちょっと、ミスティ。恥ずかしいから」
「……フェロモン、じゃないのか?」
勇儀はまた杯に酒を注ぎながら言う。
「フェロモン?」
化学物質です。
「蟲の女王のフェロモンだろ?あたしたちにゃ分からないが、その筋の人にはたまらないんだろうさ」
「や、やめてよ」
思わず両手を交差して自分の胸を隠したリグルが言う。しかし、そんな恥いるリグルを前に、ヤマメは賛同するように首を縦に何度も振った。ちょっとしたヘッドバンギングである。首の骨にご注意いただきたい。
「リグル様の香りは、私たちの世界ではご褒美れす」
「……紳士だねぇ、ヤマメは」
勇儀がしみじみ頷くと、えっ、それ言うなら淑女じゃないかな、とミスティアは思った。ただし、口には出さない。面倒くさいから。
「そ、そんな匂い出しているかな」
思わず自分の服をすんすんと嗅いでみるが、自分では体臭が分からないように、リグルはただ首を傾げるだけだった。
「まぁ、良いじゃないか。臭いわけではないんだし。確かに虫を操る能力の一部に、フェロモンがあるのかもしれないしな」
「でもそれって、水生動物を操れるのかしらね?」
ミスティアが不思議そうに言う。
水の中でフェロモンを受容することは可能なのだろうか?
水溶性ではない物質ということなのだろうか?
あるいは水に溶けてすら匂うのだろうか?
まぁ、フェロモンは匂うものなのかどうかすら怪しいものであって、比喩表現にすぎないのかもしれない。
「フェロモンが効かないなら、そのときは紳士にたまらない音とか出して、水生昆虫の触覚を魅了しているんだろうさ」
勇儀がいい加減な口調で、がんもどきを突っつきながら続ける。
箸が触れるとジュッとおでんの汁がしみ出てきてなんとなく嬉しい。ちなみに橋で触れるのは勇儀なら可能だが、もはや勇儀の頭がおかしくなってしまうので注意が必要だ。
「ええ~、それ私が知らない間に音を出してるってことじゃない」
リグルはついに、腕を組んで考え出した。無意識に騒音を出してるとか、怖いんですが。
「まぁまぁ。音って言うなら、ほら、秋の「虫の声」って風流って言うじゃない?」
ミスティアがそう言うと、童謡虫の声の一節を軽く歌ってみせる。あの虫の声をオノマトペにした部分だ。
「チンチロチンチロチンチロリン♪とかスイッチョンスイッチョンスイッチョン♪とかね」
プロの歌手の歌声に、おお良いねえ、と勇儀が豪快に笑ってがんもどきをほおばって言う。隣のヤマメも一緒になって「カタカタカタカタ♪」と歌って震える。轡虫の真似らしいが、ちょっと怖い。
「ああ~面白い、虫の声♪か」
風流だねぇと歌って、勇儀は杯をまた重ねた。
「でもあれ、「虫の声」っていうか、羽音とかの振動音なんだけどね」
リグルが二本目の八目鰻を食べ終わり、串を皿の上に置きながら答える。
「良いのさ。人間「様」はそうは思ってないんだろうから」
「とはいえ、ほかの国じゃ虫の声はただの騒音だ、って言うけどね。風流なんて言ってるの、ここら辺、秋津島の住民だけじゃなかったかな?」
秋津島、つまり蜻蛉の国と言いながら、ミスティアは自分の皿におでんを盛っていく。
豪勢な盛り合わせ風になったが、この支払いは勿論、勇儀のツケだ。ミスティアが食べれば食べるほど、飲めば飲むほど儲かるシステムであり、画期的すぎる。
「ここの住民だって、夏の蝉の鳴き声や近付いてくる蜂の羽音、蚊や蠅や虻が耳元でとんでいる音なんて、場合によっては憤激や恐怖を呼び起こすよな」
音と言ってもいい音ばかりじゃないということだな、と言って勇儀が苦笑する。
「でも、それすら風流と言ってみせる人もいるよね?」
リグルが言うと、勇儀が目を閉じて言う。酒を含んだ後で。
「閑さや、岩にしみ入る」
「蝉の声、ね」
勇儀の言葉をミスティアが続けて言う。ことほどこの国の住民は、虫の声が嫌いではないらしい。
「でもねぇ。例のあの御方のカサカサ音は、私たち外食産業最大の恐怖よ?ちょっとしたヒステリックなパニックを起こすくらいだし。ちょっとしたバイオハザード状態ね」
蜚虫廉の呼び起こす混沌について指摘しながら、屋台の女将さんは鰯のツミレを頬張った。
よくその話題で食えるな、と思わないではない。
「そういう意味らと、蜘蛛は鳴かないれすからねえ」
さっきから突っ伏していたヤマメはまだ起きていたらしく、突然会話に音もなく入り込んできた。
「そういや、蜘蛛って音を立てないもんな。気づくと、こう蜘蛛の巣を張っていたり、糸を垂らして天井から降りてきたり」
音も立てずに現れる鋏角亜門、蜘蛛。
効果音が入る。
実は伝統と格式で言うと蜘蛛はこの国では益虫の括りに入る。
朝蜘蛛は殺すな、とか夜蜘蛛は親でも殺せ、とか蜘蛛の巣柄の和服は客を絡めとる、とか色々迷信とか俗言が多いのも、それだけ親しみがあるということだろうか。
「そうねぇ。あの蜘蛛の巣とか蜘蛛の糸とか、インパクトは強いもんね」
歌手としての感想だろうか、やっぱりインパクトは重要よね、と続ける。蜘蛛の糸に至っては、地獄脱出アイテムであり、基本的には切れる。
どっちやねん。
「でもそれだと、蚕先輩とかには頭があがらないれすね」
「……えっ!?蚕って先輩扱いなの?」
あれ、蛾だから昆虫類なんだけど。リグルの突っ込みにヤマメは頷いた。
「蚕先輩はあれれすよ。昔っから働き者れすから」
「搾取されてるとも言うけどな」
勇儀が気の毒そうに言う。
それだけ人間と密接に関わっているからこそ、蚕の妖怪とか人間と関係する場合も多いのだが。御蚕様・おしら様とか、なかなかに興味深い信仰であり、子供には優しいが、場合によっては恐怖譚を演じもする。
「人間って怖いよねぇ~。蜜蜂とかもそうだもんねぇ」
ミスティアが頷く。養蜂家は世界でも古い産業の一つなのだ。人間は蜜蜂から甘味と蝋という二大生産物を搾取してきたものだ。
ワリャーグの交易での主要産物の中には確かにその二つがあり、ビザンツ帝国との主要交易品であった。
そのくらい、歴史に根深いものなのだ。
「万国の蟲らちよ、らんけつせよ!らち上がれ!れす」
「それだと王制が打倒されるな、女王陛下?」
「いや、今の話だと蟲が人間に反抗する感じだけどね」
聞け万国の労働蟲~♪
轟き渡る女王の~♪
しかしリグルは自分の話じゃないです、とミスティアが置いてくれた大根にかじり付いている。
ツケで食べられるので、気まぐれ女将さんのお任せコースになっている。お代は時価。いくら取る気なんだ。
「そういや、「鳥」なんてホラーがあったなぁ」
「ああ、あれねぇ。あれって、人間にとっちゃ怖い話みたいねぇ。蟲、って作ったら同じような感じで人間も怖がるんじゃない?」
ミスティアが頷いてリグルを見る。
「そんなに怖かったら、霊夢に退治されるもん。勘弁してよ」
リグルが勇儀とミスティアの勝手な言葉に首を振った。ちなみにこれが深海生物だと「比較的優位者」の話になる。
「第一、蟲の大群が襲ってくることって、あんまりないんだよ?この国の蝗は群生相にならないし」
ああ、いなごだ……。
正しくは「飛蝗」とのことで、この国の蝗はどちらかというと佃煮にされて食用にされている。多分、もっともこの国でポピュラーな昆虫食であり、ややカリカリした食感である。
ちなみに、この昆虫に「き×がい雲」と題名を付けると、神様の作品でも放送禁止になりかねないのは豆知識だ。
白い獅子が食用にするほどの、ありがたい現象なんだけれど。
