「もう一回言ってもらっていいかな?慧音」
私と慧音の間には卓袱台が一つあるだけ。そんな近い距離であるにもかかわらず私が聞き返したのは、勿論高齢で耳が遠くなったからではなく、慧音の言葉が余りにも突飛だったからだ。平たく言うと、耳を疑ったのだ。
「だから、私と一緒に暮らさないかと聞いたんだ」
「・・・・一緒に暮らすっていうのは、同居するってことだよね?」
「当たり前だろ。何を言ってるんだ」
「そ、そうだよね」
そうだ。同居するというのは一緒に暮らすという意味で、寝食を共にすることなのだ。それ以外に何があるというのだろう?・・・・違う。私は「一緒に暮らす」という言葉の意味が聞きたいんじゃない、一緒に暮らす理由を聞きたいのだ。
「嫌か・・・?」
「そ、そういう訳じゃないんだけど、突然だったからちょっと驚いちゃって・・・」
「じゃあ、決まりだな。今日と明日で、お前の荷物をこっちに移してしまおう」
「う、うん」
いつになく強引な態度の慧音に押されて、私は訳の分からぬまま頷いてしまった。一体どうしたというのか。
「早速行こう、妹紅」
慧音はすくっと立ち上がって、玄関へと歩いて行く。卓袱台に残された湯飲みからはまだ湯気が上がっていて、中身の緑茶も殆ど飲まれていない。そもそも、居間に通されてからまだ幾許も経っていないのだ。さすがに急過ぎる。
「ちょっと待ってよ慧音!」
私ーー藤原妹紅は慌てて立ち上がり、急いで慧音の後を追いかけた。
慧音と私は仲が良い。より正確に言えば、慧音は誰とでも仲が良く、私は慧音とだけ仲が良い。人里にたった一校しかない寺子屋の熱心な先生と、竹林で細々と生きるはぐれ者、どちらが友好的かなんて、火を見るよりも明らかだ。
にも関わらず、慧音は私にとても気を遣ってくれる。あまり食事を摂らない私のために料理を届けてくれたり、冬には暖かい毛布をくれたり、慧音は私にとってたった一人の理解者と言っても過言じゃないだろう。
けれど・・・・
「突然同居なんて、どうしたの?」
私は、人里の外れにある竹林ーー迷いの竹林を通り、私の家に向かって歩みを進めていく慧音に尋ねた。私には未だ、慧音の意図する所が見えていなかった。
慧音は振り返って、少し考えるように腕を組んでから答えた。まるで、今後付けで理由を考えているような態度だった。
「お前もあんな所に住んでいたんじゃ不便だろう?それに、永遠亭へ案内できるお前が人里に住んでいれば、いざという時にも心強い」
永遠亭というのは、病院もしくは診療所のようなものだ。迷いの竹林の中央にあるので、診察を受けようと向かった多くの人々が迷い、中には妖怪に襲われる人もいる。そこで、竹林の妖精達に顔が利く私が案内役を勤めるようになったのである。
ちなみに、永遠亭には大量の兎と万能の医者、それから引きこもりのお姫様が住んでいる。お姫様は役に立たないし死んでしまえばいいと思うのだが、死なない。とても残念だ。憎たらしいったらありゃしない。死んでしまえとどれだけ願ったことだろう。
・・・・話を戻そう。
「慧音の言いたいことは分かった。でも、わざわざ同居する必要は無いんじゃ・・・」
「いいじゃないか。今人里に空き家は無いし、私の家は一人で住むには少し大き過ぎるんだ」
慧音はそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。もう私の家は目と鼻の先である。いや、引っ越すのだとしたら、今日からあそこは私の家でなくなるのか。大した工夫も無く適当に作った掘っ建て小屋だけれど、そう思うと少しだけ寂しい気がした。
竹林の隙間から軽やかな光が差し込んでくる。空を飛ぶ鳥の鳴き声と、草を踏み分ける兎の足音が聞こえてくる。竹林はいつも通りの昼下がりを迎えていた。
私の気を知ってか知らでか、慧音は靴を脱ぎ、家に上がり込んだ。私もその後を追って中に入る。
「着いたのはいいけど・・・。持ってく荷物なんて殆どないね」
私の家には、家具が殆ど無い。殆どというか、箪笥が一つあるだけで他には何も無い。調理器具も、古びた鍋と包丁が一つずつあるだけ。あまり物を持つのが好きでないのだ。魔法の森のはずれにある雑貨店の主は、わざわざ無名の丘に出かけてはガラクタを集めてくるらしい。そういった人間の気が知れない。
「うーん、箪笥も調理器具も一通り私の家で準備できるからな・・・。どうする、妹紅?」
「じゃあこのまま置いといてもらえばいいや。またここに帰ってくることもあるかもしれないし、服だけ持って行くわ」
服を風呂敷につめて準備終了。こんなに手軽な引っ越しなんてそうはないだろう。まるで、友達の家に泊まりにいく子供のようだ。
私は最後まで事情の分からないまま、元の家を後にした。
慧音の家にはまだ多くの空き部屋があった。私はその一つを私室に当てがってもらい、備え付けられていた箪笥に、持ってきた衣服をしまった。一部屋だけだというのに、私の掘っ建て小屋と殆ど面積が変わらないような気がする。相当に広い。勢いに流されて引っ越してしまったが、これはこれで悪くないかもしれなかった。
寺子屋の教師であり、人々を守護する力を持つ慧音は、里の者達から敬われている。そのためか家も他に比べて一回り大きい。そんな家に一人暮らしなのだから、歴史書や教科書の類を詰め込んでも、まだ私と同居できるだけの余裕があった。「彼らは私を尊敬してるんじゃない。畏怖してるんだ」などと慧音は言っていたが、そんなことを気にするなら、私と一緒に竹林で暮らせばいいと思わなくもない。
「大丈夫か、妹紅」
慧音が様子を見に来てくれたようだ。
こうやって、新しい部屋に入ると、引っ越したんだなあという実感が湧く。さて、引っ越しなんて何百年ぶりだろうか。昔は数年、数ヶ月、下手すれば数週間で引っ越しを繰り返していたのだから、それを考えると、あの掘っ建て小屋には随分とお世話になったなと思う。
「問題ないよ」
私は返事をして、部屋の前で待っていた慧音を伴い、居間に移動した。居間は青々とした畳部屋で、中央に卓袱台が一つと、書斎に入り切らなかった本をしまう書棚がある。そこにも入りきらなかった書物は、廊下や部屋の隅に積み上げられる。稗田の屋敷ほどではないにしても、相当な蔵書量だ。
慧音が台所からもう一度緑茶と煎餅を持ってきてくれた。私達は、硬く醤油の深い匂いがするそれを齧りながら、何をするでもなくぼんやりと夕日を眺めていた。竹林に住んでいた時は、淡赤の光が入ってくるだけだった夕日も、こうして眺めてみるとなかなか趣深い。季節は秋を越え初冬といった様子だが、それでも十分美しく鮮やかである。
「すまなかったな。突然引っ越しなどさせてしまって」
「別にいいよ。最近は、人里も悪くはないなあと思ってたんだ」
数年程前まで、私は人間が、更に言えば、全ての命あるものが嫌いだった。こんな苦しく儚い世界なのに、なんとか生きながらえようとする姿はとても滑稽に見えた。滑稽で無様だった。そんな風に思っていた私が、人里での暮らしを始めようとしている。傍から見れば、滑稽なのはむしろ私の方だろう。
「じゃあ、夕飯にしようか」
「うん。私も手伝うよ」
こうして、慌ただしかった一日が終わっていく。これからの日々が楽しみなような不安なような、そんな久しく感じることのなかった思いに胸を高鳴らせ、私は慧音とともに台所へ向かった。
===
時は少し遡って、妹紅と慧音の同居が決まる数週間前、場所は仙界の一端にある神霊廟。この場所では、世界の心理を見つけんとする道士達が、日々修行に励んでいる。その日もまた、修行者達の高らかな声が響き渡っていた。
「まさか、貴方が入信して下さるとは思ってもいませんでしたわ、上白沢慧音さん」
霍青娥は向かい合う客人に対して、にっこりと微笑んだ。彼女の笑顔は何処か蛇を思わせる。隙を作れば一飲みにされてしまいそうだ。
向かいに座る慧音はこくりと頷くだけで、返事はしなかった。警戒心からか、辺りを見渡しては俯いてを繰り返している。
風水師、物部布都がデザインした部屋には、数多くの中華風の置物がある。金色に飾り立てられた壺や、水晶の彫刻など、置物はどれも異彩を放っていて、部屋全体が生命を持って動き出すような、不思議な錯覚に襲われる。
「それにしても、慧音さんは道教のどのような点に興味を引かれたのですか?偏見かも知れませんが、寺子屋の先生という職業は、宗教に否定的なのだとばかり思っていました」
青娥の問いに慧音が答える。
「いえ・・・。宗教はこの国の歴史や思想に大きな影響を与えてきました。教鞭を振るう者として、興味を惹かれたのです」
「でしたら、道教よりも仏教の方がよろしいのでは無くて?日本における道教の立場は、お世辞にも強いとは言えませんし」
「それは・・・・」
黙りこんでしまった慧音に、青娥の鋭い視線が刺さる。お互いに言葉はない。時間の流れから切り取られてしまったかの如く、何も動かない。
どれほどの時が過ぎただろうか、ふっと、青娥の顔に笑みが戻った。
「何はともあれ、歓迎しますよ。豊聡耳様もお喜びになるでしょう。入信に関する手続きや修行内容に関しては、後ほど連絡します」
「ありがとうございます」
慧音は表情を変えることもなく一つ礼をすると、重厚な扉を開け、そのまま部屋を出ていった。
青娥は、テーブルの上で芳ばしい香りをたたえるプーアル茶を一口飲むと、大きな溜息をついた。
「いつまでも隠れてらっしゃらずに、出てきてはいかがですか?」
「あら、バレてましたか」
慧音の出ていった扉がもう一度開き、部屋に入ってきたのは、豊聡耳神子だった。そのまま青娥の向かいの席、慧音がいた席に座る。
神子はいつも通り、紫色のマントに薄紫のスカートという出で立ちだが、明らかに普段の彼女と違う点が一つだけあった。「和」の文字を宿したヘッドホンが付けられておらず、耳が露わになっていたのである。それは、彼女が能力に対する制限を解いたことを意味する。
「彼女から何が『聞き取れ』ましたか?」
「一番強いのは愛、それと均衡するように憎がある。しかし、それらは表と裏。同時に動く欲望ですね」
「そんなことを聞いているのではありません。貴方は、彼女の目的も分かっているのでしょう?」
「うーん」
神子はわざとらしく首を捻った。
「目的?何のことですか?彼女は道教に入信したがっている、それ以外に何かあるのでしょうか?分かりません」
邪仙ーー青娥の笑顔は蛇だった。ならば、この神子の笑顔は鷹と言えるだろう。空中を飛ぶ鷹は、姿を見せることもなく獲物を仕留める。彼女の能力ならば、それが可能だった。
「歴史を司る半獣、自らの内に陰と陽を持つ彼女ならば、辿りつけるかもしれないんよ。道教が目指す宇宙の心理ーー道にね」
===
慧音と暮らし始めて一週間程が過ぎた。少しずつではあるが、里での暮らしに慣れてきたように思える。里の子供達と遊んでやったり、竹林で採れた野草を近所に届けたり、人と接する機会が増えたのは、きっと悪いことじゃないだろう。
そして今日も今日とて、慧音は寺子屋勤めで家にいない。半ば居候のような身である上に碌な仕事もしていない私は、できる限りの家事をしようと心掛けている。炊事洗濯はできないわけではない、むしろ得意な方なのだ。
「今日は天気もいいし、洗濯から始めようかな」
そう思い立った私は、井戸の水を桶にため、洗濯板に服を押し付け始めた。力の入れ加減が中々難しく、余り力を込めすぎると服を傷めてしまうし、逆に弱すぎると汚れが落ちない。布の包み込むような柔らかさと、水の刺すような冷たさを感じながら、洗濯を続けていく。
しかし、こうして慧音と一緒に住んでいると、自分がどれだけ不死の体に頼って生きてきたかを思い知らされる。住居しかり食事しかり睡眠しかり、どうせ死なないなら苦しくてもどうでもいいと思っていたが、こちらに来てからはそういうわけにもいかない。ちゃんと一日三食、毒のない飯を作らなければならないし、寝るのにだって布団を使わなければいけない。不自由といえば不自由だが、人間とはそういうものだということを忘れていた。そういう意味でも、同居を提案してくれた慧音には感謝すべきだろう。
どれくらいの時間が過ぎただろうか、日の当たる向きからして、昼を少し過ぎたくらいだろう。ただ無心で服を洗う私に、声をかけてくる奴がいた。
「あらあら、貴方いつの間にか専業主婦になってたのね」
この何百年間、飽きるほど聞いた声だった。平穏が壊れる音だった。出来ることなら無視していたいのだが、奴は執拗に私に話しかけてくる。
「ちょっと、無視はひどいんじゃない?千年も生きてるものだから、ついにボケちゃった?」
そいつはいつも通り、腰より長い艶やかな黒髪と、まるで桜のような淡い香りを風に靡かせて、この世のどんなものより美しかった。大きく華やかな瞳に整った鼻筋、透き通るように白い肌。西洋の彫刻も日本の絵画も、彼女の前では見劣りしてしまう。どれだけ私が憎んでいても、その美しさは偽れるものではないのだろう。
「仕事もせずふらついているよりは、よっぽどマシでしょう」
私は立ち上がって、その女ーー蓬莱山輝夜を睨みつけた。こいつが私を訪ねてくる理由は、今も昔も一つしかない。数百年前から何も変わらない、それが私達の関係だった。
「久しぶりに殺し合いましょうよ、妹紅」
私達は馬鹿だと思う。終わるはずのない鬼ごっこを何百年間も繰り返してきた。そしてきっとこれからも、何千年と続けていくのだ。きっとそれは楽しいんだろう。何も考えずに済むのだから。生温い幸せに全身を包まれて、ゆっくりゆっくり沈んでいくのだ。窒息はできず、傷みも忘れて、そんな風に生きていく。
焦げ付いた竹が、苦々しい匂いを伴って倒れていく。周りの草木はいつの間にか全て焼き払ってしまっていた。何回殺して何回殺されたか、私はすでに数えることをやめていた。それくらい私達は殺し合っていた。
「私が三四回死んで、貴方が三十回、今日は貴方の勝ちね」
焼け野原に座り込んだ輝夜が、骨と骨が擦り合うような、カラカラという軽い音を立てて笑う。その手に握られた蓬莱の玉の枝は、煤で汚れていながらも、七色の眩しい光を放っていた。
今日の殺し合いはこれで終わりらしい。途端に体の力が抜けてしまい、私はその場にへたりこんだ。かろうじて元の形を保っていた草木の焼跡が、重さに耐えきれず崩れていく。ハラハラと舞うようにして、ただの灰殻になってしまった。私と輝夜は死なないのに、周りの草木は死んでいく。理不尽この上ない。
「それにしても、今日の貴方は容赦無かったわね。あんな貴方久しぶりよ」
「そうだったかしら?自分じゃ気にしてないけれど」
思う存分殺し合った後の世間話。理解不能だと言われれば頷くしかないが、これが数百年積み上がった私と輝夜の関係だった。今さらどうすることもできない。
「慣れない里暮らしなんかするから、鬱憤が溜まってるんじゃない?」
「そんなこと無いわよ。里での生活は中々快適なんだから」
「そうは言ってもねえ・・・」
輝夜の透き通った瞳がこちらを向く。男とか女とか関係なく、人を惹きつける瞳だ。何となく、月の輝きに似ているように思える。人を狂わせるところなど、特にそっくりだ。
「人というものは、違いを嫌うのよ。確かにこの幻想郷の住人は、不死である私達にも怖いくらい寛大だわ。それでも、やはり貴方は異質。そんなの分かり切ったことでしょう?いつか、里の人間達だって貴方を裏切るわ」
「うるさい」
余計なお世話だった。
私にだって、そんなことは分かっているのだ。人間は臆病で残酷だ。この千数百年間で、嫌という程味わってきた。最初の三百年で嫌われて、次の三百年で恨んだ。その次の三百年は、殺し合うのに必死で何もかもを忘れていた。
しかし人間だって悪いばかりじゃないのだ。優しく、温かいものを誰もが持っている。次の三百年は一緒に暮らしていきたい。三百年とは言わずとも、せめて慧音が生きているうちはあそこにいたい。そう思うことは間違いじゃないはずだ。
「勿論、人里に全く近づくなと言いたいわけじゃないの。ただ、然るべき距離をおいて接するべきだと私は・・・・ゲホッ・・・」
いつの間にか、私は輝夜の喉笛を引き裂いていた。首にポッカリと空いた穴はヒューヒューと風音を立て、ドロドロとした血が灰色の世界に色をつけていく。私の手も血で汚れてしまった。自分のものではない体温を感じ、頭が揺らめく。ぐらぐらと地面が傾いたように感じる。
「気持ち悪い・・・・」
何故だろう。この錆びついた鉄のような匂いも、嗅ぎ慣れているはずなのに。
私は何か恐ろしくなって、その場から駆け出した。
家に帰ると、慧音が出迎えてくれた。
「遅いじゃないか。しかもそんな汚れてしまって・・・」
そう言われて自分の服を見てみると、至るところが焦げて煤がこべりつき、見るも無残な姿になっている。髪の毛も手櫛が通らないほどにごわつき、全身が灰まみれだった。慧音は眉間に皺を寄せながら、一つため息をついた。
「大丈夫、放っておけばお札の力で直るから」
「お前はまたそうやって、もう少し気を使うということをだな・・・・おい、聞いているのか、全く」
私は慧音の説教を聞き流すようにして、靴を脱ぎ居間へと移動する。慧音の説教はくどくどと長すぎるのだ。いちいち真剣に聞いていては、こちらの神経が持たない。
襖を開けて居間へ入ると、すでに夕食の準備が整っていた。美味しそうな肉じゃがが湯気をたてている。サヤエンドウの澄んだ緑とジャガイモの茶黄色が目に鮮やかだ。
「ごめんね。夕飯の準備手伝えなくて」
「別に構わない」
慧音はぶっきらぼうにそう言って、卓袱台の前にどかりと座った。機嫌を損ねてしまったらしい。このままでは、飯が不味くなってしまいそうだ。
慧音の機嫌を直すため、少し世辞を使ってみる。
「慧音の料理はいつ見ても美味しそうだね」
「おだてるな」
「・・・・ごめん」
話が続かない。こういう時に何も言えなくなってしまうあたり、自分が今まで、どれだけ人との会話を疎んできたかが分かる。あのお喋り魔法使いなら、場の空気を一転させるような気の利いた言葉を見つけられるのだろか。私にはそれが出来ない。何とももどかしかった。
「殺し合いをしていたのか?」
「え?」
茶碗に飯をよそいながら、慧音が突然そう尋ねてきた。まるで独り言のような口ぶりで、こちらを向こうともしない。これだけ服を汚して帰ってきたのだ、ばれて当然かもしれない。もしかすると、血の匂いでも染みついてしまっているのだろうか。
「お前が蓬莱山と竹林に入っていたのを見た者がいた。やはり、殺し合いをしていたんだろう」
どう答えるべきだろうか。悩む。正直に答えたら慧音は怒るだろうか。殺し合いなんて間違ってると、そう私を諭し始めるのだろか。
「うん」
あえて正直に答えることにした。
「そうか、分かった」
「・・・・え?」
