二話 村紗
私の話を聞き終えると、村紗と名乗った少女は眼を輝かせた。
「わぁ、すごい!雲山さんとはそうやって出逢ったのですか」
「えぇ。そうよ。分かったらさっさとどっか行ってくれるかしら」
「えぇ、そんあぁ。もっとお話聞かせて下さいよ。こんな機会、滅多に無いのですから」
森の中でこっそり雲山と会話していた所を彼女に見られてからずっと、私達は質問攻めに遭っている。
「あなた誰ですか?」
「誰でもいいでしょ」
「その桃色の雲さんはもしかして妖怪ですか?」
「そうよ。喰われたくなきゃどっか行きなさい」
「それより、何で桃色なのですか?」
「それは……知らないわ」
「何で人間のあなたと一緒にいるのですか?」
「……教えたら、どっか行ってくれるんでしょうね?」
「もちろんです」
「約束だからね?」
驚いて騒ぎになるよりかはマシだが、これはこれで面倒で仕方ない。本当は問答などしていたくはないのだが、流れるように喋る彼女の調子に呑まれてしまった。また、無視をして人を呼ばれるのも困る。この山は比較的妖怪の臭いもなく、夕暮れ時の今ではこの少女以外には誰もおらず、野宿するには最適だったのだ。
雲山はと言えば、私の陰に隠れるようにして、腕を組んだままさっきから一言も発さずに小さくなっている。そのおかげで、こうして私ばかりが相手をしなくてはいけない破目になった。
「私達だって、暇じゃないのよ?」
「えっ、そうなのですか?どこかへの旅の途中ですか?」
「そうよ。だから、あなたに構ってる暇ないの」
そう言って、どうにか立ち去ろうとしたが、すぐに彼女に着物の袖を掴まれ、再び綺麗な瞳で見上げられてこう言われた。
「じゃあ、私も一緒に行きますよ。妖怪と仲良くなりに行く旅なのでしょう?」
彼女の眼は、まだ輝いている。その眼を見ると、そんな幻想はもう捨てたとは言えなかった。
「……何であなたと一緒に行かなきゃいけないのかしら?」
「私が行きたいからですけど?」
彼女は全く悪びれた様子もせずにそう言った。「ダメですか?」
「ダメに決まってんでしょ。大体、あなた幾つよ?お父さんとかお母さんは一緒じゃないの?」
私の言葉に、彼女は口を尖らせた。
「乙女に年齢聞くのはよくないです」
「そんな事はどうでもいいから、早く家に帰りなさい。もう日も沈むわよ」
彼女は見たところ、私と同じかそれ以下ぐらいのように見えた。身長で言えば、私よりもほんの少しだけ小さい。肩上まで伸びた真っ黒な髪はくしゃくしゃで、櫛など通していないようだったが、決して野暮ったくはなく、むしろその髪型が似合っていた。着物も綺麗な萌黄色(何故か腰の所に柄杓を差していた)で、中々の値打ち物のように見える。履物だってちゃんとしていた。恐らく、愛されて育った少女なのだろう。そんな少女を、私と雲山の旅に同行させるわけにはいかない。
――それに、その無邪気な姿が、どこかあの子に似ている気もした。もしかしたらそれも、私が口を滑らせた原因かもしれない。
「私は大丈夫ですよ。それより、一輪さん達は、どうするつもりですか?野宿ですか?」
「えぇ、そうよ。いくら雲山が小さくなったり薄くなったり出来ても……ね」
「雲山さんが妖怪だとばれれば、騒ぎになりますもんね」
「分かってるなら聞かないでよ」
「念の為、ですよ」
「何の念だか知らないけど、いい加減帰らないと本当に容赦しないわよ」
私の言葉に応じるように、雲山が一瞬で巨大化し、大きな口を開く。こうするだけでも、大抵の動物は脅かせる。村紗も流石に、この雲山の姿にはたじろいだようだった。
「わ、分かりましたよ。それじゃ、私はこの山の麓の集落にいますから、気が変わったらいつでも呼びに来て下さいね?」
「はいはい。分かったわよ。じゃあね」
「はい。それでは」
村紗はぺこりと頭を下げ、ゆっくりと山を降っていった。
「全く、変わった子ね。小さくなっていたとは言え、雲山を見ても物怖じしないなんて」
「わしを倒したお主がそれを言うのか?」
「まぁ、それはそうかもしれないけど……。それより、何で私にばっかり喋らせたの?」
私がそう言うと、雲山はバツが悪そうな表情をして、身体の色を赤らめて沈黙した。
「……もしかして、恥ずかしいとか?」
「………」
雲山は両手で顔を覆って、どんどん小さくなってしまった。どうやら図星らしい。
「……あなたやっぱり、変な妖怪ね」
「面目ない」
本気を出せば、雷のような大声を出せるくせに、いつもよりも更に小さな、消え入るような声で雲山はそう言った。これでいて、人間を六人、妖怪を数十体殺したなんて言って、誰が信じるのだろうか。
「まぁ、どうせ人間とはなるべく私が喋るけどさ」
「……頼む」
「はいはい。そんなことより、まだ着かないのかしらね」
「まだだが、もうすぐだろう。ここまで熊野への道を逆走して、既に和泉には入った。後一週間も飛ばずに着くだろう」
「京に行けば、何か分かるかしらね……」
「さぁ、どうだろうな……」
人が多く集まれば、それだけ多くの情報が集まると踏んだ私達は、京を目標に据えて進んでいた。移動中は雲山の背に乗って人目を忍びながら飛んでいたが、この二、三日程でそれなりに長い距離を稼ぐことが出来ただろう。
「とりあえず、今日も野宿ね」
「また、わしの背の上でか?」
「……ダメ?」
雲山の背中はふかふかで、適度に温かい。本物の雲には触れないし、冷たいのだと雲山の背に乗って飛んでみて知った私からすれば、本物の雲以上に素晴らしいものだと言える。そんな雲山の上に寝転がると、どんな夜でもすぐに安眠出来る。雨風だって凌げる。悪夢に目覚めて飛び起きても、雲山の上だと思い出してすぐに気を休めることが出来る。ここまで旅が出来ているのは、この雲山布団のおかげと言っても過言ではないだろう。
「……構わぬよ」
私が気に入っていることを知っている雲山は、いつものように身体を平たく延ばした。
「ありがと」
私はその上に飛び乗り、寝転がる。
「うん。今日も良い寝心地」
「そうか……」
「本当に、ありがとね、雲山」
「……お互い様だ」
雲山の身体が、少しだけ赤く、熱くなった気がした。