「大量発生するのはなんか原因があるものだし、たいてい、それって人間のせいなんだし」
なんかあるのは、殆どあいつらのせい。
自然系妖怪の共通認識である。
人間達の共通認識である「八雲紫のせい」「守谷神社のせい」以上に、「人間のせい」は妖怪達には常識であった。
「幽香に言わせれば、人間も含めて自然だから、取り立てて言うほどのことでもないらしいんだけどね」
人間だって自然の一部、食物連鎖の一部なのよね。
もし人間だけ違うとするなら、自然の外側に「何か」を集合として定義してる時点でおかしいのよ、と幽香は笑ったものだ。
それが優しい微笑なのか、驚くほど傲岸な嘲笑なのか、見るもので変わるのが幽香らしいと言える。
ちなみにリグルには、とっても母性的な微笑に見えた。
「人間に滅ぼされる連中がいる。人間と一緒になって生存圏を拡大する連中もいる。どっちも自然の中のこと、か」
「そうそう。だからそれは自然なことなんだって」
リグルは竹輪をはふはふ食べながら続ける。
「人間が害獣を滅ぼして家畜を増やす。人間が寄生虫を滅ぼして、体内に新種の寄生虫を生む。人間が食用や加工用、観賞用植物を増やして、気にもとめずに雑草を滅ぼす」
それはそれで、いつものことかもしれない。
「で、また自然の方ではどんどん新種を、変種を、突然変異を生んでいく。そうやって古い仲間が去っていって、新しい仲間が増えていく。もしかすると、いつか人間もそうやって退場してくのかもね」
「……おお、なんか哲学的だねぇ」
退場していった鬼が、しみじみと頷いて杯を煽る。もう何杯目なんだろうか。
「……って、幽香が言ってた」
すべて受け売りである。
リグルにはまだ、よくわからないことなのだ。
「なるほど、幽香は蟲の女王にとっての、女王様なんだな」
勇儀にしてみると一度御手合わせ願いたい相手だが、幽香は気まぐれなのでなかなか相手になってくれない。
第一、なかなか遭遇できない。太陽の畑に行けば会えるかと思うと、そうでもないらしい。ふわふわと風にゆられて散歩などしているのだという。
勿論、地底に遊びに来るタイプでもないし。地下の植物にも挨拶しに来てもらおうかな、などと勇儀は考える。
「そうだね。幽香こそ女王様っぽいよね。……私と違って」
日傘片手に悠然と周囲を見渡し、うっとりと夏の太陽の畑の向日葵たちを、秋の紅葉する妖怪の山や収穫される野菜や果物たちを、冬の高山地帯の植物たちや積雪の下の針葉樹や根菜たちを、春の幻想郷のすべてを埋め尽くす開花の様を、巡回している姿こそが女王の姿のそれだ。
一人孤独にお供もつれず、気儘に下々の者たる植物たちに声をかけて歩く、気品に溢れた女王陛下。
その様子を思い出してリグルはヤマメに言うのだが、土蜘蛛は突っ伏したまま首を振る。そういえば、さっきから声がしてなかったのは、寝ていたからなのか?
「それでも女王れすよ~。私たちの女王様~」
そう答えてはいるものの、いよいよ酔いつぶれたのか、もう有意味な反応がなくなっている。
「おいおい、もう寝ちまうのかい?」
勇儀が苦笑する。
まだ夜は始まったばかり、丑三時のそのすぐ後くらいなのに。妖怪にとってはこれからじゃないか。
「勇儀が強すぎるのよ。もうヤマメはだいぶ飲んでたわよ」
ミスティアがこんにゃくをぐにゃぐにゃ咀嚼しながら、そんなことを言って宥める。
「まぁ、こいつも色々不満があったみたいだからなぁ。たまには愚痴を言わせてやらないと」
地底の妖怪は色々ある奴が多いんだ、と勇儀が苦笑する。
パルスィやヤマメ、キスメなど問題児だらけであることに定評のある地底だけに、ミスティアもリグルもお疲れさまです、と勇儀に頭を下げた。
「でも、騙す連中じゃないからな。付き合ってて気持ちがいいもんさ。感情的にど直球ってやつでね。ほら、こいつも結構、単純だろ?」
そう言って、ぽんぽんと寝入り始めたヤマメの髪の毛のおだんごを、そっと叩く。勿論、起こさないように。
「でも、今日はどうしたの?いつものヤマメらしくなかったけど?」
ミスティアが日頃は地底の妖怪にしては陽気で気さく、ちょっと蓮っ葉だが竹を割ったような彼女を思い出して尋ねる。
「あ~、陰口を偶然聞いたらしいんだな。ほら、こいつ蜘蛛だろ?こいつのファンの地底の妖怪たちが話をしているのを見て、脅かしてやろうと思ったらしい。軽い茶目っ気だったんだがな」
勇儀が優しい目でヤマメを見る。
「音もなく近付いて、まさに脅かそうして蜘蛛の糸の振り子で近付いた、その瞬間、聞いちまったんだそうだ。ヤマメさんも、もうアイドルって年じゃないよな、って」
……。
ミスティアとリグルがう~ん、と反応に困る。
最近は地底も若いアイドルの台頭とか、あるんだろうか。
「土蜘蛛なんて言ったらもう、大妖怪だろ?言ってみりゃ良い年なんだし、アイドル、って年じゃないだろう、ってな。大御所みたいなもんなんだから、なんて言われて、思わずそのまま振り子の反動ですごすご戻ってったらしい」
勇儀が苦笑する。まぁ、地下の妖怪達の人気者であって、アイドルという定義なわけではないが、やっぱり女心としては面白くないかもしれない。
「いや、あたしたちは妖怪なんだから年齢とか関係ないと思うんだが、やっぱりあれかね?ヤマメも女なのかね。全然気にしてないけどさ、なんて言いながらヤマメが愚痴るもんだから。パルスィがいたらもっと煽ったかもしれないから、地上に連れ出したんだけど」
リグルが来て本当に良かったよ、と勇儀が続ける。
ミスティアが苦笑して、リグルが来るまで荒れてたもんねぇ、と返した。
「リグルが来てから、さっきみたいに上機嫌さ。女王様、なんて言ったのもあれかね、自分より上もいる、甘えたい、なんて気分があったのかね」
「勇儀に十分、甘えてたと思うけど……」
「ほら、そこは身内のよしみさ」
あたしは蟲ではないからなぁ、と勇儀が言って酒杯を傾ける。
いや、もうどんだけ飲むのか。
「どこから見ても、鬼だもんねぇ」
「鬼以外の要素がないもんねぇ」
リグルとミスティアの言葉に、勇儀が苦笑いする。
「そりゃな。あたしは鬼だからな。でも、あたしも思うときがあるよ。少し、なんか少しだけ感傷的になったときに、萃香と飲むかな、なんてな。地上にいるって聞いてほんの少し安心した。鬼同士で飲むってのは、結構ありがたいもんなんだよ。今となっちゃ」
なにせ、同じくらい飲めるのは鬼だけだからな、と勇儀が呵々大笑する。確かに、同じ程度飲むのは無理だよね、とリグルはまだ三本目の二合徳利を空けながら頷く。
「でも、私はお姉さんのヤマメさんも好きだけどな」
リグルはそう言って笑った。
少し顔を赤くしたのは酒のせいか、恥ずかしいからか。
「そりゃ、素面のときに言ってやってくれ。あいつ喜ぶか、喜びすぎて泣き出すから。あれで情にもろい奴だからな」
「素面じゃ言えないよ、こんなこと」
徳利を何度も傾けてリグルが答える。
滴がぽたぽた垂れるだけで中身がないのだが、照れ隠しのせいかリグルは何度も繰り返していた。
それを見て、ミスティアが冷やの徳利をリグルに渡す。
「そうかい?正直に言うのが一番良いと思うんだがね。どうも、今の連中は妖怪も人間も、賢くなっちまっていけないね」
勇儀はなみなみに満たした杯を両手で抱えるようにして飲み干し始める。
それは相撲の力士が優勝杯で行うような仕草で。
どんどん杯の酒が勇儀の口元に消えていく。多少、唇から漏れる酒が頬を伝い、それがなんとも妖艶に見えて横目で見ていたリグルに息を飲ませる。