慧音の答えは、私が予想していたものとは違った。怒りもせず、ただ平然と頷くだけ。台所に移動して汁ものをよそい、無表情でそれを食卓に並べる。
「どうした?」
「怒らないんだな、と思って」
「私はいつか死ぬんだ」
慧音がこちらを振り返った。眉の先を垂らして、口端を歪める。笑っているように見えるけれど、そこにある気持ちは決して喜びじゃなく、もっと暗くて汚れたもののように思えた。
「そして、永遠亭の者たちは死なない。これからも仲良くした方がいい」
「慧音は勘違いしてるわ。私は輝夜を恨んでるの。馴れ合ったりしない」
「そうか」
そんな気の無い返事を一つ残して、慧音はまた黙りこんでしまった。黙々と両手を合わせ、食べ物に箸を通していく。竹林にいた頃と同じ静かな食事が始まって、私は何もできなかった。
===
妹紅が輝夜と殺し合った翌日。慧音は、神霊廟の神子の部屋に招待されていた。こちらは前回訪れた青蛾の部屋とは違い、純和風の作りになっている。まるで江戸時代の将軍屋敷のような、広大な畳部屋だった。掛け軸や欄間の彫刻など、どれも落ち着いた雰囲気の中に鮮やかな技巧が凝らされている。その中でも、壁に飾られた能面が一際異彩を放っていた。
「慧音さんも気になりますか?あの能面、私が作ったんですよ。木彫りがちょっとした趣味でしてね」
神子は壁に掛けられた能面の一つをはずずと、まるで孫を可愛いがるような手つきで撫でた。勿論能面の表情は変わらない。口と目を大きく見開き、憤怒したままだ。
「要件はなんですか?」
慧音は能面を見ようともせず、無愛想にそう尋ねた。感情を悟られまいとしているのか、口を真一文字に結び、視線はどこか浮ついている。
「貴方は一応私の門弟なんですから、もう少し態度に気を使っていただけると・・・。まあいいでしょう」
神子は能面を傍らに置き、代わりに半透明の小瓶を一本取り出した。手のひらにすっぽりと収まる大きさで、中身は何か丸薬のようである。薬の大きさは直径五ミリ程で、夜の闇をそのまま移しこんだように真黒だった。
その薬を見た瞬間、慧音の表情が揺れた。目を大きく見開き、じっとその小瓶を凝視している。
「貴方が欲しいのはこれでしょう?」
「・・・・分かっていたんですか?」
「不老不死は人間の理想です。特に貴方の場合、すぐそばにそれを『成し得た人間』がいる。憧れて当然でしょう」
神子は柔和な笑みを浮かべながら、慧音に向けてその小瓶を放った。瓶は空中で軽く回転しながら、慧音の足元にコトリと落ちた。太陽の光を反射して、小瓶は白く光っていた。
「もうお分かりでしょうが、これは私達が作り出した外丹薬です。飲み続ければ、仙人として寿命を引き延ばすことができるかもしれない」
外丹薬、仙人として長い命を生きるため、道士達が作りだした丸薬。蓬莱の薬には遠く及ばずとも、恐ろしい力を秘めていることだけは確かだった。
「私は別に貴方を脅そうとしているわけではありません。お好きに持って行っていただいて結構です。如何ですか?」
慧音は無言のまま、震える手で、小瓶をひったくるように拾い上げた。それが何よりもの答えだった。
「要件は以上です。修行に戻って結構ですよ、慧音さん」
「はい・・・・」
「あ、最後に一つお聞きしていいですか?」
襖を開き廊下へ出ようとしていた慧音を、神子は呼び止めた。彼女に見えているもの、その答えを確かめるために。
「貴方をそこまで動かしている欲望は、愛ですか?それとも憎ですか?」
===
輝夜との決闘から数日後、私達はいつも通りの朝食を摂っていた。二人分の飯と味噌汁、白菜の漬物に卵焼き。私は慧音の作る卵焼きが好きだ。箸で摘めば形が崩れてしまいそうなほど柔らかく、適度な塩気が効いている。
何故かはよく分からないのだが、決闘の翌日から、慧音はとても機嫌が良かった。廊下で鼻歌を歌っているのを目撃したときは、熱でもあるのではと本気で心配してしまった。
「なあ、妹紅。今日は寺子屋に顔を出してみないか?」
「寺子屋に?」
慧音は白菜の漬物を齧りながら、話を切り出してきた。そう言えば、慧音と同居を始めて1週間半、まだ寺子屋を一度も訪ねていない。同居人の職場先なのだ、挨拶しておいて損は無いだろう。
「うむ。あちらに運びたい書類が溜まってしまってな。手伝ってくれるとありがたい」
「分かった」
特に断る理由もなく、私は二つ返事で承諾した。
寺子屋は、人里の中心から少し南に入ったところにある。教室が三部屋に教員室が一部屋、資料室が一部屋、部屋数は慧音の家とあまり変わらないが、一部屋一部屋が大きいので、面積で言えば倍くらいになるんじゃないだろうか。
私と慧音は、両手いっぱいに抱えた巻物やら古書やらを、教員室と資料室に別けてしまった。この寺子屋には慧音の他に二人の先生がいて、それぞれ習字と算術を教えているらしい。当然教員室には三つの机が並ぶわけだが、慧音の机が一番整理整頓ができていない。机上に紙の山ができてしまっていて、少し触るだけで雪崩を起こしそうだ。
「私はこれから授業なんだが、お前はどうする?」
今日の授業で使うつもりなのであろう紙束を抱えて、慧音が尋ねてきた。
「他の先生達は?」
「今日は寺子屋は午前中だけで、全て私の歴史の授業だからな。来ないかもしれない」
「あ、そうなんだ。じゃあ、慧音の授業見に行こうかな」
「私の授業?」
「うん。結構興味あるわ」
あれだけ熱心に資料を集めているのだ。授業も分かりやすくて子供達に大人気に違いない。せっかくなのだから、慧音が活躍する姿を見ておきたかった。
「よし、お前が見ていくなら頑張らなくちゃな」
自信ありげに言う慧音に連れられて、私は軋む廊下を抜け二つ目の教室に移動した。教室の床は畳で、前の壁は一面に黒板が設置されている。その黒板と向かい合うように生徒達の使う座卓が二十ほどあった。生徒はまだ誰も来ていない。
慧音は教卓に資料を置いて、授業用だろうか、黒板に何やら書き始めた。カツカツと、黒板とチョークがぶつかり合う音が、冷たい朝の教室に響く。私は慧音の邪魔をしないように、教室の左端に陣取った。
慧音の授業が始まってどれくらい経っただろう。随分時間が過ぎた気がする。ただそれも私の体感によるものであって、本当はまだ四半時も過ぎていないのかも知れない。
生徒達はとっくに集中力を切らしていた。机に突っ伏して寝ている者、隣の生徒と喋りこむ者もいる。真面目に聞いている者は、誰一人としていなかった。
「八代目博麗の巫女と今代の博麗の巫女との相違点としては・・・・・・。そして九代目はというと・・・・」
正直、慧音の授業は恐ろしく退屈だった。慧音の説教はくど過ぎると常日頃から感じていたが、授業にまでそのくどさを引っ張ってくるとは思わなかった。これだったら、一日中念仏を聞いていた方がまだマシかもしれない。
「皆疲れただろうし、今日の授業はここまでにしよう」
よっぽど退屈だったのだろう、慧音の号令と同時に生徒達は教室を走って出て行った。天狗もびっくりのスピードである。
そうして教室に残るのは、私と慧音の二人だけになった。空になった教室は、冬の終わりに溶けていく雪うさぎのような寂寥感があった。
「お疲れ様、慧音」
「ありがとう」
そう言えば、あれだけ持ってきた資料を授業中ほとんど使っていない。一体どうしてなのだろうか。
「慧音、その資料は?」
「何故だろう。授業に集中していたら、使うタイミングを見失った」
眉間に皺をよせて首を捻る慧音を見て思った。この人は絶対教師にむいていない。
寺子屋を出た私と慧音は、近くの蕎麦屋に移動した。明かりのあまり入らない静かな店内には、私達の他に一組の夫婦がいるだけ。空いている理由は正午を半時ほど過ぎているからか、元々客が来ないからか、私には判断できなかった。
「授業をやり切った後は、ここで蕎麦をすする。これが私の日課なんだ。うまいぞ」
慧音はなぜか自慢気に胸を張っていた。料理のうまい慧音がこう言うのだから、きっとおいしいんだろう。次こそ期待を裏切らないでほしいと切に願った。
「盛りそば二丁!お待ちどおさま!」
店員さんの威勢のよい掛け声と共に、蕎麦が運ばれてきた。慧音と私は手を合わせ、透き通るような灰色の麺をつゆに通し、口へと運んでいく。蕎麦独特のコシと甘みが一杯に広がり、そのまま喉をつるりと通り抜けていく。
「これは・・・・」
「うまいだろう?」
「うん、とても」
「そうだろう。そうだろう」
慧音も満面の笑みで蕎麦をすする。この和やかな空気をより一層和やかにするため、私は慧音に話を切り出した。
「そう言えば、慧音はどうして寺子屋の先生になったの?」
あんなに教えるの下手なのに、などとは勿論言わない。私だって頭突きは痛いのだ。
「うーん、理由は色々あるが・・・育ての親が先生だったからかな」
慧音は蕎麦を運ぶ手を休め、こちらにゆるりと視線を向けた。瞳はどこか粘ついた光を放っている。
「育ての親?」
「うん。私の両親は、まだ私が幼い頃に死んでしまっていてな。妖怪に襲われたらしい。今と違ってスペルカードルールなんてなかったからな。今よりもずっと被害者は多かった」
「え・・・・」
やってしまった、そう思った。急に外の空気が冷たくなった。逆に、私の身体は煮えたぎったように熱を増していく。聞いてはいけないことを聞いてしまった。慌てて話題を変えようとしたが、何を喋ればいいのかさえよく分からない。
「私がやっと歩けるようになった頃だから、殆ど面識は無いけれどね」
「う、うん・・・」
「私は別に気にしていないぞ。そんな顔をするな」
「うん・・・・」
慧音の言葉は宙に舞う綿のように柔らかくて優しい。それが私の体温をさらに上げていく。喉は赤茶色に錆びついてしまったようで、返事をするのがやっとだった。
「私はずっと寺子屋で授業を聞いていた。引き取られてから毎日ずっと。教卓に立つ先生は輝いていて、黒板に綴られる文字はまるで魔法みたいだった。いつから先生になりたかったかと言われるとよく覚えていないけれど、いつの間にか私は教鞭をふるっていた」
話し終えた慧音はまた蕎麦へと視線を戻し、大きな音をたてすすっていた。箸が動く度、せいろから蕎麦が消えていく。職業病の一種だろうか、すごい早さだ。私はそんな慧音の姿をぼんやりと眺めるだけで、箸を動かすことができなかった。
「やっぱり親と子は似るのかな」
「背中を見て育つんだ。似て当然だろう」
なら、私も父上と似ているのだろうか。背中すら見たこと無いから、似ていないかもしれない。自分ではよく分からないし、今さら分かりたいとも思わなかった。
「ほら、急いで食べないと置いていくぞ」
「蕎麦ってのは、もっと楽しんでゆっくりと食べるべきじゃないかな」
私は慧音に置いていかれぬよう、急いで蕎麦を口へと運んだ。
===
慧音の寺子屋を見学した数日後、私がいつも通り家の掃除をしていた時、珍しい来客があった。
「なぜ貴方がここにきたの?使いの兎が来るならともかく」
「どうしても伝えておかなければいけないことがあってね。一度永遠亭に来てくれないかしら?」
珍しい来客ーー八意永琳は、玄関に突っ立ったまま、無愛想な返事をした。相変わらず赤青二色の生地に星図をあしらった謎の衣装を着て、長い銀髪を三つ編みにまとめている。虚ろな灰色の瞳は、どこを眺めているのか窺うこともできない。
私と彼女は輝夜を通して少し付き合いがある程度の仲なのだが、わざわざ家まで出向くほどの用事などあるのだろうか?私には心当たりが無かった。
「私を永遠亭に呼んでいいのかしら?」
「あら、勘違いしているようだけど、私は貴方のことを嫌ってはいないわ。むしろ、姫様の遊び相手として重宝しているのよ?」
「遊び相手、ね・・・」
私としては遊んでいるつもりなど毛頭ないのだが、この薬師から見れば子供のままごと程度のことなのだろう。私や輝夜も随分長い時間を生きてきたが、この薬師には遠く及ばない。何というべきか、彼女の周りだけは、別の法則で世界が動いているのではないかと疑いたくなるような、不思議な空気が漂っているのだ。きっとこの郷に住むどんな妖怪であろうとも、この薬師に敵う者はいないだろう。
「で、どうなのかしら?一緒に来てくれるのかしら?」
「分かった」
従う理由は無いが、断る理由もない。私は永琳の問いかけに応じて、永遠亭へと歩き始めた。
永遠亭に着くと、永琳は私を診察室に通した。外の世界の病院を模して作られたこの部屋は、鉄製の机と椅子、西洋式の寝床であるベッドが準備されている。永琳はそのまま私を患者席に座らせ、自分は定位置である医者の席に腰をおろした。
「今日は貴方に大事な話があるの」
「大事な話って、私医者にかからなきゃいけないようなことしたかしら?」
確かに私はここのお姫様を数万回殺してきたけれど、私だって同じくらい殺されてきたのだから、おあいこだろう。
「いえ、貴方の同居人、上白沢先生についてなんだけど・・・・」
永琳は背もたれに大きく体重を移し、一つ大きな深呼吸をした。鉄でできた椅子は軋んで鋭い音を立てる。烏の鳴き声のような、人を小馬鹿にする音だった。
「慧音がどうかしたの?」
嫌な予感がした。窓から入っていた日光はいつの間にか雲で隠れ、永琳の顔が影に埋れた。明るい白だった壁が灰色に汚れて見え、鉄の机は金属独特の冷たい輝きを放ち、まるで病室全体が潰れて消えるような錯覚に襲われる。冷たくもなく温かくもない風に、髪が流れていく。
ゆっくりと永琳の唇が動き、音を零した。
「>;>{^\・;*|(「)「@/\・!,+\+]'」
「今なんて?」
何も聞こえない。永琳の口は確かに動いたのに、鼓膜を揺らさなかった。
「けいねせんせいのよめいのこりいっかげつよ」
「今なんて?」
言葉は聞こえた。でもそれは、区切りの見えない音の集まりで、意味は分からなかった。
「慧音先生の余命、残り一ヶ月よ」
意味が分かった。鼓膜が震えて区切りが見えて、私は理解した。理解したうえで、もう一度聞き返す。
「今なんて?」
「慧音先生の余命、残り一ヶ月よ。あと二回満月が拝めるかどうかってところでしょうね」
「は?慧音の余命?一カ月?」
意味が分かっても、到底納得できるような話ではなかった。声は上ずり、鼓動が速くなっていく。兎が運んできた緑茶を一気に飲み干し、空になった湯のみを投げ捨てた。湯飲みは鋭い音と共に砕けて、破片が床に散らばった。赤くて青い永琳は、ただじっと私を凝視したまま動こうとしない。
慧音はまだ若いし、半人半妖で普通の人間より寿命が長いはずなのだ。そもそも薬の効かない薬師の言うことなど、信用できたものではない。
「なんで慧音が死ぬの?」
「寿命よ」
「何言ってるの?慧音は半獣よ?寿命だって長めのはずじゃない」
「違うわ」
永琳は首を横に振った。
「慧音先生は後天的に半人半獣になった。それは、一つの肉体で同時に二つの命を生きるようなものなの。その分肉体には大きな負担がかかり、寿命が極端に縮んでしまうわ。私にも、手の出しようがない」
「だって、そんな・・・。慧音はあんなに元気そうにしているのに・・・」
「事実よ。慧音先生の身体は見えないところで着実に傷ついている。ハクタクの代償を支払っている。もう限界なのよ」
永琳は糸の切れた操り人形のように、口をつぐみ俯いてしまった。私は切れた糸の先を探して天井を見あげるけれど、勿論そんなものはどこにもなくて、永琳の話はここでお終いだった。先には何も無かった。
「限界って・・。だって、慧音は・・」
本を読む慧音、授業する慧音、眠る慧音、食事をする慧音、笑う慧音。死ぬという言葉からは程遠い。何気ない日常を、普通に生きているはずなのに。
何か得体の知れないものが、私の頭の中で暴れ回る。頭を突き刺し喉を通って胸に届く。何度となく吐きそうになり、視界は爛れて見えなくなってしまった。
「慧音が死ぬ?」
「ええ。貴方は最近慧音先生と同居しているようだから、伝えておかなければいけないと思ったの。残念だけれど、受け止めるしかないわ。それが私達ーー永遠の罪人が受ける罰なのだから」
「私達に時効は無いのかしら?」
「あれば貴方は救われるの?」
私は立ち上がって、思いっきり椅子を蹴飛ばした。もう何も分からない。何も考えたくない。
そうだ。こういう時は輝夜を殺そう。
私は永遠亭の廊下を駆けた。床板が軋み醜悪な音を立てる。永琳は追いかけてこなかった。廊下は薄暗く延々と続いていて、私は必死で足を動かした。どれだけ走っても前に進んだ気がせず、逆に走った分巻き戻されるような悍ましい感覚に襲われる。それでも走る以外にできることは何もない。息が上がって、肺に穴が空いたかのように呼吸が苦しい。喉が焼け、足が崩れる。
それでもずっとずっと走り続けて、やっと光が見えた。襖の隙間から入り込む直線的な赤い光。思わず目を背けたくなるような眩しい輝きに、私は懸命に手を伸ばした。
「あら、妹紅。殺しに来たの?」
輝夜は縁側で夕日を眺めていた。赤い輝きを背にして、鬱陶しいほど甘い笑顔。スカートが乾いた風にはためいて、気持ち悪いくらい美しかった。
何を見て笑っているんだ。そんなにおかしいか。
「貴方息上がってるじゃない。どれだけ急いだって、どうせ私死なないのに」
輝夜がゆっくり立ち上がった。距離が近づく。手が届く。私の腕が輝夜の首を掴んだ。輝夜は笑ったまま、腕を振りほどくこともしない。
そして私達は殺し合った。
今日の私はとてつもなく弱かった。幾度となく輝夜に殺された。三回ほど首をもがれたし、骨は何箇所折れたか数えられなかった。殺すなんて意気込んで来たけれど、実は死にたかったのかもしれない。死んでみたいと、思っていたのかもしれない。
「今日は随分弱かったわね、貴方」
仰向けに倒れこんだ私を見下げるようにして、輝夜が立っている。うすい桃色のスカートには、泥汚れ一つついていない。竹林も以前と違って燃え落ちることなく、悠然とその姿を保っていた。私が弱かった、理由はただそれだけである。
「ねえ、死ぬってどういうことだと思う?」
「知ってどうするの?」
「慧音先生の余命、後一ヶ月よ」、永琳の言葉が私の頭を竜巻のように回り、何かを削っていく。物を触っている感覚がなくなり、夢でも見ているかのような浮遊感に襲われる。
ハクタクの力ーー歴史を創る力は、彼女自身の歴史を縮めていた。私が知らない間に、慧音はずっと傷ついていたのだ。
「生きとし生きるもの、全てが行き着く先。・・・あら、そうすると私達は生きていないことになるのね」
「そうね」
「貴方の同居者のこと?」
「・・・・知ってたんだ」
「永琳が言ってたわ。とても悲しそうだった」
そういう輝夜の表情は、何かが欠けていた。感情の無い人形と同じだった。きっと諦めているのだろう。この罪人は、色々なものを諦めて笑っているのだ。
「でもいいじゃない。今まで散々見てきたでしょう?人が死ぬところなんか」