真夜中、雲山に揺すられ目覚めた私が耳にしたのは、男達の怒号と、女達の絶叫だった。山の麓には、ちらちらと火の手も見える。何かが起きていることにはすぐに気付いた。その騒ぎが山の麓の集落からだとも、すぐに分かった。
「……行くわよ、雲山」
「……応」
雲山は風のような速さで夜空を駆け、阿鼻叫喚渦巻く集落の中心へと降り立った。
私達が目にしたのは、妖怪に襲われる小さな集落の姿だった。
あちこちで火の手が上がり、家屋からは食物を持って駆け出す汚らしい小鬼や一つ目の小僧の姿をした妖怪が、外では牛や馬の頭の据えられた大きな鬼達(確か、メズキとかコズキとかいう妖怪)が太刀や薙刀を持って人々を襲っていた。
一方、妖怪に対抗している人々は武士ではなく、鍬や鋤を携えた農夫ばかりであった。女共も鉈や鎌で懸命に応戦していたが、所詮は農民だ。戦況の優劣は一瞬で理解出来た。
「やるわよ、雲山。この妖怪共は、正真正銘の悪党よ」
目的は、略奪だろうか。まぁ、相手がどんなつもりでも、どんな妖怪でも、殺すことには変わりないが。
何より、あの村紗という少女のことが心配だ。あんな愛されて育ったであろう少女が、妖怪共に蹂躙されるなど、あってはならない。絶対に、守らなければならない。
「……ならば、懲らしめようぞ」
「えぇ、行くわよ、雲山……」
腰に下げた黒漆の小太刀の、白糸巻の柄に手をかける。こうすると、心が落ち着く。あの男に辿り着く前までに、なるべく刃を毀らせたくはないが、必要とあらば、この唯一遺った和尚の形見で私は、悪を、仇を、討つ――。
「雲山は上空に上がって、片っ端から拳を降らせて!」
小太刀から手を離し、雲山に言う。「ある程度怯んだ所で、こっちに注目を集めるから!」
「……応!」
私がそう指示を出すと、雲山はすぐさま上昇し、天空から雨の如くその桜色の拳を降らせた。拳が空を切る音と、地面が砕かれる音、そして妖怪が潰れる音が集落全体に響き渡る。
「な、なんだ?」
人々が驚く声がする。それはそうだろう。何の前触れもなく、空から拳骨が降ってきたら、誰だって驚く。だがすぐに、集落の人間は自らの敵が倒れていくことに気付く。
このまま人々が呆気に取られている間に決着をつけてしまうのも悪くはないが、そういうわけにもいかない。こんな不意打ちで、全てを倒せるとは限らない。妖怪達を殲滅するには、こちらに気付いてもらわなくてはならない。
雲山の攻撃が一旦止み、一瞬生まれた静寂に向けて、集落全体に響くよう、大声を上げる。
「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ!我ら、悪を祓う入道ぞ!この集落を侵す狼藉者共よ、我らが前に膝付き、頭を垂れるが良い!」
すると目論見通り、集落のあちこちから私の下に十数匹の異形の者共が寄って来た。そして、あっと言う間に私を取り囲んだ。同様に、周りでは遠巻きに集落の人間が恐々とこちらを覗き見ていた。その中に、一人こちらを不安げに見つめる村紗の姿もあった。見たところ衣服の乱れもなく、怪我も負ってないようだった。
(良かった、無事だったのね……)
「何じゃお前は、わいらの邪魔する気か」
一際大きなゴズキが、声を発す。どうやら、こいつが親玉のようだ。周りの妖怪に比べてその背丈は一回りも大きく、持っている薙刀と共に七尺はあるように見受けられ、その牡牛顔を見上げていると首が痛くなりそうだった。
「面妖な目にあったかと思えば、こげな小娘が出てくるとはな」
彼らはどうやら雲山の仕業とはまだ気が付いていないらしい。自分の身に何が起こったのか理解していないようで、時折空を気にしている。しかし、もう夜空には満月と星しかない。雲山は私の口上に合わせて、先ほどから小さくなって私の後ろに隠れている。
それにしても、武器を血に塗らし、身体にも返り血をべったりつけたガタイの良い妖怪共が、きょろきょろと空を見上げる様子は、何とも滑稽で愚かしかった。
「安心なさい。もう空からは何も降って来ないわよ」
「お前、何か知っとるのなら、さっさと言った方が身の為やぞ?」
ゴズキの眼光が鋭くなり、顔も険しくなる。こちらを威圧しているのだろう。しかし、それすらも私には滑稽に思えてしまう。大きな身体でこちらを見下して、恐らく負けることなど微塵も思っていないのだろう。自分よりも巨大な者がいるなど、思ったこともないのだろう。
「脅かすのは、あなた達じゃない、私達よ。ねぇ、雲山」
――そういう愚か者は、山の前で生物がいかにちっぽけな存在かを思い知るがいい。
「こ、これは……」
雲山が、私の背後からぐんぐん身体を広がらせ、巨大な顔面となる。その大きさたるや、眼前の鬼をゆうに超え、周りの家屋さえも見下ろす程だった。それでも雲山の巨大化は止まず、あっと言う間に集落の空を覆い尽くした。人々はその影の中で圧倒され、口をポカンと明けたまま微動だにしなかった。
この光景を見ると、改めて思う。我ながら、とんでもない妖怪を子分にしたものだと。
「よ、妖怪だ……見越し入道だ!」
誰かが絶叫した。妖怪か、周りにいた集落の人間かは分からない。しかし、その声が、人々の恐怖の水門をこじ開けた。恐怖は全身を駆け巡り、人々はその流れに呑まれるがまま散り散りになって逃げて行った。妖怪も、集落の人間も。中にはその場で動けなくなり、念仏を称えて雲山にひれ伏す者までいた。
だが、逃がしはしない。
「雲山!」
私に応えるように、雲山は雄叫びを上げる。落雷のような轟音が周囲に響き渡り、そして、雨のような拳が妖怪達を殲滅していく。
あちこちで、妖怪達の断末魔と、人々の絶叫と、肉と骨と大地が粉砕される音が聞こえてくる。
グギャァ。ひぃい。いやぁぁぁぁ。助ケテェ。ベキッ。ゴキッ。ドゴッ。グチャ――。
私はその音を聞きながら、小太刀に手を掛けた。
「ち、ちくしょォ!」
そんな自暴自棄な叫びと共に、一体の小鬼が、混乱の中私に突進してきた。鋭い牙で私に噛み付こうと、飛び掛かって来た。
「畜生じゃないわ」
私は素早く小太刀を抜き、迫り来る小鬼の顔面に向けて刃を振り下ろした。