「うまいね!酒ってのはうまいから飲むもんさ。酒を飲むのに理由なんて必要ないよ、理由なんてあったら小賢しいじゃないかっ!?」
そう良いながら勇儀は口元を腕で拭った。
その様子はまた、いつもの勇儀そのものだった。さっきのあの艶やかさは何だったのだろう。
「さ、リグルも飲みなよ。あたしの奢りなんだから」
そう言うと、かわいらしいお猪口に勇儀が酒を注ぐ。
おっとすいません、とリグルがお猪口を持ち、そっと飲み干す。
「ほら、女将さんもさ」
「……困ったねぇ。これじゃもう、看板だね」
ミスティアはため息混じりに頷く。まぁ、鬼がいるのに来る客もいないか、と提灯の火を落とした。
「さ、我らがアイドル、黒谷ヤマメに乾杯だ!今の寝ているヤマメはちょっと無様だが、酒の肴にゃちょうど良い。付き合ってもらうよ、夜雀の女将に蟲の女王様」
ウィンクした鬼に、はぁ、とため息一つ、リグルとミスティアはお猪口を掲げて、勇儀はあの杯になみなみと酒を注いで波打たせ、声を合わせて言った。
「「「地底のアイドルに、乾杯!」」」
「う~ん、もう飲めない~」
「いや、お前はもう飲んでないぞ?」
勇儀が隣で波打って運ばれているヤマメの寝言に答える。もう暫くすると夜が明けてしまう。白む前に帰るか、と勇儀が納得したのはついさっきのこと。
「ふふっ、でも、可愛いよね」
リグルが顔を真っ赤にして答える。これはもう、恥ずかしいせいではなく、酒のせいである。どれだけ飲まされたのか、リグルは蛍らしく、あっちへこっちへふわふわ飛び回りながら言う。
「こうなっちまえば、土蜘蛛も赤ん坊みたいなもんさね」
病気を操る土蜘蛛の寝顔は、赤ん坊のように無邪気なものだった。揺りかごに揺られるように、ヤマメはすやすやと眠る。
「ほら、みんな、今度はこっちだよ~」
リグルがそう言って、地面の蟲たちに呼びかける。
凄まじい多足類や昆虫類の大群。地面を覆い尽くしたその群が何層にも波打って、まるで棺を大切に運ぶかのようにヤマメを運ぶ。その中には地底のアイドルが収まっていた。
本来、潰れてしまうであろうひ弱なはずの蟲たちが、まるで強力のように傷一つ負わず運んでいく。それはあるいは、リグルの能力なのかもしれない。
「はい、みんなはこっちを照らして~」
そう言ったリグルの前には蛍や夜光蛾の大群がぼんやりと地面を照らす。か細い月明かりよりも明るい、その大群の冷光や鱗粉の照り返しが辺り一帯を包む。
それは百蟲夜行。
ほとんどの蟲たちがまるで女王に魅入られるように、進んでいく。空に浮かんで指揮を執る女王の命令通りに、軍隊のような正確さと宗教儀式の厳粛さで蟲たちが進む。
「大切な、大切なお姫様だからね~、ゆっくり丁寧に運ぶんだよ~。みんな頑張って~」
歌うようにリグルが言う度に、蟲たちが蠢く。それは女王の労いに対して慶びを発するようだった。
こうして蟲列は秋の月に照らされながら、蠢動しながらヤマメを運ぶ。
勇儀には蟲は近寄らなかったから、鬼はその月明かりに浮かぶ光景を、ただただ見つめていた。
ミスティアがいたら、「もう食べられないよ」とか言ったかもしれない。
勇儀という鬼には、その姿が蟲たちの「力」に見えた。
ほとんどの人間が、この大群のうねりや蠢きに、怖気を振るったろう。虫愛ずる姫ですら、あるいは。
だが、勇儀にはこの蟲の大群たちの恐ろしさは、かえって凄まじい力の象徴、一寸の虫の五分の魂に見えた。魂が萃まって、最早それは五分どころではない。
この力こそが虫、いや蟲たちの力であり、恐ろしさであり、そして美しさなのかもしれない。
蛍の光、蛾の鱗粉、多足類の曲線的なうねり、怖気すら感じる多足の運び、周囲を飛び跳ねる蝗や蟋蟀、飛蝗、竈馬たち、甲虫類の油に浮かぶ月の光の照り返し。
そしていつもは羽音で鳴く蟲達の、沈黙したまま揺りかごを運ぶ態。
恐るべき蟲たちの、その数、その動き、その力。
「やっぱり凄いねぇ。これが蟲の女王か」
女王というには威厳のない、そのふわふわした動きに苦笑しつつ、それでも勇儀は感歎していた。
ヤマメは酔いに任せてリグルに絡み、女王様と慕ってみせたが。
だが、リグルの言う通り、蜘蛛と蛍は親族としてはちと遠い。
確かに蜘蛛は昆虫ではない。鋏角亜門は昆虫ではないからだ。
多足類は昆虫ではないし、甲殻類も昆虫ではなく、水蜘蛛類も昆虫ではない。
線虫類は昆虫ではなく、類線形動物門や環形動物門にいたっては類じゃない。
しかし。
それでも、リグル・ナイトバグは「蟲の女王」として君臨していた。
酔いのせいか、能力に制限を加えず、無意識のうちにただただ、その愛すべき可愛らしい土蜘蛛の眠りを守るために。
働き蟻が、働き蜂が、卵を運ぶようなその流れる蟲列に、リグル・ナイトバグは重ねて言った。
「さぁ、みんな、あと一踏ん張りだよ?この可愛らしいお姫様、私たちの可愛い赤ん坊を彼女のお家に運んでいこうね」
すべての蟲たちが足や翅を蠢かせ、女王に対して歓声を上げた。
女王の行くところ、我らを絡めとる蜘蛛の巣とて恐れることはないのだから。
-了-
開いてて良かった、地元の屋台。
秋の長夜の月にうっすらと照らされ、その店はあった。
ミスティア・ローレライの個人営業屋台は、店主の副業ということもあって、なかなか営業日が固定しない。ついでに言えば、移動を前提とする屋台なので、場所も移動できる。そのためか必ずしも同じ場所で営業しているとは限らない。
たとえば、ミスティアが音楽活動で忙しければ営業していないし、近場で弾幕戦の類が始まれば営業場所を変えてしまう。それだけに、遭遇できたら寄っておこう、というのが常連の発想である。
個人事業主として「虫の知らせサービス」社長であるリグル・ナイトバグにとってもこの店は憩いの場であり、また同じ経営者として愚痴を言える場所でもあった。
この辺りの事情は、チルノやルーミアといった気の良い連中や、幽香や幽々子といった大物たちにも話せるところではない。どちらに話しても「ふーん」で済んでしまう話だ。
だからたまにこの屋台を見つけると、リグルの心は弾むのだ。屋台には赤い提灯が点いていて、お客も数人入っているようだった。どこか賑やかな声が、リグルの耳、あるいは触覚にも届いてくる。
「だ~か~ら~、私は~」
「ああ、分かったから、ほら、飲め飲め。あるいは寝ろ寝ろ」
夜行性の生き物からすれば深夜というほどの時間でもなかったが、もうすでに出来上がっている客もいるらしく、リグルは苦笑しながら屋台の暖簾をくぐる。
「空いているとこ座るね、ミスティ。まずはいつものね」
「ああ、リグル、いらっしゃい」
ミスティアはいつもの割烹着で店側の席に座って、なにやら苦笑していた。リグルを見ると微笑んで迎え、立ち上がって八目鰻の串を掴む。
「おう、リグルじゃないか」
さっきまで出来上がっていた客を宥めていた人物が、こちらを見て声をかけてくる。出来上がっていた客の方はといえば、屋台のテーブルに突っ伏していた。
「……って、うわっ、星熊勇儀!」
「おいおい、その「うわ」ってなんだよ、うわっ、て」
別に気分を害したわけでもなく、それどころか満面の笑みを浮かべて鬼が笑った。旧地獄の大物、地底妖怪の女傑とくれば、リグルとしては驚かざるを得ない。
いや、こんな遭遇、滅多にないものだ。
「……いや、珍しいなぁ、っていう気持ちが少しと、私は鬼ほどは飲めないから絡まれたら困るなぁ、面倒くさいなぁ、って気持ちが殆どで、つい」
