屠自古という女はとても気が強いところがありました。
時折、彼女が叱責する声を響かせることがありますが、その声はまるで雷でも落ちたかと思うほど激しく、その場の空気を切り裂き、叱責された方は一瞬にして縮こまってしまうので、弟子たちの間では大層怖れられていました。
こんな事を言うと、屠自古はただ怖れられているだけのように受け取られてしまうかもしれませんが、実際には面倒見の良さや、美しい見た目から、静かな人気がありました。
さて、屠自古はそんな気の強さとは裏腹に、女としての自分には自信が持てないでいました。自分には女としての魅力がないと、変な思いこみを抱いているのです。
桜のような華やかな可憐さも、藤のような大人びた美しさも、どちらも自分とは到底かけ離れたものだと思っていました。
以前、彼女と神子がこんな会話をしたことがあります。
「屠自古。君はもっと着飾っでも良いんじゃないか。今のままでも十分に魅力的だが、より一層華やかになるだろうに」
「いきなりそんな事を言って、どうしたのです?」
「なに、良い物を見つけてね」
神子は屠自古の前に桐で作られた箱を置きました。その箱を開くと、中からはとても美しい着物が出てきました。
「これなんか、君にとても似合うと思う。どうだい、着てみないか?」
「いえ、私が着るのにはあまりに煌びやかではありませんか。私に似合うとはとても思えません」
「そんなことはないさ。私は絶対に似合うと思う。着てみればわかるよ」
しかし神子が進めるにもかかわらず、屠自古はそっと首を横に振り、
「この着物だって、私のような地味な女ではなく、もっと華のある女に着て貰いたいと思っていることでしょう」
「屠自古には華があるじゃないか。私が言っているのだ、間違いはない。試しにこれを着て、外を歩いて来ればいい。そうすれば、すれ違った人々がたちまち振り返って君の後ろ姿に目を奪われることだろう」
「私が例えこの着物を着て外を出歩いたとしても、この着物の煌びやかさに私の姿は打ち消され、それを見て人々はきっとこう思うに違いありません。なぜ、着物が独りでに動いているのだろう、と……。それはあまりにも滑稽ではありませんか」
屠自古は静かに微笑みます。彼女の顔は蝋燭の火に照らされているにもかかわらず、黒衣を纏ったかのように顔全体を暗い影が覆っていました。その表情が彼女自身の言葉を何よりも如実に表していたのです。
神子はそっとため息を吐き、
「そんな卑屈になる必要はない」
「卑屈になっているわけではありません。私はただ自分の事をわきまえているだけです」
「それが卑屈だと言っているのだ」
残念そうに神子はもう一度ため息を吐きますと、
「もっと自分に自信持つべきだ。君は十分に美しいのだから」
その言葉にも、屠自古はただ黙って静かに頭を下げるだけでした。
二月上旬のこと。
屠自古は神子に連れられて里を訪れていました。里の様子を見て回りたいと、その日は布都を入れ、合わせて三人で人里を歩き回ることになったのです。
神子は人々の生活の様子をうかがうのを好んでいたので、時折こうして里にやって来ては行き交う人々の声に耳を傾けていたりするのを、布都は興味深げに、屠自古は黙って付いて歩きました。
その日はとても寒い日で、空には灰色の雲が立ちこめ、今にも雪が降り出しそうでした。それでも里には活気があり、多くの人々が通りを思い思いの足取りで歩いていました。
屠自古はいつもそうするように、神子の後ろを歩きます。神子の立っている位置からおよそ一歩分下がった所が、彼女がいる場所でした。彼女にとって、神子とは誰よりも敬う相手であり、誰よりも強い思いを抱いている相手でありました。それ故に屠自古は神子の横に並ぶようなことはほとんどしませんでした。神子には華があり、自分にはそれがないと思っている屠自古は、神子の横に並ぶようなことはおこがましいことだと感じていたのです。自分は影なのだ、影が横に並ぶのはおかしい、影は常に後ろにいなくてはいけない、と……。
もしその背中が倒れそうになったときに、後ろからそっと支えられたらいいと、屠自古はただそう思っていました。
布都が面白そうな声を上げたのは、花屋の前を通った時のことです。
「ほう、これはなかなか面白い物が置いてある」
花屋の前にはいくつもの植木鉢が置かれていました。布都は立ち止まってその内の一つに近づき、身をかがめて覗き込みました。気になったのか、神子も同じように布都の肩越しから覗き込みます。仕方なく屠自古も神子に習って目を向けますと、そこにあったのはサボテンでした。
「随分ととげとげしているな」
と布都はサボテンの棘を指で触ります。全身を棘で纏った姿は他の植物とはまったく違うものでした。冬ということもあって、花屋には他の季節と比べれば華やかさは欠けていたのでしょうが、それでも美しい花を咲かせて人の目を楽しませている物もある中で、そのサボテンは花を咲かせることもなく、全身に生えた棘を槍のように突きだしている様は、屠自古にはひどく醜く見えたのです。
「こうしてみると、まるで屠自古のようだな」
にやけた顔を見せながらそんなこと言う布都の頭を、軽くはたいてやろうかと屠自古は思いましたが、
「これこれ、あまりおかしなことを言うものじゃないよ」
と神子は注意します。しかし、その顔も布都と同じように、にやけていて、神子自身もそう思っている節が感じられました。
屠自古はぶすっと黙りました。
自分はそんなに刺々しいだろうか、確かに自分は愛想がいいとは言えなかったが、全身を棘で覆っているサボテンと比べられるのはあまりいい気分はしない、と心の中で思います。
しかし、それがもしそのサボテンの醜さを言っているのだとしたら、それは受け入れるしかないとも思っていました。確かに自分は花屋の中にあるサボテンのようなものです。神子には当然ながら及ばず、布都もああ見えてなかなか人目を惹く容姿であることは屠自古も認めるところだったので、もしそういった意味で似ていると言うのであれば、何も言えません。
と、神子が布都の隣に肩を並べますと、
「サボテンだって、こうして近くで見ると、なかなか可愛らしいじゃないか。うん、私は好きだよ」
そして、ちらっと屠自古の方へ目配せして見せるのです。屠自古はそれが自分を気遣った言葉だと気がつきました。聡い方です。表情一つみれば、その人が何を考えているのか理解する力を持っている神子が、屠自古の考えを読めないことはあり得ませんでした。
自分のことを気遣ってくれた神子の優しさに、屠自古は嬉しく思いながらも、気を使わせてしまったと申し訳なさも感じました。
屠自古はわずかに微笑んで頷くと、神子も優しげに微笑みました。
三人は花屋を離れ、また通りを歩きます。里の中でも特に大小様々な商店が軒を連ねている通りに出ますと、人々の活気がさらに増したような印象がありました。心なしか、いつもよりも店を覗く客が多く感じられるのです。特に若い女が多い感じがあります。
「ふむ、どうしたのだろうね」
神子が首を傾げます。しかし、その理由もすぐにわかりました。女たちが多く押し寄せている所を覗きますと、売っていたのはチョコレートでした。
「なるほど。そう言えばもうすぐバレンタインだったか」
バレンタイン。屠自古にとってそのイベントはなじみ深い物ではありません。知ってはいましたが、自分からチョコを送ったことなど一度もありません。
若い女たちは、色鮮やかに包まれたチョコを、熱心に眺めて選んでおりました。それぞれが思い人へ渡すのに、何が一番良いのかを悩んでいるのです。
思い人。屠自古にもそれに当たる人がいます。いえ、思い人などと言う言葉で形容できるようなものでもありませんでした。
千四百年。あまりにも気の遠くなるような時間を、彼女はその人が目覚めるのを待ち続けたのです。来る日も来る日も変わることない孤独の中で、彼女はただその人が再び自分の名を呼んでくれる日が訪れることだけを願って、内に秘めた思いを枯らすことなく、ひたすらに待ち続けたのです。
そして、その人は今、屠自古の目の前にいます。屠自古にとってこれ以上望むことはありませんでした。ただ自分はその人と一緒にいられればいい、ただそれだけが願いなのだ、と。
「屠自古」
と、その人――神子は彼女の名を呼びました。
「はい、何でしょうか」
「もうすぐバレンタインだね」
「はい、そうですね」
「期待しても良いかな?」
「……期待、ですか。一体何をでしょうか?」
「バレンタインで期待する物といったら、あれしかないだろう」
屠自古はそこで少しの間黙って、
「チョコレート、ですか?」
「うんうん。そうだ、私はチョコが食べたいのだ」
「でしたら、ここには多くのチョコが売っているようですので、太子様が気に入られた物を買っていかれたら良いのではないでしょうか」
「いやいや、屠自古よ。それは違うぞ」
神子は首を横に振って、
