一.五話 解夏
雲山のことをみんなにどう伝えようかと思案しながら坂を下っていると、不意に後ろから「止まれ」という彼の声が聞こえてきた。さっきまで大笑いしていたとは思えない程、深刻で暗い声色だった。
「どうしたの?」
振り返って尋ねてみても、雲山は答えない。じっと遠くを――ちょうど、わたし達の住んでいる寺のある方角を睨み付けていた。彼の視線の先では夕日が地平線の向こうに消えかかり、空の高い所は既に濃紺色に染まっていた。いつもなら、その濃紺の上にぽつぽつと小さな星の光が見えるはずなのだが、今日は大きな黒灰色の雲が、空の高いところで夜の色と光を覆い潰すようにどっしりと浮かんでいた。
「一雨、来そうだな」
雲山は何故か苦々しげに、絞り出すように言った。
「雨は嫌い?」
わたしの質問に、雲山は答えなかった。ただ静かに、眉間に皺を寄せて目を瞑ったまま浮き止まっていた。
「雨が嫌いなら、早く帰りましょ?」
雲山はそれにも応えなかった。何かを考えているようだが、一体何をそんなに考えているのだろう。もしかして、どうやって和尚に認めてもらおうかを考えているのだろうか。
そう思って、彼をよくよく見てみれば、風も吹いていないというのに、その身体が小刻みに震えていることに気付いた。
「あなた、震えて――」
わたしがそこまで言いかけた時、ビュウッと、突然強い風が吹いた。
「お主はここにおれ」
雲山は短くそう言い残し、強風に吹かれるままわたしの目の前から消えた。
「……どういう意味?」
わたしの四度目の問いにも、彼は答えなかった。
そして、もう一度、強い風が吹いた。
その風に乗って、まるで何かが腐ったかのような微かな臭いが鼻を突いた。
(なに、これ……)
嗅いだこともない程の刺激臭だった。まるで、肥溜めに腐った肉を投げ込んだような臭いだ。風に運ばれてきたのはほんの微かな臭いだったにもかかわらず、全身が嫌悪感で震え、胃の腑の底から吐きそうになる。
だが、何故、こんな臭いがわたし達の寺の方角からするのだろう。
――とてもつもなく、嫌な予感がした。
だから、わたしは走った。この胸に湧き上がる焦燥感が何故なのかは分からない。でも、急がなければならない気がする。早く、みんなのところへ行かなくちゃいけない気がする。
泥に足を取られても、小石に躓いても、木の根に足を引っ掛けても、わたしは立ち止まらず、転ばず、走り続けた。
(早く、早く、早く!)
寺に近づくにつれ、あの腐乱臭はどんどん強くなる。手で鼻を覆っても摘まんでも効果がない。
開かれた門の向こう側に寺の本堂が見えた今では、腐乱臭に混じって錆びた鉄のような臭いもしてきた。それが何の臭いかなんて、わたしには分からない。血みたいな臭いだけど、そんな臭いがする理由なんてないのだから。だから――わたしには分からな――。
「消え去れ!ガキどもが!」
その声はまるで、雷が落ちたかのような轟音だった。空気全体を振るわせるような、強い怒りの声だった。実際、その声とほぼ同時に地面が砕けるような衝撃音がし、大地がぐらりと揺れた。
「ギギャッ」
次に聞こえたその音は、真夏のセミのように――いや、それよりも遥かに耳に触るしゃがれた音だった。その音を聞くだけで、再び全身を嫌悪感が駆け巡った。こんな感覚、初めてだ。こんな音を出すモノを、わたしは知らない。
「その手を離せ!」
雲山の怒号と共に、わたしの視界に二つのモノが飛び込んできた。
一つは、雲山の握り拳だった。門の庇程の高さに浮かんだ雲山が地面めがけて、さっき別れた時よりも赤みがかったように見える桜色の拳を、地面に立つ無数の『モノ』に対して放っていた。拳が地面に激突すると共に、凄まじい衝撃が突風を巻き起こし、砕かれた地面の破片を散らした。
もう一つのモノは、その輪郭だけなら、人間の子どものような形をしており、地面に中腰で立っていた。だが、間違いなくソレは人間ではなかった。
沈みかけた夕日に照らされた肌は光沢のない灰色で、禿げ上がった頭の下に丸く飛び出た両目は真っ赤に燃えて、赤く汚れた口元には鋭い牙が生え揃っている。服はおろか布きれ一枚さえも身に着けておらず、そうして晒された皮膚の下からは全身の骨がくっきりと浮き出ているのが見て取れ、四肢も細くまるで枯れ木の枝のようだった。その一方で、腹だけは不自然な程にでっぷりと大きく膨れ上がっている。そして、その身体からは先ほどから感じている強烈な腐乱臭と生々しい血の臭いが漂ってきていた。
その姿を、わたしは妖怪絵巻の中で見た記憶がある。確か、その名は餓鬼。元々は六道の一つである餓鬼道を、強い渇望に取り憑かれた亡者がその末路として体現するようにして生まれた妖怪だと言う。永遠に満たされない欲望を持ち、その欲望にひたすら忠実に動くバケモノだ。肉を求めては目の前の全てを喰らい、水を求めては尿さえ啜り、物を求めては目に留まる全てを強奪し、色を求めてはどのような生き物にでも腰を振る――。
そんなバケモノが、数えきれない程わたしの目の前に、門の中にいた。わたしがこうして見ている間に、更に何匹ものソレが本堂の戸を破って続々と飛び出し、雲山に飛び掛かって行く。今すぐ視界から消し去りたい程醜悪な姿にもかかわらず、わたしはソレから目を離すことが出来なかった。
一匹の餓鬼が、その赤く染まった口元に、白く小さな人間の子どもの腕のような物を咥えていたから。
(なんで、そんなもの咥えているの?)
「ギャッ――」
次の瞬間には、その餓鬼は横なぎに放たれた雲山の拳に捕まり、その身体を握り潰されていた。短い断末魔と共にその骨は無残に砕かれ、赤黒い血しぶきが握りしめられた雲山の指の隙間から滝のように滴り落ちた。身体から離れた頭部はどさりと地面に落下し、反動でその醜い口から小さな何かが解き放たれた。
「一輪、何故来た!」
身体を赤黒く濡らした雲山が、門前に立ち尽くすわたしに声をかける。「あそこにいろと言っただろうに……」
視界の端で、雲山がこちらに近づこうとしたのが分かった。しかし、わたしは、彼の方を見ることが出来なかった。わたしの視線は、今さっきまで蠢いていた餓鬼の視線とぶつかっていた。引きつったように歪んだ口と飛び出た両目、死んで動かなくなったその顔は、まるで泣いているように見えた。
「どうして殺した?」
そう言って、今にも涙を流し出して絶叫しそうにさえ見えた。
「何よ……なんなのよ……。あんた、一体なんなのよ!」
わたしがどんなに叫んでも、死体は何も応えない。
「一輪、お主は、見なくても良い」
雲山は風のような速さでわたしの目の前に駆け付け、わたしの視界全部を覆うようにして門の正面で制止した。
「……しばし、耳を塞ぎ、目を瞑っておれ」
雲山の声が静かに響く。だが、わたしは耳を塞ぐことも目を閉じることも出来なかった。耳の奥では、あの醜い妖怪の耳触りな断末魔が、ギャーギャーと鳴り響き続けていたから。瞳の裏には、血まみれの餓鬼の生首と、あの白い腕のような何かがしっかりと焼きついて離れなかったから。
(あの白いものは、なに?)