リグルは肩を落とし気味に正直にそう答え、ミスティアが苦笑する。
何もそんな正直に、と思ったからだ。とはいえ幽香との付き合いで、大物に嘘を吐いてもどうにもならないことを知っているリグルとしてみれば、これしか手段はない。
そして、勇儀は大物らしく、愉快そうに頷いてリグルの肩をばんばん叩いた。至って上機嫌のご様子である。
「そりゃねぇ、鬼と対等に飲める奴はこの幻想郷を探したっていないだろうさ。でも、あたしは手加減するからね、存外良い勝負ができると思うよ。どうだい、蟲の女王」
「いや、だから勝負しに来たわけじゃなくてね……」
幽香もそうだが、この手の大物は気は良い割に人の話を聞かない。たいてい自分の尺度があって、それをてらいもなく見せつけてくるものだ。正直、幻想郷の妖怪の中では小物だと自認しているリグルとしては非常に困る。
「あによ~、さっきから勇儀、誰と話してるのよ~」
そう言ったのは、さっきまで突っ伏していた客である。屍ではなかった。彼女は顔は上げず、手だけ勇儀の腕を掴んで言う。
「ああ、ヤマメ。客がほかに来たのさ」
「客?誰?」
「リグルさ」
勇儀がそう言うと、いきなり黒谷ヤマメはむくっ、と顔を上げた。
「リグルって、リグル・ナイトバグ?」
「そうさ、なぁ?」
勇儀が楽しそうにリグルにウィンクをする。
しかし、リグルにしてみると、すでに出来上がっている二人に当然酔いでは追いつけず、何となくミスティアに救いの視線を投げる。梯子酒でもない限り、そのくらいしかできないだろう。
「そうよ、ヤマメ。ほら、リグル。まずは2本とお銚子ね」
勇儀の言葉を受けて、ミスティが答える。そのままリグルに八目鰻の蒲焼きと熱燗のお銚子を並べた。
「リグル……?」
ヤマメはしばらく視線をさまよわせた後、リグルに固定する。
勇儀と違って、完全に出来上がって真っ赤な顔をしている土蜘蛛に、リグルはとりあえず営業用の微笑を浮かべた。
古人の名言に曰く「とりあえず、わろとけ、わろとけ」。
「あ~!リグル様だ~!ちーす、リグル様、ち~す」
「ち、ち~す?」
全員が固まってヤマメを見ると、ヤマメは直立不動に立ち上がり、おもむろに直角でリグルにお辞儀した。
「こ、こんばんわ、ヤマメさん。……い、いや、ヤマメさん、なんで様付なんですかっ!?」
リグルがうわずって思わず立ち上がり、慌ててお辞儀し返す。そしてすぐさま聞き返した。
「おお、なんだ。二人は知り合いなのか?」
「知り合いっていうか……」
リグルとしては名前だけはかねがね、あとは多少、蟲関係で知っている程度にすぎないのだが。
「知り合いなんてとんでもないれす。リグル・ナイトバグ様は蟲の女王れすよ?私たち蜘蛛族から見たらめっちゃ偉いれす。めがっさ偉いれす」
まるで説教するように勇儀に言う。ヤマメはトロンとした目で言うと、またストンと座り直した。
「いや全然、偉くないよ?どちらかというと、土蜘蛛の方が歴史もあって由緒ある大妖怪だよ?」
リグルが一杯も飲めないうちから酔っぱらった状態に追い込まれる。勿論、パンチドランカー的な意味で。
「土蜘蛛なんれ、所詮、歴史と伝統だけれすよ。蟲族の女王様には構いません」
ヤマメは敢えてリグルの言葉を否定せずにそう言い切ると、一気にお酒を煽ってタンとテーブルにお猪口を打ち付ける。
「いやいや、鬼とか天狗とか鵺とか古狸とか九尾の狐とか、私は全然適わないからね?」
実際、伝統と格式で言ったら、土蜘蛛と言えば日本史上まれにみる大妖怪である。
民話大系出身の妖怪が裸足で逃げ出すほどの悪行で国家に祟ったわけで、実際、幻想郷でも旧地獄にいた理由はその病気を操る程度の能力にあったわけだが。
「もう、謙遜しないれくらさいよ~。さ、飲んでくらさい。ここは勇儀の奢りれすから」
「えっ!?」
さっきから土蜘蛛と蛍の会話を肴に、にやにやしつつ酒を煽っていた勇儀が驚く。
「そうなのかいっ!?」
「はい、じゃ、付けときますね」
「付けられたっ!?」
しれっと伝票を一つにまとめるミスティアに、愕然とする鬼。
「いや、まだ一口も飲めていな……」
ヤマメがリグルのお銚子をひったくり、お猪口に注いで渡す。そして、有無を言わせず、叫んだ。
「かんぱ~い!」
「か、乾杯」
「乾杯!」
ヤマメの先導に、勇儀とリグルもお猪口を合わせた。陶器のカチンとなる音がして、全員で飲む。
「おいひい」
「うまいな」
「……おいしいね」
ちなみに、勇儀はお猪口を空けると、すぐにお猪口ではなく自分の杯にまた、熱燗を注いでいる。
リグルもとりあえずお酒を飲めたことで、ちょっとほっとした。それを見ていたミスティアも安心したのか、お猪口を出してくる。
「じゃ、私もおつきあいしようかな?」
「勿論れすよ。女将さんの分も勇儀が払ゆからね?」
「了解!じゃ、付けとくねっ!」
「それも付けるんかいっ!?」
お前ら、自由だなぁ~、と感心しながら勇儀が杯を煽った。別段、こういう雰囲気が嫌いなわけではないのだろう。
むしろ、この鬼は好きというべきか。
「にひても、今日は良い夜れす。女王様に会えるなんて」
「いや、だからね……」
そこまで言って、リグルは八目鰻をかじった。
「私もヤマメさんに会えて、こうして飲めるのは嬉しいんだよ?」
その言葉を聴いて、ヤマメは幸せそうににっこり笑う。
「おお、さすが蟲の女王だな。たらし込むのがうまい」
「勇儀さんっ!」
思わずリグルが叫ぶと、勇儀が右手だけ立てて悪い悪い、と笑う。
「だから、そうじゃなくてね。私は蟲の妖怪だけど、蛍なわけで。重要なことだから繰り返すよ?私、蛍なの。おーけー?」
リグルの言葉にヤマメも勇儀も頷き、ミスティアが笑う。
なんでリグルってば、アイデンティティの危機に追い込まれてるのだろうと女将は思ったのだ。
「でね。ヤマメさん。ここが重要なんだけど、ヤマメさんは蜘蛛じゃないですか?」
「土蜘蛛れす。伝統と格式、古来から現代に受け継がれる国家に巣食う病魔、土蜘蛛れす。それしか取り柄はないれす。どうも、女王様、お世話になってます」
急に丁寧に流暢に語られ、リグルは目を点にする。
あれ、酔ってるんだよね、この妖怪。
リグルが目を泳がせると、勇儀は重々しく頷いた。
「ああ、大丈夫。こいつは完全無欠、完璧に酔ってるから。普段は空気の読める、心遣いと配慮の妖怪、地底のアイドルだからな。こんなこと、言わないさ」
そう言って、勇儀はおでんの汁を啜る。
「できることなら、全部記録して素面になったこいつに聞かせてやりたいよ」
そんな皮肉混じりの勇儀の言葉に、ヤマメが頷いた。
「そうれすね。やっぱり土蜘蛛って、疫病があって成り立つところがありますから。疫病が土蜘蛛に輝けって囁いている感じ、れすか?」
全く、勇儀とヤマメで会話が成立していなかった。
「で、でね。話を戻すけど」
リグルがその様子に危機感を受けて口を開く。このままだと、この泥酔空間に飲み込まれる気がしたからだ。ちなみに、泥酔空間では酔っぱらいの力は3倍になる。当店比。(あくまで女将個人の印象です。科学的なデータではありません)
「私が蛍で、ヤマメさんが蜘蛛。そうすると、ヤマメさんの方が、ほら、捕食者じゃない?蜘蛛って昆虫、食べるじゃない?」
「食べてほしいのれすか?」
ほわーっとしたヤマメが、不思議そうに言う。
思わず、リグルとミスティアは含んでいたお酒を吹き出し、勇儀が未熟者、という目をしてまた杯を煽った。
「いや、そういう意味じゃなくてねっ!」
