一年の始まりである元旦は、寺が最も忙しくなる一日だ。初詣に訪れた人々で境内はごった返し、寺に務める妖怪たちは皆てんてこ舞い。私も行列整理に駆り出されて、やっと休憩に入ったところである。
境内のはずれにある僧房から喧騒を眺めつつ、湯気立つ緑茶を飲み下す。独特の渋みが疲れ切った頭を刺激してくれる。残り数分もすれば次の仕事に追いやられるのだから、今のうちに休んでおかなければいけない。
「お疲れ様、ナズーリン」
呼ばれて振り返ってみると、いつの間にかご主人様が隣に座っていた。好々爺然とした笑顔を浮かべながら、美味しそうに茶をすすっている。
「ご主人様こそ、お疲れでしょう」
実際、ご主人様の仕事ぶりは恐ろしいものがあった。御本尊兼僧侶として、寺のあちこちを飛び回っている。基本的には優秀なお方なのだ。基本的には、だけれど。
ご主人様は私の返事に満足そうに頷いて、ゆっくりと境内を見回した。手を合わせ祈る者、絵馬を書き記す者、屋台をまわる者、いつもならひっそりとしている寺が、今日は喧騒と活気に溢れている。
ふと、ご主人様の視線が止まった。
「ねえ、ナズーリン。あそこにいる男の子が見えますか?」
ご主人様の指差した先には、齢六、七歳ほどの少年が歩いていた。何処へ向かおうとしているのか、参拝の列に並ぶでもなく、屋台を眺めるでもなく、ふらついた足取りである。迷子になってしまったようで、近くに親の姿はない。人ごみに押されて流されて、今にも消えてしまいそうだ。
「迷子のようですね」
「ナズーリン、あの子の親御さんを探してきてあげてください」
「迷子の保護、ですか?」
「はい。お願いしますね」
「え、ちょっとご主人様・・・!」
ご主人様はそれだけ言い終えると、すくっと立ち上がり、笑顔のまま僧房の奥へと去って行ってしまった。どうやら、私に選択権は残されていないらしい。
「まあ、絵馬の販売よりは楽かもしれないな・・・」
私は湯飲みを台所に片付け、熱気溢れる境内へと歩みを進めた。
===
件の少年は、境内隅の日陰で立ち尽くしていた。墨汁を更に煮詰めたような黒い瞳で、茫然と人ごみを眺めている。まるでその場所だけが空間から切り取られてしまったかのような、妙な静けさを漂わせていた。
「ねえ、親御さんとはぐれてしまったのかい?」
私の問いかけに少年は何も言わず、ただ首を縦に振った。
「じゃあ、お父さんとお母さんを探しに行こう」
少年はまたこくりと頷き、私の手を掴んだ。少年の手は、水にでも浸けていたかのように冷たかった。随分長い時間、この境内をさ迷っていたのかもしれない。
私は少年を連れて、行列整理を任されている山彦ーー幽谷響子のもとを訪れた。
響子は得意の大声を飛ばしながら、列の端から端までを忙しそうに走り回っていた。私の存在に気づいたようで、小さな尻尾を振りながらこちらに近づいてくる。
「あれ、ナズーリンさん。どうしたんですか!?」
「うん。どうやらこの少年が迷子になってしまったようでね。子供とはぐれてしまった親御さんがいないか、ちょっと叫んでみてくれないか?」
「君迷子になっちゃったの?」
少年はやはり何も言わず、静かに頷いた。
「じゃあ、ちょっと呼んでみますね!」
「頼んだよ」
こういった時、響子の大声は非常に便利だ。以前宝塔を買い取った雑貨屋では、拡声器なるものが売っていたが、彼女であればそんなものは必要ない。ただ叫ぶだけで、数里先まで音を届けることができるのだ。
響子が口元を手で覆い、大きく息を吸う。
「どなたか、お子さんとはぐれてしまった方はいらっしゃいませんかーーー!!!!!」
瞬間、響子の大声が境内中に響き渡り、周囲から音が消えた。静寂が寺中を包み込む。
「どうでしょうか・・・?」
しかし、無音の世界は長く続かない。すぐに境内は元の喧騒を取り戻し、どれだけ待っても親御さんらしき人は現れなかった。
「おかしいですねえ。これだけの大声ですから、お寺中に届いたはずなのに・・・」
「だとしたら、親御さんはもう寺にいないのか・・・?」
少年は境内の隅で隠れるように立っていたのだ。親御さんが勘違いをして人里に戻っていたとしても、不思議ではない。
「しょうがない。人里に出てみるか」