わたしの疑問に、どこかで誰かが「人間の腕だ」と答える。
(そんなわけない。だって、あんな所に腕があるわけないもの)
わたしは即座に否定する。人間の腕が、あんな小さな腕が、普通地面に落ちているわけないもの。
(餓鬼は人間さえも食べるのよ。そして、ここには人が住んでいる)
誰かの声はさっきよりもはっきりと聞こえてきた。
だから、何。何なの?
(こんな騒ぎになっているのに、さっきから他の人間の声は一言も聞こえてこないでしょう?つまり、もうここには誰もいないということなのよ。あの腕は、ここの人間の腕だということなのよ)
ここの人間?ここのにんげんッテ、ダレ?コレハ、ダレ?
(そんなの、決まっているでしょう?二葉の手は、確かもっと日焼けしていたと思うもの。最近はそれが普通になってしまったから、特別目に留まる程黒かったかは分からないけれど、少なくともこれはそうじゃない。こんな、まるで日中勉強していて外に出てないような色の小さな手の持ち主は「ここ」には一人しかいないわ。もう、彼以外、いなくなってなってしまうのよ……)
「……三郎は、どこ?」
気付いた時には、わたしはそう言っていた。いつの間にかわたしは、三郎がいないかもしれないと思っていた。あの腕を遺して、消えてしまったと思ってしまっていた。
雲山は、何も応えなかった。何も応えず、黙々と拳を放ち続けていた。地面が砕かれる音と共に、餓鬼の短い断末魔と骨の潰れる音だけが、真っ黒な空に何度も何度も響き渡った。
そうして、どれぐらい経ったであろうか、雲山の拳が振られる音が、唐突に止んだ。それと同時に、上空から若い男の声が降ってきた。
「まさか臆病者が出張っているなんてねぇ」
声に釣られるままゆっくりと視線を上げれば、人間の男と見られる人影が一つ、はるか上空に浮かんでいた。暗くてよく見えないが、肩にあの餓鬼が入る程の大きさの袋のような物を担いでいた。
「餓鬼が帰って来ないから何かと思ったら……まさか入道が人間のがきんちょを守っているとは思いもしなかったよ!」
その男の声は軽薄で、こちらの神経を逆なでするような響きを持っていた。
雲山は何も言わず、その男に拳を放った。凄まじい速度で放たれたそれに男は真正面から殴りつけられ、真っ直ぐに地面へ落下した。しかし、舞い上がる砂煙の中からは、すぐになんでもないかのような男の声が聞えてきた。
「何でかなぁ。何でそっち側なのかなぁ」
「黙れ」
雲山は、男の落ちた所目がけて、躊躇なく再び拳を放った。
「……おぉ、怖い怖い。でもまぁ、これで終わりだけどね」
その声と共に、突如目の前が真っ赤に燃え上がった。木の燃える臭いが、火の粉がぱちぱちと散る音が、雲山の向こうから聞こえてくる。
「火が盛るには良い夜だね。さらば、また逢う日まで」
上空から、再び男の声が聞こえてきた。再び見上げてみれば、炎に照らされたその顔面には顔全体から頭部にかけて酷い火傷の跡があるのが見て取れた。不気味なほど、口角を歪ませて笑う男だった。
雲山が沈黙の内に放った拳を、今度は空中でひらりと躱し、火傷男は空の闇に吸い込まれるようにして消えた。後に遺されたのは、燃え盛るわたし達の家だけだった。
「逃がしたか……」
雲山は、心底悔しそうにそう言った。
でも、わたしにはその言葉の意味がよく分からなかった。彼が何を逃がして、何故悔しそうにしているのか、さっぱり分からなかった。分からないと言えば、どうして今わたし達の家は燃えているのだろう。まるで世界全部を焼き尽くそうとしているみたいに猛烈な勢いで炎上しているけれど、何故なんだろう?と言うかそもそも、みんなはどこだろう。こんなことになっているのに、全く、どこに行っているのやら。このままじゃ、お寺が燃え尽きちゃうんだけどな。ねぇ、このままじゃあ何もかも、全部、無くなっちゃうよ……?
せめて、雨でも降ってくれたら、火も消えるのになぁ。そんな風に思い、空を見上げたわたしの額に、ちょうど冷たい滴が降ってきた。
ポツ、ポツ、ポツ――。
わたしの願いが通じたのか、真っ暗な空から静かに雨が降ってきた。あの黒い雲は、どうやら雨雲だったらしい。
「よかった。これで、火も消えてくれるよね」
「………」
雲山は、何も応えなかった。何も言わず、わたしの上に大きな手を翳した。
「みんな、何してるのかなぁ。こんな大変なことになってるのに」
「………」
「お寺の中にいたら、危ないのにね。なんで、出てこないんだろうね」
「………」
雨が、段々と強くなってきた。ザーザーと激しい音が、わたしの独り言を掻き消していく。
「おーい!みんなー!お姉ちゃんが帰って来たよ!」
雨に負けないように、門の外から大きな声で叫ぶ。
「………」
返事はない。雨もうるさいし、少しだけ声が震えてしまっていたせいで聞こえなかったのかもしれない。今度は、もっと大きな声ではっきりと言おう。
「おーい!」
今度も返事はない。代わりに、空がビカリと光り、直後にゴロゴロと鳴いた。
「空は返事してくれるのになぁ。どうして誰も返事をくれないんだろう」
みんながわたしを置いて出かけるとも考えにくいし。
「どうして、誰も迎えに来てくれないんだろう」
まさか、あんな妖怪や男に、和尚が負けるわけないし。
「どうして、かな……」
みんな、わたしを一人ぼっちにしたりしないはずなのに。
「……ねぇ、どうして?」
わたしが守るって言ったじゃない。二葉だって、一緒に守るって言ってたよね……?
「ねぇ……どうしてなの?」
どうしてわたしは、最悪の妄想を否定できないの?