「どういう意味れすかね?」
紅潮したリグルを前にヤマメが首を傾げる。勿論、ヤマメの中では文字通りの意味しかない。そこに多義性はないのだ。
「い、いや。別に食べてほしいわけじゃなくてね。ほら、序列、みたいなのあるじゃない。体育会系っていうのかな、天狗とか河童とかが持ってる社会性、みたいな?」
ちなみに、社会的動物の代表は人と蟻であり、蟻は昆虫である。
「勿論分かってますじょ?らから、女王様、と」
「うん、そこ。そこなんだ。私が女王様、っておかしいよね?私は土蜘蛛の女王じゃないよね?」
「れも、蟲の女王れすよ?」
蟲、というところを強調してヤマメは言い、ダンと額をまた屋台に打ち付けた。明日あたり、赤くなってそうである。
「うーん、それなんだけど、それただのあだ名だからね?私はあくまで蛍の妖怪、虫を操る程度の能力、だからね」
「蟲、れすよね?」
「虫、だよ?」
リグルとヤマメ、二人がじっとお互いを見つめる。しばらく不思議な沈黙が流れる。
「かんぱーい」
「か、かんぱーい」
いきなり繰り出されたヤマメのお猪口を、リグルもお猪口で受け止める。
「れすから、蟲なので、蜘蛛も傘下れすよ?蜘蛛も女王様の傘下れすから、蠍もそうれすね」
「えっ、私、蠍も操れたっけ?」
思わず自分の能力を再確認するリグル。
いや、そんな目で見られても困るんだけど、とミスティアは首を振りながら、おでん盛り合わせをリグルのところに置く。ほっくほくの芋が湯気を立てていた。
「……そうか、鋏角亜門って、蟲なんだなぁ」
勇儀がおでんにしみて、形が崩れつつあるはんぺんを口にしながら頷く。勇儀の手元にもおでんの盛り合わせがあり、すでに半分程度になっていた。
「思いらしてくらさいよ、女王様。多分、蟲を操っているとき、無意識に蜘蛛とか蠍とか水蜘蛛とかいましたから。ってかいたれす。きっといました」
えっ、そうだっけなぁ、とお猪口を煽りつつリグルは思い出そうとするが。
「ああ……。いたかな?えっと昆虫類以外もいたような?」
「あれれすよ?確か多足類はいましらよね?」
「あ~、いたんじゃない、リグル」
ミスティアは思い出すように頷いた。
「ほら、鳥類って虫食べるから。確か、リグルの操っている虫を見て、あ、おいしそう、って思った気がする」
「す、凄いこと考えてたんだね、ミスティ」
突然の親友のカミングアウトに、リグルがショックを受ける。
「ヤスデとか、ムカデとか、確かにいた気がするなぁ」
「……言われてみると……」
リグルは八目鰻をかじりつつ思い出してみる。たしかに、多足類が地面を埋め尽くして「うねっていた」気がしてきた。ミミズとか芋虫とかもいたかも。
「ついでに、カマキリとかシロアリとかも操ってなかったか?リグル」
勇儀も興味津々といった感じで聞いてくる。
「……操ってた気がする。いや、でもあれは昆虫だし。……段々、自信がなくなってきた」
リグル・ナイトバグ。蟲の女王。
そういえば、操っているときにはその能力で、特に意識せずに蟲たちを操ってきたかもしれない。
「いや、でも、その理屈でいくと、私、完全に甲殻類も操れることになっちゃうよ?」
リグルが反論すると、ミスティが目を光らせた。
「えっ?リグル、蟹とか海老とか操れるの?そしたら、うちのメニューすっごく豊富になるじゃない」
「いや、だからね。私が甲殻類操ってるの見たことないでしょ?」
テンションを上げる屋台の女将に、リグルが落ち着かせるように言う。
「だがそうとは限らないさ。幻想郷には海がないだけ、ってこともある」
そんなリグルを相手に勇儀は冷静に指摘して、なっ?と肩を軽く叩いた。
「お前、操れるんじゃないか?」
「……私、そんなに凄かったかな?」
でも、蟹や海老は蟲じゃないはず。
え、いや、ダンゴムシとかフナムシとか、蟲なの?
あれ、ショッキラスも?うん、ショッキラスって幻想郷入りしてなかったっけ?
でも、あれいたら、すっごい怖いよね?
混乱するリグルとしても、蛍や蝶、蛾、蜻蛉や蜂、飛蝗、蟋蟀、蚊、蝉などとさまざまに操ってきた覚えがある。湖や川の傍なら、タガメやゲンゴロウなど水生昆虫も操ってきた。
リグルほどの妖怪となれば、それは成虫だけでなく生活環としての幼虫すら自在に操るだろう。だが、それ以外の「蟲」って、操ってたろうか。
いまいち、自信がなくなってくる。
ってか、「蟲」って、「虫」と違うの?
「そうれすよ。女王様は凄いんれす。多分、環形動物門とか、線虫類とか類線形動物門とかも操れるはずれす」
ちなみに、おなじみとしては左から、ミミズ、センチュウ、ハリガネムシです。閲覧注意。
「……一応、ここ食事とお酒、雰囲気と三拍子そろった屋台なんだけどな」
三つ星屋台の自信から、ミスティアが呟く。
「人がいなくて良かったな。妖怪だけならたいしたことはないさ」
その呟きにも全く動じていない勇儀が、声を出して笑う。確かにここに霊夢や魔理沙がいたら殴り合いになっていたかもしれない。
蟲対人類。
もちろん、勇儀は蟲側の味方だ。
「それは偏見れすよ?線虫類は寄生している連中より自然生活している方が遙かに多いんれすから。有名らからって、常に寄生しているわけじゃないんれす」
「……まぁ、昆虫にとっては餌だしね、線虫」
リグルも頷くが、すぐに思い返して唸る。
「いや、でもハリガネムシは逆に昆虫を利用するっけなぁ」
ハリガネムシがカマキリを乗っ取る話は昆虫よもやま系、あるいは昆虫あるある系の人気話である。
ちなみにカマキリ三大あるある話は「雌に食われる雄」「カマキリの卵が孵化して幼虫ぞろぞろ、人間がPTSDに」「ハリガネムシに乗っ取られて水辺へ。どうあがいても絶望」「実は隠してたたけれどゴキブリの親族(近縁)。シロアリとも」である。ちなみに四大になってしまった。計画性のなさが伺えよう。
なお、雌に食われる雄という話は、普通雄が移動しているため空腹の雌に食われる場面は少なく、また、ハリガネムシはカマキリに寄生するも乾燥して死ぬことも多いため、実は余り例がないそうで、一部虫ファンをがっかりさせてくれる。
……信じてたのに。
「でも、アニサキスとかサナダムシとか、霊夢や魔理沙がいたら確実に殴られてるよね?早苗とかだったら、絶対許してくれないよ?」
「人間って勝手だよねぇ。早苗なんて、甲虫は嫌いじゃなさそうなのにねぇ」
甲虫は比較的人間に人気がある。
ムシキングとか蟲姫様とかエグゼドエグゼスとか。
早苗さんから見れば、ちょっとした「私の夏休み」状態である。きっと8月32日に遭遇して悪戦苦闘するのだろう。
とはいえ、人間の主観によれば、甲虫・蝶は価値が高いそうなのだ。
ついでに言えば、スカラベとかに至っては財宝の類であるらしい。人間の主観は分からないよね、とリグルが愚痴る。
「まぁ、勝手って言えばあたしたちも同じさ。主観ってのは常に勝手、だから多様でやっていけるのさ。それを理解していても正直、いらっとすることの方が多いけどな」
実際、人間を見捨てた、あるいは見捨てられたのかもしれない鬼の一人がそう言って笑う。
「そうだね。でも、私、意識して線虫類とか類線形動物門を操ったことないし」
蟲を操るときに、敢えて線虫に限定、とかしたことなかったな、とリグルが一人ごちだ。
「甲殻類が操れるかも、やってみないと分からないしな」
勇儀はうなずき、今度、あの隙間妖怪に頼んでみるか、などと言い出す。
さすがは鬼族、大妖怪相手に引かない、媚びない、諂わない。鬼族に自重の二文字はないのだ。