私は細く頼りなげな少年の腕を掴んで、境内を抜けた。
===
半刻ほど後、響子と別れた私は、少年を連れて人里へと出向いていた。立ち並ぶ家々の軒先には、大小様々な門松が並べられ、広場では子供達が凧揚げを楽しんでいる。境内の殺人的な喧騒に比べると、随分和やかなものだ。
「君の家はこの辺りかい?」
私の問いかけに、少年は首を横に振った。
一口に人里と言っても、拓けた中心街から山の麓の村々まで、相当な広さがある。やみくもに探し回っても、見つけるのは難しそうだ。
「やはり子供のことは先生に尋ねるのが一番かな・・・」
そう考えた私は、人里で寺子屋を営んでいる、上白沢慧音先生の家を訪ねることにした。
慧音先生の家は、人里の中心近くにあり、他の家々に比べて少し大きめの造りとなっている。廊下や書斎など、至る所に歴史書が山積みにされていた。もう少し丁寧に扱った方がいいのではないだろうか。
「この少年が、命蓮寺で迷子ねえ・・・」
慧音先生は私からの説明を一通り聞き終えると、少年をじっと見ながら首を傾げた。
「私にも分からないなあ・・・」
「分からない、ですか?」
「ああ、人里に住む全ての子供が、寺子屋に通っているわけではないからな。特に里の外れの農村に住んでいる子供達は、ほとんど通っていないんだ」
「なるほど・・・」
「全く、連中の考えは古いんだ。畑を耕していれば生きていける時代は、もうとっくに終わっているというのに。これからは学問の時代だ。農業も工業も商業も、皆頭を使わなければいけない。歴史、習字、算術、学ぶべきことは山ほどあるというのに・・・・」
「よく分かりました」
これ以上教育について語られても困るので、適当な相槌で話を遮る。
「あぁ・・・、分かってくれたのならいいのだが・・・」
この先生はどうも、熱心すぎて空回りするきらいがあるようだ。まだ話し足りないのか、少し不満げに茶菓子の羊羹を口に運んでいる。
「では私達は、その農村の方に行ってみたいと思います」
「うん。親御さん見つかるといいな」
慧音先生の笑顔に、少年は俯いたまま首を縦に振った。
===
慧音先生に教えてもらった農村は、人里と山の境界に位置する小さな集落だった。広大な田んぼと畑の間に、茅葺屋根の家が点在している。日はいつの間にか傾き、紅い夕陽が山々を照らしていた。
農村に着いた途端、少年が私のスカートの袖を引っ張った。
「ん?君の家はこの辺りなのかい?」
少年は私の質問に答えず、山林の方へとずんずん歩いて行く。私は何がなんやら分からぬままに、少年の後を追いかけた。
少年は森の奥へ奥へと進んでいった。黒々とした木々が辺りを覆い、まるで時間が飛ばされて夜が訪れたかのような、暗く静かな道程。どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくるが、姿は見えない。少年は一体どこに向かおうとしているのか。
「君、一体どこに向かっ・・・」
私がそう尋ねようとした時、突然少年の足が止まった。
「どうしたんだい?」
近づいてみると、少年の前に三つの石が転がっていた。両手で抱えられるかどうかという大きさで、横に三つ綺麗に並んでいる。多少人の手が加えられているようで、不細工な直方体のような形をしている。前面に文字が刻まれているようだ。
「どうやら、人が並べたもののようだが・・・」
石に触れてみる。一欠片の温かみも持たない無機質な冷たさが、手の表面から全身に回っていく。
「あ・・・れ・・・?」
まるで霧に包まれていくかのように意識が濁っていくのを感じ、私は思わず目を閉じてしまった。そのままどこまでも沈んでいく。少年が見えなくなる。
何も、見えなくなる。
===
再び目を開けてみると、目の前に広大な川があった。澄み切った水を一杯に湛え、なだらかな流れを形づくっている。岸辺に咲いている紅い花は、どうやら曼珠沙華のようだ。
いや、この場合は曼珠沙華というよりも、彼岸花と言った方が正しいのかもしれない。
「ここは彼岸、なのか・・・」
目を覚ました私の隣で、少年は茫然と座っていた。寺の隅にいた時と同じ、何もかもが幽かで儚い。針人形のような細い手足は、今にも綻んで消えてしまいそうで。
私は、全てを理解した。