「ヒギャッ――」
小鬼は小太刀を避けず、そのまま小太刀に顔面を捉えられ、短い呻き声と共に地面に叩き付けられた。
「私は……修羅よ」
真っ赤に染まった小鬼の顔面は、我ながら見事に、真っ二つに斬り裂かれていた。ここ数日の練習の甲斐あって、上手くいったようだ。
「でもやっぱり、汚れちゃうわね」
小鬼の血で汚れた刀を袖で拭きながら思う。仇を討つまでに、後どれ程の血を浴びることになるだろうかと。
「この服、どうしようかしらね」
小太刀を鞘に納め、全ての音が止んだ後、戻って来た雲山に言う。「結構お気に入りだったんだけどな」
「洗うしかなかろう。まぁ、落ちるとも思えんがな」
雲山はそう言いながら小さくなり、私の左肩の上に乗った。重みはほとんどなく、身体を伝わる温もりが心地良い。
「そうね。とりあえず、お疲れ様」
気が付けば、この場にしっかりと立っている者は一人もいなかった。皆、どこかへ逃げたか、死体に変わってしまった。
――いや、一人だけ、いた。
「妖怪達をこうも簡単に追い払うなんて、流石ですね」
村紗はこちらから少し距離を取ったまま言った。
「みんな、逃げてしまいましたね」
「あなたは逃げないのね」
「私は、まぁ、大きな雲山さんを見るのは二度目ですから」
村紗は髪をくしゃくしゃと掻きながら、えへへと笑った。「もう、慣れました」
「生き物が死ぬのにも?」
私は周りに散乱する死体を顎で指して言った。人間の死体は皆、顔に恐怖や苦痛の表情を張り付かせたまま倒れていた。その表情を見ると思う。私は、彼らを守れなかったのだと。
一方、妖怪達の死体の顔には、恐怖も苦痛も浮かんでいなかった。何故なら、そもそも顔がしっかり残っている死体がなかったからだ。彼らの死体は、頭から胸にかけて完全にぐちゃぐちゃになっていた。中には、それが何だったのかを特定することさえ困難に思われる程滅茶苦茶に潰れた死体もあった。だが、それを懺悔するつもりはない。悪にかける慈悲なんてない。悪は、赦されてはいけないのだから。
「死には……あまり、慣れたくはないものですよ」
村紗はそう言うと、近くにあった人間の男の死体の傍に行き膝を付き、彼の瞼を降ろし、静かに手を合わせ、黙祷を捧げた。
「……否定はしないわ」
私はその場から動かず、彼女の姿をまじまじと見た。彼女は人間にも妖怪にも、神妙な面持ちで手を合わせていた。その手を合わせる姿もまた、二葉に似ているように思えた。
「何故、手を合わせないのですか?」
立ち上がった村紗が私に訊ねる。その声は、責めているわけではないようだった。ただ、気になるから訊いているといった感じの響きだった。
「破戒僧が手を合わせても、何の意味もないもの」
「……そう、ですか」
「えぇ、そうよ。そうじゃなきゃ、駄目よ」
そうでなければ、仏教なんてものは意味がない。誰が祈っても救われるのならば、僧侶なんて存在価値がない。戒律など、守る意義がない。
私は、和尚に育てられたにもかかわらず、戒律を破ってしまった。生き物を殺してしまったのだ。仏教を、裏切ってしまったのだ。私はもう二度と、誰の死にも手を合わせることはないだろう。そんな事が、許されて良いはずがない。
「でも、方法はどうであれ、あなた方がここを守ったことは事実ですよ」
「犠牲は出ているわ。家だって燃えた。まだまだ、守ったなんて言えな――」
そこまで言いかけた時、私のこめかみに鈍い衝撃が走った。
「ッ……」
頭を激痛が駆け巡り、何かが地面に落ちる音がした。その音がした場所を見てみれば、赤子の握り拳程の大きさの小石が転がっていた。
「ば、バケモノめッ……」
その声と共に、再び、今度は無数に石が飛んでくる。私の近くには村紗もいるのだが、そんなのお構いなしの様子だった。何発かは雲山がはたき落してくれたが、いくつかは私の頬や腕や脚に当たった。石の当たった所が、じんじんと痛む。
「こ、これ以上、ここを荒らさせはせんぞ!」
痛みを堪えて石の飛んできた方を見やれば、武器を構えた集落の人々が戻って来ていた。月明かりに照らされたその表情は、皆一様に怯えていた。身体を震わせながらも、女も子共もこちらをしっかりと睨み付け、新たな「敵」に立ち向かおうとしていた。その怯えた眼を見て、私は覚った。
「あぁ、私もそうなのね……」
私はこれでも、彼らを守ったつもりでいた。しかし、彼らから見れば、私達もまた脅威でしかないのだ。私達が妖怪を倒したという事実なんて、その脅威の前には成立し得ないのだ。私達の行為など、ただ邪魔な他の妖怪を倒しただけに見えたか……もしくは、妖怪だけが殺されたことにも気付いていないのだろう。そもそもよく考えれば、妖怪に守られるなんて、普通では在り得ないことなのだ。だから、彼らが雲山を、私を恐れても仕方ない。
――しかし、恐れは悪ではない。だから、私は彼らを責めることはしない。
それに……何となく、こうなる予感はしていた。バケモノと思われても良いって、そう覚悟を決めて雲山の手を握ったのだから。
「……行きましょ、雲山」
石の雨が降る中、私は雲山に声を掛ける。もうここに用はない。やるべきことはやった。
「ああ……」
雲山は悲しげだったが、有無を言わず、私を背に乗せすぐに飛び上がった。
上空から見ると、さっきまで私達がいた所に集落の人々が集結していた。中には空に向けてまだ石を投げ続ける者もいた。
――彼らは、その石が落ちたら自分に当たるかもしれないとは思わないのだろうか?自分だけでなく、周りの人間をも傷つけかねないとは、思わないのだろうか?
山の上まで戻り、遥か上空から集落を見下ろす。火の手はまだ消えてはいなかったが、恐らくこれからは消火活動に移ることだろう。
「もう少し、先に進んでから眠るとするか」
「えぇ……」
石の当たった場所は、まだじんじんと痛みを走らせている。
雲山には、悪い事をしたかもしれない。雲山の約束は私を守ることで、彼らを守る必要なんて本来は無かったのだから。彼は、この先も私のわがままに付き合ってくれるだろうか。
――そもそも、何故彼はこんな私とあんな約束をしたのだろうか?