「どうして……」
誰も、わたしの問いに答えてはくれなかった。雲山は沈黙を守り続け、雨は喧しく降り続け、雷はゴロゴロと鳴り続けた。他に聞こえる音は、時折吹く強い風の音と、木の葉が揺さ振られこすれ合う音ぐらいだった。その事実が、わたしにとっては何よりの答えだった。
雨は、少しは弱まったものの、空が少し明るくなってからも止むことはなかった。おかげで火は消えたが、寺は骨組みがかろうじて見て取れるほどしか残らなかった。内部は真っ黒にスス汚れ、門の外からでは何が何だかわけが分からなかった。敷地内にはあちこちに赤黒い染みが残っており、それらは雨で広がって、辺り一面血でできた海のようになっていた。その海の上に、灰色の残骸と、赤黒く汚れた……人間の……子どもの…腕が、ぽつりと浮かんでいた。
わたしは、確かめなければならない。この門の中に入らなければならない。頭ではそう分かっているのに、身体の震えが止まらない。両足はまるで、地面に縫い付けられたように動かない。
――どうしてか、分かっている。この中に入って何もかもを見てしまえば、何もかもを認めざるを得なくなってしまうからだ。逆にこのまま何も見なければ、空虚な可能性を信じ続けられるのだ。まだ、何が起こったのか分からないわたしでいられるのだ。
(あぁ、ほんと……わたしは弱いなぁ……)
もう頭の中ではとっくに、この惨状を理解しているのに、わたしの心はそれを認めようとはしない。
わたしは、弱い。誰も守れず、何も認められない。心も体も弱い、ちっぽけな人間だ。
「一輪、恐いのか?」
雲山がわたしの頭にその大きな手を置いた。重みのある温かな手だった。
「恐れても良い。恐れは悪ではないのだから。だが、死者の弔いは生者にしか出来ぬ」
――あぁ、そうか。わたしが彼らの死を否定すれば、彼らの死を悼む者はこの世に一人もいなくなってしまうんだ。
目を瞑れば、まだ彼らの姿も、その声も思い描くことが出来る。わたしよりちょっと背が低くて、活発で、いたずらっ子で、でもどこか憎めない二葉のことも……二葉よりも体が小さくて、泣き虫で、ちょっと頼りないけど、毎日和尚の隣に座って熱心に勉強していた三郎のことも……そして、わたし達を常に見守っていてくれた大きな和尚の姿も……。
二葉も三郎も、あんなにいい子なのに……実の親に捨てられて、あんな妖怪に殺されて、それで、誰にも弔って貰えないだなんて、そんなのあんまりだ。そんなの、あまりにも可哀そう過ぎるじゃないか。和尚だって、自分だけが弔ってばかりだなんて、不公平だ。
――そもそも、彼らがこんな目に遭うこと自体、不公平じゃないか。
「……今、行くよ」
わたしは意を決し、雲山の手の下から一歩を踏み出した。
門の中は、ひどい有り様だった。足元を赤く濡らしながら辺りを見渡せば、全身が血の臭いと腐乱臭に包まれた。その臭いたるや、ほんの少し呼吸をするだけでむせ返らずにはいられない程だった。きっと、戦場ではこんな臭いがするのだろう。雨のおかげで、恐らくこれでも抑えられているのだろうが、それでもひどいものだった。このままずっとここにいたら、この臭いに染まって、戻れなくなってしまいそうな気がする。
その臭いに耐えながら、わたしはあの白い腕の下に辿り着いた。
それは、肘から先の、人間の子どもの右腕に間違いなかった。ところどころ泥と血に汚れ、腕の膨らんだ柔らかな部分には餓鬼の牙の跡が痛々しく残っている。それが、地面に打ち捨てられたまま、何の抵抗もなく雨に晒されていた。
改めて見れば、それが誰のものかなんて明白だった。それでもまだ、どこからかそれを否定したがる声がする。
(ちょっと、似ているだけで、もしかしたら偶々訪ねて来てた誰かのかもしれない)
たとえ、もし仮にそうだとしても、わたしは「じゃあ良かった」と言えるの?知らない誰かなら、喰い殺されても良いと言えるの?
(わたしは、そんなに悪い子じゃない……)
たとえこれが誰のものでも、二つだけ、確かなことがあるのだから。
一つは、あの餓鬼によって喰い殺された子どもが確かにいるということ。そしてもう一つは、わたしはその子どもを守ることが出来なかったということだ。
それで「良かった」なんて、言えるわけがない。
「雲山、他には……誰かある?」
わたしは白い腕から目を離し、雲山に尋ねる。雲山は頭を左右に振り、その大きな頭を垂れた。
「すまん。わしが守れたのは、それだけだった」
雲山は、泣いていた。雨に濡れているからではなく、その両目から確かに涙が零れ落ちていた。
「……あなた、変な妖怪ね」
人間の肉体を妖怪から守ろうとして、涙を見せるだなんて。しかも雲山はわたしと出逢うまで人を少なくとも六人は喰い殺した正真正銘の人喰い妖怪だというのに。それなのに、彼はわたしを守って戦ってくれた。結んだ誓いを、守ってくれた。
――人間のわたしは、二葉との約束を破ってしまったというのに。わたしはまだ、泣けないというのに。
(これじゃあ、どっちが妖怪か分からないよ)
もしも、わたしにも彼のような力があれば、みんなを守ることが出来たのだろうか。こんな思いをしなくて済んだのだろうか……。
結局、ここには白い腕以外の人間のカケラはなかった。寺の中にも、燃え残ったいくつかの家財道具や法具が遺されているばかりだった。
「……みんな、もうどこにもいないのね」
雨は、まだ止まない。弱まる気配もない。とても冷たい雨だった。きっとこのまま打たれていたら、風邪を引いてしまうだろう。
しかし、その冷たさが、今のわたしには心地良かった。滴が身体に当たる度に、頭が冴えてくる。心が、冷たく研ぎ澄まされていく。
もう、誰もいないのなら、わたしには生きていく理由なんてない。今すぐにでも死んでしまいたい。死んで、また彼らの家族に生まれ変わりたい。
――でも、それで良いのだろうか。この苦しみから逃げてしまって、良いのだろうか。何も守れないわたしのまま生まれ変わって、幸せになれるのだろうか?
「なれないわよね……」
――いや、そもそもわたしは、幸せになって良いのだろうか。誰のことも守れないわたしを、赦して良いのだろうか。こんなわたしを、わたしは赦せるだろうか?