「私は君が選んだ物が食べたいのだ。手作りでもかまわないが、そちらは手間がかかるだろう。だから、売っている物の中から君が選んでバレンタインの日に私にプレゼントして欲しい」
「私が選ぶのですか……。太子様の喜ぶような物を選べるとは、私には思えませんが」
「どんな物だっていいんだ。屠自古が私のために選んでくれたというのが、何よりも価値のあることなのだから」
神子の頼みとあったならば屠自古も断ることができず、了承はしたものの、少々困ってしまいます。
「我も太子様にチョコを差し上げたいです」
そんな屠自古とは裏腹に布都は威勢の良い声を上げます。
「ほう、布都も私にチョコをくれるか。そうかそうか。では、二人とも期待しているよ」
神子は楽しそうに微笑みます。
そんなわけで、屠自古と布都は神子にチョコを渡すことになったのです。
その日から、二人の姿は対照的でした。布都の方は楽しそうでした。里の方へ出向いては、若い女たちの群れに混じっては、並べられたチョコをあれじゃない、これじゃない、と独り言をつぶやいては気に入った物が見つからないと、また場所を移動して同じことを繰り返すのでした。
一方、屠自古の方はと言いますと、こちらも同じように里へと出向くのですが、女たちの群れに加わることに戸惑い、意を決して何とか飛び込むものの、その熱気と力強さに押し返され、結局はほとんどまともにみることができません。
人気のない店ではチョコをゆっくりと眺めることができましたが、やはり人気がないだけの理由がわかるばかりで、しっくり来る物はありません。
そもそも、神子がどんなチョコレートを受け取ったら喜ぶのか、屠自古には皆目見当も付きませんでした。派手な装飾を凝らしたものが良いのか、それとも質素な見た目が良いのか、とろけるような甘いものかそれとも苦みのある大人な味のものが良いか、悩みは尽きません。
なぜ神子は自分などのチョコを欲しがるのだろう、と屠自古は思います。神子が自分を見てくれるのは従者としての姿だけであり、それ以外の情は持ち合わせていないと屠自古は信じて疑わなかったものですから、彼女にはその理由がまったくわからないのでした。
里の女たちは皆、少しでも自分を美しく見せようと化粧をしていました。中にはチョコの装飾にも負けず劣らず自分を飾り付ける女までいました。
屠自古は最低限の身だしなみには気をつけてきましたが、化粧にはほとんど感心が行きませんでした。その女たちの中に混じってチョコを選んでいると、ふと屠自古は花屋で見たサボテンを思い出しました。綺麗な花を咲かせる中で、花も咲かさず棘だけを身に纏っていた姿は、化粧をした華やかな女たちの中にいる今の自分とまったく同じように思えたのです。そして、屠自古は居たたまれなくなってその場を離れてしまいました。
何の収穫も得られず里から帰って来て、飾り気のない自室に入ってようやく肩の力が抜けた感じがしました。慣れないことをしたせいか、やたらと疲れたのです。
と、そこで扉を叩く音が響き、返事をすると布都が入って来ました。
「屠自古よ、太子様へ差し上げるチョコは選んだか?」
「いや、まだ……」
「やはりそうか。チョコと言えど、色々な種類があるものなのだな。我もこれというものが選べずに困った」
「うむ、そうだな」
「しかし、いくつか気に入った物もあった。明日また行って来ようと思う。お主はどうする?」
「わからない。少し疲れた」
「ふむ、確かに顔色が優れないように見えるな。まだ日はあるのだし、焦る必要はない。体を休めるのも良いだろう」
「……なあ布都よ、お前は楽しそうだな」
屠自古は思います。布都を見ていると、まるで野原を舞う蝶のようだ、と。
「なんだ。お主は楽しくないのか? せっかく太子様に気持ちを伝える良い機会だと言うのに」
「どんな物をお渡ししたら良いのか、まったくわからないんだ」
「そんなもの考えるまでもない。自分が良いと思ったチョコを、太子様にお渡しするだけだ」
布都は単純でしたが、その単純さが屠自古には羨ましく思えるのです。もし彼女がその単純さを持ち合わせていたら、何も迷うことはなかったでしょう。神子と一緒に歩くときも、後ろをではなく隣を歩いたことでしょう。
しかし自分に自信のない彼女は、神子の前ではとんと内気になってしまうのです。チョコ一つまともに選ぶこともできないほどに……。
布都が部屋から出て行った後、屠自古は窓の近くにある椅子に腰掛け、外へと視線を向けました。彼女はここから外の景色を眺めるのを好み、特に月が美しい光を放っている夜などにはそこにじっと座り、気が済むまで月を眺めていたりしたのですが、その日は残念ながら空には相変わらず寒々とした雲が伸び広がっているばかりでした。
人里の空は連日のように優れませんでしたが、同じように屠自古の顔も優れません。バレンタインの日が近づくにつれ、日増しにひどくなっているようにも見えます。決して神子への贈り物を選ぶことが嫌なわけではありません。可能な限り神子が喜んでくれる物にしようと屠自古も思いますが、その思いが逆に自分の判断を鈍らせるのです。
懸命に考えるのですが、はっきりとしたイメージは浮かばず、むしろ考えれば考えるほど、神子がチョコを受け取って喜んでいる姿が遠くへと離れていくような気がしました。まるで自分は霞を掴もうとしているかのように感じられるのです。
時間はなくなるばかりでしたので、少しずつ焦る気持ちが湧いて来ました。連日通い続けた結果、売り場に群がる里の女たちの中に切れ込んで行くだけの度胸は身につけたのですが、今必要なのはその先にあるチョコレートでした。
屠自古はいくつものチョコを眺めて、うんうんと悩みました。それこそあまりに熱い視線を送るため、その熱でチョコが溶けてしまうのではないかと思われるほど熱心に眺めておりましたが、結局これという物を選ぶことはできません。
神子はどんなチョコを求めているのか、自分はどんなチョコを渡せば良いのか、どれほど考えても答は見つからず、迷宮のより深くへと迷い込んでいるような気にもなります。
なぜ自分はこれほど迷っているのだろう、たかがチョコを選んで渡すだけなのに、なぜこれほど悩んでいるのだろうと、屠自古自身も不思議に思うことがありました。
いくつかの理由はあったのかもしれませんが、やはり彼女の自分への自信のなさが大きな原因だったのでしょう。神子が単純にチョコが食べたいと言ったのなら、彼女は迷うことなくチョコを選ぶことができたはずですが、バレンタインはチョコを渡して自分の気持ちを伝える日なのです。
屠自古は誰よりも神子のことを慕っておりました。しかし自分の気持ちを伝えるようなことは一度もしたことはありません。気持ちを伝えた所で迷惑にしかならないだろうと思っていたからです。そんな彼女の神子に対する遠慮が、チョコを選ぶ判断を鈍らせていたのです。
そうして悩んでいる内に日付はすでに二月一二日。今日を含めて後、二日しかなくなっていました。
もうこのままではらちが明かないと、自分で選ぶのは止めて、一番人気のある奴にでもしてしまおうかと思いまして、各所にある売り場の中でも一際混雑している所を選んで、そこで皆が何を買っていくのかを少し離れた場所から眺めることにしました。
とりわけ売れている物はすぐに見分けが付きました。近づいて確認しますと、ハートの形をした一口サイズのチョコで、それを八つほど薄ピンク色の袋に包んだ物が、次々と売れていきます。張り紙の方に味にもかなりのこだわりがある旨が書かれていまして、もうこれにしてしまおうと思い屠自古は手を伸ばしたのですが、そこでふと思い止まりました。
とても可愛らしいチョコでしたが、あまりにも自分には似合わない物のように感じたのです。もしこのチョコを神子に渡したとしても、なぜこれを選んだのかという理由を見抜かれるような気がしました。一番売れていたからと安易な理由で選んだのだと知られたら、それこそ神子を悲しませるようなことになってしまわないだろうかと思ったのです。
悩んだ末、結局そのチョコは買わずにその日も家路に就きました。
帰ってすぐに鼻歌を歌っている布都の姿が目に入り、その様子から布都の方はもうすでにチョコレートの準備はできているだと理解できました。あまり脳天気な顔を見たい気分でもなかったので、顔を合わさずにすぐに自室へと戻りました。
ここ数日、神子は屠自古に気を使ってかあまり姿を見せませんでした。単純に何かの用があったのかもしれませんが、どちらにせよチョコレートのことについて訊かれたくはなかった屠自古にはありがたいことでした。
まだ明日がある、明日見て回って決まらないようだったらあのチョコにしよう、と彼女はそう思いながら窓辺の椅子に腰掛けると、いつものようにそこから見える景色に目を向けました。窓の外の風景はここ最近ずっと変わらず、分厚い雲が空を覆っているだけでした。