少しは配慮してほしいですね、とは射命丸文の言葉である。
「というわけれ、リグル様は女王様なのれす」
「いや、だからね、全然、女王様じゃないよね?ただの能力だし、その能力に付けられた二つ名にすぎないし」
そう言って必死に手を振って否定するリグルに、ヤマメは椅子を担いで近づき、空いていた左隣に座った。
「どうしてそんなに女王様であることを嫌がりますか?過度の謙遜は逆に失礼れすよ?」
「謙遜とかじゃなくてね。そうじゃなくて、私が言いたかったのは……」
そこまで言うと、リグルは「ひゃっ」とかわいい声を上げた。
「な、なんで抱きつくんですか!?」
「良い匂いがしてるかられす」
「た、食べられるっ!?」
「どっちの意味で?」
リグルがおびえて立ち上がって叫んだ言葉に、ミスティが思わず聞き返す。
だから、この言葉に多義性はないと何度言えば。
「こら、止めないか、ヤマメ」
勇儀は拳を鳴らしてヤマメを引っ剥がす。
「酒飲みとして節度をわきまえないとな」
「……なんで邪魔するの~」
ヤマメが両手をリグルに延ばし、あ~う~、などと言う。
ちょっとした宮古芳香状態だが、やがて、がくんと首をおろした。
「落ちてる?」
「違う違う、がっかりしているだけさ」
「あい。だって、良い匂いがしたんれすもん」
椅子とヤマメを担いだ勇儀が、またヤマメを勇儀の右隣に強制的に座らせるのを見て、リグルもまた安心して座り直す。
「良い匂い?」
ミスティアはリグルに近づいて鼻をならしたが、そんな匂いはしない。
「ちょ、ちょっと、ミスティ。恥ずかしいから」
「……フェロモン、じゃないのか?」
勇儀はまた杯に酒を注ぎながら言う。
「フェロモン?」
化学物質です。
「蟲の女王のフェロモンだろ?あたしたちにゃ分からないが、その筋の人にはたまらないんだろうさ」
「や、やめてよ」
思わず両手を交差して自分の胸を隠したリグルが言う。しかし、そんな恥いるリグルを前に、ヤマメは賛同するように首を縦に何度も振った。ちょっとしたヘッドバンギングである。首の骨にご注意いただきたい。
「リグル様の香りは、私たちの世界ではご褒美れす」
「……紳士だねぇ、ヤマメは」
勇儀がしみじみ頷くと、えっ、それ言うなら淑女じゃないかな、とミスティアは思った。ただし、口には出さない。面倒くさいから。
「そ、そんな匂い出しているかな」
思わず自分の服をすんすんと嗅いでみるが、自分では体臭が分からないように、リグルはただ首を傾げるだけだった。
「まぁ、良いじゃないか。臭いわけではないんだし。確かに虫を操る能力の一部に、フェロモンがあるのかもしれないしな」
「でもそれって、水生動物を操れるのかしらね?」
ミスティアが不思議そうに言う。
水の中でフェロモンを受容することは可能なのだろうか?
水溶性ではない物質ということなのだろうか?
あるいは水に溶けてすら匂うのだろうか?
まぁ、フェロモンは匂うものなのかどうかすら怪しいものであって、比喩表現にすぎないのかもしれない。
「フェロモンが効かないなら、そのときは紳士にたまらない音とか出して、水生昆虫の触覚を魅了しているんだろうさ」
勇儀がいい加減な口調で、がんもどきを突っつきながら続ける。
箸が触れるとジュッとおでんの汁がしみ出てきてなんとなく嬉しい。ちなみに橋で触れるのは勇儀なら可能だが、もはや勇儀の頭がおかしくなってしまうので注意が必要だ。
「ええ~、それ私が知らない間に音を出してるってことじゃない」
リグルはついに、腕を組んで考え出した。無意識に騒音を出してるとか、怖いんですが。
「まぁまぁ。音って言うなら、ほら、秋の「虫の声」って風流って言うじゃない?」
ミスティアがそう言うと、童謡虫の声の一節を軽く歌ってみせる。あの虫の声をオノマトペにした部分だ。
「チンチロチンチロチンチロリン♪とかスイッチョンスイッチョンスイッチョン♪とかね」
プロの歌手の歌声に、おお良いねえ、と勇儀が豪快に笑ってがんもどきをほおばって言う。隣のヤマメも一緒になって「カタカタカタカタ♪」と歌って震える。轡虫の真似らしいが、ちょっと怖い。
「ああ~面白い、虫の声♪か」
風流だねぇと歌って、勇儀は杯をまた重ねた。
「でもあれ、「虫の声」っていうか、羽音とかの振動音なんだけどね」
リグルが二本目の八目鰻を食べ終わり、串を皿の上に置きながら答える。
「良いのさ。人間「様」はそうは思ってないんだろうから」
「とはいえ、ほかの国じゃ虫の声はただの騒音だ、って言うけどね。風流なんて言ってるの、ここら辺、秋津島の住民だけじゃなかったかな?」
秋津島、つまり蜻蛉の国と言いながら、ミスティアは自分の皿におでんを盛っていく。
豪勢な盛り合わせ風になったが、この支払いは勿論、勇儀のツケだ。ミスティアが食べれば食べるほど、飲めば飲むほど儲かるシステムであり、画期的すぎる。
「ここの住民だって、夏の蝉の鳴き声や近付いてくる蜂の羽音、蚊や蠅や虻が耳元でとんでいる音なんて、場合によっては憤激や恐怖を呼び起こすよな」
音と言ってもいい音ばかりじゃないということだな、と言って勇儀が苦笑する。
「でも、それすら風流と言ってみせる人もいるよね?」
リグルが言うと、勇儀が目を閉じて言う。酒を含んだ後で。
「閑さや、岩にしみ入る」
「蝉の声、ね」
勇儀の言葉をミスティアが続けて言う。ことほどこの国の住民は、虫の声が嫌いではないらしい。
「でもねぇ。例のあの御方のカサカサ音は、私たち外食産業最大の恐怖よ?ちょっとしたヒステリックなパニックを起こすくらいだし。ちょっとしたバイオハザード状態ね」
蜚虫廉の呼び起こす混沌について指摘しながら、屋台の女将さんは鰯のツミレを頬張った。
よくその話題で食えるな、と思わないではない。
「そういう意味らと、蜘蛛は鳴かないれすからねえ」
さっきから突っ伏していたヤマメはまだ起きていたらしく、突然会話に音もなく入り込んできた。
「そういや、蜘蛛って音を立てないもんな。気づくと、こう蜘蛛の巣を張っていたり、糸を垂らして天井から降りてきたり」
音も立てずに現れる鋏角亜門、蜘蛛。
効果音が入る。
実は伝統と格式で言うと蜘蛛はこの国では益虫の括りに入る。
朝蜘蛛は殺すな、とか夜蜘蛛は親でも殺せ、とか蜘蛛の巣柄の和服は客を絡めとる、とか色々迷信とか俗言が多いのも、それだけ親しみがあるということだろうか。
「そうねぇ。あの蜘蛛の巣とか蜘蛛の糸とか、インパクトは強いもんね」
歌手としての感想だろうか、やっぱりインパクトは重要よね、と続ける。蜘蛛の糸に至っては、地獄脱出アイテムであり、基本的には切れる。
どっちやねん。
「でもそれだと、蚕先輩とかには頭があがらないれすね」
「……えっ!?蚕って先輩扱いなの?」
あれ、蛾だから昆虫類なんだけど。リグルの突っ込みにヤマメは頷いた。
「蚕先輩はあれれすよ。昔っから働き者れすから」
「搾取されてるとも言うけどな」
勇儀が気の毒そうに言う。
それだけ人間と密接に関わっているからこそ、蚕の妖怪とか人間と関係する場合も多いのだが。御蚕様・おしら様とか、なかなかに興味深い信仰であり、子供には優しいが、場合によっては恐怖譚を演じもする。
「人間って怖いよねぇ~。蜜蜂とかもそうだもんねぇ」
ミスティアが頷く。養蜂家は世界でも古い産業の一つなのだ。人間は蜜蜂から甘味と蝋という二大生産物を搾取してきたものだ。