そうだ。私は沢山の死体を見てきた。今までに出会った人々、話した人々、皆死んでいった。生きているから、死んだ。それは言うまでもないほど当たり前のことで、しかし、どうしても受け入れたくはなかった。今さらになって、私は人の死を悲しんでいた。
どこからか、子守唄のように澄んだ虫の鳴き音が聞こえてくる。
「勿論知ってたわよ。慧音だっていつか死ぬことくらい。でも彼女は半獣だから、もっと生きていられるものだと思ってた」
「いいじゃない。彼女が十年生きようが百年生きようが、どうせ私達から見れば流れ星みたいなもの。一瞬だけ煌めいて、どこかに消えてしまう」
輝夜が、寝転ぶ私の隣に座った。心臓をえぐり抜いてやろうかと思ったが、疲れていたのでやめた。今は寝ていたい気がした。
「貴方は彼女が消えてしまう前に、どれだけ願い事ができるかしらね」
「何よそれ」
輝夜は答えずに、空を見上げた。華奢だった月がいつの間にか丸みを帯びている。あと数日で満月だろう。そんな月を囲むように星々が不規則に並ぶ。星座なんてものは人間が後付けしたもので、星はただそこにあるだけでなのだ。
さて、もうそろそろ家に帰らなくちゃならない。
===
妹紅が永遠亭を訪れた日、物部布都は神霊廟の屋根に座り、不満げに足をばたつかせていた。布都の隣では、青娥が気持ちよさそうに寝転んでいる。隣り合って座っているにも関わらず、二人の表情は見事に正反対だった。
「のう、青娥殿。何故太子様はあの半獣のことを、あそこまで気にかけるのじゃ?」
布都が不機嫌な理由、それは今月新たに入信した半人半妖ーー上白沢慧音に対する、神子の優遇にあった。本来であればまだ道場にさえ入れてもらえぬ立場の新入りが、神子本人から修行をつけてもらっている。千年以上の時を共にしてきた布都にとって、それは到底許せるものではなかったのだ。
「しょうがないでしょう?あのハクタクの子には才能があるもの」
「才能・・・?」
「そう。人間と妖怪、一つの身に秘めた陰と陽の力。それだけでも十分すぎるくらいの素質なのに、彼女の場合は歴史を司る能力まで持っている。残念だけれど、布都さんに勝ち目は無いわね」
「くそ・・・。汚らわしい物の怪が・・!」
「あら布都さん、そういうことは思っても言わない方が身のためよ」
そう言う青娥の目線は、布都の頭上を飛び越えて、何か別のものを見ているようだった。布都は青娥の視線に沿って、後ろを振り返る。
「青娥の忠告通りですね、布都」
そこには神子がいた。笑うでも怒るでもない、能面のようなのっぺりとした表情で青娥と布都を眺めている。布都の表情が、みるみるうちに引きつっていく。
「太子様・・・!一体いつの間に!?」
「別にいつから居ても一緒ですよ。どうせ貴方の欲は私にダダ漏れなのだから」
神子は風に靡くマントを抑えながら布都の隣に座り、虚ろな目で空を見上げた。半分ほどが雲に隠された空は、言いようのない暗欝を漂わせている。
「布都。貴方には、慧音さんが妖怪に見えますか?」
「見えるも何も、半人半獣なのですから、妖怪で間違いないでしょう?」
「確かにそうなのですが・・・。しかし・・」
いつになく煮え切れない態度の神子に、青娥が尋ねた。
「では太子様。貴方はあの娘を何ものだと思うのですか?」
「布都の言うとおり、彼女は半人半獣なのだから、妖怪であると言っても間違いじゃない。むしろ正しいのでしょう。でも、私は彼女を人間だと思っています。この幻想郷は全てを認め許してしまう。でも、そこに住まう人々が全てを許せるかと言えば、そんなことはないですからね。彼女は、自分が許せないのかもしれない」
布都には神子の言わんとすることがよく分からなかった。しかしそれも、当然と言えば当然なのかもしれない。神子の「聞いてる」世界は、あまりにも違いすぎるのだ。
「まあ、答えはそのうち見えてきますよ。きっとね」
===
永琳の宣告から数日後、今晩は、慧音と暮らすようになってから初めての満月だ。満月の夜、慧音はハクタクに代わり、歴史を創る能力を得る。その間に新たな歴史を編纂するのが、彼女のもう一つの仕事。いや、使命といった方が正しいのかもしれない。
夜中の仕事に備えて、慧音は家で寝ていた。一度歴史の編纂を始めてしまうと、朝を迎えるまで殆ど休まないらしい。私はそんな慧音に魚料理をご馳走しようと思い、迷いの竹林を流れる川を訪れていた。
川とは言っても、子供達が砂遊びで作る水路のような、ちっぽけな小川だ。小川は私が竹林に住み始めた頃から何も変わっていない。光を反射し輝く流れは、まるでガラスの破片を散りばめたかのようだ。そこにはたくさんの魚達が生きている。冬の水はとても冷たく、所々に氷が張っている。
私は静かに浮きを垂らして、魚がかかるのを待った。
釣りというのは案外難しい。気持ちが乱れれば糸も乱れ、その動きを魚は敏感に察知する。生きるのに必死なのだ。そして今日の私の気持ちは散々で、浮きは漂うだけで全く沈まなかった。
「だめだな・・・・」
ずっと頭の中から永琳の言葉が離れない。ここ数日ずっとそうだった。夢の中でも、あの灰色の病室が浮かぶ。私は椅子を蹴飛ばして走るのだが、いつまでたっても廊下を渡り切ることができない。外から差す紅い一筋の光は、ずっと遠くから私を嘲笑っているように感じる。そんな悪夢だった。
「あれあれ、随分と苦労しているようだねえ」
後ろから声がして振り返ると、因幡てゐが笑っていた。何がおかしいのか分からないが、腹を抱えて土手の草々の上を転げ回っている。因幡が笑う度に、大きな耳と、首にかけた人参のペンダントが揺れた。
「何がそんなにおかしいのよ?」
「河童の川流れ、猿も木から落ちる、藤原も魚から逃げられるってことかい?」
どうやら、全く魚が釣れないのを馬鹿にしに来たらしい。早急にご退場願いたかった。そうでもしないと、また竹林が火事になる。今の私は気が立っているのだ。
「笑いに来たんなら帰ってくれる?」
「別にただで笑いに来たわけじゃないさ」
一通り笑い終えたのか、因幡は立ち上がって服についた泥を払い、馴れ馴れしく私の隣に座った。釣り糸は垂らしたままだが、一向に釣れる気配がない。沈みさえしない。
「少し幸福にしてあげようかと思ってね」
「あんたが言うと冗談に聞こえないわね」
「そりゃそうさ。私ならできるもの」
でも幸福なら、慧音にあげてきてほしいと思う。
「それはどうだかねえ。私が幸福を与えられるのは、人間に限られているのさ」
私は何も言っていないのに、因幡はそう答えて意地の悪い笑顔を浮かべた。完全に考えを見透かされていた。余計に腹が立ってくる。
「慧音は人間よ」
「今日の晩、人間じゃなくなるだろう」
「それは・・・・」
「というわけだから、私があれを幸福にするのは無理さ。まあ、あんただって人間かどうか怪しいけどねえ?」
因幡はそう言うと立ち上がり、竹林の方へと歩き始めた。光が通らない暗い竹林、その奥では輝夜とか永琳とか鈴仙とかが、相も変わらず暮し続けているんだろう。因幡はそこへ帰るのだ。
「結局あんた何しに来たのよ」
「そうだねえ、やっぱり笑いに来ただけだったのかもしれないねえ」
因幡は一度だけ振り返り、他人の不幸は蜜の味と言わんばかりの汚い笑顔を見せ、闇の中に紛れていった。捕まえておけば慧音に兎鍋をご馳走できたかもしれないと、ちょっと後悔する。
その時だった。今までただ流されていただけの浮きが沈んだ。一度、二度、微かではあるが確実に動いている。やっとかかったようだ。
「これは・・・!!」
私は釣竿を握り直して、魚がしっかりと餌に食いつく瞬間を待った。
結局魚は釣れなかった。それは私の心が落ち着かなかったせいかもしれないし、あの兎が残した当然の結末なのかもしれなかった。今さら考えたところでどうしようもないのだが、慧音に釣った魚を御馳走できなかったことを、どうしても悔んでしまう。
慧音はまだ寝室で寝ているようで、家は不自然なほど静かだった。外の喧騒が全て嘘なのではないか、そう疑いたくなる。私は釣り道具を庭にある倉庫に片付けて、居間へと戻った。
夕飯を作り始めるにはまだ早いが、かと言ってもう一度家を出るのも何となく億劫だった。
どれだけ人里に馴染んだつもりで居ても、やはり一人でいるのが一番心地よく感じてしまう。千数百年積み重ねてきた習慣は、そう簡単に直るものではないだろう。
「さてどうしたものか・・・」
何気なく辺りを見回していると、部屋の隅に積み上げられた本の山が目に止まった。私は慧音の家に住み始めてから様々な本を読むようになったが、未だに慧音の書いた歴史書を一冊も読んでいないことに気付いたのだ。慧音の本は皆、書斎の本棚に丁寧に保管されているので、なかなか手に取る機会がない。授業は飛んでもなく詰まらなかったが、本はどうだろうか?
「丁度いい機会だし、慧音の本を読もう」
そう思い立った私は、居間を抜け、書斎へと移動した。
慧音の書斎は、寺子屋の机同様に散らかっていた。没となった原稿が絨毯のように床を覆い、古い歴史書や詩集の類が山積みにされている。慧音は本を集めるのが趣味だが、集めた本の扱いは割と雑だ。本人曰く、「本というのは中身が重要なんだ。装丁が傷んだところで、大した問題はない」とのことだが、それにしても酷すぎる。
私は本の山を崩しそうになりながらも何とか本棚に近づき、真新しい一冊を手に取った。表紙は燃えるように赤く、題名のようなものは見当たらない。表紙をめくってみると、端の方に小さく「上白沢慧音」という書名があった。どうやら慧音の著書らしい。私は書斎の中央にある慧音の机に向かい、本を読み始めた。
慧音の著作における時代区分は、博麗の巫女の世代交代を基準にしているようだ。私が手に取った本は、今代の巫女ーー博麗霊夢の時代に起きた異変や、主な妖怪、人里に住む者達について詳しく表記されている。跳ねや払いにまで気遣いの行き届いた秀麗な文字が、ところ狭しと並んでいた。
博麗霊夢が巫女の職を継いでまだ十年足らず、私が生きてきた時間、これから生きるであろう時間に比べれば塵のようなものだが、それでも数多くの異変が起こり、様々な人々が生き死にを繰り返す。私だけが変わらず、前後も見えぬまま漂っている、そんな気がした。
「ふーむ」
慧音の歴史書はとても出来が良かった。紹介された人物は皆生き生きとしていて、歴史書を読んでいるというよりも、いくつもの物語を見ているような感覚になる。意識しなくても、すらりすらりと内容が頭に入り込んでくる。これだけのものが書けるのに、なぜ寺子屋の授業はあんなにも下手なのか、謎は深まるばかりだ。
そうして読書に熱中していると、いつの間にか障子から差す日差しが赤く染まっていた。もうそろそろ慧音も起き出す頃だろうし、夕飯の支度をしなければならない。私は慧音の歴史書を、一旦居間にある本の山の頂上に乗せて、台所へと向かった。
半刻ほど後、私と慧音は二人で食事を摂った。満月の夜で気が立っているのか、慧音は無言で箸を動かしていた。私も同じように黙ったまま、夕食の席は静かに終わった。慧音は日が落ちきる前に書斎へと入り、すでに数刻が経つけれど、全く出てくる気配がない。
私は慧音の邪魔をしないように、いつもの縁側で静かに月を見上げていた。輝夜と出会うまでの何百年間、私はこうして月を見上げて、青白い光に目を狂わせた。見えていたはずのものが見えなくなった。見えなかったはずのものが見えるようになった。
「慧音、大丈夫かな」
ふと、永琳の言葉が頭をよぎった。慧音はもう二度と、満月を見ることができないかもしれない。
しかし、人はいつか死ぬのだ。時間は刻々と流れ二度と戻ることはないし、人はその時の流れの中で生まれて死んでいく。私の狂った瞳では、そんな当然のことでさえ理解できないのか。
「ここに居たのか、妹紅」
閉じておいた襖を開けて、慧音が縁側に出てきた。流れる銀髪はその一部を翡翠色に染め、天を貫くように角が生えている。いつもの慧音とは違う、ハクタクの姿だった。同居するようになる以前から私と慧音の仲は良かったが、ハクタクの姿を見るのはまだ二、三回目程だった。どうやら、慧音はこの姿をあまり人に見せたくないらしい。人里に何か異変が起こりでもしない限り、ハクタクのまま外に出ようとはしなかった。
「編纂はいいの?」
「ああ、いいんだ」
慧音は私の隣に座り、同じように月を見上げた。慧音の目は、月に狂わされていないだろうか。私は心配になって、ばれないようにそっと覗きこんだ。慧音の瞳は、髪と同じ翡翠色に変っている。どれだけ覗きこんでも底が見えない、深い深い瞳だった。
「月が綺麗だな」
「そうだね」
「綺麗だけど、どこか物寂しい」
慧音はそう言って、月を眺めたまま笑った。どうしてだろう、慧音の笑顔を久しぶりに見た気がする。その笑顔は、まるで森にかかる霞のように静かだった。綺麗なのだけど、手を伸ばしても掴むことができない、そんな寂寥の笑顔だった。
「なあ妹紅。今の私はどう見える?」
慧音は突然私の手を取り、自分の角に押し当てた。滑らかに見えていた角の表面は、実際に触ると少しざらついている。右の角に結ばれているリボンはもうボロボロで、今にも千切れてしまいそうだ。慧音は唇を微かに震わせて、何かを祈るような目で私を見ていた。
「どうって・・・慧音は慧音だよ」
「そうか。私は満月の夜、鏡に映る自分を見ると、化け物だと思ってしまう。だってそうだろう?満月の夜突然妖怪に変わる、そんなの人間じゃないじゃないか。妖怪ですらない。只の化け物だ」
慧音はそう言って、暗色の空へと手を伸ばした。細く美しい手は、何を掴むでもなく、ただ真っ直ぐに空間を切り取る。その延長線上には月があって、他には何もなかった。
慧音は以前、自分の両親を妖怪に殺されたと言っていた。そんな妖怪の力を借りて歴史を編纂し、人里の子供達に伝えているのだ。それがどれだけ屈辱的か、想像に難くなかった。そして私自身も、そうやって悩み生きてきた。
「何言ってるのさ、慧音は人間だよ」
「そうか」
「うん」
私はおどけたように声をはずませ、つとめて明るくそう言った。
「慧音が化け物なら、私だって化け物みたいなものだしね。それに、今日慧音の書いた歴史書読んだなんだけどさ、すごく面白かった。あれは、人間を愛してなきゃ書けないわよ」
「そうかな?」
「そうよ」
我ながら、薄っぺらい言葉だと思う。結局私にも分からないのだ。人間とはどんなもので、慧音や私が一体何者なのか。それでも私は慧音に苦しんで欲しくない一心で、無理矢理言葉をつないだ。掴むことのできない光に手を伸ばした。
「それならいいんだ」
慧音の瞳から、一筋だけ涙が零れた。月の光を反射して銀色に輝き、ゆっくりと頬を伝う。
そんな小さな滴に、私の全てが吸い込まれていくような気がした。視線を奪われ、音が掻き消え、心臓を甘く撫でられたような錯覚に襲われる。私は息を潜めて、じっと涙が消えていくのを見ていた。その涙には、慧音の何かが詰まっているのだ。詰まった何かは涙とともに消えて、時間と同じように、二度と戻りはしないのだ。
「ねえ、慧音」
「ん、なんだ?」
私は髪を束ねていたお札の一枚を解いて、できるだけ丁寧にしわを伸ばし、慧音の擦り切れたリボンの代わりに、左角に結んだ。
「くれるのか?」
「うん」
「ねえ、慧音。やっぱり月は綺麗ね」
「でも、やはりどこか物寂しい」
「そう?二人で見てるから、寂しくなんかないわ」
「そうか」
私は笑って、慧音も笑った。暗く明るいこの満月の夜に、それでも慧音が笑ってくれたことを嬉しく思った。
===
満月の翌日、慧音は再び神霊廟の神子の部屋を訪れていた。
「今日はどうしたんですか?慧音さん」
神子は柔らかい絹のような品のいい笑顔を浮かべながら、熱心に木彫りをしていた。神子の周辺は木屑で埋め尽くされてしまっている。能面ではなく、何か像のようなものを作っているようだ。まだ荒削りの段階で、人のようにも見えたし、魚のようにも見えた。一筋また一筋と、彫刻刀が木片の形を変えていく。
「これをお返しにきました」
慧音は懐から、以前神子に渡された透明な小瓶を取り出した。中身の黒い丸薬は、数粒減っているように見える。
「あらあら、お気に召しませんでしたか?」
会話を進めながらも、神子は彫刻刀を動かす手を休めず、目線を合わせることもしなかった。彫刻刀が木を削る小気味の良く軽い音が、部屋に反響する。
「ねえ、慧音さん。私が今何を作っているか分かりますか?」
神子はそこで突然手を止め、まだ作りかけの像を慧音の方に突き出した。慧音は数秒間、吸い込まれるようにその像を凝視していたが、やがて首を横に振った。
「分かりません」
「それがね、私にも分からないんですよ。でもたまにあるんです、何を彫りたいわけでもないのに、ついつい手が動いちゃう時が」
神子は再び像を削り始めた。
「このまま削っていくと、木はただの木屑になってしまいます。私はそれまでに、この彫刻が何になるのかを見定めなければいけないわけです」
「そうですね」
「でも、これがもし彫像ではなくて塑像だったら、何度でも削るなりくっ付けるなりしてやり直すことができます。それってなんだか卑怯じゃないですか?だから私は彫像の方が好きです」
「・・・・そうですか」
慧音は神子の言いたいことが分からずに、ただ漠然とその姿を眺めていた。神子はその視線を一切気にする様子もなく、像は少しずつ滑らかな面を成していった。
「おっと、すいません。復活し弟子を持つようになってから、どうも説教くさくなってしまって。外丹薬でしたね?」
「はい」
「この薬を捨てれば、貴方は藤原妹紅の前で死ぬことになるのですよ。いいんですか?」
「妹紅がね、私のことを人間だと言ってくれたんです」
慧音は部屋の外に広がる清爽な青空を眺め、囁くように話し始めた。
「多分あいつは、私を励ましたかったんでしょうね。口下手なくせに、一生懸命言葉を並べて。無理矢理明るく振舞って。それに、どれだけあいつが庇ってくれても、私は半人半獣、憎むべき妖怪の力を使う化け物です。でも・・・」
慧音は一つ大きく息を吸って、話を続ける。
「嬉しかったんですよ。それがどれだけ嘘で塗り固められた偽物であったとしても。私は人間なんだなって、あの時だけは、本当にそう思うことができた」
慧音は、初めて神子の前で笑った。笑顔はどこかぎこちなかったが、秋に漂う紅葉のように透き通っている。しかし紅葉はいつか枯れて地に落ちる、慧音の笑顔には、そんな儚さが隠れているようにも見えた。
「だから私は、人間として死にたい。妖怪でも仙人でもなく、ただ普通の人間として。きっとあいつは、忘れずにいてくれるから」
「後悔はしませんね?」
「後悔する時間なんて、もう残されていないでしょう?」
「なるほど、それが貴方の答えというわけですか・・・」