「そうか・・・。そういうことだったのか・・・」
もっと早く気付くべきだった。見つからない両親、凍ったように冷たい手、慧音先生にも分からない素性、突然目の前に現れた三途の川。
お墓のように並んだ三つの石。
少年も御両親も、すでに死んでしまっていたのか。
「あら、目を覚ましたのかい?」
声のした方に振り返ると、紅い髪をした死神が、鎌を片手にこちらを見つめていた。三途の川を越える船頭のようだ。
「すまない、もう大丈夫だ。私は大丈夫」
「そうかい。君も大丈夫かい?」
死神の問いかけに、少年はやはり黙ったまま。こくりと頷いた。
「とりあえず妖怪さん。感謝しておくよ。両親が彼岸に渡った後も、この子だけは未練を残してしまったみたいでね、成仏できずにいたんだ。でも、三人一緒に葬られていることを知って、ようやく成仏する気になったらしい」
「そうか・・・」
どうやら私の行動が、幽霊である少年を成仏へと導いたらしい。それはとても正しい行為であるはずだ。未練を残し現世にとどまろうとする霊を、輪廻転生の輪に引き戻す、間違いなんてどこにもない。それでも、私は単純に喜ぶことはできなかった。
死神が少年の細い手を取る。これから少年は三途の川を渡り、輪廻転生の旅に出ることになるのだろう。私はこれ以上、同行することはできない。圧倒的なまでに、お別れだった。
「すまないな、少年」
私は少年の前に立って、その黒い髪を撫でた。まるで水底の泥のように、柔らかく滑らかな髪の毛。到底、死んでいるとは思えなかった。思いたくもなかった。
「私では、君のお父さんやお母さんを見つけることはできないみたいなんだ」
霧の奥に見える対岸には、沢山の魂達が漂っている。形のない紫の灯火、そのどれもが皆生きていた。死ぬまで生きていたはずなのだ。少年も生きて、両親も生きて、でも皆死んで。さようならを言わなければならないのだ。
「さあ、行こうか」
死神が少年を古びた小さな舟に乗せ、少しずつ私から遠ざかっていく。川の流れを遮って進んでいく。
「さようなら・・・か」
少年が形を失い、魂へと還っていく。死神は振り返ることもせず、ただ船を漕ぐ。私はそれを見送る他になかった。
===
「ねえ、ご主人様」
月の輝く僧房で、私はご主人様と隣り合わせに座っていた。普段であればとっくに家に帰っている時間なのだが、今日はどうしても、ご主人様に聞いておかなければいけないことがあったのだ。
「なんですか、ナズーリン?」
ご主人様は相変わらずの柔らかな笑顔を浮かべながら、銀色に輝く月を眺めていた。冬の乾いた夜は、月の光を崩すことなく地上に伝えている。
「ご主人様は、あの少年が幽霊であること、気づいていたのではないですか?」
「まあ、薄々ですけれどね。しょうがないじゃないですか、いつまでも『迷子』でいるわけにはいかない。そうでしょう?」
「そうですけれど・・・」
「いいんですよ、ナズーリン。貴方は間違っていません。私達は、あの少年が来世を幸福に過ごすことができるよう祈りましょう」
そう言ってご主人は目を瞑り、静かに手を合わせた。私もご主人様に倣って祈る。
寺の隅で静かに佇んでいた少年。舟に揺られて彼岸へと消えていく少年。名前も死んだ理由も聞くことはできなかったけれど、幸せになって欲しいと願う。声をあげて笑ってほしいと願う。
「ところでナズーリン」
合掌を終えたご主人様が、媚びるような甘い声で話しかけてくる。
とても嫌な予感がした。肩のあたりが重くなるのを感じ、思わずため息をこぼしてしまう。
「まさか・・・また宝塔を失くしたんですか?」
「いえ、今回は槍の方を失くしてしまって・・・」
「あんな大きなもの、どうやったら失くせるんですか!」
「ごめんなさい!」
ご主人様は、怯えた猫のように背中を丸めて、私に向かって頭を下げた。鼠と猫の立場逆転である。
「・・・全く」
私は一つ大きく息を吸って立ちあがる。
「まあご主人様、そう落ち込まないでください。槍はちゃんと見つけます」
「本当ですか?」
「はい。失せ物探しは私の専門ですから。槍がこの世にあるうちは、きっと見つけてみせましょう」
どうやら明日も忙しくなりそうだし、今日はもう家に帰って休もう。そしてまた明日も探そう。