「あれで、良かったのですか?」
突然、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
振り返ると、なんとそこには、雲山の背中にちょこんと座る村紗の姿があった。
「……何で、ここにいるわけ?」
「雲山さんの身体に掴まってきちゃいました」
彼女はまた、えへへと笑う。
「雲山、あなた気付かなかったの?」
「気付いてはいたが……振り落すわけにもいかぬだろう?」
「それは、そうだけど……」
この行動力には驚きたが、そもそも何故付いて来たのだろう。雲山を驚かないとは言え、彼女もあの集落の人間だろうに。
私がそう疑問を口にすると、村紗はけろっとした顔で「違いますけど?」と言った。
「私は、旅の途中で偶々あの集落に泊まらせてもらっていただけですよ?」
「……そうなの?」
「そうですよ?」
村紗は当たり前だと言わんばかりに首を傾げた。そう言えば確かに、彼女はあの集落にいるとは言ったが、住んでいるとまでは言っていなかったような気もする。どうやら、こちらが勝手に勘違いしていただけのようだ。
しかし、そこは肝心な所ではない。
「どうして付いて来たのよ?」
「いやぁ、実は一目見た時から、雲山さんの背中に乗ってみたかったのですよね」
村紗は雲山の身体の上で寝そべりながら無邪気に言った。「思った通り、ふかふかですね!」
「……本当に、それだけ?」
何か、他に理由があるはずだ。そもそも、こんな少女が一人で旅をしているだなんて信用できない。そんな事、あっていいはずがない。
「後は……旅の足に丁度良いかなと思いました!京までお願いします!」
「雲山を馬扱いしないで欲しいんだけど?」
「まぁまぁ、良いじゃないですか。お二人も、京へ行くのでしょう?」
「あなたにそんな事言ったかしら?」
「いいえ。でも、私が帰った後に話していたでしょう?」
「……あなた、聞いてたの?」
「はい!」
あの時、山を降ったと見せかけて、近くの茂みに潜んでいたらしい。まったく、とんでもない子だ。
「と言うわけで、よろしくお願いします」
村紗はびしっと正座し、ぺこりと頭を下げた。
「お二人の邪魔はしませんから」
「……どうする、一輪?」
「どうもこうもないわよ……」
良いか悪いかの判断の前に、とにかく聞かなければならない事がある。
「あなた、家族はどうしてるの?何で旅なんかしてるの?それを喋らなきゃ、今すぐここで振り落すわよ?」
私の問いに、意外にも村紗は躊躇いなくすらすらと答えた。
「家族は大和に住んでいます。私は遣いで紀伊に行って来たところで、これから京に行く予定なのです」
てっきり何か隠し事があると踏んでいた私は、あまりにも明け透けに語る彼女に、肩透かしを食らった。
「……つまり、本当に旅の足が欲しかったってこと?」
「えぇ、まぁ。京から家族の下に帰るのは、そこまで苦労しませんから」
だから京で降ろしてくれればそれで良いと彼女は言う。
「……と言うわけのようだが、どうする?」
雲山はそう言うが、どうするも何も、どうしようもない。気になることはまだあったが、少なくとも今すぐ彼女を放り出す理由はない。
それに、もういい加減彼女と話すのは疲れた。朝まで後どれ程の時間があるか分からないが、今は一刻も早く眠りに就きたい。
「……まぁ、良いわ。乙女一人歩かせるには危険だものね」
「そう言ってくれるとありがたいです」
「そりゃ良かったわ」
本当は、この旅に雲山以上の道連れを作るつもりはなかったが、こうなってしまっては仕方ない。なるべく危険な目に遭わせたくはないが、かと言って放り出したら安全とは言い切れない。京までは、私がしっかり守ろう。この子も、私が守るべき一人だ。
「あと、先ほどは守ってくれて、ありがとうございます」
再び、村紗は頭を下げた。何の前触れもなく言われた感謝の言葉に、私はドキッとした。まさか、礼を言われるだなんて思っていなかったからだ。
そして何より、まさか、お礼を言われ嬉しく思うだなんて、思ってもみなかったからだ。
(私も、まだまだバケモノになり切れてないわね)
「別に……お礼を言われることはしてないわ」
ただ、気に入らない者を殺しただけ、脅しただけ。「バケモノがバケモノを殺しただけよ。何も守っちゃいないわ」
「そう、ですか……」
「えぇ。そうよ……」
その後は彼女も私も互いに質問せず、二人して雲山の上で、背中合わせで眠りに付くことになった。彼女はしばらくの間は「本当にふかふかですね!」などと興奮した様子だったが、すぐに安らかな寝息を立て始めた。
しかし私は、背中に誰かの気配がある状態で眠ることが久しぶりだった為、尚且つそれが今日逢ったばかりの赤の他人だったこともあり、上手く寝入ることが出来なかった。それに、彼女の「遣い」の内容も気になった。
こんな小さな子供一人を遣いに出すなんて、一体どんな親なのだろう。服も履物も綺麗だったから、てっきり愛されているのだとばかり思っていたが、どうやら一概にそうとも言えないのかもしれない。もしかしたら、見た目だけ適当に飾られて、それで愛されたふりをされているのかもしれない。この子は、果たしてそれで幸せなのだろうか……。もし、この子の親が悪い親だったら……ちょっと、懲らしめに行こうかな……。
「んん……おい、しい……」
背後から、村紗の寝言が聞こえてきた。一体どんな夢を見ているのだろう……まぁ、少なくとも、夢の中では幸せそうだけど。
ふと、空を見た。綺麗な満月だった。星々も、満天に輝いていた。美しい夜空だった。こんな空の下では、さっき起きた騒動も、あの日起きた惨劇も、嘘のような気さえしてくる。
――でも、それは嘘にはならない。だから私は、ここにいる。
傍に置いた小太刀の柄を握り、目を瞑る。
まだ、はっきりと思い出せる。
潰れた妖怪の姿も、私が斬った小鬼の顔面も……そして、あの日のことも。
忘れることは出来ない。いや、忘れるわけにはいかない。
今日私は命を奪い、あの日わたしは全てを奪われたのだから――。
私の話を聞き終えると、村紗と名乗った少女は眼を輝かせた。