次の日の昼頃、屠自古は里を訪れ、すぐにいくつかの売り場を見て回りました。それでも自分の力では選ぶことができず、屠自古は昨日考えた通り、人気のあったチョコにすることに決めました。
そのチョコの売っている辺りまで来た時のことです。おや、と屠自古は違和感のようなものを覚えました。昨日と比べ、明らかに人の姿がめっきり少なくなっているのです。違和感は嫌な予感に変わり、屠自古は急いでその売り場へと近づきました。
昨日のチョコは売り切れていました。
その事実を見て、彼女はがっくりとうなだれてしまいました。しかも、一番人気があった物に限らず、もうほとんどのチョコが売り切れており、残っていたのは溶かして好きに料理できる板チョコくらいでした。
あれだけ人気があれば、売り切れてもまったく不思議ではありませんでしたので、彼女は自分の浅はかさを後悔しました。しかし、後悔したところで売り切れてしまったものはどうしようもなく、彼女はしばし呆然とそこにたたずんでおりました。
すると、その姿が気になったのか、売り子の女の子が屠自古に話しかけてきました。
「あの、どうかされましたか?」
「ああ、いえ。その……。昨日売っていた物を買いに来たのですが、売り切れていたもので」
「そうでしたか。それは申し訳ないです。昨日の時点でほとんど売れてしまって、今日の午前中にはほぼ完売してしまいました。残っているのはここにある板チョコだけです」
と売り子は味の分かれた数種類の板チョコを手で示しました。
「そうですか……」
「あの、差し出がましいようですが、何か事情でもあるのですか?」
「いえ。ある人にチョコを渡すことになったのですが、自分では決められなかったので、それで売れている物にしようかと」
「なるほど、そうでしたか」
「しかし、売り切れとは困ってしまいました」
「ごめんなさい。でも、他のお店にならまだ売れ残っている物があると思います」
「今からまた他を当たるような気力は、私にはありません。少々疲れてしまいました」
屠自古が困った顔を見せると、売り子の女の子も困った顔を見せました。
「もういっそ、あきらめてしまおうか」
と呟いたとき、売り子は急に、
「それは絶対にダメです!」
突然の大きな声に屠自古は驚き、売り子自身もあっ、と自分の口元へ手をやりました。
「あ、あの私には事情とかよくわからないんですけど、それでもバレンタインなんて一年に一回しかないんですから、渡したいという気持ちがあるのだったら、絶対に渡した方がいいです」
「そうでしょうか。でも、私にはどんなチョコが良いのかわからないんです」
「どんなチョコだった良いんですよ。安かろうが高かろうが、そんなもん関係ないんです。一番大切なのは、気持ちなんです。その人に対する感謝の気持ちとか、その……好き、とかそういう気持ちがあれば、どんなチョコだって受け取った側は嬉しいものなんですよ!」
売り子の女の子は力強くそう言い、赤色の髪につけた鈴の髪飾りが揺れました。
その目はまっすぐ屠自古へと向けられ、真剣さが感じ取れました。この女の子は確かにそう信じているのだと、その眼差しだけでわかるほどでした。
「単なるお手伝いの私が言うのも何ですけれど、ここで売ってたチョコなんて他の所とそんな変わりませんよ。だから、そんなに気を落とさないで、今からでも遅くないですから、チョコを選んで、その人に渡してあげてください」
そして彼女は深々と頭を下げるのです。
「なぜ、そこまで……? まったく面識のない私に」
「だって、寂しいそうな顔をしていました。本当は渡したいんだろうな、って見ていてわかります。渡せずに終わってしまったらきっと後悔すると思うんです。だから、つい応援したくなってしまって……。迷惑だったでしょうか?」
屠自古はそっと首を横に振って、
「そんなことはありません。勇気づけられました」
「そうですか、それなら良かったです」
「どんなチョコでも良い、と言いましたよね。大切なのは気持ちだ、と」
「はい。私はそう思います」
その視線はまっすぐ屠自古を見ていました。屠自古はその女の子のことを信じることにしました。
「それなら」
屠自古は板チョコの一つを手に取り、
「これを頂けますか?」
「これ、ですか」
と売り子は少し驚いたような顔をしたものの、すぐに顔を戻して、
「はい、わかりました。あの少しお時間頂けますか。ラッピングしますので」
すぐに板チョコは可愛らしい包装紙で覆わられ、赤いリボンで結びつけられました。お待たせしました、と売り子は言い、屠自古はそれを大事そうに受け取ります。
「これでも喜んでくれるでしょうか」
「大丈夫です。絶対に喜んでくれるはずです」
「随分と自信がありますね。もしかして、ご自分はそういう経験があるのですか?」
屠自古が質問しますと、売り子の女の子は頬を少しだけ赤らめて、
「いえ、私はまだ……。ですか、その……本で読んだことがあります」
その言葉に、屠自古は可笑しくなってくすくすと笑ってしまいました。恥ずかしそうにしていた売り子の女の子も、同じように笑いました。
バレンタイン当日。
朝起きて、まず外の景色に目が行きました。外は相変わらずの天気で、屠自古がそっと窓に触れると氷のような冷たさが伝わってきます。
昨日買ったチョコは大事に取ってあり、問題はいつ渡すかでした。恐らく布都の方は早いうちに渡しに行くだろうと思っていたので、屠自古はその後に渡しに行くことにします。
窓辺の椅子に座り、時が過ぎるのを待ちます。しんと静まりかえった部屋の中に時計の針が刻む音だけが響き、時間の進みがとても遅く感じられました。
布都はもうチョコを渡しただろうか、まだだろうか、いやどちらにしてももう少し待つべきだろう、と落ち着かない気持ちで、時間が過ぎるのを待ち続けました。
そうして昼近くになった時です。とんとん、と部屋の扉が叩かれました。
まさか神子がやって来たのだろうか、と屠自古は急に緊張し、一度深呼吸をしてから扉を開けました。そこにいたのは、布都でした。
「なんだ、布都か」
「なんだとはひどいではあるまいか」
屠自古はふうと息を吐きます。
「我はもう太子様にチョコをお渡しして来たぞ。太子様も喜んでくださって、我は満足だ」
「どんなチョコをお渡ししたんだ?」
「選ぶのに苦労したのだがな、結局は大きい物にすることにした。太子様に対するお気持ちを表すには、やはり大きい方が良いかと思ったのでな」
どれほどの大きさなのかはわかりませんでしたが、それなりの大きさなのだろうと屠自古は思います。布都の行動は想像通りでしたので、別段驚きはありません。
「そうか。私も後で行くことにするよ」
「屠自古よ」
「ん、なんだ?」
「ちゃんと太子様にお渡しするのだぞ」
「どうしたんだ。そんなことを言って。するに決まっているだろう」
「一応、な。とにかく、太子様は待っておられる。お主がチョコを渡してくれるのを楽しみにしていることだけは、肝に銘じておけ」
布都はそう言い残すと、すぐに去っていきました。
「まったく変なことを言うやつだ」
と誰に向けるでもなく屠自古は呟きます。なぜ布都がそんな助言を残していったのか、その時の屠自古にはわかりませんでした。しかし、それはすぐに実感することになります。
あまり待たせるのも悪いと思いましたので、そろそろチョコを渡しに行こうかと、屠自古が昨日買ったチョコを手に持った時です。
途端に手が震えだし、そのチョコが異様なほど重く感じられるのです。このチョコで本当に良かったのだろうか、もっとしっかり選ぶべきではなかったか、もし喜んでくれなかったらどうしよう、と急に不安がやって来て、その不安に押しつぶされてしまいそうになります。
深呼吸をして落ち着こうとするも、なかなか体の方は言うことを聞いてくれません。
窓に手をつき、そこに映った自分の顔を見ます。弱々しく頼りない表情で、そこに映った顔は屠自古のことを見返してきます。
ただチョコを渡すだけだと自分に言い聞かせるのですが、手の震えは収まってはくれません。
できることなら、逃げてしまいたいとすら思いました。不安に負けそうになり、わけがわからないほど胸が苦しくなりました。
ここに来て何を弱気になっているのだ、この痴れ者が、と自分のことがどうしようもなく情けなく感じられるのです。
そこでふと、指に柔らかい感触があり、そちらへ視線を向けます。リボンの部分が指をくすぐっていました。
売り子の顔がぱっと頭の中に浮かびました。大切なのは気持ちなのだと力強く言っていた彼女のことを思い出し、手の震えが少し収まりました。ゆっくりと深呼吸をすると、少しだけ勇気が湧いて来るようでした。
「大丈夫だ。私は、あの子のことを信じる」
そして、もう一度顔を上げて窓を見ました。そこにはあの売り子と同じように真剣な眼差しをした女が映っていました。
「布都も言っていたじゃないか。太子様が待っていると。行かなければいけないんだ」