神子は腕を組んで数秒黙った後、何かを思いついたようにはっと顔を上げた。
「慧音さん。この彫刻が出来上がったら、貴方に贈りますね」
「いいんですか?」
「はい。だから、それまで生きていてください。生きるというのはね、素晴らしいことなんですよ」
「・・・・ありがとうございます」
慧音は深々と頭を下げ、襖を開き、神子の部屋を出て行った。部屋に残ったのは、彫刻刀を握る神子と、慧音の置いていった小瓶だけだった。
「盗み聞きとは感心しませんねえ」
「年がら年中盗み聞きをしている豊聡耳様に、そんなこと言われたくないですわ」
「私はしたくてしているわけじゃないですよ?どうしても聞こえてしまうんです」
誰かの声が聞こえた。小鳥がさえずるような柔らかい声。そして、壁に突然大きな穴が開いた。
「豊聡耳様は、一体どこまで見通していたんですか?」
何も見えない黒い穴から這い出てきたのは、青娥だった。背中に纏った羽衣が、陽の光を反射し輝いている。青娥はそのまま壁を背にして座り込み、床に散らばった木屑を一掴みして宙へと舞いあげた。木屑は粉雪のように白く漂いながら、再び床の上に帰っていく。
「どこまでと言うと?」
「慧音さんが不死のために入信したことも、こうしてそれを諦めてしまうことも、あらかじめ予測していたのではないですか?」
神子は、さも驚いたと言わんばかりに両手を振り上げてみせた。いたずらっ子のような、幼く眩しい笑顔である。
「まさか。私は慧音さんを本気で仙人にしようと思っていましたよ。彼女ほどの逸材はそうそういませんから。自ら仙人への道を断ってしまうなんて、本当に残念です」
「そうですかそうですか」
「あら、信じてませんね?まあ、別にいいですけれど」
神子はまた像を削り始めた。床に積もった木屑がみるみるうちに増えていく。作るべきものが見つかったのかもしれない。
「考えてみれば、弟子に道を悟られてしまっては私の立場がありません。私自身が掴まなくては。それで文句ないでしょう?青娥」
「勿論です」
青娥は大きく頷き、それ以上何も言わなかった。
===
満月の夜から数週間、幻想郷に今年初めての雪が降った。はらりはらりと柔らかに揺れ落ちた雪は、世界を白一色に染め上げていく。町も山も川も、溶け合い一つになるような錯覚。雪にはそんな魅力があった。慧音と一緒に住むようになってから、暑い寒いといった感覚が機敏になってしまったようで、今年の冬はいつもより寒いように感じる。
私は慧音と一緒にこたつに入って、他愛のない世間話に花を咲かせていた。
「ねえ、慧音。少し散歩しようよ」
こたつの上のみかんに手を伸ばしながら、私は慧音にそう提案した。慧音はみかんの筋を一本一本綺麗に剥がしてから口へと運んでいく。いちいち筋を取るのは、面倒じゃないのだろうか。
「どこに行くんだ?」
「そうだねえ、湖なんかどう?」
「湖?霧の湖のことか?」
「うん」
私はみかんを一房口の中に放り込んだ。噛むたびに粒が弾けて、甘酸っぱい果汁が口を満たしていく。やはり、冬に食べるみかんは格別にうまい。
「あんなところ行ってどうする?」
「散歩に意味を求めちゃだめでしょ?慧音」
「確かに、それはそうだが・・・・」
散歩にも行く先にも意味なんてない。慧音と一緒にいることに意味があるのだ。それで十分だった。
「じゃあ、これ食べ終わったら行こうか」
「わ、分かった」
私はみかんの最後の一房を飲み込み、暖かいこたつから立ち上がった。
霧の湖は、人里から歩いても然程時間のかからないところにある大きな湖だ。名前の通り年中無休で霧が立ち込めていてるが、冬はとりあえず景色が楽しめる程度の視界は確保できる。中央に浮いている小島には、壁から窓まで何でも赤い悪趣味な洋館が建っている。慧音の家の更に何倍も大きいが、住みたいとは思わない。住人も、貴族を気取った嫌味なやつばかりだ。
「たまには散歩も悪くないな」
隣を歩く慧音は突然しゃがみ込み、湖の表面に浮かぶ氷に触れた。私も慧音に習って氷に手を付ける。氷は磨き抜かれた鏡のように、周りの景色を映し出す。そこでは瑞々しく繁った森を背景にして、私と慧音が並んでいた。
「冷たい」
「当たり前だろう?氷なんだから」
「それもそうだね」
氷は薄く、あまり強く触ると割れてしまいそうだった。冷たいはずなのにどこか少し暖かい。いつまででも触れていたいと思った。
「妹紅、森の方も行ってみないか?」
慧音はもう氷に飽きてしまったらしい。立ち上がり、森の方へと歩き出していた。
お堅い性格だからか、慧音はゆっくりと景色を楽しむのが苦手なようだ。私としてはまだ氷に触れていたいし、水の流れを眺めていたいのだが。
「分かった」
私は仕方なく氷から手を離し、ゆっくりと慧音の後を追いかけた。
森の中は湖よりも一層寒い。太陽の光は枝葉とそこに積もった雪で遮られ、風は勢いを失うことなく森中を駆け巡る。草木の青く冷たい匂いを胸一杯に満たしながら、私と慧音は一歩一歩その中を進んで行った。
「寒くない?慧音」
「大丈夫だ」
木の表面は黒に近い茶色で、一部に苔が生えている。表面に触ってみると、木肌の凹凸が苔で滑らかに覆われ心地よく、かすかな温もりを守っていた。
「生きてるね」
「私がか?」
慧音が振り返った。
「勿論慧音は生きてるに決まってるじゃん。木々がだよ」
「そうか」
私と慧音の足音だけが、この無音の世界に響きを作っていた。小枝を踏む乾いた音、枯葉が割れる軽い音。土と雪は柔らかく私たちの足音を吸収してしまう。
「散歩も悪くないでしょ、慧音?」
「そうだな」
そう、散歩は悪くないのだ。殺し合いなんかよりずっといい。千数百年生きて、やっとそのことに気づいた。やっぱり私は馬鹿なのだろう。
頭上から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。細い木の枝に掴まった二匹の小鳥が、互いに声を掛け合っているようだ。枝の上を忙しく行ったり来たりしている。
「妹紅、夕飯を作らなければならないし、もうそろそろ帰ろう」
「分かった」
慧音の声に驚いたのか、二匹の小鳥は一斉に飛び立ってしまった。
帰り道、再び雪が降り始めた。昨晩に比べるとその勢いは弱く、風に漂いながら地面へと落ちていく。拾い上げてみると、まるで綿菓子のように軽い。体温に温められて少しずつ水へと変わり、最後は指の隙間から零れ落ちてしまう。
「雪も降り始めたし、早く家に入ろう」
「うん」
玄関の扉を開け、靴を脱ぎ、居間の炬燵に再び火をともし、足を入れる。芯まで冷えていた体が、外側から少しづつほぐれていく。
「さあ、夕飯を作るぞ。妹紅」
慧音は居間に戻らず、そのまま台所に移動したらしい。慧音よりも私の方が寒がりになってしまったのかもしれない。私はつけ直した火を再びかき消した。
「わかった」
慧音はすでに野菜を切り始めていた。拍子よく鳴り響く包丁の音に招かれるようにして、私も台所に移る。
夕飯は思っていたより早く出来上がった。献立は焼き魚と煮物に味噌汁。最近幻想郷にも洋食が入ってくるようになったが、私は日本食が好きだった。日本食は味が優しくてて素材が生きている。それに長い間慣れ親しんだ味をそう簡単に捨てることはできない。
「いただきます」
慧音と私は同時に手を合わせて、食事を始めた。
「散歩というのも悪くはないな」
慧音は焼き魚の骨を一本一本丁寧に取りながらそう言った。前日私が釣り上げてきた魚だった。今回は兎に出会わずにすんだからか、餌を入れた途端に魚が食いついてきた。皮についた焦げ目と白い湯気を立てる身が食欲をそそる。
「でしょう?たまには慧音も肩の力を抜いて、気楽な時間を過ごした方がいい」
「そうだな。私は少し真面目過ぎるのかもしれない」
「・・・・慧音からそんな言葉が出るなんて」
私は真剣に驚いていた。慧音が自分の真面目さを疑うなんて、博麗神社の賽銭箱に小銭が入っているくらいあり得ない状況だ。明日にでも大きな異変が起こるかもしれない。
慧音は大きな音をたてて箸を机に起き、こちらを睨みつけてくる。
「別に真面目であるのが間違いだと言ってるわけじゃないぞ。ただもう少し気楽に生きていけたらなと思っただけだ」
「そうそう。時にはゆっくりしないとね」
「そうだな」
慧音は小さく咳をして、箸を握ろうとした。
「・・・ん?」
慧音が突然首を傾げ、箸を目の高さに掲げた。
箸は真っ赤だった。見慣れた赤色だった。少し粘ついていてくすんだ赤色。
私はそれを見て、この千数百年の人生を想起した。色々な所へ行って、色々な人や妖と出会ったけれど、結局この色が一番印象に残っている。一度見れば忘れられないし、何度見ても残酷な色だ。
血の赤色だ。
慧音がもう一度咳をする。魚やご飯や味噌汁が赤くなった。慧音が血を吐いていた。慧音は何が起きたのか分からないかのような困った顔をして、自らを庇うようにうずくまった。
「慧音?」
慧音が三回連続で咳き込んだ。口を抑えた手が赤くなる。輝夜を殺した私の手のようだった。ねっとりと粘ついて、少しずつ少しずつ腕を伝って下へと落ちていく。床にシミができていく。シミは重なって大きくなり、錆びついた鉄の匂いがした。
「慧音!」
私はやっと立ち上がり、うずくまる慧音の背中をさすった。慧音はお化けを怖がる少女のように、小刻みに震えていた。頭を抱えて、体の奥から蠢き上がるような咳をした。慧音の青いスカートが、赤と合わさって濁った紫色になる。
「ねえ、妹紅」
「何?」
「私はもう死ぬみたいだ」
私は慧音を背負って立ち上がる。慧音の体はまるで羽のように軽くて簡単に持ち上がった。「私はもう死ぬみたいだ」「私はもう死ぬみたいだ」「私はもう死ぬみたいだ」言葉は頭の中で何度も反響して、囲い込むように私を支配していく。
体から、力とか後悔とか魂とか、そういったものが抜けていく。膝が崩れて立ち上がれなくなった。右足を前に出そうとすると左足が邪魔をする。言葉は渇いて硬くなって、喉を通らなかった。何もできなかった。
「永遠亭に行こう。永琳ならまだきっと」
「もういいんだ」
永琳の宣告通りだった。二度目の満月まで後数日。勿論忘れていたわけじゃない。忘れられるわけもない。それでも、忘れていたかった。何かの間違いだと、そう思っていたかった。
慧音の腕がゆっくりと私の首を包む。荒い息が耳元にかかって、私はまた動くことができなくなった。滑らかな髪の感触と甘い香りで、感覚が麻痺してしまったようだ。
「永遠亭はいいから、縁側に連れて行ってくれないか?月の見える縁側に」
私は慧音を縁側で降ろして、その隣に座った。月は大きく丸みを帯びているが、満月まではあと数日足りていない。庭に生えた草木が月光に照らされて幻想的に光っている。風は無いが気温は低く、吐く息が白く空へと昇る。嫌になるほど静かな夜だ。無音のまま忍び寄ってきて大事なものを奪って行く、そんな夜だ。
「初めてお前のことを知ったとき、私はお前が羨ましくてしかたなかった」
慧音は私の肩に頭を預け、少しずつ喋り始めた。掠れて聞き取りづらかったけれど、芯のある、いつも通りの慧音の声だった。
「お前は、永い永い歴史の中を実際に歩んできた。私が半人半獣になることでようやく手に入れられた知識を、お前はそのままの姿ですでに持っていた。羨ましかったというより、僻んでいた、憎んでいたと言った方が正しいかもしれない」
私は何も話すことができなくて、一文字一文字を手繰り寄せるように、慧音の言葉を聞いていた。言葉は体の奥のあたりを抉り、蝕んでいく。
「でもね、お前と一緒にいて気付いたんだ。お前も苦しんでいることに。死ぬこともできず、泣くこともできず、一人で生きていたことに」
「・・・違うよ。私はただの自業自得だから」
やっとの思いで吐き出した返事は、あまりにも陳腐だった。圧倒的な何かが、私の感情を奪い取ってしまったようだ。抗うこともできずに、ただ沈んでいく。それは死だった。死というものは、いつもこうやって奪っていく。あの時もそうだった。私を助けてくれた右手は、冷たく硬くなってしまった。
私に寄り添う慧音の体も、少しずつ、緩やかに冷たくなっていた。不死鳥の炎でも温めることができない。どれだけ足掻いても、もう戻ることはない。
「お前は、私と暮らしてどうだった?正直私は人に好かれるような性格じゃないと思う。話すのは下手だし、怒りっぽいし。でも、お前と一緒にいて、私は楽しかった。最後の時間をこうしてお前と過ごせて、私は満足なんだ」
慧音はそう言って無邪気に笑った。口元からは一筋の血が流れていて、まるで口紅をさすのに失敗した少女のようだった。終わりを前にして、慧音はどこか幼かった。可憐で美しく、救われたようにも見える。救われていてほしいと願う。
「私も楽しかったよ」
伝えたいことはもっと沢山あるはずなのだ。しかしどれもこれも曖昧で、すくい上げた水のように指の隙間からこぼれ落ち、冷たさと湿気だけが残る。空になった両手を握りしめて、必死になって何かを探す。想いを伝えようとする。
「ねえ、慧音。本当は私、一日三回も食事いらないの。睡眠だって取らなくてもいいし、傷だって手当てしなくても勝手に治る。でも、嬉しかった。そんな風に、当たり前に生きていけることが嬉しくてしかたなかったの。確かに慧音は口うるさいしちょっと真面目過ぎるところがあって、窮屈に感じたこともあったけど・・・だけどそれでも私は・・・慧音?ねえ、慧音?」
慧音は動かなかった。目は開かぬまま、息遣いは聞こえない。体は急速に温度を失い硬直し、鳴り続けていたはずの鼓動は、いつの間にか止まっていた。何もかも途切れて、取り返すことはできない。
慧音は、静かに死んでいた。何事もなかったかのように穏やかに、月明かりの下で眠っていた。
「慧音・・・」
動かなくなってしまった慧音を、瞳に焼き付ける。足の先から頭のてっぺんまで、その全てを忘れてしまわないように、繰り返し繰り返し見つめる。怒った慧音も泣いた慧音も驚いた慧音も笑った慧音も、血と一緒に流れて、私の心に染み込んでいくように。
そして私は泣いた。泣いて泣いて泣き疲れて、それでも泣いて泣いて泣いて。
そして最後に一言だけ、ありがとうと言った。
===
「哀しいかな 哀しいかな また哀しいかな」
結局、私は慧音の葬式に出なかった。家も元の掘っ建て小屋に戻した。引越しの荷物は相変わらず軽かった。出て行った時から何も増えていないだから、当たり前である。
「悲しいかな 悲しいかな 重ねて悲しいかな」
小さな声でそう呟く。言葉は空虚に掠れて霧散する。何も残らない。聞いている者もいない。広大な竹林の小さな家に、私一人きりだった。
玄関から外に出てみた。冬の空気は肌を濡らすように冷たい。息が白くなって、肺が妙に熱くなる。地面は硬く、竹は光を反射して豊潤な緑色に輝く。野鳥達が甲高い鳴き声を残し空を渡る。どこへ行くのだろう?
「美しい朝ですね」
突然、背後から声をかけられた。聞き覚えのない甘ったるい声だった。
「誰だい?」
「私は霍青娥と申します」
霍青娥と名乗ったその女は、晴れ空のようにさわやかな水色のワンピースを着て、髪には不思議な形の簪を一本挿していた。笑顔なのだけど笑っていない。そんな不気味な表情を顔面に貼り付けている。なんとも胡散臭い。
「そんな警戒しないでください。私はただお届けしたい物があって参ったのです」
「届け物?」
「はい。より正確に言うのであれば、妹紅さんへの届け物ではなく、慧音さんへの届け物なのですけどね」
私は警戒しながらも、霍青娥を家に招き入れた。盗まれて困るものがあるわけでもないし、慧音への届け物が何なのか興味が湧いてきたのだ。
「何というか・・・殺風景ですね」
青娥は部屋の隅にあった座布団を取ってその上に正座し、キョロキョロと辺りを見回していた。自分の部屋を観察されるのはあまり気分のいいものではないが、家具が箪笥しかないのだ。これほど観察しがいのない部屋は他に無いだろう。
青娥もそう思ったらしく、視線をゆっくりと私の方へ戻した。
「それで届け物っていうのは?」
私は青娥と向かい合うように座った。
「これなのですが・・・・」
青娥が包みを解くと、中から木で出来た円球型の彫刻が出てきた。完全な丸ではなく、表面に微妙な凹凸がある。木の温かみが失われない程度の薄い漆が塗られていて、触り心地はとても滑らかだ。
「これは・・・?」
「『月』の彫刻だそうですよ」
言われてみると、それは確かに月だった。表面の凹凸は、遠くから眺めると兎に見える。大きな耳を立てて、杵を振り上げる兎。足元にある臼目掛けて杵を振り下ろし、餅を搗くのだ。杵と臼がぶつかり合う音が、部屋中に響いてくるような気がした。
そうやってじっくりと月を観察していると、一つおかしなことに気づいた。
「ねえ、この月欠けてる?」
「はい。満月の数日手前、待宵月です」
「そうなんだ」
木で作られた月は動かない。ずっと待宵月のまま。満月が訪れることのないまま。
満月の夜、慧音は一筋の涙を零した。どこまでも透明な、澄んだ涙だった。もしも満月が、待っても訪れることのない宵であるのなら、彼女は笑って生きることができたのだろうか?これから先も、生きていくことができただろうか?私には分からない。
分からないことはたくさんあった。永く生きれば生きるほど、分からないことは増えていくから不思議だ。
自然の理を無視して時を止めた月を、私は箪笥の上に飾る。殺風景だった部屋が、少しだけ明るくなった気がした。
「お気に召しましたか?」
「うん」
「それは何よりです」
青娥は笑った。飴玉の中に毒薬を仕込んだかのような、胡散臭い笑顔だけれど、私は毒を飲んでも死なないのだから別に構いやしない。
「私は神霊廟というところで日々修行しています。ぜひ一度いらしみてください」
青娥はそう言い残して部屋を出て行った。私はまた一人になった。
「哀しいかな 哀しいかな また哀しいかな」
部屋の隅に座って、もう一度声に出してみる。やはり聞く者はいない。
「悲しいかな 悲しいかな 重ねて悲しいかな」
思い出すことは沢山ある。
慧音の笑顔は飾り気なく穏やかで、見ていると日向ぼっこしているみたいに暖かかった。
慧音の説教は無駄に長かった。そのせいか、学校の授業もつまらなかった。熱意は人一倍のはずなのに、そう同情してしまうくらいつまらなかった。
慧音の料理は美味しかった。味付けは絶妙だったし、毒キノコも入っていない。とくに肉じゃがと卵焼きはもう一度食べたいと思う。もう一度あの食卓について、二人で笑いたいと思う。
いつの間にか、私は泣いていた。温かいものが頬を伝って、シャツを濡らし、床へと落ちる。でも、そんなことはどうでもいいのだ。もっと大切なことがある。
「ねえ、慧音。今なら分かるわ」
そう、今の私には分かる。
幾ら体が動いたって、魂が宿ったって、心がなくちゃ人間とは呼べないでしょう?