「わぁ、すごい!雲山さんとはそうやって出逢ったのですか」
「えぇ。そうよ。分かったらさっさとどっか行ってくれるかしら」
「えぇ、そんあぁ。もっとお話聞かせて下さいよ。こんな機会、滅多に無いのですから」
森の中でこっそり雲山と会話していた所を彼女に見られてからずっと、私達は質問攻めに遭っている。
「あなた誰ですか?」
「誰でもいいでしょ」
「その桃色の雲さんはもしかして妖怪ですか?」
「そうよ。喰われたくなきゃどっか行きなさい」
「それより、何で桃色なのですか?」
「それは……知らないわ」
「何で人間のあなたと一緒にいるのですか?」
「……教えたら、どっか行ってくれるんでしょうね?」
「もちろんです」
「約束だからね?」
驚いて騒ぎになるよりかはマシだが、これはこれで面倒で仕方ない。本当は問答などしていたくはないのだが、流れるように喋る彼女の調子に呑まれてしまった。また、無視をして人を呼ばれるのも困る。この山は比較的妖怪の臭いもなく、夕暮れ時の今ではこの少女以外には誰もおらず、野宿するには最適だったのだ。
雲山はと言えば、私の陰に隠れるようにして、腕を組んだままさっきから一言も発さずに小さくなっている。そのおかげで、こうして私ばかりが相手をしなくてはいけない破目になった。
「私達だって、暇じゃないのよ?」
「えっ、そうなのですか?どこかへの旅の途中ですか?」
「そうよ。だから、あなたに構ってる暇ないの」
そう言って、どうにか立ち去ろうとしたが、すぐに彼女に着物の袖を掴まれ、再び綺麗な瞳で見上げられてこう言われた。
「じゃあ、私も一緒に行きますよ。妖怪と仲良くなりに行く旅なのでしょう?」
彼女の眼は、まだ輝いている。その眼を見ると、そんな幻想はもう捨てたとは言えなかった。
「……何であなたと一緒に行かなきゃいけないのかしら?」
「私が行きたいからですけど?」
彼女は全く悪びれた様子もせずにそう言った。「ダメですか?」
「ダメに決まってんでしょ。大体、あなた幾つよ?お父さんとかお母さんは一緒じゃないの?」
私の言葉に、彼女は口を尖らせた。
「乙女に年齢聞くのはよくないです」
「そんな事はどうでもいいから、早く家に帰りなさい。もう日も沈むわよ」
彼女は見たところ、私と同じかそれ以下ぐらいのように見えた。身長で言えば、私よりもほんの少しだけ小さい。肩上まで伸びた真っ黒な髪はくしゃくしゃで、櫛など通していないようだったが、決して野暮ったくはなく、むしろその髪型が似合っていた。着物も綺麗な萌黄色(何故か腰の所に柄杓を差していた)で、中々の値打ち物のように見える。履物だってちゃんとしていた。恐らく、愛されて育った少女なのだろう。そんな少女を、私と雲山の旅に同行させるわけにはいかない。
――それに、その無邪気な姿が、どこかあの子に似ている気もした。もしかしたらそれも、私が口を滑らせた原因かもしれない。
「私は大丈夫ですよ。それより、一輪さん達は、どうするつもりですか?野宿ですか?」
「えぇ、そうよ。いくら雲山が小さくなったり薄くなったり出来ても……ね」
「雲山さんが妖怪だとばれれば、騒ぎになりますもんね」
「分かってるなら聞かないでよ」
「念の為、ですよ」
「何の念だか知らないけど、いい加減帰らないと本当に容赦しないわよ」
私の言葉に応じるように、雲山が一瞬で巨大化し、大きな口を開く。こうするだけでも、大抵の動物は脅かせる。村紗も流石に、この雲山の姿にはたじろいだようだった。
「わ、分かりましたよ。それじゃ、私はこの山の麓の集落にいますから、気が変わったらいつでも呼びに来て下さいね?」
「はいはい。分かったわよ。じゃあね」
「はい。それでは」
村紗はぺこりと頭を下げ、ゆっくりと山を降っていった。
「全く、変わった子ね。小さくなっていたとは言え、雲山を見ても物怖じしないなんて」
「わしを倒したお主がそれを言うのか?」
「まぁ、それはそうかもしれないけど……。それより、何で私にばっかり喋らせたの?」
私がそう言うと、雲山はバツが悪そうな表情をして、身体の色を赤らめて沈黙した。
「……もしかして、恥ずかしいとか?」
「………」
雲山は両手で顔を覆って、どんどん小さくなってしまった。どうやら図星らしい。
「……あなたやっぱり、変な妖怪ね」
「面目ない」
本気を出せば、雷のような大声を出せるくせに、いつもよりも更に小さな、消え入るような声で雲山はそう言った。これでいて、人間を六人、妖怪を数十体殺したなんて言って、誰が信じるのだろうか。
「まぁ、どうせ人間とはなるべく私が喋るけどさ」
「……頼む」
「はいはい。そんなことより、まだ着かないのかしらね」
「まだだが、もうすぐだろう。ここまで熊野への道を逆走して、既に和泉には入った。後一週間も飛ばずに着くだろう」
「京に行けば、何か分かるかしらね……」
「さぁ、どうだろうな……」
人が多く集まれば、それだけ多くの情報が集まると踏んだ私達は、京を目標に据えて進んでいた。移動中は雲山の背に乗って人目を忍びながら飛んでいたが、この二、三日程でそれなりに長い距離を稼ぐことが出来ただろう。
「とりあえず、今日も野宿ね」
「また、わしの背の上でか?」
「……ダメ?」
雲山の背中はふかふかで、適度に温かい。本物の雲には触れないし、冷たいのだと雲山の背に乗って飛んでみて知った私からすれば、本物の雲以上に素晴らしいものだと言える。そんな雲山の上に寝転がると、どんな夜でもすぐに安眠出来る。雨風だって凌げる。悪夢に目覚めて飛び起きても、雲山の上だと思い出してすぐに気を休めることが出来る。ここまで旅が出来ているのは、この雲山布団のおかげと言っても過言ではないだろう。
「……構わぬよ」
私が気に入っていることを知っている雲山は、いつものように身体を平たく延ばした。
「ありがと」
私はその上に飛び乗り、寝転がる。
「うん。今日も良い寝心地」
「そうか……」
「本当に、ありがとね、雲山」
「……お互い様だ」
雲山の身体が、少しだけ赤く、熱くなった気がした。