「……赦せないわよね……」
――そして、このままあいつらを野放しにして良いのだろうか。あんなバケモノ共が世に存在することを許して良いのだろうか。きっと奴らは、この先も同じことをするに違いない。きっと、この先も、わたしのような思いを、わたしの家族のような思いをする人が出るに違いない。それを知りつつ、一人逃げ出すことが、本当に正しいことなのだろうか?
「……正しいわけ、ないわよね」
どうせ死ぬのならば、正義を為して死のう。
「ねぇ、雲山。あなたも、人間を喰べていたのよね?」
「あぁ。そうだ。わしも、あ奴らと同じだ」
雲山は涙を流したまま、吐き捨てるように言った。
「でもあなたは、約束を守ってくれたわ。わたしを、守ってくれた」
「あぁ。約束したからな……」
しかし、人間を守るなんて約束を守る奇特な妖怪は、どうしてそれまでずっと人間を喰べていたのか。それが、わたしには不思議で仕方ない。そう疑問を口にすると、雲山はため息混じりに「そういう妖怪だったから」と答えた。
「どういう意味?」
「妖怪は皆、その在り様が定まっているのだ。餓鬼で言うならば、その在り様は永遠に満たされることのない欲望の為に盲目的に活動することだ。そして、見越し入道の在り様は、人間を見下げてその首を喰らうことだ」
その在り様を、妖怪自ら変えることはないと言う。何故なら、妖怪とはその在り様が崩れれば消えてしまうモノだかららしい。
「でも、それならどうして雲山は消えないの?」
「新たな在り様を得たからだ。故に、人を喰う必要もなくなったのだ」
「……それなら、今のあなたは、何かしら?」
わたしがそう問うと、雲山は大きな両手で自身の涙を拭い、こちらを真っ直ぐ見つめて言った。
「今のわしは、お主を守る雲の妖怪だ」
「……そんな妖怪、初めて聞いたわ」
「……わしもだ」
雲山の言葉が、わたしには嘘に思えなかった。きっと、もう二度と人間を喰べないだろうと思えた。あの時握った手の温もりを、わたしを守って戦う背中を信じたかった。
――それに、もし仮に雲山がわたしを喰べるつもりでも、今すぐでないのなら別に困らないとも思った。
「喰べられるのって、どんな気持ちなんだろうね」
わたしは、知りたかった。知らなければならないと思った。たとえそれが、どんなに恐ろしく悲惨な結末だったとしても。知ることが、決意をより強く出来るように思えたから。
「さあな。だが餓鬼は、その鋭い牙で獲物の足や首筋に喰らいつき、身動きを封じた上で生きたままその肉を喰らうと聞く。その痛みと苦しみは、想像を絶するものだろう」
「……そっか」
生きたまま喰われる痛みなんて、わたしには分からないし、想像も付かない。この首を断たれるよりも痛いだろうか。この胸の真ん中に刀を突き刺されるよりも痛いだろうか。
少なくとも、痛いのは、身体だけじゃないはずだ。
きっとみんな、苦しかったよね。辛かったよね。怖かったよね。そんな風に、死にたくなかったよね……。
(ごめんね、みんな)
「あーあ。約束したのになぁ」
お姉ちゃんが、みんなを守るって。家族を、守ってみせるって。
「でも、ダメだったわ。わたし、約束破っちゃった」
「………」
「ダメなお姉ちゃんだよね。一番大切な時に、傍にいられないなんてさ」
「だが、ここにいればお主も餓鬼に喰われて死んでおっただろうな」
「そうね……もしそうだったなら、誰もわたしの家族の仇が取れないものね……」
「仇を、討つのか?」
「他に、わたしに出来そうな弔いはないもの」
「そうか……」
あーあ。なんでこうなっちゃったのかな。雲山を手始めに、妖怪達を仲間にして、和尚に褒めてもらいたかっただけだったのになぁ。
「恐らくあの男は餓鬼を操り人間を喰らって、力を付ける類の妖怪だろう。近くの集落や寺院を当たっていけば、いずれ出逢うこともあるかもしれんな」
「そっか……そうだよね……。あいつはきっと、行く先々で同じことをするよね……」
「そう、だろうな……」
それなら、止めないといけない。悪い事をしている奴がいたら「懲らしめないと」ね……。
妖怪と仲良くするのだって良いかもしれないって、そう思ってた。人喰いでも、どんな妖怪でも、子分に出来るかもしれないって、そう思った。でも、雲山が特別だっただけなんだ。妖怪は、やっぱりバケモノなんだ。
あぁ、ホントに。ほんのさっきまでは、あの夕日が沈む前までは、妖怪にも優しくいられたのに――。
「じゃあ……あいつら皆殺しにしよっか」
――わたしは、変わってしまった。
「私、赦せないもの」
――もう、戻れない。この怒りを、抑えることは出来ない。
「ここで死んだ全てに誓うわ。私は必ず、仇を取ってみせる」
きっと、和尚には叱られるだろう。でも、たとえ和尚に怒られようとも、たとえ修羅に落ちようとも、たとえ地獄で永遠の責め苦に塗れようとも、たとえ仏に見捨てられようとも――。
「もう誰も、殺させやしない……」
たとえ何があろうとも、私はこの誓いを必ず果たす。もう決して、誰も殺させない。全ての妖怪を皆殺しにしてでも、自分の命を燃やし尽くしてでも、もう二度と、こんな苦しみを誰にも味あわせやしない。もう二度と、約束を違えはしない。
今度こそ、守ってみせる。
「……ならば、この雲山も助太刀しよう」
雲山は、静かに言った。降り続く雨を弾くように、はっきりとした芯のある声だった。
「あなたには、関係ないと思うけど?」
これは私の仇討なのだから。私がそう言うと、雲山はため息交じりにフッと笑い、大きな右手を差し出してきた。
「わしは、お主の子分なのだろう?ならば、関係ないとは言えまい?」
そう言われると、返答に困る。まったく、滅多なことは言う物ではない。しかし、雲山が来てくれるのなら心強いのも本当だ。妖怪を従えるのも、修羅に相応しい姿に思える。
――きっと、私を見た人は、私のこともバケモノと呼ぶかもね。
「もう、お互いに、約束は破りたくないだろう?」
――お姉ちゃんが守るから。何度目だろう。そう言った自分の声が、脳裏に甦る。それに応えた、元気な二葉の声も、はっきりと思い出せる。
「……それもそうね」
修羅で良い。バケモノでも良い。いや、きっと私は、バケモノにならなくてはならないのだ。私の相手は、正真正銘のバケモノなのだから。
バケモノと殺し合うのは、バケモノであるべきだ。
「雲山。これから先も、私が死ぬまで私のことを守り続けて」
「心得た」
私達は、再び握手を交わした。昨日とは違う心で、昨日とは違う誓いを立てて。
雨は、まだ止まない。
だが、夏は終わった。
雲山のことをみんなにどう伝えようかと思案しながら坂を下っていると、不意に後ろから「止まれ」という彼の声が聞こえてきた。さっきまで大笑いしていたとは思えない程、深刻で暗い声色だった。
「どうしたの?」