屠自古は心を決め、自室の扉を開けると、まっすぐ神子の部屋へと向かいます。どういう道筋で行ったのかあまり覚えていませんが、部屋へはすぐに着きました。そこでもう一度だけ深呼吸をすると、扉を二度ほど叩きます。
程なくして扉が開くと、神子が顔を覗かせました。
「ああ、屠自古。待っていたよ。さあ、入りたまえ」
「失礼します」
屠自古の部屋と違い神子の部屋は広々として、調度品があちこちに並べてありました。テーブルの上に、腕で抱えられるくらいの箱がおいてあり、どうやらそれは布都が持ってきたものだと屠自古は気付きます。
「ああ、うん。それは布都が持ってきてくれた物だ。なかなか美味しかった。ちょっと量が多かったけれど。……さて」
神子が屠自古の方を振り返り、
「チョコは持ってきてくれたかな?」
ここまで来たら、もう後には引けません。屠自古はそっと手に持っていたチョコを神子の方へ差し出し、
「はい。こちらです」
屠自古は渡すときに感謝の言葉を述べるつもりでしたが、あまりに余裕がなくすっかり忘れてしまっていましたが、そんなことを知らない神子は受け取ったチョコを興味深げに見つめます。
「袋を取ってもいいかな?」
「はい」
丁寧な手つきで、リボンをほどくと、なるべく紙を破かないようにそっとチョコを包んでいる袋を開けていきます。袋を取り終えると、神子は、
「ほほう、なるほど。そう来たか」
屠自古はもう神子の顔を見ることができず、じっとその場で下を向いていました。
「食べてもいいかい?」
「ええ、もちろんです」
ぱり、とチョコの割れる音が耳に入り、神子がチョコを口にしたのだと見なくてもわかりました。わずか数秒の沈黙でしたが、屠自古には耐え難い時間でした。しかし、自分のできることはしたと、これで何を言われても仕方がないと、彼女は思ってもいました。
屠自古、と名を呼ばれ、彼女はそこで静かに顔を上げます。
「うん、美味しい。飾り気のない、君らしいチョコだ」
神子はにっこりと微笑みました。屠自古はその顔を見てようやく心に立ちこめていた不安が晴れて行きました。ほっとして気が抜けたのか、涙がこぼれそうになり、何とか我慢すると、屠自古は言います。
「満足して頂けたでしょうか?」
「うん。もちろん大満足だ。君の気持ちが伝わってきたよ。チョコを選ぶのに苦労したのではないかい?」
「はい」
「散々悩んだあげくに、これを選んだのだろう?」
「はい」
「甘さが控えめなのが、ちょうど良かった」
「それは、布都がどうせ大きなチョコを買って行くような気がしたので、甘い物に飽きてしまうかなと思いまして」
「やはりしっかりと私のことを考えてくれていたのだな。屠自古は真面目だから、中途半端なことはしないと思っていたよ。一生懸命、私のために選んでくれたのだろう。私にとって、そのことが何よりも嬉しいんだ」
「本当に苦労しました。恨みます」
「ははは、恨まないでくれ。悪かった」
神子は声を上げて笑い、それから屠自古の目をまっすぐに見つめますと、
「屠自古、ありがとう」
屠自古にとって、その言葉は何よりも嬉しいものでした。彼女にとってそれだけで十分でした。今までの苦労も、全てが報われた気持ちです。
屠自古は何も言いませんでしたが、その代わりに深々と頭を下げました。
とそこで神子が、
「ふむ。せっかく私のために苦労してくれたのだから、何かお礼がしたいな」
「お礼、ですか。いえ、そのようなお気遣いは不要です。太子様のお言葉だけで十分に私は満足です」
「まあ、良いではないか。私が勝手にお礼をしたいのだ。素直に受け取って欲しい」
「太子様がそう言われるのなら、わかりました」
「うむ。……しかし、何が良いかな。こうしてみると、なかなか思い浮かばないな。チョコを選ぶ屠自古の気持ちがわかるようだ」
神子はしばらく考える素振りを見せていました。
「そうだな。とりあえず、里の方へでも向かおうか。そこで考えるとしよう」
と神子は言い、そういうわけで二人は外出する仕度を済ませ、里の方へと出向くことにしました。
人里にも重苦しい雲がのし掛かって、息を吐くと目の前は真っ白に濁るほどの寒さでした。二人はそれぞれコートを羽織って寒さを防いではいましたが、それでも顔や手は刺すような冷たさが襲ってくるのです。
屠自古はやはりいつもそうするように、神子の少し後ろを歩きます。
「何が良いだろう。何か希望する物はあるかい?」
「いえ……。私は何でもよろしいのです」
「何でも、か。こう言われると、本当になかなか困るものだな」
神子はそう言って笑います。
屠自古は、もうすでに望んでいるものが手に入っていました。彼女はただ神子と一緒にいられるだけで良かったのですから。
花屋を通った時です。神子が足を止めました。
そこには前見たときのようにサボテンが置いてありましたが、なんとそのサボテンは赤い花を咲かせていました。
「ほう、サボテンの花とは初めて見るが、なかなか綺麗じゃないか」
「本当ですね。確かにとても綺麗です」
屠自古は思わずかがみ込みその花を眺めます。凍えるような寒さにも負けず、小さく慎ましく咲いた花は、屠自古の気に入りました。花を咲かせただけであれだけ醜く見えていたサボテンが、まるで生まれ変わったかのように華やかに見え、そのことが屠自古を驚かせます。
神子はその花を見て、ふむ、と小さく頷いて眺めておりましたが、突然、
「決めた。さあ、行こう」
そう言って迷いなくどこかへ向かって歩き始めます。しばらく歩き、屠自古が連れられて入ったのは服屋でした。神子はもうすでに何を買うのかを決めていたようで、ほとんど悩む素振りは見せませんでした。
「前から屠自古は着飾った方が良いと言っていただろう。派手な物は好まないのは知っているよ。でも、これくらいなら身につけても良いだろう?」
神子が買ったのは真っ赤なマフラーでした。地味な色合いを好む屠自古には赤いマフラーは少し派手に思えましたが、付けて欲しいという神子の言葉に彼女は従います。
「ほお、思った通りだ。良く似合う。まるで花が咲いたようだ」
「本当……ですか?」
「うむ、そこに鏡がある。見てご覧」
鏡に映った自分の姿は確かに悪くなく、そのマフラーは深緑色のコートとも薄緑色の髪とも合っているように見えます。
「緑色に、赤色。まるで先ほど咲いていたサボテンのようですね」
「私には君がバラに見えるのだけど、君がサボテンだと言い張るのなら、それも良いだろう。サボテンだって十分に美しいのだから。そう思わないかい」
服屋を後にして、また里の通りを二人で歩きます。
バレンタインデーということもあり、通りには静かな高揚感が漂っているように感じられました。恋仲と思しき人々も、ちらほらと見かけます。
ふいに屠自古は頬に冷たさを感じ、何だろうと思いましたが、それはすぐにわかりました。
雪が空からふわりふわりと舞い降りて来たのです。辺りにいた人たちも雪が降ってきたことに気がつき、上を見上げてみたり、楽しそうな声を上げてみたりと、思い思いの行動を取っていました。
そして神子はそれを合図にしたかのように、こんなことを言うのです。
「屠自古。手でも繋ごうか」
屠自古はその言葉に驚き、神子の顔を見つめ返します。
「なに、周りを見ても手を繋いで歩いている者も多い。私たちが繋いでいても浮きはしないさ」
「あ、あの、しかし……」
「君にはできれば私の隣を歩いて欲しい。私はそっちの方が嬉しいんだ。だから、……ダメかな?」
屠自古はうつむきます。
「嫌ならいいんだ。無理強いはしたくない」
神子は残念そうに微笑みました。
いつもの屠自古ならきっと断っていたでしょう。しかしその時の屠自古はいつもとは違っていました。赤いマフラーを纏った屠自古は、花を咲かせたサボテンだったのです。
「太子様。さすがに手を繋ぐのは周りの目が気になってしまいますので……」
「そうか」
「ですが、その……」
そこで屠自古は息を大きく吸い込み、意を決して言います。
「もし、よろしければ、……お袖をお借りしてもよろしいでしょうか?」
そこで今度は神子の方が驚いた顔を見せましたが、すぐに表情を崩すと、そっと左腕を屠自古の方へと伸ばします。
屠自古は立っていた位置から半歩ほど前へ進みますと、神子の左腕の袖の部分を申し訳なさそうに、だけどしっかりと親指と人差し指を使って握りました。
それは小さな、サボテンの花ほど小さな勇気でしたが、確かに屠自古を前へと進めたのです。
神子の袖を握った屠自古は、見る見るうちに頬を赤く染め、そのマフラーの色にも負けないほどに赤く染め上がりましたが、神子にとってはその姿がたまらないほど可愛らしく見えたのです。
そうして、寄り添うような二人の姿は、雪の降る人里の中へと静かに慎ましく溶けて行きました。
時折、彼女が叱責する声を響かせることがありますが、その声はまるで雷でも落ちたかと思うほど激しく、その場の空気を切り裂き、叱責された方は一瞬にして縮こまってしまうので、弟子たちの間では大層怖れられていました。