真夜中、雲山に揺すられ目覚めた私が耳にしたのは、男達の怒号と、女達の絶叫だった。山の麓には、ちらちらと火の手も見える。何かが起きていることにはすぐに気付いた。その騒ぎが山の麓の集落からだとも、すぐに分かった。
「……行くわよ、雲山」
「……応」
雲山は風のような速さで夜空を駆け、阿鼻叫喚渦巻く集落の中心へと降り立った。
私達が目にしたのは、妖怪に襲われる小さな集落の姿だった。
あちこちで火の手が上がり、家屋からは食物を持って駆け出す汚らしい小鬼や一つ目の小僧の姿をした妖怪が、外では牛や馬の頭の据えられた大きな鬼達(確か、メズキとかコズキとかいう妖怪)が太刀や薙刀を持って人々を襲っていた。
一方、妖怪に対抗している人々は武士ではなく、鍬や鋤を携えた農夫ばかりであった。女共も鉈や鎌で懸命に応戦していたが、所詮は農民だ。戦況の優劣は一瞬で理解出来た。
「やるわよ、雲山。この妖怪共は、正真正銘の悪党よ」
目的は、略奪だろうか。まぁ、相手がどんなつもりでも、どんな妖怪でも、殺すことには変わりないが。
何より、あの村紗という少女のことが心配だ。あんな愛されて育ったであろう少女が、妖怪共に蹂躙されるなど、あってはならない。絶対に、守らなければならない。
「……ならば、懲らしめようぞ」
「えぇ、行くわよ、雲山……」
腰に下げた黒漆の小太刀の、白糸巻の柄に手をかける。こうすると、心が落ち着く。あの男に辿り着く前までに、なるべく刃を毀らせたくはないが、必要とあらば、この唯一遺った和尚の形見で私は、悪を、仇を、討つ――。
「雲山は上空に上がって、片っ端から拳を降らせて!」
小太刀から手を離し、雲山に言う。「ある程度怯んだ所で、こっちに注目を集めるから!」
「……応!」
私がそう指示を出すと、雲山はすぐさま上昇し、天空から雨の如くその桜色の拳を降らせた。拳が空を切る音と、地面が砕かれる音、そして妖怪が潰れる音が集落全体に響き渡る。
「な、なんだ?」
人々が驚く声がする。それはそうだろう。何の前触れもなく、空から拳骨が降ってきたら、誰だって驚く。だがすぐに、集落の人間は自らの敵が倒れていくことに気付く。
このまま人々が呆気に取られている間に決着をつけてしまうのも悪くはないが、そういうわけにもいかない。こんな不意打ちで、全てを倒せるとは限らない。妖怪達を殲滅するには、こちらに気付いてもらわなくてはならない。
雲山の攻撃が一旦止み、一瞬生まれた静寂に向けて、集落全体に響くよう、大声を上げる。
「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ!我ら、悪を祓う入道ぞ!この集落を侵す狼藉者共よ、我らが前に膝付き、頭を垂れるが良い!」
すると目論見通り、集落のあちこちから私の下に十数匹の異形の者共が寄って来た。そして、あっと言う間に私を取り囲んだ。同様に、周りでは遠巻きに集落の人間が恐々とこちらを覗き見ていた。その中に、一人こちらを不安げに見つめる村紗の姿もあった。見たところ衣服の乱れもなく、怪我も負ってないようだった。
(良かった、無事だったのね……)
「何じゃお前は、わいらの邪魔する気か」
一際大きなゴズキが、声を発す。どうやら、こいつが親玉のようだ。周りの妖怪に比べてその背丈は一回りも大きく、持っている薙刀と共に七尺はあるように見受けられ、その牡牛顔を見上げていると首が痛くなりそうだった。
「面妖な目にあったかと思えば、こげな小娘が出てくるとはな」
彼らはどうやら雲山の仕業とはまだ気が付いていないらしい。自分の身に何が起こったのか理解していないようで、時折空を気にしている。しかし、もう夜空には満月と星しかない。雲山は私の口上に合わせて、先ほどから小さくなって私の後ろに隠れている。
それにしても、武器を血に塗らし、身体にも返り血をべったりつけたガタイの良い妖怪共が、きょろきょろと空を見上げる様子は、何とも滑稽で愚かしかった。
「安心なさい。もう空からは何も降って来ないわよ」
「お前、何か知っとるのなら、さっさと言った方が身の為やぞ?」
ゴズキの眼光が鋭くなり、顔も険しくなる。こちらを威圧しているのだろう。しかし、それすらも私には滑稽に思えてしまう。大きな身体でこちらを見下して、恐らく負けることなど微塵も思っていないのだろう。自分よりも巨大な者がいるなど、思ったこともないのだろう。
「脅かすのは、あなた達じゃない、私達よ。ねぇ、雲山」
――そういう愚か者は、山の前で生物がいかにちっぽけな存在かを思い知るがいい。
「こ、これは……」
雲山が、私の背後からぐんぐん身体を広がらせ、巨大な顔面となる。その大きさたるや、眼前の鬼をゆうに超え、周りの家屋さえも見下ろす程だった。それでも雲山の巨大化は止まず、あっと言う間に集落の空を覆い尽くした。人々はその影の中で圧倒され、口をポカンと明けたまま微動だにしなかった。
この光景を見ると、改めて思う。我ながら、とんでもない妖怪を子分にしたものだと。
「よ、妖怪だ……見越し入道だ!」
誰かが絶叫した。妖怪か、周りにいた集落の人間かは分からない。しかし、その声が、人々の恐怖の水門をこじ開けた。恐怖は全身を駆け巡り、人々はその流れに呑まれるがまま散り散りになって逃げて行った。妖怪も、集落の人間も。中にはその場で動けなくなり、念仏を称えて雲山にひれ伏す者までいた。
だが、逃がしはしない。
「雲山!」
私に応えるように、雲山は雄叫びを上げる。落雷のような轟音が周囲に響き渡り、そして、雨のような拳が妖怪達を殲滅していく。
あちこちで、妖怪達の断末魔と、人々の絶叫と、肉と骨と大地が粉砕される音が聞こえてくる。
グギャァ。ひぃい。いやぁぁぁぁ。助ケテェ。ベキッ。ゴキッ。ドゴッ。グチャ――。
私はその音を聞きながら、小太刀に手を掛けた。
「ち、ちくしょォ!」
そんな自暴自棄な叫びと共に、一体の小鬼が、混乱の中私に突進してきた。鋭い牙で私に噛み付こうと、飛び掛かって来た。
「畜生じゃないわ」
私は素早く小太刀を抜き、迫り来る小鬼の顔面に向けて刃を振り下ろした。
