ことばのない雪の日
表面に貼り付けられたラベルでものごとを評価したとき、人は本質を見失う。
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ある雪の日のことでした。雪といいましても、さらさらとおだやかに降りしきる粉雪ではなく、はげしい風とともに家の壁に吹き付けるような雪でした。人間も妖怪も瓦斯燈のあたたかな光に包まれた家に籠もり、そのほかのいきものも巣のなかで過ごしています。髪の毛の先までこおりついてしまいそうな空気のなかで、吹雪が風を切る音だけがしていました。
香霖堂の青年も例外ではなく、道具屋の特権とばかりに灯油ストーブを焚いて、ぬくぬくと本を読んでいます。普段から客のすくない香霖堂ですが、雪のためにその日は一人もいませんでした。しかし青年は気にすることもなく、ただ静かに分厚い本の頁をめくるのでした。ストーブがごうごうと唸るだけの沈黙の中で、ときおり紙擦れの音が響いていました。
朝からそんな様子が続いていましたが、昼になると吹雪はおおかた収まり、砂糖のようなこまかくやさしい雪に変わりました。元気のよい妖精が姿をあらわして湖の上を跳ねまわったり、たくさん着込んでまるくなった里のこどもたちがかまくらを作ったりし始めました。一方、香霖堂にはあいかわらず客の姿は見えず、あいかわらず青年は本を読んでいます。部屋の隅では灯油の少なくなってきたストーブの炎がゆらゆらと心細く揺れていました。
午後もよい時間になって、青年が分厚い本を閉じてほっと息をついたとき、ちりんと鈴の音がして香霖堂の扉が開きました。きっといつもの客だろうとそちらへ目を向けた彼は、驚いたように眼をぱちくりとさせました。お金の代わりに愚痴を払ってお茶を飲んでいく巫女でも、拾いものをなんでもおしつけてゆく魔法使いでもなく、そこには雪のような白い髪をした少女が立っていたのです。
少女は髪と同じ色のワンピースを着て、赤いマフラーを巻いていました。手足は細く肌は滑らかで、寒さのためか頬をかすかに染めています。ぱっちりと開いた眼は夏の空のように青く澄んでいました。
彼女は顔をマフラーに埋めたまま、青年に向かって会釈をしました。めずらしい客に青年はとまどっていましたが、少女の人なつこい笑顔を見て、おずおずと会釈を返します。すると少女はいっそう嬉しそうにして、カウンターの前に据えられた椅子に座りました。マフラーを外してきっちりとたたみ、膝の上に乗せると、にこにこしながら青年の顔をただ見つめるのでした。青年はますます困ったような顔をして、何か用があるのかな、と声を掛けましたが、少女はあざやかな色の瞳を輝かせたまま何も答えません。すると彼は青い眼を見て何かに思い当たったのか、本で読んで知った程度のつたない英語を話しました。少女は身振り手振りを交えながらつっかえつっかえしゃべる青年を不思議そうに眺めて、やっぱり微笑むのでした。
ことばが話せないのかしらんと、青年は紙と筆を取り出してなにごとか書きつけ、少女に差し出しました。筆談を持ちかけたのです。彼女はそれを受け取ると、筆を取ってさらさらと書きものを始めます。流れるように筆を動かす様子を青年は期待をこめて見守っていましたが、できあがったものを見てみますと、水墨画のタッチで描かれた青年の絵があるのみでした。その似顔絵の上手いことは、妖怪の山に住む天狗が写真代わりに使いたいと言い出すのではないかというほどにたいそうなもので、青年はただただ驚くのでした。
ことばも文字もできないとなると、少女の用件を聞くことはできませんから、青年は店にあるいろいろなものを見せることにしました。道具屋であるために、ものは十分すぎてあふれかえるほどあります。そのなかに一つくらいは彼女を満足させるものがあるだろうと青年は思ったのでした。