だから慧音、私を蘇らせてくれたのは蓬莱の薬なんかじゃなくて、貴方だったんだ。貴方が私を生き返らせてくれた。この世に生まれて、命を削って息をして、怒って泣いて笑って、私に心をくれたんだ。おかげで私は死を悲しみ、貴方を想うことができる。貴方のいないこれからを、それでも生きていこうと願える。
「全部全部、貴方だったんだ」
私は涙を拭う。
その時だった。まるで小枝を折るような軽い乾いた音がして、家の壁に穴が空いた。穴が空いたというよりも、一方の壁が崩れ落ちたといった方が正解かもしれない。暗かった部屋に一杯の日の光が差して、土煙の向こうに人影が見えた。見慣れたシルエットだった。
「なに辛気臭い顔してんのよ、気持ち悪い」
「こんな派手な励ましを受けたのは初めてよ。どうもありがとうね、輝夜」
引っ越して早々家が壊されるなんて、碌でもない人生だ、本当に。
「いいじゃない。あんただってこの間永遠亭燃やしたでしょ。お互い様よ」
輝夜はそう言って、蓬莱の枝を構えた。
どうせ家は半壊してしまったのだ。全壊しても何ら問題はない。また建てなおせばいい。意を決した私の両手から、紅い炎が吹き出す。
炎は月の彫刻を明るく照らして、私は少しだけ笑った。
私と慧音の間には卓袱台が一つあるだけ。そんな近い距離であるにもかかわらず私が聞き返したのは、勿論高齢で耳が遠くなったからではなく、慧音の言葉が余りにも突飛だったからだ。平たく言うと、耳を疑ったのだ。
「だから、私と一緒に暮らさないかと聞いたんだ」
「・・・・一緒に暮らすっていうのは、同居するってことだよね?」
「当たり前だろ。何を言ってるんだ」
「そ、そうだよね」
そうだ。同居するというのは一緒に暮らすという意味で、寝食を共にすることなのだ。それ以外に何があるというのだろう?・・・・違う。私は「一緒に暮らす」という言葉の意味が聞きたいんじゃない、一緒に暮らす理由を聞きたいのだ。
「嫌か・・・?」
「そ、そういう訳じゃないんだけど、突然だったからちょっと驚いちゃって・・・」
「じゃあ、決まりだな。今日と明日で、お前の荷物をこっちに移してしまおう」
「う、うん」
いつになく強引な態度の慧音に押されて、私は訳の分からぬまま頷いてしまった。一体どうしたというのか。
「早速行こう、妹紅」
慧音はすくっと立ち上がって、玄関へと歩いて行く。卓袱台に残された湯飲みからはまだ湯気が上がっていて、中身の緑茶も殆ど飲まれていない。そもそも、居間に通されてからまだ幾許も経っていないのだ。さすがに急過ぎる。
「ちょっと待ってよ慧音!」
私ーー藤原妹紅は慌てて立ち上がり、急いで慧音の後を追いかけた。
慧音と私は仲が良い。より正確に言えば、慧音は誰とでも仲が良く、私は慧音とだけ仲が良い。人里にたった一校しかない寺子屋の熱心な先生と、竹林で細々と生きるはぐれ者、どちらが友好的かなんて、火を見るよりも明らかだ。
にも関わらず、慧音は私にとても気を遣ってくれる。あまり食事を摂らない私のために料理を届けてくれたり、冬には暖かい毛布をくれたり、慧音は私にとってたった一人の理解者と言っても過言じゃないだろう。
けれど・・・・
「突然同居なんて、どうしたの?」
私は、人里の外れにある竹林ーー迷いの竹林を通り、私の家に向かって歩みを進めていく慧音に尋ねた。私には未だ、慧音の意図する所が見えていなかった。
慧音は振り返って、少し考えるように腕を組んでから答えた。まるで、今後付けで理由を考えているような態度だった。
「お前もあんな所に住んでいたんじゃ不便だろう?それに、永遠亭へ案内できるお前が人里に住んでいれば、いざという時にも心強い」
永遠亭というのは、病院もしくは診療所のようなものだ。迷いの竹林の中央にあるので、診察を受けようと向かった多くの人々が迷い、中には妖怪に襲われる人もいる。そこで、竹林の妖精達に顔が利く私が案内役を勤めるようになったのである。
ちなみに、永遠亭には大量の兎と万能の医者、それから引きこもりのお姫様が住んでいる。お姫様は役に立たないし死んでしまえばいいと思うのだが、死なない。とても残念だ。憎たらしいったらありゃしない。死んでしまえとどれだけ願ったことだろう。
・・・・話を戻そう。
「慧音の言いたいことは分かった。でも、わざわざ同居する必要は無いんじゃ・・・」
「いいじゃないか。今人里に空き家は無いし、私の家は一人で住むには少し大き過ぎるんだ」
慧音はそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。もう私の家は目と鼻の先である。いや、引っ越すのだとしたら、今日からあそこは私の家でなくなるのか。大した工夫も無く適当に作った掘っ建て小屋だけれど、そう思うと少しだけ寂しい気がした。
竹林の隙間から軽やかな光が差し込んでくる。空を飛ぶ鳥の鳴き声と、草を踏み分ける兎の足音が聞こえてくる。竹林はいつも通りの昼下がりを迎えていた。
私の気を知ってか知らでか、慧音は靴を脱ぎ、家に上がり込んだ。私もその後を追って中に入る。
「着いたのはいいけど・・・。持ってく荷物なんて殆どないね」
私の家には、家具が殆ど無い。殆どというか、箪笥が一つあるだけで他には何も無い。調理器具も、古びた鍋と包丁が一つずつあるだけ。あまり物を持つのが好きでないのだ。魔法の森のはずれにある雑貨店の主は、わざわざ無名の丘に出かけてはガラクタを集めてくるらしい。そういった人間の気が知れない。
「うーん、箪笥も調理器具も一通り私の家で準備できるからな・・・。どうする、妹紅?」
「じゃあこのまま置いといてもらえばいいや。またここに帰ってくることもあるかもしれないし、服だけ持って行くわ」
服を風呂敷につめて準備終了。こんなに手軽な引っ越しなんてそうはないだろう。まるで、友達の家に泊まりにいく子供のようだ。
私は最後まで事情の分からないまま、元の家を後にした。
慧音の家にはまだ多くの空き部屋があった。私はその一つを私室に当てがってもらい、備え付けられていた箪笥に、持ってきた衣服をしまった。一部屋だけだというのに、私の掘っ建て小屋と殆ど面積が変わらないような気がする。相当に広い。勢いに流されて引っ越してしまったが、これはこれで悪くないかもしれなかった。
寺子屋の教師であり、人々を守護する力を持つ慧音は、里の者達から敬われている。そのためか家も他に比べて一回り大きい。そんな家に一人暮らしなのだから、歴史書や教科書の類を詰め込んでも、まだ私と同居できるだけの余裕があった。「彼らは私を尊敬してるんじゃない。畏怖してるんだ」などと慧音は言っていたが、そんなことを気にするなら、私と一緒に竹林で暮らせばいいと思わなくもない。
「大丈夫か、妹紅」
慧音が様子を見に来てくれたようだ。
こうやって、新しい部屋に入ると、引っ越したんだなあという実感が湧く。さて、引っ越しなんて何百年ぶりだろうか。昔は数年、数ヶ月、下手すれば数週間で引っ越しを繰り返していたのだから、それを考えると、あの掘っ建て小屋には随分とお世話になったなと思う。
「問題ないよ」
私は返事をして、部屋の前で待っていた慧音を伴い、居間に移動した。居間は青々とした畳部屋で、中央に卓袱台が一つと、書斎に入り切らなかった本をしまう書棚がある。そこにも入りきらなかった書物は、廊下や部屋の隅に積み上げられる。稗田の屋敷ほどではないにしても、相当な蔵書量だ。
慧音が台所からもう一度緑茶と煎餅を持ってきてくれた。私達は、硬く醤油の深い匂いがするそれを齧りながら、何をするでもなくぼんやりと夕日を眺めていた。竹林に住んでいた時は、淡赤の光が入ってくるだけだった夕日も、こうして眺めてみるとなかなか趣深い。季節は秋を越え初冬といった様子だが、それでも十分美しく鮮やかである。
「すまなかったな。突然引っ越しなどさせてしまって」
「別にいいよ。最近は、人里も悪くはないなあと思ってたんだ」
数年程前まで、私は人間が、更に言えば、全ての命あるものが嫌いだった。こんな苦しく儚い世界なのに、なんとか生きながらえようとする姿はとても滑稽に見えた。滑稽で無様だった。そんな風に思っていた私が、人里での暮らしを始めようとしている。傍から見れば、滑稽なのはむしろ私の方だろう。
「じゃあ、夕飯にしようか」
「うん。私も手伝うよ」
こうして、慌ただしかった一日が終わっていく。これからの日々が楽しみなような不安なような、そんな久しく感じることのなかった思いに胸を高鳴らせ、私は慧音とともに台所へ向かった。
===
時は少し遡って、妹紅と慧音の同居が決まる数週間前、場所は仙界の一端にある神霊廟。この場所では、世界の心理を見つけんとする道士達が、日々修行に励んでいる。その日もまた、修行者達の高らかな声が響き渡っていた。
「まさか、貴方が入信して下さるとは思ってもいませんでしたわ、上白沢慧音さん」
霍青娥は向かい合う客人に対して、にっこりと微笑んだ。彼女の笑顔は何処か蛇を思わせる。隙を作れば一飲みにされてしまいそうだ。
向かいに座る慧音はこくりと頷くだけで、返事はしなかった。警戒心からか、辺りを見渡しては俯いてを繰り返している。
風水師、物部布都がデザインした部屋には、数多くの中華風の置物がある。金色に飾り立てられた壺や、水晶の彫刻など、置物はどれも異彩を放っていて、部屋全体が生命を持って動き出すような、不思議な錯覚に襲われる。
「それにしても、慧音さんは道教のどのような点に興味を引かれたのですか?偏見かも知れませんが、寺子屋の先生という職業は、宗教に否定的なのだとばかり思っていました」
青娥の問いに慧音が答える。
「いえ・・・。宗教はこの国の歴史や思想に大きな影響を与えてきました。教鞭を振るう者として、興味を惹かれたのです」
「でしたら、道教よりも仏教の方がよろしいのでは無くて?日本における道教の立場は、お世辞にも強いとは言えませんし」
「それは・・・・」
黙りこんでしまった慧音に、青娥の鋭い視線が刺さる。お互いに言葉はない。時間の流れから切り取られてしまったかの如く、何も動かない。
どれほどの時が過ぎただろうか、ふっと、青娥の顔に笑みが戻った。
「何はともあれ、歓迎しますよ。豊聡耳様もお喜びになるでしょう。入信に関する手続きや修行内容に関しては、後ほど連絡します」
「ありがとうございます」
慧音は表情を変えることもなく一つ礼をすると、重厚な扉を開け、そのまま部屋を出ていった。
青娥は、テーブルの上で芳ばしい香りをたたえるプーアル茶を一口飲むと、大きな溜息をついた。
「いつまでも隠れてらっしゃらずに、出てきてはいかがですか?」
「あら、バレてましたか」
慧音の出ていった扉がもう一度開き、部屋に入ってきたのは、豊聡耳神子だった。そのまま青娥の向かいの席、慧音がいた席に座る。
神子はいつも通り、紫色のマントに薄紫のスカートという出で立ちだが、明らかに普段の彼女と違う点が一つだけあった。「和」の文字を宿したヘッドホンが付けられておらず、耳が露わになっていたのである。それは、彼女が能力に対する制限を解いたことを意味する。
「彼女から何が『聞き取れ』ましたか?」
「一番強いのは愛、それと均衡するように憎がある。しかし、それらは表と裏。同時に動く欲望ですね」
「そんなことを聞いているのではありません。貴方は、彼女の目的も分かっているのでしょう?」
「うーん」
神子はわざとらしく首を捻った。
「目的?何のことですか?彼女は道教に入信したがっている、それ以外に何かあるのでしょうか?分かりません」
邪仙ーー青娥の笑顔は蛇だった。ならば、この神子の笑顔は鷹と言えるだろう。空中を飛ぶ鷹は、姿を見せることもなく獲物を仕留める。彼女の能力ならば、それが可能だった。
「歴史を司る半獣、自らの内に陰と陽を持つ彼女ならば、辿りつけるかもしれないんよ。道教が目指す宇宙の心理ーー道にね」
===
慧音と暮らし始めて一週間程が過ぎた。少しずつではあるが、里での暮らしに慣れてきたように思える。里の子供達と遊んでやったり、竹林で採れた野草を近所に届けたり、人と接する機会が増えたのは、きっと悪いことじゃないだろう。
そして今日も今日とて、慧音は寺子屋勤めで家にいない。半ば居候のような身である上に碌な仕事もしていない私は、できる限りの家事をしようと心掛けている。炊事洗濯はできないわけではない、むしろ得意な方なのだ。
「今日は天気もいいし、洗濯から始めようかな」
そう思い立った私は、井戸の水を桶にため、洗濯板に服を押し付け始めた。力の入れ加減が中々難しく、余り力を込めすぎると服を傷めてしまうし、逆に弱すぎると汚れが落ちない。布の包み込むような柔らかさと、水の刺すような冷たさを感じながら、洗濯を続けていく。
しかし、こうして慧音と一緒に住んでいると、自分がどれだけ不死の体に頼って生きてきたかを思い知らされる。住居しかり食事しかり睡眠しかり、どうせ死なないなら苦しくてもどうでもいいと思っていたが、こちらに来てからはそういうわけにもいかない。ちゃんと一日三食、毒のない飯を作らなければならないし、寝るのにだって布団を使わなければいけない。不自由といえば不自由だが、人間とはそういうものだということを忘れていた。そういう意味でも、同居を提案してくれた慧音には感謝すべきだろう。
どれくらいの時間が過ぎただろうか、日の当たる向きからして、昼を少し過ぎたくらいだろう。ただ無心で服を洗う私に、声をかけてくる奴がいた。
「あらあら、貴方いつの間にか専業主婦になってたのね」
この何百年間、飽きるほど聞いた声だった。平穏が壊れる音だった。出来ることなら無視していたいのだが、奴は執拗に私に話しかけてくる。
「ちょっと、無視はひどいんじゃない?千年も生きてるものだから、ついにボケちゃった?」
そいつはいつも通り、腰より長い艶やかな黒髪と、まるで桜のような淡い香りを風に靡かせて、この世のどんなものより美しかった。大きく華やかな瞳に整った鼻筋、透き通るように白い肌。西洋の彫刻も日本の絵画も、彼女の前では見劣りしてしまう。どれだけ私が憎んでいても、その美しさは偽れるものではないのだろう。
「仕事もせずふらついているよりは、よっぽどマシでしょう」
私は立ち上がって、その女ーー蓬莱山輝夜を睨みつけた。こいつが私を訪ねてくる理由は、今も昔も一つしかない。数百年前から何も変わらない、それが私達の関係だった。
「久しぶりに殺し合いましょうよ、妹紅」
私達は馬鹿だと思う。終わるはずのない鬼ごっこを何百年間も繰り返してきた。そしてきっとこれからも、何千年と続けていくのだ。きっとそれは楽しいんだろう。何も考えずに済むのだから。生温い幸せに全身を包まれて、ゆっくりゆっくり沈んでいくのだ。窒息はできず、傷みも忘れて、そんな風に生きていく。
焦げ付いた竹が、苦々しい匂いを伴って倒れていく。周りの草木はいつの間にか全て焼き払ってしまっていた。何回殺して何回殺されたか、私はすでに数えることをやめていた。それくらい私達は殺し合っていた。
「私が三四回死んで、貴方が三十回、今日は貴方の勝ちね」
焼け野原に座り込んだ輝夜が、骨と骨が擦り合うような、カラカラという軽い音を立てて笑う。その手に握られた蓬莱の玉の枝は、煤で汚れていながらも、七色の眩しい光を放っていた。
今日の殺し合いはこれで終わりらしい。途端に体の力が抜けてしまい、私はその場にへたりこんだ。かろうじて元の形を保っていた草木の焼跡が、重さに耐えきれず崩れていく。ハラハラと舞うようにして、ただの灰殻になってしまった。私と輝夜は死なないのに、周りの草木は死んでいく。理不尽この上ない。
「それにしても、今日の貴方は容赦無かったわね。あんな貴方久しぶりよ」
「そうだったかしら?自分じゃ気にしてないけれど」
思う存分殺し合った後の世間話。理解不能だと言われれば頷くしかないが、これが数百年積み上がった私と輝夜の関係だった。今さらどうすることもできない。
「慣れない里暮らしなんかするから、鬱憤が溜まってるんじゃない?」
「そんなこと無いわよ。里での生活は中々快適なんだから」
「そうは言ってもねえ・・・」
輝夜の透き通った瞳がこちらを向く。男とか女とか関係なく、人を惹きつける瞳だ。何となく、月の輝きに似ているように思える。人を狂わせるところなど、特にそっくりだ。
「人というものは、違いを嫌うのよ。確かにこの幻想郷の住人は、不死である私達にも怖いくらい寛大だわ。それでも、やはり貴方は異質。そんなの分かり切ったことでしょう?いつか、里の人間達だって貴方を裏切るわ」
「うるさい」
余計なお世話だった。
私にだって、そんなことは分かっているのだ。人間は臆病で残酷だ。この千数百年間で、嫌という程味わってきた。最初の三百年で嫌われて、次の三百年で恨んだ。その次の三百年は、殺し合うのに必死で何もかもを忘れていた。
しかし人間だって悪いばかりじゃないのだ。優しく、温かいものを誰もが持っている。次の三百年は一緒に暮らしていきたい。三百年とは言わずとも、せめて慧音が生きているうちはあそこにいたい。そう思うことは間違いじゃないはずだ。
「勿論、人里に全く近づくなと言いたいわけじゃないの。ただ、然るべき距離をおいて接するべきだと私は・・・・ゲホッ・・・」
いつの間にか、私は輝夜の喉笛を引き裂いていた。首にポッカリと空いた穴はヒューヒューと風音を立て、ドロドロとした血が灰色の世界に色をつけていく。私の手も血で汚れてしまった。自分のものではない体温を感じ、頭が揺らめく。ぐらぐらと地面が傾いたように感じる。
「気持ち悪い・・・・」
何故だろう。この錆びついた鉄のような匂いも、嗅ぎ慣れているはずなのに。
私は何か恐ろしくなって、その場から駆け出した。
家に帰ると、慧音が出迎えてくれた。
「遅いじゃないか。しかもそんな汚れてしまって・・・」
そう言われて自分の服を見てみると、至るところが焦げて煤がこべりつき、見るも無残な姿になっている。髪の毛も手櫛が通らないほどにごわつき、全身が灰まみれだった。慧音は眉間に皺を寄せながら、一つため息をついた。
「大丈夫、放っておけばお札の力で直るから」
「お前はまたそうやって、もう少し気を使うということをだな・・・・おい、聞いているのか、全く」
私は慧音の説教を聞き流すようにして、靴を脱ぎ居間へと移動する。慧音の説教はくどくどと長すぎるのだ。いちいち真剣に聞いていては、こちらの神経が持たない。
襖を開けて居間へ入ると、すでに夕食の準備が整っていた。美味しそうな肉じゃがが湯気をたてている。サヤエンドウの澄んだ緑とジャガイモの茶黄色が目に鮮やかだ。
「ごめんね。夕飯の準備手伝えなくて」
「別に構わない」
慧音はぶっきらぼうにそう言って、卓袱台の前にどかりと座った。機嫌を損ねてしまったらしい。このままでは、飯が不味くなってしまいそうだ。
慧音の機嫌を直すため、少し世辞を使ってみる。
「慧音の料理はいつ見ても美味しそうだね」
「おだてるな」
「・・・・ごめん」
話が続かない。こういう時に何も言えなくなってしまうあたり、自分が今まで、どれだけ人との会話を疎んできたかが分かる。あのお喋り魔法使いなら、場の空気を一転させるような気の利いた言葉を見つけられるのだろか。私にはそれが出来ない。何とももどかしかった。
「殺し合いをしていたのか?」
「え?」