振り返って尋ねてみても、雲山は答えない。じっと遠くを――ちょうど、わたし達の住んでいる寺のある方角を睨み付けていた。彼の視線の先では夕日が地平線の向こうに消えかかり、空の高い所は既に濃紺色に染まっていた。いつもなら、その濃紺の上にぽつぽつと小さな星の光が見えるはずなのだが、今日は大きな黒灰色の雲が、空の高いところで夜の色と光を覆い潰すようにどっしりと浮かんでいた。
「一雨、来そうだな」
雲山は何故か苦々しげに、絞り出すように言った。
「雨は嫌い?」
わたしの質問に、雲山は答えなかった。ただ静かに、眉間に皺を寄せて目を瞑ったまま浮き止まっていた。
「雨が嫌いなら、早く帰りましょ?」
雲山はそれにも応えなかった。何かを考えているようだが、一体何をそんなに考えているのだろう。もしかして、どうやって和尚に認めてもらおうかを考えているのだろうか。
そう思って、彼をよくよく見てみれば、風も吹いていないというのに、その身体が小刻みに震えていることに気付いた。
「あなた、震えて――」
わたしがそこまで言いかけた時、ビュウッと、突然強い風が吹いた。
「お主はここにおれ」
雲山は短くそう言い残し、強風に吹かれるままわたしの目の前から消えた。
「……どういう意味?」
わたしの四度目の問いにも、彼は答えなかった。
そして、もう一度、強い風が吹いた。
その風に乗って、まるで何かが腐ったかのような微かな臭いが鼻を突いた。
(なに、これ……)
嗅いだこともない程の刺激臭だった。まるで、肥溜めに腐った肉を投げ込んだような臭いだ。風に運ばれてきたのはほんの微かな臭いだったにもかかわらず、全身が嫌悪感で震え、胃の腑の底から吐きそうになる。
だが、何故、こんな臭いがわたし達の寺の方角からするのだろう。
――とてもつもなく、嫌な予感がした。
だから、わたしは走った。この胸に湧き上がる焦燥感が何故なのかは分からない。でも、急がなければならない気がする。早く、みんなのところへ行かなくちゃいけない気がする。
泥に足を取られても、小石に躓いても、木の根に足を引っ掛けても、わたしは立ち止まらず、転ばず、走り続けた。
(早く、早く、早く!)
寺に近づくにつれ、あの腐乱臭はどんどん強くなる。手で鼻を覆っても摘まんでも効果がない。
開かれた門の向こう側に寺の本堂が見えた今では、腐乱臭に混じって錆びた鉄のような臭いもしてきた。それが何の臭いかなんて、わたしには分からない。血みたいな臭いだけど、そんな臭いがする理由なんてないのだから。だから――わたしには分からな――。
「消え去れ!ガキどもが!」
その声はまるで、雷が落ちたかのような轟音だった。空気全体を振るわせるような、強い怒りの声だった。実際、その声とほぼ同時に地面が砕けるような衝撃音がし、大地がぐらりと揺れた。
「ギギャッ」
次に聞こえたその音は、真夏のセミのように――いや、それよりも遥かに耳に触るしゃがれた音だった。その音を聞くだけで、再び全身を嫌悪感が駆け巡った。こんな感覚、初めてだ。こんな音を出すモノを、わたしは知らない。
「その手を離せ!」
雲山の怒号と共に、わたしの視界に二つのモノが飛び込んできた。
一つは、雲山の握り拳だった。門の庇程の高さに浮かんだ雲山が地面めがけて、さっき別れた時よりも赤みがかったように見える桜色の拳を、地面に立つ無数の『モノ』に対して放っていた。拳が地面に激突すると共に、凄まじい衝撃が突風を巻き起こし、砕かれた地面の破片を散らした。
もう一つのモノは、その輪郭だけなら、人間の子どものような形をしており、地面に中腰で立っていた。だが、間違いなくソレは人間ではなかった。
沈みかけた夕日に照らされた肌は光沢のない灰色で、禿げ上がった頭の下に丸く飛び出た両目は真っ赤に燃えて、赤く汚れた口元には鋭い牙が生え揃っている。服はおろか布きれ一枚さえも身に着けておらず、そうして晒された皮膚の下からは全身の骨がくっきりと浮き出ているのが見て取れ、四肢も細くまるで枯れ木の枝のようだった。その一方で、腹だけは不自然な程にでっぷりと大きく膨れ上がっている。そして、その身体からは先ほどから感じている強烈な腐乱臭と生々しい血の臭いが漂ってきていた。
その姿を、わたしは妖怪絵巻の中で見た記憶がある。確か、その名は餓鬼。元々は六道の一つである餓鬼道を、強い渇望に取り憑かれた亡者がその末路として体現するようにして生まれた妖怪だと言う。永遠に満たされない欲望を持ち、その欲望にひたすら忠実に動くバケモノだ。肉を求めては目の前の全てを喰らい、水を求めては尿さえ啜り、物を求めては目に留まる全てを強奪し、色を求めてはどのような生き物にでも腰を振る――。
そんなバケモノが、数えきれない程わたしの目の前に、門の中にいた。わたしがこうして見ている間に、更に何匹ものソレが本堂の戸を破って続々と飛び出し、雲山に飛び掛かって行く。今すぐ視界から消し去りたい程醜悪な姿にもかかわらず、わたしはソレから目を離すことが出来なかった。
一匹の餓鬼が、その赤く染まった口元に、白く小さな人間の子どもの腕のような物を咥えていたから。
(なんで、そんなもの咥えているの?)
「ギャッ――」
次の瞬間には、その餓鬼は横なぎに放たれた雲山の拳に捕まり、その身体を握り潰されていた。短い断末魔と共にその骨は無残に砕かれ、赤黒い血しぶきが握りしめられた雲山の指の隙間から滝のように滴り落ちた。身体から離れた頭部はどさりと地面に落下し、反動でその醜い口から小さな何かが解き放たれた。
「一輪、何故来た!」
身体を赤黒く濡らした雲山が、門前に立ち尽くすわたしに声をかける。「あそこにいろと言っただろうに……」
視界の端で、雲山がこちらに近づこうとしたのが分かった。しかし、わたしは、彼の方を見ることが出来なかった。わたしの視線は、今さっきまで蠢いていた餓鬼の視線とぶつかっていた。引きつったように歪んだ口と飛び出た両目、死んで動かなくなったその顔は、まるで泣いているように見えた。
「どうして殺した?」
そう言って、今にも涙を流し出して絶叫しそうにさえ見えた。
「何よ……なんなのよ……。あんた、一体なんなのよ!」
わたしがどんなに叫んでも、死体は何も応えない。
「一輪、お主は、見なくても良い」
雲山は風のような速さでわたしの目の前に駆け付け、わたしの視界全部を覆うようにして門の正面で制止した。
「……しばし、耳を塞ぎ、目を瞑っておれ」
雲山の声が静かに響く。だが、わたしは耳を塞ぐことも目を閉じることも出来なかった。耳の奥では、あの醜い妖怪の耳触りな断末魔が、ギャーギャーと鳴り響き続けていたから。瞳の裏には、血まみれの餓鬼の生首と、あの白い腕のような何かがしっかりと焼きついて離れなかったから。
(あの白いものは、なに?)