こんな事を言うと、屠自古はただ怖れられているだけのように受け取られてしまうかもしれませんが、実際には面倒見の良さや、美しい見た目から、静かな人気がありました。
さて、屠自古はそんな気の強さとは裏腹に、女としての自分には自信が持てないでいました。自分には女としての魅力がないと、変な思いこみを抱いているのです。
桜のような華やかな可憐さも、藤のような大人びた美しさも、どちらも自分とは到底かけ離れたものだと思っていました。
以前、彼女と神子がこんな会話をしたことがあります。
「屠自古。君はもっと着飾っでも良いんじゃないか。今のままでも十分に魅力的だが、より一層華やかになるだろうに」
「いきなりそんな事を言って、どうしたのです?」
「なに、良い物を見つけてね」
神子は屠自古の前に桐で作られた箱を置きました。その箱を開くと、中からはとても美しい着物が出てきました。
「これなんか、君にとても似合うと思う。どうだい、着てみないか?」
「いえ、私が着るのにはあまりに煌びやかではありませんか。私に似合うとはとても思えません」
「そんなことはないさ。私は絶対に似合うと思う。着てみればわかるよ」
しかし神子が進めるにもかかわらず、屠自古はそっと首を横に振り、
「この着物だって、私のような地味な女ではなく、もっと華のある女に着て貰いたいと思っていることでしょう」
「屠自古には華があるじゃないか。私が言っているのだ、間違いはない。試しにこれを着て、外を歩いて来ればいい。そうすれば、すれ違った人々がたちまち振り返って君の後ろ姿に目を奪われることだろう」
「私が例えこの着物を着て外を出歩いたとしても、この着物の煌びやかさに私の姿は打ち消され、それを見て人々はきっとこう思うに違いありません。なぜ、着物が独りでに動いているのだろう、と……。それはあまりにも滑稽ではありませんか」
屠自古は静かに微笑みます。彼女の顔は蝋燭の火に照らされているにもかかわらず、黒衣を纏ったかのように顔全体を暗い影が覆っていました。その表情が彼女自身の言葉を何よりも如実に表していたのです。
神子はそっとため息を吐き、
「そんな卑屈になる必要はない」
「卑屈になっているわけではありません。私はただ自分の事をわきまえているだけです」
「それが卑屈だと言っているのだ」
残念そうに神子はもう一度ため息を吐きますと、
「もっと自分に自信持つべきだ。君は十分に美しいのだから」
その言葉にも、屠自古はただ黙って静かに頭を下げるだけでした。
二月上旬のこと。
屠自古は神子に連れられて里を訪れていました。里の様子を見て回りたいと、その日は布都を入れ、合わせて三人で人里を歩き回ることになったのです。
神子は人々の生活の様子をうかがうのを好んでいたので、時折こうして里にやって来ては行き交う人々の声に耳を傾けていたりするのを、布都は興味深げに、屠自古は黙って付いて歩きました。
その日はとても寒い日で、空には灰色の雲が立ちこめ、今にも雪が降り出しそうでした。それでも里には活気があり、多くの人々が通りを思い思いの足取りで歩いていました。
屠自古はいつもそうするように、神子の後ろを歩きます。神子の立っている位置からおよそ一歩分下がった所が、彼女がいる場所でした。彼女にとって、神子とは誰よりも敬う相手であり、誰よりも強い思いを抱いている相手でありました。それ故に屠自古は神子の横に並ぶようなことはほとんどしませんでした。神子には華があり、自分にはそれがないと思っている屠自古は、神子の横に並ぶようなことはおこがましいことだと感じていたのです。自分は影なのだ、影が横に並ぶのはおかしい、影は常に後ろにいなくてはいけない、と……。
もしその背中が倒れそうになったときに、後ろからそっと支えられたらいいと、屠自古はただそう思っていました。
布都が面白そうな声を上げたのは、花屋の前を通った時のことです。
「ほう、これはなかなか面白い物が置いてある」
花屋の前にはいくつもの植木鉢が置かれていました。布都は立ち止まってその内の一つに近づき、身をかがめて覗き込みました。気になったのか、神子も同じように布都の肩越しから覗き込みます。仕方なく屠自古も神子に習って目を向けますと、そこにあったのはサボテンでした。
「随分ととげとげしているな」
と布都はサボテンの棘を指で触ります。全身を棘で纏った姿は他の植物とはまったく違うものでした。冬ということもあって、花屋には他の季節と比べれば華やかさは欠けていたのでしょうが、それでも美しい花を咲かせて人の目を楽しませている物もある中で、そのサボテンは花を咲かせることもなく、全身に生えた棘を槍のように突きだしている様は、屠自古にはひどく醜く見えたのです。
「こうしてみると、まるで屠自古のようだな」
にやけた顔を見せながらそんなこと言う布都の頭を、軽くはたいてやろうかと屠自古は思いましたが、
「これこれ、あまりおかしなことを言うものじゃないよ」
と神子は注意します。しかし、その顔も布都と同じように、にやけていて、神子自身もそう思っている節が感じられました。
屠自古はぶすっと黙りました。
自分はそんなに刺々しいだろうか、確かに自分は愛想がいいとは言えなかったが、全身を棘で覆っているサボテンと比べられるのはあまりいい気分はしない、と心の中で思います。
しかし、それがもしそのサボテンの醜さを言っているのだとしたら、それは受け入れるしかないとも思っていました。確かに自分は花屋の中にあるサボテンのようなものです。神子には当然ながら及ばず、布都もああ見えてなかなか人目を惹く容姿であることは屠自古も認めるところだったので、もしそういった意味で似ていると言うのであれば、何も言えません。
と、神子が布都の隣に肩を並べますと、
「サボテンだって、こうして近くで見ると、なかなか可愛らしいじゃないか。うん、私は好きだよ」
そして、ちらっと屠自古の方へ目配せして見せるのです。屠自古はそれが自分を気遣った言葉だと気がつきました。聡い方です。表情一つみれば、その人が何を考えているのか理解する力を持っている神子が、屠自古の考えを読めないことはあり得ませんでした。
自分のことを気遣ってくれた神子の優しさに、屠自古は嬉しく思いながらも、気を使わせてしまったと申し訳なさも感じました。
屠自古はわずかに微笑んで頷くと、神子も優しげに微笑みました。
三人は花屋を離れ、また通りを歩きます。里の中でも特に大小様々な商店が軒を連ねている通りに出ますと、人々の活気がさらに増したような印象がありました。心なしか、いつもよりも店を覗く客が多く感じられるのです。特に若い女が多い感じがあります。
「ふむ、どうしたのだろうね」
神子が首を傾げます。しかし、その理由もすぐにわかりました。女たちが多く押し寄せている所を覗きますと、売っていたのはチョコレートでした。
「なるほど。そう言えばもうすぐバレンタインだったか」
バレンタイン。屠自古にとってそのイベントはなじみ深い物ではありません。知ってはいましたが、自分からチョコを送ったことなど一度もありません。
若い女たちは、色鮮やかに包まれたチョコを、熱心に眺めて選んでおりました。それぞれが思い人へ渡すのに、何が一番良いのかを悩んでいるのです。
思い人。屠自古にもそれに当たる人がいます。いえ、思い人などと言う言葉で形容できるようなものでもありませんでした。
千四百年。あまりにも気の遠くなるような時間を、彼女はその人が目覚めるのを待ち続けたのです。来る日も来る日も変わることない孤独の中で、彼女はただその人が再び自分の名を呼んでくれる日が訪れることだけを願って、内に秘めた思いを枯らすことなく、ひたすらに待ち続けたのです。
そして、その人は今、屠自古の目の前にいます。屠自古にとってこれ以上望むことはありませんでした。ただ自分はその人と一緒にいられればいい、ただそれだけが願いなのだ、と。
「屠自古」
と、その人――神子は彼女の名を呼びました。
「はい、何でしょうか」
「もうすぐバレンタインだね」
「はい、そうですね」
「期待しても良いかな?」
「……期待、ですか。一体何をでしょうか?」
「バレンタインで期待する物といったら、あれしかないだろう」
屠自古はそこで少しの間黙って、
「チョコレート、ですか?」
「うんうん。そうだ、私はチョコが食べたいのだ」
「でしたら、ここには多くのチョコが売っているようですので、太子様が気に入られた物を買っていかれたら良いのではないでしょうか」
「いやいや、屠自古よ。それは違うぞ」
神子は首を横に振って、
「私は君が選んだ物が食べたいのだ。手作りでもかまわないが、そちらは手間がかかるだろう。だから、売っている物の中から君が選んでバレンタインの日に私にプレゼントして欲しい」