茶碗に飯をよそいながら、慧音が突然そう尋ねてきた。まるで独り言のような口ぶりで、こちらを向こうともしない。これだけ服を汚して帰ってきたのだ、ばれて当然かもしれない。もしかすると、血の匂いでも染みついてしまっているのだろうか。
「お前が蓬莱山と竹林に入っていたのを見た者がいた。やはり、殺し合いをしていたんだろう」
どう答えるべきだろうか。悩む。正直に答えたら慧音は怒るだろうか。殺し合いなんて間違ってると、そう私を諭し始めるのだろか。
「うん」
あえて正直に答えることにした。
「そうか、分かった」
「・・・・え?」
慧音の答えは、私が予想していたものとは違った。怒りもせず、ただ平然と頷くだけ。台所に移動して汁ものをよそい、無表情でそれを食卓に並べる。
「どうした?」
「怒らないんだな、と思って」
「私はいつか死ぬんだ」
慧音がこちらを振り返った。眉の先を垂らして、口端を歪める。笑っているように見えるけれど、そこにある気持ちは決して喜びじゃなく、もっと暗くて汚れたもののように思えた。
「そして、永遠亭の者たちは死なない。これからも仲良くした方がいい」
「慧音は勘違いしてるわ。私は輝夜を恨んでるの。馴れ合ったりしない」
「そうか」
そんな気の無い返事を一つ残して、慧音はまた黙りこんでしまった。黙々と両手を合わせ、食べ物に箸を通していく。竹林にいた頃と同じ静かな食事が始まって、私は何もできなかった。
===
妹紅が輝夜と殺し合った翌日。慧音は、神霊廟の神子の部屋に招待されていた。こちらは前回訪れた青蛾の部屋とは違い、純和風の作りになっている。まるで江戸時代の将軍屋敷のような、広大な畳部屋だった。掛け軸や欄間の彫刻など、どれも落ち着いた雰囲気の中に鮮やかな技巧が凝らされている。その中でも、壁に飾られた能面が一際異彩を放っていた。
「慧音さんも気になりますか?あの能面、私が作ったんですよ。木彫りがちょっとした趣味でしてね」
神子は壁に掛けられた能面の一つをはずずと、まるで孫を可愛いがるような手つきで撫でた。勿論能面の表情は変わらない。口と目を大きく見開き、憤怒したままだ。
「要件はなんですか?」
慧音は能面を見ようともせず、無愛想にそう尋ねた。感情を悟られまいとしているのか、口を真一文字に結び、視線はどこか浮ついている。
「貴方は一応私の門弟なんですから、もう少し態度に気を使っていただけると・・・。まあいいでしょう」
神子は能面を傍らに置き、代わりに半透明の小瓶を一本取り出した。手のひらにすっぽりと収まる大きさで、中身は何か丸薬のようである。薬の大きさは直径五ミリ程で、夜の闇をそのまま移しこんだように真黒だった。
その薬を見た瞬間、慧音の表情が揺れた。目を大きく見開き、じっとその小瓶を凝視している。
「貴方が欲しいのはこれでしょう?」
「・・・・分かっていたんですか?」
「不老不死は人間の理想です。特に貴方の場合、すぐそばにそれを『成し得た人間』がいる。憧れて当然でしょう」
神子は柔和な笑みを浮かべながら、慧音に向けてその小瓶を放った。瓶は空中で軽く回転しながら、慧音の足元にコトリと落ちた。太陽の光を反射して、小瓶は白く光っていた。
「もうお分かりでしょうが、これは私達が作り出した外丹薬です。飲み続ければ、仙人として寿命を引き延ばすことができるかもしれない」
外丹薬、仙人として長い命を生きるため、道士達が作りだした丸薬。蓬莱の薬には遠く及ばずとも、恐ろしい力を秘めていることだけは確かだった。
「私は別に貴方を脅そうとしているわけではありません。お好きに持って行っていただいて結構です。如何ですか?」
慧音は無言のまま、震える手で、小瓶をひったくるように拾い上げた。それが何よりもの答えだった。
「要件は以上です。修行に戻って結構ですよ、慧音さん」
「はい・・・・」
「あ、最後に一つお聞きしていいですか?」
襖を開き廊下へ出ようとしていた慧音を、神子は呼び止めた。彼女に見えているもの、その答えを確かめるために。
「貴方をそこまで動かしている欲望は、愛ですか?それとも憎ですか?」
===
輝夜との決闘から数日後、私達はいつも通りの朝食を摂っていた。二人分の飯と味噌汁、白菜の漬物に卵焼き。私は慧音の作る卵焼きが好きだ。箸で摘めば形が崩れてしまいそうなほど柔らかく、適度な塩気が効いている。
何故かはよく分からないのだが、決闘の翌日から、慧音はとても機嫌が良かった。廊下で鼻歌を歌っているのを目撃したときは、熱でもあるのではと本気で心配してしまった。
「なあ、妹紅。今日は寺子屋に顔を出してみないか?」
「寺子屋に?」
慧音は白菜の漬物を齧りながら、話を切り出してきた。そう言えば、慧音と同居を始めて1週間半、まだ寺子屋を一度も訪ねていない。同居人の職場先なのだ、挨拶しておいて損は無いだろう。
「うむ。あちらに運びたい書類が溜まってしまってな。手伝ってくれるとありがたい」
「分かった」
特に断る理由もなく、私は二つ返事で承諾した。
寺子屋は、人里の中心から少し南に入ったところにある。教室が三部屋に教員室が一部屋、資料室が一部屋、部屋数は慧音の家とあまり変わらないが、一部屋一部屋が大きいので、面積で言えば倍くらいになるんじゃないだろうか。
私と慧音は、両手いっぱいに抱えた巻物やら古書やらを、教員室と資料室に別けてしまった。この寺子屋には慧音の他に二人の先生がいて、それぞれ習字と算術を教えているらしい。当然教員室には三つの机が並ぶわけだが、慧音の机が一番整理整頓ができていない。机上に紙の山ができてしまっていて、少し触るだけで雪崩を起こしそうだ。
「私はこれから授業なんだが、お前はどうする?」
今日の授業で使うつもりなのであろう紙束を抱えて、慧音が尋ねてきた。
「他の先生達は?」
「今日は寺子屋は午前中だけで、全て私の歴史の授業だからな。来ないかもしれない」
「あ、そうなんだ。じゃあ、慧音の授業見に行こうかな」
「私の授業?」
「うん。結構興味あるわ」
あれだけ熱心に資料を集めているのだ。授業も分かりやすくて子供達に大人気に違いない。せっかくなのだから、慧音が活躍する姿を見ておきたかった。
「よし、お前が見ていくなら頑張らなくちゃな」
自信ありげに言う慧音に連れられて、私は軋む廊下を抜け二つ目の教室に移動した。教室の床は畳で、前の壁は一面に黒板が設置されている。その黒板と向かい合うように生徒達の使う座卓が二十ほどあった。生徒はまだ誰も来ていない。
慧音は教卓に資料を置いて、授業用だろうか、黒板に何やら書き始めた。カツカツと、黒板とチョークがぶつかり合う音が、冷たい朝の教室に響く。私は慧音の邪魔をしないように、教室の左端に陣取った。
慧音の授業が始まってどれくらい経っただろう。随分時間が過ぎた気がする。ただそれも私の体感によるものであって、本当はまだ四半時も過ぎていないのかも知れない。
生徒達はとっくに集中力を切らしていた。机に突っ伏して寝ている者、隣の生徒と喋りこむ者もいる。真面目に聞いている者は、誰一人としていなかった。
「八代目博麗の巫女と今代の博麗の巫女との相違点としては・・・・・・。そして九代目はというと・・・・」
正直、慧音の授業は恐ろしく退屈だった。慧音の説教はくど過ぎると常日頃から感じていたが、授業にまでそのくどさを引っ張ってくるとは思わなかった。これだったら、一日中念仏を聞いていた方がまだマシかもしれない。
「皆疲れただろうし、今日の授業はここまでにしよう」
よっぽど退屈だったのだろう、慧音の号令と同時に生徒達は教室を走って出て行った。天狗もびっくりのスピードである。
そうして教室に残るのは、私と慧音の二人だけになった。空になった教室は、冬の終わりに溶けていく雪うさぎのような寂寥感があった。
「お疲れ様、慧音」
「ありがとう」
そう言えば、あれだけ持ってきた資料を授業中ほとんど使っていない。一体どうしてなのだろうか。
「慧音、その資料は?」
「何故だろう。授業に集中していたら、使うタイミングを見失った」
眉間に皺をよせて首を捻る慧音を見て思った。この人は絶対教師にむいていない。
寺子屋を出た私と慧音は、近くの蕎麦屋に移動した。明かりのあまり入らない静かな店内には、私達の他に一組の夫婦がいるだけ。空いている理由は正午を半時ほど過ぎているからか、元々客が来ないからか、私には判断できなかった。
「授業をやり切った後は、ここで蕎麦をすする。これが私の日課なんだ。うまいぞ」
慧音はなぜか自慢気に胸を張っていた。料理のうまい慧音がこう言うのだから、きっとおいしいんだろう。次こそ期待を裏切らないでほしいと切に願った。
「盛りそば二丁!お待ちどおさま!」
店員さんの威勢のよい掛け声と共に、蕎麦が運ばれてきた。慧音と私は手を合わせ、透き通るような灰色の麺をつゆに通し、口へと運んでいく。蕎麦独特のコシと甘みが一杯に広がり、そのまま喉をつるりと通り抜けていく。
「これは・・・・」
「うまいだろう?」
「うん、とても」
「そうだろう。そうだろう」
慧音も満面の笑みで蕎麦をすする。この和やかな空気をより一層和やかにするため、私は慧音に話を切り出した。
「そう言えば、慧音はどうして寺子屋の先生になったの?」
あんなに教えるの下手なのに、などとは勿論言わない。私だって頭突きは痛いのだ。
「うーん、理由は色々あるが・・・育ての親が先生だったからかな」
慧音は蕎麦を運ぶ手を休め、こちらにゆるりと視線を向けた。瞳はどこか粘ついた光を放っている。
「育ての親?」
「うん。私の両親は、まだ私が幼い頃に死んでしまっていてな。妖怪に襲われたらしい。今と違ってスペルカードルールなんてなかったからな。今よりもずっと被害者は多かった」
「え・・・・」
やってしまった、そう思った。急に外の空気が冷たくなった。逆に、私の身体は煮えたぎったように熱を増していく。聞いてはいけないことを聞いてしまった。慌てて話題を変えようとしたが、何を喋ればいいのかさえよく分からない。
「私がやっと歩けるようになった頃だから、殆ど面識は無いけれどね」
「う、うん・・・」
「私は別に気にしていないぞ。そんな顔をするな」
「うん・・・・」
慧音の言葉は宙に舞う綿のように柔らかくて優しい。それが私の体温をさらに上げていく。喉は赤茶色に錆びついてしまったようで、返事をするのがやっとだった。
「私はずっと寺子屋で授業を聞いていた。引き取られてから毎日ずっと。教卓に立つ先生は輝いていて、黒板に綴られる文字はまるで魔法みたいだった。いつから先生になりたかったかと言われるとよく覚えていないけれど、いつの間にか私は教鞭をふるっていた」
話し終えた慧音はまた蕎麦へと視線を戻し、大きな音をたてすすっていた。箸が動く度、せいろから蕎麦が消えていく。職業病の一種だろうか、すごい早さだ。私はそんな慧音の姿をぼんやりと眺めるだけで、箸を動かすことができなかった。
「やっぱり親と子は似るのかな」
「背中を見て育つんだ。似て当然だろう」
なら、私も父上と似ているのだろうか。背中すら見たこと無いから、似ていないかもしれない。自分ではよく分からないし、今さら分かりたいとも思わなかった。
「ほら、急いで食べないと置いていくぞ」
「蕎麦ってのは、もっと楽しんでゆっくりと食べるべきじゃないかな」
私は慧音に置いていかれぬよう、急いで蕎麦を口へと運んだ。
===
慧音の寺子屋を見学した数日後、私がいつも通り家の掃除をしていた時、珍しい来客があった。
「なぜ貴方がここにきたの?使いの兎が来るならともかく」
「どうしても伝えておかなければいけないことがあってね。一度永遠亭に来てくれないかしら?」
珍しい来客ーー八意永琳は、玄関に突っ立ったまま、無愛想な返事をした。相変わらず赤青二色の生地に星図をあしらった謎の衣装を着て、長い銀髪を三つ編みにまとめている。虚ろな灰色の瞳は、どこを眺めているのか窺うこともできない。
私と彼女は輝夜を通して少し付き合いがある程度の仲なのだが、わざわざ家まで出向くほどの用事などあるのだろうか?私には心当たりが無かった。
「私を永遠亭に呼んでいいのかしら?」
「あら、勘違いしているようだけど、私は貴方のことを嫌ってはいないわ。むしろ、姫様の遊び相手として重宝しているのよ?」
「遊び相手、ね・・・」
私としては遊んでいるつもりなど毛頭ないのだが、この薬師から見れば子供のままごと程度のことなのだろう。私や輝夜も随分長い時間を生きてきたが、この薬師には遠く及ばない。何というべきか、彼女の周りだけは、別の法則で世界が動いているのではないかと疑いたくなるような、不思議な空気が漂っているのだ。きっとこの郷に住むどんな妖怪であろうとも、この薬師に敵う者はいないだろう。
「で、どうなのかしら?一緒に来てくれるのかしら?」
「分かった」
従う理由は無いが、断る理由もない。私は永琳の問いかけに応じて、永遠亭へと歩き始めた。
永遠亭に着くと、永琳は私を診察室に通した。外の世界の病院を模して作られたこの部屋は、鉄製の机と椅子、西洋式の寝床であるベッドが準備されている。永琳はそのまま私を患者席に座らせ、自分は定位置である医者の席に腰をおろした。
「今日は貴方に大事な話があるの」
「大事な話って、私医者にかからなきゃいけないようなことしたかしら?」
確かに私はここのお姫様を数万回殺してきたけれど、私だって同じくらい殺されてきたのだから、おあいこだろう。
「いえ、貴方の同居人、上白沢先生についてなんだけど・・・・」
永琳は背もたれに大きく体重を移し、一つ大きな深呼吸をした。鉄でできた椅子は軋んで鋭い音を立てる。烏の鳴き声のような、人を小馬鹿にする音だった。
「慧音がどうかしたの?」
嫌な予感がした。窓から入っていた日光はいつの間にか雲で隠れ、永琳の顔が影に埋れた。明るい白だった壁が灰色に汚れて見え、鉄の机は金属独特の冷たい輝きを放ち、まるで病室全体が潰れて消えるような錯覚に襲われる。冷たくもなく温かくもない風に、髪が流れていく。
ゆっくりと永琳の唇が動き、音を零した。
「>;>{^\・;*|(「)「@/\・!,+\+]'」
「今なんて?」
何も聞こえない。永琳の口は確かに動いたのに、鼓膜を揺らさなかった。
「けいねせんせいのよめいのこりいっかげつよ」
「今なんて?」
言葉は聞こえた。でもそれは、区切りの見えない音の集まりで、意味は分からなかった。
「慧音先生の余命、残り一ヶ月よ」
意味が分かった。鼓膜が震えて区切りが見えて、私は理解した。理解したうえで、もう一度聞き返す。
「今なんて?」
「慧音先生の余命、残り一ヶ月よ。あと二回満月が拝めるかどうかってところでしょうね」
「は?慧音の余命?一カ月?」
意味が分かっても、到底納得できるような話ではなかった。声は上ずり、鼓動が速くなっていく。兎が運んできた緑茶を一気に飲み干し、空になった湯のみを投げ捨てた。湯飲みは鋭い音と共に砕けて、破片が床に散らばった。赤くて青い永琳は、ただじっと私を凝視したまま動こうとしない。
慧音はまだ若いし、半人半妖で普通の人間より寿命が長いはずなのだ。そもそも薬の効かない薬師の言うことなど、信用できたものではない。
「なんで慧音が死ぬの?」
「寿命よ」
「何言ってるの?慧音は半獣よ?寿命だって長めのはずじゃない」
「違うわ」
永琳は首を横に振った。
「慧音先生は後天的に半人半獣になった。それは、一つの肉体で同時に二つの命を生きるようなものなの。その分肉体には大きな負担がかかり、寿命が極端に縮んでしまうわ。私にも、手の出しようがない」
「だって、そんな・・・。慧音はあんなに元気そうにしているのに・・・」
「事実よ。慧音先生の身体は見えないところで着実に傷ついている。ハクタクの代償を支払っている。もう限界なのよ」
永琳は糸の切れた操り人形のように、口をつぐみ俯いてしまった。私は切れた糸の先を探して天井を見あげるけれど、勿論そんなものはどこにもなくて、永琳の話はここでお終いだった。先には何も無かった。
「限界って・・。だって、慧音は・・」
本を読む慧音、授業する慧音、眠る慧音、食事をする慧音、笑う慧音。死ぬという言葉からは程遠い。何気ない日常を、普通に生きているはずなのに。
何か得体の知れないものが、私の頭の中で暴れ回る。頭を突き刺し喉を通って胸に届く。何度となく吐きそうになり、視界は爛れて見えなくなってしまった。
「慧音が死ぬ?」
「ええ。貴方は最近慧音先生と同居しているようだから、伝えておかなければいけないと思ったの。残念だけれど、受け止めるしかないわ。それが私達ーー永遠の罪人が受ける罰なのだから」
「私達に時効は無いのかしら?」
「あれば貴方は救われるの?」
私は立ち上がって、思いっきり椅子を蹴飛ばした。もう何も分からない。何も考えたくない。
そうだ。こういう時は輝夜を殺そう。
私は永遠亭の廊下を駆けた。床板が軋み醜悪な音を立てる。永琳は追いかけてこなかった。廊下は薄暗く延々と続いていて、私は必死で足を動かした。どれだけ走っても前に進んだ気がせず、逆に走った分巻き戻されるような悍ましい感覚に襲われる。それでも走る以外にできることは何もない。息が上がって、肺に穴が空いたかのように呼吸が苦しい。喉が焼け、足が崩れる。
それでもずっとずっと走り続けて、やっと光が見えた。襖の隙間から入り込む直線的な赤い光。思わず目を背けたくなるような眩しい輝きに、私は懸命に手を伸ばした。
「あら、妹紅。殺しに来たの?」
輝夜は縁側で夕日を眺めていた。赤い輝きを背にして、鬱陶しいほど甘い笑顔。スカートが乾いた風にはためいて、気持ち悪いくらい美しかった。
何を見て笑っているんだ。そんなにおかしいか。
「貴方息上がってるじゃない。どれだけ急いだって、どうせ私死なないのに」
輝夜がゆっくり立ち上がった。距離が近づく。手が届く。私の腕が輝夜の首を掴んだ。輝夜は笑ったまま、腕を振りほどくこともしない。
そして私達は殺し合った。
今日の私はとてつもなく弱かった。幾度となく輝夜に殺された。三回ほど首をもがれたし、骨は何箇所折れたか数えられなかった。殺すなんて意気込んで来たけれど、実は死にたかったのかもしれない。死んでみたいと、思っていたのかもしれない。
「今日は随分弱かったわね、貴方」
仰向けに倒れこんだ私を見下げるようにして、輝夜が立っている。うすい桃色のスカートには、泥汚れ一つついていない。竹林も以前と違って燃え落ちることなく、悠然とその姿を保っていた。私が弱かった、理由はただそれだけである。
「ねえ、死ぬってどういうことだと思う?」
「知ってどうするの?」
「慧音先生の余命、後一ヶ月よ」、永琳の言葉が私の頭を竜巻のように回り、何かを削っていく。物を触っている感覚がなくなり、夢でも見ているかのような浮遊感に襲われる。
ハクタクの力ーー歴史を創る力は、彼女自身の歴史を縮めていた。私が知らない間に、慧音はずっと傷ついていたのだ。
「生きとし生きるもの、全てが行き着く先。・・・あら、そうすると私達は生きていないことになるのね」
「そうね」
「貴方の同居者のこと?」
「・・・・知ってたんだ」
「永琳が言ってたわ。とても悲しそうだった」
そういう輝夜の表情は、何かが欠けていた。感情の無い人形と同じだった。きっと諦めているのだろう。この罪人は、色々なものを諦めて笑っているのだ。
「でもいいじゃない。今まで散々見てきたでしょう?人が死ぬところなんか」