おやすみなさい、少年。
境内のはずれにある僧房から喧騒を眺めつつ、湯気立つ緑茶を飲み下す。独特の渋みが疲れ切った頭を刺激してくれる。残り数分もすれば次の仕事に追いやられるのだから、今のうちに休んでおかなければいけない。
「お疲れ様、ナズーリン」
呼ばれて振り返ってみると、いつの間にかご主人様が隣に座っていた。好々爺然とした笑顔を浮かべながら、美味しそうに茶をすすっている。
「ご主人様こそ、お疲れでしょう」
実際、ご主人様の仕事ぶりは恐ろしいものがあった。御本尊兼僧侶として、寺のあちこちを飛び回っている。基本的には優秀なお方なのだ。基本的には、だけれど。
ご主人様は私の返事に満足そうに頷いて、ゆっくりと境内を見回した。手を合わせ祈る者、絵馬を書き記す者、屋台をまわる者、いつもならひっそりとしている寺が、今日は喧騒と活気に溢れている。
ふと、ご主人様の視線が止まった。
「ねえ、ナズーリン。あそこにいる男の子が見えますか?」
ご主人様の指差した先には、齢六、七歳ほどの少年が歩いていた。何処へ向かおうとしているのか、参拝の列に並ぶでもなく、屋台を眺めるでもなく、ふらついた足取りである。迷子になってしまったようで、近くに親の姿はない。人ごみに押されて流されて、今にも消えてしまいそうだ。
「迷子のようですね」
「ナズーリン、あの子の親御さんを探してきてあげてください」
「迷子の保護、ですか?」
「はい。お願いしますね」
「え、ちょっとご主人様・・・!」
ご主人様はそれだけ言い終えると、すくっと立ち上がり、笑顔のまま僧房の奥へと去って行ってしまった。どうやら、私に選択権は残されていないらしい。
「まあ、絵馬の販売よりは楽かもしれないな・・・」
私は湯飲みを台所に片付け、熱気溢れる境内へと歩みを進めた。
===
件の少年は、境内隅の日陰で立ち尽くしていた。墨汁を更に煮詰めたような黒い瞳で、茫然と人ごみを眺めている。まるでその場所だけが空間から切り取られてしまったかのような、妙な静けさを漂わせていた。
「ねえ、親御さんとはぐれてしまったのかい?」
私の問いかけに少年は何も言わず、ただ首を縦に振った。
「じゃあ、お父さんとお母さんを探しに行こう」
少年はまたこくりと頷き、私の手を掴んだ。少年の手は、水にでも浸けていたかのように冷たかった。随分長い時間、この境内をさ迷っていたのかもしれない。
私は少年を連れて、行列整理を任されている山彦ーー幽谷響子のもとを訪れた。
響子は得意の大声を飛ばしながら、列の端から端までを忙しそうに走り回っていた。私の存在に気づいたようで、小さな尻尾を振りながらこちらに近づいてくる。
「あれ、ナズーリンさん。どうしたんですか!?」
「うん。どうやらこの少年が迷子になってしまったようでね。子供とはぐれてしまった親御さんがいないか、ちょっと叫んでみてくれないか?」
「君迷子になっちゃったの?」
少年はやはり何も言わず、静かに頷いた。
「じゃあ、ちょっと呼んでみますね!」
「頼んだよ」
こういった時、響子の大声は非常に便利だ。以前宝塔を買い取った雑貨屋では、拡声器なるものが売っていたが、彼女であればそんなものは必要ない。ただ叫ぶだけで、数里先まで音を届けることができるのだ。
響子が口元を手で覆い、大きく息を吸う。
「どなたか、お子さんとはぐれてしまった方はいらっしゃいませんかーーー!!!!!」
瞬間、響子の大声が境内中に響き渡り、周囲から音が消えた。静寂が寺中を包み込む。
「どうでしょうか・・・?」
しかし、無音の世界は長く続かない。すぐに境内は元の喧騒を取り戻し、どれだけ待っても親御さんらしき人は現れなかった。
「おかしいですねえ。これだけの大声ですから、お寺中に届いたはずなのに・・・」
「だとしたら、親御さんはもう寺にいないのか・・・?」
少年は境内の隅で隠れるように立っていたのだ。親御さんが勘違いをして人里に戻っていたとしても、不思議ではない。
「しょうがない。人里に出てみるか」
私は細く頼りなげな少年の腕を掴んで、境内を抜けた。
===
半刻ほど後、響子と別れた私は、少年を連れて人里へと出向いていた。立ち並ぶ家々の軒先には、大小様々な門松が並べられ、広場では子供達が凧揚げを楽しんでいる。境内の殺人的な喧騒に比べると、随分和やかなものだ。