「私が選ぶのですか……。太子様の喜ぶような物を選べるとは、私には思えませんが」
「どんな物だっていいんだ。屠自古が私のために選んでくれたというのが、何よりも価値のあることなのだから」
神子の頼みとあったならば屠自古も断ることができず、了承はしたものの、少々困ってしまいます。
「我も太子様にチョコを差し上げたいです」
そんな屠自古とは裏腹に布都は威勢の良い声を上げます。
「ほう、布都も私にチョコをくれるか。そうかそうか。では、二人とも期待しているよ」
神子は楽しそうに微笑みます。
そんなわけで、屠自古と布都は神子にチョコを渡すことになったのです。
その日から、二人の姿は対照的でした。布都の方は楽しそうでした。里の方へ出向いては、若い女たちの群れに混じっては、並べられたチョコをあれじゃない、これじゃない、と独り言をつぶやいては気に入った物が見つからないと、また場所を移動して同じことを繰り返すのでした。
一方、屠自古の方はと言いますと、こちらも同じように里へと出向くのですが、女たちの群れに加わることに戸惑い、意を決して何とか飛び込むものの、その熱気と力強さに押し返され、結局はほとんどまともにみることができません。
人気のない店ではチョコをゆっくりと眺めることができましたが、やはり人気がないだけの理由がわかるばかりで、しっくり来る物はありません。
そもそも、神子がどんなチョコレートを受け取ったら喜ぶのか、屠自古には皆目見当も付きませんでした。派手な装飾を凝らしたものが良いのか、それとも質素な見た目が良いのか、とろけるような甘いものかそれとも苦みのある大人な味のものが良いか、悩みは尽きません。
なぜ神子は自分などのチョコを欲しがるのだろう、と屠自古は思います。神子が自分を見てくれるのは従者としての姿だけであり、それ以外の情は持ち合わせていないと屠自古は信じて疑わなかったものですから、彼女にはその理由がまったくわからないのでした。
里の女たちは皆、少しでも自分を美しく見せようと化粧をしていました。中にはチョコの装飾にも負けず劣らず自分を飾り付ける女までいました。
屠自古は最低限の身だしなみには気をつけてきましたが、化粧にはほとんど感心が行きませんでした。その女たちの中に混じってチョコを選んでいると、ふと屠自古は花屋で見たサボテンを思い出しました。綺麗な花を咲かせる中で、花も咲かさず棘だけを身に纏っていた姿は、化粧をした華やかな女たちの中にいる今の自分とまったく同じように思えたのです。そして、屠自古は居たたまれなくなってその場を離れてしまいました。
何の収穫も得られず里から帰って来て、飾り気のない自室に入ってようやく肩の力が抜けた感じがしました。慣れないことをしたせいか、やたらと疲れたのです。
と、そこで扉を叩く音が響き、返事をすると布都が入って来ました。
「屠自古よ、太子様へ差し上げるチョコは選んだか?」
「いや、まだ……」
「やはりそうか。チョコと言えど、色々な種類があるものなのだな。我もこれというものが選べずに困った」
「うむ、そうだな」
「しかし、いくつか気に入った物もあった。明日また行って来ようと思う。お主はどうする?」
「わからない。少し疲れた」
「ふむ、確かに顔色が優れないように見えるな。まだ日はあるのだし、焦る必要はない。体を休めるのも良いだろう」
「……なあ布都よ、お前は楽しそうだな」
屠自古は思います。布都を見ていると、まるで野原を舞う蝶のようだ、と。
「なんだ。お主は楽しくないのか? せっかく太子様に気持ちを伝える良い機会だと言うのに」
「どんな物をお渡ししたら良いのか、まったくわからないんだ」
「そんなもの考えるまでもない。自分が良いと思ったチョコを、太子様にお渡しするだけだ」
布都は単純でしたが、その単純さが屠自古には羨ましく思えるのです。もし彼女がその単純さを持ち合わせていたら、何も迷うことはなかったでしょう。神子と一緒に歩くときも、後ろをではなく隣を歩いたことでしょう。
しかし自分に自信のない彼女は、神子の前ではとんと内気になってしまうのです。チョコ一つまともに選ぶこともできないほどに……。
布都が部屋から出て行った後、屠自古は窓の近くにある椅子に腰掛け、外へと視線を向けました。彼女はここから外の景色を眺めるのを好み、特に月が美しい光を放っている夜などにはそこにじっと座り、気が済むまで月を眺めていたりしたのですが、その日は残念ながら空には相変わらず寒々とした雲が伸び広がっているばかりでした。
人里の空は連日のように優れませんでしたが、同じように屠自古の顔も優れません。バレンタインの日が近づくにつれ、日増しにひどくなっているようにも見えます。決して神子への贈り物を選ぶことが嫌なわけではありません。可能な限り神子が喜んでくれる物にしようと屠自古も思いますが、その思いが逆に自分の判断を鈍らせるのです。
懸命に考えるのですが、はっきりとしたイメージは浮かばず、むしろ考えれば考えるほど、神子がチョコを受け取って喜んでいる姿が遠くへと離れていくような気がしました。まるで自分は霞を掴もうとしているかのように感じられるのです。
時間はなくなるばかりでしたので、少しずつ焦る気持ちが湧いて来ました。連日通い続けた結果、売り場に群がる里の女たちの中に切れ込んで行くだけの度胸は身につけたのですが、今必要なのはその先にあるチョコレートでした。
屠自古はいくつものチョコを眺めて、うんうんと悩みました。それこそあまりに熱い視線を送るため、その熱でチョコが溶けてしまうのではないかと思われるほど熱心に眺めておりましたが、結局これという物を選ぶことはできません。
神子はどんなチョコを求めているのか、自分はどんなチョコを渡せば良いのか、どれほど考えても答は見つからず、迷宮のより深くへと迷い込んでいるような気にもなります。
なぜ自分はこれほど迷っているのだろう、たかがチョコを選んで渡すだけなのに、なぜこれほど悩んでいるのだろうと、屠自古自身も不思議に思うことがありました。
いくつかの理由はあったのかもしれませんが、やはり彼女の自分への自信のなさが大きな原因だったのでしょう。神子が単純にチョコが食べたいと言ったのなら、彼女は迷うことなくチョコを選ぶことができたはずですが、バレンタインはチョコを渡して自分の気持ちを伝える日なのです。
屠自古は誰よりも神子のことを慕っておりました。しかし自分の気持ちを伝えるようなことは一度もしたことはありません。気持ちを伝えた所で迷惑にしかならないだろうと思っていたからです。そんな彼女の神子に対する遠慮が、チョコを選ぶ判断を鈍らせていたのです。
そうして悩んでいる内に日付はすでに二月一二日。今日を含めて後、二日しかなくなっていました。
もうこのままではらちが明かないと、自分で選ぶのは止めて、一番人気のある奴にでもしてしまおうかと思いまして、各所にある売り場の中でも一際混雑している所を選んで、そこで皆が何を買っていくのかを少し離れた場所から眺めることにしました。
とりわけ売れている物はすぐに見分けが付きました。近づいて確認しますと、ハートの形をした一口サイズのチョコで、それを八つほど薄ピンク色の袋に包んだ物が、次々と売れていきます。張り紙の方に味にもかなりのこだわりがある旨が書かれていまして、もうこれにしてしまおうと思い屠自古は手を伸ばしたのですが、そこでふと思い止まりました。
とても可愛らしいチョコでしたが、あまりにも自分には似合わない物のように感じたのです。もしこのチョコを神子に渡したとしても、なぜこれを選んだのかという理由を見抜かれるような気がしました。一番売れていたからと安易な理由で選んだのだと知られたら、それこそ神子を悲しませるようなことになってしまわないだろうかと思ったのです。
悩んだ末、結局そのチョコは買わずにその日も家路に就きました。
帰ってすぐに鼻歌を歌っている布都の姿が目に入り、その様子から布都の方はもうすでにチョコレートの準備はできているだと理解できました。あまり脳天気な顔を見たい気分でもなかったので、顔を合わさずにすぐに自室へと戻りました。
ここ数日、神子は屠自古に気を使ってかあまり姿を見せませんでした。単純に何かの用があったのかもしれませんが、どちらにせよチョコレートのことについて訊かれたくはなかった屠自古にはありがたいことでした。
まだ明日がある、明日見て回って決まらないようだったらあのチョコにしよう、と彼女はそう思いながら窓辺の椅子に腰掛けると、いつものようにそこから見える景色に目を向けました。窓の外の風景はここ最近ずっと変わらず、分厚い雲が空を覆っているだけでした。
次の日の昼頃、屠自古は里を訪れ、すぐにいくつかの売り場を見て回りました。それでも自分の力では選ぶことができず、屠自古は昨日考えた通り、人気のあったチョコにすることに決めました。