そうだ。私は沢山の死体を見てきた。今までに出会った人々、話した人々、皆死んでいった。生きているから、死んだ。それは言うまでもないほど当たり前のことで、しかし、どうしても受け入れたくはなかった。今さらになって、私は人の死を悲しんでいた。
どこからか、子守唄のように澄んだ虫の鳴き音が聞こえてくる。
「勿論知ってたわよ。慧音だっていつか死ぬことくらい。でも彼女は半獣だから、もっと生きていられるものだと思ってた」
「いいじゃない。彼女が十年生きようが百年生きようが、どうせ私達から見れば流れ星みたいなもの。一瞬だけ煌めいて、どこかに消えてしまう」
輝夜が、寝転ぶ私の隣に座った。心臓をえぐり抜いてやろうかと思ったが、疲れていたのでやめた。今は寝ていたい気がした。
「貴方は彼女が消えてしまう前に、どれだけ願い事ができるかしらね」
「何よそれ」
輝夜は答えずに、空を見上げた。華奢だった月がいつの間にか丸みを帯びている。あと数日で満月だろう。そんな月を囲むように星々が不規則に並ぶ。星座なんてものは人間が後付けしたもので、星はただそこにあるだけでなのだ。
さて、もうそろそろ家に帰らなくちゃならない。
===
妹紅が永遠亭を訪れた日、物部布都は神霊廟の屋根に座り、不満げに足をばたつかせていた。布都の隣では、青娥が気持ちよさそうに寝転んでいる。隣り合って座っているにも関わらず、二人の表情は見事に正反対だった。
「のう、青娥殿。何故太子様はあの半獣のことを、あそこまで気にかけるのじゃ?」
布都が不機嫌な理由、それは今月新たに入信した半人半妖ーー上白沢慧音に対する、神子の優遇にあった。本来であればまだ道場にさえ入れてもらえぬ立場の新入りが、神子本人から修行をつけてもらっている。千年以上の時を共にしてきた布都にとって、それは到底許せるものではなかったのだ。
「しょうがないでしょう?あのハクタクの子には才能があるもの」
「才能・・・?」
「そう。人間と妖怪、一つの身に秘めた陰と陽の力。それだけでも十分すぎるくらいの素質なのに、彼女の場合は歴史を司る能力まで持っている。残念だけれど、布都さんに勝ち目は無いわね」
「くそ・・・。汚らわしい物の怪が・・!」
「あら布都さん、そういうことは思っても言わない方が身のためよ」
そう言う青娥の目線は、布都の頭上を飛び越えて、何か別のものを見ているようだった。布都は青娥の視線に沿って、後ろを振り返る。
「青娥の忠告通りですね、布都」
そこには神子がいた。笑うでも怒るでもない、能面のようなのっぺりとした表情で青娥と布都を眺めている。布都の表情が、みるみるうちに引きつっていく。
「太子様・・・!一体いつの間に!?」
「別にいつから居ても一緒ですよ。どうせ貴方の欲は私にダダ漏れなのだから」
神子は風に靡くマントを抑えながら布都の隣に座り、虚ろな目で空を見上げた。半分ほどが雲に隠された空は、言いようのない暗欝を漂わせている。
「布都。貴方には、慧音さんが妖怪に見えますか?」
「見えるも何も、半人半獣なのですから、妖怪で間違いないでしょう?」
「確かにそうなのですが・・・。しかし・・」
いつになく煮え切れない態度の神子に、青娥が尋ねた。
「では太子様。貴方はあの娘を何ものだと思うのですか?」
「布都の言うとおり、彼女は半人半獣なのだから、妖怪であると言っても間違いじゃない。むしろ正しいのでしょう。でも、私は彼女を人間だと思っています。この幻想郷は全てを認め許してしまう。でも、そこに住まう人々が全てを許せるかと言えば、そんなことはないですからね。彼女は、自分が許せないのかもしれない」
布都には神子の言わんとすることがよく分からなかった。しかしそれも、当然と言えば当然なのかもしれない。神子の「聞いてる」世界は、あまりにも違いすぎるのだ。
「まあ、答えはそのうち見えてきますよ。きっとね」
===
永琳の宣告から数日後、今晩は、慧音と暮らすようになってから初めての満月だ。満月の夜、慧音はハクタクに代わり、歴史を創る能力を得る。その間に新たな歴史を編纂するのが、彼女のもう一つの仕事。いや、使命といった方が正しいのかもしれない。
夜中の仕事に備えて、慧音は家で寝ていた。一度歴史の編纂を始めてしまうと、朝を迎えるまで殆ど休まないらしい。私はそんな慧音に魚料理をご馳走しようと思い、迷いの竹林を流れる川を訪れていた。
川とは言っても、子供達が砂遊びで作る水路のような、ちっぽけな小川だ。小川は私が竹林に住み始めた頃から何も変わっていない。光を反射し輝く流れは、まるでガラスの破片を散りばめたかのようだ。そこにはたくさんの魚達が生きている。冬の水はとても冷たく、所々に氷が張っている。
私は静かに浮きを垂らして、魚がかかるのを待った。
釣りというのは案外難しい。気持ちが乱れれば糸も乱れ、その動きを魚は敏感に察知する。生きるのに必死なのだ。そして今日の私の気持ちは散々で、浮きは漂うだけで全く沈まなかった。
「だめだな・・・・」
ずっと頭の中から永琳の言葉が離れない。ここ数日ずっとそうだった。夢の中でも、あの灰色の病室が浮かぶ。私は椅子を蹴飛ばして走るのだが、いつまでたっても廊下を渡り切ることができない。外から差す紅い一筋の光は、ずっと遠くから私を嘲笑っているように感じる。そんな悪夢だった。
「あれあれ、随分と苦労しているようだねえ」
後ろから声がして振り返ると、因幡てゐが笑っていた。何がおかしいのか分からないが、腹を抱えて土手の草々の上を転げ回っている。因幡が笑う度に、大きな耳と、首にかけた人参のペンダントが揺れた。
「何がそんなにおかしいのよ?」
「河童の川流れ、猿も木から落ちる、藤原も魚から逃げられるってことかい?」
どうやら、全く魚が釣れないのを馬鹿にしに来たらしい。早急にご退場願いたかった。そうでもしないと、また竹林が火事になる。今の私は気が立っているのだ。
「笑いに来たんなら帰ってくれる?」
「別にただで笑いに来たわけじゃないさ」
一通り笑い終えたのか、因幡は立ち上がって服についた泥を払い、馴れ馴れしく私の隣に座った。釣り糸は垂らしたままだが、一向に釣れる気配がない。沈みさえしない。
「少し幸福にしてあげようかと思ってね」
「あんたが言うと冗談に聞こえないわね」
「そりゃそうさ。私ならできるもの」
でも幸福なら、慧音にあげてきてほしいと思う。
「それはどうだかねえ。私が幸福を与えられるのは、人間に限られているのさ」
私は何も言っていないのに、因幡はそう答えて意地の悪い笑顔を浮かべた。完全に考えを見透かされていた。余計に腹が立ってくる。
「慧音は人間よ」
「今日の晩、人間じゃなくなるだろう」
「それは・・・・」
「というわけだから、私があれを幸福にするのは無理さ。まあ、あんただって人間かどうか怪しいけどねえ?」
因幡はそう言うと立ち上がり、竹林の方へと歩き始めた。光が通らない暗い竹林、その奥では輝夜とか永琳とか鈴仙とかが、相も変わらず暮し続けているんだろう。因幡はそこへ帰るのだ。
「結局あんた何しに来たのよ」
「そうだねえ、やっぱり笑いに来ただけだったのかもしれないねえ」
因幡は一度だけ振り返り、他人の不幸は蜜の味と言わんばかりの汚い笑顔を見せ、闇の中に紛れていった。捕まえておけば慧音に兎鍋をご馳走できたかもしれないと、ちょっと後悔する。
その時だった。今までただ流されていただけの浮きが沈んだ。一度、二度、微かではあるが確実に動いている。やっとかかったようだ。
「これは・・・!!」
私は釣竿を握り直して、魚がしっかりと餌に食いつく瞬間を待った。
結局魚は釣れなかった。それは私の心が落ち着かなかったせいかもしれないし、あの兎が残した当然の結末なのかもしれなかった。今さら考えたところでどうしようもないのだが、慧音に釣った魚を御馳走できなかったことを、どうしても悔んでしまう。
慧音はまだ寝室で寝ているようで、家は不自然なほど静かだった。外の喧騒が全て嘘なのではないか、そう疑いたくなる。私は釣り道具を庭にある倉庫に片付けて、居間へと戻った。
夕飯を作り始めるにはまだ早いが、かと言ってもう一度家を出るのも何となく億劫だった。
どれだけ人里に馴染んだつもりで居ても、やはり一人でいるのが一番心地よく感じてしまう。千数百年積み重ねてきた習慣は、そう簡単に直るものではないだろう。
「さてどうしたものか・・・」
何気なく辺りを見回していると、部屋の隅に積み上げられた本の山が目に止まった。私は慧音の家に住み始めてから様々な本を読むようになったが、未だに慧音の書いた歴史書を一冊も読んでいないことに気付いたのだ。慧音の本は皆、書斎の本棚に丁寧に保管されているので、なかなか手に取る機会がない。授業は飛んでもなく詰まらなかったが、本はどうだろうか?
「丁度いい機会だし、慧音の本を読もう」
そう思い立った私は、居間を抜け、書斎へと移動した。
慧音の書斎は、寺子屋の机同様に散らかっていた。没となった原稿が絨毯のように床を覆い、古い歴史書や詩集の類が山積みにされている。慧音は本を集めるのが趣味だが、集めた本の扱いは割と雑だ。本人曰く、「本というのは中身が重要なんだ。装丁が傷んだところで、大した問題はない」とのことだが、それにしても酷すぎる。
私は本の山を崩しそうになりながらも何とか本棚に近づき、真新しい一冊を手に取った。表紙は燃えるように赤く、題名のようなものは見当たらない。表紙をめくってみると、端の方に小さく「上白沢慧音」という書名があった。どうやら慧音の著書らしい。私は書斎の中央にある慧音の机に向かい、本を読み始めた。
慧音の著作における時代区分は、博麗の巫女の世代交代を基準にしているようだ。私が手に取った本は、今代の巫女ーー博麗霊夢の時代に起きた異変や、主な妖怪、人里に住む者達について詳しく表記されている。跳ねや払いにまで気遣いの行き届いた秀麗な文字が、ところ狭しと並んでいた。
博麗霊夢が巫女の職を継いでまだ十年足らず、私が生きてきた時間、これから生きるであろう時間に比べれば塵のようなものだが、それでも数多くの異変が起こり、様々な人々が生き死にを繰り返す。私だけが変わらず、前後も見えぬまま漂っている、そんな気がした。
「ふーむ」
慧音の歴史書はとても出来が良かった。紹介された人物は皆生き生きとしていて、歴史書を読んでいるというよりも、いくつもの物語を見ているような感覚になる。意識しなくても、すらりすらりと内容が頭に入り込んでくる。これだけのものが書けるのに、なぜ寺子屋の授業はあんなにも下手なのか、謎は深まるばかりだ。
そうして読書に熱中していると、いつの間にか障子から差す日差しが赤く染まっていた。もうそろそろ慧音も起き出す頃だろうし、夕飯の支度をしなければならない。私は慧音の歴史書を、一旦居間にある本の山の頂上に乗せて、台所へと向かった。
半刻ほど後、私と慧音は二人で食事を摂った。満月の夜で気が立っているのか、慧音は無言で箸を動かしていた。私も同じように黙ったまま、夕食の席は静かに終わった。慧音は日が落ちきる前に書斎へと入り、すでに数刻が経つけれど、全く出てくる気配がない。
私は慧音の邪魔をしないように、いつもの縁側で静かに月を見上げていた。輝夜と出会うまでの何百年間、私はこうして月を見上げて、青白い光に目を狂わせた。見えていたはずのものが見えなくなった。見えなかったはずのものが見えるようになった。
「慧音、大丈夫かな」
ふと、永琳の言葉が頭をよぎった。慧音はもう二度と、満月を見ることができないかもしれない。
しかし、人はいつか死ぬのだ。時間は刻々と流れ二度と戻ることはないし、人はその時の流れの中で生まれて死んでいく。私の狂った瞳では、そんな当然のことでさえ理解できないのか。
「ここに居たのか、妹紅」
閉じておいた襖を開けて、慧音が縁側に出てきた。流れる銀髪はその一部を翡翠色に染め、天を貫くように角が生えている。いつもの慧音とは違う、ハクタクの姿だった。同居するようになる以前から私と慧音の仲は良かったが、ハクタクの姿を見るのはまだ二、三回目程だった。どうやら、慧音はこの姿をあまり人に見せたくないらしい。人里に何か異変が起こりでもしない限り、ハクタクのまま外に出ようとはしなかった。
「編纂はいいの?」
「ああ、いいんだ」
慧音は私の隣に座り、同じように月を見上げた。慧音の目は、月に狂わされていないだろうか。私は心配になって、ばれないようにそっと覗きこんだ。慧音の瞳は、髪と同じ翡翠色に変っている。どれだけ覗きこんでも底が見えない、深い深い瞳だった。
「月が綺麗だな」
「そうだね」
「綺麗だけど、どこか物寂しい」
慧音はそう言って、月を眺めたまま笑った。どうしてだろう、慧音の笑顔を久しぶりに見た気がする。その笑顔は、まるで森にかかる霞のように静かだった。綺麗なのだけど、手を伸ばしても掴むことができない、そんな寂寥の笑顔だった。
「なあ妹紅。今の私はどう見える?」
慧音は突然私の手を取り、自分の角に押し当てた。滑らかに見えていた角の表面は、実際に触ると少しざらついている。右の角に結ばれているリボンはもうボロボロで、今にも千切れてしまいそうだ。慧音は唇を微かに震わせて、何かを祈るような目で私を見ていた。
「どうって・・・慧音は慧音だよ」
「そうか。私は満月の夜、鏡に映る自分を見ると、化け物だと思ってしまう。だってそうだろう?満月の夜突然妖怪に変わる、そんなの人間じゃないじゃないか。妖怪ですらない。只の化け物だ」
慧音はそう言って、暗色の空へと手を伸ばした。細く美しい手は、何を掴むでもなく、ただ真っ直ぐに空間を切り取る。その延長線上には月があって、他には何もなかった。
慧音は以前、自分の両親を妖怪に殺されたと言っていた。そんな妖怪の力を借りて歴史を編纂し、人里の子供達に伝えているのだ。それがどれだけ屈辱的か、想像に難くなかった。そして私自身も、そうやって悩み生きてきた。
「何言ってるのさ、慧音は人間だよ」
「そうか」
「うん」
私はおどけたように声をはずませ、つとめて明るくそう言った。
「慧音が化け物なら、私だって化け物みたいなものだしね。それに、今日慧音の書いた歴史書読んだなんだけどさ、すごく面白かった。あれは、人間を愛してなきゃ書けないわよ」
「そうかな?」
「そうよ」
我ながら、薄っぺらい言葉だと思う。結局私にも分からないのだ。人間とはどんなもので、慧音や私が一体何者なのか。それでも私は慧音に苦しんで欲しくない一心で、無理矢理言葉をつないだ。掴むことのできない光に手を伸ばした。
「それならいいんだ」
慧音の瞳から、一筋だけ涙が零れた。月の光を反射して銀色に輝き、ゆっくりと頬を伝う。
そんな小さな滴に、私の全てが吸い込まれていくような気がした。視線を奪われ、音が掻き消え、心臓を甘く撫でられたような錯覚に襲われる。私は息を潜めて、じっと涙が消えていくのを見ていた。その涙には、慧音の何かが詰まっているのだ。詰まった何かは涙とともに消えて、時間と同じように、二度と戻りはしないのだ。
「ねえ、慧音」
「ん、なんだ?」
私は髪を束ねていたお札の一枚を解いて、できるだけ丁寧にしわを伸ばし、慧音の擦り切れたリボンの代わりに、左角に結んだ。
「くれるのか?」
「うん」
「ねえ、慧音。やっぱり月は綺麗ね」
「でも、やはりどこか物寂しい」
「そう?二人で見てるから、寂しくなんかないわ」
「そうか」
私は笑って、慧音も笑った。暗く明るいこの満月の夜に、それでも慧音が笑ってくれたことを嬉しく思った。
===
満月の翌日、慧音は再び神霊廟の神子の部屋を訪れていた。
「今日はどうしたんですか?慧音さん」
神子は柔らかい絹のような品のいい笑顔を浮かべながら、熱心に木彫りをしていた。神子の周辺は木屑で埋め尽くされてしまっている。能面ではなく、何か像のようなものを作っているようだ。まだ荒削りの段階で、人のようにも見えたし、魚のようにも見えた。一筋また一筋と、彫刻刀が木片の形を変えていく。
「これをお返しにきました」
慧音は懐から、以前神子に渡された透明な小瓶を取り出した。中身の黒い丸薬は、数粒減っているように見える。
「あらあら、お気に召しませんでしたか?」
会話を進めながらも、神子は彫刻刀を動かす手を休めず、目線を合わせることもしなかった。彫刻刀が木を削る小気味の良く軽い音が、部屋に反響する。
「ねえ、慧音さん。私が今何を作っているか分かりますか?」
神子はそこで突然手を止め、まだ作りかけの像を慧音の方に突き出した。慧音は数秒間、吸い込まれるようにその像を凝視していたが、やがて首を横に振った。
「分かりません」
「それがね、私にも分からないんですよ。でもたまにあるんです、何を彫りたいわけでもないのに、ついつい手が動いちゃう時が」
神子は再び像を削り始めた。
「このまま削っていくと、木はただの木屑になってしまいます。私はそれまでに、この彫刻が何になるのかを見定めなければいけないわけです」
「そうですね」
「でも、これがもし彫像ではなくて塑像だったら、何度でも削るなりくっ付けるなりしてやり直すことができます。それってなんだか卑怯じゃないですか?だから私は彫像の方が好きです」
「・・・・そうですか」
慧音は神子の言いたいことが分からずに、ただ漠然とその姿を眺めていた。神子はその視線を一切気にする様子もなく、像は少しずつ滑らかな面を成していった。
「おっと、すいません。復活し弟子を持つようになってから、どうも説教くさくなってしまって。外丹薬でしたね?」
「はい」
「この薬を捨てれば、貴方は藤原妹紅の前で死ぬことになるのですよ。いいんですか?」
「妹紅がね、私のことを人間だと言ってくれたんです」
慧音は部屋の外に広がる清爽な青空を眺め、囁くように話し始めた。
「多分あいつは、私を励ましたかったんでしょうね。口下手なくせに、一生懸命言葉を並べて。無理矢理明るく振舞って。それに、どれだけあいつが庇ってくれても、私は半人半獣、憎むべき妖怪の力を使う化け物です。でも・・・」
慧音は一つ大きく息を吸って、話を続ける。
「嬉しかったんですよ。それがどれだけ嘘で塗り固められた偽物であったとしても。私は人間なんだなって、あの時だけは、本当にそう思うことができた」
慧音は、初めて神子の前で笑った。笑顔はどこかぎこちなかったが、秋に漂う紅葉のように透き通っている。しかし紅葉はいつか枯れて地に落ちる、慧音の笑顔には、そんな儚さが隠れているようにも見えた。
「だから私は、人間として死にたい。妖怪でも仙人でもなく、ただ普通の人間として。きっとあいつは、忘れずにいてくれるから」
「後悔はしませんね?」
「後悔する時間なんて、もう残されていないでしょう?」
「なるほど、それが貴方の答えというわけですか・・・」
神子は腕を組んで数秒黙った後、何かを思いついたようにはっと顔を上げた。
「慧音さん。この彫刻が出来上がったら、貴方に贈りますね」
「いいんですか?」
「はい。だから、それまで生きていてください。生きるというのはね、素晴らしいことなんですよ」
「・・・・ありがとうございます」
慧音は深々と頭を下げ、襖を開き、神子の部屋を出て行った。部屋に残ったのは、彫刻刀を握る神子と、慧音の置いていった小瓶だけだった。
「盗み聞きとは感心しませんねえ」
「年がら年中盗み聞きをしている豊聡耳様に、そんなこと言われたくないですわ」
「私はしたくてしているわけじゃないですよ?どうしても聞こえてしまうんです」
誰かの声が聞こえた。小鳥がさえずるような柔らかい声。そして、壁に突然大きな穴が開いた。