わたしの疑問に、どこかで誰かが「人間の腕だ」と答える。
(そんなわけない。だって、あんな所に腕があるわけないもの)
わたしは即座に否定する。人間の腕が、あんな小さな腕が、普通地面に落ちているわけないもの。
(餓鬼は人間さえも食べるのよ。そして、ここには人が住んでいる)
誰かの声はさっきよりもはっきりと聞こえてきた。
だから、何。何なの?
(こんな騒ぎになっているのに、さっきから他の人間の声は一言も聞こえてこないでしょう?つまり、もうここには誰もいないということなのよ。あの腕は、ここの人間の腕だということなのよ)
ここの人間?ここのにんげんッテ、ダレ?コレハ、ダレ?
(そんなの、決まっているでしょう?二葉の手は、確かもっと日焼けしていたと思うもの。最近はそれが普通になってしまったから、特別目に留まる程黒かったかは分からないけれど、少なくともこれはそうじゃない。こんな、まるで日中勉強していて外に出てないような色の小さな手の持ち主は「ここ」には一人しかいないわ。もう、彼以外、いなくなってなってしまうのよ……)
「……三郎は、どこ?」
気付いた時には、わたしはそう言っていた。いつの間にかわたしは、三郎がいないかもしれないと思っていた。あの腕を遺して、消えてしまったと思ってしまっていた。
雲山は、何も応えなかった。何も応えず、黙々と拳を放ち続けていた。地面が砕かれる音と共に、餓鬼の短い断末魔と骨の潰れる音だけが、真っ黒な空に何度も何度も響き渡った。
そうして、どれぐらい経ったであろうか、雲山の拳が振られる音が、唐突に止んだ。それと同時に、上空から若い男の声が降ってきた。
「まさか臆病者が出張っているなんてねぇ」
声に釣られるままゆっくりと視線を上げれば、人間の男と見られる人影が一つ、はるか上空に浮かんでいた。暗くてよく見えないが、肩にあの餓鬼が入る程の大きさの袋のような物を担いでいた。
「餓鬼が帰って来ないから何かと思ったら……まさか入道が人間のがきんちょを守っているとは思いもしなかったよ!」
その男の声は軽薄で、こちらの神経を逆なでするような響きを持っていた。
雲山は何も言わず、その男に拳を放った。凄まじい速度で放たれたそれに男は真正面から殴りつけられ、真っ直ぐに地面へ落下した。しかし、舞い上がる砂煙の中からは、すぐになんでもないかのような男の声が聞えてきた。
「何でかなぁ。何でそっち側なのかなぁ」
「黙れ」
雲山は、男の落ちた所目がけて、躊躇なく再び拳を放った。
「……おぉ、怖い怖い。でもまぁ、これで終わりだけどね」
その声と共に、突如目の前が真っ赤に燃え上がった。木の燃える臭いが、火の粉がぱちぱちと散る音が、雲山の向こうから聞こえてくる。
「火が盛るには良い夜だね。さらば、また逢う日まで」
上空から、再び男の声が聞こえてきた。再び見上げてみれば、炎に照らされたその顔面には顔全体から頭部にかけて酷い火傷の跡があるのが見て取れた。不気味なほど、口角を歪ませて笑う男だった。
雲山が沈黙の内に放った拳を、今度は空中でひらりと躱し、火傷男は空の闇に吸い込まれるようにして消えた。後に遺されたのは、燃え盛るわたし達の家だけだった。
「逃がしたか……」
雲山は、心底悔しそうにそう言った。
でも、わたしにはその言葉の意味がよく分からなかった。彼が何を逃がして、何故悔しそうにしているのか、さっぱり分からなかった。分からないと言えば、どうして今わたし達の家は燃えているのだろう。まるで世界全部を焼き尽くそうとしているみたいに猛烈な勢いで炎上しているけれど、何故なんだろう?と言うかそもそも、みんなはどこだろう。こんなことになっているのに、全く、どこに行っているのやら。このままじゃ、お寺が燃え尽きちゃうんだけどな。ねぇ、このままじゃあ何もかも、全部、無くなっちゃうよ……?
せめて、雨でも降ってくれたら、火も消えるのになぁ。そんな風に思い、空を見上げたわたしの額に、ちょうど冷たい滴が降ってきた。
ポツ、ポツ、ポツ――。
わたしの願いが通じたのか、真っ暗な空から静かに雨が降ってきた。あの黒い雲は、どうやら雨雲だったらしい。
「よかった。これで、火も消えてくれるよね」
「………」
雲山は、何も応えなかった。何も言わず、わたしの上に大きな手を翳した。
「みんな、何してるのかなぁ。こんな大変なことになってるのに」
「………」
「お寺の中にいたら、危ないのにね。なんで、出てこないんだろうね」
「………」
雨が、段々と強くなってきた。ザーザーと激しい音が、わたしの独り言を掻き消していく。
「おーい!みんなー!お姉ちゃんが帰って来たよ!」
雨に負けないように、門の外から大きな声で叫ぶ。
「………」
返事はない。雨もうるさいし、少しだけ声が震えてしまっていたせいで聞こえなかったのかもしれない。今度は、もっと大きな声ではっきりと言おう。
「おーい!」
今度も返事はない。代わりに、空がビカリと光り、直後にゴロゴロと鳴いた。
「空は返事してくれるのになぁ。どうして誰も返事をくれないんだろう」
みんながわたしを置いて出かけるとも考えにくいし。
「どうして、誰も迎えに来てくれないんだろう」
まさか、あんな妖怪や男に、和尚が負けるわけないし。
「どうして、かな……」
みんな、わたしを一人ぼっちにしたりしないはずなのに。
「……ねぇ、どうして?」
わたしが守るって言ったじゃない。二葉だって、一緒に守るって言ってたよね……?
「ねぇ……どうしてなの?」
どうしてわたしは、最悪の妄想を否定できないの?