ワリャーグの交易での主要産物の中には確かにその二つがあり、ビザンツ帝国との主要交易品であった。
そのくらい、歴史に根深いものなのだ。
「万国の蟲らちよ、らんけつせよ!らち上がれ!れす」
「それだと王制が打倒されるな、女王陛下?」
「いや、今の話だと蟲が人間に反抗する感じだけどね」
聞け万国の労働蟲~♪
轟き渡る女王の~♪
しかしリグルは自分の話じゃないです、とミスティアが置いてくれた大根にかじり付いている。
ツケで食べられるので、気まぐれ女将さんのお任せコースになっている。お代は時価。いくら取る気なんだ。
「そういや、「鳥」なんてホラーがあったなぁ」
「ああ、あれねぇ。あれって、人間にとっちゃ怖い話みたいねぇ。蟲、って作ったら同じような感じで人間も怖がるんじゃない?」
ミスティアが頷いてリグルを見る。
「そんなに怖かったら、霊夢に退治されるもん。勘弁してよ」
リグルが勇儀とミスティアの勝手な言葉に首を振った。ちなみにこれが深海生物だと「比較的優位者」の話になる。
「第一、蟲の大群が襲ってくることって、あんまりないんだよ?この国の蝗は群生相にならないし」
ああ、いなごだ……。
正しくは「飛蝗」とのことで、この国の蝗はどちらかというと佃煮にされて食用にされている。多分、もっともこの国でポピュラーな昆虫食であり、ややカリカリした食感である。
ちなみに、この昆虫に「き×がい雲」と題名を付けると、神様の作品でも放送禁止になりかねないのは豆知識だ。
白い獅子が食用にするほどの、ありがたい現象なんだけれど。
「大量発生するのはなんか原因があるものだし、たいてい、それって人間のせいなんだし」
なんかあるのは、殆どあいつらのせい。
自然系妖怪の共通認識である。
人間達の共通認識である「八雲紫のせい」「守谷神社のせい」以上に、「人間のせい」は妖怪達には常識であった。
「幽香に言わせれば、人間も含めて自然だから、取り立てて言うほどのことでもないらしいんだけどね」
人間だって自然の一部、食物連鎖の一部なのよね。
もし人間だけ違うとするなら、自然の外側に「何か」を集合として定義してる時点でおかしいのよ、と幽香は笑ったものだ。
それが優しい微笑なのか、驚くほど傲岸な嘲笑なのか、見るもので変わるのが幽香らしいと言える。
ちなみにリグルには、とっても母性的な微笑に見えた。
「人間に滅ぼされる連中がいる。人間と一緒になって生存圏を拡大する連中もいる。どっちも自然の中のこと、か」
「そうそう。だからそれは自然なことなんだって」
リグルは竹輪をはふはふ食べながら続ける。
「人間が害獣を滅ぼして家畜を増やす。人間が寄生虫を滅ぼして、体内に新種の寄生虫を生む。人間が食用や加工用、観賞用植物を増やして、気にもとめずに雑草を滅ぼす」
それはそれで、いつものことかもしれない。
「で、また自然の方ではどんどん新種を、変種を、突然変異を生んでいく。そうやって古い仲間が去っていって、新しい仲間が増えていく。もしかすると、いつか人間もそうやって退場してくのかもね」
「……おお、なんか哲学的だねぇ」
退場していった鬼が、しみじみと頷いて杯を煽る。もう何杯目なんだろうか。
「……って、幽香が言ってた」
すべて受け売りである。
リグルにはまだ、よくわからないことなのだ。
「なるほど、幽香は蟲の女王にとっての、女王様なんだな」
勇儀にしてみると一度御手合わせ願いたい相手だが、幽香は気まぐれなのでなかなか相手になってくれない。
第一、なかなか遭遇できない。太陽の畑に行けば会えるかと思うと、そうでもないらしい。ふわふわと風にゆられて散歩などしているのだという。
勿論、地底に遊びに来るタイプでもないし。地下の植物にも挨拶しに来てもらおうかな、などと勇儀は考える。
「そうだね。幽香こそ女王様っぽいよね。……私と違って」
日傘片手に悠然と周囲を見渡し、うっとりと夏の太陽の畑の向日葵たちを、秋の紅葉する妖怪の山や収穫される野菜や果物たちを、冬の高山地帯の植物たちや積雪の下の針葉樹や根菜たちを、春の幻想郷のすべてを埋め尽くす開花の様を、巡回している姿こそが女王の姿のそれだ。
一人孤独にお供もつれず、気儘に下々の者たる植物たちに声をかけて歩く、気品に溢れた女王陛下。
その様子を思い出してリグルはヤマメに言うのだが、土蜘蛛は突っ伏したまま首を振る。そういえば、さっきから声がしてなかったのは、寝ていたからなのか?
「それでも女王れすよ~。私たちの女王様~」
そう答えてはいるものの、いよいよ酔いつぶれたのか、もう有意味な反応がなくなっている。
「おいおい、もう寝ちまうのかい?」
勇儀が苦笑する。
まだ夜は始まったばかり、丑三時のそのすぐ後くらいなのに。妖怪にとってはこれからじゃないか。
「勇儀が強すぎるのよ。もうヤマメはだいぶ飲んでたわよ」
ミスティアがこんにゃくをぐにゃぐにゃ咀嚼しながら、そんなことを言って宥める。
「まぁ、こいつも色々不満があったみたいだからなぁ。たまには愚痴を言わせてやらないと」
地底の妖怪は色々ある奴が多いんだ、と勇儀が苦笑する。
パルスィやヤマメ、キスメなど問題児だらけであることに定評のある地底だけに、ミスティアもリグルもお疲れさまです、と勇儀に頭を下げた。
「でも、騙す連中じゃないからな。付き合ってて気持ちがいいもんさ。感情的にど直球ってやつでね。ほら、こいつも結構、単純だろ?」
そう言って、ぽんぽんと寝入り始めたヤマメの髪の毛のおだんごを、そっと叩く。勿論、起こさないように。
「でも、今日はどうしたの?いつものヤマメらしくなかったけど?」
ミスティアが日頃は地底の妖怪にしては陽気で気さく、ちょっと蓮っ葉だが竹を割ったような彼女を思い出して尋ねる。
「あ~、陰口を偶然聞いたらしいんだな。ほら、こいつ蜘蛛だろ?こいつのファンの地底の妖怪たちが話をしているのを見て、脅かしてやろうと思ったらしい。軽い茶目っ気だったんだがな」
勇儀が優しい目でヤマメを見る。
「音もなく近付いて、まさに脅かそうして蜘蛛の糸の振り子で近付いた、その瞬間、聞いちまったんだそうだ。ヤマメさんも、もうアイドルって年じゃないよな、って」
……。
ミスティアとリグルがう~ん、と反応に困る。
最近は地底も若いアイドルの台頭とか、あるんだろうか。
「土蜘蛛なんて言ったらもう、大妖怪だろ?言ってみりゃ良い年なんだし、アイドル、って年じゃないだろう、ってな。大御所みたいなもんなんだから、なんて言われて、思わずそのまま振り子の反動ですごすご戻ってったらしい」
勇儀が苦笑する。まぁ、地下の妖怪達の人気者であって、アイドルという定義なわけではないが、やっぱり女心としては面白くないかもしれない。
「いや、あたしたちは妖怪なんだから年齢とか関係ないと思うんだが、やっぱりあれかね?ヤマメも女なのかね。全然気にしてないけどさ、なんて言いながらヤマメが愚痴るもんだから。パルスィがいたらもっと煽ったかもしれないから、地上に連れ出したんだけど」
リグルが来て本当に良かったよ、と勇儀が続ける。
ミスティアが苦笑して、リグルが来るまで荒れてたもんねぇ、と返した。
「リグルが来てから、さっきみたいに上機嫌さ。女王様、なんて言ったのもあれかね、自分より上もいる、甘えたい、なんて気分があったのかね」
「勇儀に十分、甘えてたと思うけど……」
「ほら、そこは身内のよしみさ」
あたしは蟲ではないからなぁ、と勇儀が言って酒杯を傾ける。
いや、もうどんだけ飲むのか。