そのチョコの売っている辺りまで来た時のことです。おや、と屠自古は違和感のようなものを覚えました。昨日と比べ、明らかに人の姿がめっきり少なくなっているのです。違和感は嫌な予感に変わり、屠自古は急いでその売り場へと近づきました。
昨日のチョコは売り切れていました。
その事実を見て、彼女はがっくりとうなだれてしまいました。しかも、一番人気があった物に限らず、もうほとんどのチョコが売り切れており、残っていたのは溶かして好きに料理できる板チョコくらいでした。
あれだけ人気があれば、売り切れてもまったく不思議ではありませんでしたので、彼女は自分の浅はかさを後悔しました。しかし、後悔したところで売り切れてしまったものはどうしようもなく、彼女はしばし呆然とそこにたたずんでおりました。
すると、その姿が気になったのか、売り子の女の子が屠自古に話しかけてきました。
「あの、どうかされましたか?」
「ああ、いえ。その……。昨日売っていた物を買いに来たのですが、売り切れていたもので」
「そうでしたか。それは申し訳ないです。昨日の時点でほとんど売れてしまって、今日の午前中にはほぼ完売してしまいました。残っているのはここにある板チョコだけです」
と売り子は味の分かれた数種類の板チョコを手で示しました。
「そうですか……」
「あの、差し出がましいようですが、何か事情でもあるのですか?」
「いえ。ある人にチョコを渡すことになったのですが、自分では決められなかったので、それで売れている物にしようかと」
「なるほど、そうでしたか」
「しかし、売り切れとは困ってしまいました」
「ごめんなさい。でも、他のお店にならまだ売れ残っている物があると思います」
「今からまた他を当たるような気力は、私にはありません。少々疲れてしまいました」
屠自古が困った顔を見せると、売り子の女の子も困った顔を見せました。
「もういっそ、あきらめてしまおうか」
と呟いたとき、売り子は急に、
「それは絶対にダメです!」
突然の大きな声に屠自古は驚き、売り子自身もあっ、と自分の口元へ手をやりました。
「あ、あの私には事情とかよくわからないんですけど、それでもバレンタインなんて一年に一回しかないんですから、渡したいという気持ちがあるのだったら、絶対に渡した方がいいです」
「そうでしょうか。でも、私にはどんなチョコが良いのかわからないんです」
「どんなチョコだった良いんですよ。安かろうが高かろうが、そんなもん関係ないんです。一番大切なのは、気持ちなんです。その人に対する感謝の気持ちとか、その……好き、とかそういう気持ちがあれば、どんなチョコだって受け取った側は嬉しいものなんですよ!」
売り子の女の子は力強くそう言い、赤色の髪につけた鈴の髪飾りが揺れました。
その目はまっすぐ屠自古へと向けられ、真剣さが感じ取れました。この女の子は確かにそう信じているのだと、その眼差しだけでわかるほどでした。
「単なるお手伝いの私が言うのも何ですけれど、ここで売ってたチョコなんて他の所とそんな変わりませんよ。だから、そんなに気を落とさないで、今からでも遅くないですから、チョコを選んで、その人に渡してあげてください」
そして彼女は深々と頭を下げるのです。
「なぜ、そこまで……? まったく面識のない私に」
「だって、寂しいそうな顔をしていました。本当は渡したいんだろうな、って見ていてわかります。渡せずに終わってしまったらきっと後悔すると思うんです。だから、つい応援したくなってしまって……。迷惑だったでしょうか?」
屠自古はそっと首を横に振って、
「そんなことはありません。勇気づけられました」
「そうですか、それなら良かったです」
「どんなチョコでも良い、と言いましたよね。大切なのは気持ちだ、と」
「はい。私はそう思います」
その視線はまっすぐ屠自古を見ていました。屠自古はその女の子のことを信じることにしました。
「それなら」
屠自古は板チョコの一つを手に取り、
「これを頂けますか?」
「これ、ですか」
と売り子は少し驚いたような顔をしたものの、すぐに顔を戻して、
「はい、わかりました。あの少しお時間頂けますか。ラッピングしますので」
すぐに板チョコは可愛らしい包装紙で覆わられ、赤いリボンで結びつけられました。お待たせしました、と売り子は言い、屠自古はそれを大事そうに受け取ります。
「これでも喜んでくれるでしょうか」
「大丈夫です。絶対に喜んでくれるはずです」
「随分と自信がありますね。もしかして、ご自分はそういう経験があるのですか?」
屠自古が質問しますと、売り子の女の子は頬を少しだけ赤らめて、
「いえ、私はまだ……。ですか、その……本で読んだことがあります」
その言葉に、屠自古は可笑しくなってくすくすと笑ってしまいました。恥ずかしそうにしていた売り子の女の子も、同じように笑いました。
バレンタイン当日。
朝起きて、まず外の景色に目が行きました。外は相変わらずの天気で、屠自古がそっと窓に触れると氷のような冷たさが伝わってきます。
昨日買ったチョコは大事に取ってあり、問題はいつ渡すかでした。恐らく布都の方は早いうちに渡しに行くだろうと思っていたので、屠自古はその後に渡しに行くことにします。
窓辺の椅子に座り、時が過ぎるのを待ちます。しんと静まりかえった部屋の中に時計の針が刻む音だけが響き、時間の進みがとても遅く感じられました。
布都はもうチョコを渡しただろうか、まだだろうか、いやどちらにしてももう少し待つべきだろう、と落ち着かない気持ちで、時間が過ぎるのを待ち続けました。
そうして昼近くになった時です。とんとん、と部屋の扉が叩かれました。
まさか神子がやって来たのだろうか、と屠自古は急に緊張し、一度深呼吸をしてから扉を開けました。そこにいたのは、布都でした。
「なんだ、布都か」
「なんだとはひどいではあるまいか」
屠自古はふうと息を吐きます。
「我はもう太子様にチョコをお渡しして来たぞ。太子様も喜んでくださって、我は満足だ」
「どんなチョコをお渡ししたんだ?」
「選ぶのに苦労したのだがな、結局は大きい物にすることにした。太子様に対するお気持ちを表すには、やはり大きい方が良いかと思ったのでな」
どれほどの大きさなのかはわかりませんでしたが、それなりの大きさなのだろうと屠自古は思います。布都の行動は想像通りでしたので、別段驚きはありません。
「そうか。私も後で行くことにするよ」
「屠自古よ」
「ん、なんだ?」
「ちゃんと太子様にお渡しするのだぞ」
「どうしたんだ。そんなことを言って。するに決まっているだろう」
「一応、な。とにかく、太子様は待っておられる。お主がチョコを渡してくれるのを楽しみにしていることだけは、肝に銘じておけ」
布都はそう言い残すと、すぐに去っていきました。
「まったく変なことを言うやつだ」
と誰に向けるでもなく屠自古は呟きます。なぜ布都がそんな助言を残していったのか、その時の屠自古にはわかりませんでした。しかし、それはすぐに実感することになります。
あまり待たせるのも悪いと思いましたので、そろそろチョコを渡しに行こうかと、屠自古が昨日買ったチョコを手に持った時です。
途端に手が震えだし、そのチョコが異様なほど重く感じられるのです。このチョコで本当に良かったのだろうか、もっとしっかり選ぶべきではなかったか、もし喜んでくれなかったらどうしよう、と急に不安がやって来て、その不安に押しつぶされてしまいそうになります。
深呼吸をして落ち着こうとするも、なかなか体の方は言うことを聞いてくれません。
窓に手をつき、そこに映った自分の顔を見ます。弱々しく頼りない表情で、そこに映った顔は屠自古のことを見返してきます。
ただチョコを渡すだけだと自分に言い聞かせるのですが、手の震えは収まってはくれません。
できることなら、逃げてしまいたいとすら思いました。不安に負けそうになり、わけがわからないほど胸が苦しくなりました。
ここに来て何を弱気になっているのだ、この痴れ者が、と自分のことがどうしようもなく情けなく感じられるのです。
そこでふと、指に柔らかい感触があり、そちらへ視線を向けます。リボンの部分が指をくすぐっていました。
売り子の顔がぱっと頭の中に浮かびました。大切なのは気持ちなのだと力強く言っていた彼女のことを思い出し、手の震えが少し収まりました。ゆっくりと深呼吸をすると、少しだけ勇気が湧いて来るようでした。
「大丈夫だ。私は、あの子のことを信じる」
そして、もう一度顔を上げて窓を見ました。そこにはあの売り子と同じように真剣な眼差しをした女が映っていました。
「布都も言っていたじゃないか。太子様が待っていると。行かなければいけないんだ」
屠自古は心を決め、自室の扉を開けると、まっすぐ神子の部屋へと向かいます。どういう道筋で行ったのかあまり覚えていませんが、部屋へはすぐに着きました。そこでもう一度だけ深呼吸をすると、扉を二度ほど叩きます。