「ヒギャッ――」
小鬼は小太刀を避けず、そのまま小太刀に顔面を捉えられ、短い呻き声と共に地面に叩き付けられた。
「私は……修羅よ」
真っ赤に染まった小鬼の顔面は、我ながら見事に、真っ二つに斬り裂かれていた。ここ数日の練習の甲斐あって、上手くいったようだ。
「でもやっぱり、汚れちゃうわね」
小鬼の血で汚れた刀を袖で拭きながら思う。仇を討つまでに、後どれ程の血を浴びることになるだろうかと。
「この服、どうしようかしらね」
小太刀を鞘に納め、全ての音が止んだ後、戻って来た雲山に言う。「結構お気に入りだったんだけどな」
「洗うしかなかろう。まぁ、落ちるとも思えんがな」
雲山はそう言いながら小さくなり、私の左肩の上に乗った。重みはほとんどなく、身体を伝わる温もりが心地良い。
「そうね。とりあえず、お疲れ様」
気が付けば、この場にしっかりと立っている者は一人もいなかった。皆、どこかへ逃げたか、死体に変わってしまった。
――いや、一人だけ、いた。
「妖怪達をこうも簡単に追い払うなんて、流石ですね」
村紗はこちらから少し距離を取ったまま言った。
「みんな、逃げてしまいましたね」
「あなたは逃げないのね」
「私は、まぁ、大きな雲山さんを見るのは二度目ですから」
村紗は髪をくしゃくしゃと掻きながら、えへへと笑った。「もう、慣れました」
「生き物が死ぬのにも?」
私は周りに散乱する死体を顎で指して言った。人間の死体は皆、顔に恐怖や苦痛の表情を張り付かせたまま倒れていた。その表情を見ると思う。私は、彼らを守れなかったのだと。
一方、妖怪達の死体の顔には、恐怖も苦痛も浮かんでいなかった。何故なら、そもそも顔がしっかり残っている死体がなかったからだ。彼らの死体は、頭から胸にかけて完全にぐちゃぐちゃになっていた。中には、それが何だったのかを特定することさえ困難に思われる程滅茶苦茶に潰れた死体もあった。だが、それを懺悔するつもりはない。悪にかける慈悲なんてない。悪は、赦されてはいけないのだから。
「死には……あまり、慣れたくはないものですよ」
村紗はそう言うと、近くにあった人間の男の死体の傍に行き膝を付き、彼の瞼を降ろし、静かに手を合わせ、黙祷を捧げた。
「……否定はしないわ」
私はその場から動かず、彼女の姿をまじまじと見た。彼女は人間にも妖怪にも、神妙な面持ちで手を合わせていた。その手を合わせる姿もまた、二葉に似ているように思えた。
「何故、手を合わせないのですか?」
立ち上がった村紗が私に訊ねる。その声は、責めているわけではないようだった。ただ、気になるから訊いているといった感じの響きだった。
「破戒僧が手を合わせても、何の意味もないもの」
「……そう、ですか」
「えぇ、そうよ。そうじゃなきゃ、駄目よ」
そうでなければ、仏教なんてものは意味がない。誰が祈っても救われるのならば、僧侶なんて存在価値がない。戒律など、守る意義がない。
私は、和尚に育てられたにもかかわらず、戒律を破ってしまった。生き物を殺してしまったのだ。仏教を、裏切ってしまったのだ。私はもう二度と、誰の死にも手を合わせることはないだろう。そんな事が、許されて良いはずがない。
「でも、方法はどうであれ、あなた方がここを守ったことは事実ですよ」
「犠牲は出ているわ。家だって燃えた。まだまだ、守ったなんて言えな――」
そこまで言いかけた時、私のこめかみに鈍い衝撃が走った。
「ッ……」
頭を激痛が駆け巡り、何かが地面に落ちる音がした。その音がした場所を見てみれば、赤子の握り拳程の大きさの小石が転がっていた。
「ば、バケモノめッ……」
その声と共に、再び、今度は無数に石が飛んでくる。私の近くには村紗もいるのだが、そんなのお構いなしの様子だった。何発かは雲山がはたき落してくれたが、いくつかは私の頬や腕や脚に当たった。石の当たった所が、じんじんと痛む。
「こ、これ以上、ここを荒らさせはせんぞ!」
痛みを堪えて石の飛んできた方を見やれば、武器を構えた集落の人々が戻って来ていた。月明かりに照らされたその表情は、皆一様に怯えていた。身体を震わせながらも、女も子共もこちらをしっかりと睨み付け、新たな「敵」に立ち向かおうとしていた。その怯えた眼を見て、私は覚った。
「あぁ、私もそうなのね……」
私はこれでも、彼らを守ったつもりでいた。しかし、彼らから見れば、私達もまた脅威でしかないのだ。私達が妖怪を倒したという事実なんて、その脅威の前には成立し得ないのだ。私達の行為など、ただ邪魔な他の妖怪を倒しただけに見えたか……もしくは、妖怪だけが殺されたことにも気付いていないのだろう。そもそもよく考えれば、妖怪に守られるなんて、普通では在り得ないことなのだ。だから、彼らが雲山を、私を恐れても仕方ない。
――しかし、恐れは悪ではない。だから、私は彼らを責めることはしない。
それに……何となく、こうなる予感はしていた。バケモノと思われても良いって、そう覚悟を決めて雲山の手を握ったのだから。
「……行きましょ、雲山」
石の雨が降る中、私は雲山に声を掛ける。もうここに用はない。やるべきことはやった。
「ああ……」
雲山は悲しげだったが、有無を言わず、私を背に乗せすぐに飛び上がった。
上空から見ると、さっきまで私達がいた所に集落の人々が集結していた。中には空に向けてまだ石を投げ続ける者もいた。
――彼らは、その石が落ちたら自分に当たるかもしれないとは思わないのだろうか?自分だけでなく、周りの人間をも傷つけかねないとは、思わないのだろうか?
山の上まで戻り、遥か上空から集落を見下ろす。火の手はまだ消えてはいなかったが、恐らくこれからは消火活動に移ることだろう。
「もう少し、先に進んでから眠るとするか」
「えぇ……」
石の当たった場所は、まだじんじんと痛みを走らせている。
雲山には、悪い事をしたかもしれない。雲山の約束は私を守ることで、彼らを守る必要なんて本来は無かったのだから。彼は、この先も私のわがままに付き合ってくれるだろうか。
――そもそも、何故彼はこんな私とあんな約束をしたのだろうか?