「どこから見ても、鬼だもんねぇ」
「鬼以外の要素がないもんねぇ」
リグルとミスティアの言葉に、勇儀が苦笑いする。
「そりゃな。あたしは鬼だからな。でも、あたしも思うときがあるよ。少し、なんか少しだけ感傷的になったときに、萃香と飲むかな、なんてな。地上にいるって聞いてほんの少し安心した。鬼同士で飲むってのは、結構ありがたいもんなんだよ。今となっちゃ」
なにせ、同じくらい飲めるのは鬼だけだからな、と勇儀が呵々大笑する。確かに、同じ程度飲むのは無理だよね、とリグルはまだ三本目の二合徳利を空けながら頷く。
「でも、私はお姉さんのヤマメさんも好きだけどな」
リグルはそう言って笑った。
少し顔を赤くしたのは酒のせいか、恥ずかしいからか。
「そりゃ、素面のときに言ってやってくれ。あいつ喜ぶか、喜びすぎて泣き出すから。あれで情にもろい奴だからな」
「素面じゃ言えないよ、こんなこと」
徳利を何度も傾けてリグルが答える。
滴がぽたぽた垂れるだけで中身がないのだが、照れ隠しのせいかリグルは何度も繰り返していた。
それを見て、ミスティアが冷やの徳利をリグルに渡す。
「そうかい?正直に言うのが一番良いと思うんだがね。どうも、今の連中は妖怪も人間も、賢くなっちまっていけないね」
勇儀はなみなみに満たした杯を両手で抱えるようにして飲み干し始める。
それは相撲の力士が優勝杯で行うような仕草で。
どんどん杯の酒が勇儀の口元に消えていく。多少、唇から漏れる酒が頬を伝い、それがなんとも妖艶に見えて横目で見ていたリグルに息を飲ませる。
「うまいね!酒ってのはうまいから飲むもんさ。酒を飲むのに理由なんて必要ないよ、理由なんてあったら小賢しいじゃないかっ!?」
そう良いながら勇儀は口元を腕で拭った。
その様子はまた、いつもの勇儀そのものだった。さっきのあの艶やかさは何だったのだろう。
「さ、リグルも飲みなよ。あたしの奢りなんだから」
そう言うと、かわいらしいお猪口に勇儀が酒を注ぐ。
おっとすいません、とリグルがお猪口を持ち、そっと飲み干す。
「ほら、女将さんもさ」
「……困ったねぇ。これじゃもう、看板だね」
ミスティアはため息混じりに頷く。まぁ、鬼がいるのに来る客もいないか、と提灯の火を落とした。
「さ、我らがアイドル、黒谷ヤマメに乾杯だ!今の寝ているヤマメはちょっと無様だが、酒の肴にゃちょうど良い。付き合ってもらうよ、夜雀の女将に蟲の女王様」
ウィンクした鬼に、はぁ、とため息一つ、リグルとミスティアはお猪口を掲げて、勇儀はあの杯になみなみと酒を注いで波打たせ、声を合わせて言った。
「「「地底のアイドルに、乾杯!」」」
「う~ん、もう飲めない~」
「いや、お前はもう飲んでないぞ?」
勇儀が隣で波打って運ばれているヤマメの寝言に答える。もう暫くすると夜が明けてしまう。白む前に帰るか、と勇儀が納得したのはついさっきのこと。
「ふふっ、でも、可愛いよね」
リグルが顔を真っ赤にして答える。これはもう、恥ずかしいせいではなく、酒のせいである。どれだけ飲まされたのか、リグルは蛍らしく、あっちへこっちへふわふわ飛び回りながら言う。
「こうなっちまえば、土蜘蛛も赤ん坊みたいなもんさね」
病気を操る土蜘蛛の寝顔は、赤ん坊のように無邪気なものだった。揺りかごに揺られるように、ヤマメはすやすやと眠る。
「ほら、みんな、今度はこっちだよ~」
リグルがそう言って、地面の蟲たちに呼びかける。
凄まじい多足類や昆虫類の大群。地面を覆い尽くしたその群が何層にも波打って、まるで棺を大切に運ぶかのようにヤマメを運ぶ。その中には地底のアイドルが収まっていた。
本来、潰れてしまうであろうひ弱なはずの蟲たちが、まるで強力のように傷一つ負わず運んでいく。それはあるいは、リグルの能力なのかもしれない。
「はい、みんなはこっちを照らして~」
そう言ったリグルの前には蛍や夜光蛾の大群がぼんやりと地面を照らす。か細い月明かりよりも明るい、その大群の冷光や鱗粉の照り返しが辺り一帯を包む。
それは百蟲夜行。
ほとんどの蟲たちがまるで女王に魅入られるように、進んでいく。空に浮かんで指揮を執る女王の命令通りに、軍隊のような正確さと宗教儀式の厳粛さで蟲たちが進む。
「大切な、大切なお姫様だからね~、ゆっくり丁寧に運ぶんだよ~。みんな頑張って~」
歌うようにリグルが言う度に、蟲たちが蠢く。それは女王の労いに対して慶びを発するようだった。
こうして蟲列は秋の月に照らされながら、蠢動しながらヤマメを運ぶ。
勇儀には蟲は近寄らなかったから、鬼はその月明かりに浮かぶ光景を、ただただ見つめていた。
ミスティアがいたら、「もう食べられないよ」とか言ったかもしれない。
勇儀という鬼には、その姿が蟲たちの「力」に見えた。
ほとんどの人間が、この大群のうねりや蠢きに、怖気を振るったろう。虫愛ずる姫ですら、あるいは。
だが、勇儀にはこの蟲の大群たちの恐ろしさは、かえって凄まじい力の象徴、一寸の虫の五分の魂に見えた。魂が萃まって、最早それは五分どころではない。
この力こそが虫、いや蟲たちの力であり、恐ろしさであり、そして美しさなのかもしれない。
蛍の光、蛾の鱗粉、多足類の曲線的なうねり、怖気すら感じる多足の運び、周囲を飛び跳ねる蝗や蟋蟀、飛蝗、竈馬たち、甲虫類の油に浮かぶ月の光の照り返し。
そしていつもは羽音で鳴く蟲達の、沈黙したまま揺りかごを運ぶ態。
恐るべき蟲たちの、その数、その動き、その力。
「やっぱり凄いねぇ。これが蟲の女王か」
女王というには威厳のない、そのふわふわした動きに苦笑しつつ、それでも勇儀は感歎していた。
ヤマメは酔いに任せてリグルに絡み、女王様と慕ってみせたが。
だが、リグルの言う通り、蜘蛛と蛍は親族としてはちと遠い。
確かに蜘蛛は昆虫ではない。鋏角亜門は昆虫ではないからだ。
多足類は昆虫ではないし、甲殻類も昆虫ではなく、水蜘蛛類も昆虫ではない。
線虫類は昆虫ではなく、類線形動物門や環形動物門にいたっては類じゃない。
しかし。
それでも、リグル・ナイトバグは「蟲の女王」として君臨していた。
酔いのせいか、能力に制限を加えず、無意識のうちにただただ、その愛すべき可愛らしい土蜘蛛の眠りを守るために。
働き蟻が、働き蜂が、卵を運ぶようなその流れる蟲列に、リグル・ナイトバグは重ねて言った。
「さぁ、みんな、あと一踏ん張りだよ?この可愛らしいお姫様、私たちの可愛い赤ん坊を彼女のお家に運んでいこうね」
すべての蟲たちが足や翅を蠢かせ、女王に対して歓声を上げた。
女王の行くところ、我らを絡めとる蜘蛛の巣とて恐れることはないのだから。
-了-
少なくとも虫偏全部はそうだったし、鬼とか天狗の源流とかいう話もあった気が
おもしろかったです。後日談も是非!
虫談義と妖怪関係物語をうまいこと融合した作品でした。ヤマメちゃんはアイドルですよー。
こんな会話が出来るのも飲みの醍醐味ですね。
あー酒が飲みたくなる!
一杯目からギムレットをあおりたいが、ゆっくりと飲む楽しさが伝わってきました。
ギムレットには、まだ早い。
お酒の話は置いておいて、最後のリグルがヤマメを虫で運ぶ下りは、おぞましさは感じず女王の慈愛というものが感じられますね。
あまり見れない組み合わせがそれらしく動いてるのはとてもいいものですね
飲み会がいつの間にかインテリジェンス溢れる空間になっていることってありますよね
衒学的になることの方が多い気もしますが