まずはコマを取り出して渡しました。少女は興味深くいじっていましたが、使い方がわからなかったようで、そのうち放り出してしまいました。青年が取り上げて回しますと、まるで舞妓さんがおどるようにくるくると綺麗な文様を描きましたが、どうやら少女のお気に召さないようでした。つぎに万華鏡を引っぱりだして覗きこむよう少女の目にあてがいますと、反対側の眼がぱちぱちと瞬き、驚いているのがわかりました。くるくると筒をまわしてやればきっと絢爛ないろどりを見せたでしょう。鏡の生む対称性と組み合わせることでたまさかにあらわれる模様とは美しいものです。しかし少女はむしろその模様をつくり出しているきらきらとした石に興味があったようで、万華鏡の底をつんつんとつつき、とうとう薄い和紙に穴をあけてしまいました。細い指程度の穴からでも、小さな石は転げ落ちてゆきます。ぱらぱらと雨のように散るそれは、道具のこわれるうつくしさといいましょうか、さびしさやはかなさのなかで燦々と輝くようでした。少女のおおきな瞳には、その彩雨がはっきりと映し出されていました。
青年はそれからさまざまなものを渡してみせましたが、どれも本来の使い方をされることはありませんでした。おはじきは飴と間違えて口に含みそうでしたし、笛はくるくると振り回すにとどまり、竹とんぼもついぞ空を飛びませんでした。青年は困り果ててしまいましたが、どうしてか少女は楽しそうにしています。錦糸の髪をカウンターに垂らし、陶器の肌をほんのりと赤くしながら、頬杖をついて微笑むのでした。
結局少女の求めるものはわかりませんでしたから、代わりに絵の具と画用紙を渡しました。先ほど少女が墨で描いた絵は、なかなか強く青年の中に印象付いていたのでした。筆を握った彼女は、しばらく十二色の絵の具が乗ったパレットを眺めると、やがて画用紙に向かいました。ためらうことなくぺたぺたと画面に色を乗せてゆきます。一刻もしない内に少女は描き上げると、画用紙を青年の方に向けました。
そこには青年の渡したコマが描かれていました。赤と青の綺麗な文様がはっきりとあらわれた、華やかなコマの絵でした。少しさわって放り出してしまいましたから、少女にはつまらないものでしかなかったのだと残念に思っていた青年は、彼女が回るコマのうつくしさを表現したことに嬉しくなりました。にこにこと笑う少女の頭をくしゃくしゃと撫でてやり、青年は筆を取って絵の下に『コマ』の二文字を書きました。コマって言うんだよ、と絵を指さして言うと、少女は笑顔のまま目をぱちくりとさせました。彼のことばが伝わっているとは思えませんでしたが、それでよいと青年は思っていました。
少女が絵を描くたびに青年はその名前を書き、口にしました。そのやりとりはとても静かでしたが、絵を描いている間のしじまは決して気まずいものではなく、しんしんと雪の降る日によく似合ったもので、出会って間もない二人をやわらかく包んでいました。寒さでこおりついたかのように時間はゆっくりと進んでゆくのでした。
少女はたくさんの絵を描きました。万華鏡も、そこからこぼれ落ちた石がなした彩雨ような様子も、飴玉のようなおはじきも、笛も竹とんぼもすべて彼女の水彩画の中に克明にあらわされました。店の隅に追いやられていたようなつまらぬものも、少女の手にかかれば透明感を持ったうつくしきものに変わるのでした。その様子をずっと眺めていた青年は、やがて筆を置き、口をつぐみました。少女の天才性にことばは必要ないと気付いたのです。
青年は、すばらしいものはそれに見合ったことばで以ってあらわされるべきだと、豊かな比喩や表現を用いて装飾することでものはより良くなるのだと信じていました。しかしそれは青年のある種のあきらめによるものでした。あらゆるものは媒介を通すことで劣化します。目にしたものをことばに変えて認識した時点で、そこから本来のうつくしさは失われますから、完璧に純粋な表現は存在しないのです。だから青年はことばで飾り立てることにより埋め合わせようとしていました。
しかし目の前に座る少女は違いました。ことばを捨てることで、何の媒介も通すことなく純粋にもののうつくしさを描き出しているのでした。誰もが越えられなかった、表現の前に立ちはだかることばという壁を楽しげに筆を走らせて乗り越えてゆくこと。それこそが彼女の天才性なのだと気付いた青年は、少女にことばを投げかけていたことを恥じました。