「君の家はこの辺りかい?」
私の問いかけに、少年は首を横に振った。
一口に人里と言っても、拓けた中心街から山の麓の村々まで、相当な広さがある。やみくもに探し回っても、見つけるのは難しそうだ。
「やはり子供のことは先生に尋ねるのが一番かな・・・」
そう考えた私は、人里で寺子屋を営んでいる、上白沢慧音先生の家を訪ねることにした。
慧音先生の家は、人里の中心近くにあり、他の家々に比べて少し大きめの造りとなっている。廊下や書斎など、至る所に歴史書が山積みにされていた。もう少し丁寧に扱った方がいいのではないだろうか。
「この少年が、命蓮寺で迷子ねえ・・・」
慧音先生は私からの説明を一通り聞き終えると、少年をじっと見ながら首を傾げた。
「私にも分からないなあ・・・」
「分からない、ですか?」
「ああ、人里に住む全ての子供が、寺子屋に通っているわけではないからな。特に里の外れの農村に住んでいる子供達は、ほとんど通っていないんだ」
「なるほど・・・」
「全く、連中の考えは古いんだ。畑を耕していれば生きていける時代は、もうとっくに終わっているというのに。これからは学問の時代だ。農業も工業も商業も、皆頭を使わなければいけない。歴史、習字、算術、学ぶべきことは山ほどあるというのに・・・・」
「よく分かりました」
これ以上教育について語られても困るので、適当な相槌で話を遮る。
「あぁ・・・、分かってくれたのならいいのだが・・・」
この先生はどうも、熱心すぎて空回りするきらいがあるようだ。まだ話し足りないのか、少し不満げに茶菓子の羊羹を口に運んでいる。
「では私達は、その農村の方に行ってみたいと思います」
「うん。親御さん見つかるといいな」
慧音先生の笑顔に、少年は俯いたまま首を縦に振った。
===
慧音先生に教えてもらった農村は、人里と山の境界に位置する小さな集落だった。広大な田んぼと畑の間に、茅葺屋根の家が点在している。日はいつの間にか傾き、紅い夕陽が山々を照らしていた。
農村に着いた途端、少年が私のスカートの袖を引っ張った。
「ん?君の家はこの辺りなのかい?」
少年は私の質問に答えず、山林の方へとずんずん歩いて行く。私は何がなんやら分からぬままに、少年の後を追いかけた。
少年は森の奥へ奥へと進んでいった。黒々とした木々が辺りを覆い、まるで時間が飛ばされて夜が訪れたかのような、暗く静かな道程。どこからか鳥の鳴き声が聞こえてくるが、姿は見えない。少年は一体どこに向かおうとしているのか。
「君、一体どこに向かっ・・・」
私がそう尋ねようとした時、突然少年の足が止まった。
「どうしたんだい?」
近づいてみると、少年の前に三つの石が転がっていた。両手で抱えられるかどうかという大きさで、横に三つ綺麗に並んでいる。多少人の手が加えられているようで、不細工な直方体のような形をしている。前面に文字が刻まれているようだ。
「どうやら、人が並べたもののようだが・・・」
石に触れてみる。一欠片の温かみも持たない無機質な冷たさが、手の表面から全身に回っていく。
「あ・・・れ・・・?」
まるで霧に包まれていくかのように意識が濁っていくのを感じ、私は思わず目を閉じてしまった。そのままどこまでも沈んでいく。少年が見えなくなる。
何も、見えなくなる。
===
再び目を開けてみると、目の前に広大な川があった。澄み切った水を一杯に湛え、なだらかな流れを形づくっている。岸辺に咲いている紅い花は、どうやら曼珠沙華のようだ。
いや、この場合は曼珠沙華というよりも、彼岸花と言った方が正しいのかもしれない。
「ここは彼岸、なのか・・・」
目を覚ました私の隣で、少年は茫然と座っていた。寺の隅にいた時と同じ、何もかもが幽かで儚い。針人形のような細い手足は、今にも綻んで消えてしまいそうで。
私は、全てを理解した。
「そうか・・・。そういうことだったのか・・・」
もっと早く気付くべきだった。見つからない両親、凍ったように冷たい手、慧音先生にも分からない素性、突然目の前に現れた三途の川。
お墓のように並んだ三つの石。
少年も御両親も、すでに死んでしまっていたのか。