「どうして……」
誰も、わたしの問いに答えてはくれなかった。雲山は沈黙を守り続け、雨は喧しく降り続け、雷はゴロゴロと鳴り続けた。他に聞こえる音は、時折吹く強い風の音と、木の葉が揺さ振られこすれ合う音ぐらいだった。その事実が、わたしにとっては何よりの答えだった。
雨は、少しは弱まったものの、空が少し明るくなってからも止むことはなかった。おかげで火は消えたが、寺は骨組みがかろうじて見て取れるほどしか残らなかった。内部は真っ黒にスス汚れ、門の外からでは何が何だかわけが分からなかった。敷地内にはあちこちに赤黒い染みが残っており、それらは雨で広がって、辺り一面血でできた海のようになっていた。その海の上に、灰色の残骸と、赤黒く汚れた……人間の……子どもの…腕が、ぽつりと浮かんでいた。
わたしは、確かめなければならない。この門の中に入らなければならない。頭ではそう分かっているのに、身体の震えが止まらない。両足はまるで、地面に縫い付けられたように動かない。
――どうしてか、分かっている。この中に入って何もかもを見てしまえば、何もかもを認めざるを得なくなってしまうからだ。逆にこのまま何も見なければ、空虚な可能性を信じ続けられるのだ。まだ、何が起こったのか分からないわたしでいられるのだ。
(あぁ、ほんと……わたしは弱いなぁ……)
もう頭の中ではとっくに、この惨状を理解しているのに、わたしの心はそれを認めようとはしない。
わたしは、弱い。誰も守れず、何も認められない。心も体も弱い、ちっぽけな人間だ。
「一輪、恐いのか?」
雲山がわたしの頭にその大きな手を置いた。重みのある温かな手だった。
「恐れても良い。恐れは悪ではないのだから。だが、死者の弔いは生者にしか出来ぬ」
――あぁ、そうか。わたしが彼らの死を否定すれば、彼らの死を悼む者はこの世に一人もいなくなってしまうんだ。
目を瞑れば、まだ彼らの姿も、その声も思い描くことが出来る。わたしよりちょっと背が低くて、活発で、いたずらっ子で、でもどこか憎めない二葉のことも……二葉よりも体が小さくて、泣き虫で、ちょっと頼りないけど、毎日和尚の隣に座って熱心に勉強していた三郎のことも……そして、わたし達を常に見守っていてくれた大きな和尚の姿も……。
二葉も三郎も、あんなにいい子なのに……実の親に捨てられて、あんな妖怪に殺されて、それで、誰にも弔って貰えないだなんて、そんなのあんまりだ。そんなの、あまりにも可哀そう過ぎるじゃないか。和尚だって、自分だけが弔ってばかりだなんて、不公平だ。
――そもそも、彼らがこんな目に遭うこと自体、不公平じゃないか。
「……今、行くよ」
わたしは意を決し、雲山の手の下から一歩を踏み出した。
門の中は、ひどい有り様だった。足元を赤く濡らしながら辺りを見渡せば、全身が血の臭いと腐乱臭に包まれた。その臭いたるや、ほんの少し呼吸をするだけでむせ返らずにはいられない程だった。きっと、戦場ではこんな臭いがするのだろう。雨のおかげで、恐らくこれでも抑えられているのだろうが、それでもひどいものだった。このままずっとここにいたら、この臭いに染まって、戻れなくなってしまいそうな気がする。
その臭いに耐えながら、わたしはあの白い腕の下に辿り着いた。
それは、肘から先の、人間の子どもの右腕に間違いなかった。ところどころ泥と血に汚れ、腕の膨らんだ柔らかな部分には餓鬼の牙の跡が痛々しく残っている。それが、地面に打ち捨てられたまま、何の抵抗もなく雨に晒されていた。
改めて見れば、それが誰のものかなんて明白だった。それでもまだ、どこからかそれを否定したがる声がする。
(ちょっと、似ているだけで、もしかしたら偶々訪ねて来てた誰かのかもしれない)
たとえ、もし仮にそうだとしても、わたしは「じゃあ良かった」と言えるの?知らない誰かなら、喰い殺されても良いと言えるの?
(わたしは、そんなに悪い子じゃない……)
たとえこれが誰のものでも、二つだけ、確かなことがあるのだから。
一つは、あの餓鬼によって喰い殺された子どもが確かにいるということ。そしてもう一つは、わたしはその子どもを守ることが出来なかったということだ。
それで「良かった」なんて、言えるわけがない。
「雲山、他には……誰かある?」
わたしは白い腕から目を離し、雲山に尋ねる。雲山は頭を左右に振り、その大きな頭を垂れた。
「すまん。わしが守れたのは、それだけだった」
雲山は、泣いていた。雨に濡れているからではなく、その両目から確かに涙が零れ落ちていた。
「……あなた、変な妖怪ね」
人間の肉体を妖怪から守ろうとして、涙を見せるだなんて。しかも雲山はわたしと出逢うまで人を少なくとも六人は喰い殺した正真正銘の人喰い妖怪だというのに。それなのに、彼はわたしを守って戦ってくれた。結んだ誓いを、守ってくれた。
――人間のわたしは、二葉との約束を破ってしまったというのに。わたしはまだ、泣けないというのに。
(これじゃあ、どっちが妖怪か分からないよ)
もしも、わたしにも彼のような力があれば、みんなを守ることが出来たのだろうか。こんな思いをしなくて済んだのだろうか……。
結局、ここには白い腕以外の人間のカケラはなかった。寺の中にも、燃え残ったいくつかの家財道具や法具が遺されているばかりだった。
「……みんな、もうどこにもいないのね」
雨は、まだ止まない。弱まる気配もない。とても冷たい雨だった。きっとこのまま打たれていたら、風邪を引いてしまうだろう。
しかし、その冷たさが、今のわたしには心地良かった。滴が身体に当たる度に、頭が冴えてくる。心が、冷たく研ぎ澄まされていく。
もう、誰もいないのなら、わたしには生きていく理由なんてない。今すぐにでも死んでしまいたい。死んで、また彼らの家族に生まれ変わりたい。
――でも、それで良いのだろうか。この苦しみから逃げてしまって、良いのだろうか。何も守れないわたしのまま生まれ変わって、幸せになれるのだろうか?
「なれないわよね……」
――いや、そもそもわたしは、幸せになって良いのだろうか。誰のことも守れないわたしを、赦して良いのだろうか。こんなわたしを、わたしは赦せるだろうか?