不意に青年は寒さを感じます。それまで二人をつつんでいたしずけさが、時間の代わりにこおりついてつめたくなりました。窓を覗くといつしか雪が強くなっており、一寸先も白くぼやけているようでした。部屋を見渡すとストーブの炎が消えており、瓦斯燈もちろちろとした小さな光に変わって、店を照らす力を失っていました。青年は寒さに震えながら店の奥にある灯油のタンクを持ち出し、空っぽになったストーブのタンクと入れ替えました。
かじかむ手でマッチを擦ろうとしますと、瓦斯燈が消えました。店が雪の日の午後の独特な暗さと沈黙につつまれます。青年はじわりじわりと背後に忍び這うような冷気を感じました。おそるおそる振り返りますと、マフラーを巻いた少女が後ろに立っています。薄暗くて表情は読めませんでしたが、青い瞳がぎろりと光っていました。
青年は必死にマッチを擦ります。それまでにこやかに笑っていた少女に恐怖を感じ始めていました。あの純粋な絵にも人間離れしたおそろしさを抱きました。きっと彼女は妖怪なのだ、うつくしい絵で人をまどわせて食べる気なのだと。ようやくついたマッチの炎をストーブへ近づけた直前に、青年は小さな声を聞きました。
「 」
聞き返す前にストーブに火がともり、あたたかな熱と光に店がつつまれました。振り返ると少女は消えていて、氷が溶けたような水たまりと、赤いマフラーが残されていました。つめたく濡れたマフラーを取り上げると、水に浸かりかけた紙がありました。少女が最後に描いた絵です。
そこには青年の肖像がありました。ことばが通じないとわかって筆談を持ちかけたときのそれに色をつけたものでした。濡れて滲んでいましたが、少女とは違ってくすんだ白い髪と、くたびれた眼鏡の奥に覗くよどんだ金色の瞳が、彼女の手によってうつくしく描き出されています。傍らには青年の細く斜めに傾いだ文字があり、その下にふと彼は小さくまるい文字を見つけました。
そしてそれを読んだ青年は、自分のおこなったことに後悔を覚えるのでした。
「何かご所望ですか? ──わたしのすきなことができるじかんとばしょでした、ありがとう」
†
──ある晴れた冬の日。
「おっ珍しいな。香霖が芸術鑑賞か」
「失礼な言い方だね。それと窓を閉めてくれるかな」
窓から飛び込んできた魔理沙に霖之助はそう言った。カウンターには画用紙が散らばり、コマや万華鏡の絵が描かれている。
「へぇー上手な絵。こんなの描けるような人なんかいたっけ」
「いるもんだよ、意外と」
霖之助は絵を取り上げながらその素晴らしさや魅力を語り始めた。彼特有の薀蓄を織り交ぜた語りは流れる川のように続き、一方で魔理沙はあくびをしながらストーブの炎を見つめていた。
「……つまり、この絵は人間が突き当たった壁である言葉を超越した作品なんだ。たぶんこれを描けるのは彼女のほかに一人としていないね。断言できる」
彼は喋り終えると、絵を魔理沙の前に突き出した。彼女は絵をぐいと押し下げ、つまらなそうな目をして言った。
「描いた人がどうたら背景がどうたらなんてごちゃごちゃしたこと考えなくても、綺麗なものは綺麗なものだろ。素直にそう言えばいいじゃないか。そんなんだからその『彼女』に逃げられたんだよ」
霖之助は心底驚いたような顔をした。どうせ皮肉で返されるだろうと思っていた魔理沙は、その顔を見て驚き、少し傷ついた。
「え? 図星か?」
「……うるさいな。それより窓を閉めてくれ」
最後の少女の消える儚さが好きです。
ただ、少女が誰なのかと考えてしまいましたので、“こんなところに来る変わり者は大概知っているはずだが、この少女に見覚えは無かった”というような一文があってもいいかなと。
風流は割と破滅と共にやってきたりする
そういう破滅の使者になるかも知れない危うさが日本の文化にある気がします
雅のようで陰険なでも確かに雅な何か
文章力凄いですね!