「豊聡耳様は、一体どこまで見通していたんですか?」
何も見えない黒い穴から這い出てきたのは、青娥だった。背中に纏った羽衣が、陽の光を反射し輝いている。青娥はそのまま壁を背にして座り込み、床に散らばった木屑を一掴みして宙へと舞いあげた。木屑は粉雪のように白く漂いながら、再び床の上に帰っていく。
「どこまでと言うと?」
「慧音さんが不死のために入信したことも、こうしてそれを諦めてしまうことも、あらかじめ予測していたのではないですか?」
神子は、さも驚いたと言わんばかりに両手を振り上げてみせた。いたずらっ子のような、幼く眩しい笑顔である。
「まさか。私は慧音さんを本気で仙人にしようと思っていましたよ。彼女ほどの逸材はそうそういませんから。自ら仙人への道を断ってしまうなんて、本当に残念です」
「そうですかそうですか」
「あら、信じてませんね?まあ、別にいいですけれど」
神子はまた像を削り始めた。床に積もった木屑がみるみるうちに増えていく。作るべきものが見つかったのかもしれない。
「考えてみれば、弟子に道を悟られてしまっては私の立場がありません。私自身が掴まなくては。それで文句ないでしょう?青娥」
「勿論です」
青娥は大きく頷き、それ以上何も言わなかった。
===
満月の夜から数週間、幻想郷に今年初めての雪が降った。はらりはらりと柔らかに揺れ落ちた雪は、世界を白一色に染め上げていく。町も山も川も、溶け合い一つになるような錯覚。雪にはそんな魅力があった。慧音と一緒に住むようになってから、暑い寒いといった感覚が機敏になってしまったようで、今年の冬はいつもより寒いように感じる。
私は慧音と一緒にこたつに入って、他愛のない世間話に花を咲かせていた。
「ねえ、慧音。少し散歩しようよ」
こたつの上のみかんに手を伸ばしながら、私は慧音にそう提案した。慧音はみかんの筋を一本一本綺麗に剥がしてから口へと運んでいく。いちいち筋を取るのは、面倒じゃないのだろうか。
「どこに行くんだ?」
「そうだねえ、湖なんかどう?」
「湖?霧の湖のことか?」
「うん」
私はみかんを一房口の中に放り込んだ。噛むたびに粒が弾けて、甘酸っぱい果汁が口を満たしていく。やはり、冬に食べるみかんは格別にうまい。
「あんなところ行ってどうする?」
「散歩に意味を求めちゃだめでしょ?慧音」
「確かに、それはそうだが・・・・」
散歩にも行く先にも意味なんてない。慧音と一緒にいることに意味があるのだ。それで十分だった。
「じゃあ、これ食べ終わったら行こうか」
「わ、分かった」
私はみかんの最後の一房を飲み込み、暖かいこたつから立ち上がった。
霧の湖は、人里から歩いても然程時間のかからないところにある大きな湖だ。名前の通り年中無休で霧が立ち込めていてるが、冬はとりあえず景色が楽しめる程度の視界は確保できる。中央に浮いている小島には、壁から窓まで何でも赤い悪趣味な洋館が建っている。慧音の家の更に何倍も大きいが、住みたいとは思わない。住人も、貴族を気取った嫌味なやつばかりだ。
「たまには散歩も悪くないな」
隣を歩く慧音は突然しゃがみ込み、湖の表面に浮かぶ氷に触れた。私も慧音に習って氷に手を付ける。氷は磨き抜かれた鏡のように、周りの景色を映し出す。そこでは瑞々しく繁った森を背景にして、私と慧音が並んでいた。
「冷たい」
「当たり前だろう?氷なんだから」
「それもそうだね」
氷は薄く、あまり強く触ると割れてしまいそうだった。冷たいはずなのにどこか少し暖かい。いつまででも触れていたいと思った。
「妹紅、森の方も行ってみないか?」
慧音はもう氷に飽きてしまったらしい。立ち上がり、森の方へと歩き出していた。
お堅い性格だからか、慧音はゆっくりと景色を楽しむのが苦手なようだ。私としてはまだ氷に触れていたいし、水の流れを眺めていたいのだが。
「分かった」
私は仕方なく氷から手を離し、ゆっくりと慧音の後を追いかけた。
森の中は湖よりも一層寒い。太陽の光は枝葉とそこに積もった雪で遮られ、風は勢いを失うことなく森中を駆け巡る。草木の青く冷たい匂いを胸一杯に満たしながら、私と慧音は一歩一歩その中を進んで行った。
「寒くない?慧音」
「大丈夫だ」
木の表面は黒に近い茶色で、一部に苔が生えている。表面に触ってみると、木肌の凹凸が苔で滑らかに覆われ心地よく、かすかな温もりを守っていた。
「生きてるね」
「私がか?」
慧音が振り返った。
「勿論慧音は生きてるに決まってるじゃん。木々がだよ」
「そうか」
私と慧音の足音だけが、この無音の世界に響きを作っていた。小枝を踏む乾いた音、枯葉が割れる軽い音。土と雪は柔らかく私たちの足音を吸収してしまう。
「散歩も悪くないでしょ、慧音?」
「そうだな」
そう、散歩は悪くないのだ。殺し合いなんかよりずっといい。千数百年生きて、やっとそのことに気づいた。やっぱり私は馬鹿なのだろう。
頭上から小鳥の鳴き声が聞こえてきた。細い木の枝に掴まった二匹の小鳥が、互いに声を掛け合っているようだ。枝の上を忙しく行ったり来たりしている。
「妹紅、夕飯を作らなければならないし、もうそろそろ帰ろう」
「分かった」
慧音の声に驚いたのか、二匹の小鳥は一斉に飛び立ってしまった。
帰り道、再び雪が降り始めた。昨晩に比べるとその勢いは弱く、風に漂いながら地面へと落ちていく。拾い上げてみると、まるで綿菓子のように軽い。体温に温められて少しずつ水へと変わり、最後は指の隙間から零れ落ちてしまう。
「雪も降り始めたし、早く家に入ろう」
「うん」
玄関の扉を開け、靴を脱ぎ、居間の炬燵に再び火をともし、足を入れる。芯まで冷えていた体が、外側から少しづつほぐれていく。
「さあ、夕飯を作るぞ。妹紅」
慧音は居間に戻らず、そのまま台所に移動したらしい。慧音よりも私の方が寒がりになってしまったのかもしれない。私はつけ直した火を再びかき消した。
「わかった」
慧音はすでに野菜を切り始めていた。拍子よく鳴り響く包丁の音に招かれるようにして、私も台所に移る。
夕飯は思っていたより早く出来上がった。献立は焼き魚と煮物に味噌汁。最近幻想郷にも洋食が入ってくるようになったが、私は日本食が好きだった。日本食は味が優しくてて素材が生きている。それに長い間慣れ親しんだ味をそう簡単に捨てることはできない。
「いただきます」
慧音と私は同時に手を合わせて、食事を始めた。
「散歩というのも悪くはないな」
慧音は焼き魚の骨を一本一本丁寧に取りながらそう言った。前日私が釣り上げてきた魚だった。今回は兎に出会わずにすんだからか、餌を入れた途端に魚が食いついてきた。皮についた焦げ目と白い湯気を立てる身が食欲をそそる。
「でしょう?たまには慧音も肩の力を抜いて、気楽な時間を過ごした方がいい」
「そうだな。私は少し真面目過ぎるのかもしれない」
「・・・・慧音からそんな言葉が出るなんて」
私は真剣に驚いていた。慧音が自分の真面目さを疑うなんて、博麗神社の賽銭箱に小銭が入っているくらいあり得ない状況だ。明日にでも大きな異変が起こるかもしれない。
慧音は大きな音をたてて箸を机に起き、こちらを睨みつけてくる。
「別に真面目であるのが間違いだと言ってるわけじゃないぞ。ただもう少し気楽に生きていけたらなと思っただけだ」
「そうそう。時にはゆっくりしないとね」
「そうだな」
慧音は小さく咳をして、箸を握ろうとした。
「・・・ん?」
慧音が突然首を傾げ、箸を目の高さに掲げた。
箸は真っ赤だった。見慣れた赤色だった。少し粘ついていてくすんだ赤色。
私はそれを見て、この千数百年の人生を想起した。色々な所へ行って、色々な人や妖と出会ったけれど、結局この色が一番印象に残っている。一度見れば忘れられないし、何度見ても残酷な色だ。
血の赤色だ。
慧音がもう一度咳をする。魚やご飯や味噌汁が赤くなった。慧音が血を吐いていた。慧音は何が起きたのか分からないかのような困った顔をして、自らを庇うようにうずくまった。
「慧音?」
慧音が三回連続で咳き込んだ。口を抑えた手が赤くなる。輝夜を殺した私の手のようだった。ねっとりと粘ついて、少しずつ少しずつ腕を伝って下へと落ちていく。床にシミができていく。シミは重なって大きくなり、錆びついた鉄の匂いがした。
「慧音!」
私はやっと立ち上がり、うずくまる慧音の背中をさすった。慧音はお化けを怖がる少女のように、小刻みに震えていた。頭を抱えて、体の奥から蠢き上がるような咳をした。慧音の青いスカートが、赤と合わさって濁った紫色になる。
「ねえ、妹紅」
「何?」
「私はもう死ぬみたいだ」
私は慧音を背負って立ち上がる。慧音の体はまるで羽のように軽くて簡単に持ち上がった。「私はもう死ぬみたいだ」「私はもう死ぬみたいだ」「私はもう死ぬみたいだ」言葉は頭の中で何度も反響して、囲い込むように私を支配していく。
体から、力とか後悔とか魂とか、そういったものが抜けていく。膝が崩れて立ち上がれなくなった。右足を前に出そうとすると左足が邪魔をする。言葉は渇いて硬くなって、喉を通らなかった。何もできなかった。
「永遠亭に行こう。永琳ならまだきっと」
「もういいんだ」
永琳の宣告通りだった。二度目の満月まで後数日。勿論忘れていたわけじゃない。忘れられるわけもない。それでも、忘れていたかった。何かの間違いだと、そう思っていたかった。
慧音の腕がゆっくりと私の首を包む。荒い息が耳元にかかって、私はまた動くことができなくなった。滑らかな髪の感触と甘い香りで、感覚が麻痺してしまったようだ。
「永遠亭はいいから、縁側に連れて行ってくれないか?月の見える縁側に」
私は慧音を縁側で降ろして、その隣に座った。月は大きく丸みを帯びているが、満月まではあと数日足りていない。庭に生えた草木が月光に照らされて幻想的に光っている。風は無いが気温は低く、吐く息が白く空へと昇る。嫌になるほど静かな夜だ。無音のまま忍び寄ってきて大事なものを奪って行く、そんな夜だ。
「初めてお前のことを知ったとき、私はお前が羨ましくてしかたなかった」
慧音は私の肩に頭を預け、少しずつ喋り始めた。掠れて聞き取りづらかったけれど、芯のある、いつも通りの慧音の声だった。
「お前は、永い永い歴史の中を実際に歩んできた。私が半人半獣になることでようやく手に入れられた知識を、お前はそのままの姿ですでに持っていた。羨ましかったというより、僻んでいた、憎んでいたと言った方が正しいかもしれない」
私は何も話すことができなくて、一文字一文字を手繰り寄せるように、慧音の言葉を聞いていた。言葉は体の奥のあたりを抉り、蝕んでいく。
「でもね、お前と一緒にいて気付いたんだ。お前も苦しんでいることに。死ぬこともできず、泣くこともできず、一人で生きていたことに」
「・・・違うよ。私はただの自業自得だから」
やっとの思いで吐き出した返事は、あまりにも陳腐だった。圧倒的な何かが、私の感情を奪い取ってしまったようだ。抗うこともできずに、ただ沈んでいく。それは死だった。死というものは、いつもこうやって奪っていく。あの時もそうだった。私を助けてくれた右手は、冷たく硬くなってしまった。
私に寄り添う慧音の体も、少しずつ、緩やかに冷たくなっていた。不死鳥の炎でも温めることができない。どれだけ足掻いても、もう戻ることはない。
「お前は、私と暮らしてどうだった?正直私は人に好かれるような性格じゃないと思う。話すのは下手だし、怒りっぽいし。でも、お前と一緒にいて、私は楽しかった。最後の時間をこうしてお前と過ごせて、私は満足なんだ」
慧音はそう言って無邪気に笑った。口元からは一筋の血が流れていて、まるで口紅をさすのに失敗した少女のようだった。終わりを前にして、慧音はどこか幼かった。可憐で美しく、救われたようにも見える。救われていてほしいと願う。
「私も楽しかったよ」
伝えたいことはもっと沢山あるはずなのだ。しかしどれもこれも曖昧で、すくい上げた水のように指の隙間からこぼれ落ち、冷たさと湿気だけが残る。空になった両手を握りしめて、必死になって何かを探す。想いを伝えようとする。
「ねえ、慧音。本当は私、一日三回も食事いらないの。睡眠だって取らなくてもいいし、傷だって手当てしなくても勝手に治る。でも、嬉しかった。そんな風に、当たり前に生きていけることが嬉しくてしかたなかったの。確かに慧音は口うるさいしちょっと真面目過ぎるところがあって、窮屈に感じたこともあったけど・・・だけどそれでも私は・・・慧音?ねえ、慧音?」
慧音は動かなかった。目は開かぬまま、息遣いは聞こえない。体は急速に温度を失い硬直し、鳴り続けていたはずの鼓動は、いつの間にか止まっていた。何もかも途切れて、取り返すことはできない。
慧音は、静かに死んでいた。何事もなかったかのように穏やかに、月明かりの下で眠っていた。
「慧音・・・」
動かなくなってしまった慧音を、瞳に焼き付ける。足の先から頭のてっぺんまで、その全てを忘れてしまわないように、繰り返し繰り返し見つめる。怒った慧音も泣いた慧音も驚いた慧音も笑った慧音も、血と一緒に流れて、私の心に染み込んでいくように。
そして私は泣いた。泣いて泣いて泣き疲れて、それでも泣いて泣いて泣いて。
そして最後に一言だけ、ありがとうと言った。
===
「哀しいかな 哀しいかな また哀しいかな」
結局、私は慧音の葬式に出なかった。家も元の掘っ建て小屋に戻した。引越しの荷物は相変わらず軽かった。出て行った時から何も増えていないだから、当たり前である。
「悲しいかな 悲しいかな 重ねて悲しいかな」
小さな声でそう呟く。言葉は空虚に掠れて霧散する。何も残らない。聞いている者もいない。広大な竹林の小さな家に、私一人きりだった。
玄関から外に出てみた。冬の空気は肌を濡らすように冷たい。息が白くなって、肺が妙に熱くなる。地面は硬く、竹は光を反射して豊潤な緑色に輝く。野鳥達が甲高い鳴き声を残し空を渡る。どこへ行くのだろう?
「美しい朝ですね」
突然、背後から声をかけられた。聞き覚えのない甘ったるい声だった。
「誰だい?」
「私は霍青娥と申します」
霍青娥と名乗ったその女は、晴れ空のようにさわやかな水色のワンピースを着て、髪には不思議な形の簪を一本挿していた。笑顔なのだけど笑っていない。そんな不気味な表情を顔面に貼り付けている。なんとも胡散臭い。
「そんな警戒しないでください。私はただお届けしたい物があって参ったのです」
「届け物?」
「はい。より正確に言うのであれば、妹紅さんへの届け物ではなく、慧音さんへの届け物なのですけどね」
私は警戒しながらも、霍青娥を家に招き入れた。盗まれて困るものがあるわけでもないし、慧音への届け物が何なのか興味が湧いてきたのだ。
「何というか・・・殺風景ですね」
青娥は部屋の隅にあった座布団を取ってその上に正座し、キョロキョロと辺りを見回していた。自分の部屋を観察されるのはあまり気分のいいものではないが、家具が箪笥しかないのだ。これほど観察しがいのない部屋は他に無いだろう。
青娥もそう思ったらしく、視線をゆっくりと私の方へ戻した。
「それで届け物っていうのは?」
私は青娥と向かい合うように座った。
「これなのですが・・・・」
青娥が包みを解くと、中から木で出来た円球型の彫刻が出てきた。完全な丸ではなく、表面に微妙な凹凸がある。木の温かみが失われない程度の薄い漆が塗られていて、触り心地はとても滑らかだ。
「これは・・・?」
「『月』の彫刻だそうですよ」
言われてみると、それは確かに月だった。表面の凹凸は、遠くから眺めると兎に見える。大きな耳を立てて、杵を振り上げる兎。足元にある臼目掛けて杵を振り下ろし、餅を搗くのだ。杵と臼がぶつかり合う音が、部屋中に響いてくるような気がした。
そうやってじっくりと月を観察していると、一つおかしなことに気づいた。
「ねえ、この月欠けてる?」
「はい。満月の数日手前、待宵月です」
「そうなんだ」
木で作られた月は動かない。ずっと待宵月のまま。満月が訪れることのないまま。
満月の夜、慧音は一筋の涙を零した。どこまでも透明な、澄んだ涙だった。もしも満月が、待っても訪れることのない宵であるのなら、彼女は笑って生きることができたのだろうか?これから先も、生きていくことができただろうか?私には分からない。
分からないことはたくさんあった。永く生きれば生きるほど、分からないことは増えていくから不思議だ。
自然の理を無視して時を止めた月を、私は箪笥の上に飾る。殺風景だった部屋が、少しだけ明るくなった気がした。
「お気に召しましたか?」
「うん」
「それは何よりです」
青娥は笑った。飴玉の中に毒薬を仕込んだかのような、胡散臭い笑顔だけれど、私は毒を飲んでも死なないのだから別に構いやしない。
「私は神霊廟というところで日々修行しています。ぜひ一度いらしみてください」
青娥はそう言い残して部屋を出て行った。私はまた一人になった。
「哀しいかな 哀しいかな また哀しいかな」
部屋の隅に座って、もう一度声に出してみる。やはり聞く者はいない。
「悲しいかな 悲しいかな 重ねて悲しいかな」
思い出すことは沢山ある。
慧音の笑顔は飾り気なく穏やかで、見ていると日向ぼっこしているみたいに暖かかった。
慧音の説教は無駄に長かった。そのせいか、学校の授業もつまらなかった。熱意は人一倍のはずなのに、そう同情してしまうくらいつまらなかった。
慧音の料理は美味しかった。味付けは絶妙だったし、毒キノコも入っていない。とくに肉じゃがと卵焼きはもう一度食べたいと思う。もう一度あの食卓について、二人で笑いたいと思う。
いつの間にか、私は泣いていた。温かいものが頬を伝って、シャツを濡らし、床へと落ちる。でも、そんなことはどうでもいいのだ。もっと大切なことがある。
「ねえ、慧音。今なら分かるわ」
そう、今の私には分かる。
幾ら体が動いたって、魂が宿ったって、心がなくちゃ人間とは呼べないでしょう?
だから慧音、私を蘇らせてくれたのは蓬莱の薬なんかじゃなくて、貴方だったんだ。貴方が私を生き返らせてくれた。この世に生まれて、命を削って息をして、怒って泣いて笑って、私に心をくれたんだ。おかげで私は死を悲しみ、貴方を想うことができる。貴方のいないこれからを、それでも生きていこうと願える。
「全部全部、貴方だったんだ」
私は涙を拭う。
その時だった。まるで小枝を折るような軽い乾いた音がして、家の壁に穴が空いた。穴が空いたというよりも、一方の壁が崩れ落ちたといった方が正解かもしれない。暗かった部屋に一杯の日の光が差して、土煙の向こうに人影が見えた。見慣れたシルエットだった。
「なに辛気臭い顔してんのよ、気持ち悪い」
「こんな派手な励ましを受けたのは初めてよ。どうもありがとうね、輝夜」
引っ越して早々家が壊されるなんて、碌でもない人生だ、本当に。
「いいじゃない。あんただってこの間永遠亭燃やしたでしょ。お互い様よ」
輝夜はそう言って、蓬莱の枝を構えた。
どうせ家は半壊してしまったのだ。全壊しても何ら問題はない。また建てなおせばいい。意を決した私の両手から、紅い炎が吹き出す。
炎は月の彫刻を明るく照らして、私は少しだけ笑った。
里には流行っていない蕎麦屋もあるのですね。まあ1軒だけなわけがないか。
静かに迫る描写が感情を沸き立たせます。登場人物がそれぞれ意思を持っていることが淡々とした文の中から感じられる、すばらしい作品でした。