「……赦せないわよね……」
――そして、このままあいつらを野放しにして良いのだろうか。あんなバケモノ共が世に存在することを許して良いのだろうか。きっと奴らは、この先も同じことをするに違いない。きっと、この先も、わたしのような思いを、わたしの家族のような思いをする人が出るに違いない。それを知りつつ、一人逃げ出すことが、本当に正しいことなのだろうか?
「……正しいわけ、ないわよね」
どうせ死ぬのならば、正義を為して死のう。
「ねぇ、雲山。あなたも、人間を喰べていたのよね?」
「あぁ。そうだ。わしも、あ奴らと同じだ」
雲山は涙を流したまま、吐き捨てるように言った。
「でもあなたは、約束を守ってくれたわ。わたしを、守ってくれた」
「あぁ。約束したからな……」
しかし、人間を守るなんて約束を守る奇特な妖怪は、どうしてそれまでずっと人間を喰べていたのか。それが、わたしには不思議で仕方ない。そう疑問を口にすると、雲山はため息混じりに「そういう妖怪だったから」と答えた。
「どういう意味?」
「妖怪は皆、その在り様が定まっているのだ。餓鬼で言うならば、その在り様は永遠に満たされることのない欲望の為に盲目的に活動することだ。そして、見越し入道の在り様は、人間を見下げてその首を喰らうことだ」
その在り様を、妖怪自ら変えることはないと言う。何故なら、妖怪とはその在り様が崩れれば消えてしまうモノだかららしい。
「でも、それならどうして雲山は消えないの?」
「新たな在り様を得たからだ。故に、人を喰う必要もなくなったのだ」
「……それなら、今のあなたは、何かしら?」
わたしがそう問うと、雲山は大きな両手で自身の涙を拭い、こちらを真っ直ぐ見つめて言った。
「今のわしは、お主を守る雲の妖怪だ」
「……そんな妖怪、初めて聞いたわ」
「……わしもだ」
雲山の言葉が、わたしには嘘に思えなかった。きっと、もう二度と人間を喰べないだろうと思えた。あの時握った手の温もりを、わたしを守って戦う背中を信じたかった。
――それに、もし仮に雲山がわたしを喰べるつもりでも、今すぐでないのなら別に困らないとも思った。
「喰べられるのって、どんな気持ちなんだろうね」
わたしは、知りたかった。知らなければならないと思った。たとえそれが、どんなに恐ろしく悲惨な結末だったとしても。知ることが、決意をより強く出来るように思えたから。
「さあな。だが餓鬼は、その鋭い牙で獲物の足や首筋に喰らいつき、身動きを封じた上で生きたままその肉を喰らうと聞く。その痛みと苦しみは、想像を絶するものだろう」
「……そっか」
生きたまま喰われる痛みなんて、わたしには分からないし、想像も付かない。この首を断たれるよりも痛いだろうか。この胸の真ん中に刀を突き刺されるよりも痛いだろうか。
少なくとも、痛いのは、身体だけじゃないはずだ。
きっとみんな、苦しかったよね。辛かったよね。怖かったよね。そんな風に、死にたくなかったよね……。
(ごめんね、みんな)
「あーあ。約束したのになぁ」
お姉ちゃんが、みんなを守るって。家族を、守ってみせるって。
「でも、ダメだったわ。わたし、約束破っちゃった」
「………」
「ダメなお姉ちゃんだよね。一番大切な時に、傍にいられないなんてさ」
「だが、ここにいればお主も餓鬼に喰われて死んでおっただろうな」
「そうね……もしそうだったなら、誰もわたしの家族の仇が取れないものね……」
「仇を、討つのか?」
「他に、わたしに出来そうな弔いはないもの」
「そうか……」
あーあ。なんでこうなっちゃったのかな。雲山を手始めに、妖怪達を仲間にして、和尚に褒めてもらいたかっただけだったのになぁ。
「恐らくあの男は餓鬼を操り人間を喰らって、力を付ける類の妖怪だろう。近くの集落や寺院を当たっていけば、いずれ出逢うこともあるかもしれんな」
「そっか……そうだよね……。あいつはきっと、行く先々で同じことをするよね……」
「そう、だろうな……」
それなら、止めないといけない。悪い事をしている奴がいたら「懲らしめないと」ね……。
妖怪と仲良くするのだって良いかもしれないって、そう思ってた。人喰いでも、どんな妖怪でも、子分に出来るかもしれないって、そう思った。でも、雲山が特別だっただけなんだ。妖怪は、やっぱりバケモノなんだ。
あぁ、ホントに。ほんのさっきまでは、あの夕日が沈む前までは、妖怪にも優しくいられたのに――。
「じゃあ……あいつら皆殺しにしよっか」
――わたしは、変わってしまった。
「私、赦せないもの」
――もう、戻れない。この怒りを、抑えることは出来ない。
「ここで死んだ全てに誓うわ。私は必ず、仇を取ってみせる」
きっと、和尚には叱られるだろう。でも、たとえ和尚に怒られようとも、たとえ修羅に落ちようとも、たとえ地獄で永遠の責め苦に塗れようとも、たとえ仏に見捨てられようとも――。
「もう誰も、殺させやしない……」
たとえ何があろうとも、私はこの誓いを必ず果たす。もう決して、誰も殺させない。全ての妖怪を皆殺しにしてでも、自分の命を燃やし尽くしてでも、もう二度と、こんな苦しみを誰にも味あわせやしない。もう二度と、約束を違えはしない。
今度こそ、守ってみせる。
「……ならば、この雲山も助太刀しよう」
雲山は、静かに言った。降り続く雨を弾くように、はっきりとした芯のある声だった。
「あなたには、関係ないと思うけど?」
これは私の仇討なのだから。私がそう言うと、雲山はため息交じりにフッと笑い、大きな右手を差し出してきた。
「わしは、お主の子分なのだろう?ならば、関係ないとは言えまい?」
そう言われると、返答に困る。まったく、滅多なことは言う物ではない。しかし、雲山が来てくれるのなら心強いのも本当だ。妖怪を従えるのも、修羅に相応しい姿に思える。
――きっと、私を見た人は、私のこともバケモノと呼ぶかもね。
「もう、お互いに、約束は破りたくないだろう?」
――お姉ちゃんが守るから。何度目だろう。そう言った自分の声が、脳裏に甦る。それに応えた、元気な二葉の声も、はっきりと思い出せる。
「……それもそうね」
修羅で良い。バケモノでも良い。いや、きっと私は、バケモノにならなくてはならないのだ。私の相手は、正真正銘のバケモノなのだから。
バケモノと殺し合うのは、バケモノであるべきだ。
「雲山。これから先も、私が死ぬまで私のことを守り続けて」
「心得た」
私達は、再び握手を交わした。昨日とは違う心で、昨日とは違う誓いを立てて。
雨は、まだ止まない。
だが、夏は終わった。