「あら、目を覚ましたのかい?」
声のした方に振り返ると、紅い髪をした死神が、鎌を片手にこちらを見つめていた。三途の川を越える船頭のようだ。
「すまない、もう大丈夫だ。私は大丈夫」
「そうかい。君も大丈夫かい?」
死神の問いかけに、少年はやはり黙ったまま。こくりと頷いた。
「とりあえず妖怪さん。感謝しておくよ。両親が彼岸に渡った後も、この子だけは未練を残してしまったみたいでね、成仏できずにいたんだ。でも、三人一緒に葬られていることを知って、ようやく成仏する気になったらしい」
「そうか・・・」
どうやら私の行動が、幽霊である少年を成仏へと導いたらしい。それはとても正しい行為であるはずだ。未練を残し現世にとどまろうとする霊を、輪廻転生の輪に引き戻す、間違いなんてどこにもない。それでも、私は単純に喜ぶことはできなかった。
死神が少年の細い手を取る。これから少年は三途の川を渡り、輪廻転生の旅に出ることになるのだろう。私はこれ以上、同行することはできない。圧倒的なまでに、お別れだった。
「すまないな、少年」
私は少年の前に立って、その黒い髪を撫でた。まるで水底の泥のように、柔らかく滑らかな髪の毛。到底、死んでいるとは思えなかった。思いたくもなかった。
「私では、君のお父さんやお母さんを見つけることはできないみたいなんだ」
霧の奥に見える対岸には、沢山の魂達が漂っている。形のない紫の灯火、そのどれもが皆生きていた。死ぬまで生きていたはずなのだ。少年も生きて、両親も生きて、でも皆死んで。さようならを言わなければならないのだ。
「さあ、行こうか」
死神が少年を古びた小さな舟に乗せ、少しずつ私から遠ざかっていく。川の流れを遮って進んでいく。
「さようなら・・・か」
少年が形を失い、魂へと還っていく。死神は振り返ることもせず、ただ船を漕ぐ。私はそれを見送る他になかった。
===
「ねえ、ご主人様」
月の輝く僧房で、私はご主人様と隣り合わせに座っていた。普段であればとっくに家に帰っている時間なのだが、今日はどうしても、ご主人様に聞いておかなければいけないことがあったのだ。
「なんですか、ナズーリン?」
ご主人様は相変わらずの柔らかな笑顔を浮かべながら、銀色に輝く月を眺めていた。冬の乾いた夜は、月の光を崩すことなく地上に伝えている。
「ご主人様は、あの少年が幽霊であること、気づいていたのではないですか?」
「まあ、薄々ですけれどね。しょうがないじゃないですか、いつまでも『迷子』でいるわけにはいかない。そうでしょう?」
「そうですけれど・・・」
「いいんですよ、ナズーリン。貴方は間違っていません。私達は、あの少年が来世を幸福に過ごすことができるよう祈りましょう」
そう言ってご主人は目を瞑り、静かに手を合わせた。私もご主人様に倣って祈る。
寺の隅で静かに佇んでいた少年。舟に揺られて彼岸へと消えていく少年。名前も死んだ理由も聞くことはできなかったけれど、幸せになって欲しいと願う。声をあげて笑ってほしいと願う。
「ところでナズーリン」
合掌を終えたご主人様が、媚びるような甘い声で話しかけてくる。
とても嫌な予感がした。肩のあたりが重くなるのを感じ、思わずため息をこぼしてしまう。
「まさか・・・また宝塔を失くしたんですか?」
「いえ、今回は槍の方を失くしてしまって・・・」
「あんな大きなもの、どうやったら失くせるんですか!」
「ごめんなさい!」
ご主人様は、怯えた猫のように背中を丸めて、私に向かって頭を下げた。鼠と猫の立場逆転である。
「・・・全く」
私は一つ大きく息を吸って立ちあがる。
「まあご主人様、そう落ち込まないでください。槍はちゃんと見つけます」
「本当ですか?」
「はい。失せ物探しは私の専門ですから。槍がこの世にあるうちは、きっと見つけてみせましょう」
どうやら明日も忙しくなりそうだし、今日はもう家に帰って休もう。そしてまた明日も探そう。
おやすみなさい、少年。
気が向きましたらもう少し長い話の投稿もお待ちしてます
ありがとうございます。以前一度長編を書いたんですが、最低得点を更新しました笑
アイディアを思いついたら、また挑戦したいと思います。
読みやすい♪
そこが良い…
勿論良い意味で。