程なくして扉が開くと、神子が顔を覗かせました。
「ああ、屠自古。待っていたよ。さあ、入りたまえ」
「失礼します」
屠自古の部屋と違い神子の部屋は広々として、調度品があちこちに並べてありました。テーブルの上に、腕で抱えられるくらいの箱がおいてあり、どうやらそれは布都が持ってきたものだと屠自古は気付きます。
「ああ、うん。それは布都が持ってきてくれた物だ。なかなか美味しかった。ちょっと量が多かったけれど。……さて」
神子が屠自古の方を振り返り、
「チョコは持ってきてくれたかな?」
ここまで来たら、もう後には引けません。屠自古はそっと手に持っていたチョコを神子の方へ差し出し、
「はい。こちらです」
屠自古は渡すときに感謝の言葉を述べるつもりでしたが、あまりに余裕がなくすっかり忘れてしまっていましたが、そんなことを知らない神子は受け取ったチョコを興味深げに見つめます。
「袋を取ってもいいかな?」
「はい」
丁寧な手つきで、リボンをほどくと、なるべく紙を破かないようにそっとチョコを包んでいる袋を開けていきます。袋を取り終えると、神子は、
「ほほう、なるほど。そう来たか」
屠自古はもう神子の顔を見ることができず、じっとその場で下を向いていました。
「食べてもいいかい?」
「ええ、もちろんです」
ぱり、とチョコの割れる音が耳に入り、神子がチョコを口にしたのだと見なくてもわかりました。わずか数秒の沈黙でしたが、屠自古には耐え難い時間でした。しかし、自分のできることはしたと、これで何を言われても仕方がないと、彼女は思ってもいました。
屠自古、と名を呼ばれ、彼女はそこで静かに顔を上げます。
「うん、美味しい。飾り気のない、君らしいチョコだ」
神子はにっこりと微笑みました。屠自古はその顔を見てようやく心に立ちこめていた不安が晴れて行きました。ほっとして気が抜けたのか、涙がこぼれそうになり、何とか我慢すると、屠自古は言います。
「満足して頂けたでしょうか?」
「うん。もちろん大満足だ。君の気持ちが伝わってきたよ。チョコを選ぶのに苦労したのではないかい?」
「はい」
「散々悩んだあげくに、これを選んだのだろう?」
「はい」
「甘さが控えめなのが、ちょうど良かった」
「それは、布都がどうせ大きなチョコを買って行くような気がしたので、甘い物に飽きてしまうかなと思いまして」
「やはりしっかりと私のことを考えてくれていたのだな。屠自古は真面目だから、中途半端なことはしないと思っていたよ。一生懸命、私のために選んでくれたのだろう。私にとって、そのことが何よりも嬉しいんだ」
「本当に苦労しました。恨みます」
「ははは、恨まないでくれ。悪かった」
神子は声を上げて笑い、それから屠自古の目をまっすぐに見つめますと、
「屠自古、ありがとう」
屠自古にとって、その言葉は何よりも嬉しいものでした。彼女にとってそれだけで十分でした。今までの苦労も、全てが報われた気持ちです。
屠自古は何も言いませんでしたが、その代わりに深々と頭を下げました。
とそこで神子が、
「ふむ。せっかく私のために苦労してくれたのだから、何かお礼がしたいな」
「お礼、ですか。いえ、そのようなお気遣いは不要です。太子様のお言葉だけで十分に私は満足です」
「まあ、良いではないか。私が勝手にお礼をしたいのだ。素直に受け取って欲しい」
「太子様がそう言われるのなら、わかりました」
「うむ。……しかし、何が良いかな。こうしてみると、なかなか思い浮かばないな。チョコを選ぶ屠自古の気持ちがわかるようだ」
神子はしばらく考える素振りを見せていました。
「そうだな。とりあえず、里の方へでも向かおうか。そこで考えるとしよう」
と神子は言い、そういうわけで二人は外出する仕度を済ませ、里の方へと出向くことにしました。
人里にも重苦しい雲がのし掛かって、息を吐くと目の前は真っ白に濁るほどの寒さでした。二人はそれぞれコートを羽織って寒さを防いではいましたが、それでも顔や手は刺すような冷たさが襲ってくるのです。
屠自古はやはりいつもそうするように、神子の少し後ろを歩きます。
「何が良いだろう。何か希望する物はあるかい?」
「いえ……。私は何でもよろしいのです」
「何でも、か。こう言われると、本当になかなか困るものだな」
神子はそう言って笑います。
屠自古は、もうすでに望んでいるものが手に入っていました。彼女はただ神子と一緒にいられるだけで良かったのですから。
花屋を通った時です。神子が足を止めました。
そこには前見たときのようにサボテンが置いてありましたが、なんとそのサボテンは赤い花を咲かせていました。
「ほう、サボテンの花とは初めて見るが、なかなか綺麗じゃないか」
「本当ですね。確かにとても綺麗です」
屠自古は思わずかがみ込みその花を眺めます。凍えるような寒さにも負けず、小さく慎ましく咲いた花は、屠自古の気に入りました。花を咲かせただけであれだけ醜く見えていたサボテンが、まるで生まれ変わったかのように華やかに見え、そのことが屠自古を驚かせます。
神子はその花を見て、ふむ、と小さく頷いて眺めておりましたが、突然、
「決めた。さあ、行こう」
そう言って迷いなくどこかへ向かって歩き始めます。しばらく歩き、屠自古が連れられて入ったのは服屋でした。神子はもうすでに何を買うのかを決めていたようで、ほとんど悩む素振りは見せませんでした。
「前から屠自古は着飾った方が良いと言っていただろう。派手な物は好まないのは知っているよ。でも、これくらいなら身につけても良いだろう?」
神子が買ったのは真っ赤なマフラーでした。地味な色合いを好む屠自古には赤いマフラーは少し派手に思えましたが、付けて欲しいという神子の言葉に彼女は従います。
「ほお、思った通りだ。良く似合う。まるで花が咲いたようだ」
「本当……ですか?」
「うむ、そこに鏡がある。見てご覧」
鏡に映った自分の姿は確かに悪くなく、そのマフラーは深緑色のコートとも薄緑色の髪とも合っているように見えます。
「緑色に、赤色。まるで先ほど咲いていたサボテンのようですね」
「私には君がバラに見えるのだけど、君がサボテンだと言い張るのなら、それも良いだろう。サボテンだって十分に美しいのだから。そう思わないかい」
服屋を後にして、また里の通りを二人で歩きます。
バレンタインデーということもあり、通りには静かな高揚感が漂っているように感じられました。恋仲と思しき人々も、ちらほらと見かけます。
ふいに屠自古は頬に冷たさを感じ、何だろうと思いましたが、それはすぐにわかりました。
雪が空からふわりふわりと舞い降りて来たのです。辺りにいた人たちも雪が降ってきたことに気がつき、上を見上げてみたり、楽しそうな声を上げてみたりと、思い思いの行動を取っていました。
そして神子はそれを合図にしたかのように、こんなことを言うのです。
「屠自古。手でも繋ごうか」
屠自古はその言葉に驚き、神子の顔を見つめ返します。
「なに、周りを見ても手を繋いで歩いている者も多い。私たちが繋いでいても浮きはしないさ」
「あ、あの、しかし……」
「君にはできれば私の隣を歩いて欲しい。私はそっちの方が嬉しいんだ。だから、……ダメかな?」
屠自古はうつむきます。
「嫌ならいいんだ。無理強いはしたくない」
神子は残念そうに微笑みました。
いつもの屠自古ならきっと断っていたでしょう。しかしその時の屠自古はいつもとは違っていました。赤いマフラーを纏った屠自古は、花を咲かせたサボテンだったのです。
「太子様。さすがに手を繋ぐのは周りの目が気になってしまいますので……」
「そうか」
「ですが、その……」
そこで屠自古は息を大きく吸い込み、意を決して言います。
「もし、よろしければ、……お袖をお借りしてもよろしいでしょうか?」
そこで今度は神子の方が驚いた顔を見せましたが、すぐに表情を崩すと、そっと左腕を屠自古の方へと伸ばします。
屠自古は立っていた位置から半歩ほど前へ進みますと、神子の左腕の袖の部分を申し訳なさそうに、だけどしっかりと親指と人差し指を使って握りました。
それは小さな、サボテンの花ほど小さな勇気でしたが、確かに屠自古を前へと進めたのです。
神子の袖を握った屠自古は、見る見るうちに頬を赤く染め、そのマフラーの色にも負けないほどに赤く染め上がりましたが、神子にとってはその姿がたまらないほど可愛らしく見えたのです。
そうして、寄り添うような二人の姿は、雪の降る人里の中へと静かに慎ましく溶けて行きました。
全編にわたって屠自古のいじらさがたまりませんでした。
特にラストの袖掴みがもう。タイトルとあいまって最高でした。
文章も丁寧でとても読みやすかったです。
板チョコというチョイスは消極的ですが、まさに彼女にぴったりですね
そしてイケてますぜ太子様!
慎ましい屠自古は可愛いね。
良いみことじでした。
ホワイトデーを描いた続編を強く希望します・