「あれで、良かったのですか?」
突然、聞き覚えのある声が背後から聞こえてきた。
振り返ると、なんとそこには、雲山の背中にちょこんと座る村紗の姿があった。
「……何で、ここにいるわけ?」
「雲山さんの身体に掴まってきちゃいました」
彼女はまた、えへへと笑う。
「雲山、あなた気付かなかったの?」
「気付いてはいたが……振り落すわけにもいかぬだろう?」
「それは、そうだけど……」
この行動力には驚きたが、そもそも何故付いて来たのだろう。雲山を驚かないとは言え、彼女もあの集落の人間だろうに。
私がそう疑問を口にすると、村紗はけろっとした顔で「違いますけど?」と言った。
「私は、旅の途中で偶々あの集落に泊まらせてもらっていただけですよ?」
「……そうなの?」
「そうですよ?」
村紗は当たり前だと言わんばかりに首を傾げた。そう言えば確かに、彼女はあの集落にいるとは言ったが、住んでいるとまでは言っていなかったような気もする。どうやら、こちらが勝手に勘違いしていただけのようだ。
しかし、そこは肝心な所ではない。
「どうして付いて来たのよ?」
「いやぁ、実は一目見た時から、雲山さんの背中に乗ってみたかったのですよね」
村紗は雲山の身体の上で寝そべりながら無邪気に言った。「思った通り、ふかふかですね!」
「……本当に、それだけ?」
何か、他に理由があるはずだ。そもそも、こんな少女が一人で旅をしているだなんて信用できない。そんな事、あっていいはずがない。
「後は……旅の足に丁度良いかなと思いました!京までお願いします!」
「雲山を馬扱いしないで欲しいんだけど?」
「まぁまぁ、良いじゃないですか。お二人も、京へ行くのでしょう?」
「あなたにそんな事言ったかしら?」
「いいえ。でも、私が帰った後に話していたでしょう?」
「……あなた、聞いてたの?」
「はい!」
あの時、山を降ったと見せかけて、近くの茂みに潜んでいたらしい。まったく、とんでもない子だ。
「と言うわけで、よろしくお願いします」
村紗はびしっと正座し、ぺこりと頭を下げた。
「お二人の邪魔はしませんから」
「……どうする、一輪?」
「どうもこうもないわよ……」
良いか悪いかの判断の前に、とにかく聞かなければならない事がある。
「あなた、家族はどうしてるの?何で旅なんかしてるの?それを喋らなきゃ、今すぐここで振り落すわよ?」
私の問いに、意外にも村紗は躊躇いなくすらすらと答えた。
「家族は大和に住んでいます。私は遣いで紀伊に行って来たところで、これから京に行く予定なのです」
てっきり何か隠し事があると踏んでいた私は、あまりにも明け透けに語る彼女に、肩透かしを食らった。
「……つまり、本当に旅の足が欲しかったってこと?」
「えぇ、まぁ。京から家族の下に帰るのは、そこまで苦労しませんから」
だから京で降ろしてくれればそれで良いと彼女は言う。
「……と言うわけのようだが、どうする?」
雲山はそう言うが、どうするも何も、どうしようもない。気になることはまだあったが、少なくとも今すぐ彼女を放り出す理由はない。
それに、もういい加減彼女と話すのは疲れた。朝まで後どれ程の時間があるか分からないが、今は一刻も早く眠りに就きたい。
「……まぁ、良いわ。乙女一人歩かせるには危険だものね」
「そう言ってくれるとありがたいです」
「そりゃ良かったわ」
本当は、この旅に雲山以上の道連れを作るつもりはなかったが、こうなってしまっては仕方ない。なるべく危険な目に遭わせたくはないが、かと言って放り出したら安全とは言い切れない。京までは、私がしっかり守ろう。この子も、私が守るべき一人だ。
「あと、先ほどは守ってくれて、ありがとうございます」
再び、村紗は頭を下げた。何の前触れもなく言われた感謝の言葉に、私はドキッとした。まさか、礼を言われるだなんて思っていなかったからだ。
そして何より、まさか、お礼を言われ嬉しく思うだなんて、思ってもみなかったからだ。
(私も、まだまだバケモノになり切れてないわね)
「別に……お礼を言われることはしてないわ」
ただ、気に入らない者を殺しただけ、脅しただけ。「バケモノがバケモノを殺しただけよ。何も守っちゃいないわ」
「そう、ですか……」
「えぇ。そうよ……」
その後は彼女も私も互いに質問せず、二人して雲山の上で、背中合わせで眠りに付くことになった。彼女はしばらくの間は「本当にふかふかですね!」などと興奮した様子だったが、すぐに安らかな寝息を立て始めた。
しかし私は、背中に誰かの気配がある状態で眠ることが久しぶりだった為、尚且つそれが今日逢ったばかりの赤の他人だったこともあり、上手く寝入ることが出来なかった。それに、彼女の「遣い」の内容も気になった。
こんな小さな子供一人を遣いに出すなんて、一体どんな親なのだろう。服も履物も綺麗だったから、てっきり愛されているのだとばかり思っていたが、どうやら一概にそうとも言えないのかもしれない。もしかしたら、見た目だけ適当に飾られて、それで愛されたふりをされているのかもしれない。この子は、果たしてそれで幸せなのだろうか……。もし、この子の親が悪い親だったら……ちょっと、懲らしめに行こうかな……。
「んん……おい、しい……」
背後から、村紗の寝言が聞こえてきた。一体どんな夢を見ているのだろう……まぁ、少なくとも、夢の中では幸せそうだけど。
ふと、空を見た。綺麗な満月だった。星々も、満天に輝いていた。美しい夜空だった。こんな空の下では、さっき起きた騒動も、あの日起きた惨劇も、嘘のような気さえしてくる。
――でも、それは嘘にはならない。だから私は、ここにいる。
傍に置いた小太刀の柄を握り、目を瞑る。
まだ、はっきりと思い出せる。
潰れた妖怪の姿も、私が斬った小鬼の顔面も……そして、あの日のことも。
忘れることは出来ない。いや、忘れるわけにはいかない。
今日私は命を奪い、あの日わたしは全てを奪われたのだから――。
「とりあえず、お疲れ様」の「と」が抜けているように思います。
このあと村紗とどのような物語が展開されていくのか、楽しみにしております。